2006年9月26日火曜日

【世論調査】 世論調査一覧

giinsenkyo@ウィキ-世論調査
社会調査-Wikipedia

世論調査
社団法人長野県世論調査協会:http://www.nagano-yoron.or.jp/

【皇室問題】 昭和天皇(独白録)

『昭和天皇独白録』の史料的価値

1990年、元宮内省御用掛・寺崎英成の遺族のもとに、終戦直後に書かれた昭和天皇の「独白録」が残っていることが判明します。大きな反響を呼びました。ご記憶の方も多いでしょう。

当時、学生だった私は、基礎ゼミ担当のA先生(政治学の世界では非常に有名な方ですが)から、こんなことを聞かされました。

「独白録とか、回顧録というのは、史料として1級とはいえません。後から書かれたものだから、どうしても正確さに欠くし、無意識でも弁明が入ってしまう。1級品の史料とは、日記をおいてほかにはありません」

むろん、一流の教養人であった昭和天皇の日記が存在しないわけはありません。しかし、宮内庁は、それを公にする意向は、まったくないようです。

『昭和天皇独白録』はなぜ書かれたか
しかし、史料としてはあまり使えないものとしても、これがなぜ書かれたのか、そのことを知っておく必要は十分にあるでしょう。

アメリカは、「天皇制存続、昭和天皇の皇位も存続」という方針で日本占領を行おうとしていました。そのほうがやりやすいと考えたからです。

しかし、ソ連やイギリスなどは天皇の「戦争責任」追及を主張。これをアメリカはかわす必要がありました(→拙稿「日本国憲法は「押し付け」か?もご参照ください)。

そのため、GHQと寺崎が接触。そして『独白録』が書かれ、そしてそれは英訳され、GHQの「天皇無責任」の材料として使われました。こうして昭和天皇は訴追を免れ、天皇制は存続しました。

『独白録』には昭和天皇の率直な気持ち、発言が多く記録され、興味深いのですが、これが書かれた背景として、このようなことがあったことは見過ごせません。

そもそも「戦争責任」とは?
そして、今なお、昭和天皇の「戦争責任」を問う声は強く、また、それに反対する声も負けず、論争が続いているところです。

しかし、そもそも「戦争責任」とはいったい何なのか。開戦責任なのか、終戦をサボタージュした責任なのか。開戦=責任が発生するなら、ポーランド侵攻したドイツに対し宣戦布告した英仏にも責任が発生する、ともいえなくはありません。

「戦争責任」という言葉は、その意味じたいがあまり議論されないまま、昭和天皇の責任の有無のみが議論されているようなところがあるように思えてなりません。

アメリカにとっての「戦争責任」
しかし、日本を当時占領統治していたアメリカにとって、「戦争責任」の意味は明確でした。

つまり、「誰を処罰すれば、アメリカ人はじめ、連合国の多くが納得するか。その処罰の対象者が負うのが、『戦争責任』なのだ。」

もちろん、日本統治方針の前提として、天皇に戦争責任を負わせてはならない。いかに天皇の責任を回避し、他の者に責任を「かぶせる」かが大きな課題となったわけです。

こうして、アメリカによって東条英機や近衛文麿らが天皇に戦争を「そそのかした」という「伝説」が作られ、近衛は自殺、東条らは東京裁判で絞首刑に処せられたのでした。

近衛文麿の「戦争責任」観
さて、戦争責任という言葉は、何も戦後生まれたものではありません。

近衛文麿──開戦直前の日米交渉を途中で投げ出した首相ですが──は、1944年の段階で、後の首相となる東久邇宮稔彦王に、「『世界の憎まれ者』になっている東条英機に全責任を負わせるのがいい」と語っています。

近衛もまた、天皇への責任追及回避のため、「他の者に責任をかぶせる」ことを考えていたのでした。もっとも、自らが首相のとき、アメリカが猛反発し、日米関係悪化を決定的にした「フランス領インドシナ南部への進駐」を、陸軍にいわれるまま実行した「責任」は、自覚していないようですが。

とにかく、近衛は動き出します。1945年になると、昭和天皇に早期終戦を求め(「近衛上奏」)、ソ連を仲介とした終戦工作の責任者になります。

しかし一方で、彼は京都で岡田啓介(2・26事件の際の首相)、米内光政(元首相、当時海軍大臣)、ある寺院の門跡家と協議、「昭和天皇退位、裕仁法皇という称号で出家のうえ蟄居」という計画を図っていました。

近衛文麿と高松宮宣仁親王
そして原爆投下、ソ連参戦。八方ふさがりの中、昭和天皇の「聖断」によって終戦となりました。

当初、終戦の条件となる連合国によるポツダム宣言受諾について、政府は陸軍の主張を入れていくつかの条件をいれる、ということにしていました。

しかし、近衛は、昭和天皇の弟・高松宮宣仁親王と結び、「国体護持(天皇制維持)」だけを条件にすることを宮中と政府に迫りました。こうして日本はほぼ無条件での降伏、となったのです。

近衛と高松宮は東条らを頂点とする陸軍に批判的な態度をとっていました(反東条派には同情的)。このことが、後にひとつの「事件」の背景になっていきます。

明治天皇を目標にした昭和天皇
昭和天皇は、幼いころから聡明さを発揮したといい、それを示すエピソードには事欠きません。このことは、病弱だった大正天皇に対する不安を払拭する大きな材料でした。

昭和天皇は、その目標を、病弱な父ではなく、祖父・明治天皇におくことになります。明治天皇と昭和天皇は、若くして天皇になったという共通点もありました。

つまり、明治天皇は元服も済ませていない15歳で即位。昭和天皇の即位は25歳ですが、父大正天皇の病気によって、20歳で摂政として、実質的に国政の頂点にありました。余計に、明治天皇への思いは深かったことでしょう。

若くして即位し、近代日本を創り上げた明治「大帝」が、昭和天皇の目標であったことはいうまでもありません。

明治天皇になれなかった昭和天皇の運命
しかし、明治天皇と昭和天皇をとりまく環境は、あまりに違っていました。

明治天皇には、初期には大久保利通・木戸孝允・西郷隆盛・岩倉具視ら強力な政治家が、後期には政府に伊藤博文、軍部に山県有朋が君臨し、それぞれ明治天皇を支えていました。

明治天皇は、彼らに絶大な信任を与えることが、政治の安定と日本の成長につながることを、理解するようになりました。日清・日露の両戦争での勝利は政府と軍部が一丸となって戦った結果でした。

しかし、昭和天皇の周りには、そのようなブレーンはいませんでした。宮中も、政党も、軍部でさえも権力争いにまみれ、最後の元老・西園寺公望はあまりに年老いていました。

この勢力を一気にまとめることのできたのは、近衛文麿だけでした。しかし彼は優柔不断で、軽率なところもあり、そして何よりも、困難になると政権を投げ出すところがありました。昭和天皇は、そんな近衛にあまり信頼がおけなくなったようです。

昭和天皇は常に孤独に決断しなければなりませんでした。木戸幸一(最後の内大臣)のようによく補佐してくれる宮中の人物はいました。しかし、明治天皇においての伊藤・山県のように権力がありしかも大局観のある人物に出会うことは、できなかったのです。

近衛の「昭和天皇退位論」
さて、終戦で東久邇宮稔彦王が首相就任。近衛は副首相格として政権に返り咲きます。

東久邇宮政権は10月に崩壊しますが、近衛は活発でした。このころから、マスコミに「昭和天皇退位の可能性」が取りざたされるようになります。

そして近衛は、記者たちにその可能性を匂わせはじめます。AP通信のラッセル・ブラインズ記者には、「日本の皇室典範には退位の規定がない」と語りました。これは暗に、皇室典範の改正と天皇退位を示唆するものでした。

さらに近衛は「国民投票による天皇制維持」を模索もしていました。彼の構想の中では、当然、そのとき天皇となるべき人物は昭和天皇ではなく、11歳の皇太子明仁親王(現天皇陛下)であり、そして高松宮が摂政になる、という目論見であったのだと思われます。

近衛計画の挫折、そして近衛の死
しかし、GHQはこの動きを当然こころよく思っていません。特に、昭和天皇との会見を果たしてその人物性を見極め(たつもり)、そして昭和天皇の命令で占領政策が滞りなく進むさまをみた、最高司令官マッカーサーは、この動きを封じにかかります。

詳細は今もって不明なところも多いのですが、とにかく、12月、近衛に対する戦犯容疑での逮捕状発令。近衛は、薬物自殺します。

マッカーサーにとって、昭和天皇の存在は占領政策にとって(もちろん、アメリカにとって都合のいい政策ですが)欠かせない存在でした。マッカーサーには、近衛を「抹殺して」でも、昭和天皇を存置しておく必要があったのかもしれません。

しかし、「昭和天皇退位論」は、止まりませんでした。それは、予想もしないところから、火ぶたがあがったのでした。

止まらぬ「昭和天皇退位論」
1946年2月、枢密院(明治憲法下での天皇の最高諮問機関)で、昭和天皇の3人目の弟、三笠宮崇仁親王が、遠まわしに「天皇退位」を求めました。

『芦田均日記』(芦田はのちの首相)によると、そのとき昭和天皇の顔は青ざめ、神経質な態度をあらわにしたといいます。

また、東久邇宮も、前ページで出てきたAP通信のラッセル記者に対し、こちらはわりとストレートに、天皇退位の必然性について語り、そして、「それに多くの皇族が賛成している」と述べているのです。

思わぬ皇族からの「反乱」は、昭和天皇にひとつの決断を迫りました。

マッカーサー草案と昭和天皇
そのころ、天皇の権限をまったくなくした象徴天皇制を規定する新憲法案が、マッカーサーから示されていました。この内容には政党政治家たちも、宮中も、そして天皇も驚き、受け入れに躊躇します。

しかし、相次ぐ「天皇退位論」に、天皇は反応せざるをえませんでした。「象徴天皇制」を受け入れ、マッカーサーが望む自分の皇位続行に、応じることにしたのでした。これが「第2の聖断」と一部で言われているものです。

そして新憲法制定、施行。と、GHQは、「象徴天皇制のため」と、直系宮家を除く11宮家すべての皇籍離脱を勧告。これは、うがったみかたですが「天皇退位論」に対する報復だったのでしょうか。もっとも、先の東久邇宮は自ら皇籍離脱を申し出てはいたのですが。

※拙稿「旧皇族の成り立ちと現在」もご参照ください。

「三笠宮発言」と高松宮
さて、なぜ三笠宮は唐突に昭和天皇退位論を述べたのでしょう。詳細はわかりません。

しかし、三笠宮の兄で、昭和天皇の弟、高松宮の動きが影響していないとは、いえないでしょう。

高松宮は先にも述べたとおり「天皇退位論者」近衛との結びつきが強かった人でした。すでに終戦前、近衛とたびたび会い、「退位した際、高松宮が摂政につく」ことを、話し合っていたとも言われます。

そして終戦前から、このことが原因で天皇と高松宮の間には次第に大きな対立が生まれてきたようです。

それが、三笠宮発言にどのような影響を及ぼしたかはわかりません。しかし、宮中で孤独な昭和天皇と、割と自由に動きがとれる高松宮、三笠宮がどのように結んでいたか、想像できないことはありません。

ちなみに、1975年2月号の『文藝春秋』に、高松宮のインタビューが掲載、自らを「和平派」と語る高松宮の記事に昭和天皇は激怒したといいます。また、高松宮が「昭和天皇は戦争をとめることができた」という発言があったということも(高松宮の死後発覚)、問題になりました。

退位できなかった昭和天皇
しかしながら、昭和天皇は退位しようとまったく考えなかったわけではありません。むしろ、積極的に考え、その意向を示していた時期もありました。

敗戦直後、昭和天皇は退位を木戸内大臣にもらしています。木戸幸一日記の8月29日の項から一部引用します。

戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納める訳には行かないだろうかとの思し召しあり。聖慮の宏大なる誠に難有極みなるも、……その結果民主的国家組織(共和制)等の論を呼起すの虞(おそ)れもあり、是は充分慎重に相手方の出方も見て御考究遊るゝ要あるべしと奉答す。

その後、東京裁判終結時、そして占領終結時の2回、天皇は退位の意向を漏らしたといいます。しかし、ワシントンの意向で、それは実現しませんでした。昭和天皇の退位は、東京裁判の正当性を揺るがしかねない問題だったからです。

昭和天皇のその後
その後の昭和天皇の仕事は、「象徴天皇」としての天皇像を国の内外にアピールすることでした。そのため、積極的に日本だけでなく、海外にも訪問しました。

1975年、昭和天皇はアメリカを訪問、ディズニーランドでミッキーマウスとなかよく写真を撮っています。人々は「昭和天皇は無害で平和愛好者であり、戦争責任などない」というワシントンが創り上げた「神話」を「再確認」するものだった、のかもしれません。

「カゴの鳥だった私にとって、あの旅行(筆者注:皇太子時代のヨーロッパ訪問)ははじめて自由な生活ということを体験したものだった。あの体験は、その後の私に非常に役立っていると思う」

敗戦直後、昭和天皇はこのようなことを記者に話していますが、言ってみれば、あの旅行以外はすべて「カゴの鳥」だったのでしょう。そしてそれは戦後も続くことになります。

そして1989年、昭和天皇崩御。87年、激動の生涯だったことはだれも否定できません