2005年9月28日水曜日

【マスメデイア】 電通研究

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電通の研究part.1

メディアの支配者

世間に禁忌は数あれど、「電通」ほどマスコミが避けて通るものは稀有なのではないでしょうか。この電通タブーの特徴は、普段はかなり危ない話を取り上げる週刊誌でも、殆ど記事にしないことです。

そのため、電通は、誰しも「名前は聞いたことがある」大企業にもかかわらず、その実態を知るものは極めて少数となっています。

しかしながら、電通タブーをかいくぐって、世間でまことしやかに語られる噂があります、それは「電通がマスコミに対して決定的支配力を持ち、政府と結託して世論操作に邁進している」というものです。そんな噂はどこまで事実なのでしょうか。まっとうに考えれば、広告代理店がテレビやクライアントを上回る力を持つというのは俄かに信じ難いものがあります。

そこで、電通の本社に目を移してみましょう。電通の本社は、開発目覚しい新橋・汐留地区の中核に位置する48階建の複合超高層ビル、カレッタ汐留にあります。電通ビルの通称で呼ばれるこのビルは鋭利なシルエットで広く知られている、汐留地区の新たなシンボルです。電通は同ビルの地下5階から地上45階までをオフィスとして利用しており、その他の部分は商業施設が入居しています。

電通ビルは高さで向かいの日本テレビタワーを圧倒しており、汐留地区全体でも汐留タワーに続いて2番目の高さです。広告代理店ビルが広告主やマスコミのビルより巨大であるという事実が、電通の力を物語っています。

どうやら「電通タブー」には幾許かの真実が含まれているのではないかということを強く感じさせる風景です。端的に言えば、「そこまで儲かるのか」という疑問です。

そこで本ブログでは、東京の中心・汐留に電通ビルという「富の象徴」を打ち立てた電通の資金力・支配力の源泉と、「電通タブー」の真偽を解明して行こうと思います

国家総動員体制

電通の前進となる日本広告及び電報通信社は、いずれも1901年に創業されました。両社は日清戦争に記者として従軍した経験から、日本における本格的な通信社の必要を感じていた光永星郎によって設立された姉妹会社で、日本広告が広告部門、電報通信社がニュース部門です。

電報通信社は1906年に日本電報通信社として再編された後、1907年に日本広告と合併しました。社名は変わらず日本電報通信社です。

当時広告業は新興産業であり、日本電報通信社は明治末までに業界最大の企業として確固たる足場を築きました。とはいえ、当時は広告代理店・通信社ともに各地に乱立しており、日本電報通信社はそれらの中の一大企業に過ぎませんでした。

例えば、1890年創業の萬年社や、1885年創業の博報堂は電通よりも歴史が古く、昔から新聞広告を幅広く手がけていました。

そして、もちろんそれらのなかには日本電報通信社と肩を並べる規模のものも存在していました。1926年に国際通信社と東方通信社が合併して設立された日本新聞聯合社は、当時日本電報通信社と並ぶ二大通信社と呼ばれていたのです。

しかし、この状況は満州事変後大きく変化することになります。ナチスドイツ流の産業統制である一業一社体制がもてはやされ、国家総動員の名の下で国内産業への統制が強化されて行きました。

情報という重要な産業を扱う通信社・広告代理店業は真っ先に再編の対象になりました。戦争継続には報道管制と世論操作が不可欠だからです。

日本新聞聯合社と日本電報通信社は統合再編を強いられました。具体的には、1936年に両社の通信部門は日本新聞聯合社に移管した上で社名を同盟通信社に変更する一方で、両社の広告代理店部門は日本電報通信社に移管されたのです。この再編こそが、戦後の電通の支配力を生んだ端緒となりました。

さらに太平洋戦争中にも、更なる零細通信社・代理店の強制的な再編が行われ、これによりニュース=同盟通信社、広告=日本電報通信社という独占体制が完成しました。同時期、新聞も「一県一紙運動」で整理統合が進められた。今日に至るメディアの寡占化の始まりである。

日本の情報収集の特徴として政府情報機関と記者の連携の強さがあります。

このことは戦時中の大陸でも遺憾なく発揮され、同盟通信は南方の通信機器の独占使用や対外謀略放送の任務を軍部から託され、事実上軍部の国策の手足となって大本営発表を流し続けていました。

一方で、日本電報通信社は日本電報通信社で、広告のノウハウを生かして占領地で特務機関まがいの活動を行っていたとされ、軍部と密接な動きを見せていました。

大陸で特務機関を組織していた大物としては、真っ先にフィクサー児玉誉士夫が思い出されますが、日本電報通信社・後の電通は戦時中、会社自体がフィクサー児玉と同じ事をしていたわけです。

1945年、太平洋戦争は日本の敗戦に終わります。

それでは、独占企業+フィクサーとしての同盟通信・電報通信社の支配力は、戦後どうなったのでしょうか。

電通の研究part.2

財閥解体

戦後、同盟通信と日本電報通信社は対照的な運命を辿りました。

同盟通信は、GHQに戦時中の対外放送や独占的ニュース配信を嫌気され、占領下では厳しい検閲を受けました。更に、同時期には大手新聞三社による同盟潰しの策略もあり、結局同盟通信は、1945年10月末をもって「社団法人共同通信社」と「株式会社時事通信社」に分社化されました。

旧同盟通信の事業のうち、共同通信社が新聞紙への新聞通信事業、時事通信社が一般読者への時事通信・出版事業を承継する一方、同盟の系列会社だった、通信社史刊行会・同盟通信社印刷所・同盟技術研究所・財団法人同盟育成会などは各々独立企業として同盟の傘下を離れました。

このように、同盟通信は実質的に財閥解体の憂き目に遭いました。

一方で、日本電報通信社は戦前の準特務機関としての性格を生かし、政府・GHQに食い込むことに成功します。1947年に社長が公職追放に遭い、新社長に「鬼十則」で有名な吉田秀雄が就任すると、この動きはさらに加速しました。

吉田は満州や上海から引き上げてきた、旧軍人・満鉄関係者を電通に大量に採用します。彼らは広告のノウハウを持っていたわけではなく、電通で実質的にフィクサーとしての活動を行っていました。大陸人脈や政財界との近さ、そしてCIAとの関係など、彼らはミニ児玉・ミニ笹川の集団だったと表現しても過言ではないでしょう。

電通が時として、名高い「満鉄調査部」の後身と呼ばれるのはこのような背景に基づいているのです。

この社長吉田秀雄は、戦後の「大電通」を確立させた功労者です。電通の「フィクサー化」だけに留まらず、アメリカ式広告法の導入などの、電通近代化を推し進めました。

更に電通は1951年に放送を開始した商業ラジオや、1953年に本放送が始まったテレビ放送にもいち早く着目しました。当時誰しも懐疑的だったラジオ・テレビ広告の事業開拓を行い、社長の吉田自らも免許申請を行うなど、多くのラジオ局・テレビ局の設立に関与したのです。実際、吉田は幾つかの放送局では取締役に就任しました。その中でもTBSは吉田の関与が深く、現在でも民放の中で最も電通と親密だと言われています。

結局、ラジオ・テレビ化の流れにいち早く対応できた電通、そして少し遅れて進出した博報堂が、戦後広告業界の1・2位として固定し続けることになりました。50年代始めは、現代の広告代理店業界地図の枠組みが出来上がった時期といえるでしょう。

二人の吉田

52年10月の総選挙で自由党・吉田茂首相は電通にキャンペーンを依頼。このことが発端となり、電通と吉田茂、ひいては電通と自民党の関係が深まります。これによりもともと旧軍が中心だった電通の人脈は政党政治家にも拡大し、電通は反共・安保擁護のための保守体制に組み込まれることになりました。

さらに吉田茂を介した政界浸透や、電通で採用していた旧軍人・満鉄関係者の公職追放解除に伴う政府要職復帰、コネ採用による有力者の子弟の取り込みなどにより、電通人脈は更に強力に日本中に張り巡らされました。

こうした社長吉田秀雄の人脈戦略は大きな成功を収め、電通は総理府の宣伝予算をほぼ独占することに成功します。そのことは、電通に政府のフロント企業としての性格を与えました。

電通・吉田秀雄の、日本政府・CIAとの関係は、読売新聞・正力松太郎に似ているといえるでしょう。
とは言っても、この時期は東西冷戦の下で安保闘争に見られるように、国内世論は保守・革新で激しく割れていました。

少なくとも50~60年代に関しては、電通が政府関係の宣伝を受注しているからと言って、「政府・電通の世論支配」とは程遠い状況にあったといえるでしょう。また程遠かったからこそ、政府は電通を必要としたともいえます。 

ところで、敗戦により解体された財閥は、朝鮮戦争以降の「逆コース」の中で、企業集団として徐々に復活していました。

財閥解体は1947年の第五次指定を最後として終了する一方で、1954年には三菱商事、1959年に三井物産、1952年には住友銀行が再建されるなど、一度は解体したはずの財閥系企業が続々と社名を元に戻し始めたのです。戦前の財閥は持ち株会社を核としていたのに対し、戦後の企業集団は銀行・商社を核とした融資関係とグループ内の株式持合いを基本としていました。

旧同盟通信・日本電報通信社もこの動きの例外ではなく、電通・共同通信・時事通信はお互いの株式を持ち合い、事実上のグループ再結成に動きました。

これにより電通グループは通信社事業と広告企業を束ね、再び寡占状態に復帰します。

戦争に負けてもしぶとく生き延び、かえって前よりも力を増した電通。しかし、その巨大化に伴い、社会には再び独占の弊害が生じ始めるのです。

電通の研究part.3

電通の横暴

1955年、森永乳業の粉ミルクに砒素が混入する事件が発生しました。世に言う砒素ミルク事件です。

砒素混入の原因は、牛乳を粉末化する際に安定剤として使っていた二リン酸ソーダに砒素が混ざっていたことにあり、この事件による死亡者は138人、被害者は1万人以上を数えました。

電通はクライアントだった森永を守るため報道統制を行い、後にそれが明るみに出ます。この事件において、電通は世論の激しい非難を浴びました。

なぜ電通がメディアの報道を統制できたのでしょうか。

それは、51年に新聞用紙割当統制が解除された結果、新聞紙の自由競争時代に入り、新聞社・雑誌社間の広告獲得競争が厳しくなったことに関連しています。逆説的ですが、競争が激しくなった結果として多くのメディアは電通の存在に依存し、自力での広告獲得能力を失ってしまったのです。

電通の支配力は当然雑誌にも及んでおり、現在でも電通の批判記事を出せるのは「週間金曜日」「bubka」など電通の広告に依存しない独立系の雑誌だけである。

これはどういうことかというと、電通は広告主の「宣伝」「媒体探し」「広報対策」を引き受ける一方、マスメディア側の「広告集め」「広告主対策」なども一手に引き受けていたため、そういった広告業のノウハウ・情報が一元的に電通に集まってしまったのです。そのため、新聞社の中には、朝日新聞のように電通と資本関係を結んで緊密な関係になるものまでありました。

こうなった原因は、ひとえに電通があまりにガリバーになりすぎたことにあります。さらに、関連会社の共同通信・時事通信が新聞記事のネタ元になる通信記事を配信しており、広告だけでなくニュースにおいても寡占状態にあることがこれを後押ししました。

その上、メディアは本格的なテレビ時代を迎え、徐々に放送内容への介入が当たり前のことになって行きます。1965年には大正製薬が風邪薬ショック死事件を起こし、電通がまたもや報道管制に動いたことが明らかになりましたが、今度は大きな問題にはなりませんでした。

結局のところ、これはテレビ時代に独特の現象だと思います。最近ではNHK-朝日事件(これは誤報のようですが)やオウム真理教-TBS事件、古くは田秀夫事件など、諸勢力による放送介入は枚挙に暇がありません。

活字メディアに比べて圧倒的訴求力と寡占力を持つテレビ・メディアは管制・介入の必要性が高いということなのでしょう。

このように、報道介入はテレビの普及とともに政治・企業・宗教団体などにより幅広く行われるようになったので、とりわけ電通に特有のことではありません。

世間では往々にして電通の報道介入を「世論操作」と呼んでいますが、それはあくまで「メディア対応」の一環の普通の企業活動とも言え、その評価は難しいところです。

国策ビジネス

1964年、電通は東京五輪の広告主の協賛活動の支援を行い、国策イベントたるオリンピックに深く関与しました。電通はこの経験によってスポーツビジネスの可能性を開拓。80年のロスオリンピック以降、五輪そのものが商業化したことと併せて、スポーツビジネスを確立させました。

1997年の冬季オリンピックでも、電通は逮捕された西武の堤・元会長とともに長野五輪誘致に奔走したのは記憶に新しいところです。

ここで電通が諸権利を有するスポーツ大会の一部を見てみましょう。 (参考1) この図表を見る限り、電通はオリンピック、ワールドカップ、アジア大会、世界陸上、世界水泳など、テレビ放映している主だったスポーツ大会はほとんどカバーしています。

ソ連がスポーツに力を入れていたり、ヒトラーがベルリンオリンピックを開催したことからわかるように、スポーツは高度に政治的なイベントです。スポーツ大会への関与は電通と政府の関係をますます強固にしました。

とりわけ、電通が2002年のワールドカップに参加したことは、電通と韓国キャンペーンの開始の端緒として注目に値するところです。

一方で、電通は博覧会という新たなイベントにも関与を深めました。1970年大阪万博を皮切りに、電通は沖縄海洋博覧会・つくば科学万博・大阪花博に参画。直近では愛知万博も電通が取り仕切りました。

愛知万博(愛・地球博)は一応成功裏に終わったことになっていますが、この成功の背景には「電通」と「トヨタ」の二大企業のタッグがありました。

ご存知のように報道管制力を持つ電通と、巨額の広告費を持ち批判はクライアントタブーであるトヨタ自動車が組めば、マスコミは完全に黙ります。実際、期間中には万博への批判的意見は完全に鳴りを潜めていました。

EXPO 2005 愛・地球博

こうした、大規模イベント開催は電通の新たなビジネスの柱となりました。大規模イベントはほぼ例外なく、国・地方自治体・民間企業力をあわせての開催です。電通の国策色はますます強まっていきました。

そんななか、電通は1973年についに取扱高世界一を達成し、1975年には取扱高が3000億円を突破。高度成長の風を受け、電通は名実ともに巨大資本としてマスコミ界に君臨したのです。

ところで、話は少し戻って1970年。東京オリンピック・大阪万博を終えた日本に一人の天才政治家が現れました。この男の首相就任によって、日本のマスコミのあり方は大きく変容することになります。

電通の研究part.4

帰ってください、記者の諸君 「僕は国民に直接話したい。新聞になると、文字になると違うからね。僕は残念ながら、そこで新聞を、さっきも言った様に、偏向的な新聞は嫌い、大嫌いなんだ。だから直接、国民に話したいんだ。テレビを大事にする。そういう意味でね、直接話をしたい。これ、ダメじゃない。やり直そうよ。帰ってください。記者の諸君。」

現職首相の「記者は出て行け」発言に、並みいる新聞記者は席を立ち、後にはテレビカメラとクルーだけが残りました。

これは1972年6月、佐藤栄作首相の引退記者会見の様子です。

佐藤は7年8カ月に渡った長期政権に終止符を打ち、首相の座を降りました。佐藤栄作はその長期政権ゆえにマスコミからの批判も絶えず、その在任中はマスコミとの軋轢が絶えませんでした。佐藤の恨みは、こうして辞任の記者会見で爆発することになったのです。

この頃、多くの新聞は反政府的な論調をとり、リベラルを謳っていました。そのため、時として新聞は自民党の政治家と骨肉の争いを繰り広げました。佐藤栄作が新聞を嫌った理由はこの点に尽きます。

一方で、テレビは電波法を盾とした政治介入や、免許制の特性などにより、良くも悪くも権力と緊密な関係にありました。もちろん、テレビもはじめから政治権力に従順だったわけではありません。1960年代、ベトナムや学生運動などのテレビ報道を巡って田秀夫事件・TBS事件など様々な事件が生じ、テレビ-政治のいざこざの末にテレビが一歩引いた形になったのです。

このテレビ統制の裏で暗躍したのは、佐藤内閣で大蔵大臣・通産大臣を務めた田中角栄でした。マスコミ統制の必要さを天性の政治センスで感じていた角栄は、マスコミに対してアメとムチによる懐柔策をとり続けていたのです。

田中角栄は1972年に佐藤の後を受け首相の座に着くと、懸案であった活字メディアの懐柔に乗り出します。有名な「軽井沢事件」や、新聞-テレビ局の資本ねじれの整理などを行い、角栄は新聞を含めたマスコミをアメとムチでがんじがらめにして行きました。

角栄のメディア懐柔策には、マスコミのクライアント・タブーの弱点に着目した広告出稿戦略も含まれていました。

電通はこのことに目を付け、1972年に第九連絡局を立ち上げ、政府関連の広報予算獲得に奔走します。電通の主目的は「B層」を可能な限り増やすというのが基本戦略です。


もともと国策企業としての政府との距離の近さもあり、電通は総理府・自民党の広報予算の多くを獲得すること成功しました。中でも、とりわけ自民党の広報予算は電通が独占的に受注することになります。
いわゆる「政府広報」などの御用広告のこと。他に、1971年設立の公共広告機構(AC)も政府関連。

この時期までには、電通は自民党の選挙運動も請け負うようになりました。電通はますます権力との癒着を深めて行ったのです。

麻生の時も「オタク層」や「オタク予備軍」をこの「B層」に加え、麻生自民党に投票させるという基本戦略は変わりません。ただ「いかにも劇場選挙」というしらじらしい方法ではもはや効果がないのは明らかなので、今度は「ジワジワ」と麻生のプラスイメージの映像を流す、という戦略に入ります。

なぜ電通、そして今回の筋書きを書いている黒幕がこんなに手のこんだことをするのか。一体なぜここまでして自民党に勝たせようとするのか。

実は電通も今回の黒幕も今度の選挙は民主党に勝たれては絶対に困る事情があるのです。その最大の理由は民主党代表の小沢一郎という人物の存在です。

この小沢一郎、かの田中角栄の秘蔵っ子として有名ですが、田中角栄が自分のノウハウを全て教え込んだ政治家でもあります。実はこの田中角栄はメデイアのコントロールの達人でした。

更に自民党が広告出稿により電通を抑えたことは、政府のメディア戦略上大きな意義がありました。これにより新聞を抑えただけでなく、記者クラブ制度では押さえが利かなかった雑誌・週刊誌メディアへも政府が間接的に影響力を行使できるようになったのです。

マスコミいまだ死なず

田中角栄の絶頂期、マスコミは角栄を「平民宰相」として称賛していました。これはまさに角栄流のメディアコントロールの成果といえるでしょう。しかし、力で抑えた権力は崩れるのも早いものです。

1974年、文芸春秋11月号に乗った二本の記事が瞬時に田中政権を打ち倒しました。一本は立花隆「田中角栄研究~その金脈と人脈」、もう一本が児玉隆也「淋しき越山会の女王―もう一つの田中角栄論」です。

この記事が口火となり、抑えていたはずのマスコミは、角栄に対して火を噴きました。角栄の金脈問題に世論の批判が集中。1974年10月26日には田中内閣が退陣に追い込まれます。

この一件は、マスコミの性質を端的に表しています。マスコミは普段は権力による支配・介入を受け入れても、いざ報道の口火が切られればタブーは氷解し、雪崩式の報道を行うのです。

マスコミのこの性質を理解しないと電通問題の理解は難しいでしょう。普段マスコミは、クライアント・電通のタッグによる不祥事隠しや、自民党・電通のタッグによるプロパガンダを甘受しているかも知れませんが、必ずしも彼らに従順なわけではないのです。

更に、角栄式メディア支配は彼に属人的な性質も強く、田中角栄失脚後は政府のメディア支配力が急低下しました。

もちろん、官庁ソースに頼るマスコミの報道姿勢は大問題ですし、クライアントタブーの強固さを物語る事例には事欠きませんが、これをもって「日本マスコミは政府・電通の支配下にある」と断ずるのも早計だと考えられます。

そもそも自民党内や与野党間、はては省庁間の政争もそれぞれに新聞がついて複雑な背景の下、報道がなされています。大元になる「政府」自体が一枚岩でない以上、自ずとメディアコントロールにも限界があるというものです。

例えば、テレ朝報道局長の発言が問題になった椿事件を取り上げてみましょう。この事件は時に「言論介入事件」と指摘されていますが、事の真相はもっと単純です。椿氏の発言がリークされたのは自民擁護派=産経・読売、細川政権派=朝日の路線対立が表面化した結果であり、要するにただの権力闘争なのです。

電通・自民党のマスコミ支配力。それは「あるようでない」「ないようである」という複雑な性質を持っています。

電通の研究part.5

第二の国策企業

東急エージェンシーという会社があります。設立は1961年。後発企業ながら、現在広告代理店業界4位の地位を保っています。東急エージェンシーは、東急グループ総帥五島昇の肝煎りで設立された経緯があり、膨大なグループ企業の仕事を引き受けて急速に発展したのです。

この東急グループ、そして東急エージェンシーこそが、80年代日本の立役者の一人でした。

80年代当時、日本には「六大企業集団」と呼ばれる準財閥がありました。六大とは通常、三井・三菱・住友・芙蓉・一勧・三和の6つを指します。

六大企業集団概観

(1980年代時点)

集団名 銀行 商社 主要企業
三菱 三菱銀行 三菱商事 三菱重工
三井 三井銀行 三井物産 東芝
住友 住友銀行 住友商事 NEC
芙蓉 富士銀行 丸紅 安田火災
一勧 第一勧銀 伊藤忠 古川電工
三和 三和銀行 日商岩井 積水ハウス

当時東急グループはライバル西武と共に第七の企業集団を目指して躍進を続けていました。更に総帥五島昇は日本商工会議所会頭まで務め、東急グループの財界での地位も確固たるものになりました。東急グループ初代総帥五島慶太は、乗っ取りを辞さないその強引な経営姿勢を「強盗慶太」と揶揄されていた。一方で、五島昇はそういった手法を嫌った。

東急グループの隆盛の要因は、総帥五島昇と当時の首相中曽根康弘の個人的コネクションにありました。二人は東京帝国大学の同級生で、中曽根政権時代、多くの政治関連案件が東急グループに持ち込まれたのです。中曽根内閣の目玉の一つだった「建国記念の日を祝う式典」への首相出席でも、五島昇は建国記念の日を祝う会会長として中曽根を助けました。

更に中曽根は行財政改革推進アピールの依頼先として東急エージェンシーを選び、様々な活動を行わせました。その中には官製圧力団体・デモによる改革推進の訴えかけや、出版活動による世論誘導も含まれていました。例えば、東急エージェンシーは御用評論家である竹村健一に「改訂版・前川レポートの正しい読み方」なる本を自社から出版させたりしています。

それでは東急エージェンシーの躍進の前で電通は何をしていたのでしょうか。

実は東急エージェンシーはさほど電通の脅威にはなりませんでした。その理由は、東急エージェンシーの業務範囲にあります。東急エージェンシーの売り上げの半分はSP(販売促進)関連であり、電通が主力としている四媒体(テレビ・ラジオ・新聞・雑誌)の広告には必ずしも積極的ではなかったのです。

また、電通が連絡局を介して官僚から仕事を取るのに対して、東急エージェンシーは首脳間のやり取りに負うところが大きい受注の構造でした。そのため1987年に中曽根が首相を退き、89年に五島昇が死去すると東急エージェンシーは再び政治宣伝の一線を退くことになるのです。

ちなみに現在では、中曽根は電通の顧問に納まっています。

少し古いデーターだが03年度の広告宣伝費上位をいくつか並べます。

1.トヨタ自動車(949億円)
2.松下電器産業(667億円)
3.本田技研工業(592億円)
4.花王(588億円)
5.KDDI(550億円)
6.日産自動車(430億円)
7.サントリー(333億円)
8.アサヒビール(312億円)
9.ベネッセコーポレーション(307億円)
10.高島屋(302億円)
11.スズキ(301億円)
12.キリンビール(300億円)
13.イトーヨーカ堂(298億円)
14.シャープ(293億円)
15.キャノン(292億円)
16.イオン(289億円)
17.富士重工業(271億円)
18.マツダ(235億円)
19.三越(229億円)
20.セブンイレブンジャパン(228億円)

※ 三菱自動車が02年度は約400億円で7位だったが、03年度には100位にも入っていないとのこと。


広告代理店は、これら企業から企画費、制作費、報酬などを受け取る。そしてメディアに広告料金を払う一方で、取引手数料として報酬を受ける。(電通社員の平均年収は、40歳で1300万円強)

03年、ホンダ、日本マクドナルドという企業が、博報堂・ADKなどの複数社の扱いから、事実上、電通の一手扱いになった。ホンダを電通にとられた博報堂では「ホンダチーム」が解体された。また、04年には、セブンイレブン・ジャパンが、東急エージェンシーから電通に移った。


さて、電通の“天皇”が成田豊という人物。1993年から社長・会長を歴任し、電通の株式上場、新社屋建設などを成し遂げ、02年まで電通の代表取締役会長を務めたのち、現在は電通グループの会長と電通の最高顧問を務めている。成田はTBSの役員でもある。

下記の図は、2009年の媒体別の売上である

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ガリバーの肖像

電通第9代社長、成田豊は通称「電通の天皇」として知られています。成田は1993年から電通の社長・会長・最高顧問を歴任した辣腕経営者で、2001年に電通上場を果たし、汐留に新社屋を建設するなど現在の電通の一段の隆盛に一役買っています。

情報化・ソフト化に対応し、成田は電通の総合的なマーケティングコミュニケーション化を推進しました。これは端的に言うと、CMだけに依存しない広告代理店作りであり、その先進性は高く評価されています。

一方で、成田時代の電通では色々な問題が吹き出ました。

有名なところでは、99年の噂の真相にも掲載された暴力団との関係です。内容は電通の孫会社が暴力団と共同でイベント会社を設立したというもので、設立に当たって電通幹部の関与があったことが囁かれました。また、山口組との関係が取りざたされるバーニングプロダクションも電通がバックにあると指摘されています。

さらに、社内では麻薬・レイプ・過労死などの問題が定期的に持ち上がり、その体質が一部に問題視されるなどしています。

しかし、電通のメディア支配力は近年さらに強化されているのでこうした問題はあまり語られることはありません。というのも、90年代には電通のメディア支配力の源泉は前述の広告斡旋だけでなく、視聴率も含まれるようになったからです。


90年前後に確立した視聴率至上主義の番組構成は、電通の意向があったと言われています。視聴率調査会社ビデオリサーチは電通の子会社なので、電通は視聴率を掌握することにより間接的に番組操作が可能になるのです。これにより、電通のメディア支配は一段と強化されました。

こうして民間商業言論ベースでは、電通は完璧に近い支配体制を敷いたので、平時には電通の不利なニュースが喧伝されることはほとんどなくなりました。

「コネ入社」で有名な電通社員には、経済界・政界・マスコミ・文化人・皇族など各界の幹部・著名人・重鎮の子息がズラリと並ぶようだ。

例えば、サラ金広告解禁に当たって、水面下で電通の武富士への助力があったことなどはほとんど報道されていないことが象徴的でしょう。


86年4月にテレビ東京が踏み切ったのをきっかけに、各放送局が自粛していた消費者金融の広告・放送が解禁された。最後まで自粛していたTBSも2001年から流している。新聞でも、最後まで抵抗していた朝日新聞が結局は解禁した(このときの電通側の人物が成田豊)。

消費者金融の最大手である「武富士」の年間広告費は、02年度が151億円もある。この大半を電通が取り扱っている。電通の“天皇”成田と、武富士の創業者である“天皇”武井保雄は、一緒にゴルフをする仲である。
ここ数年は、テレビを観ていてコマーシャルになると、消費者金融のコマーシャルが溢れているが、その背景には電通がいるという「当たり前」のことを読み取って欲しい。


武富士は、武井会長が盗聴で 有罪確定となる前から、1部のマスコミに「盗聴疑惑」で叩かれたが、電通は「武富士報道潰し」に動いていた。03年初めころ武井に頼まれた成田は、4月に電通から数人を武富士に送ったという。

しかし、03年12月2日に武井が逮捕されたことによって、武富士のCM放送中止が相次ぎ、在京の民放各局は同日2日、広告代理店などの要請で、同社CMの放送を当面取りやめる方針を相次いで決め、同日以降のCMを差し替えた。武富士側も、世間を騒がせたとして、しばらくの間、新聞広告やテレビCMを自粛すると発表した。

最近になってどうやらこの武富士のCM自粛も解禁され、再び放送されることがすでに社内では決定しているらしい。で、これを許したのが、奥田が会長を務める日本経団連という構図みたいだ。武富士が使う莫大な広告費を扱うのが電通なのだから、ここに電通の影が私には見える。

ジャーナリスト宅盗聴事件に端を発する一連の事件。警視庁の幹部が武富士から商品券を受け取っていたとの疑惑が報道されたが、立ち消えになった。武富士は電通の有力クライアント。

これも警察庁の意向あってこそです。電通が国策プロパガンダの片棒を担いでいることは間違いありませんが、その力は巷で噂されるほど絶対的なものではないのかもしれません。


さて、04年8月20日、東京の築地本願寺で田原総一郎の妻の通夜が営まれていた。ここには小泉首相をはじめとする政財界の有名人、「サンデープロジェクト」の出演者などがかけつけていた。もちろん“電通の天皇”成田豊の姿もあった。しかし成田の場合は、この葬儀を仕切る「葬儀委員長」として築地本願寺にいたのであった。つまりこれは、田原総一郎と成田豊は親密な関係であるということなんだろう。

田原は次のように言っている。

「成田さんには僕が頼んだ。なぜかというと、顔が広いから。まさか政治家に頼むわけにはいかないし、いろいろな人が来た時に、彼ならみんな知っているだろうし、あいさつができる人がいいと思って頼んだ。ただし電通で来たのは成田さんだけ。具体的に仕切ったのはテレビ朝日のスタッフだった」


テレ朝といえば「ニュースステーション」が思い浮かぶが、この番組のスポンサー獲得も、全面的に電通が行なっているようだ。

あらゆる番組で、電通がスポンサーを獲得・手当てし、視聴率の分析を行ない、スポットCMを売り、基本構想をつくるという図である。

各局の広告収入における、電通の占有率を見ると、TBS、テレビ朝日、日本テレビ、テレビ東京、フジテレビという順番になっている。各キー局単体の売上高に占める割合は、TBS・日本テレビ・テレビ朝日は40%を上回り、フジテレビでも33.4%になるという。この収益構造からして、民放テレビは実質的に電通の支配下にある、と。博報堂ですら、電通の半分から3分の1にすぎないらしい。

電通の研究part.6

ヨン様と金大中
いよいよ最終回を迎えた電通の研究。今回は最近の電通の動きを見たうえで、日本における電通の意義についてまとめてみます。

最近の電通というと、忘れてはならないのが例の「韓流ブーム」騒動です。

あらかじめ述べておくと、現在の日本では誰かの意図で韓国寄りの報道が行われているということ間違いないでしょう。というのは、2002年のワールドカップ韓国-イタリア戦の判定の件や、2003年の玄界灘海難事故の報道をみても明瞭なように、昨今の日本マスコミでは対韓報道に腰が引けていることは観測的な経験からほぼ確実だからです。

されども、これは即「売国」「言論統制」「電通の陰謀」を意味するものではありません。

左派の論者が再三指摘しているように対アメリカ報道とりわけイラク戦争に関しては、日本のマスコミもかなり遠慮した報道をしていました。外交関係に配慮した言論規制は珍しくもなんともないのです。

つまり、ここで問題の核となるのは、事実の存否やその是非ではなく、「誰が」「なぜ」仕組んでいるのかということです。果たして電通は本当の仕掛け人なのでしょうか。

そこで、対韓報道規制の経緯と現状を検証してみます。

歴史的に対韓報道規制の淵源は、右翼にありました。かつて児玉誉士夫や瀬島龍三らがODA利権に食い込んでいたことや、自民党保守派が、統一教会・韓国軍事政権と緊密であることにより日本韓国の政界では特殊な癒着関係が長年続いていたからです。

現在では左派=韓国寄り、右派=嫌韓という構造ができていますが、もともとは左派=北朝鮮支持、右派=韓国支持という構造があったことを理解する必要があるでしょう。

よって、日本の政界保守層の中には親韓の基盤が元々存在するのです。

その上で、98年の小渕-金大中会談による関係改善が国策としての親韓政策を後押ししました。このときに、日本政府は韓国から反日政策放棄・大衆文化開放を引き出すことに成功しています。

この成功の背景の一つには、アジア通貨危機による韓国の窮状がありました。しかし実はもう一点、両政府は、韓国が日本の大衆文化を開放することと、日本が親韓政策をとることの間で妥協をなしたという説もあります。

思えば、国内で韓国寄りの報道が過熱したのはこのころだったと思われます。ある程度信憑性がある話なのではないでしょうか。

電通は、2002年に日韓共催のワールドカップを仕切り、2005年の日韓友情年にむけてメディアミックス的戦略によって「韓流ブーム」を盛り上げるなどしました。日韓友情年の副委員長が電通の成田豊であることからもこれを窺い知ることができます。ちなみに委員長は平山郁夫画伯。日韓友情年の実務担当は外務省である。平山氏は外務省の御用画伯であり、平山氏の絵は外務省の至る所で飾ってある。


以上の経緯を見ると、この話は始めの日韓政府間の合意ありきで、電通はただのアピールの下請けに過ぎないことがわかります。その証拠に、一般に電通の支配力が及ばないとされるNHKでも「韓流ブーム」は強調されていました。冬のソナタを最初に放送したのが象徴的です。

市場の失敗
少なくとも、電通はいままで本ブログで取り上げてきた新興宗教・ヤクザ・右翼のようにそれ自体がひとつの政治的スタンスを持って能動的に政治に影響を与える存在ではありません。

ゲッペルスが近代的なプロパガンダの有用性に着目して幾十年。先進国では政治に代理店が絡むのは当たり前のことです。電通が政治宣伝にかかわること自体が問題なのではないのです。

他の報道介入・不祥事もみ消しの件にも言えることですが、電通は別に陰謀を持ってなにやら怪しいことをしているのではなく、代理店としてまっとうな対応をしているだけです。たとえば、代理店間の広告獲得競争は意外なほどフェアーである。コンペ方式が主流で、小さな代理店でも広告獲得が可能。電通の独占は実力の色彩も強い。


ところが、寡占市場における過度の支配力によって結果としていろいろ社会問題が惹起されていると考えるのが公平でしょう。実際、2004年の電通の連結売上高は1兆9104億円に達しています。

電通問題とは、電通が「大きすぎて宣伝が効きすぎてしまう」ことが本質なのでしょう。

田中角栄の秘蔵っこだった小沢一郎が政治と電通の癒着、絡み方は当然ながら熟知しておりおそらく小泉政権の劇場選挙のカラクリも当然見抜いているでしょう。しかもタウンミーテイングやその他のメデイア戦略にはかなり不透明な金の流れがあり、民主党が政権をとればそこにメスが入れられるのはまず間違いありません。となると、電通や黒幕の数々の陰謀も明らかにされ、逮捕者も出る可能性があります。そうなればいかに電通といえども抑える術ががありません。また電通が数々の陰謀に深く関った動かぬ証拠が明らかになると、いかに電通といえども多くのスポンサーが離れることも予想され、そうなると今まで押さえつけられたマスコミはその刃を自分たちに向ける可能性すらあります。

まあ、そこまで行かなくとも最低でもここ十年くらい裏で行われていたことが全て水泡に帰す可能性が高いといえます。これは今回の陰謀を推進している人間にとっては絶対に避けなければならないシナリオです。

今の日本の政治やメデイア、マスコミの膿を出すことをできるのは今日本の政治の世界では小沢一郎しかいないのも事実です。

そのため今回、電通や黒幕は場合によっては非常手段に打って出る可能性も排除できません。実は今までの陰謀の動きには単に政治家やメデイアだけではなく、いわゆる暴力団のような裏社会やアメリカCIAの影がちらついています。特にCIAは間違いなく電通からみの陰謀にかなり深く関っているのはまず間違いないです。しかし残念ながらどういう風に関り方をしているか、どこに証拠を挙げられるかというと、残念ながら私にはそれを見つける力がありません。

しかし私が恐怖を感じているのは電通も今回の黒幕も場合によっては小沢一郎抹殺というテロの手段も排除しない、と思えるからです。(現実に2009年の西松事件から、世田谷の土地問題と連日、小沢バッシングが続いている)


なにやら灰色の結論ですが、この電通はあくまで捉え方次第の相対性を持つ多面的な企業だということを示しています。

では現実に、電通の力とはなんなのでしょう。

電通は、日本の全テレビ・コマーシャルの三分の一の直接責任者であり、ゴールデンタイムのスポンサーの割り振りに関して実質的に独占的決定権をもつ。約120の映像プロダクション、400以上のグラフィック・アート・スタジオがその傘下にある。午後7時~11時の時間帯の番組にコマーシャルを出したい広告主は、電通を通すしかない。スポンサーの選定と放送番組の内容の大部分を電通が握っているからだ。

日本では、扱い高が即、政治力になるので、電通はこうした役割〔事実上の編成局〕を演じられるのである。


電通が、これほど無敵の存在になれたのはその人脈のおかげである。同社の社員採用方針でつねに目指してきたのは、テレビ界や出版界のトップ・クラスの管理者や幹部役員、および特別な広告主、プロの黒幕などの息子たちや近親者からなる人材プールを維持拡充することであった。〔略〕彼らを指して、大きなスポンサーと良好な関係を保つための「人質」だとは、電通のある役員がたとえ話に言ったことばである。<略>



 電通のもう一つの機能は、官僚および自民党のPR活動をしたり、《世論調査》を通して国民の《伝統的な価値》を支えることである。電通は、総理府及び自民党が必要な情報を収集し、偏った意見調査を通して《世論》を作り上げる手伝いをする。自民党の選挙キャンペーンというもっとも手のこんだ部門は、電通が引き受けている。原子力発電所の安全性の宣伝や、さまざまな省庁の企画に関する宣伝なども扱っている。1970年代後半に、一連の野党系市長や知事を退陣させる政治的策動をとりまとめ、政治的に重大な地方消費者運動や反公害運動に対抗する反キャンペーンを展開したのも、電通である。

 このような官庁および自民党のための仕事は、主に電通の《第九連絡局》でおこなわれ、ここには、建設省、運輸省、農水省、郵政省、文部省、大蔵省、総理府の各省を担当する別々の課がある。公式には民営化されたが実際には以前とほとんど変わっていないNTTやJRなどの公共企業も、この局が扱っている。この第九連絡局は、総理府の広報予算の三分の一以上、他の省庁の同四〇パーセントを吸収する〔原注3〕。また、自民党の広報宣伝予算についても、電通が独占に近い形で自由に使っている。



つまり何をいいたいかというと、この国のマスメデイアは実質的に完全に「電通」一社に殆どコントロールされているといっても過言ではないのです。そしてテレビの視聴率も落ち込んでいる現在、報道内容に対する介入は明らかに以前より強くなっております。

このことによっても日本のマスメデイアがいかに裏からコントロールされ、権力やスポンサーにとって「都合の悪い」報道をするのが難しい状況であるかがわかります。

私がこの電通の第九営業局によるメデイア、マスコミ操作と政界、官僚によって国民に対する恐ろしい陰謀が計画され、現在も進行中である、と述べたのは決して作り話ではないことがこれによっておわかりいただけたでしょうか?

よってマスメデイアの流す情報、映像を鵜呑みにすることほど危険なことはないのです。特に最近はネットを初め情報過多社会といわれます。そういう時代だからこそメデイアに対するリテラシーを身につけることはこれからの社会で生きる上でも、そして今裏で糸を引いて陰謀をめぐらそうという人間のワナにはまらないためにも絶対に必要なことだと考えます。

そのためには次のことを心がけることが必要です。自戒を込めて書きますが

1.まずマスメデイアの情報、映像は「作られたもの」であるということを忘れないこと。伝えられていることは必ずしも真実であるとは限らないことを肝に銘じること

2.報道されている内容が、どれだけ正確な報道なのか自分で調べるクセをつけること。(今は検索エンジンという便利なものがありますから)

3.マスメデイアが明らかに煽ろうとしている報道に対しては極力冷静に対応すること。煽れば煽るほど無視するくらいのつもりでいい。

もしかしたら見落としている点もあるかもしれませんが、この3つを普段から心がけることによって彼らのワナにははまりにくくなると同時に、権力を握っている人間がもっとも嫌がることでもあるのです。私は日本社会におけるメデイアリテラシーの早急な確立を声を大にしていいたいです。今ほどそれが必要とされている時代はありません。今回影で陰謀を計画している人間の計画を失敗させるためにも


03年、日本テレビのプロデューサーが、“視聴率買収事件”をひき起こした。これは視聴率調査会社のビデオリサーチの調査対象世帯に対し、指定した番組を視聴するよう依頼し、視聴率を工作したという「事件」である。現在のテレビ放送は、この視聴率至上主義という信用しがたい数字によって大きく左右されている。視聴率が高ければCMが高く売れることから、業績に大きく係わることになる決定的な数字のようである。

このような重要な数字を独占して調査しているのがビデオリサーチなのだが、「独占」と書いたように、ここにはライバル会社が存在しない。そして最も重要なのが、ビデオリサーチは電通の関連会社であり、電通が同社の株を34%所有する大株主ということだろう。電通の子会社ビデオリサーチは、「全国新聞総合調査」までやっているらしい(社長が電通顧問を務めた竹内毅)。