2009年7月20日月曜日

【沖縄密約】 費用負担密約(VOA)

沖縄密約、韓国史料にも 「VOA移転費、日本も負担」
2009年7月20日8時0分

72年の沖縄返還の際に、米国の短波放送「アメリカの声(VOA)」の施設移転費1600万ドルを日本が負担するとした日米間の「密約」の内容を、米側が73年に韓国に伝えていたことが分かった。韓国外務省(現外交通商省)が当時作成した記録を、大阪市立大の小林聡明研究員(メディア史)が発見した。

 日本政府が一貫して否定している沖縄返還に伴う費用負担をめぐる密約の存在が、韓国の史料でも裏付けられた形。作家の澤地久枝さんらによる、沖縄密約の情報公開訴訟にも影響しそうだ。

 見つかったのは、73年5月31日、韓国外務省の張セン(王へんに宣)燮・北米1課長が在韓米国公報院のスミス院長と会談した際の記録。韓国外交史料館に保管されていた。在韓米国公報院は、VOAを運用していた米広報文化交流局(USIA)の出先機関だった。

 当時米国は、VOAの移転先に韓国を検討していた。記録によると、スミス氏は韓国側から移転費用について質問されて「総規模はまだ確定していないが、第1段階で約3200万ドルと概算しており、そのうち半額は日本側が負担することで意見調整されている」と説明していた。

 さらに今回、韓国外務省が当時収集したVOA移転に関連する文献も見つかった。その中の、73年5月30日の米上院の議事録によると、ハリー・バード上院議員が、移転費用について「我々(米国)が2300万ドルを用意し、日本が1600万ドルを用意する」と発言。フルブライト外交委員長が「その通り」と確認していた。

 小林氏は「米国が韓国の課長レベルの外交官に伝えていたこと、米上院で公然と議論されていたことから、すでに米国では『密約』扱いされていなかったことがうかがえる」と話す。沖縄密約問題に長年取り組んできた我部政明・琉球大教授は、73年の米上院議事録がこれまで注目されなかった理由について「研究者は、密約が結ばれた71年までの史料は見ているが、合意以降は手つかずになっている」と指摘している。

 VOAの韓国移転計画は結局頓挫し、フィリピンに移転された。小林氏はこの経緯について今月刊行の日本マス・コミュニケーション学会誌に発表する。(井上未雪)

「核密約」文書、かつては外務省で保管 国会対応要領も
2009年7月11日12時49分
http://www.asahi.com/politics/update/0711/TKY200907110104.html?ref=reca

核兵器を積んだ米艦船の日本への寄港を、日米安保条約上必要とされる事前協議なしに認める日米の「核密約」について、英文の合意文書自体がかつて外務省内に保管されていたことが分かった。元外務省幹部が11日、朝日新聞の取材に明らかにした。01年ごろに当時の外務省幹部が密約関連文書の破棄を指示したのを受けて、合意文も失われた可能性が大きいという。

 核密約については、村田良平元外務事務次官が、日本語の次官用引き継ぎ資料の存在を証言していた。

 元幹部の説明では、保管されていたのは、米側で公開された公文書と同内容の文書。60年の安保条約改定交渉の際に「米軍機の日本飛来、米海軍艦艇の日本領海並びに港湾への進入に関する現行の手続きに影響を与えるものと解釈されない」と合意した秘密文書などが含まれていると見られる。

 74年にラロック元米海軍少将が「寄港の際、核武装を解かない」と証言した際などに外務省内で極秘に行われた議論と、国会向けの対応要領なども保管されていたという。

 河野太郎衆院外務委員長は11日、朝日新聞の取材に、密約はなかったとする従来の政府答弁の変更を政府に求める意向を明らかにした。


核密約文書、外相「調査考えてない。ないんだから」
2009年7月10日10時29分
http://www.asahi.com/politics/update/0710/TKY200907100048.html?ref=reca

60年の日米安保条約改定時に、核兵器を搭載した米艦船の日本への寄港を容認した両国政府の「核密約」をめぐり、関連文書を破棄するよう外務省幹部が01年ごろに指示したとの朝日新聞の報道について、中曽根外相は10日、「(調査は)考えていない。ないんだから」と述べた。外務省として調査をする考えはないことを示したものだ。

 閣議後の会見で記者の質問に答えた。中曽根氏は「報道は承知しているが、再三、国会で答弁しているように密約はない」と語った


核密約文書、外務省幹部が破棄指示 元政府高官ら証言
2009年7月10日3時8分
http://www.asahi.com/politics/update/0709/TKY200907090429.html

日米両国が、60年の日米安保条約改定時に、核兵器を搭載した米艦船の日本への寄港や領海通過を日本が容認することを秘密裏に合意した「核密約」をめぐり、01年ごろ、当時の外務省幹部が外務省内に保存されていた関連文書をすべて破棄するよう指示していたことが分かった。複数の元政府高官や元外務省幹部が匿名を条件に証言した。

 01年4月に情報公開法が施行されるのを前に省内の文書保管のあり方を見直した際、「存在しないはずの文書」が将来発覚する事態を恐れたと見られる。

 核密約については、すでに米側で公開された公文書などで存在が確認されている。日本政府は一貫して否定してきたが、80年代後半に外務事務次官を務めた村田良平氏が先月、朝日新聞に対して「前任者から事務用紙1枚による引き継ぎを受け、当時の外相に説明した」と話した。

 今回証言した元政府高官は密約の存在を認めた上で、破棄の対象とされた文書には、次官向けの引き継ぎ用の資料も含まれていたと語った。外相への説明の慣行は、01年に田中真紀子衆院議員が外相に就任したのを機に行われなくなったと見られるという。

 元政府高官は、文書が破棄された判断について「遠い昔の文書であり、表向きないと言ってきたものを後生大事に持っている意味がどこにあるのか」と説明した。別の元政府関係者は「関連文書が保管されていたのは北米局と条約局(現国際法局)と見られるが、情報公開法の施行直前にすべて処分されたと聞いている」と述べた。ライシャワー元駐日大使が81年に密約の存在を証言した際の日本政府の対応要領など、日本側にしかない歴史的文書も破棄された可能性が高いという。ただ、両氏とも焼却や裁断などの現場は確認しておらず、元政府関係者は「極秘に保管されている可能性は残っていると思う」とも指摘する。

ある外務事務次官経験者は、密約の有無については確認を避けたが「いずれにしても今は密約を記した文書はどこにも残っていない。ないものは出せないということだ」と話す。密約の公開を訴える民主党が政権に就いても、関連文書を見つけられないとの言い分と見られる。

     ◇

 ■核持ち込みをめぐる日米間の密約 60年の日米安保条約改定時に、日本国内へ核兵器、中・長距離ミサイルを持ち込む場合などには、日米間の事前の協議が必要と定められた。しかし、核兵器を積んだ米艦船の寄港、航空機の領空の一時通過などの場合は、秘密合意によって事前協議が不要とされた。00年に見つかった米国務省の文書や、米国関係者の証言などで、秘密合意があったことが裏付けられている。

元外務省高官「米の核持ち込み公認検討」 田中内閣時代
2009年7月9日5時0分
http://www.asahi.com/politics/update/0708/TKY200907080331.html?ref=reca

1974年の田中角栄内閣時代に、政府が核兵器を搭載した米艦船の日本への寄港や領海通過を公認する方向で検討を進めていたことを、当時の事情を知る元外務省高官が8日、朝日新聞の取材に対して明らかにした。

 日米両国は、60年の日米安保条約改定の際に核搭載艦船の日本への寄港や領海通過を認める「核密約」を結んでいた。田中内閣は「密約」を維持し続けることには無理があると判断していたと見られる。核を作らず、持たず、持ち込ませずとする非核三原則のうち、「持ち込ませず」が当初から形骸(けいがい)化していたことが改めて明らかになった。

 この元高官によると、74年当時、木村俊夫外相、東郷文彦事務次官(いずれも故人)らによる少人数の会合で、木村外相が、核を積んだ米艦船の寄港を政府が公式見解として認めていないことについて「なんとかしなければならない。田中首相とも話したが、そうした考えだった」と述べたという。

 74年当時、政府が米艦船による核持ち込みを認める方向で米側と折衝し、非公式な合意に達していたことは、木村元外相が生前、朝日新聞記者に証言していた。交渉は、田中内閣の総辞職に伴い中断されたという。今回の元高官の証言は、木村・元外相の証言を裏付けるものだ。

 木村元外相が75年に朝日新聞記者に対して行った証言の骨子は(1)米艦船が核を積んだまま寄港し、領海を通過しているのは事実(2)政府は寄港や領海も事前協議の対象だとしているが、これを証明する文書はない(3)偽りを続けるよりは領海通過と寄港だけは容認する方針を田中首相と決め、対米折衝した結果、非公式合意した(4)しかし、本交渉に入る前に田中内閣総辞職でご破算になった、の4点。

核持ち込み密約、元次官から話聞く方針 衆院外務委員長
2009年7月1日13時18分
http://www.asahi.com/politics/update/0701/TKY200907010183.html?ref=reca

1960年の日米安保条約改定の際、核兵器を搭載した米艦船の寄港や領海通過に事前協議は必要ないとする密約があったとされる問題で、衆院外務委員会の河野太郎委員長は1日の委員会後に記者会見し、「この問題は(密約はないとする)政府答弁だけを信じて議会運営をできる状態ではなくなった。立法府として看過するわけにいかない」と述べ、参考人招致などで村田良平元外務事務次官から話を聞く機会を設ける方針を示した。

 今国会会期中に行う考えで「可能なことは何でもやる」と他の歴代次官や米国側からも話を聞きたい意向。一方、中曽根外相はこの日の委員会で「歴代の総理大臣および外務大臣が密約の存在を明確に否定している。改めて村田氏に事実関係を確認することは考えていない」と外務省としては再調査しない考えを示した。

政府高官「密約はないことになっている」 核持ち込みで
2009年6月30日0時59分
http://www.asahi.com/politics/update/0629/TKY200906290279.html?ref=reca

日米両政府の「核持ち込み密約」の存在を河村官房長官が否定したことについて、政府高官は29日、記者団に対し「政府見解だからしょうがない。文書そのものがないことになっている。ないものは出せない」と、政府見解が建前とも受け取れる発言をした。

 元外務次官の村田良平氏が密約に関する文書を引き継いだと証言したことについては「政府見解として固まっているから、その人の言っていることは正しい、なんて言えない。本当に証拠を出してくるなら別だが。外交とはそんなものだ」と述べ、政府として調査する考えがないことを強調した

核持ち込み黙認、米と密約「文書あった」と元外務次官
2009年6月29日20時54分
http://www.asahi.com/politics/update/0629/TKY200906290265.html?ref=reca

1960年の日米安保条約改定の際、核兵器を積んだ米艦船の日本寄港や領海通過に事前協議は必要ないとする秘密合意を日米両政府が結んだとされる問題で、元外務事務次官の村田良平氏(79)が29日、朝日新聞の取材に「そうした文書を引き継ぎ、当時の外相に説明した」と述べた。

 核密約については、米側公文書などで、すでに存在が裏付けられているが、日本政府は一貫して否定してきた。外務省の事務次官経験者が証言するのは初めて。

 村田氏は87年7月から約2年間、外務事務次官を務めた。村田氏によると、外務省で当時使っていた「事務用紙」1枚に記された日本語の密約文書を前任者から引き継ぎ、後任に渡した。村田氏は、当時の倉成正、宇野宗佑両外相に秘密合意について説明。三塚博外相には「(宇野内閣が短命で)話すチャンスがなかった」とした。首相に自ら直接説明することはしなかったという。「それは外相から説明するからと。ただ、実際に外相が話したかどうかは知らない」と説明した。

 政府が否定する秘密合意の存在を認めた理由については「代々の外相に歴代の次官が伝えてきた一方、国会答弁では核の持ち込みはないと言う。それはおかしいと思う」と述べた。「安保ができたばかりの時は、外交交渉の結果を表にできなかったこともある。だが今は50年がたち、核の持つ意味も変化した。北朝鮮も核を持っているのだから」とも語った。

 河村官房長官は29日の記者会見で「ご指摘のような密約は存在しない」と改めて否定。「事前協議がない以上は核持ち込みがないと、まったく疑いの余地を持っていない」と述べた。


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「密約」 公表の2年後に自決
長男に 明かしていた舞台裏
 
「個人的には、核の再持ち込みこそ密約だと思う」。岡田克也外相は3月9日、1972年の沖縄返還をめぐる「密約」を認め、有識者委員会も「密使」の存在に初めて光を当てた。96年に命を絶った国際政治学者の若泉敬。その長男が初めて口を開き、友人からの書簡も明らかになった。「沖縄に殉じた男」の足跡と心中に迫る。

本誌 諸永裕司
(編集者注・週刊朝日に掲載された傑作ノンフィクションです。ぜひ「魚の目」の読者にもよんでいただきたいと思ったので、週刊朝日の了承を得て再録します)
 
 
 その報告書の末尾には、次のような一文があった。

〈若泉─キッシンジャー・ルートが開かれたことは大いに評価できる〉

 岡田克也外相から密約の検証を委嘱された有識者委員会(座長=北岡伸一・東大大学院教授)は9日、日米関係にからむ四つの密約についての報告書を出した。

 そのひとつ、1972年の沖縄返還にともなう「核の再持ち込み密約」について、「必ずしも密約とは言えない」
 と結論づけながら、この交渉に人生を捧げた「密使」の存在を初めて認めた。

 若泉敬(享年66)。表の顔は京都産業大教授。裏の顔は、沖縄返還交渉における佐藤栄作首相の「密使」。核の再持ち込み密約のシナリオライターだった。

 戦後、米軍の施政権下にあった沖縄の返還にあたって、日本側は米軍基地に貯蔵されていた「核の撤去」を求めた。

 一方、アメリカ側は、返還後も基地を自由に使用することのほかに、「緊急時の核の再持ち込みと通過の権利」を求めた。

 若泉は、米側の交渉相手である米大統領補佐官のキッシンジャーとの壮絶な交渉の末、次の文言を盛り込むことで合意した。

〈日本国政府は、大統領が述べた前記の重大な緊急事態が生じた際における米国政府の必要を理解して、かかる事前協議が行なわれた場合には、遅滞なくそれらの必要をみたすであろう〉

アメリカは「遅滞なく必要をみたす」との言質をとることで、有事に核を持ち込める。日本は事前協議が行われなければ、「核兵器の持ち込みはない」と言い逃れできるというわけだ。

 そのうえで、ふたりの「密使」は次のようなシナリオを描いた。

 1969年11月の日米首脳会談の最後に、ニクソン大統領が佐藤首相に、大統領執務室に隣接する小部屋で美術品を鑑賞することを提案する。通訳も除いて2人だけで小部屋に入り、核の再持ち込みに関する秘密の合意議事録に署名、それぞれ1通ずつ保管する ──

 予定では頭文字を記すだけのはずだったが、ニクソンがフルネームで署名をしたため、佐藤もこれに倣ったという。

 こうした交渉の経緯を、若泉は94年、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』によって明らかにした。628㌻に及ぶ大著だった。

「一つの間違いも許されない」

 出版前、若泉が何度となく口にしていた言葉を、早稲田大大学院教授の後藤乾一(66)は覚えている。じつは、若泉から命じられて秘かに執筆を手伝っていた。今年1月に出版した『「沖縄核密約」を背負って──若泉敬の生涯』で明かした。

「『細部まで徹底的に考証してほしい』と言われました。これは『危険な書』だとも」

 国家の秘密を暴くだけに、「国賊」と呼ばれるかもしれない。襲撃されることも覚悟していたという。そのため、出版の前には、福井県鯖江市の自宅の塀をさらに1㍍ほど高くする工事を済ませていた。

「冒頭に『何事も隠さず/付け加えず/偽りを述べない』とわざわざ書き記したように、歴史の証言台に立つ思いだったのでしょう。国会に証人として喚問されることを想定していらっしゃいました」

 後藤はそう回想する。実際、想定問答を繰り返す姿も目撃した。しかし、国は事実上、黙殺した。

 この密約については当時、両首脳のほか、シナリオを描いた若泉とキッシンジャーの4人しか知らなかった。秘密合意議事録のその後について、若泉は『他策──』で次のようにつづっている。

〈「ところで総理、“小部屋の紙”(日米秘密合意議事録)のことですが、あの取り扱いだけはくれぐれも注意して下さい」と、総理の眼をぐっと見つめる私に、「うん。君、あれはちゃんと処置したよ」と、総理は心なしか表情を弛めて言った。

“安心してくれ”といわんばかりの響きがあった。

 それは具体的にどういう意味なのか、と一瞬訝しく思ったが、それ以上深追いはしなかった〉

 処置した──
 佐藤栄作首相がそう話した文書はしかし、自宅に残されていた。首相退任後に持ち帰った執務机のなかにあったことを昨年暮れ、首相の次男で元通産相の信二(78)が明らかにした。

文書は、〈1969年11月21日発表のニクソン米大統領と日本の佐藤首相による共同声明に関する合意議事録〉と題され、69年11月19日付で両首脳のフルネームの署名もあった。

 合意議事録の文書が存在し、若泉が残した記述も、その後公開された複数の米公文書と重なる。

 しかし、岡田外相の命を受けて調査にあたった有識者委員会は外務省と同じく、密約とは認めなかった。

「先生が心血を注いで結んだ合意、命をかけて明かした歴史の真実が評価されなかった。あれが密約でなければ何だと言うのでしょう」

 後藤は、『他策──』刊行から16年後の政府の公式見解に、若泉の無念を思う。

 密約調査の結果発表を見守っていたのは、後藤ばかりではない。

 これまで、メディアの取材を一切、拒んできた若泉の長男、聡一郎(50)が口を開いた。

「あの密約が日本にとって、沖縄にとってよかったのか、私にはわかりません。結果的に沖縄への負担が増したのだとすれば、息子として胸を張って人前に出ることはできないと思ってきました」とはいえ、密約が認められなかったことには釈然としない。報告書が、〈この(若泉─キッシンジャー)ルートを通してニクソン大統領の意向が佐藤首相に届いたことの意義は大きい〉としているだけに、なおさらだ。

「国が、父の果たした役割を評価しながら、その結晶とも言うべき密約を認めない、というのは理解できません。残念です。父は決して嘘をつく人ではありませんでしたから。密使として動いたあの2年間は、父の人生にとってすべて、といえるほどのものでした」

 若泉はいかにして密命を帯びることになったのか。『他策──』のなかに、こう記されている。

〈福田(赳夫・自民党)幹事長は、開口一番、引き締まった表情で、「先生を全面的に信頼しての話ですが、沖縄問題の件でひと肌ぬいでもらえないだろうか。(略)アメリカ最高首脳部の意向を打診してきてもらいたいんです」と単刀直入に要請してきた。(略)

「総理からぜひともお願いしたい、ということで、総理の意を受けて言っているのです」〉

 前年には米国防長官マクナマラとの単独会見記を「中央公論」に発表するなど、米ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究所(SAIS)への留学時代に培った人脈を見込まれたのだ。37歳の国際政治学者は、密使の打診を断らなかった。

〈この一九六七年九月二十九日で、私の第一の人生は終り、第二の人生が始まったようなものであった〉
 家族や同僚などにも察知されてはいけない。孤独な闘いが始まった。

 聡一郎はこのとき、7歳。

 父はめったに家にいなかった。印象に残っているのは、電話をしている父の姿だ。

「いつも電話ばかりしているので、弁護士の母が『仕事にならない』とこぼしてました。夕食でも、食卓まで黒電話を引いていました」

 残された請求書では、国際電話料金が69年当時、34万円を超える月もあった。そのすべてを若泉は自腹でまかなっていた。

 海外出張でもよく家を空けた。帰らない日が続き、母ひなをは一時期、本気で浮気を疑ったという。

 沖縄返還から3年後の75年夏、聡一郎は留学中の父からアメリカへ来るように言われた。

「会わせたい人がいる。沖縄返還交渉のとき、お世話になったんだ」

 このとき、父が「密使」だったことを初めて知った。15歳の聡一郎が、元大統領補佐官のロストウを訪ねると、テキサス大の研究室には額が飾ってあった。

「危機」

 筆で書かれた二文字は、父が書いて贈ったものだった。

 80年、父は突然、「東京を離れる」と言いだした。京都産業大教授の職を辞し、故郷の福井県鯖江市へ居を移すという。50歳での隠遁には、弁護士として家計を支える母も反対した。でも、言いだしたらきかない。

 聡一郎は居間に呼ばれ、ふたりきりで向き合った。転居するのは、沖縄返還交渉について執筆するためだ、と父は打ち明けた。

「本を書けば、俺は国賊になる。お前の人生も吹っ飛んでしまうかもしれない。でも、わかってほしい」

 聡一郎は言葉が見つからない。また、家庭の平穏が遠ざかる。いや、二度と訪れないかもしれない。でも、反対しても無駄なことはわかっている。黙って聞くしかなかった。

 受験を控えた聡一郎を残し、父は母と次男の核を連れて鯖江に帰った。まもなく、執筆用に離れも建てた。

 会いに行くと、庭に面した16畳ほどの和室は資料で足の踏み場もない。文机に線香を1本立てて、父は原稿用紙に向かっていた。

 5年後、母が急逝する。弁護士として福井と東京を往復する激務が体を蝕んだように、聡一郎には思えた。まだ55歳だった。

 火葬場で納棺した後、父は火を入れるためのスイッチを前に固まっていた。

「代わりに押してくれないか」

 それでは後悔することになるのではないか。聡一郎は初めて、父に異を唱えた。

「やっぱり、父さんが押したほうがいい」

 まもなく、父は観念したかのようにスイッチに手をかけた。その右手は震えていた。

 それから、父は酒に逃げた。一晩で一升をあけることもあった。厳格で武士を思わせる父が崩れる姿を初めて見た。

「一緒にいてくれ。会社なんて、一日ぐらい休んでもいいだろう」

 週末ごとに鯖江へ呼び戻された。

 それから9年。

 94年5月、聡一郎のもとに小包が届いた。

「ああ、来るべきときが来た」

 直感どおり、なかには分厚い本が入っていた。

『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』
 題名は、日清戦争時の外相、陸奥宗光がその著作『蹇蹇録』の結びに記した言葉から取っていた。

 ベトナム戦争のただなかで、基地の自由使用を求めるアメリカから外交のテーブル越しに沖縄の施政権を取り戻すには、核の再持ち込み密約を結ばざるをえなかった──

 そこに、「密使」としての父の苦悩が読み取れた。日米の首脳が密約に署名してから25年。戦後50年を迎える前年のことだった。

 出版の直前、若泉は交渉相手だったキッシンジャーに連絡する。

「私は評論家ではないので、書く以上は真実を書く。あなたのような伝記は書かない」

 キッシンジャーの回想録『キッシンジャー秘録』では、「小部屋」で作成された合意議事録についてはまったく触れられていなかった。

 聡一郎は父のキッシンジャー評を聞いたことがある。

「海千山千で、本音なんて言う奴じゃないんだ」

 交渉では、「本当のことを言え」と父が迫ったこともあったという。

 しかし、覚悟の出版にもかかわらず、世間の反応は冷ややかだった。

 羽田孜首相(当時)は、「核密約はありません」とのコメントで一蹴した。

 日米安保条約にかかわる秘密が暴かれたというのに、若泉が望んだ証人喚問はおろか、国会でもほとんど審議されない。

 メディアの反応も鈍かった。政治問題としてではなく、とりあげたのはいずれも書評欄だった。94年7月3日付の朝日新聞で、東大教授の山内昌之はこう書いた。

〈行動派の学者とはいえ社会科学者がかくも最重要の国家の政策決定に秘密裡に関わり、その機密をいま公開した是非は、今後も朝野の議論を賑わすであろう〉

 しかし、その予想ははずれた。

 目先のカネに狂乱したバブル経済の崩壊を目の当たりにしながら、国の根幹にかかわる安全保障の問題を顧みようともしない社会を、若泉は「愚者の楽園」と呼んだ。深い失意に沈み、世間ともいっそう距離をとるようになった。

 とはいえ、親しい友人たちには著作についての感想を求めた。

〈先に謹呈した“拙著”(私なりに心魂を傾けました)に対い(ママ)する、大兄の率直な御高評を承わりたく、御芳翰を切々お待ちして居ります〉

 そこには、相手を試すかのような趣さえ漂う。

 学生時代からの友人で、鎌倉に住んでいた池田冨士夫は3度にわたって催促を受けた。その思いに応えるように返した読後感想文はじつに、便箋274枚に及ぶものだった。

 若泉の晩年、秘書役を務めていた福井県商工会議所専務理事の鰐渕信一(62)は言う。

「先生からは、死後、書簡類などの一切を焼却するように言われていましたが、これを捨てることはとてもできませんでした」

 手元には、池田からの計8通の手紙が残された。

 1通目となる読後感想文の冒頭には、こう記してある。

《若泉が私に真剣勝負を挑んでいる、そうした心を突き刺すような思いであった》

 それだけに、真正面から向き合わなければと考えたのだろう。

 若泉の人となりにも触れている。

《相手の目をじっと見る。瞬きもせず見続けると言う事は、それだけの心得がないと常人には難しい一つの業である》

《相手が誰であらうと、臆する所もなく、言うべき事を言う。「NO!」と言うべき時には、相手の意図に斟酌する事なく、断乎として「NO!」と自己の見解を主張する》

 若き日々を振り返った後で、本題に入っていく。

《民族の悲願、達成に伴う日本の代償は(核の再持ち込み密約という)「小部屋のレター」唯一つであった》

 戦争で奪われた領土を外交交渉によって取り戻した点を、《歴史的な傑作》と評価したうえで、こうつづる。

《兄のライフワーク“他策”は沖縄返還に伴う日米交渉の実態についての、歴史的原典として公刊の時をもって確定した、私はそう信じている》

 一方で、池田は、引用の多さに辟易すると正直に記し、読後に抱いた違和感も伝えている。

《兄の書物は、力作である。その周到な準備と努力には心からの敬意を表している。然か(ママ)し、それはそれである、(略)私には兄の心情の実体を理解する事は出来そうにない》

 それは、『他策──』の末尾に記された言葉についてのものだった。

〈私は筆硯を焼く〉

 すべての文章、つまりは書物を捨てる、との覚悟である。

 池田はその心中に思いを馳せる。

《沖縄返還交渉を通じて、米国の世界戦略の機密の真実を知ってしまった。それを承知の上で尚国際政治学者として「核と安全保障」を論ずる資格はない》

 若泉は学者としての良心に苛まれているのだろうと理解を示しつつ、期待を捨てきれない。
《これからが兄の生涯の理念を実現する時ではないか。沖縄返還が実現したからと言って、日本の再独立が果された訳ではない。日本はまだまだ国際的な危機に直面している。兄の理念を実現する、その時代が来ている》

 そのうえで、こう問いかける。

《五十才を期して都落ちを実践して、その後蟄居の十四年間、一冊の書物を著して、兄は自身のライフワークの完結と決している。一体、兄にとって「沖縄」とはなんであったのだらうか。沖縄返還交渉にたずさわった二年間の、その為だけが兄の人生のすべてゞあったのだらうか》

 文面には哀切さえ漂う。

《何故兄一人が、そうも心に深か(ママ)い痛手を負い、一人筆硯を焼いて沖縄二十万の霊に殉じなければならなかったのであらうか》

 若泉の思いつめたような文面が気にかかり、池田は福井県鯖江市の自宅を訪れている。読後感想文を送ってから1カ月ほどたった94年12月15日のことだ。

 案内されたのは、若泉邸の前にある地下1階、地上2階建ての建物だった。薄暗がりの書庫は空だった。「筆硯を焼く」の言葉どおり、3万冊とも言われる蔵書はすでに処分されていた。

「書物はすべて焼いた。蔵書は学者の命なんだ」

 国際政治学者として死んだことを伝えると、若泉は紙を見せた。そこには、こう書かれていた。

〈この世を去るにあたって〉

 晩年は、それが口癖だった。
「余命」
 国際政治学者の若泉敬は「密使」として1972年の沖縄返還を実現させると、死を見すえるようになる。
 沖縄の人々を裏切って、核の再持ち込み密約を結んだ。返還のためには必要だったと考えたいが、はたして正しかったのか──
 自責の念にとらわれていた。
 94年5月、交渉の舞台裏を詳細につづった『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を世に問う。その7カ月後、福井県鯖江市の自宅を訪ねてきた友人の池田冨士夫を前に、やはり「余命」という言葉を口にした。
 生きるべきか、生かざるべきか。死をほのめかす若泉に、池田は思わず、たずねた。
「やはり、沖縄か」
「そうだ。僕は沖縄に殉じた」
 69年11月21日。
 佐藤栄作首相とニクソン大統領が共同声明で「72年の沖縄返還」に合意した。海の向こうでの歴史的な瞬間を、テレビの特別番組が伝えている。両首脳の映像を見ながら、若泉は、生涯のもっとも重要な仕事を成し終えたと感じていた。
〈精神の静かなる昂揚が収まると同時に、外交交渉上“代償”を支払わざるをえなかったことへの責任感が重くのしかかってくるのを覚えた〉(『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』)
 夜明け前、若泉は東京・荻窪の自宅を出て靖国神社へ向かった。
〈境内は森閑とし、人影はほとんど見られなかった。(略)沖縄で戦い、沖縄で死んでいった許多の人々を想った。また、民族、国籍を問わず、あの戦争で生命を喪った無数の人々のことが胸中をよぎった〉
 若泉は黙祷を捧げる。
〈「まもなく、そして間違いなく、皆さまの沖縄が祖国に還ってくることになりました」
 深いところから込み上げてくる感動のうねりは抑えようがなかった。嗚咽は慟哭となった〉
 1カ月ほどして、若泉は沖縄の南部戦跡を訪ねた。「密使」としての最後の儀式でもあったのだろう。
 晩年、若泉の秘書役を務め、『他策──』の著作権を受け継いだ福井県商工会議所専務理事の鰐渕信一(62)のもとには、池田から送られた8通の手紙が残っている。
《若泉は昭和四十四年末、沖縄返還の日米共同声明が成功裡に発表された当日、暁闇の靖国神社の神前に於いて沖縄に殉ずる事を誓っている。それは、百万の沖縄同胞の希望を裏切ったとする有事核の再持込みの密約の締結を推進した、その直接担当者としての“背信行為”に対い(ママ)する責任感に由来するものであった》
 池田の文章はこう続く。
《それ以降の人生は若泉にとっては如何にして死ぬべきかを模索し、方策を定め、それを実践するための死生観に基ず(ママ)く苦行・精進の日々であった。それが若泉にとって死を全うするための生き方であった。その完結が“他策”の公刊であった》
 これは、若泉邸を2度目に訪れた直後に送られた手紙の一節である。
 池田が再訪したのは95年1月23日。そのときの様子を、手紙をもとに再現してみよう。
 鯖江駅で出迎えた若泉は開口一番、こう告げる。
「帰りの列車を予約しておこう」
 着いたばかりだというのに、あたかも追い立てるかのように言った。そして、午後5時すぎの特急を押さえた。
 自宅に着いても、若泉は脈絡なく話を続けた。ゆっくり言葉を交わすこともできない。落ち着かないまま時がすぎる。若泉は、かつて靖国神社で拾ったという桜の押し花を手渡すと、タクシーを呼んだ。
 池田は仕方なく玄関で靴を履き、鞄を手に立ちあがった。そのとき、若泉は茶碗をふたつもってきた。そして、一升瓶から清酒を注ぐ。
「それでは……」
 若泉に促されるまま盃を乾した。それはまるで《死への出陣の儀式》のようだった。
《今回の再会についての兄の言動は、始めから終りまで終始常識では考へられない異常と感じられる事の連続でした》
 池田からの手紙によれば、この日、若泉は、こう話している。
「64歳の自分は、あまりに永く生きすぎた」
『他策──』という題名を引いた『蹇蹇録』の著者で外相だった陸奥宗光が53歳、心酔していた同郷の橋本左内は25歳で亡くなっている。尊敬するふたりと比べて、みずからの人生は長すぎた、という。
 若泉は遠からず、みずから命を絶つだろう。その予感が確信に変わった。池田は再訪問の5日後、若泉に宛てて「弔辞」をしたためた。
《若泉の日常は、学生時代からストイックそのもの、修行僧のそれであった。潔癖なまでに心の清潔を尚ぶ人であった》
 その過剰なまでの純粋さが、みずからを追いつめていく。
《“若泉、君は殉ずる事によって、自分の死を飾らうとしていたのではないか。”私は生きている間にこの質問に対い(ママ)する若泉の返事を聞いておきたかった》
 生きるべきか、死ぬべきか。そう問われた池田は、苦しげな心中を明かしている。
《私は兄を心友と目し、畏友と敬している。そして兄も心友であると言って呉れた。その私が、兄の生死について、死と答へる訳け(ママ)がないではないか。(略)若泉、生きるべきだ、そう言ったとしたら、それは兄にとっても極めて困難なものである。果してそれが出来るかどうか》
 池田は書きながら、涙が止まらなかった。
《心友と感謝されながら、私にはその友人に手を差し伸べる事も出来ない。無念である。こんな悲しい事ばかりが人生なんだらうか。兄と私との友情とはこんな無力なものなんだらうか。又た(ママ)会へる日があるだらうか》
 弔辞を書き終えたのは土曜日だった。死なないでくれ。そう願いながら迎えた月曜日の朝7時、池田は若泉の携帯を鳴らした。
 電話はつながったが、若泉は出ない。もしかして、と胸騒ぎがする。1回、また1回とベルが鳴る。いつもなら、2回か3回で取るのに、呼び出し音が続く。10回近く鳴ったとき、ようやく若泉が出た。
「きょう速達を出すから、何をするにしても、それを読んでからにしてくれ。それを読むまでは何もするなよ。いいな」
 池田は早口でそれだけ告げた。速達が着くまでは生きている──。ソファに座り込むと、池田はしばらく動けなかった。
 まもなく、弔辞を受け取った若泉から〈恐るべき的確さに身震いした〉と返事がきた。そこには、こうも書かれていた。
〈実はこちらで御覧になって戴きたいものがあるのです〉
 翌2月3日、池田は三度、鯖江を訪れている。
「無畏無為庵」と称する自宅の2階には、24畳のリビングがある。若泉は、いくつも並ぶ地球儀のなかでもっとも大きいものの横に立った。
「池田君、この地球儀はアメリカでしか作れないんだよ。日本で作れないものは、ジャンボ・ジェット機とこの地球儀だけなんだ」
 若泉はそう言って、胸の高さまである地球儀の灯をつけた。
「池田君、これが一番いいよ。これで決まった。武士の一言だ」
 若泉は、池田への贈りものを選ぶと、笑顔を見せた。それが、顔を合わせた最後となった。
 この直前、池田は衝撃的な告白を聞いていた。
『他策──』を出した前年の6月23日、若泉は喪服姿で沖縄・摩文仁の丘を訪れた。沖縄戦が終結した「慰霊の日」。約18万人の遺骨が納められる国立沖縄戦没者墓苑の碑の前で手を合わせ、頭を垂れた。このとき、みずから命を絶つ覚悟だった──そう打ち明けたのだ。
 じつは、飛行機の切符は片道しか手配せず、事前に「歎願状」もしたためていた。
〈拙著の公刊によって沖縄県民の皆様に新たな御不安、御心痛、御憤怒を惹き起した事実を切々自覚しつつ、一九六九年日米首脳会談以来歴史に対して負っている私の重い「結果責任」を執り、武士道の精神に則って、国立沖縄戦没者墓苑において自裁します〉
 しかし、徹夜して何度も書き直した歎願状はなぜか自宅に忘れていた。
「何かもっと大きな力がそうさせたのかもしれない。そうとしか考えようがない」
 その言葉を、池田は震えるような思いで聞いた。
 若泉はこのとき、国立沖縄戦没者墓苑の慰霊碑の前で、あるジャーナリストと会った。「琉球放送」記者の具志堅勝也(55・現「琉球朝日放送」報道制作局長)。メディアの取材には一切口をつぐむなか、唯一、言葉を交わす相手だった。
「いまは取材は受けませんが、お会いするだけなら。いつか、時期がきたらお話しできるかもしれません」
 若泉はみずから電話をかけて面会を取りつけると、慰霊式典の終わった夕刻に姿を見せた。具志堅は短く言葉を交わすと、墓参する姿を写真に収めて引き揚げた。実際には思いとどまるが、このとき自裁する覚悟だったとは知らなかった。
 その後も、沖縄行脚は続く。

(95年6月、山岸豊治氏撮影)
 
 戦後50年となる95年、若泉は、皇室御用達でもあるハーバービューホテルに滞在する予定だった。最上階の部屋を半年前から押さえていた。ところが、1週間ほど前になって、沖縄県警の警備担当者から連絡が入った。
「別のホテルに移っていただけませんでしょうか」
 聞けば、村山富市首相や土井たか子・衆院議長(いずれも当時)らの沖縄訪問が急に決まったという。
「パフォーマンスで来るような政治家にあけるつもりはない」
 結局、最後まで譲らなかった。
 沖縄戦では県民の約4人に1人が亡くなったとされ、亡骸があちこちに埋まったままになっている。
 遺骨収集の現場にも、若泉は足を運んだ。
 本島南部・糸満市にあるガマ(洞窟)へ案内したのは、半世紀にわたってひとりで遺骨収集を続ける那覇市の国吉勇(70)だった。ジャーナリストの具志堅が橋渡しした。
 ジャングルのような樹林を分け入った奥に、入り口はあった。落盤の恐れもあるガマの中はひんやりとしている。
 作業着でヘルメットをかぶった若泉は地を這いながら、国吉に続いた。ようやく立てるほどのところまで進むと、地面を掘る。ロウソクの火を頼りに、スコップを立てた。
 一心不乱に掘り進めると、まもなく白っぽい骨が現れた。長さ40㌢ほどの大腿骨。若泉はその骨を胸に抱くと、静かに目を閉じた。
 このとき、若泉は「ヨシダ」と名乗っていた。それは、若泉がキッシンジャーと国際電話で話すときに使ったコードネームだった。
 若泉は628㌻に及ぶ『他策──』の最後に、こう記している。
〈心眼を開き、心耳を澄ませば、私の魂の奥深く静かに喚(よ)びかけてくるこの人柱たちの祈りの声を、私は、否、われわれは、これ以上黙殺してよいのだろうか。(略)拙著の公刊を、“永い遅疑逡巡の末”ここに決断するに至ったのは、まさに私のその塞き止め難い想念のなさしめる業に他ならない〉
 その言葉どおり、光が閉ざされたガマの中で、死者の声に耳を澄ませた。それは、みずから死を選ぶ1年ほど前のことだった。
 しかし、そんな若泉に対して、池田は疑問を投げかけていた。再び、手紙を引用する。
《沖縄に殉ずる。そう決断を下した理由は、沖縄百万の同胞の真の期待を裏切って、有事核の再持込みの日米両首脳の密約成立に加担したと言う、若泉の潔癖なまでの責任感である。沖縄百万の同胞は、現に生存し、米軍の大軍事基地の中にあって、戦後五十年を経た今日、いまだに苦難の生活を強いられている。そして若泉が裏切った人々とは現存の沖縄県民であって、被災して亡くなった一般住民の九万人、或いは日米両軍を合せての二十一万の戦死者・戦没者ではない筈である》
 向き合うべきは沖縄戦の犠牲者ではなく、いま米軍基地に苦しむ人々ではないか、と問いかけたのだ。
《若泉の沖縄に殉ずると言う純粋な心情が創り出す大きな矛盾である。(略)これでよかったのか!と若泉に言いたかった》
 池田はさらに、たたみかける。
《若泉は“他策”公刊を終ったあと、直ちにその本拠を沖縄に移し、住民票を持つ、実在の一人の沖縄県人として、沖縄にその骨を埋めるべきであった。(略)“他策”の著者、国際政治学者若泉敬が本拠を移し、一県民として住民票を持ち、その骨を沖縄に埋めたとするならば、その事実だけで若泉は日本の歴史を動かす原動力となり得た筈であった》
 当時の沖縄県知事、大田昌秀は『他策──』が出版されるとすぐ、話を聞かせてもらえないか、と若泉に連絡している。沖縄返還前には、ともに学者として会議で席を並べたこともあった。しかし、若泉からは丁重な断りが届いた。
〈本に書いてあることがすべてです〉
 大田は途方に暮れた。
「問い合わせたものの、答えてもらうことはできませんでした」
 沖縄県議会で、そう答弁した。県議たちも、重ねて声を上げようとはしなかった。
 ところが、若泉には秘かに沖縄に出向く心づもりがあった。
 遺骨収集をアレンジするなど、若泉の信頼を得ていた具志堅は、こう打ち明けられていた。
「覚悟していたものの、国会から証人として呼ばれることはなかった。でも、もし(沖縄の人々の総意として)沖縄の県議会から招かれれば、断れない」
 その意向を知り合いの県議に伝えれば、若泉招聘は実現する。そうすれば、〈天下の証言台に立つ〉という若泉の願いは叶えられる。
 それだけではない。
 日米安保条約とは何か。
 沖縄の基地負担は必要か。
 そもそも、日本はどんな国をめざすべきなのか。
 そうした議論が深まる契機にもなるはずだ。自民党単独政権が崩れ、村山連立内閣ができていた。
 ただ、若泉からは、具志堅と接触していることは他言しないよう、強く言われていた。もし、県議に働きかければ公になってしまう。
 とはいえ、約束を破ってでも伝える価値はある。
 葛藤の末、具志堅は沈黙を選んだ。決め手となったのは、かつて若泉から言われたセリフだった。
「私はあなたを信じています。たとえ裏切られても、あなたを恨みません。それは、あなたを信じた私の不徳の致すところですから」
 結局、若泉が沖縄県議会で証言することはなかった。
 翌年の春を前に、若泉は日本最西端の与那国島へ渡った。『他策──』の英訳版に寄せる序文を書くためだった。滞在した民宿は偶然にも、「ホワイトハウス」といった。白く塗った壁がその由来というものの、若泉は不思議な縁を感じていた。
 鯖江に戻った3カ月後、訃報が届いた。若泉の死をだれよりも案じていた池田が脳腫瘍に倒れた末、6月19日に息を引き取ったという。
 その4日後、若泉は沖縄に向かった。すい臓がんで、告げられた余命はすぎていた。それでも、4度目の、そして最後となる慰霊を済ませた。
 故郷に帰り、再び入院する。衰弱が激しかった。まもなく、みずから望んで自宅に戻った。
 その2日後の96年7月27日。

 関係者6人が若泉邸に集まり、英訳版出版のための“合意議事録”に署名した。若泉はおだやかな笑みを浮かべた。
 その直後、みずから命を絶った。晩年、秘書役を務めていた鰐渕によると、地球儀が並ぶ2階のリビングで青酸カリを口にしたという。66歳だった。
 まもなく、宮内庁から電話が入った。若泉とは長く親交があり、ともに沖縄に心を寄せる天皇陛下から、お悔やみの言葉が伝えられた。
 長男の聡一郎(50)は、父の死に目には会えなかった。それどころか、『他策──』を出版する半年ほど前に、絶縁を言い渡されていた。
 93年の大晦日に突然、次のような手紙を受け取った。
〈猶今後は、ひなを(亡妻)への供花を鯖江へ贈られることを、当方で固く辞退します〉
 これを最後に、若泉は音信を絶った。遺産も残さなかった。その理由は定かではない。聡一郎はいまだに、父の心中を測りあぐねている。
 その後、聡一郎は、父がつけてくれた「耕」から正式に改名した。父母にあやかりたいという願いを込めた「聡」と、ふたり兄弟の長男らしくという意味の「一郎」をあわせた。
 いま、東京都内の会社に勤め、経理畑を歩んでいる。
「父は大きすぎる存在でした」
 その父が殉じた沖縄はいまも、米軍基地の負担にあえいでいる。

【衆議院選挙】 民主党・総選挙前

[Part1] 菅はロンドンへ飛んだ

6月6日。民主党代表代行の菅直人は、成田からロンドンへと旅立った。英国の議院内閣制の実態を調査するためだ。

厚相の経験もある菅は、日本の政治を「官僚主導」とみて、強い違和感を持ち続けてきた。

大臣の就任直後に、記者会見がある。多くの大臣は、政策に通じないまま、想定問答を手渡される。そこから、官僚によるコントロールは始まる。国会答弁も官僚頼みだ。


衆院議員会館から窓越しに見える国会議事堂。次の総選挙で、首班の座を得るのは、自民か、民主か。それとも……=中野正貴氏撮影
「主客が逆転しているんですよ」。役人が内閣を動かし、根本的な政治を担っている。政治家は役人に対する陳情活動を行っている――。それが菅の見る日本政治だ。

「議院内閣制」の本場、英国はそうではないはず。有力な与党の政治家は、内閣(政府)に入り、「オールスター」で官僚をコントロールする。政府以外に、与党幹部が政策に関与する「権力の二元体制」もない。政策立案機能は内閣に一元化されている。

民主党は数年前から、英国型モデルの勉強を重ねてきたが、幹部が本格調査するのは初めて。イギリスの仕組みを学んで、来るべき政権交代に備えたい。

そんな意味をこめた視察である。

*下っ端大臣の退屈な日々

「いやあ、ヒマだった。大臣のいすは、ビーチにある折りたたみ式の寝いすみたいだった」そう語るのは、61歳の下院議員(労働党)、クリス・マリンである。

99年から2年間、環境・交通・地域省(当時)の大臣の1人に任命された。閣僚である大臣のもとに、政策運営を補佐する閣外大臣が8人置かれている。マリンは、一番下っ端だった。

ある日、席に届けられた書類に、外し忘れた付箋(ふ・せん)が残っていた。「これは優先順位最下位の仕事。マリンに回して」

退屈と無意味な仕事の日々。英国で閣僚、閣外相などとして政府に入っている議員は計127人。下院(646人)からは労働党350人のうち97人にのぼる(5月末現在)。マリンも、閣外相を3回経験した。

「週末には選挙区に帰る議員たちが政府に入れば、現場感覚を政策に反映できる」と良い面を認める。「トップの大臣が優れていれば閣外相もやりがいのある仕事になる」。ただ「大臣にしてもらえるかも、との期待から議員たちが政府に忠実になる」という弊害もあるという。

首相も大臣になる議員を増やそうと頻繁に交代させる。その結果「官僚たちは、大臣と意見が違っても、次の交代を待てばいいとたかをくくる」。これでは肝心の官僚のコントロールもままならない。

[Part2] 先の先の話をしたってしょうがないじゃない

英国でも、「官僚主導」が問題視されたことがある。

「Yes Minister(はい、大臣)」という80年代のテレビのコメディーは、繰り返し再放送され、最近もDVDになった。

筋は毎回同じようなパターン。

大臣の指示を「おっしゃるとおりです」と迎合する官僚が、「ただ、ここは少し変えた方が」などと言葉巧みに誘導。結局、大臣を思い通りに操る。

4月3日。民主党本部を、駐日英国大使、デービッド・ウォレンが訪ね、菅に面会した。

英国を訪問するつもりだった菅は、ウォレンを質問攻めにした。

「官僚主導」の有無をたずねる菅に、ウォレンは、「『Yes Minister』という人気番組がある」ことに触れた。

ただ、ウォレンは、英国の官僚が政治家とのつきあいに一線を画していることも説明。たとえば外務官僚は、上司である外務大臣には頻繁に接触するが、日本のように入閣していない与党幹部や野党の有力政治家のところまで回ることは事実上禁じられている、と話した。

英国の「反省」

英政界はいま経費乱用問題で激しい批判にさらされ、試練に直面している。


ロンドン中心部、テムズ川河畔にあるウェストミンスター宮殿。英国議会の議事堂として使われている=土佐茂生撮影
議員や大臣が豪華テレビを購入したり、住宅手当をごまかしたり、と醜態をさらしている。

世論は、政治改革を迫り、政界からもさまざまな改革案が出ている。現在の完全小選挙区制を見直し、比例代表制選挙の導入を唱える大物閣僚もいる。

行政府(内閣)から立法府(議会)への権限移譲を進めるべきだとの議論もある。

背景には、イラク戦争もからむ。ブレア前政権は、世論の強い反対にもかかわらず戦争に突入した。開戦や海外派兵には議会の承認を必要とすべきだ、という意見も出ている。また、政府が国内の民意に従うより欧州連合(EU)の決定や、グローバル市場の要請に応えようとしている、との不満もある。

英サウサンプトン大学講師のアレクサンドラ・ケルソは「ここ30年ほど、政府に入る議員が多すぎるという批判が絶えない」という。「大臣」議員は当然ながら政府の方針に反対できないし、政府に説明責任を迫る委員会にも入れない。「政策を批判的にチェックするという議員の力が弱まる」というわけだ。

与党と政府が一体となった英国型の議院内閣制は、行政府と立法府が互いにチェックする「大統領制」より、むしろ強力で、時として「選ばれた独裁制(elective dictatorship)」に陥る。イラク戦争に突入したのもその一例だ。

英国に旅立つ直前の菅に、その点をどうみるか、たずねてみた。

「それは、政権交代をしたあとの応用問題だよ。先の先の話をしたってしょうがないじゃない」
と笑った。

[Part1] 厚労省とは「敵対」路線? 「歳出」官庁に照準

「ミスター年金」といえば、民主党衆院議員、長妻昭だ。
48歳。電機メーカー勤務や日経ビジネス記者などを経て政界入りした。
07年、年金記録の漏れや社会保険庁の不正を発掘した。民主党にとって、07年参院選の勝利の立役者といってもいい。

衆院予算委員会で、年金について質問する民主党の長妻昭政調会長代理=河合博司撮影
もし、次期総選挙で民主党が勝利を収め、民主党中心の政権になったら、長妻は厚生労働相になるのだろうか。「次の内閣」の年金担当相を務め、メディアで「候補」に名前が挙がることも少なくない
「『長妻大臣』だけは、やめてほしい」と天を仰ぐのは、厚労省の幹部だ。課長補佐や係長レベルの中堅職員も長妻の「行状」を口々に嘆く。
「回答に困るような微細な内容の質問主意書をごまんと出す」

「全国の社会保険事務所に問い合わせないとわからない数字や、作成に時間のかかる資料を『すぐに出せ』と強硬に求められ、肝心の年金記録の照合作業ができない」

「一度に複数の省庁の官僚が呼び出され、何時間も待たされる」
局長から係長まで、厚労省の官僚6人に、もし民主党政権になった場合にだれが「大臣」ならいいか、聞いてみた。
「長妻」票はゼロ。1位は「実務にたけている」「人を見て仕事をしてくれる」などの理由で3票を集めた仙谷由人だった。
長妻も負けてはいない。「政府与党は官僚を事務局として使う立場なのに、頼っているうちに母屋を取られてしまった」。自民党議員は、支持者の要望を官僚に陳情する「ロビイスト」になり下がっていると指摘する。
「脱官僚」政治は、民主党がイの一番に掲げている公約だ。政権を取ったときに備えて、対策も練ってはいる。政治主導で行政を進める手順や運営方法を示した「政権移行プラン」はその一つだ。
ただ、すべての省庁でいっぺんにできるとは限らない。プランづくりの中心である参院議員の松井孝治は「選挙で公約した政策を実現するため、改革の優先度が高い官庁を絞り込み、集中的に幹部の政治任用などを進めるのも手だ」と話す。

では、民主党がまず「標的」にするのはどの官庁か。
複数の民主党有力議員があげているのが、厚労省と国土交通省だ。
参院議員の大塚耕平はこれに農林水産省を加え「3省には共通項がある」と言う。
まず、削れる余地のある歳出額が多い。自民党の族議員との関係も強い。そして、技官のような専門職階があり、省内の縦割りが激しい――。
中でも、改革が必要な「筆頭格」と見られているのが厚労省・社会保険庁だ。

「たたくだけ」でいいか

2年前。長妻は、年金記録が保管してある東京都内の倉庫を視察した。そのとき、埋もれた書類の中に年金福祉施設などの建設を陳情に来た議員や秘書の名刺が束ねてあるファイルを発見した。「コピーの提出を」と迫る長妻に、社保庁側は「検討する」と言ったきり何も出してこないという。
長妻は、民主党が政権を取れば、官僚たちの「なめきった態度」も変わるはず、と意気込む。
ただ、民主党の幹部は「官僚をたたくだけの野党的な手法では、行政を回し切れなくなる」と予想する。
「長妻氏のようなタイプには内閣官房で行革に腕を振るってもらい、直接厚労省を仕切るのは、もう少しバランス型の人がいい」
長妻自身も「与党になれば、私もやり方を変える」と言う。
だが民主党は、これまで「官」との対決姿勢を推し進めてきた。政権を取ったからと、すぐに「協力」関係に変えていけるだろうか。

[Part2] 「財務省とは握る」 表向きは対立でも

民主党が政権を取った場合、官僚は、本気で協力するのだろうか。
しばらく前まで民主党内には、各省の幹部職員に政権への協力を約束する「 誓約書」を書かせるといった強硬論もあったのだが……。
「心配しなくていい」と話すのは、参院議員の鈴木寛だ。
鈴木は経済産業省の出身。党内で選挙のマニフェスト作りを担うメンバーの1人でもある。
鈴木は言う。「財務省と経済産業省は賢い。理にかなった改革であれば、彼らはちゃんと政治家についてくる」
会計課長、送り込み?
別の参院議員は「すべての省庁の会計課長を財務省から送り込む。その下に補佐役を設け、民間から公募した公認会計士をつける」という「秘策」を打ち上げる。 財務省は健全財政主義なのだから、歳出カットに協力してくれるはず、というのだ。
財務省は、「省庁の中の省庁」と言われ、予算と税制を握る官僚機構の中枢である。政治主導を確立するうえで、民主党が警戒すべき相手ではないのだろうか。
事実、民主党首脳は、「財務省叩き」を繰り返してきた。
代表の鳩山由紀夫は、幹事長時代に「財務省主導の政治を根底から変えていくためにはどうするのか、ということが求められている」(昨年7月の講演)と話した。


武藤敏郎日銀副総裁の総裁への昇格案が、民主などの反対多数で不同意とされた参院本会議。手前は民主党席=12日午前、国会内で、松沢竜一撮影
昨年春には、日銀総裁人事をめぐって政府と民主党が対立した。
当時の代表の小沢一郎は、福田内閣が出した元財務事務次官の武藤敏郎らの総裁案を「天下りは許さない」と拒否。「財務省と対峙する民主党」というイメージは定着した。
「本当は、小沢代表は、財務省を敵視するつもりはなかった」
そう明かすのは、民主党最高顧問の藤井裕久だ。
藤井は元大蔵官僚で、細川・羽田政権時代に蔵相を務めた。党内で、民主党政権になった場合、財務相の有力候補の1人との声もある。
藤井が昨年1月、小沢と話したときには、武藤・日銀総裁案を容認するムードだった。
小沢は藤井にこう語った。

「政権が取れるかもしれない。そのとき、財務省を敵に回すと何も動かなくなる」
別の民主党代表経験者も「民主党政権になったら、財務省とは協力関係を築いていく」と明かす。財務省の幹部と、定期的に会合を開いて情報収集をしている民主党幹部は少なくない。
当の財務省は、民主党と積極的に距離を縮めようとはしていない。
「国民福祉税のトラウマがあるからね」と幹部は話す。
93年に自民党が下野して細川政権が誕生したとき、大蔵事務次官(当時)の斎藤次郎は、連立与党の実権を握っていた小沢一郎と組んで「国民福祉税」構想をぶち上げた。
結局つぶれたが、大蔵官僚の「変わり身の早さ」は自民党に衝撃を与え、その恨みは、やがて大蔵省が分割される遠因にもなった。
民主党が政権を取っても、長期政権になるかどうかわからない。それなら、下手に組まないほうがよい、という計算が働く。
無駄な予算、削れる?

そもそも、「民主党は、本当に歳出をカットできるのか」と疑問を呈する向きもある。
財務省のある局長は、「与党の国会議員は地元の利益誘導に傾きがちだ。
民主党も、政権を取ったら自民党とさして変わらなくなるのでは」と予測する。
民主党の中央は、高速道路の新規建設には慎重だが、第二名神高速の予定地になっている地元の民主党は「推進派」だ。与党になったときに、地元の意思を無視し続けられるかどうか。
さらにシニカルな見方もある。
ある財務省職員は「財務省が健全財政主義だという前提が間違い」と内部批判する。
財務省が本気で歳出カットをする気がないから、国と自治体の借金が800兆円にも膨れあがった。時の政権と組み、特殊法人などへの「天下りの確保」とひきかえに、国民にわかりにくい特別会計も使って歳出を膨らませてきたのが財務省だ、というのだ。
だとすれば、民主党と財務省が「握った」としても、財政が健全化するとは限らない。

[Part1] 20兆円ひねり出しの難問 最後は「一度やらせてみて」

民主党の政策が信頼されていない理由は、財政政策がビルド(創設)ばかりで、スクラップ(破棄)が抽象的だからだ」
昨年7月。慶応大学准教授(当時)の土居丈朗は、「次の内閣」の財務相、中川正春に、そう迫っていた。
「言論NPO」が主催する討論会。「総選挙近し」のムードが漂っていた。中川は「本命は、特別会計と独立行政法人だと思っている」と答えたが、別の学者から「話がみえにくい」と反論された。

予算に含まれる無駄を徹底的に洗い出し、4年後には、毎年20兆円もの財源を生み出す。それを使って「子ども手当の創設」「主要先進国並みに医療費を大幅拡充」といった社会福祉政策の充実に振り向けていく――。これが民主党の戦略だ。
しかし、今の予算から本当に20兆円もの無駄をそぎ落とせるのか。財務相の与謝野馨が「おとぎ話」と切って捨てたのに象徴されるように、政府・与党は強く批判している。

しかし、民主党政調会長代理、福山哲郎はきっぱり反論する。
「根拠がある」と示したのが、昨年秋に財務省が出してきたという予算の新たな「区分表」だ。
「07年の参院選で野党が過半数を獲得したことで、役所からさまざまな資料が出るようになった。これもその一つ。民主党の政策を実現するための財源は、この数字をもとに積み上げている」

これまで政府が示してきた資料では、一般会計と特別会計を合算した約212兆円の歳出のうち、借金の返済に充てる国債費、社会保障関係費、地方交付税などの費目が8割を占める。いずれも義務的な色合いが濃く、削減は難しいように見える。
積立金の「先食い」か

だが、歳出の「性格」に応じて整理された区分表と照らし合わせると、官僚の天下り団体への補助金など、削減しやすい項目が紛れ込んでいることが分かる。これを足し上げると、見直しの対象になる額は約25兆円増え、67兆にもなるという。「その中で真剣に検討すれば、約10兆円の削減が見込める」というのが福山の説明だ。
さらに、特別会計の積立金20兆円と毎年3兆~6兆円ある剰余金から5兆~6兆円を調達。所得税の諸控除の見直しなどで税収も4兆~5兆円増えると見込めば、4年後には毎年約20兆円分の財源が確保できると話す。

だが、慶応大学の土居は「積立金は、将来必要な歳出に備えてプールしているもの。これを先食いするなら、国債を追加発行するのと同じだ。正しい財源確保とは言えない」という。
財務省の幹部も「天下り団体への補助金を削ると言うが、(文部科学省の官僚が天下りしているからと)国立大学への補助金も削るのか」と実現には冷ややかな視線を送る。
別の幹部は「いずれの補助金も政策目的をもっている。打ち切るのは政治判断だろうが、それなら、どの補助金を削るのか、はっきり示すべきだ」。具体的な削減項目を民主党が示さない限り、必要かどうかの議論にならないと突き放す。

ただ、民主党は「野党でいる限り、精緻な内容に踏み込むだけの情報を得られない」とのもどかしさも抱えている。
しつこく問う記者に、福山はうんざりした口調で言った。
「一度民主党に政権をとらせてください。やらせてみてから判断してください」

[Part2] 増税・社会保障でブレ 労組にも不満

民主党の政策は、党首が交代すると劇的に変わることがある。
年金財源をめぐる消費税論議はその典型だ。
民主党は「年金をだれでも確実にもらえるようにする」との理想を掲げ、公的年金の基礎(最低保障)部分を税で賄う方式を提案してきた。

07年7月参院選の民主党マニフェスト。主な公約の1つに「消費税は5%を当面維持し、全額を年金財源に」を掲げた
代表が菅直人の04年には、財源として「3%程度の年金目的消費税の創設」を掲げた。その方針は、代表を引き継いだ岡田克也、前原誠司も守ってきた。
ところが、小沢一郎になって突然、増税の主張は封印される。07年のマニフェストでは「現行の消費税の全税収をあてる。税金の無駄遣いをなくすことで、消費税率は据え置く」となった。

だが、現在の消費税収は約13兆円。現行の基礎年金給付費は約19兆円で、このままでは足りない。
07年7月の討論会で、小沢は、年収1200万円超の人は最低保障分をカットすることなどで対応可能と説明した。だが、どの時点の「年収」を使って試算したかなど詳細は明らかにされていない。

先月の代表選でも、民主党内での年金政策のブレを印象づける場面があった。
岡田は年金改革を公約のトップに掲げたが、説明文に「過去債務270兆円の切り離し」との言葉があった。党の公式見解にはない「新方針」だった。
最低保障部分は税で負担した上で、2階部分についても今と違う制度に移行する。その際、現行方式で約束した給付に足りないお金は新制度と切り離して対応する、という。
しかし、5日の会見で岡田は「党の中で議論してきたものではない」とあっさり引っ込めてしまった。

民主党を応援している労働組合からも、不満が出ている。
政府が提出したサラリーマンらの厚生年金と公務員が対象の共済年金を一元化する法案は、2年以上もたなざらしのままになっている。民主党が、自営業者らの国民年金の一元化も主張しているため、本格的な審議に入れないのだ。

与野党間で年金改革論議が進まない状況に、連合の幹部は言う。
「いきなり自営業者の年金も統合するのは無理。理想を示すのはいい。
ただ、民主党の政策には、どう実現するのかという具体的なステップが欠けがちなのではないか」

[Part3] 自民一辺倒から軌道修正 経済界、政権交代にらむ

自民党一辺倒だった経済界に、少し違う風が吹いている。
「民主党に政権担当能力はあるのでしょうか」
財界の論客として知られる武田薬品工業社長の長谷川閑史に、そう聞いてみた。
「社長を選ぶ前に『こんな欠点がある』と言ってみても仕方がない。いい経営ができるかどうかはやらせてみなければわからない」

5月13日の東京外国為替市場。
円相場は一時、1ドル=95円台まで上昇した。きっかけの一つになったのは、英BBCのインタビューに答えた民主党の「次の内閣」財務相、中川正春の発言だった。
「民主党が政権についたらドル建て米国債の購入を控える」。市場がドル不安に陥っていたからこその動きだったが、民主党の「次の内閣」財務相の発言が市場で材料視されることは、以前にはなかった。


経団連と民主党の討論会に出席した(右から)経団連の御手洗会長、民主党の鳩山代表、岡田幹事長=09年6月1日、東京都千代田区の経団連会館、遠藤真梨撮影
財界では数年前から、岡田克也、前原誠司などの政治家について、現実主義的な政策を掲げていると評価する声が高まっていた。
日本経団連で政治対策委員長を務める大橋光夫(昭和電工会長)は「中堅・若手の国会議員はもう、自民党も民主党もほとんど差はない」と話す。
その一方、先月まで代表を務めた小沢一郎に対する評価は分かれる。その調整能力に対する期待がある半面、経済界が主張してきた消費税増税は封印され、農家への戸別補償など地方の自民票を奪うための「ばらまき」的手法への嫌悪をあからさまに示す財界人もいる。

5月の代表選で小沢路線の継承とみられた鳩山由紀夫が選ばれると、財界の一部に落胆の声も上がった。
経団連のある幹部は「岡田さんだったら、自民・民主とも『等距離外交』で臨む可能性もあったのに」と漏らす。
それでも、岡田が幹事長に就任したことで、民主党の政策を見極めようとの空気が広がっている。岡田に対する期待は、岡田が消費税増税や規制緩和など財界の主張に近い政策を掲げてきたからだ。

だが、その岡田の「環境重視」政策が経済界の利益とぶつかることを懸念する声も小さくない。
6月1日。経団連と民主党の首脳がずらりと顔をそろえる討論会があった。各トップが出席するのは、3年ぶりのことだ。
岡田は、温室効果ガス削減の2020年までの中期目標を「90年比で25%削減」とすることを主張して、「これは別名、『岡田案』と呼ばれているようだ」と話した。
これに反論したのが、東京電力社長の清水正孝。経団連で環境政策を担当する副会長だ。
清水は「民主党の提案は多大な国民負担を伴う。納得いく説明をしてほしい」と語気を強めた。
経済界と民主党の間は、近づきつつ、緊張も生み出している。

[Part1] 米政権、一時は懸念 自立外交、同盟揺らぐ?
6月1日、東京・永田町、民主党本部。米国務省ナンバー2の副長官ジェームズ・スタインバーグは、民主党代表鳩山由紀夫と向き合っていた。有力シンクタンク、ブルッキングズの副所長などを経て政権入りした。5月の党代表交代後、鳩山と米政府高官との初の接触の場だった。

鳩山「日米ともに民主党政権で、核の廃絶、地球温暖化、国際的な金融の問題といった三つのビッグチャレンジ(重要課題)に互いに協力して取り組んでいきたい」「(北朝鮮問題で)追加の経済制裁を含めた国連決議がまとまることが重要だと考える。実効性を得る上で、中国との協力関係が重要だ」


国会内で、「核不拡散・軍縮に関する国際委員会」(ICNND)の共同議長を務めるギャレス・エバンス元豪州外相と会談する民主党の岡田幹事長。鉢呂吉雄『次の内閣』外相、浅尾慶一郎『次の内閣』防衛相、民主党核軍縮促進議員連盟事務局長の平岡秀夫衆議院議員が同席した=2009年5月27日午前、池田伸壹撮影
スタインバーグ「今の発言で、北朝鮮は、日本で仮に政権交代があろうとも、日米の対応は不変だと認識するだろう」

米政府は小沢前代表時代、「民主党政権下の日米」がどうなるのか、明確な姿をつかみかねていた。

昨年12月、米国務省。米有力シンクタンクCSISに在籍していた前民主党参院議員、若林秀樹を米当局者らが囲んで、質問をぶつけた。

「小沢という人間がよくわからない」「今の『次の内閣』メンバーは政権を取ったら閣僚になるのか」

若林はこう答えた。
「小沢の考えは、党全体の安保政策ではない。『次の内閣』は小沢が党をまとめるための人選。実際の閣僚は別の人間になるだろう」

だが、その小沢は2月、「(米海軍)第7艦隊で米軍の極東におけるプレゼンスは十分だ」と発言。「小沢が首相になったら危ういという見方が広がった」(元米外交官)

小沢発言の直後、ブッシュ前政権の高官だった対日専門家、マイケル・グリーンは元代表の前原誠司と東京都内のホテルで朝食をとった。
前原は言い切った。「過度な対米依存からの自立という小沢発言の方向性は、ずれていない。ただ、党の政策ではないし、発言には時間軸、戦略環境、米国との信頼関係といったものがすっぽり抜け落ちている」

前原は4月に訪米した際、旧知のスタインバーグにも説明した。
1日の鳩山との会談後、スタインバーグは記者にこう語った。「民主党には古くからの友人がいて、密接に連絡を取り合っている。実に素晴らしい会談だった」

5月19日、上海。日中関係に詳しい上海国際問題研究院学術委員会副主任の呉寄南は、民主党代表選を詳細に読み解いて、記者に語った。
「鳩山代表は岡田克也に比べれば有権者の支持はやや低いかもしれないが、小沢グループや菅グループと近い。党内を安定的にまとめるには鳩山の就任がベストだった」

中国共産党で党外交を進める中央対外連絡部(中連部)が民主党に接触を始めたのは旧民主党が結成された96年にさかのぼる。当時、菅直人と共同代表を務めていた鳩山が訪中すると、政治局常務委員だった胡錦濤(現国家主席)ら次世代リーダーが迎えた。交流は途切れず、07年にはテーマ別に会合を開く政党間交流も始まった。
「米国との関係は、すでにできあがっている。今後、日本が戦略上、最も力を入れなければいけないのは、中国との関係だ」。鳩山は昨夏、党幹事長時代に日米安保の専門家が集まった会合に出席し、こう語って、関心を呼んだという。

小泉首相(当時)の靖国神社参拝に批判的だった民主党だが、親中一辺倒ではない。鳩山は、幹事長時代の07年、チベット仏教最高指導者のダライ・ラマ14世と会談。前原も今年2月、国会質問で中国と領有権を争う尖閣諸島の「防衛」に言及した。いずれも中国側は反発した。それでも中国は、民主党に「安心感」を抱いている、と呉は言う。
「アジア外交を重視する民主党は、小泉時代の対米一辺倒路線とは対照的だ。政権を取っても、中国はあまり心配する必要がない」

[Part2] 安保の振れ幅「30度」 「核の傘」半分離脱?

民主党が、政権をとった場合、外交・安全保障政策はどうなるのか。「日米関係を基本とするが、より世界各国との友好関係を大事にする」(「次の内閣」外相の鉢呂吉雄)というのが最大公約数だ。

冷戦時代とは異なり、いまの自公政権との振れる角度は「180度でなく30度ぐらい」と、「次の内閣」で防衛庁長官を経験した衆院議員の長島昭久は説明する。「基本政策を維持した上での修正」は主に次の点に集約される。

1)提案型、自立志向の日米同盟
2)アジア、周辺諸国との協調重視
3)環境、非核政策での積極姿勢
4)平和構築分野で自衛隊積極活用

1)でまず問われるのは、インド洋給油支援、海賊対策への対応だ。「両方やるといえば、米国は安心する。給油をやめるなら、対案で何を出せるか」(外務省幹部)。「次の内閣」防衛相の浅尾慶一郎、参院議員の犬塚直史らは、米国と協調しつつ、アフガニスタン、パキスタンでの新たな民生支援を模索する。


警護中の貨物船の様子を双眼鏡で確認する「さざなみ」の海上自衛隊員=2009年6月6日、アデン湾洋上、古谷祐伸撮影
米外交問題評議会上級研究員のシーラ・スミスは「オバマ政権は『米国が要請し、日本が応える』というような関係を求めていない。世界的規模の問題をともに解決することを求めている」と語る。民主党の「自立志向の同盟論」とも通じる。

「アキレス腱」になりかねないのが、沖縄の米軍普天間基地返還問題への対応だ。前原は、10年以上進展していない現行案に代わる「腹案がある」と話す。両政府の合意を覆すのは同盟では本来、タブーに近い。しかし、4月の訪米時に「代案」に言及すると、元米高官は否定せず、こう言ったという。「実現できるかどうかは、オバマ政権と日本の民主党政権の双方の足元がどこまで強いかによる」

2)を意識して、鳩山は代表就任後、初の外遊先に韓国を選んだ。出発前の4日、「大事なことは日本はアジアの一国であると、アジアのなかでもっと親しい協力ができる、そんなお互いの国同士でありたい」と語った。経済協力の強化を通じた「東アジア共同体」づくりを目指すという。

3)に力を入れるのは岡田だ。幹事長就任直後の5月、「核の先制使用と核廃絶は論理的に一貫しない」と述べた。米国の「核の傘」のうち、核攻撃を受けた場合の報復は認め、「傘」から「半分出るべきだ」と主張した。北朝鮮が2度目の核実験に踏み切るなか、総選挙のマニフェストに盛り込むかどうか、党内には異論もある。

4)について、鳩山は代表選の際、「国連が決めたものなら何でもやるわけではない」と述べ、小沢の国連至上主義から軌道修正を図っている。だが、党として「事前承認など国会の関与を強める」ことを条件に自衛隊の海外活用に積極的な姿勢は変わらないとみられる。
さらに、連立政権の相手として想定される社民党や国民新党との安保観の隔たりもある。溝が埋まらなければ、身動きがとれなくなる恐れも出てくる。

[Part3] 全特「今度はリベンジだ」民主、地方票に照準

「あらん限りの力をこの一戦に託し、政権交代のトンネル貫通の最後の発破を、今、ここに爆破させようではありませんか」
全国郵便局長会(全特)の会長(当時)、浦野修が訴えると、会場を揺るがすような拍手が起きた。5月17日、全国から1万人もの旧特定郵便局長やその関係者が、千葉市内のホールに集結していた。

地元に根ざす郵便局長の集まりである全特は、自民党の最強の「集票マシーン」として知られてきた。しかし4年前、当時の首相、小泉純一郎は、郵政民営化を訴えて選挙に踏み切り、自民党は300議席を獲得する。民営化に反対した全特の運命は、暗転したかにみえた。

「今回は、小泉選挙のリベンジだ」と燃える全特は、民主党候補約200人のために、すでに選挙の支援体制を整えつつある。全特が最も支援に力を入れる国民新党と、民主党が、昨年秋「民営化抜本見直し」で政策協定を結んだからだ。


全国郵便局長会通常総会であいさつする民主党の鳩山由紀夫代表=2009年5月17日、千葉市、川村直子撮影
「最低でも50万票は集められる」と全特幹部は自信を示す。身分が国家公務員から民間になり、堂々と政治活動できることで、さらに上積みされるとの見方もある。

全特大会の前日は、民主党代表選だった。就任したばかりの鳩山はさっそく大会に駆けつける。
「選挙に勝たせていただくためには、郵便局長さん方の多大なるご支援が不可欠です。お力をお貸し願いますように、心から、心からお願い申し上げます」

「(全特は)変わり身が早いね」。自民党元幹事長で、民営化に反対し続けた野中広務の口調には、皮肉もまじる。

しかし、全特専務理事の平勝典の民主党支持に迷いはない。
「このままでは、地方や農村が廃れてしまう。日本型システムを守らなければならない。今回の選挙が最後のチャンス」と訴える。

民主、「農村重視」へ

5月11日。民主党新顔の近藤和也は、能登半島の能登町にいた。
石川県旧鹿島町出身の35歳。京大卒で、野村証券の元営業マン。
小選挙区では自民党候補しか当選したことのない石川3区で、民主党初の議席獲得をめざしている。

あぜ道の先にある区長宅を、いきなり訪れる。
「農業のこともがんばります」。引き気味の区長の手を握って訴えた。
近藤は、民主党の農協出身の参院議員から、JAバンクのキャラクターである金魚の「ちょきんぎょ」のネクタイをして回れ、とまで言われていた。

都市部の選挙を勝ち抜き、政策通でスマート。しばらく前まで、民主党はそんな議員たちが仕切るイメージがあった。しかし、農村部が抱える議席は多く、都市部の支持だけでは政権は取れない。

小沢一郎が代表になった後、民主党ははっきりと「地方重視」を打ち出す。07年の参院選で、1兆円にものぼる農家への戸別所得補償を柱とする農業政策を、3大政策の一つとして「格上げ」し、地方の一人区の大勝に結びつけた。

5月15日。東京で開かれた農業についてのシンポジウム。
「これはひどいよね」と、民主党議員に食ってかかったのは、農水相の石破茂だった。
石破が持ち出したのは、07年参院選で民主党が配った農業政策のマンガ版マニフェストだった。「全ての販売農家の所得は補償され農業が続けられます」と聞こえのよいことしか書いていなかったというのだ。民主党の基本方針は農産物の関税引き下げを伴う「自由貿易協定(FTA)推進」だが、参院選では強く訴えなかった。

自民党も、大規模農家などへの補助は惜しまない。輸入米についても高関税維持の立場だ。
民主党との戦いは、「農村部へどれだけお金をつぎ込むか」という競争になりつつある。

大きな政府VS.大きな政府

「自民党から小泉色が消えたことで、経済政策の分野で、自民党と民主党との対立軸は、全く見えなくなった」
安倍、福田内閣で経済財政相を務めた大田弘子は、そう語る。
規制緩和などによって既得権を打破し経済成長をもたらそうという「成長重視派」は力を失い、自民も民主も「分配重視」。
「分配は政治の大切な役割だけれど、改革をせずに成長できるような日本経済ではないはずでは」と大田は思う。

海外の二大政党の国では、政府の介入を積極的にとらえる「大きな政府」派の政党と、民間活力を重視する「小さな政府」派の政党に色分けされることが多い。対立軸があることで、国民は、どちらかを「選択」できる。

その意味では、自民党と民主党との戦いは、いわば「大きな政府VS.大きな政府」という構図にもみえ、有権者には冷めた空気も漂う。自民と民主の政策に「大きな違いはない」と考える人は、朝日新聞の全国世論調査(2月~3月実施)で67%にのぼる。

「自民党政治の終わり」(ちくま新書)を著した政治学者、野中尚人は「民主主義の成熟のためには、官僚との関係や国会の仕組みなどの統治メカニズムだけでなく、経済政策についての対立軸が必要だ」と話す。

自民、民主の「対立軸」は今後、はっきりしてくるのか。政界再編によって「選択」しやすくなるのか。それとも、財政の破綻があらわになるなど、日本経済がさらに大きな危機に直面するまで、「対立軸」はみえてこないのだろうか。


政策立案 ハンディあり

現政権下では、成立する法律の大半は政府が提出する「閣法」だ。

各省庁の官僚が法案や予算案を立案し、与党議員への根回し、省庁間の意見調整、自治体や関係業界への説明などを行って、自民党の部会や政務調査会で説明する。部会は省庁別に設置されることが多いため、省庁との結びつきが強まり「族議員を生み出す温床」ともいわれる。

常設の最高意思決定機関である総務会を通ると、通常は所属議員に党の決定に従うことを義務づける党議拘束がかかり、法案が通る可能性が高まる。つまり、政府提出法案であっても、事前に自民党の承認を受けなければ、実質的には国会に提出できない。この暗黙のルールが「事前審査制」だ。

与党の幹事長ら実力者が、実質的に法案への影響力をもつことから、「政府・与党」の「二元体制」ともいえる。「官邸主導」を進めた小泉元首相は、この慣例を破ったことはあったが、廃止できなかった。

一方、野党経験しかない民主党は、党の約20人の政策調査会スタッフが、衆参両院の調査部門や法制局、国立国会図書館を使って法案をつくる。「霞が関の官僚をすべて使える自民党と比べると、うちは総勢でも200人くらい」(民主党職員)。逆に、官僚に頼らない法案作成能力が磨かれている、と民主党
幹部はいう。

党内の部門会議などで議論したあと、最終的に「次の内閣」(ネクストキャビネット)で重点政策や法案対応を決定する。

07年の参院選で民主党が参院の第1党になり、衆参の「ねじれ」が生じて以降は、官僚は民主党へも配慮するようになった。民主党の部門会議への出席者を課長級から審議官・局長クラスに格上げしたことなども、その一例だ。

官僚の統制 構想あれこれ

民主党は、 マニフェストなどを通じ、政権を取ったときの政策決定プロセスや官僚制度のイメージを示している。官僚組織は、内閣をサポートする専門家集団との位置づけだ。
これまで、以下のようなプランが出たことがある。
(1)各省庁の局長以上の人事については、新政権の基本方針に協力することを誓約させ、同意しない幹部は異動させる。
(2)官房副長官や首相補佐官、副大臣、政務官などを増員したり、大臣補佐官を新設したりして、現在70人前後いる閣内の「議員」を100人規模に増やす。
(3)予算編成は官邸主導で予算総額を決め、各省庁はその枠内で細目を決める。
(4)キャリア公務員制度は廃止し、多様な試験を実施。試験区分を超え、能力・実績に応じて処遇する。
正式なプランは、鳩山新体制下で総選挙前に決まるが、菅代表代行の私案では―。
(5)法案などを閣議決定する前に全省庁の事務次官が出席する「事務次官会議」に、2人の政務の官房副長官を常時出席させ、会議の結論を参考意見にとどめる。
現在は、官僚である事務担当の官房副長官をトップとして、霞が関の意思決定の場になっている現状を改める。
(6)各省庁に対する大臣の指導力を強めるため、大臣、副大臣、政務官の「政務3役会議」を開く。政治家が「チーム」を組んで、官僚をコントロールする狙い。大臣に、副大臣と政務官の人事権を持たせる。
(7)現在は与野党の幹事長、国対委員長、各委員会の理事など党の役員が中心になって国会運営にあたっているが、幹事長を無任所大臣として入閣させ、国会運営の指揮を任せる。

政策的には似通ってきている自民、民主。候補者の「出自」などに違いはあるのだろうか。
朝日新聞が全国の取材網を通じて確認している次期衆院総選挙の立候補予定者で、比較してみた。(年齢は2009年6月7日現在)

まず、「世襲」について。
国会議員だった親や親族と同じ選挙区から立候補したり、選挙区の一部が親や親族の選挙区と重なっていたりする候補者を、「世襲」と定義して調べた。
結果は、自民党は102人で、民主党が21人。自民が圧倒的に多かった(自民党内の「世襲制限」論議とからみ、注目を集めてきた小泉進次郎氏<神奈川11区>と、臼井正一氏<千葉1区>については、自民党の立候補予定者に入れてある) 。

平均年齢でみると、民主が48歳で自民よりも8歳若い。とくに、20歳代、30歳代、40歳代では、民主党が自民党よりも多く、逆に高年齢層では自民党が多い。

中央省庁の官僚経験者(日銀出身者を含む)をみると、自民党が59人で、30人の民主党のほぼ2倍。ただ、自民党の官僚経験者は当選12回の加藤紘一元幹事長(外務省出身)、野田毅元建設相(大蔵省出身)をはじめベテランが多い。
一方、新顔では、自民の官僚出身者は7人なのに対し、民主党は2倍近い13人いる。

図表は、03年から政治家へのアンケートを継続している「 朝日・東大共同調査」(※)をもとにまとめた。
それぞれの選挙で当選した自民・民主両党の国会議員を対象に、外交・安全保障の基本政策については「防衛力強化」「日米安保体制強化」「先制攻撃」などの5項目に対する姿勢をたずね、賛成を「タカ派」、反対を「ハト派」として意見の分布を見ている。
同様に、「終身雇用」「公共事業による雇用確保」「財政出動による景気対策」の3項目に対する賛否を問い、公共事業や財政出動を通じて都市から農村へ資源を分配し、社会・経済の平等を重視する「日本型経済システム」を維持するか、改革するかの軸を設けた。
平均値を中心にした楕円は、意見の散らばり具合を表している。両党の代表的な政治家の「立ち位置」(当選時)を07年の図の上に置いた。
例えば、麻生首相は平均的な自民党議員よりもタカ派で「日本型システム」維持を強く志向。民主党の岡田幹事長は、外交・安全保障では党内で平均的な位置にいるが、改革志向が強い。
選挙ごとに顔ぶれも人数も異なるが、3年の間に自民党は「日本型」の「維持」と「改革」の間で揺れ動いたことが読み取れる。
民主党は特に外交・安全保障の面で意見の幅が広い。横路孝弘衆院副議長のような旧社会党出身者と、旧民社党出身の川端達夫副代表や安保政策の論客とされる前原誠司元代表らとで隔たりが大きいからだ。
ただ全体として比較すると、04年の当選議員では両党が対立する構図が見えていたが、05、07年では重なり合う部分が出ている。

(※朝日新聞社と東京大学法学部の蒲島郁夫教授〈当時〉と谷口将紀准教授の研究室が実施
。谷口研究室の大川千寿助教と境家史郎客員准教授が分析を担当した)

(文中敬称略)

取材記者略歴

高橋万見子(たかはし・まみこ)
GLOBE副編集長

池田伸壹(いけだ・しんいち)
GLOBE記者

梶原みずほ(かじわら・みずほ)
GLOBE記者

築島稔(つきしま・みのる)
GLOBE記者

磯貝秀俊(いそがい・ひでとし)
政治グループ記者

星野眞三雄(ほしの・まさお)
経済グループ記者

坂尻顕吾(さかじり・けんご)
中国総局員

伊藤宏(いとう・ひろし)
アメリカ総局員

大野博人(おおの・ひろひと)
ヨーロッパ総局長

浜田陽太郎(はまだ・ようたろう)
GLOBE副編集長

石合力(いしあい・つとむ)
GLOBE副編集長

山脇岳志(やまわき・たけし)
GLOBE編集長代理



090608feature_memo4

【海外メディア】 キャンベル米国務次官補

カット キャンベル米国務部東アジア太平洋次官補 19日明かす
ロケット・核実験以後、整理された対北政策基調

イ・ヨンイン記者

←訪韓中であるカット キャンベル米国国務部東アジア太平洋次官補(左側)が18日午後、ソウル,光化門の政府総合庁舎別館でイ・ヨンジュン外交通商部次官補(右側)と面談した後記者らの質問に答えている。聯合ニュース

訪韓中のカット キャンベル米国務部東アジア太平洋次官補は19日ソウル,光化門の政府総合庁舎別館でイ・ヨンジュン外交通商部次官補と会談を終えた後「北韓が(核と関連して)重大で復帰不能な措置を取るならば、米国をはじめとする関連国は北韓が魅力を感じられる包括的パッケージを提供できるという点をスチーブン・ボズワース対北政策特別代表とソンキム6者会談首席代表などが明確にした」と強調した。キャンベル次官補は「ただし(このためには)北韓が実際に最初に取らなければならない措置の中の一部でも先に取らなければならない」と話した。



ヒラリー・クリントン国務長官の米外交協会演説に続くキャンベル次官補の今回の発言はバラク・オバマ米国行政府の韓半島政策責任者らの人選が終えられた以後に整理された対北政策基調を含むものと見られる。北韓-米国は最近ニューヨーク接触を通じて意見交換をしたと知られ、このチャンネルを通じて包括的パッケージなどこういう政策基調が伝えられたものと観測される。

まず、北韓の長距離ロケット発射と2次核実験以後、米行政府の高位当局者が公式に‘包括的パッケージ’を提供することができると明らかにしたのは事実上初めてだ。‘魅力的な’という修飾語に照らしてみれば、北韓に対する積極的な対話メッセージと解釈することができる。

専門家たちはオバマ行政府の‘包括的パッケージ’方案はブッシュ2期行政府時の交渉方式に対する批判から出発していると見ている。段階的・部分的交渉を経て北韓の核放棄を引き出すという既存方式は北韓の交渉破棄につながり限界を示したということだ。これに伴い、包括的パッケージ方案はすべての議題を交渉テーブルの上にのせ、北核廃棄という最終目標までこまかく時刻表を組むということだ。ここには北-米関係正常化と停戦体制の平和体制への転換,対北食糧・エネルギー提供などが全て含まれる。

もちろんキャンベルの発言はまだ‘構想段階’と見える。政府高位当局者は「まだ具体的な内容やロードマップが用意されている訳ではない」として「時間が多少かかるのではないか」と見通した。またキャンベル次官補が‘魅力的な’という修飾語を付けて包括的パッケージを提供する用意があるとしながらも、北韓に先に誠意ある措置を要求した点は北韓-米国間で調整しなければならない部分だ。彼が要求した‘北韓が取らなければならない最初の措置’の内容は知らされなかったが、追加的な状況悪化措置をしないという約束とプルトニウム再処理など核兵器化中断などになる可能性が高い。

併せてオバマ行政府が挑発的行動に対する断固たる対応という対話と圧迫の並行戦略を堅持しており、交渉局面への転換は時期尚早と見える。キャンベル次官補もこの日、米国の対北政策を制裁推進と対話摸索を併行する‘ツートラック戦略’と話した。北韓は一貫して‘制裁と対話は併行することはできない’と明らかにしたので、接点形成には時間がかかるものと見られる。

キャンベル次官補はいわゆる去る6月、韓米首脳会談に先立ちイ・ミョンバク大統領が提案したが中国の否定的姿勢のために進展が見られずにいる‘5者協議’と関連しては、「韓-米両国は適切な時点に5者会合という代案を模索してきたが、そのような会合を持つためには準備がなければならない」と話した。

イ・ヨンイン記者yyi@hani.co.kr

방한 중인 커트 캠벨 미 국무부 동아태 차관보는 19일 서울 광화문 정부종합청사 별관에서 이용준 외교통상부 차관보와 회담을 마친 뒤 “북한이 (핵과 관련해) 중대하고 불가역적인 조처를 취한다면 미국을 비롯한 관련국은 북한이 매력을 느낄 수 있는 포괄적 패키지를 제공할 수 있다는 점을 스티븐 보즈워스 대북정책 특별대표와 성김 6자회담 수석대표 등이 명백히 했다”고 강조했다. 캠벨 차관보는 “다만, (이를 위해) 북한이 정말로 첫번째 취해야 할 조처 가운데 일부를 먼저 취해야 한다”고 말했다.
힐러리 클린턴 국무장관의 미 외교협회 연설에 이은 캠벨 차관보의 이번 발언은 버락 오바마 미국 행정부의 한반도 정책 책임자들 인선이 마무리된 이후 정리된 대북 정책 기조를 담고 있는 것으로 보인다. 북-미는 최근 뉴욕접촉을 통해 의견교환을 한 것으로 알려졌으며, 이 채널을 통해 포괄적 패키지 등 이런 정책기조가 전달됐을 것으로 관측된다.

우선, 북한의 장거리 로켓 발사와 2차 핵실험 이후 미 행정부의 고위 당국자가 공식적으로 ‘포괄적 패키지’를 제공할 수 있다고 밝힌 것은 사실상 처음이다. ‘매력적인’이라는 수식어에 비춰볼 때 북한에 대한 적극적인 대화 메시지로 해석할 수 있다.

전문가들은 오바마 행정부의 ‘포괄적 패키지’ 방안은 부시 2기 행정부 때의 협상 방식에 대한 비판에서 출발하는 것으로 보고 있다. 단계적・부분적 협상을 거쳐 북한의 핵포기를 끌어내는 기존 방식은 북한의 협상 파기로 이어져 한계를 드러냈다는 것이다. 이에 따라 포괄적 패키지 방안은 모든 의제를 협상 테이블 위에 올려놓고, 북핵폐기라는 최종 목표까지 촘촘하게 시간표를 짜겠다는 것이다. 여기에는 북-미관계 정상화와 정전체제의 평화체제로의 전환, 대북 식량・에너지 제공 등이 모두 포함된다.

물론 캠벨의 발언은 아직은 ‘구상 단계’로 보인다. 정부 고위 당국자는 “아직 구체적인 내용이나 로드맵이 마련돼 있는 것은 아니다”며 “시간이 좀 걸리지 않겠냐”고 내다봤다. 또 캠벨 차관보가 ‘매력적인’이라는 수식어를 붙이며 포괄적 패키지를 제공할 용의가 있다면서도 북한에 먼저 성의있는 조처를 촉구한 점은 북-미 간 조율해야 할 부분이다. 그가 요구한 ‘북한이 취해야 할 첫번째 조처’의 내용은 알려지지 않았지만, 추가적인 상황악화 조처를 하지 않겠다는 약속과 플루토늄 재처리 등 핵무기화 중단 따위가 될 가능성이 높다.

아울러 오바마 행정부가 도발적 행동에 대한 단호한 대응이라는 대화와 압박의 병행전략을 견지하고 있어 협상국면으로의 전환은 시기상조로 보인다. 캠벨 차관보도 이날 미국의 대북 정책을 제재 추진과 대화 모색을 병행하는 ‘투트랙 전략’이라고 말했다. 북한은 일관되게 ‘제재와 대화는 병행할 수 없다’고 밝혀왔기 때문에 접점 형성에 시간이 걸릴 것으로 보인다.

캠벨 차관보는 이른바 지난 6월 한미정상회담에 앞서 이명박 대통령이 내놓았으나 중국의 부정적 자세로 진전을 보지 못하고 있는 ‘5자 협의’와 관련해선, “한-미 양국은 적절한 시점에 5자 회동이라는 대안을 모색해왔지만 그런 회동을 갖기 위해서는 준비가 있어야 한다”고 말했다.

이용인 기자 yyi@hani.co.kr

【新聞記事】 ロイター(日本与党終焉)

Reports of Japan ruling party demise exaggerated
Mon Jul 20, 2009 1:31am EDT Email | Print | Share | Reprints | Single Page [-] Text [+]
By Linda Sieg - Analysis

TOKYO (Reuters) - Betrayals by allies, plots to oust the premier and the risk of more chaos to come: Japan's ruling Liberal Democrats look a lot like a party in its death throes ahead of an election that polls show they are likely to lose.

But a stint in the opposition wilderness may be just what the long-ruling Liberal Democratic Party (LDP) needs to reemerge as a formidable challenger in a modern-style, two-party system where parties compete based on policies.

Surveys suggest the LDP, in power for all but 10 months since its founding in 1955, is likely to lose an August 30 poll that unpopular Prime Minister Taro Aso is set to call on Tuesday.

Aso, the 68-year-old grandson of a prime minister, fought off a rebellion by LDP critics last week, but the image of bitter bickering lingers among voters worried about Japan's worst recession in 60 years.

A victory by the opposition Democratic Party of Japan (DPJ) would usher in a government pledged to focus more on the interests of individual consumers and workers than the organized groups of builders, farmers and businesses patronized by the LDP.

Forecasts of defeat have prompted speculation that the LDP will fracture, sparking a rejig of Japan's political landscape.

Purists have long argued that realignment was needed for policy clarity, since the LDP and Democrats are both home to lawmakers with diverse views on key matters such as security and the proper role of government in managing the economy.

Many analysts, though, expect the LDP to survive.

"The LDP is not going to look like the Christian Democrats in Italy, who fell apart and never got their act together," said Chuo University Professor Steven Reed.

"I'd be willing to make a large wager that 10 years from now, there will be an LDP and a DPJ as the two main parties."

How fast the LDP could rebound from defeat is an open question. Should the party lose in the coming lower house poll, its next chance to woo voters would come in an election for half the seats in the less powerful upper chamber in mid-2010.

A victory there would not restore the party to power, but could recreate in reverse the deadlock that has existed since 2007, when the Democrats and small allies won control of the upper house, allowing them to delay bills and stymie policies.

FAILURE TO ADAPT

Analysts say that could happen, but more likely because of Democratic Party slip-ups than a true recovery by the LDP.

Others warn against making light of a defeated LDP's ability to regroup and make trouble for a Democratic Party government.

"I think very quickly they will be united in opposition," said Brad Glosserman, director of research at think tank Pacific Forum CSIS. "They'll be a very, very obstructionist party."

The LDP has been on the ropes before.

The party split and was replaced by reformist coalition in 1993, only to return to power the next year in an odd-couple partnership with its former arch rival, the Socialist Party.

Many figured the LDP was headed for a poor showing in 2005 when maverick Junichiro Koizumi called an election, ejecting party rebels who opposed his plan to privatize the postal system.

Instead, the charismatic Koizumi led the LDP to a massive victory on a platform promising reforms.

Japanese voters' aversion to risk and LDP attacks on the Democrats as soft on security, irresponsible on spending and tainted by funding scandals make certain predictions dodgy.

But defeat looks hard to avoid after decades of changes that have eroded the LDP's old-style machine.

Koizumi prolonged the LDP's grip on power with modern methods including a coherent platform, top-down leadership and appeals to independents, but the party seems to have ignored the lesson.

"Koizumi understood, but he was so isolated and after he won, he kind of threw in the towel and the party went backwards," said Gerry Curtis, a Columbia University professor and Japan expert.

Behind the LDP's decline is a shift in the economic and social forces that supported its half-century grip on power.

Where once politicians' main task was to carve up an expanding economic pie, now they must allocate the burden of supporting a fast-aging, shrinking population.

With public debt swollen to nearly 170 percent of gross domestic product, scope for the politics of pork has declined.

In addition, the cohesion of rural communities that formed the LDP's strongest base has frayed.

Ironically, a big defeat could make it easier for the LDP to change, since many of the old guard are likely to lose their seats. "The organized groups can't deliver because people's values and interests have become more pluralistic," Curtis said.

"They (the LDP) have to adapt if they want to come back."

(Editing by Nick Macfie)

日本与党終焉のレポートは誇張されました。
2009年7月20日月曜日の東部夏時間午前1時31分に、メールしてください。| 印刷| シェア| 増刷| シングルが-テキストを呼び出す、リンダ・シーグ、分析による+

東京(ロイター)--同盟国による裏切り、首相を追い出すための陰謀、および来るより多くのカオスの危険: 日本の支配的な自由民主党員は選挙の前の投票が損をしそうであるのをそれらに示している死亡苦しみでパーティーに大いに似ています。

しかし、反対荒野の中の任務はあなどりがたい挑戦者として現代式(パーティーが政策に基づいて競争している二大政党制)でちょうど何を再出現するかという長い与党自民党(LDP)が、必要があることであるかもしれません。

調査は、1955年の設立だけにおいて、政権を握っている自民党を火曜日の不人気な首相麻生太郎が訪問するように用意ができている8月30日の投票を失いそうであると示唆します。

阿蘇(首相の68歳の孫息子)は、先週、自民党の評論家による反逆を撃退しましたが、苦い口論のイメージは60年後に日本の最も悪い不況が心配な有権者の中に長居します。

反対民主党(DPJ)による勝利は自民党によって後援された、建築業者、農業者、およびビジネスの組織化されたグループより個別消費者と労働者の関心の焦点に誓約された政府の到来を告げるでしょう。

敗北の予測は日本の政治情勢の手直しをかきたてて、自民党が破砕するという思惑をうながしました。

自民党と民主党員がともに多様な考え方がオンの議員への家であるので、純粋主義者は、長い間、再編成が政策明快に必要であったと主張していて、キーはセキュリティや政府の適切な役割のように経済を管理するのにおいて重要です。

もっとも、多くのアナリストが、自民党が生き残ると予想します。

「自民党はバラバラに壊れて、決してうまくやらなかったイタリアでキリスト教民主勢力に似ていないでしょう。」と、中央大学教授スティーブン・リードは言いました。

「私は、現在その10年間大きい賭けを作るでしょう、2メインがパーティーへ行くので、自民党とDPJがあるでしょう。」

自民党がどれくらい速く敗北からはね返ることができたかは、未決問題です。 パーティーが次の下院投票で損をするなら、有権者に言い寄る次の機会は、2010年中頃にそれほど強力でない上院で席の半分のための選挙に入るでしょう。

そこでの勝利は、パーティーをパワーに回復しないでしょうが、逆であり民主党員と小さい同盟国が上院のコントロールに勝った2007年以来存在している行き詰まりを休養させるかもしれません、彼らが請求書を遅らせて、政策を邪魔するのを許容して。

適合しないこと

アナリストは、しかし、それが民主党の不手際のため自民党による本当の回復よりおそらく起こることができたと言います。

他のものは、民主党政府のために問題を再編成して、起こす破られた自民党の能力をからかわないように警告します。
「私は、非常にすぐに、彼らが反対して結合すると思います。」と、ブラッドGlosserman(シンクタンクの太平洋のForum CSISでの研究のディレクター)は言いました。 「彼らがいる、非常に、議事妨害者パーティー、」

自民党は以前、打ちのめされたことがあります。

パーティーは分かれて、1993年に革新主義者連合に取り替えましたが、翌年元アーチライバルとの変なカップルパートナーシップで権力に返り咲いた、社会党。

多くが、自民党が一匹おおかみ小泉純一郎が選挙を指示した2005年の不十分な表示に向かったのを計算しました、郵便の制度を民営化する彼の計画に反対したパーティーの反逆者を追放して。

代わりに、カリスマ的な小泉は、改革を約束しながら、プラットホームで大きな勝利に自民党を率いました。

セキュリティに柔らかい、支出で無責任である汚れるとしてのスキャンダルに資金を供給するのによる民主党員に対する日本人の有権者の危険回避と自民党の攻撃で、ある予測は巧妙になります。

しかし、敗北は自民党の古いスタイルマシンを浸食した何10年間もの変化の後に避けにくいように見えます。

小泉は現代の方法が一貫性を持っているプラットホーム、トップダウン型の指導力、および独立者への上告を含んでいる自民党の政権掌握を長引かせましたが、パーティーは、レッスンを無視したように思えます。

「小泉は分かりましたが、彼はとても孤立していました、そして、勝った後に、彼は、ちょっと降参しました、そして、パーティーは後方に行きました。」と、ゲリー・カーティス、コロンビア大学教授、および日本の専門家は言いました。

後ろでは、自民党の衰退は半世紀政権掌握を支持した経済的、そして、社会的な力においてシフトです。

かつての政治家の主なタスクが拡張経済パイを分割したことであるところに、今、彼らは速く年をとって、縮まる人口を支持する負担を割り当てなければなりません。

公債がおよそ170パーセントの国民総生産まで膨らんでいて、補助金獲得の政治のための範囲は低下しました。

さらに、自民党の最も強いベースを形成する村落の結合は擦り切れました。

皮肉にも、大敗北で自民党を変更されるのが、より簡単になるかもしれません、守旧勢力の多くがそれらの議席をなくしそうであるので。 「人々の値と関心が、より多元的になったので、組織化されたグループは配送されることができません。」と、カーティスは言いました。

「彼らが戻りたいなら、適合しなければなりません。」

(ニックMacfieで、編集します)