2009年7月26日日曜日

【雑誌記事】 週刊文春(岸信介とCIA)

岸信介とCIA

<岸は同盟者ではなく、エージェントだった>

 『週刊文春』2007年10月4日号は、「岸信介はアメリカのエージェントだった!」と題する特集を組んだ。この特集が特筆されるのは、岸信介元首相がこれまでいわれていた「CIAの同盟者」ではなく、「CIAのエージェント(代理人、スパイの意味)」だったと断定していることである。同特集は、ミューヨーク・タイムズの現役記者、ティム・ウィナーの著書『 LEGACY of ASHES The History of the CIA』(灰の遺産 CIAの歴史、今年6月発行)から岸がCIAのエージェントだったとする部分を引用している。引用部分は次の部分である。

 「米国がリクルートした中で最も有力な二人のエージェントは、日本政府をコントロールするというCIAの任務遂行に協力した」
「(そのうちの一人)岸信介はCIAの助けを借りて日本の首相となり、与党の総裁となった」
「岸は新任の駐日米国大使のマッカーサー二世にこう語った。もし自分の権力基盤を固めることに米国が協力すれば、新安全保障条約は可決されるだろうし、高まる左翼の潮流を食い止めることができる、と。岸がCIAに求めたのは、断続的に支払われる裏金ではなく、永続的な支援財源だった。『日本が共産党の手に落ちれば、どうして他のアジア諸国がそれに追随しないでいられるだろうか』と岸に説得された、とマッカーサー二世は振り返った」
 「岸は、米国側の窓口として、日本で無名の若い下っ端の男と直接やり取りするほうが都合がいい、と米国大使館高官のサム・バーガーに伝えた。その任務にはCIAのクライド・マカボイが当たることになった」(注=CIA側の窓口となったビル・ハッチンソンもクライド・マカボイも日本共産党が発表した在日CIAリストには載っていない)

 「CIAの歴史」は同書の序文によれば、匿名の情報源も伝聞もない、全編が一次情報と一次資料によって構成された初めてのCIAの歴史の本である。

 重要なのは、岸信介が児玉誉士夫と並んで、CIAが日本政府をコントロールするためにリクルートした最も有力なエージェントと指摘していることである。そのために、CIAは岸に巨額の金を注いだと指摘している。
 つまり、安倍前首相がもっとも敬愛する祖父、岸信介はあの無謀な戦争を指揮した戦犯であるだけでなく、売国の政治家だったことが改めて裏付けられたことになる。岸は1952年7月、追放解除者を集めて、自主憲法制定を旗印に日本再建連盟を結成する。 

 自主憲法とはなにか。       
 あの悲惨な戦争体験から13年しかたっていない時期に岸信介首相(当時)はこんな発言をしている。朝日新聞の縮刷版によると、1958年10月15日付の夕刊の1面に、「憲法9条廃止の時」という記事が載っている。米国NBCの記者のインタビューに、岸は「日本国憲法は現在海外派兵を禁じているので、改正されなければならない」「憲法九条を廃止すべき時は到来した」と言明している。これが自主憲法の中身である。安倍前首相のいう「戦後レジームからの脱却」も、これと同じでる。まさに、自衛隊を米軍の身代わりとして海外で戦争させようというものにほかならない。米国の長年の願望である。 


 なぜ、鬼畜米英と叫んだ戦争指導者が、米国の手先になったのか。その秘密を解くカギが最近発売された完全版『下山事件 最後の証言』(柴田哲孝著、祥伝社文庫)にある。
 柴田氏の祖父(柴田宏氏)が勤めていた亜細亜産業の社長で戦前の特務機関である矢板機関の矢板玄(くろし)氏の証言に、その秘密が書かれている。以下、矢板証言の注目部分を引用する。
  

<岸を釈放したウィロビー>
 (佐藤栄作は、兄岸信介の件で来たのではないか。岸信介を巣鴨プリズンから出したのは、矢板さんだと聞いているが)
 「そうだ。そんなことがあったな。だけど、岸を助けたのがおれだというのはちょっと大袈裟だ。確かに佐藤が相談に来たことはあるし、ウィロビーに口は利いた。岸は役に立つ男だから、殺すなとね。しかし、本当に岸を助けたのは白洲次郎と矢次一夫、後はカーンだよ。アメリカ側だって最初から岸を殺す気はなかったけどな」
 注=東条内閣の閣僚で、戦争指導者の一人であり、A級戦犯容疑者として逮捕された岸の釈放については、昨年9月22日付「赤旗」の「まど」欄が、「GHQ連合国軍総司令部のウィロビー少将率いるG2(参謀部第二部)の『釈放せよ』との勧告があった」ことを紹介している。ウィロビーは、直轄の情報機関として、キャノン機関や戦後も暗躍した矢板機関を持っていた。 


<秘密工作の全容の解明を>
  CIAが「同盟者」である岸信介に総選挙で資金を流し、てこ入れしたことは、すでに共同通信の春名幹男氏が著書『秘密のファイル CIAの対日工作』(2000年刊、下)で、くわしく指摘している。それによると、マッカーサー二世大使は1957年10月、秘密電報を国務省に送っている。そこには、次のように書かれている。次の総選挙で自民党が負ければ、「岸の立場と将来は脅かされる」。後継争いに岸が負けた場合、「憲法改正などの政策遂行は困難となる」。さらに、「岸は米国の目標からみて最良のリーダーである。彼が敗北すれば、後任の首相は弱体か非協力的、あるいはその両方だろう。その場合、日本における米国の「立場と国益は悪化する」。
 マッカッサー大使はさらに岸を援助する提案をしている。その中身について、同書は、「結論から先にいえば、次の総選挙で中央情報局(CIA)の秘密資金を使って岸を秘密裏に支援すべきだ、という提案」だとしている。
 しかし、同書はCIAが具体的にどのような工作が行われたのかは明らかではないとしている。今回の週刊文春は、岸へ渡されたCIA資金は一回に7200万円から1億800万円で、いまの金にして10億円ぐらいと指摘しているが、その金が選挙対策としてどう使われたかは触れていない。  


  CIAの汚いカネで日本の政治がゆがめられたというこの問題は、戦後日本の最大の暗部である。CIAの秘密工作の全容を明らかにすべきである。外国から選挙資金をもらうことは、公選法や政治資金規正法や当時も外為法に違反する犯罪行為でもある。「東京新聞」(10月3日付)で、斎藤学氏(精神科医)が、週刊文春の記事が事実なら大変なことだと思うのだが、「他誌も新聞も平然としている」と疑問をなげかけている。

解説:CIA工作 戦後日本、「米の影響下」鮮明 日ソ接近防ぐ目的

 CIAの「緒方ファイル」は、戦後の日本政治が、東西冷戦の下、水面下でも米国の強い影響を受けながら動いていた様を示している。米情報機関が日本の首相を「作り」、政府を「動かせる」という記述は生々しい。

 CIAが日本で活動を本格化したのは、サンフランシスコ講和条約・日米安保条約が発効した52年からだ。米国では翌53年1月、共和党のアイゼンハワー政権が誕生。同7月の朝鮮戦争停戦を受け、新たなアジア戦略を打ち出そうとしていた。

 それがCIAの積極的な対日工作を促し、日ソ接近を防ぐ手段として55年の保守合同に焦点をあてることになった。当時の日本政界で、情報機関強化と保守合同に特に強い意欲を持っていた緒方にCIAが目をつけたのは当然でもあった。

 ただ、CIAの暗号名を持つ有力な工作対象者は他にもいた。例えば同じ時期、在日駐留米軍の施設を使って日本テレビ放送網を創設するため精力的に動いていた正力松太郎・読売新聞社主(衆院議員、初代科学技術庁長官などを歴任)は「PODAM(ポダム)」と呼ばれていた。

 加藤哲郎・一橋大大学院教授(政治学)によると、「PO」は日本の国名を示す暗号と見られるという。また、山本武利・早稲田大教授(メディア史)は「CIAは、メディア界の大物だった緒方と正力の世論への影響力に期待していた」と分析する。

 暗号名は、CIAが工作対象者に一方的につけるもので、緒方、正力両氏の場合、いわゆるスパイとは異なるが、CIAとの関係は、メディアと政治の距離も問いかける。

 時あたかも、政権交代をかけた衆院選が1カ月余り後に行われる。自民党結党時の政界中枢にかかわる裏面史が、この時期に明るみに出たのも因縁めく。

 また、自民党に代わり政権を担おうとしている民主党が、ここに来て、対米政策を相次いで見直したのは、日本の政界が、政党の新旧を問わず、半世紀以上前から続く「対米追随」の型を今なお引きずっているようにも見える。【後藤逸郎】
【関連記事】

* CIA:緒方竹虎を通じ政治工作 50年代の米公文書分析

毎日新聞 2009年7月26日 東京朝刊

1994年10月10日(朝日新聞)
CIA、自民に数百万ドル援助
50-60年代 左翼の弱体化狙う

【ワシントン8日=ニューヨーク・タイムズ特約】米ソ対立の冷戦時代にあった1950年代から60年代にかけ、米中央情報局(CIA)は、主要秘密工作のひとつとして日本の自民党に数百万ドル(当時は1ドル=360円)の資金を援助していた。米国の元情報担当高官や元外交官の証言から明らかになったもので、援助の目的は日本に関する情報収集のほか、日本を「アジアでの対共産主義の砦(とりで)」とし、左翼勢力の弱体化を図ることだった、という。その後、こうした援助は中止され、CIAの活動は日本の政治や、貿易・通商交渉での日本の立場などに関する情報収集が中心になった、としている。

55年から58年までCIAの極東政策を担当したアルフレッド・C・ウルマー・ジュニア氏は、「我々は自民党に資金援助した。(その見返りに)自民党に情報提供を頼っていた」と語った。資金援助にかかわったCIAの元高官1人は、「それこそ秘密の中心で、話したくない。機能していたからだ」と述べたが、他の高官は資金援助を確認している。
また、66年から69年まで駐日米大使を務めたアレクシス・ジョンソン氏は、「米国を支持する政党に資金援助したものだ」と述べ、69年まで資金援助が続いていたと語った。

58年当時、駐日米大使だったダグラス・マッカーサー2世は同年7月29日、米国務省に送った書簡の中で、「佐藤栄作蔵相(当時)は共産主義と戦うために我々(米国)から資金援助を得ようとしている」と記している。

マッカーサー2世は、インタビューに対し.「日本社会党は否定するが、当時、同党はソ連から秘密の資金援助を得ており、ソ連の衛星のようなものだった。もし日本が共産主義化したら、他のアジア諸国もどうなるかわからない。日本以外に米国の力を行使していく国がないから、特に重要な役割を担ったのだ」と語った。

自民党の村口勝哉事務局長は、そのようなCIAの資金援助については聞いていない、としている。
朝鮮戦争(50年-53年)当時、CIAの前身である米戦略サービス局(OSS)の旧幹部グループは、右翼の児玉誉士夫氏らと組んで、日本の貯蔵庫から数トンのタングステンを米国に密輸、ミサイル強化のためタングステンを必要としていた米国防総省に1000万ドルで売却。これを調べている米メーン大学教授の資料によると、CIAは280万ドルをその見返りに提供したという。




1994年10月13日(朝日新聞)
CIA、58年に特別班 日本向け選挙資金担当

【ワシントン12日=五十嵐浩司】米中央情報局(CIA)が1950年代から60年代にかけ、当時日本の政権を担当していた自民党に、極秘の資金援助を行っていたと疑われている問題で、CIAが58年4月に日本向けの選挙資金工作を担当する特別グループを作っていたことが12日に朝日新聞が入手したCIAの内部文書で明らかになった。また、これとは別に米国務省の内部文書によると、58年7月に当時の佐藤栄作蔵相が、在日米大使館を通じ選挙資金援助の要請を行った際、自民党の川島正次郎幹事長とみられる「カワシマ氏」を「窓口」に指定し、秘密のうちに慎重に取り扱うことを求めていた。米大使館はこの時には、資金援助を断った模様だが、CIAによる特別グループの設置は、これとは別に資金援助が行われた可能性を示している。

CIA文書は今年4月に「極秘」扱いを解かれたもので、50年代半ばから末にかけ、反共活動支援の目的で、フランスやフィリピン、ギリシャなど世界各国で選挙資金の援助工作をしていたことを記している。具体的な援助策は各国ごとに作られた「計画調整グループ」「特別グループ」で行われていた。日本担当のグループは58年4月11日に設置した、としている。

グループ設置が直ちに「援助の実施」を意味するものではないが、日本では同年5月に衆議院選挙が行われており、これに照準を合わせた動きだったとみられる。翌月には、米側の信任が厚かった岸信介氏を首班とする第2次岸内閣が発足した。

国務省文書によると、岸氏の弟でもある佐藤氏の「選挙資金援助要請」は、これを受け同年7月25日に行われたもので、59年6月に予定される参議院選挙用の資金調達が目的だったようだ。

同文書は、佐藤氏と会った当時のカーペンター米大使館1等書記官が国務省に送った「メモ」などで、これによると会談は佐藤氏が要請し、「報道陣を避けるため」東京グランドホテルで2人だけで行った。
佐藤氏は、日本共産党や日教組などの「脅威」を指摘すると同時に、「共産主義勢力」がソ連(当時)や中国から資金援助を受けている、と説明した。

一方、「これら過激分子と戦っている」政府と自民党は、支持者・企業から資金を集めており、また経済界の一部指導者たちが「結成も活動も報道されていない秘密のグループ」を通じて資金提供を図っているが、衆院選の後だけに「資金不足」と窮状を訴えている。

このうえで米側に「保守勢力が共産主義と戦うための資金援助の可能性」を打診した。窓口として「カワシマ氏」の名前を挙げており、当時の川島正次郎・自民党幹事長とみられる。

佐藤氏は、もし米国が援助に同意しても、「米国が困る立場にならないよう、極秘に行う」と提案している。
「メモ」に付けられた当時のマッカーサー大使からパーソンズ国務次官補(東アジア担当)にあてた書簡によると、佐藤氏は前年も同様の打診を行っていた、という。


1994年11月11日(朝日新聞)
「CIAが自民党へ資金援助」を検証
日米戦後史の裏面に光

米中央情報局(CIA)による自民党への秘密資金援助を、米ニューヨーク・タイムズ紙が報じてから1カ月。CIA・政府関係者の証言を集め、関連資料を分析すると(1)資金援助が始まったのは50年代後半、アイゼンハワー政権期らしい(2)60年代のうちに終了していた可能性も高い(3)援助の規模は伝えられた金額よりは少なかったのではないか、という輪郭が浮かび上がる。だが、関係者の多くはすでに故人になり、時間の壁も厚い。冷戦下に埋もれていた日米戦後史の裏面にきちんと光をあてるためにも、まだあるはずの機密文書の公開が望まれる。(ワシントン=梅原季哉・外報部)


●61年初頭には実行中

証言(1) 「ケネディ政権発足直後の61年2月、私を含めた数人の当局者が、自民党への秘密資金援助について、アイゼンハワー前政権からの引き継ぎとしてCIA情報官から説明を受けた」=元国務省情報調査局長、ロジャー・ヒルズマン氏(75)。
この資会援助について最も明確に証言したのがヒルズマン氏だ。それによると、引き継ぎを受けた場所は、ホワイトハウス西隣の旧行政府ビルの1室。バンディ大統領補佐官(国家安全保障担当)らも出席した。

ClA側 「自民党の代表が、アイゼンハワー政権期に駐日米大使とCIAに接触し『共産党がソ連から資金援助を受けている』ので、自民党が選挙ポスターや宣伝に使う『十分な多額』の資金提供を要請した」

それ以上具体的な中身の報告はなかった。ヒルズマン氏らは計画の妥当性についてCIA側を問い詰めた。
CIA側 「これは進行中の作戦で、選択肢は今すぐやめるか、徐々に額を減らしてなくすしかない。しかし、即時中止すれぱ、相手側が不満を抱いて公にされるかもしれない」
結局、ヒルズマン氏らは、計画を徐々に縮小して中止するようケネディ大統領に具申、そう決定された。


●占領下では活動に制約

資料(1) 「終戦から朝鮮戦争の途中まで、米軍の極東司令官だったマッカーサー将軍は、自分の管内でのCIAの存在に反対した」(CIA歴史スタッフ編の内部資料『ClA長官、アレン・ダレス』第2巻『情報活動の調整』)
証言(2) 「連合国軍総司令部(GHQ)には自前の情報機関G2もあり、もしCIAが巨額の資金を保守勢力に援助しようとしたら、マッカーサーにつぶされていたはずだ」「当時のCIAは予算も少なく、防諜(ぼうちょう)や情報収集活動が中心で、資金援助などできなかった」(占領下から50年代半ばまで日本に駐在した元ClA情報官)
この元情報官は、52年の占領終了までは、CIAが日本で秘密活動をするのは難しかったと強調した。


●57年には接触

57年ごろには、すでにCIAと自民党の間で接触があったことを裏付ける資料がある。
資料(2) 「議題『共産主義勢力の伸長、破壊活動防止のための日米協力について』。参加者は自民党外交調査会員、須磨弥吉郎代議士、元労相の千葉三郎代議士、ダグラス・マッカーサー2世大使……同代議士は翌18日、同じ問題について話し合うためにアレン・ダレスCIA長官を訪問した」(57年1月17日付、国務省会話メモ)
マッカーサー2世元大使はこの時、日本への着任を控えてワシントンにいた。須磨氏(故人)は、戦前、外務省情報部長を務めたことがある。同長官と自民党代議土との会談記録は、ほかには公開されていない。


●決定は58年4月か?

資料(3) 「選挙で特定の党派へ資金を供与するという案は、……長官が重要と認めた場合またはCIA予備費を支出する必要がある場合に、……特別グループ(SG)と呼ばれた会合にはかられた。【注】例えば……日本についてのSG会合、58年4月11日」(前出『アレン・ダレス』第3巻、『秘密活動』)

資料(4) 「岸首相の弟の佐藤栄作氏が、共産主義と戦うための金銭的援肋を我々に申し入れてきた……これは驚くほどのことではない。なぜなら彼は昨年も同様な考えを示していた」(58年7月29日付、マッカーサー2世駐日大使から、極東担当国務次官補への手紙)

証言(3) 「私自身は、そういった資金援助の決定には関与しなかった」(マッカーサー2世元大使)
確かに付属のメモによると、同大使は「資金援助は難しい」との考えを佐藤氏に伝えている。この時点では接触だけとも受け取れる。

証言(4) 「自民党側からの働きかけはアイゼンハワー政権期と聞いた。58年4月11日付のSG会合で秘密援助が決定された可能性は極めて高い」(ヒルズマン氏)
保守合同から2、3年たち、米国はアイゼンハワー、日本では岸政権だったこのころが、資金援助開始時期である可能性が高い。


●終了は?

証言(5) 「ニューヨーク・タイムズは、秘密資金援助は70年代初めに終了したらしいと報じていたが、私が知る限り、もっと早く終わっていたはずだ」(元ClA情報官)
証言(6) 「私が63年にCIA極東部門の長に就任したとき、日本については小さな作戦が2つあったが、意味がなかったので中止した。しかし、伝えられるような資金援助は、63年以前は知らないが、私の就任時点で存在したとは思えない」(コルビー元CIA長官)
2人の証言からは、ケネディ政権発足時に資金援助計画を徐々に縮小、中止させる方針が決まった後、まもなく終了した可能性も出てくる。


●金額は?

証言(7) 「資金援助の具体的な規模は説明されなかったが、『十分に重要な意味のある額』ということだった。推察だが、年に数十万ドルから百万ドル程度だったろう」「まず下限だが、年に数万ドル程度の規模では我々の議題になるはずがなかった」「(上限については)逆に年200万ドルを超えるようなら、巨額で目立つが、そういう記憶はない」(ヒルズマン氏)
前出のダレス長官の評伝でも、外国選挙への秘密資金援助がSG会合の議題になったのは、通常年25万ドルを超える場合だった、とされている。一方、金額が多過ぎると目立ち、秘密活動にならないというのがヒルズマン氏の説明だ。


●「冷戦で当然」の見方も

関係者の多くは、この資金援助について直接の知識のあるなしにかかわらず、当時の冷戦の枠組みでは当然のことだったと語る。ソ連による日本の左翼勢カへの援助は、米高官の間では「常識」だった。「CIAはただ、米国の政策を実行しただけだ」とCIA元情報官の1人はいう。
証言(8) 「秘密活動にかかわるCIA職員は、扱う金額が大きいほど出世しがちだった。資金援助は、対象を深く吟味せずに世界中で行われていた」(上院情報特別委員会元スタッフ、アンジェロ・コードゥビラ氏)
自民党への資金援助は、「ばらまき金」の側面も持っていたというのだ。


●機密保持期間は経過

資金援助に関するケネディ政権下の公文書は、30年間の機密保持期間を過ぎている。国務省外交史料諮問委員会の歴史学者たちは、公開して対日外交文書集に取り込むことを求めているが、主にCIAとの間で調整がついていない。

×  ×  ×
「私はアイゼンハワー政権も、自民党も過ちを犯したと思う。このことがすべて公になれば、そんな過ちは2度と繰り返さないに違いない」とヒルズマン氏は話した。


資金援助疑惑とは
「CIAは1950、60年代にかけ、主要秘密工作のひとつとして日本の自民党に数百万ドル(当時は1ドル=360円)の資金を援助していた。目的は日本に関する情報のほか、日本を『アジアでの共産主義に対する砦(とりで)』とし、左翼勢力の弱体化を図ることだった」(ワシントン10月8日発のニューヨーク・タイムズの記事の骨子)
「昔のことで、党職員に調べさせたが、そんな事実はない。迷惑な話だ」(自民党の森喜朗幹事長の話)

CIAと秘密活動
CIAは1947年の国家安全保障法で、大統領直属の情報機関として設立された。同法に「国家安全保障に影響するその他の機能を時に応じて果たす」とあるのが、CIAが秘密活動に従事する根拠だ。その後、数度の大統領令などで、国家安全保障会議(NSC)の政策決定を受けてCIAが秘密活動を集行する枠組みが定まった。それは大きく宣伝、政治工作、軍事作戦などに分類され、初期の典型的な政治工作としては、48年のイタリア総避挙でキリスト数民主党にてこ入れした例がある。


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米の機密文書公開に「待った」 「対日外交に影響」国務省
「核」寄港合意・CIAの資金援助疑惑  ケネディ政権下の資料
【ワシントン6日=梅原季哉】米ケネディ政権(1961年-63年)下でつくられた公文書の中に、日米両国政府の間に核兵器を搭載した艦船の日本寄港に関する合意があったことを裏づける複数の資料があり、米中央情報局(CIA)による自民党への秘密資金援助を示す公文書と共に、この8月の機密解除の最終的な法的期限が過ぎても公開されていないことが、朝日新聞社の調べで6日、わかった。公文書は原則として30年後までに機密を解かれるが、解除文書を取り込んで編集される同政権期の対日外交文書集が、いまだに刊行が決まっていない。
歴史・法学者らからなる米国務省の「外交史料諮問委員会」は「問題となった日本関係の公文書が非公開のままなら、正確な歴史は反映できない」と、日本関係の章の刊行自体の取りやめを勧告するという異例の措置までとっている。
問題になっているのは、米国務省が機密解除期間の30年をめどに逐次発刊している史料集「合衆国の外交」の中の章「日本・1961年-63年」に収録する予定の公文書。
朝日新聞社が入手した同諮問委の非公開討議の抄録によると、「日米安全保障条約の履行とそれに関連する軍事的問題、及び当時の日本の国内政治」の3つに関係した複数の公文書について、委員会側が機密の解除を求めた。しかし、国務省の政策担当者やCIAなどの反対で、いまだに実現していない。
抄録によると、「60年安保条約に関係し」「ライシャワー大使の回想録にも出てくる」問題についての文書公開が否定された。国務省の日本担当者は「今も対日外交関係を損なう恐れがある」と説明している。
核搭載艦船の日本寄港を認めた故ライシャワー駐日大使は81年、60年代前半に池田政権の大平外相と会談し、「核の持ち込みとは、陸揚げ及び貯蔵であり、寄港は意味しない」との日米間の口頭了解が、安保条約改定時からあったことを説明し、了解された、と発言。「会談は国務省からの訓令に基づき行われ、命令と報告の公電もあるはずだ」としていた。
また、当時の極東担当国務次官補、ロジャー・ヒルズマン氏(75)も先月末、朝日新聞記者に「63年春、その了解事項を日本側に再確認する決定にかかわった。公文書は残っているはずだ」と語った。
一方、CIAの自民党資金援助に関連した討議の抄録によると、国務省の日本担当者は昨年11月の時点で「自民党はまだ日本最大の政党で、政権に復帰する可能性もある」と公開に反対した。
同諮問委の-キムボル委員長は「守秘義務があり、内容は明かせないが、日米関係に関する複数の文書公開を委員会が求め、これについての国務省の決定が遅れているのは確かだ」と話している。(朝日新聞 1994/11/07)

CIAが大規模対日工作 最盛時は要員100人 自社議員らに報酬も 関係筋証言
【ワシントン5日共同】米中央情報局(CIA)は日本国内に、最盛時には100人以上、現在も約60人という在外支局としては「世界で最大規模」の要員を配置し、自民党や社会党の議員、政府省庁職員、朝鮮総連幹部、左翼過激派、商社員らに定期的に報酬を渡して秘密の情報提供者として確保してきたことが、複数のCIA関係筋の証言で明らかになった。CIAはこうした政治・安全保障分野だけでなく、経済・技術分野でも日本の対米貿易の交渉方針、日本企業の高度技術(ハイテク)を対象に、情報活動を展開してきた。

在日CIA工作の全体的な実態および陣容はこれまでほとんど知られていなかった。CIAスポークスマンはこうした工作について「ノーコメント」と論評を拒否した。
CIA関係筋は、CIAの情報提供者となっていた自社両党の議員の名前を明らかにすることを拒否したが、社会党議員については「長老で、1980年代に月25万円の報酬を手渡し、党の運動方針などを聞いた」とだけ述べた。また数人の自民党議員にも同様の報酬が支払われ各種の政治情報を得た、と同筋は指摘した。
情報提供者には地位に応じて、現金で月10万-25万円をホテルなどで手渡したという。
政治情報では、第1に首相の動向が最大の関心事。CIAは歴代首相の側近、周辺に常に情報提供者を確保してきた。
例えば、85年5月ボンで行われた中曽根・コール両首相の日本・ドイツ首脳会談の際にはCIA要員もボンに出張、会談直後に中曽根氏の側近からその内容を入手するといった方法。レーガン米大統領が中曽根首相にゴルフクラブを贈る際、好みをCIA要員が調べ、ロン・ヤス関係演出に一役買った。
自民党の中では金丸元副総裁がCIAに協力的だった。90年9月の金丸氏による北朝鮮訪問の前後には、同氏と親しかった中尾宏・元衆院議員(92年7月死去)が訪米、CIA側に状況を説明したという。
日米間の貿易交渉をめぐっては、主に通商代表部(USTR)の要請を受けてCIAが日本側の交渉態度を探るのが通例。88年6月決着した牛肉・オレンジ市場開放交渉では、農林水産省内の情報提供者から「日本の最終譲歩リスト」を入手していた、と別の関係筋は証言した。
電気通信分野の交渉に関連しても郵政省の内部やNTT、さらに通産省内部からも情報を得ていたという。日本企業のハイテクの軍事的側面も調査、京セラや大日本印刷、宇宙開発事業団、三菱重工、石川島播磨重工業などが調査対象となった。
このほか、中東の日本赤軍に国内の支援勢力がブラジル経由で数十万ドルを送金したことも突き止めるなど、左翼過激派の動向調査も怠らなかった。(中日新聞 1995/01/06)

報酬受け提供「考えられぬ」 自民事務局長
米中央情報局(CIA)に関する共同通信の報道について、名前をあげられた中曽根康弘元首相の事務所は、「CIA要員であるかどうかは別にして米大使館員との交流は昔からあった。しかし、こちらから情報を提供するということはなかった」と話している。
また、自民党の村口勝哉事務局長は「議員が報酬を受け取って情報を提供するということは考えられない」と話している。(朝日新聞 1995/01/06)

立法院選で保守勢力へ秘密資金
国家安全保障公文書館が米機密文書公開
1965年の立法院選挙で保守勢力を優位にすることで沖縄統治の安定を図ろうと、米国(CIA)から秘密の資金が持ち込まれたことを示す秘密文書が、ワシントンにある国家安全保障公文書館で公開された。同文書は同年6月の沖縄問題に関する国務省会議についてのもの。同問題だけでなく、日本への核持ち込み、沖縄での日の丸掲揚問題に対する米側の認識、国務省側と軍との対立など当時の米国、日本、沖縄の状況を生々しく伝えている。
文書の中では実際に資金が沖縄に流れたかどうかには触れられていない。同資料を発見したロバート・ワンプラー国家安全保障公文書館の分析研究員は「この文書の中で『303委員会にかける』話が出てくるが、この会議はこのような秘密工作を決定する委員会であること、ライシャワー氏らの会議の中身は、資金を流すかどうかではなく、どのようなルートで流すか具体的なことが討議されており、結果(資金が沖縄にいったかどうか)は疑いようがないのでは」と、実際に資金が流れたことを確信をもって語る。
303委員会は国務、国防両長官、ホワイトハウス高官、CIA長官らで構成し、CIAが実行部隊となった秘密工作を承認するかどうかを決定する機関。ワンプラー氏は同公文書館の日本プロジェクト担当部長で、「この文書を見た時、自分の目を疑った。話としては以前からあったが、文書があったとは全く知らなかった。私も二度読み返したほど」と、長年日米関係を調査研究してきた当人にも驚きだったようだ。(沖縄タイムス 1996/10/07)

直径50メートル 米極秘衛星?
静止軌道上 日本見下ろす 望遠鏡で確認
日本スペースガード協会(磯部しゅう三理事長)は4日、日本を見下ろす静止軌道上に直径約50メートルの巨大物体があるのを望遠鏡で発見、写真撮影に成功したと発表した。
同物体は継続的に軌道制御を行っており、運用中の人工衛星であることは明らか。同協会は、米国が通信傍受などのため極秘に運用している巨大パラボラアンテナ型の情報収集衛星の1つ、とみている。
発見したのは昨年12月。同協会の美星スペースガードセンター(岡山県美星町)の望遠鏡(口径1メートル)で、地球周回軌道にある人工衛星の破片などの宇宙ゴミ(スペースデブリ)を観測中に偶然見つけた。
巨大物体は東経120度、インドネシア付近の赤道上空の高度約3万6000キロの静止軌道にあり、明るさは9等星ほどで同軌道の人工衛星としてはきわめて明るかった。同協会は、明るさから物体の直径は約50メートルと割り出した。観測を続けたところ、同物体は常に軌道制御を行って厳密に位置を維持していることが分かった。
地球を回る軌道にある人工衛星やスペースデブリは、米空軍が観測し、自国の軍事衛星を除いてリストを公開しているが、発見した物体は記載がなかった。
米科学者達盟によると、米国は通信やレーダー波を傍受するため1970年代から、静止軌道に大型衛星を極秘に配置している。現在は、80年代半ば以降に打ち上げられた直径数十メートル-100メートルのマグナムと呼ばれる衛星などが運用中とみられる。(中日新聞 2002/04/04)

対日諜報網計画:戦後、20人の工作員投入案 米戦略諜報隊
米中央情報局(CIA)の前身組織が、終戦直後に作成したと見られる対日諜報網の計画案が、米国で見つかった。軍国主義や反米の動きを監視するのが目的で、戦後の日本に対する諜報活動を明確に示す初めての資料という。
この資料は「日本における戦後の秘密諜報工作計画」など。早稲田大の山本武利教授(メディア史)が今年1月、米メリーランド州の国立公文書館で発見した。陸軍省の戦略諜報隊(SSU)が46年前半ごろに作成し、幹部に提出したらしい。
中国、韓国、ベトナムなど極東全域を記した総論と国別の各論からなる計約100ページの文書の中にあり、「最高機密」に指定されていた。
計画案では、戦後の混乱が続く当時を秘密工作員が日本への浸透を行う「絶好の機会」と強調。「表面からは隠されているものの、反民主主義的、反米的な動きが潜在していることも否定できない」とみなしている。そのうえで諜報活動の重点項目として、政治、経済、宗教、陸海軍、国際関係を挙げた。
具体的には、東京・横浜、神戸・大阪・京都、札幌、名古屋、長崎など日本全体で工作員は当面17~20人とし、日本を南北2つに分け配置を検討した地図や、予算案を作っていた。
工作員には企業からの引き抜きが適当として、その候補として、戦前に拠点があった米国企業の所在地や代表者名を記したリストも付けていた。
計画案の邦訳は、今月中旬発売されるメディア研究誌「インテリジェンス」(紀伊国屋書店)第2号に掲載される。

秦郁彦・日本大学教授(現代史)の話 米国の情報活動の一端を示す貴重な文書資料だ。ただ、マッカーサーは日本占領にSSUなどを関与させる気がなかった。占領政策はうまくいき、右翼勢力が復活する恐れも小さくなって、連合国軍総司令部(GHQ)は次第に対ソ政策へ重心を移した。この資料は、その過渡期に作られた実行困難な計画だったと思う。(毎日新聞 2003/03/02)

米の「赤狩り」日本でも 50年前の議事録発見
終戦直後の日本で共産主義者らに便宜を図ったとして、米陸軍省が1954年4月、神奈川県の米軍座間基地で自国の同省職員に対して開いた聴聞会の議事録が見つかった。当時、米国では東西冷戦を背景に「赤狩り」と呼ばれた共産主義思想の弾圧が行われており、これが日本の地にも及んでいたことが初めて確認された。

標的とされたのは在日米極東軍司令部の民間職員だったドン・ブラウン氏(1905-80)。連合国軍総司令部(GHQ)の民間情報教育局情報課長を務め、対日メディア政策を統括。GHQ解消後、米陸軍に移籍したが、匿名の告発で、過去の日本の左翼系知識人らとの交際などが「国家安全保障上の利益に反する」とされた。
議事録は、ブラウン氏の代理人の弁護士トーマス・ブレークモア氏(1915-94)が保管。ブレークモア氏が死後に日本に残した文書類の中から、占領史研究家の笹本征男さん(59)=東京都世田谷区=が見つけた。
議事録によると、聴聞会は54年4月27日に座間基地内で、在日極東軍司令部の安全保障聴聞委員会が開いた。(1)GHQ情報課長当時、新聞や雑誌の用紙割り当てで共産主義寄りの出版物に便宜を図った(2)共産主義者、同調者と交際があった-などの告発事実を告げ、尋問が始まった。
交際相手には、女性の新しい生き方を中心とした評論活動をした石垣綾子氏ら日本人3人や、GHQ民政局次長として憲法草案をとりまとめたチャールズ・ケーディス氏、「ニッポン日記」の著者として知られるジャーナリストのマーク・ゲイン氏らが挙げられた。
ブラウン氏は「用紙割り当ては日本人の委員会が決め、自分たちには割当量に介入する権限はなかった」などと激しく反論。石垣氏らとの特別な交際も強く否定した。
告発を裏付ける事実は乏しく、議事録には審査結果の記録はなかったが、疑惑は晴れたとみられ、ブラウン氏は50年代後半まで在日極東軍に勤務。その後も日本に滞在し、74歳で亡くなった。同氏は戦時中や終戦直後の新聞、雑誌など膨大な史料を残し、横浜市の横浜開港資料館に所蔵されている。

古矢旬・北海道大教授(米政治外交史)の話 日本で赤狩りの聴聞会が行われていたとは初耳。米国の研究家にも知られていない貴重な史料だと思う。1954年は、急先ぽうだったマッカーシー上院議員が「陸軍にも『アカ』がいる」と攻撃した時期で、米陸軍省は外部の介入を避けるため、組織防衛として内部で厳しく忠誠審査をしたのではないか。

<米国の「赤狩り」> 東西冷戦下の米国で猛威をふるったリベラル派などへの思想弾圧。米議会上院と下院に調査委員会が設けられ、大学、研究機関、映画界などで多数の学者、芸術家らが「共産主義者」のレッテルをはられて追放された。ジョセフ・マッカーシー上院議員の活動が有名で「マッカーシズム」と称された。1954年末、上院が同議員への非難決議を可決するなどして終息した。(中日新聞 2004/03/29)

日本版「CIA」の誕生 防衛庁に要員920人
日本は「情報大国」に跳躍するために、情報組職の大規模な拡大・改編と、人的・物的な情報収集の強化策を推進中だと、中国青年報が19日付で報じた。

▲日本版「モサド」の創設
防衛庁は3月、10万件の軍事秘密文書にマグネッティック署名作業を終えた。文書を盗み出した場合、防衛庁の建物内に設置された検知装置が作動して警報装置が鳴るように設計されている。赤色の特殊用紙の機密文書は、不法コピーの瞬間、黒色に変色し、内容を見ることができなくなる。
同時に、防衛庁情報本部要員を110人から920人に増やし、軍事情報の収集、解読、保安能力を大幅に強化させた。
また、内閣情報研究室、通産省など6、7の省庁に分散している情報組職を統合・拡大する作業も進めている。各省庁の情報を総括して首相に報告する内閣情報研究室職員が120人に過ぎず、役割を十分に果たせないために、1000人以上に大幅増員し、事実上新たな情報機関を創設する計画だ。
日本版「ネオコン」(新保守主義者)の石破茂・防衛庁長官は、「内閣情報研究室を米中央情報局(CIA)やイスラエルのモサドのような情報機関に変貌させる計画だ」と明らかにしたと、同紙は伝えた。

▲007学校もある
4月24日、小泉純一郎首相の机には、北朝鮮の龍川(ヨンチョン)駅爆発事故現場を撮影した衛星写真が置かれた。昨年3月に打ち上げられた2基の軍事偵察衛星が撮影したものだ。日本政府は、これを基に対北朝鮮支援規模を決定した。
軍事偵察衛星は、98年8月に北朝鮮が日本列島を横断するテポドン・ミサイルを発射したことに刺激を受けたもの。2基の衛星が毎日15回地球を周り、韓半島、中国、ロシアなどの軍事情報を探知する。
日本は昨年11月に、2基の衛星をさらに打ち上げようとしたが、ロケットの打ち上げ失敗で延期になった。しかし06年までに4基体制を構築することを決め、1370億円の予算を策定している。
情報要員に対する訓練も強化した。代表的な情報訓練機関である小平学校は、毎年35歳以上の自衛隊の将校50人を入校させ、各種情報収集能力の育成はもとより、韓国語、中国語、ロシア語などの語学能力を身につけるスパルタ式教育を実施している。
川口順子外相は最近、英国のマスコミとの会見で、「日本も現在、007のような情報要員を養成中だ」としながら、「そのため、英国の情報機関の経験を学びたい」と話していた。(東亜日報 2004/06/20)

自衛隊創設時から極秘に日米作戦計画 首相に報告せず
自衛隊創設直後から、ソ連による日本侵攻を想定した「日米共同作戦計画」が、自衛隊と在日米軍の間で毎年作られていた。最高度の秘である「機密」指定で、存在そのものも秘密にされてきた。朝日新聞の取材に対し、複数の元自衛隊幹部が初めて証言した。
また、それを裏付ける米太平洋軍司令部の秘密指定が解除された報告書も見つかった。日本政府はこれまで、共同作戦計画づくりは78年の日米政府間合意である「日米防衛協力のための指針(旧ガイドライン)」にもとづいて始まったと説明してきたが、それが完全に覆された。
この計画は、旧ガイドラインの策定が始まるまで、自衛隊の最高指揮官である首相にも報告されず、正式な「政治の承認」のないままに行われていた。政治問題化を恐れて防衛庁が内密に処理していた。自衛隊の文民統制(シビリアンコントロール)の根幹を揺るがす問題で、政治責任の欠如は、イラク多国籍軍をめぐる国会審議・承認の回避など、現在にも尾を引いている。
証言したのは、50年代から70年代にかけて、統合幕僚会議や陸上幕僚監部でそれぞれ共同作戦計画づくりを直接担当した中村龍平・元統幕議長、源川幸夫・元東部方面総監、松村劭(つとむ)・元富士学校機甲科副部長ら。その内容は、琉球大の我部政明教授が入手した米太平洋軍司令部の73年版年次報告書と一致した。
計画の正式名称は、日本語で「共同統合作戦計画」。英語では「Coordinated Joint Outline Emergency Plan」(CJOEP)。日本語版と英語版の2通りが作られた。日本語版はA4判で数千ページ。十数部しか作成されず、防衛庁内の金庫に厳重に保管されたという。
計画は毎年改定され、統合幕僚会議議長と在日米軍司令官が署名した。防衛庁内局の防衛局長を通じ、防衛庁長官に報告される形になっていた。
「共同統合作戦計画」のシナリオは、ソ連軍が北海道に上陸侵攻。自衛隊がまず独力で対処し、米軍の来援を待つ。米軍の来援部隊は、陸軍が3個師団プラス1~2個旅団、海軍がおよそ3個空母機動部隊、空軍が十数個飛行隊。数次に分かれて、1週間から2カ月かけて日本に展開することになっていた。
陸海空自衛隊はこの共同作戦計画を前提に、毎年度の日本防衛計画である「年度防衛警備計画」(年防)を策定してきた。
一方、米側は、こうしたソ連軍による直接の日本侵攻よりも、朝鮮半島有事が日本に波及する事態の可能性が大きいと見て、その検討を優先するよう強く求めた。だが、日本側は「集団的自衛権の問題に踏み込む恐れがある」と主張し、具体的な検討には至らなかったという。
共同作戦の指揮権については、日米双方とも「統一指揮が望ましい」という点では一致したが、どちらも相手の指揮下に入ることを望まず、この点は作戦計画に明記されなかった。
日米の制服間による計画づくりは米側の主導により、日米安保条約(旧安保条約)が結ばれた翌年の52年から始まった。自衛隊の前身である保安隊の時代だった。54年に自衛隊が誕生し、翌55年に最初の計画が陸上幕僚監部と在日米陸軍司令部によって完成。57年から陸海空を統合する形で、統合幕僚会議と在日米軍司令部の間で作られるようになった。
日米ともに政府レベルでの承認は正式に行われなかった。米側は政府承認を求めたが、日本側が「難しい」と拒否したためだ。米太平洋軍司令部の報告書には「極めて微妙な政治問題であるため、自衛隊の担当者は政府の承認を得ることに消極的だった」とある。
しかし、70年代に入って、米政府は世界規模で各国との共同作戦計画の見直しを行い、日本との作戦計画の政治的位置づけのあいまいさに着目。政府承認を強く求めた。この結果、75年に坂田道太防衛庁長官とシュレジンジャー米国防長官の間で、「作戦協力」の協議開始で合意。78年に計画作りの指針である旧ガイドラインが出来た。

◇      ◇
〈旧ガイドラインと日米共同作戦計画〉 日米両政府が78年、日本が武力攻撃を受けた際などの防衛協力や任務の分担などを明確にした指針。これにもとづいて、改めて「共同作戦計画」の研究が日米制服間で始まり、84年に北海道侵攻を想定した作戦計画「5051」、95年に中東などの有事波及を想定した同「5053」が完成。いずれも防衛庁から首相に報告された。
旧ガイドライン以前に共同作戦計画が作られていたのではないかという疑惑は、65年と75年の衆院予算委員会で、岡田春夫議員(社会党)が64年ごろの防衛庁文書と見られる共同作戦計画「フライングドラゴン」の関連文書を示して追及した。防衛庁側は「共同作戦計画はない」「幕僚レベルの研究はしている」などと否定していた。(朝日新聞 2004/07/01)

平和シンボルに昭和天皇を利用 開戦半年後、米国が計画
「象徴」記述 半年早まる 米機密文書から確認 一橋大教授
米国が太平洋戦争開戦からわずか半年後の1942年6月、情報工作の一環として昭和天皇を「平和のシンボル(象徴)として利用する」との計画を立てていたことが、CIA(中央情報局)の前身であるOSS(戦略情報局)の機密文書で明らかになった。
専門家によると、米国の公文書が天皇を「象徴」と初めて表現したのは、これまで確認された中では同年12月で、この史料が最も早い時期に当たるという。
マッカーサー将軍がこの計画を知っていたことを示す文書も併せて見つかり、戦後日本の象徴天皇制の起源を解明する上で極めて重要な手掛かりとなりそうだ。
一橋大の加藤哲郎教授がワシントンの米国国立公文書館で、2001年に解禁されたOSS史料の中から発見した。
42年6月3日付で陸軍省心理戦争課の大佐が起草した「日本計画(最終草稿)」と題する文書で、抜粋が3ページ、本文が32ページ。連合軍の軍事戦略を助けるための、日本に対するプロパガンダ戦略を提言した内容。
抜粋では「日本の軍事作戦を妨害し日本軍の士気をくじく」など4つの政策目標を設定。それらを達成する11の宣伝目的の中に「日本の天皇を、慎重に名前を挙げずに平和のシンボルとして利用すること」と明記。
本文では「天皇は西洋の国旗のような名誉あるシンボル」だとし「軍当局への批判の正当化に用いることは可能であり、和平への復帰の状況を強めることに用いることもできるだろう」と記されている。
戦後、日本占領の統治者となるマッカーサー将軍が連合軍の司令官として、42年8月5日付で「日本計画」に寄せたメモも見つかった。
加藤教授の論文は雑誌「世界」(12月号)に掲載される。(中日新聞 2004/11/07)

対外情報機関設置を提言 有識者懇、英MI6「参考」に
今年4月から協議を続けてきた町村外相の私的懇談会「対外情報機能強化に関する懇談会」(座長・大森義夫元内閣情報調査室長)が報告書をまとめ、外相に提出した。英国の秘密情報機関「SIS」を念頭に「特殊な対外情報機関」を外相の下に設置するよう求めている。
現在、外務省では、国際情勢に関する情報の収集と分析、調査のために国際情報統括官をトップとする組織があり、各地の大使館員らが日々の活動を通じて情報収集する体制になっている。
報告書は、現状について「不十分と言わざるをえない」と指摘。専門的な教育や訓練を受けた「情報担当官」を大使館などに配置し、「情報収集活動に特化した活動を組織的に行っていく必要がある」と提言している。
さらに、「場合によっては通常の外交活動と相いれないものがある」と踏み込み、「特殊な対外情報収集活動を行う固有の機関」を外相の下に置くのが妥当だとしている。この中で、英国の秘密情報機関「SIS」にも言及し、「わが国としても参考になる」と位置付けている。
SISは「MI6」とも呼ばれる秘密情報庁で、機構上は外相のもとに置かれている。海外でのスパイ活動などを展開していると見られるが、活動内容の詳細は不透明な部分が多いとされる。
また、報告書は、国内の法制度についても「秘密保全に関する法体系が未整備」と批判。「秘密に接する者」を対象に「法的義務を課す制度の確立」などを提言した。
懇談会は、拓殖大海外事情研究所の森本敏所長や江畑謙介客員教授ら5人で構成されている。(朝日新聞 2005/09/14)

冷戦末期の対日政策、機密文書判明
【ワシントン=松川貴】ジョージ・ワシントン大学が主宰する研究機関「ナショナル・セキュリティー・アーカイ」は14日、米情報公開法に基づき1977年から92年の対日政策などについて、1750件、8000ページ以上に及ぶ機密文書を入手したことを明らかにした。この中で、日本の軍事力強化に対する米国の働きかけの一端が機密メモから明らかになった。
このメモは、ワインバーガー国防長官がレーガン大統領にあてた81年4月20日付の「鈴木(善幸)首相との会談での日本の防衛努力に対する話のポイント」。
同長官は大統領に対して「弾薬、ミサイル、魚雷などの重要品目の購入のために、81年予算で、大幅な追加上積みについて考えるように求める」と、日米首脳会談で話すようにアドバイス。そのうえで「日本の防衛(力)は自由世界にとって非常に重要である」と説得するように求めている。
さらに「北西太平洋で、海と空の防衛能力をこの10年以内にほぼ倍増させることだ」とし「フィリピンの北からグアムの西までの輸送航路を守る自衛隊力を意味する」と鈴木首相に話すように助言している。
また北朝鮮の核問題について、91年11月18日付ベーカー国務長官がチェイニー国防長官に送った公電で「日韓に同じ政策を維持させることが重要で、その仲介のため、われわれは重要な役割を演じるだろう」と前置き、「日本は北朝鮮に経済的てこ入れが可能で、韓国はそれが効果的に運用されることを望んでいる。しかし、日本に対する南北の厳しい歴史は政策調整を阻害するだろう」と分析。
この分析は現在に至る核問題での日米韓の共通政策の難しさを予言したともいえる。
今回の文書はカーター、レーガンからブッシュ現大統領の父親のブッシュ政権までをカバー。同アーカイブは「湾岸戦争や北朝鮮の核問題から貿易、通貨問題の核心部分に、どうやって日本を巻き込むかということを含め、冷戦末期に米国が、世界戦略を構築する苦闘が読み取れる」としている。(東京新聞 2005/12/16)

CIA:日本の左派勢力の弱体化狙い秘密資金工作
米中央情報局(CIA)が1950年代から60年代半ばにかけ、日本の左派勢力を弱体化させ保守政権の安定化を図るために、当時の岸信介、池田勇人両政権下の自民党有力者に対し秘密資金工作を実施、旧社会党の分裂を狙って59年以降、同党右派を財政支援し、旧民社党結党を促していたことが18日、分かった。
国務省が編さん、同日刊行した外交史料集に記された。編さんに携わった国務省担当者は共同通信に対し「日本政界への秘密資金工作を米政府として公式に認めるのは初めてだ」と語った。
米ソ冷戦の本格化や共産中国の台頭で国際情勢の緊張が高まる中、米国が日本を「反共のとりで」にしようと自民党への財政支援に加え、旧社会党の分断につながる工作まで行っていた実態が裏付けられた。日本の戦後政治史や日米関係史の再検証にもつながる内容だ。
ニューヨーク・タイムズ紙は94年、マッカーサー2世元駐日大使の証言などを基に、CIAが自民党に数百万ドルの資金援助をしていたと報じたが、当時の自民党当局者は「聞いたことがない」としていた。(共同)(毎日新聞 2006/07/19)

資金提供で親米政権安定化…CIAの対日工作明らかに
【ワシントン=貞広貴志】米国務省は18日、米中央情報局(CIA)が1958年から10年間にわたり自民党や旧社会党右派の有力政治家への秘密資金提供などを通じ、親米・保守政権の安定化と左派勢力の抑え込みに向けた工作を実施していたとの記述を盛り込んだ外交資料集(1964~68年)を刊行した。
国務省が編さんしたもので、資料によると、CIAの秘密工作には<1>自民党主要政治家への財政支援と選挙アドバイス<2>親米で「責任ある」野党育成に向けた野党穏健派の分断工作<3>極左勢力の影響力排除のための広報宣伝活動<4>同様の目的による社会各層の有力者に対する「社会活動」──の4種類があった。
資料は具体的な政党名など固有名詞には言及していないが、このうち<1>はアイゼンハワー政権が58年5月の総選挙を前に「数人の主要な親米・保守政治家に限られた額の財政支援」を行ったのが始まりで、当時の岸信介政権の自民党有力者に渡ったものと見られる。受け取った政治家には、「米実業家からの支援」と伝えられた。<2>も同じアイゼンハワー政権下の59年に始まり、年間7万5000ドル程度を継続拠出、旧社会党右派に民主社会党結成(60年)を促す工作などに使われた模様だ。(読売新聞 2006/07/19)

CIAが左派弱体化へ秘密資金 50-60年代、保革両勢力に
【ワシントン=共同】米中央情報局(CIA)が1950年代から60年代にかけて、日本の左派勢力を弱体化させ保守政権の安定化を図るため当時の岸信介、池田勇人両政権下の自民党有力者と、旧社会党右派を指すとみられる「左派穏健勢力」に秘密資金を提供、旧民社党結党を促していたことが18日、分かった。
同日刊行の国務省編さんの外交史料集に明記された。同省の担当者によると、日本政界への秘密工作を米政府として公式に認めたのは初めて。
米ソ冷戦が本格化した当時、日本を反共の「とりで」にしようと、自民党への支援に加え、左派勢力を分断する露骨な内政干渉まで行った米秘密工作の実態が発覚。日本の戦後政治史や日米関係史の再検証にもつながる重要史実といえそうだ。
同省刊行の史料集「米国の外交」第29巻第2部によると米政府は58-68年「日本の政治動向への影響を狙った4つの秘密計画」を承認。アイゼンハワー政権は58年の総選挙前に「数人の親米保守の有力政治家」への資金提供を行うことをCIAに認めた。
資金提供を受けた政治家には「米ビジネス界からの支援」との説明がなされたという。依然機密扱いの公文書を基に書かれた史料集は額や個人名を明かしていないが「適度の資金援助」が60年代も続いたとしている。
またCIAは59年以降「左派穏健勢力」を社会党から分断し、「より親米で責任ある野党」の出現を目指した「別の秘密計画」を展開。民主社会党(後の民社党)が誕生する60年には、計7万5000ドルの資金援助を行い、秘密工作が打ち切られる64年まで同額程度の支援が続けられた。
米紙は94年、米元高官の証言を基に、CIAが自民党に数百万ドルの資金援助をしていたと報じたが、当時の自民党首脳は否定。米政府が秘密工作を公式に認めたことで、同党の説明責任が問われるのは必至だ。

戦略的重要性示す

田中明彦・東大教授(国際政治)の話 米国は、冷戦によって、日本を何としても戦略的に確保しなければならないということになった。(米ソ両陣営が)特に戦略的に重要だとみた国で、国内勢力にいかに浸透していくかという争いでもあった。ソ連側からも日本の左派への資金援助もあったと言われているし、冷戦という国際的な競争環境の中での、日本の戦略的重要性を物語っている。(工作が始まった時期は)岸元首相が日米安保改定に向かう中、左派の動きも強くなっていたから、米国側に引き留めるために資金援助したのだろう。今までは政治的な配慮で公開していなかっただけで、この時期のことが「歴史」になってきたということが(公開の)背景にあると思う。(中日新聞 2006/07/19)

戦後に「新日本軍」計画 旧軍将官ら立案
吉田首相が拒否?幻に 米公文書で判明
【ワシントン=共同】旧日本軍幹部が太平洋戦争後の1950年前後、「新日本軍」に相当する軍組織の設立を独自に計画していたことが20日、機密指定を解除された米公文書で判明した。構想は連合国軍総司令部(GHQ)の了解の下で進み、河辺虎四郎元陸軍中将(故人、以下同)らが立案。最高司令官には宇垣一成元大将(元陸相)を想定しており、当時の吉田茂首相にも提案していた。
戦後史に詳しい複数の専門家によると、服部卓四郎元陸軍大佐ら佐官クラスの再軍備構想は知られているが、河辺氏ら将官級による新軍構想は分かっていなかった。毒ガス隊など3部隊の編成を目指した河辺氏らの構想は最終的に却下され「幻の計画」に終わった。
文書は、GHQや中央情報局(CIA)の記録を保管する米国立公文書館で見つかった。
河辺氏の経歴や活動を伝える秘密メモによると、河辺氏は警察予備隊発足前の50年2月ごろ(1)毒ガス隊(2)機関銃隊(3)戦車隊-からなる近代装備の「警察軍」構想を立案。
51年に入ると宇垣氏を「最高司令官」に、河辺氏を「参謀総長」に充てることを「日本の地下政府が決定した」と記載している。
「地下政府」は、公職追放された旧軍幹部らが日米両当局にさまざまな影響力を行使するためにつくったグループを指すとみられる。
秘密メモはまた、吉田首相が河辺氏らの構想を「受け入れている」と明記。構想を米側に説明するため、河辺、宇垣両氏らの訪米も検討していたと記している。
しかし河辺氏らの構想は採用されず、GHQのマッカーサー最高司令官は朝鮮戦争発生直後の50年7月に陸上自衛隊の前身である警察予備隊の創設を指示。再軍備を通じた旧軍将官の復権は実現しなかった。専門家は、旧軍色を嫌った吉田首相が河辺案を拒否したと分析している。

宇垣氏の名利用か

秦郁彦日大講師(日本現代史)の話 旧軍人の再軍備計画で圧倒的に有名なのは服部卓四郎元陸軍大佐のもの。宇垣一成元陸軍大将の名前が戦後にも取りざたされていたというのは初耳だ。戦時中はいつも東条英機元首相の対抗馬として担がれそうになったのが宇垣氏で「陸軍をまとめるのは宇垣しかない」という待望論があった。河辺虎四郎元陸軍中将は宇垣氏の知名度を利用しようとしたのかもしれない。

河辺虎四郎氏(かわべ・とらしろう) 1890年9月、富山県生まれ。陸軍大学校卒。ドイツ大使館付武官などを経て参謀次長。陸軍中将。終戦時に降伏条件協議のためマニラに飛んだ。終戦後に連合国軍総司令部(GHQ)歴史課に勤務。旧日本軍幹部による秘密情報機関「河辺機関」を率いた。1960年6月死去。

宇垣一成氏(うがき・かずしげ) 1868年8月、岡山県生まれ。陸軍大学校卒。陸軍省軍務局軍事課長などを経て、1924年に陸相就任、25年に大将。陸軍の装備近代化を進めた。38年に外相。終戦後の53年、参院選で全国区最高点当選を果たした。56年4月死去。(中日新聞 2006/08/21)

新日本軍構想 米利用 復権狙う 旧軍幹部らが「地下政府」
【ワシントン=共同】連合国軍総司令部(GHQ)の資金提供で反共工作に従事した旧日本軍幹部が、独自の再軍備計画を練っていた新事実が20日、判明した。終戦時に参謀次長だった河辺虎四郎元陸軍中将が、宇垣一成元陸相をトップに担ごうとした幻の「新日本軍構想」。米公文書からは、冷戦や朝鮮戦争を受けて日本を「反共のとりで」にしようとする米国を利用し、復権を図ろうと暗躍した旧軍幹部の姿が浮かび上がる。
「宇垣一成が率いる日本の地下政府」「日本の地下政府の情報部門であるKATO機関」
GHQの情報部門、参謀2部(G2)が集めたとみられる情報を記す秘密メモには「日本の地下政府」という言葉が何度も登場する。「KATO機関」の別名を持つ河辺氏の反共工作組織「河辺機関」が「地下政府」と呼ばれる旧軍幹部らの集団の一翼を担い、米側とのパイプ役を務めていたことが読み取れる。
1951年5月の秘密メモ「日本の情報機関グループと日本の国家的復活」は「明確な形で全能の政府が存在するわけではない」としながらも48年以降、公職追放になった旧軍幹部らが「地下政府」を組織していた経緯を説明。
宇垣氏に加え、首相経験者の若槻礼次郎、岡田啓介両氏や、宇垣氏を首班とした軍部独裁政権を樹立しようとした31年のクーデタ一未遂事件「3月事件」に参画した国家主義者の大川周明氏らが「地下政府の完全な実権」を握ろうと動いたと伝えている。
「河辺機関」の活動を通じてG2のウィロビー少将と関係を深めた河辺氏は、吉田茂首相のブレーンも務めた辰巳栄一元中将らとともに宇垣氏に接近。「陸軍のまとめ役として待望論が根強かった」(秦郁彦・日大講師)宇垣氏を最高司令官とし、自身は参謀総長に就任する形で旧軍の復活を狙ったとみられる。
終戦前、何度も首相候補に挙がり「宇垣軍縮」で陸軍の近代化を図った宇垣氏は、53年参院選で全国区最高点で当選する。知名度抜群で人望もあった宇垣氏を担いだ新軍構想は、旧軍幹部から見れば筋の悪い話ではなかったようだ。しかし軍人嫌いで知られる吉田首相と、日本の国家主義の台頭を警戒する米当局の抵抗に遭い、挫折したとみられる。(中日新聞 2006/08/21)

「日本版CIA」検討 安倍氏
≪首相直轄で情報力強化≫
安倍晋三官房長官が、次期首相就任を見据え、首相直轄の「対外情報機関」を創設し政府のインテリジェンス(情報・諜報(ちょうほう))機能の強化を検討していることが23日、明らかになった。「対外情報機関」は「日本版CIA」ともいえるもので、日本が自前の情報をもたなければ外交・安保政策は立ちゆかず、国と国民の安全、国益を確保することはできないとの問題意識がある。
政府には現在、警察庁、公安調査庁、内閣情報調査室などの情報部門がある。しかし、国内の治安情報の収集、分析に重点が置かれ、対外情報の収集は諸外国に比べ人員、権限とも極めて脆弱(ぜいじゃく)で「戦後日本がもっとも軽視してきた分野」(自民党幹部)だといえる。
検討されているのは、「対外情報機関」を内閣官房に置き、国内外で国際テロ情報、外国の政治、軍事情報の収集活動にあてる。米中央情報局(CIA)や英対外情報部(MI6)など各国の情報機関とも、情報交換をはじめ連携する体制を構築。要員は警察、防衛両庁や内閣情報調査室、外務省、民間から優秀な人材を登用する。
現行の次官級の「内閣情報官」を官房副長官級へ格上げし、「対外情報機関」や情報を評価、分析するスタッフである「情報補佐官」を指揮。重要な情報は首相へ直接、報告を上げるシステムへ改善し、関係各省庁による「内閣情報委員会」も新設し政府の「インテリジェンス・コミュニティー」を確立する。
安倍氏は自民党幹事長時代の平成16年、雑誌「正論」7月号で「国家戦略としての情報活動の重要性にいま一度目を向け、その機能を向上させなければならない」との考えを示している。今年3月には、「内閣情報官」に警察庁の三谷秀史外事情報部長(当時)を抜擢(ばってき)し、「安全保障や有効な外交を展開するためには情報収集能力が極めて重要だ」と強調した。
自民党は6月、「国家の情報機能強化に関する検討チーム」(座長・町村信孝前外相)が、「対外情報機関」「内閣情報委員会」の創設などを提言しており、安倍政権が誕生すれば、これをたたき台に年内にも政府のインテリジェンス機能強化に着手するとみられる。(産経新聞 2006/08/24)

防衛庁:米国に事務所を新設方針 軍事情報専門、大使館から独立
防衛庁は米情報機関との連携を強化するため、ワシントンに日本大使館から独立した情報専門の連絡事務所を新設する方針を固めた。防衛政策局幹部を年内にワシントンに派遣して事務所設置の作業に着手、年明けからの活動本格化を目指す。
これまでも防衛庁は米情報機関との間で情報を交換しており、7月の北朝鮮による弾道ミサイル発射の際にも衛星写真、北朝鮮軍の交信記録などを共有した。
しかし、米側の分析手法は格段に専門性が高くなっており、政府内には「何か起きた時に危機対応的に情報を共有するだけでは不十分」との指摘があった。また、出身省庁別に担当を分担する日本大使館の体制では連携が取れないケースも目立ち、防衛庁は軍事情報専門家による恒常的な連絡窓口が必要と判断した。
防衛庁が連絡事務所の主な相手先に想定しているのは、国防総省国防情報局(DIA)。DIAは物理・化学分析による計測情報が専門でスパイ組織も保有、国防総省管轄下の情報機関の束ね役の役割も担う。さらに、電波情報の国家安全保障局(NSA)、画像情報の国家地空間情報局(NGA)との連携も視野に入れている。【古本陽荘】(毎日新聞 2006/09/17)

ライシャワー勧告で中止 自民党への秘密資金工作
【ワシントン23日共同】1950年代後半から60年代にかけ、日本の保守政権安定と左派の弱体化を狙って自民党有力者らに資金を提供していた米中央情報局(CIA)の「秘密資金工作」は、工作発覚により日米関係に重大な支障が出ることを懸念した故ライシャワー駐日大使(当時)の勧告を受け、中止が決まったことが23日、分かった。関連文書の内容を知る米政府高官が共同通信とのインタビューで語った。
自民党有力者と、旧社会党右派を指すとみられる「左派穏健勢力」に秘密資金を提供していた同工作をめぐってはことし7月、国務省刊行の史料集「米国の外交」で存在が確認された。しかし関連文書は公開されていないため、中止に至る経緯は分かっていなかった。
高官はまた、米政府が秘密工作の中止に至る経過を伝える公文書3点の開示が、在日米大使館とCIAの反対で見送られたことを明らかにした。開示に踏み切った場合の日米関係への影響を危惧したとみられる。
高官によると、ライシャワー大使は64年1月、国務省の要請を受け、秘密資金工作に関する意見を伝達。(1)日米関係が成熟し、親米政治家への資金提供の必要はなくなった(2)工作発覚時のダメージが大きい-ことを理由に中止を勧告した。
高官は、ジョンソン米政権が最終的に工作中止を決める際、この勧告が「非常に決定的だった」と解説した。
今年7月に国務省が出した「米国の外交」第29巻第2部「日本」は、秘密工作に関するライシャワー氏のホワイトハウスあて書簡など関連公文書を掲載せず「編集者による注釈」として秘密工作の概要だけを説明した。

<エドウィン・ライシャワー氏> 米ハーバード大教授を経て日米安保条約改定後の1961年、ケネディ政権下で駐日大使に着任。沖縄返還交渉などに携わり、66年まで大使を務めた。東京で生まれ16歳まで日本に滞在、米国でも有数の知日派で日本研究者。沖縄返還の早期実施の必要性など米政府の重要決定に影響を与えた。大使離任後はハーバード大に戻り、日米友好に貢献。81年に「核を積んだ米艦船が日本領海を通過・寄港している」と発言、反響を呼んだ。90年9月に79歳で死去。

<対日秘密資金工作> 米紙ニューヨーク・タイムズは1994年、マッカーサー2世元駐日大使の証言などを基に、中央情報局(CIA)が50-60年代に自民党に数百万ドルの資金を援助していたと報じ、自民党は否定した。その後、岸信介政権への支援の重要性を指摘する米秘密公電などが見つかったほか、選挙資金援助の秘密工作に関与する特別グループが58年に設置されたことが判明した。96年には、65年の沖縄立法院選でCIAから自民党を経由した秘密資金援助計画が策定されていた事実も発覚した。(共同通信 2006/11/23)

軍事情報収集を一元化 協力者獲得やメディア戦略 来月、陸自に新隊
自衛隊の海外派遣や有事に備え、情報収集機能を一元化するために3月発足する陸上自衛隊の中央情報隊(約600人)の全容が5日、明らかになった。新設する「現地情報隊」は、海外派遣先で住民の協力者を獲得するとともに、地元メディアと友好的な関係を築いて情報発信に利用する。
中央情報隊は防衛相直轄で、隊本部(約50人、隊長は陸将補)は防衛省のある東京・市谷に設置。指揮下には、現地情報隊、基礎情報隊、地理情報隊、情報処理隊が置かれる。
朝霞駐屯地(東京都、埼玉県)の現地情報隊(約50人)は、海外派遣命令が出た際に現地入りする陸自先遣隊に同行。派遣先の住民を協力者にしてヒューミント(人的情報)ネットワークを構築するとともに、多国籍軍や治安・警備機関からテロなどの脅威情報を収集する。
また、メディアを通じて陸自活動に理解を求める戦略を実施。活動を住民がどう評価しているかも調査する計画だ。隊長には2等陸佐を充てる。
東京・市谷の基礎情報隊(約100人)は既存の中央資料隊を再編。公刊物などから国際貢献で派遣される際に必要な現地情報を収集するのに加えて、朝鮮半島有事などを想定した陸自の対テロ・ゲリラ戦闘上必要な軍事データ集めを強化する。
東京都立川市の地理情報隊(約360人)は既存の中央地理隊で、国内外の地図・画像情報のデータを収集する。市谷の情報処理隊(約40人)は新設部隊で、各部隊が集めた情報をデータベース化する。
中央情報隊は海外派遣や「周辺事態」に即応するため3月に発足する中央即応集団(約4100人)と緊密に連携。同集団指揮下の対テロ・ゲリラ専門部隊の特殊作戦群(千葉県・習志野駐屯地)や中央即応連隊(約700人、栃木県・宇都宮駐屯地)を情報面で支える。(中日新聞 2007/02/05)

旧日本軍幹部利用の工作失敗=情報不正確、中共浸透も-CIA文書
【ワシントン25日時事】第2次世界大戦後の1940年代末から50年代初め、日本を占領統治した連合国軍総司令部(GHQ)が旧日本軍幹部らを利用して展開した情報収集活動や反共工作について、米中央情報局(CIA)が、大半はうまいかなかったと判断していたことが25日までに分かった。米国立公文書館の調査グループが、機密指定を解除されたCIA文書を基に報告書をまとめた。
報告書によると、49年、GHQ参謀2部(G2)の資金援助を受けて、「タケ・マツ作戦」と呼ばれる秘密工作が開始された。「タケ」は海外での情報活動、「マツ」は日本国内の共産勢力の情報収集を意味し、旧日本軍の河辺虎四郎元参謀次長や有末精三元参謀本部第二部長(いずれも故人)が主導した。
ソ連(当時)や中国、北朝鮮に絡む情報収集などを目的としていたが、CIAによると、提供された情報の多くは不正確で、作り話もあった。しかも「50年代初めまでに、有末氏のグループには、さまざまなレベルで中国共産党の工作員が浸透していた」とされる。(時事通信 2007/02/26)

CIA、故児玉氏を酷評・情報工作「役立たず」
【ワシントン=共同】右翼の大物、故児玉誉士夫氏らを使い、東西冷戦中に情報収集や反共工作を行った米中央情報局(CIA)が、児玉氏らを「役立たず」として酷評していたことが2005―06年に機密解除されたCIAの内部文書で分かった。AP通信が25日までに伝えた。
文書は児玉氏のほか、陸軍参謀だった辻政信元大佐の働きについても「人格、経験の両面でどうしようもない」と切り捨てており、日本での工作活動全般が期待通りの成果を挙げていなかったことをうかがわせている。
1951年の文書でCIAは、日本での協力者に関し「名声や利益を得るために情報を水増ししたり、完全にでっち上げたりすることがよくある」と指摘。ソ連のサハリンへの浸透工作を図るため、ボートの資金を与えた協力者がいなくなってしまった具体例などを記している。児玉氏については53年の報告書で「情報工作員としての価値はほぼゼロ」と断定。「プロのうそつきで悪党、ペテン師、大どろぼう。情報工作は完全に無理で金もうけ以外に関心がない」と散々な評価を加えている。(日本経済新聞 2007/02/26)

日米共同の戦争司令部
昨年2月横田に創設
日米両政府の在日米軍再編合意に基づく日米共同の戦争司令部である「共同統合作戦調整センター」(BJOCC)が、昨年2月に米軍横田基地(東京都福生市など)に創設されていたことが判明しました。同センターがすでに活動を始めていることは今年6月に在日米軍側が明らかにしていましたが、設置時期が分かったのは初めてです。
同センターの設置は、事実上、自衛隊が米軍の指揮のもとに置かれ、憲法違反の集団的自衛権の行使につながる重大な動きです。
在日米軍再編で日米両政府は、米軍と自衛隊のいっそうの一体化・融合を狙っています。その中核の1つが、米軍と自衛隊との“統合司令部”である同センターです。在日米軍再編の日米合意(2005年10月)で横田基地への設置が打ち出されていました。
米軍準機関紙「星条旗」11月17日付によると、同センターは、同基地の在日米軍司令部の地下施設に設置され、昨年2月実施の日米共同統合指揮所演習で活動を開始。昨年7月の北朝鮮のミサイル発射などにも対応しました。24時間態勢で運用され、最大で150人が12時間交代で勤務できます。11月実施の日米共同統合実動演習でも使用されました。
同センターの設置は、アジア太平洋地域を管轄する米太平洋軍の司令官や日本の軍事当局者と在日米軍司令官との意思疎通をよりよくするのが狙いとされます。刻々と新しい戦況情報が送られてくる「危機行動チーム」のメーンフロアでは、それぞれの部署に米陸・海・空軍、海兵隊の兵士らとともに、それに対応した各自衛隊の兵士が配置されます。
在日米軍再編では、「ミサイル防衛」などを担う航空自衛隊航空総隊司令部(東京都府中市)が、10年に横田基地に移設される計画です。同基地に建設される航空総隊の新しい建物は、BJOCCとトンネルで結ばれる予定だとされています。(しんぶん赤旗 2007/12/01)

【日本共産党】 一水会からのメモ

 たまたま最近出会ったある議員から、内部文書を見せてもらう事がありました。今年の1月21日に全国都道府県財政部長会議が開かれ、浜の副委員長が党費納入問題について語っています。

それによると、昨年の年間党費納入率は63.9%。党費を納めているのは全体の6割であり、4割は未納です。公称40万人の党員数が本当だとしても、24万人しか実際に党費を払っていない計算になります。特に東京、愛知は6割にも満たないと指摘されています。

党費は収入の1%とされ、月給30万円とすれば月額3千円、収入の低い人は月額1千円、また党費免除というケースもありますが、払えない額ではありません。しかし、その党費ですら払わない実情がある。党費を払わないという事は活動に参加していないという事と同じです。この数字から推測するに、実際の共産党の活動党員は20万前後ではないかと思います。

しかし、ここ1年間はメディア報道にある様に。毎月千人以上新入党員が増えている。今年の会議では入党者2千人突破を目指そうとある。しかし、本来なら新入党員が増えているなら、党費も増えるはずです。わざわざ共産党に入るくらいだから、積極的に活動するだろうと思いますが、実際新入党員の多くが、党費も払わないし、赤旗すら読みません。つまり議員から世話になって入党申込書に名前は書くものの、ほとんど活動しないというのが実態です。そういう党員が増えている事実も、この党費納入率の数値から伺う事ができます。

またこの会議では、福井県の党組織が納入率を上げるべく活発な活動を続け、全国の教訓にしようと言われていますが、先月未納の党員に今月納入してもらうよう確認させる事に取り組んだと言う。こんな事は昔ならやりもしませんでした。党員が党費を集めないで、どうやって支持者にカンパを貰いに行ったり、赤旗購読者を増やしたり、選挙の協力を得られるのでしょうか? 党費集めに党の機関がこんなに苦労している様では、それだけで疲れ果ててしまい、党活動も外には向かえないでしょう。私が入党した当時(40年以上前)、党費納入率は100%が当たり前でした。革命政党・前衛政党である共産党が党内で党費を集められないのなら、どうやって労働者を指導できるのでしょうか?



創価学会は、先の都議選で全国から信者を動員、前回の議席を確保したが、共産党は東京の基盤が党費を払えない幽霊党員ばかりだったものだから、結果大幅に議席を減らしてしまった。

『蟹工船』ブームで若者の入党が多くなっているというプロパガンダを共産党は行っているが、実態は「派遣労働相談や生活保護相談」で世話になった共産党議員の後援会に入会した感覚の党員が多いのが実態なのだろう。
これでは彼らに運動の先頭を切るような期待をすることは無理だ。

悲しいかな60代が中心となって選挙運動を展開しているというのが共産党の現実だ。

【テレビ番組】 サンデープロジェクト」

 テレビで選挙に向けた激しいイデオロギー戦が展開されている。と言うより、経団連側からの一方的で攻撃的なプロパガンダが政治番組の視聴者にゲリラ豪雨のように集中散布されている。

昨日(7/26)のテレ朝「サンデープロジェクト」で行われた労働者派遣法改正に対する反動プロパガンダも凄まじかった。報道の中立性など最初から寸毫もなく、選挙後に与党となる現野党が取り纏めた改正案に対する糾弾が、田原総一郎と財部誠一と城繁幸によって徹底的に加えられるだけの内容になっていた。

スタジオに揃えた与野党の出演者は名目に過ぎず、現に与野党間での派遣法の討論場面は全くと言っていいほどなかった。自民党の石原伸晃と公明党の石位啓一はただ座っているだけで、討論の応酬は田原・財部・城のサンプロ側3人対野党4人の間で行われているのである。

問題提起を田原総一朗がして、主張は財部誠一がやり、民主党の松本剛明が反論を始めると途端に田原総一朗が遮って最期まで議論をさせず、財部誠一に振って反論をさせ、城繁幸に纏めさせる。

番組が視聴者に示した討論の結論は、
①派遣法改正をすれば日本の製造業は完全に空洞化すること、
②派遣法改正は日本経済にとってカントリーリスクであること
③非正規労働者が増えた責任はすべて連合にあること、だった。

民主党の「消費税増税4年間凍結」の政権公約は、テレビに登場する幹部たちの発言、特に岡田克也の曖昧な応答や、藤井裕久の「増税前倒し確約」発言によって次第になし崩しにされ、確固たる公約の信頼性を失いつつあります。

この状況を見ると、果たして民主党が労働者派遣法を改正して製造業派遣の規制に踏みこむ意思があるのか、大いに疑わしくなります。
無論、何度も言うように、今回の野党案そのものは事実上「骨抜き」で、登録型派遣を全面禁止する内容では毛頭なく、登録型の規制と言えるかどうかも怪しいのですが。

「サンデープロジェクト」を見ていると、経団連の指令を受けたマスコミは、すでに自民党の政権維持は諦めて、票を自民党に誘導するのではなく、政権を獲得する民主党の政策を選挙前の現在のものから経団連のマニフェストと同じ内容に転換させるべく揺さぶりをかける戦術にシフトしているようです。
その最大の標的が消費税増税で、告示前にマスコミ各社は、「4年間増税凍結の是非」とか、「民主党の4年間凍結は現実的か」を問う世論調査の波状攻撃に出るのではないでしょうか。
民主党の中でも新自由主義者の岡田克也は即増税派です。

記事に書きましたが、討論の最中、田原総一朗は、「連合っていうどうしようもない組織」が本来はクビにできる正社員を守っているために、年功序列の高い賃金が維持されているのだと暴言を吐きました。
この発言に対して連合は抗議をしないのでしょうか。番組では、松本剛明も辻元清美も黙って素通りさせていました。これは麻生首相の高齢者侮辱発言と同じかそれ以上に悪質で異常な暴言であり、中立であるべき報道番組のキャスターとして、特に選挙前の放送という状況や立場を考えれば、「政治的公平」を定めた放送法上も看過できない行為だと思われます。

現在、テレビでは自治労や日教組は「反日左翼」のレッテルが公然と貼られて、特に民報の政治番組の出演者から当然のように悪罵され排斥される政治対象となっていますが、世論調査でも民主党支持者が自民党支持者を追い抜き、連合の支持と支援を受けた民主党政権が誕生するかという現在、果たしてこのマスコミの「常識」や報道姿勢はそのまま放置されていいのでしょうかね。

少なくとも、この選挙の後は、過激な反共新自由主義者である城繁幸や財部誠一が報道番組の解説席に座って「中立」を偽装する図はなくなるように、テレビの世界も変わって欲しいものです。