2005年6月10日金曜日

【沖縄資料】 下河辺淳氏メモ 前書き ①

まえがき

昨年(2003年)の夏、私は下河辺浮氏の御厚意で彼の沖縄関係の資料をお預かりすることになった。
下河辺氏は長い間、一貫してわが国の国土政策・国土行政に深くかかわってこられたことは周知の事実である。だが一方で、彼はその職務との関連から、もしくはその関連をしばしば超えて、復帰前から今日まで30年余にわたって沖縄にかかわってこられたことを多くの沖縄の人々が知っている。しかも沖縄の大きな時代の節目に彼の存在感は際立っていた。とりわけ1996年に代理署名訴訟で橋本政権と大田県政が緊張関係にあったとき、
彼がパイプ役を果たしたことは有名である。

それで少しずつダンボール5箱分の資料に目を通していると、これまでおそらく公表されておらず、非唐に重要だと思われる資料があることに気がついた。そこでそれらの資料を確認するためにも、下河辺氏に会って話を聞く必要を感じた. また、それならばこの後会に、復帰前から今日までの沖縄についてのオーラル・ヒストリーとして奴の話を聞けないかとご本人に打診したところ、ご多忙な身にもかかわらず快く承諾していただいた。

早速、10月27日からスタートして11月25日まで、真板恵夫氏に手伝ってもらいながら、5回にわたってそれぞれ約2時間、合計10時間をかけて下河辺氏の事務所でインダビューをすることができた。

下河辺氏には貴重な資料を預けていただいた上に、さらに長時間にわたって根気強くインタビューに応じていただいたこと^感謝の言葉もない。

このオーラルが、これから沖縄内外でできるだけ多くの読者を得てなんらかの指針や示唆を与えることができたら、いくぱくかでも氏の御厚意に報いることができるのではないだろうか。

下河辺事務所の高島由美子氏にもなにかと大変お世話いただいた。また下河辺氏への橋渡しをしていただいたNIRAの島津千登世氏の御尽力がなければ、このオーラルは実現しなかった。
おふたりに記して感謝申し上げる。

2003年1月30日
148
早稲田大学大学院
公共経営研究科教授 江上 能義

目    次
第1回下河辺浮氏インタビュ∵154P
沖縄とかかわるきっかけと最初の印象
沖縄独立論について
核抜き本土並み返還に大きな疑問
普天間移設について
復帰前後の離島視察の思い出話
政府の復帰対策について
沖縄との最初のかかわり
一次振計の評価
73年のオイルショックの影響
流通基地、情報基地としての沖縄
海軍病院の積極活用を
吉元氏について
吉元氏以外に印象に残っている人物について
古川官房副長官について
沖縄への道州制の導入
ブロック制が良いか、特別県が良いか
楠田氏とのかかわり
『戦後国土政策の証言』での発言
沖縄観光の問題点と可能性
在沖米軍の積極活用と日本政府の有事論の幻想
沖縄県民の対基地感情の変化
沖縄の若者に海外出稼ぎの薦め
沖縄漁業の可能性
沖縄への苦言

第2回下河辺浮氏インタビュー--186P
大城守氏について
前回のインタビューの補足質問-沖縄にかかわることになるきっかけ
屋良氏との関係、仕事の内容
国場幸太郎氏の印象
一次振計で達成できたのは200万観光
西銘順治氏との交流
平良幸市知事と万国津梁の鐘
平良幸市知事と7/30
平良幸市知事が気にかけていた沖縄農業のあり方
西銘県政の国際交流事業について~南北センター構想秘話
スカラピーノ教授の思い出
橋本首相が提琴した亜熱帯研究所
大田県政の国際情報センター構想
普天間基地移設の本当の理由とその跡地利用
離島の水問題
沖縄本島の水問題と人口問題
過疎県としては成功した沖縄
復帰以降の「国際交流事業」の経緯
沖縄開発庁について
特別県、地方分権化への議論
開発庁反対論について
沖縄問題等懇話会との関係
沖縄は"外国"だった。
独立派の青年との議論
瀬長亀次郎氏との議論
楠田氏との思い出
山中貞則氏との馴れ初め
沖縄視察時の手続きについて
米軍と折衝する際の身分
拠点開発方式が沖縄でも採用された理由
屋良知事の「建議書」と自治権
コザ騒動について
海洋博と北部振興
沖縄本島の東西格差

第3回下河辺浮氏インタビュー・--一一一一一223P
本土政党と沖縄政党の相違点
沖縄自民党内にも~独立論者が
大学院大学構想の原型は亜熱帯総合研究所
「亜熱帯総合研究所構想」秘話
普天間跡利用構想-ヘリコプターネットワーク
ヘリコプターネットワークのモデルは海軍病院
一次振計策定について-補助率の_かさ上げ
工業等開発地区および自由貿易地区の制度の活用
沖縄と北海道の振興開発計画策定方式の相違
県内工業団地の現状
沖縄開発庁の一次振計の自己評価について
モノレールについての評価
沖縄のもつ地理的自然的特性について
復帰8年でコンクリートジャングルになった沖縄
沖縄の芝居小屋の思い出
国際性を失った沖縄
二次振計の特徴-失業率の高さを特色に
三次振計について
三次にわたる振計の評価
_「下河辺メモ」について
普天間との関わり
下河辺氏の役割

第4回下河辺浮氏インタビュー258P
下河辺メモの背景
3月の時点では敵同士だった
-3月の橋本・大田会談
事前から分かっていた普天間返還
嘉手納統合案から海上へリポート案へ
首相からまとめ役の依頼
「下河辺メモ」の作成
「下河辺メモ」を見た首相の反応-亜熱帯研究所構想に意欲一
50億円の調整費と政策協議会の設置を提案
基地に対する住民の意識変化-県民投票結果の見方
9月の橋本・大田会談
橋本首相、海上へリポート案言及について
「下河辺メモ」に関する疑問1-代理署名拒否問題
首相談話-日米安保における沖縄米軍基地の重要性につnて
つなぎ役としての下河辺氏の立場
御厨オーラルのその後について
ラム女フェルド国防長官訪沖時の稲嶺知事の対応
大田知事の言動の不可解さ
行政の立場
大田知事の「海兵隊撤退論」
「下河辺メモ」進行時の感想
『沖縄の決断』(大由昌秀著)-
伊波市長、来訪について
梶山官房長官との馴れ初めについて
沖縄サミット
蓬莱経済圏構想
台湾について
尖閣諸島の問題

第5回下河辺辞氏インタビュー一一一一--_一一289P
亜熱帯総合研究所と大学院大学
国際都市構噂と三次振計の相関関係
大田知事が「下河辺メモ」を受諾した目的・理由
「下河辺メモ」と予算措置
「下河辺メモ」A項-国際交流会館構想
宜野湾・'コンベンションホールとの相違点
沖縄国際センターとの相違点
「下河辺メモ」B項-国際情報センター構想
「下河辺メモ」C項二一蓬莱経済圏構想
「下河辺メモ」D項-国際学術交流研究所構想
「下河辺メモ」E項-国際医療センター構想
「下河辺メモ」F項-アメリカントレードセンター構想
「下河辺メモ」G項-国際大学構想
「下河辺メモ」H項-国際ニュービジネスコンサルタント協議会構想
「下向辺メモ」I項一一・観光企画機構構想
「下河辺メモ」J項-国際通信、国際空港、国際港湾整備
沖縄特別県制構想にづいての検討
2015年期限問題
橋本・大田の信頼関係破たんについて
大田知事と岸本市長の移設先基地イメージのギャップ
吉葬副知事、不再任の影響
海上基地のプラン
海上ヘリ基地と日米建設摩擦の関係
大学院大学構想について
沖縄問題に関わってきた感想
新全総の「沖縄開発の基本構想」
沖縄の日本復帰の是非
これからの沖縄の視点
下河辺氏にとっての沖縄の未来


著者 江上, 能義
別言語の著者 Egami, Takayoshi
発行日 2004-03
URI http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/123456789/11547
科研費番号 14320008
要約(Abstract) 平成15年度科学研究費補助金(基盤研究(B)(2))研究成果報告書「自治基本条例の比較的・理論的・実践的総合研究-沖縄の自治経験と新たな展望をもとに-」報告書No.4
要約(Abstract) 研究代表者:仲地博
言語 jpn
公開者・出版社 沖縄自治研究会
タイトル II. 下河辺淳氏オーラル・ヒストリー
タイプ 研究報告書
NIIタイプ Research Paper
DCMI text
収録種別 研究報告書
収録種別 04
収録雑誌名 沖縄の自治の新たな可能性 : 自治研究講座
NII書誌ID BA66821577
開始ページ 148
終了ページ 325
textversion publisher
出現コレクション 研究報告書(法文)


●沖縄とかかわるきっかけと最初の印象

江上:復帰のときの昔の話で申し訳ないのですけれど、その辺の話をお伺いしたいと思っています1970年に山中(注・貞則)長官から行ってくれと言われて、そのとき初めて沖縄に渡られたと伺いましたが、その前からおそらく、・沖縄に渡られる前から沖縄の返還の問題で仕事で(沖縄に)関わっていらっしゃいますよね。

下河辺:そうですね。楠田(注・賓)さんという新聞記者が飛び歩いていて、楠田さんと親しくしていた関係でいろいろと沖縄のことを議論していましたからね。

江上:先だって亡くなられた方ですね。

下河辺:そういうのが山中貞則に知られちゃったらしくて、あいつを行かせようってことにしたらし_いんですよ。貞則さんには悪口言って、沖縄にとってあなたは敵だと、島津藩の親分が沖縄をどれほどひどい目にあわせたかって言うことを反省しないと私は行かれないって言うと大笑いしていました。

江上:山中長官は以前から屋良(注・朝苗)さんとの関係で沖縄のことを良くご存知でした。

下河辺:そうです。非常に詳しいし、親切でしたね。

江上:そうですよね。沖縄にとっては大恩人というか

下河辺:大恩人ですね。

江上:県民栄誉賞か名誉県民とかになられて高ますよね。

下河辺:そうです。沖縄って言うのは、復帰反対の青年がいっぱいいたわけですからね。沖縄からすると貞則が一番の敵なわけですよね。

江上:島津征伐の、ね。

下河辺:本土復帰なんて言っているのだから、けしからんって言う。

江上:そうですよね。沖縄で仕事に携われて、行かれる前に沖縄ってどういう印象だったのでしょうか。
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下河辺:そのう、英語で暮らす県でしたよね。アメリカが占蘭している地域というのがやっぱりとても強い。
それと同時に15、16世紀の琉球王朝のその歴史が伝統的に残っていましたよね。だから、日本というのは第三のテーマであって、第一が琉球王朝で第二が米軍の占街ってそんな感じだったんじゃないですかね。県民たちはその三派にみんな別れていきましたよね。それを全部に話ができるのはほとんど屋良さん一人だけだったのですよね。それは彼が教育者だから、県民が教え子なわけですよね。だから、先生として尊敬されているから話ができたんでしょうね。あれが政治家だったら、とてももめて治まらなかったんじゃないでしょうかね。

江上:そういう意味では屋良さんというのは、復帰の大きな変革期において理想的な指導者であったと。

下河辺:彼が居なかったらああはできなかったでしょうね。彼はなぜか福田(注・赴夫)さんを~尊敬していて、自分が困ると福田さんのお宅に行って相談したりしてたんじゃないですかね。

江上:そうですね。福田さんとの関わりはずいぶん以前からですよね。

下河辺:おそらく教員であったころに、福田大臣とどこかでお会いになっているんじゃないですかね。

江上:福田さんが大蔵省の官僚だった時に。

下河辺:そうですね。

江上:大蔵省にお願いに行くときに。

下河辺:そうですね。屋良さんが私を先生と呼ぶものだから、いつのまにか福田さんも私のことを先生と呼ぶようになった。先生って言うのは尊敬できない代議士のことじゃないかって大笑いしてたんですよ。

江上:やっぱり、沖縄に行かれて、やっぱり沖縄とは大変なところだと言うようなイメージをもたれましたか。

下河辺:大変と言うよりも、日本に返ってくると、一般の人達、政治への関心が歪んでいるでしょ。だけど、沖縄の人達っていうのは、政治っていうものに対して真剣でしたね。

復帰することが良いかどうかなんていうのは、命懸けの判断ですよね。グアムなんかの方が故郷だって言う青年まで、出てきたわけですよね。それに、日本人の父と母から生まれた子だけじゃなくて、戦後のいろんな兵隊との間で生まれた子もいっぱいいましたからね。

江上:大変な状況だったんでしょうね、その当時は。

下河辺:そうですね. それにもかかわらず、ものすごく平和なんですね。それは婦女暴行とか、刑事事件は起こりましたけども、基本的にそのアメリカの兵隊で特に女性の将校なんかでも、武装なしで暮らせる島っていうのはアメリカ本土も含めてどこにもないんですね。

江上:ということは、政治的にはいろんなことがあって、生活そのものもはたからみて大変そうな割には、中に入って見ると暮らしやすい。
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下河辺:そうですね。

江上:怖い事件とか事故しか報道されませんしね。沖縄って怖い島だなっていうイメージが強い。

下河辺:だんだんと日が経つと、戦争を直接経験した年寄りが少なくなって、戦争を知らない若者になってくるにしたがって、ますます平和な島でしたね。

●沖縄独立論について

江上:最初に沖縄に行かれて、屋良主席と会われて、屋良主席ともいろんな話をされたと思います。屋良主席とお会いしてホテルに帰ったら、若い人が来て、沖縄は独立したいんだと話したと。その方は吉元さんですか。

下河辺:いや、吉元じゃなくて、ですね。

江上:吉元さんじゃないんですか。

下河辺:はい。

江上:あ、そうですか。

下河辺:吉元はそのころは、なんていうか、日本の政府と、どういう風にやるかって方向に向いていましたから。

江上:むしろ、日本と協力してどうやってやるか。

下河辺-:それは、良いか悪いかは議論していましたけども、その方向に向いて彼は一所懸命でしたからね。だから、来た青年たちは、私には名前も教えないという。

江上∴名前を教えない。

下河辺:私に迷惑がかかるだろうと。

江上:どういうグループか、だいたいわかりますか。

下河辺:いろんな人がいましたね。確か十人近く来たと恩うんですが。

江上:そうですか。そうすると、その_当時の独立論者というと

真板:年配層ですと、大宜味朝徳とか、仲宗根源和とか

江上:若い人ですよね。

下河辺:なんかねえ、飲み屋さんで小由理畠さんをやっている女性のところが集会場所みたいだった。私、その飲み屋さんへ度々行ってご馳走になったんだけど、名前は忘れちゃってどうしようもない。

江上:それは沖縄の桜坂ですか。

下河辺:そうですね。

江上:そうでしょ。だいたい場所はわかりますね。

下河辺:知事が西銘(注∴順治)さんになったら、先輩なんでもっぱら桜坂で飲み食いして楽しくやっていたのですけどね。
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江上:今でも桜坂の飲み屋街は少し残っています。

下河辺:そうですね。

江上:独立したいと言うそういった方々と下河辺先生は話しをなさったんですよね。

下河辺:そうです。私も独立した方がいいって言ったら、びっくりしていましたよ。先生がそうはっきり言うとは夢にも思わなかった、と。

江上:独立した方がいいと。

下河辺:いやいや、その独立した方が良いって言ったから、驚いたんですね. まさか、私が独立が良いなんて言うと思わなかったとびっ、くりして、びうくりついでにあんまり独立の話をしなくなっち′やったんですけどね。

江上:ああそうですか(笑)度肝抜かれちゃった. それはちょっとあまり、性根の入った独立論じゃなかったんですかね。勢いあまった独立論ですかね。(笑)でも、独立した方が良いとおっしゃったのは、-それはやっぱり半分本音の部分が

下河辺:そうです。

江上:ですよね。

●核抜き本土並み返還に大きな疑問

下河辺:核抜き本土並みっていう佐藤総理の方針っていうのが、私あんまり信じられなかったですね。核抜きっていうこともないんじゃないか、本土並みっていうこともありえないんじゃないか、と。もっと復帰するなら沖縄の真剣に考えた何かテーマを持たないとダメじゃないかと思ったんですね。

江上:30年たって振り返ると、それは名言ですね。そう思われたとはすごいですね。今の沖縄から見ると本当にそうですね。核抜きというのも、今の沖縄の人は信じていません、ですね。

下河辺:思えないですよ。

江上:思えないですよね。

下河辺:それで佐藤内閣がなんでそう言えたかっていうと、そのアメリカのはうが沖縄の返還にあたって核抜きと言っていないんですね。通常は置かないと、それと非常時には持ち込むと。持ち込むことあるべLという考え方なんですね。そしたら外務省としては、こちらが聞かない限り、持ち込んだと言わないで欲しいって意見なんですね。そして、聞いたら本当のこと言ってくれと言ったんですね。それで、佐藤内閣にそれでいいのかって言ったら、聞かないから大丈夫って言ったんですね。だから、密かに持ち込んで日本側はなんかまったく無視しちゃってという発想なんですね。

江上-:事前協議の問題ですね。その辺のところは、楠田さんあたりも良くご存知だったんでしょうね。

下河辺:いやー、楠田さんがもっぱら、やったんじゃないでしょうかね。そういう段取りを。
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江上:若泉(注・敬)さんも。

下河辺:そう、若泉先生が盛んにそういうのを調整したんじゃないでしょうかね。

江上:そういうわけで、核抜き本土並みというのは、やっぱり、先生もちょっとおかしいんじゃないかと思われたわけですね. 沖縄もおかしいんじゃないかと思う人がいて、復帰そのものの在り方を問うような反復帰論というのが出てきていましたね。そういう人々の一部から、独立論が出てきたわけですけども、しかし、大半はそうはならなかった、ですね。

下河辺:大半というか、ぜんぜんならなかったですよ。

江上:やはり米軍統治下で経済的に劣勢下に置かれているのを日本に復帰したら、経済的に少し豊かになるのではないかというような期待も随分あったんでしょうね。

下河辺:・いやーだから、経済的な面で生活考えたら、. 復帰して良いんだか悪いんだか、現実にはわかんなかったんじゃないんですか。′まあ、日本の政府が全生活費を面倒見るとでも言ったら違ったでしょうけどね。本土並みって言っておしまいになっちゃったから、ちょっと暮らすのは不安な人もいたんじゃないですか。普天間の移転だってそうですよね。
移転すると大変だという人も、少しいるんじゃないですか。やっぱりね。

江上:そりゃそうですね。

●普天間移設について

下河辺:普天間の移転先の反対者もいるけれども、生活費の軍事経済効果の費用も付くんなら、その方がいいんじゃないかっていう意見もでましたよね. 漁民の方々の意見が反対なんだか、一賛成なんだか、ちょっと複雑になっ. ちゃったでしょ。

江上:そうですね。

下河辺:米軍が普天間を移転したい理由が、住民のことを考えた上っていうことを言って中るけれども、本当は普天間の軍事的な技術が陳腐化過ぎて、使い物にならない、ということが本音だったんじゃないですかね。

江上:私もそう思いますけどね。

下河辺:データだってなんだって古くて、ダメって言うんで、滑走路だってあんな長い滑走路はヘリコプターにはまったく必要としなくなっていて、滑走路は40メーターでいいなんていう状態だったわけですよね。だから、移転というのは軍事的な技術レベルを上げることというのが本音だと思う。いまさら名護の市長にしてみると、「軍民共用の飛行場じゃなくちやいやだ」と言ったために40メーターの滑走路に反対なんですね。少なくとも1000メーターの滑走路で旅客機が発着できなきゃダメって、だから私は市長さんにはいやー那覇から名護まではヘリコプターで旅客を運んだら、40メーターで済むんじゃないか、つて言ったんですけどもね。
普通の小型旅客機でやりたいって、言ってましたね。
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江上:最初は1000メートルくらい

下河辺:1000メーター

江上:1000メーターですね。1000メーターが1600になっていって、いま2000メートルに。

下河辺:そうです。それが地元の要望なんです。

江上:軍民共用のあれで、民のほうで伸びていったわけですね。

下河辺:そうです。軍の方はもう40メータ」でいいっていうんだから。なんか変な話になっちゃいましたよね。

江上:そうですよね. 軍は名護市が民間の部分で使いたいからということで、地元の人達が要請しているんだということなんですね。大型化したというのは、ですね。

下河辺:しかし、民間空港じゃあ採算合わないっていうことで、名護市が財政負担するのは無理ですよね。

●復帰前後の離島視察の思い出話

江上:70年頃の話に戻りますけれども,70年に沖縄にいらうしやったときに、復帰の準備をなさるために西表とか離島もかなりまわられたというお話しも伺いました. し、視察も兼ねてかなり長く沖縄にいらっしゃった。

下河辺:そうです. 米軍のヘリコプターで沖縄を全部見て回った。空から。

江上:トータルでどれくらい何カ月くらいいらっしゃったのですか。

下河辺:あのときねえ、′1週間、2週間くらいが長いほうで、

江上:1週間くらい

下河辺:年中行っていましたんで、年間通じて、40、50日にはなったんじゃないですか。

江上:はあ

下河辺:そうしたら、帰りの記者会見であんたは住民税払ったかって言われたんです。どうしてですかって聞いたら、1年間の居住日数が30日を超えたら、住民税を取るっていうことになってますと言われて.

江上:そうですか。30日超えたら住民税を(笑)

下河辺:それじゃ、私払いますって言ったんですよ. そしたら、県庁の人がいやこの先生は県側の招待客だから、税金は取れないってなんて言って大笑いしていました。

江上:そうですか。なんか不思議な話ですね。

下河辺:それはそうでしょうね。しかも、私が行くとあのころは、送り迎え、いつも飛行場で降りたり乗ったりするんですけども、輪を組んで、`その歓迎ってこととそのお湧かせっていう歌をうたって、肩を組んで大変でしたよ。
江上:そうですか(笑)
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下河辺:なんか、そういう漁船を送ったり迎えたりする歌が民謡であるんですね。そのう、みんなで歌ってくれるわけですよ。だから、みんな飛行場から飛び出してきて何事だって見ている。

江上:いい時代ですね(笑)じゃあ、そのときに、離島もかなりまわられた? 西表以外にもあちこちまわられて、沖縄全体を視察されたわけですね。

下河辺:絶対、竹富から西表に行きたいって言って、西表に行くことが非常に悲願でした.連れてってくれましたね。

江上:西表を一番強く希望されたんですか。

下河辺:そしたら、希望したら、何でもって言ったから対応しなくちゃいけないのに、あの頃、船がないんです。西表は、漁船みたいな小さな船が行くんで、先生を漁船で運ぶってわけにはいかないって言うんで、どうしようかと思ったら、そのう、もうすでに廃船したポロ船を雇ってきて、それで行くことになったんですね。

そしたら登録されていない船なんで、正式の航路じゃ行かれないって言って、船長もなんか私と同じ年くらいか私より年取ったくらいの船長が、私がお供しますって来たんだよ。この船長、大丈夫かいって聞いたら、昔は大丈夫でした。

江上:今は分かりません(笑)

下河辺:今は分んない. 特に西表の南から回. って西海岸へ出るところが、三角津波で有名なんですね。あとは平気なんだけど、そこを入り込んで、西表に回り込むところだけがちょっと心配ですって言って、そこへ差し掛かったときは、ちょっと緊張していました。

江上:そうですか。命がけですね(笑)

下河辺:それでも面白いのが、その竹富の船に乗るために船着場へ行ったら、人がいっぱいいるんですよ。私を見物に来たのかなあと思ったら、_船長が私のところへ来て、あの人達が乗せてくれって言うけども、いいでしょうかって言うのね。で、乗ってどうすんだって言ったら、自分の島に帰りたいって言う。そんならいいんじゃないのって言って、ほいで行ったんですよ。そしたら、私の乗った船はポロ船でも背は高いのに迎えの漁船は小さな小舟なんですね。だから、船の高さが違うんですよ。だから、私は降りられないと思ったんですよね。一人一人縄で結わいて、降ろすのかなと。そしたら、おばあちゃん達が船が近づくと、大声を張り上げて、小舟の漁船に迎えに来てもら. うんですよね。で、下に着くと、降りるんですけども、竹竿持ってきて、竹竿を小舟と大船(おおね)にかけると、おばあちゃんがその竹竿でつるつるっと平気で降りちゃうですね。

江上:竹竿に伝って降りちゃうんですか。

下河辺:そして、ありがとうなんて言って帰って行うちゃうんですね。1回見たからあとは安心しましたけど。島々にみんな竹竿で降りていって、それで、なんというか、行きましたけどねえ. 電気もないし、自動車もないしで大変な島でしたよ。ジープを一台もって行って、乗り回してくれたんですけどね。あの頃は懐かしいですね。

江上:その当時、道もあんまりできていなかったですよね。
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下河辺:道なんかないですよ。だから、軍用のジープでもなければ、走れなかったですね。

江上:いま、その西表にはリゾートホテルができる予定です。

下河辺:今はもう大変なもんですよ′。

江上:_、住民が反対運動しています。

下河辺:えーそうですよ。

江上:大騒動になっているようです。

下河辺:島が壊れてしまいますよね。ただ、いのししがいっぱいいて、大変だって言いますから。いいのしし食べますかって言うから、食べるって言ったら大変なことになりまして、その日の明け方、いのしし狩りをやって、獲ってきて、撲殺して、肉を採って食べさせて、お昼に食べたんですよ. そしたら、これがうまいんですね。これが

江上:おいしいですよね。

下河辺:いっぱい食べて、おいしいって言ったら、そのとっておいてくれたんですね. その冷蔵庫のないところで、生肉残しておくってことは相当危険ですよね。だけど、島の人に聞いたら、当たって下痢しますけど、平気ですって言うんですね. そして食べたら、案の定下痢しましてね. 大変だって言って、仲間が代わりばんこにトイレに行くんで、トイレ一つしかなくて、困ったんだけれども、いやー我慢して順番にやってくださいと、夕方になったら、みんな治りますって言ったら、本当に5時過ぎたら、治っちゃう。びっくりしましたよね。そしたら、その翌日も先生食べますかって言うから、ちょっと今日は帰んなくちやいけないんで、つて言って、それでも、ちょっとは食べたんですけれどもね。「西表のいのしし事件」って言って有名でした。

江上:ああ、その頃の西表は、まだ本当に自然は手つかずで、良かったでしょうね。

下河辺:それでもね、米軍が島全体になんて言うんすか、あれ、薬まいちゃったんですよ。

江上:あ、そうなんですか。

下河辺:なんだっけ。病気があったな

江上:マラリア

下河辺:あ、マラリア。それで、島が真っ白くなるほど、マラリアの薬まいちゃった。そのために、あの川に生き物がひとつもないんです。だから、船で行くと気持ちが悪かったですね。魚も鳥もぜんぜんいないんです。

江上:その頃、米軍がまいていたんですね。

下河辺:まいたんです。はい。それで私が米軍に文句言ったら、あなたはお陰でマラリアにならなかったんですよ、なんて言われたりして、そういう時代でした.

江上:西表のマラリアってかつては有名でしたからね。

下河辺:そうですかね。本当、物量はすごいですよね。あの島全体が白くなるほどまいたんですからね。

江上:ほかに行かれた島で、西表以外に印象に残っている島はおありですか。

下河辺:そうですね。なんかいろんな島行きましたよ. それでそういうところで、人々は本島へ移住したがっている時代でしたからね。生活ができないというんで。
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江上:離島では、

下河辺:その頃、東京から若者が、沖縄の島へ行きたいって言うのが少しずつ増えてきたんですね。それは沖縄の伝統技術とか染色なんかを勉強しに行きたかったんですね。だから、沖縄の伝統技術っていうのは、なんていうか本土の特に東京の若者で守られていったのですね。

地元の青年達は、もうそれどころじゃないって言って、英語の勉強して沖縄の経済の助けをするという方向に向いていましたからね。久米島なんて、おそらく県民が一人もいない時代があったんじゃないですかね。

江上:久米島ですか。

下河辺:ええ。そして、こっちから行った青年達で、経済をもたしていた。本当のおじいちゃん、おばあちゃんが、青年達の先生として暮らしていただけで、若者はほとんどこの前移住したばっかりじゃないですかね。

江上:そうですね。久米島だったら那覇に近いです。教育の問題もありましたしね。久米島も竹富ももちろん行かれていますよね。

下河辺:ええ。

江上:竹富はいまはもう、非常にそれこそ、本土の若者達が移り住んで、竹富のお年寄り達とも一緒になって、観光の島として整備されていますけども。その当時も、やっぱり竹富はそういう感じだった。

下河辺:竹富には島の役場が竹富にあったもんですよね。島に作っちゃうと、本土とのあるいは県庁との連絡が不便なんで、竹富に何とか島役場とか屋久島でさえもあそこに役場を置いたのですからねえ。
だから、あの辺だと竹富がいちばん中心都市でしたね。

●政府の復帰対策について

江上:話を変えますが、先生が最初に沖縄へ行かれたのは、1970年の何月でしょうか。

下河辺:確かねえ、11月くらい

江上:ああ、じゃあもう、70年の終わりの方ですね。

下河辺:終わりの方です。

江上:えー、そのときに、すでに沖縄復帰対策各省庁の担当官会議というのが設立されていまして。

下河辺:設立されていますよ。

江上:そうですね。

下河辺:佐藤内閣が言い出したのは、1970年ですものね。70年に佐藤さんが沖縄の復帰なくしては戦争は終わらないっていう言葉から、関係省庁会議を開いたわけですよね。

江上:沖縄復帰対策閣僚協議会が1969年の11月。

下河辺:そうです.
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江上:ですね。

下河辺:そうです。

江上:それを受けて、その年の12月に要するに各省庁の担当官会議が開かれて、沖縄復帰対策各省庁担当官会議というものが組織されるわけです。

下河辺:そうです。

江上:その中に行政部会とか、財政部会とか、産業経済部会とか、教育文化部会とか、社会労働部会、司法務部会、地位協定関係部会というのがあったんですけども、下河辺先生はこういうのには所属されてなかったんですか。

下河辺:しなかったです。

江上:ぜんぜん達うんですね。立場がですね。

下河辺:ええ。

江上:これらは実務関係の組織だったので。

下河辺:そうです。

●沖縄との最初のかかわり

江上:もっと大御所からの立場だったんですね。それで、屋良さんと話をされたのは、中心としてはおそらく大枠の話だと思いますけれども、屋良さんと最初お話されたときに、どういうのを中心にお話されましたか。

下河辺:まあ、沖縄っていうのは、島津藩にやられたり、明治処分を受けたり、沖縄の米軍との戦争なんていうことで、県民が自分の意見を述べたことがないんですね。

琉球王朝の時代でも明の国に朝貢の儀をしていたような地域なんですね。そして、沖縄が初めて自分で計画を作るときがきたと言うんで、第一次振興計画の第一次って意味が琉球政府が初めてっていう県庁のいわゆる知事が第一次、第二次って作るという第一次とは違うんですね。

その歴史上初めて住民たちが自分で計画を作るっていう事態になったわけです。だから、計画ができたら、部長一同が山中貞則大臣のところへ説明に来たんですね。そしたら、事務局から山中貞則さんが陳情書が来るから陳情書扱いで受けてくれって、言うことを注文つけていたんですね。

そのために、受け取って説明を聞いたら、山中貞則がいやーご苦労でしたと、我々もこれをベースに検討したうえで、沖縄の振興計画を決めたいって言ったんですね。だから、その場でもって私は、その応えは、貞則さんらしくないと、事務方に言われてんじゃないですかって言うと大笑いになって、お前はどうすんだって言うから、琉球の歴史の中で自分達で作って政府にもってきたのは、これが初めてなんであって、そのことが非常に政治的な意味があるんで、その県民が初めて、政府に訴えた計画としてこれを尊重して実行に移していきたいっていうことを私は貞則さんから期待していた。て言ったら、貞則が立ち上がってね、俺は間違ったとこれを受け取る態度として、さっき言ったのは取り消したいって言って、それで、これを基本にして政府として沖縄対策を講じたいって言い直してくれたんですよ。それは他の大臣だったら、面子じゃそんなこと言えないでしょ。

貞則って言うのはそこのところ立派ですよね。そのため、引き揚げてから大騒ぎになりましたね。沖縄の担当者達が十人くらいで、喜んじやって感激して大変になりましてね。その晩の宴会は大変でしたよ。
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江上:そうですか(笑)

下河辺:全員が正体もなく酔っ払っちゃって。私はその酔っ払いの始末の係を。だけど、私しか正気なのがいない。それで、宿舎まで送り込んで、寝ましてねえ。

江上:ああ、そんなに喜んだんですねえ。′そのとき、琉球政府の人達は。

下河辺:そしたら、. 翌日勢揃いして、お詫びとお礼にやってきてくれて、それが私の最初の仕事でしたね。

江上:琉球政府が最初に作った沖縄長期経済開発計画ですね。

下河辺:大城さんって面白い部長さんがいましてねえ。大城守って言って、沖縄の部長として何でもやってくれていまして、彼自体はジャカルタかなんかで戦争行ってきて帰ってきた復帰三人のうちの一人かなんかで、私なら何食べても下痢は、しない、なんて威張っていたおっさんで、確かになんか屋久島のいのししで、彼はなんともなかったですね。そういうおっさんに救われて沖縄の計画を作りましたけどね。

江上:これは沖縄長期経済開発計画を山中長官のとこ′ろへもってらっしやる前に、草案の段階で、下河辺先生に相談とかあったんでしょうか。

下河辺:誰から。

江上:琉球政府の方から。

下河辺:いやいや琉球政府は直接作業をやっていました。

江上:本当に自分達で作って。

下河辺:ええ。

江上:日本政府側と打診も何もなく。

下河辺:ええ。

江上:ちゃんと自分達で作って。

下河辺:ええ。

江上:それで、持って行って. で、まあ普通、陳情という形で、日本政府側は聞き置こうということになるわけですけれども。下河辺先生はそういう言い方ではダメなんだとおっしゃったわけですね。

下河辺:そうです。

江上:意義付けをち-やんとしないといけないと. 琉球政府の方はそれでとても感激されたわけですね。

下河辺:琉球王朝以来、初めて自分達で作った計画を権力に持ってきたんだから、権力はそれを丁寧に受け取らなきやうそだ。と言ったら、山中貞則という人は本当にそうだって言って、受け取ってくれましてねえ。
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江上:この最初に琉球政府側が出した沖縄長期経済開発計画が、その後の第一次振計に生かされているんですか。

下河辺:それが第一次振計です。

江上:これが第一次振計。要するにこれがそのまま、ということですか。

下河辺:はい、そうです。第一次振計の前のやつは、米軍に出したものです。そして、日本から大使が行っていましたから、日本の大使を通じて米軍に渡した計画なんです。それを日本の政府として、県庁としてつくったのが、第一次振計。

江上:じゃあ、ほとんどもう沖縄の琉球政府、沖縄の人達が全部作ったものが、第一次振計に反映されていると。

下河辺:反映じゃなくて、第一次振計とは沖縄の計画ですからね。そして、それを受けた日本の沖縄開発法に基づく計画っていうのがいま言われた政府の計画なんですね。

●一次振計の評価

江上:それで、一次振計は、それでスタートして、一次振計でかなりインフラが整備されましたし、まあ経済成長もそれなりに十年間で堅調に成果を上げたというふう,に。

下河辺:上げた面と上げない面と両方あるわけで

江上:ああそうですか。

下河辺:上げた面としては、琉球人が自分達が日本人だって認識を深めたっていうのが、非常に大きいんじゃないですか。で、二つ、目は、インフラの国の財政が非常に効果を上げたらていうのがあるんでしょうね。三つ目としては、米軍基地っていうことについての理解を安全保障上認めるっていうことになったんじゃないですかね。

江上:沖縄がですか。

下河辺:その計画の中でね。その三点というのが、沖縄の計画の中で認められた大きなポイントだったと思うんです。

江上:屋良さんは、基地間虚を抜きにして、沖縄の計画は有り得ないというようなことを言って、佐藤内閣に建白書を渡されたりとかありましたよね。でも、日本政府は基地問題はちょっとそっとしておいて、経済振興の問題と切り離すような傾向が。

下河辺:いやあ土地問題で法制上裁判所との争いがあったわけですよね。

江上:土地問題ですか。

下河辺:ええ。土地っていうものを米軍に与えることの権利をどこに求めるか、ていう話になって、沖縄の中に米軍に土地を貸す根拠は何かってもめたんですね。それを屋良知事さんは、そのう地方裁判所の判決に待ったんですね。

で、福岡で判決があって安保条約の下で土地は米軍に貸すということを正式に止むを得ないものだということを認めたんですね。あのときに裁判官が日本の土地は1坪といえども米軍に貸すことはできないって判決をしてたらどうなっていたでしょうね。
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江上:大変なことになっていたでしょうね(笑)

下河辺:その判決で知事さんは助かったと私は思うんですけどね。

江上:板ばさみになっていましたからね。

下河辺:板ばさみになっていましたね。

●73年のオイルショックの影響

江上:沖縄が復帰した1972年に、復帰したその翌年に、つまり1972年に第一次振計が、沖縄の経済振興政策がスタートするわけですけれども、,その直後、73年にオイルショックが起きていますね。やっぱり、オイルショックで日本の経済が非常な窮地に追いやられる状況になります。その手とは沖縄の経済振興政策には影響はなかったんでしょうか。

下河辺:影響っていうことは、オイルショックの影響じゃあなくて、石油基地を沖縄に作る作らないで、もともと論争点なんです。

江上:はい、CTS問題ですね。

下河辺:そして、私達は、備蓄を含めて石油精製を沖縄でやるっていうノことは少し無理があると。その二次加工するときに、輸送の距離が長すぎてやっぱり日本としてみると、、東京湾、伊勢湾、瀬戸内海なんかでやる方がいいかち、沖縄は意味が無いっていうことを言ったんです。

それで三菱なんかが、やろうとしたのが中止したんですね。それはオイルショックのためではないんです。立地条件が良くないっていう。その後、日本経済全体がオイルショックの影響を受けんですけども、私なんかはオイルショックを受けて良かったと思うのは、省エネっていうことが普及したことですね.。だから、オイルショックがなかったら省エネが進まなかったら、今どきだらしなく、石油をいっぱい使っていろような国だったかもしれませんね。

江上ノ:沖縄の経済界の人々の理解では、オイルショックがあったから、あのとき、沖縄は日本の企業に沖縄に来てもらいたかったんだけれども、オイルショックで日本経済が悪くなったから日本の企業が沖縄には来れなくなった、というような言い方をしているんですけども、それはどうですか。

下河辺:関係ないですね。

江上:関係ない。

下河辺:それで、むしろ日本の企業が、本土並み復帰という言葉のひとつに、ちゃんとそのう、なんていうんですかねえ、沖縄に企業立地するっていう促進をやったわけです。そのときに、理解してやろうとしたのが、松下幸之助一人だった. 幸之助さん土地まで買ったんですよ。具体的には工場作るところまで、いかれなかった。立地条件が悪くてコストがかかって、沖縄では無理っていう結論になったんですね。だから、あの頃非常に真剣に議論してくれたのは、ナショナルと同時に、なんて言うんすかね、えーとね、日本の企業で、松下ともうひとつなんでしたっけ、関西の電気会社. 2社ほどいたんですよ。
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ところが、2社とも具体的にはなんなかった.。だから私は、沖縄に工業化を進めるっていうときに、どんな工業化を進めるのかをもう一度議論しなおせって言ったんですよね。

それは伝統的な芸術品であるとか、繊維品であるとか、沖縄らしい工業製品を目論んだほうが良いと。日本で世界のトップクラスの企業っていうことをすぐに狙うのは無理っていうことを言ったときがありますね。だけど、そういうのを政府で、沖縄に言える人がいないんですよ。本土並み復帰としては、日本の企業が立地してしかるべき、という立場でいますからね。だけど、企業が行かないって言うのに、「行けっ」と言うわけにはいかない。という変な態度になってしまった。

江上:最初の頃はまだ革新が強くて、労働組合が強かった。松下幸之助さんが工場設置をとりやめたのは、労働組合が強いというのを嫌ったという見方がありますが。

下河辺:そんなことは絶対無い。

江上:それはないですか。

下河辺:松下幸之助は労働組合を尊重する経営者ですからね。だから、ナショナルが強くなったのは、組合と経営者の提携によるっていうのが、常識ですよね。だから、幸之助は沖縄でもそれをやりたかったんです。 ところが、沖縄の労働組合っていうのは、政治家気取りで、労働者じゃないっていうのに気がついたときは、がっかりしてましたね。働く意欲から言って来てんじゃないんじゃないか。革命でも起こすつもりでやってるんじゃないかっていう。

江上:呆れたんですかねえ。

下河辺:呆れたんですね.。そんな子供みたいなことを言ってどうなるのっていう。

江上:それはあれで、それよりやっぱりもっと深い、立地条件とかなんらかの採算が取れるような条件が整わなかったということですよね。水の問題とかいろいろありましたかね。

●流通基地、情報基地としての沖縄

下河辺:水の問題はあるし、労働力の問題はあるし、資源が輸入しかないし、ちょっとした市場は遠距離だし、産業的な立地としては非常に苦しい立場ですよね。琉球王朝以来、あそこは生産基地であるよりは流通基地であり、情報基地であったわけですよね。

江上:現在は情報産業としてマルチメディアとかなんとかということで、一生懸命経済振興策をやろうとしてるんですけども。

下河辺:いやーそれは政府がそういうハイテクポイントを作りたいって言っていますけどね。あんまり成功しませんよ。それより、米軍が言っているけれども、米軍の通信基地を返還を求めて、沖縄のものにして、だいたい3000キロから5000キロのインターネットの中心になったらどうかっていう。そうすれば、日本経済全体がその通信のインターネットのセンターを使うに違いないらて言ってくれたのが、通信の専門家のアメリカの兵隊でしたけゼねえ。
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兵隊っていのは、そういう役割を果たすと思っているんですね。 日本のためになんなきや駐留している意味がないって言ってやってますからね。海兵隊を敵に回さないで日本の発展のために大いに利用したらどうですかね。

江上:米軍の通信施設を民間で共用して、自前でやるというのはちょっとコスト的に大変ということですか。

下河辺:大変ですよね。

●海軍病院の積極活用を

江上:まあ、アメリカは最先端のものをもっているわけですし。

下河辺:アメリカは軍事費でやったから、やれたんで、民間企業としたら、やれないですよ。特に沖縄の海軍病院っていうのは、もっともっと有効に日本は、活躍してもらったらどうですかね。日本の医師法っ七いうものが、なかなか邪魔になって、外国の病院を入れることができないっていうトラブルになっていますけどねえ。なんとか沖縄だけ、特例措置を講じて東南アジア一帯の医療機関になったら、どうですかね。

江上:そういう発想を、私は沖縄に居たときに何回も聞いた気がしますけどね。

下河辺:いやあ、沖縄県人でそれをやりたいって、ここ十年やって、ここへも通ってくる人がいますよ。

江上:あ、そうでしょ。

下河辺:だけど、厚生省が、なかなかそこまで踏み切れなくて、彼の活動が、まだみのっていないっていう状況ですけども。沖縄の海軍病院はもう、軍事的な役割の病院というよりは、東南アジアのマイナーな病院の技術的サポートが一番大草なテーマですからねえ。

だから今は、東南アジアの小さな病院のがん患者なんかは沖縄の海軍病院の世話になっていることも多いんじゃないすかね。私も海軍病院の治療を見せてもらいましたけど、凄いですね。その入院している患者をそのテレビで、データを全部沖縄へ映像を写して、診断してんですね. その地元の医者にああせいこうせいって、治療を指示して、毎日のようにその患者チェックして、ああこの薬はダメだからやめろとか、今度は新たにこれを飲ませてみろとか、医者っていうのは激しいもんで、私が行ったとき、ちょうどたまたまなんですけども、_これはもうおしまいだよと、明日か明後日でおしまいだなあと、言ったりしてんで、いやあずいぶん激しい診断すんだなあと思ったら、その診断された地元の医者が、ものすごく喜んで、もうどうやっていいか、おどおど手を尽くしようがなくて、困っていたら、もういずれにしても明日か明後日って聞いて、あとは冥福を祈るだけになったら、うれしいって言って、明日から楽に死ねるようにっていうことだけやります、なんて言って、ああ、こういう役割ってあるんだなと。

江上:海軍病院っていうのは、沖縄の人達の間でも評価高いですよね。

下河辺:ああそうですか.
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江上:私が1977年に行ったときに、その後、副知事になられた比嘉幹郎という琉球大学の教授が海軍病院のことを非常にすばらしいとおっしゃっていたのを覚えています。

下河辺:ああそうですか。

江上:これは、世界最先端の病院だと。彼はアメリカにも留学していますから、米軍内部のことも良く知っていたようです。

下河辺:非常に先端的だけであるだけじゃなくて、私が海軍病院に行って、皆さんのいちばんの自慢話を聞かしてくれって言ったんですね。大変なこともあって、ダメなこともいっぱいあるだろうけど、それよりは自慢できるものを案内してくれって言ったの。

産婦人科なんですよ。そして、私は軍病院で産婦人科が自慢とは夢にも思ってなかったんですね。で、産婦人科、何が自慢ですかって言ったら、早熟児を助けることが、世界でできない医学上の技術になっているって言うんですね。で、早熟っていうのを助けたくなったのは、ベトナム戦争で、お産する女性が非常に多くなって、そいでそれが大部分、恐怖感から早熟だったんすね。そうすると、早熟のまま死んじゃって欲しいっていう女性もいるらしいですね。産んじゃったら後が大変だって言う。ところが、やっぱり自分の子を助けてくれって飛び込んでくるというので、早熟児の医学を発展させたっていうのは、自慢だって言って、なんか産婦人科見せてもらいましたね. 産婦人科だから見るためには、なんって言って、白衣を着せられて、医者のつもりで来て下きいって、行きましたけども。産婦人科の患者さんがいっぱいいましたよ。

江上:そうですか。それは意外な話ですね。それは初めて聞きました。

下河辺:それでも、日本の婦人をそこへ入れることを日本の医師会が許さないんですね。これは医師法の相手じゃないからって、だから、沖縄に来ている外国の女性ぽっかり、世話になっていましたね。

江上:じゃあ、沖縄の人はそこで、ぜんぜん診てもらうことができなかった。

下河辺:そうですね。よっぽど、特殊な基地で働いている人が、少しは居たようですけども。いわゆる県民の患者としてほ誰も行かれなかった。

江上:いい病院だってわかっていても。沖縄の人にはその陰で高嶺の花だったわけですね。

下河辺:それにアメリカの兵隊に診てもらうっていうのが、なんとなく嫌だったんじゃないすか. 日本の女性にしてみるとねえ。

●吉元氏について

江上:話は変わりますが、吉元さんとも1:970年当時会われたんでしょうか。

下河辺:うん。

江上:ちょっと先ほど話が出ましたけども、まあ日本政府とどうやってうまくやっていくかという作業を彼はやっていた。

下河辺:いやあ、沖縄でまともな会議の第-回目は、、労働組合の会議に呼ばれたんです。
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江上:そうなんですか。

下河辺:失業率が高くて、産業の立地が少なくて、労働組合として、大変だってい・う危機感を持って、全国の労働組合と連合会の会議を開いたんですね。そこで私は、本土で沖縄に詳しい入ってことで呼ばれたわけです. で、呼ばれていって、最後の方になって、何か発言しろって言われたんで、沖縄で労働組合っていうのは、流行らないって言ったから大騒ぎになって、流行らないですまない、ていう。失業者も多いし、て言ったから、私が見ている限り、沖縄っていうのは、失業率が上がるほど、組合の組織率が下がっているじゃないのかと。しかも、そのリーダー達は、国会へ参議院や衆議院へ行くことばかり考えて、仕事の労働市場のために戦うって人が、意外と居ないんじゃないのかと言ったわけです。ただ突然吉元が、実は先生が言うのが本当です。組合っていう形でなかなかいくら努力してもまとまらないって言ったんだよね。本土から行った学者の労働経済の先生達が、みんなへこたれましてね。そいで、なんとなく暖味なまんま、終わったのが最初でした。

江上:それは1970年ですか。

下河辺:70年ごろですね。

江上:70年ごろ。それは11月に屋良さんに会われる前ですね。

下河辺:前です。

江上:ですね。それは

下河辺:そういうことがあったんで、吉元が私を積極的に屋良さんに会わせたかったんですね。その屋良さんに会わせ方に彼独特の革新系を通じてっていうところが、、彼のひとつの仕事なわけですね。一方で私はその西銘さんっていうのが先輩ですかち、自民党系からも屋良さんに私の推薦があったんで、屋良さんは両方から推薦がある人って珍しいと思ったんじゃないですかね。

江上:なるほど。

下河辺:私個人はどっちでもありませんって言って、付き合ったんですけどねえ。

江上:それは後にも先にも初めてでt/ようね。保守と革新の両方から推薦がいくなんてねえ。そうですか。その会議は沖縄であったんですか。

下河辺:ええ、あったんです。みんな沖縄ですよ。

江上:沖縄でやってその後、屋良さんに会われたわけですね。

下河辺:そうです。さっきも言ったように、1日2日の泊まりで何回も行きましたから。合計30日超えちゃったんで

江上:住民税を取られ(笑),そのときに、屋良主席とも何回も会われながら、吉茸さんとも頻繁に、屋良さんの下ですけどもねえ。会われて、詰めのそういった枠組みの作業を。

下河辺:そうですね。

江上:なさったんでしょうか。

下河辺:なんか保守と革新と両方に私が話ができるということは、屋良さんには相当関心があったんじゃないすかね。
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江上:それは屋良さんにとっては有難かったんではないでしょうか。

下河辺:ある意味じゃそうでしょうね。

江上:ですよね。屋良さんはどちらかというと板ばさみになっていましたから。

下河辺:板ばさみっていうか、革新系の選挙でやった人ですからね。

江上:そうですよね。

下河辺:だけど、沖縄のためには、それだけじゃダメ。

●吉元氏以外に印象に残っている人物について

江上:それだけじゃダメですよね。両方束ねなくちやダメですからね。そうすると、屋良さんのそういった作業をまあ、保守も革新も、いろいろと先生と相談して、返還後の沖縄についていろいろとお話されたと思いますけど。吉元さんとかほかに、とても印象に残っていや、あるいはその復帰というものに尽力されたということですが、とくに印象に残っている方がおられますか。

下河辺:忘れちゃったけど。大城守さんっていう部長がね。それから、平野さんとか、なんか十何人かいましたよ。それは今でも会食しますよ。

江上:あっそうですか。

下河辺:あの、沖縄の人なんて言ったけ。沖縄の連絡してくる人.。坂口さん。

江上:ああ、坂口さん(笑)。 NIRAにもいらっしゃった(笑)

下河辺:NIRAに居た人、みんな付き合いありますけどね。

江上:はあ、私、坂口さんとニューヨークにご一緒したことあります。

下河辺:そうですか。

江上:ええ. 吉元さんの懐刀だった人ですよね. やっぱり、吉元さんはその頃から、かなり仕事ができた人だったんですか。

下河辺:仕事できたってことを言える以上に彼は保革両方にまたがって、政府と繋ぐっていうことに功績がある人ですね。_私は福田さんに吉元っていうのはやれますよって言ったから、福田さんは吉元の繋ぎを期待していましたね。で、内閣としては古川君が全部やっていましたからね。今度は古川が辞めたから、沖縄行って一回宴会でもやったらいいなあと思っているんですけどねえ。

●古川官房副長官について

江上:古川官房副長官ですか。随分いろいろと尽力なさったんですか。

下河辺:随分いろいろやってくれましたよ。

江上:そうですか。佐賀の私の先撃ですけど。

下河辺:そうですか。
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江上:私が現在、所属する早稲田大学大学院の公共経営研究科で土曜日の講義を担当していただいています。手当てはいらんから学生と飲みに行きたいと(笑)。学生が実際連れて行って、早稲田界隈で一緒に飲みながら歓談したそうです(笑)

下河辺:彼は本当にできた人ですよ。

江上:そうですか. とても学生に人気がある。沖縄の復帰に際しては、日本政府側もいろんな方々が一所懸命それこそ職も超えて尽力なさった方いっぱいいらっしゃるわけでしょうね0。先生もちろんそうですが。

下河辺:その功績っていうのは、古川さんとさっき言っlた楠田さんと二人ですよ。

江上:そうですか。

下河辺:この二人が縁の下の力持ちで随分動いてくれましたね。

江上:はあ、そうですか。古川さんはどうゆうときに。

下河辺:いやあ、米軍との関係だってありましたし、いろいろななんて言いますかね。沖縄が四六時中トラブルを起こしていましたからね。婦女暴行事件なんかについても、随分と折衝をちゃんとやってくれたんじゃあないですかね.。うそか本当かわからないけど、古川さんが米軍に言ったら、米軍の方が、男ってものは困ったもんだって言ったって、伝わってきて面白かったね。
米軍だって管理に困うているわけですよね。

江上:そうですよね。いやー本当に大変だって言っていました。私も、大使館の人に全部おとなしくさせるなんてとてもできない(笑)誰だってできない(笑)

下河辺:そうですよ。激しい訓練をすればするほど、女性に対しても激しくなるんでねえ。
島津さんなんか襲われたらどうしたかねえ。

島津:本当ですね。

江上:本当です? 動じない(笑)

島津:まあ、基本的に襲われないから大丈夫です。

江上:楠田さんは佐藤内閣の秘書官としてですよね。

下河辺:秘書官の前からですね。

江上:秘書官の前からですか。

下河辺:はい。そういう手柄があって佐藤さんが、秘書官に連れて行ったわけですからね秘書官になってからももちろん、沖縄をやっていましたけど。最初は産経新聞の記者として派遣されたんですね。それで産経新聞が、どうも佐藤内閣が沖縄返還を始めたらしいというので、楠田さんを取材に出した. それが最初なんですね..

●沖縄への道州制の導入

江上:その頃に戻って、沖縄振興の開発三法案っていうのは閣議決定されていますが、そういう法律の作成とかには先生は関わっておられましたか。

下河辺:そうですね. まあ、私、直接じゃありませんね。その沖縄開発庁がやりましたから。手伝いましたけどね。私は本質的には、沖縄開発庁の設置に反対だったものですから。
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手伝うのもおこがましいことではあったんですけども。実際に設置されちゃった以上は、活躍してもらわないといけないわけですからね。

江上:沖縄開発庁の設置を自民党あるいは中央政府の大多数が推進したのですか。

下河辺:ええそうですよ。それで援助しようっという発想ですよね。だけど、私は道州制っていうようなことで、沖縄道っていうのを作っちゃって、その開発庁が持っている権限を全部地元に譲っちゃった方がいいって意見だったんですよね。

江上:そうですか。

下河辺:これからまた、だんだんそういう議論が出てたんじゃないですか。

江上:出ています。北海道がすでに。

下河辺:北海道と沖縄は道州制たしたらいいと思うんです。

江上:私も25年間、沖縄で暮らしていましたけども、私も復帰の最初から沖縄州にすべきだったんじゃないかと思います。そうすると、現在の沖縄のような、依存型の沖縄でなってなかったかもしれないと思っていますけど。

下河辺:結局、復帰のときにやった方が良かったという議論より、これからやったらよいという理解の仕方が良いと思う。

江上:そうですか。

下河辺:今までああいう形で基礎ができたから、いよいよ自立して開発庁の権限を全部持った道州制をやった方がいいっていうことを言いましてね。法律ができているからこそ、譲る権限の内容が明確なわけで、開発三法全部地元に渡したらいいんじゃないですかね。北海道と沖縄についてはね。

江上:そうですね。北海道については日本政府も自民党政権もそういう方向でかなり真剣に検討しているみたいですね。

下河辺:いやあ、沖縄と両方とも真剣じゃないですか. いまは。

江上:そうですか。日本政府のほうがですか。

下河辺:ええ。

江上:沖縄についてもですか。

下河辺:沖縄が反対だろうって思っているんです。道州制が。

江上:沖縄からあんまり道州制の声が出てこないですね。

下河辺:むしろ反対の声の方が強いんです。直接政府に世話になりたいっていう感じなんです。

江上:そうですよね。

下河辺:未だに強いし。

江上:強いですよね。

下河辺:基地問題っていうのは、道州制でどういう'権限になるか、はっきりしないっていうこともあって、北海道は軍事問題が消えちやいましたらね。やりやすくなったんです。
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冷戦時代に、北海道が襲われるなんていう状態だとできなかったでしょうね。

江上:あそうですか。沖縄が道州制に反対だというのは、沖縄のリーダーの方達、指導者の方々ですか。

下河辺:そうそう。

江上:ですね。経済界とか。

下河辺:それは確かに、知識人としても沖縄の軍事問題っていうのをどうしていいか、ちょっとわかんないんじゃないですか。

江上:やはり沖縄の将来については、先生がおっしゃるように自分達で切り拓くくらいの気構えをもっていかないと、と思われますか。

下河辺:他人様に気概を持てってなんて言うことくらい、図々しい話はないね。

江上:そうですね。なかなか言えないですね。面と向かってね。

下河辺:彼らとしたらものすごい苦労をしているわけですからね1。

江上:そうですよね、本当に。

下河辺:だから日本が唯一、国家として議論なのは、オイルタンカーの安全保障を琉球列島で確保しなければならないっていう問題だけが残っているんですね。で、南沙諸島にゲリラの基地ができたりして、琉球諸島で日本はいかに安全を確保するかっていうのは現実の問題は、ありますよね。それを琉球の人達に頼まなきゃならない。で、尖閣列島っていう話でもなるわけですしねえ。だけどいま、これだけ平和だと、慌てふためいて、いじくり回すっていうことをしない方が、いいのかもしれませんけどね。

江上:そういうことは、まあ、沖縄の場合はそんなに道州制というのが、沖縄側から出てこない限りにおいてはあんまり無理することはない、ということですかね。やっぱり、道州制に踏み切るまでには、沖縄が抱えている基地の問題とか、さまざまな問題が解決しない限りは、ちょっと、北海道と同じようにはいかない、ということですかね。

下河辺:琉球、沖縄の道州制の面積は、北海道の倍くらいありますからね. そんな大きなのを道州制で収まるかなあ、つていう. 何しろ、1000キロと500キロの海に漂っている島々ですからね.。それを一括統治するなんていうのは、そんなに簡単じゃあないですよね。北海道はなんてったって大地というか、陸上ですからね。北方四島含めて、やっぱり陸地として、北海道は考えられますからねえ。沖縄は海洋ですよねえ。だから、北海道を大地というとしたら、琉球は大海ですよねえ。大海の統治の方法っていうのは、なかなかないですよねえ。

江上:散らばってますしねえ。小さな島々いっぱいありますしね。

下河辺:国連の統治なんてことになることは、嫌ですしねえ. もう、日本列島なんですから。

江上:総務省あたりの案では、沖縄はとくに道州制とか州の希望はないから、九州と沖縄は一緒でいいじやないかと、沖縄は九州の一部でいいというような案がすでにできているという話ですけども。
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下河辺:それは九州が反対しているから、まとまんないんじゃないですか。

江上:九州がですか。沖縄と一緒になりたくないと。

下河辺:ぜんぜん違う問題になっちゃうでしょう。

江上:そうですか。

下河辺:だっていまさら、なんてか、朝鮮戦争のための軍事基地で、九州はどうするなんて議論します?

江上:はあ。

下河辺:時代は過ぎちゃった。

江上:九州と沖縄は事情が違いますよね。

下河辺:で、島津藩が敵だ味方だって、いまさらやったってしょうがない。

江上:しょうがないですね。

下河辺:沖縄が入んなら、へそは福岡じゃなくなっちゃうんじゃないですか。熊本が中心なんじゃないすか。本来、島津藩のころは、明治政府は、熊本が拠点ですよね。それを福岡に移しちゃって、もうすでに、琉球と九州ってのは別の地域なんじゃないすか。

江上:行政的には、広域行政、行政ブロックのレベルの事務作業では、沖縄はすべて、いま九州といろいろやっているんですね。

下河辺:それやると、東京は東北と「緒って、話になるわけですね。そうすると、そんなの嫌だって話になるんじゃないすか。だから、政府と、してそういうブロック制っていうのはいじれないんじゃないすか。

●ブロック制が良いか、特別県が良いか

江上:ブロック制といった基本的な自治の単位っていうのは、どうお考えですか。

下河辺:原子力発電を含めて九電力っていうのを再編成でもやると、それが動機で道州制のことが議論になるかもしれないね。九電力、いまさら再編成っていうのはなかなかちょっとチャンスはないでしょう。

東北電力と東電と一緒になるなんていラ、イメージってなかなか難しいよね。

江上:吉元さんをはじめとして沖縄自治労は沖縄特別県構想っていうのは、どうですか。

下河辺:何が?

江上:吉元さんがずっと持論で自治労で言っていた沖縄特別県構想ってありますよね。

下河辺:・特別県は道州制ではない。特別の県なんです。何が特別かって言ったら、普通の県の知事さんよりも、これとこれとこれの権限を持つっていうことまで具体的なんです。

漠然と道州制っていう議論ではないんです。

江上:道州制はもっと、大まかなものですか。

下河辺:大まかっていうか、北海道庁が持っている権限や琉球、あの沖縄県が持っている権限、開発庁が持っている権限をそのまま渡すっていうところが具体的な第一歩じゃない。
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渡せないもの、追加するものっていう議論は残るかもしれないけども、基本的にはいまの開発庁の権限をそのまま地元へ移すっていうことで、特別の県じゃないですか。

江上:それはいま、沖縄は開発庁がなくなって、内閣府のなかに沖縄振興局がありますけども、同じことが言えますよね。

下河辺:そう。

江上:可能ですよね。

下河辺:そう。しかし、持てないままですよね。

●楠田氏とのかかわり

真板:あの、ちょっと前後して恐縮なんですけども、先生と楠田さんはどういう経緯でお知り合いになられたんですか。

下河辺:私?私は佐藤内閣がいろんなことをやるときに、産経新聞の記者として彼は活動して、取材をしてたわけですね。そのときに、私のところへ佐藤内閣について取材に来るっていう、チャンスが多かったわけですよ.。そして、私が国土を語っていると、佐藤さんがどう思っているかっていうような取材をしていましたね. ですから、産経新聞の政治記者として付き合ったのが最初です。そのうちに佐藤さんが惚れ込んで、自分の秘書官にしてからは、今度、総理秘書として付き合うようになったわけです。

真板:あの、そのとき先生は、経企庁のどのようなお立場でいらっしゃったんですか。

下河辺:えーと、彼と最初にあった頃は、調査官じゃなかったですかね. 二度目の調査官のときですかね。今度、楠田さんの会が開かれるんで、なんか書けって言われて、800字の感想文を書きましたけど。そんなの見ていただくと、私と楠田さんとの関係は分かりやすいかもしれません。

江上:それは何に発表されるんですか。

下河辺:楠田さんを偲ぶ会で、一冊の薄っぺらいパンフレットを。800字でたくさんの人が、書いたんですけど。

● 『戦後国土政策の証言』での発言

江上:ああ、そうですか。あと、『戦後国土政策の証言』の中で、私にとって非常に印象的だったのは、下村さんが「沖縄にはいくら投資しても人間がどんどん本土へ逃げていくだけで、産業が興らない。それで、むしろ沖縄にとって良いのは、お金をかけないことだ。

そしたら、自然は残るではないか」と言われた. すると先生は、「沖縄の人は出ていかない、沖縄の人々はずっと居続ける」と反論された点です。沖縄の多くの人々は、復帰したら、豊かな本土に出ていく、だから沖縄の人口が大幅に減るということを、大方のアメリカや日本の研究者たちも当時、言ってましたよね. その中で、先生だけはそんなことはない、ということを見抜いておられたわけですが、、その根拠は何かあったんでしょうか。
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下河辺:沖縄の労働力っていうのは、価値観とか生活様式とかちょっと、本土の労働者とは違うんですね。だから、働いてもらおうと本土に連れてきたら、みんなちょっと違和感があって、本土の労働者と馴染めないんですね。そのうちに、やっぱり帰っていっちゃう人が増えたんですね。

江上:それは、復帰前の時点の話ですか。

下河辺:いやー、復帰してから。

江上:はあ、復帰してから。

下河辺:それでとてもこれは、沖縄で雇用を増やす以外に手がな. いってことを議論したときに、減らせんのは海外だってことになったんです。だから、グアムへとか、ハワイへとか行ってそういう地域と交流をして、労働契約までして、沖縄の若者をそういうところで、働かせようっていうことを言って、本島に残るのは70万くらいがいいっていうことさえ言ったんで、昔は漁民が出て行ったっていうことで、減っていったんで、糸満漁民というのは車のアジア太平洋地域全体に漁船を持って行って商売して、なかなか地元に帰るっていうことがない人達だから、お嫁さんたちはみんな夫が帰ってくる日を待ちわびたっていう伝統ある糸満漁民ですよね。

で、そういう形と同じで沖縄から青年達が、ハワイやグアムなんかの工業なり、サービス産業に手伝いに行ったらどうおっていうことを言っていたわけです. で、残った80万くらいの県民ていうのは、むしろサービス産業で観光とか情報とか医学とか、そういうサービス産業で成. り立ったらどうか、つていうのが我々の意見だった、わけですね。そして、現実にだんだんそうなってくると思うんですよ。だから、観光っていっても、なんてか酒が泡盛があって景色がいいなんてんじゃ、とてもダメですから。それでも、第一次振計で成功したのは、200万人の観光をってとこだけ成功したんですね。そのために、その後の県計画では観光客を500万まで広げたいなんていうことを言ったけども、200万に成功したからといって、500万に成功させるためには、新しい観光サービスのものがなけりやダメなわけですね.。

そのときは、単なる自然環境だけではダメで、やはり、知的な環境の観光サービスをしなきやダメっていうことを言っていて、もっともだって言ってんだけど、なかなか具体的にどうしたらいいか、わかんないでいますけどねえ。

●沖縄観光の問題点と可能性

江上:そうですねえ。ま、観光客はたくさん来ていますけども、旅行の費用がどんどん落ちて、たとえば、ホテルの宿泊費とか随分安くダンピングされたりして、それはやっぱり、沖縄の旅行がグアムとかサイパンとかハワイとの競争になりますから、マスツーリズムと言いますか、旅行社、航空会社主導の観光では、観光客は来ても、沖縄の観光業者の人々には、そんなにお金は落ちないという状況が確かにありますね. 確かに限界にきていますね。
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下河辺:それはしたがって、高度成長期の観光業者の間違いじゃないんですか。お金いくらでも払うよと思って、ああいうもの作っちゃったんじゃないですか。

江上:リゾートホテルとか。

下河辺:リゾートホテルなんていうのはもったいないですよね。で、ひとつも沖縄らしくないすよね。

江上:ええ、そうですよね。施設は上等ですけどね、もったいないです、本当に。

下河辺:上等っていうか、下品なのにお金だけがかかっている感じですね. だから、ちょっと観光業者のやり直しの時期なのね。で、沖縄観光ってもっと安くなきやダメですよ。

昔のようにお金かけて賛沢ななんてそんな時代じゃないすよね。素晴らしい文化を安く接することができるっていう、なんか観光業の大転換期じゃないすか。

江上:そうですね。いまの沖縄の観光っていうのは、沖縄の人々による観光業じゃないですものね。やはり本土の観光業者と航空会社による観光ですよね。だから、私、沖縄の人にも、沖縄らしい観光のためにいろいろ工夫をすべきだと言ったことがあるんですけども。

まだ、やっぱり、圧倒的に本土の観光業者が強いから、なかなか改善されないみたいですね。確かに、本当に大きな曲がり角に来ていると思います。エコツアーとかも、ちらちらっとやり始めてはいるみたいですけど。

エコツアーはまあ現地の住民の人と交流できるようなことを少しやり始めてはいますけど、まだ大きな力にはなり得ていないですね。

先生のおっしゃる、知的なものが必要だというのは、具体的にはどういうものですか。

下河辺:いやあ、私はさっきの軍の3000キロ5000キロのエリアっていうのを情報化することに成功してんだから、それを財産にしてそういう地域の人達に情報を送るっていう業者ができていってと思うんですね。そうすると、そのセンターてどういうところだろうって、遊びに来る人も増えるし、質問しに来る人がいてもいい、つていう気がするんですね。

江上:もっと情報化社会にふさわしいような、付加価値をもったものですか。

下河辺:15、16世紀の琉球ってのはそういう役割を果たしていたわけですよね。だから、アメリカやヨ一口_ツ/てからアジアへ船で来る人達は、情報センターを琉球だと思って来ていたわけですよね。香港というものができる前ですからねえ。で、その後、香港がセきたり、シンガポールができたり、したわけですけどねえ。

江上:そういうのを目指して、沖縄もそういった国際交流の拠点になりたいと、いうようなことを西銘さん以降、ずっと沖縄は言い続けて来たんですけどね。なかなかそうはいかなかった。

下河辺:ダメなんですよ。

江上:ダメなんですねえ。他の国や地域がどんどん伸びていっノちゃってねえ(笑)沖縄はアジアの急速な発展の中でどんどん置いてけぼりをされて(笑)
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●在沖米軍の積極活用と日本政府の有事論の幻想

下河辺:いや、米軍を使わなきゃうそなんですよ. ところが、米軍を使うことを拒否するところから、現実が冷たくなっちゃうんですよね。

江上:米軍をもうちょっと活用したはうがいいのですか。

下河辺:ええ。情報でも医学でもすべて米軍の力を借りたらいいんですよ。で、いまや海兵隊と議論したってそうだけども、戦争のためにいるなんていう気持ちぜんぜんないわけですからね。平和な幸福なアジアを作るために、どんな貢献ができるかって、私なんかにまで聞くような状況ですからね。で、それをやっているっていうと、アメリカのタックスペイヤーとしては、沖縄駐留費を自分達で負担する気にもなるわけですね。無いもしない戦争を有事に備えて、税金払えっていうのは無理ですよね。日本の政府だけが有事論なんですよねえー有事なんてもうないって前提で沖縄の見直しをすべきじゃないすかねえ。

江上:しかし、日本政府もそういうような形で、ソフトに沖縄にアプローチしてくると、また違ってくるのでしょうか。

下河辺:ええ。相手が違ってくると

江上:_まだ日本政府はそういうアプローチをレたことはないですよね。

下河辺:小泉さんが有事、有事って言うから。なんか違和感があって、つながりきれないんですね。

江上:つながりきれないですね。

下河辺:ただねえ、自衛隊を持ちたくないっていう発想が、有事のときのためだけだっていう限定をつけたかっただけだったんでしょうね。だけど、有事がなくなっちゃったら、自衛隊なんで持つのってことになって、なんかこの頃は、地震とかテロとか理由がつき始まったから、沖縄は使わなくて良くなったんじゃないですかねえ. 台湾、朝鮮問題だってなくなったし、沖縄も前のように有事っていうテーマじゃなくなったし。

江上:でも、同時多発テロのときは、相当沖縄は観光客が減りました。

下河辺:ちょっと減ったけど、そノんなに影響受けないすよねえ。

江上:いえ、あのとき、かなり受けました。

下河辺:それは全体が減ったからでしょ。

江上:まあそうです。全体も減りましけど。その後は持ち直して、いまはむしろ好調、観光客の数としては

下河辺:そうですね。

江上:ええ、いまはまた観光客が戻っています。

下河辺:みんな驚いて旅行しなくなったから、沖縄も減ったけど

江上:そうそう、他のところも減ったんですよね。

下河辺:沖縄は安全だっていうことが、割りに知れてきてるんじゃないすか.
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江上:でも琉球大学による沖縄の人々への十年毎のアンケート調査によると、基地を抱える不安が以前よりも増えてきているという結果が出ていました。その結果に同時多発テロが落とした影があらたに加わっているということだそうです. 私は少し、意外だったんですけども、これ琉球大学の....................

下河辺:その話ですが........................

江上:はい。

下河辺:怖いって言うのは、テロが沖縄にくるっていう意味で怖がっているってんすか。

江上:テロの標的になると。沖縄に対して、基地を抱えているがゆえに危害が及ぼされるんじゃないかと沖縄の人は思うのでしょう。

下河辺:ぜんぜんそう思わないの。基地があるからこそ来ないの。戦闘基地に向かってくるばかはいませんよ。司令部とか宿舎を襲うっていうことはやりますけどね。だから、ペンタゴンがやられたり、ホワイトハウスやられたりってことはあっても、嘉手納の空港を襲うなんていう、ばかなテロはいませんよ。

江上:県民はよく詳しい状況を知らないっていうのもありますし、漠然とした不安感はまだあるみたいですね。

下河辺:まあ、基地があると危ないっていうひとつの常識がありますけどね。私なんかが見ていると、武装した基地を襲うばかなテロいませんね。武装してない相手を徹底的になんかやっつけろってことはしたいでしょうけどね。

江上:まあ、,そうですよね;テロはだいたい、出し抜けに、不意打ちでやって効果があるってことですからね。

下河辺:いま、その思想ってものに対して戦っているわけですからね。武力と戦うつもりはないんじゃないですか。アフガニスタンだってねえ、アメリカの押し付けに対して戦っているんで、武力で戦うつもりはないのに、アメリカが武力を使うから、困っているという状態なんじゃないすかねえ。そうすると、過激派の連中が、あだ討ちに行っちゃうような話になるわけでしょ。

●沖縄県民の対基地感情の変化

江上:でも、沖縄の人の基地に対する感情は復帰後、変わってきていますよね。

下河辺:ぜんぜん違ったと思う。

江上:はあ。

下河辺:とにかく、我々の戦争経験者が死んでいくことがいちばんのテーマね. 戦争を知らない青年達の沖縄っていう、そりゃ、まったく違うね. だから、知事選挙でそれが露骨に表れたね。だから、私は知事にあなたは今度、負けだって言ったら、負けると思うけれども、戦争を通じた沖縄の政治家として全うしたいって言うから、それは立派だねえって。

江上:それは大田さんですか(笑)
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下河辺:大田さん。そしたら、大田さんは終わってから、やっぱりなるようになったねえって。
那覇の戦争を知らない青年の票で負けたんだもんね。古いこれまでの票田の方では勝っているんだもん。だか、らもう戦争を知らない沖縄なんですよね。

江上:そうですよね. 私も琉球大学で長い間、教えて高て、若者達の意識は随分変わったことを痛感しました。

下河辺:そうなんですねえ。それを小泉内閣が有事、有事って言うから、うまくくっつかないんですね。

江上:年配の人達は、沖縄戦とかのつらい体験をし七いる人達は、そういう虜痕を受けた原点に必ず返っていきますから。

下河辺:,その傷痕に困っていて、梶山さんが沖縄県民に謝った時期があるんすよね. 自分は陸軍で沖縄戦争っていうのに関係したけども、日本の陸軍のやった行為は、許しがたいものであって、戦後終わったから良かったけれども、県民にお詫びしたいって言う発言をしたんすよね。

で、それは米軍が上陸してきたときに、逃げ迷った日本の軍がやったことが滅茶苦茶なんですね。略奪はするし、暴行はするし、で、それを梶山さんが謝ったっていうととが起こりましてね。だから、そういう陸軍があっただけに、県民としては米軍が上陸してきたら、優しい人達だったなんていう意見まで出たんですね。

チョコレートとチューインガムくれながら、親切にしてくれたっていうことで、暴行事件なんて一部の事件でしかないっていう受け取り方さえ、あったわけですね。そういう間で大田知事はとっても、迷ったんじゃないすかね。どう評価していいかわかんなかった。

江上:先生がおっしゃるように、沖縄も世代が代わっていけば、基地に対する感情も変わってきましたし、将来に対する考えも変わってきていると思うんです。

やはり、経済的にいつの間にか日本政府の財政に依存するような形になってしまったが、やっぱりこのままでは、いけないと。依存しないでなんとか自分達で、自分達の手で、自分達の手と足で生活を作って生きたいと、いう気持ちも沖縄の若者たちには随分、あります。しかし、その基地の抱える現実も、いろんな話し合いがもたれて、SACOとかもありましたが、なかなか動かないこともあって、若い人達の間でも、沖縄は将来どういう風になっていくんだろうかという、そういうジレンマとか閉塞状況みたいなのが、感じられますね。

下河辺:それは住民のくせに、あまりにも客観視しすぎてんじゃないすかね。

江上:いやーそれは、、、私の客観的な意見かもしれません。

下河辺::若者達にはそういうと、私は、ばか言うなとお前が何をやるかによって決まるだけで、そんな誰も助けやしないよと。琉球政府に対して、政府は責任を感じている間中、お金は払うけれども、それによって、沖縄が発展することはまず有り得ないと。現状維持するっていうことが精一杯っていう。だから、発展させんのは君達だっていう、話をするんですけどねえ。誰もやってくれませんよ。

●沖縄の若者に海外出稼ぎの薦め
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江上:そうですよね。沖縄は戦前、アジア太平洋諸国に随分出かけた。まあ当時の国策でもあったのですが、アジアに随分出て行って、アジアの人達と一緒に生活をともにしていたようですが、あまり最近はアジア諸国に沖縄の人々は行かないですね。

下河辺:今の若者は、海外に出稼ぎに行くっていうことを努力しませんね。だから、沖縄に行って若者に会うと、どうしたらいいかって言うと、必ず海外に行って出稼ぎになれって言いますけどね。そんなことしなくても、沖縄で食えます. なんて話ばっかりでねえ。

江上:私はそのうち食えなくなるのではないかと思うんですけど. 米軍統治下の間でアジアとの交流がほとんど途絶えてしまったこととは関係ないでしょうか。戦前は、沖縄から、台湾、インドネシア、フィリピン、グアム、パラオ、サイパンなどへ、大勢出ていたわけですから。で、それが米軍統治下27年間があって、復帰後、再び戦前みたいに、アジアとの交流は起こらなかったというのは、米軍統治下の27年間で速断されたような何らか
の影響があったんですかねえ。

下河辺:遮断というか、繋がりがなくなったわけですね。それまでは、最初に行った人が大変な人で、あとはその人の世話で繋がっていったわけですからね。それが途切れたから、最初の人達、ほとんどいないですものね。

江上:いないですよね。27年間の断層は結構、大きかった。

下河辺:大きいです。これから作り直しですけども、やった方がいいと思いますね。

江上:そうですね. 私はかつて琉球大学の学生たちをフィリピンとかインドネシアとかタイとか連れて行ったんですけども、言葉もろくにわからないんですけども、すぐ沖縄の学生たちはアジアの学生たちと打ち解けてすぐ仲良くなるんですよね。

下河辺:そうそう。

江上:だから、ちょっと、私らと感覚が違うのかなと(笑)それで、タイに行ってもインドネシアに行っても、琉球大学の学生たちは、外国に来た気がぜんぜんしないって言うんですよね。昔の沖縄みたいだとか(笑)そういうのは素朴なことかもしれないけど、大事なことではないかなあと思っているんです。

下河辺:そう。糸満漁民がずっと外に出て働いたときの会話の言葉なんて独特なんですね。

なんか、漁民言葉みたいなのを作って、やってんですね. なんか水を「あか」なんて言うのは、ま、常識でしょうしね。なんか、船を進めるときも、「ゴーヘッド」と「ゴへイ」ていうのもありますしね。漁民同士通ずる言葉っていうのは、共通に持ち始めているんですね。

止上:昔のはうが沖縄は海伝い、島伝いで繋がって、アジアの中で沖縄は融合してたんでしょうね。

下河辺:そうです、そうです。

●沖縄漁業の可能性
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江上:そういう時代をもう一度、再現したいっていう願いが、沖縄の人達の心にありますよね。

下河辺:ありますよ。だから、糸満で私は、その空から魚の存在を那覇に散らせてきて、それをアジア全体の漁民が、インターネットで知って、いわしの群れあそこって行くとか、さばの群れとか、みんな情報化したら、いいんじゃないの。魚から恨まれるだろうな。

江上:もう沖縄の近海から魚がずいぶんいなくなりましたね。

下河辺. :そうだよねえ。相当遠くに魚群を見つけないと、漁業の商売は成り立たない。

江上:日本人の漁業は遠く行かないと成り立たなくなっていますね。

下河辺:しかも獲った魚の売り手を探さなきゃあ! 商売になんない。沖縄に持って帰ってくるだけの量じゃあ、lやっぱり、稼ぎになんないね。

江上:いま、沖縄ではモズクの養殖のように、もっと沖縄の海で、耕す漁業をめざすべきだという意見もあります。

下河辺:モズクが北海道に比べてまずいよ。

江上:そうですか(笑)

下河辺:硬くてまずい。

江上:北海道のモズクはおいしいですか。

下河辺:おいしい。だから、沖縄もだんだんと養殖技術で、北海道と同じようにおいしい
の作るんじゃない。

江上:ああ、いまね。量的には沖縄のモズク多いんですよ。

下河辺:多いらしいんだね。安くてね。

江上:安くて. 、でもまずいのですか(笑)

下河辺:まずい。

江上:(笑)そうですか。沖縄に帰ったときに伝えておきましょう(笑)

下河辺:私の歯が悪いってことも影響しているかもしれないけど。

江上:ちょっと沖縄のモズクは太いですよね。太いから噛みづらいのでしょうか。

下河辺:北海道のは飲めちゃう。

真板:ヤマト用の細モズクも作り始めています。

江上:細モズクも作り始めているんですか。

真板:流通量のちなみに9割が沖縄産です。

江上:細いの?

真板:細いのもあります。

江上:細いのもある。

真板:太いのは県内消費です。

下河辺:太いはうがうまいんだよ。だから、細いのだけにしきれないと思うよ。

江上:ああ、なるほどね。
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下河辺:そういうのは、北海道のほうが圧倒的にうまいもんね。

江上:細いので比べても北海道のほうがおいしいですか(笑)

下河辺:悪口ぽっかり言っちゃって。

●沖縄への苦言

江上:いやいや、でも、大事じゃないですか。「良薬口に苦し」ですから. 先日、私は沖縄に戻って、公共政策学会の「沖縄の可能性」についてのシンポジウムの司会をやったんですけども、那覇市長さんとか、沖縄の企画開発部長さんとか、牧野副知事さんとかにも話してもらって、その後、中央大学の先生にコメントしてもらったんだけど、中央大学の先生に、「沖縄に厳しいことを言ってく_ださい。

良薬口に苦し、ですかち、びしびし言ってください」とお願いしたらこ白熱したいい討論になりましたね(笑)。

下河辺:そりゃあ、そうですよ。

江上:だから、厳しいことを言ってくれたほうが、沖縄とってはありがたい(笑)

下河辺:地域のフォーラムっていうのは、東京からわれわれが行くのは、でたらめな悪口を言うのが役割ですよ。

江上:そうですよね。

下河辺:そうすると、地元で弁解する先生とが、合意してこうやり直そうっていう人がいっぱい出てきますからね。盛り上がっていくんですよ。

江上:そうです。本当にそうです。沖縄の人は、最近、十分、聞き耳を持っている人もいますから、いまのモズクの話おもしろかったですね(笑)いちばん建設的なご意見をいただいたようで(笑)

下河辺:私はモズクが好きなんで、マーケットでいろんなものを買ってくるけど。やっぱり、北海道のはちょづと高いね。

江上:北海道の海産物は魚にしても、おいしいですよね。

下河辺:慣れているんですよね。だから、北海道の味に慣れちゃったわれわれの偏見でもあるのね。

江上:やっぱり、海産物全体では、沖縄は北海道にはかなわない(笑)

島津:沖縄のモズクが出てきたのは最近ですよね。

下河辺:そうですよ。

江上:もっと品種改良して広めたほうがいいですね。

島津:こちらに住んでいる人の知名度としては、圧倒的に北海道のはうが高いんで。沖縄のブームに乗って、モズクが本土に入ってき考ような感じなので。

江上:やはり、いろいろと努力・工夫する価値があるでしょうね。最近は香港とかにも出荷して、中華料理に使ってもらえるように、努力しています。沖縄の香港事務所と台湾事務所とシンガポール事務所がありますね。ああいうところで、一所懸命、モズクを中華料理に使ってもらえるように売り込んでいます。沖縄の県庁マンが、商社マンみたいに(笑)
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そういう努力も、まだ小さな動きなんですけども、そういう努力もしています。

下河辺:だけど、中国料理っていうのは、海鮮料理ってのはないんですよね。海鮮料理ってのは特殊な地域の特殊な料理。日本人は海鮮が大好きですよね。

江上:ええ、そうですよね。
それでは、どうも今日は、長い間ありがとうございました。

下河辺:いやいや、何のお役にも立ちませんで。

江上:いやいや、復帰の時のいろんな話を聞かせていただきましてありがとうございました。

下河辺:琉球の勉強を誰かがちゃんとしててくれるといいですよ。

江上:私はいま、早稲田大学の大学院、公共経営研究科にいます。院生はまだ40名くらいで少ないんですけども、その中に、沖縄のことをテーマにする、たとえば環境と開発の問題とかライフスタイルの問題とか、そういうテーマで修士論文を書きたいという院生が数名います。

下河辺:へえ。

江上:私は最初、驚いたんですけどね(笑)`本土の若者が沖縄を客観的な目で見て、その沖縄を研究テーマにしたいという傾向が出てきて′います。

下河辺:それはいいですね。

江上:私も早稲田に来た意味がひとつ増えたなあと思っています。ひとつのブームなのかもしれませんけれども、ブームで終わってほしくないです. 私も今後、沖縄のことに関心を持ち続けていきたいと思っています。

下河辺:是非やってください。

江上:そのためにも、先生からいただいたいろんな資料等を若い人達が利用していくと思いますので、それらの資料は沖縄に戻さなくても東京で十分、活躍するかもしれません。

下河辺:ありがとうございます。

江上:こちらこそ、どうもありがとうございました、今日は。

下河辺:いやーどうもご苦労さまでした。

江上:これからもまた、いろいろ伺おうと思っていますのでよろしくお願いします。

下河辺:この人に言われると、何でもやらされるから。
(了)
(次回は1 1月4日午後1~時半)
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●大域守氏について

江上:先生、前回、おっしゃっていた大域守部長さんという方について、沖縄県庁で調べてもらったんですけども、

先生が1970年に会われた頃は、琉球政府総務局の企画部長なさっていたんですね。

下河辺:そうです。

江上:復帰後、沖縄県になってから、企画部の次長。

下河辺:次長でした

江上:前は総務局の企画部長ですから、そういう流れになるんですね。

下河辺:そうですね。

江上:企画部の次長をやられて、その後、農林水産部の次長になられまして、それで、一応、県庁の方は退職さ

れて、それから畜産公社の専務理事、その後、農業試験場の農業試験場長をやられて、それは1978年から79

年. そこまでは県の人事課のほうで軍録に残っています。

下河辺:ああ、そうですか。

江上:沖縄県になってからも、大域守さんとはちょくちょく、お会いになっているんですよね。

下河辺:ええ、会っています。

江上:そうですよね。その後の記録はもう沖縄県にはなくなっていて、今どうしていらっしゃるか、ちょっとわかりません


下河辺:今は悠々自適して、自分で農業やってんじゃないすか。

江上:ああ、一番いいかもしれませんね(笑)ああそうですか。最近はもう大域さんにお会いなさらないですか。

下河辺:最近、ちょっと会ってないですね。

江上:そうですか。年齢からすると、先生よりちょっと若いくらいですか。

下河辺:同じくらいじやないすかねえ。ちょうど、戦争、私が大学のとき、戦争行ってたわけですから
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江上:ああ、そうですか. ほとんど同じですね。ああ、なるほど。そういう、もっといろんな方々といろいろあったでしょう

けど。先生、早速ですけど、最初にこないだインタビューさしてもらうて、ちょっと確認のところをちょっと。

下河辺:ああ、そうですか。はい。はい.

江上:それでは、真板さんの方から質問をお願いします。

●前回のインタビューの補足質問一一沖縄にかかわることになるきっかけ

真板:ちょっと、事実関係の部分でですね. ′いま、前回のテープおこしの作業をやっているんですけど、えーと、あ

のちょっと、大事かな七思われる部分でですね。先生と沖縄の関わりあいの部分でですね。一番最初は、山中

貞則長官から直接依頼されたという話があったと。後段になってくるとですね、楠田さんからの依頼でというお言葉

出てくるんですよ。

下河辺:楠田さんからの依頼、それは楠田さんが佐藤さんの秘書官になってから。

真板:もちろんそうです。

下河辺:はい、はい。

真板:で、じゃあどちら′の方からご依頼されて、沖縄に関わることになったのか。

下河辺:それは、山中貞則からですな。それで、行ってたら、しばらくして、佐藤内閣からも頼まれたっていう。

真板:はっはあ。そうすると、時期的にはどういう感じになるんですか。あの山中長官、あの前回のお話の中で沖

縄に一番最初に行かれたのは、70年11月の屋良朝苗さんにお会いになりに行くのがはじめてで、そのときに、一

番最初の沖縄での仕事というか、関わりあいは、吉元さん等が参加なさっていた労働組合の会議だったよという

おっしゃられかたをなさってたんですが。

下河辺:いや、労働組合との会議は、屋良さんとの関係とはまったく別ですからね。

真板:別? はあ?

江上:屋良さんと会われる前に会われたとおっしゃってましたよね。最初に労働組合関連の会合で、吉元さんに会

ったと。

下河辺:忘れちゃったけど、労働組合の方が後じゃないですかね。

江上、真板:後ですか。

下河辺:山中貞則に言われて

江上:そっちのはうが先なんですね。

下河辺:屋良さんに会ったほうが、先でしたよ。

江上:あっそうですか. なるほど。

下河辺:そして、沖縄に私がいろいろ親しいっていうことで、私が労働組合に呼ばれたわけですから。
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真板:ほう。

下河辺:それは、自治労中心のフ_オーラムでしたから、

真板:はあ、はあ。

下河辺:地方自治っていうことがテーマだらたわけです。それは、私が沖縄に詳しいって前提で呼ばれたわけですか

ら。

●屋良氏との関係、仕事の内容

江上:それでは、前回のインタビューでお話していただいたその内容にちょっと追加で質問させていただくんですけど

も、先日、屋良さんとの関係で仕事なさったとお聞きしました。

それで具体的な仕事をいま、思い出していただくのは大変かもしれませんけども、屋艮さんと会われて、復帰の枠

組みについていろいろとお話をなさっていろいろな仕事をされた、そういう仕事についてご記憶がおありでしょうか。

下河辺:それはいろんなことをやりましたからね。

江上:そうでしょうね。特にその中で、印象に舞っておられるというようなことは何か。

下河辺:なんか、屋良さんというのは、学校の先生ですから、そして、選挙は革新系をバックにやっていましたから、

自民党と繋がんないんですね。

だから自民党と繋ぐことが必要だったわけです。そこは、沖縄自民党と永田町自民党とはぜんぜん、水と油くらい

違うんですね..

江上:そうですか。

下河辺:だから、. 難しかったです。

江上:はああ. 70年というと国政選挙が沖縄で実施された年ですね。

下河辺:そうですね。

江上:それで、自民党からは国場幸昌さんと西銘順治さんが当選してますね。

下河辺:'そうですね。

江上:そうですね。当選したぽっかりですね。

下河辺:そうですね。

江上:国政に乗り込まれたぽっかりだから。

下河辺:だから、沖縄のひとつの自民党的な動きを国場さんが代表していたわけですね。

●国場幸太郎氏の印象

江上:国場さんが、国場幸太郎さんですか。

下河辺:ええ。

江上:はああ。

下河辺:ところが、国場さんっていうのは県民に決して評判は良くないんですね。
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江上:国場幸太郎さんですか

下河辺:ええ。

真板:幸昌さんじゃ?

江上:幸昌さんね。幸太郎さんはお克さんのほうは、経済界のまとめ役でとても人望のある方でしたよね。

下河辺:人望って言ってもねえ、米軍基地経済の中心なんですね。

江上:ああ。そうですね。

下河辺:だから、革新系から言えば、

江上:ああ、そりゃそうですね。

下河辺:基地を認める入っていう印象があるでしょ。

江上:ええ、そうですね。

下河辺:だから、少しトラブルだったんですよ。

江上:あ、そうか。

下河辺:ところが、~社会党の方も、何さんって言いましたっけ? えーと、忘れちゃったな。

江上:上原

真板:上原康助ですね。

下河辺:上原さん。上原さんを永田町自民党と沖縄自民党との違いの谷間に落ちちゃうんですね。だから、なか

なか占街の時間が長かった沖縄っていうのは、本土並みに復帰するっていうのが、政治になるほどトラブルっていう

、のが多い、なかなか理解できない関係にあ、りましたね。

江上:そうですね。やっぱりそういった深い断絶があったんですね。それを一所懸命、繋がりをつけようと。

下河辺:吉元と古川と私と三人で繋ごうっていうことを一所懸命やった時期ですよね。

江上:ああ、なるほど。国場幸昌さんは、あんまり人気がなかったんですか。福田派でしたよね

下河辺:福田さんとは近かった。

江上:ですよね. 先生が以前、おっしゃったように、屋良さんは福田さんを非常に頼りにしていた。そういう関係で、

国場幸昌さんは福田派に所属されたのですか。それでも国場幸昌さんは日本政府との太いパイプになれなかっ

たんですか。

下河辺:いや、その、なんて言いますかね。補助金なんかでは、国場さんがやんなきやできないこと多かったわけで

すね。政府に対して. だけど、国喝さんの政治的立場は、米軍の占億を認めるっていう状態で非難され七いまし

たよね。

江上:それは、国場幸太郎さんも幸昌さんも一緒ですよね。

下河辺:そう。

江上:ですよね. だから、なかなか客観的なまとめ役にはなれなかった。
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下河辺:脱基地化っていう政治からすれば、敵ですから私はね。

江上:そりゃそうですね。

下河辺:だけども、現実問題としては国場さんが米軍の基地を利用して、沖縄の経済をなんとかもたせていたって

いうのは、事実でしょうね。

江上:そうでしょうね。

●一次振計で達成できたのは2 0 0万観光

下河辺:そのころ、政府は日本の企業が立地するっていうことで、沖縄経済立て直しっていう話をしていたけども、

ひとつも成功しなかったわけですね。結局は、経済的には基地経済でもっていた。その中で観光っていうテーマが

一番アピールしていて、200万観光って言ったときは、誰も信用しなかったのが、計画が達成したのは200万観光

だけ達成したんですね。

江上:そうですね。

下河辺:そしたら、みんな菩んじやって、500万観光って、数字だけ高くしたんですね。だけど、200万と500万じゃ

あ一観光の質を変えなきや、達成できないっていうときに、質を変えるっていうことが、なかなかうまくでき. ないで、

こんにちまで来ちゃったわけですね。

江上:現在もそうですね。

下河辺:で、飛行機の運賃だけ安くすれば、いいような話になっちゃったでしょ。

江上:そう、その通りですね。

下河辺:それで、豪華な変なホテルがいっぱいできちやって、沖縄観光これからもう一度議論のしなおしですね。

江上:先生がおっしゃっているように、やっぱり質の転換が必要だと。

下河辺:そうそう。

江上:その質の転換がなされないままにホテルの数だけ増えちゃって、結局、現地の沖縄の観光業者にとっては、

そんなにいい状態ではないですね。要するに宿泊費を安くして、安いパック旅行で、という状況になってしまって、

それはやっぱり先生おっしゃった沖縄観光の質が変わらなかったということでしょうね。

下河辺:変わんなかったというか、豪華なホテルがいっぱいできたわけですよね。レジャー用の。
だから、飛行機運賃安くすれば、宿代もとれるって思ったんでしょうね。

江上:そうしたら、そうはならなかった。

下河辺:でも、相当な収入じゃあ、なノいですか。

江上:そりゃそうですね。いまじゃあ、沖縄観光が沖縄からなくなるようなことがあると、沖縄経済は大変ですね。だ

から、やはり前回もおっLやいましたけど、沖縄観光のあり方をもうちょっと工夫して、もっと現地の人からも観光客

にとっても喜ばれるような、そういうような工夫といいますか、いろんな種類を組み合わせたようなものが必要。
190

下河辺:沖縄っていうのは、観光客でも県民までそうだけども、海で泳ぐ人が、いないですね。ホテルのプールでし

か泳がない。それもどらかちょっとおかしくないですかね。海っていうのは、夜、恋人同士が散歩するところになっちゃ

っている。

江上:私は北九州の海で育ちましたから、リゾートホテルで海のそばにあるのにプールで泳いでいる光景というのは

、なんかよくわからないですけども。

下河辺:でもねえ、日本人はそうなってますね。だいたい湘南だって、湘南で泳ぐ人いなくて、特殊なアクアラングの

人だけで、あとはみんな臨海部のプールで泳いで遊んでいる。

江上:そういう意味ではその本土化の一環ですか。

下河辺:ええ。

江上:そうなんですか。昔とはずいぶん日本全体が変わったんですね。

下河辺:人間が違っちゃったんですね。

●西銘順治氏との交流

江上:(笑)話は変わりますが、もう一人の西銘順治さんについ伺います。西銘さんとは旧制水戸高校の一年先

輩だということで、よく桜坂で一緒に飲んだと前回、おっしゃっていましたけど、1970年当時から西銘さんともお付

き合いがあったのですか。

下河辺:まあ、先輩ですから。

江上:そうですよね。

下河辺:西銘さんが手伝え、なんて言うから、よく行ったですよ。

江上:ああそうですか、どういう手伝いをなさったんですか。

下河辺:いやーそれは、知事が抱えた問題、いっぱいありましたから、どうしたらいいかとか、これでいいかとか、いろ

んな相談持ちかけられて、いい加減なこと答えていましたけど。

江上:あの、. じゃあ、西銘さんが知事になられた78年ですね。

下河辺:そうですね。

江上:78年から3期勤められた。

下河辺:そうですよね。

江上:12年の間ですね。

下河辺:そうでうね。

江上. :その間、で、おそらく、下河辺先生にいろいろご相談なさりながら-、西銘県政はいろいろなプロジェクトをや

ったり、公共工事もやりました。で、いろんな大型プロジェクトをやって、建物もいろいろ作りますけども、まあ、そう

いう多方面の公共工事もこのとき、西銘さんも積極的にずいぶんや、りました。その一環として、国際交流拠点

形成という構想を西銘県政は打ち出します. この構想について西銘さんから下河辺先生に相談があったんでしょ

うか。
191

下河辺:いやあ、もちろん相談はあったし、なんか15、16世紀の琉球っていう立場をもう一度再現しようっていうこ

とでしたからね。で、なんか、アジアの情報拠点ていうことでグローバリゼーションに対応しようっていうことをあの当

時盛んに知事とやったもんですよね。

●平良幸市知事と万国津梁の鐘

江上:はあ、そうですか. あの、そういうそのアジアのなんて言いますか、交流拠点にするっていうのは、沖縄の人々

っていうのは、やっぱりその昔の大交易の時代がありますから、特に行政のトップにたつ方々は、保守にしても革新

にしても、必ずその_話をなさっていましたよね。

西銘さんの前の革新の平良幸市さんも万国津梁の鐘とか、そういうのをあれしていました。だからずっと、沖縄の

人々というのは、やっぱり、あの時代、独立していて、まあ、あのアジアに全面的に展開していて、あの経済的に

繁栄した時代というものをもう一回沖縄は取り戻したいという気持ちはとても強いですね。

下河辺:そうですね。面白かったのは、沖縄へ行くと橋を架けるっていう言葉が、土木工事で橋を架けるという話と

違うんですね。世界と繋ぐことを津梁、津梁ってね。

江上:万国津梁のね。はあ、はあ。だから、橋を架けるという話は土木工事のことかと思ったら、実は国際交流の

話だった(笑)

下河辺:国際交流の話。

江上:そうですよね。その万国津梁の鐘についてですが、旧沖縄県庁舎の知事応接室に万
国津梁の鐘という扁額を一番、最初に掛けられたのは、. 屋良さんの後継者で革新知事だった平良幸市さんだ

そうですね.

下河辺:ああ、そうでしたかねえ。

江上:ええ。

下河辺:ああ、そうですか。

江上‥ええ、しか′し平良県政は短命で、平良さんが知事になられてから2年ちょっとで病に倒れられました。その

後、西銘さんが知事になります。

下河辺:平良さんがねえ、沖縄県の県庁の庁舎の建物にこれは米軍が建設したって記念碑があるんですね。

江上:ありましたね。

下河辺:それを撤回したがってね。

江上:ああ、そうですか。

下河辺:そいで、津梁の懸け橋っていうことを特に主張したんですね。

江上:ああ、そうですか。平良さんはあの記念プレートを嫌がられたわけなんですね。 あれは要するに、にアメリカ

政府が琉球人民にプレゼントしたというプレートでしたからね。
192

下河辺:あれほど嫌なものはない。

江上:そうおっしゃってましたか。

下河辺:はい。

江上:そうですか、なるほど。

下河辺:だから、引越ししちやいたいっていうことを盛んに言ってたもんですよね。

江上:行政のトップとして、やっぱり嫌だったんでしょうね。

下河辺:行政のトップとしてというより、沖縄県人として不愉快なんじゃないすか。

江上:不愉快(笑)やっぱり占領下にあるみたいな感じで。

下河辺:何もそんな、恩に着せることないだろう、という感じはありますよ。

江上:ああ、そうですよね. 平良幸市さんもまっすぐな人でしたから。平良幸市さんは、軍転法という法案を出され

て、基地が撤去された場合、その軍用地を転用する法律を一所懸命、作ろうとなさって、それは挫折した形にな

りました。

下河辺:それは大田知事に引き継がれて。

江上:そうですね。

下河辺:裁判の結論を待つことにしたんですね。

江上:はい、ええ。

下河辺:だから、安保条約っていうのを否定できない沖縄県にとって、裁判所が土地問題に結論を出しちゃったら

、ちょっと抵抗できないっていうのが大田さんの意見で、大田さんはもうああいう学者だか.ら、裁判所が否定的に

出すのを分かっていながら、裁判所に依存して草地をオーソライズしていった人ですよね。

江上::そうですよね。

下河辺:だから、外交上の問題と土地を巡る司法上の問題とを別に考えた人ですよね。

●平良幸市知事と  7・3 0

江上::平良さんの頃の話に戻るんですけども、ナナサンマル(7・30)と呼ばれた交通法規の変更もありましたね.
下河辺:そうですね。

江上:ええ、あれで相当、平良幸市さんは体力を消耗なきったそうです。

下河辺:ああ、そうかもしれないなあ。

江上:ええ、それが病気の引き金になったのではないかと、沖縄では言われているんですけどね。

下河辺:そうね。

江上:幸いに大きな事故は発生しなかったですね。

下河辺:そう。

江上:あれはやっぱり、行政関係者の人とかが非常に気配りなさったからでしょうね。ちっと大変な事故とかいっぱ

い起こるんじゃないかと言われて、沖縄県民は怖れていたんですけども、そんなことはなかったですね。
193

下河辺:そうですね。

江上:私はその当時、すでに沖縄にいて印象深いです。

下河辺:そういうところは_. 米軍はよく訓練されているんじゃないすかね。

江上:ああ

下河辺:だから、軍用の革め事故っていうことがあんまり大きくなかったですよね。

江上:そうですよね。

下河辺:婦女暴行はあっても、車の暴走っていうのはあんまりなかった。面白いですねえ。


江上:そうですね。その時はなかったですね。

下河辺:もっともっと、酔っ払い運転で、ひどいんじゃないかって予想してたんだけど、意外とそうではなかった。

●平良幸市知事が気にかけていた沖縄農業のあり方

江上:なかったですよね。沖縄県民は30が無事、終わって安堵しました. ところで平良幸市さんが、先生に対して

相談されたことはないですか。

下河辺:そうでしたね. あのころ、沖縄の農業のことについては非常に悩んでおられたですね。

江上:ああ、そうですか。

下河辺:で、沖縄の農業って、どうしたらいいんでしょうかって。輸入物にだけ頼るようなことでいいんでしょうかねっ

ていうことをだいぶ言っておられたですね。 だから、コメなんかでも自分で作る方向をちょっとやってみたりしたわけで

すね。それまでは、輸入のコメの方が安くていいって言われてたもんですけどね. 魚っていうのは別でしょうけども、ブ

タとか野菜とかっていうのはどうしたらいいかは、相当悩んだんじゃないすかね。

江上、:平良さんは沖縄県の西原町のご出身で、今はもうかなりベッドタウン化してますけど、以前はあそこはほと

んど農地だったところでですね。

下河辺:ああ、そうですか。

江上:現在の琉球大学も西原町にありますが、多分、平良幸市さんが知事になられた頃も、農地が多かったと

思います。

下河辺:ああ、そうですか。

江上:そんなこともあって、気になさっていたんでしょうね. コメの輸入とおっしゃいましたが、それは日本本土からの

輸入ってことですか。

下河辺:いやあ、むしろタイからとか、なんか。

江上:東南アジアからですか。

下河辺:東南アジアですね。
194

江上:いまでも、泡盛の原料となる米はタイから輸入していますからね。でも、私は1977年に沖縄に渡ったんです

けども、当時、沖縄で食べる米はおいしくなかったですね。

下河辺:そりゃそうでしょう。

江上:たぶん、新米などはその当時、沖縄に入っていなかったでしょうね。

下河辺:いやあ、コメっというものをなんか電気釜で炊いて食べるっていうことをしないところだったはずなんですよね


江上:え、そうですか。

下河辺:油で煎っ亘り、チャーハンにしたり、食べ方が違うんですよね。琉球っていったら、コメの食い方ちょっと特

色のある。

江上:ああ、なるほど、ジュウシイとか。

下河辺:ええ。

江上:最近はおりしい米が食べられるようになりましたけど(笑)

下河辺:最近はもうぜんぜん、どこだって同じ。

江上:なるほど. 下河辺先生もそうですが、沖縄の農業については、いろいろ指摘があります.。もうちょっと特色が

あって沖縄の亜熱帯の農業を生かすようにすべきだとか。

下河辺:そうですね。

江上:いま、沖縄のマンゴー栽培とかはすごく良くなりましたですね。

下河辺:、マンゴーはいいですよ。

江上:いいですね。一時期、ラン栽培もかなりやってたんですけども。

下河辺:ええ、そうですね。

江上:いまは、ちょっと東南アジア国々に負けて(笑)

下河辺:中国かなんかにやられちゃうんじゃ

江上:そうなんですね。ラン栽培が盛んになった頃に、東南アジアとか中国のランが入ってきて沖縄のラン栽培が打

撃を受ける。マンゴーもそうならないかなあと心配していたんですけども、マンゴーはまだ大丈夫ですね。いまのとこ

ろ元気がいいみたいですね。

下河辺:いやあ、世界的な花の展覧会、博覧会に日本が出すのは、珍しくて滅多にできないっていうのを自慢す

んですね。他の国は一般の人に売れるように大量にっていうような発想なんですね。だから商売としたら、ぜんぜん

もう、勝てないですね.。名人芸を競っているわけです。日本は。

江上:日本は. なるほど(笑)花井産葉ではないわけですね。

下河辺:そうなんですよ。

江上:海洋博公園には熱帯ドリームセンターがあって、美しいランを世界中から集めたセンターができましたよね。

沖縄はやはり、さとうきび栽培がどんどんだめになっていて、衰退の一途をたどっています。でもやはり、農業を何と

かしなければという人たちは、結構いるんですが。

下河辺:砂糖なんかでもねえ、その世界の砂糖市場に勝とうなんて思ったら、沖縄の条件じゃあ、とても勝てませ

んよ。
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江上:そうですよね。

下河辺:だから、沖縄の砂糖っていう特殊な砂糖を狙えばいいんですね。このごろ、なんかいろんなスパイスでも、

みんな特色で争っていて、マーケットの大きさで争っていないわけですね。

だから、沖縄砂糖っていうのが、なんかちょっと特殊なおいしさをもっていたり、するといいと思って、ちょっと、沖縄の

砂糖の特性をどこへ求めたらいいかなんていうのは、議論すると面白いと思うんですけどね。

江上:はあ、そうですね。沖縄の塩は、たとえば、粟国島の塩とかいろんな塩が、ちょっと高いですけども売れている


下河辺:有名になってきた

江上:ええ、有名になりましたよね。

下河辺:ですから、砂糖と塩と~ドッキングさせたりしたら、面白いかもしれないんですね。

江上:そうですね。農家の人が工夫して、沖縄の黒砂糖というものに何か付加価値を。

下河辺:スパイスを加えて、独特なもので、いまは黒酢だけが動いていますけども、黒酢を越えた何かが欲しいで

すね。

●西銘県政の国際交流事業について~南北センター構想秘話

江上:そうですね。いまは量より質の時代で、個性の時代ですからね. 個性をもっといろいろと沖縄側が打ち出し

ていって、沖縄のさとうきび、砂糖そのものにいろんな付加価値をつけられるといいですね。先生がおっしゃったよう

に、何かスパイスをつけたりしてですね。

あと、ちょっと前後してしまいましたけども、西銘さんの国際交流拠点形成構想で、あのときに、ちょうど、日本政

府が東南アジアとの交流を盛んにしようというと言って、あれは鈴木善幸さんのときだったんじゃないかと思うんです

けども、中山太郎長官が南北センターを沖縄に作ったらいいじゃないかというような話で、で、それを受けるような

形で、国際センターというのを西銘さんは、沖縄に国際センターを作って欲しいということを言われて、それから、コ

ンベンションセンターを沖縄に作りたいと、もうひとつは、日本と東南アジアの交流セシターを、いわゆる情報センタ

ーみたいなものを作りたいと、3つをあの当時、西銘さんはこの3つを掲げられたんですね。

下河辺:その、時がたつにしたがって、いま言ったように多様な意見に変化していったわけですけども、一番最初っ

ていうのは、ハワイのセンターと同じものを沖縄にも作ろうとしたんですね。

江上:東西センターですか。

下河辺:ええ、東西センターつていうのを沖縄にあるから、日本は南北センターつていうことでやろうと。ということで

、やったわけなんですね。そして、東西センターとも交流してハワイとの関係を持ってはじめたんだけども、どうも東

西センターがはやらなくなっちゃってですね。アメリカの方も東西センターにあんまり興味を持たなくなったために、日

本側で野村総研がやっていた南北センターも、ちょっと力を失っちゃったということで終わったんですね。

そのときに、吉元がどうもそれじゃあ情けないから、自分たち独自に南北センターやろうっていうことを言い出したと

きがあんですね。
196

江上:あ、そうですか。

下河辺-:ところが、南北センターつていうのはそううまくいかなくて、うまくいかなかった理由が、日本側にあって、日

本の大学の学者が嫌がったんですねふその強力な学者が沖縄の大学を支配するんじゃないかっていう、恐怖感

なんですね. だから、だめな教授を保護するためには、こんな素晴らしい話はやめたほうがいいかねっていうような

話になったりしましてね。

そいでむしろ、東南アジアと繋ぐっていうことをやれば、教授たちも元気が出るんじゃないかって言って、医学と知識

交流とふたつの面で、アジアとの関係のセンターに沖縄をしようという話にまとまっていったわけですね。そしたら、米

軍が喜んで、米軍の持っている情報機能の施設を全部使ったらいいってことと、沖縄の海軍病院を利用したらい

いっていうことを言ったとたんに、基地反対側の連中が、その案を取り消したいって言い出したんですね。

それで、結局、うやむやのままなんです。それからあとは、沖縄海兵隊に対する理解が、沖縄の大学や知識人の

間でうまくいっていないんですね。政府も沖縄の海兵隊は有事のためにいるっていう見方をしたんで、海兵隊の

人たちと意見がまったく食い違っちゃったんですね。

沖縄海兵隊の人は、有事なんていまは考えられないと、北朝鮮は煽っているけども、北朝鮮もそんな軍事力を

発揮してアジアを戦争に巻き添え食わせるようなことは、絶ないって言ってですね。

有事でないときの海兵隊の役割こそテーマだということで、留学生を処理するとか、難病を処理するとか、いうよう

なことを一所懸命海兵隊はやりだしていろわけですね。だけど、国も沖縄県も有事のために海兵隊がいるっていう

認識のもとにいるもんですからね. だからこそ、有事のためだから、駐留を認めているっていう間違った理解なんで

すよ。困ったもんですね。

●スカラピーノ教授の思い出

江上:それは結局、沖縄県民にも、海兵隊は怖い殴りこみ部隊であるという印象が強いですね。先週、先生もよ

く御存知だと思いますが、東アジア問題の大家で、カリフォルニア大学バークレイ校のスカラピーノ名誉教授が早

稲田大学で講曝されました. 私は1981年から82年まで1年間、スカラピーノ教授のところで研究をさせていただ

きました。

下河辺:あ、そうですか。

江上:はい。ずいぶん昔のことですけども。それで私は懐かしくて、講演終了後、ご挨拶に行きました。

下河辺:彼は日本が好きですからね。
197

江上:ええ。

下河辺:いろんなところへ顔を出して来ますね。

江上:そうですね。スカラピーノ先生は、若いころ、日本語をお話になったそうですね。で、もう81年に私がアメリカ

行ったときは、日本語はぜんぜん話せませんでした。

下河辺:彼が面白かったのは、日本人と接するときに、英語がしゃべれる人と付き合うと危ないと。頭がアメリカ化

している人ぽっかりだと。

江上:そうですか。

下河辺:だから、日本人と話をするときは、英語ができないっていう人と付き合フてみなきやだめってなことを言って

いたのが楽しかったですね。

江上:そうですか(笑)

下河辺:確かにそう言われてみりやあそうかもしれない。

江上:はあ、そうですか。そのときはスカラピーノ先生は、日本語をお話になった。

下河辺:日本語はちょっとだけ、話しましたね。ほとんどだめでしたけど。

江上:はあ、そうですか。それは先生、何年ごろの話ですか。

下河辺:あれ、あれは何年かなあ. 何年ごろになるかなあ。あれは私があれで、だから昭和42、43年から45年ぐ

らいじゃないすかね。

江上:あ、そうですねえ。そうすると、1970年前後ですね。

下河辺:そうですね。

江上:そのころはまだ、スカラピーノ先生は日本語をお話になってたんですね。私がお世話になった81年の時点で

は、まったく日本語は話されなかったですね。スカラピーノ先生は、先生もご存知のように、沖縄の問題にずいぶん

、関わってこられましたよね。

下河辺:そうです。

江上:沖縄返還にも関わって、また沖縄についてのいろんな報告書も。

下河辺:作ってんじゃ、日日

江上:作ってますね。かつて琉球大学教授で副知事だった比嘉幹郎先生が、復帰20周年で恩師だったスカラピ

ーノ教授を沖縄に呼びました。

下河辺:そうでしたね。

江上:それで、久し振りにスカラピーノ教授は沖縄にやって来ました。

下河辺:ああ、そうでしたかねえ。

江上:そのスカラピーノ先生が、先日、早稲田大学で講演なさったときに、いま先生おっしゃったように北朝鮮はそ

んなに心配するはことないって言ってましたね。北朝鮮は生き残ろうと思ってんだから、生き残ろうと思って核を振り

回したりしているわけで、自暴自棄になっているわけではないから、そんなに怖れることはないという風におっしゃって

いましたね。

下河辺:そりゃあそうですよ。

江上:そうですよね。だから、北朝鮮が怖いから、海兵隊がいざとなったら行くからというのはねえ。そういう恐怖心

を沖縄の人が持つ場合多いんですけども。まあ、よくよく冷静になって考えてみると、現在の北朝鮮というのは、ま

あ一軍いいタイミングで、できるだけ早いタイミングで対話の路線に乗ろうとしているわけですよね。
198

下河辺:あれは乗らなきゃ、危ないって思っているわけですよね。

江上:そうですよね。

下河辺:それで、アメリカっていうのは、時々きちがいになるから、アメリカをきちがいにさしちゃったらだめって思ってん

すね。

江上:そこはわか~ってんですね。

下河辺:わかってんです。イラクとかアフガニスタン見てて、そう思うんでしょう。

江上:そうですねえ. 気が違ったときに怖いという(笑)

下河辺:何するかわかんないと思ってんですよ。

●橋本首相が提案した亜熱帯研究所

江上:そうですよね。で、西銘県政のときの話に戻りますけども、西銘知事は国際交流の拠点形成を打ち出しま

す。そしてその一環として提唱したコンベンションセンターも、できたら日本政府の方で作ってもらえないかなというこ

とでしたけど、しかし日本政府もそれにお金をだせないということで結局、沖縄県と防衛施設局がお金を出してで

きました。

下河辺:いやあ、私が総理に沖縄に政府が何をやったらいいかっていうペーパーを見ていただいたでしょう-けど、出

したときにA項、B項、C項というのを、ずっと、総理が見ていやーこれやろうって、言ったのが亜熱帯研究所だった

のです。

コンベンションセンターの方が、良くないかって言ったら、やっぱり国際級のレベルでないと嫌だから、沖縄に交流セ

ンターつて言っても、人もいないじゃないか、で、さんご礁なんかだったら、専門家もいるんじゃないか、ということで

、世界の海洋とかさんご礁の専門家を呼んだ国際級の研究所を作ろうっていうのが、橋本さんの提案だったんで

す。

江上:はあ。

下河辺:そしたら、知事が喜んだついでに、何か県立で作っちゃったんですね。

江上:ああ、芸術大学ですか。

下河辺:いや、そうじゃなくて、さんご礁の何とか研究所というの。

江上:ああ。亜熱帯研究所ですか。

下河辺:亜熱帯研究所っていうんすかねえ。

江上:亜熱帯研究所ですかね、琉球大学と提携した。

下河辺:そのために橋本さんが政府で作るのやめちゃったんですよね。

江上:ああ、そうですか。

下河辺:あれはちょっと、私にとっては残念だったですね。そんなに慌てて、県立で作んないで、世界的なレベルで

作っといたら、良かったのにって思うひとつですね。
199

江上:はあ、そうですか。そういう経緯もあったんですね。確かに、亜熱帯研究センターは日本政府の提案で出て

きたことがありましたよね。

下河辺:そうです。

江上:着手しなかったんですね。いまもそれほどねえ。

下河辺:活発じゃないでしょ。

江上:ええ、目立った存在にはなっていないですねえ。

下河辺:何とか先生っていう一人が、年取っちゃったか。

江上:甲府田先生ですか。

下河辺:なんて言ったか忘れちゃったなあ。

江上:あのう熊本出身の先隼で、甲府田先生ではないのですか。

下河辺:なんかさんご礁の専門家で

江上:あ、山里先生。

下河辺:そう、山里さん。

江上:山里先生ですね。

下河辺:そいでだめになっちゃった。

江上:もう名誉教授になられてね。

下河辺:そうですね。

●大田県政の国際情報センター構想

江上:そうですか. それから、コンベンション・センターとともに、国際研修センターと日本・東南アジア交流センターも

西銘知事は提唱しました。国際研修センターはJICAの管理下で沖縄国際センターとして設立されましたが、国

際センターの前の敷地に東南アジア交流センターを設立する計画はまだ実現していません。大田県政下で国際

情報センタ一の計画があったようですが、その経緯は?

下河辺:宿題なんですよね。

江上:そうですね。

下河辺:郵政省がてこ入れをして、センター作ったんですよね。そのころ、私に米軍たちは、あんなちゃちなものやっ

たってだめなんで、なんでわれわれの施設を利用しないんですかと、われわれの施設はもう軍用でなくなったんで、

要らないんですって言うんですね。

だけど、米軍のを認め草と、基地を認めたことになるの嫌って言って、政府も県民も乗ってこなかったんです。

江上:乗ってこなかったすか。

下河辺:だけど、おおいに利用すれば良かったと思うんですよね。

江上:今後、共同利用の可能性はあるのでしょうか。

下河辺:ただねえ、設備が陳腐化してきてんですよね。
200

●普天間基地移設の本当の理由とその跡地利用

江上:米軍の設備がですか。

下河辺:ええ。米軍の。だから、言わしたようにはできないかもしれない。現実に海兵隊が基地移転ということで、

追い出されたから移転するっていうことにしているけれども、絶対そうじゃないんですね。いまの普天間が、軍事的

に設備が陳腐化したために、新しい軍事能力を持った新しい基地を作りたいっていうのが、海兵隊の本音なんで

すね。

だから、普天間のまま工事しちゃったんじゃ、その期間、保障がなくなっちやうから、移転先を先に作って、そこへ新

鋭部隊を持ってったあとで、普天間を廃止したいと。そしたら、名護の市長が、軍民共用の飛行場でなきや認め

ないって言ったんだよ。ちょ とおかしくなっちゃったんですね。

軍民共用っていうことで、少なくとも、1000メーターから2000メーターの滑走路が必要とするっていうのに、米軍

は移転したら45メーターでいいって言うんすからね。だから、. 45メーターで移転する以外は、. 米軍考えなかった

から、日本が延長したいなら、してもいいとは言ってんですけどね。だけど、45メーターのヘリコプターのセンターを

作ればいいいんじゃないすかね。そして、何て言いますかね. 名護と那覇との繋がりは、ヘリコプターでやりやあいい

じゃないすかねえ。

江上:最初、橋本首相が提示したのは、海上へリポートでしたよね。

下河辺:そう。

江上:あのときは、できるだけ沖縄の自然に損害を与えないようなにということで、海上ヘリポートの提示をしたわ

けですけども。その後、地元の公共工事の要望などがあって、結局、大型の埋立地というような状況になってしま

っています. ずいぶん、変わりましたね。

下河辺:変わった。

江上:変わってしまいまして、それで結局、自然環境保護派の人たちがジュゴンにしても、海にしても生態系が破

壊されるというので反対運動をやっています。だから、いまのままだとうまくいくでしょうかね、大型の軍民共用空港

で。

下河辺:いやあ、はかの飛行場と同じで経営難に-陥るんじゃないすかね。

江上:いま、民間航空はどこでも大変ですよね。

下河辺:そうですね。

江上:いまの大きな軍民共用空港は、自然環境に与えるダメージが大きくて、いろいろ反対意見も強-く出てくる

可能性がありますね。

下河辺:あ、私は県庁に言ったのは、普天間が帰ってきたら、普天間を沖縄県全土の島に向かうヘリコプターの

基地にしたらどうかって、言ったんですね。

江上:普天間をですか。
201

下河辺:滑走路を作ったりするのは大変だけども、ヘリコプターが下りるくらいなら、小学校の校庭だってできんだか

ら、県内の100いくつかある島を全部ヘリコプターのネットワークで、結んだらどうかっていう。そしたら、病人の患者

を運ぶのさえ、手伝えるだろうし、宅送便もいくだろうし、生活にとってとてもプラスが大きいから、ネットワークとして

ヘリコプターを利用すること、考えたらどうか、名護のように、なんかか滑走路を中途半端に作って、赤字経営に

なるよりは、ずっとやりいいよって、話をしたんですけどね。

江上:ヘリボートの基地を普天間ですか、名護のほうですか。

下河辺:いやいや全県土に

江上:全県土に、ですか。

下河辺:すべての離島にみんな作る。

江上:先生は離島の問題、沖縄の離島苦の対策について、いろいろ検討なさっていますね。

下河辺:やっぱり、171いくつかくらいあるんじゃ. ないすか。

江上:有人島だけで40くらいあります。無人島を含めると、100以上ありますね。

下河辺:少なくとも有人島には、ヘリコプターの基地をちゃんと整備して、生活の向上にあてかったら、どうかってい

うこ′とを言ってたんですけどねえ。

江上:そうですか。それはあんまり大きくは取り上げられなかったですね。

下河辺:いや、大きく~取り上げるほど反対運動が出て、米軍の基地をオーソライズするためだって言われて、だめ

だったんです。

江上:そうですか。

下河辺:だけど、これからも少しやったら、どうかと思いますよ。

江上:軍民共用をいうんだったら、そちらの方を進めたらどうか、′ということですね。

下河辺:そうですね。

●離島の水問題

江上:確かに、先生もおっしゃるように、離島は生活のいろいろな面で大きな不便をかこっているところがあります

ね.。水問題もそうですね。

下河辺:そうです。

江上:先生は淡水化事業についていろいろ言及されています。私は4、5年前に南大東島に行ったことがあります


下河辺:ああ、そうですか。

江上:南大東島には川らしい川がなくて、淡水化設備で水の供給をしています。南大東さとうきび農業は大規模

化していて、収益を上げているんですね。でも水問題を抱えていて、それで淡水化プラントで水をまかなっている.

それで南大東村の村長さんに、水道代が一軒当たりいくらぐらいですかって聞いたら、だいたい1ケ月で平均3万

円く.らいって言っていましたね。びっくりしたんですけども. やっぱり、淡水化プラントってコストが高いのですね。それ

でも、南大東村では半額、村が補助しているって村長は言っていました。
202

下河辺:いや、そうだけども、私から言うと、水供給の設計が悪いと思うんですね。′

江上:そうですか。

下河辺:ああいう島だったら、バケツで水道へ汲みに行きやあいいんですよ。一軒一軒に蛇口で水なんていうと、

無駄な水は多いし、お金はかかるし、だめなんですよね。だからまず最初は、中心の蛇口を作って、井戸にストッ

クして、そいで、バケツでみんな自分の家に水を運んでったらいいって思うんですね。それが第一段階じゃないのっ

て言って。

江上:昔は天水を利用していましたね。

下河辺:そうですね。

江上:水についてもいろいろ沖縄は工夫していました。いまはなくなってますよね。南大東島の真ん中にはいくつか

沼があって、. でもこの沼は海に繋がっていて、塩水なんですね。

下河辺:そうです。

江上:ええ、でも塩水でも表面の水のほうは真水になっているみたいで、その上のほうだけをさとうきび農家は放水

するのに使っているということでしたね。

下河辺:そうですね。

江上:そういう水の有効な利用については、もっといろいろと工夫があってしかるべきとお考えですか。

下河辺:そうだと思いますよ。

江上:そうですね。

●沖縄本島の水問題と人口問題

下河辺:そりやもう、沖縄全島について言えることですからね。本島だって水、ないすものねえ。

江上:そうですね。少し日照りが続くと断水の恐れがいまでもいわれますしね。ただ昔に比べたら水事情は良くなり

ましたね。

下河辺:いや、そりゃそうですよ。

江上:ダムがいっぱいできましたから(笑)私が1977年に初めて沖縄に行ったとき、すぐ断水にぶつかりました。隔日

断水で九一日、水道の水が出なくなった。

下河辺:でも、水が良くなると人口を増やす許容量を大きくしちゃうんでだめですね。

江上:ああ、かえって。

下河辺:沖縄は人口多すぎますよ。

江上:(笑)私が沖縄を出てきましたからちょっと人口減に貢献しましたかね。先生、沖縄の人口はちょっと多すぎま

すか。いま135万ぐらいですけど。

下河辺:だって、計画立てたとき、第一回目は70万というのを理想にして、100万が限度っていう計画を作ったわ

けですよね。水のことでも、野菜のことでも、そうしたわけです。 そしたら、120万になったっていうんで、これは沖縄

だめになっちゃうっていう理解ですよね。で、その120万の大部分は観光でめし食っているんですよね。そんな観光

やめたらいいですよねえ。だから、人口120万人にめし食わせて自然破壊をする観光でめしを食うっていうのは、

あんまりいい気分じゃないすね。
203

江上:あんまりいい姿ではないと。

下河辺:ないですよねえ。

●過疎県としては成功した沖縄

江上:沖縄も当初から、屋良さんも目標として琉球政府が自ら作った長期経済計画の中にも、格差是正と自立

経済をめざしましたけれど、なかなかそのようにはならないですね。

下河辺:ただ、過疎県としては割りに成功したって言えないこと、ないんじゃないすか。

それは泡盛とかなんか、島根とか鳥取とかっていうところに比べると、経済は動いているんじゃないすかねえ。

江上:経済そのものはですね。

下河辺:むしろ、過疎なのに人口が激増するっていう不思議な県だから、やっぱり暮らしやすいんでしょうね。ある

意味ではねえ。

江上:琉球大学を卒業した学生たちもほとんど沖縄に残りたいって言いますからね。

下河辺:そうでしょうね。

江上:私は沖縄には仕事がないから、東京行ったら仕事があるから、若いときは外に出て、武者修行の意味でも

出たほうがいいと、私はずっと言ってきたんですけども、出て行かないですね。

下河辺:いやあ、日本の企業、特に中小企業が、琉球の労働者っていうのを特別な扱いになっちゃうんですね.

まるで異民族みたいな扱いをするんですね。そして、来た沖縄の若者たちも、ちょっと本土の若者と違うんですね

。嫌ならすぐ辞めるっていうアメリカ的な習慣が身についていますからね。だから、日本の中小企業にすると、雇っ

てもあした来ないかも知れないというのは、ちょっと困るんでしょうね。

江上:そうでしょうね。日本にはいまだいぶ崩れてきましたけども、終身雇用制っていうか一回勤めたら、ずっと長い

間勤めるというのがありますよね。沖縄はあんまりそうではないですよね。

下河辺:ないですねえ。

江上:ないですよね。

下河辺:そりゃあ、生活保護とか失業対策とか社会保険とかいろんな仕組みが、終身雇用制のもとに成り立って

いるものですからね. それが保障できない労働力っていうのは、扱い方が碍祉、厚生、医療の面でできないです

よね。

江上:それは先生がおっしゃっているように、やはり沖縄が持っている文化と日本本土の文化では、かなり異質な

部分があるんでしょうか。
204

下河辺:いやあ、沖縄の方が、アメリカ型になっているために、日本型への復帰がちょっとまだでききれない。

江上:私が聞いた話によると、沖縄の若者が本土に出て行っても、3年以内に70%が沖縄に帰って来る、5年以

内に90%帰るそうです。その理由は、自分の生まれ島の方が暮らしやすいというこ_とと、アメリカ型の。

下河辺:なんか価値観が違うんですね。

江上:アメリカ型の考え方でしょうか。

下河辺:だから、経営者の方も働く方も、結局はお帰んなさいってことになっちゃってますよね。

江上:しかし、だんだんいまの日本の若者もアメリカ型になりつつあるんじゃないですか(笑)

下河辺:だからむしろ、都心部へ来るとい'んじゃないかって、私は思うんですね。

江上:はあ、都心部に。

下河辺:田舎の青年だから、田舎へっていうんで、群馬なんか行ったのがすぐ帰っちやいましたけど.。その都市の

近郊っていうのが、一番日本で新しい若者の巣ですから、難しいんですね。

江上:でも私のゼミのかつての教え子のなかで二人くらいは、頑張って東京に出て来たいって言う学生がいますけ

ど。

下河辺:そうですか。

●復帰以降の「国際交流事業」の経緯

江上:是非、出てきて頑張ってみなさいって言っているんですけども。それで、その琉球政府が作った沖縄経済の

長期計画をそのまま、第一次振計に組み込んだと先生がおっしゃっていましたけど、その際に、その長期計画で

は国際交流の推進が前面に出ていましたけども、第一次振計では、もちろん格差是正と自立経済とかいうのが

一番大きな柱だったということもあると思うんですけども、国際交流の推進の方は、屋良主席下の琉球政府がつ
くった経済開発ゐ長期計画に比べて、一次振計では、優先順位がずいぶん落ちてしまったような感じがするんで

すが。

下河辺:それはさっき言った、南北センターの見込みを失'? たからです。

江上:そうですか。

下河辺:ええ。沖縄でもだめ、ハワイでもだめ、東京の政府でもだめっていう事情で消えちゃったんですね。

江上:ハワイの東軍センターがだめになったというのはどういう理由からですか。

下河辺:アメリカの政府が重要視しなくなっちゃったんです。

江上:昔は盛んだったですよね。あの東西センターは。
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下河辺:そうです。助成金が大きかったのが、半額以下になっちゃったんじゃないすか。

江上:太平洋地域の研究をアメリカはあまり必要としなくなった

下河辺:いやいやそうじゃなくて、アメリカンセンターに顛んないで、タイとかベトナムとか全部それぞれに助成金を出

し始めちゃったんですね。

江上:もう直接、現地のほうに。中継地点としての東西センターは使わなくなった。

下河辺:使わなくなった。

江上:そうすると、南北センターも同じような性格ですよね。

下河辺:南北センターは野村総研がやっていてくれたけども、野村総研が相手にしていた東西センターがだめなた

めに、しかも担当者が野村総研を卒業したために、力がなくなっちゃったんですよ。

江上:そういうことがあるんですね。

下河辺:野村総研がそのままやってくれてたら、民間レベルでできたかもしれないんすけどね。

江上:そうですか。国際都市形成構想の作成にも、野村総研はいろいろ係わっていますね。

下河辺:ええ、やってた。

江上:報告書も出していますよね。

真板:あの、南北センターのお詰って、二次振計じゃないですか。一次振計からあったんですか。

下河辺:いや、一次振計からは、東西交流っていうことでは言っているわけです。

真板,:実際こう、復帰後の6年間、西銘県政誕生するまでの間を見るとですね。どちらかというと、つぶれ地補償

、いわゆる戦後補償みたいな部分だとか、インフラ整備であるとかっていうことに重点投資が行われて、その締めく

くり的な部分が、交通法規の改正でナナサンマル。

で、結局、その心労がたたって、平良幸市さんがお辞めになるわけですけども、それを引き継いだ西銘順治さんの

時代に、一次振計の最後の部分と二次振計に繋げていくって部分で、国際交流拠点形成構想とパーンと出し

てくる。

下河辺:いや、具体化が進んだことは西銘さんのときからです。一次振計から山中貞則がやってたころからすでに

、国際交流拠点って言って、日本の南部の拠点ということは、言っていたですよ。
そして、16世紀の琉球っていうことをモデルにっていうことは言っていたですね。

江上:山中さんも言っていたんですね。

下河辺:ええ。

江上:ああ、そうですか。遍良さんも琉球政府の人たちも、そういうことを一生懸命言っていた。

下河辺:そうです。

江上:ですよね。

下河辺:いや、東京からの遠隔地で、その格差是正だけのテーマっていうことには、琉球理解ですよね。で、その

120万の大部分は観光でめし食っているんですよね。そんな観光やめたらいいですよねえ。だから、人口120万

人にめし食わせて自然破壊をする観光でめしを食うっていうのは、あんまりいい気分じゃないすね。
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江上:そうですね。

下河辺:なんかそれは復帰して、本土に隷属するって意味でしかないわけ。そうじゃなくて、やっぱり世界の沖縄っ

ていうイメージを持ちたかったんじゃないすかね。

江上:それと、華縄の人たちの琉球民族としての意地やプライドがあったんですね。そういったプライドとかも大事に

しなくちゃだめだし。

下河辺:そうですね。

江上:難しいところですね。

真板:先はど長期計画が振計にそのままスライドしたという話が前回あったんですが、ま、細かい話で恐縮なんで

すけど、たとえば、10年後の人口フレームが何万になるかという部分で比較してみるとですね。長期計画は109

万人になっているんですよ。ととろが、振計は102万人で、若干、下方修正されていると。やっぱり、振計を策定

してい、く間にですね、長期計画をかなりブラッシュアップというか、なさってたんじゃないかなあという風に感じるんで

すけども。

下河辺:あのころのことだから、1人当たりの所得っていうことで、レベルを図るっていう意味では、本土並みっていう

言葉に当てはまんのは、全国の8割くらいにいかなきや言えないだろうっていう、そういう逆算から-人当たりの所得

を出してきたんですね。だけども人当たりの所得が高すぎたら実現できない、ということで、いろいろ論争の結果と
して出てきた数字ですね。

●沖縄開発庁について

江上:次に、先生があんまり賛成でなかったという沖縄開発庁も、一応、役割を終えましたので、沖縄開発庁た

っいても少しお伺いします。

沖縄開発庁の設立の経緯についてですが、どのあたりが沖縄開発庁を作るために、中心になって動いたんでしょ

うか。

下河辺:・そりゃあ、佐藤内閣としては、絶対必要だったんじゃないすか。

江上:内閣として。

下河辺:はい.。核抜き本土並みっていうことで、沖縄の振興計画は政府の責任で行うっていうことを公言してい

るわけですからね. その実施部隊が、各省庁ばらばらじゃあしょうがない。ということで、各省の仕事を集合して、

開発庁にしようということになって、担当大臣まで作ったっていう。予算要求も沖縄だけは、統一的に大蔵省に予

算要求できる道を開いたわけでしょ。それはまあ、政府としては当然のやり方だったでしょうね。

江上:そうですか、それはやっぱり、佐藤内閣のたとえば、山中さんとかですか。

下河辺:目玉ですよね。

江上:山中さんもそういった主張をなさったんですか。
207

下河辺:そうです。

江上:中央の省庁は、そういった統合的なものができるというのは、当初、反対だったと聞いていますが。

下河辺:反対っていうか、一般的にタテ割りはどうすんだっていうことはありますよ。それでも、沖縄の複雑さっていう

のは、自分たちでこなせないっていう気持ちもあるんですよ。そりゃあ、全体どうしたらいいかっていうことの中で、自

分のタテ割りをどうしたらいいか、わかんないでしょう。

江上:そうですね。

下河辺:だから、開発庁っていうようなところで、調整した結論をタテ割りに流して欲しいっていうやり方になったんじ

ゃないすかね。

江上:基地負担の見返りとして国が経済振興を責任もってやるために、沖縄開発庁を作って、そこに中央政府が

直接関わるというような形は、前回の話では、先生としてはあまりそういうことはすべきではなかったとおっしゃってい

ました。沖縄開発庁的なものを沖縄の人たち自身に運営させるような工夫をすべきだったんじゃないか、と先生

はおっしゃっていましたね。

下河辺:そう、それができないから、開発庁方式をやろうとしたわけですね。

江上:先生おっしゃったような構想は無理だから。

下河辺:ひとつの理想っていうものを掲げたけども、それは事実上不可能なの。だから、特別の役所作ってやって、

何年後にこの役所がいらなくなるかっていうことを期待していたわけですね。もうそろそろいいんじゃないすかね。

●特別県、地方分権化への議論

江上:2001年1月、沖縄開発庁は姿を消しました。まだ内閣府の中に沖縄担当部局はありますが。

下河辺:ええ、ですから、内閣としては、いつ地元に戻すかってことを考えているんだけれども、地元は嫌なんです

ね。国にそういうところがあるはうが、予算の陳情がやりやすいんですね. そのため、地元の利益として反対っていう

面がひとつあるわけです。もうひとつの側面っていうのは、権限もなしにっていうことはだめだから、沖縄に関しては

持っている権限を沖縄県の知事に譲渡するっていうことを法律上やるかどうかが勝負なんですね。

権限がなけりや予算もってたって意味がないわけでしょ。だから、予算と権限が繋がった形で、分権化を議論しな

きゃなんない、わけですよね。

江上:それはいわゆる沖縄州構想ですか. 沖縄を州にするということでしょうか。

下河辺:州っていうかどうかは別問題すね。

江上:もっと大幅な自治権を与えるということですね。


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下河辺:いや、大幅かどうかわかんないけども、特別な知事って感じになるんじゃないすかね。知事会議のなかで

あっても、特別な知事っていうのを作ったらどうかと思うんですね。そして、これとこれとこれとは、はかの知事にはで

きないけれども、沖縄県の知事には権限を与えるっていうような、特別な、なんすか、分権化の形をとったら、いい

んですよね。

江上:それはいま、北海道をひとつの州にしようという考え方とは違うんですか。

下河辺:いやあ同じです。

江上:同じですか.

下河辺:はい。だから、北海道庁と沖縄開発庁と沖縄県の開発庁、北海道の開発庁とは同じ議論をしたらいい

ですね。

江上:同じ議論を。

下河辺:だけどそれやると、すぐに道州制っていうから、話がこんがらかるわけで。

江上:道州制というから、かえって、こんがらかるのですか。

下河辺:道州制っていうのはねえ、地方でなくなっちゃうんですよね。十ブロックを中心に言っているとしたら、あれは

やっぱり国の機関じゃないすかね。県の機関にはなんないすよ。そこがひとつの議論なんで、定住圏でもできれば

、また違ってくるんでしょうけどねえ。道州制っていうのは、私はあれは国の組織だと思っているもんですからね。

江上:そうですね。道州制を唱えているのは、国の組織としてとらえる人と、地方自治の拡充だととらえている人の

両方です。こ、れは真っ二つに分かれていますね。

下河辺:分かれたって、地方の人は、本当に道州制を地方分権化って思ってますかねえ。自分の県がなくなって

いいっていうこと言います?

江上:沖縄は九州に組み込まれて、うれしいとは言わないでし. ようね(笑)。

下河辺:そんなこと考えられないでしょう。

●開発庁反対論について

真板:先生のその開発庁反対論っというのは、少しは政府部内で検討さ-れたようなことってあったんでしょうか。ま

ったくなかったんですか。

下河辺:いやあ、いままでだって、年中やっていて、いまでも内閣でそういう議論をしているわけじゃないすか。

真板:70年、71年当初も、佐藤内閣の中枢まで話は通ったってことなんでしょうか。

下河辺:そうですね。

江上:当時の状況としては現実的に無理だったんですか?

下河辺:それはとても無理でしたね。それと、特に地元も逆の方向を向いていましたしね。

江上:そうですね。屋良さんも沖縄開発庁を要望しましたし。

下河辺:ええ。そうです。

江上:主管大臣を置いた沖縄開発庁を要望されましたね。
209

下河辺:主管大臣で、補助金をちゃんと用意してくれっていうことを屋良さんが言いましてね。

●沖縄問題等懇話会との関係

江上:そうですね. ところで、沖縄問題等懇話会が佐藤内閣のときにありました. 大浜信泉・前早稲田大学総長

が座長でしたが、沖縄問題等懇話会と接触はあったんでしょうか。

下河辺:いや、接触はありましたけども、私たちの国土の国土政策を立てる人間は、沖縄だけは別だっていう認

識に置かれていたんですね。沖縄開発庁長官に任せたんで、脇から余計なことを言うなっていう気分さえありまし

たね。だから、私にすると全国をやっていながら、沖縄だけはちょっと特別扱いっていう気分でした。

江上:国土庁のスタッフとしての立場と、それからまた佐藤内閣の要請で沖縄との関係の構築を屋良さんと一緒

にやられたという、そういうふたつの役割があって、その役割の間を行ったり来たりしながら、先生は働かれたと思う

んですが、それでは沖縄問題等懇話会では、いろいろ話をされたりするようなことはあまりなかったのでしょうか。

下河辺:そのね、沖縄開発法っていうのは、私たちの国土開発とか国土建設の範囲を超えて、福祉とか医療とか

まで含んだ仕事なんですね。

だから、沖縄県人の全生活を担当する開発庁だったわけですから、われわれと範囲がちょっと違うっていうことも、

ひとつの特色でしたね。

江上:沖縄開発庁の設立について最初のころ言い始めたのは、この沖縄問題等懇話会だったみたいですね。

下河辺:そうです。

江上:最初にね。そのうち、屋良さんも作ってくれというような状況になるわけですけども、70年5片、先生が屋良

さんに会われる以前に、沖縄を訪ねた山中総務長官に対して、琉球政府は要求89項目を提出しました。

その中に国務大臣を長とした沖縄開発庁の設置というものを提出しているわけですね。そのときは、期待のみと

いいますか、中央政府が沖縄に何をしてくれるか、という期待ばかりが先行していて、まあ、はっきりした明確な
骨格みたいなのがなかったし、もちろん、自治の視点というのはなかった。

ところが、71年になって、琉球政府の若手職員を中心に構成された行政研究会のメンバーが、開発庁反対論

を言い出してくる。

それから総合事務局反対論も言い出す。それはなぜかというと、大きな役所が沖縄にやってくると、沖縄の自治

権が脅かされると、いうような立場からの反対でしたね。先生はその当時。

下河辺:いやあ、反対した理由っていうのは、そういう開発庁ができる前に、沖縄っていうのは米軍が占叙して、

米車の管理下にあって、しかも日本としては大使を派遣して、大使の意向で沖縄は対応しているような時代で

したからね。

で、それは復帰したとたんに、全面的に変わるっていうことは、なかなか難しかったわけですね。
外務省が対応している時代がずっと続いているわけですからね。
210

江上:そうですね。

●沖縄は"外国''だった。独立派の青年との議論

下河辺:すごい簡単に言えばこ外国だったんですからね。

江上:外国だったんですね。当時は高瀬大使がいましたね。

下河辺:そうです. そうです。高瀬さ、んがやっておられた。

江上:だから、日本から見ると外国だったということは、当時の琉球っていうのは、米軍下であっても、半分独立み

たいな形だった。それはやっぱり、日本の一部になって。

下河辺:独立したいって言う青年たちもいっぱいいましたよ。

江上:いましたね。

下河辺:夜中に宿のほうへ、独立派の青年たちが訪ねてきて、議論をよくしたもんですよ。どっちがいいだろうって


江上:でも、独立派の人たちは現実にそういう政治行動を起こしたとか、政治組織を作ったということにはならなか

った。

下河辺:ならなかったです。

江上:ならなかったですね。

下河辺:いかなかった理由っていうのは、そういう青年たちに飛びついたのが、過激派の革新系だけだったんですね

。そうすっと、彼らと一緒にやるのは、嫌だったんすね。簡単に言えば、共産党と一緒なんていうことは考えられない

っていう、そういうような政治的な判断で話が消えていくんですね。だけども、独立したら国連に一票持てると、こ

の一票は値段が高いっていうようなことを考えている青年もいましたね。日本はその一票を買い取るためこ、い っ

ぱいお金を払ってくるに違いないって`いう。

江上:(笑)なるほど。

下河辺:そんなことさえ議論した時代ですよ。

江上:はああ、面白いですね。あの、その若い人たちのなかに、吉元さんはいなかったんですね。

下河辺:いなかった。

江上:仲吉良新さんはいなかったですか。

下河辺:そう、そう、伸吉なんかもいたよ。

江上:やはり、そうでしょう。

下河辺:自治労系ですよね。

江上:そうです。

下河辺:吉元だって自治労系。

江上:吉元さんはその中に入って′いなかったんですね。
211

下河辺:そう、そう

江上:仲吉さんは入っていたんですね。

下河辺:入ってた。彼はむ-しろ穏やかなほうの代表ですよ。

江上:そうです. 穏やかなほうの代表です。その後、自殺なさいましたね。

下河辺:そうですね。自民党の連中なんかと話していると、あのころ面白かったですね。

江上:そうですか。自民党の人たちとの話が。

●瀬長亀次郎氏との議論

真板:輝長亀次郎さんともお話をなさったんですか。

下河辺:ええ、そうですね。

江上:そのなかに瀬長さんも入っていたんですか。

下河辺:そうです。

江上:人民党は最初、独立論を掲げていましたからね。

下河辺:そうです。

江上:途中から変わりましたけどね。

下河辺:そうです。

江上:瀬長さんともご議論なさったんですか。

下河辺:そうです。だから、私は沖縄に関しては、どんな政治的な立場の人たちともよく話しましたね。

江上:瀬長さんにはどういう印象を持っておられます?

下河辺:いや、やっぱり彼は、米軍の問題が中心でしたからね。だから、米軍どうするっていうことに触れないで、沖

縄って議論する人が、多かったときに、米軍っていうのをどう見たらいいかってのを彼は一所懸命考えている人でし

たね。

江上:米軍に真正面からぶつかって。

下河辺:だから、市街地戦なんていうことを予想してたんですからね。

江上:市街地戦ですか。

下河辺:ええ、米軍が那覇の街の中で、銃を使うようなことになったら、日本どうすんのと。本土は助けに来てくれ

るのかしらっていう。

江上:はあ、そういう議論をしてたんですか。

下河辺:そういう議論です。
真板:それはどういう状態を想定してたんですか。

下河辺:いやあ、やっぱり政治的なトラブルでしょ。で、アメリカは反共と見なせば、銃を撃つっていうのが、常識で

したから、沖縄で自分たちが動くと、共産主義者だっていうことを理由に、銃を持ってくんじゃないかっていうことを

心配している人もいましたね。

江上:実際、瀬長さんは那覇市長を追放されました。
212

真板:そうですね。56年ですね。

江上:56年に市長の職を剥奪されていますからね。

下河辺:そうですね。

江上:米軍によって。彼は身をもって体験していますから。

下河辺:そうです。

江上:だから、米軍と沖縄住民との対立が激化して、そういう戦いになった場合というようなことも考えていたわけで

すね。

下河辺:予想しているわけです。

江上:要するに、内乱状態ですよね。

下河辺:そのとき、日本政府は助けに来ないだろうと、言ってんですね。

江上:ほお。

下河辺:日本の自衛隊が、アメリカの兵隊に鉄砲を撃つなんていうことは、とてもできないじゃないの. だけど、アメ

リカの兵隊は、銃を持たないわれわれに射撃してくる危険はゼロではないですっていうようなことを彼らは言っていま

したね。

江上:瀬長さんは戦争も体験していますからね。

下河辺:そう。

江上:感覚が雇いますよね. 下河辺・瀬長会談とは面白い組み合わせですね(笑)

下河辺:沖縄には私のことをどう理解していいか、わかんない人だったんじゃないすかね。誰とでも仲良く付き合っ

てるみたいだから。あいつの頭ん中どうなっているんだと言われたりして。

江上:そうでしょうね. 先生みたいにいろんな人と自由に話す方は当時、日本政府から来た人でおられなかったで

しょうしね。

下河辺:最近、沖縄に興味もって勉強している、私の後輩でフクシくんっていうのがいるんですけども、フクシくんが

沖縄行って呆れたと、沖縄かき回したのあなたですねって、誰と会ってもあなたの話が出てくる。いったい、どうなっ

てんですか。

江上:(笑)そりゃそうですよ. 先生は沖縄では有名ですから。

●楠田氏との思い出

真板:あの、お茶の間的な質問で恐縮なんですけど、まず、沖縄に行かれるお話があったですね。貞則長官から

。一やっぱり事前学習とかなさったんですか。

下河辺:だって、学習のしょうがないじゃないですか。だから、佐藤内閣が作った日米安保のもとでの沖縄返還っ

ていうあたりの資料は、ちょっと見ていきましたけど。

だけど、私には佐藤内閣の理解がちょっとできないことが多くてね。沖縄返還っていうことをノーベル賞まで取って

成功した裏には、アメリカに何の約束をしたのかっていうのは、必ずしもはっきりしないんですね。

変なふざけた言い方をすると、等価交換だったんじゃないかっていう。そうすると、沖縄返還に見合うアメリカへの

返戻って何を言ったのか。繊維問題だけが表面に出ちやいましたけども、繊維だけややるわけないすよね。

だけど、今でも分からない隠れた話が、いっぱいあんじゃないすか。で、それを一番よく知っている、佐藤総理の

秘書官だった楠田さんが死んだために、わかんなくなったですね。「楠田日記」作ったけども、楠田さんそこのところ

をやっぱり手帳にはあんじゃないかと思うのに印刷には書いてませんね。

ま、ロッキードとか繊維とか、そういう部分的には出てきますけどねえ。
213

江上:若泉さんもそういう密使的な役割をしました。

真板:米軍施設の買い取りの部分で、特に沖縄に流通していた米ドルの部分をちょっと高めに買い取って、その

分、米国債とバーターにしてっていうような話はちらちら出てきています.

下河辺:いろんなことをやったんじゃないかと、思うんですね. 田中角栄っていうのは。その佐藤さんの後始末を背

負っちゃったから、かわいそうな総理だったですね。病気して死んじゃったからいいようなもんで、生きてたら佐藤内

閣の罪を全部背負わされたんじゃないですかねえ。

江上:先生の楠田氏追悼文のコピーを高島さんに送っていただいて読ませていただいたんですけども、楠田さんは

要するに、黒子として沖縄返還に尽力されたわけですね。

下河辺:いやあ、会ったときは最初は新聞記者に過ぎないわけですからね。それから、佐藤内閣に入っちゃって、

沖縄のことせっせとやっておられて∴楠田さんっていうのは、やっぱり沖縄にとってはちょっと特別な人ですね。

江上:それって、先生がおっしゃったように、一番大事な細分はやはり言わないまま、亡くなったんですね。

下河辺:言わないっていうのはねえ、佐藤内閣がその福田さんに譲らないで、田中さんに譲った理由が書いてない

んですよ。一番よく知っているはずなんですよね. 楠田さんが。

それ書いてないんですよ。だから、私、直接楠田さんに、言ったんですよ。ここ書いていないと。これはちょっと手落

ちじゃないかと。なんであれだけ、福田、福田って言っていたのに、突然、角栄にしたんだ。

そしたら∴彼は自民党の中がいつの間にかそうなってたんですっていうような返事しかしてくれなくて、そいで、死ぬ

までにはもう一度、手記を追加して書いてくださいよって言ってたら死んじやったんですよ。そこは永遠の謎なんで
すね。

江上:たしかに謎ですね. 私たちから見ても、ちょっと不思議な流れですね。

下河辺:不思議ですよね. やっぱり、佐藤さんの後始末は、福田さんのようなやんごとない政治家じゃあ無理って

思ったんじゃないすかね。

江上:清濁併せ呑むような政治家じゃないと。

下河辺:ええー。

江上:田中さんの方が適任だったわけですかね。
214

下河辺:田中さんにやって欲しかったんじゃないすか。

江上:福田さんだったらちょっと大変だろうなというのがあったかもしれませんね。

●山中貞則氏との馴れ初め

真板:何度も同じようなご質問をしてて恐縮なんですが、先生って、当時、経企庁の参事官かもしくは研究開発

調査室長をなさって`いたころだったと思うんですが、山中貞則さんって総務庁の長官ですよね。

で、なんで省庁が違う官僚、ま、国土計画ではプロフェッショナルということで、お名前は通っていたと思うんですが

、他省庁の役人をひゅっとこう一本釣りみたいなことができたんでしょうか。

下河辺:いや、一本釣りじゃなくて、なんか、貞則と付き合ったのは過疎法で付き合ったんです。

貞則が鹿児島県を特別にっていうときに、特殊土壌っていう法律でやっているのが、限界にきちやって、次に過疎

法でやりたいと言い出して、過疎って村をどこにするかっていう選定を私が担当して、それを全国に当てはめると、

どういうことになるかっていうことを計算した上で,過疎法を議員立法で作ったのが、貞則との仕事の最初なんです


そのときに、なんか沖縄のことを頼むって言ったのが、そのときのことがあって、あいつ行かせようかってことになったん

じゃないすかね。

江上:その過疎法は何年ぐらいですか。

下河辺:過疎法何年だったかなあ. 忘れちゃったなあ。なんか知らないけど、そのころずいぶん、ごちょごちょやりまし

たよ。

江上:そのはかにも下河辺先生はいろんな仕事をなさってますからね。

下河辺:そうなんですよ。

真板:全総のころじゃ、なかったでしたっけ?

江上:数年前ですね。

下河辺:ちょっと、全部が記憶がちょっとあいまいかもしれない。

江上:先生、こちらで調べておきます。

●沖縄視察時の手続きについて

真板:そうすると、先生、沖縄行かれて、出張ですよね。一出張で行かれている? で、すごく下世話な話で恐縮

ですが、やっぱり出張報告書みたいなのは、山中貞則さんにあげてたんですか。

下河辺:そのころは、公務員は出張報告書なんて作ったことはないですよ。

真板:あ、. そうなんですか。

下河辺:会計上の報告書だけで、中身作らないですよ。

江上:良き時代ですね。
215

下河辺:私が役所に入った内務省のころは、特命書を局長が、その判を押してくれないと旅費くれなかったんです.

それはいつの間にか崩れて、行ってきましたって言えば、それでおしまいで。

真板:会計先は、総務庁に持っていかれたんですか、経企庁ですか。

下河辺:経企庁です。

真板:あ、経企庁で、落ちたんですか。

下河辺:それで、ただ、パスポートが入りましたから、パスポートは総理府で出してくれました。

真板:それは外交官みたいなやつですか。

下向辺:外交官というか公務員の

江上:公務員の特別なパスポートですよね。普通のパスポートではなくて。

下河辺:緑色のパスポートです。

真板:出張行かれて、口頭で山中貞則さんにご報告したって、そういう感じですか。

下河辺:そうです、そうです。もう、私が帰ってくる前に、ほとんどのことは、連絡があって、知ってましたね。

真板:ほう。

●米軍と折衝する際の身分

下河辺:なにしろ、大使がいましたから、大使からどんどん政府に報告がいっちゃうもんですからね。

真板:米軍とのお話がよく出てまいりますけど、当時、あのUSCARですよね。米国民政府ですよね。

下河辺:そうです。

真板:で、その当時、お立場的には日本政府特使みたいな感じでよろしいんですか。ま、特使というと語弊がある

かもしれませんが。

下河辺:特使というような事例はないですね。ただ、特使のパスポートですから、普通のパ′スボートと違って、沖縄

に行くためだけのパスポートを発行してましたから、それを持って行くと、ま、一種の政府からの特使的に映るかも

しれませんね。

江上:オフィシャル・パスポートですね。

真板:米軍の窓自っていうと、そうすると、どういう人が先生の担当というか、なってたんですか。

下河辺:いやーなんかいろんな人が担当してましたけども、やっぱり司令官が最終的にはあれですけど。だけど、

現実的には司令官なんかと直接議論することは、まずありませんでしたからね。
216

●拠点開発方式が沖縄でも採用された理由

真板:あと、長期計画が振計にスライドしていくというところの話なんですが、当初、琉球政府もですね、おそらく当

時日本でやっていた全総であるとか新全総というものを参考にしたんじゃないかと思うんですが、コンビナート等の

拠点開発方式を採用していた形跡はかなり残っていたと思うんですよ。

ところが、当時、日本では確か先生も「国土開発の証言」の中でですね、当初、予定していたものよりもいっぱい

企業が来ちゃったから、環境問題であるとか健康被害の問題が出ちやったんだよと、公害が出ちゃったというお話

のされかたをなさっているんですが、おそらく沖縄側は、この拠点開発方式というものを復帰の準備作業が経るに

したがって、見直していくよう_な感じに変わっていったと思うんですよ。

で、最終的に_は、屋良さんが71年の11月に「建議書」を携えてきたっていうことで、拠点開発方式、いわゆる

CTSなんかもそれに入ると思うんですけれども、そうではない復帰の仕方をしたいっていうことを訴えておられたよう

なんですね。で、前回の先生のお話の中で、コンビナート含めて拠点開発的なものは、沖縄という地理的位置

関係から言っても、うまくないというお藷があったもんですから、ではなぜそれが、振計に反映されなかったのかなと

。あるいは修正できなかったものなのかなあという部分についてお伺いしたいのですが。

下河辺:復帰以降書いてないんじゃないですか。

真板:中城湾の開発のことはかなり、全面に出ていましたよね。

下河辺:だけど、中城湾の方へいっちゃったんだけども、なんかもともと沖縄では、石油基地をふたつの企業が争っ

たというのが最初なんですよね。

真板:外資

下河辺:外資がひとつ、外資が引き揚げてっちゃった理由は、ちょっとよくわかんないんすよ。住民の反対があるの

でっていうことえを理屈にしているけども、そうではないんですよね。だから、おそらく企業としての立地が適当でない

っていうことに気がついて、退いていったんじゃないすかね。だけど、日本の企業は三菱石油が最後までなんかやり

たいって言ってやってたのを、結局、引き揚げることになった。ちょっとすみません。

<インタビュー中断>

●屋良知事の「建議書」と自治権

江上:沖縄開発庁の問題にまた戻るんですけども、若手職員たちから開発庁反対論が出てきて、沖縄から自治

権が奪われると彼らは主張した. 本土の一部になるということはそういうことだと予想されていたわけですね0 だが当

時の沖縄としては、そういった自治権の問題が出てきて、彼らの主張に押される形で、屋良主席の「復帰処置に

関する建議書」の中に、復帰にあたっての基本原則のひとつに地方自治権の確立が盛り込まれます。沖縄県
のような小さな地域に大きな国の機関を設置することが、沖縄の自治を侵害することになることを危供し、自治

の最大限の尊重を求めるという項目が、1971年11月の屋良さんの建議書に盛り込まれるんですね。

最初は沖縄開発庁を作ってくれと屋良さんも言ってたんですけども、復帰の間近柱なってそうなった。

下河辺:私は屋良さんは相当迷っていたと思いますね。そういう建議書を出すことは、沖縄の選挙戦にとっては、

絶対必要なんですね。
217

江上:選挙ですか。

下河辺:ええ。選挙の応援団体に対して、必要であった。

江上:支持母体に。

下河辺:支持に。

江上:ようするに革新の支持母体にですね。

下河辺:そうです. 自民党に頼ろうっていう屋良さんのそのやり方と、選挙に対する革新系の支持を得るっていうこ

ととの間に、ちょっと谷間があるんですね。それをわれわれは、詰めて繋ごうとしたんじゃないすかね。

地方分権っていうのは、いまでも、ちょっと普通の人が間違ってんのは、国の権限を地方に譲ることを言っている

人が多いでしょ。地方の分権化っていうのは、そんなことじゃないんですね。自分のやりたいことが、独自の権限で

できるっていうことがテーマであって、個別のタテ割りの権限を譲る譲らないっていうテーマじゃないんですね。

なんか個別の特定の権限を知事に譲ったところで、地元がやりたいことがやれるっていうことには、なんないんです

よね。だから、私は、阪神の地震のときも、,言ってちょっと、後藤田さんにあんまり早まんないほうがいいよって、言

われて止めたんですけども、地震対策を知事に任せるって言っときながら、知事ができる権限っていうのは、国に

陳情することぐらいしかないっていうのは、、おかしいですよね。

だから、特定の事件に対して、特定の期間だけ、知事が国に代わって、代行できるっていう制度を作ろうって言っ

たんですけどね。それは、震災復興委員会の記録にも残してありますけど、後藤田さんが、今度ここまでやるのは

無理だって言うんで止めたんですけどね。沖縄でも、ちょっと私は、特別の権限を知事に与えるっていうことを一度

くふうしてみても、いいんじゃないかって思うんですね。

だけど、意外と何をやりたいかが、はっきりしないから、権限だけできてもだめなんですね。

江上:それはやはり、沖縄の中でしっかり議論されるべきでしょうね。

下河辺:議論がなされるべきです。

江上:成熟したものにならないと、意味がないですね. で、屋良さんも言ってますけども、沖縄は米軍統治下で主

席公選など,数々の自治権を勝ち取ってきた歴史があるけども、日本本土に復帰することによって、そういった自

治権が失われるというような言い方をよくしています。それについてはどうですか。
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下河辺:だから、核抜き本土並みの本土並みがそういうことだったって思うと青年たちは、嫌がってましたよね。だか

ら、夜中になると、そういう議論ぽっかりしてましたよ。本土並みって、いったい何だっていう。

江上:本土並みって、そういうことだったということですね。ようするに、沖縄県とし.て帰るわけですからね。

下河辺:そうですね。

江上:米軍統治下で自治権を勝ち取ったといっても。

下河辺:ヤマトに隷属することでしかないじゃないか、いうことで、米軍の支配からヤマトの支配に移るだけっていう

。県民の大部分はそれを歓迎してんだから。

江上:そうですね。

下河辺:しょうがないね。

江上:本土並みになりたかったんですからね∴それを沖縄県民の大部分が望んだわけですからね。

下河辺:そうです。

江上:本土並みっていうのは、そういう部分をあるっていうことですよね. 米軍に隷属していたのが結局、日本政府

に隷属するという形にも見えるということですね。

真板:そういう主張を沖縄の若い人から聞いて、下河辺さん、率直にどういうご反応だったんですか。

江上:話をされましたか。

虞板:それで、下河辺先生としては、ま、反応というかですね、言うものはどういう風に受け止めていらっしゃったん

でしょうか。

下河辺:いやーとにかく、いろんな考えが、あるっていう事実だけはよくわかりましたね。

独立した言? ていう人から、政府の言うことで、いろいろ陳情だけの関係になっちやおうって人まで、非常に多様

でしたよね。

江上:沖縄って言っても、一口で括れないいろんな人たちと付き合われたんですね。

下河辺:だから、県民のなんか大部分の若者は、世界に出稼ぎに出なさいと、いうことをだいぶ、言ったんだけど、

なんかみんな青年たちが、おとなしくなっちゃってましたね。

アメリカの文化っていうのが入ってきたっていうのが、琉球魂みたいなものを失わしめちゃったんじゃないすかね。戦

争って言うよりはむしろ、占額後のほうが、与えた影響大きいですね。

●コザ騒動について
江上:ところで、70年に大きな事件としてコザ暴動が起こりました。大変な事件でしたけども、幸いに死傷者が出

るってことはありませんでした。あの事件を先生はどのように受け取られましたか。
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下河辺:いやあ、ちょっと、実相はわかんないね。あれはどういう、ことで起きたんですか。

江上:あれは、主婦をひき殺した米兵を。

真板:犯人をすぐMPが連れて行って。

江上:連れて行って、うやむやにしようとしたというのを見て。

真板:うわさで広まって。

江上:うわさが広まって、コザの人たちが怒って、いろんな車を全部ひっくり返したり、燃やしたりしたんですね。

真板:ただ、秩序だったものだったらしくて、黒人兵のものはひっくり返さなかった。白人兵のだけやっ-たと参加者は

言っていましたけど。

下河辺:ま、そういうトラブルは割と勇気ありましたよね。

江上:あの、コザ暴動のときは先生はもちろん、東京にいらっしゃったんですね。

下河辺:ええ、そうです。

江上:事件は大きく報道されましたか。コザ暴動を東京の新聞が報道しましたか。

下河辺:ええ、出てましたよ。

江上:でも、意外と大騒動にならなかったから、すぐ話題から消えたのでしょうね。

下河辺:いやあ、米軍っていうのは、そういうところ、統治が上手だね。

江上:上手ですか。

下河辺:必要があれば司令官が来て謝りもするくらい、社交的ですよね。

江上:沖縄の人たちも、そんなに無茶苦茶はやらないですよね。デモやったりしても、あんまり流血騒ぎにはならな

い。

下河辺:笑っちやったのが、大田さんたちとその議論をしたときに、なんか若い兵隊っていうのは、そういうことをする

ことが、避けらんないねえって。だから、MPがちゃんと管理してないと、いつでもやられる可能性があるねって。米軍

でも話題にならなかった事件っていうのはいっぱいあるみたいですね。

江上:やはり血気盛んな米兵を管理してあれするのは実に大変なことでしょうね。

下河辺:大変ですよ。

江上:大変ですよね。

下河辺:だか′らこそ、家族と共に暮らすっていうことに考えてんですね。独身の子供を家族の家へ招待するっていう

ようなファミリー型のコミュニティーを意識してますよね。で、戦争が起こっちやえば、大丈夫らしいんですね。平和

だと容易じゃないんですね。

●海洋博と北部振興

江上:話は変わりますが、海洋博が1975年にありましたけど、海洋博については先生どうお考えになっていますか.

これは、沖縄にとっては、とくに北部振興にとってはやって良かったんでしょうか。
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下河辺:いやあ、なんだか私は、あれに参加しなかったから、わかんない。

江上:そうですか。

下河辺:普天間が移転で、名護に作ろうとした海上プランっていうことと関係があるようなないような、わかんなかっ

たすね。

江上:海洋博には日本にいくつか候補地があって、それを屋良さんが是非沖縄でやって欲しい. と要望されました.

下河辺:そうです。

江上:それで実現したんですよね。海洋博がある前は、北部昼まだ本当に僻地という感じで、何にもなかったです

からね。


●沖縄本島の東西格差

下河辺:何にもなかった。'でも、みんななんか開発は、西海岸の方へ偏った発想でしたよね。

江上:そうですね。

下河辺:那覇から名護まで西ぽっかり

江上:そうですね、西側ばかりですね. 東側の方はほとんどないですよね。

下河辺:普天間の議論から、そういうことになってったんだけど、名護へ海兵隊を移転するっていうときに初めて、

東側の海岸の議論に。

江上:なりましたね。なんで、西側ぽっかりになったんでしょうか。

下河辺:いやあ、沖縄はもともとそうなんです。

江上:そうですか。

下痢辺:だから、東側は開発が非常に遅れてて、道路の整備は悪いし_、それで、ー基地の話があってから、名護

で、ちょっと東海岸の開発が、「カヌチヤ」っていう話で、ちょっと動いてますけどね。

江上:ええ、そうですね。

下河辺:あれは、私なんかも、ちょっと関係してますけど、なかなか面白いですね。

江上:沖縄でもわりと評判がいいですよね。カヌチヤ・ベイは。

下河辺:社長さんがいい人で、なんか私も付き合って、いま息子さんの方がやっているんでしょ。

江上:白石さんですね。

下河辺:白石さん。白石さんの会社が、あんまりうまくいかなくなったそうです。

江上:バス会社もやっておられましたからね。バス会社がうまくいっていない。観光のくふうを白石さんは、一番やっ

ているっという評判ですけどね。

下河辺:面白い人で、ただ、息子さんってのが良くできた人で、だんだん息子さんが何かはじめんじゃないすかね。
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江上:そうですか。だから、沖縄の観光で面白いアイディアとかなんとかを知りたいと言うと、私は白石さんに聞いた

らどうか、と答えるんですけども(笑)

下河辺:それは面白い人ですよ。

江上:そうですか。

真板:比較的最近だと、マリナーズの佐々木. ピッチヤ-の。彼の専用トレーニング施設とかあるんですよ。

江上:沖縄に。

真板:カヌチヤに。

江上:カヌチヤに。

真板:大魔神何とかといった、そういうトレーニングルームを作って、だいたいオフの1月、2月ぐらいにそこで、佐々

木が。

江上:マリナーズの佐々木が。

真板:トレーニングして。

江上:今年は調子悪かったから、なおさらトレーニングが大事ですね。

真板:どうなんでしょ。

江上:来期の頑張りのために、沖縄でトレーニングをと。

真板:それとか、高年齢者が定住できるような、マンションみたいなものを併設していて、めしは食事はホテルと同

じものを食べている. リゾート気分で余生を暮らせるというようなこともやっています。

江上:確かに西側ばかりに偏っていて、東側の方はなされていないというのは、いろんなひずみを生んでいるところ

はあるでしょうね。

下河辺:そうですね。歴史がそうなっていただけで、誰かなんかやろうと思うと、東側っていうのは興味があるんじゃ

ないすかね。

真板:あの、西銘さんのころに、中城湾港に調査費をつけたりして、あそこを流通加工貿易港みたいにしてこう、

なんていうふうにやりましたけど。

江上:いまもやっているでしょ。中城湾で. あそこはかなり工場は入っているでしょう。

下河辺:いやーそんなことないですよ。

真板:実際は県内の再配置ですよ。

江上:県内再配置ですか。

真板:はい。

江上:たいしたことない?

真板:外から呼び込もうとしたんですが、うまくいかなかった。

江上:あ、そう。私の教え子が県庁にいるんですけども、うまくいっていると言ってたけどなあ(笑). でも、まだ大規模

な展開にはなっていないですね。

真板:そうこうしていると、泡瀬の方がでてきちやったので、どうなっているのかなと。
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江上:じゃあ、きょうはこのへんで。先生、長い間ありがとうございました。先生、お疲れじゃないですか. 本当に長

時間のインタビューで。

下河辺:もう疲れてんのは四六時中。

江上:そうですか。もう少し、辛抱してお付き合いいただきたいのですが。

下河辺:ご迷惑なのは、記憶がだんだん衰えて、鮮明にお話できないんですよ。

江上:先生の沖縄関係の資料を私がいただいてしまったので、お答えの時にさぞかし御不自由でしょう。できるだ

け先生からいただいた資料に基づいて、次は、一次振計から、二次振計、三次振計などのお話を伺って、その

後で、先生の資料が一番たくさん、私のところにきている橋本政権・大田県政のときの普天間問題の頃のお話

を是非、お伺いしたいと思います。貴重な資料を私に渡していただいていたことは、十分、わかっているつもりで
す。

下河辺:いやあもう、沖縄は卒業したっていう気分になっているんです。

江上:資料の大事な部分である普天間の話を是非していただければ、ありがたいと思っています. よろしくお願い

いたします∴きょうは本当に長い間、ありがとうございました。
(了)
(次回は11月11日午後1時半)
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