2010年2月14日日曜日

【小沢一郎論】 佐藤優

内在的否定者
 こうして過去一六年間で小沢の政策の変わった部分と変わらなかった部分を検証してみると、おぼろげながらの特質が浮かび上がってくる。それはたぶん五五年体制下の保守政治家の範疇からはみ出してしまうものだ。

 例えば、小沢には岸信介—福田赳夫といった清和会系の政治家が持つ反共イデオロギーへの執着がない。彼は権力奪取のためならブレア政権の政策を採り入れるのを躊躇しないし、日本共産党とも手を結ぶことができる。

 かといって池田勇人—前尾繁三郎—宮沢喜一など護憲志向の元官僚が集った宏池会系の政治家とも違う。

小沢の父・佐重喜は岩手県水沢市(現・奥州市)を地盤とした生粋の党人派政治家で弁護士だった。一郎は日大大学院で司法試験勉強中の一九六八年(昭和四三年)に佐重喜が急死したため、翌年後継者として政界にデビューした。

 小沢はイデオロギー色が希薄で、党人派を代表する田中角栄の派閥に入った。田中は公共事業による所得の再分配を通じてゼネコン関連企業や地元住民の票を吸い上げ、勢力を拡大してきた政治家であり、官僚政治の枠内での利害調整のエキスパートだった。

 西松建設献金事件[注5]でクローズアップされた小沢の集金・集票システムは明らかに田中派の系譜に連なるものだ。だが、小沢の政治行動には、田中と違い、官僚主体の統治システムそのものを破壊しようとする強い衝動がある。
[注5]
西松建設からの寄付を、政治団体からのものと偽って政治資金報告書に記載したなどとして、東京地検特捜部が二〇〇九年三月に小沢氏の公設秘書・大久保隆規氏を逮捕。小沢氏は検察を批判し、代表を辞任するつもりはないとしたが、党内にも辞任を求める声があり、五月に代表を辞任した

 その点で朝日新聞の政治記者・早野透が『小沢一郎探検』(朝日新聞社・九一年刊)のなかで、小沢を田中の「内在的否定者」と評したのは的確だったと思う。しかし、ならば、なぜ田中派は小沢という「内在的否定者」を生んだのか。小沢のラディカル(根源的)な改造計画の行き着く先はどこか。

 私は元外務省国際情報局主任分析官の佐藤優を訪ねた。彼ほど政治家の実像を知り、その内在論理を分析できる人はいない。佐藤に聞けば小沢思想の核心に突き当たるのではないか。

「普通」の保守政治家?
 東京・赤坂のANAインターコンチネンタルホテルの喫茶室で私はこう切り出した。

「私には小沢氏が戦後の政治風土の中で非常に異質な存在に見えるんです。彼には、例えば安倍晋三元首相のように天皇を軸にした復古的な価値観がない。といって、田中角栄や野中広務氏とも違う。田中には郷里・新潟をはじめとした『裏日本』の近代化・地方への所得再分配というビジョンがあった。野中氏は部落差別の壁を乗りこえることを生涯のテーマとしてきた。でも、小沢氏の言動からは自らの出自や被抑圧体験と密接に結びついた理念やテーマが見えてこないんです」

 佐藤からは意外な答えが戻ってきた。
「うん。小沢さんには田中さんのように高等小学校卒で、学歴が極端に低いといった点もありませんね。ただ、裏返して考えると天下の副総裁、金丸信さんと小沢さんは(似てませんか)? 私は自分が身近に接触した政治家が鈴木宗男さんをはじめほとんど経世会だった。そのせいで経世会的なものを空気のように感じるんですね。その私から見ると小沢さんはごく普通の経世会的な政治家ですね」

 金丸信は山梨県の裕福な造り酒屋に生まれ、東京農大卒。中曽根内閣で自民党幹事長をつとめ、その後、党副総裁になり「政界のドン」と言われた。八九年(平成元年)には前首相・竹下登の反対を押し切って四七歳の小沢を党幹事長に起用した。小沢が政界の実力者として注目されるのはそれからである。

 小沢を「普通の経世会的な政治家」という佐藤の言葉に私ははじめ戸惑った。すでに触れたように私は小沢に経世会の系譜と断絶したものを感じていたからだ。だが、佐藤の解説をよく聞くと、それは私が経世会を単なる利権追求集団としか見ていなかったためだったことが後で分かってくる。
 
—どういう意味で普通なんですか?
佐藤 そこそこ頭がよく、イデオロギー先行でない。戦後民主主義の落とし子である。しかし反戦平和とか護憲とかいう方向にいかない。もう一つは土建屋型の再分配政治の中心にガチッと絡んでいる。だから例えば村岡兼造さんとか、事件に巻き込まれる前の鈴木宗男さんとか、ごく平均的な、権力の論理を良く知ってる保守政治家という認識なんですけどね。
 
—ふーん、なるほど。
佐藤 だから例えば九三年の『日本改造計画』は、著者の名を小沢一郎から橋本龍太郎や小泉純一郎に変えても不自然じゃないでしょ。あの当時の東西冷戦構造が終わった時点で、それまでの共産主義革命を阻止するために、過剰な形での労働運動への配慮、国民への配慮をやめて、新自由主義的な政策をもたらすという流れですよね。だから『改造計画』の時点では新自由主義政策で自己責任を強化することによって日本の経済を強化して、結果として税収が上がり、国家が強化される。(小沢は)常に主語は国家ですから、所与の条件の下で国家の財政を極大化するという命題には忠実ですね。その時に新自由主義政策をとるか、社民主義政策をとるかってことは道具に過ぎないです。だから九三年時点で新自由主義を言うのは国益のためには正しい。ところが〇九年において新自由主義を言うのは国を誤らせる。こういうことでしょうね。

—それは、そうかもしれません。
佐藤 ただ小沢さんを理解するうえで重要なところは、人間関係を非常に大切にすることです。しかも彼は自分に対する全面的な忠誠は求めない。例えば官僚でも、藪中三十二さんという外務省の事務次官が新政権でも生き残っている。それはなぜかというと、少なくとも積極的に野党時代の小沢さんを撃つことをしなかったからです。自分の敵以外は味方であるという考え方が平気でできる、数少ない政治家です。

 だから人材を活用できるプールが、彼は意外に広いんですよ。官僚の側から見ると、小沢さんはゲームのルールがわかっている。何かあっても彼に直接敵対しなければ、能力本位で人を活用する。

経世会のプラグマティズム

—でも、かつて小沢氏周辺にいた政治家は野中広務、船田元など枚挙に暇がないほど離れて行くか、切られたりしていますね。
佐藤 離れていった人はどこかの時点で反小沢の明示的な行動を取った人なんです。平野さんのように敵対行為を一度もしたことがない人は最後まで残っている。小沢さんの場合、人間関係を大事にするが人間関係の見直しはないんです。自分に敵対したり、自分の勢力圏に侵入したりするのを一度でもやった者は許さない。だから小沢さんのゲームのルールは非常に厳しいけれどわかりやすい。

「ごく普通の経世会的な政治家」という小沢評を聞きながら、私は田原総一朗の『日本の政治 田中角栄・角栄以後』(講談社・〇二年刊)の一節をふと思い出した。それによると、七二年の田中内閣の成立は日本の権力構造に革命的な変化をもたらした。

 戦後の吉田茂以来の歴代首相は、二ヵ月間だけその座にあった石橋湛山を除いて、すべて東大、京大を卒業し、高級官僚を経て政治家となったエリートばかりだった。官界や財界も旧帝国大学出身者が仕切っていたから、彼らはその学閥によって政官財界の頂点に君臨した。帝大出身の政治家を帝大出身の官僚が支え、経団連に集う帝大出身の財界人たちが政治資金を供給する。それが従来の五五年体制だった。

 ところが、この体制は牛馬商の息子で高等小学校卒の田中による政権奪取でひっくり返った。田中は首相を辞めた後も、最大派閥の力で政界に君臨した。田中引退後も竹下、金丸、小沢から梶山静六、野中広務に至るまで、旧帝大とは無縁の旧田中派の政治家たちが政治の主導権を握り続けた。

 しかも彼らは、小沢ら二世議員を除けば、みな地方出身のたたき上げである。極端な言い方をすれば、田中政権以来、日本の政治は平等志向を内包した非エスタブリッシュメント出身者による「土着的社会主義」の色合いを持つようになった。マスコミが強調する経世会の金権体質はその一側面にすぎない。
 
—経世会思想の本質は何なのでしょう。
佐藤 徹底したプラグマティズム(実用主義・道具主義)。現実に役に立って、結果を出すものが正しいという思想ですね。正しいものは必ず勝つ。しかし、今までのプラグマティストというのは、(足し算やかけ算の)四則演算しかできないんです。ところが小沢さんは(もっと高度な)偏微分ができて権力の文法が分かっている。だから一見不規則なことが生じてきても、それを文法に則して再整理できる力がある。つまり時代の変化に対応する能力がある。往々にして経世会の政治家にはそれがない。だから途中で沈んでいくわけです。私は鈴木宗男さんを横で見てきたからわかるけど、小沢・鈴木の二人は非常によく似ていますね。

—時代の匂いに敏感という点で?
佐藤 この先どう変化するかという見通しがきいて、その変化に合わせて身を処すことができる。おそらく現役の政治家ではこの二人しかいないと思うけれど、二人には内閣官房副長官と、自民党の総務局長の両方をやったという共通点がある。官房副長官というのは、政治の表の世界で、比較的若い世代の政治家の位置から全体像が見える。官房機密費[注6]を含めて、表の裏世界もわかる。それに対して、自民党の総務局長は、選挙区調整と自民党の裏金まき、あるいは公明党対策をやる。これはほんとうの裏世界です。その二つをやった経験がある、類い希な政治家なんですよ、あの二人は。

[注6]
内閣官房機密費として、官房長官の判断で支出される。その使途については、国政運営上の機密を守るという理由から公表の必要がない。機密費の存在自体は公のものだが、使途が不明なことから「表の裏金」的性質を持つ
 
—つまり政治の表の裏と裏の裏を……。
佐藤 その両方を見てる。じゃ二人がどうしてその役に就けたかというと、さっき言ったように、時代の変化に対応して身をかわすことができる、類い希なプラグマティストだからですよ。そしてものすごく醒めていて、権力闘争に非常に敏感だからです。食うか食われるかしかない世界では食う側に回らなくても、食われないためには権力を持たないといけない。政治は怖くないといけないということを良くわかってる人たちなんです。

 ただし、その表面だけ見ると、単なるマキャベリズムのようなんだけど、そうじゃなくて、彼らのプラグマティズムには天がある(魚住注・『天』とはキリスト教における神、あるいはその人間の行動を規制する、超越的な原理を指している)。思想がある。だから何か自分では言葉にはできないけど、正しいものをつかむ力がある。その力の源泉を突き詰めていくと、鈴木宗男にせよ、小沢一郎にせよ、共同体の生き残り(を目指すこと)なんです。

アソシエーション
—その共同体とは、彼らの郷里・地盤である北海道や岩手県のレベルの話ですか、それとも日本国という意味も含めてですか。
佐藤 国家という意味も含めてです。彼らの観念の中にある国家というのは、我々が日常的に使っている社会という言葉に近い。それは民族共同体よりも、もう少し乾いていて、排外主義的な要素があまりない。小沢さんは在日外国人の地方参政権に対し抵抗感がないでしょう。(小沢にとっては)日本人の血が問題なのではなくて、日本の国のために一生懸命やるのが日本人です。もっと言えば、小沢さんの発想の根底にある共同体はアソシエーション(自覚的共同体)。結社みたいなものです。だから日本を巨大な結社と見ると、それは自己責任論とは、比較的合わさるんです。何もやらないのに、共同体にいるからといって、タダ乗りはダメだよ、少なくとも一生懸命やらないといけませんよ、という発想になる。

 プロテスタントで神学者である佐藤の言葉は、私のように宗教とは無縁の世界に生きている者にはなかなか分かりづらい。佐藤の考え方にはキリスト教の神のように、人知を超える超越的な存在を自明のものとする前提があるが、私にはそれがないからだ。ただ、こういうふうに理解したらどうだろう。我々はふだん行動するとき、その場その場で無原則に、あるいは単に快か不快か、得か損かといった感情や打算、習慣に動かされているように思っている。

だが、もう少し踏み込んで自らの言動の背後にあるものを探ると、そこに見えざる至上原理や思想が潜んでいる。

 私の場合、行動の原理となっているのは家族である。家族という共同体の生き残りのために何をなすべきかという判断が私のすべての行動を規制している。佐藤によれば、小沢や鈴木の政治行動は、もっと広い範囲の自覚的な共同体の生き残りのために何をなすべきかという目的意識に貫かれている。しかもその共同体の統合原理は血縁でも民族でも、後で触れるが、天皇制でもないらしい。

佐藤 その共同体の生き残りという超越的なもの、至上命題を持っているが故に、政治資金はたくさん集めても、小沢さんにしても鈴木さんにしても、自己の生活は非常に禁欲的です。浪費の傾向がない。私も二人をそれぞれモスクワでアテンドした時思ったんだけど、鈴木さんと小沢さんに共通するのは、レジャーという発想がないこと。二四時間仕事、寝る時間以外は仕事している。それ故に鈴木、小沢の側に来る、例えば東大法学部卒のエリート官僚たちは、彼らの引力圏にすぐ吸い込まれてしまう。こういう人が世の中にいるのか、自分たちの周辺で見たことがないと。

 それから、彼らは政党に対する態度も、ものすごいプラグマティックですね。党は国家が生き残るために使えばいい。党のために殉じるっていう発想がない。特に小沢さんは自民党に対する愛着も、自分が作った新進党に対する愛着も、そしてそれを純化して作った自由党に対する愛着も、何もない。

 〇〇年に小渕首相と小沢さんとの会談を最後に自由党が与党から離脱し、小渕さんが脳梗塞で倒れた[注7]。そのきっかけになったのも自民党の看板を下ろせ、下ろさないの話だったでしょう。小渕さんには自民党へのこだわりがあったけど、小沢さんにはそれがまるでない。

[注7]
一九九九年一月に連立参加。同年一〇月に公明党が加わり自自公政権が誕生すると、自由党の主張が連立内で通りにくくなり、二〇〇〇年四月一日に連立から離脱。自由党は分裂し、連立残留組は保守党を結成した。小渕首相は自由党の連立離脱の翌日に脳梗塞で緊急入院し、翌月亡くなった
 
—『改造計画』を読むと、二大政党制を実現するための選挙制度改革や官僚答弁禁止による国会活性化、内閣・与党の一体化などシステム変革への異様な執念を感じます。でもその変革の原動力となる理念や情念といった中身が見えてこない。二大政党制にはこだわるが、その政党間の理念、中身の差異にはもともと関心がないのではないでしょうか。

天皇と東大
佐藤 私は、それはちょっと違う視点から見ているんです。立花隆さんの『天皇と東大』(文藝春秋・〇五年刊。天皇と東大という二つの視点から日本の近現代思想史を描いた)を合わせて読むと良くわかると思うんですが、立花さんの発想は根本においては官僚支持なんですよ。日本の政治はどうしようもないから、これは天皇の官吏群によって維持しないといけない。そこが日本を守っていく一つのポイントなんだと。だから立花さんの関心が教養に向かったのは、官僚やそれを支える東大生の能力低下を何とかしないといけないと思ったからです。国家を維持するのは官僚である。国民を代表するのは、能力のあるエリートたちであるという発想です。

 それに対して小沢さんの発想は官僚なんて信じない。二大政党制という形にして、政治家に下手を打つと野党に権力を持って行かれるという緊張感を持たせる。与野党が切磋琢磨して、政治家の基礎体力を強化する。そうすることによって、事実上、戦前の天皇の官吏と同じように現在も国家権力を簒奪している官僚群から権力を取り戻す。その意味では小泉さんがスローガンだけ掲げた反官僚という権力闘争を、小沢さんは実体的にやってるんだと思うんです。
 
—その説明は腹にすとんと落ちますね。
佐藤 だから彼の原点は、自民党幹事長時代に遭遇した湾岸戦争で自衛隊を海外派兵しようとした時に、内閣法制局長官の答弁で待ったをかけられた[注8]ということですよ。

[注8]
一九九〇年一〇月一九日の衆院予算委員会で、工藤敦夫・内閣法制局長官が「国連軍ができた場合、自衛隊は参加できるのか」という質問に対して、「任務が我が国を防衛するものとは言えない国連軍に、自衛隊を参加させることは憲法上問題が残る」と答弁している

 戦前と同じように官僚たちがデケエ面をしている。検察もそうだ。検事長以上が親任官であることに、検察官達があれだけ重きを置くのは、最終的には天皇の官吏であるとの意識があるからです。小沢さんの権力闘争はそれに対する戦いですよ。彼が制度をいじる時のいじり方は、常に官僚の力が弱まる方向になっている。反官僚なんです。その点では小沢一郎というのはデモクラシーの子なんです。彼が今後一番ぶつかるのは天皇ですよ。

—それは私も、小沢氏や彼の「知恵袋」である平野氏の著書を読んで感じました。東北人である小沢氏は、自己のアイデンティティを天皇家の支配が始まる前の縄文時代の日本人に求めていて、自分を「原日本人」とか「縄文人」とか言っています。これは過去の保守政治家や右翼が天皇家とのつながりにアイデンティティを求める発想とかなり違う。

佐藤 今までは、ある意味では日本全体が総官僚だったわけですよ。自民党は投票によって選ばれる官僚。公務員は試験によって選ばれる官僚と、その二種類の官僚が棲み分けて権力を持っていた。これじゃ日本国家が生き残れない、日本社会は生き残れない、小沢さんはそういう感覚なんでしょうね。
 
—その感覚が生じる契機になったのが、冷戦構造の崩壊だったのでしょうか?
佐藤 冷戦構造の崩壊後、日本国家はどうやって生き残っていくか。冷戦構造の下では日米安保条約が日本の国体になった。国体を護持するために日米安保条約を護持する。そして日米安保を護持する官僚達が権力を持っていた。この体制を変えないといけないということでしょう。
 
—安保と象徴天皇が国家統合の原理になり、それを官僚が支えてきたという意味ですね。小沢氏の発想の根底にあるのは反・日米安保体制なんですか。
佐藤 反・日米安保ではなく、日米安保体制、日米同盟の見直しですね。だから「第七艦隊だけで十分日本の安全保障は担保できる」なんていう彼の発言[注9]は案外本音だと思う。米国とはプラグマティックに役に立つ範囲でお付き合いするが、その先は知りませんと。

[注9]
二〇〇九年二月、在日米軍の再編問題についての発言。「今の時代、前線に部隊を置いておく意味が米国にもない。軍事戦略的に言うと(米海軍)第七艦隊がいるから、それで米国の極東におけるプレゼンスは十分」として、海軍以外の在日米軍は不要とする趣旨で受け止められた。

積極的平和主義
 
—日米安保の見直しも含め、小沢氏の反官僚的姿勢はなぜ生まれたんですか。
佐藤 経験則だと思う。彼は田中角栄や金丸信のケースを見て、官僚が政治家たちをどういうふうに使うか横で見ていた。そして政治家を切り捨てる時にどういうふうに切り捨てるか、政治家は結局官僚によって使われてるんだということをずっと見てきた。
 
—そうか、田中はロッキード事件で、金丸は脱税で官僚から切り捨てられた。
佐藤 そう。ロッキード事件までに田中をさんざんヤバイことで使っておいて、事件が起きた時には全員手のひらを

返した。金丸についても同じです。小沢さんは検察というのは霞が関の官僚群を凝縮したものであるという正しい認識をしているんですよ。だから彼は、検察だけを潰すことはしない。検察だけを潰せないこと もわかってる。霞が関の全体構造を崩す結果として検察が崩れる。

もう一つのポイントは内閣法制局です。彼は宣戦布告をちゃんとしているんです。不意打ちはしない。法制局をや

るぞと。法制局がやられるのは司法全体が揺るがされるってことなんですよ。

—我々はふだん法制局と最高裁を別物だと考えているけれど、そうではなく、法制局と最高裁の憲法解釈は連動

していて、司法の要になっているという意味ですね。それにしても「憲法の番人」である法制局長官の答弁を禁止するのは、いくらなんでも乱暴すぎると思いましたけど、佐藤さんは?
佐藤 私は非常に結構なことだと思う。これによって憲法改正が遠のいたからです。
 
—法制局を排除すると海外派兵のため憲法改正をする必要がなくなり、全部解釈改憲で済ませられるからということですか?
佐藤 そう。全部、解釈改憲でいく。ただし解釈改憲だと限界があるんです。これで勇ましい憲法ができない。象徴天皇も崩れない。集団的自衛権を解禁すれば日本のやりたいことは全部できるから九条を変える必要もない。
 
—では、その関連で、彼が一貫して唱えている国連中心主義の内実は何なんですか。
佐藤 小沢さんの言う国連とは、東西冷戦構造が終わった後の列強による権力の分配機関としての国連なんです。小沢さんの発想は元外交官で日本国際フォーラムの主宰者・伊藤憲一さんが言ってる積極的平和主義と同じですよ。どういう内容かというと、いま世界で違法行為を犯すのは、国際テロリストと、それを支持する ならず者国家、それから国家として体を成していない破産国家。この三つだけなんです。この連中に対しては国連のアンブレラで警察活動を行う。これは軍隊を使っていても警察活動だから戦争ではない。ならず者を放置しておいていいという話にはならないから国際法上の、交戦国の捕虜の地位を与える必要はないんです。そうい うならず者に対してアメリカが行う、国連のアンブレラの下での制裁措置に、積極的に加わっていくことを積極的平和主義と定義しているんです。

これからの平和主義は自衛隊を動かすことで実現される。これが積極的平和主義だ。悪事には関わらないという消極的平和主義の時代は終わった。戦争はこの世の中からなくなった。あるのは国連による警察活動だけという考えです。小沢さんの考えもこれです。

帝国主義
 
—ふーん。その本音は何なんですか。
佐藤 日本は列強だ。列強だから、この中に加わって、うまそうな利権の切り身をちゃんと日本も取るということですよ。だから湾岸戦争だって自衛隊が出動しておかなければ石油利権に手を付けられないじゃないか。つまり(小沢氏の発想は)帝国主義者そのものです。(米国の一極支配が終わり)もう時代は帝国主義にな っているんですから、日本にはどういう帝国主義かという選択しかありません。麻生(太郎)前首相がやろうとしたような頭の少し足りない帝国主義か、鳩山(由紀夫)首相がやるような、勢力均衡論に基づいた数学的発想の、乾いた帝国主義か。その選択でしょ。小沢さんはその帝国主義を支えるドクトリンを『改造計画』のころ から持っているわけです。かつてソ連が国際連盟を資本家達の合議組織・調整組織と呼んだ。その後の国際連合はまさに社会主義体制がなくなることによって、帝国主義のセンターとしての国際連合になるんです。小沢さんのはそういう国連中心主義です。
 
 佐藤は小沢に限らず、誰が指導者になっても日本が他国を食い荒らす帝国主義化は避けられないという冷徹な認識をしている。資本が高度に蓄積・集中化されると、余剰資本は新たな市場や投資先を求めて他国に向かう。その援軍としての海外派兵は歴史的必然というわけだ。ただし佐藤はそれを是認しているわけではない 。事態をきちんと理解し、そのうえで現実に影響を与える抵抗運動の必要性を佐藤は誰よりも強く感じている。
 
佐藤 だから国連に金もたくさん拠出してるから安保理の常任理事国になって、国連のアンブレラの下で積極的に海外派兵を行って帝国主義国としての正しい分け前を取る。これは、やっぱり小沢、鳩山さんの発想ですよね。
 
—その分け前とは石油利権であり、レアメタルであり、穀物であり……。
佐藤 はい。我が日本国家と日本民族が生き残るために、生存権を確保するために必要なものを取るということです。
 
—資本を海外に投下し、工場をつくったりして現地住民から搾取もする。
佐藤 そうそう。それで雇用が生じるわけだから、現地の住民は幸せなんだという考え方です。
 
—しかし、小沢さんご本人はそういうことを明確に意識して言っているんですか。
佐藤 わからないでやってるんです。
 
—えーっ(笑)。
佐藤 わからないで、フワーッとしてやってるわけです。それを理論化するのが我々のような周辺にいる人間の仕事でね。「先生がやっておられるのは、こういうことですね」「大体そんなところだろう」と。資本の蓄積を十分に遂げた、

強い国家が普通の頭で生き残りを考えると、本能的に自分の分け前を増やす行動をとる ものなのです。それが(『改造計画』の)普通の国ということです。だから普通の国になれというのは帝国主義国になれってことなんです。第二次世界大戦後のアメリカの対日占領政策の目的は、日本を再び帝国主義国として立ち上がらせないということでしたね。今後、日本が露骨な帝国主義的行動をとると、当然それとは抵触す るんです。
 
—小沢氏らの無意識がそうさせている?
佐藤 無意識です。ただ小沢さんの優れた才能はプラグマティストであること。プラグマティストが勝利する要因は、

国民の中にある集合的無意識を抽出する能力なんですよ。

たしかに小沢は自由党末期の〇三年ごろから小泉構造改革路線の行き着く先や、格差拡大・地方切り捨てに

よって国民の間にひろがっていた不安や危機感を察知し、その対応策を考えている。山口が指摘したように〇五年に民主党代表となった前原が「自民党と改革競争をする」と口走っていたのとは、政治センスにおいて雲泥の差がある。
  
資本主義の宿痾
 
—ただ、〇七年一一月に読売グループの渡邉恒雄会長らが裏で画策した大連立騒動がありましたね。あの時は

言ってみれば、いつでも海外派兵できる安全保障の恒久法を作るのが狙いだったと思うんですが、その恒久法をち

らつかされたとたん小沢さんはパクッと食いつき、党内の反対を受けて取りやめたという経緯があった。手練れの小沢氏にしては理解不能な行動だという感じがするのですが。

佐藤 あの当時は焦りがあったと思いますよ。自民党の権力はそう簡単に崩れないだろうし、民主党が権力を取るには党内左派のみならず社民党にも依存しないといけない。つまり自分がやりたい、根本的な安全保障政策はできなくなるのではないかという焦りですね。だから、私は今後の小沢さんの戦略としては来年の参院選でガチッと勝つ。そうなれば小沢総裁の目も出てきますからね。

 その時に安全保障政策で党内左派や社民党が協力しなくてもいい。ただ左派も社民党も与党から出ていかないから日干しにするんです。それで自民党の方から流れ込んだ連中を含めた形で、この『改造計画』で言っている流れで帝国主義国としての再編をしていくというところかなと、僕は見てるんですよ。

だから彼の軸は冷戦後の帝国主義国家としての日本、列強の一つとしての日本というところでは全くブレてない。それは小沢さん個人がやっているんじゃなく、日本という国家が主語になっている。資本主義体制下でこれだけの経済力があって、なおかつこれだけの人口がある国家は帝国主義的再編をしないと生き残っていくことはできないという国家意識なんです。
 
—それは小沢さん一人が考えていることではなくて、外務省もそうであり……。
佐藤 要するに平均的な官僚、平均的な政治エリートが考えていることです。私が官僚だった時期に自らを置い

てみると、小沢さんの論理が良くわかるのです。あるいは私がいま政治家だったら、外交でどうやれと言われたら、確実に小沢さんのようにする。所与の条件で安全保障の文法だったら、当面それしかない。マルクス経済学の立場からしても資本主義は必然的に帝国主義になる。それ以外のオプションはない。人が金によって支配されるという資本主義のメカニズムの枠から抜けることはできない。でも、十把一絡げで帝国主義だからダメなんだ、資本主義

だから全部ダメなんだという形では括れない。やはり、よりましな帝国主義、よりましな 資本主義はある。だから我々は(他国に)どれぐらいの害悪を与えて、悪事を行う力があるのかということの認識をしていた方が、その悪事を極小化することには役に立つと思う。

我々は資本主義の宿痾から逃れられない。帝国主義国である日本は他国を踏み台にしないと生きていくことはできない。

 そういう構造の中に組み込まれていると認識することと、それを是認するということはちょっと違うんですよね。ただし中長期的なレンジでは、おそらく帝国主義を超えられる何らかのものがあると思う。問題は、小沢さんがそれを持っているかどうかですね。
 
—その通りですね。
佐藤 現時点で小沢さんが帝国主義を超える理念を持っているかどうかはわからない。ただプラグマティズムは、さっき言ったように現実の政争のマキャベリズムを超える何かがある。彼の原体験というか、根底にあるものは何か。

それはあれではない、これでもないという、否定神学的な言い方しかできないけど、それでも 残る超越的なものは何か。それを分かりやすく言うと、共同体の「生き残り」だと思うんですね。

—日本は九条の制限があるから湾岸戦争では巨費を投じた。アフガン戦争では海上無料ガソリンスタンドを作った。そういう選択肢はこれからの国際社会ではあり得ない?

佐藤 日本の規模になっちゃうと、あり得ない。どっかで血を流さないとダメ。少なくとも血を流す覚悟を示さないと。

帝国主義戦争の中で、うちはお金だけ出しますから、みんなは鉄砲玉を送ってください。この理屈は、非常に通りにくい。ただし、それはあくまで国家の論理なんです。社会の側、国民の側として付き合う必要はない。ただ付き合う必要はないけれども、最終的には、それで押し切られるわけなんですよね。阻止できない。ただその時に付き合う必要はないという形で、どういう論理を構築して、大衆運動を組み立てるかでコミットメントの度合いは変わる。 



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