2006年6月13日火曜日

【北朝鮮】 北朝鮮とゼネコン 

「帝国の遺産」~日本のゼネコンと北朝鮮を結ぶもの
正論2006年6月号寄稿記事の初稿
(Vladimir)


 ゼネコン(総合建設業者)をめぐる報道がかまびすしい。防衛施設庁主導の官製ゼネコン談合をめぐる東京地検特捜部の捜査が進む中、前技術審議官・生沢守容疑者が逮捕された。また全国の防衛施設局で官製談合が行われていた可能性があるとして、特捜部は捜査範囲を拡大するとともに、ゼネコン側も刑事処分する方針を固めている。

 ゼネコンといえば談合、利権という文脈で語られがちだが、北朝鮮との関係でも同様である。

「北朝鮮ゼネコン利権」をわれわれに決定的に印象づけたのは、第2回日朝実務者協議が開かれた直後である一昨年(04年)10月21日、産経新聞が報じたニュースだった。
ゼネコン大手の大成建設など十社が、インフラ(社会基盤)視察などのため訪朝を計画していた、というのである。同紙は訪朝団が19日に出国したものの、北朝鮮に対する国内世論の硬化などを理由にほとんどの企業が急遽、計画を中止し、一部の企業だけが平壌入りした可能性を報じた。

 このとき実際に訪朝を計画していたのは大林組、鴻池組、五洋建設、清水建設、大成建設、東亜建設工業、西松建設、間組、フジタ、前田建設工業の十社。このうち鴻池組、東亜建設工業、西松建設の三社が訪朝を強行していた。

 この訪朝計画は、実際には朝鮮総聯の「招待」によるものであったことも後に報じられたのは記憶に新しい。

 世論は一斉に「日朝国交回復後の利権漁り」とゼネコンを非難した。
「売国奴」と非難する声さえあった。
北朝鮮側が横田めぐみさんの死亡時期を訂正し、さらに入院先の病院のカルテ問題が取りざたされていた時期である。
拉致問題の未解決や核の脅威を尻目に利権漁りを計画するとは、目先の利益しか考えない売国的行為、というわけである。


●「利権」という幻影を補強する「後継者問題」
 日本のゼネコンが朝鮮総聯を介して北朝鮮に招待された……。ゼネコンがこれに応じるのは、多くの日本人が非難するように「ニンジンの如く目先にぶら下げられた利権を目当てに」してのことなのだろうか。

 金丸訪朝団に囁かれた「川砂」は、確かに利権といえた。だが今日に至ってもなお、北朝鮮には日本のゼネコンが得られる利権がふんだんにある、という見解を元にした意見には、正直言って疑問を抱かざるを得ない。

 利権とは「業者が政治家や役人らと結びつき、公的機関の財政・経済活動に便乗して手に入れる、巨額の利益を伴う権利」(大辞林第二版)を意味する。

 ゼネコンが目的とするものが、ODAをつうじた北朝鮮における巨額の利益活動であることに異論はない。北にODAを投じても「受け皿」となる企業など存在しない。

当然、ODA資金を受けて北朝鮮で活動するのは日本企業となる。つまり日本政府による北朝鮮支援とは、日本政府発注の公共事業に等しいとはいえないまでも、同様の性格をもつ。ゼネコンが得る利潤とは、日本国民の血税から捻出されることは言うまでもない。

 だがそれは、果たして「利権」と呼ぶにしかるべき、継続的な権利なのだろうか。日朝間で国交が回復し、それを契機として日本のゼネコンが北朝鮮で活動し利益を得るとしても、それが継続的な経済活動を保証する「権利」であるとは限らない。どちらかといえば一発仕事に近いものであり、権利という言葉が自然と含む「継続性」は、むしろ希薄とさえ筆者は思う。

 北朝鮮の現状について「崩壊間近だ」とする予測は後を絶たない。経済改革以降、中国資本の介入等によって多少は持ち直しの傾向を認める向きはあるにせよ、そもそも「崩壊の可能性」をめぐって年がら年中、あれこれ取りざたされる国なのである。北朝鮮の政策そのものも、金正日の意向ひとつで豹変する可能性を常に有している。

 崩壊か暴走か。そんな国を相手に「向こう10年、20年の権利」などを期待することが果たして現実的なのか。

 北が自らの「危なっかしさ」を幾ばくかでも払拭し、「ほら、わが国には利権がありますよ。国交を結ぶ価値も、資本を投資する価値もありますよ」と演出するには、なにより北朝鮮の現体制が今後も継続されていく、という幻影を作り出さねばならない。そのためのツールとしてここ数年多用されているのが、「三代目は金正哲か正雲か、はたまた金正男か」という、後継者問題だ。

 この後継者問題の噂には、つねにつきまとうおかしな期待がある。つまり「三代目となるのは開明的な人物だろう」という、わけのわからない予測である。正哲がスイス・ベルン留学時代に記した文集に残された「平和を祈念する言葉」や、金正男がグローバルな視野を持つ国際派、という報道がこの期待を後押しする。北朝鮮内部から持ち出された機密文書と称する、作者不明の怪しげな紙が一枚登場しては、「後継者は正哲に決定」などと国際社会に「情報漏洩」する。

 本国は何一つ公式に発表しないまま、世界中のメディアがつねに後継者問題に関心をむけるようにすること……これはまぎれもなく北朝鮮の情報工作であろうと筆者は思うのだが、日本のマスメディアは知ってか知らずか、この問題を大きく取り上げては「北朝鮮の現体制は継続し、開放政策はより進むであろう」と印象づけるのに一役買っている。

 早い話、「後継者問題」を報じ論じることそのものが、利敵行為なのである。


●利権漁りなら、もう遅すぎる?

 北朝鮮の地には、当然ながら「利権の温床」はある。
 たとえば地下資源。04年9月、サンデーテレグラフ紙は衝撃的なニュースを報じた。

 イギリスにある小さなアイルランド系石油会社アミネックス(Aminex) 社が、北朝鮮との石油および天然ガス採掘権契約を締結した、というのである。同紙によればこの締結はすでに6月30日になされており、アミネックス社は今後20年間、北朝鮮内の石油および天然ガス採掘を技術的に支援し、新しい油井の産出物に対して使用権収入を得ることで北朝鮮政府と合意したという。サンデーテレグラフ紙による報道の翌日、同社の株価は急騰(前日比36%高)した。

 さらに翌05年1月、同社のブライアン・ホール最高経営者(CEO)はロイター通信へのインタビューに対し、朝鮮で採掘できる石油埋蔵量を40億~50億バレルと推定しながら、こう力説した。

「数億バレルではなく数十億バレル。北朝鮮は途方もない石油国家だ……」。

 北朝鮮の石油埋蔵量に関して発表された信頼に足る資料はない。だが一部の地質学者たちは、中国の勃海湾油井が平壌の地下にまで延びている可能性があると信じており、中国の官営メディアは勃海湾に660億バレルの石油が埋蔵されているかもしれない、と報道した経緯もある。また、ある親北朝鮮ニュース・ウェブサイトによれば、北朝鮮は最高100億トン(730億バレル)の高品質石油が埋蔵されている、と主張している。

 また、最軽量金属であるマグネシウムも北朝鮮には豊富に存在する。70年代までは、世界のマグネサイト埋蔵量の大半は朝鮮半島北部に集中して確認されていた。その膨大なマグネシウム資源は、終戦を境にいまもなお、ほとんど手つかずのまま残されている。

 日本統治時代、朝鮮半島には六つのマグネシウム工場が稼働していた(日窒マグネシウム興南工場、朝鮮軽金属鎮南浦工場、三菱マグネシウム工業鎮南浦工場、朝鮮神鋼新義州工場、朝日軽金属岐陽工場、三井油脂工業三陟工場)。このうち三井の三陟工場を除く五つの工場は、現在の北朝鮮地域に存在していた。だがこれら日本企業は現在、北朝鮮のマグネシウムに手を出すことができずにいる。
 だが、かわりに登場しつつあるのがドイツだ。一昨年8月、ドイツ自由民主党に属するシンクタンク、フリードリヒ・ナウマン財団が北朝鮮外務省と欧州委員会(EU執行機関)と共同で、平壌にて5日間に渡り大規模なワークショップを開催。ドイツが誇るべき、事実上唯一の産業である自動車産業が、軽量化による低燃費を目指し北朝鮮のマグネシウム利権を掌中にすべく、平壌政府に積極的なアプローチを行っている節がある。

 北に接近するのはドイツばかりではない。欧州の北朝鮮への急速な接近は2000年以降に顕著となった。まず同年1月には、先進7カ国(G7)の中で初めてイタリアが国交を結んだ。そして9月に、北朝鮮がそれまで国交のないEU九カ国と欧州委員会に国交樹立を呼びかける書簡を出すと、一ヶ月後にはイギリスが、そして翌01年には2月にスペイン、3月にドイツが北朝鮮と国交を樹立している。04年にはアイルランドが北と国交を正常化。現在ではフランス以外の欧州連合(EU)の加盟国すべてが北朝鮮と国交を結び、さまざまな経済活動の拠点を平壌に据えつつある。

 北を「悪の枢軸」「チンピラ国家」と非難するアメリカでさえ、核兵器開発放棄のみを交換条件として北との国交樹立を打診していたのだ。02年10月にアメリカが提示した包括支援案には、国交樹立、火力発電所の建設、経済制裁の解除、アジア開発銀行への加盟支援など、国家建設から国際社会への復帰までが提案されている。


●北がゼネコンに期待するのは、日本にしかできない「補修事業」
 北の地にある「利権の温床」は、日本のみならず他国にとっても同様に魅力的であることはいうまでもない。そして「利権漁り」であれば、国交のない「ならず者国家」に対し、海を渡り非公式に打診しつつ虎視眈々と狙う日本より、地政学的には中国、民族的同一性の点からは韓国の方がはるかに有利なポジションにいる。両国とも、猛然と行動を進めている。また先述の通りヨーロッパ諸国も、すでに北の地に触手を伸ばしはじめて久しい。北朝鮮を「利権漁りの場」とするには、日本は出遅れすぎている。

 だが、北は朝鮮総聯を介して日本のゼネコンを招待した。それは日本にしか頼めない事業があるから、にほかならない。

 日本の建設業者が戦前、朝鮮半島北部に造ったものを見れば、北朝鮮と現在のゼネコンとを結ぶ深いつながりが時空を超えて浮上する。

 日本が朝鮮半島北部に遺してきた「帝国の遺産」である。ダム、発電所、東洋一の化学コンビナート……これら「遺産」は現在もそのほとんどが北朝鮮で稼働しているのだが、問題は、補修がまったくと言っていいほどなされていないことにある。

 コンクリート構造一つをとっても、構造耐久年数をとうに過ぎている。ダムに及んでは、堆積土砂の排出がまったく行われていないのだ。

 本文を記すにあたり、筆者は戦前の日本が朝鮮半島に造り上げてきた建造物の一つ一つを調べてみた。建設工法の画期的な実験、技術者たちの情熱と夢……。戦前の朝鮮には、いうなればNHKが報じない、もう一つの「プロジェクトX」となるべきエピソードが豊富にあった。大日本帝国が北の地に作り上げて遺してきたものは、われわれ日本人の本質が今も昔も「ものづくり」にあることを、まざまざと見せてくれる。と同時に、昨今の耐震設計偽装問題に見られるような、匠の精神を軽視する風潮、あるいは喪失しつつある現状に、日本人の正体性(アイデンティティ)の根幹が揺らいでいることを、大きな嘆息とともに感じざるを得ない。

 紙幅の都合上「帝国の遺産」のすべてを紹介することはできないが、以下に代表的な発電所工事を紹介しつつ、現在の日本とのつながりを見てみたい。

 筆者個人の考えを申し上げれば、日本のゼネコンが北朝鮮の地で利益活動を行うことには危機感を覚える。だがそれは「利権漁りはけしからん」という次元のものではない。最も大きな懸念は、「帝国の遺産」がいま何に使われているのか、ゼネコン側はきちんと把握しているのだろうか、という問題だ。


●赴戦江発電所~電力を欲した男と、電力を産み出そうとした男たちの邂逅

 地図を睨みながら、計算に熱中する二人の男がいた。手元に広げられていたのは、陸軍省陸地測量部が出版した、5万分の1の朝鮮全土地図。彼らはそれをつぶさに眺めては山岳と平地の高低差を計算し、日本本土では考えられないほどの大水力地帯がいくつもあることに気づいた。

 山岳地帯が多い朝鮮北部には急流が多かった。その代わり耕作には不向きで、火田民……定住せずに山林を焼き払い自給自足に近い生活を送る一種の焼き畑農業が、古来よりこの地の伝統だった。朝鮮半島北部とは、一言でいえば不毛の地であった。

 二人が目を付けたのは咸鏡南道の赴戦高原の一帯だった。赴戦高原は標高約1500メートルの赴戦嶺を境に南側へと、ほとんど絶壁のように急降下している。その先には平地の新興郡が続き、やがて日本海へ達していた。

 いっぽう北側には朝鮮の屋根といわれる蓋馬高原が拡がっており、鴨緑江の支流の一つである赴戦江がこの高原から赴戦高原へと流れ込んでいた。ならば、もし赴戦高原に貯水池を造り、その水を赴戦嶺へ誘導し南側に落としてやればどうなるか。水は一気に赴戦嶺南側の低地に、その膨大な位置エネルギーを間断なく叩きつけることになる。

「このエネルギーをうまく利用すれば、すごい発電所ができるかもしれない……」。水力ダムを利用した高落差発電、というアイディアに、彼らは夢中になった。ひとりは50をとうに過ぎ、もう一人は30代半ばだったが、ちょうど国造りをテーマにした現代のコンピューターゲームに興じるかのように、二人は寝食を忘れて具体的な設計に熱中した。

 年上の男、森田一雄は勤め先の早川電力を退職したばかり。朝鮮にでも行ってみたら、と知人に勧められた彼は根っからの技術者だった。どうせいくなら水力地点でも調べてみようと、土木コンサルタント事務所を開いてまもない久保田豊に相談したのである。

 のちに久保田は長津江、虚川江、後述する水豊ダムなど発電所のすべてを手がけ、戦後は日本有数の建設コンサルタント企業である日本工営(株)を設立し、同社会長として没することとなるのだが、このときはまだ若く優秀な土木技術者であった。

 北朝鮮開発の嚆矢であり、東洋一の化学コンビナートを支える「電源」となった赴戦江発電所は、北の山岳地帯に夢をはせた二人の男の、いわばプライベート・プランとして始まったのである。

 机上の計算を確認すべく森田は朝鮮の地を訪れ、理想的な堰堤の位置を定めた。そして帰国後すぐに朝鮮行きを勧めた知人、副島道正とともに「朝鮮水力会社」の原案を作成。総督府から許可を得た。
 だが、もともとがプライベートな計画だったのだ。資金のあてがあったわけでもない。膨大な電力を必要とするどこかの会社が、このプランのスポンサーになってくれないだろうか……。森田と久保田の脳裏には、ある人物の名がひらめいた。森田の東京帝大時代の同級生で、日本窒素肥料(日窒)を経営する野口遵(したがう)だった。

 野口は自分が買った「特許」を持てあましていた……。第一次大戦後の特需景気が日窒に莫大な利益をもたらした、そんな頃である。ヨーロッパへの旅にでた野口は、ふとしたことからイタリアのテルニーで、ある化学者と出逢った。カザレー博士である。

 博士が実験していたのは「空中窒素固定法」というアンモニア合成の、工業化の方法だった。野口は当時で100万円の巨費を投じて、カザレー式アンモニア合成法の特許および施設権一切と機械類を買った。日窒が生産する、硫安の製造コストを半分に抑えるためだった。

 この特許を元に日窒は延岡と水俣に合成工場を設立。だが難点があった。電力不足である。化学工業はとてつもない電力を消費するのだ。せっかく巨費を投じて買った特許を生かし、海外の廉価な硫安に対抗するためには、あと最低でも10万KWの電力が必要だった……。


●興南肥料連合企業所の「正体」は殺人ガス兵器工場
 野口は森田・久保田の「夢物語」にすぐに賛同した。彼らの計画が実現すれば安価な大電力を朝鮮で産み出す。その電力を利用して、水俣工場の十倍規模の、国内では想像もできない大規模な化学コンビナートを造ることができる。

 こうして大正15年1月、日窒100%出資で朝鮮水力会社が誕生し、昭和4年には晴れて「赴戦江発電所」が完工した。

 着工から2年後の昭和2年、野口は咸鏡南道に「朝鮮窒素肥料」を設立、日本海岸側の興南に大規模な重化学コンビナートを建設した。日本のTVA(テネシー渓谷開発公社)と呼ぶべき、この「赴戦江発電所」プラス「朝鮮窒素肥料興南工場」は大成功を収めたのである。三菱系の肥料会社似すぎなかった日窒は、新興財閥「日窒コンツェルン」へと成長した。

 当時、世界情勢はブロック経済の流行を迎えていた。日本もまた満州、支那とともにブロックを作ろうとしていた。「日満支ブロック」の要衝として、朝鮮北部(当時は日本植民地)における野口らの成功に日本政府は直ちに注目。朝鮮北部東海岸工業地帯の建設はやがて国策として花開いた。野口らのプライベート・プランはいわば、その先鞭を付けたのである。

 日窒コンツェルンは戦後に崩壊。だがその遺産はチッソ(株)、積水ハウス(株)、旭化成工業(株)をはじめ朝鮮奨学会、野口研究所として、いまも息づいている。

 森田・久保田らの「赴戦高原に貯水池を」とのアイディアから生まれたのが、現在の北朝鮮にある、20.3平方キロメートルの人工湖「赴戦湖」である。この水を利用した「赴戦江発電所」の施工業者は間組、西松組(現・西松建設)、長門組、松本組の四社。

 昨年(05年)2月25日、北朝鮮の朝鮮中央放送は電力工業総局の金サンド副局長のインタビューを報じた。金副局長は「各地の発電所で電力生産が好調だ」と述べ、赴戦江発電所もまた生産計画を超過達成し、各地の水力発電所の総発電容量が昨年同時期より31万Kwも多かった、と伝えた。「帝国による朝鮮開発のパイオニア」だった赴戦江発電所は、現在でも稼働しているのである。

 赴戦江発電所は1955年にいちど、チェコの技術援助による機械設備補修を行っている。このときの補修では発電所全体を一箇所から制御できる遠隔制御方式が導入されてはいるものの、その後現在まで大規模的な施設保守や拡張事業が行われた形跡はない。昭和4年の完工から77年、チェコによる機械設備補修から51年を経過したこの発電所がどれほど老朽化しているのかは想像にあまりある。同発電所を設計段階から知り尽くした、日本のゼネコンでなければできない「事業」が一つ、ここにあるのだ。

 ところで戦前の赴戦江発電所が生産した電力は、すべて朝鮮窒素肥料興南工場が消費した。もともとそのために作られた発電所であり、両者は不可分と言っていいほどの関係にある。

 その朝鮮窒素肥料興南工場は現在、北朝鮮の代表的な化学肥料生産基地である「興南肥料連合企業所」として稼働している……ことになっている。だが興南肥料連合企業所が、実は「第二経済委員会第五機械工業局」の所属にあることを知れば、北朝鮮がこの「帝国の遺産」を、恐るべき目的に使用しているかがわかる。

 北朝鮮の経済は三つに大別される。「第一経済」は民間経済、「第二経済」は軍事経済、「第三経済」は金正日ロイヤルファミリーの経済である。ちなみに北朝鮮で困窮しているのは「第一経済」のみ。「第二経済」は破綻とは無縁だ……というのは、ある公安関係者の言である。朝鮮総聯幹部から直接聞いたという、北の軍事経済が破綻しない理由は至ってシンプルだ。その気にさえなれば、米ドルを無尽蔵に刷ることができるからである。

 第二経済委員会は北朝鮮で最強の影響力を有する経済組織だ。この委員会は国防関係の装備および技術計画、資金の配分、生産や供給について包括的責任を負い、また弾道ミサイル等の海外販売をも担当している。

 この委員会は第一~第七機械工業局、および第二自然科学院、対外経済総局、第二経済委員会資材商社などを擁しているのだが、興南肥料連合企業所が属する「第五機械工業局」はおもに化学兵器や生物兵器の開発・生産を指揮している。第二自然科学院咸興分院などで研究された神経麻痺性の毒ガスや生物兵器を生産するのが、この第五機械工業局の傘下工場の役割だ。これら化学兵器のうち興南肥料連合企業所が担当しているのは、おもに催涙性、窒息性の化学兵器。つまり赴戦江発電所は現在、殺人ガス兵器の一大生産工場に電力を供給しているのである。

 ちなみに「第五機械工業局」が管轄する工場は確認されているだけでも25箇所あるのだが、工場名からはその実態が想像できないものも多い。「2・8ビナロン工場日用分工場」(糜爛性、窒息性、催涙性、神経性の化学兵器生産)、「175号工場」(核開発用実験器具を生産)、「南興青年化学連合企業所」(血液毒を利用した化学兵器を生産)など……。

 日本のゼネコンは、このような事実をきちんと把握しているのだろうか。不用意に訪朝し、かつて自社が手がけた工場や発電所を補修する行為が、テロ支援行為として国際的な指弾を受ける危険性は十分にあるのだ。


●水豊発電所を連想させる「新年共同社説」
 平安北道の鴨緑江には、日本はおろか世界の土木工事史上にも燦然と輝く「帝国の遺産」がある。いまでこそ中国の三峡ダムにその座を奪われてしまったものの、水豊発電所は完成当時、世界一の堰堤であった。

 虚川江発電所建設と同時に昭和12年から着工されたこの大工事は、間組、西松組、松本組三社の施工により、わずか4年半で竣工した(朝鮮側ダムと発電所工事は間組、満州側ダムは西松組、鉄道・道路工事は間、西松、松本の三社)。

 そして野口遵は赴戦江発電所以来、長津江、虚川江、鴨緑江と次々に大電力開発を手がけ、「電力王」の名声をほしいままにした。

 水豊発電所工事は内務省の「特命」であった。当時、朝鮮半島における道路や港湾などの「内務省土木」、ダムや水利工事、土地整理などの「農商務省土木」、そして要塞や軍港などの「軍事土木」建設は、その多くが随意契約の特命工事として行われた。

 赴戦江発電所とは異なり、水豊発電所は有効落差が100メートルしかない低落差発電所だが、堰堤として築造された水豊湖は総貯水量116億トン、有効貯水量76億トン、貯水池の面積298.16平方キロメートルと豊富な水量を誇った。

 水豊湖の水源となる鴨緑江は朝鮮と満州を隔てている。そのためこの発電所の工事は朝鮮電気株式会社傘下の「朝鮮鴨緑江水力発電株式会社」と、満州国政府出資による「満州鴨緑江水力発電株式会社」の共同事業(社長以下役員は両社共通)となり、生産された電力は満州側と朝鮮側とで折半した。

 世紀の大工事の詳細な工程は割愛するが、水豊発電所の堰堤工事において見られる、ちょっとした記録に触れておく。金日成部隊の襲撃への準備である。

 水豊発電所着工の数ヶ月前、すなわち昭和12年6月5日、東北抗日連軍第1路軍第6師団は鴨緑江国境の町普天堡を一時占領した。師団長は金日成であったため、この部隊を「金日成部隊」と呼ばれる。

 鴨緑江以北の朝鮮民族居住地を西間島と呼ぶ。間島協約により日本は中国の間島領有を認め、この地域は日本の統治下ではなくなった。ここが日本の韓国併合後、朝鮮系の抗日パルチザンにとって絶好の根拠地となった。株式会社間組が89年に編纂した「間組100年史」には、水豊発電所のダムを建設する主任以上の技術者は、ゲリラの急襲から身を守るため拳銃で武装しつつ工事に臨む者もいた、と記されている。原節子が主演した古い映画「望楼の決死隊」を髣髴とさせるエピソードだが、水豊発電所が日本統治下の朝鮮と満州にそれぞれ送電するために建設されていたこと、またこの工事で多数の朝鮮・中国人労働者が犠牲になり、貯水池の敷地買収でも7万人もが立ち退かねばならなかったことを考えれば、パルチザン・ゲリラの急襲を恐れたのは当然であろう。水豊発電所はまさに「日帝」の象徴に他ならないのである。

「日帝」のアイコンとして忌み嫌うべき水豊発電所は、しかし現在でも北朝鮮で稼働している。終戦後の47年8月、ソ連は水豊発電所の六基の発電機から、シーメンス製を含む二基を撤去し本国に持ち帰った。「ドイツ製品信仰」を有するソ連にとって、シーメンス製発電機は垂涎の的だったからだ。やがて朝鮮戦争を迎えると、発電所設備の70%が破壊された。

 58年にはソ連が自国製発電機を持ち込み水豊発電所の復旧工事が完了。発電容量は建設当時の目標値だった70万キロワットに達した。60年には朝中鴨緑江水力発電会社が設立され、以後は同社が共同管理している。

 日帝の象徴を、朝中が共同で管理している、というわけである。だが水豊発電所で補修されたのはあくまでも発電機だ。

 今年の2月、朝鮮総聯系新聞社である朝鮮新報は「水豊発電所は毎日の計画より数千Kwの電力を増産している」「発電設備を直し、水1トンあたりの電力生産量を30%増やし、ダムの規模に即した発電機と水車の効率を上げている」と報じ、その健在ぶりを誇示した。

 だが、堰堤(ダム)の部分の補修はされていない。朝鮮戦争による爆撃でもびくともしなかった堰堤の部分は、いまも「帝国の遺産」そのままなのである。

 その堰堤も、もうコンクリートの耐久年数をとうに過ぎている。さらにダムに共通する問題として土砂の堆積があるのだが、水豊ダムが土砂を排出した記録はないという。土砂堆積が著しく進めば貯水池容量が大きく減少することは言うまでもない。

 北朝鮮研究の重鎮・玉城素氏は、
「水豊ダムのみならず、日本統治時代のダムはどんどん埋まっています。北朝鮮はダムに対するアフターケアをまったくやっていないのです。それが電力危機の一つの大きな原因となっています」と、その深刻さを指摘する。

 北朝鮮と中国が共同管理する「帝国の遺産」水豊ダムはいま、切実に補修を必要としている……。この歴然たる事実から、ある連想が筆者の脳裏をよぎる。

 毎年、正月を迎えると北朝鮮は「新年共同社説」(「労働新聞」、「朝鮮人民軍」、「青年前衛」三紙の共同社説)を発表するのだが、2006年の同社説には、こんな一節がある。

<今年、われわれは偉大な領袖金日成同志による「トゥ・ドゥ(打倒帝国主義同盟)」結成80周年を迎えることになる。「トゥ・ドゥ」結成80周年は、チュチェ思想の旗のもとに百戦百勝の歴史と伝統を創出した金日成同志の不滅の業績を輝かし、革命の首脳部のまわりにかたく団結して社会主義偉業をあくまで完成せんとする、わが軍隊と人民の信念と意志を示す意義深い契機となる>(筆者註:「トゥドゥ」は「打帝」の意。「打倒」の略ではない)。

「打倒帝国主義同盟」は少年時代の金日成が満州で結成した革命組織、といわれている。だが、いくら金日成が「百戦百勝の鋼鉄の霊将」であるとはいえ、当時は14歳の少年である。そんな子どもがリーダーを務める革命組織とは、はっきりいえば「ゲリラごっこに毛が生えたような」集団だったはずだ。

 朝鮮労働党創建60周年や6・15共同宣言発表五周年などイベントに事欠かなかった昨年と較べ、今年がいくら政治的行事の空白の年であるとはいえ、子どもが作った「なんちゃってゲリラ」の結成80周年を、北がわざわざ新年共同社説で触れる理由は何だろう。

 筆者はこれが、明らかに中国を意識したものであると考える。北朝鮮という国家の「正統性」は、満州における金日成の革命組織に端を発している……すなわち「悪の権化」である満州国と戦ったのが金日成である、という国家の正統性を高らかに掲げることで、中国との精神的紐帯を浮き彫りにする意図があるのでは、と思われてならない。ここ数年、中国が行ってきた「東北工程」(高句麗を「中国辺境の古代政権」と位置づける研究プロジェクト)に対する反発よりも、「ともに満州国を敵とし抗日という歴史を持つ」ことを強調することで、中国との精神的紐帯を顕示しなければならない局面に、いま北朝鮮は立っていることを窺わせる。早い話、北朝鮮は朝鮮民族の歴史にケチを付けられてもなお、「われわれはともに満州を敵とし打ち克った仲間じゃないですか」と、暗に中国の経済力に媚びているのでは……と思えてしまう。

 それほどまでに中国の経済的影響は、北朝鮮にとって欠くべからざるものになった、ということである。日本ゼネコンが利権を求めて入り込む余地などないどころか、「満州国」を俎上に乗せることで日本と韓国の保守勢力に対し、あるメッセージを送っているのでは、とさえ思えてくるのだ。

 韓国最大の保守政党であるハンナラ党。党首・朴槿恵の父、朴正煕は日本の陸軍士官学校を卒業し、終戦時は満州国陸軍中尉だった。日本の自民党幹事長である安倍晋三の祖父・岸信介は満州国産業部次長として辣腕をふるった。麻生太郎の母方の祖父・吉田茂は満州の中心に位置し当時の対支・対露政策の最重要地域であった奉天の総領事を勤めた……と、「補修を要する水豊ダム」から、満州ゆかりの政治家の後裔が現在の日韓保守勢力の中心にいることを思い浮かべるのは、いささか牽強付会であろうか。

「満州」をテーマとして今年、われわれは主に日本の保守勢力を攻撃目標としてロック・オンした。だから後押ししてほしい……というメッセージを中国に発している、と受け取るのは考えすぎであろうか。

 その背後にあるはずの、北朝鮮の日本に対する「本音」を、筆者がここで代弁してみよう。

<閔姫が殺されたとき、朝鮮には武力がなかった。いま、われわれは再び植民地にされないための確固たる武力を持たねばならない。そのための補償を、日本がやれ。われわれの意に沿う形、先軍政治に叶う形で「帝国の遺産」を再構築せよ>