●本土政党と沖縄政党の相違点
江上:最初に前回の続きで、もう一回確認したいことの御説明をお願いして、そこから始めたいと思います。真
板さんからどうぞ。
眞板:前回め部分でですね、最初の方に永田町・自民党と沖縄自民党は、水と油ほど違うんだよというお話が
あったんですが、具体的にどう違うのかっていうことをご説明頂けませんでしょうか。
下河辺:そうすか. ヤマト自民党ってのは、55年体制の中で構築した政党ですよね。だけど、沖縄自民党っての
は、沖縄のことしか考えていないのは当然で、日本が考えることと、沖縄が考えることは、あの当時、非常に差
があったわけですね。
だから、アメリカに対する理解のしかたもぜんぜん違いますしね. あの当時の沖縄っていうのは、むしろ、英語って
いうのものが、かなり大きな役割を果たしていたですよね。日本っていうのは、日米で親しいのに英語に詳しいっ
ていう国じゃなかったでしょ。だから、私なんかが悪口言えば、沖縄っていうのは、チューインガムとチョコレートみた
いな印象なんですね。日本人っていうとコメっていう感じでしょ。そういう点、非常に違うし、そして、しかも、沖縄
自民党っていうのは、米軍相手の仕事で、稼いでいる人たちが、主役でしたからね. だから、県民から言えば、
沖縄自民党っていうのは、なんか敵だったわけですね。
革新系の人たちにしてみれば、あれは日本の経営者じゃないっていうことさえ言ったですよね。米軍になんかたか
りまくって、食ってレ′)る輩だって、いう言い方をしている人もいましたね。
江上:そうですね。その当時は基地依存経済でしたたから、やはり基地からお金を引き出さないと、産業界は成
り立たないっていう状況はありましたから。
下河辺:そういう客観的なこと以上に、積極的にそれで食っている人たち、わかって認めているって入っていう感じ
があるわけでしょ。
江上:そういうので、沖縄の基本的な考え方フていうのは、55年体制でできた本土の自民党とは体質が違って
いたということですね。
下河辺:そうですね。そういう激しい歴史の中に放り込まれちゃったわけですよね。
江上:そうですね。そうすると、当然、考え方が違ってくるわけですから。
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下河辺:そうです。
江上:沖縄の復帰の問題を巡っても、同じ自民党でありながら、意見の衝突があったわけですよね。
下河辺:さあ、琉球っていうのは、そういう伝統をもっているんすね。侵略者に対して、戦うということよりは、なる
ようになっていくことを自然に任せるんですね。そして、彼ら昼いつでも、必ず侵略者っていうのは去っていくと、信
じているんですね。
島津のときでも、明治政府のときでも、同じように理解したんでしょうね。いろんな侵略者が現れたわけですから
ねえ。無抵抗で歴史を作ってちゃう名人ですよ。
眞板:実は65年に沖縄自民党が、当時、松岡政保主席の与党として誕生するわけなんですけども、その後、
副幹事長なさっていた吉元栄真さんが、主に本土自民党との繋ぎ役というかパイプ役で、行ったり来たりしてい
るもんですから、その間に本土自民党のカルチャーつていうのもが、当然、沖縄自民党にも入り込んでくるだろう
と見てたもんですから、意外だなあと思ったしだいなんですが。
江上:いや、それも入り込んでいるんだろうけど。
下河辺:社会党についても向じなんですよね。
江上:社会党でも同じだということですか。
下河辺:沖縄社会党っていうのはぜんぜん違うんですね。
江上:成り立ちも違いますよね。
下河辺:日米安保と戦うわけですからね。
眞板:当時の本土社会党は、日米安保反対じゃなかったでしたっけ?
下河辺:いやいや、反対ですけども、なんていうんすかね。安保条約として反対するわけでしょ。だから、沖縄っ
ていうのは、なんていうんすかね。平和条約さえ認めていなかったっていう、だけではなくて、彼らとしたら、独自の
生き方をしたいって考えたわけですね。日米安保っていうのはある意味では、反共政策ですからね。
それに対して反共っていう言葉は、沖縄になかったと思いますね。隣に中国があるって認識は強いし、台湾があ
るっていうのも強いんだけども、反共っていう感じじゃないんですね。
江上:アメリカとか日本本土のように、共産主義勢力に真っ向から反対するというのは、沖縄にはあまりなかった
。
下河辺:もちろん、革新の一部にはいたわけですけどね. だけど、沖縄全体としては、そういうことではなかったと
思うんすね。
江上:あの瀬長亀次郎さんの人民党も、最終的には復帰後、共産党と合流していきましたけども、日本本土
の共産党とちょっと違いますよね。
下河辺:違うんですよ。
●沖縄自民党内にも独立論者が
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江上:違いますよね;先生もおっしゃったように、最初、人民党は沖縄独立論を主張していましたしね。それで、
本土の自民党と沖縄の自民党もかなり違っていて、その両者をつなぐために先生はいろいろとご苦労なさったと
思うんですが、どういうことでご苦労なさったとかそういう具体的な事例はおありでしょうか。
下河辺:そうですね。なんか、忘れちゃったけど。そうですね。なにしろ、日本から独立したいという過激な人がい
たくらいですからね。
江上:沖縄の自民党内にですか。
下河辺:ええ。
江上:あ、そうですか。革新ではなくて沖縄の自民党の中に。
下河辺:自民党でもそう、でしたね。だから、_遠まわしにいつでも、大航海時代の琉球っていうのは、復帰の目
標であったという、のが、そういう思想を背景に持っているんでしょうね。
江上:それはそうでしょうね。それはありえますね。
眞板:あの、沖縄自民党で独立論を唱えた人のお名前ってご記憶にございますか。
下河辺. :え、なんとかさんっていたなあ。ちょっと忘れちゃった。顔だけ覚えてて、
眞板:小渡さんですか。
下河辺:えっ。
眞板:小渡亨さんですか。
下河辺:小渡さんじゃないなあ。
眞板:小渡三郎か
江上:小渡さんじゃないでしょ。
眞板:確か海軍ですよね。
下河辺:忘れちゃったなあ。
江上:顔は浮かびますか(笑)
下河辺:顔はなんか覚えているんですけど。汚い宿屋でしゃべったのは覚えているんだけど。だめだなあ。
江上:自民党の中に独立論の方がいらっしゃったというのは、初めて聞きました。
眞板:初耳です。
下河辺:そうですよね。
江上:でも、考えてみたらありえますよね。沖縄のいままでの歴史から考えると。
下河辺:東京から行く自民党の人たちの演説っていうのは、復帰をするってことを喜んでいながら、自分の党の
支部になれっていう感じなんですよね。そんな永田町に支配されて、沖縄支部の自民党なんていうことをみんな
喜ばなかったんじゃないでしょうかね。
江上:それは先生もご存知でしょうけども、復帰後もありますね。
下河辺:いまでもあるんですよ。
江上:いまでも自民党の本部と沖縄県連の間では確執がしばしばあって、うまくいくときもありますけど。うまくい
かないことも多い。今度の総選挙の場合もそうですよ。
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下河辺:ああ、そうですか。
江上:自公路線で、公明党の白保さんを自民党が推すということで、いったん決まって、それは特に東京の方針
ですよね。沖縄は支部と呼ばないで県連と呼ぶんですが、県連はあくまで下地幹部という自民党議員を候補
者として立てようとしたので、それでもめて国の方針と沖縄の方針がぐちゃぐちゃになって、両方、立っちゃったんで
すね。
下河辺:そういうことあるでしょうね。
江上:(笑)いまでもありますね. 一種独特ですよね。他府県だったち中央の意思がこれほど地方で抵抗されると
か、拒否されるというのはあんまりないでしょうね。
下河辺:あんまりないんじゃない。
江上:ないですよね. これはやはり沖縄独特の現象ですね。
下河辺:テーマですね。
江上:歴史があるからですね。
●大学院大学構想の原型は亜熱帯総合研究所
眞板:次は、亜熱帯総合研究所のお話が出てたと思うんですが、下河辺先生の文言とですね、尾身、当時、
沖縄開発庁長官をなさっていた尾身さんが、大学院大学構想を打ち上げたときの文言がですね、世界的な規
模の研究所であるとかですね、世界的な規模の研究者を招くんだとかっていう下りから想像するとですね、もし
かしたら、この大学院大学構想っていうのは、先生のご発案だったんじゃないのかと、いう風に思いまして。
下河辺:私っていうよりも、私が一緒にやっていた野村総研の意見だったんですよね。野村総研っていうとあんま
り正しくなくて、野村総研にいた何とかさんっていった、個人的な提案だったですよ。
江上:福島さんじゃない一ですか。
下河辺:あ、福島さんっていったかな。
江上:そうでしょう。
下河辺:ちょっと、正確に覚えていないな。
江上:大田県政のときに、国際都市形成構想のいろんな調査に係わった方ですよ。
下河辺:ああ、そうですか。
江上:福島清彦さんとおっしやい草したかね。
下河辺:言ったかなあ、ちょっと忘れちゃったなあ、実に熱心に
江上:あの、割りと小柄な方で
下河辺:小柄でしたよね。
江上:割りと丸顔で
下河辺:丸顔
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江上:そうでしょう。じゃあ、福島さんですね。私はその調査で坂口さんと福島さんと一緒にニューヨークの研究機
閑の視察に行ったことがあるんです。
下河辺:ああ、そうですか。
江上:国際都市形成構想で、彼がいろいろ調査していましたね。
下河辺:ああ、そうですか。
江上:たぶん、それだったら、福島さんでしょうね。
下河辺:そうでしたかね。
● 「亜熱帯総合研究所構想」秘話
巌板:それはも′しかしたら、日米連合大学院大学構想と関連していることですか。
下河辺・:いや、なんかむしろ'ハワイにあったイースト・ウエスト・センターに対して、ノース・サウス・センターつて言
おうっていうくらいに、ふたつを並立させようっていう発想だったですからね。
そしたら、なぜかアメリカがイースト・ウエスト・センターつていうことをあんまり、取り上げてくれないんで、ちょっと止
めちゃったんですけどね。確か、そのあたりの資料はおたくに渡しちゃったから、確かそのなかにあると思いますよ。
江上:そうですね。ありましたね。あとで、調べておきます。亜熱帯研究所は、結局、先生がおっしゃったように、
県の施設なってしまって。
下河辺:県が自分で作っちゃったんですよ。
江上:作っちゃったんですか.。聞いた話によると、県は、最終的に国が面倒をみてくれるんじゃなかろうかと考えて
いた。国がもっと立派なものを作ってくれるんじゃなかろうかと思ったところが、それが途中からぽしやつちゃって、結
局、県が自分で作らざるを得なくなったというような話ですが。
下河辺:それはうそですね。
眞板:というか、何もないところに亜熱帯総合研究所を国立で作るのは、難しいんで、まず、そのう露払い的な
意味合いで、県で何か基盤を作ってくれと、それを突破口にして、国がそこに予算付けして拡充していくから、と
いうような見方を沖縄ではしているみたいですよ。
そしたら、いつの間にか来なくなっちゃったという。
下河辺:だから、それが早合点なんですね。私と橋本さんの間で、橋本さんがいくつもあるうちのひとつを選んで、
これを国でやろうって言ったわけです。そして、沖縄に通知したら、気がついたら県立で作ったって言うから、びっく
りしたんです。県立の研究所を補助するっていうと、日本にたくさんある研究所の補助の一貫でしかないですよ
ね. だから、特別に作るっていうところを県が慌てて作ったために、ただ普通の県立の研究所になっち
ゃらたわけです。
江上:ちょっと、手順を間違えたんですかねえ。
下河辺:_間違えたの。それで補助金を特別に文部省に申請した、なんていう、そんな次元じゃ、補助金ってい
うのはできないよって言って、もう後の祭りだったですね。
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江上:後の祭りですね。県の亜熱帯研究所はあまりうまくいっていないようですね。
下河辺:そして、国際級の教授を呼ばなければ、意味がないっていうところも、県立なんでだめになっちゃったんで
すね。
江上:そうですね。琉球大学の施設を利用した、こじんまりとした形になって」結果的にはあんまりばっとしない状
況になっています。
下河辺:そうですよ。
眞板:当時もノーベル賞級の学者さんを学長か主任研究員に迎えてっていう話があったそうですね。
下河辺:そうですよ。そうやったら、どうかって言ったら、なんとなく自信がないんですね。そういうレベルじゃ、ないん
ですね. やっぱり、県立の研究所のレベルで、考えちゃうから。
江上:県は、世界レベルの研究所づくりにはちょっと、自信がなかったからでしょうか。
下河辺:そうです。
江上:それで、世界レベルの大学院大学構想を国自らがやるというような形になっていくわけですね。
下河辺:なっちゃった。
江上:それで結局、沖縄とは、あんまり関係ないよと。これは国のものだよというような方向性ができたんですかね
。
下河辺:そうでしょうね。
江上:はあ、そうか。そういう歴史的な経過があるんですね。
眞板:そうですね。
江上:でもやはり、これまで先生がいろいろと関わられた、そういった構想が合流しながら、大学院大学という構
想になっていっているんですね。
下河辺:なっちゃったんです。
江上:そういうことですね。
●普天間跡利用構想--ヘリコプターネットワーク
眞板:あと、最後なんですが、盛んにヘリコプターのネットワークのお話を普天間の海上へリポートの返還の絡み
でですね、おっしゃっておりましたが、これはもしかしてですね、四全総のなかで謡われておりました、エアコミュータ
ー構想のヘリコプター版というような理解、あるいはアイディアとうことで。
下河辺:いやあ、ヘリコプター版というか、あの三全総、復帰したときの計画では、′小型航空機っていうことがテ
ーマでして、地元から言ってきたわけですね。だから、名護でも1000メーターの滑走路を作うてくれとか、その当
時、日本の離島の飛行場っていうのは、そういう発想が多かったですよね. そして、経営難にみんな陥? ちゃった
わけですけども、だけど、沖縄にはせっかく海兵隊がいるから、その海兵隊のヘリコプターの払い下げを受けて、
安上がりに作ったらどう、つて言ってたんですけどね。
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江上:面白いアイディアですよね(笑)
下河辺:特に、病院というのを島へ作ること不可能だから、本土の病院へヘリコプターで患者を運ぶっていうこと
を作っといたらいいだろうっていう、話してて、その医療システムには国費を投入してもいいんじゃないかっていうこ
とを言ってたわけですよね。
眞板:先生、素朴な疑問なんですけど、そのヘリコプターで離島がカバーするエリア、沖縄本島を中心に考える
と、いわゆる島尻郡、久米島とか慶良問諸島とかあのへんは、もちろんカバーできると思うんですよね。
下河辺:いやあ、全県カバーできる。
眞板:ただ、その航続距離の問題で、たとえば、南北大東島であるとか、与那国、波照間とい_うようなところか
ら、本島に持ってくるとすると、米軍のヘリでも一回給油しているくらいですんで。
江上:南北大東と那覇は一度に行き切れないの?
眞板:ヘリコプターはちょっと厳しいんじゃないすか。
江上:厳しいの?
下河辺:いやその。
眞板:もしかしたら、行けるのかもしれないですけど。
下河辺:いや、行けると思いますよ。
眞板:あ、そうですか。
下河辺:ただ、給油のシステムっていうのは別なんですよね。特に米軍の場合には、攻撃されないように、燃料
貯蔵しなきやいけないっていうような軍事作戦上のテーマがあるでしょ。だけど、平和でもって病院のことだったら
、病院でもって給油できれば、いいじゃないですかね。
江上:残念ながら、それは実現には至らなかったんですね。
下河辺:いまでも、まだ、それは、やろうとはしているわけです。
江上:ああ、そうですか。
●ヘリコプターネットワークのモデルは海軍病院
下河辺:装置型の医療っていうことができるようになってきましたからね。だから、沖縄の海軍病院が先頭に立っ
て開発してくれてますから、沖縄の海軍病院っていうのが、モデルだって思ってましてね、今でも米軍はベトナム
からカンボジアからフィリピンあたり側へとつながって、なんていうんすか、コンピュータで医療管理することをやって
んじゃなすか。
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江上:そのくらい大きな拠点が嘉手納の海軍病院なんですか。
下河辺:そうです. それはやっぱり、日本の医療ってのは、そういうものとつながることを好まないんですね。 医師
会っていうのがあって、医師会は海軍病院とは付き合おうとしないですね。
だから、海兵隊にすると、せっかくいるのにもったいない、なんて言っているけども、現実に沖縄本島では、海軍
病院とつながっていませんね。
江上:そうすると、米軍の病院関係者と沖縄や日本本土の病院関係者とはぜんぜんつながりがいないんですね
。
下河辺:ないというより、しちやいけないんですね。
江上:しちゃいけない、軍の施設だから、というわけですか。
下河辺:軍だからというより、日本の医療体制からはずれたシステムなんですね。
眞板:ただ、最近、県内では年間数名研修医という形で海軍病院に行って研修して。いるみたいですけども。
下河辺:そうですね。研修には行っていますし、見学には行っているみたいですけどね。
江上:でも、共同作業をするというようなところまでは至らない。
下河辺:患者を受け取るっていうことをあまり喜ばないすね。
江上:そうですか. なかなかいろいろ難しいですね。軍の施設といってもお医者さん同士とか病院同士が協力す
れば、いろいろ成果とかあがるではないかと思いますけどね。
下河辺:沖縄の軍というのを小泉内閣が、有事のためとだけしか認識していないからおかしくなんですね. 有事な
んてないって、沖縄の軍は言っているわけですからね。それじゃあ、平和なときに駐留している理由はなんだ、つ
て言ったら、ゲリラ対策もあるでしょうけれども、医療とか研修とか留学とかっていう手伝いをしているわけですね
。
眞板:どうもありがとうございました。
●一次振計策定について-一補助率のかさ上げ
江上:それでは、本日のテーマに移らしてもらいます。先日、高島さんに質問表・メモのようなものをお渡しておき
ました. というのも、もう既に先生の方から私の方に関連の資料をたくさんいただいているんで、先生は書類をお
持ちにならないわけですから、私の質問してお答えなさるほうもご不自由だろうと思ってそのようにしました.
下河辺:いやいや。
江上:非常にお粗末なメモで恐縮です。でも先生はずっとご自身でやっておられているから、振興開発計画につ
いては、そういうのを見なくても十分お答えなさることができると私は思っているんですけども.。一応、順を追ってl
、沖縄振興開発計画についてお聞きしたいと恩うんですけども。まず、最初にその根拠となる沖縄開発特別措
置法についてですけども。
これは先生よくご存知のように目的は「1、基礎条件の整備をはかる、2番目に、産業の均衡ある振興開発を
はかる」そして、手段として、「1、国の負担または補助率のかさ上げおよび事業主体の特例により振興開発事
業を推進する、2番目に工業等開発地区および自由貿易地域の制度を活用することにより企業立地を推進
するととちに貿易を振興し、もって産業振興をはかる」という風になって、この基本原則を基に、振興開発特別
措置法が展開されているわけですけども、これについては、目的、手段というのを当時を振り返られて、どうです
か。こういう形で、やるしかなかったといいますか、こういう形でやるのが当然であったという風にお考えで。
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下河辺:当然のように県がこうやって陳情に来たことは確かですね。それで、陳情だから国もそれを受けて、こうい
う特別法を作ったんですね。
江上:これは、ほとんど沖縄側の意向を受けて。
下河辺:ええ。
江上:_こういう形になったという. ことですね。
下河辺:それが私は、非常に疑問に思っていましたから。だから、こういう形でやっぱり、はや、の、県と同じように
やりたいんだなあと思って、受け取っていましたけどね。沖縄はこういう形にはなんないっていう、感じが強かったで
すね。
江上:それは補助金の問題とか、そういうものでしょうか。
下河辺:補助金じゃなくて、産業構造として議論のし直しだと思いましたね。産業って中う言葉が、いったい何を
言っているのか、そして、手段でもって、工業化地区と自由貿易地域っていうような話にしちゃうから、相変わら
ず製造工業のことを振興の中心に置いているんじゃないかって、思うと、無理だろうなっていう。
江上:そうですか。
下河辺:できりやあいいととですけどね。
江上:結果的には先生が当時卜おっしゃったように無理だろうなっという炊祝があったんですね。
下河辺:私はとても無理だと思いましたね。だから、同情してやってくれたのは松下幸之助さんだけでしたよ。それ
で、土地買ったままナショナルは、とうとう工場を作らずに終わっちやいましたしねえ。
●工業等開発地区および自由貿易地区の制度の活用
江上:ということは、国の負担または補助率のかさ上げという手段のひとつですけども、2番目の工業等開発地
区および自由貿易地区の制度の活用というのも、これ全部、沖縄県側が要求したんですか?
下河辺:そうです。いまでも、いまの知事も同じことを要求してんじゃないすか。
江上:そうですね。
下河辺:補助金と制度がよければ来ると思n込んでんじゃないすか。だけど、実績は上がらないじゃないすかね。
それは日本の企業、行きませんよ。
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江上:これは、_工業等開発地区が当時の全国総合開発計画で、新全総であったものをそのまま、沖縄県に
もってきたわけですね。新全総で日本本土のあちこちで工業等開発地区があるから、それを沖縄県に当てはめ
て、、先生がおっしゃるように、工場の設置を沖縄にも是非やって欲しいというようなことで、こうい~ぅことになった
んですね。
下河辺:そうですよね。
江上:そうですね。ということは、国の方から、こういうものを当てはめてやった方がいいと言ったわけではない。特に
、先生はそうは思われなかったということですね。
下河辺:そうですよ。政府の方も言われるものを全部登録して、検討事項としてやったのが、なんか88項目かな
んかあったりして、それで結論があまりないままに置かれてんじゃないすか。ですから、亜熱帯研究所を設立する
っていう話が、多少、話題になっただけなんじゃないすかね。
イースト・ウエスト・センター・に対するノース・サウス・センターなんかも、もうトラウマになっちゃっいましたしね。
江上:ということは、こういうやり方で、沖縄の産業振興を、工場設置を興そうとしても、先生としては、結果的に
うまくいかないんじゃないかという風に、最初から危倶噂されていたんですね。
下河辺:そうですね。むしろ、現実的に動いているのは観光だけでしたから、200万という目標が達成されて、
300万観光くらいまでいったわけですから、そしたら、いまの沖縄県は、500万観光って言って、それが拡大する
ことを言っているんですね. ところが、どういう観光で拡大するかっていう具体性が、あんまりないから、500万まで
いくのは容易じゃないんじゃないですかね。だから、知事は航空運賃を補助金つけて安くすれば来るなんていう、
話になっちゃったんじゃないですかね。
●沖縄と北海道の振興開発計画策定方式の相違
江上:それで、同じ沖縄振興開発特別措置法の第4条「振興開発計画の決定および変更について」ですが、
、「沖縄県知事が振興開発計画の案を作成し、内閣総理大臣に提出するものとする」と規定されています. そ
れで、「内閣総理大臣は沖縄振興開発審議会の議を経るとともに・・」と続いて、「内閣総理大臣は振興開
発計画を決定したら、これを沖縄県知事に通知するものとする」とあります。それで、振興開発計画の案を作
成するのは、あくまでも沖縄県知事だという風になってい,ます。これは北海道開発庁とはぜんぜん違いますよ
ね。北海道開発庁については、こういう規定はもちろんありませんので、非常に対照的です。これは下河辺先
生から言わせると当然だということですか. 沖縄県側にそれだけ振興開発計画を作る主体性を与えた、というこ
とになりますか。
下河辺:一応、第一次振計ということを沖縄県が、独自に作って、政府に持ってきたっていう経緯から始まっ考
んですね。そして、やっぱり、沖縄県独自に作ったものを政府が、受け取って、それを基本に政府の計画を作る
っていうルールがまずできたから、法律作るときにそれをその通り書いたわけですよね。北海道のように、拓殖って
いうか、国が入植っていうところから始まった、北海道とは違うっていうことは言ってましたね。
233
江上:そうですね。事情が違うっていうことと、それと沖縄の場合は、そういった沖縄自らが振興開発計画を国に
持ってきて、これを実現してくれといった復帰当時の経緯がこういう形になったということですか。
下河辺:そう・ですね-。
江上:それはやっぱり、二次振計でも、三次振計でも同じですか。
下河辺:それはそのままつなげていますから。
江上:そうですか. ということは、国としては沖縄県側から振興開発計画を持ってきて、二次振計も三次振計も
、ほぼその通り受け取って実行したんですか。
下河辺:そうですね。その通りっていうわけには、財政の都合があるからできないわけです。だから、県と相談して
補助金を配りながら、計画の基礎になってきたことは確かですね。
江上:もちろん、計画自体の調整も必要なとことあったでしょうね。
下河辺:それはありますよね。
江上:でも、基本的にはやっぱり、沖縄県側が作ってきた計画を尊重しながら、実施してきたということですね。と
いうことは、ある意味では、最初の一次振計もそうですけども、一次振計もほとんど沖縄側が作っているわけで
すから、二次振計、三次振計も沖縄側が作ったんですから、これがうまくいったかどうかという責任は、ほぼ沖縄
県側にあるということになるんですか。
下河辺:いや、政府だってあるわけです。政府がそれを飲み込んで沖縄対策を国としてもやってきたわけですから
、だから、一番、国も県も困ったのは、日本の企業誘致がうまくいかなかったこと、ですね。
江上:そうですね。
下河辺:それで、観光だけがうまくいったっていうことは、なんか国も県も同じ認識でいるんじゃないすか。
●県内工業団地の現状
江上:ひき続いて、第一次振興開発計画、いわゆる一次振計の中身に入りますけども、まず第1に、一次振計
作成時点での10年後の数値目標は、その当時60%弱の県民所得を80%くらいにする、そして第二次産業の
比率を当時、18.1だったものをこれを29. 7%に引き上げる。
特に製造業の比率を復帰の時点で9. 3%だったものをこれを18. 6%、ちょうど2倍に引き上げるというような数
値目標を決めました。それから、新全総の工場の地方分散、すなわち、企業誘致という手法が沖縄にも適用
されました。72年10月に沖縄は「工業再配置促進法施行令」によって、工業誘致地域に指定されました。
工業等開発地区として、糸満、南風原、読谷、具志川を含めて、11カ所が指定を受けました。糸満工業団
地と中城港湾新港地区工業団地が整備されたんですけども、先生も再三指摘されましたように、うまくいかな
かったわけです。特に、工場誘致は革当強い願望だったっということが、この計画から見てもわかりますけども、ほ
とんどうまくいかなかった。
私、糸満の近くに住んでいましたけども、糸満の工業団地は、いまほとんど住宅地になっていますね。工場とし
ては地元企業のリュ-セロなどが少し、そこに入っていますが。
234
眞板:まさひろという泡盛の会社も入っています。
江上:泡盛の会社も。地元の会社がいくつくらい入っていた? 地元の。
眞板:地元の企業ぽっかりです。
江上:地元の団地がいくつか入っている。あとは、ほとんど住宅街になりましたね。
眞板:そうですね。
江上:新興住宅街になりました。中城港湾の方は、いま工場団地を造ってやっているでしょう。
眞板:そうですね。最近ですと、台湾の企業が沖縄でオートバイを組み立てて、メイド・イン. ・ジャパンで輸出で
きるということで、そういうのが入っている。
江上:いまは、糸満よりもむしろ中城港湾の方が活発だね。
眞板:はい。
江上:ですよね。そういうような状況になって、期待が大きかったんですけれども、そういった工場を立地するだけ
の諸条件が整わなかったということですね。これについて、先生、何かコメントがおありでしょうか。
下河辺:いやあ、まさにこういうことで、新全総としてのやったわ`けですけども、なかなかうまくいかなくて、工業では
もともとの地元の産業の砂糖とビールっていうようなことをどうしようってことさえも、ままならないままになったんじゃ
ないすかね。
江上:砂糖とビールですか。
下河辺:そうですね。沖縄ビールっていうのは、沖縄にとってはひとつの産業でしたからね。
江上:オリオンビールは復帰前からずっとあったんですよね。
眞板:そのはずですが、途中でキリンビール、あれ、キリンビールの技術指導でできたという風に聞いてはいますけ
ど。
江上:そのあと、キリンビールから離れたんですか?
眞板:資本的にはいまアサヒビールですけど。
235
●沖縄開発庁の一次振計の自己評価について
江上:いまはアサヒビールだね。そういうことで、 「沖縄開発庁二十年史」などで、第一次振計についての自己
評価を沖縄開発庁がやっているんですけれども、ひとつは社会資本が確実に整備されたということを言っ,ていま
す。一次産業については、野菜、花井、畜産等作目の多様化の方向に歩みながら、着実な伸びを示した. 二
次振計はもう再三言っていますように、新規工業の立地はほとんど進まなかった。ただ、地元企業は、相応の
検討ぶりをみせたと. つまり、地元企業はそれなりに頑張ったと記しています。でも、特に本土からの新しい工業
の立地がほとんど進まなかった。建設業は、公共投資の増大等により大幅に伸びた。第三次産業として、観光
客が年々、増加し、観光関連産業を中心に比較的順調な伸びを示した. 1971年に観光客は20万人、観光
収入は145億円だった車のが、その10年後、1981年には観光客数は200万近く、193万人になったと記して
います。
10年間で10倍近く伸びている。観光収入はそれに応じて、大きく飛躍して1971億円にまでなったと記していま
す。そして、-人当たり県民所得の対全国格差ですけども、72年度の約57%から、一次振計が終わる81年度
は、70. 7%まで縮小した、つまり、相当県民所得は上がったということを言っています。こう・いう沖縄開発庁の
評価について、先生はどう思われますか。
下河辺:いやあ、まさにこの通りで、第二次産業が計画的に行かなかったっていうことが、問題として残っただけで
すよね。夢一次産業については、コメを作るっていうことの是非論っていうのが、ちょっとまだ検討課題じゃないで
すかね。
江上:昔は、沖縄でもかなりコメを作っていたんですね。
下河辺:そう。
江上:いまはもう、コメはほとんど作られていませんね。
下河辺:いや、復帰のときのテーマは、コメを作ることだったわけですからね. それをやったんだけども、買うはうが安
いですからね。
江上:復帰のときには最初、コメを作ろうとしたんですね。
下河辺:したんです。そいで、土地改良の事業が、さんご礁を潰しちゃうっていうトラブルがあったわけですね。農
地を作るたんびに、土壌が海に流れて、さんごの上にかぶさっちゃうんですね。
江上:それで、途中でやらなくなったんですか。
下河辺:そうです。で、あんまり農地開発はやらないでおこうっていう環境派の連中が強かったんじゃないすかね。
江上:それで、コメ以外の野菜とかを作ろうとしたんですか。
下河辺:小一さな規模のものはやったんすね。
江上:それで、第二次産業が大きな課題だったんですけども、それ以外に第一次振計の残された課題として、
沖縄開発庁はまだ十分に達成されていない課題として、交通施設、道路網の整備、水資源、エネルギー、一
製造業のウエイトが低い、それから財政支出に大きく依存している、沖縄のもつ地理的自然的特性が生かさ
れていない、というようなことを指摘して、そのために二次振計が必要であると、いう結論にになっ七います。残さ
れた課題について、先生は、その通りだと思われますか。
236
下河辺:いやあ、これは表現がこんな風なら、いつでもどこでも同じこと言って大丈夫なんで、あんまり提案した
理由になんないすよね。おそらく、この交通施設っていうのは、鉄道のことを言ってんでしょうかね。那覇から名護
までの鉄道がビジョンだったわけです。
だけど、採算がとれないんですよね. それで、補助金で造るなんていう、話になっていたから、なかなか実らなかっ
たんじゃないすか。そして、むしろ沖縄は自動車の方をいいという意見で、鉄道を熱心にやった連中も、東京に
はいっぱいいましたけども、一結局できなくて、自動車の沖縄になっていますよね。
●モノレールについての評価
江上:モノレールはいま走っていますけど、あのモノレール計画は割りと早く出ましたよね。
下河辺:そうですね。
江上:あれは西銘県政のときに出てきてますね. あれはとうですか。
下河辺:その、空港と街をつなぐっていうことの道具を道路でやるっていうこと以上に、モノレールでやるっ七いうこ
と'に展開していったっていうことがありましたね。特に道路を拡張できなかったっていうか、米軍基地があって、飛
行場に続く道路の拡幅っていうのが、あれ以上無理だっていう話になって、モノレールになっていったわけですけど
もね。
江上:これはやはり、沖縄にとって造ってよかったんでしょうか。
下河辺:造らなきゃ、だめなんじゃないすか。
江上:でも、やっぱり、採算がとれるかどうかについてずいぶん、心配もありましたよね。
下河辺:そうです。.だけど、ああいうインフラっていうのは採算を超えて、やっておくことが県民にとって便利なんじゃ
ないすかね。
江上:最近、私もモノレールに乗りましたけど、空港から那覇の中心街に行くには便利になりましたね。
下河辺:そうですよ。
江上:空港から那覇の中心街に会議で行くときは非常に便利になりました。観光客は首里に行くのに便利にな
りましたね。それで、いまのところ、予想以上に利用客は多いみたいですね。
下河辺:そうですね。
江上:それで、ずっとそのまま推移するといいんですけど、ただ、痕民としてはいまの空港から首里までのルートを
もっと伸ばして欲しいという意見が強いです。
下河辺:そうかもしれないね。
江上:採算の問題があるでしょうけども、できたらやはり公共交通機関としてもっと伸ばして県民の役に立つとい
いですね。
237
下河辺:そうですね。沖縄は水がないですからね。
江上:水が不足して、つい最近まで水の問題は非常に大きな問題でしたですね。
下河辺:特に、建設工事が多くなったために、水っていうものがとても面倒な問題になったんすよね。
江上:そうですね。
下河辺:セメントで工事するっていうのが、ほこりだらけの空気になりますからね. 水をまいていないと、だめなんで
すよ。
●沖縄のもつ地理的自然的特性について
江上:あとは、課題として、沖縄のもつ地理的自然的特性が生かされていないということ」を沖縄開発庁が言っ
ているんですけども、これは・具体的にはどういうことでしょうか。
下河辺:これはどういう意味ですかね。
江上:これは国療交流の拠点になっていないっていう意味ですかね。
下河辺:なんか、地理的自然的っていうと、海って感じでしょうかね。
江上:そうですね。
下河辺:だから、海っていうのが生かされていないっていうことは、飛行機と自動車っていう、ことに対して疑問を
持っているんじゃないでしょうかね。船による観光でも産業でも考えたらどうかっていう意味なら、まさにそうかもし
れませんね。
江上:その点について、開発庁の二十年史にはこのように書いてあります。「我が国の経済社会において、沖縄
が東南アジア諸国との接点に位置し、海外交流の歴史的経験を有していながら、人的・物的国際交流は進
展しておらず、、豊かな太陽エネルギー、広大な海域、多彩な観光資源についても十分に活用されていないな
ど、沖縄のもつ地理的・自然的特性は十分には発揮されていない」と。
下河辺:ま、そういうことなんでしょうね。
江上:そういうことなんですね. 非常にもっと広い意味ですね。先生、おっしゃった、海とかですね、国際交流とか
ですね、太陽エネルギーとか、そういうことなんですね。
下河辺:そうですね。
江上:これは先生も強調されてきた点ですね。
下河辺:そうです。
●復帰8年でコンクリートジャングルになった沖縄
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江上:先日、私が沖縄に行ったときに、県の資料室を見ていたら、先生が1980年に沖縄県で講演された記録
が残ってました。それは、第二次沖縄振興開発計画に向けて、西銘県政の比嘉幹郎副知事が司会をなさっ
ていまして、阜れで、「第二次沖縄振興開発計画はどうあるべきか、先生の意見をお伺いしたい」と始まってい
ます. これは、県庁の職員を前に先生が講演なさった記録です。そのコどこ'、に基づいてお聞きしたいんですが、
先生はずいぶん長く講演なさっているので全部を網羅することはできませんけども、私が印象に残ったとこだけ話
します1970年に初めて沖縄に先生が行かれて、それから10年経った1980年、一次振計を経て、沖縄がずい
ぶん変わったということを最初におっしゃっています。
「第一に感じたことは、変わったなあという感じだと思うんです。どんなに変わったかというのは、どうも説明しきれない。複雑な気持ちですけども、少なくとも見た景色としては、昔の琉球という景色がなくて、緑も増えたんだけれども、コンクリートが非常に増えたという感じでした。西表に至るまで、建物がほとんどコンクリートに変わった
ということは、復帰後まだ8年なんでしょうが、景色としては異常な変化だという気がします」ということを述べられています。このへんに先生の気持ちがこもっているような気がするんですけども。
ストレートにはおっしゃっていないんですけども、ちょっと、こういう計画でいいのかなあっていう先生の考えが出ているのではないでしょうか。
下河辺:私、復帰するまで、あれだけ通っていろいろやったのに、復帰したとたんに、沖縄が嫌いで、行かなかったんですよ。7、8年行かなかったんじゃないすかね。それはなぜかって言ったら、もうセメントのジャングルでしかないと、これは沖縄のスラム化って言った方がいいなんて言って、嫌だったんです。そしたら、西銘さんがそんなこと言わないで、前どおりやってくれって言って、で、彼は先輩なもんだから、断れないで、またいつの間にか沖縄のこと、考えるようになったんですけども。
いつだったかな。13日だから、. 明日、明後日ですね。宜野湾市長と吉元とふたりが、ここへ来るんですけども、何しに来るのかわかんないんですけど。
江上:ああ、そうですか。
眞板:伊波さんが。
江上:伊波さんが来るんですか。
下河辺:ええ。
江上:革新市長の伊波さんが来るんですか。
下河辺:ええ。
江上:伊波さんと吉元さんが
下河辺:ええ。
江上:革新系のお二人ですね?
下河辺:ええ。それで、何しに来るのか。何か頼みにくるんでしょうね。
江上:そりゃあ、なんか。
下河辺:何か企んでしょうね。
江上:企んでしょうね。企んでいるなんて言っちやあ失礼かもしれない(笑)。 伊波さんが下河辺先生のところに会いに来る用件というのは何でしょうね。
下河辺:なんか13日の夕方来るそうです。
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江上:そうですか。なるほど、それは楽しみというか(笑)。
先生が最初に沖縄に行かれたのは1970年ですが、私が琉球大学に赴任したのが1977年です。先生の7年後ですけど、私も沖縄の第一印象として、やたらとコンクリートが多いなと感じました。昔の琉球の建物が非常に少なくなっていて、沖縄の街が美しいという感じがあまりしなかったですね。琉球大学そのものも拡大に追いつかずに、プレハブの建物が多かったです(笑)私の研究室もプレハブでした。講義室もプレハブという始末でした。スペースが狭かったからしょうがなかったんですが。
下河辺:コンクリートにした理由が、台風が年中来るたjLJびに、屋根が飛ぶっていうことが問題だから、コンクリートにしたっていう理屈になってんですね。
江上:そうですね。
下河辺:だけど、それはとても疑問で、風が吹いて屋根が飛べばいいじゃないのと。翌日には、もうちゃんと直して暮らしているよって言ったんだけども. そういうことをやる経験と能力が、若者になくなったんですね。だから、屋根が飛ぶと、なんか建設業に仕事をだすようなことになったから、ちょっと、やっぱり、壊れない家っていうテーマになっちゃったんでしょうね。
江上:赤瓦の屋根で覆われた沖縄独特の建物が非常に少なくなりましたね。
下河辺:なくなっちゃったでしょ。
江上:なくなっちやいましたね。でも、あの赤瓦の屋根は台風には強いはずですけどね。
下河辺:強い。
江上:あの屋根は大きくかぶさっていて。
下河辺:そうそう
江上:だから伝統的な沖縄の家は台風に弱いっていうのは、私、解せないんですけどねえ。
下河辺:弱いっていうかな。あの瓦でも、修理が簡単っていう意味なんですよね。
江上:修理が簡単なんですか。
下河辺:壊れないって意味じゃないんです。
江上:コンクリートのブロックの家の方が修理が簡単なんですか。
下河辺:いやいや、昔の琉球の家
江上:昔の家の方が修理が簡単なんですか。
下河辺:簡単。だから、壊れないっていうテーマよりも、修理簡単っていうテーマでやったわけですよね。それが修理可能っていうんじゃなくて、壊れないっていうテーマにしたら、壊れたりするからちょっと混乱してるんじゃないすか。
江上:なるほど. 風景としては、コンクリートの塊りっていうのはあんまりいい風景ではないですね。
下河辺:まあ、せっかくの沖縄、無責任な遊び人の私にとっては、つまんないですねえ。食い物も東京並みの食い物が一番いいなんていう、話を聞くとがっかりするんすね。飛行場降りて車に乗って、ホテルへ行って、東京と同じめし食って、海に行かないで、宿の中のプールで泳いでいるってのは、つまらない沖縄ですね。
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江上:そうでしょうね。先生から見ると特にそうでしょうね。でも一応、先生はおそらくこの当時、沖縄に対してお世辞をこめてでしょうけども、「いま来てますと、非常に大きく変化し、発展してきてるなあという気がいたします」と言っていますけど(笑)
下河辺:これは本当を言ってんですよ。良い方か悪い方かは言わなかったんですよ。
江上:それは言わなかった(笑)。
下河辺:変わっちゃったっていうのは、ある意味で嫌味なんです。
江上:嫌味なんですね。読みながら、私はここで笑っちゃったんですけども。
眞板:先生が一番最初に行かれたころは、沖縄の伝統的な家屋、赤い瓦を薫いた家とか、那覇市内にかなり多かったんですか。
●沖縄の芝居小屋の思い出
下河辺:多くありましたね。芝居なんか見に行くと、沖縄の芝居っていうのは、まったく言葉、われわれにはわかんない。いま、そういう芝居小屋なくなっちゃったんじゃないすかね。あの当時の。
眞板:少なくなりましたね。
下河辺:ですね。
江上:まだ、あるの?
眞板:仲田幸子劇場は、まだ健在です。
江上:仲田幸子劇場は小さな家みたいな建物でしょう。
眞板:そうです。
江上:先生のいう劇場は、ちゃんと芝居小屋みたいに構えてあったんですよね。
下河辺:そうです。
江上:それはいまではほとんどなくなったでしょう。昔はダイエーの近くにもひとつありました。
下河辺:中国で京劇観んのと同じで、沖縄劇観ている上、字の解説が幕に書いて垂れ下がるんですよね。それで、私なんかは何やっているっていうのが、わかるっていう。
江上:つまり日本語が書いてあった。
下河辺:日本語が。
江上:日本語の幕がぶら下がっているんですね。そうでないと私らはぜんぜんわかりませんしね。ストーリーが(笑)
下河辺:ぜんぜん、わかんない。
江上:わからない。
眞板:そういうのは、旭橋の郷土劇場に全部、集約しちゃったんじゃ。
江上:郷土劇場がひとつだけありますね。
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眞板:あと、ちょっとしたこういわゆるスナックみたいな、大箱のスナックで簡単な劇も見せますよ、音楽も聞かせますよというのは残っています。
江上:飲み屋みたいなところね。
下河辺:飲み屋じゃなくて、ちゃんとした芝居小屋で、見せてもらったけども。 言葉ぜんぜんわかんなくて、解説が出て面卓かったけど、中身は見てても非常に面白い劇で、面白かったですけどねえ。なんか瓦を作る職人の労働者の話で、手とか足が泥で色がついちゃって、誰が見てもあれは瓦職人ってわかるっていう姿になってんですね。 で、その連中は女郎を買うことを女郎が拒否していたんですね。それを何とかして女郎と付き合いたいって言って、夜、夜中に忍び込むんですね。そしたら、女郎は自分を訪ねて来てくれたっていうんで喜んで、付き合ったらぐっすり寝込んじやって、朝起きたら隣りに寝ている男が、瓦職人だってわかって、飛び起きて怒ったっていうシナリオの芝居だったんですよ。それをみんな見ながら大笑いして、見ましたね。
江上:いろいろたくさんあ・りますよね。出し物が。
下河辺:そういう出し物いっぱいありましたね。
江上:そういった沖縄の芝居小屋がいくつも昔あったんですよね。
下河辺:そうなんですよね。
江上:それがもうどんどんなくなって、最近はお盆とか旧盆とか旧正月でテレビでやっていますね。
眞板:はい。
江上:いまはテレビでも見られるんですね。
下河辺:いまはもう、ねえ、テレビができちゃったから、わざわざ芝居小屋まで行かない人は多いでしょうけどね。ああいう伝統芸術っていうのは面白いですよ。
江上:その当時はおそらく、沖縄の言葉をしゃべる方もとっても多かったでしょうね。
下河辺:多かったですよ。みんな、聞いていると笑っているんすからね。周り見ると笑わないの私ひとりなんですよ。
江上、眞板:(笑)。
江上:そうですね。もういまは、沖縄の言葉しゃべる人が少なくなりました。いまの若い人はしゃべれなくなりましたね。
下河辺:そうでしょうね。
●国際性を失った沖縄
江上:先生のこの講演の中で、沖縄は農業が非常に大切だとおっしゃっています. やはり沖縄らしさとか、沖縄の特性というものをどうやって、うまくつかまえるかということが大事だと強調されています。それと、島おこしですね. 島おこしがすでに始まっていた。
島おこしは、八重山あたりから始まったんですね。
242
下河辺:なんていうか、南の島々が最初に議論になりましたね。
江上:ええ、そうですね。島おこしが沖縄から起こって、それが結局、大分県の平松知事の村おこしという言葉になっていく。そうした島おこしが沖縄で始まっているけれども、これをもっと進めていただきたいと先生は、おっしゃっています。
下河辺:そうなんです。
江上:それから、那覇について、「那覇というのは日本の都南の中では、地方都市として非常に国際性の高い都市である」という風に言っていいんじゃないかと。「だが、復帰後8年経って那覇を歩いてみての感じだと、復帰帝に琉球政府当時に感じていたことと比較してみて、著しく国際性が欠けてきている」という風におっしゃっています. -だから、「復帰することによって、国際的なひとつの素質というものを那覇は失うてきているんじゃないか」
ということおっしゃっています。先生はどういう面で那覇は国際性を失っていると感じられたのですか。
下河辺:いやあ、つまんないことから言えば、最初に行ったころは、国際通りなんてのがあって、英語のお店でしたよね. ですけども、国際通りもなくなった感じだし、英語が通じなくなったし、つていうことあんじゃないすかね。
江上:それは、とりたてて本土と同じようにする必要なかったんじゃないかということですか。英語の看板があって、英語を使っていたままでもよかったんじゃないかということでしょうか。
下河辺:誰を相手に生きるかっていうときに、アジア全体の人とともに生きるっていう沖縄だとしたら、共通語は英語じゃないすかね。だから、台湾の人とさえ、英語で付き合うはうが、ずっと親密にいくんじゃないすか。中国の福建省とも英語で大丈夫なんじ示ないすかね. だから、英語が通じる街っていう国際性を失ったのは残念ですね。
江上:そういう意味だったんですね。
下河辺:それが最近、インターネットとかパソコンがだっと入ってきたら余計そう思いますね。沖縄ではパソコンやインターネットは、もう英語でやったらいいですよね。
江上:いまの大学院大学構想も、もちろん講義は全部英語でという手とですので、それを受けて、いま琉球大学でも講義の半分は英語でやろうと計画中です。
下河辺:あ、そりゃいいですね。
江上:ところで、一次振計の成果をみて、ちょっと沖縄がいびつになっているなと先生は嘩じられた。いわゆる沖縄の伝統的なもの、あるいは国際的な要素というのが、生かされていないとお感じになったわけですね。
下河辺:そうですね。だから、沖縄の人材っていったら、英語と日本語と中国語と3カ国語を自由に使える人が人材だっていう、こと言ってたんですね。
243
●二次振計の特徴-1失業率の高さを特色に
江上:それで、一次振計が終わって、次に第二次振計に進むわけですけども、所得格差はほとんど一次振計が終わった時点(1981年)とあまり変わらない。基本的には、二次振計は一次振計を受け継いで社会資本の整備をやっていく一方で、沖縄の経済社会の自立的な発展というものを模索していくという状況になります。二次振計の特徴としては、先生はどういう印象をおもちでしょうか。
下河辺:三次振計のときの問題っていうのは、もう業績が上がった観光っていうことが、非常に大きな討論になっていたわけで、あとは第一次振計と同じようなことを言っていたわけですね。したがって、-人当たりの所得についても、目立った特色っていうのはなくて、だいたい維持できているっていう程度。ただ、失業率の問題だけが、非常に討論になって、失業率が高いことが問題だっていう、ことが常識的に言われて、いかにして失業を減らすかっていう議論だったんですけれども、私自身は、失業率高くないと、その日本が失業率が低すぎるんであって、失業率っていうのは7、8%っていうのは、もうあっていいテーマだってことを言ったんで、失業率の高いことを問題にした人たちに、だいぶ、叱られたことがありますけども。
沖縄の特色っていうのは、失業率が大きいっていうことに特色を求めてもいいんじゃないすかね。青年たちが、生きていればいいっていうか、自分の好きなことをやって生きていける島っていうことが大切なんですね。
江上:失業率の高さが沖縄のライフスタイルの表れでもあるんですか。
下河辺:ええ. ちょっとアルバイトすれば食えるっていうのは、いいですよね。だから、失業っていうのが、ドイツなんかと議論しても、失業率の定義が違うから、国際的な比較ができないんだけれども、やっぱり、失業率づていうのはある水準で高いはうが、労働市場が豊かなんですね。
江上:労働市場が非常に弾力的になるってこと_ですか。
下河辺:そうですね。その会社の方の都合じゃなくて、働く側の都合で動く社会っていう意味で、面白さがあるんですね。
江上:でも当時は、それを言ったら沖縄の人から、相当、怒られたでしょうね。
下河辺:いやあ、労働組合なんかにだいぶ叱られちやいましたよ。
江上:沖縄の失業率は本土の失業率の2倍あってずっと5%を超えていた。「5%失業率超えたら、ヨーロッパでは、革命が起こるっていわれているんだ」と比嘉幹郎先生が当時、おっしゃっていたことを思い出しました。
下河辺:いやあ、それは労働組合が、そんなこというのはおかしいじやないかと。失業率が高くてこんなにうれしそうに豊かに暮らしているんだから、どっか考え方が、間達っちやってるんじゃないかって言って、吉元たちがやっている労働組合の会議で言ったから大騒ぎしたけども、なんか一人の組合の人が、いやあ先生実は、困ってんのは、失業率が高くなると組合の組織率が下がるっていうのは、変なもんですねえって言んすね。失業者が増えたら、緊張感があって、労働組合が組織力を発揮するときだと思っていたら、逆だっていうんセすね。組合に関心を持つ人がいなくなっちゃうとは、夢にも思わなかったって言って、そりゃそうでしょうねって、大笑いしたことあるんすけどね。
江上:確かにその当時、先生が指摘されるようにこ失業率が高いことはいい面もあるんだという意見を言う人はいなかったでしょうね。
下河辺:いなかったですね。
江上:いまではそういう意見も増えているのでしょうか。
下河辺:たまにいますけどねえ。
江上:いまでも少数意見なんですね。
下河辺:そうですね。労働市場をやっと労働者側が取り上げたのに、経営者に返しちゃうような発言しないほうがいいよって言ったから、みんなにちょっと叱られちゃった。
江上:ところで、観光の問題を相当議論したと先生はおっLやいました。沖縄の観光どうすべきか、沖縄の観光を良くしようと思うんだったら、観光の質を変えるべきだとか、そういう意見がいろいろ出たんですね。
下河辺:観光の質を良くすればいいのに、どうも従来通りのほうへ巨額な投資をして、お客を迎えようっていう体制ができちゃいましたよね。
江上:そうですね。
下河辺:立派なホテルがいっぱいできて、驚いちやいますね.
江上:第一次振計で社会基盤を整備するた釧こ沖縄では建設業者は増えました、それで二次振計や三次振計がそのように増えた建設業者を支えるためにも公共工事をやっていかざるを得なかった部分もあるんではないですか。
下河辺:それはどうですかね。もうちょっと、実証的に見ないと、結論が出ないすね。いまの若い人みたいに、筋肉労働者として、建設工事をやっていう′ことを好む青年いないんじゃないすか。もっと、ボタンでも、押せばできちゃうような建設業の方がいいんじゃないすか。建設工事のコンピュータ化っていうことが、いま、非常に重要になって、日本の建設業者、みんなそっちへ向いて、努力しているけども、沖縄の方がそれを一番最初に取り組んだって言ってもいいんじゃないすか。
江上:そうですか。
下河辺:ええ。
江上:コンピュータ化ですか。
下河辺:米軍がいましたからね。米軍の工事っていうものを真似ていく状態で、やっていったわけですからね。
江上:それで建設工事のハイテク化は沖縄の方が進んでいたということですか。
下河辺:そうですよね。日本の建設業自体が戦後、米軍の工兵隊に指導されているのが多いですからね。なんか、時間短く、コスト少なく、コンクリート打つなんていうのは、米軍の軍事の必要性からきていますからね。攻撃するときに、砦を造りながら進むわけですよね。
日本の大きなダムなんっていうのは、みんな沖縄海兵隊のなんか仕事の技術を学んだことが多いんじゃないすかね。
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●三次振計について
江上:そうですか。それでは次に、第三次振計の話になるわけですけども、第三次振計の特徴としては、自立化を目指した産業育成と南の交流拠点形成というのが全面に出てきて、強調されているようの思えます。先生はどうお考えでしょうか。
下河辺:それはもちろん、このふたつが柱ですけれども、柱で思ったことは、商っていうのは、途上国相手っていう意味ではなくなったんですね。むしろ、沖縄を中心とした300キロ圏とか500、600キロ圏とか1、000キロとか3000キロっていう圏域で交流拠点になるっていう発想を生かそうとしたわけですね。
江上:それと、交流の範囲がずっと広がったんでしょうね。
下河辺:そうです. 広域圏を狙ったセンターにしたかったわけで、これ米軍との関係でそういうことが、可能性がとても高くなったときなんですね。
江上:そうですか。
下河辺:アメリカにすると、沖縄拠点という意味は、東南アジアっていうんじゃなくて、だいだい5000キロくらいのエリアは、沖縄拠点って考えていたわけでしょうね。
江上:5000キロというと相当なエリアですね。沖縄と東京の間が1600キロですからね。
下河辺:そうですよ。
江上:3倍くらいありますね。それで、自立化を目指した特色ある産業の振興というのは、具体的なものはどのようなものがあるのでしょうか。
下河辺:なんか、私たちが議論した、ときには、いわゆる重厚長大の工業ではないということは、ちゃんと言おうとしましたね。一時そのもくろみもあったけども、みんな失敗して、重厚長大ではないと。そのた釧こ、一気に飛んでハイテク型のセンターつていうことを郵政省なんかはじめとして、言い出したわけだけども、あまり成功していないと. いうことで、むしろ、文化、伝統、自然界境っていうようなことをテーマにした産要がいいんじゃないかっていうことを第2の柱として言いましたね。
だから、沖縄は平和な自然が豊かな文化的な島であるっていうビジョンの基に、ビジネス化を図ろうっていうことを言ってたと思うんですね。
眞板:具体的にはどういう産業なんですか。
下河辺:染物でもそうだと思ったし、音楽もそうじゃないかと思ったり、いろんな沖縄の伝統的なものをもう一度生かしていこうっていうことは、まず最初の議論でしたね。
眞板:これは外から人を呼び込んで、たとえば、染物を売るとか、あるいは音楽を聞かせるということなのか、それとも、県外や海外に出てって、それを興行として外貨なり、本土でお金を稼いで帰ってくるという意味合いなんですか。
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下河辺:お金を稼いでくるってことでもないし、お客を呼ぶっていうんでもなくて、国際市場に貿易として広めていくっていうことですよね。だから、香港とかシンガポールとかでお店を持つとか、中国にお店を持つっていうようなことまでやろうとしたわけで、中国との関係じゃ、蓬莱経済圏なんていうことをとても楽しみに議論_したものせすよね。
江上:当時、梶山官房長官が沖縄に来てよくその話をしていましたね。
下河辺:ええ。
江上:三次振計の文章としては、「豊かな亜熱帯・海洋性自然と特有の伝統文化と歴史的蓄積を活用した国際的リ′ゾ-ト観光保養地域の形成」というのがありますけれど、このへんは観光の質の転換ということを意識した文言でしょうか。
下河辺:山形県が雪国の環壕で年寄りが暮らしていくの大変だから、沖縄にレジャーと同時に、リハビリっていうことで、人々を沖縄に連れて行くっていうことをやって、沖縄と提携したことがありましてね。
江上:ありましたね。
下河辺:沖縄の人は雪を見たことがないんで、山形の雪を見に来ませんかっていう、ことをやったときもあって、リゾートっていうのはそういう形で、そういう展開すると良いんですけども。最近じゃあ、カヌチヤでなんか、春山さんっていう特別な人が、なんかプロジェクトを持ち始めたのを、ちょっと参加して楽しんでますけどね。カヌチヤっていうようなプロジェクトが成功するのは、沖縄のなんかの独自開発とかレジャーとか健康って意味ではとてもいいと思いますね。
江上:カヌチヤのプロジェクトっていうのは、そういう総合的なプロジェクトなんですか。
下河辺:総合っていうより~も、なんていうんでしょうかね。年寄りのリハビリセンターつていうところから始まったわけですね。だけど、年寄りだけの島にしちゃったら、活力もなくなっちゃうから、若い人も年中遊びに来るような、地域を作ろうということで、なんか沖縄県の建設不動産業者と一緒になってやってんのは、いいプロジェクトですね.
江上:そうですか。そういうのがもっとあちこちで展開されるといいですね。
下河辺:いいです。
江上:一般の人々が沖縄にやって来て長期滞在セきるような、そういう工夫がなされてきている。
下河辺:′そうです。
寅板:西銘さんの県政の末期のころだったと思うのですが、いま先生がおっしゃった、その保養所とか療養所みたいなものを沖縄に全知集めてくるっていうプロジェクトがあったような記憶があるのですけど。各都道府県、他府県と組んでですね、保養所をやんぼるのほうへ作ったりとかですね、いくつか話はまとまりかけたっていう、ことが西銘県政の県政の末期くらいにあったと思うのですが。
下河辺:西銘さんのときに、いま言った山形との話が、できたり、いろんな地域とやろうとしたんですけどもね。だけども、そんなにうまく発展しませんでしたね。それはなぜかって言うと、そういうのは行政に邪魔されたくないっていう年寄りの方が多いんじゃないすかね。だから、もっと民間企業が呼んでくれれば、行ったりするんじゃないすかね。
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江上:行政がや. ると窮屈なんですかね、いろいろと。
下河辺:ルールができちゃうでしょ。
江上:ルールができると面白くなくなる。
下河辺:面白くないし、自由じゃないもんねえ。
江上:不自由になっちゃうんですよね。それであまり発展しなかったんですね。
下河辺:自分の好きなようにやりたいって言って、観光業考が上手にやってくれれば、一番うれしいわけだし、文句も言いやすいですよね。
江上:民間でカヌチヤみたいにどんどん展開してくれるといいんですね。
下河辺:いいと思いますね。
●三次にわたる振計の評価
江上:行政主導では、限界があったわけですね。
ところで沖縄振興開発計画全体としては、一次振計、二次振計、三次振計を振り返ってみられて、まあまあうまくいっていったのではないかとお考えでしょうか。
下河辺:私たちはこういう仕事の専門家だから、成功したことに対する思いがないんですよね。うまくいかなかったことだけが、残っちゃうっていう不幸な生活ですね。
江上:(笑)そうですか。
下河辺:自慢話って言うのは、ぜんぜんなくて、なかなか思うようにいかなかったなあっていう苦労話ぽっかりですよね. 仲間が集まっても。
江上:そうですか. そうでしょうね. でも復帰後の沖縄は、日本のはかの地方よりもいまは経済的にもいろいろ盛んでいいんじゃないかと、以前に少しおっしゃっていましたが。
下河辺:大航海時代の琉球に戻ってきたっていうことが、私にとっては一番うれしいことで、島津にやられ、明治政府にやられ、太平洋戦争でやられ、いうことで動いていったでしょ。その間、無抵抗主義でずっと耐えてきたわけですもんね。これからいよいよ、琉球らしさっていうのを発揮して、県民の自由が保障されるのが一番うれしいですよね。
江上:そういう条件がいま沖縄では整ってきたということでしょうか。
下河辺:そうそう。
248
● 「下河辺メモ」について
江上:そのように先生はお考えなんですね。是非そういうようになっていくことを私たちも切に願っています。それでは次に、話題を変えまして、一番大事なテーマなんですけども、普天間問題に移りたいと思います. 先生、普天間に深く関わっておられたので、たくさんの資料が手元にありました。先生からそのたくさんの資料を見せていただきまして、初めて私は「下河辺メモ」という存在を知'りました。この「下河辺メモ」については最近、「新しい時代を迎える国土計画に関する考察--21世紀の人と国土-」(国土計画協会、2003年1月)に掲載なさっていますね。このメモについては、はかに御厨先生たちのオーラルの記録、「沖縄問題の同時検証プロジェクト」にも言及されてい. ます。この同時検証プロジェクトの先生のオーラルは、まだタイム・カプセルに入ったままなんですか。
下河辺:いやいや、それがそうなんです。
江上:そうですか。
下河辺:発表できないって考えてたんです。
江上:ええ。
下河辺:橋本内閣のことがあったりして、政府がやらなきや、私が勝手に発表しちゃいけないっていうんで、カプセルって言葉使ったんですけども。
江上:ええ。
下河辺:意外ともう早く出しちゃおうっていうことになったんで、
江上:じゃあ、これはもう出てるんですか。
下河辺:もう出ちゃってんです。
江上:そうですか。
下河辺:もう誰にでも見せてます。
江上:公開してもいいわけですね。
下河辺:はい。
江上:どうもわかりました。ありがとうございます。
下河辺:いまはもう公表しちやいました。
江上:そうですか. 先生の下河辺メモっていうのは新聞に出ましたか?
下河辺:出てません。
江上:出てませんよね。私も見た記憶がありません。
下河辺:ずっと、公表しないでいましたから
江上:そうですね。
下河辺:それで、御厨さんの研究会で初めて公表しちゃった、いうことです。だから、記者に対して、記者レクっていうのはやってませんから、出ないんでしょうね。
江上:出てないですよね。そうでしょうね。私の研究にとっては非常に貴重なメモを見せていただいてありがいです。
下河辺:いままで、誰にも見せてないんですiナビ。もういまじや、秘密にする必要ないと思います。
江上:そうですか。ありがとうございます。それでは先生のオーラルである「沖縄問題の同時検証プロジェクト」も公開されているんですね.
下河辺:はいそうです。
249
江上:それで、普天間の問題ですが、これはいうまでもなく非常に重要な問題であり、先生の果たされた役割もすごく大きかったことは、私も沖縄にいた当時、よくわかってたんですけども、このメモを見まして、私が想像していた以上に、先生の役割が大きかったということを痛感しました。
この沖縄問題では相当ご苦労をなさったと思うんですけどもここの話をぜひ伺いでたいと思います。御厨先生達のオーラルヒストリーがありますけども、これは直後のものであり、それから、7年経過し、その間にいろいろなことがありましたので、先生の見方も、あるいはコメントも少し変わったところもあるかもしれませんので、そういう意味で改めて、代理署名問題や普天間問題について先生のご意見をお伺いしたいと思います。
下河辺:そうですね。普天間っていうのは、ちょっといろいろ議論したらいいと思います。
江上:そうですね。先生のオーラルヒストリーを作られたときに、先生が作成された年表があります。
下河辺:ああ、この一年間ね。
●普天間との関わり
江上:そうですね。この年表の最初に、「3月4日、官房長官」とあります. 梶山官房長官ですよね。
下河辺:ええ。
江上:このときから、先生が、普天間に関わることになったということですね。
下河辺:そうです。
江上:それまでは、まさか沖縄の普天間問題に関わるとは先生は夢にも思っておられなかったんですか?
下河辺:いやあ、ぜんぜん、思ったこともないし、だいたい私は、軍事については、関係していないって言ってたんで、だけど、この普天間については、ずいぶん、いろいろと議論させられました。
江上:で、梶山官房長官が突然、先生のところに来られて、、何とかしてくれとおうしやったんですか。
下河辺:いやあ、そうなんですけども、その最初に来たのは、普天間の移転先のそのプロジェクトをアメリカのある業者が、梶山さんへ送ってきたんですね。で、それをちょっと見て、専門的に評価して見てくれって言われたから、会らたんです。
江上:ああ、そうですか。じゃあ海上∧リポートのプロジェクトの
下河辺:そうです。
江上:そのプランが持ちこまれて、それについて専門的な立場から先生が意見を求められたわけですね。
下河辺:そうです。
江上:それが始まりですか。
250
下河辺:それで、みんな反対とか何とか、ごちゃごちゃ、したもんですから。それから梶山さんと沖縄問題で、なんかときどき会うことになっちゃったんですけども。
江上:3月4日っていうのは、プロジェクトの問題でですか。
下河辺:そうです。そうです。
江上:そうですか。
下河辺:そうです。
眞板:その民間業者って、ベクテルですか。
下河辺:ベクテルですね。
江上:橋本首相の海上へリポート案はまだあとですよね。
下河辺:あとです。
江上:あとですよね。はああ。それがあとになlってつながっていくわけですね。
下河辺:そうです。
江上:はあ、はあ、そうですか。
下河辺:そして、どうも私はアメリカの業者が来たのも沖縄海兵隊とそのプランを調整してから来たような気がしてんですね、 いまだに。沖縄の海兵隊っていうか、普天間基地っていうのは、移転しないわけにはいかない、軍事上の問題でしかなかったんですね。住民のためとか、、そんなことではないんですね。普天間基地が軍事的に陳腐化しちゃって、新しい装備に切り替えたいっていうことを考えたときに、いまの基地を工事期間中、空白ができるのが怖いから、そのまま普天間を使いながら、新しい新装備の基地を造るっていうことを米軍自体が考えたんですね。だから、移転じゃないんですよね。重点装備なんです。で、そのときに、もう新しい意味では、滑走路なんかそんな1000メーターもいらないっていうことになったんですね`。
それで、レーダーなんてぜんぜん古くて、話に何ないで、アジアの平和のために、普天間を移転して新しい装備された基地を造りたいっていうのが、海兵隊の意向だったんですね。
江上:それが先生が普天間と関わるきっかけなんですね。
下河辺:そうです。普天間を見に見学に行って、将校と議論していて、私が見て素人なのに、ずいぶん古ぼかしい技術をいまだにやってんですかって言ったら、先生のような人には見せたくなかったと、それは軍事上たいへんなことになりますと.。
そんな機能しないってわかっちゃったんなら、アジアで困るって言うんですね。やっぱり、一刻も早く普天間から、引っ越して、新しい基地を造りたいって一所懸命言っていましたよ。
江上:そうですか、なるほど。米軍から見ると、それだけ普天間は老朽化してたんですね。
下河辺一:老朽化して。
江上:使い物にならない。
下河辺:とっても無理だった。
江上:そうですか。彼らからするとやはり新しい基地に取り替えたいというこ上ですか。
下河辺:そうです。で、そんなもめているうちに、台湾も朝鮮も、なんだかそんな危険な状態じゃ、なくなってきたから、仕事が遅れていっちゃったわけですよね。いまだに、なんかすっきりしないでしょ。
251
江上:すっきりしないですね。いまだにすっきりしない。それで、この最初の「3月4日、官房長官」とあるのは、御厨先生達のオーラルによりますと、代理署名の問題で官房長官から呼び出しがあったようになっていますが。
下河辺:ああ。
江上:3月4日官房長官から突然、、呼び出しがありまして、沖縄の問題が大変になことになったというので、沖縄の問題について考えを述べて欲しいというような要請があったのですか。
下河辺:そうです。
江上:海上へリポートはいまのお話のあとですね。
下河辺:このへんまで言うと、8月28日の最高裁の判決を巡って議論してたわけです。
江上:海上へリポートのですか。
下河辺:そうです。
江上:あ、それはその頃なんですね。
下河辺:ですから、これが裁判が判決を出すのが、決まってたんで、どんな判決が出るかっていうことで、議論したんですね。
そうすると、これは明らかに安保条約からみて、沖縄県の負けだっていうことがわかってたんですね。だから、これに負けたっていう前提のもとで、沖縄の基地問題をどうしようって議論をしはじめたのが、3月の5日くらいからなんです。
江上:3月5日くらいからその裁判の問題ですね。
下河辺:裁判の結論はわかっていたから。
江上:裁判の結論がわかっていたから。
下河辺:裁判で判決されたっていうのを大義名分に基地を認めた行政をするっていうことを考えたんですね。
江上:しかし、
下河辺:その結果について3月7日に橋本さんに会って、説明したりして、私のメモを出したわけです。8月の12日にですね。
江上:重要なメモを出されたわけですね。3月4日に官房長官と会われて、その次の日に大田知事と会われたんですか。
下河辺:はい、そうです。
江上:これはどこで会われたんですか。
下河辺:東京です。
江上:東京で会われた. それで大田知事に意向を聞かれたわけですね。
下河辺:そうです。
江上:このときは代理署名の真っ最中ですよね。
252
下河辺:代理署名っていうことをやっていたわけですね。
江上:このときはまだ、普天間返還もまだ決まっていないです。普天間返還の話も出てないですよね。
下河辺:そう、ですね。
江上:先生のメモでは「1997年」の3月から、10月ってなっていますが、これ「1996年」ですね、先生。
下河辺:あ、そうでしたか。
江上:これ1996年のことだと思います。
下河辺:あ、そうですか。
江上:それで、普天間返還が橋本・モンデール会談で決まってくるのが1996年の5月ですから、普天間返還の前でまだ、国と大田知事の間に代理署名訴訟で緊張しているときですね。
下河辺:そうです。
江上:そのときに、官房長官が下河辺先生にちょっとなんとかしてくれというようなことでお願いされて、それで大田知事に東京で会われるんですね。
下河辺:そうなんです。
江上:このときの大田知事はどんな印象でしたか。それまで大田知事とはあまり面識はなかったんですか。
下河辺:あんまりないっていうか。県の仕事としては、行けば会ったりしてたんですけど、だからまったく、初めて会ったんじゃあないんですけど。ただ、基地問題で議論し始めたのは、3月5日からで、で、このときの私の仕事は、総理とつなぐことが、一番テーマでした。だから、約半年かかって、知事と橋本さんとがゆっくり話し合うっていう環境になったっていうのが、私の仕事でした。
江上:そうですね. それが一番重要な仕事でしたね。
下河辺:それで、知事は梶山さんと橋本さんっていうのは、軍人内閣としか思っていないんですね。
江上:要するに、タカ派内閣ということですか。
下河辺:タカ派内閣です。
江上:そういうことですね。
下河辺:そのころ、新聞にもときどきそういうのがでたわけです。
江上:そうですね.
下河辺:それが、橋本さんと梶山さんにすると、知事は過激派革命家だって思っているわけです。
江上:(笑)すごいですね。そりゃあ(笑)
下河辺:だから、水と油みたいな
江上:なるほど。
253
下河辺:知事と総理なんですね。
江上:それは大変ですね。
下河辺:だから、それじゃ何にも解決しないから、つていうんで、私が両方に向かってしゃべったわけです。で、大田知事っていうのは、アメリカに友だちも多いし、アメリカとの付き合いを大切にしてて、安保条約を否定するような人じゃないということを一所懸命、口説いたわけです。
そしたら、選挙見てたら、そう言ってないっていうから、選挙のときは、自分で思っていないこと言わなきゃ当選しないでしょ、と言ったら、大笑いになって。
江上、眞板:(笑)。
下河辺:それで、一回会ってみるかってなったんで、大田知事に梶山さんっていうのも、ちょっと分かっている人だから、会って話した方がいいって言ったら、行って、取り込まれちゃったって、うわさになったら困るっていう。
江上:大田さんが言ったんですか。
下河辺:はい。だから何もそんなことしないで、自分の思うことぜんぶ、言って、「イエス」なんて言わなくて帰ればいいじやないかって言って。それで、やっと、二人が会ったんですよね。
江上:実は二人が会うまでが大変だったんですね。
下河辺:そこまでが大変で、半年かかったですよ。そのとき、吉元がよくやってくれたですよね。だから、古川、吉元っていうのか、その段取りしてくれて、それで、私のメモを使って、総理に説明して、やっと始まったわけですよね.
江上:先生が橋本総理に沖縄の問題について話される以前には、橋本総理は沖縄について断片的にはご存知でしたけども、沖縄の歴史とかあるいは沖縄の全体像とか、また沖縄の社会とか風土などについてはもちろん、あまりご存じなかったんですよね。
下河辺:まあ、だけど、日本人一般としては、知識をもってますよね。
江上:一般的な知識はおありだった。
下河辺:それで、大田知事っていうのを、やっつけちゃわなきやだめだっていう、自民党が勝たなきやだめって思っていますかね。私が、それはいいことだけども、大田知事に期待してみることを一回やったほうが、現実的だって言って、橋本さんも、じゃあ一回会おうって会ったことになったんですね。
江上:やっつけるのもいいかもしれないけども、一度、期待してみてはどうかと。
下河辺:こっちの提案をしたらどうか、言って、私のメモを説明して、このメモの中からあなたが選んで、知事とやりあってみたらどうかって言って、やっと、9月になって、それができるようになったんですよね。
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●下河辺氏の役割
江上:この下河辺先生のメモができるまで、先生は沖縄の方にいろいろ、おそらく坂口さんなどを通して、吉元さんとか大田さんとかに打診してますよね。おそらく、大田・橋本会談の前段階で、先生fまいろいろと意見を聞かれたうえでメモの文面をつくられたのでしょうか。
下河辺:屋良さんの子分たちとずうっと付き合ってきましたからね。いまじゃ、その連中がみんな定年退職しちゃったから。現役じゃ_ないですけどねえ。
江上:そういったパイプが生きたわけですね。
下河辺:ええ。
江上:考えてみたら、そういう意味では運命的なものがありますね(笑)
下河辺:あります。
江上:先生は沖縄の日本復帰という大きな時代の節目のときと、さらにもう一度、日本政府と沖縄県が激しく対立した最大の危機のときに、先生の活躍の場ができたというのは。
下河辺:なぜか不思議なことに沖縄の一般の人と過激な革新派と自民党とかすべての人と、会って話をしている人が、私くらいしかいなかってですからね。その当時
江上:そうでしょうね。それだけ、長い蓄積のある方も他にはおられなかったでしょうね。
下河辺:そうです。
江上:そうですよね。そうした役割を果たせるのは、先生しかいなや、ったんですね。
下河辺:だから、それが私の役割だと思って、せっせとつないだんセすけども、いまになってみると、つないだことが良かったのか、どうかね。
喧嘩別れして。 琉球国なんていう独立国になっていたら、もっと面白かったかもしれませんね。
江上:(笑)徹底して喧嘩別れして、独立ですか(笑)
下河辺:それで、国連の一国になってたりしてたら、面白くなっていたかもしれない。沖縄県人が国連の議長にでもなったらね. 面白かったと思う。
江上:そういった独立論の議論は、復帰前に先生が初めて、沖縄に渡られたときにもあったんですよね。
下河辺:そうです。
江上:先生もまあ、それもいいじゃないかって感じで応じられたんですよね。
下河辺:佐藤内閣で、核抜き本土並み復帰なんていうのは、どうも賛成しないなんて余計なこと言ったから、佐藤さんの秘書官に怒られちゃったりして。
江上:楠田さんですか。
下河辺:楠田さん。
江上:(笑)余計なことを言うな、と。
下河辺:楠田さんって本当、沖縄のために働いた人ね。だから、沖縄と楠田さんとの関係を一度処理してもらったらどうかしら。
江上:そうですか。
下河辺:なんか。先生のところで、楠田と沖縄っていうテーマで資料の整理、一回やってくんないかしら。
255
江上:いいですよ。
下河辺:とってもおもしろいから。
江上:それは私も興味があります。
下河辺:これ、楠田さんが書いた本なんだよ。また、返してください。
江上:はい、ありがとうございます. しばらくお預かりしてお返します。
下河辺:この中で沖縄のことについて、楠田さんが自分で書いていますから、ちょっと見ていただくと面白いです。
江上:はい、これですね. 「産経新聞政治部秘史」という本ですか。
眞板:知らなかった。
江上:こちらは、楠田さんの日記の原本ですよね。
下河辺:そうです。
江上:それからもうひとつ、別の「楠田賓日記」が出ています。これは要約本でおそらくこの原本の一部だと思います。楠田さんが沖縄との関係で言及した箇所を調べてみます。
下河辺:見てください。
江上:ええ、見てみます. すぐにはできないかもしれませんが、できるだけ早くやってみます。
下河辺:ゆっくりでいいです。
江上:それでは拝借-して利用させていただきます。きょうは一番、肝心な部分に入りかけたところで時間になってしまいました(笑)それで次回に普天間返還問題の話についていろいろ伺わせていただきたいと思います。
下河辺:はい、そうしてください。
江上:先生、長い時間おつきあいいただきましてありがとうございました。
下河辺:なんかもう、記憶でしゃべって怪しいから
江上:今度は御厨先生たちのオーラルもありますので、そのオーラルも参考にしながら、先生が果たした役割について私たちも記録にとどめていきたいと思います。
下河辺:いやあ、記録なんかいいんですよ。沖縄っていうのは、本当に大変だったっていう印象だけは残っていますけど。もう私は昔の人ですよ。
江上:でも、先生がウラでいろんな働きをなさっていたってことはある程度、わかっていても、そんなに大変だったんだというのはほとんど知られていません。
下河辺:そりゃあ、私に能力が足りないから苦労したんであって、ほかの人がやったら、ちょこちょこっとやったら、ちゃんとやってもらえたんじゃないすかね。
江上:うーん、沖縄にとって大変な大きな出来事でありますので、この判断は後世の人が下すのでしょう。
下河辺:そりゃあそうですね。
江上:じゃあ次も、先生、そういう次第でよろしくお願い致します。ありがとうございました。
256
(了)
(次回は11月17日午後1時半)
●下河辺メモの背景
江上:それでは、きょうの本題に入らせていただきます。
先生のメモとこの日付によると、1996(平成8)年の3月4日、梶山官房長官とお会いになるところから始まるんですけども、その前の流れを少し整理すると、1996年に1月に橋本内閣が成立しまして、それで橋本首相が初の施政方針演説で、「沖縄の方々の苦しみ、悲しみに最大限、心を配、つた解決を図るため、米軍基地の整理統合・縮小を推進する」と述べます。
そして、1月23日に橋本総理と大田知事が初めて会談するんですけども、このときはまだ、対立したままの話ですよね。
大田知事からみれば、橋本政権は軍事内閣もしくはタカ派内閣という感じだったと思うんですね. それで〔2月23日に日米首脳会談があって、橋本首相がアメリカに渡ってクリントン大統蘭と会談するわけですけども、このときに橋本首相は普天間問題に言及してます。
それはなぜかといいますと、最初の会談で大田知事が橋本首相に対して、普天間基地を返還してもらうことが沖縄の望みだということを述べた、さらに首相の渡米直前に諸井さんが沖縄に行って会ったときの大田さんとの話で、大田知事が普天間返還を最優先に考えて欲しいと述べた。
それで結局、普天間返還は難しいとという外務省の意向もあったんですけども、橋本首相はあえて日米首脳会談で普天間問題に言及したんだろうと思います。
こういう流れを受けて、それでその後、高裁で代理署名裁判が大田知事側の敗訴となりました. その後、最高裁に行くんですけども、最高裁で沖縄側が敗訴することはほぼ分かっていたんで、それで、そろそろ決着をつけなければならないというところで、おそらく、梶山官房長官が先生を訪ねられて、沖縄問題大変なことになってきたから、なんとか力を貸して欲しいということをおっしゃったんだと思うんですね。
それで、官房長官と会われたあくる日に、先生は大田知事と会談されています。で、先生が大田知事とじっくり話されたのはこのときが最初ですね。
下河辺:うん。
江上:そうですよね. それで、官房長官に頼まれて先生は大田知事と会談に臨まれたんですけども、そのときの大田知事の話された内容とか印象とかはどういう感じだったんですか。
258
下河辺:いや、もうそのときは、政府と沖縄のつなぎが終わってからですから、わりに和やかに話してましたよ。
江上:あ、そうですか。それまでに大田知事と総理とのつながりは、ある程度できていたんですか?
下河辺:できてたって言うか、その私の解説を受け入れていましたから、総理もそのつもりだし、知事もそのつもりだったんじゃないすか。
江上:ああ、要するに、普天間問題で沖縄が望むように積極的に取り組むと、-橋本首相も言っていたんですか.
下河辺:言ってました。
江上:大田知事にそう話したら、大田知事は、非常にありがたいということで、心を開きはじめていたんですか。
下河辺:そうです。
江上:そうなんですね。最初は、大田知事は橋本政権に対して、軍事政権みたいだとか、タカ派政権みたいだって思っていた. そうした警戒感や反感みたいなものは、先生と話したときは薄れていたんですか。
下河辺:だから、半年かけてそれを説得しといたわけですから。
●3月の時点では敵同士だった
江上:ということは、ここの、3月の時点でですか。
下河辺:だから3月では敵同士だったんです。
江上:3月時と会ったときは、敵同士だったんです。
江上:まだ、敵同士でしたよね。
下河辺:それで、8月までかかって、両方説得したわけです。
江上:やはり橋本政権に対する大田知事の警戒感っていうはかなり強かったんですか。
下河辺:3月はね。
江上:あまり信用できない、と。
下河辺:3月ごろはそれであったし、総理の方も、知事は革新の代表であって、安保反対で基地を撤去せよっていう一本槍の意見だって思っていたわけですよね。
江上:この時点ではですね。そうすると、一応、先生としては、このころはまだあれですよね. まだ政府と沖縄のパイプ役をすることはまだ決めてらっしやらないですよね。
下河辺:ええ、もちろん、その決めてはいなくて、決まったことは一回もないんですよね。ずっと暖味なまま、なんか関係させられていて。
江上:(笑)先生としてはずるずると引き込まれていったとか。
下河辺:-8月にメモを出してから、事務的な話に。
江上:なったんですね。
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下河辺:なっちゃった。
江上:ああ、そうですね。それまでは、ちょっと暖味な関係だったんですね。
下河辺:そうです。
江上:そうすると、3月5日に大田知事と話をされて、大田知事がどういうことを考えて、どういうことを望んでいるか、というようなことを先生が聞かれて、それで3月7日に、2日後に橋本首相と会われたんですね。
下河辺:そうです。
江上:そのときは、おそらく大田知事がどのようなことを考えているかということを橋本首相に伝えられたんですか。
下河辺:大田知事のことも言いましたけども、なんか総理に私の意見を言って、知事もそれを理解しているから、そういう前提で、会ったらとうかって、言ったわけですね。江上:そうしたら、橋本首相はどのように返答されたんですか。
下河辺:それなら、そういうふうにしてみようって言い出したから、だんだん知事と総理が、会って話し合う雰囲気ができてきたわけです。
江上:両方ともに、会ってみようかなっていう雰囲気ができてきたわけですね。
下河辺:そうです。
江上:先生はそういう雰囲気作りを行なう努力をなさったんですね。でも、まだ食い違いがいろいろあったけども、食い違いがあってもいろいろお二人で話されたらどうですかという風になっていかれたわけですね。
下河辺:食い違いって言うよりも、現実の認識の仕方とか、将来の見通しが分からないときでしたからね。
●3月の橋本・大田会談
江上:そうですね。
ちょっとどうなるか見当がつかなかった時期ですね。そして、3月の22日に橋本首相と大田知事が会談することになるんですね。
下河辺:はい。
江上:そうですね。で∴このときは、要するに、話し合ったということ、同じテーブルについたということが意味があったんでしょうか。
下河辺:とっても意味があったんです。
江上:この会談で、意見の一致を見たとか、あるいはこういう成果があったということがあったんでしょうか。
下河辺:ただ、面倒なのは佐藤内閣がアメリカとどういう密約しているかっていうのが、お互いに不信感なんですね。
江上:佐藤内閣がですか。
下河辺:佐藤内閣でしょ、返還問題は。
260
江上:はい、そうですね.
下河辺:そのときに、返還がよく成り立ったっていう面だけが評価されたけど、アメリカが返還に応ずるのには、相当たくさんの条件を飲まされてんじゃないかっていう. で、繊維問題がひとつだけ、表面に出ましたけども、繊維以外にいろいろあったんじゃないかっていう。特にロッキードとの関係とか、いろいろとあって、沖縄に核武装することについても、本当はいろいろあったんじゃないかとか、そういう疑いがとても濃厚でしたよね。
江上:そういう話を大田知事が橋本総理になさったんですか、その3月22日の会談で。
下河辺:いや、直接はやっぱり、言い切れませんよね。
江上:言えませんよね。
下河辺:証拠がないから。
江上:でも、大田知事の側に、沖縄返還のときのいろんな不信感があったということですか。
下河辺:あったですよ。
江上:そうですか。でも、また橋本首相は橋本首相の方で、やはり大田知事に対して不信感があったんでしょうか。
下河辺:いや、それは佐藤さんに対する不信感なんですね。佐藤さん、ラメリカと密約した内容を自分で背負い込んで外に言っていませんから。・自民党でも誰もわかんないんです。
江上:そうですね。
下河辺:だから橋本さんは、総理になってから聞いてびっくりしているわけですから。
江上:そうですか。そういう問題があったわけですね。
下河辺:そうですね。
江上:その間題については、これからずっと話し合いが進展していくなかで、佐藤内閲の沖縄返還時における、そういったいった不審のの根源をなすものは、お二人の間で少しずつ解けていったんでしょうか。
下河辺:いや、解けることはないんじゃないすか。
江上:ないですよね。
下河辺:お互いにわかんないで、しゃベってんだもの。
江上:そうですね。しかし、最初に橋本総理と大田知事が会談するときに、それが大きな暗雲となっていたけれども、そういうのが遠ざけていたというとこなんですかね。それがやはり一番大きかったんでしょうか。
下河辺:いや、いや、会ったときは、もう、そのへんとこを超えて、沖縄のた馴とっていうこ. とで会ったわけですから、佐藤内閣がどんな密約しているかっていうことは棚上げにせざるを得ないですよね。どっちも知らないんですから。
江上:そうですよね。それを言っても埒が明かないわけですね。
下河辺:こないだお貸しした、楠田さんだけが知っているんですね。楠田さんには文句言ったんでけども、「楠田日記」っていうのは、そこんとこぼやかしてあるって言ったら、やっぼり総理の見解なんでしょうね。
江上:そうでしょうね. 若泉さんは先生からお借りした「楠田日記」に数多く登場しますね。
下河辺:そうですね。
江上:でも、返還のときの裏舞台の実情については、楠田さんは記述していませんね。
下河辺:死んだから楠田さんの日記、ちょっと借りたいって言ってんだけど、まだうまくいっていないんですけどね。
江上:そうですか。
下河辺:本当は手帳に書いてあんじゃないかと思うんですね。
江上:そんな気がしますよね。また、そこを確認できれば、また大きな発見になりますね。
下河辺:いやあ、なんか当然だったろうっていうことを確認できるだけですけどね。
●事前から分かっていた普天間返還
江上:そうですけどね。それでその後、4月12日に普天間返還が合意されて発表されます.橋本首相がモンデール駐米大使との共同記者会見で、普天間飛行場を5年から7年以内に全面返還するということに合意した発表されました. この普天間返還については、先生は事前にわかっていたんですか。
下河辺:うん?
江上:普天間返還については、先生にとっても突然の話でしたか?
下河辺:いや、そうは思わなかったですね。それじゃ当然、普天間は返すと思っていましたから。
江上:ああ、そうですか。
下河辺:それは、普天間は移転しなくちや防衛上の役割は、果たせないっていうのが、海兵隊の結論ですから、移転ていうのは追い出されての移転ではなくて、軍事技術上の必要から移転するわけですから、当然、移転すると思いましたね。
江上:そうですね。先生はそれまでの経緯もずっとご存知ですから、追い出されてではなくて、要するに、普天間基地が老朽化しているから、それで、新しい施設に移ったほうがいいということで普天間返還となるだろうなということを、先生は事前にお察しになっていたんですか。
下河辺:だから、面積的には4分の1で大丈夫って米軍は言っていたわけですよね。それが地元の市長さんたちが、軍民共用飛行場で、1000メーターの滑走路がいるっていったから、小さい規模でなくなっちゃったんですよね。
江上:それで、このときの普天間返還合意は代替施設の条件付でした。これも先生の事前の理解からすると、やはり条件付になるだろうなと0 つまり、普天間を返す代わりに新しい機能を備えた代替基地を。
262
下河辺:米軍にしたら、近代化のために移転するということであって、住民との関係で普天間を返してもらう運動に、合意したなんていうことは一切ないですよ。
江上:ということは、当然、そういうものを要求して新しい場所に移る。
下河辺:ただいま工事中だから、攻撃はやめてください、なんて言えないですよね. だから、普天間で防衛しながら、新しい基地を造ろうとしたわけですよ。移転というよりは、私は装備の近代化だと思うんですけどね。
眞板:とすると、1995年9月の米兵たちのよる少女暴行事件であるとか、大田さんの代理署拒否っていうのは、あくまでハプニングであって、米軍としてはもともと普天間からどこかへ移りたかったということが既定路線としてはあったということですか。
下河辺:そうなの。
眞板:それが何かごちゃごちゃになって、少女暴行事件があったから、じゃあ海兵隊も県民にご迷惑をかけたから、じゃあ移設しましょうねっていうわけではなかったという。
下河辺:そんな甘い話じゃないですよね。女の子がレイプされ暴行したから、移転しますなんてことにはなんないですよ。補償とかお詫びはするかもしれないけどね。それが基地の移転なんていうことにはなんないすね。
●嘉手納統合案から海上へリポート案へ
江上:でも、あの当時もいまもそうだと思いますけど、県民も国民もそうだろうと思っていますよね。事件が起こったから沖縄で反基地運動が激化して、アメリカが譲歩して移転することになったとおおかたの人びとはそのように受け取っています。
だが、先生によれば、そんなに甘い話じゃないということですね。
従来の考えとはずいぶん違った見解ですよね。参考になります。しかし、普天間返還の条件からすると、最初、嘉手納統合案が出てましたが、嘉手納の周辺の人たちが非常に強い反対意見が出まして、それで嘉手納統合案がだめになって、それで辺野古移転になる?
眞板:嘉手納統合案とそうですね。それから、ずうっとあとにきて、津堅島の埋め立てしてっていう
江上:津堅島は、ずうっとあとだ。それからもう、あの海上へリポートの話になっていくんですね。
下河辺:嘉手納の問題は、住民の反対で止めたんじゃなくて、その航空隊が受け入れんの拒否したわけです。
江上:空軍のはうが反対したんですね、海兵隊を引き受けるのを。
下河辺:海兵隊入れるの嫌だって言って
江上:米軍内部の問題がありましたね。
下河辺:そうです。
江上:それがあって、嘉手納統合案はすぐ潰れました.
263
下河辺:そうなの。
江上:それで、その後、橋本首相が海上へリポート案を発表されるんですよね。
下河辺:そうです。
江上:で、大田さんはやっぱりこの普天間返還っていうのは、自分も望んだことだし、県民も望んだことを橋本首相は、実現レてくれたっていうんで、とても喜んだんでしょうね。
下河辺:いやあ、原則は県外移転っていうことですから。
江上:あ、県外移転。
下河辺:県内に決まったことは、知事としては喜べないんです。
江上:喜べない。
下河辺:選挙民に対して県外移転で訴えていたわけですから。
江上:じゃあ、やっぱり、この普天間返還を大田さんは最初から、、手放しではとても喜べないような状況だっ. た。
下河辺:喜べない。
江上:でも、橋本首相からすると、普天間返還っていうのを強く望んだんじゃあないかと。ということで、それが自分が一所懸命このアメリカ政府と交渉して、取り付けたわけだから、それをもっと喜んで、しかやべきじゃないかとい′うようなお気持ちは、橋本首相にはあったんじゃないですか。
下河辺:いやあ、そう思っていないっていうのは、知事はもともーと革新派だと思っているから、返ってきたから喜ぶっていうことじゃあないだろうって総理は思ってたんじゃないすか。
江上:あ、そうですか。じゃあ、まあ、そんな手放しでは喜ばない
下河辺:グアムにでも移転するって決まったら、喜んだかもしれない。
江上:ああ、そのことは橋本首相も分かってた。
下河辺:分かるわけですよ。
江上:そうですか。でも、そうはアメリカとの交渉ではならなかったわけですよね。アメリカはそうじゃないわけですから。
下河辺:いや、だから、知事にすると、最高裁の土地に対する裁判の結論と総理が安保上、沖縄の基地を断れないっていう、ふたつをはっきりして、止むを得ないっていうふうに言いたかったわけですよ。
江上:で、4月17日に日米首脳会談がありまして、日米安保共同宣言が発表されます。それで、先生は、7月23日に神戸の問題と保険の問題って書いてありますけども、7月23日. に橋本首相と再び会談なさって、そのときに橋本首相がちょっと沖縄のことも、つていう話をなさってて、このときは先生はしいろんなテーマがありましたから、それでまた後日ということで、7月29日もう一回、沖縄の問題で橋本首相とお会いになっているんですね。
下河辺:_そうですね。
264
●首相からまとめ役の依頼
江上:それで、このときに裏のまとめ役を橋本首相が下河辺先生にお願いしている。そのときは、まだ下河辺先生は引き受ける気はなかったと、いうふうにおっしゃってますけども。ま、橋本首相が先生に沖縄問題の裏方でまとめ役をしてくれないか、というのは、どういう理由だったんですか。どういう理由っていいますか、なんかそういう、なんかあったんでしょうか。
下河辺:だから・さっき言ったように、政府としてやってくれっていうのを総理は、熱望したわけですよね。
江上:政府側の人間として、このときもですね。
下河辺:特別補佐官でも何でもいいから、肩書きつけるから、ちゃんとやってくれって言ったんですよ。
江上:そうすると、これは別に裏のまとめ役っていうことではなかったんですね。裏でなくて、裏でも表でもなかったんですね。
下河辺:いやあ、表です。
江上:表ですね。このときはむしろ。
下河辺:私が裏も表も嫌って言ったから、違ってきた。
江上:違ってきたわけですね。で、このときは表でやってくれと、いうふうに言われたけど、先生はこのときは、引き受けなかったんですね。
下河辺:そうです。
江上:先生、それは、引き受けられなかった理由は?
下河辺:だって、県民のこと考えたら、政府の立場に立っちゃったら話し合いできないじゃない。
江上:そういう意味ですね。政府の一員として政府の取りまとめ役するというのは、沖縄県民の意向を考えて、とても引き受けられなかったと。
下河辺:そう。
江上:そういうことですね。そのあとに、8月6日に大田知事と沖縄で、会われますね。
これは、もう、初めから大田知事と会われるためにだけに行かれたんですか。
下河辺:そうです。
江上:これは、橋本総理とか、あるいは梶山官房長官とかの?
下河辺:関係ないです。
江上:ぜんぜん関係ない. ただ、先生ぶらりと行かれた?
下河辺:ぶらりとというか、吉元がちゃんと段取りしてくれましたから。
江上:ああ、そうですか。そうすると、吉元副知事にはこのときに、やはり先生に間に入って欲しいという意向があったんですか。
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下河辺:いや、いや、もう、間に入っていたわけですから。
江上:もう間に入っていたわけですね。
下河辺:そのときは、私が行くことの段取りをしただけであって、関係はできていたわけです。
● 「下河辺メモ」の作成
江上:関係はできていたわけですね、明確な取りまとめ役ではなくて。それで吉元副知事の段取りで8月6日に大田知事と会われ、その3日後の8月9日に副知事と官房長官と、東京海上の研究所で会われました。それで大田知事からも、間に入ってまとめて欲しいと言われ、このときに下河辺先生は、日本政府と沖縄県をまとめる裏役を引き受けること_を決心したと考えてよろしいでしょうか。
下河辺:裏役って言うよりも、私の考え方、をメモにするから、それを見てくれっていうことを言っただけなんですよ。
江上:そうですか。自分の考え方を示すから、それでいいか、ということですか。
下河辺:いいかどうかよりも、それを参考にして、国と県との間で、話し合いをしなさい、つていうことを言ったわけです。
江上:ああ、そうすると、先生のメモ、いわゆる「下河辺メモ」を作成して示すからと。
下河辺:そう。
江上:作成して示すから、少し考えたらどうかということだったんですか。
下河辺:そうです。
江上:そういうことをこのときに、ある意味では予告なさったわけですね。
下河辺:そう
江上:そういうことですね。でもしかし、そういうことをさなるということは、すでにそういう役割を始めてらっしやったということですね。
下河辺:そうね。
江上:そういうことですね. それで、8月12日にその非常に重要な先生のメモが作成されて出てくるわけですけども、その下河辺メモの作成は、先生の独断で作られたんですか?
それともいろんな方々に相談なさったんですか?
下河辺:それはもう、ずっと引き続いてやっていたわけだから、メモを書くときは私の記憶で、全部書いちゃったから、誰とも会ってませんよ。
江上:橋本首相とも大田知事とも、あるいは長い間、沖縄ともお付き合いがあるから、そういう蓄積の中で先生が独自に作成されたわけですね。
下河辺:まあ、要するに結果を整理しただけですからね。
江上:特別に誰にも相談されることはなく、先生が独自で書いたわけですね。先生の考え方をまとめらーれたわけですね。
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下河辺:そうです。
● 「下河辺メモ」を見た首相の反応--亜熱帯研究所構想に意欲
江上:そういうことですね. それで、このメモを橋本首相にお見せになるわけですよね。
下河辺:そうです。
江上:そのとき、橋本首相は先生のメモを見られてどんな感じでした?
下河辺:これでいいんじゃないか、と。そして、県の意向を確かめようと、ただ総理自身では、提案したプロジェクトの中の亜熱帯研究所っていうのは興味があるねえっていう話はしてました。
江上:そうですか。橋本総理が亜熱帯研究所に興味があるとおっしゃったんですか。
下河辺:亜熱帯研究所を国際級のレベルで造ったらどうかって言ってましたね。
江上:そうですか。
下河辺:だから、それじゃあそうしましょうって言っていたら、なんか知事がその話をしたら、自分で作ったちゃったんですよね。
江上:県のほうでですね。
下河辺:県のほうでね。だから、橋本さん、がっかりして、知事が自分でやるら、それで任せようって言って、それでおしまいになっちゃった。
江上:ちょっと段取りが違っちゃったんですね. 先生はそのことを再三、指摘されていますね。
眞板:先生、それで、そのくだりなんですが、御厨先生のオーラルを拝見するとですね。
県立で先に作らせて、それから、国立化へ向けて努力しようっていうようなお話が、実はこの中に出てくるんです。
下河辺:県がそう言ったんですか?
眞板:いえいえ、下河辺先生がこの中でそういうお答え方をなさっているんですよ。
下河辺:いやあ。だから、いまとなってはしょうがないと、県立なんかじゃとてもだめじゃないっていうことを言ったことは確かです。
江上:でもできちやったんですね。
下河辺:政府として大蔵省にしたら、県立でできたものを国立にするなんて経験ないすもんね。
江上:そうですね。別ですからね. 県で作っちゃったら国は関係ない、つて感じになってしまいますね.。私も長い間、琉球大学にいましたが、国立大学ですから沖縄県とはなかなか一緒に仕事ができないんですよね。予算も権限もぜんぜん違うから。
下河辺:それに、やっぱり、国が造ったら、ちょっといいと思ったのは、さんご礁の専門家が、一人だけいたんですね。
江上:山里先生ですか。
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下河辺:山里さん。彼だけが世界に通用する学者だったんで、その学者を頼って、国立を造っときゃあ良かったなあと今でも思ってんですけど。
一度、県立で作っちゃうと、文部省としたらなかなかちょっと、国立に直すこと、難しいですよね。
江上:そうでしょうね。それで、梶山官房長官もそのとき、下河辺先生のメモを見られたと思うんですけども、官房長官は何かいわれましたか。
下河辺:別に何もっていうか. なんか少しずつ実現する・といいっていうことは言ってくれましたけど。たくさん、提案出したから、一度にはとてもできないって言って。
江上:先生のメモを事前に古川官房副長官も見られたんですか。
下河辺:もちろん、古川と一緒で親しい吉元と私と古川と3人で、議論したんですから。
江上:そうですね. 古川官房副長官は先生のメモに対して何かおっしゃったんですか。
下河辺:いや、いや、これでどうなるかやってみようって、言ってくれてましたよ。彼がまとめ役だから、良い悪いっていう感じじゃ発言しませんからね。
江上:なるほど。吉元さんはどうだったでしょう。
下河辺:膏元さんも、政府がこれをやってくれんなら、ありがたいっていう立場でしたから。
江上:ああ、そうですか。
下河辺:私のメモに対する討論っていうのはなかったですね。
江上:じゃあ、もうみんな賛成されたんですね。
下河辺:みんな
江上:異議なしですね(笑)これでいけるぞ、というわけですね。むしろ沖縄側としては、吉元さんとしては、これだけ先生のメモに提示されたものを本当に日本政府がやってくれるんだったらありがたいという感じだったんですね。
下河辺:そういう立場でした。
江上:それで、8月28日に代理署名訴訟の最高裁判決が出まして大田知事の敗訴が決まります。で、この後の9月5日に、先生のメモをもとに古川試案が作られるんですね。9月5日に古川官房副長官が先生のメモをもとに、公式発表できるような試案を作られたんですね。
下河辺:うん
江上:そして橋本総理のところで、下河辺メモの公式化について、議論がありました.。でもこの議論では、先ほどの先生のご意見だと、先生のメモの中身についてはほとんど異論がなくて、それをどのように公式の政策として発表できるものにするか、についての話し合いに終始したんですか。
下河辺:そう、そう
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●5 0億円の調整費と政策協議会の設置を提案
江上:そういうことですね。で、首相自ら、50億円の調整費と政策協議会の設置を提案されたということですか。 橋本首相が独自にふたつのアイディアを出されたんですか。
下河辺:いや、いや、大蔵省と十分相談してあったと思いますよ。
江上:橋本総理が大蔵省と話し合った結果、ふたつの提案が出たということですね。
下河辺:総理が勝手に言うってことはないです。
江上:なるほど。それらは十分、根回しして調整した上で出てきたわけですね。それで50億円の調整費と政策協議会の設置が検討されていることは、先生は事前に十分ご存知だったんですか。
下河辺:そりゃそうです。
江上:最終的に大蔵省等の調整を経て、合意を得られて50億円の調整費と政策協議会を設置するということが古川試案の中で盛り込まれたわけですね。
下河辺:、そうです。
江上:その後、9月7日に沖縄で吉元副知事と会談されていますけど、この内容を巡って吉元副知事と話されたんですね。
下河辺:いやあ、知事と会うための準備をしただけですよ。
江上:そうですか。そうすると次の8日の方が本番ですね。
下河辺:いや、その公式には8日ですけども、8日にやったことはぜんぶ、7日に吉元くんに解説して、どうだろうって言って、彼がそれでいいと思うって言うから、そのまま、知事にしゃべったわけです。
江上:そうすると、おそらく8日に先生と大田知事が会われたときには、もう7日に吉元副知事と大田知事の間でほとんど話し合いは済んでいたんでしょうね。
下河辺:ついたっていうか、ついといてくれないと、困るって言ったから、ちゃんとやってくれたですよ。
●基地に対する住民の意識変化一一県民投票結果の見方
江上:吉元さんがやってくれた。9月8日は、先生は大田知事とかなり長時間の会談をなさったということですね。
下河辺:それはその、こういったメモを巡る話は、もう十分事前に吉元くんがやってくれているから、なくて、むしろ、沖縄県内の政治情動の議論が長かったんです。
江上:ああ、そうですか。
下河辺:県民投票っていうことで、どうなっていくか、名茸の市長選挙から、ずっと一連のいろんな県民に対する意見聴取があった。この傾向を議論したんですね。そして、だんだんだん基地反対派ではなくなってきているっていう、ことがテーマだったわけです。
江上:基地の反対派でなくなってきているっていうのは、それは県民がですか。大田知事がですか。
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下河辺:いや、いや、住民たちが
江上:住民たちが、ですか。
下河辺:投票の結果を見ていると、反対派のシェアがどんどん下がっていくんですね。
江上:それで、この日に県民投票が実施されていますね. 先生が御厨先生のインタビューの中で、知事は県民投票にあまり賛成でなかったと語っておられます。ですが実は、私の記憶によると、大田知事が代理署名を拒否して、当時の村山内閣と真っ向から対立したときに、大田知事が国を相手にけんかするのは大変だ、それで、連合沖縄に是非、自分をバックアップして欲しいということを頼んだんです。
それで連合沖縄の渡口さんが、じゃあ住民投票でもやって大田知事を支援するからということになって準備が始まったんです。
しかし結果的には、時とともに次第に国と橋本内閣は和解するような状況になき、大田知事にとって、自分を助けてく-れるはずの県民投票が足かせになっていった、ということでしょうか。
下河辺:足かせになったから困ったっていう、今は選挙にとって、そういうことが言えるんだけども、沖縄県にとっては、国とのつながりが見えてきたっていう、明るさとして受け止められてましたよね。
江上:そうですね。それで、県民投票をやれば、結果は「ノー」となることがわかっていたんですね。
下河辺:わかっていたつもりが、結果見たら、そうじゃなかったから、驚いたんですね。
江上:驚いたんですか。
下河辺:反対派が意外と小さかったんですね。
江上:投票率が意外と低かったですね。
下河辺:そうです。だから、知事としてはちょっと混乱した時期でした. それは、主に投票の中身から見ると、戦争を知らない若者の票が多いんですね。だから、現実にその日のときのめしの食い扶持っていう点で、反対してこないんですね。
基地があるからこそ、入ってくるお金も少なくないし、そういう現実性がでてきちゃったから、なんか県民投票っていうのは、非常に複雑な情勢になっていました。
江上:そうですね。投票率か予想したより低かったというのは、そのときの沖縄県民の複雑な心情を反映していましたね。
下河辺:そのことが、とうとう大田さんが落選するっていうところまで、広がっていっちゃったわけですよね。
江上:そうですね。大田知事も沖縄の複雑な状況をずいぶん、気にしていたんですが。
下河辺:気にしてたっていうより、私があなたは選挙に今度負けると。負けるのは、若手の票がつかめてないと、若手の票がつかめないのは、戦争にこだわっているからだって言ったら、大田さんは自分は政治家として、そういう政治家として終わっていきたいと。
だから、負けることよりも、~説を曲げないっていうことで、いきたいっていうから、私はそれは立派ですって言って. だから、選挙の前にも、ちょっと負けるなっていう気がしたし、知事自体もその気になっているなって、思ったですね。
270
江上:それは、大田さんの3期目の知事選の直前ですね。
下河辺:そうです。
江上:それで、海上基地反対ってということを大田さんが宣言したのは、その後の選挙ですね。
下河辺:そうです。
江上:でも、先生の表現では、大田知事は、県民投票に賛成でなかったという、ふうに書かれているんですけども。これは、どういう?
下河辺:いや、そのなんていうんですかね. 県民投票で、圧倒的に軍事基地に反対が多いと思ったからなんですね。で、そういうの出すと、ちょっと、政府としても、アメリカとしても、ちょっと困るんじゃないかっていう。
江上:そういう意味ですね.。そういう結果が出てしまうと困るというわけですね。
下河辺:そう。
江上:いま、せっかく和解しようとしているのに、、それに水をかけるような話になりますからね。
_
下河辺:逆に出たんで、ちょっと、扱いが困ったんじゃないすか。
●9月の橋本・大田会談
江上:そうですね。それで、9月9日にさらに、事前の打ち合わせをなさってますけども、もうこのときは、先生のメモをもとに橋本内閣の公式発表が出るという直前ですけども、このときの事前の打ち合わせは、どういうことだったのですか。
下河辺:どういうことっていうと?
江上:9月10日に首相と知事が会談レますね。その前に打ち合わせをするというのは、どういうことだったんですか。
下河辺;それは3月から半年かけた、積み上げそのものだから。
江上:その総整理をなさったんですか。
下河辺:調整っていうか、総理と知事が、その半年間のプロセスを了解したっていう形ですよね。
江上:そして、9月10日に首相と知事が二人だけで会談なさったんですか。
下河辺:二人だけっていうのは。
江上:お付なしで。
下河辺:お付なしでなんでこと、ありえませんよ。総理が。
江上:そうですね。
下河辺:だから、しかるべき人が。
江上:周りにお付きの人たちがいたんだけども実質的には直接二人で話されたということですか。
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下河辺:話し合った。
江上:そういうことですね。このとき、先生はそばにおられたんですか?
下河辺:このときもいたと、思い事す。
江上:そうですね。でも話のやり取りはお二人だけで進んだということですね。このとき、お二人でどういうことを話されたのですか。
下河辺:いや、それはこれまでの調整のプロセスを説明したから、それを巡って二人でしゃべってましたよ。
江上:そうですか。もうこのへんのところは、実質的にもうシナリオの終わりの段階で、形式的なものですね。詰めの段階ですね。
下河辺:形式には結論の会議ですけどね。
江上:それで、お二人の会談のあとはみんな集まって、短時間で打ち上げるという考え方でやったと先生は述べておられます。その後、. 要するに沖縄問題についての内閣総理大臣談話・閣議決定が出されます。これを各新聞は一面トップで報道したわけです。それで、11日、12日に大田知事は関係者と徹底的に話し合い元気になっていったということですが。
大田知事は、自分はもう決断した、それに国も全面的に経済振興策にバックアップしてくれるからこれでいくんだという覚悟ができたということでしょうか。
下河辺:ま、そういう経済的なことがあるけれでも、政治的にちょっと知事とのけんかじゃなくて、政府が援助してくれるっていう自信ができたのが、一番うれしかったんじゃないすか。
●橋本首相、海上へリポート案言及について
江上:そうですね. 政府の支持が取り付けることができたということが大きかったでしょうね。沖縄の経済振興策は、政府の支援なかったら何もできませんからね。その後、9月13日に大田知事が代理署名の合意書を政府に送る. ここで大田知事と橋本総理の実質的な和解が成立して、このあと総選挙になるわけですね。そこで一件落着となりましたが、そのあと、橋本首相が沖縄に、入られて、海上へリポート案というのに、初めて言及されま
す。これについては、先生のところに以前からいろんなアメリカや日本の関係の業者や会社が、プランを持ってきましたよね。
下河辺:9月17日の総理の沖縄入りは、普天間の土木工事で行ったんじゃないすからね。
江上:ええ。
下河辺:沖縄復帰の記念を祝して、総理の挨拶をして、その中で、安保上沖縄を軍事基地にすることは、了解して欲しいっていう声明をLに行ったんですよ。
江上:でも、その挨拶の中でちょっとだけ触れた海上へリポートがクローズアップされて、マスメディアでも大きく取り上げられました。
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下河辺:それは、ついでくらいの話ですね。
江上:そうですか。
下河辺:演説の内容は、普天間問題じゃないすから。
江上:でも、とくに沖縄側では、移設先がどこになるかが非常に話題になっていて、最初の嘉手納統合案が暗礁に乗り上げてしまって、すると次はどこかとうことで、海上へリポート構想を橋本首相が言及したとたんに大きく取り上げられたんですね。
下河辺:いえ、そんなことはないと思いますよ。
江上:そうですか。
下河辺:海上基地なんていうのは、総理や知事の話じゃないですからね。
江上:はあ、そうですか。
下河辺:漁民たちの話とか、市長の話とか、が中心でしたから
江上:でもやはり、こ.のとき首相が移設案に言及されたのは影響が大きかったのではないでしょうか。
下河辺:ぜんぜん、触れないっていうのは変でしょう。
江上:そうですね。
下河辺:触れる立場はないから、一応、-触れたっていうだけじゃないすか。
江上:一応、触れたといういうだけで、どうなるかは、その後のいろんな動向を見守るということですかね。
下河辺:そう。
江上:それで、先生のスケジュール・メモによりますと、10月3日に首相と官房長官と
古川官房副長官、大田知事と吉元副知事と先生で会食をなさって、_これでもう、お疲れ様でしたという感じだったんですか。
下河辺:そうです。
江上:どちらで会食なさったんですか。
下河辺:これはどこでやったのかな。官邸でやったんじゃないすかね。
江上:そうですか。
下河辺:昼飯ですから。
江上:はあ、そうですか。先生としてはそれまで一所懸命、解決に向けて働きかけてこられたのですから、これで本当にはっとなさったんでしょうね。
下河辺:はっとしませんでしたね
江上:あ、そうですか(笑)。
下河辺:これからが大変だと思いましたよ。
江上:ほう、そうですか。これはまだ、第一歩に過ぎないという感じですか。
下河辺:一歩というよりも、国と県との関係の事務でしかないわけですよ。だけど、沖縄県には沖縄県の仕事がいっぱいあるわけですよ。それにも私、触れてたから、これから本当にどうしたらいいかつていうのは大変でしたよ、この当時は。
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江上:そうですか。まだやはり、前途に難問が山積しているという思いが強かったのですか。
下河辺:そうです。
江上:それでこのあとに、ある新聞で先生を首相補佐官に、という記事が出ます。だが先生はそれをお断りになって、あくまで政府の中に入らずにやるという姿勢を貫かれますね。
下河辺:私はそういう立場で沖縄のことを考えてきたわけじゃないから、ぜんぜんそんな気にはなりませんでしたね。
江上:そうですか。
● 「下河辺メモ」に関する疑問一一代理署名拒否問題
眞板:飲み込みが悪くて恐縮なんですけど、先生がお書きになった「下河辺メモ」を拝見するとですね、そもそもトラブルの原因になったのは、少女暴行事件であり、大田さんの代理署名拒否っていうことだったと思うんですけど、メモを拝見した感じで、大田さんの代理署名拒否っていうのは、要は土地問題であったというようなお話が以前あったと思うんですが、このメモを拝見する限りにおいて、土地問題ずばりについてお応えになってい
・る、つていうのはよくよくみるとないなと、感じたんですが、
下河辺:土地問題だって言ったんですけれども。
眞板:たとえば、土地問題であるとすれば、このメモの中に、具体的に軍転特措法の問題であるとか、県側に有利なような働きかけが必要じゃないかというようなものが、あっても良かったんじゃないか、という気がしました。
下河辺:それ以前なんですよ. 裁判は。安保条約と土地との関係、それを最高裁が裁定しちゃったわけですからね。だから、安保条約の下で、日本の憲法としては、土地の提供を拒否することはできませんっていうことの判決を大田知事も飲まざるを得なかったわけですね。だから、沖縄で米軍の土地ができることを否定していたのに肯定して仕事することになっただけですよね。
眞板:それでその裁判の判決の結果を受けて、米軍基地の土地問題という~ものをオーソライズしていったという
下河辺:そうです。
眞板:表現になるわけですね。あと、前後して恐縮なんですけども、このr下河辺メモ」のタイムスケジュールの中には入っていなかった4Jですが、3月の23日に大田さんと橋本さんがお会いになられているようなんですが、これについては先生は関わっていらっしゃらなかったということで、とちらには入っていないんですか。
下河辺:いや、そうじゃないと思います。そのメモは私が行動した範囲だけが書いてあって、ほかの用事はいろいろありましたからね。県民との話し合いとか、琉球大学の学者との話し合いとか、新聞社との話し合いとか、いっぱいやっていましたから。
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●首相談話一一日米安保における沖縄米軍基地の重要性について
江上:それで、首相談話が出されますけども、沖縄問題についての内閣総理大臣談話の内容は、文章を読むと先生のメモをもとに談話が作られている、という感じですね。
下河辺:まあ、そう言っていますけども、私の文がなかったら、やんなかったか、つていったら、やるでしょうね。
だから、参考になったろうっていうだけの話ですよ。
江上:それで、橋本総理の談話の中に、「日米安全保障条約は、日本の安全のみならずアジア・太平洋地域の平和と安全を維持していく上で、極めて重要な枠組みであります。米軍の施設・区域はその中心的な役割を果たすものであり、その安定的使用を確保することは重要であると認識しています」とあります。
ここの部分について、御厨先生たちのオーラルの中で、日米安保が重要で、しかも沖縄の基地が極めて重要だということを国家の責任者が、県民に向かって言明して欲しいということで、これがこのくだりになっていて、これは重要なセンテンスになっている、ということを先生が述べられています。こういうふうに沖縄の基地が日本国家にとって必要だということ言った総理は、いままでいないんだと。これをはっきり、言ったほうがいいと、いうことを述べられています。これは先生の持論だったんでしょうか。
下河辺:そうです。
江上:そうですね。
下河辺:私の意見として言いましたけども、知事が沖縄に総理が来たときに、国家として必要だっていうことを是非言ってくれと、いうことを言いましたね。
江上:大田知事がですか。
下河辺:ええ. だから、土地の裁判を受ける話と国家としての総理の意見を受けるっていう、ふたつが、知事にとって県民に対して必要なことだったですね。自分の意見ではなくて、ふたつが客観的な政治情勢であることをちゃんとしたかったわけでしょ。
江上:これはとても重要なくだりですね。
下河辺:そうです。
江上:先生としては、橋本内閣にとっても大田知事にとってもこれは重要なことであるということですね。そしてここの部分が日米両政府からも評価されたということですね。
下河辺:そうです。
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●つなぎ役としての下河辺氏の立場
江上:そういうことですね。先生の言及で、このくだりがそういう重要な意味をもっていたのだということを私は初めて知りました。そしてまた御厨先生たちのオーラルで印象に残っている先生の言葉は、私は沖縄の立場に立つという言葉です。最初に大田知事と会われたときに、自分は沖縄の立場に立ってそのつなぎ役をするというようなことを先生はおっしゃっていますよね。それまで非常にかたくなだった大田知事が、先生につなぎ役をお願いしたいと言ったときに、一番心を動かしたのは、沖縄側に立? 、というこの言葉だったのではないでしょうかeどちらかといえば、先生は日本政府側の人ですから、日本政府側の人が沖縄側に立つよと言ったことがやはり、非常に大きな感銘を与えたんじゃないかなと私は思うんですが。
下河辺:それはちょっと、私には分かんないけれども、私は政府の代わりとか、学者の代わりっていうことでは、能力まったくありませんと、いまは政府を離れているし、学者じゃもちろんない、だけども沖縄に関心を持つ人間のひとりとして、大田知事との相談に乗りたいっていったんですね。
そしたら、知事は本当にそうしてもらいたい、つて言ってましたよ。そして、沖縄県民のいい人たちと話をすると、絶対反対って言う意見しかないから実務上との意見交換になんないんですね。反対運動のための論理はできるけれども、それじゃあ、毎日、行政的にどうしたらいいかっていう相談ができないっていう。そこへ私が現れたから、いろいろ聞きたかったんでしょうけど。私にすると、大田さんっていう人が、どういう考え方をするのかっていうのを勉強したいっていうのが、′一番大きかったですね. だから、こういうとき、大田さんはどういうふうに考えんのかなっていうことをいろんな点で勉強しましたよ。
江上:大田知事の著書車読まれたんですか。
下河辺:そうですよね。
江上:あのとき、橋本総理も大田知事の著書を読まれたんですよね。
下河辺:そうです。
江上:『高等弁務官』などの著書を。
下河辺:そうです。そうです。
江上:大田知事がどういう考え方をするか、ということを知るするために、彼の著書を読んだりして研究なさったんですね。
下河辺:私は大田さんが、国会議員になったことは、とっても寂しかったです。大田さんが選ぶ道ではないと、思ったんセすね。あんな、沖縄から出てきて、ひとりの議員になったところで、彼の力を発揮できませんよ。質問だってね、5分しか許されないとか. 、そんなんで、むしろ、彼は学者として残って、意見を言う立場を確保したら良かったのに、と思いますね。残念でしたね。
江上:社民党から担がれたっていうこともあったしょうけどね。
下河辺:そうでしょう。
江上:最近も、大田さんは有事法制関係で本書いてら中ますよ。学者魂はまだ健在のようですね。でも国会ではかつての精彩はないようですね。
下河辺:ないですよ。そりゃ二無理ですよね。
江上:限界がありますしね。
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●御厨オーラルのその後について
眞板:この御厨先生のオーラルヒストリーなんですが、どうも、5回目が最終回のようなんですけれども、終わりのほうを拝見すると、まだ続きそうな雰囲気、ま、そういう余韻を残されているみたいなんですね。
下河辺:あ、そうですか。
眞板:で、何か動きがあったらまたやりましょうねって、いうような感じで、終わっているんですよ。
下河辺:それはもちろん、なんか沖縄問題が発展したら、やるつもりだってでしょう。
江上:そのときはですね。
眞板:でも、実はこのあと、最後が98年3月になっているんですが、このあとの7月の参院選でご承知の通り、自民党が大敗して、橋本内閣が潰れ、大田さんの方も、11月の選挙に向けて、公明党も自民党の方に乗り'っていう中で、非常に状況が両方とも悪くなっていくんだと思うんですけど。というと、もう1回くらいあっても良さそうだなと。
下河辺:そんなこと言ったら、永遠に終わんない
一同:(笑)
下河辺:沖縄がいなくなっちゃうわけでもないし。
江上:沖縄の問題は永遠ですね(笑)沖縄の問題これからまたどうなるか、わかりませんね。
●ラムズフェルド国防長官訪沖時の稲嶺知事の対応
下河辺:稲嶺さんが、こないだの国防長官との話し合いを新聞で見ている限り、何にもわかってないね。いまの軍とは何かとか、沖縄っていうのは何だとか、アジアは何だっていうことに、ついてまったくだめね。
江上:そうですか。
下河辺:なんか、聞いてて悲しかった。国防長官が機嫌が悪くなっ、たっていうのは。
江上:分かる気がするということですか。(笑)
下河辺:なんか、本当に日本の恥のような気がしてね。せっかく来たんだから、もっとちょっと上手な頼み方があってもね。
江上:両者の会談は7項目の陳情の場にになっていましたね。
下河辺:しかも、その7項目がなんか昔話よね。
江上:ラムズフェルド国防長官の対応は取り付く島のないような感じでしたね。稲嶺知事もどちらかと言えば、県民向けのアクションだったんでしょうね。ラムズフェルド国防長官と話しながら、稲嶺知事は県民に対して、国防長官にこれだけ言ったぞといいたかったんでしょうね。
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下河辺:そりゃそうですよ。言いたいことぜんぶ、言っとかないと、まずいって県民に対して思ったから、聞くほうはそんなこと聞いてもしょうがない。
江上:なんでそんなことを聞かなければいけないのかと撫然としたそうですね(笑)。
下河辺:そう。
●大田知事の言動の不可解さ
江上:さっきの話の続きですけども、先生と大田知事が話されたときに、沖縄のことはなかなか日本政府の側に伝わらないという話がありましたね. 本当. の沖縄の心情とか要望とかがなかなか日本政府のほうに伝わらないということを大田知事が先生におっLやいましたね。
下河辺:ただ、まさにそうなんだけども、大田さんは何を言おうとしているか、私にもわかんない面があるし。
江上:橋本首相もそんなことをおっしゃったことがありますね. ころころ変わるので、大田さんが何を言っているのかわからない、と。
下河辺:ころころ変わるって言うよりも、本当に何を思ってんだろうっていう。県からはもう、予算陳情のテーマでしかありませんからね。安保条約でも、軍事基地の問題でもなくて、ようするに補助金が欲しいって方向に行っちゃってますからね。
江上:だから、大田知事が代理署名に応諾するにあたって、50億円の調整費と政策協議会の設置という形で国と沖縄県が和解するとなったことに、とくに大田県政の支持母体が抗議しましたね。
下河辺:それ、どういう意味ですか。
江上:基地反対と訴え、基地をなんとかしてくれって言い続けたのに、最終的に50億円の調整費を始めとした経済振興策で妥結したと受け止めた人たちも少なくなかったんですね。
下河辺:調整費は基地反対と何にも関係ないんじゃないすか。むしろ、返還した土地の開発についての調整費なんてなことはやったけどね. だけど、返ってくれさえすりや、いいんだっていう人にとっては、調整費って何の関係もないんじゃないんすか. 返ってきても役に立ったところって、ほとんどないもんね。
眞板:50億の調整費が各省庁に下りていったときに、食い散らかされるというような表現がオーラルの中でもあったと思うんですけど、タテ割り行政の中で、こうなってしまうのしょうがないんですか。
下河辺:しょうがないでしょうね。私たちは調整費じゃなくて、ちゃんとプロジェクトやろうっていうのに、できなかったわけですよね。沖縄県がまとめきれないんですよ。
278
江上:あ、沖縄県がまとめきれなかったんですか。
下河辺:あれやこれや、あれやこれや、言うだけで、まとめるって方向じゃないんですね。で、県がこれはいらないっていう立場がとれなかったのは、かわいそうでしたね。県民か言っているの全部やってくれって言う以外ないすよね。だから、50億でも100億でも、いいよって言ったら、まとまったかもしんないすね。だけど、50億って決めちゃうと、枠の中に納めることが、誰にもできなくなった。
江上:当時の大蔵省としてもそんなにのべつなく出すわけにいかなかったでしょうから。
下河辺:いやあ、おそらく、何でも出したんじゃないすか。
江上:そうですか。
下河辺:沖縄の中に入ることであれば。
江上:でも沖縄県としてその50億をどういうふうに使うかというのは、十分対応できなかったんでしょうか。
下河辺:できなかったですね。岡本さんみたいな人が行って、市町村長おだて歩いちやったから、市町村長みんな期待しているわけですよ。それでJ県はそれの調整ができないから、だめですよね。
眞板:岡本さんが配って歩いたお金って、その50億円の調整費だったのですか。
下河辺:いえ、その外側です.
眞板:外側なんですか。
江上:50億円の調整費は、30億と20億に分けるんですね、雇用対策費と調査費として。
下河辺:分けてんです。
江上:大田知事が代理署名を応諾するにあたって、いろんな関係者と話をしました。それで、知事は結局、日本政府と妥協したんじゃないかっという批判が大学の関係者などから出てくるんですが、それを大田知事は自信を持って説得ではなく説教をしてしまったと、いうのが逆に大田知事を支えた大学の知人たちを余計に硬化させてしまったんじゃないかという先生の見方が御厨先生方のオーラルにありますね。
下河辺:あ、そうですか。大学の先生になんかして、硬化したって別にいいじゃないですか。
江上:(笑)
下河辺:どうぞ自由なこと言って下さいっていうだけだもの。
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●行政の立場
江上:でも、ここはいかにも大田先生らしいと思うんですが。大田先生は琉球大学で学生に教えていましたから、教え子に話すみたいに、自分がいちど決めた方針について言い聞かせたのではないか、とそのように感じました。でも先生は、行政というのは、自信がないことを売らなければだめな商売だ(笑)とおっしゃっていますが、これは大田先生には無理だったろうな、という気がしますね。行政っていうのは、やっぱりそうなんですか?
下河辺:だって、行政に詳しい人ほど、結論ってないんですよ。どうしていいのかわからないっていうのが、行政の立場ですよ。いままでは、どうしていいか、わからないっていうことを言うことをしなかったのが、'役人なんですよ. どうしていいのか、わからないのは、いまも昔も同じなんですね。ーだけど、最近では、それを言っちゃうっていうことができるようになっただけ、役人は気楽なんじゃないすか。政治家と住民に押しつけて、自分じゃおっしゃるとおり、にやるだけで、わからないって言っていいでしょう. そ_う言ったほうが、かえって立派なようなことを言われたりする。あれだったら、そんな役人いらないっていう、感じがするけどね。いま日本ではそういう役人のほうが、,受けるんじゃないすか。
江上:でも大田知事は代理署名の応諾を決断し、そういう形で政府と和解してやっていくんだっていうことは確信をもっていましたから、それで突き進んで、支持母体に対してもそのことを一所懸命説明な~さったんですよね。
下河辺:それに大田さんは、アメリカと付き合いが深いし、学者らしく見通しとしては、楽観的だったんじゃないすかね. アジアの軍事情勢もぜんぜん違っちゃって、台湾問題も朝鮮問題もなくなっ-ちゃうような事態で、米軍がいることの意味が、なくなっていくことは、アメリカ人からも聞いてて、所詮時間の問題だったとしか思っていなかったんじゃないすか。
●大田知事の「海兵隊撤退論」
江上:そうですか。しかしながら大田県政の末期には海兵隊の撤去を大田さんは訴えました。県知事として、県民の代表として、言わざるを得なかったんでしょうか。
下河辺:言わざるを得ないじゃなくて、アメリカから聞いているから、言ってんじゃないすか。アメリカの軍は、なるべく早く、撤去する方向なんじゃないすかね。
江上:でも、先生のお話だと、もし海兵隊を撤去することがあったとしても、沖縄の基地はリニューアルした形で、最新鋭の装置を備えた形で、やはり必要だということですか。
下河辺:いや、必要かどうか、そこが混乱してくんじゃないすかね。普天間でも移転して近代化っていうこと言っているけれども、海兵隊自体がいらなくなったら、近代化もへったくれもないすよね。
江上:そうですね。
下河辺:ま、そこのところは、まだ今後の情勢を見ないと分からない。
江上:そういう実地調査のために、ラムズフェルド国防長官は沖縄に今回、立ち寄ったんでしょうね。
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下河辺:中国が運営に失敗して、難民が出たり、テロが出たりしたら、沖縄、また緊張するでしょう。そうすると、米軍′がやっぱり緊張状態になって、. 撤去できないっていうことになるでしょうね。そのときは、おそらく、普天間の移転を急ぐでしょうね。いまだと、必要がないから、移転を急いでいないんで、ちょっと、なんとなく、議論が複雑っていうか、結論が出ない状態ですよね。
江上:日米安保体制も沖縄を取り巻く情勢も、いま不透明な状況になってきていますよね。
下河辺:そう。軍事情勢がぜんぜん達っちゃったから。
江上:そうですね。今後どういうふうになっていくか、その展望がまだ見えないところがありますね。
眞板:普天間_の移設問題というのは、橋本さんと大田さんがなさったころと、いまも基本的には海兵隊が出てってくんないかなあっていうのを"待ち"というか。確か御厨先生のオーラルをお答えになった時期も、50%の確率があるなら、もうちノよっと、様子を見てみようか、というようなお話が出てました骨れども、基本的にはいまの内閣も、稲嶺さんも50%の確率があるなら、もうちょっと様子を見てようか、つていうような感じなんですかね。
下河辺:いや、あの当時、まだ冷戦という恐怖が残っている状態でそう言ったんで、冷戦の恐怖がなくなって、朝鮮問題も台湾問題もないっていう事態ではぜんぜん違うんじゃないんすか。普天間がいらないか、いるかって話だけになっちゃって、いらないって意見が強くなってるんじゃないすか。だから、普天間の海兵隊q)役割が、改めて議論なんで、今度も国防長官がそれを確かめに来たんじゃないすかね。で、それは軍事じゃなくて、平和なもとでの医療とか教育っていうことに、役割があるかないかが、問われているんじゃないすか。
眞板:確かに、ラムズフエルドさんは部隊の近代化ということをかなり、あ、近代化ではなくハイテク化ですね。を進めることによって、沖縄という地域、沖縄には限りませんが、そこに部隊を貼りつけておくということに対_して、非常に懐疑的な方ですよね。実際、今回のイラクでも、ご承知の通り、ほとんどがアメリカ本国から部隊が行っているわけで、沖縄から行ったのは、いわばその交代要員とか、護衛のために、嘉手納からF15がちょこっと行ったくらいですから、基本的にはあんまり必要ないわけですよね。そういう意味では。
下河辺:だけど、沖縄っていうのは、米軍がいなくなったら、ゲリラの巣になんないすかね。抵抗がなくなった沖縄って、とっても危ないって気がするんすね。アジアのテロ行為として、琉球のどっかの島を占拠されたら、ちょっと大変ですね。
江上:島はたくさんありますね。
下河辺:そうもだから、米軍が平和のために、いてくれるといいってことさえ、言う人もいますよね。
江`上:沖縄も昔と違って、日米安保体制の重要性については、先ほどの大田さんの話ではありませんけど、かなり理解を示すようになりました。かつては、米軍基地絶対反対と主張する人たちは多かったですけど、いま、そういう人は少なくなってきています。
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下河辺:いないですよ。
江上:だから段階的に、だが目に見える形で負担を軽減して欲しいというように、昔に比べると主張が基地撤去から基地縮小へと穏和になってきました。
下河辺:なにしろ、県民が180万人を超えて、200万の方向へ行っているっていうことで、集まっているのは若者ぽっかりだから、戦争なんていうことにぜんぜん、無関係ですよね。沖縄での楽しみ方を求めている青年たちですからね。
● 「下河辺メモ」進行時の感想
江上:それで、橋本首相と大田知事の和解に至るまで先生のタイムテーブルは、本当に細かくメモされていますが、実際、この通りに動いていったんですね。
下河辺:そうですね。
江上:このタイムテーブルを作られたのは、先生ですか。
下河辺:そうですね。
江上:ほとんどこの通りにずっと動いていったというのは、振り返ってみると見事ですね。
下河辺:見事っていうよりも、結果がどうなるか、わかんないでやっていましたから、結果的にその表を見ると、ああ、そいうスケジュールなんて気楽にいえますけど、やっているわれわれにすると、1カ月ごとにちょっとどうなるか、ちょっとどうなるかってやってきましたからね。橋本さんだって、大田さんだって、いつまでもこっちの意見を聞いてく
れる状態にいるとは、あんまり自信をもっていませんでしたから。
江上:先生はこの期間、阪神大震災の問題もありましたしね。
下河辺:そうです。
江上:そういう仕事をやられながら沖縄問題にも取り組んでおられたんですね。
下河辺:そうですよね。
江上:大変だったでしょうね。
下河辺:大変っていえば大変だけども、太陽っていうのは、ちゃんと1日1日24時間しかないんすからね。だから、-忙しいだろうって言われたら、忙しいって言うけども、それ以上に、間に合わないと時間が延びるってなんてことないすものね。いくつ仕事があったって、365日、24時間の中でこなすしかないすもんね。
● 『沖縄の決断』 (大田昌秀著)
江上:後日談ですが、大田知事が3期目の知事選で破れた後、朝日新聞社から『沖縄の決断』という著書を出されました。この中で大田さんはわざわざ、1項目をさいて先生のことに言及していますね。
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下河辺:書きづらいことだったじゃないすか。本を見るとね。
江上:そうですか。
下河辺:本当になんか恐縮するような書き方してる。
江上:下河辺淳氏という見出しをつけて、先生からいろいろ助力を受けたと大田さんは述べています。
下河辺:いやあ、本当ね。なんかずいぶん、いろんなこと、ありましたし、知事さんと内緒の話をするのはステーキ屋さんで、なんとかっていうステーキ屋がいつも決まっていて、昼飯ステーキって言うと、なんか特別な相談があるなあと. 食いながら、ちゃんと、難しいこと言い出すんですよ。
江上:大田さんはステーキがお好きなんですね。
下河辺:ステーキ大好きですね。
江上:そうですか。いかにもアメリカに留学した先生らしいですね。確か、ウイスキーは「シーバス・リーガル」がお好きと聞きました。
この著書では先生に対する感謝の気持ちがよく表われているんですが、ただ普天間飛行場の跡地利用計画については、いまひとつ実効性に欠けると先生がおっしゃったそうです。
それで、大田知事が下河辺先生にじゃあどうしたらいいですか、とたずねたら、下河辺先生は、普天間飛行場はそのまま、民間の飛行場にしたはうがいいというふうに応えられたそうです。それで、ここのところは、ちょっと意見が合わなかったと述べておられます。この点だけ意見が合わなかったとおっしゃっていますね。
下河辺:そうですね。普天間の人たちも、騒音というようなことと軍事的危険っていうことがあって、どっか行ってくれって言ってんのに、行ちゃったら、またヘリコプターじゃあ、騒音とか、なんか飛行機が落ちたりする危険がないから、嫌だって言う人が圧倒的に多くて、県庁もそう言ってましたよ。だけど、私はいまでも、県庁の昔の職員が代わったから、新しい職員に同じこと提案しているんですよね. 沖縄県っていうのは、島でできた県だから、ヘリコプターで全島をつなぐ、ネットワークを作ったほうが、行政的にもいいし、病院にも便利だし、食料品から宅送便まで、全部それがいいということをいまでも言ってんですよ。
●伊波市長、来訪について
江上:先日、伊波宜野湾市長がお見えになった時にもそのことをおっLやいましたか?
下河辺:そう言ったんです。
江上:伊波さんはなんって言ってましたか。
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下河辺:そしたら、なんか、普天間っていうのは、どうも基地をなくすっていうことで、自分はやってきたんで、基地がなくなることが前提だっていう。そして、なかなかなくなんないっていう軍事情勢が、出てきちやったっていう. 軍事情勢が厳しければ、軍備の近代化のために、米軍が自分で好んで移転したに違いないのに、移転するお金をかけるまでもなくいらなくなったっていう。だから、返還がかえって早いかもしれないよっていって、市長は困っていましたよ。それで、跡地はどうするって話で、3分の1は国の施設で埋めたいっていうから、そんなの期待してたら、いつになるのかわかんないし、特に地主に土地を返すなんていう話をすると、30年以上かかるよと言って、市長、困ってましたよ。
それじゃあ、あなたはどうすろつもりだって言うから、県と企業との合弁のヘリポート会社を作って、ヘリポートを運営した方が、県生活にとってプラスが大きいっていう話をして、それは、いまでも完全にそう思っているって、言ったんですけどね. 騒音がやっとなくなったら、またヘリコプターつていうんで、市民は反対でしょうって言ってました
よ。
江上:で、も、そのヘリポート構想では、いまの普天間基地を全部使う必要はないですよね。
下河辺:全部使ったらいいと思いますよ。
江上:全部使ったほうがいいですか. 全部使ってそういった離島の交通ネットワークを作るんですか。
下河辺:もしやれば、あそこの山のところに、病院くらいは作ったらいいかもしれない。
普天間って、病院が弱いですから。だから、やったらいいし。ショッピングセンターなんていうのも、ヘリポート基地には絶対必要かもしれないすね。
江上:そうですね。
眞板:宜野湾マリーナの方にも、ショッピングセンター作っているんですけどね. いま、海のほうにも、ダイエーが一度入ろうとして、癖局、経営破たんしちゃったんで、撤退しちやいましたけど。
そういう話もあったりで、`いま、コンベンションの周りあたりも、開発をやっているんですよ。
下河辺:そうですね。
●梶山官房長官との馴れ初めについて
江上:話は変わりますが、先生のタイムスケジュール・メモの一番最初に、梶山官房長官が先生のところに何とかしてくれと依頼に来ました。それ以前から梶山官房長官とはお付き合いがあったんですか。
下河辺:いやあ、もちろん、若いころから、彼は茨城県で、私を茨城県の知事にしようとしたり、知事を断ったら、衆議院に立候補しろって言ったり、大変だったんですよ。
江上、眞板:(笑)
下河辺:それを一切選挙とか政治は嫌いだっで、断ったんです。
江上:そうですか。
下河辺:断ったら、やっと、彼があきらめたばっかりに、沖縄を手伝えとか、何は手伝えって言って、「ふるさと創生」なんていうのを手伝わされたり、まあ、いろんなことやらされました。彼が死んでホッとしていますよ。
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江上、眞板:(笑)
江上:そうですか。
下河辺:生きてたら、いまもまた何か言って来たに違いない。
江上、眞板:(笑)
江上:梶山官房長官のお人柄はどんな感じだったんですか。
下河辺:いやあ、いい人ですよ。
江上:そうですか。
下河辺:彼は陸軍だったから、沖縄に陸軍のひとりとしてお詫びしたいなんていう人でしたからね。
江上:そうでしたね。そんなことをおっしゃっていましたね。私も一度、沖縄で、梶山さんとお話したことがあるんです。
下河辺:ああ、そうですか。
●沖縄サミット
江上:はい. サミットが沖縄に決まった直後に、もう官房長官は辞めておられましたけども。稲嶺知事と、もう亡くなりましたけどオリオンビールの会長なさってた金城さんと私が梶山さんと一緒に、地元紙主催でサミットについて会談したことがあります。その後、一緒にお酒も飲みましたので、思い出深いですね。
眞板:サミットといえば、御厨オーラルを拝見してたら、沖縄でやったらいいじゃないか、というようなくだりがでてくるんですが、あのアイディアはもしかして、下河辺先生なんですか。
下河辺:そうですね。
眞板:実は大田さんが自分の手柄だと言っていましたけど。
下河辺:大田さんがもちろん、やったんですけども、大田さんにちょっとやったら、どうかって言ったんですよ。無理ですかねえ、なんて言って、ちょっと、やっぱり言って見たかったんじゃないすか。
江上:サミットの誘致を大田さんも要望していましたね。
眞板:はい。
江上:先生とのお話し合いでサミットがあったんですね。
下河辺:だけど、意外とフィジカルにホテルがうまくできないんですね。その各国みんな分散してホテルっていうときに、各国に割り振るホテルが分散して難しくて、なかなかだめですね。
眞板:ちょっと大変でしたね。あの宿割りっていうんですかね。
下河辺:そうです。
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江上:やはり福岡と宮崎のほうが条件的には良かったんでしょうか。
下河辺:そりゃあ、やりいいでしょうね。
江上:あれは、やはり小渕首相の政治的判断だったんですね。
下河辺:宮崎なんてシーガイアがなかったら、できないでしょうしね。いまなら沖縄もホテルが増えたからやれるかもね。
眞板:サミットのときは、一番遠いイタリアでしたかね、読谷村のホテルまでいきましたからね。
下河辺:そう。そうですよ。
眞板:道路がないものですから、58号は警備のために基本的にストップになちゃって、地域の人は相当、困ったみたいですけどね。
●蓬莱経済圏構想
江上:ところで梶山官房長官が沖縄に来るたびに蓬莱経済圏構想について講演してましたけど、あれはやはり先生のアイディアだったんですか。
下河辺:・そりゃそうですよね。台湾問題もあったし、中国問題もあったから、日本の東京政府がやるよりも、沖縄、台湾、福建省とつながもことは、とても大きな意味があるということを梶山さんも認めてたから、蓬莱経済圏っていうのは、彼は熱心でしたね。
江上:そうですね。
下河辺:沖縄にしても、福建省に事務所作ったりして、ちょっとだけ、はじめたんですけども、吉葬が辞めたら、やる人がいなくなっちゃったんですね。あれ、吉元がひとりではりきってましたから。
江上:そうですね。やはり交易が自由にできるようないろんなしかけも必要だったでしょうね。
下河辺:必要だし、できそうだったんですよね。
江上:あ、できそうだったんですか。それは、旗振り役の吉元さんがいなくなった、つていうんで。
下河辺:そう。
江上:それで消えていったんですか。
●台湾について
下河辺:消えちゃったんですね。それで、台湾っていうのが、ちょっと蒋介石の台湾っていうイメージを完全に消えるときのちょうど、真っ最中でしたから、いまだったら、もっと楽にできたと思うんですね。
台湾っていうのはかわいそうな島で、台湾人のための台湾考えられるのは、最近ですも。
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江上:そうですね. 本省人と外省人の歴史的な軋轢もありますしね。
下河辺:そうです。
江上:国民党が完全に力で台湾人を制圧した形になっていましたね。それが、最近になって状況が変わってきました。
下河辺:やっと片付き始まったんで、蒋介石親子が死んだあと、連れてきた兵隊の始末が誰にもできないんですね。老兄問題と称して、もう戦えない年寄りの軍隊が台湾に残っちゃったんですね。ノそれで、台湾の人が、自分の生まれ故郷に戻そうっていうことで、北京と相談したんですね. そしたら、北京は自分たちの敵ですから、面倒見られないんですね。
だから、むしろあなたがたが、直接その地域の代表と相談して、戻したらいいっていうサジェッションだったんですね。で、台湾へ行った国民党の人たちが、故郷の地域の委員会昼申し込んだんですね. そしたら、受け付けたところは、3分の1くらいで、3分の2は、われわれは敵にして、逃げた人を受け入れられないって言って、墓さえ入れないんですね。だから、台湾に墓を作った人が少しいますけどね。なんか、生まれ故郷じゃない地域に、帰っていった兵隊もいたりしましてね。歴史の悲劇ですね。
江上:沖縄にとっても台湾と中国本土の問題は非常に大きな問題なんですけども、今後、台湾と中国がひとつになるか、ふたつになるかという問題は、それほど大事にならずに解決に向かっていくでしょうか。
●尖閣諸島の問題
下河辺:まあ、大丈夫ですね. 若手たちって、そういう問題意識もっていないですよ. だから、あのあたりで、尖閣列島だけがちょっとトラブルですけどもね。
江上:尖閣はいまでももめていますね。
下河辺:だけど、鄧小平なんかは、尖閣列島は日本と中国とで共同管理したら-、いいんじゃないのって言ってんですね。それは穏やかな意見ですよね。
江上:そうです。そのようにすれば問題はなくなるんですが。今でも中国から調査船が時々やって来たりして紛争の種になっています。
下河辺:そうです。
江上:月本の海上保安庁の監視船が追っかけたりしていますね。共同でやればいいんですよね。日本はしかし、尖閣諸島は日本の嶺土だって言っていますし、中国は中国の鏡土って言い張っている。
下河辺:日本の外務省は共同で開発はいいけれども、土地は日本って決めたらば、やるって言ってんですね。中国は、それを決めんのが難しいから、共同開発って言ってんのに、ちょっと、意見が食い違っていますね。
江上:意見が食い違ってますね。そのへんのところが少しずつ時間がたてば平和な方法で解決できるんでしょうか。
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下河辺:いやあ、ああいう衛士問題っていうのは、どこだって同じですよね. 領土間題が素直に片付く、なんていう経験はないわけでしょ。
江上:それは懸案ですか。
下河辺:そうですよ。北方領土ひ′とつ片付かないんですからね。
江上:そうですね。そういう意味では、沖縄返還の問題というのはよく決着したものですね、米軍基地は残りましたが?
下河辺:ええ、よく片付いて、佐藤さんの手柄話でノーベル賞までもらったわけですよね。
江上:やはりそれだけの価値はあるのでしょうか。
下河辺:価値はあるけども、何の取引したかは秘密になっちゃったから、ちょっと困ったもんですよね。
江上:このことについては、首相秘書官だった楠田さんも最近、亡くなりましたし、ずっとわからないままになるのでしょうか。これは日本の外交文書に残っていない. んでしょうが。
下河辺:残っているでしょうね。
江上:残っています? そうですか。では日本の外交文書がもし公開されるようなことになれば、そこのところは出てくるかもしれない。
下河辺:出てくるわけですよ。だから、むしろ、アメリカから先にでるんじゃないですか。
江上:先生、きょうはどうもありがとうございました。長い間お付き合いいただいて恐縮ですが、来週が最後になりますけども、これにまつわるその後の話とその関連するような話をまた伺いたいと思います。ありがとうございました。
(了)
(次回は11月25日午後2時)
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