2009年12月19日土曜日

【西松事件】 初公判

小沢氏秘書 初公判
2009.12.18 14:13
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/091218/trl0912181415017-n1.htm

 《小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」などの政治資金規正法違反事件で、同法違反(虚偽記載など)罪に問われた陸山会の元会計責任者で小沢氏の公設第1秘書、大久保隆規被告(48)の初公判が18日午後、東京地裁(登石郁朗裁判長)で始まった。西松建設からの企業献金を隠すため、ダミー団体を通して受け取っていたとして起訴された大久保被告。公判前から「やましいことをした覚えはない」などと主張しており、公判では検察側と弁護側が全面対決することになる》

 《大久保被告は今年3月、東京地検特捜部に逮捕・起訴された。当時同党代表だった小沢氏は代表辞任に追い込まれたが、当時野党だった民主党の政権交代の機運が高まっていた時期だったことなどから、同党側や一部マスコミが「国策捜査だ」などと猛反発。小沢氏も「一点のやましいところもない」などと述べている》

 《献金した西松側の公判は、すでに終わっており、国沢幹雄元社長に同法違反罪で禁固1年4月、執行猶予3年の有罪判決が出るなどし、全員の判決が確定。残る大久保被告の公判の行方が注目される》

 《午後1時28分。東京地裁104号法廷には、登石裁判長らと検察官、弁護人双方がそろっている。大久保被告が入廷してくる。濃いグレーのスーツに、ストライプのネクタイ。眼鏡をしている。固い表情で、まっすぐ証言台へ向かい、裁判長の方を見据えて立つ。それを確認して、登石裁判長が開廷を宣言する》

 裁判長「それでは開廷します。名前を確認しますので、名前を言ってください」
 被告「大久保隆規です」
 裁判長「職業はありますか」
 被告「国家公務員です」

《大久保被告ははっきりとした口調で答える。職業は「国家公務員」。衆院議員の公設秘書は国家公務員だ》

 裁判長「では検察官は起訴状を朗読してください」

 《検察官の1人が立ち上がる》

 検察官「被告人、大久保隆規は第1に…」

 《起訴状などでは、大久保被告は平成15~18年、陸山会と民主党岩手県第4区総支部(4区支部)などが、西松から受けた3500万円の献金を、ダミー政治団体から受けたと政治資金収支報告書に虚偽記載したとされる。このうち、平成18年10月ごろ、陸山会で受けた100万円は「政治家個人への企業献金受領」、4区支部で受けた200万円は「第三者名義寄付の受領」に当たるとされる》

 検察官「第2に…」

 《検察官は、第1と第2の2つに分けて起訴内容を朗読していく》

 《これまでの検察側の主張では、西松の不正献金は9年ごろから、岩手県と秋田県の公共工事受注で小沢事務所から「天の声」を得るため行われており、大久保被告は12年ごろから関与したとされる。このうち、虚偽記載罪の公訴時効5年にかからない平成15年以降の3500万円分が起訴された。「政治家個人への企業献金受領」「第三者名義寄付の受領」は公訴時効3年のため、18年10月分だけが起訴されている》

 《公判の争点は、(1)本当に献金を行ったのは西松建設で、「新政治問題研究会」(新政研)と未来産業研究会(未来研)という2つの団体はダミー団体だったのか(2)大久保被告は、それを認識していたのか(3)過去の政治資金規正法違反事件に比べて、悪質性が低いのに起訴している「公訴権の乱用」にあたらないのか-という3点》

 《検察官の起訴状の朗読が終わる》

 裁判官「いま読み上げられた起訴状の内容について、あなたとしてはどうですか」

 被告「事実の第1、第2についても…」

 《大久保被告はここで言葉を飲み込み、黙り込んだ。30秒近い長い沈黙。それからまた口を開いた》

 被告「新政治問題研究会についても、未来産業研究会についても、寄付を受けて、その通りに政治資金収支報告書に記載したものです。検察官は『西松建設から寄付を受けたと知っていた』といいますが、私は、政治団体の寄付で西松建設の寄付とは思っていませんでした。政治資金規正法に違反するとはまったく考えておりませんでした」

 《大久保被告は、はっきりと起訴内容を否認した》

 《大久保隆規被告(48)の罪状認否に続き、弁護人はあくまで政治団体「新政治問題研究会」(新政研)と「未来産業研究会」(未来研)は、西松建設とは別の団体だと主張。「大久保被告が意図的に虚偽記載を行った事実はなかった」という点を強調した》

 《裁判長に促され、大久保被告は被告人席に着席した。続いて検察側による冒頭陳述の朗読が始まった。大久保被告は体の前で軽く手を組み、検察官をにらみつけるようにじっと冒頭陳述の朗読を聞いている。検察官は目を合わせることなく、大久保被告の身上経歴に続き、2つの政治団体が、西松建設のダミーであるとする根拠を指摘していった》

 検察官「新政研と未来研はいずれも政治団体としての実体はなく、西松建設の意思に基づいていた」
 検察官「いずれの団体も平成7年の政治資金規正法の改正により、企業献金に関する規制が強化されるとともに公表基準が厳格化された後も、その名を伏せて政治献金を行うことが目的で設立されたものだ」

 《続いて、検察側は2団体による献金は、西松建設の資金から拠出でされたとの説明を始めた》

 検察官「西松建設は会員名を公表する必要のない会費名目で新政研・未来研名義の献金の原資を調達することとし、幹部従業員のうち口が堅く信用できる者を選んで会員とした」

 「西松建設は政治資金パーティーの対価支払いの名目でも資金を捻出していた。2団体の献金はすべて西松建設が決定し、金額などを指示して振り込み手続きをさせていた。当時、代表取締役であった国沢幹雄らの指示・了承の下で行われていた」

 《西松建設の国沢幹雄元社長(71)は政治資金規正法違反罪などで禁固1年4月、執行猶予3年のすでに有罪判決が確定している。検察側の冒頭陳述は、国沢元社長の初公判で行われた冒頭陳述の内容とほぼ重なっているようだ》

 《続いて検察側は民主党の小沢一郎幹事長側の献金受領の経緯に進んでいった》

 検察官「本件(起訴事実)を含め、平成7年以降に西松建設からの寄付を受けた小沢議員側の政治団体は5団体あった。衆議院議員会館の事務所や赤坂事務所、岩手県内の水沢事務所などの拠点を有していた」

 「赤坂事務所は(小沢氏の資金管理団体である)陸山会のほか、いずれも大久保被告が代表を務める政治団体の主たる事務所であった。赤坂事務所は、小沢事務所の政治献金受け入れ事務のほとんどを取り扱っていた。大久保被告が上司としてこれらの事務を統括していた」

 《大久保被告は、献金の受け皿となる陸山会の「金庫番」だけでなく、岩手県で地盤を守り選挙を取り仕切る「地元秘書」、複数の関連団体のトップという3つの“顔”を持っていたとされ、検察側は民主党の小沢一郎幹事長をめぐる「利権」のキーマンとみている。秘書仲間から「小沢秘書軍団の要」「お目付役」とも評されていた所以(ゆえん)でもある。続いて検察側は、西松が違法献金を始めるようになった過去の経緯を説明していく》

 検察官「小沢事務所は公共工事における決定的な影響力を背景に、ゼネコンに要求して選挙の際の支援や多額の献金をさせていた。岩手県内の公共工事では、昭和50年代終わりころから小沢事務所の意向が、(受注)業者選定に決定的な影響力を及ぼすようになった」

 「小沢事務所はゼネコン各社から陳情を受けて、特定のゼネコンに工事受注の了解を与え、ゼネコンがこれに従って談合をとりまとめるのが常となっていった」

 「ゼネコン業界では、小沢事務所の工事受注の了解が、本命業者を決定するいわゆる『天の声』とされていた」

 《こうした現実があったことから、西松建設は7年、小沢氏側への献金の増額を決定、新政研名義などで計1019万円の寄付を行った-。その結果、さらに岩手県発注のトンネル工事を受注できたため、8年には寄付の額を計2812万円に増やした-。淡々と説明していく検察側。国沢元社長の公判と同様に、献金が「賄賂」に近い性格だったと強調した》

 《続いて検察側は、「天の声」がどのようにして出されていたかの説明に移っていった。大久保被告はここまで、身じろぎ一つせず、検察官から目をそらすことはなかった》

 《検察側の冒頭陳述が続く。小沢(一郎民主党幹事長)事務所が影響力を使って公共工事の受注会社を決める『天の声』を出していたという過去の経緯を説明していく。被告席の大久保隆規被告(47)は、じっと聞いているが、時折、口をすぼめるようなしぐさを見せる》

 検察官「小沢事務所は西松建設側から多額の献金を受ける一方で『天の声』を与え、談合の仕切り役である大手ゼネコンA(公判では実名)に談合をまとめさせ、同社をスポンサーとするJVに工事を落札させていた」

 《検察側は実際に大久保被告が「天の声」を出すようになった経緯を説明していく》

 検察官「大久保被告は平成11年に小沢氏の私設秘書となったが、12年の衆院選で、ゼネコンに工事受注の了解を与える一方、選挙協力や多額の献金を要求する役割を担っていた○○(小沢氏の元秘書)が(衆院議員に)当選したことなどから、後任として役割を継いだ」

 「13年ごろ、大久保被告は年間2千万円程度の献金を小沢氏側に行っていた大手ゼネコンB(公判では実名)から、岩手県立病院工事の受注の了解を得たいと陳情を受けた際、『私が○○さんとチェンジすることになった』と了解を出す役割を継いだことを説明。同社を筆頭にしたJVが約56億円で工事を受注した」

《さらに、検察側は、大久保被告がどのように受注業者に影響力を発揮していたのか、説明していく》

 検察官「16年ごろ、小沢氏側への『献金額を大幅に減らしたい』と申し入れた同社担当者に、大久保被告は『何だと、急に手のひらを返すのか』と怒鳴りつけて拒否した」

 「14年ごろには小沢氏側に年間500万円程度の献金をしていた大手ゼネコンC(公判では実名)に、同社が施工した東京都内のビルの1フロアを『小沢事務所が購入したい』と申し入れたが断られたことから、同社に『この件ではもうだめです。奥座敷には入れさせません』と言った。同社に工事受注の了解を与えない旨を言い渡し、実際、同社は同年中の岩手県発注の工事を受注できなかった」

 「その後、15年に同社に『担当者が代わったわけだし、関係修復を図りたい』『年間2千万くらいお願いしたいのですが』『協力してくれれば、また土俵に上がっていただこうと思います』などと言って、献金額を年間2千万円に増額するよう要求した」

 「同社は、この要求を受け入れざるを得ないと判断して献金を増額。その後、(岩手)県発注のトンネル工事を受注希望した同社に了解を与えた」

 《検察側が立て続けに説明したゼネコンとの具体的なやり取り。しかし、2社だけの話に終わらず、この後もさらに他の業者への“圧力”も明かされた。その上で、西松建設が小沢事務所の「天の声」で工事を受注していく経緯が明かされる》

 検察官「大久保被告は西松建設から陳情を受け、(岩手)県発注のトンネル工事について了解を与えた。同社担当者は、談合の仕切り役だった大手ゼネコンAの元東北支店次長(公判では実名)にその旨を伝え、同社を本命業者とする談合を取りまとめ、同社をスポンサーとしたJVが工事を受注した」

 「その後、大久保被告は同社から(岩手)県発注の遠野第2ダム工事について、受注の了解を得たい旨の陳情を受け、17年ごろ、『よし分かった。西松にしてやる』と了解した」

 《さらに、虚偽記載を行った経緯も説明される》

 検察官「大久保被告が小沢氏の私設秘書となった11年当時、西松建設側からの献金窓口は別の私設秘書が務めていたが、遅くても14年ごろには大久保被告が窓口の役割を引き継いだ」

 「そのころから毎年、大久保被告は西松建設側に年間1500万円の寄付を依頼。どの(政治献金の)受け皿団体に、同社側から新政治問題研究会(新政研)や未来産業研究会(未来研)の名義などでどれだけの金額で寄付を受けるか、元総務部長兼経営企画部長(公判では実名)と打ち合わせていた。(そして)その結果通りに(ダミーの)請求書を作成し、寄付を受けていた」

 《新政研などが実際は、西松だということが、小沢事務所では周知の事実だったということも強調される》

 検察官「12年から13年冬ごろまで、大久保被告の統括のもと、新政研・未来研名義の寄付の受け入れなどの事務に従事していた私設秘書は、政治団体としての実態はなく、実際は西松建設による寄付であることを同僚の秘書に伝えていた」

 「これを聞いたこの秘書は、業務用ノートに『党本部経由寄付(1)西松1500』と記載するなどしていた」

 《検察官は、再度、要点を強調し、虚偽記載を行った動機を説明する》

 「大久保被告は西松建設を含むゼネコンに工事受注の了解を与える一方、影響力を背景に選挙協力や多額の献金を行わせていた。同社は企業利益を得るために新政研・未来研名義の寄付をし、大久保被告は寄付の主体が西松建設であることを認識していた」

 「しかし、収支報告書に真実の記載をして、小沢氏側が特定のゼネコンからの資金提供が問題とされた際、小沢氏や秘書は癒着(ゆちゃく)を強く否定してきた。大久保被告もその経緯を承知していた。新政研・未来研からの寄付として受け入れた上、(小沢氏の資金管理団体の)陸山会などの収支報告書上も、西松建設の名前を一切明らかにせず、虚偽の記載をするしかないと考えた」

 《抑揚のない声で淡々と冒頭陳述書を読み上げる検察官。西松建設が献金を減らし、やめていった経緯を説明する。大久保隆規被告(48)は固い表情のまま、身じろぎもせず検察官を見据えている》

 検察官「平成17年、被告は西松建設本社に西松建設の元総務部長兼経営企画部長(公判では実名)を訪ね、寄付を依頼したが、『うちも厳しいんで今までみたいな金額では対応できなくなりました。ついては金額を減らしてもらえませんか』などと、業績悪化を理由に、新政研・未来研(新政治問題研究会と未来産業研究会)名義による寄付を減額されて欲しい旨の申し入れを受けた」

 「これに対し、被告は『まあ、おたくが厳しいのはそうでしょう。でも急に言われても困ったな』などと難色を示したものの…」 

《検察側は、大久保被告が減額自体を了承したが、減額幅の“歩み寄り”を求めたと指摘する》

 検察官「(被告人は)『急にそこまで減らされるのは困るな。もう少し何とかなりませんか』などと言って譲歩を求め、結局、同年の寄付総額を1300万円とすることで決着し、陸山会、(岩手)第4区総支部及び県連において、西松建設から新政研・未来研名義で合計1300万円の寄付を受けた」

 《平成17年末にゼネコンが「脱談合宣言」をしたことをきっかけに、西松建設が18年で新政研・未来研名義での『献金スキーム』を終了することにしたと指摘。献金終了について大久保被告に連絡をとり、西松建設本社で話し合いが持たれた時のことを説明していく》

 検察官「被告は、元総務部長兼経営企画部長から『うちも金がなくて、いよいよ厳しくなったんでゼロってことでどうですか。申し訳ないんですが、本当にうちも金がなくて厳しいんですよ』などと業績悪化を理由に、新政研・未来研名義の寄付を打ち切らせて欲しい旨の申し入れを受けた」

 《さらに、大久保被告は「いきなり今年で止められるのは困るな」と難色を示し、「今年は500(万円)で」「これを最後ということでお願いします」などと頼み込んだという経緯も、検察側は明らかにしていく。大久保被告は、そのうえで最終的に献金中止を了承したという》

 検察官「このようにして、平成18年は陸山会、第4区総支部及び県連において、西松建設から新政研・未来研名義で合計500万円の寄付を受けた」

 《最後に、検察側は陸山会や民主党岩手県第4区総支部の収支報告書虚偽記入の状況などについて説明。大久保被告は厳しい表情を変えず、検察官をまっすぐ見据えてた》

 《検察側は、大久保被告が元総務部長兼経営企画部長と打ち合わせ、陸山会名義の銀行口座に、ダミー団体の新政研・未来研名義で寄付を振り込ませ、収支報告書にも虚偽記載をしたなどと指摘。第4区総支部でも、同様に収支報告書が作成され、虚偽記載が行われたとした》

 検察官「以上です」

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 《続いて、弁護側の冒頭陳述が始まる。弁護人はときおり傍聴席に目をやりながら、法廷によく通る声で読み上げを始めた》

 弁護人「弁護側が申し述べるのは全部で5点です」

 《弁護側は大久保被告への起訴が無効だと主張する「1番目の理由」として、新政研や未来研名義の献金額が、他の団体への寄付額と比較して、大きくないことを挙げる》

 弁護人「検察官は新政研および未来研が陸山会に対して行った寄付および岩手県連に対して行った寄付が金額という点で突出していると主張するが…」

 「起訴の対象である平成15年から18年までの4年間に新政研および未来研が陸山会などに対して行った寄付金額は合計3500万円であるところ、同じ期間に他の政治団体等が受け取った寄付等の合計金額は約7860万円であって、本件各寄付および岩手県連に対する寄付の金額が突出しているとは決していえない」

 《2番目の理由として、弁護側は、過去の同様事件と今回の事件を比較する》

 弁護人「従前、政治資金収支報告書虚偽の記入をしたとして虚偽記入で公訴提起された裏献金事案は、弁護人の知る限り、ほとんどが1億円を超える事案である」

 《それに対し、弁護側はこれまでの裏献金の事案とは性質がまったく違うなどと主張した》

弁護人「3番目の理由。検察官の本件取り扱いは著しく不平等であって、違法であることです」

 「被告人は本年3月3日の出頭直後に逮捕、勾留され、任意の事情聴取が行われることなく拘束され、捜査差し押さえという強制捜査によって早期に証拠保全が図られた」

 「一方で、新政研および未来研が寄付などを行った他の政治団体などはそもそも捜査対象とされず、不問に付されたままである…」

 《大久保被告の表情は硬いまま。椅子に深くこしかけ、まっすぐと前を見据えたまま身を固めている》

 弁護人「次に、4番目の理由です。検察官が主張する本件の『悪質性』なるものは一切存在しないこと」

 「(検察側は)東北地方には昭和50年代から談合組織が存在し、平成12年6月までは小沢議員の元秘書が、それ以降は被告が、岩手県や秋田県の公共工事に関して、談合組織における受注者の決定権限を有しており、被告はこれを秘匿するために新政研および未来研の名で本件各寄付を行わせた、とのことである」

 「しかしながら、後に述べるように、かかる事実は存在せず、検察官の主張は失当である」

 《弁護側の冒頭陳述が続く。弁護人は時折、左の腰に手を当てながら、廷内によく通る声で読み上げていく。検察官は手元の書類をじっと見つめている。大久保隆規被告(48)は背筋を伸ばし、まっすぐに前を見据えたまま。表情はほとんど変わらない》

 《弁護側は検察が主張する「事件の悪質性」を否定するための具体的な事実を列挙していく。まずは、週刊誌の報道などを挙げ、15年ほど前に検察がこれらの事件の捜査の端緒をつかみながらも、放置していたことを指摘する》

 弁護人「今から15年ほど前、一部週刊誌が検察側が本件の背景事情として主張するような談合への関与や建設会社との癒着(ゆちゃく)について述べる記事を掲載したことがあった」

 「小沢一郎(民主党現幹事長)の元秘書は、事実無根として出版社に抗議文を送付し、謝罪広告請求を求め、地検に告訴した」

 《ただその後、ほとんど捜査が行われた形跡がないことを指摘。弁護側は本件がすでに“終わった事件”との印象を強めていく狙いもあるようだ》

 「本件で検察官が最も重きを置く『悪質性』なるものの事情につき、遅くとも約15年前までに捜査の端緒を得ていたにもかかわらず、一切捜査を行わないか、途中で打ち切っていたものと考えられる」

 《傍聴席の方に顔を向ける弁護人。力をこめて訴えかける》

 弁護側「本件公訴提起が極めて恣意(しい)的であって、公正かつ公平な訴追裁量権の行使とは決して言えないことを端的に示している。平等や公平の理念に反し、また憲法14条1項の精神にも反するのであって、検察官に合理的に認められる範囲を著しく逸脱したものであり、極めて不当であって、検察官が訴追裁量権を逸脱し、乱用して行った起訴であり、無効である」

 《冒頭陳述は、西松建設が違法献金のために設立したダミーの政治団体「新政治問題研究会」(新政研)と「未来産業研究会」(未来研)の問題に移る》

 《新政研は平成7年11月、企業献金のダミーにするために設立。11年6月には未来研を総務省に届け出たとされる》

 《両団体の代表者には、退職した西松の元営業管理部長2人がそれぞれ就任しており、検察側は一貫して活動実体のないダミー団体と主張している。弁護側は、「活動実体のある政治団体だった」と真っ向から対立する主張を展開していく》

 弁護人「新政研と未来研は、西松建設の資金とは区別して管理されていた」

 《弁護側は、すべての出入金を示す銀行簿や経費の支出を示す詳細な帳簿が作られていたことを指摘。これらの帳簿は各団体の代表者が、団体の事務所で記録していたことを明らかにしていく。具体的な活動金額も触れられた》

 弁護人「新政研は平成7年から18年の12年間にわたり、合計7378万6559円。平均して1年当たり600万円以上の人件費、光熱水費、備品・消耗品費、事務所費からなる経費を支出し、この額は毎年の支出の約1割から2割に相当した。未来研も平均して1年当たり370万円以上の経常経費を支出しており、この額は毎年の未来研の支出の約3割から4割を占めていた」

 《弁護側はさらに、両団体が東京都内で政治資金パーティーを複数主催していたことを指摘。「7年~10年間にわたり、政治活動を継続して行っていた」と主張し、検察側の「ダミー団体」との主張を崩しにかかる》

 弁護人「以上の事実から、新政研および未来研は、(政治資金)規正法に従って設立され、運営されていた政治団体であり、これを政治団体としての実体がなかったとすることは明らかに事実に反する」

 《ここでいったん間をおいた弁護人。再び左手を腰にあてながら冒頭陳述を読み上げ始めた》

 《弁護側が次に明らかにするのは、新政研と未来研の資金の出所だ。西松建設の資金を移し替えたものではないことを主張していく》

 弁護人「新政研および未来研の会費については、西松建設が直接に支払ったことはなく、必ず個々の会員の会費支払い行為が介在した」

 「個々の会員による自己資金に基づく会費支払い行為があるのに、会員による会費支払いを西松建設への資金の『移動』と評価することはできない」

 《弁護側は、西松建設社員の新政研と未来研への加入が業務命令に基づくものではなく、任意の加入であることを述べていく。「業務命令ではないのだから、西松との関係はない」という理論を展開するようだ》

 弁護人「平成17年度の会費支払い状況を見ても、検察官が主張する(本来の)『会費』に満たない額しか払っていない者が存在する上、帳簿上1円の支払いも確認できない者、また、検察官主張の金額より多く支払っている者がいる」

 《「新政治問題研究会(新政研)」と「未来産業研究会(未来研)」はダミー団体だとする検察側主張に対し、弁護側の反論が続いている。西松建設が、両団体の会費を社員のボーナス(賞与)に上乗せして、補填(ほてん)していたとする検察側の主張を取り上げる。大久保隆規被告(48)は、背筋を伸ばして黙って座っている》

 弁護人「(両団体の会費は)いったん会員の個人資金に混入した上で支払われている以上、会員個人の資金の拠出で、西松建設の資金とはいえない。特に、上乗せ賞与額よりも支払った会費が多い会員がいたとすれば、その差が個人負担であることは明らかである」

 「(西松建設は)新政研および未来研の会費に比して倍にもなろうとする金額を上乗せ賞与とするなど、およそ営利を目的とする株式会社としては考えられない行為である」

 《弁護士は右手に資料を持ち、早口で読み上げていく。次に、両団体が開催したとされる「政治資金パーティー」に触れた》

 弁護人「新政研および未来研では、政治資金パーティーのために現実に費用を支出してホテルの会議室を借り、案内状を印刷業者に依頼し、表示札も依頼したうえ、関係者が時間を割いて集まり、会食をした」

 《ここで弁護士が、ちらりと法廷の後ろ側の時計に目をやった。時間配分が気になるのだろうか》

 弁護人「パーティー券の収入には、西松建設とは別の会社が支払ったものが含まれる。平成15年から18年の間において、西松建設とは別の会社が、その資金で、少なくとも新政研に対し390万円、未来研に450万円を支払った」

 「これらの会社は西松建設の子会社であって、資本関係があったとしても、西松建設とは別個の独立した法的存在である以上、西松建設と同視することができないことは、いうまでもない」

 《ここで、大久保被告がのどの具合を気にするように、口元を手でぬぐった》

 弁護人「以上、要するに、各研究会に投入された資金のほとんどすべてが個人の資金および西松建設以外の会社の資金であるというほかはなく、各研究会の資金が西松建設の資金そのものであるとの検察官の主張は、とうてい、認められない」

 《次に弁護人は、両団体が「独自の意思決定を行っていた」との主張を始めた。医師会に対する医師連など、業界団体には、それに対応する政治団体があることを、団体の名を一つひとつ挙げて説明した》

 弁護士「業界団体が、政治団体の決定に事実上の支配力を及ぼしていたとしても、あくまでも意思決定の主体は政治団体と考えられている。すなわち新政研および未来研が、寄付などを行うにあたり、会員や西松建設側の意向に従っていたとしても、それは当然であり、それによって、意思決定の主体であることが否定されることにはならないのである」

 《弁護人は次に、「大久保被告が東北の公共事業に対して影響力を及ぼしていた」とする検察側主張への反論を始める。まず、言葉の使い方に注文を付けた》

 弁護士「検察官は『天の声』という表現を用いるが、本来『天の声』とは、『公共工事の発注権者が受注者を決める』という文脈で使用される俗語であり、日本語の使用方法として間違っている」

 《さらに弁護人は、岩手県には、当時政権政党だった自民党の国会議員らが存在したことなどを挙げ、大久保被告側に公共工事の決定権などはなかったと主張。そして、大久保被告の秘書としての前任者だった、元衆院議員の元秘書についての陳述が始まった》

 弁護人「○○(元秘書の実名)氏は平成12年6月に衆院議員に選出されて以降、小沢議員とは一線を画すようになり、15年に議員を失職する際には完全に決別し、その後、自民党に所属した。このようなことから、被告が○○氏の地位をそのまま引き継ぐことは、結局のところなく、また○○氏の公共事業に関する行動については、被告にも小沢事務所にも分からない部分が多く、弁護人らにも不明です」

 「そもそも○○氏が受注者を決定していた事実は存在しないところ、さらに、被告がその役割を引き継ぐことは、およそなかった」

 《次いで弁護士は、元秘書が、どのように陳情を処理していたか、大久保被告の時代になり、どう変化していったかの説明を始めた。大久保被告は相変わらず、背筋を伸ばして聞いている。眼鏡の向こうの表情は伺えない》

 《弁護人は、大久保隆規被告(48)が公共工事で「天の声」を出す役割を、小沢一郎民主党幹事長の元秘書から引き継いだとする検察側の主張に対して、反論を展開。元秘書と大久保被告の“引き継ぎ”の実態について、弁護人が詳しく説明していく》

 「平成12年6月に行われた衆院選で○○氏(元秘書の実名)が当選したこともあり、被告は12年7月ごろ、小沢議員の公設第2秘書となり、陸山会の会計責任者に就任した。これにより、建設会社からの寄付を含め、寄付に関する小沢議員の窓口は、表向きは被告となった…」

 《平成12年6月に◯◯氏が衆院議員に当選後、◯◯氏から被告人が陸山会の会計責任者を引き継いだ経緯を説明する弁護人。しかし、引き継いだのは形式上で、実際は引き継ぎも行われていなかったことを明かした》

 「被告は、ようやくこのころ(平成15年6月)には小沢議員の公設第2秘書として建設会社などからの陳情の窓口と認識されるようになったものの、例えば公共工事受注への力添えなどを依頼されても、実際に何かすることができるわけではなかった」

 《大久保被告が受注業者決定を左右する権力はなかったと主張する弁護人》

 「一般的に政治家やその関係者に対して行われる多種多様な陳情の受付と同様に、『陳情は陳情として承った』という意味であって、検察官が主張するような『了解』を与えたことはない」

 《弁護人は、大久保被告が岩手県発注の遠野第2ダム建設などで『天の声』を出したとする、検察側の主張を強く否定する。西松建設関係者から、「これら工事の受注について力添えをして欲しい」という陳情を受けたことは認めたものの、「天の声」を出したという意味ではないと強調した》

 《次に、弁護人は、ダミー団体といわれる新政治問題研究会(新政研)と未来産業研究会(未来研)から小沢氏の資金管理団体「陸山会」に渡った献金が、受注決定の対価ではないことを強調する》

 「検察官の主張によれば、平成11年から13年の間、そして9年や16年も、西松建設は一度も岩手県や秋田県で公共工事を受注していない」

 《さらに、一連の寄付(企業献金)は西松建設による公共工事受注(の有無)に関わらず継続的に行われたと結論づけた》

 「新政研および未来研が設立され、寄付などを行っていた一方で、西松建設は並行して、4年間、平成11年まで、毎年、継続的に小沢議員に関連する政治団体に西松建設名義で寄付を行っていた」

 「西松建設と小沢事務所の間に、検察官が主張するような、毎年一定額を寄付する旨の取り決めなど存在しなかった」

 《さらに、弁護人は、「大久保被告が新政研と未来研の資金が西松建設から出されていたことを知らなかった」と強調していく》

 弁護人「政治活動に関する寄付(政治献金)は、何ら義務に基づかない任意や好意による行為だ。寄付をしてくれる団体がどのような活動を行っているか、資金集めの方法は通常、詮索(せんさく)しないし、相手方が説明する通りに収支報告書にも記載する」

 「被告人は、寄付者は西松建設とは別個の新政研、未来研であると理解し、収支報告書に記載した」

 《続いて弁護側は、一連の献金で、西松建設元総務部長兼経営企画部長が果たしていた役割について強調し始めた》

 弁護人「西松建設や関連する会社から受領するする寄付についての請求書は、すべて元部長に一括送付していた。また元部長は、西松建設の下請け企業からなる『松和会』に関しても会員会社をとりまとめていた」

 「元部長は、例えば名称や宛先が記載された名簿を作成して小沢一郎事務所に渡したり、変更があった場合に小沢事務所へ連絡していた。寄付が前年より減額になり、終了することを被告人に告げたのも元部長であり、会員会社が被告に連絡することもなかった」

 《弁護側は「献金の窓口となっていたのは元部長で、大久保被告はその説明を信じ込み、収支報告書に記載しただけだ」と訴えたいようだ。続いて、元部長との「共謀性」について言及を始めた》

 弁護人「被告は、新政研、未来研との関係で、元部長を通じて前年の実績に基づいて寄付を依頼、お願いしていた(だけな)のであり、判断はもっぱら新政研・未来研、西松建設関連会社の一存で行われていたのである」
 「本件の寄付金額や寄付者、受け入れ先などの最終決定に、被告がいかなる形であれ関与した事実はなく、その立場にもなかった」

 《さらに弁護人は西松建設側からの寄付・献金について、大久保被告があくまで新政研と未来研からのものと信じていたと強調した》

 弁護人「被告にとって、民主党岩手県第4区総支部などが、新政研、未来研から寄付を受領することは、法律に従って正規に届けられた『ちゃんとした』政治団体からの寄付の受領であり、寄付者が西松建設と評価されるような寄付であるとは全く考えていなかった」

 「寄付の原資が西松建設の資金であるとも全く認識しておらず、政治団体としての実体がないという認識も一切なかった」

 《弁護人は「政治家秘書」の役割についても言及した》

 弁護人「被告は衆院議員の秘書である以上、常日頃、いろいろな立場の会社や団体に所属する人物に会い、西松建設からの陳情を含め、様々な陳情を受けていた。陳情に対し、実際にはできないことでも誠意を持って対応する姿勢を示すことは当然の事であった」

 「寄付は基本的には政治家の政治姿勢や政策に対する応援といった意味を持ったものであり、被告も『寄付は小沢議員の政治姿勢に対する応援である』と確信していたのである。『適正な』公共工事の実施への期待であろうと認識していたのである」

 《西松建設による献金と公共工事受注の関連について、検察側は「賄賂」に近い性格だったことを指摘していた。弁護側は、これを真っ向から否定した形だ。しかし「適正な公共工事の実施への期待」が具体的に何を示しているのかは不明だ》

 《弁護側は最後に、大久保被告が検察側の取り調べに対し1度は、2団体からの献金について「実質的に西松側からと知っていた」と認める供述をした経緯を説明した。大久保被告は再度、否認に転じたていたといわれている。検察側は西松建設の国沢幹雄前社長の公判でも、大久保被告の「自白調書」を朗読。重要な証拠の1つとみているようだ》

 弁護人「被告が逮捕・勾留された20年3月は、政権交代が近づいている時期でもありました。被告は政治的影響を最小限にとどめたいと思った」

 「特捜部の考えに基づいて書類が作られ、強制力を持った検察と対(峙)すると、第3者が事情聴取の対象となる可能性もあり、マスメディアの報道も加熱する。そういうことはあってはならないと考えた結果でした」

 《明言こそしなかったものの、弁護側は大久保被告が一時的にせよ容疑を認めたことについて、自白の任意性を争う姿勢のようだ。ここで約11分間の休廷に入った》

 《約15分間の休廷をはさみ、公判が再開。検察側の証拠調べが始まった。「ダミーの政治団体を通じた違法献金だったことを認識していなかった」とする大久保隆規被告(47)側の言い分を否定するような関係者の供述調書が読み上げられた》

 《まずは献金をした側である西松建設の国沢幹雄元社長の調書が読み上げられる》

 検察官「新政治問題研究会(新政研)と未来産業研究会(未来研)は政治団体としての実体はなかった」

 《続いて読み上げられた新政研代表の調書では、「私は届け出上の代表者だったが、献金額の決定などには一切関与しなかった」とされている》

 《さらに、西松建設従業員の調書が読み上げられる》

 検察官「西松建設から指示を受け、献金として新政研などの口座に振り込んでいた。○○(西松建設元総務部長兼経営企画部長の実名)に手渡ししたこともあった。『献金した金は、賞与に上乗せする形で戻ってくる』と会社から説明を受けていた」

 《続いて小沢一郎民主党幹事長の関連団体が受けた献金額に関する報告書が読み上げられる》

 「民主党岩手県第4区総支部の平成15~19年の政治資金収支報告書を分析すると、多くは企業献金だったことが明らかになった。献金の多くは『小沢一郎政経塾』(という団体)に入っていた。それらの78%の額が寄付として陸山会に行っており、それらの金が陸山会の主な収入となっていた」

 《検察官は「小沢一郎政経塾」といっているが、実在する「小沢一郎政治塾」のことをいっているようだ。検察側は各ゼネコンの献金額を説明。どの社も年間数百万~2千万円前後であることが多いが、西松建設など数社は「12年に合計9000万~1億2000万円だった」とした》

 《ここで検察側は東北地方の談合の仕切り役だった大手ゼネコンAの元東北支店次長(公判では実名)の供述調書を読み始めた。10年以降の談合のキーマンであり、その内容に注目が集まる》

 検察官「岩手県では昭和50年代以降、小沢氏の『天の声』が機能し始め、逆らえなくなった。小沢事務所は東北地方の県知事選に自分の派閥の候補者を立て、当選させるなどして影響力の拡大を図り、公共工事を牛耳るようになった。本来、業者間だけで受注調整をしていたが、小沢事務所が関与するようになった」

 「業者が小沢事務所に公共工事の受注を陳情し、本命業者としての了解を得ると、その業者は談合の仕切り役であるうちの会社にアピールをしてくる。そして本当に小沢事務所が了解をしたのかどうかを事務所に私が確認した上で、その内容に従った」

 《東北地方における談合の構図で、どのように小沢事務所が影響力を持つようになったのか-。調書は、その姿を浮き彫りにしていく》

 検察官「平成15年の簗川ダム(岩手県)工事のときは、西松建設からアピールがあったので、大久保被告に『西松建設でよろしいですか』と聞いたら、『そういうことで結構です』と答えたので、西松建設を本命業者にした」

 《続いて読み上げられたゼネコン関係者の供述調書》

 検察官「当時、小沢事務所からの『天の声』を得るため、下請けを使って多額の献金を捻出(ねんしゅつ)した。選挙の時には(選挙運動に協力する)人出しや(集票のための)名簿出しをした」

 《ここで検察側は、再び国沢元社長の供述調書を読み上げる》

 検察官「かつて西松建設は談合受注は故金丸信元衆院議員にお願いしていた。しかし、汚職事件が発覚してそれができなくなると、工事を受注しにくくなった」

 「そのとき、東北支店長から『小沢事務所が強大な影響力を誇っている』と報告があった。実際に小沢事務所から『西松建設に仕事を回すな』といわれ、工事を受注できなくなったこともあった。東北支店長から『多額の献金をする必要がある』といわれた。小沢事務所からは名義を分けて1000万円の寄付をするよう求められた」

 《大久保被告は検察官を見つめたままだ》

 《検察側が読み上げる関係者の供述調書を、大久保隆規被告(48)は、うつむき気味で聞き入っている。大久保被告に政治献金の減額や中止を求めた西松建設の元総務部長兼経営企画部長の調書を、検察官が読み上げる》

 検察官「私は、西松建設の経営状況がいよいよ厳しくなって、悪化していることを伝えました。すると、大久保さんは『お宅が厳しいのはよく分かっている』といわれ、『申し訳ない』と何度も繰り返したのですが、なかなか納得してくれませんでした」

 《さらに、検察側は、大久保被告が、公共工事受注への影響力をちらつかせながら西松建設にたびたび献金の要求を繰り返したと主張。それを裏付けるものとして、西松建設関係者の証言を再びとりあげた》

 検察官「17年ごろ、(岩手県の遠野第2ダム建設工事の受注について)私がお願いすると、大久保さんは『よし、わかった。西松にしてやろう』と話していました…」

 《しかし、平成17年末にゼネコンが「脱談合宣言」を行ったことで、工事入札は厳しい「たたき合い」となり、西松建設は受注できなかった》

 検察官「その後、大久保さんから電話があって、『うちの(関連)業者に下請けさせてほしい』と話されました。しかし、私が西松が受注できなかったことを説明すると、大久保さんは『そうだったけ。間違った』と電話を切りました」

 《さらに、小沢氏と袂(たもと)を分かった元衆院議員の元秘書について、大久保被告が激しい怒りをあらわにしたことも明らかにされる。再び、西松建設の元東北支店長の証言が読み上げられる》

 検察官「平成16年の参議院選挙のときでした。○○さん(元秘書の実名)が、小沢先生の対立候補を応援したとき、大久保さんは『○○の野郎。(小沢)先生の恩を忘れやがって。絶対に許さねえ。お前は○○側につくようなことはないな』と言われました」

 《続いて、検察側は、小沢事務所の捜査で押収された書類の中身を説明し、事務所に勤務していた職員らの供述調書を読み上げる》

 検察官「政治団体とは名ばかりで、新政研(新政治問題研究会)にも、未来研(未来産業研究会)にも、実体はありませんでした。(西松からの直接的な)寄付そのものだと思い、(関係者に)『これは西松建設の献金です』と答えたこともあります」

 《新政研・未来研について、こんな風に語られた供述調書も読み上げられた》

 「小沢議員の財布のひとつに過ぎなかった」

 《大久保被告は、それをじっと聞きながら、肩を上下に揺らし、深呼吸した。検察官はさらに、別の事務所関係者の証言も読み上げていく》

 検察官「寄付について、大久保さんと○○(西松建設の元総務部長兼経営企画部長の実名)が、どこにいくら振り分けるか決めていました…」

 《検察側の証拠書類の読み上げが続いている。公判開始から2時間半。途中休憩を挟んだせいか、大久保隆規被告(48)に疲れた様子はまだ見えない。変わらず背筋を伸ばし、検察側の方をしっかり見据えている》

 《小沢一郎民主党幹事長の事務所関係者、政策秘書、不正献金のためのダミー団体とされる「新政治問題研究会」(新政研)と「未来産業研究会」(未来研)の「従業員」とされる人物の供述調書などが読み上げられていく。検察側は、さらに西松建設の献金先では小沢氏の資金管理団体「陸山会」が突出していたことも指摘。東京・赤坂の小沢事務所から押収した資料も多数証拠として提出したことを明らかにした》

 検察官「乙1号証から乙13号証は、被告人の供述調書です」

 《検察官は、大久保被告が逮捕され、保釈されるまでの間にとられた本人の供述調書を読み上げ始める。新政研など2団体からの献金は、実質的に西松建設からの企業献金で、2団体はダミーと認めた「自白調書」だ》

 検察官「新政研も未来研も、政治資金規正法にもとづいた政治団体を装っているが、真実は西松側からのものと認識していました」

 「西松建設がわざわざ自社からの代表を(2団体に)すえてやっていることが分かりました」

 《調書では、不正献金の理由として、企業献金規制が、政治資金規正法改正で強化されたことなどにも触れている。さらに「自白調書」の読み上げが続く》

 検察官「(新政研と未来研の2団体は)表面上は健全を装っていますが、トップかどうかは分からないですけれど、西松の意思に基づき、献金が行われていることは分かっていました。2団体の代表が出てこないこともあり、実体のない(団体)ことにはうすうす察しがついていました」

 「法律の網の目をくぐったダミー団体で、形式上あるだけ。政治活動の実体がない『トンネル(団体)』に過ぎないと思ったのです」

 「私は(新政研と未来研の)関係者にお礼を述べたことも、会ったこともありません。献金のための『トンネル(団体)』ですから、お礼やあいさつをする必要はないと思っていました」

 《さらに、大久保被告は調書の中で、政治資金収支報告書に虚偽記載した動機も語っている》

 検察官「西松建設からの献金は、金額が多く目立つので、あれこれせんさくされるのを避けたかった」

 「献金は、資料を用意して、西松建設の○○部長(公判では実名)に修正してもらい、最終的な割り振りを決めていた」

 《新政研などの献金が止まったことについても、調書では大久保被告の感想が述べられている》

 検察官「新政研、未来研の名義の献金が、実際には西松建設の献金であると知っていたので、西松の経営悪化で(献金)減額になったと分かり、やむを得ないと考えました」

 《大久保被告の「自白調書」読み上げが終わる。大久保被告は、この調書に署名した後、再び、容疑・起訴内容の否認に転じている》

 《続いて、弁護側の証拠書類が読み上げられた。事件を受けて、西松建設が行った内部調査報告書や、小沢氏の元秘書を誹謗(ひぼう)したとされる新聞記事のコピー、それに対する告訴状などだ。弁護人は淡々と内容を説明し、「以上です」と結んだ》

 裁判長「それでは、本日の予定は終了です。次回期日は…」

 《登石郁朗裁判長が閉廷を告げると、大久保被告は立ち上がって大きく一礼。少し緊張がゆるんだような表情で、弁護人と言葉を交わした。だが、報道陣や傍聴人の視線が自分に注がれているのを思いだしたように、再び口元を引き締め、堅い表情に。被告人席に腰掛けたまま、傍聴人が全員、退廷するまで、表情を崩さなかった》
 《次回期日は来年1月13日で証人尋問が行われる予定。献金の実務を取り仕切っていたとされる西松建設の元総務部長兼経営企画部長らが、証言台に立つ見通しだ》 =(完)

2009年12月14日月曜日

【皇室問題】 天皇陛下謁見

 「天皇を政治利用してはならない」という問題と、「天皇は政治的発言をしてはならない」という問題とが、同一の平面で論じられているように思います。しかし、主語(前者には主語はない)の違いから明らかなように、分析的に見れば、この両者はまったく別問題です。

 志位和夫氏が述べているのは、もともとは、後者の側面に関するものです。日本国憲法第4条第1項の「国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」という文言解釈に関わる問題です。

 前者の問題が後者の問題に関わりを持ってくるのは、後者の問題で一定の立場に立った場合(こういう検討順序になるのは、憲法の明文規定が後者について存在しながら、前者については直接には存しないからです)、天皇に与えられた禁止規範を厳格に貫く必要が生じるからです。

 例えば、天皇が憲法上それ「のみを行」うことが許されている「国事行為」の解釈について拡張解釈を認めず(全国植樹祭への参加は第7条第十号の「儀式を行ふ」には該らないとするなど)、しかも、一般私人がなしうるところでない「公的行為」の存在を一切認めない見解に立てば、国事行為以外で何らかの政治性をもつ行為を行うことは、およそ天皇には憲法上許容されない、という結論になります。

 こうした立場に立てば、習近平副主席の接受など政治外交上の意味が濃厚な行為を行うことは、もともと天皇が憲法上なしえないことなのだから、「内閣の助言と承認」がいくらあったとしても、時の内閣がそれを天皇に行わせることも憲法上許されず、したがって、内閣として「許されない天皇の政治利用」であることになります。

 これに対して、「天皇は憲法第1条で象徴としての地位を認められているのだから、その象徴たる地位にふさわしい行為(象徴行為)は当然に憲法上なしうる」(象徴行為説)、または「天皇は国及び国民統合の象徴として国事行為をなすという『公人』の地位を憲法上認められているのだから、そのような公人たる地位にふさわしい行為を行うことは、憲法も容認している」(公人行為説)と考えれば、これに「国事行為に関する内閣の助言と承認」と同じ内閣の関与行為・国会に対する連帯責任を要求する解釈をとったとしても(この見解が現在の憲法学界の多数説ではないかと推測されます)、今回の天皇の接受行為が、直ちに「天皇が憲法上なしえない『国政に関する権能』行使」になるかは不分明になってきます。

 この点、象徴行為説や公人行為説に立つ論者も、憲法の明文規定にないこの種の天皇の行為が「政治的性格」を帯びることに警戒的な態度を示しつつも、象徴天皇制という妥協的制度の現実からやむをえない現実的必要性を認めて、さらに何らかの細目規準を挙げながら、一定範囲でのみ「象徴行為」「公的行為」を認めているのですが、侵略戦争をしかけた相手国の次期国家主席候補者という接遇相手の地位から見て、おそらく習副主席の接受を「憲法上なしえない」とは言わないでしょう。

 ところで、少し視点を変えて見ると、この種の行為が憲法解釈論上の問題となるのは、まさにそれらが、何らかの政治的性格を帯びているからです。象徴行為説や公人行為説が如何にその点に警戒心を隠さなかったとしても、このこと自体は避けられません。

 つまり、何らかの「政治的性格」をもつことが不可避な「天皇が象徴ないし公人として行うことが許される行為」を認める以上、その行為を時の内閣が行わせること自体が、「天皇の政治利用となる」として必ず非難されることにはならないのです。おそらく、せいぜい「天皇のその種の行為の具体的内容が、政治的に見て不適当である」という批判を内閣が受けるだけであろう、と考えられます。これが、この種の見解が意図する「内閣の連帯責任」の中身であろうと思われるのです。

 天皇が、個別具体的な行為において内閣の政治方針と異なる行動をとった場合には、天皇自身が憲法に反して政治的権能を行使したこととなると同時に、それを行わせた内閣に(国民及び国会に対する)政治的責任が生じる、ということになります。他方、天皇が時の内閣の政治方針に従って具体的に行動すれば、天皇の行為が「象徴ないし公人行為」として容認されるものであった限り、その具体的行動内容の当否について内閣のみに責任が生じるわけです。

 日本共産党の志位委員長の見解は、ご引用部分によると、「公的行為」の存在を認める口ぶりでありながら、憲法上、「公的行為に政治的性格を与えてはならない」という禁止規範があると解釈して、今回の天皇の行為自体を「憲法上許されない」と結論づけるもののようですね。これは、最近の憲法解釈学界に出てきた学説なのかも知れませんが、あまり聞きません。

 もともと、「国事行為」でもないし、私人がなしうると同等の「私的行為」(例:散歩・相撲見物―但し特別席の使用は問題・全国植樹祭への参加― 但しそこで「お言葉」を述べる行為は若干問題)でもない、「公的行為」という、憲法の明文にないカテゴリーを承認する解釈学上の意味は、まさに、「『一般私人が到底なしうるところにない政治的性格を帯びた行為』(例:外国からの要人の接受)を一定の範囲で憲法上容認する」という点にこそあったのでした。

 志位氏の解釈は、こうした解釈学上の「問題の由来」をあまり考えない、その意味で拙劣な憲法論であるように思います。

 もし、「国事行為の多くは純粋に形式的・儀礼的な行為だから(例外は衆議院の解散など)、公的行為もそれに準じて形式的・儀礼的な行為でなければならない」と言いたいのであれば、それは「国事行為に準ずる行為のみが許されうる」という「準国事行為説」であって、「公的行為肯定説」ではありません。そして、志位氏の結論を主張するのであれば、「憲法が定める国事行為に該当しない上に、私人と同等の私的行為でもない『外国要人の接遇』などは、憲法上許されるものではない。そのような行為は、当然に何らかの政治的性格を帯び、『国政に関する権能行使』に繋がるからだ」と端的に言うべきで、「公的行為」など持ち出すべきではありませんでした(この見解は、「二分説」と呼ばれて、少ないですが論者は居るようです)。

 しかも、おかしなことに、一般の議論では、「外国要人の接受」は、かなり形式的・儀礼的行為に近いものとして語られているのです(準国事行為説でも肯定しています)。したがって、今回の行為が「政治的性格」を与えられたというのも、一般の議論からは離れているのです。

 さらにまた、今回の具体的な天皇の接受行為について、憲法上禁じられている「国政に関する権能の行使」に該るような言動があったとも聞いていません。したがって、天皇が内閣の方針通りに行動した以上、当不当の問題は生じえても違憲の問題は生じえないはずです。これを、「憲法の原則に関わる大きな問題が問われている」というのならば、現在の議論に即して、自己の立場を鮮明にする必要がありました。


 ところで、いま検討してきたような理屈は、あくまで日本国憲法が規定する天皇制、議院内閣制という構造から出てくる論理であって、宮内庁長官が、天皇の個別的行為の当否に関して時の内閣の方針を批判する、ということは、それらとは次元が異なる問題です。

 宮内庁といえども、「行政権は、内閣に属する」とする憲法第65条の下で、その「外交関係を処理する」(第73条第二号)内閣の権限に基づき発せられる行政上の指揮命令に従うべき、一行政機関に過ぎません。したがって、宮内庁長官が内閣からの指示を公然と批判する行為は、これに反していると言ってよいでしょう。
 ここで、いわゆる「30日ルール」が、天皇が行うべき行為の「内容」に関するルールではなく、「手続」のルールであることにも着目できるように思います。

 いかに、「天皇の行為の政治性をチェックするための検討期間である」という高邁な理屈を持ち出したとしても、そのようなルールが明確に規定されているわけではない以上、当不当の問題は生じえても、違法違憲の問題は生じえない、というのが筋だと思います。

 結局、今回の問題を「天皇の政治的利用」の「可否」という切り口から論じるのは不適当であるように、私は考えています。

 その意味では、たしか小澤氏が同趣旨のことを述べていたように思いますが、この件に関する限り、(好きでも支持してもいませんが)小澤氏は真っ当な議論をしているように思います。(以上)

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平成7年3月13日

天皇皇后両陛下謁見願の取扱いについて

貴省から当庁に対する外国要人(離任する駐日大使を含む)の天皇皇后両陛下への謁見の正式願い出は、謁見希望日の真近に行われる場合が多々あり、そのこと自体好ましくないのみならず、御日程調整にも支障を来しています。ついては平成7年度から、外国要人の謁見願いについては、原則として謁見希望日の一か月以前に要請をされるよう願いたく在外公館など関係方面にもこの趣旨が徹底されるようおとり計らいください。

平成16年2月3日(外務省小田野)←(宮内庁川島)

天皇皇后両陛下謁見願の取扱いについて(依頼)
標記について平成7年3月13日付け宮内庁式発題403号をもって外国要人(離任する駐日大使を含む)の天皇皇后両陛下への謁見の正式願い出は、原則として謁見希望日の一か月以前に要請願いたい旨(いわゆる「一か月ルール)を通知し、その後も暫(?)時貴省にお願いしてきたところです。

 しかるに当庁から再三の申し入れに拘わらず貴省から当庁に対する外国要人の謁見願い出は、今なおこのルールに則らないものが相次いでおり、当庁としては必要に応じ謁見実現にむけて努めているものの、意に反して謁見に応えできない事例があるばかりか、御日程全体に支障を来す事態が生じていることは、まことに遺憾であります。

 貴官におかれては、本件ルールの趣旨を再度確認を願うとともに、在外公館など関係方面にも改めてこの趣旨を然るべく周知徹底いただき、本件につき講じた措置について当方へ報告願います。

やむお得ず一か月ルールに抵触をする願い出条件については、儀典総括官から式武官(外事担当)へ可及的速やかに通報の上、その取り扱いにつき貴官の意見を添えた文書を持って打診願います。

2009年12月12日土曜日

小沢一郎 韓国国民大学講演

小沢氏が韓国国民大学での講演
元東大名誉教授であった江上波夫教授の話を引用し、日本の成り立ちを朝鮮半島からの騎馬民族説を語っている。

この講演を、右翼(主にネット右翼といわれている方々)の方々には面白く無いようで非難を浴びたのであるが、この動画全部を見る限りでは、江上教授の騎馬民族説を取り上げているだけの話でしかない。

故江上教授の説を小沢氏が聞き、そして話したという程度のもので、日本国内でも江上教授の唱えた騎馬民族征服王朝説にロマンを感じた方も多いと思う。

この騎馬民族征服王朝説も佐原真氏の「騎馬民族は来なかった」などの反論に会い、 この学説は忘れられつつあったように思う。そんな中で小沢氏はこの学説をロマンを持って韓国国民大学の講演の題材に用いたのであって何ら違和感を持つ必要はない。

何よりも佐原真氏の「騎馬民族は来なかった」の中では、馬の血の話がどうしたの去勢がどうしたの類の話ばかりで、 江上教授のロマンに満ちた学説とは対照的で無味乾燥した話にしか思えなかった。

江上教授のロマンにあふれた学説と佐原真氏の学説では佐原真氏の学説の方が、反論のための屁理屈にさえ思え非常につまらないものと自分には写ったのも事実である。

そんなロマンのある江上説を語る小沢氏を韓国に対して”ゴマをすっている”だの”小沢は韓国人”だのと非難をすること自体、発想(ロマン)の乏しい人間に見えてしまう。

蛇足として「騎馬民族征服王朝説」の概要を書き出すと

①前期古墳文化と後期古墳文化は、根本的に異質である。

②その部分の変化が急激で、その間の自然な推移を認めがたい。

③農耕民族は一般的には、自己の伝統的な文化に固執する性向が強い。ゆえに、 急激に他国・他民族の文化を受け入れて自己の伝統的な文化の性格を変容させる傾向はほとんど見られず農耕民であった倭人の場合でも同様の性向であったと思われる。

④国内にみる、後期古墳文化における大陸北方系騎馬民族文化複合体は、大陸及び朝鮮半島におけるものと共通し、その複合体のあろものが部分的もしくは選択的に日本で受け入れられたとは認められない。 すなわち大陸北方系騎馬民族文化複合体が、一体としてそっくりそのまま日本に持ち込これたものであろうと推測できる。

⑤弥生式文化および前期古墳文化時代に、牛馬の数が少なかった日本において、後期古墳文化時代に入り急激に多数の牛馬の飼育するようになった。
この点においても牛馬のみが大陸から渡来し、人の渡来しなかったとの解釈は無理があり、騎馬を常習とした民族が馬を伴って、多数の渡来人が大陸や半島から日本へ渡来したと考えるほうが自然である。

⑥後期古墳文化が王侯貴族的・騎馬民族的な文化であり、その弘布の仕方が武力による日本の征服・支配を暗示させる。

⑦後期古墳の濃厚な分布地域が軍事的要地と認められる所に多い。

⑧アラブ・ノルマン・蒙古などを例にとるまでもなく一般に騎馬民族は陸上のみの征服活動だけで満足をするわけでなく、海上を渡っての征服欲も満足せしめようとする傾向にある。 したがって南朝鮮まで騎馬民族の征服活動がおよんだ場合には、日本への侵入も十分あり得る。


ここで気をつけたいのは「騎馬民族征服王朝説」と「日ユ同祖論」と非常によく似た説であることにだけは気をつけるべきであろう。なんせ、伊瀬神宮の石灯籠に描かれた「六芒星」をもってして欧米とのつながりまで関連つけたという事実まである日本という国である。その部分は注意が必要な気がする。

江上教授の説は、天皇制の遠い起源が北方ユーラシアのステップ地帯にあると考え、 ここから満州・朝鮮を南下した扶余族系の騎馬民族が、ひとまず任那に「辰王国」を建てた後、 九州に上陸してその後、紀伊半島の和歌山県・三重県までずうっと海岸伝いに来て、今の奈良県に入り、奈良盆地で政権を樹立した大和へ東征し、日本国家の基礎をつくったと想定したというもの。古事記の神武東征の話である。

小沢氏は、この説を支持しているに過ぎない

そもそも、このビデオ自体が特定の意図を持って見る人に先入観を与えるような文章も付いて無く、たまたま取材した講演をインターネットに載せただけというもので、特定の人間から攻撃を受けるようなものでもないはずである。

2本目のビデオの8分の発言は非常に重要であろう。これを伝えたマスコミが過去にあっただろうか。
日本の天皇もあいさつで言ったことでありますけども、平城京、京都、平安京を作った桓武天皇、794年、西暦794年に京都の都が出来たんですが、その桓武天皇の生母は百済の王女様だったと天皇陛下自身が認めておられます。と。

この陛下の発言は、2002年の日韓ワールドカップを前にした記者会見でのもので、陛下は次のような発言をなさった。「私自身としては、桓武天皇の生母(高野新笠)が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。」と。

 桓武天皇の生母が渡来系の子孫であることは、中学教の科書にも書いてあるはずであるが、韓国人へ差別感を持っている日本人が少なからずいると思うのだが、その方たちは「天皇家に百済人の血が混じっていることを知らないのだろうか」と思うと・・・。

どちらにしても、平城京でも渡来人が多く住んでいたようで、羽田氏は京都の秦氏と同根であるし、松尾大社、そして伏見稲荷も秦氏の創建とされているのである。

参考資料として





小沢一郎 國民大 講演 (1)
http://www.youtube.com/watch?v=CbJnAW6eCSM


小沢一郎 國民大 講演 (2)
http://www.youtube.com/watch?v=hR5TF83kGK8



小沢一郎 國民大 講演 (3)
http://www.youtube.com/watch?v=WsOwC13DVVw



小沢一郎 國民大 講演 (4)
http://www.youtube.com/watch?v=vTiu5wtdBUU



小沢一郎 國民大 講演 (5)
http://www.youtube.com/watch?v=mQtHln8204Q

どうでも良いことなのだが、嫌韓や反中の方々の気持ちもわからないではないが、大陸とのつながりは昔からのものであるし、今更嫌いだの何だのと言うほうがおかしいし・・・・。

追記(2011年1月26日)
古くから朝貢外交をしてきた日本が、貢先をアメリカに変えただけでしかなく、それを今更、中国が脅威だの韓国が嫌いだのと言っても始まらないし、何よりも先日のウィキリークスでの小沢・鳩山潰しの外電が韓国から発せられたものである以上、嫌韓でいることに何のメリットがあるのだろうか?

2009年12月7日月曜日

【鳩山政権】 岡田克也

 岡田克也は、この日を境に評価に値しない男になった


岡田外相>まあ実質的には戦後初めてと言ってもいいと思いますが、政権交代が見事に実現をして、鳩山政権のもとで私が外務大臣を務めることになりました。あれから2カ月以上経ちますけれども、この間、懸命に頑張ってきたつもりでございます。

 今日はその中でもですね、沖縄に関わる問題を中心に、ぜひ皆さまの率直なご意見を聞かせていただきたい。この前も沖縄に来たんですけども、どうしてもですね、知事さん、市長さん、町長さん、あるいは県議会の先生方のお話しを聞く機会があったんですけども、一人ひとりの市民、県民の皆さまのお声を聞く機会がなくて、今日は玉城さんにお願いをしてこういう機会を設けていただいたわけでございます。

さて、少し最初に私からお話しした方がいいと思いますけども、沖縄の基地の問題、あるいは米軍再編の問題、このことについて、私たちも選挙において、民主党のマニュフェストでは、沖縄基地の問題、米軍再編の問題について、見直しの方向で臨むというふうに書かせていただきました。

 この中には例えば普天間とか、県外ということが含まれておりませんでしたけれども、それは私の中でもいろいろ考えて、そういう表現はあえて避けたわけでありますから、しかし、そうは言ってもですね、思いの中にやはり沖縄の基地の負担をなんとかして減らしたい。今こういうふうに沖縄の基地と言った時に、普天間ということが念頭にあるということは、これは事実としてあります。これは鳩山代表も沖縄に来られてですね、色んな条件を付けながらとはいえ、県外にということも言われたわけであります。

 そして、政権を取ってですね、マニュフェストに書いたこと、あるいは皆さまへ言ったことについて、これをどういうふうに実現していくかということで、私も外務大臣としてこの2ヶ月余り、必至になって取り組んでまいりました。これ以上言うと、…(一部不明)…いきますので、またあとで詳しく説明させていきますが、現実にアメリカとの話し合いをこの2ヶ月やってまいりましたけれども、彼らの方から言うと日米両政府間に合意があると、その合意を受けてやってもらいたいと、そういう話であります。

 我々は政権が変わったと、条件はどうしてもですね、玉城さんはじめ四つの議席みんな我々の側が、与党の側が、政権交代を実現した側が取ったんだと。こういう大きな成果があったんだ、ということも申し上げ、そして政権が変わったという中で、従来の政府間の合意というのもそのままではなくて、ここでもう一回ですね、きちんと検証すべきではないか、なぜ今の案になったか検証すべきではないか、こういうことを申し上げて、様々な議論をこの2カ月間続けてきたところでございます。

 しかし、アメリカの側が、検証はいいけれども、しかし、日米で合意した案というのは、これは変えられないんだ、ということをずっと繰り返してまいりまして、2カ月間色んな議論をしてまいりましたが、このアメリカの主張は変わらないと。もし、ここは地元でありますが、普天間を辺野古に移すということと、そして、8000人の海兵隊がグアムに行くということと、グアムに行った結果、空いた基地を日本に、沖縄に返すということと、これは事実上一つの、セットになった話であると。従って、8000人の海兵隊のグアムへの移転とか、基地を返すということは、それは辺野古への移転が実現して初めて可能になることなんだと。こういう論理展開で、もちろんこういうことはきちんとそれぞれ条件があってのことになるんですが、理屈上こういう話であるということをアメリカ側としては、一貫して主張してきたわけで、その中でなんとか我々の思い、つまり沖縄の負担を少しでも減らすと、そういう思いが実現できないかどうかということを、この2ヶ月余りアメリカ側と交渉してきたということでございます。

 最近になってちょっと大きな変化があったのは、社民党の党首選挙がありまして、福島さんが再選されたわけですけれども、その過程で、やはり社民党にとってはこの問題は非常に重要な問題だと。したがって政権離脱もあると、そういう話がありまして、ある意味ではそういうこともあってですね、この話は煮詰まった話であるということでございます。ま、こういう不確かなことは…(一部不明)…ちょっと…(一部不明)…たいと思いますが、こういう中でいま、もちろん私も、民主党も日米同盟というのは非常に大事であると。日本の安全のためになくちゃあならないものだという前提で議論していますから、その日米同盟をしっかりと持続していく。あるいはより強くしていくということと、そして、基地の問題をどうするかという、あるいは日米の合意をどうするかという、そのジレンマの中で、我々はいま選択を迫られていると、こういう状況にございます。


 どうぞぜひ皆さんから率直なご意見をいただければ有り難いと思いますので、よろしくお願い申し上げます。

司会(玉城デニー議員)>有り難うございました。以上でマスコミの皆さんには館外にですね、どうぞまた出ていただきたいと思います。よろしくお願いします。時間の関係があります。どうぞ速やかな行動をご協力お願いします。

 会場の皆さん、今のうちにですね、携帯をマナーモードにしていただければ有り難いと思いますので、よろしくお願いします。それから、申し訳ありません、少し皆さまにはご迷惑をおかけいたします。これだけのメディアの方々がいらっしゃって、実はですね、メディアの皆さんのワイヤレスマイクの電波と会場のワイヤレスマイクの電波が混信しています。先ほどからずっとスピーカーから流れてきておりまして、他のマイクの本数の切り盛りができないためにですね、会場の皆さんの方に予定をしておりましたワイヤレスマイクを回すことができません。申し訳ありませんが、この会場、これだけの人数ですので、できるだけ静粛にしていただきたいということも含めて、ぜひ地声で話を頑張っていただいて、ご協力をたまわりたいと思いますので、よろしくお願いします。

 なお、本日はあらかじめお断りををさせていただきたいと思います。実は外務大臣にですね、要請という形で各方面の皆さんから要請文が届いておりますが、今日は先ほどもお話がありました、衆議院議員として私たちの話を伺いたいということもございまして、この要請文は私がお預かりをしております。後ほど私の方から大臣に後日、整理させていただいてですね、しっかり届けますので、その点をお約束させていただきたいと思いますので、よろしくお願いします。

 すみません、メディアの皆さん、有り難うございます。なお、会場でのビデオカメラの撮影もお断りさせていただいております。後援会の皆さん、申し訳ございません。カメラのビデオのスイッチもお切りくださいますよう、ご協力お願いいたします。ここからユーチューブに載ったら大変なことになりますので、ご了承お願いします。

 それではですね、二、三質疑応答を、皆さんにご自由に話していただきたいと思います。限られた時間ではありますが、約30分、40分くらいですね。はい、では手を挙げられた方。

我喜屋宗弘>えー、岡田大臣、ようこそ名護市へ、と言うべきなんですが、私たちの名護市は今、ほんとに混迷をいたしておりまして、このまま歓迎のあいさつをすること…(一部不明)たいと思います。私は去った衆院選挙に玉城デニー氏の…(一部不明)…をつとめた我喜屋宗弘と。

 私たち沖縄県は、去る第二次大戦の時に、地上戦があって20万人という大先輩を失った県民でありますし、…(一部不明)…非常にシビアで、非常に惨状が今でも残っています。その中で、私たちの辺野古に普天間の基地を移転するということが議論されてから、もう久しくなりますが、その中で行われた去った国政選挙で、玉城デニー氏…(一部不明)…強く反自公、いわゆる県内移設として基地をまとめることはまかりならん、という点でまとまっているところであります。そして、応援に来た岡田大臣も、それから鳩山総理、マニュフェストにはなかったにしても、答弁としては、県外を、国外をということを言ってます。

 あ、すみません、失礼しました。各応援団体の決意を受けてもらった時に、沖縄県民、名護市民ひとりとして、その言葉を、県外ですね、国外ですね、と確認をしながら私たちも選挙を進めてまいりました。そして、選挙ですでに、私たちとしては県内移設はありませんよ、というふうな集約をされたのが名護市の民意であり、沖縄県民の民意であります。

 したがって、今日私たちにお話をしたという意味から、それははっきりとした私たちの意思でありました。その点については、岡田外務大臣と政府が、私たちから見れば、アメリカのやれという恫喝に脅かされているような雰囲気に見えます。従って、独立国家としてここはきれいに整理をしていただければ大変有り難いと思います。ご意見をお聞きいたします。


西川征夫>私は今まさに海上ヘリ基地が造られようとしている辺野古から来ました。辺野古の住民は私ひとりしかここに入れませんでした。本来ならば、辺野古の住民の前でですね、岡田さんがやってることを説得すべきではないかと、私はそういうふうに希望しているものでございます。

 1996年、当時の橋本総理とモンデールさんが、5年ないし7年の間に普天間基地は移動するというふうに申されてからですね、もうすでに13年なります。県民の頭越しにはしない、というふうに言いながらですね、まったく当時の状況を無視し、色々なアメやムチを用いてですね、わが辺野古に迫ってきております。私たちもですね、本当に民主党には、このヘリ基地問題を解決していただくためにですね、ほとんどの地域の住民が民主党に入れているはずなんです。

 しかし、選挙からすでに3カ月になるんですが、いっこうにそのヘリ基地が動こうという気配が感じられない。われわれ地域住民の中ではですね、反対派や賛成派の中でごちゃごちゃになってしまいましてですね。そうして13年の間に「命を守る会」という住民運動体が結成され、最初の私はその住民運動体「命を守る会」の代表として、現在まで来ておりますけれども、その間、4人の代表に代わりました。そして、守る会の幹部には60代手前にしてストレスから3名が命を失っております。73歳で最後の「守る会」の代表が3年前にお亡くなりになりました。

 それを考えればですね、それは政府としてはですね、速やかに結論を出さないとですね、今後われわれ地域に、辺野古区民がですね、大変なことになる、ということで修復しようにも修復できないいま状況あるわけです。

 先ほど、私はあえて外務大臣とは申し上げませんでした。それはなぜかというと、本来ならば期待を持って大臣にお願いするつもりでございましたけども、今日は民主党の議員ということでですね、そういうふうに申されて、本当にこの問題は通じるかどうか、不安でございます。

 ぜひ、もう一度、時間があるならば、あのきれいな海の前でですね、住民に、われわれ辺野古の住民と一緒になってですね、ほんとにそこの場所にですね、あの巨大なヘリ基地が造られていいものかどうなのかをね、岡田さん自身で確認していただいて、速やかに結論を出していただきたい。そういうふうに願ってお願いいたします。

東恩納琢磨>こんにちは。今日は大臣にですね、プレゼントがありますので、私が撮ったですね、ジュゴンを撮影した写真がありますので、あとでお渡ししたいと思いますので、よろしくお願いします。

 私は基地埋め立て予定地の隣に住んでおります名護市会議員、東恩納琢磨と申します。アメリカでジュゴン訴訟の原告の一人でもあります。…(一部不明)…お願いをしたいと思ってます。もうご存知と思いますけど、2000年にIUC国際自然保護団体でジュゴンを守れという考えの勧告が日本に出されています。あれから3度も出されて、2008年にはですね、アメリカと共同で環境アセスをやれという勧告も出されていると思います。そして、アメリカの裁判では、アメリカの国内法にその埋め立ては違反しているという判決も出ています。

 そういうことからすると、アメリカもやっぱり環境を壊して、そこに造るというのは、環境面から壊して造るというのは懸念を持っていると思います。そして、それを報告としてですね、実は12月2日にハワイでですね、NEC海洋哺乳類学会がありました。その中でも、2002年に哺乳類学会というか、アメリカでですね、日本のアセスは不備な点があるということを指摘しています。そして、当然アセスの狙いということを、そのNECというのはアメリカの政府機関、その政府機関がアメリカ政府にそういうことを言うわけですね。今回の学会にも同様のことを言うということです。

 そういう面からすると、環境の面からすると造るべきでないというのが、大多数の世界の世論であります。どうしてそれを犯してまで、そこを埋め立ててですね、ジュゴンが棲めなくなるようなことになってしまえば、これはアメリカにとっても、日本にとっても、国益を損なうんではないかなと僕は思っています。それよりもあそこは日米両政府がですね、協力してジュゴンの保護区を作る、それが先進国としての役割だと思うし、世界からもその方が信頼される国になるのではないかなというふうに僕は思ってます。こういう観点からアメリカにですね、物を申してほしいなと思います。

 先ほど大臣は合意を取り消すとか、これまでの合意があるからやり直すことが難しいと仰ってましたが、アメリカのオバマ大統領はご存じだと思いますが、ポーランドの協定は見直しています、すでに。ご存じだと思います。ですから、それはやる気だと思うんですね。そういうやる気があるかないかがいま、問われていると思ってます。

 もう一つ、日本の環境アセスにおいては、ご存じだと思いますけど、アワセメント(初めに結果ありきで、それに調査を合わせていく)です。結局、造るためのアセスです。国際常識、国際基準からいえば、アセスをしてゼロオプション、見直すというのも本来のアセスなんです。それをやってないという国。それはヨーロッパやアメリカの人たちもそのことをよく知ってて、だから日本のアセスはよく思ってないというか、信用できないということですね。

 その証拠にオスプレイ(V-22)の配備が明記されていません。もうご存じだと思います。アメリカはすでに、外務大臣は知ってると思うんですけど、オスプレイの配備は踏まえた、と言ってます。そして、そのことを日本政府に伝えています。それを示す書類がアメリカの裁判の中で出てきています。それを日本国民には伏せてます。そういう情報公開をしないままアセスを進めていることが分かった以上、今回やってきたアセスはもう…(一部不明)…合わせにしかすぎないと思ってますし、国外でもこの裁判が伝えています。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-131398-storytopic-3.html

 ぜひ大臣、そういうことを鑑みてですね、もう一度この環境を守るという意味で、ジュゴンを守るという意味で、決意されていただきたいなと思います。ということで、この先もお聞きしますのでよろしくお願いします。

司会>はい、有り難うございました。では、ご三方に対してよろしくお願いします。

岡田外相>はい、有り難うございました。この問題を考える際に、白紙でわれわれが最初から議論に参加をして考えられるのなら色んなことが、私も言いたいことはたくさんあります。あの辺野古の海は非常に美しいですね。そこに巨大な構造物を造るということに、私も抵抗感があります。それから、海兵隊というものが沖縄に本当に必要なのかどうかと、あるいは米軍再編とはいったいどういう位置づけの問題なのかと、いうようなことを、きちんと議論をして積み上げていって、そして日米の結論に達するというのが本来だと思います。

 ただ、極めて不幸なことですが、2005年の時点であれば、そういうことも可能だったと思いますが、日米で一定の合意に達したあとにわれわれは政権与党の座についたということであります。いやオバマ大統領だってポーランドのMDについてですね、キャンセルしたじゃないかと、そういう言い方はありますけれでも、われわれもそういう主張はもちろんしたわけですけれども、しかし、日米合意というのは交渉を積み重ねて積み重ねて合意に至ったものですから、政権が変わったからといって簡単にキャンセルできるものじゃない。

 最初に私がヒラリー・クリントン長官とニューヨークで話をした時に、われわれは実質的に50年ぶりの政権交代であると。従って、色んなことが変わることは当然あるし、あるいは時間ももらいたいし、そういうことはきちんと分かってもらいたい、というふうに言いました。クリントン長官も、政権が変わるというのは大きなことなので、そのことは理解している。

 そういう中で実は、日米合意についての検証作業、なんで今の案になったのか、つまり普天間を辺野古に持ってくるという案になったのかという検証作業は、やりましょう、という合意になって、以来対応してきたところです。最初は日米それぞれでやってきたわけですけれども、この前のオバマ大統領が訪日される少し前に私とクリントン長官、ルース大使との間の合意で日米共通してワーキンググループを作って…(一部不明)…で検証作業をしていく。で、その検証作業をいまやっているという状況です。

 ですから彼らがこの間ゆずらなかったのは、白紙にするんじゃないよと。いまの案を前提にして、なぜいまの案になったのかという検証ならいいけれども、それを白紙にしてゼロから議論するというのはアメリカは呑めないよと。そういう中で、妥協案がいまの検証作業なんですね。そのことについてはあえて触れず、とにかくなぜなったのかということを検証すると、そういう位置づけの中で様々なことを議論してまいりました。

 まー2ヶ月間やって、日米同盟を非常に重要視する立場の人たちからは、日米同盟が極めて危険な状況に今なってると、日本政府はいったい何してるんだと、こういうご批判もいただいております。私は多少こう揺れがあることが、政権が変わった以上やむを得ないことだと思って、かなりやってはいましたけれども、時間もずいぶん経っている。そういう中でですね、来年度の予算案、アメリカの予算案を決めなきゃいけない。政府の案というのはかなり削られた状態になっていましたけれども、それをどうするのかという、そのぎりぎりのタイミングにいま来てると、いう中で日本はどうするんですかと、いうことを突きつけられていると、いうことであります。

 社民党が政権離脱を言いましたので、年内がかなり厳しくなってきました、結論を出すということについてはですね。それに対しても昨日(4日)、日米間で議論した時に、私は年内にできるだけ結論を出したいと思うが、客観的状況は非常に厳しい。北沢大臣も年内は事実上難しくなってきたというふうに言いました。ただし、アメリカ側からは、それで日米合意したことが守られないということなれば、これは重大なことになると、こういう話であります。

 少なくとも言えることは、8000人のグアムへの移転と、その結果としての基地の返還という話は決まりまして、それだけではなくて日米、例えば普天間協議とオバマ大統領との間の非常に高い信頼関係、議会の対応についてですけど、それも、非常に、その信頼感というのは損なわれますよと、いうことも含めてですね、かなりな反応が返ってきているわけで、そういう中で日米同盟というものを、きちんと持続していかなきゃいけない。北朝鮮の問題もあります。いろんな…(一部不明)…の問題もあるでしょう。そういう中で、日米同盟をきちんと持続していく、あるいは強化していくという立場からすると、私はその立場ですが、非常に厳しい状況にいまなってると、いうことであります。

 少なくともこういうことで結論がずっと出ないということになると、あるいはこれから新しい所を探すということになると時間がかかりますから、その間普天間のいまの状況が続くかもしれない。元々はこの普天間の危険な状況をなんとか除去したいということからスタートしたことから考えると、結局、本所がこれからまた続いていくと。そういうことで果たしていいんだろうかと、こういう問題もあるわけであります。いまこういう状況の中で色んな手を尽くして、どうするか、総理ともよく、意見調整をいま、させていただいているところですが、非常に苦しい、厳しい状況だということであります。

司会>はい、有り難うございました。

大城敬人>私は名護の市議会議員で8期31年、もう議会で粗大ゴミになってます(笑)。あなた方が無血クーデターで政権交代されたんで、非常に期待しておる。期待してまいりましたが、先ほどからありますように、今日、普天間に対する岡田外務大臣の無礼を感じまして、これは大変だと思いましてですね、今日はどうしてもきっちりさせておかなければならない。二、三ですね、ぜひご検証をいただきたいと思うんです。

 一つは、私がいつも考えていることはですね、どうして日本人1億3000万人の安保を沖縄県民130万人が担わなければいけないのか、というのを常に私は疑問なんですよね。というのは、64年前に戦争に負けて、27年間われわれは本土から離れて、われわれは異民族の支配で、軍事優先で、辛苦をなめてきました。この思いは、岡田大臣は重々承知していると思いますが、岡田大臣は三重県の出身です。基地がないですね。私は伊勢の志摩のですね生牡蠣、とても美味しくてですね、向こうに行って食べたことがあるんですよ。ああいう美しい自然にですね、普天間の移設をしたらどうか、というようなことを考えられたことがあるのかなと。ときどき思ったりするんですよ。

 そう申しますのはですね、この間キャンベルとお会いしたでしょう、私は2005年の2月3日に当時CSIS(戦略国際問題研究所)の副所長時代にキャンベルさんに会ってですね、1500メートル(滑走路)の移設問題に私は名護市から反対の議員としてまいりましたということでお会いしました。その時に彼が言ったのは三つだったんですよ。環境問題と住民運動とコストが高い。だから大城議員、8月には断念です。それに大変期待して帰ってきたんです。

 ところが今、岡田大臣が言われましたように、この検証していただきたいのは、なぜ1500メートルが今の案になったか、というところですよね。ここはですね、非常に曖昧です。いわゆる1500メートル断念と言いませんでした。2005年の10月29日にですね、米軍再編ロードマップの中間報告ということでね。

 橋本さんが来てモンデールとできたと、あれはぬか喜びですよね。ところがですね、お訊きしたいのは、その中間報告があった10月29日の2日後の10月31日にですね、辺野古区の最高決議機関である行政委員会がですね、4つの項目で全会一致で反対決議をしてるんですよ、地元が。これをですね、ずっと無視された。名護市民はご承知のように1997年の市民投票を無視された。こういった点で民主主義の手法からすればですね、当然のこととして地元が最高決議機関で反対している。名護市も反対している。であるならば、当然これはですね、ルールとしてはそれを尊重すべきだと思うんですが、今日までこれはまったく無視されてきています。

 そのことについてですね、岡田大臣は承知されたのどうかということと、それからですね、私は岡田大臣がどういう信仰を持っているか知りませんが、実はこれはですね、今度のアセスで出たですね、後出しジャンケンのですね、アセスなんですよ。なかったことを全部出してきましたね。ここに何があるかというと、辺野古川の入口のここですね、私の信仰のメッカなんです。沖縄は祖先崇拝なんです。1990年の…(一部不明)…にですね、私は12月に栗原セイジロウさん、あの当時の副官房長官、彼に総理官邸でこれをお見せしてるんですね。これは私の祖先のお墓なんです。ここはシーミーと言ってですね、沖縄の行事で祖先崇拝します。そこにこういう安眠妨害する基地を造るということは、命をかけて反対しますよ。沖縄県民はニライカナイという信仰的なものもあるし、こういう沖縄の幸せを奪うのであれば、県民全部たたかいすよということを13年前に申し上げたんですよ。

 ところが、私どもはこういうことでね、大事にする祖先のお墓の上をですね、こういう人殺しのヘリコプターが飛ぶというこは許されない。こういうことをあえてやるのかという問題があります。

 それからですね、今日はパネルもいっぱい持ってきたんですけど、実は今日ですね、入場制限がされておりまして、(会場内には)辺野古の人は一人ですが、外の方に86歳のひめゆりの生き残りの宮城清子先生や、糸満で戦禍にあって火傷している島袋文子さんとか、入口でずっと待っておられるんですよ。大臣に会いたい見たいし、話しもしたいと。入れなかったんです。それで私は代わってこうしてですね、申し上げてるんですが、そういう意味からしまして、この前県知事が鳩山大臣に出したように、いま辺野古の部落は四面楚歌ですよ。実弾射撃演習場、エセックスが来て(ヘリが)飛び交う。一昨日の夜、午後11時まで無灯火で国立高専のすぐ後ろ側で離着陸をやってるんです。

 それだけではありません。廃弾処理でですね、ここに来られている人は、はい分かります、廃弾処理で民家にひびが入って、いまだにそれが回復されない。とにかく、辺野古の周辺は朝4時からの早朝からの実弾射撃演習やですね、ヘリコプターは騒音が深夜まで。そういう環境の中でさらにですね、今回こういう基地ができたらどうなるか。生活環境が全部破壊されますよ。現在(辺野古の住民が)1500人に対して6400人の米兵が来る。キャンプ・シュワブの人口がそうなる。大変なことになりますね。殺人事件も起こってますよ。

 これはですね岡田大臣、やっぱしですね、時間がないとかこういう問題じゃないんですよ。アメリカでは市民投票で反対決議をしたらストップしたじゃないですか。そういう例から見ればですね、日本国の大臣としてですね、やっぱし国民の問題を大事にしていただきたい。アメリカとの問題で独立国としての主張をしっかりしていただきたい。そうじゃないとですね、…(一部不明)…と思うんですよね。先程来からのお話を伺うとですね、なにか…(一部不明)…があるとかですね、そういう問題じゃないですよ、われわれは。64年間、苦しみに苦しんでるんですよ。県民は基地の重圧で苦しんでるんですよ。

 そういうことをですね、岡田大臣どこまでほんとに…(一部不明)…てるのかですね、非常に私、疑問なんです。ぜひお答えいただきたい。われわれの思いは通じてるのかなと。年寄りを排除してですね、入れないということは、こういう思いがあるんですよ。入って来れないで寒い中で待ってるんですよ。

渡久地知佳子>すみません、名護市の渡久地と申します。私たち家族ずっと12年間反対運動してるんですけど、その12年前の市民投票の時にこの子が生まれました。こんなに大きくなってます、もう12年経ってますので。ずっと私たちの反対運動に一緒に連れて歩いてます。なぜならば、この子たちの未来がかかったことなので、私はすべてを見せてきました。今日は岡田外務大臣に会いに行くよ、と言ったら、僕も言いたいことがあるというので連れてきました。ぜひ聞いてもらえますか、お願いします。
(拍手)

渡久地武龍>僕は名護市立小学校6年の渡久地武龍です。僕が生まれた年に行われた市民投票で、基地は造らないと約束されました。これはとても大切な約束です。岡田外務大臣、約束は必ず守ってください。大浦湾や辺野古の海は僕たちにとって大切な海です。僕たちの海や僕たちの未来を絶対壊さないでください。よろしくお願いします。
(拍手)

渡久地武清>あのー嬉しいです。ほんと今日嬉しいんですよ、岡田さんここに来てくれて、話し聞いてくれるんだなーと。私、いま仕事の合間抜けて来ました。見てください、この子がこんなことを言うために、私は育てたんじゃない。あの、ほんとに家族らしく、年から年中このことばっかしですよ私は、頭の中が。普天間の人がどうなったか分からないからここに移す、これは…(一部不明)…ですよ。私たちもここに住んでるんですよ。これから一生住まないと、おじいちゃん、おばあちゃん、移させた人も、これからここで、環境、色んなもうすごいですよ。こういうとこで、この子は育てていこうと思ってます。これからも、家族。

 で、いま部落でも二分されて、もう顔も見ないぐらいですよ、目も見ない。それで話し合うんですよ、部落の行事なると。西川さんがこう言いました。辺野古だけじゃない、この地域まっぷたつ、宜野座、もう点々と、基地のある所どこでもそう起きてます。

 私はだから、これから先、子ども育てていかなきゃならないし、生活もあります。この基地の問題が起きてから、私どこで仕事してると思いますか。まあ、これはちょっと言いますけど、こういう関係してるから、土建業の仕事もらってるんですよ。んだ、干されて仕事もらえない。どこで仕事するかといったら、名前も顔も売れてない所ですよ。でも子どもを守るために顔を出さなければならない。なんとか、こんな中でも一生懸命やって、命あってこそ仕事できるんだということがねー、分かりよったわけです。家族で育って、今日もぜひやってくれと、デニーさんにお願いして。いまも…(一部不明)…んですよ。この間も伊是名まで行ってきました。こういう所まで仕事をしながら生活をしています。単価も下ろして。

 絶対私はここに基地造らしたら、…(一部不明)…一生恨みます。この子にも継いでもらいます。この基地を絶対に許すなと。この子どもたちよ、絶対に許すなと。そういうふうに私は覚悟を作ります。私はそういう気持ちでいまも、運動ではない、生活するための術だと思って、私は頑張ってます。反対運動じゃありません。命を守るためです。

 だからいま、岡田さんも来てくれたんですから、せっかく、こういった生の声を聞いてください。皆さんもねー、ほんと私ぐらいですかね…(一部不明)…、そういった人たちも呼んでですね。傷つけられて痛い人たちもいると思います。この人たちの話を聞いてもいいんでないですかね。こういった話がどうなるかというのをね、ちょっと考えてもらって、ぜひともこっちに造らさないで、できたらもうアメリカ。さっきから言ってました、ほんとに。時間なんてどうだっていいんです、13年間わったーこっちで生活してきたんです。造らないでくださいと。明日、明後日のことは待ちます。決は出さずに、こういった人たち、私たちみたいな話を聞いて、ちゃんと、造らさないでよかったという、気持ちになってください。お願いします。ぜひとも。
(大きな拍手)

司会>では、お二人にお答えしたいというふうに。


岡田外相>まー、あのー、沖縄は本島部分では二割が基地ということで、それはもう日本の中でも他にないことですね。そのことは、われわれも十分分かっています。私は外務大臣になる直前に『世界』という雑誌にインタビューを受けて、その時に申し上げたんですが、うーん、やはりそれは沖縄の地が戦場になりね、そして、占領されたということがなければこういうふうにはなってないわけですから、まー、そういう戦後の沖縄の悲惨な歴史の延長線上でいまも、基地がこれだけある沖縄というのが存在していると、いうことですね。それは分かってるつもりです。

 でー、そしてこういう状況がほんとにいつまで続けられるのかと。私は最初に外務大臣になった時に、クリントンさんに言ったんですけども、やはり30年、40年、いまの日米同盟というものをより強くして、持続可能なものにしたいと、それは私の信念です。しかし、そのためにはですね、基地の問題を、負担の問題もしっかり議論していかなきゃ、そういうことにはならないと、いうことも申し上げたところであります。

 えー、実際、いま日米間で様々な議論をしてるんですが、例えば地位協定をこれからどうしていくかとか、ま、これも簡単な話じゃないんですけども。あるいは日本に返還される予定の米軍基地について、どういうタイミングで返すのかと。あるいは嘉手納、普天間の騒音の問題、あるいは訓練について、なるべく負担を減らすためにはどうしたらいいのかと。そういうことをいま真剣に議論しているところであります。

 ま、今度政権が代わったから、そういうふうに変わったんだと。いままでそんなこと、あんまり真面目に真剣に議論してきたって話はあまり聞きませんので、それは政権が変わったから、そういうこともあり得るということで。

 ただ、いまのお話を聞いておりまして、ほんとにこのー、普天間の基地の辺野古への移設の問題に、ずいぶん長い間、地元で反対してこられた方から見ると、大変な思いがあると。ただ、少し負担を減らしてやると、やはり、日米安保、日米同盟を前提にするとどっかに基地は必要だと、いうふうに私は思います。もちろん、その基地がいざ来るとになった所に、負担が過重にかからないようにしなければいけないと、いうふうに思いますけども、しかし、日本に基地が必要だという前提になれば、どっかがそれを引き受けなければいけない、という問題。それは率直に言ってですね、避けられない問題であるというふうに思います。

 もちろん、その当事者になったら、とんでもないと、なんでここなんだと、ま、そういうふうになるとは思いますが。ま、そういう中で、色んな話し合いを経てですね、そして日米間でよく…(一部不明)…ができたということであります。それをどこまで考えるかということをいま議論しているわけですが、なかなかその余地というのはそう大きくないというのが今日の…(一部不明)…までの結論でございます。もちろん、いますぐ、じゃあ合意だからといって、日米両国政府でこうしましょうと、そう簡単に決められない問題であることも分かっていますけども、実は沖縄の皆さんのご意見を聞かせていただきまして、まーしかし、なかなかそれに代わるですね、答えがいま見つかってないと、結局はそうです。

岸本洋平>こんにちは。地元の名護市議会議員をしている岸本です。先ほど日米同盟の話もありましたけども、シャルル・ドゴールフランス大統領が、超大国に共に歩む国の将来の危うさということを話していて、そういうこともしっかり心に置きながらというか、勉強しているところですが、1月には首都圏の方に行きますので、ぜひ…(一部不明)…。それからあの、先ほどV事案の検証をしてきたということでしたけど、L字からV字になった経緯について、どのような見解なのかお訊きしたい。

浦島悦子>私は基地が予定されています大浦湾沿いに住んでます住民で作ってる「ヘリ基地いらない二見以北十区の会」の浦島悦子と申します。先ほどから色々お話がありましたが、私たち13年間ほんとに苦しい思いをしてきました。

 なぜ地域のお年寄りが基地はいやだって言うかというと、沖縄戦の体験の中から、あのような苦しい思いを二度と子や孫に味わわせたくないという強い思いと、それから、焼け野原になって何も食べ物がない時に、夫を亡くした女性が海の物を採って子どもを育てられた。命の恩人である海を基地に売ったらばちが当たると口癖のように仰るんですけど、そのような思いで13年間反対してきてるわけですね。

 しかも、その中で自公政権による様々な脅しとか、お金とか色々な形で地域がずたずたにされてきました。ほんとに来て生活していただいたら分かると思うんですけど、過疎地です、私たちの所。過疎地でいままで声を上げても、どんな生活の不便を声を上げても、全然改善されなかったのが、基地問題が起こってから、防衛庁あるいは防衛省に頼めばなんでもやってくれるという、物凄くおかしないびつな構造があるんですね。そのために当初は地域一帯となって反対していた、地域のリーダーの方々を中心にして条件付き賛成というふうになっていって、そして、そのために地域の住民が物を言えないっていう状況にさせられてきた。

 でも、ほんとはみんな基地は造ってほしくないし、もし来たらほんとにこの地域にこれ以上住めるんだろうかという不安を抱えながら、毎日生活してます。その中でほんとに、民主党政権が誕生した時に、これで私たち救われると思ったんです。これまでの苦しい思いを、民主党政権が私たちの上に重くのしかかっている暗雲を取り除いてくれる。特に岡田さんの発言は、私たちにとって物凄い力になるものでした。それがいま、このようにして辺野古しかないって、私は実はこの集まりも、結局は辺野古に持っていくよという結論を出すためのアリバイづくりに私たちは利用されているだけかなと、はっきり失礼ですけど、そういうふうにも思ってました、一部では。

 でも、もしかしたら私たちの思いを受け止めて、そうでない道を探してくださるかもしれない、13年間の思いに比べれば、私たちはほんとにさっき渡久地さんたちも言いましたけど、待ちます。何年でもって、とにかく13年間はかからないと思います、結論出るのにですね。早急に結論は出してほしくないです。

 もう一つ私不思議なのは、県外・国外って仰っていたからには、何か根拠があったんだろう、どこかそういうことを検証されていたんじゃないかというのがあったんですけど、それが一つもなされていない。県外の例えばこういうところが候補地として上げられてると。でも、ここはこういうことがあってなかなか難しいとか、そういうお話がいっさいありません。そこが不思議でならないんです。だからたんなる県外・国外というのは、選挙のためのリップサービスにすぎなかったのかという、非常にがっかりした思いをいま抱いてます。

 ここに来ている皆さんは、みんな同じ思いだと思うんですね。なぜ…(一部不明)…だけがそういう思いをしなければいけないのか。私たちよりアメリカの方が大事なんですか。私たちは同じ日本国民です。どうかその辺を考えていただいて、ぜひ辺野古には決めないでください。お願いします。
(拍手)

司会>では時間の関係上、岡田衆議委員からの発言にしたいと思いますが…、あ、おひとりだけ、短めに。

稲嶺進>稲嶺進と言います。これまで多くの方々が、思いをいっぱい出して訴えました。この名護市は97年の市民投票以来、13年も…(一部不明)…あったような状況を、これまでずっと基地問題に翻弄される中で生きて、生活をしてまいりました。このことは名護市の色んな行政面に、非常に大きな影を落としてですね、街づくりが非常にいびつな形で進められるという状況にもなっています。

 この市民投票で出された結果と同じように、最近のマスコミの評価でもですね、7割以上の皆さんが、県外移設という新聞での報道もなされました。このことは、先ほどから皆さん仰ってるように、まさしくこれこそ名護市、あるいは沖縄県の皆さんの民意でありますので、ぜひそのことを真摯に受け取っていただきたいと思っております。

 辺野古の海には新しい基地はいりません、というのがいまの皆さんの思いであります。名護市にはもうこれ以上の基地は、もういらないんです。命よりまさるものはないという、これ以上いらないということが、先ほどからの皆さんの意見で、そのことをしっかりと受け止めていただいてですね、皆さんの意思に答えるような結論を出していただきたい。

 先ほど来年1月の市長選挙もありましたが、今回もまた基地問題が争点になります。いつまでこのようなことが続けばいいんでしょうか。もうこれだけにしたい、もう終わりにしたい、それが本音であります。(拍手)

 この辺野古への基地建設はですね、もうぴったりと最後にするということをですね、しっかりと政府の方で、県民に、国民に対して明言をしていただきたい、とこう思います。実は、今日、多くの皆さんの意見、思いなどもですね、実はここに現状、苦悩、思いなどをしたためた物を持ってきたわけですが、そのことをここでは沢山は申し上げられませんので、あとでこれをお渡しをしたいと思いますけれども、ぜひ今日ここに来られてる皆さんの思いを受け止めていただきたい、というふうに思います。

 最後に、どうぞ辺野古には基地を造りません、というお言葉をいただきたいと思います。よろしくお願いします。
(大きな拍手)

司会>それではよろしくお願いします。

岡田外相>まずあのー、先ほどのお話に出ましたけれども、本来、基地を造るかどうかという話、あるいは日米同盟という話は、国の話なんですね。ですから国が決める話を、名護市の市民の皆さんが長きに渡ってですね、…(一部不明)…分断を強いる形になっていたことは、ほんとに申し訳ないことだというふうに思います。これは本来国が責任を持ってやらなければいけない話だと思います。

 そして、先ほど7割が県外というふうに世論調査の話がありました。私もそのアンケートは何回か目にいたしました。それはその通りであります。しかし、それはあの県外か県内かと言われれば、多くの方が県外を選ばれるのは当然だというふうに思います。しかし、もう少し現実にやる…(一部不明)…していくと、県外ということは、もちろんわれわれも様々な検証はいまやりつつありますが、しかし、すぐですね、えー、…(一部不明)…滑走路がすでにあって、しかも民間では使わないというようなものは、それは…(一部不明)…しかありませんからね、現実に県外といってもですね、それは時間がかかることは間違いない。地元の説得も必要になってきます。それだけに沖縄の…(一部不明)…それは今の普天間の状況がその間、いまのまま続くということでもあります。 そのことについて…
(会場内騒然として聞き取れず)

ヤジ>(普天間の)地元の皆さんは名護に反対してますから。

岡田外相>地元の皆さんがどうなのかという話……

(ヤジで聞き取れず)

岡田外相>ですから、単純に県外がいいかどうかという質問の立て方ではなくて、そういった普天間もその間、固定化しますと。あるいは7000人、8000人の海兵隊の海外への移転というのは、まさにアメリカもこれ、簡単には認めないとなるでしょう。そういうことも含めて判断した時に、どうなのかと訊けば、それが7割になるかどうかというのは議論になると思います。

ヤジ>いやもう、県民を恫喝してるだけですよ。

ヤジ>辺野古なら簡単にできるんですか?

ヤジ>辺野古ならいいんですか?

岡田外相>そういうことを言ってるわけはないです。

ヤジ>そういうふうに聞こえるんですよね。

岡田外相>7割の理由について言ってるんです。

ヤジ>いや、だからそういうふうに聞こえました。

岡田外相>そういう中で、妥当的な判断をしていかなければいけない問題だということを、ここはぜひ…(ヤジで聞き取れず)、…分かっていただきたいということで、だいたいそういう考え方でいま議論しているということであります。

ヤジ>どこにでも造ってはいけない。

ヤジ:大臣が分かってないんだよ。

岡田外相>もちろん、地元の反対をしてこられた皆さんの(ヤジが飛ぶ)気持ちは納得されないというのは分かりますけど。

ヤジ>県民いじめですよ、いや、反対でない、県民ですよ、県民、命ですよ。

ヤジ>あと20年かかってもできませんよ、辺野古では。

ヤジ>できないね。

ヤジ>普天間の人は、伊波さんもですね、名護市にやってくれとは言ってませんから。

岡田外相>大前提として、いや、あの、普天間潰せばいいと、いう話はわれわれはこれ前提には立たないと、これははっきり申し上げておきます。日米合意は重要であると。そして、普天間の機能はどこかに必要である。それは我々の議論の前提ですから。そういう議論の前提のところで違いが分からないと…(ヤジが相次ぐ)。

ヤジ>日米合意がなぜ重要なのか…


ヤジ>ちょっと大臣、伊波市長は名護市に反対してますよ…

司会。えー、時間が来てますので…(会場が騒然として聞き取れず)、…これは…(一部不明)…ということでの、市民集会ですので、それでは閉会の…(一部不明)…まとめさせていただきます…(会場内騒然)。

ヤジ>今日の集会が…(一部不明)…アリバイになったら困りますよ。われわれをアリバイに利用したら困りますよ。

ヤジ>うんそうだよ。

ヤジ>時間かけて検討せー。

(ヤジで会場内騒然)

ヤジ>何言ってるか(怒声)。

ヤジ>鳩山総理大臣がやってきたんですよ…

司会>えー申し訳ありません。今回は時間の制約もあってですね、自由な意見とか色々あるということも分かりますけど…(ヤジで一部不明)…かなり、いまの状況の説明はある程度、すみません、できたと…(マイクが割れて聞き取れず)…、伝えたいと思いますので、ぜひそのことを確認させていただきたいと思います。

ヤジ>普天間が…(一部不明)…と声高に言うのはね、脅しになりますよ、県民に対する。

岡田外相>いえ、私は脅しと感じておりませんから。

司会>今日はどうも有り難うございました。

岡田外相>皆さんの貴重なご意見をいただいて、そのことは大変、私にとりましても非常に勉強させていただいたと、いうふうに思っております。ただ、私は日本の外務大臣として、日本全体の安全ということを…

ヤジ>沖縄を犠牲にしてもいいのか。沖縄は。

岡田外相>もちろん、もちろん、沖縄のことも考えているからこそこれだけ、われわれ苦しんでいるんであって…

ヤジ>当然ですよ、当然ですよ。

岡田外相>ですからそういうことをね、ご理解いただき、これからわれわれが結論をどうするかということは、いまの時点では決めておりませんけれども、沖縄の皆さんの声、今日お聞かせていただいた声を、そういった声も、十分に念頭に置かせていただきながら、決して容易な決断ではないですけれども、最後は、わたくし外務大臣、そして鳩山総理、それぞれの責任で決断をさせていただきたいというふうに思います。もちろん、…(一部不明)…そういう決断になるということではなくて、皆さまの様々な声を聞かせていただいた、その結果としての決断を…(一部不明)…しなければいけないということも、ぜひご理解をいただきたいというふうに思っております。本日はどうも有り難うございました、ご意見いただきまして。

ヤジ>岡田さん、沖縄だけ犠牲にしないで下さい。

(会場内騒然)

司会>恐れ入りますが時間が時間を過ぎておりますので、この場での交流集会は閉じてきたいと、時間の都合上…(騒がしくて聞き取れず)…、こういうふうにさせていただいたのも、できるだけ多くの人の皆さんに、市民の方も…(一部不明)…方もいるわけですから、そういう状況の中でさせていただいたということ。また、…(かなり不明)…、こういう機会があればぜひ…

ヤジ>何回でも来てください、大臣。何回でも来て。

司会>よろしくお願いします、はい。有り難うございました。どうも拍手でお送りください。有り難うございます。

(拍手およびヤジ)

ヤジ>大臣、大臣…(騒がしくて聞き取れず)…違うルートからの情報も聞いて判断してください。偏った情報だけを聞いてるんじゃないですか、大臣は。

騒然とした中、岡田外相と市民との「対話集会」終了


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テープを文字に起こされた方の感想です。

 5日に行われた岡田外相と「市民との対話集会」の録音テープを起こしてブログに載せたら、かなりのアクセスがあった。多くの人がこの「対話集会」に関心を持っていたことを認識させられた。

 テープを起こしながら感じたことを少し書いておきたい。

 発言の中に「…(一部不明)…」とあるが、大半は時間にして1~2、3秒、単語にして1~数語レベルである。最後の7でヤジが乱れ飛んで会場が騒然としたところでは、司会の発言が数秒ほど聞き取れないところがあった。それ以外は(一部不明)といってもごく短いものである。岡田外相をはじめ参加者の発言を誤って記述しないように注意を払い、私なりに正確に聞き取れた範囲内ですべて文字化したつもりである。もし実際の発言と違いがあれば、私の聞き取りミスである。

 後半、岡田外相の発言で「…(一部不明)…」が増えるのは、音声が小さくなって前半より聞き取りづらくなったためである。マイクを使っていない参加者の発言の方が、岡田氏より聞き取りやすくなっている。これは私の想像だが、外部に音声が漏れないように、岡田外相の使っているマイクの音量が途中から絞られたのではないか。実際に会場内にいたわけではないので断定はできないが、録音テープを聴いている限り、冒頭のマスコミ取材を許可した部分と、後半の岡田外相の発言には、音量にかなりの差がある。参加者の発言と比べても、これは録音状態の問題ではない。

 それと併せて疑問に感じるのは、参加者の発言にマイクを使用させなかったことだ。マスコミのマイクと混信するから、という理由は本当だろうか。地声でも聞こえるように静粛にしてほしいと司会が発言しているが、これも参加者の発言が外部に漏れないようにという考えから、意図的にマイクを使わせなかったのではないか。民主党県連・3区支部はあらぬ憶測だと否定するだろうが、会場を密室化した対応を見ると、そのように疑ってしまうのだ。

 ヤジについては、それも参加者の大切な発言だと考え、聞き取れたものはできるだけ載せることにした。声が錯綜して聞き取れないものが多く、実際のヤジの数は載せた数の比ではない。会場の騒然とした様子を聞きながら、民主党県連はそれを予想し、見せない、聞かせない、という方針で「対話集会」を取り仕切ったのだろうと思った。しかし、それは狙いとは逆の結果をもたらしただろう。

 政治家が市民と「対話集会」を持つことは大切なことであり、積極的に行われるべきだ。今回の「対話集会」にしても、もっと広い会場で市民に自由に参加してもらい、マスコミにも公開していたら、アリバイづくりという批判はあったにしても、「対話集会」自体を評価する声はもっと大きくなったはずだ。情報公開を主張してきた民主党が、このように非公開の密室化した「対話集会」を行うことにより、むしろ不信感と反発を増幅させたのである。その結果として岡田外相や民主党への評価を下げたことは、明らかに判断ミスであった。

 「市民との対話集会」全面公開1~7を読めば、名護市民一人ひとりの発言から13年間の切実な思いが伝わってくると思う。実際に声として発言を聞くと、その切実さは文字化されたそれよりずっと強く伝わってくる。司会の玉城デニー議員は〈ユーチューブに載ったら大変なことになる〉と発言しているが、そんなに市民の生の声を封じたかったのか。

 しかし、岡田外相は自らの耳で、限られた数とはいえ名護市民の声を聞いた。その声の背後にはさらに何十万という沖縄県民の声がある。それを踏みにじって、日米同盟強化のために、辺野古への新基地建設を強行するつもりだろうか。

 今日の最新ニュースでは、鳩山首相と岡田外相、北沢防衛相、前原国交・沖縄相が話し合いを持ち、鳩山首相は今月18日までに政府方針を出す意向という。沖縄に負担と犠牲を押しつけて「日米同盟」が維持・強化されると考えるなら、大きな間違いだということを、鳩山首相や岡田外相ほかの閣僚は肝に銘じておくことだ。

外相の県民対話 危機煽るだけでは情けない琉球新報社説
2009年12月7日
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-153847-storytopic-11.html

 県民の願いに、誠実に応える柔軟性や展望はあるのか。岡田克也外相の言動は、疑問だらけだった。
 「住民との対話」を掲げ就任後2度目の来県をした外相だが、米軍普天間飛行場問題について、行く先々で県内移設合意の不履行による「日米同盟の危機」を強調した。聞き役ではなく、まるで官僚に操られた“危機煽(あお)り役”だ。

 県民は戦後64年間の基地とのかかわりの中で、何が現実的で、何が非現実的かを理解している。

 公共事業など基地がもたらす恩恵は限定かつ一時的であるが、基地被害などの不利益は広範かつ長期に及び、基地は固定化する。

 米軍が兵士の綱紀粛正、騒音防止措置など住民生活への配慮を徹底すると言っても、米軍絡みの犯罪や被害はなくならない。

 国の天然記念物ジュゴンなど希少生物や豊かな自然をはぐくむ辺野古の海への新基地建設に、国内外の環境保護団体が異議を唱え、国際世論も辺野古移設を許さない。

 「辺野古合意が最善」との考えには根拠がない。日米両政府は沖縄の戦略的重要性を誇張し、米海兵隊の駐留に執着するあまり、日米関係が深化ではなく劣化しかねない現実こそ直視すべきだ。

 鳩山由紀夫首相は自民政権と官僚が営々と築いてきた対米追従外交に風穴を開けるべく、まずは閣内の意思統一を図るべきだ。普天間撤去こそが現実的で、日米関係への信頼を改善し、日米両政権の価値を高める道だ。

 岡田外相は衆院沖縄4区の議員懇談で、米側が辺野古にこだわる理由について「オバマ大統領が米国内で支持率が下がっている中、議会から対日交渉で弱腰だとの批判を避けたいのではないか」と推察した。国民よりも米国の意向に顔が向いた情けない発言だ。

 米政府高官は普天間問題の越年について「懸念は伝えたが、日米関係は成熟している。日本は最も重要な同盟国の一つだ」とし、国務省のケリー報道官も「米国は日本政府の見直し作業を喜んで手助けする」と述べた。日本の官僚が民主党の「県外・国外移設」方針に待ったをかけ、執拗(しつよう)に「日米同盟の危機」を煽る姿とは大違いだ。

 鳩山内閣は普天間撤去へ向け、政治主導の真価を発揮する時だ。鳩山、オバマ両首脳が特使を派遣し、政治主導で打開を探るぐらいの強い指導力が必要だ。

2009年12月5日土曜日

【報道番組】 捏造報道(フジTV)

12/05/2009

フジテレビの調教キャンペーン
一昨日前フジテレビの報道番組から私に出演依頼の電話があった。彼らは私にオバマ大統領の経済政策について番組でコメントをしてほしいという。またrecovery.governmentのサイトを読んで分析をすることも頼まれた。

私はオバマ大統領の経済政策はアメリカを益々みじめにしている理由を説明した。先ずアメリカ経済データの捏造を具体的に説明し、アメリカの失業率が米連銀のエコノミストの試算で17.5%になっていることも伝えた。

それからrecovery.governmentのサイトが嘘八百であることも説明した。口約束ばかりをしているが、実際には全く実施をしてないことを具体的なデータを用いて説明した。アメリカが倒産している理由も伝えた。日本と中国政府のデータを見ればわかるように、現在誰もアメリカ国債を買っていない。オバマが昨年中国から一兆ドルを借りたが、それを全部使い果たしもうこれ以上借りることは出来ないのだ。

このように具体的な裏の取れる事実を沢山述べた後、フジテレビのプロデューサーは上司に相談すると言い出した。そしたらこういう回答がきた:「すいません。明日の出演依頼はキャンセルさせて下さい。今回の番組の趣旨は日本がアメリカの真似をするべきだということなので、あなたは呼べません。」

要するにフジテレビの「報道」番組は、予め決められた結論を事実と関係なく日本国民に押し付ける仕事をしている。これは立派な売国奴行為だ。悪質な外国勢力のためのプロパガンダだ。本来の報道の在り方は国民に客観な事実を伝えることであり、国民を騙したり、洗脳をしたりすることではない。

是非これを機会にフジテレビの調教キャンペーンを始めたい。共感された方は是非スポンサーによる広告のボイコットへの呼びかけと、抗議の電話をして下さい。「報道番組で国民を騙すことを止めないと、もうフジテレビのニュースを信用しない」と伝えて下さい。電話をかけると代表が出るので、社長室か広報部へ繋いでもらって下さい。フジテレビの電話番号は03-5500-8888です。国民を騙す報道機関を放っておくことは出来ない。

It is time to discipline the Japanese corporate media
The other night I got called by Fuji Television, a major Japanese network. They told me they wanted to invite me to speak on a news program about Obama’s economic policies. I explained to them that Obama was presiding over an economic disaster of historic proportions. Using only data that came from official sources I showed how the real unemployment rate was 17.5%. I explained in detail how the US government was faking its economic data. I showed how Obama borrowed $1 trillion from the Chinese last year and had already spent it and was not getting any more. I told them to check various governments official data to confirm that no foreigners were buying US government bonds. They asked me to look at the site called recovery.gov. I looked at it and explained to them that it was all smoke and mirrors. It was just unkept promises and feel good talk. The TV producer told me to wait a minute because he had to talk to his superior. He then said to me “I am sorry but your television appearance has been cancelled. The aim of this program is to convince the Japanese they should imitate the US.” In other words a so-called “news” program decides in advance what it wants to tell the Japanese people and damn the facts. Running a program like that for an evil foreign group is treason. Real news programs just objectively provide the facts and let the people form their own opinions. We are calling for an international advertizing boycott of Fuji Television until they clean up their act. We are also asking people to phone Fuji Television and ask for their public relations department to explain why they are doing this. Fuji’s telephone number is 813-5500-8888. It is time to discipline the corporate media worldwide.

2009年12月3日木曜日

【沖縄密約】 日本負担金(思いやり予算)

2009年12月03日10時04分

「日米同盟」再構築の道 両国首脳の政治理念、具現化を 


  オバマ米大統領は11月13日、初めて日本を公式訪問、鳩山由紀夫首相と懸案の諸問題につき意見を交換した。1月誕生したオバマ政権、九月スタートの鳩山政権はともに〝チェンジ〟をスローガンに掲げて長期保守政権を倒して躍り出た「民主党」同士。9・11テロ以降の大混乱と、リーマンショックで破綻した市場原理至上主義からの脱皮を目指して〝船出〟、荒波と闘いながら操船しているのが、両政権共通の姿だ。しかし、ブッシュ政権・麻生政権が残した〝負の遺産〟清算の特効薬はなく、体制建て直しの前途は厳しい。

 鳩山・オバマ会談では、両国の基軸「日米同盟」を深化させることを確認したうえで、核軍縮・核不拡散への連携、地球温暖化対策、アジア太平洋地域の安定と繁栄など多角的な協力を話し合い、共同文書と行動計画を発表した。両首脳が掲げる理念と目指す共通目標を再確認した意義を高く評価し、今後の具体的施策に期待を寄せたい。

 多岐にわたるテーマを論じる紙幅がないため、本稿では「日米同盟」、特に米軍再編と沖縄基地問題に絞って考えてみたい。

▽「普天間」解決へ向け閣僚級作業グループ

 「普天間飛行場を県外か国外に移設」――8・30総選挙で訴えて政権を勝ち取った鳩山民主党だが、自民党政権から続いてきた日米外交案件を一気に解決することはできまい。従って今回の首脳会談で、「普天間問題に関する閣僚級作業グループ設置」に合意し、「早期に結論を出す」と取り決めた点を〝一歩前進〟と評価したい。「問題の先送り」と批判する声もあるが、米軍基地についての再検証・再構築を日本側が求めることは当然なこと。現在、普天間移転に関する両国の主張は異なっているが、対等な交渉を通じて、着地点・妥協点を見出す努力こそ肝要である。

 ところが、両国有識者やメディアの一部から、執拗な〝鳩山バッシング〟が依然続いており、不快きわまりない。岡田克也外相と10月20日会談したゲーツ米国防長官は「普天間を移設しなければ、海兵隊のグアム移転はなく、グアム移転なしに沖縄の兵員縮小やほかの基地の返還もない」と、恫喝的な言辞を吐いた。

 そもそも名護市辺野古への移転案は1996年(橋本龍太郎政権)に決まったものの、地元との調整がつかず10年間放置されたまま。その後、2006年(小泉純一郎政権)の「在日米軍再編協議」の結果、〝二本の滑走路案〟によって「辺野古」が再浮上、決着するかにみえた。この再編計画は、米軍の世界戦略見直しの一環で、米国主導で強引に進められたもので、「沖縄駐留の海兵隊8千人を削減、2014年までに完了させる」と決定。しかし、これは普天間移設とパッケージにしたもので、海兵隊のグアム移転の日本側経費負担約七千億円を押し付ける強引さだった。

 ところが、それから3年経過した現在も、移設先が決まらず右往左往するばかりだ。13年間もの無駄な歳月が沖縄県民をどんなに苛立たせているか、〝基地の島の悲哀〟が続いている。
 「ゲーツ長官の無礼な恫喝に対して、その非を咎めたメディアがあっただろうか。米海兵隊の基地が沖縄に存在しなければ日米安保体制が崩壊すると主張する人々に訊きたい。御殿女中よろしく日米安保が崩壊すると大騒ぎしているが、なぜ、一つの海兵隊基地を沖縄の外に移すことが安保体制をこわすことになるのか私には理解できない」
 と、山口二郎・北大教授は「基地存続の罪」をズバリ指摘(東京新聞10・25朝刊コラム)していた。

 一方、オバマ訪日に合わせ、「日本は米国に冷淡」との見出しを掲げたNYタイムズ11・12付記事にはびっくり仰天。「日米関係は1990年代の貿易摩擦以来、最も対立的だ。日本政府は突然、米当局者と公然と争うことに躊躇しなくなり、不確実な新時代に入ろうとしている」との居丈高な論調を、『朝日』『読売』11・13朝夕刊が報じていた。先に「鳩山論文」を中傷誹謗したのも同紙電子版だっただけに、その偏狭な対日圧力には、〝大国の驕り〟が垣間見える。

 「日本の安全保障も沖縄の負担軽減も日米共通の目標なのだ。私が切に望みたいのは、今後、一方が一方に要求を突きつけるのではなく、日米の共同作業の継続を基本にすることである。世界の顕著な変動を受けて将来の日米のあり方をどうするのか、東アジア共同体の考え方や核軍縮と核抑止、あるいは国際安全保障への日米の役割、そして基地問題といったもろもろの課題をきちんと議論し、一九九六年の日米安保共同宣言のような形で首脳宣言をつくる作業を行ってはどうか。オバマ大統領の訪日はその共同作業をキックオフする機会として捉えるべきではないか」との田中均・元外務審議官の提言(『毎日』11・5夕刊)のような将来展望を、メディア報道に望みたい。

▽「思いやり予算」を見直す好機

 政府の行政刷新会議が現在進めている〝事業仕分け〟で、「駐留米軍への思いやり予算」も対象になっているため、経緯を振り返っておきたい。ベトナム戦争後財政ピンチに陥った駐留米軍の負担軽減が、当初の目的だった。1978年に金丸信・防衛庁長官が経費の一部を肩代わりすると表明、「思いやり予算」と言われるようになった。発足時の予算は日本人基地従業員の給与の一部に充てる62億円だったが、米国の景気回復後も減額されるどころか負担額は年々上がり続け、贅沢な娯楽費や施設整備費などに拡大してしまった。

 防衛省HPが公表している年度別予算を示しておくが、予算をむしり取って転用するルーズさに驚いた。
 ▽1978年62億円 ▽79年280億円 ▽80年374億円 ▽85年807億円 ▽90年1680億円 ▽95年2714億円 ▽2000年2567億円 ▽01年2573億円 ▽02年2500億円 ▽03年2460億円 ▽04年2441億円 ▽05年2378億円 ▽06年2326億円▽07年2173億円 ▽08年2083億円 ▽09年(予算)1919億円

 最近多少減額されたものの、日本が78年以降負担してきた「思いやり予算」総額は3兆円を超す膨大な額。他国でも米軍駐留費負担はあるというが、その額の多さは群を抜いており、「世界一気前のいい同盟国」と言われているという。まさに一度走り出したら止まらない公共事業費と同じパターンだったことに、改めて驚愕した。

 「概算要求額一九一九億円のうち一一六四億円が、今回の仕分け作業の対象となる。…在日米軍基地では、司令部の事務職員、レストランやゴルフ場などの娯楽施設職員として計二万五四九九人(08年度末現在)が働いている。日米両国の特別協定に基づき、このうち二万三〇五五人分の給与は日本政府が、残りは米軍が負担している。この日本側負担分が仕分けの対象になる」(『読売』11・7朝刊)とのことだが、基地従業員に跳ね返る問題だけに、仕分け作業は難航するだろう。

 しかし、「思いやり予算」垂れ流しにメスを入れなければならず、「米軍基地見直し」と連動して、「思いやり予算」減額に取り組む緊急性を痛感する。なるべく早く〝お人好し〟過ぎる不条理な慣行にストップをかけることが望ましく、米国の顔色を見て判断するような問題でないことを、国民すべてが気づくべきだ。

▽日米連携で、世界に貢献する提案を示せ

 「ブッシュ政権の八年間、不要な戦争によって多大な犠牲と軍事的弱体化を招いたほかに、アメリカが世界に貢献したものは少ない。日本政府は日米同盟の安定を喜ぶばかりで、とるべき政策を提案することはなかった。日米同盟の堅持だけに日本の外交を押しとどめてしまうなら、同盟によって何を実現するのか、そもそも現代世界ではどのような制度や政策が必要なのかという課題が忘れられてしまう。日米同盟の堅持が問題なのではない。日米両国が現代世界で何を実現しようとするのか、そして実現すべきなのか、課題の設定こそが問題なのである。試みに幾つかを挙げるならば、世界金融危機のような市場破綻を阻止するための制度形成、アフガニスタンをはじめとする破綻国家への国際的関与、北朝鮮ばかりかイランにまで拡散しようとする核兵器の拡散阻止。民主党政権に求められるのは、このようなグローバルな課題に答えるパートナーシップとしての日米関係の構築である」と、藤原帰一・東大教授の論評(『朝日』11・12夕刊)は、日米・民主党政権への力強いエールであり、両国首脳の目指す方向と重なるとの期待を深めた。



2009年09月01日15時58分掲載

「集団的自衛権」見直しを提言 武器輸出三原則緩和の報告書に驚く 


  敗戦から64年の日本、内外に変革(チェンジ)の嵐が巻き起こっている。安倍晋三、福田康夫、麻生太郎氏と三代続いた自民党政権の失態が、国民の政治不信を招き、国際的信用を失墜させた罪は大きい。とにかく難問山積、新政権の責任は極めて重い。中でも、安全保障・防衛政策の動向は、国民の命運に直結する重要課題。政府の独善的判断には、厳しい目を注がなければならない。

▽「安保防衛懇」提言が投げかけた波紋

 「核持ち込み密約」を認めた村田良平・元外務次官証言をめぐって議論が沸騰している折、政府の「安全保障と防衛力に関する懇談会」は8月4日、年末に改定される「防衛計画の大綱」に向けた報告書をまとめ、麻生首相に提出した。「集団的自衛権の見直し」など、踏み込んだ提言をしているが、これは北朝鮮弾道ミサイルに対応する日米軍事力強化を狙ったものとみられる。
 政権交代が取り沙汰されている混乱期に報告書を提出した背景に、「政治的思惑を感じる」との観測も強く否定できまい。この報告書が、2004年報告(小泉純一郎政権時)のように「防衛大綱」に反映されるならば、安保・防衛政策の大転換になる恐れがある。そこで、従来の「報告書」より鮮明になった集団的自衛権や武器輸出三原則の緩和など「新報告書」の重要個所を示して参考に供したい。

▼[日本をとりまく安全保障環境]
 米国の影響力の変化と国際公共財の不足=米国の絶対的な優位は今後も変わらないが、軍事的負担の増大や経済危機の影響で、米国の関与が縮小するおそれ。これまで米国が主導的に提供してきた国際公共財について、米国に加えて、EU諸国など主要国が共同で提供する必要。北朝鮮は核・ミサイル開発を継続しており、世界の平和と安全に対する脅威。日本にとっては、核・ミサイルに加え、特殊部隊による破壊工作も大きな脅威。北朝鮮の体制は先行き不透明であり、体制崩壊の可能性。

▼[多層協力的安全保障戦略]
 日本の安全保障を確保するため、①日本自身の努力②同盟国との協力③地域における協力④国際社会との協力という四つのアプローチを「多層的」に用いて、重層的に問題の解決にあたり、日本の安全確保、脅威の発現の防止、国際システムの維持・構築という三つの目標を実現する「多層協力的戦略」が必要。

▼[防衛力の役割]
 弾道ミサイルへの対応=抑止が最も重要。核抑止については米国に依存。その他の打撃力による抑止は主として米国に期待しつつ日本も作戦上の協働・協力を行なう必要。ミサイル防衛による対処や被害局限も抑止の一環。重層的に構成される抑止を実効的に機能させるためには、日米の連携が重要。現在計画中のミサイル防衛システムの整備を着実に進めつつ、新型迎撃ミサイルの日米共同開発を促進すべき。敵基地攻撃能力を含む抑止力の向上については日米の役割分担を踏まえ、日本として適切な装備体系、運用方法、費用対効果を検討する必要。

▼[安全保障政策に関する指針について]
 「国防の基本方針」は策定から50年以上修正されず。また、「防衛政策の基本」とされてきた(ア)専守防衛、(イ)他国に脅威を与えるような軍事大国にならない、(ウ)文民統制を確保する、(エ)非核三原則、の四つの方針には「歯止め」としての意義はあったものの、「日本は何をするのか」についての説明としては不十分。「文民統制」や「軍事大国にならない」との方針は引き続き重要だが、安全保障環境の変化によって、世界は従来「専守防衛」で想定していたものではなくなっており、今日の視点から検証すべき。

▼[弾道ミサイル攻撃への対応に関する方針について]
 日米協力が重要。弾道ミサイル攻撃からの防衛には、報復的抑止力について米国に依存する一方、ミサイル迎撃や被害局限など、自らの役割を果たすべき。北朝鮮の弾道ミサイルは日米共通の脅威で、米国に向かうミサイルの迎撃を可能とするため集団的自衛権に関する解釈を見直すべき。弾道ミサイルへの対処に際し、自衛隊艦船が米艦船を防護できるよう、集団的自衛権に関する解釈の見直しも含めた適切な法制度の整備が必要。

▼[武器輸出三原則等について]
 欧米諸国は、国際的な分業により先進的な武器技術や装備品を取得しようとしており、日本がこのような枠組に参加できない場合、国際的な技術の発展から取り残されるリスクが高まっている。また、米国からライセンスを受けて国内で生産する装備品等の米国への輸出を可能とすることは、日米協力の深化にもつながる。更にテロ対策に資する装備などの輸出は、日本の安全のためにも必要。武器輸出三原則等を修正、武器輸出を律するための新たな政策方針を定めることが適切。

▽委員の顔ぶれ、〝密室論議〟に疑念残る

 安倍晋三首相は2007年5月、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(座長・柳井俊二元駐米大使)を発足させた。「戦後レジームからの脱却」を唱える安倍氏長年のテーマで、見直し賛成派の有識者13人(岡崎久彦氏ら)を委員に委嘱。懇談会の大勢は憲法解釈の変更によって集団的自衛権の行使を容認すべきだという方向で議論は進んだが、安倍首相は同年9月に政権を投げ出し、後任の福田首相が解釈変更に消極的だったため、政府における集団的自衛権見直し論議は遠のいたかに見えた。

 ところが、福田氏退陣(08・9)後に首相の座についた 麻生氏は09年1月7日、「安全保障と防衛力に関する懇談会」を〝新装開店〟させた。安倍元首相の意図を継承した麻生首相が同種の懇談会を設立した狙いが、新たに委嘱した委員の顔ぶれからも透けて見える。
 委員は青木節子・慶応大学政策学部教授▽植木(川勝)千可子・早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授▽勝俣恒久・東京電力会長▽北岡伸一・東京大学大学院法学政治学研究科教授▽田中明彦・東京大学大学院情報学部教授▽中西寛・京都大学公共政策大学院教授の六人で、座長は川俣氏。
 このほか専門委員として加藤良三・日本プロ野球組織コミッショナー▽佐藤謙・元防衛事務次官▽竹河内捷治・元防衛庁統合幕僚会議議長の3人が委嘱された。構成メンバー計9人のうち北岡・田中・中西・佐藤の四氏は、「安倍懇談会」に続いての委員。

 青木氏は宇宙法や通信衛星などの研究者、植木氏は国際関係論・安全保障の研究者。北岡氏ら3教授は政府審議会や論壇で活躍している学者。加藤氏はつい最近まで駐米大使の要職にあった。

 「懇談会」は麻生首相直属の諮問機関で、これまで11回開かれているが、非公開のため一般国民への情報は遮断されたまま。「先に結論ありきの懇談会」との批判もうなずけよう。日本国憲法や非核三原則・武器輸出三原則など「国是」変更につながる問題をはじめ、核抑止について様々な議論がある段階で、日米同盟に傾斜しすぎた「懇談会報告」との印象を否めない。

 改憲の論調を掲げる『読売』『産経』は同報告書を評価していたが、他紙の多くが「国民的論議を深めるべきだ」と、集団的自衛権の解釈見直しの動きに警告を発していた。「専守防衛は『戦力不保持』をうたった憲法九条の下で自衛隊を持つにあたって『国際紛争を解決する手段としては武力行使を永久に放棄する』と誓った九条1項を順守するために、戦後の日本が選択した防衛政策の大原則である。法理上はすべての主権国家が保有しているとされる集団的自衛権や、敵基地攻撃能力を政府が封印してきたのも、専守防衛を原則としてきたからにほかならない。

 専守防衛原則の見直しは、その封印を解き、安全保障政策を大転換させることを意味するだけではない。九条解釈を実質的に変更し、平和憲法の変質につながりかねない問題をはらむ」(『西日本』8・11社説)、「政府の憲法解釈は長年にわたる国会論議の積み重ねの結果でもある。国の法体系の根幹である憲法の解釈は法理論上の問題という側面を持つ。安保環境の変化にとどまらず精緻な理論付けが必要だ」(『毎日』8・5社説)などの指摘は尤もで、懇談会報告を鵜呑みにすることは危険きわまりない。

 ただ、「8・30衆院選挙」後に政権の枠組みが変わった場合、安全保障や防衛に関する政府方針も変わるはずだから、今回の報告書が棚上げされるような気がする。いずれにせよ、選挙の洗礼を受けた新政権の下で、国民を守るための「安全保障政策」にじっくり取り組んでもらいたい。


2009年06月27日10時51分
沖縄密約訴訟

「米国が公開の外交文書は存在しないのか」 裁判長が国側に質す 


  沖縄返還交渉をめぐる疑惑は、米国の外交文書公開によって「日米密約の存在」が暴露されてから約10年経過した現在も、歴代日本政府は「密約はない」と一貫して否定している。1972年の沖縄返還から37年経過したが、政府は「文書不存在」をタテに真相を隠蔽し続けているのだ。

 西山太吉・元毎日新聞記者のスクープが事件の発端で、政治権力の強引な捜査は、今でも記憶に残る。佐藤栄作政権は問題の本質を隠すため、事件を「外務省機密漏洩事件」に矮小化して西山記者を国家公務員法違反(秘密漏洩の教唆)容疑で逮捕。一審は無罪だったが、控訴審→最高裁判決で逆転・有罪が確定して〝記者生命〟を失う結末となった。
 ところが、米国公文書の発掘に続き、当時の外交交渉責任者、吉野文六外務省アメリカ局長の「密約文書に署名した」との発言が飛び出した。長年沈黙を続けていた西山氏は2005年、不当判決に対して「国家賠償請求訴訟」を提起。東京地裁、東京高裁、さらに最高裁へと審理は3年余続けられたが、最高裁第三小法廷は2008年9月2日、実質審理に入らぬまま一、二審と同様上告を棄却した。国民が最も知りたい「密約の存在」には一切触れず、「除斥期間」を唯一の理由に、原告の訴えを却下したのである。
 日米間で取り交わした文書の有無に一切口を閉ざし、新証拠や証言を無視した〝逃げ腰〟の姿勢は、言語道断と言わざるを得ない。

 当日たまたま都内で、有識者による「沖縄返還に伴う日米の合意文書・情報公開請求の会」が開かれており、最高裁の〝抜き打ち的決定〟の連絡に衝撃が走った。まるで〝先制攻撃〟のような司法の通告に反発、同日午後直ちに代表者が外務・財務両省を訪ね、「沖縄返還交渉の情報公開」請求を迫ったが、これも10月2日「文書不存在」を理由に却下された。
 これに対し有識者と弁護団は2009年3月16日、「不開示処分取り消しを求める訴訟」を東京地裁に提起した。原告は、桂敬一・柴田鉄治・新崎盛暉三氏を代表者に、西山太吉・奥平康弘・我部政明・澤地久枝・田島泰彦氏ら総勢25人。同時に清水英夫・小町谷育子・飯田正剛・日隅一雄・岡島実・梓澤和幸氏ら30人の弁護団が結成された。
 以上が、「沖縄密約訴訟」についての概括的な経緯である。

▽明解さに欠ける国側〔答弁書〕

 一連の疑惑を正すため「沖縄返還〝密約文書〟公開請求訴訟」第1回口頭弁論は、2009年6月16日午後4時、東京地裁705号法廷で開かれた。原告・弁護団席には20人余が着席し、異様な緊張の中で審理が進められた。

 被告の国側は、原告が開示を求める3文書につき「いずれも保有しておらず、原告が主張する事実関係については確認できない」と〝密約の有無〟への言及を避けた。国側が提出した答弁書第4<被告の主張>に、注目すべき記述があるので原文を紹介する。

 「外務省及び財務省は、本件各開示請求対象文書をいずれも保有しておらず、各対象文書に関して原告らが主張する事実関係については確認することができない。なお、一般 論としては、二国間又は多国間の合意に向けた交渉の過程において仮に様々な文書が作成されたことがあったとしても、それが交渉の最終的な結果である合意自体でない場合等に、事後的に廃棄されることがある。また、沖縄返還に際しての支払に関する日米間の合意は、琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(以下『沖縄返還協定』という。)がすべてである。したがって、本件各処分にはいずれも何らの違法はない。詳細は、追って、準備書面をもって明らかにする」。

 この「国側答弁書」を受けて、杉原則彦裁判長は「米国に密約文書があるのだから、日本側にも同じ文書が存在するはずだとする原告の主張は理解できる。もし密約そのものが存在しないというのであれば、米国の公文書をどう理解すべきなのか、国側は合理的に説明するする必要がある」と述べた。さらに「一般論としては、事後的に廃棄されることがある」との国側答弁書につき、「事後に廃棄ということは、当初は保有されていたということか」と問い質す場面もあった。
 国側は「確認はできない。過去に存在したかどうか、可能性は分からない」と答弁するのが精いっぱいだった。

▽米国並みの「情報公開」を迫った原告の[意見陳述]

 原告団を代表して桂敬一氏(メディア研究者)と我部政明・琉球大学教授が熱っぽい意見陳述を行ったので、ほんの一部を引用して参考に供したい。

 [桂氏の陳述]冷戦時代の遺産さながらの沖縄密約は清算、沖縄問題を含めた今後の日米関係構築に必要な政策は、透明性が確保された協議体制の下での検討が望まれる。日本はまず、アメリカの情報公開制度、とくに政府交換文書の公開制度を見習わねばならない。それは、政府が立案・実施で過ちを犯しても、いつかその原因を発見、政策を正道に戻す、政治の民主的復元力を保障してきた。日本政府は手始めとして、沖縄密約に関してアメリカが公開したものに見合う文書資料を、もう公開すべきである。本裁判がそれを促し、国民の知る権利を満たし、政府に対する信頼の回復に資する役割を演じられんことを、私は期待する。

 [我部氏の陳述]今回公開を求める3文書の中核は、アメリカ側は沖縄返還に伴う費用負担を全く行わないばかりでなく、沖縄の米軍基地の返還において、移転に伴う費用に加え日本本土にある米軍基地の施設改善費を日本側に支出させることにあったという点です。…交渉の結末は、アメリカ側の提示した基地返還に伴う移設や基地内の施設改善のための費用を軸にして他の項目も一括で支払う(lump sum payment)とする政治決着で日米が合意しました。それは、佐藤首相の訪米直前の1969年11月12日です。その合意に際して、沖縄返還の財政交渉に終始かかわっていた当時の福田赳夫・大蔵大臣が口頭で覚書を読み上げています。
 …(これまで述べてきたように)日本側とアメリカ側が署名している合意文書が(アメリカ国立公文書館などに)存在しているのです。明らかに、日本の外務省や財務省にも同一の合意文書が存在しているはずです。政権を担当し、政策を実施すべき政府が、外国政府との間で自ら合意した取り決めを軽視することは、国民の利益を無視することです。政権の都合と国民の利益のいずれかを優先すべきなのかという基本姿勢を理解しえない政府だとすれば、国民の信頼は消滅します。たとえ当時の政権にとって好ましくない合意であったとしても、「知る権利」「政府の透明性」を高めて、国民信頼をかちとり、そして日本の外交の現実を知らせることこそが国民の正確な外交判断を促していくものだと確信しています。

 1990年代から米国公文書館などで「沖縄密約文書」発掘を続けてきた我部琉球大教授の意見陳述は、具体的例証を提示して迫真力があった。たじたじの国側は〝我部陳述〟の取り扱いに注文をつける一幕もあったが、杉原裁判長は、原告の意見陳述を『雑記録』ではなく、『弁論』として位置づける判断を示した。さらに裁判長が、メディアに「密約の存在」を明らかにしている吉野文六・元外務省アメリカ局長を証人に招くよう原告側に促すなど踏み込んだ姿勢を示した。
 最後に、次回の弁論日程につき裁判長が「1カ月後でいかがですか」と問いかけたところ、国側は「2カ月の準備期間」を要請。結局、「8月25日第2回口頭弁論」を決定したが、裁判長は国側に向かって「2カ月もあるので充実した書面が出ることを期待します」と念を押して、閉廷した。

▽どう報じるか? マスコミの問題意識と報道姿勢

 ついで午後6時から弁護士会館で原告・弁護団の記者会見があり、引き続き報告集会も開かれた。小町谷育子弁護士は「裁判長が冒頭から文書の廃棄につき国側に説明を求めるなど、今までにない積極姿勢に裁判長の決意を感じる」と感想を述べたが、他の原告・弁護団メンバーも〝訴訟指揮〟ともいえる裁判長の姿勢に好感を示し、今後の展開に期待する発言が目立った。「個人の力ではなく、集団が動き出したことが裁判所の変化につながったと思う」(西山太吉氏)との見方もうなずける。
 また、裁判長が「吉野氏の証人喚問」を要請した点を評価、直ちに弁護団が接触することになった。高齢のため出廷が困難なら出張尋問をとの提案もあり、吉野証言をぜひ引き出してもらいたい。

 報告集会の中で「沖縄密約問題は過去のことではなく、現在のグアム移転など日米軍事再編につながる重大問題である。各メディアはもっと強い問題意識をもって報道してもらいたい。今こそマスコミの姿勢が問われている」との指摘や要望が多くの方から出された。
 沖縄弁護士会所属の岡島実弁護士が席上、「沖縄と本土の情報格差が大きい。この種の報道は、沖縄に比べて本土マスコミは殆ど取り上げず、その格差は100対1くらいだ」と発言した。〝100分の1〟はともかくとして、冷淡な本土マスコミへの痛烈な指摘と受け止めたい。

 そこで、本土と沖縄の主要各紙が6月17日朝刊にどう報じたかを点検したので、具体的な内容を提示しておきたい。
 在京6紙のうち「密約文書開示訴訟」を報じたのは『朝日』『毎日』『東京』3紙で、『読売』『日経』『産経』3紙は全く扱っていなかった。密約訴訟自体をどう見るかは各新聞の自由だが、好むと好まざるに拘わらず、論議が続いている裁判を1行も報じなかったのは何故か。まさかと思って、何回も読み直したが見当たらなかった。

 『朝日』は社会面に<密約文書『ない理由を示せ』・国に裁判長要請>の4段見出しを掲げ、国側に説明責任を求めた点を重視、裁判長発言を引用して詳しく報じた。『毎日』は第3社会面に<国側『文書保有せず』・初弁論で争う姿勢>の3段見出し。『東京』は第2社会面に<元局長に証人依頼を・沖縄『密約』で裁判長>の2段見出しだった。司法記者に「情報開示」を求めた異例の裁判との視点があれば、訴訟の本質を読者に伝えるべきテーマであり、『朝日』の記事・扱い方を妥当と考える。

 沖縄県紙はどう報じたか? 『琉球新報』は1面に<国に『十分な説明』要求・裁判長、整合性に疑問呈す>の4段見出し。さらに社会面に<文書『当初は保有?』・裁判長が積極質疑>の4段見出しで関連記事を伝えた。『沖縄タイムス』は1面に<元外務省局長の尋問促す・原告側が申請検討>の4段見出し。これを受けて社会面に<国は米側文書の説明を・裁判所が『異例の指揮』>の4段見出しで報じた。
 両県紙の問題意識、紙面内容と扱い方に共通点があり、沖縄の〝戦後の苦悩〟の一端を反映しているとも感じた。その記述は、裁判長の発言、姿勢などを客観的に報じており、「沖縄県紙だから…」の誇張がなかった点でも、行き届いた紙面と評価できる。

 「沖縄密約」問題をケーススタディーとして考察した論稿であり、新聞の優劣を軽々に論じるつもりのないことを、お断りしておく。ただ、ニュース報道に当たって、思想・信条に凝り固まった判断を下してはならないと思う。ニュースを敏感に捕らえ、問題の背景や真実に迫ることこそ、ジャーナリズム永遠の課題なのである。




2009年05月03日10時41分
検証・メディア

「沖縄返還密約はあった」 政府の「文書不開示は不当」と提訴 


  太平洋戦争敗北から64年、沖縄返還によって「戦後は終わった」と言われてからも37年の歳月が流れた。しかし、沖縄には米軍基地が根強く存在し、なお重大な課題・疑惑を残したままだ。「沖縄は『日米同盟』の要(かなめ)」と喧伝されているが、果たして基地を現状のまま維持すべきか否かを再検討する必要に迫られている。

 1960年代後半から70年代初めにかけて行われた沖縄返還交渉での「密約」をめぐるナゾはいぜん解けず、戦後政治史に汚点を印したまま未だにホットな論争が続いている。
 佐藤栄作政権下の30数年前、西山太吉・元毎日新聞記者が「米国が支払うべき軍用地復元補償費400万㌦を日本側が肩代わりした『密約文書』が存在する」という衝撃的スクープを政府に突きつけたのが発端。国家公務員法違反(秘密漏洩の教唆)に問われた西山氏は有罪判決を受けたあと故郷に蟄居していたが、2000年と02年の米外交文書公開で「沖縄返還密約の存在」が明らかになったため、05年5月名誉回復の「国家賠償訴訟」を提起した。

 06年2月、交渉当事者だった吉野文六・外務省アメリカ局長の「密約を認める」発言がセンセーションを巻き起こし、西山氏側への〝追い風〟にもなった。しかしその後も歴代日本政府は「密約の存在」を否定し続け、東京地裁→東京高裁→最高裁での審理の末、08年9月2日「上告理由に当たらない」として「西山氏敗訴」が確定した。これに対し西山氏支援グループは直ちに「情報公開請求」を政府に迫ったが、10月2日これも「文書不存在」を理由に却下されてしまった。

▽公開された米国外交文書に動かぬ証拠

 沖縄密約訴訟の経緯を簡単に振り返ってみたが、情報公開への問題意識を共有する有識者と弁護団は09年3月16日、外務省と財務省が「文書不存在」を理由に文書開示しなかったのを不服として、国に不開示処分取り消しを求める訴訟を東京地裁に提起した。原告は、桂敬一・柴田鉄治両氏を代表者に総勢25人。西山太吉・奥平康弘・我部政明・山口二郎・澤地久枝氏らが名を連ね、同時に清水英夫氏ら30人の弁護団も発足した。

 公表された「情報開示請求」の趣旨は、①三文書の不開示決定の取り消し、②三文書の開示決定、③慰謝料1人10万円の支払い、である。
 開示を求めた三文書とは、▼1969年12月2日付「柏木雄介(大蔵省財務官)・ジューリック(米財務省特別補佐官)文書」、▼71年6月11日付「吉野文六(外務省アメリカ局長)・スナイダー(駐日アメリカ公使)文書」、▼同年6月12日付「吉野・スナイダー文書」で、これら秘密文書は2000年以降、米国外交文書公開で既に明らかになっている。

 ところが、藪中三十二外務次官は、3月16日の記者会見で「日本政府の立場は明確で、密約はない」と従来の主張を繰り返し、提訴について特にコメントすることはない」と口を閉ざしたままだ。

 2000年の米国公文書公開で「密約の存在」が表に出てからの流れをウオッチしてきたが、今回の「情報開示」提訴は、極めて重大な関門と考えられる。ところが、各メディアの扱いが、ほんの一部を除き冷淡だったのは何故だろうか?

▽〝問題意識欠如〟の紙面扱いが気がかり

 在京六紙(3・17朝刊)の中で、東京新聞が第二社会面に「沖縄密約文書『不開示不当』と提訴/学者ら、処分取り消しを求める」との3段二本見出し。妥当な扱いと思って、他紙と読み比べたところ、『日経』が第二社会面2段扱いのほかは。朝日・読売・毎日三大紙は、中面の第三社会面に1段(ベタ)扱い。『産経』は掲載していなかった。

 今回の提訴の重みをどう判断したかが、紙面扱いの差になったに違いないが、中面での「お知らせ」的ニュースで処理した点に〝問題意識の欠如〟を感じざるを得ない。特に『朝日』は、米外交文書公開などを精力的に報じていたのに、この〝落差〟は何に起因するのか。また「西山裁判」の矢面に立たされてきた『毎日』が、ミニニュース・最小見出しで処理した(記事量はかなりあったが)点は甚だ疑問である。各紙の扱い方の優劣を判定するつもりはないが、紙面ウオッチャーとしての感慨を率直に記したことを了解いただきたい。

 なお、県紙にざっと目を通したところでは、提訴記事を掲載した新聞でもベタ扱いが多かった。突出していたのは沖縄県の二紙だったが、沖縄タイムスが一面二番手(4段見出し)とし、社会面二番手で関連記事を掲載していた。琉球新報は第二社会面2段扱いだったが、両紙とも翌3・18付社説に取り上げていた。「沖縄密約訴訟」の節目と認識して、社論を掲げた姿勢を多としたい。

 「訴状は『密約』が米軍駐留に巨額負担する制度の源流であると指摘する。米軍受け入れ国の中で拠出額が突出する『思いやり予算』、そして米軍再編に伴い沖縄海兵隊八〇〇〇人をグアム移転する経費負担へと通じているとする。
 情報開示を求める原告は、民主国家のあり様を問う。『国民に情報を与えないか、もしくは情報を獲得する手段を与えなければ、政府は真の国民の政府とはなりえない』。米国の情報公開によって、日本に支払う義務のない返還軍用地の原状回復費四〇〇万㌦、短波放送中継局(ボイス・オブ・アメリカ)の国外移転費一六〇〇万㌦を日本が肩代わりした、という事実が明らかになっている。さらに米公文書によると、基地施設改善移転費六五〇〇万㌦の『秘密枠』も存在した。基地従業員の労務管理費を日本が負担することも明記されている。『思いやり予算』の鋳型がつくられた。日本の米軍受け入れ経費は全欧の二倍だ。
 原告が指摘する『巨額負担の源流』を政府はこれまで否定している。ほかに疑惑はまだまだある」(沖縄タイムス社説)。

 「米国で開示された文書の一部は沖縄公文書館でも開示されている。もっと言えば、密約を結んだ当事者である元外務省高官の吉野文六氏が、二〇〇六年に自ら報道機関や研究者に事実を告白し、密約の存在も認めている。
 ……『うそつきは泥棒の始まり』という。政府が『密約』を否定する理由は何か。よもや国民の血税を盗み、米国に貢いだ事実を隠蔽し続けるためではないだろう。裁判は日本の民主主義の『実相』を問うものだ。政府は事実を開示し、きっちりと説明してほしい」(琉球新報社説)。

▽「国民の知る権利」に真剣な取り組みを

 情報公開は民主主義国家の責務だが、30数年前の「密約」を隠蔽し続ける日本政府の壁が頑強なため、「情報開示」を勝ち取るための〝闘い〟は今後も厳しさが予想される。3月16日「密約文書開示」提訴を終えたあと、原告・弁護団は記者会見に臨んだ。原告共同代表の桂敬一氏が沖縄密約訴訟の発端から今回の「文書開示」提訴までの経緯と重大な意義を語ったあと原告・弁護団数人が決意を述べ、緊張した雰囲気に包まれた。

 清水英夫・弁護団長は「民主主義の最大の要件は透明性、公開性、行政過程の公開。1999年情報公開法を作った。この国が開かれた国か否か、当訴訟の意味は重い。日本の民主主義を問う裁判が当訴訟の意味だ」と語った。
 30数年前から「沖縄返還密約」問題を追い続けてきた澤地久枝さんが「米国では無名の一個人でも申し出れば情報公開に応じ、コピーも出してくれる。密約問題は過去の出来事ではない。この国の主権者は誰か、国民はもっと権利と義務を自覚して欲しい。国家が隠している結果の運命は今の、明日の家族や子供たちに降りかかる問題なのです。特にメディアの皆さんには強い問題意識を持って頑張っていただきたい」と、若い取材記者に熱っぽく訴えていた姿は、印象的だった。

 弁護団によると、6月16日東京地裁での審理が始まって2カ月1回くらいのペース、2年くらいで第一審を終えるとの予想。いずれにせよ、「秘密文書が存在する」との原告側立証責任が争点になって、裁判は長期化しそうだ。

 提訴前々日の3月14日、民主党の岡田克也副代表が次期衆院選で政権交代した場合の優先課題に関し「やりたいのは情報公開。政権が代わったら隠しているのを全部出す。米国の情報公開で密約は明らかになっており、日本政府が嘘を言ってきたかが分かる」と語ったことが、16日の原告・弁護団会見でも話題になった。
 情報公開への潮流が変化してきた兆しと楽観できないものの、情報開示訴訟に弾みがつくような気がする。「戦後」を引きずってきた沖縄の基地問題は、日本の将来を左右する重大課題との認識が肝要で、今こそ「知る権利」について、真剣な取り組みを新聞・放送全般に要望したい。
(いけだ・たつお=ジャーナリスト)

2009年12月1日火曜日

【沖縄返還】 佐藤・ニクソン大統領共同声明

[文書名] 佐藤栄作総理大臣とリチャード・M・ニクソン大統領との間の共同声明

[場所] ワシントンDC
[年月日] 1969年11月21日
[出典] わが外交の近況(外交青書)第14号,399‐403頁.
[備考] 
[全文]

1.佐藤総理大臣とニクソン大統領は、11月19日、20日および21日にワシントンにおいて会談し、現在の国際情勢および日米両国が共通の関心を有する諸問題に関し意見を交換した。

2.総理大臣と大統領は、各種の分野における両国間の緊密な協力関係が日米両国にもたらしてきた利益の大なることを認め、両国が、ともに民主主義と自由の原則を指針として、世界の平和と繁栄の不断の探求のため、とくに国際緊張の緩和のため、両国の成果ある協力を維持強化していくことを明らかにした。大統領は、アジアに対する大統領自身および米国政府の深い関心を披瀝し、この地域の平和と繁栄のため日米両国があい協力して貢献すべきであるとの信念を述べた。総理大臣は、日本はアジアの平和と繁栄のため今後も積極的に貢献する考えであることを述べた。

3.総理大臣と大統領は、現下の国際情勢、特に極東における事態の発展について隔意なく意見を交換した。大統領は、この地域の安定のため域内諸国にその自主的努力を期待する旨を強調したが、同時に米国は域内における防衛条約上の義務は必ず守り、もつて極東における国際の平和と安全の維持に引き続き貢献するものであることを確言した。総理大臣は、米国の決意を多とし、大統領が言及した義務を米国が十分に果たしうる態勢にあることが極東の平和と安全にとつて重要であることを強調した。総理大臣は、さらに、現在の情勢の下においては、米軍の極東における存在がこの地域の安定の大きなささえとなつているという認識を述べた。

4.総理大臣と大統領は、特に、朝鮮半島に依然として緊張状態が存在することに注目した。総理大臣は、朝鮮半島の平和維持のための国際連合の努力を高く評価し、韓国の安全は日本自身の安全にとつて緊要であると述べた。総理大臣と大統領は、中共がその対外関係においてより協調的かつ建設的な態度をとるよう期待する点において双方一致していることを認めた。大統領は、米国の中華民国に対する条約上の義務に言及し、米国はこれを遵守するものであると述べた。総理大臣は、台湾地域における平和と安全の維持も日本の安全にとつてきわめて重要な要素であると述べた。大統領は、ヴィエトナム問題の平和的かつ正当な解決のための米国の誠意ある努力を説明した。総理大臣と大統領は、ヴィエトナム戦争が沖繩の施政権が日本に返還されるまでに終結していることを強く希望する旨を明らかにした。これに関連して、両者は、万一ヴィエトナムにおける平和が沖繩返還予定時に至るも実現していない場合には、両国政府は、南ヴィエトナム人民が外部からの干渉を受けずにその政治的将来を決定する機会を確保するための米国の努力に影響を及ぼすことなく沖繩の返還が実現されるように、そのときの情勢に照らして十分協議することに意見の一致をみた。総理大臣は、日本としてはインドシナ地域の安定のため果たしうる役割を探求している旨を述べた。

5.総理大臣と大統領は、極東情勢の現状および見通しにかんがみ、日米安保条約が日本を含む極東の平和と安全の維持のため果たしている役割をともに高く評価し、相互信頼と国際情勢に対する共通の認識の基礎に立つて安保条約を堅持するとの両国政府の意図を明らかにした。両者は、また、両国政府が日本を含む極東の平和と安全に影響を及ぼす事項および安保条約の実施に関し緊密な相互の接触を維持すべきことに意見の一致をみた。

6.総理大臣は、日米友好関係の基礎に立つて沖繩の施政権を日本に返還し、沖繩を正常な姿に復するようにとの日本本土および沖繩の日本国民の強い願望にこたえるべき時期が到来したとの見解を説いた。大統領は、総理大臣の見解に対する理解を示した。総理大臣と大統領は、また、現在のような極東情勢の下において、沖繩にある米軍が重要な役割を果たしていることを認めた。討議の結果、両者は、日米両国共通の安全保障上の利益は、沖繩の施政権を日本に返還するための取決めにおいて満たしうることに意見が一致した。よつて、両者は、日本を含む極東の安全をそこなうことなく沖繩の日本への早期復帰を達成するための具体的な取決めに関し、両国政府が直ちに協議に入ることに合意した。さらに、両者は、立法府の必要な支持をえて前記の具体的取決めが締結されることを条件に1972年中に沖繩の復帰を達成するよう、この協議を促進すべきことに合意した。これに関連して、総理大臣は、復帰後は沖繩の局地防衛の責務は日本自体の防衛のための努力の一環として徐徐にこれを負うとの日本政府の意図を明らかにした。また、総理大臣と大統領は、米国が、沖繩において両国共通の安全保障上必要な軍事上の施設および区域を日米安保条約に基づいて保持することにつき意見が一致した。

7.総理大臣と大統領は、施政権返還にあたつては、日米安保条約およびこれに関する諸取決めが変更なしに沖繩に適用されることに意見の一致をみた。これに関連して、総理大臣は、日本の安全は極東における国際の平和と安全なくしては十分に維持することができないものであり、したがつて極東の諸国の安全は日本の重大な関心事であるとの日本政府の認識を明らかにした。総理大臣は、日本政府のかかる認識に照らせば、前記のような態様による沖繩の施政権返還は、日本を含む極東の諸国の防衛のために米国が負つている国際義務の効果的遂行の妨げとなるようなものではないとの見解を表明した。大統領は、総理大臣の見解と同意見である旨を述べた。

8.総理大臣は、核兵器に対する日本国民の特殊な感情およびこれを背景とする日本政府の政策について詳細に説明した。これに対し、大統領は、深い理解を示し、日米安保条約の事前協議制度に関する米国政府の立場を害することなく、沖繩の返還を、右の日本政府の政策に背馳しないよう実施する旨を総理大臣に確約した。

9.総理大臣と大統領は、沖繩の施政権の日本への移転に関連して両国間において解決されるべき諸般の財政及び経済上の問題(沖繩における米国企業の利益に関する問題も含む。)があることに留意して、その解決についての具体的な話合いをすみやかに開始することに意見の一致をみた。

10.総理大臣と大統領は、沖繩の復帰に伴う諸問題の複雑性を認め、両国政府が、相互に合意さるべき返還取決めに従って施政権が円滑に日本政府に移転されるようにするために必要な諸措置につき緊密な協議を行ない、協力すべきことに意見の一致をみた。両者は、東京にある日米協議委員会がこの準備作業に対する全般的責任を負うべきことに合意した。総理大臣と大統領は、琉球政府に対する必要な助力を含む施政権の移転の準備に関する諸措置についての現地における協議および調整のため、現存の琉球列島高等弁務官に対する諮問委員会に代えて、沖繩に準備委員会を設置することとした。準備委員会は、大使級の日本政府代表および琉球列島高等弁務官から成り、琉球政府行政主席が委員会の顧問となろう。同委員会は、日米協議委員会を通じて両国政府に対し報告および勧告を行なうものとする。

11.総理大臣と大統領は、沖繩の施政権の日本への返還は、第二次大戦から生じた日米間の主要な懸案の最後のものであり、その双方にとり満足な解決は、友好と相互信頼に基づく日米関係をいつそう固めるゆえんであり、極東の平和と安全のために貢献するところも大なるべきことを確信する旨披瀝した。

12.経済問題の討議において、総理大臣と大統領は、両国間の経済関係の著しい発展に注目した。両者は、また、両国が世界経済において指導的地位を占めていることに伴い、特に貿易および国際収支の大幅な不均衡の現状に照らしても、国際貿易および国際通貨の制度の維持と強化についてそれぞれ重要な責任を負つていることを認めた。これに関連して、大統領は、米国におけるインフレーションを抑制する決意を強調した。また、大統領は、より自由な貿易を促進するとの原則を米国が堅持すべきことを改めて明らかにした。総理大臣は、日本の貿易および資本についての制限の縮小をすみやかに進めるとの日本政府の意図を示した。具体的には、総理大臣は、広い範囲の品目につき日本の残存輸入数量制限を1971年末までに廃止し、また、残余の品目の自由化を促進するよう最大限の努力を行なうとの日本政府の意図を表明した。総理大臣は、日本政府としては、貿易自由化の実施を従来よりいつそう促進するよう、一定の期間を置きつつその自由化計画の見直しを行なつていく考えである旨付言した。総理大臣と大統領は、このような両国のそれぞれの方策が日米関係全般の基礎をいつそう強固にするであろうということに意見の一致をみた。

13.総理大臣と大統領は、発展途上の諸国の経済上の必要と取り組むことが国際の平和と安定の促進にとつて緊要であることに意見の一致をみた。総理大臣は、日本政府としては、日本経済の成長に応じて、そのアジアに対する援助計画の拡大と改善を図る意向であると述べた。大統領は、この総理大臣の発言を歓迎し、米国としても、アジアの経済開発に引き続き寄与するものであることを確認した。総理大臣と大統領は、ヴィエトナム戦後におけるヴィエトナムその他の東南アジアの地域の復興を大規模に進める必要があることを認めた。総理大臣は、このため相当な寄与を行なうとの日本政府の意図を述べた。

14.総理大臣は、大統領に対し、アポロ12号が月面到着に成功したことについて祝意を述べるとともに、宇宙飛行士たちが無事地球に帰還するよう祈念を表明した。総理大臣と大統領は、宇宙の探査が科学の分野における平和目的の諸事業についての協力関係をすべての国の間において拡大する広範な機会をもたらすものであることに意見の一致をみた。これに関連して、総理大臣は、日米両国が本年夏に宇宙協力に関する取決めを結んだことを喜びとする旨述べた。総理大臣と大統領は、この特別な計画の実施が両国にとつて重要なものであることに意見の一致をみた。

15.総理大臣と大統領は、軍備管理の促進と軍備拡大競争の抑制の見通しについて討議した。大統領は、最近ヘルシンキにおいて緒についたソヴィエト連邦との戦略兵器の制限に関する討議を開始することについての米国政府の努力の概要を述べた。総理大臣は、日本政府がこの討議の成功を強く希望する旨述べた。総理大臣は、厳重かつ効果的な国際的管理の下における全面的かつ完全な軍縮を達成するよう、効果的な軍縮措置を実現することについて日本が有している強い伝統的な関心を指摘した


[Title] Joint Statement of Japanese Prime Minister Eisaku Sato and U.S. President Richard Nixon

[Place] Washington
[Date] November 21, 1969
[Source] Public Papers of the Presidents: Richard Nixon, 1969, pp. 953-957, A Documentary History of U.S.-Japanese Relations, 1945-1997, pp.789-793.
[Notes]
[Full text]
1 . President Nixon and Prime Minister Sato met in Washington on November 19, 20 and 21, 1969 to exchange views on the present inter-national situation and on other matters of mutual interest to the United States and Japan.

2. The President and the Prime Minister recognized that both the United States and Japan have greatly benefited from their close association in a variety of fields, and they declared that guided by their common principles of democracy and liberty, the two countries would maintain and strengthen their fruitful cooperation in the continuing search for world peace and prosperity and in particular for the relaxation of inter-national tensions. The President expressed his and his government's deep interest in Asia and stated his belief that the United States and Japan should cooperate in contributing to the peace and prosperity of the region. The Prime Minister stated that Japan would make further active contributions to the peace and prosperity of Asia.

3. The President and the Prime Minister exchanged frank views on the current international situation, with particular attention to developments in the Far East. The President, while emphasizing that the countries in the area were expected to make their own efforts for the stability of the area, gave assurance that the United States would continue to contribute to the maintenance of international peace and security in the Far East by honoring its defense treaty obligations in the area. The Prime Minister, appreciating the determination of the United States, stressed that it was important for the peace and security of the Far East that the United States should be in a position to carry out fully its obligations referred to by the President. He further expressed his recognition that, in the light of the present situation, the presence of United States forces in the Far East constituted a mainstay for the stability of the area.

4. The President and the Prime Minister specifically noted the continuing tension over the Korean peninsula. The Prime Minister deeply appreciated the peacekeeping efforts of the United Nations in the area and stated that the security of the Republic of Korea was essential to Japan's own security. The President and the Prime Minister shared the hope that Communist China would adopt a more cooperative and constructive attitude in its external relations. The President referred to the treaty obligations of his country to the Republic of China which the United States would uphold. The Prime Minister said that the maintenance of peace and security in the Taiwan area was also a most important factor for the security of Japan. The President described the earnest efforts made by the United States for a peaceful and just settlement of the Viet-Nam problem. The President and the Prime Minister expressed the strong hope that the war in Viet-Nam would be concluded before the return of the administrative rights over Okinawa to Japan. In this connection, they agreed that, should peace in Viet-Nam not have been realized by the time reversion of Okinawa is scheduled to take place, the two governments would-fully consult with each other in the light of the situation at that time so that reversion would be accomplished without affecting the United States efforts to assure the South Vietnamese people the opportunity to determine their own political future without outside interference. The Prime Minister stated that Japan was exploring what role she could play in bringing about stability in the Indo-China area.

5. In light of the current situation and the prospects in the Far East, the President and the Prime Minister agreed that they highly valued the role played by the Treaty of Mutual Cooperation and Security in maintaining the peace and security of the Far East including Japan, and they affirmed the intention of the two governments firmly to maintain the Treaty on the basis of mutual trust and common evaluation of the international situation. They further agreed that the two governments should maintain close contact with each other on matters affecting the peace and security of the Far East including Japan, and on the implementation of the Treaty of Mutual Cooperation and Security.

6. The Prime Minister emphasized his view that the time had come to respond to the strong desire of the people of Japan, of both the mainland and Okinawa, to have the administrative rights over Okinawa returned to Japan on the basis of the friendly relations between the United States and Japan and thereby to restore Okinawa to its normal status. The President expressed appreciation of the Prime Minister's view. The President and the Prime Minister also recognized the vital role played by United States forces in Okinawa in the present situation in the Far East. As a result of their discussion, it was agreed that the mutual security interests of the United States and Japan could be accommodated within arrangements for the return of the administrative rights over Okinawa to Japan. They therefore agreed that the two governments would immediately enter into consultations regarding specific arrangements for accomplishing the early reversion of Okinawa without detriment to the security of the Far East including Japan. They further agreed to expedite the consultations with a view to accomplishing the reversion during 1972 subject to the conclusion of these specific arrangements with the necessary legislative support. In this connection, the Prime Minister made clear the intention of his government, following reversion, to assume gradually the responsibility for the immediate defense of Okinawa as part of Japan's defense efforts for her own territories. The President and the Prime Minister agreed also that the United States would retain under the terms of the Treaty of Mutual Cooperation and Security such military facilities and areas in Okinawa as required in the mutual security of both countries.

7. The President and the Prime Minister agreed that, upon return of the administrative rights, the Treaty of Mutual Cooperation and Security and its related arrangements would apply to Okinawa without modification thereof. In this connection, the Prime Minister affirmed the recognition of his government that the security of Japan could not be adequately maintained without international peace and security in the Far East and, therefore, the security of countries in the Far East was a matter of serious concern for Japan. The Prime Minister was of the view that, in the light of such recognition on the part of the Japanese Government, the return of the administrative rights over Okinawa in the manner agreed above should not hinder the effective discharge of the international obligations assumed by the United States for the defense of countries in the Far East including Japan.

The President replied that he shared the Prime Minister's view.

8. The Prime Minister described in detail the particular sentiment of the Japanese people against nuclear weapons and the policy of the Japanese Government reflecting such sentiment. The President expressed his deep understanding and assured the Prime Minister that, without prejudice to the position of the United States Government with respect to the prior consultation system under the Treaty of Mutual Cooperation and Security, the reversion of Okinawa would be carried out in a manner consistent with the policy of the Japanese Government as described by the Prime Minister.

9. The President and the Prime Minister took note of the fact that there would be a number of financial and economic problems, including those concerning United States business interests in Okinawa, to be solved between the two countries in connection with the transfer of the administrative rights over Okinawa to Japan and agreed that detailed discussions relative to their solution would be initiated promptly.

10. The President and the Prime Minister, recognizing the complexity of the problems involved in the reversion of Okinawa, agreed that the two governments should consult closely and cooperate on the measures necessary to assure a smooth transfer of administrative rights to the Japanese Government in accordance with reversion arrangements to be agreed to by both governments. They agreed that the United States-Japan Consultative Committee in Tokyo should undertake overall responsibility for this preparatory work. The President and the Prime Minister decided to establish in Okinawa a Preparatory Commission in place of the existing Advisory Cornmittee to the High Commissioner of the Ryukyu Islands for the purpose of consulting and coordinating locally on measures relating to preparation for the transfer of administrative rights, including necessary assistance to the Government of the Ryukyu Islands. The Preparatory Commission will be composed of a represen-tative of the Japanese Government with ambassadorial rank and the High Commissioner of the Ryukyu Islands, with the Chief Executive of the Government of the Ryukyu Islands acting as adviser to the Cornmission. The Commission will report and make recommendations to the two governments through the United States-Japan Consultative Committee.

11. The President and the Prime Minister expressed their conviction that a mutually satisfactory solution of the question of the return of the administrative rights over Okinawa to Japan, which is the last of the major issues between the two countries arising from the Second World War, would further strengthen United States-Japan relations, which are based on friendship and mutual trust and would make a major contribution to the peace and security of the Far East.

12. In their discussion of economic matters, the President and the Prime Minister noted the marked growth in economic relations between the two countries. They also acknowledged that the leading positions which their countries occupy in the world economy impose important responsibilities on each for the maintenance and strengthening of the international trade and monetary system, especially in the light of the current large imbalances in trade and payments. In this regard, the President stressed his determination to bring inflation in the United States under control. He also reaffirmed the commitment of the United States to the principle of promoting freer trade. The Prime Minister indicated the intention of the Japanese Government to accelerate rapidly the reduction of Japan's trade and capital restrictions. Specifically, he stated the intention of the Japanese Government to remove Japan's residual import quota restrictions over a broad range of products by the end of 1971, and to make maximum efforts to accelerate the liberalization of the remaining items. He added that the Japanese Government intends to make periodic reviews of its liberalization program with a view to implementing trade liberalization at a more accelerated pace than hitherto. The President and the Prime Minister agreed that their respective actions would further solidify the foundation of overall United States-Japan relations.

13. The President and the Prime Minister agreed that attention to the economic needs of the developing countries was essential to the development of international peace and stability. The Prime Minister stated the intention of the Japanese Government to expand and improve its aid programs in Asia commensurate with the economic growth of Japan. The President welcomed this statement and confirmed that the United States would continue to contribute to the economic development of Asia. The President and the Prime Minister recognized that there would be major requirements for the post-war rehabilitation of Viet-Nam and elsewhere in Southeast Asia. The Prime Minister stated the intention of the Japanese Government to make a substantial contribution to this end. 14. The Prime Minister congratulated the President on the successful moon landing of Apollo XII, and expressed the hope for a safe journey back to earth for the astronauts. The President and the Prime Minister agreed that the exploration of space offers great opportunities for expanding cooperation in peaceful scientific projects among all nations. In this connection, the Prime Minister noted with pleasure that the United States and Japan last summer had concluded an agreement on space cooperation. The President and the Prime Minister agreed that implementation of this unique program is of importance to both countries.

15. The President and the Prime Minister dis-cussed prospects for the promotion of arms control and the slowing down of the arms race. The President outlined his government's efforts to initiate the strategic arms limitations talks with the Soviet Union that have recently started in Helsinki. The Prime Minister expressed his government's strong hope for the success of these talks. The Prime Minister pointed out his country's strong and traditional interest in effective disarmament measures with a view to achieving general and complete disarmament under strict and effective international control.

2009年11月9日月曜日

【沖縄資料】 沖縄タイムズ 国策のまちおこし

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](1)第1部 円卓の夕げ
恨み節 呼び水に 「島懇」招いた出会い

 すべては、那覇市内の中華料理店で二人の男が出会ったことから始まった。嘉手納町長の宮城篤実と、のちに沖縄担当首相補佐官となる岡本行夫。1996年6月16日のことだった。

 この日、宮城は旧知のNTT幹部から呼び出しを受けた。

 「おもしろいメンバーが集まっている。私のおごりで那覇で一杯やりませんか」

 「おごりならいいですね」

 そんな軽口をたたいて、宮城は嘉手納から那覇へ向かった。

 那覇に着いたときには、すでに日はとっぷり暮れていた。2階の個室のドアを開けると、円卓を囲む6人の中に一人だけ見慣れない顔がある。最後に到着した宮城は、空席になっていた岡本の隣席に導かれるように腰を下ろした。

 東京の国際コンサルタント会社代表を名乗る岡本という男が元外務官僚と分かり、宮城の口からは、政府への積年の恨みつらみが堰を切ったようにあふれ出た。

 嘉手納基地の被害軽減を訴えるために訪米した95年、宮城は事前にワシントンの主要人物との面談のセッティングを外務省に依頼した。が、外務省は地方の一首長の「外交交渉」に手を貸そうとはしなかった。宮城の米国行脚を助けたのは、地元で米軍のトラブルが起こるたびに苦情を申し入れていた嘉手納基地の元司令官だった。

 歴代司令官の中には、ごく限られた権限を駆使し、問題の改善に当たろうとする者もいた。日米地位協定を盾に、「米軍の運用にかかわる問題」という決まり文句で、木で鼻をくくったような対応をとる日本政府よりも、よほど話の通りがいいこともあった。

 嘉手納基地の元司令官の取り次ぎでペンタゴン(米国防総省)関係者との面談が実現した経緯を一気にまくしたてた宮城は、酒の勢いもあって、「外務省というのはひどいところですね」と恨み節を岡本にぶつけた。

「呼吸困難」窮状訴え
嘉手納町長「100億あれば」

 岡本は頭をかきながら、「嘉手納のことはあまり知らない」と宮城に詫びた。

 岡本は外務省北米局で、安保課長や北米第一課長を務めていた。嘉手納基地の軍事面の機能や安全保障上の役割は頭にたたき込まれている。いわば、米軍基地のエキスパートだ。その岡本が「あまり知らない」というのは、「まちの空気」のことを指していた。

 岡本は「金武なら少し知っている」と遠慮がちに自らの体験を口にした。

 外務省の課長時代に沖縄へ出張した際、公務が終わった夜、一人でタクシーに乗って米海兵隊キャンプ・ハンセンのゲート前にある金武町の繁華街へ向かった。岡本はバーの止まり木に座って、若い海兵隊員に話し掛け、彼らの本音を聞き出そうとした。

 海兵隊員は、沖縄でトラブルを繰り返す「問題児」だった。約1年前の1995年9月に起きた悲劇的な事件も、若い海兵隊員たちによる蛮行だった。

 宮城は「嘉手納には金武のようなにぎやかな繁華街もない」と皮肉交じりに、まちの沈滞ムードを訴えた。同時に、『彼(岡本)はこういうかたちで情報収集をするのか』と内心、当惑した。これまで知っている外務官僚とは異なるタイプのようだった。

 「わが町は呼吸困難な状況に陥っている。このまま放置しておくのか」

 宮城は思い切って、町面積の83%を基地が占める町の窮状を岡本に打ち明けた。土地がないため企業誘致もかなわず、若者の町外流出に歯止めがかけられないこと、「爆音のまち」のイメージで町外の若者も敬遠しがちであること、幼少人口が減り続ける一方で老年人口は増加し、高齢化が加速していることなど、洗いざらいをはき出した。

 さらには、自らが描くまちづくりへの情熱と、基地の存在がいかにそれを阻害しているか、思いの丈をぶつけた。

 宮城によると、このとき宮城が用いた「呼吸困難」という言葉を「閉塞感」という表現に置き換え、最初に使ったのが岡本だったという。「閉塞感の打破」という言葉は、のちに大田昌秀、稲嶺恵一の事実上の一騎打ちとなった98年11月の知事選の際、稲嶺陣営のキャッチコピーとなる。

 黙って耳を傾けていた岡本がおもむろに口を開け、質問した。

 「ところで、町長の描くまちづくりはカネがあれば何とか改善できる話なんですか。だとしたら、いくらあれば実現できるんですか」

 岡本は、単なる興味本位で聞いているようには見えなかった。荒唐無稽と笑われるかと思いながらも、宮城は酔いにまかせて「100億もあれば何とかなるんですがね。もらうということではなく、それぐらいの額を貸してもらえれば、何とか町を蘇らせることができる」と豪語した。

 宮城の頭には、町の長年の悲願である新町地区の再開発があった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](2)第1部 不条理の軌跡
土地追われ住宅密集

 「極東最大」を誇る米空軍嘉手納基地の形成過程は、住民にとって日常の暮らしが根こそぎ米軍に奪われていく不条理の軌跡にほかならない。

 沖縄本島のほぼ中間地点という地理的条件に恵まれた嘉手納町(前身は北谷村嘉手納)は戦前、県営鉄道嘉手納線も運行する物流拠点だった。戦時中、東側一帯を旧日本陸軍が接収し、1944年9月に「中飛行場」を開設したのが、町のその後の運命を暗転させる契機となる。

 45年4月、中飛行場近くの海岸は沖縄戦で米軍の本島最初の上陸地点となり、し烈を極める集中砲火を浴びた。上陸した米軍は真っ先に中飛行場を占拠。本土攻略の前進基地として拡張を図り、同年6月には大型爆撃機が離着陸できる2250メートルの滑走路を整備した。その後、米軍が飛行場管理を強化し、住民の通行や立ち入りを全面禁止したのに伴い、北谷村域が二分される。

 このことが、住民生活や行政運営に致命的な支障をきたし、48年12月、北谷村から分離独立した「嘉手納村」(現嘉手納町)の誕生につながる。町の行政区域の成り立ち自体、軍備強化によってもたらされた災いの末路だった。

 50年6月の朝鮮戦争勃発後、米軍はさらに基地機能を拡充し、ベトナム戦争が激化する67年には4000メートル級の滑走路2本を完成させる。基地拡張の都度、慣れ親しんだ宅地や農地が姿を消し、ついには町域の83%を接収されるに至る。残された2・6平方キロメートルのわずかな土地に、約1万4000人の住民は肩を寄せ合うように暮らすことを余儀なくされた。

 基地建設は各地から労働者を集める呼び水にもなった。一時、米軍の物資集積場として使われていた「嘉手納ロータリー」は58年に開放されたが、周辺は疎開先から戻った住民や仕事を求めてきた人たちの急ごしらえの小屋が無秩序に軒を連ねた。その名残がロータリーに隣接し、零細商店と小規模住宅がひしめく新町地区だった。土地や建物の権利者が複雑に入り組み、まちづくりをするにも手の付けられない一帯となった。

 宮城篤実は73年から嘉手納町議に4期連続当選し、91年1月、町長に初当選。96年当時は2期目だった。

 宮城の再開発の夢は町議時代にさかのぼる。嘉手納基地が米軍のベトナム出撃拠点としてフル回転していた68年11月、核も搭載する米軍のB52爆撃機が嘉手納基地を離陸直後に墜落、16人が重軽傷を負う惨事があった。

 この際、避難場所もなく町民がパニック状態に陥るのを目の当たりにした宮城は町議会で、嘉手納ロータリー地下にシェルターを整備する案を町に提起した。

 当時、町商工会は新町一帯の再開発を提案していた。宮城はこの動きと連動し、隣接するロータリーの地下シェルターを、非常時以外は再開発後の商店街にやって来る買い物客の駐車場として活用する腹づもりだった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](3)第1部 100億円の事業
政府の「扉」開く予兆

 宮城篤実の新町再開発への思いは、嘉手納町長に就任した後も消えなかった。宮城は1991年の初当選後、最初に行った防衛施設庁(当時)への陳情でも支援要請した。が、同庁の補助メニューに再開発事業はなく、高率の公的補助を得る方途は見いだせずにいた。

 町長2期目の95年4月。宮城は新町を含む市街地再開発に向け、町幹部や民間代表らからなる検討委員会を発足する。ここで、新町商店街に「西洋風アーケード」などを設置する近代化計画と連動し、大型再開発ビルを隣接して建設する青写真を描いた。

 事業予算は80億から100億円規模を想定。当時、宮城は「今世紀中に事業化したい」としていたが、予算面の裏付けや用地確保のめどはまったく立っていなかった。コンサルタントが作成した完成予想図は、まさに「絵に描いた餅」として宮城の手元にあった。

 96年6月の岡本行夫との会話で、「100億円」という数字が宮城の口をついた理由はもう一つあった。数年前、来県中の自治大臣が県内の市町村長を対象に講演し、「あなた方は政府からのお金の借り方が下手だ。どんどん(陳情に)行くべきだ」とぶった。いかにも沖縄の首長を見くびったような物言いだった。

 反発した宮城はとっさに挙手し、発言した。「貸していただけるなら100億円をお願いしたい。これだけあれば町を動かせる。ぜひ自治省(現総務省)でお願いしたい」。宮城の迫力に気圧された自治大臣は「自分がいつまでも大臣をやっているわけではないから…」とトーンダウンし、尻込みしたという。

 那覇の中華料理店の円卓で顔を突き合わせた岡本に、宮城はこの自治大臣とは異質の「本物」のにおいを嗅ぎ取っていた。

 岡本「町長、そんなに熱い思いがあるんだったら政治家に会って、ぜひ伝えるべきですよ」

 宮城「政治家と言ったって、私が知る沖縄の政治家には力がない」

 岡本「もっと責任のある政治家に会うべきでは」

 宮城「そんな政治家とは会いたくても会えない。山中(貞則)先生ぐらいならなんとかなるかもしれないが…」

 岡本「梶山(静六内閣官房)長官に会いませんか。私は親しくさせてもらってます。私からも言っておきます」

 宮城は半信半疑で受け止めたが、帰宅後も興奮を抑えられなかった。

 この夜、常に携えている手帳にこうつづった。

 「エキサイティングな夕べだった。国際コンサルタントの岡本行夫氏を交えての夕食会。嘉手納の将来について極めて重要な意味をもつ人になりはしないか。豊かな人脈を通して、基地を抱えている町の行き先に大きな影響を与える人々との出会いが期待できそうだ。この半年は時代を画する日々となるのではないか」。この予見は的中する。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](4)第1部 生い立ち
米軍支配逃れ東京へ

 宮城篤実は1936年、北谷村嘉手納(現嘉手納町嘉手納)で生まれた。「分家の六男」だった父親は決して裕福ではなかったが、教育熱心な人だった。宮城の長兄は師範学校で学び、長姉も女学校を出ていた。父親は畑仕事の傍ら副業の牛の売り買いで生計を立て、そのささやかな儲けで教育費を捻出した。

 地上戦を経験したのは8歳のとき。小学2年の途中で本島北部へ疎開した。自力で小屋を造り、山中を転々とする生活。疎開先では畑仕事の途中に機銃掃射で人が殺されるのを目の当たりにしたり、川の中に浮く遺体を目撃した。それでも戦後、投降した宜野座村内で白人や黒人を初めて見たときは「腰を抜かさんばかり」の衝撃を受けた。

 戦後は石川(現うるま市)に根を下ろし、石川高校卒業後は軍雇用員になろうと、一時は名護の英語学校へ入学した。が、うっせきした思いも抱えていた。あこがれは政治、文化の中心地・東京だった。映画で観る東京の学生は輝いていた。

 そんな宮城の思いを見越してか、叔母が「お前、これでいいのか」と声を掛けてくれた。叔母に思いを打ち明け、東京までの旅費などを用立ててもらった。下宿先も叔母のつてを頼った。上京して1カ月後の受験で早稲田大学に合格した。

 沖縄を離れる際、那覇港から晴海埠頭行きの船に乗った宮城は「大学に合格したとしても、この島にはもう二度と戻ることはない」と心に決めていた。浪人するゆとりはなく、崖っぷちに立つ思いで上京したが、開放感の方が増していた。「沖縄に対する絶望感から島を出たいという思いが強かった」と回想する。

 社会的関心の強かった宮城は高校生のときから、沖縄人民党の書記長瀬長亀次郎らの熱弁を聞きに、地元の演説会場によく足を運んだ。

 「とにかく米軍批判ばっかり。米軍支配で希望がないし、先も見えない。彼らの演説を聞くことだけが、ある意味娯楽というか希望、夢だった。人間としてこういうかたちでいいのか、という思い詰めた感情から逃げたくて、とにかく東京へ行かなきゃならんという思いが募った」

 入学して間もなく、学内で「寮生募集」の張り紙が目に留まった。宮城は「私の人生を変えたのが寮に入れたこと」と振り返る。西武新宿線の東伏見駅近くの寮に沖縄出身者は宮城ただ一人。ほかの寮生の言葉がほとんど聞き取れず、宮城は標準語が使いこなせないことに強い劣等感を抱いていた。ある日、勇気を奮って寮番の年配夫婦に「私の言葉、分かりますか」と恐る恐る尋ねてみた。彼らは「あなたの言葉は一番分かりやすい」と太鼓判を押してくれた。

 全国から約400人の地方出身学生が暮らす寮は、東北から九州まで多様な方言であふれていた。寮番夫婦のお墨付きで勇気を得た宮城は、それから生き生きと腹を割って寮生たちと語り合うようになった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](5)第1部 帰郷
闘争経て 東京に絶望

 上京した宮城篤実を最初にとらえたのは、米軍基地拡張に反対する「砂川闘争」だった。「沖縄の土地の強制接収と重なり、許せないという義憤が募った。報道で知って、これは行かなきゃならんと駆り立てられるものがあった」。沖縄で瀬長亀次郎らの演説になじんでいた宮城の心には、ストレートに響いた。

 大学1年のとき、石橋湛山内閣が発足。その後の岸信介内閣へと続く、ときはまさに日米安保の揺籃期だった。

 砂川闘争に寮から参加したのは宮城だけ。「デモ隊の最後尾にいたが、周囲からは、あいつは沖縄から来ているから基地問題にかかわるんだなということで、砂川から帰ってへとへとになって寝ているのに話し掛けられ、参ったなというのはあった」。

 宮城は次第に学生運動のリーダーに推されていく。大学3年のときには寮長として学内の学生運動の執行委員長に抜てき。早稲田の全学学生協議会メンバーになってからは、反戦・反安保のイベントのたびに新宿駅前に立ち、誰も足を止めない中、しゃべりまくった。「そこである意味、演説の訓練をした」と振り返る。

 3、4年生は学生運動に明け暮れた。「国家権力に対する庶民の抵抗や弱者、被害者の立場からの抵抗に感動を覚えた。思想ではなく素朴な正義感」が宮城を突き動かしていた。

 4年で卒業はしたが、就職活動は惨憺たるものだった。「大学の推薦状がないため、企業の試験はまず受験資格がとれない」状態だった。実家の仕送りも絶え、「どこでもいいや」との思いで大手運送会社のアルバイトで食いつなぐ。寮を出て、荻窪駅近くの安アパートで暮らし始めて半年後。運送会社の社員から「お前は早稲田を出て仕事もないのか」とかなり屈辱的なことを言われた。「当時は労働問題に関心があり、筑豊の炭坑騒動にも行った。それで業界誌の記者になった」。正社員として最初の就職先だった。

 5年ほど勤めたとき、沖縄の叔母から「そろそろ帰ってこい」と連絡が入る。

 「叔母には、よたものみたいな暮らしと映ったんでしょう。沖縄に帰れば何とかなるよと。張り切って上京したものの、大都会の歯車にもなりきれない。結局、東京での私の役割はこんなものかと、1年間ぐずぐず考えた末に帰郷した。ものすごく自分がちっぽけな人間に思えた」

 10年たって沖縄の状況も変わっていた。「若い人たちが待たれる空気があると感じた。沖縄に絶望して上京したが、東京に絶望していた。東京にいても自分には先がない、何もできない。これで自分の人生終わっていいのかという焦りもあった」。本土復帰を5年後に控えた1967年、宮城は31歳で再び故郷の地を踏む。

 砂川闘争の舞台となった東京都の立川基地の拡張問題は、10年余の曲折を経て、米軍が計画を断念。一方、沖縄では、旧日本軍が造成した中飛行場の約40倍に拡張された嘉手納基地をはじめ、本土の施設の「掃きだめ」のように米軍基地が増殖していた。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](6)第1部 元陸士
梶山「沖縄助けたい」

 岡本行夫は1968年に一橋大学経済学部を卒業後、外務省に入省。在エジプト日本大使館や在米日本大使館などの勤務を経て、85年に北米局日米安全保障条約課長、88年には同局北米第一課長に就任した。

 外務官僚の出世コースの王道をひた走る岡本は「将来の事務次官候補」とささやかれていたが、91年1月、突如外務省を去る。同年3月には、国際コンサルタント会社を立ち上げ、代表取締役に就任した。

 岡本は96年6月の来県前、内閣官房長官梶山静六の下を訪ねていた。すでに岡本は外務省を離れていたが、梶山の依頼を受け、時折、官邸で国際情勢のブリーフィング(状況説明)をしていた。このとき梶山は「頼む、沖縄の問題を手伝ってくれ」と岡本に懇請した。

 当時、「沖縄問題」は橋本内閣の最重要課題だった。95年の米兵暴行事件以降、知事大田昌秀は米軍用地強制使用の代理署名手続きを拒否。本土世論も沖縄の立場に共鳴し、全国から大田への激励電報や手紙が殺到した。「沖縄の基地問題」は日本全体で争点化し、日米関係をも揺るがしかねない事態に発展していた。

 岡本が梶山の知遇を得るきっかけは、梶山が法相だった90年9月の出来事に起因していた。梶山は閣議後会見で、東京・新宿区の繁華街が外国人の売春地帯になっていると指摘し、「『悪貨が良貨を駆逐する』というが、アメリカに黒(人)が入って白(人)が追い出される、というように新宿が混住地になっている」と発言。この人種差別発言は米国内で波紋を広げ、米下院外交委員会が全会一致で梶山を非難する決議を採択した。

 このとき、岡本は北米一課長。「課長の分際」だったが、梶山のところへ出向き、なぜ発言が不適切かを説明した。「そのとき彼は非常によくそれを聞いてくれた。それからですね、彼との関係ができたのは。すべての政治家の中で梶山さんを一番尊敬していますかねえ。すごい人でしたよ」

 梶山は官房長官在任時、「沖縄は自分の死に場所だ」と周囲に漏らしていた。陸軍航空士官学校で学んだ「元陸士」の梶山は、住民を巻き込み日米合わせて20万人以上が死亡した沖縄戦を引きずっていた。地上戦の最中に沖縄根拠地隊司令官の大田実中将が自決する直前、海軍次官に打ったとされる「県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ…沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という電報の文言も、身内に刷り込まれていた。

 梶山は近親者に「沖縄は兄貴のふるさとだ」とも打ち明けていた。梶山の兄と長年、仕事を共にし、静六とも親交のあった那覇市の石材会社会長緑間武によると、家業の石材業を営んでいた梶山の兄は、75年の沖縄国際海洋博覧会開催時に来県し、現場作業の指揮もとったという。2000年に死去した梶山静六について緑間は「戦争で沖縄が大きな被害を受けたことを常に気に留め、沖縄を何とか助けたいという思いが終生あった」と回顧した。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](7)第1部 密使
官僚離れ沖縄と関係

 外務官僚時代の岡本行夫は沖縄を「基地の中から」見る立場にあった。

 「そりゃ楽でしたよ。ヘリコプターで基地まで連れて行ってもらって、将校クラブかなんかで酒飲ませてもらって」

 基地内では、米軍幹部から在沖米軍基地の戦略的重要性について懇切丁寧なレク(説明)を受ける。住民との間でトラブルを抱えていることも、「基地の側から」聞くが、民生にかかわる分野は防衛施設庁が窓口という不文律が役所内には浸透していた。

 それでも、岡本は沖縄を「気の毒」に思っていた。「自民党の部会やいろんな国会議員の集まりに出て、発言もしたが、ほとんど(沖縄に)関心をもたれない。沖縄の応援団がいないわけですから」

 岡本は外務省で本土と沖縄の基地負担の感覚に対する「温度差」も実感していた。

 安保課長のとき、神奈川県逗子市の池子の森に米海軍住宅を建設する計画が浮上した。「とにかく自然保護だ、緑を残せと住民の大反対運動が起きた。しかし、自分たちは乱開発で宅地化したところに住んでいる。海軍住宅は池子の米軍弾薬庫にある緑の15%を切るっていうだけで大反対になってね」

 同じころ、岡本は金武町から陳情を受けていた。陳情団は「課長さん、お願いですから、家族住宅を金武町のキャンプ・ハンセンにもってきてもらえませんか」と要請した。「海兵隊員は独身ばっかりだからすさむ。平和な家族住宅があったら、ずっと居心地がよくなります」(岡本)という趣旨からの「家族住宅誘致」だった。

 犯罪抑止対策として米軍家族住宅を「誘致」する金武と、住宅が来ると空気が乱れるという池子。このギャップに岡本は「沖縄のために何かしなきゃいかん。梶山静六(内閣官房長官)さんなら、何かやってくれるかもしれんなと思って動き始めた」と明かす。

 1995年9月の米兵事件後、日米地位協定の見直しを求めて上京した知事大田昌秀に対し、外相河野洋平は「議論が走りすぎ」と発言。こうした政府の冷遇や認識の甘さが引き金となって、大田は事件前からの懸案だった米軍用地強制使用の代理署名を拒否する方針を固める。10月21日には、日米地位協定の見直しや基地の整理・縮小を求める県民大会が超党派主催で開かれた。

 岡本は騒然とする沖縄のことが気にかかり、現場にこだわる「外交官」としての血が騒いでいた。

 ただ、梶山の「密使」として沖縄にかかわるに当たって、岡本には外務官僚にはできない仕事を成し遂げる意思があった。それを具現化するきっかけとなったのが、96年6月の宮城篤実との夕げだった。

 100億円ぐらいあれば再開発構想とかいろいろ考えられる、と答えた後、「そんなことはとても現実的な話ではありません」と寂しく笑う宮城の姿が、岡本の脳裏に焼き付いていた。

 前例のない沖縄米軍基地所在市町村活性化特別事業(島田懇談会事業)が萌芽のときを迎えていた。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](8)第1部 振興策の岐路
「所在」絞り直接折衝

 岡本行夫は「国際都市形成構想は、基地のあるところの利用計画は返還されてから、という考え方で、それじゃおかしいと思った」と1996年当時の心情を語る。

 県が同構想とセットでまとめた基地返還アクションプログラムは、嘉手納基地の返還スケジュールを最終段階の2015年と設定していた。岡本は「基地と隣り合わせに暮らしながらも、できるだけのことはしなきゃならない。それで、基地の占めるスペースが大きく、閉塞状況にある街ということで、嘉手納や金武を見始めた」という。

 96年6月に来県した際、岡本は宮城篤実との面談以外にも北部自治体などを訪ね、まちづくりに関する首長の本音を聞きだしていた。金武町からは米軍犯罪を防止するため、街灯を設置するのに「2億円くらいあれば何とかなる」という声も聴いた。沖縄から東京へ戻った岡本には、「やっぱりカネさえあれば相当のことはできるのかな」との確信があった。

 ただ、国が策定した計画に基づき、高率補助の振興予算を配分する従来の沖縄振興の在り方については、地元の人材育成や自立経済の確立に十分寄与していない、との指摘もあった。岡本はこれまでの役所の枠にとらわれない、大胆な沖縄振興策の必要性を痛感していた。

 新たな振興策の特色は、国が県を飛び越え、自治体と直接折衝するシステムの構築と、対象を「基地所在市町村」に絞ることだった。

 沖縄では本土復帰以降、政府がさまざまな優遇措置や振興策を投じてきたが、インフラ整備などの「本土との格差是正」という表向きの目的はほぼ達成されようとしていた。それでも、政府が沖縄に対する「特別扱い」を停止できない理由には、全国の在日米軍専用施設の75%が沖縄に集中することへの「政治的配慮」という側面と無縁ではなかった。が、少なくとも表立って基地負担の「見返り」名目で、他県にはない特別な振興予算を投下することは、はばかられてきた。

 岡本が起案した、沖縄の基地所在市町村に絞り込んだピンポイント的な振興策は、政府の基地政策の重大な岐路となる可能性をはらんでいた。

 96年7月1日、岡本は官邸で内閣官房長官梶山静六に「まず諮問会議みたいなものをつくる必要があります」と進言した。「(事業予算を)このまちにいくら、このまちにいくらということを行政(国)の側で勝手に決めるわけにはいかない。まず、沖縄の人を入れた会議を立ち上げましょう。そこで、どのまちに何をするかということを協議していくというのはいかがですか」

 梶山は「ぜひそうしてくれ」と二つ返事だった。

 数日後、岡本は再び沖縄へ赴く。のちに就任する首相補佐官を辞すまでの2年弱の間、計55回にわたる「沖縄通い」の始まりだった。

 外務省で培った岡本の卓越した交渉能力が国内の沖縄に向けられたのは、沖縄問題が「国益」と直結していることの証しでもあった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](9)第1部 退官の理由
役人の立場に見切り

 県内の基地所在市町村長との面談を重ねた岡本行夫は島田懇談会の構想を携え、1996年7月中旬に再び内閣官房長官梶山静六を訪ねる。

 梶山は、岡本を首相橋本龍太郎の執務室へ招いた。橋本は上機嫌だったが一言、「構想は非常にいいが、問題は人だよ」と注文を付けた。橋本から「誰に(座長を)やってもらうんだ」と問われた岡本は即座に、「ネアカな人がいいです」と答え、慶応大教授の島田晴雄(現千葉商科大学長)を座長に推挙した。

 島田は米国やフランスの大学などで客員教授を歴任し、OECD(経済協力開発機構)、ILO(国際労働機関)といった国際機関でアドバイザーを務めた国際派エコノミスト。岡本とは91年に共著も出版している。

 島田は、岡本との出会いについてこう振り返る。「彼(岡本)がまだ外務省にいたころ、政府のアドバイザーをやったとき一緒に働いた。そこで出会ったんだけど、発言のきらきらした人だから、強く印象に残っていたんだ」

 91年に岡本が外務省を辞めたのは、霞が関界隈では大事件だった。

 島田の解釈はこうだ。「どこかの会合で、(岡本が)『俺辞めたんだ』って言うから、『どうして』と聞いたら、いやもう頭にきているんだと。湾岸戦争のときに国会答弁をさせられて、彼は内心煮えくり返っていた。世の中にはしてはならない戦争と、しなきゃならない戦争があるんだ、そんな区別も付かねえのかって。安保課長としてまさかそんなことは言えないと思って辞めたんだよ」

 一方、岡本本人は湾岸戦争が始まる前には官房長に退職を申し入れていたことを明かし、湾岸戦争と退官の直接の関連を否定する。「ちょうど45歳で課長の今が一番おもしろいなと。ここから先は、自分が『切り込み隊』になるということがない。管理業務になっていくんじゃないかと。それで自分の城をつくって一人で思うようにやってみたいという気持ちが抑えられなくなった」と述懐する。

 湾岸戦争時、多国籍軍への物資協力プログラムで岡本は奮闘した。が、結果的に米国から、日本は十分な国際貢献を果たしていない、との烙印を押されるかたちとなった。退官がその仕事に一区切りつくタイミングと重なっているのは事実だ。

 岡本は「湾岸戦争のときは一生懸命やりましたよ。いろんな思いはありますけど、誰かに抗議するというものではない。嫌気がさしたことがあるとすれば国会答弁。国会があまりにも(湾岸戦争への対応に)後ろ向きだった。要するに野党にさんざん威張られてぼろくそに言われて、こっちは反論もできない。反論しちゃいけないんですよね、国会では。それから米国があまりにも理不尽だった」と官僚として抱いた当時の不満を率直に吐露した。

 ただ、岡本の心中では「そんなことは役人の仕事をしておれば当然起こること。それに抗議して、ということはない。それよりは新しいことを自分でやりたい」との思いの方が強かったという。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](10)第1部 「島懇」誕生
盟友口説き座長託す

 島田晴雄は岡本行夫の思想や生きざまに心酔していた。

 「いい男だというんで極めて親しくなって、お互いにブランクチェックを交わし合う仲になった」

 ブランクチェックとは「白紙の小切手」と訳され、相手に白紙委任や自由裁量を与える―といった意だ。

 「あいつ(岡本)が何かできないってときに、僕の了解をとらずに島田を使え、僕が何かできないときには了解をとらずに岡本をって。沖縄の問題でも戦友になろうとしていた」

 だが当初、島田は岡本からの座長就任の誘いを固辞し続けた。

 島田は岡本と同様、大のダイビング好き。「沖縄には何度も行ったが魚しか知らない。陸上の人は知らなかった」と冗談交じりに打ち明ける。

 「はしっこの委員としてなら手伝うが、座長にはもっとふさわしい、歴史的に沖縄にかかわってきた人がいる」というのが理由だった。

 しかし、岡本はあきらめなかった。10回以上にわたって電話をしたり、島田の研究室に出向き、就任要請を繰り返した。宮城篤実からもらった、基地に侵食された嘉手納町の地図を広げてみせ、「こんなところに嘉手納の人たちは肩を寄せ合って苦労しているんだ。島田さんも国家的な問題だと感じるでしょ」と力説したこともあった。

 ある日の昼食どき、岡本から島田に連絡が入った。「ずいぶん島田、島田って官邸も騒がしちゃって、古川(貞二郎)さんにも期待をもたせちゃったから、手打ちにそばぐらい一緒に食べてよ」

 島田が官邸に出向くと、内閣官房副長官の古川をはじめ、審議官の守屋武昌、及川耕造ら内閣内政審議室の主要メンバーが顔をそろえ、そばをすすっていた。

 島田が古川の向かいに座ると、顔を上げた古川が即座に「先生、このたびは(座長就任を)お引き受けいただき、ありがとうございました」と明るい声で礼を述べた。

 何言ってんだ?と思い、島田が隅に立っていた岡本を見やると、気まずそうにうつむいている。

 間もなく、「階上で梶山長官が待っておられます、ごあいさつを」と勧められた。島田はこの期に及んでようやく、座長就任の腹をくくったという。

 官房長官の執務室で、開き直った岡本が横から「島田さんは笑顔がいいんですよ」と茶化した。

 内閣官房長官梶山静六は「島田さんは得してるよ。俺はこの顔だからね。小沢(一郎・現民主党代表)君といろいろやってね、損ばっかりしてんだ」と言って相好を崩した。

 島田は内心で「だまし討ちだ」と岡本をなじった。

 岡本は島田懇談会の座長について「沖縄に感情移入してくれる人でないと駄目。火の玉となって自分の問題として情熱を傾けてくれる人。そして楽観主義者であること。だから、島田さんは最初に浮かんだ人だった」と当時の心情を明かす。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](11)第1部 地元メンバー
各界から委員を選抜

 岡本行夫は島田晴雄の座長就任要請と同時並行で、委員の人選と了解取り付けに奔走していた。

 岡本には「メンバーの半分以上を沖縄の人に就いてもらう」という目論見があった。1996年6月以来、沖縄で岡本の手引き役を務めたのが当時、那覇商工会議所専務理事の米村幸政だった。

 米村と岡本の出会いは、米村が県教育長、岡本が外務省安保課長のときにさかのぼる。

 「米軍基地をネガティブな側面ばかりでとらえるのではなく、前向きな活用はできないか」との観点から、米村は県内の米軍基地内大学への日本人就学を外務省に要請。その際、省内で窓口となり、米側との折衝や国会対策に尽力したのが岡本だった。基地内大学の日本人入学は87年に実現したが、その後も米村と岡本の交流は途絶えることはなかった。

 岡本から地元委員の人選について意見を求められた米村は、県経営者協会長の稲嶺恵一、名桜大学長の東江康治のほか、「いつもネガティブなことしか取り上げない」地元2紙の社長と、連合沖縄会長の渡久地政弘の計5人をメンバーに加えるようアドバイスした。

 渡久地は岡本が米村の案内で那覇市内の事務所を訪れ、島田懇談会の構想を説明し、委員就任を要請したときのことを強く印象にとどめている。

 岡本とは初対面だったという渡久地は「何十年もつきあっているような感じで話し掛けてきたので、こちらもついそんな気になった。沖縄の人はざっくばらんな人が好きだから、ちゃんとそこを見抜いておったのかは分からないが」と苦笑まじりに当時を振り返った。

 渡久地は岡本の要請には即答を避けつつ、「考えておきましょう」と引き取ったという。

 渡久地は沖縄の労働界の重鎮。労組専従30年の筋金入りの組合人だ。郵便局職員だった渡久地は本土復帰時、沖縄全逓信労働組合中央本部の書記長を務めていた。

 琉球政府職員から郵政省職員への完全な身分引き継ぎをはじめとする復帰に向けた要求に関する政府・郵政省との交渉は難航を極めた。このため、渡久地ら同労組幹部は要求実現のため解雇も覚悟の上で、本土復帰を約1カ月後に控えた72年の4月4日から5日間の連続ストライキに突入する。

 このストによる郵便業務の麻痺は、政府の復帰準備にも影響をきたし、政治問題化していく。渡久地らの不退転の取り組みが奏功し、身分の完全引き継ぎと臨時職員150人の本採用確定など実質的な要求実現をもぎ取った。

 その後、渡久地は78年、同労組委員長に就任、連合沖縄会長は93年から99年の3期6年間にわたった。

 「専従生活30年だからいろんな運動を見てきている」と自負する渡久地。自身を委員に推薦した米村や、岡本の思惑について「渡久地なら杓子定規で考えずに、幅をもって考えるのではという思いがあったのではないか」とみる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](12)第1部 振興策 逆リンク論
基地返還後を念頭に

 岡本行夫らは東京の連合中央本部にも島田懇談会参加を打診していた。

 連合中央本部は当時、政府の諮問会議などには積極的に参加し、連合の理念や考えを国の政策に反映させるべきだという組織方針を掲げていた。中央本部は事務局長鷲尾悦也(のちに会長)の委員就任を受諾する一方、連合沖縄に対しては基地問題がからむため、「沖縄の判断に委ねる」と地元の意思を尊重するスタンスをとった。

 渡久地政弘の委員就任をめぐって、連合沖縄内部は紛糾する。連合沖縄は基地の整理・縮小や日米地位協定の見直しを問う1996年9月の県民投票を提唱するなど、基地問題に関する県内世論の誘導に積極的役割を果たしていた。そういう時期に、官房長官の私的諮問機関にトップが加入することに対し、「振興策でごまかされるのではないか」「政府に取り込まれるのではないか」といった警戒論が台頭するのは必然でもあった。

 組織内部は、「中央本部と足並みをそろえ、懇談会に参加してしっかりと意見を主張し反映させた方がいい」という積極参加派と、「政府に利用される」という参加反対派、「参加すれば県民から批判を浴びる」という慎重派に分かれていた。沖縄での島田懇談会の微妙な立ち位置を反映していた。

 「最終的に賛否の結論がつかず、会長判断に委ねる、となった。僕は虎穴に入らずんば虎児を得ずという思いで飛び込んだ」

 渡久地には、政府が力を入れようとしている懇談会の趣旨が「地域振興」に絞られると、基地返還後の基地従業員の雇用保障問題が埋もれてしまうという危機感があった。

 95年9月の米兵事件を受け、同年10月に超党派で開かれた県民大会では、「米軍基地の整理・縮小」が県民の総意として採択された。この流れを踏まえ、渡久地は(1)基地の整理・縮小という文言をきちっと入れさせる(2)基地返還後の姿を想定して地域振興を図る(3)基地従業員の雇用先確保―の3点にこだわり、その前提方針を島田懇談会の理念として反映させることが自らの役割と考えるに至った。

 渡久地は「あのときは地元側から振興策と基地問題のリンクを求めた」と冗談交じりに振り返る。「あとで逆になって、普天間飛行場の県内移設受け入れと振興策をリンクさせるということも出ているけれども、われわれはむしろ関連付けた。沖縄の基地はいずれ返るんだ、返ったときに地域でやっている活性化事業がどう結びつくのかを念頭に置けと」。振興策によって基地の整理・縮小がなおざりにされないようくぎを刺す、という意味においての「逆リンク論」だった。

 島懇事業を基地の維持装置にさせてはならない、という強い思いが渡久地にはあった。

 「僕も(のちに施設局誘致を打ち出した)宮城(篤実)町長じゃないけど、参加することで自分への非難が集中するのも覚悟で入ったよ。結果としていろんなことを言われても甘んじて受けようと思っていた」(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](13)第1部 以心伝心
「島懇」介し絆強める

 1996年8月20日、内閣官房長官梶山静六は記者会見で、長官の私的諮問機関として「沖縄米軍基地所在市町村に関する懇談会」(島田懇談会)の設置を正式発表する。この中で、11月をめどに振興策を作成し、次年度予算に盛り込む方針を明らかにした。

 メンバーの一人として紹介された岡本行夫は「自民党や政府で議論している航空運賃など県全体の措置とは別に、懇談会では具体的な町おこし、村おこしがテーマになる」と強調した。

 島田懇談会の発足は、在日米軍の重要施設を抱える沖縄の基地所在市町村とのパイプを、政府中枢(官邸)が直接握ることを可能にするシステムの確立でもあった。そのルートを開拓した立役者が岡本だった。「まちおこし」を入り口に、首長たちの信頼を得た岡本は、のちに首相補佐官として普天間代替施設の受け入れをめぐって名護市と交渉する上でも大役を果たす。

 同年6月の那覇での会食以降、宮城篤実と岡本は緊密に連絡を取り合っていた。宮城は新聞報道で懇談会設置を知ったというが、構想の輪郭は事前に岡本から聞いていた。このため、懇談会発足時、「岡本さんが動いた、彼以外にない」と宮城は確信していた。

 元エリート官僚として民間の立場となっても「国益」を背負い続ける岡本と、学生時代には「砂川闘争」に身を投じ、地方政治家として「自治」に人生を傾けてきた宮城。この2人が以心伝心で共鳴し合うのは不思議な縁でもあった。宮城は「わが町の発展」、岡本は「本土と沖縄、日本と米国の関係正常化」という異なる命題を抱えていたが、島田懇談会という仕掛けを介し、互いに強い絆で結ばれていた。

 懇談会設置の発表から間もなく、岡本から宮城に連絡が入る。「いつ上京しますか。そのときに(梶山)長官と会ってください」。岡本は6月の会食時の約束を果たそうとしていた。

 数週間後、官房長官の執務室前。宮城は秘書らしき人物に耳元で「長官はあなたの町のことはすべて知っています。3分程度に要約して伝えてください」とささやかれた。入室すると、梶山は腰を浮かし、「大変ご苦労をおかけしています。岡本からも状況をよく聞いております」と丁重に出迎えた。宮城は町議時代から基地関連の陳情で官邸に通ってきたが、これほど慇懃な対応をされるのは初めてだった。

 「北谷町は基地返還でにぎわいを呈し、読谷村はSACO(日米特別行動委員会)合意で返還が進むという情報で沸き立っています。一方、嘉手納基地は長期固定化の方向が見え、町民はうち沈んでいる。これから先、何の希望もありません」

 宮城はわずか3分で具体的な要望をしても意味がない、感情に訴えようと腹に決めていた。途中、秘書が何度もメモを手に出入りし、面談の打ち切りを催促したが、梶山は「もう少し聞かせてほしい」と食いつき、30分近く話し込んだ。「嘉手納には政府中枢の人たちが繰り返し来られるが、みんな上空から視察するだけです」。このとき宮城の投じた言葉が梶山の新町視察へとつながる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](14)第1部 施設局誘致
他に先がけ熟度訴え

 1996年8月26日、島田懇談会の初会合が首相官邸で開かれた。検討事項として(1)基地所在市町村のまちづくりなど各種施策の在り方(2)地元と米軍とのより良い関係を築く方策―を確認。9月に委員が来県し、基地所在市町村から直接要望を聴くことを決めた。

 内閣官房長官梶山静六は、政府として在沖米軍基地の「整理・統合・縮小」や、沖縄への振興策の検討を進めていることを説明し、「沖縄の痛みや心を草の根から行政に取り上げていくにはどうすればいいかを議論してほしい」とはっぱをかけた。

 自由討議では、政府が多額の支援をしながら沖縄経済は活性化していない―という指摘があり、「これまでの振興策は適切だったのか」との疑問も提示された。

 会合後、記者会見した座長島田晴雄は、SACO(日米特別行動委員会)や沖縄米軍基地問題協議会などとは分業とし、他機関のテーマには特に触れない、としながらも「基地所在市町村に住む人々の目の高さに立ち、議論そのものは徹底的にやる」との姿勢を示した。

 9月14日の現地視察初日。県内外の経済人、学識経験者ら11人で構成する島田懇談会は、北谷町を皮切りに嘉手納、読谷、沖縄、具志川、勝連、北中城の7市町村を訪問し、首長から意見聴取する強行スケジュールに臨んだ。

 前夜に県内入りした委員らが宿泊する那覇市内のホテルに、この日の朝、宮城篤実の姿があった。宮城は(1)市街地再開発と政府機関の誘致(2)沖縄航空宇宙博物館(3)オーチャードロード(4)高度医療センター(5)市街地住環境整備(6)基地の実態に見合う交付金の新設―を盛り込んだ要請書を携えていた。

 「要請書 平成8年9月14日 沖縄県嘉手納町長 宮城篤実」と表書きされた文書は、この日のために用意した宮城の「夢の結晶」だった。宮城はどの市町村よりも早く委員の手に届けることで、懇談会に懸ける情熱と事業計画の熟度の高さをアピールしようとした。

 要請の冒頭に挙げられた「市街地再開発と政府機関の誘致」は、島懇事業の嘉手納タウンセンター事業と沖縄防衛局移転の原形となる。

 この中で、市街地再開発は「再生産を伴う魅力ある多目的ビルを商業の核とし、良質な住宅を配した複合事業として有効な手法であり、町の命運を懸けて事業化を推進したい」と提案した。

 政府機関の誘致については「主要な米軍基地が集中する中部地区には基地政策を主管する国の機関はなく、総合的な民生安定施策を展開する上で不合理。基地からの障害防止に関して周辺住民と国が同じ視点に立ち、相互理解を深める一環」と訴え、那覇防衛施設局(現沖縄防衛局)の移転を要請した。

 これが、「施設局誘致」方針を嘉手納町が初めて外部に示した瞬間だったが、この時点で気に留めるものはいなかった。相手にされなかった、というのが正確かもしれない。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](15)第1部 千載一遇
再開発と誘致へ攻勢

 宮城篤実は、1995年4月に市街地再開発の検討委員会を発足させたときにも、再開発ビルの入居候補に「政府機関」と盛り込んでいた。「那覇防衛施設局誘致」は、宮城が長年ひそかに温めてきた「切り札」だった。

 検討委の計画についても、「施設局が頭にあったから『政府機関』という表現を使った。ずっと記憶の中にあって、政府機関といえば施設局しかないという思いだった」と明かす。

 宮城の施設局誘致の腹案は、局幹部との何げない会話が発端だった。

 ある日、宮城は事業部長から「局ではいろんな仕事を民間に発注しながらやっている。駐車場も民間委託だし、民間業者の出入りもひっきりなしだ」という話を聞いた。

 「そのときは嘉手納町にあればという思いなどなく、いいなという程度に受け止めていた」(宮城)。が、結局、それがヒントになり、宮城の頭に「民活のポテンシャル」として、ずっとインプットされる。

 周辺の北谷町や沖縄市では当時、大型ショッピングセンターや商業集積ビルの整備が話題を集めていた。しかし、施設局からは毎年確実に多額の事業費が落とされ、500人近くの職員が日々働く。宮城は「どんな大きなショッピングセンターをもってくるよりもメリットがある」と踏んだ。

 岡本行夫との情報交換を密にし、内閣官房長官梶山静六とも面談していた宮城は、島田懇談会を再開発と施設局誘致の「千載一遇」のチャンスととらえていた。

 「とにかく必死だった。この懇談会で何とか、という思い。日米協議で決まるSACOは私の意思では動かせない。自分がじかに協力をお願いできるのはこの場しかない」という覚悟を固めていた。

 一方、島懇事業の対象となるほかの基地所在市町村は当初、宮城の攻勢ぶりとは対極の冷めた反応も目立った。

 1日に7市町村という「駆け足視察」には、首長らから「事務方から基地問題に触れず、経済振興について話せとくぎを刺された。基地の町で基地に触れずに何が語れるのか」「委員から質問もない。こんなに駆け足で大丈夫か」といった疑心も噴き出した。

 内閣内政審議室で事務局を担当した佐藤勉は「懇談会への対応は市町村によって真面目、不真面目なところで大きな差があった。政府の宣撫工作という白い目もあった」と振り返る。

 当時の北谷町長辺土名朝一は「何しろ前例のないケース。どの省庁が担当するのかや予算も不明確で、懇談会が今後どう動いていくのか、まったく分からない状況だった。従来の法律の枠内でやるのであれば、自治体も相当分の持ち出しを考えないといけない。これをつくれ、あれをつくれとはうかつに言えなかった」と打ち明ける。

 理念が先行するばかりで予算の裏付けも不明確な振興策に、自治体の責任者としてむやみにに飛びつくわけにはいかないのも当然だった。

 島懇事業に賭ける政府中枢の本気度を肌で感じ、満を持して臨んだ宮城と、ほかの首長たちとではスタートラインで懇談会に対する認識に大きなギャップがあった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](16)第1部 嘉手納統合案
三連協で「突出」を回避

 島田懇談会発足の背景要因として、同時期の米空軍嘉手納基地をめぐる動きは無視できない。政府にとって、同基地周辺の自治体の「ガス抜き」が不可欠となる政策課題が浮上していた。

 米海兵隊普天間飛行場の移設返還が決まった1996年4月、首相橋本龍太郎は「ヘリコプター部隊は嘉手納基地など県内の既存の米軍基地内にヘリポートを建設し、移転する」と条件提示した。日米の返還合意は代替施設建設をめぐる混乱の幕開けでもあった。

 同年9月16日。危機感を募らせた嘉手納基地周辺の沖縄市、北谷町、嘉手納町は「嘉手納飛行場への米軍ヘリポート移設反対連絡協議会」(三連協)を発足。代表の沖縄市長新川秀清ら3市町の首長と議会議長の6人は同日、沖縄市役所で記者会見し、嘉手納基地への機能統合案を「15万市町民の切り捨てだ」と訴え、基地の県内移設に反対する共同声明を発表した。

 三連協は、翌17日に来県した橋本に共同声明文を手渡した。この地元自治体の行動は、首相への「直訴」として強いインパクトを放った。

 宮城篤実は三連協発足の経緯について、「当時は基地被害といえば嘉手納町中心の反対運動。嘉手納統合案が浮上したとき、沖縄市や北谷町はピンときていなかった。沖縄市、北谷町を巻き込んでやった方がいいということで全部、私が根回しした」と打ち明ける。

 宮城には、フィリピンのクラーク基地から米空軍特殊作戦部隊と輸送機が一時移駐と称し、嘉手納基地に居座った91年の苦い教訓が頭にあった。

 「一度OKと言ったら取り返しがつかない」と直感した宮城は、普天間飛行場返還合意の直後から「統合案つぶし」に邁進する。

 同合意発表の約1週間後の4月20日には、「移設反対町民大会」を開催。雨の中、約1000人の町民が参加し、町内の通称「安保の見える丘」までデモ行進した。

 その後も嘉手納統合案が有力視されたことから、危機感を募らせた宮城は三連協発足に本格着手する。

 「町単独で動いてもなかなか政府に伝わらない。基地被害に敏感な嘉手納町だけで動いても、国はまたかと受け止めるだけだった。嘉手納基地全体の問題だということで沖縄市、北谷町に呼び掛け、嘉手納統合案をつぶす決定的なものにしようと動いた」。


 宮城は沖縄市をメンバーに取り込むため、海兵隊のヘリポート機能は嘉手納基地内の沖縄市側に配備が予定されている、との米軍内部の情報も積極的に触れて回った。

 嘉手納統合案阻止を目的とする三連協発足で中心的役割を果たす宮城には、「島懇事業は確実にものにしなければならない」という宿願もあった。その点、沖縄市長が代表を務める三連協には、政府にもの申す反対運動で宮城の突出したイメージを打ち消す「効能」も内在していた。

 宮城は「駆け引きではなく、政府が打ち出した政策に対応し、その場その場で決断し、動いてきた」と振り返る。が、政府との交渉では「基地問題と振興策は別」と簡単には割り切れない現実を知る政治家宮城のしたたかな一面も垣間見える。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](17)第1部 相似の振興策
「代替の代償」あらわ

 島田懇談会の発足時期と、嘉手納統合案に対する地元の反発の盛り上がりが重なったのは単なる偶然かもしれない。だが、1995年の米兵事件だけでなく、96年の普天間飛行場の県内移設方針により、自治体レベルにまで波及した不満の渦を鎮めたい当時の政府にとって、基地が集中する本島中北部の自治体の「ガス抜き」を必要とする世論状況だったことは否めない。

 こうした見方に、岡本行夫はこう反論する。「地元のガス抜きという意識はなかった。純粋に僕は同情した。各市町村を回ると、小さな金額でもいろんなことができるはずなのにできない。無理もない、防衛施設庁の基地交付金だけではそういうことはできない。これは官邸のやる仕事だと思った」

 「ガス抜き」という表現が適切かどうかは別にしても、当時の政府には、島懇事業が「気の利いた施策」である点に変わりはなかっただろう。

 96年7月から那覇防衛施設局長を務めた嶋口武彦(現駐留軍等労働者労務管理機構理事長)は、島懇事業について「最初は普天間移設の絡み。そこから拡大していった」との見解を示す。

 那覇局に赴任して間もなく、嶋口は名護市幹部を局長室に招いた。嶋口によると、「実は普天間代替施設はキャンプ・シュワブ沖で進めたいと思っていますが、どうですか」と切り出すと、同幹部はややあって「二つ条件がある」と提示した。(1)工法は埋め立てに(2)キャンプ・シュワブの借料アップを―との依頼だったという。

 「その場で私は、こんな飛行場みたいなものを受け入れるのであれば、名護市全体を全面的につくり替えるぐらいのおカネをもらえばいいんですよ、と言った。それが島懇事業の始まり」と嶋口は説く。

 この説に、岡本は「島田懇談会は7月にコンセプトが決まって8月には発足した。その時点では嘉手納統合案で進んでいた」とし、名護市への代替施設受け入れ打診との関連を否定する。

 嶋口は、県と名護市の普天間代替施設受け入れ表明を受け、99年に閣議決定した北部12市町村を対象とする「おおむね10年間で1000億円」の北部振興策と混同している可能性もある。

 ただ、事業費の9割を国庫補助で賄い、自治体負担分を最小限に抑える北部振興策は、島懇事業と同じ事業推進フレームを採用している。北部振興策は、県内25の基地所在市町村を対象に「7年間をめどに1000億円」を投じる島懇事業とは額面上の類似だけでなく、事業形態も相似をなす。時系列で判断すれば、北部振興策は島懇事業がモデルとみるのが妥当だろう。

 当初、基地とのリンクがあいまいにされた北部振興策は、米軍再編で政府が普天間代替施設建設を推進する過程で「基地受け入れの見返り」という本性があらわにされる。島懇事業もまた、名護市への代替施設受け入れの代償となる「アメ」の一つとして活用されたことは、市町村別の予算内示の段階で明らかになる。

 嶋口の記憶の中で、北部振興策と島懇事業が重なったとすれば、それは政府内部の意識の反映ともとれる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](18)第1部 自立と依存
“旨み”増すほど矛盾

 1996年10月1日の島田懇談会第4回会合。この席で座長島田晴雄は「市町村の窮状を緩和し、自立的な経済発展を実現するために、国が行う施策の余地は大きい」と主張。施策の原則として(1)市町村の閉塞感を緩和し、雇用創出と若者を定着させるプロジェクトの実現(2)基地返還後を念頭に置いた振興策と基地労働者の雇用不安解消―など4点を挙げ、可能なものは次年度予算に盛り込む方針を打ち出した。

 しかし、バブル崩壊の余韻が残る当時、町最大の課題である埋め立て造成地の美浜アメリカンビレッジの企業誘致に忙殺されていた北谷町長辺土名朝一は「とにかく方向性を出せと言われたが、箱ものは極力嫌われるしで正直困った。自治体が自活できる、地域の活性化につながる事業を出せと急に言われても、そう簡単に探せるものではない。美浜の企業誘致だけでも頭がいっぱいなのに」と戸惑いも感じていた。

 北谷町は本土復帰直後、米軍基地が町面積の65%を占め、企業立地に必要な土地も確保できなかった。その後、ハンビー飛行場(約43ヘクタール)、メイモスカラー射撃場(約23ヘクタール)の返還に伴い、隣接する公有水面の埋め立て事業に着手。大型ショッピングセンターやアミューズメント施設を次々に立地し、ビーチと連動した都市型リゾート地区へと再生させた手腕は高く評価され、県内外からの視察が相次いでいた。

 民間活力を利用し、基地の跡地開発を推進する北谷町で指揮をとる辺土名は「自治体がかかわるから成り立つというのは商売ではない。町が入らなくても成り立つのが真の事業」と企業へのトップセールスを展開。町職員には「基地が開放されても、野ざらしにしているようでは駄目。そこに活気ある街をつくって初めて政府にものが言える。自立できる沖縄をつくれば住民も米軍基地に頼らず発展できる方がいい、となるはずだ」と叱咤していた。

 大田県政の基地返還アクションプログラムや国際都市形成構想にも触発され、基地収入に頼らない自立経済を模索し始めた自治体は、北谷町だけではなかった。そうした自治体にとって、国から振興策の要求をせっつかれる島田懇談会の出現は「有り難いこと」ではあったが、困惑も広がった。

 しかし、事業採択される自治体が出てくると、どれだけ大きなパイをとれるかをめぐって、自治体間の要求競争があおられる様相も呈した。

 「自立的な経済発展」に向け、国が直接、市町村をサポートする島田懇談会は、自治体が主体的にまちづくりを考え、行政能力を磨く修練の場にもなった。一方で、高率補助の至れり尽くせりの国策事業は、その旨みが増すほど自治体が中央依存を深めていく矛盾する機運も醸成した。とりわけ、近い将来、返還の見込みが低い本島中北部の基地を抱える自治体にとって、「基地返還後を念頭に置いた振興策」という島懇事業の原則は建前にすぎず、当面の活性化のために、より多くのアメを政府から引き出すことが現実的な命題となった。それは自治体に「基地があることのメリット」を想起させる契機にもなった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](19)第1部 作業部会
懐疑的意見はね返す

 1996年10月18日、首相官邸で開かれた懇談会の第5回会合。委員からは、嘉手納町が提示した再開発に肯定否定の立場から意見が寄せられた。

 「特定の町の再開発という問題を考えた場合、実はどうしたら本当によいかということは大変難しい。単に、箱ものをつくればよいというものではない。政策的な視点が必要」

 「町の再開発についてはいろいろな問題はあるが、今より失うものがあるということはないのではないか。基地の制約を特に大きく受けている市町村については、何か一つずつプロジェクトの例示が必要」

 10月23日。那覇市のホテルで開かれた第3回作業部会で、委員は各市町村長と個別に質疑を交わした。宮城篤実にとって命運を懸けた日だった。

 「どうしても進めたい課題について言います」と意を決した口ぶりで立ち上がった宮城は、町の衰退状況を説明した上で「まずは1ヘクタールの再開発から始めたい。そうすれば、そこを起点とした人の動きも出てくる。防衛施設局の誘致も進めてもらいたい。再開発でそこにいた人がとどまるのみならず、新たな住民も来るようにしたい」と新町の再開発事業と那覇防衛施設局(現沖縄防衛局)誘致を要請した。

 しかし、委員からは懐疑的な意見が相次いだ。以下、国作成の議事録。

 委員「防衛施設局を誘致すると、基地固定化につながるとの批判が予想されないか」

 宮城「あるだろうが、説得できる」

 委員「雇用や活性化効果は高いと思うが、地元の合意形成は大丈夫か」

 宮城「大丈夫。町民には空理空論は言わない。今生きている人々の環境改善になるなら理解は得られる」

 委員「活性化のために防衛施設局を、というが、個人的には疑問だ。政治的対立を生まないか」

 宮城「活性化効果は大きい。大衆運動も心配されるが、それはのみ込むつもり。すでに町は基地自体のみ込んでいる。基地に比べれば運動ぐらいは」

 委員「県との相談は」

 宮城「町独自の判断だ」

 委員「通常の再開発の制度ではかなり困難。床を誰に売るのか。また、零細商店を営む住民や借地の人たちは、普通に再開発をやったらビルには入居できない。新たな工夫や公設市場などの合わせ技がないと難しいだろう」

 宮城「町には産業がない。こういう事態になったことを国がどう受け止めるのかがポイントだ。ロータリー地区の再開発の構想もあるが、新町地区を優先して着手したい」

 一方、宮城の記憶ではこうだ。「施設局に来てもらえれば活性化につながると言うと、豊平良一委員(沖縄タイムス前社長)が突如笑いながら『町長それはユニークな発想だが、デモ隊も来ますよ』と警告したので、私は即座に『デモ隊も大歓迎。一緒にまちづくりに参加してもらいます』と言った。すると、渡久地政弘委員が『そういう志ならいい』と賛同してくれた。私は人さえ来てもらえれば誰だっていいと言ったら、みんな笑っていた。これで雰囲気が和らいだ」(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](20)第1部 連判状
基地所在首長が署名

 宮城篤実が施設局誘致と再開発を要請した1996年10月23日の第3回作業部会について、渡久地政弘はこう回想する。

 「(施設局誘致について)政府側のメンバーも意外なことを言ってきたな、少し驚いたという感じだった。嫌われている施設局をもってこいということに、ええーとなった」

 宮城の提案を受け、渡久地は(1)基地返還を想定してそれに結びつける振興策、再開発という思いはあるのか(2)(基地返還後に)基地従業員の役場への優先採用も考えているか―と問うた。

 「(宮城は)異議はありませんと言うので、それなら僕がもっている戦略目標と合致すると。そして何よりも、彼が本当に腹をくくってやろうとしているのかを聴きたかった」

 渡久地はさらに宮城に問う。「施設局をもってこようとしたとき、世論の集中砲火を浴びて四面楚歌になる可能性もあるが、その覚悟はあるのか。途中で腰砕けとなると、かえって混乱を引き起こすことになるが、そういうことを想定してなおかつ誘致するのか」

 宮城はにこやかに悠然として「非難集中は覚悟している。腰砕けにもならない。事業として採用してくれるなら自分の信念として断固として進める」と答えた。

 渡久地は宮城の回答に満足した。「僕は町の代表がそこまで言うんだったら、その意思を尊重すべきだと思い、賛成した」

 周辺自治体の理解を得るため、宮城はこの後、「奥の手」を打つ。97年4月、那覇防衛施設局で正式に移転要請した際、これを見た局長嶋口武彦は「これは連判状ではないですか」とつぶやいたという。

 「連判状」を宮城に進言したのが当時、町企画総務部長の塩川勇吉だ。塩川らは基地を抱える本島中北部の18基地所在市町村の首長に、嘉手納町への施設局誘致に賛同を呼び掛けた。疑義を唱える首長は皆無で、わずか数日で全首長の署名捺印がそろったという。

 施設局は基地が集中する中北部の市町村にとって、陳情や要請で最も頻繁に職員を派遣する国の機関だ。そのたびに那覇へ出向くのは時間と労力のロスでもあった。「施設局が嘉手納町へ移転すれば皆さんも楽になるのでは」というのが周辺自治体への嘉手納町の売りだった。

 また、政府に対しては、口うるさい革新首長も含め、保守・革新の区別なく政治的にはクリアできているというメッセージが込められていた。

 しかし、島田懇談会では「誘致作業は懇談会の役割ではないとして、『おもしろいアイデアですが、町長ご自分で努力してください』で終わった」(宮城)。施設局誘致は懇談会での議論とは切り離し、町が独力で政府折衝を図ることになった。

 宮城は第3回作業部会を機に、上京のたび、政府関係者に那覇防衛施設局の嘉手納移転要請を重ねるが、政府の扉は予想外に重いことが次第に明らかになる。移転決定の遅れが、再開発事業の成否にもかかわる事態を招く。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](21)第1部 財源問題
予算作成ルール逸脱

 1996年10月29日。第6回会合が首相官邸で開かれた。嘉手納町や金武町など、基地の重圧が大きな自治体に特に配慮するかたちで各種プロジェクトを実施することで合意。しかし、具体的プロジェクトについては国、県、市町村との調整や予算面の問題があり、継続協議とした。

 冒頭、あいさつした内閣官房長官梶山静六は「懇談会もヤマ場にさしかかった」との認識を示し、基地所在市町村の期待に沿う提言の取りまとめを要望した。会合後、座長島田晴雄は「プロジェクトを実施するには予算の問題もある。関係省庁の説明を聞くなど段階は踏んでいるが、さらに詰めなければならない」として、プロジェクトの全体像については言及を避けた。

 この時期、島田が会見で触れた「予算の問題」がまさにヤマ場を迎えていた。当時の状況について島田はこう振り返る。

 「各市町村を回って意見聴取し、事業概要がリポートとしてかたちになるにつれ、市町村側の期待感が非常に高まっていた。しかし、予算措置ができないんだよね。まったく既存の予算措置から外れているから。ただ、もしそれだけのお金を使わないとなると、本土に裏切られたという感じを沖縄の人たちはもつという懸念を岡本さんも梶山さんも非常に強くもっていた」

 国の予算編成にあたっては、前年度の夏から秋にかけて各省庁が必要な予算額を財務省(当時大蔵省)に提示する「概算要求」を経て、同省主計局が財務省原案をとりまとめる。この予算原案作成のレールに島懇事業はまったく乗っていなかった。さらには、官房長官の私的諮問機関という位置付けの同事業は、予算を要求する主体官庁も不在だった。

 「(事業を担う主体官庁は)全然決まっていなかった。それがはっきりしない中で、沖縄への思いだ思いだって、梶山さんが頑張ろうって言ってるだけの話だから。雲をつかむような話だということがはっきりしてきて、財務省は勝手なことを言われても困る、ということになった」(島田)

 懇談会メンバーにとって、11月に予定している懇談会提言の段階で予算面の裏付けを示せないのは体面にかかわる事態だった。島田も財務省主計局に足を運び、予算確保の談判に及んだ。

 机をはさんで対座した主計局職員は、島田の目の高さまで握り拳を掲げ、そこから下に向け、拳をぱっと開いた。拳の中にあった架空のボールが放たれ、机の下まで滑り落ちていく、そんな様子をジェスチャーで示し、こう言い放ったという。

 「島田先生、そうおっしゃるが、いったん手放すと、こんなふうに、ころんと落っこってコロコロいっちゃうんですよ」

 ボールは予算を意味していた。受け皿の責任官庁が不在のまま予算投下すれば使途のチェックが効かず、垂れ流し状態になるという警句だった。そもそも主体官庁が明確でない事業の予算を計上すること自体、「財政の番人」である財務省にとっては論外だった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](22)第1部 総事業費
SACO経費が原点

 島田晴雄が財源確保で財務省主計局と格闘していたころ、岡本行夫は「深く静かに潜行していた」(島田)。

 岡本はのちに「総額1000億円」と決定する島懇事業費の由来について、キャンプ・ハンセンで行われていた米海兵隊の県道104号越え実弾砲撃訓練の本土5道県の演習場への分散・実施に伴う経費との関連を挙げた。

 「だいたいどれくらいのカネがいるんだと梶山(静六官房長官)さんに聞かれたので、SACOで恩納岳のりゅう弾砲実弾射撃訓練を本土へ移すための経費(住宅防音工事や民生安定助成事業など)が150億円だったことを指摘した。沖縄は分散されるところの5倍の演習量をこれまで無料で背負わされていた。僕はSACOで150億円使うなら、沖縄にも150億円必要ですよ、と梶山さんに申し入れた」

 さらに、梶山は岡本に「何年間、必要なんだ」と問うた。岡本はとっさに「こういうプロジェクトは立ち上げから7年はかかります」と答えた。「それで150億×7という数字が梶山さんの頭にインプットされた」という。

 1996年11月19日の首相官邸。懇談会提言発表の1時間前、控室で岡本、審議官及川耕造、島田らが戦略会議を開いた。岡本は島田に「1000億円のオーダーでやりましょう。ただ、予算措置ってわけにはいかないので、誰か(記者)が質問しますから、島田さんはこれぐらいの事業をやるとなれば1000億円、7年間ぐらいかかるでしょうと口頭で言ってください」と持ち掛けた。

 岡本の「根回し」を察した島田は会見で、記者の質問に答えるかたちで事業期間は約7年との見通しを示し、経費は「数百億円から1000億円ほど」との見解を表明した。「弁慶の勧進帳と同じ。何もないところでしゃべった。直後に座長見解が出ましたって、記者がいっぱいいる中で梶山さんが走り書きのメモをもって三塚博大蔵大臣のところへ行った。そうしたら三塚さんは『重く受け止めてまいります』って口頭で答えた」(島田)

 沖縄と政府の関係が最も緊迫したこの時期、島懇事業に限らず、沖縄特別振興対策調整費など「沖縄振興」は百花繚乱の様相を帯びていた。日米安保のかなめである沖縄の民生安定を企図した、多分に政治色の濃い国庫予算の集中投下は、SACOでは解消しきれない基地問題への県民の不満を振興策にすり替える政府の狙いを映す鏡でもあった。

 それでも、座長見解に対しては地元マスコミも「具体的事業がない段階で座長見解とはいえ、具体的金額を打ち出すのは通常の予算措置ではあり得ない異例の対応」と評価した。

 ただ、「総額1000億円」の予算設定の見方はさまざまだ。内閣内政審議室にいた佐藤勉は「丼勘定。島懇の契機になった嘉手納、金武にこれくらいなら全体でこれくらい担保する必要があるという政治家的発想」と指摘。那覇防衛施設局長だった嶋口武彦は「一度に1000億円ではなく10年以上かけてなら、たいした額ではない」とみる。島懇事業は97年度から「7年間」の予定がいまだ完了せず、現段階では2011年度までの15年間にまたがる見込みとなっている。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)


[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](23) 第1部 事業採択
基地負担の重み考慮

 島田懇談会は1996年11月19日、(1)嘉手納タウンセンター(嘉手納町)(2)ふるさとモデル地区整備(金武町)(3)伊江マリンタウン(伊江村)(4)人材育成センター(名護市)(5)こども未来館および周辺施設整備(沖縄市)の5市町村5プロジェクトを例示した提言をまとめ、内閣官房長官梶山静六に提出した。

 5市町村にとどまった理由について、座長島田晴雄は「各市町村に願望はあっても、十分考え抜いたところまでいっていない」と説明。基地の比重や基地被害がより大きな自治体を軸に、「有用性と具体性」を考慮に入れた結果とした。

 懇談会提言は嘉手納タウンセンターについて、「町域の83%が基地で占められている嘉手納町の場合は、すでに面的拡大の余地がなく、基地返還の見通しも得られていないため、市街地の拡大による過密解消は困難であり、また高度利用化を促す潜在力も十分でないという八方ふさがりの状況にあるので、町の活性化の拠点として嘉手納ロータリー周辺の総合的な再開発を行う」と再開発の方針を明示した。

 その上で、中核的プロジェクトとして「町の活性化の拠点となる多目的ビルの建設、町民広場の整備等を行うとともに、雇用効果のある施設、商業・サービス機能の導入などを進め、雇用機会の創出や若者の定着、さらには国際交流を図る」とした。

 再開発事業については事業採択という町の念願が早々にかなったものの、宮城篤実がセットで要望してきた「施設局移転」の文言はどこにも付されていなかった。

 総括で梶山は「提言が実施されれば、基地の存在による閉塞感を緩和し、内発的発展への展望が期待されるなど、極めて重要な内容を含んでいると認識する」と述べ、提言を実現に移すことを約束した。

 だが、プロジェクト自体は「箱もの」中心で、沖縄開発庁(現内閣府)主導で行われてきた従来の社会資本整備の域を出ないもの、と見ることもできた。

 8月26日の第1回会合以来、3カ月で計10回という異例のハイペースで協議を重ねた島田懇談会は区切りの段階を迎えたが、各プロジェクトが市町村経済の活性化や雇用機会創出、人材育成という最終目標につながるのか、不透明感をぬぐえないままの「船出」となった。

 懇談会提言はまた、基地内通行や制限水域解除など5項目を米側と折衝することも併せて求め、政府に連絡調整窓口を設けて基地所在市町村から今後出される要望に対応する必要性にも言及した。

 このことは、米軍基地と県民の「共存」は当面続かざるを得ない―という前提の下、県民の反基地感情がこれ以上高まらないよう、政府に最大限の配慮を求める提言の趣旨が色濃くにじんでいた。

 「沖縄は振興策と基地存続を取引したわけではない。懇談会提言は、基地が存在する間のマイナス面を放置せずに、多少なりとも取り除くものと解釈したい」(96年11月20日沖縄タイムス朝刊)。

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](24)第1部 首長の意識
基地維持 気付きつつ

 島田懇談会提言が発表された当時、基地問題と振興策の関連を地元自治体はどうとらえていたのか。

 1997年2月に行われた本島中部の沖縄市、宜野湾市、嘉手納町、読谷村の4首長の座談会の中で、それをうかがい知る一幕がある。

 「地域振興を条件に基地を受け入れるという考えと、基地問題と地域振興を取引すべきでないとの考えもある」と問題提起された読谷村長山内徳信(現社民党参院議員)と嘉手納町長宮城篤実は、それぞれこう回答している。

 山内「基地問題も地域振興も解決しなければならない命題。沖縄側からは二つの命題をアメとムチという構造でとらえてはいけない。命題を県民挙げて解決しなければ、基地所在地市町村の閉塞状態を突き破れないからだ。復帰前のアメとムチ論を絡ませたりしてはいけない。政府は基地問題も地域振興も解決する責任があり、沖縄側は必要以上に政府の恩を感じる必要はない。恩を感じるとアメとムチとなる」

 宮城「地域住民は閉塞状態で呼吸困難に陥っている。政府は改善の手を加える責任がある。よそから見てアメとムチ論をいうが、基地に苦しむ住民にアメを食うな、我慢しろというのか。自治体の長としてそれは決してできない」(いずれも97年2月9日沖縄タイムス朝刊)

 米軍統治下の沖縄では、56年の那覇市長選で瀬長亀次郎が当選した際、米軍は琉球政府の頭越しに銀行の融資を禁じ、援助計画を中止。布令によって瀬長を追放し、選挙権も剥奪した。一方で米軍は、基地行政に協力的な自治体に補助金を重点的に注ぐなど直接、間接に影響力を行使した。

 また、本土復帰間もないころの沖縄を知る元那覇防衛施設局職員は「沖縄では軍人は住民を守らないというイメージが強く、施設局職員は『隠れ自衛隊員』と嫌悪された。施設局の補助事業は首長ですら『宣撫工作の資金なんて死んでも受けとらない』という人もいた」と振り返る。

 岡本行夫らによって既存の法律の枠を超えた島懇事業が編み出されたことで、首長たちに基地絡みの振興策を受け取る「権利意識」が定着し、保革を問わず、それを県内世論に公然と発する風土も醸成された。自治体間競争の激化で、「実利」を重んじる風潮が日本全体を覆いつつある時期でもあった。

 島懇事業はまた、初代沖縄開発庁長官の山中貞則衆院議員という特定の「沖縄担当」政治家の力にすがり、同議員への陳情によって成立していた従来の沖縄振興の構造を質的に転換した。

 官邸直轄の島懇事業は「政府側の都合」で開始された国策であり、背景には「基地の安定維持」という明確な政策意図があった。

 沖縄側はこれに気付きながらも、基地負担の見返りとして振興策を受け入れることをタブー視しない方向へとシフトした。これにより、「ひもつき」の振興策が基地政策に有効に作用するとの教訓を政府側に与え、アメとムチ政策へと発展させる契機となった。

 それは露骨さこそ影を潜めたものの、根本は復帰前の米軍政と変わらない手法だった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](25)第1部 免罪符
「閉塞」不満 はけ口に

 1996年11月の島田懇談会提言は「現在の米軍基地を固定的に考えず、基地の返還後の姿も念頭に置いて計画をつくる」「基地従業員の雇用不安解消の措置を講ずる」ことを明記した。

 これらは連合沖縄会長渡久地政弘が委員就任時にこだわった(1)基地の整理・縮小の推進(2)基地返還後の自立的発展も見据えた振興策(3)基地従業員の雇用確保―に配意したものだった。

 8月26日夕の首相官邸での懇談会初会合で、内閣官房長官梶山静六は政府として沖縄米軍基地の「整理・統合・縮小」に取り組む姿勢を示していたが、懇談会提言では「統合」の文字が消え、「整理・縮小」に修正された。統合は普天間飛行場の「県内移設」容認のニュアンスとも受けとれるため、渡久地が座長島田晴雄や主要メンバーの岡本行夫らと掛け合い、もぎとった成果だという。

 しかし、提言から10余年が経過した今、渡久地は島田懇談会について複雑な胸の内を明かす。

 「基地問題と振興策をリンクさせるという考えは当時、まったくなかった。県政が代わったこともあるが、特に小泉政権誕生以降、ややもすると基地と振興策をリンクさせるような動きがあからさまに出てきた。政府の意思を押し付けるような動きが島懇事業の続いている時期と重なったため、その流れに巻き込まれてしまったのかなあという気持ちと、一緒にされかねないという心配もしている」

 米軍再編以降、普天間移設と北部振興策のリンクを明確化し、代替施設建設の進ちょく状況に合わせた「出来高払い」となる交付金制度を打ち出してきた政府の「豹変ぶり」に対する戸惑いと、島懇事業が「アメとムチ」の基地政策の源流とされることへの強い危惧が渡久地にはある。

 が、実際には、SACO(日米特別行動委員会)によっても基地の整理・縮小が図られない嘉手納町のような自治体にとっては「基地を抱える今」の閉塞状況の緩和が最優先課題だった。島懇事業が予算を重点配分したのも、過重負担が今後も続く見通しの自治体であったことを踏まえれば、「基地返還後も見据えた振興策」という懇談会提言はうたい文句にすぎず、むしろ「基地との駆け引き」という警戒感や後ろめたさを県民からぬぐい去る免罪符の役割を果たしたのではないか。

 また、運動論として基地の整理・縮小を唱えてきた渡久地や、県内世論に影響力をもつ地元紙の社長をメンバーに加え、議論を重ねた懇談会の協議過程そのものが、県民各層を納得させるだけの「体裁」を整えるのに大きく寄与したことも指摘できる。この点からも、基地問題へのスタンスを超えて地元の経済、教育、マスコミ、労働界のリーダーをメンバーに取り込んだ岡本行夫らの企図は功を奏したといえる。

 委員の一人、稲嶺恵一は岡本らの機略の神髄を見抜き、こう指摘している。「これじゃあ当時の革新県政も文句を言えない(地元)メンバーを、きっちりそろえたんですね」(08年7月の嘉手納町の島懇事業完成式典祝賀会のあいさつより)。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](26) 第1部 本土世論
沖縄への共感冷める

 島田懇談会が発足した時期は、1995年に起きた米兵事件とその後の政府対応のまずさ、知事の代理署名拒否、超党派の県民大会、普天間飛行場の県内移設などに伴う県民各層の反発に加え、こうした一連の沖縄の動きに対する全国世論の共感が、政府に強いストレスを与えていた。日米安保の根幹をなす既存の在沖米軍基地すら維持できないという政府の危機感の発露として生まれた振興策の一つが、島懇事業だったと位置付けられる。

 しかし今、沖縄や日本全体を取り巻く状況は大きく変容している。

 元那覇防衛施設局長嶋口武彦は「当時、梶山(静六)官房長官が『(沖縄振興は)日の高いうちにやりなさい』ってよく言っていた。橋本、小渕首相は沖縄に対してすごい思い入れがあったが、小泉(純一郎)さんにはそれが驚くほどなかった。沖縄を見ていて思うけど、タイミングを逸しちゃったなって」としみじみ語る。

 経済成長率の鈍化や少子高齢化社会の進展で政府の財政難は深刻さを増し、島懇事業や北部振興策のようなばらまき的な大盤振る舞いをするゆとりがなくなっている。これに符合するように、米軍再編交付金は「出来高払い」で全国一律となり、税制面などの沖縄への優遇措置も消える傾向にある。政治家や官僚の間には沖縄を「特別扱いしない」という冷めた見方も定着しつつある。

 島懇事業を立ち上げた橋本政権、沖縄サミットを決定した小渕政権当時の中央政治家の心の内には、沖縄に対する戦中戦後の「贖罪の精神」が息づいていたことも確かだろう。だが、世代交代が進み、政治家や官僚の認識も変化している。それに伴い、顔を出してきたのは振興策をエサとして基地行政への協力を促す「アメとムチ」の政策だ。再編交付金は自治体の基地負担に対する補償や報いという側面よりも、合理性を最優先に安保政策を受け入れさせる装置としての役割に主眼が置かれている。

 政府の基地政策は、沖縄側の意識の変化や全国世論の受け止めとも連動している。沖縄側には、「基地と経済振興」を表立って取引することを是認する風潮が芽生えると同時に、基地関連収入が途絶えることへの恐れも植え付けられた。96年以降の島懇事業をはじめとする沖縄への巨額な振興投資は自治体の基地依存を強めた、という意味で政府は一定の「成果」を収めたといえるだろう。

 一方、他県はそうした沖縄の状況を冷めた目で見ている。全国世論の変化の兆しを知る上で、2004年8月の沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故を受け、沖縄タイムスが実施した全国知事アンケートに対する高知県知事橋本大二郎の回答は示唆に富んでいる。

 「沖縄は(基地)負担を過剰に背負っていると思う。だが、別の意味で厳しい経済環境にある自治体から見ると、その負担の分、さまざまな優遇を受け入れられていることをうらやましく感じる思いがないとはいえない」。率直な思いを吐露したこの見解は、沖縄の「基地被害」に寄せられた、かつての全国世論の素朴な共感は影を潜め、色眼鏡で見る風潮が広まりつつある現実を投影していた。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)=第1部終了。あすから第2部


http://www.okinawatimes.co.jp/search.html?pg=1&kwd=%E5%9B%BD%E7%AD%96%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%81%A1%E3%81%8A%E3%81%93%E3%81%97

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](27) 第2部 予算内示
SACO実施で増減

 島田懇談会の提言発表から4日後の1996年11月23日。内閣官房長官梶山静六が嘉手納町の視察に訪れた。

 「町役場に入る前に現地が見たい」とリクエストした梶山に宮城篤実が同行し、新町・ロータリー地区を案内した。宮城は「(梶山は)基地被害ではなく、人々の暮らしぶりを見たがった。どこが一番汚いか、そこを案内しようと思った」と振り返る。

 魚屋、花屋、雑貨店などが軒を連ねる新町市場は、細く入り組んだ路地にあり、多くはお年寄りが店番をしていた。「どぶの匂いがし、ぎっしりと民家や商店が詰まっているところ」を宮城はあえて選んで梶山を導いた。

 現職官房長官である梶山の異例の視察先に神経をとがらせたのは、県警の警備だった。最大のネックはトイレだった。梶山が急に用を足したいと言ったときは、ロータリー地区にある宮城の自宅のトイレを提供することで収まった。ただし、宮城の自宅は平屋建ての14坪。トイレは屋外に設置した和式しかなかった。梶山が和式トイレを嫌ったときは、洋式のある役場まで我慢してもらうことになった。

 「(梶山は)黙々と町を見ていた。こちらは見てもらうだけで十分という感じ。基地問題を訴えているわけではない。町の空気を伝えたかった。基地は国にとって一番重要な施設だが、しかしそのような施設を運営する背景には、こういう自治体があるということを見てもらうのが大事だと思った」

 宮城は悲願の再開発に向け、着々と地歩を固めつつあった。

 97年7月。島田懇談会の事務局を務める内閣内政審議室の職員が各市町村と県を回り、総事業費1000億円の配分予定額を首長らに非公式に個別内示した。

 内部資料によると、島懇事業の「市町村別配分予定額」の算定方式は、各自治体共通の基準額(50億円)を設定し、それに「配分調整」として複数の係数を掛け合わせ、配分額をはじき出す方式がとられた。

 係数は(1)基地占有率(2)SACO(日米特別行動委員会)(3)航空機騒音や砲撃音など恒常的な基地被害―の3要素を加味。SACOについては「新たに土地を提供する市町村」や「新たな機能を受け入れる市町村」に増額する一方、土地が返還される市町村は規模に応じて減額するよう係数を設定している。

 SACO合意は96年12月。当時はまだ未実施の段階だったが、同合意による基地の整理・縮小も見据え、今後予期しうる情勢の変化に応じた基地負担に見合う予算配分を立案していた。このため、SACO合意に基づく普天間飛行場返還を前提とした宜野湾市への配分は10億円程度にとどまった。

 一方、普天間代替施設の受け入れ先に浮上していた名護市について、内政審議室は県への説明で「基地受け入れによる算定を配慮しており、受け入れがなくなった場合は減額もあり得る」方針を内々に示した。

 島懇事業の予算をめぐっても、名護市に対してはすでに「アメとムチ」政策の片りんがうかがえる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](28)第2部 さじ加減
配分額算定に「裏技」

 1997年7月の島懇事業の対象市町村への予算内示で、内閣内政審議室は嘉手納町に総額の4分の1近い「200億~220億円」(予備費を除く)を伝達、メーン事業としての位置付けが明確になった。次いで多いのは金武町の「100億円程度」、3番目が名護市の「80億~90億円」だった。

 内部資料によると、当時の内政審議室が97、98年度中に実施可能と判断していた島懇事業は、対象25市町村のうち嘉手納町など11市町村。予算を伝達したのは17市町村に及んだ。

 プロジェクトが固まる前に配分額が内示されたことで、「特需」に沸く地元建設業界の期待も背負う市町村にとっては「使い切る」ことが必須の課題となった。このため、島懇事業の目的である「将来に向けての積極的な自立策」とは相いれない「目先の利益」に奔走させられる側面も生じた。「予算ありき」のいびつな公共事業は、税金の使い方としても不合理とならざるを得ない要素をはらんでいた。

 ただ、町の5年分の予算総額に匹敵するとてつもない額の内示を受けた嘉手納町は比較的冷静に受け止めていた。このころ、宮城篤実と岡本行夫の信頼関係はより強固に結ばれ、「総額の4分の1=250億円」という数字も、宮城の頭には内示前にインプットされていた。岡本は98年5月には、宮城の肝いりで創設された「町友」制度の第1号に選ばれている。

 嘉手納タウンセンター事業について宮城は「最初、私の頭の中にあったのは新町の再開発事業だった。ロータリーも含めて再開発できるなんて夢にも思わなかった」と打ち明ける。

 96年6月に岡本と初めて会食した際、宮城が新町地区の再開発に必要な経費としてほとんど闇雲に挙げたのが100億円。その2倍超の予算確保が実現し、新町・ロータリー地区を一体とする再開発が一段と現実味を帯びた。「岡本さんと何度も会って話を聞きながら(規模を)膨らませていった。岡本さんは新町の再開発だけでは規模が小さいとも言っていた。その助言に基づいてロータリーも足した」

 岡本はこうした経緯を否定せず、予算に関しては「だいたい総額が1000億円ということで、あとは機械的な計算でね。町面積の83%を基地が占める嘉手納町に二百数十億円、ああそうかと思いましたね。これなら宮城さん、喜んでくれるだろうと思いましたけどね」とあくまで自然の成り行きのように語るが、決してそうではない。

 岡本が言う「機械的な計算」は、算定の前提として「閉塞感」という物差しを導入したことによる。嘉手納町に断トツの予算をもたらす仕組みは、「基地占有率」を係数に用いることや、基地被害の具体的要素として「航空機騒音」を算定基準に採用するなど細かな裏技によって初めて成立する。個々の係数値をいくらに設定するかによっても配分額は大きく変容する。

 これは基地負担の代償の見積もりが政府のさじ加減ひとつにかかっている証左でもある。その恣意性を象徴するかのように、嘉手納町の基地負担について自治省は同時期、島田懇談会とは対照的な算定結果をはじき出していた。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](29)第2部 傾斜配分
新算定で取り分低く

 1997年7月28日。宮城篤実は町長室に地元紙の記者を呼び、従来の基地行政の基本方針である「段階的整理・縮小」から、今後は「全面返還」要求へと転換する、と表明した。

 当面の取り組みとして、嘉手納基地内の海軍駐機場一帯の約1・5平方キロメートルの即時返還を求めることを明言。これまで日米安保容認の立場から基地行政を取り仕切ってきた宮城が全面返還を打ち出すのは初めてで、宮城の「反逆」を地元紙は大きく報じた。

 方針転換の引き金となったのは、政府が打ち出した普通交付税からの基地関連経費の傾斜配分の算定方法だった。宮城は「算定方法が被害の実態を反映していない」と批判。「このような国の基地政策の考え方では、嘉手納町の将来は見えてこない。町が生き延びるためにはどうすればいいかを考えた」と理由を説明した。

 基地関連経費の傾斜配分による新たな交付金は、そもそも宮城が96年9月の島田懇談会への最初の要請事項に「基地の実態に見合う交付金の新設」を盛り込んだのがきっかけだった。

 「例えば箱ものをつくっても、この町では運営する手段がない。私たちが自立できるまでは特別な交付金をつくっていただいて、町が基本的に動きだすまでは、政府で面倒を見てほしいということで交付金の新設を求めた」(宮城)。

 これを受け、内閣官房長官梶山静六が普通交付税からの基地関連経費の傾斜配分を提唱。首相特別補佐官に就任した岡本行夫が自治省と調整し、新たな交付金の実現にこぎ着けた。

 政府は97年度から基地を抱える全国の自治体に対し、普通交付税から総額150億円を傾斜配分することを決定。過剰な米軍基地を抱える沖縄県と県内自治体には半額の75億円の配分を決め、宮城が基地政策で全面返還要求へと舵をきった翌29日に閣議決定を控えていた。

 宮城は岡本を通じ、7月4日の時点で「全国で150億円」「沖縄に75億円」が毎年交付される、との経過報告を受けていた。

 宮城は島田懇談会の総事業費の4分の1近くを嘉手納町が確保したことを念頭に、「それに見合うもの」を傾斜配分でも期待していた。官邸での面談で梶山も「しきりにうなずいていた」ことや、「私の話だけでなく岡本さんからも情報が入っているだろう」との憶測から、「脈はある」と踏んでいた。

 1週間後の11日。岡本から町長室に電話が入る。市町村別の配分額を知らされた宮城は、嘉手納町の取り分の少なさに絶句した。

 傾斜配分の額は、各自治体に住む軍人・軍属とその家族らの人数と、米軍・自衛隊施設の面積を基に算定していた。滑走路を抱える嘉手納町域の居住者数は3457人、施設面積は12・46平方キロメートル。町の配分額は県内7位の約3億900万円、関係全市町村に占める構成比率は6・1%にとどまった。

 政府は「沖縄に傾斜配分できるよう工夫した」(政府関係者)と成果をアピールしたが、宮城には仕打ちと映った。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](30)第2部 全面返還要求
政治責任の覚悟決意

 基地関連の傾斜配分による新たな交付金で、宮城篤実の前に立ちはだかったのは自治省だった。

 「県に25億円、市町村に50億円。ところが、市町村配分になった途端、自治省の細かい基準が入った。確かに自治省の算定基準に間違いはない。だが、普通交付税の基地関連経費は政治判断で創設されたのに、市町村配分では事務的になった」と宮城には映った。自治省への不満が募った。

 自治省がネックと知った宮城は、配分額が固まる前に自治省財政局長の二橋正弘(小泉内閣、福田内閣で内閣官房副長官)と掛け合った。

 「霞ヶ関で鉛筆を転がして算定額を決めてもらっては困る」と基地被害の実情を訴える宮城に、二橋は「基地被害なら防衛に言ってくれ。(傾斜配分の問題を)自治省が引き取った以上、自治省の基準でやるしかないんだ」と繰り返したという。さすがの宮城も、二橋の自治官僚としての自負の強さには勝てなかった。

 1997年7月11日に岡本行夫から基地関連経費の傾斜配分の受け取り額を知らされたときの思いを、宮城は手帳にこう記録している。

 「自治省の交付金配分の基準は、国民の税金であり、公平を期するため、それから基地提供面積、米国軍人の居住者数、地域の人口、慣例、国会対策ということを自治省から示された。(自治省の)二橋正弘財政局長は(嘉手納町の配分額の大幅増加は)国会審議に耐えられないと言っていた。嘉手納町の首長としては基地被害の実態、閉塞感の打破、平和と安全を担う公平な負担を求める。この状態は受け入れられない。(嘉手納基地などの)段階的整理・縮小から全面返還要求に切り替えようと思う。タウンセンター事業計画、防衛施設局移転への影響、軍用地主の反響、一波乱ありそうな気配だ。政治責任をとる決意」

 宮城自身、「かなりの興奮状態でつづった」と振り返るが、結局、約2週間後には「政治責任をとる決意」を固め、7月28日の「全面返還要求」の記者発表へと歩を進める。

 「全面返還要求への転換で島懇事業まで駄目になったら町民に申し訳ない。しかし、この傾斜配分をそのままイエスとのんでしまったら、町民から、次の若い世代から、一人だけ空回りした男がいたよと言われる」と宮城は苦悩を深めていた。

 これまでの行政経験で基地関係の交付金や補助制度は地元からの強い陳情や要請があれば、政府の「さじ加減」によって、ある程度の幅をもって運用されている実情を肌で知る宮城には、スタート時点で黙認すればのちのちまで不利な査定を受け続ける、との判断もあった。

 まして新たな交付金は島田懇談会での宮城の要請をきっかけに、官邸主導で創設された極めて政治色の強い制度だ。原点が島田懇談会である以上、「沖縄への配慮」とりわけ、嘉手納町をはじめとする基地負担の重い県内自治体の不満解消が図られなければ政策意図に反する、という矛盾も宮城は見通していた。

 そこまで展望した上でなお、宮城の中では「全面返還要求」を打ち出すことと、自身の「政治責任」を賭けるのはセットだった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](31)第2部 基地カード
国との関係悪化 想定

 基地関連経費の傾斜配分による新たな交付金で、宮城篤実は自身の立場や政府との関係悪化のリスクを度外視してまで算定方式に異議を申し立てた。宮城の「決死の覚悟」は役場内の事前調整にも現れていた。

 宮城は「自分の後継に助役か収入役が町長選に立候補するかもしれない。とにかく巻き添えで二人をつぶしてはいかん」との思いから、全面返還要求方針を事前に伝えたのは企画総務部長塩川勇吉ただ一人だった。

 「施設局移転も不透明な状況で、国と万が一のことがあったら、(町長を)きっぱり辞めるということでこの問題にけりをつけようと考えた。あとで政府との間でトラブルが発生しても、私が(町長を)辞めれば島懇事業自体は進んでいくのではないか。町の人は期待し始めているから、これまでつぶしたら何をやったか分からない」と思い詰めていた。

 「基地問題は基地問題、振興策は振興策」という原則はあくまで建前であり、政治の現場では通用しないことは宮城自身、誰よりも強く自覚していた。とはいえ、宮城は日米安保を否定したわけでも、期限付きで嘉手納基地の全面撤去を求めたわけでもない。提供区域の契約拒否などに踏み込むこともなく、政府の実務面の基地行政には影響を及ぼさない範囲内での「希望表明」を行ったにすぎない。嘉手納基地の全面返還に向けた第1弾として打ち出した同基地内の海軍駐機場一帯の約1・5平方キロメートルの返還要求も、町の土地利用基本計画でかねて民間転用を求めていたエリアだった。

 それでも、島懇事業への影響を恐れる宮城には、町長のポストを賭すほどの覚悟が必要だった。政府との折衝で「基地カード」はそれぐらいデリケートな政治バランスを包含していた。

 宮城は1997年8月7日、防衛施設庁に長官萩次郎を訪ね、嘉手納基地の海軍駐機場部分の早期返還を要請した。

 宮城は「これまで交付金の新設を要請し、今回、政治判断で実現した。嘉手納町は町域の83%を基地にとられているが、そのことが算定に反映されていない。戦闘機の離着陸回数や騒音被害なども考慮されていない。このような事務的処理で町民は納得できない。不公平だ」と抗議。基地撤去を求める立場を鮮明にし、「自立の道を歩みたい」と強い口調で真意を伝えた。

 宮城はこの席で、「那覇防衛施設局の嘉手納町への移転」も要請項目に盛り込んだ。

 しかし、移転に向けた政府との具体的な議論はいっさい進展していない状況で国との関係を悪化させれば、もともと移転に前向きとは思われない防衛庁や防衛施設庁側に白紙化の口実を与えかねない、という最悪のシナリオも宮城は想定していた。

 防衛施設庁長官萩への要請後、宮城は記者団に「梶山官房長官らに迷惑を掛け申し訳ないが、私自身が追い込まれてしまった」と漏らす。混乱した心中を覆い隠す余裕もなかった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](32)第2部 嘉手納外語塾
交付金の意義を強調

 基地関連経費の傾斜配分による新たな交付金をめぐる政府への要請行動で、宮城篤実は明確な落としどころや引き際をあらかじめ計算していたわけではなかった。引っ込みが付かなくなった宮城に手を差し伸べたのは、内閣官房長官梶山静六だった。

 1997年8月7日の防衛施設庁への要請から数日後、梶山から町長室に電話が入る。梶山は「あなたも選挙で選ばれた政治家だから、いったん全面返還と言ったものを取り下げられないだろう。だが、俺の政治的な立場もあるんだ。理解してくれよ。配分額は直させる。自治省にげたを預けたのが悪かった。申し訳ない」と自ら胸襟を開き、宮城に矛を収めるよう促した。

 宮城は「いくらなんでも官邸にたてつくわけにはいかない」と内心で恐れ入り、「(交付金を)受け取らせていただきます」と即答した。政府にとっても、宮城は「話が通じる交渉相手」であり、「貴重なパイプ役」だった。

 電話から間もなく、梶山が沖縄に別用務で来県した際、宮城は詫びを入れるつもりで那覇空港まで迎えに出向いた。梶山は空港から那覇市内のホテルまで宮城に同行を求めた。入室するや、梶山は「悪いが、みんな席を外してくれ」と取り巻きの政府高官を払った。その上で、梶山はあらためて宮城に向かい、「あれは私の不覚だった」と嘉手納町の傾斜配分額が低かったことを直接陳謝した。

 「配分額は直させる」と言った梶山の約束は果たされた。同町への配分額は翌年度には1・5倍の約4億6000万円に増額、2007年度以降は5億円を超えている。基地の占有面積が考慮された結果との見方もあるが、算定方式の変更以外にも、政府の交付金額が変動するカラクリは存在する。

 防衛省関係者は防衛施設周辺整備法に基づく補助金を例に、「規定の算定式に基づいてはじき出された総額は通常、実際の配分額をかなり超過しており、配分段階では圧縮して交付する。このため算定方式を変えなくても、圧縮分を抑えれば増額できる」と自在に増減できる仕組みを明かす。

 傾斜配分の交付開始を受け、宮城は1998年5月、町予算で町立嘉手納外語塾を開塾した。塾生は町在住の高校新卒者が対象で、入学金や授業料は無料。2年制で実践的な英会話を中心に習得するカリキュラムを盛り込んだ。ここで注目されるのは、外語塾をスタートした際、宮城が傾斜配分による交付金の活用を内外に強調している点だ。交付金収入はいったん町の一般会計に組み込まれ、ほかの歳入と混合される。一般会計の特定の歳入項目がどの事業に活用されたのかを、行政側が説明するのは異例だ。

 それでも、宮城はあえて外語塾の運営費の財源と傾斜配分による歳入を結び付けた。使途を明確化することで、傾斜配分が目に見えるかたちで住民サービス向上につながっていることを町民だけでなく政府にもアピールし、交付の意義を印象付ける狙いがうかがえる。宮城のこの手法は、沖縄防衛局移転に伴うテナント収入の使途をめぐっても踏襲される。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](33)第2部 態度保留
再開発の行方を懸念

 1997年4月28日。宮城篤実は那覇防衛施設局に局長嶋口武彦を訪ね、嘉手納町への施設局誘致の要請文を手渡した。文書には、基地を抱える中北部の18市町村すべての首長の賛同署名と押印が添えられた。

 要請を受けた嶋口は「ありがたい話。消極的でも否定的でもなく、真剣に検討したい。ただ、職員の通勤や財政上の問題もあり、直ちに結論は出せない。嘉手納町の町振興への努力は高く評価しているので、その文脈の中で検討する」と如才なく応じた。

 要請後、宮城は「前向きな姿勢を感じた」と評価した。が、嶋口の本心は別のところにあった。

 「今だから言うと、部内にそういう(嘉手納町への移転)話をしたら、ものすごい反発があった。要するに、那覇近辺の人が多いから(嘉手納町は)遠い、通勤が大変だからやめてくれと、ほとんどの人が言っていた。私は(移転を)やらざるを得ないとは思ったが、局員の発言も無視するわけにはいかなかった」

 こう打ち明ける嶋口は、宮城と内閣官房長官梶山静六のパイプの強さも承知していた。嶋口は職員がどれだけ反発しようと、政治力学を考慮すれば移転は止めようがないと踏んでいた。ただ、町による再開発事業の成り行きには懐疑的だった。

 「宮城さんは、町の再開発をしたいから一緒に来てほしいという話だった。私は『宮城さん、再開発は難しいんじゃないの』と言った。地権者がものすごく入り組んでいるという話を聞いているから、再開発はできないと思ったんだ」

 新町地区について、嶋口は「土地に『傷』がある」との見方をしていた。「不法占拠みたいなものや境界不明確地もある。俺はそれを処理するのは無理だろうと思った。ちゃんと調べている。軍用地でなくても、うち(施設局)はそういうのお得意だから」(町によると、借地契約の書類が残っていないケースはあったが、再開発区域内に境界不明確地はなかった)。無論、嶋口が当時、こうした認識を宮城に直言することはなかった。

 「まあいいですよ。しかし、再開発(の成り行き)を見ましょうという思いで態度を保留した。本心を言うと、宮城さんの話だから断ることはできない。が、どうせ再開発は難しいだろうから、それを待って判断すればいいじゃないかと」

 那覇防衛施設局は当時、那覇市おもろまちに建設が計画されていた国の地方合同庁舎ビルに、沖縄総合事務局(同市前島から08年3月に移転)などとともに移転、入居することも検討していた。

 「しかし、それははっきりと断った。理由は嘉手納(町への移転の可能性)が残っているから。そこで何十億円使ったら嘉手納へ行けなくなる。ただ、私は(嘉手納町へ)行けるかどうか決めきれなかった」。嶋口は再開発事業の成否を見極めるため、嘉手納町への移転に対しては態度を保留する一方、合同庁舎への入居にもゴーサインを出さなかったという。

 施設局は98年12月、計画中の合同庁舎ビルには入居しない方針を沖縄総合事務局へ正式に伝えた。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](34) 第2部 職員アンケート
「遠隔地通勤」に抵抗

 那覇防衛施設局の嘉手納移転を留保した経緯について、当時の局長嶋口武彦は「すべて私の判断」と言い切る。

 「あのころ、(嶋口)局長にしては珍しく判断を示さなかったって、周囲から言われた。私は何でもぱっぱっぱってやるでしょ。しかし、嘉手納移転だけは何回言われても分かんねえなって。それはそうだよ、俺はあいまいな作戦でやってたんだから。再開発は不可能に近いと思ったよ」

 嶋口は本音でずばり核心を口にするタイプだ。宮城篤実は嶋口を「沖縄県の市町村長は彼(嶋口)が施設局長に就任したとき、この男、失敗するぞ、舌禍事件を起こすぞと思った。なぜなら、あまりにもあからさまにぽんぽんものを言うから。しかし、きれいごとを言わず、逆に響く面もある。自分たちも感じていることをずばっと言う」と評する。

 宮城は早稲田大で嶋口の先輩に当たる。宮城は施設局移転でも「彼(嶋口)は熱心に支持してくれた。本物だと思った。私は移転推進派と信じ込んでいた…」と嶋口の援護射撃を信じて疑わなかった。

 が、再開発事業への疑心から移転を留保したという嶋口の真相告白に、宮城は開いた口がふさがらないといった表情を浮かべた。

 それほど宮城は再開発と施設局移転の実現に粉骨砕身させられた。

 嶋口は1998年6月に那覇局長を離任する。「後任の北原は馬鹿まじめなんだよね。嘉手納町へ行くのはいい。ただ一部だけだと。主要部門は全部那覇に残すと。俺は馬鹿なこと言うな、中途半端だと反対したんだ」

 北原巌男の局長在任時、施設局内で数回にわたって嘉手納移転に関する職員アンケートが実施された。結果は約7割が移転に反対。局幹部は、その結果を宮城のところへわざわざ報告にやって来た。

 アンケートの目的は、嘉手納町への移転阻止がみえみえだった。地元職員の大半は、将来も職場が那覇にあることを前提に那覇近郊で自宅を確保していた。施設庁本庁の態度が煮え切らない中で、北原らは、那覇からバスや車で約1時間を要する「遠隔地通勤」に抗する地元職員の声を無視できなくなっていた。

 当時の職場の空気について、ある職員は「県庁所在地から出て行くなんて有り得ないでしょというのが常識だった」と明かす。

 防衛施設庁の地方機関のうち、県庁所在地以外に局を配置しているのは例外的だった。同庁関係者は「組織防衛の論理として、沖縄に限らず全国の施設局を県庁所在地に配置する理由については、他の国の機関との連絡調整、出入り業者の交通の利便性を踏まえて、と対外的に説明してきた。この点からも嘉手納への移転は異質」と指摘する。

 町長室までアンケートの報告に来た局幹部を宮城は一喝する。

 「施設局次長が来て、『アンケートの結果では厳しいものがあります』と言うから、私は何てことされるんですかと怒った。国の機関の移転に職員の希望や意向を聞くなんておかしいではないですかと」。宮城も必死だった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](35) 第2部 潮目の変化
知事反対で関係冷却

 那覇防衛施設局が嘉手納町移転に関する職員アンケートの結果を宮城篤実に報告した後の顛末について、嶋口武彦の解釈はこうだ。

 「宮城さん怒ったんだよ。怒って梶山さんのところへ飛び込んだんだよ。そうしたら梶山さんが一言『(嘉手納町へ)行けー』と(笑い)。これが決定打。宮城さんは政治力あるし、梶山さんに上がったら、(嘉手納町へ)行けって言われるに決まってる。再開発のことも全然頭になくてアンケートとるなんて馬鹿げている。アンケートぐらいで移転場所を決められるもんじゃないんだよ」

 ところが、宮城の「政治力」の有力な後ろ盾である梶山静六は、1997年9月の橋本内閣改造に伴い、官房長官を退任。98年7月の自民党総裁選で小渕恵三に敗れた後は次第に「武闘派」のイメージも薄れ、政府中枢から距離を置くようになる。

 一方、「非常勤、無報酬」を条件に首相補佐官を引き受けた岡本行夫も、97年9月の内閣改造の際、退任を申し出た。このときは梶山が慰留したが結局、98年3月で首相補佐官を退く。

 沖縄の基地問題は「普天間移設問題」に集約されようとしていた。岡本自身、「(政府は自分に)これをさせたかったのかな」と振り返るように、96年11月の首相補佐官就任後、政府の最重要課題に浮上した普天間移設問題への対応にシフトを余儀なくされていた。大田県政が普天間飛行場の県内移設に難色を示す中、島田懇談会を入り口に基地所在市町村との信頼関係を築いていた岡本の起用は、移設候補先の名護市の「てこ入れ」を図りたい国の戦略に合致していた。国が安保政策を進める上で県を飛び越え、自治体と直接交渉するレールを敷いたという意味でも岡本の果たした役割は大きかった。

 普天間移設問題で政府と名護市が水面下の交流を深める一方、政府と沖縄県の関係は急速に冷却していた。政府から沖縄への風向きが変わった大きな要因としては、98年1月の名護市長選投票日の2日前、知事大田昌秀が普天間代替施設の海上基地建設反対を正式表明したことが挙げられる。

 これを機に、政府はあからさまに県との接触を断ち、「県政不況」と呼ばれる状況を演出した。同年11月の知事選で島田懇談会副座長の稲嶺恵一が「閉塞感の打破」を掲げて立候補し、大田を破って知事に当選するまで、この「逆風」は収まらなかった。

 「沖縄熱」が冷めつつある政府内には、もともと嘉手納町への移転に後ろ向きな那覇防衛施設局のスタンスとも相まって、施設局移転を積極的に推進するポテンシャルが生まれにくい状況にあった。こうした事情も作用し、政治的要素の濃い施設局移転は置き去りにされるかたちとなる。宮城にとっては潮目の変化を痛感させられる時期だった。

 ただ、見方を変えれば、国と県のパイプが外れた時期こそ、島懇事業が存在感を発揮し、政府の沖縄政策をフォローする「潤滑油」として地元を揺さぶる好機ととらえることもできた。のちに政府が施設局移転を正式発表するタイミングが、それを如実に示すことになる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](36)第2部 素人集団
ビル規模確定へ曲折

 1997年6月17日。基地を抱える市町村の振興策を提言し、同年3月に解散した島田懇談会をフォローアップするため、政府は有識者懇談会を発足、那覇市内のホテルで第1回会合を開いた。

 座長に島田晴雄、副座長に稲嶺恵一を選出し、有識者懇談会の下に稲嶺をキャップとする作業部会を設置。プロジェクト実現に向け、具体的なアドバイスを行い、市町村とともに作業を進めることになった。

 あいさつに立ったメンバーの岡本行夫は有識者懇談会を家屋建築に例え、「島田懇談会が家を建てる材料をそろえたとすると、今度はそれをどのように組み立て、どのような部屋をつくるかを審議していただきたい」と強調。「基地と隣り合わせで暮らしていかなければならない閉塞感の打破に大きな期待が寄せられている。若い人に夢を与えるプロジェクトが具体的につくり出されることを熱望する」と述べた。

 嘉手納町施工の「嘉手納タウンセンター開発事業」は97年度にスタートしていた。しかし、町に好意的な岡本の目にも、「素人集団」である町に二百数十億円規模の再開発事業を託すのは危ういと映っていた。岡本は、ゼネコンの旧知の社長に無償支援を依頼する。岡本は支援を要請する立場だったが、支援にあたって条件を付した。

 「大きなプロジェクトがあるんだけども、申し訳ないが、無報酬で人をだしてくれませんかと依頼した。ただし、お宅の会社では仕事を引き受けないでくれと」。無償で相談に応じても、その後の受注にかかわれば利益誘導ととられかねない。「とにかく純粋に沖縄を助けてくれと言ったら、そこの社長さんがね、分かったと言って都市計画の専門家を1人だしてくれた。それでその人が嘉手納町にしばらくの間、泊まり込んでね、宮城さんの知恵袋になった」

 再開発事業の核となるビルは町役場の倍のスケールだった。現在の地上6階、地下1階のビル2棟に落ち着くまでは曲折を重ねた。岡本の紹介で宮城の「知恵袋」になった人物の意見も取り入れ、当初、町が作成した図面には20階建て規模の高層ビルの絵が描かれていた。

 この高層ビルは有識者会合でも「こんな大きな建物をつくって、どうやってランニングコストを負担するつもりだ」と失笑の憂き目に遭った。97年4月に開いた地権者らへの初の説明会でもさんざんだった。

 高層ビルの予想図を見た高齢の女性が手を挙げ、「町長、あなたは歳いくつになるか。あなたもこれから老人よね。だったら分かると思うが、こんなビルにわれわれ老人を押し込めて、毎日降りたり昇ったりしろというのか」とあきれ返った様子で酷評した。

 宮城は「20階建てと決めたわけではない」と答えるのがやっとだった。

 町にとって未曾有の事業は、スタート時点から暗雲が立ちこめていた。土地の高度利用と高付加価値化という通常の再開発の方向性と合致しない、嘉手納町の特殊事情が次第に浮かび上がる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](37) 第2部 特別セッション
町構想に厳しい注文

 1998年7月9日。作業部会の特別セッションが嘉手納町の軍用地主会館で開かれた。委員の主眼は「嘉手納町の事業をどうするか」に置かれていた。委員らは島懇事業のメーンである嘉手納町の事業進ちょくの遅れを危惧していた。

 同セッションには約4時間が費やされたことからも、委員の熱の入れようがうかがえる。以下、事務方作成の議事録より。

 冒頭、部会長の稲嶺恵一は「有識者懇談会が考えているものは、将来の沖縄を見据えたかたちの産業振興、人材育成、雇用拡大など次世代に夢をもたせるものだが、各市町村からの当初の提案はわれわれが目指すものと大幅な食い違いがあった」と率直な思いを吐露。嘉手納町の事業に関しては「マルチメディアに関連する産業プロジェクトが出てきており、大変喜んでいるが、具体的に詰める段階では問題点が多々生じると思う。それらを解消したい」と積極的な議論を呼び掛けた。

 委員一人一人の意見を促され、まず座長の島田晴雄が発言した。「基地所在市町村の重圧を軽減するため、前代未聞の企てを行おうとしている。その最大かつ重要な拠点がまさに嘉手納。嘉手納がこのプロジェクトを見事にやり通すことができれば日本の歴史が変わるだろう」と力説。さらに島田は「これは今までの補助金とは異なり、たった一回のお金。なので、それを生かしてもらいたい。それが基となり、人材が生まれ、技術が育つような、経済的自立を促進するものでなければならない」と言い添えた。

 委員唐津一(東海大教授)も「嘉手納地域に日本一のものを造りたいというのが私の考え。そのためには絵に描いた餅のようなものを造ってはいけない。私は食べられる餅を造るためのアイデアの議論をしたい」とぶった。

 しかし、町がこの日、説明した事業の検討状況は委員の批判の的となる。

 嘉手納町の担当職員は「嘉手納タウンセンター開発構想」「嘉手納マルチメディアタウン構想」の2プロジェクトを説明した。タウンセンターは、那覇防衛施設局誘致を柱とする新町・ロータリー再開発事業、マルチメディアタウンはマルチメディア企業の誘致による町おこしを企図していた。

 町の概要説明を聞き終えた島田は即座に「現段階の町の構想は、まだ絵に描いた餅の段階だ」と切り捨てた。

 マルチメディア企業誘致への取り組みについて島田は「この構想を本当の餅にするには、トップの企業がどこにあって、それを誰に頼んで、どうやって早く予算をだして、それを引っ張ってくるか。そして実績を見せるか。とにかく早く実績づくりにとりかかってほしい」と注文した。

 唐津も同様に「絵に描いた餅」と言い切り、「われわれは有望企業についての情報提供を今までにも行っているし、それらに対して根回しもしている。一番大事なことは即行動を起こすこと。本当の餅にするためのチームをすぐスタートさせてほしい」と迫った。

 町に任せていては立ち往かなくなる、ということに委員たちはようやく気付き始めていた。「官製」の事業としての色彩が濃くなりつつあった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](38) 第2部 幽霊屋敷
箱ものありきに批判

 1998年7月の特別セッションで、町の事業概要説明を聞き終えた委員からは、マルチメディアタウン構想だけでなく、那覇防衛施設局誘致を柱とする新町・ロータリー再開発事業についても厳しい指摘が相次いだ。

 再開発事業に関し、座長島田晴雄は「計画している再開発のプロジェクトが経済的に回ると考えているか」と質問した。これに、町から調査業務を委託されているコンサルタント会社は「正直にいうと、再開発ビルが回るかどうかはまだ分からない。具体的にビルへ入居するテナントなどと折衝しないと具体的な数字をはじきだすことはできない」と苦しい胸の内を明かした。

 この回答に触発されたように委員からは次々に辛辣な言葉が飛ぶ。

 「まず仕事の中身を考えることが大事で建物はその後。それを何度も言っているにもかかわらず、今、町から出てきているのはあまりにも箱ものの色合いが強い」「この施設が幽霊屋敷になるのは目に見えている」「この姿勢だとわれわれは事業を打ち切る」「われわれがいいと思わないプロジェクトに予算は執行しない」

 部会長の稲嶺恵一は最後に「若干こちらの言葉が強い面もあったと思うが、それは逆に愛情の現れと受け取ってもらいたい。有識者懇談会として一番重要なポイントは嘉手納だ。嘉手納にはもっと見えるもの、もっと立派なものをつくりたいから、それだけ若干いらいらしている面もあるし、本気で考えていこうと思っている」と結んだ。

 特別セッション終了後、有識者懇談会メンバーは帰路につくため、バスに乗り込んだ。車内では「嘉手納町は手取り足取り、最初からやっていかなきゃだめだなあ」とあきれ果てた声も聞かれた。同じ日にセッションを開催した沖縄市との行政能力の差が委員には歴然として映った。別の委員は「病人に花を贈るようなものですかね」と漏らした。これを耳にした島田は即座に「薬だ」と訂正したという。

 特別セッションは全面公開で行われた。会場では、町商工会役員や町議を含む約100人が固唾をのんで見守っていた。

 宮城篤実はこの特別セッションを鮮烈に記憶している。「記録にはないが、町の事務方は事前に唐津一委員の指導を受けていた。情報通信関連の事業を集約しようという唐津先生のアドバイスを受け、担当係長が一生懸命に資料をまとめてセッションで発表した。そうしたら真っ先にケチをつけたのが唐津先生だった。自分が作らせておいてよく言うな、と私は思った」

 しかし、特別セッションの間、宮城はほとんど口をはさまず泰然としていた。終了後、傍聴していた町議らに近くの居酒屋に呼び付けられたという。

 議員たちは「町長、情けない。自分の部下があんなにやっつけられているのに反論もしないで何かニタニタしていたように見えたが、どうしたことか」と宮城にかみついた。宮城は「あれは反論しなくてよかったんだ。公の場で名だたる経歴の委員があれだけの情熱をもって、嘉手納のことに助言してくれた。責任をとってもらおうじゃないか」と弁じ、何とかその場を収めたという。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](39)第2部 「後付け」活性化策
即効性重視し国主導

 1998年7月の特別セッションで座長島田晴雄は「私が急げと言っているのは再開発事業ではなく企業誘致の方だ」と強調。「例えば」とことわった上で「那覇新都心にNTTデータが台湾と協力してテレコムセンターをつくるが、私はその活動拠点を嘉手納にもってくることができないかと思った。まずは福祉センターの空き間を利用し、そこでスタートしてもいい。つまりは町にそういうことをやろうとする意識があるかどうかだ」と具体的な提案を持ち掛けていた。

 これが嘉手納町の島懇事業の第一号となる。2000年5月、既存の町総合福祉センターの一部を改築した「町コールセンター」を開所。情報通信大手のNECのパソコンや周辺機器の技術的な問い合わせに対応する事務職を含む20人を県内で新規採用し、うち12人が町内から雇用された。「目にみえるかたち」の活性化策が初めて嘉手納町で実現した。

 宮城篤実によると、特別セッション後、有識者懇談会の唐津一、稲嶺恵一の両委員が直接、NECで社長と談判し、誘致にこぎ着けたという。実務面では内閣内政審議室が全面的にフォローした。

 さらに02年2月には、IT関連企業6社が入居する鉄筋コンクリート造5階建ての「嘉手納町マルチメディアセンター」も同町水釜に新設された。

 本命の再開発が都市計画決定も受けられていない段階で、「後付け」ともいえる活性化策が官僚や有識者委員主導で先行した背景について、政府関係者は「再開発は都市計画決定ですらあと数年はかかり、島懇事業の期限の7年間で実現するのは不可能ということが見えてきた。有識者委員の間で、何か即効性のある別のものが必要という認識が生まれ、すぐにできるのはマルチメディアだとなった」と説明する。

 「嘉手納タウンセンター開発事業」は二百数十億円の予算が確保された時点で、新町・ロータリー地区の再開発以外は白紙だった。再開発にかかるコストも精査されていなかった。「であれば、できるものからやって、再開発は規模を縮小してもできればいい。内閣内政審議室としては何らかの事業ができればよかった」(政府関係者)。

 マルチメディア関連の活性化策は島懇事業の特殊事情である「予算ありき」を逆手にとり、嘉手納町への二百数十億円の予算配分の一部を取り崩して対応した。この時点で再開発が確実に実施できる保障もなかった。「不透明な要素の多い再開発事業に絞っていては、いつまでたっても成果が見えず、何をやっているんだということになりかねない」(同)というムードが島懇関係者の間に広がっていた。

 実際、嘉手納町のプログラムに投入された国庫補助額(実績)は、再開発事業(約155億円)完了前に、「マルチメディアタウン事業」に約21億円、道の駅「かでな」(供用開始03年度)や35戸の町民住宅(同05年度)を整備した「総合再生事業」に約21億円が振り向けられている。

 嘉手納町の島懇事業はこの3事業を一括して「嘉手納タウンセンター開発事業」に組み込むかたちで処理された。町全体の地域バランスも考慮し、「押し込んだ」(町関係者)ともいわれる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](40)第2部 不協和音
国交省 事業関与渋る

 1998年7月の特別セッションには、有識者懇談会の委員以外にも、政府側の関係者が約15人出席していた。その中に那覇防衛施設局対策計画課技術専門官の下地朝一もいた。下地は99年9月に嘉手納町職員へ転身、現在は町建設部長を務めている。

 下地は宮古島の旧平良市出身。熊本工業大学卒業後、技官として74年に入庁。以来、那覇防衛施設局で基地所在市町村の補助事業や、「思いやり予算」にかかわる基地内の事業に携わる施設取得第一課に在籍した。「ほとんどが嘉手納町担当。歴代の町の部長はみんな知っている」という下地は町に対する親近感も強かった。

 下地が嘉手納町の島懇事業を担当したのは98年4月から。主に、再開発に向けた権利者の把握などの調査業務に当たっていた。国と町の間に立つ下地には日ごとに「町施行による再開発事業の限界」が見えてきた。そのことを、いち早く町側に警告したのが下地だった。

 下地はカウンターパートの町企画総務部長塩川勇吉に「再開発(の調査業務段階)は防衛施設庁が9割の補助をしているが、防衛庁、施設庁にも再開発のノウハウはない。沖縄総合事務局で国交省(当時は建設省)から出向している職員か、県の都市計画課のエキスパートの職員を町に引っ張ってこないと、この先は難しい。僕は施設局の嘉手納町担当だが、再開発の認可も指導もできない」と繰り返し伝えた。

 市街地再開発は、都市再開発法などに基づく国交省管轄の認可事業で、施設局には実績も権限もなかった。国交省のサポートが得られないまま、巨額の再開発事業を進めることは不可能に近かった。

 「200億円を超えるとてつもない予算をつけておきながら、国の側でも次第に町だけで進めるのは困難と認識した。地権者らの調査業務で9割を補助していた施設庁が最初にそのことに気づいた」と下地は振り返る。

 予算規模からいえば嘉手納町の再開発事業は本来、国交省主導で進めるべき事業だが、なぜプロである国交省がこの時点でコミットしていなかったのか―。通常の補助事業であれば事業採択後、年度ごとに所管官庁を通じて予算要求するが、島懇事業の場合、官僚ではない民間の島懇委員たちが審査して決定した。このため、官僚内部にも不協和音が生じていた。

 国交省管轄の認可事業にもかかわらず、調査業務が施設庁予算で実施された背景について下地は「当初、国交省が関与を渋ったと聞いている。それは『おおむね7年間でやりなさい』という島懇事業の条件について、国交省に相談もしないで勝手に事業採択したことへの抗議だった」とみる。

 施設局で嘉手納町の島懇事業の担当に任じられて以降、下地は本土の複数のコンサルタントに事業スケジュールを問い合わせた。いずれも、「7年間で再開発事業ができるわけがない。山ほどある認可のうち、せいぜい一つしかとれない」「国交省が精査に乗り出したら権利者合意だけで最低10年はかかる」と島田懇談会の決定の矛盾を指摘する声であふれ返ったという。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](41)第2部 国交省の論理
異物補助率 最小限に

 「島田懇談会が(独断で)再開発を7年間の事業として採択したのが、嘉手納町にとってはよかった」。元那覇防衛施設局技術専門官、現町建設部長として再開発事業を担当した下地朝一はこう振り返る。理由は「(島田懇談会事務局の)内閣内政審議室が二百数十億円の予算配分を内示する前に国交省へ相談していれば、国交省は(7年間の事業実施は実現不可能と判断し)事業にOKをだしたかどうかは分からない」とみるからだ。

 ただ、1997年度の事業スタート後は「(国交省は)都市計画決定を得て、法的に事業が進められる網をかぶせることができれば、嘉手納町の再開発事業にかかわりましょうとなった」(下地)。99年9月に下地が町職員に転身したときには「内閣府と国交省で内密にそういう合意ができている」と推測される状況だったという。

 国交省が嘉手納町の島懇事業への関与に消極的だった理由として、ある政府関係者はこう解説する。「島懇事業は国交省にとって『異物』だから積極的に協力しないということ。国交省は9割補助という例外的な島懇事業のために、本来、再開発事業の国庫補助率を3分の1と規定している原則をゆがめたくなかった。やると宣言したら、ほかの国交省所管の再開発事業との整合を問われかねない」

 市街地再開発事業における国庫補助率に関しては、国の交付要綱で「事業に要する費用の3分の1に相当する金額」と規定されている。国交省は嘉手納町の再開発実施に当たり、9割補助の島懇事業の条件に当てはめる特例的な「交付要綱」を別途設ける必要があった。

 嘉手納町の再開発事業が2001年10月に都市計画決定を受けたのを見極めた国交省は、02年度からようやく島懇事業に参入。同年7月、「沖縄米軍基地所在市町村活性化特別事業費補助交付要綱」を通知し、この中で国庫補助の額を「10分の9に相当する金額とする」と明示した。

 しかし、交付要綱の通知後も、例外規定を最小限に抑えたい国交省の論理が働く。「9割補助の適用は再開発事業の中でもごく一部分とし、事業全体を通じて9割補助はできないと(国交省は)突っぱねた。例えば最もかさむ用地取得費は補助対象にできないと言ってきた」(下地)。しかし、国としては島懇事業全体で9割補助の事業にしなければならない。結局、国交省の補助対象にできないものは防衛施設庁が補てんし、つじつまを合わせた。「嘉手納町が那覇防衛施設局からこの約束を取り付けるのに半年間ぐらいかかった」(同)という。

 再開発にかかる国負担分の総事業費155億円のうち、防衛省負担は93億円。一方、国交省負担は62億円で、結果的に総事業費(173億円)の3分の1程度に収まっている。

 防衛省は総事業費の過半を負担した補助事業の中核ビルに、毎年約2億円のテナント料を支払って地方機関(沖縄防衛局)を入居させる羽目になる。ほかの補助事業との整合や税金の効率的運用を度外視した、嘉手納町限定の優遇措置だった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](42)第2部 再開発の専門家不在
荒田氏の指導を仰ぐ

 特別セッションで有識者懇談会委員から叱咤され、尻に火がついたのは嘉手納町だけではなかった。実務を取り仕切る内閣内政審議室の官僚たちも同様だった。が、町と内政審議室の間で再開発事業の方向性の違いが次第に顕在化していく。

 「町施行による新町・ロータリー地区の一体的な再開発」と「施設局誘致」にこだわる町。不確実性の高い町施行を断念し、かつ施設局が移転しないケースも考慮に入れ、再開発以外の活性化策も取り入れるべきだ、と軌道修正を迫る内政審議室。両者のせめぎ合いは、「千載一遇の再開発」をものにしたい宮城篤実と、「とにかく期間内に成果を確実にかたちにしていく」のが使命である内政審議室の立場の違いに由来していた。が、不幸なことに、どちらにも再開発の専門家は不在だった。

 特別セッションから12日後の1998年7月21日。内政審議室が嘉手納町の再開発事業の課題をまとめた文書がある。

 この中で補助対象について「公共施設用地の取得費用に対する補助が基本」とした上で、「町全体の活性化事業にもかかわらず、再開発区域内に居住していた者のみが国の補助金で財産を取得することとなり不適当」と指摘。事業規模に関しては、町が想定する規模の再開発ビルを建設した場合の維持管理費を「年間3・2億~5・2億円」とはじく一方、那覇防衛施設局を誘致した際のテナント収入見通しとして「現施設局は約6000平方メートルを年間約1・3億円で賃借しており、この相場を大幅に上回ることは困難」と見積もっている。さらに、店舗への賃貸については大型ショッピングセンターなどの誘致は「(すでに進出している近隣の)沖縄市・北谷町との兼ね合いから厳しい」と予測している。

 こうした分析は、当時の内政審議室の再開発事業に対する懐疑的な見方が色濃く反映されている。

 一方、町の関門は有識者懇談会の委員荒田厚だった。「再開発の設計全体については荒田さんのゴーサインが不可欠だった」(宮城)からだ。

 荒田は東京大学工学部建築学科、同大大学院博士課程を経て、日本を代表する建築家丹下健三が開設した都市・建築設計研究所に勤務。その後、都市計画やまちづくりのコンサルタント会社を設立した。「沖縄返還の翌年から始まった本島中南部の広域都市計画という調査があって、事務所の初仕事として30代半ばのとき初めて沖縄の土を踏んだ。その後、天久や小禄の(跡地利用の)絵を描く仕事をやった。たぶん沖縄には何百回通っている」という荒田は復帰後の沖縄のまちづくりを熟知する大家だ。現在、在日米軍再編で嘉手納基地より南の6施設返還が想定されることを踏まえ、内閣府や県、市町村、有識者が跡地利用の方策を話し合う検討会の座長を務めている。

 有識者懇談会加入は「当時の建設省都市局長と岡本行夫さんが知り合いだった関係で、誰かメンバーをというんで、都市局長が省内の関連部署の人にお尋ねになり、紹介していただいた」(荒田)のがきっかけ。特別セッションを契機に、町職員やコンサルタントが代わる代わる東京の荒田の事務所を訪ね、指導を仰ぐ「荒田詣で」が続く。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](43) 第2部 2種事業
「期限内」対応に有利

 有識者懇談会の委員荒田厚の目にも、嘉手納町の再開発事業はかなり危なっかしく映っていた。「いや、正直難しいなとは思った。嘉手納町は相当額の割り振りをもらったが、それをどう使えるのかなと」

 1998年8月10日に荒田と面談した町委託のコンサルタント会社作成のメモからは、町と荒田の事業に対する認識の違いがうかがえる。

 メモによると、面談でコンサル側はまず、経過説明と現状報告をした。

 「(配分予算の)二百数十億円を頭に置き、床利用計画をつくり、対外的に利用者探しを図る予定」「町は事業化を1日も早くということで、ロータリーを含めた事業前提で啓蒙活動に入っている」

 これに対し、荒田は「できれば区域を小さく、これはロータリーを捨てるという意味でなく環境整備型にするとか、とにかく何か目に見えるもの、現実的なものにしてもらえないか」と提言した。

 荒田は当時の心情について、「スケジュールが非常にタイトだった。なおかつ、何をやれば一番閉塞感の打破に役立つのかは本当によく考えなければいけないはずで、派手な箱もの事業だけではないと思った。本当に嘉手納町にふさわしい姿はどういうものなのか、それについては多少悩みもあった」と打ち明ける。

 荒田には当初から、嘉手納町での再開発事業に戸惑いと違和感がぬぐえなかった。「基本的に再開発というのは、仲間を連れて来て床を売って、自分たちの床も新しくする。要するに容積を増やして、というのが基本的構造。だが、嘉手納町の場合、買ってくれるのは誰なんだろうと。もともとそういうポテンシャルがないところだから」

 市街地再開発事業は、中高層の再開発ビル建設や公園広場の整備などによって、土地の高度利用を図るのが目的だ。再開発によって都市環境を再生し、土地の付加価値を高めなければ事業として成り立たない。

 市街地再開発は、第1種と第2種事業に分けられる。

 1種は区域内の土地・建物などの権利者が、再開発前の権利に見合う再開発ビルの敷地や床(権利床)を施行者から取得(権利変換)する。施行者は権利床以外に余分の床(保留床)を建設し、これを売却して事業費に充てる。

 一方、2種は区域内の土地建物を施行者が一括買い取りし、事業後に入居希望者に再配分する手法。施行者を公的機関に限定し、土地収用の権限を与えているのが特徴だ。

 2種事業は防災上きわめて危険とされる地域や大震災発生時の避難広場など緊急性、公共性の高い施設を要する特殊な地域に適用されるため、再開発は1種事業が主流だ。

 那覇防衛施設局で嘉手納町の再開発事業を担当していた下地朝一は当初、「1種でも2種でも、できればいい」という思いだった。が、コンサルの話を聞くうちに、島懇事業が7年の期限付き事業であることを踏まえれば、「2種は認可のハードルが高いが、強制執行(土地収用)できるのが最大の強み」と認識したという。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](44)第2部 追い出し
権利者の8割が転出

 再開発の1種、2種事業には一長一短がある。1種は「権利変換」方式のため、補償費がかからない。一方、全員補償型の2種は補償費で予算が膨らむ。また、1種は強制執行が認められていないため、権利者の合意形成に相当な時間を割く必要がある。ただ、強制執行という強権力の発令も可能な2種は公共性の高い事業に限定され、許認可のハードルが高い。2種がレアなのは事業費がかさむことと、許認可の困難さに起因する。

 こうした特質を勘案し、嘉手納町に当てはめた場合、どうなるか。二百数十億円という膨大な事業資金を最大限活かし、できる限り短期間で実現を図るには「2種しかない」というのが町の判断だった。

 宮城篤実は「1種ではできないという思いがあった。全権利関係者と交渉し、減歩などの調整をしていたら何十年先になるか分からない。すべて買い取る2種の方式でないと難しい。だが、国に無駄カネを使わせたくない内政審議室には、1種でできなければ(再開発が)できなくてもいい、という空気が感じられた」と振り返る。

 下地朝一は「強制執行ができる2種を採用していなければ、嘉手納町の再開発事業は行き詰まっていた可能性があった」と指摘する。

 町は権利者の合意取り付けが困難な10件程度を収用委員会にかける準備をしていた。このうち、最終的に合意が得られなかった1件を実際、収用委にはかった。ただ、この権利者は収用委が提示した査定額で折れたため、行政代執行は土壇場で回避されたという。

 1998年8月10日の面談でコンサル側は、町が「第2種」で事業を進める意向も有識者委員荒田厚に伝えた。

 荒田は町が第2種で事業を進めることには、「住民の転出率が高まり、追い出しのイメージになる」との懸念から慎重姿勢を崩さなかった。8月12日の町職員との調整でも荒田は「権利者の転出率を減らすことを検討すべきだ。国の施設のために床を張り、住民が町外へ流出したという事態にはならないようしなければならない」「基本的には1種で進め、どうしようもないとき、2種にすべきでは」(町作成メモより)と執拗に抵抗している。

 町によると、今回の再開発事業の権利者268人中、町外を含む転出者は211人。全体の8割近くに上った。

 荒田は当時の思いをこう語る。「基本的に今いる人たちが居続けられる事業であるべきだと思った。時間との勝負になるが、1種でというのはそういう意味。床をたくさんつくって、よその人を連れてくることができなくても、もと居た人たちが夢のある商売や暮らしができればと。2種は転出を応援(助長)する話になる。実際に用地購入費や補償費は相当額に上るから」。潤沢な物件補償費(約50億円)や用地購入費(約20億円)が「呼び水」となり、転出を選択する権利者が多数を占める結末を荒田は予期していた。

 また、国交省の立場について荒田は「推測」とことわった上で、「2種事業は防災上の問題などそれなりの性質を備えた地区。相当な強権発動を伴うため件数も多くはない。国交省からみれば制度の趣旨をちょっと曲げているなという違和感から素直には乗れなかったと思う。いわば防衛の施策のためにまちづくりの制度がゆがめられるという面はあったと思う」との見方を明かした。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](45)第2部 修正圧力
町施行能力に疑問も

 1998年8月12日、町職員が東京の荒田厚の事務所を訪ねた。町作成の報告書によると、その際、荒田は「防衛施設局が入居するかしないかによって、事業の内容は大きく異なってくる。中核となる部分がはっきりせず、事業内容が仮定のままでは話が進展しない。施設局の入居の件は正式に誰がいつ明確にするのか」とただした。このとき、施設局からはなしのつぶてで、移転は白紙の状態だった。町職員は回答に窮した。

 荒田はまた、「防衛施設局全体が移転するのは無理があるのではないか」「施設局が入らない場合の案も机の下にもっておく必要があるのではないか」などと指摘。「まず新町を再開発的な手法で立ち上げ、次のステップでロータリー地区の土地の確保を実施していくことも一案」と告げた。

 8月18日には那覇市内のホテルで町と内閣内政審議室、施設局職員が協議した。町作成の報告書によると、内政審議室主幹の佐藤勉は、さらに突っ込んだ表現で町に事業方針の修正を促している。

 「嘉手納町単独でこれほど大きな事業をこなすのは無理がある。天久(那覇新都心)などの開発とは違う住環境整備のようなかたちになると思う。事業主体は町ではなく、大企業か公団などにやってもらうべきでは」「島田(晴雄)先生とも話し合ったが、新町、ロータリーだけではなく屋良地域も含めた町全域を対象に広げた『21世紀の嘉手納タウン』というイメージで住環境整備を図った方がいいのでは」

 佐藤は最後にこう宣告する。「政府内でも沖縄熱が冷めており、大蔵省も期限は7年と言っている。宮城町長は重大な決意を迫られるだろう」

 連日続く、島懇関係者からの「調整」という名目の圧力にたまりかねたコンサルが、官僚や有識者委員にかみつくこともあった。

 島懇関係者「等身大の計画にならないか。事業期間について大蔵省は強硬にめどを付けろと言ってきている。最短スケジュールを送ってほしい。例えば新町中心の再開発など、落としどころを決められないか。町の施行能力には限界がある」

 コンサル「町の施行能力というが、どこの町でも事業が完成したとき、一緒に携わった人もプロとして完成する。島田懇談会の意図にも人を育てるのが目的だったはず」

 島懇関係者「時間がなくなってきている。例えば公団と町の共同施行でもいいのでは」(8月26日。コンサル経由の町資料より)

 「等身大」とは「縮小」を意味していた。新町は1ヘクタール、ロータリーは2・7ヘクタール。島懇関係者は当時、円形のロータリー地区と方形の新町地区を「前方後円墳」と呼んだ。再開発事業が新町、ロータリー地区を合わせた計3・7ヘクタールに決定されるまでは、新町にビルを建て、そこに施設局の一部を移転する「方墳」のかたちで「お茶を濁される」という危機感が町にはつきまとっていた。

 施設局移転のめどが立たない中、強気の姿勢だった宮城篤実も次第に追い詰められ、やがて「重大な決意」を迫られる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](46) 第2部 部分移転
方針転換迫られる町

 1998年8月27日、那覇防衛施設局。内閣内政審議室の佐藤勉、施設局の下地朝一、町からは宮城篤実を含む関係者が一堂に集まり、9月1日の有識者懇談会作業部会に向けた最終打ち合わせが行われた。

 内政審議室作成のメモによると、この非公式の場で、宮城は施設局の「部分移転」受容に言及している。

 席上、まず佐藤が現状報告と称し、再開発事業への苦言を並べ立てた。「今のままでは懇談会事業の計画期間(97年度~2003年度)中の工事着工すら困難」と指摘。その要因として「金額ありきの考えで、今なお事業費に合わせた仮定の事業内容になっている。最大のスペースをとる防衛施設局の誘致も未決定」と弁じた。

 「金額ありき」は国側が決めたことだったが、佐藤は意に介さず、「ここに提示してある資料は、荒田厚委員と調整して作成した。内政審議室長も了解済み」と前置きした上で、以下の方針をまくし立てた。

 (1)事業地区は商店街の近代化など再開発の意識が高い新町地区とする。ロータリー地区は別途事業化の方向で位置付ける。合意形成が不調の場合は新町地区をさらに区分することも検討する(2)事業手法については第1種事業とし、地区内の合意形成に努め、権利者の町外転出率を限りなく少なくする。どうしても不都合がある場合、あらためて第2種を検討する―。

 「新町地区のみ」「原則1種」と一方的に町の方針転換を迫られ、追い詰められた宮城はぐらついた。

 宮城は「原点は再開発事業であり、新町だけではなくロータリーを含んだ一体的な整備が島田懇談会で提言され、町民にも喜ばれた」と抵抗するのがやっと。次第にトーンダウンし、「再開発ビルは当初、20階や14階建てといった計画はあったが、ドンガラ(胴殻)はやめる。中身はこれから考えるが、その一つが那覇防衛施設局の誘致。全部が移転するとは考えていない。中北部とのかかわりのあるところは移転してもらう」と部分移転も可とする姿勢をちらつかせた。

 このときの心中について宮城は「(施設局移転は)建設関係の部署だけでもいいかなと思っていたころもある。しかし、これでは町の活性化にはつながらない、やはり全員来てもらわないと、とあとで思い直した。あのときは誰からの助言もなく、すべて1人で葛藤しながらどうすればいいか、考えあぐねていた」と明かす。

 一方、当時の内政審議室や施設局の思惑について下地は「内政審議室は3年もたてば町は(再開発はできないと)音を上げるだろうと踏んだ。そうなれば200億円も使わず、規模を縮小してもいい。再開発ではなく、新町の一角を買収してビルを一つ建ててそれで終わりにしようと。施設局も移転するが、業者のための建設部と補助事業のための事業部だけ。総務部と施設部は那覇に残るという案だった」と解説する。

 9月1日の作業部会で荒田はこう発言する。「基本的な事項の整理として、施設局誘致をあてにしていいのか。島懇事業として何を補助対象にできるのかをはっきりさせるべきだ」。町に施設局誘致断念の引導を渡す一歩手前まで来ていた。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](47)第2部 「東京会議」
移転決定期限を協議

 1998年9月30日。総理府(現内閣府)会議室で嘉手納町、内政審議室、防衛施設庁などの関係者と有識者委員の荒田厚が顔をそろえ、再開発事業の詰めの協議を行った。これが施設局移転決定の「期限設定」の場となる。町がのちに命名した「東京会議」だ。

 安達俊雄(内政審議室審議官)「施設局の移転はいつごろまでに決めればいいのか」

 荒田「施設局が移れるか移れないかはタウンセンターの規模に影響する話なので、できればすぐにでも決めてもらいたい」

 宮城篤実「あす野中広務官房長官に会った際にもお願いしたい。事務方ではなかなか詰めづらいだろうから、政治的にお願いすることを考えている」

 荒田「期間としては本年度いっぱいには決めていただきたい」(以上、町作成の議事録より)

 宮城が「政治決着」を口にしたことで、荒田から「最後通告」を突きつけられるかたちとなった。

 宮城は当時の思いをこう打ち明ける。「町が委託しているコンサルが傍聴席にいたが、私と荒田さんのやりとりを聞いて肝を冷やしたようだ。町長は自ら退路を断ち、墓穴を掘ったと。コンサルも施設局移転に半信半疑で、これを核にしたため自分たちの仕事が進まないという懸念を深めていたと思う。しかし私は、施設局以外のテナントは予想もできなかった。スーパーとかテーマパークでは駄目だと思い詰め、背水の陣で臨んだことが、翌日の(野中との)交渉のバネになった」

 町建設部長下地朝一は「有識者懇談会の委員にすれば、国の9割補助事業で空きビルを造ったら、政府の恥だという意識があった。それはいかんから、大口(施設局)から入居の確認をとって来いとなった」と当時の内情をかみ砕く。「政府の恥」との認識について荒田は否定せず、「それは確かにみっともない。それどころか、国民に申し訳ない」と強調。その上で、「やはり一番大きかったのは施設局の移転。施設局の入居がなかったら、ちょっと悲惨だった。床は張れるだろうが、それこそ空いた床のドンガラ(胴殻)になっていた」と振り返る。

 すべては、施設局の移転が実現できるかにかかっていた。だが、「移転するのは施設局の方々の意思ではない。自分の住まいを(那覇近辺に)抱えている多くの職員は(嘉手納へ)行きたくはなかっただろう。普通は自主的には動かない」(荒田)状況にあった。それを動かしたのは、「トップの鶴の一声」(同)だった。

 荒田は当初、自らがイメージした再開発について「ボリュームをできるだけ抑え、湯水のようにお金を使ってもいいから環境とかデザイン面でいいものをつくればいい。お金はあるから、そういうかたちの開発はできたと思う」と吐露する。しかし、それでは「人がやって来て消費が起き、働く人が増えるという町全体の振興にはつながらない。そういう意味で説得力を持ち得なかった」と口惜しげに語る。

 荒田は今、嘉手納町の再開発事業が成功したと思うか、との問いに「それは町民の方々が判断すること。最初からお金ありきの事業はほかの再開発事業とは構造が違う。町民の閉塞感がどれくらい緩和されたかをどうやって測るか。それは私には測れない」と慎重に言葉を選ぶ。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](48)第2部 背水の陣
官邸・施設庁から言質

 1998年9月30日の「東京会議」終了後、宮城篤実はその日のうちに官房副長官古川貞二郎へ電話し、翌10月1日の面談を求めた。1日は官房長官野中広務との面談が決まっていたが、事前に古川と会っておきたかった。政府関係者がそろった30日の「東京会議」で、「年度内」という最終期限を突きつけられたことが、宮城をせき立てていた。

 電話口で急な面談要請の理由を尋ねる古川に、宮城は「島懇事業の行方が厳しくなってきました…」と告げるのが精いっぱいだった。宮城に具体的な戦略があるわけではなかった。それでも、ただじっとしてはいられなかった。

 その夜、都内のホテルで宮城は眠れなかった。自らが提起して実現にこぎ着けた傾斜配分の問題では肝心の配分額が満足のいく収穫を得られず、施設局移転は提案から2年を経ても動かない。しかも、再開発は最終的なプランすらまとまらず、縮小の話まで出ている。「みんなに期待をもたせておきながら、こんなかたちでぽしゃってしまったら立場がないどころか、仕事を続ける意欲も失ってしまう」。宮城は岡本行夫と出会った96年6月以降の出来事を脳裏に去来させ、危機感を募らせた。

 1日午前10時。官邸で古川と面談した宮城は「那覇防衛施設局の移転はどこが決定するのか」とストレートに問うた。古川は「それは防衛施設庁になる」と回答した。

 宮城はその足で防衛施設庁に駆け込んだ。長官に面談を要請したが、出張中だった。次長西村市郎が面談に応じ、総務部長新貝正勝が同席した。

 次長室のソファに、宮城と随行の町職員3人が切羽詰まった顔で、西村、新貝と向かい合った。

 西村はこれまでの施設庁の態度を繰り返した。移転に前向きなそぶりを見せつつも、のらりくらり、確定的な言い方を避ける相変わらずの口ぶりだった。しびれをきらした宮城の頭にふと浮かんだのは、知事大田昌秀を引き合いに出すことだった。普天間代替施設建設問題で県内移設容認の是非を明らかにせず、逡巡した揚げ句に名護市長選の投票日2日前に「海上基地建設反対」を表明した大田は当時、防衛内部ですこぶる評判が悪かった。

 宮城は「あなた方はいつも期待をもたせる話をするが、大田知事といかほどの違いがあるのか。早く決断を」と迫った。これが功を奏し、西村から「施設庁内では(移転は)固まっている。ただし、最終決断は官邸で」との言葉を引き出したという。

 宮城の眼前に光が差し込んだ。宮城は内心で「しめた」とほくそ笑み、決定するのは私だ、と受け止めた。同日朝の古川との面談で「移転を決定するのは施設庁だ」との言質をとっていたからだ。取りようによっては「たらい回し」だが、施設庁の次長が官邸の古川と密接に連絡を取り合い、「口裏を合わせた」とは考えにくい、と宮城は踏んだ。

 宮城は「そうですか官邸ですか」と心とは裏腹にすました顔で施設庁をあとにした。

 同日午後4時20分。宮城は官邸で官房長官野中との面談に臨む。官房副長官鈴木宗男と沖縄開発政務次官下地幹郎も同席した。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](49) 第2部 知事選
移転発表を政治利用

 1998年10月1日午後4時20分。宮城篤実は官邸で官房長官野中広務との面談に臨んだ。

 宮城は野中に「島懇事業は防衛施設局の嘉手納移転が決まらず、困難を極めていましたが、おかげさまできょう確認がとれました」と切り出すと、同席していた官房副長官鈴木宗男がすっと席を立った。

 数分後、宮城が経緯を説明している間に鈴木が戻ってきた。鈴木は長官室の入り口で胸元に指でオーケーのサインを示しながら、「決まった」と小さく叫び、顔をほころばせた。

 それを見て宮城は、鈴木がしかるべき筋から確認をとってきた、と解した。

 宮城は「正式発表は官房長官が官邸でやってもらいたい。その間、私に経過を伝える必要もありません。ただ、今月いっぱいにはお願いしたい」と野中に申し出た。「今月いっぱい」とした理由について宮城は「来月(11月)の知事選前にやらないと政治的効果は薄いという含みをもたせる言い方をした。私の猿知恵。少しでも早く決定させようと思った」と明かす。

 知事選には島田懇談会委員を務め、有識者懇談会で副座長を務めた稲嶺恵一が普天間飛行場の県内移設を容認する「現実路線」を掲げ、自民などの推薦を受けて立候補、同飛行場の県内移設に反対する現職の大田昌秀と事実上の一騎打ちを繰り広げていた。

 「基地」と「経済」を争点にした知事選で、稲嶺は「閉塞感の打破」や「県政不況」をキャッチコピーに打ち立てた。沖縄で「閉塞感」という言葉が浸透したのは、96年6月に宮城が岡本行夫と那覇市内で会食し、宮城が「呼吸困難に陥っている」と訴えたことがきっかけだった。それ以降、島田懇談会の会合などで「基地所在市町村の閉塞感の打破」という言葉が自治体関係者や委員らによって繰り返し唱えられた。

 これは本来、沖縄の米軍基地の整理・縮小が進まないことによる自治の弊害について、基地所在市町村側から政府への異議申し立てという意味合いで用いられた。しかし、このセリフは98年の知事選を通じて、いつの間にか「大田県政によって導き出された閉塞感」にすり替えられていた。

 にもかかわらず、橋本政権が設置した大臣、沖縄県知事らによる沖縄振興策を検討する「沖縄政策協議会」が、大田の普天間飛行場の県内移設反対表明を受け、1年余にわたって再開されていないことなどに由来する「閉塞感」として、県民世論にも比較的違和感なく浸透していた。

 宮城は選挙期間中、稲嶺陣営の有力支持者として「稲嶺さんの手法を踏まえれば、こう着している沖縄問題は確実に動いていく」などと要所要所で応援演説を行い、精力的に支援した。稲嶺の知事当選後、宮城は最初の副知事候補に浮上する。

 官邸での宮城と野中の面談を受け、知事選を控えた10月中に施設局移転を正式発表した政府の判断が、宮城の「猿知恵」にどれだけ反応した結果なのかは定かでない。が、結果的に政府中枢と基地所在市町村をつなぐ島懇事業が、県政の行方に影響を与えるカードとしても用い得ることを体現するかたちとなった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](50)第2部 板ばさみ
移転道筋 地元に課題

 有識者懇談会座長の島田晴雄は、官房長官野中広務の那覇防衛施設局の移転決定が1998年の知事選に与えた政治的インパクトをこう表現する。

 「あれは稲嶺知事候補が猛烈に選挙を戦っていた最後の最後、稲嶺さんがちょっともうろうとして注射を打ちながら戦っていたときに、東京で野中さんの発表があった。私はその発表を聞いて、野中広務というのはやるなと思ったんですね。目に見えないミサイルがウァーと飛んで、ドーンと入った。それで稲嶺さんがブワァーと勝利した」(2008年7月の嘉手納町の島懇事業完成式典祝賀会のあいさつで)

 宮城篤実は野中との面談で施設局移転の確約を得た1998年10月1日を指し、「あの日を境に流れが一変した」と振り返る。それまで移転問題は「白紙」だった。

 通勤などで不便を強いられる「実害」を被る那覇防衛施設局の地元職員の多数は移転反対の強硬派だった。防衛施設庁は施設局職員の根強い反発や、地権者が複雑に入り組んだ新町地区の再開発事業の難度も認識し、移転には消極的だった。ただ、橋本内閣の肝いりだった島懇事業にからむ事案だけに、官邸の顔色をうかがう必要があった。表立って否定的な見解を表明することはしないが、腹の内では移転が自然消滅することを願うスタンスをとり続けていた。

 国交省や内政審議室の官僚も同様だった。例外的な認可事業への積極的な関与を避けたい国交省と、素人集団である町施行の再開発事業の危うさを肌で感じ、「身の丈にあった」事業を確実に遂行したかった内政審議室の論理が背景にあった。

 しかし、官僚たちには、(1)基地が集中する本島中北部の基地所在市町村の利便性の向上につながる(2)基地被害を実感できる場所に移転することで地元の理解も得やすい(3)移転によって島懇事業の目玉である嘉手納町の事業の充実発展にもつながる―という宮城の移転ロジックに正面から異を唱える理屈を見いだせないでいた。

 一方、官僚の本音を知る官邸は静観を決め込んだ。梶山静六は98年7月の総裁選に敗れ、小渕内閣とは距離を置き、岡本行夫も首相補佐官を退いていた。

 宮城は小渕内閣の官房長官野中とは面識もなかった。沖縄と政府の関係も、知事大田昌秀が普天間飛行場の「県内移設反対」のスタンスを明確にした後は冷却期間に入っていた。宮城も傾斜配分の配分額の低さに抗議し、嘉手納基地の「全面返還要求」を打ち出した後は、実質的に「身動きとれなくなっていた」(宮城)。

 こうした事情から積極的に宮城を後押しするベクトルは政府内に存在しなかったが、移転を握りつぶすほどのポテンシャルもなく、宙に浮いた状況に置かれた。沖縄側が基地問題で強い姿勢に出ることは、政府とのあつれきを招き、優遇や恩恵に授かれない事態に陥るリスクと直結していた。

 潮目を変えたのは9月30日の東京会議での有識者委員荒田厚の発言だった。宮城は「事業をつぶされかねない」との危機感から一念発起し、火事場の底力で防衛施設庁や官邸への要請行動を展開した。これが事態打開の原動力となった。

 官邸と防衛施設庁が、施設局移転に重い腰を上げようとしたとき、地元職員との間で板ばさみとなったのが那覇防衛施設局長北原巌男だった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](51)第2部「全面移転」
野中と島田懇で決着

 宮城篤実が施設局移転の合意を取り付けた約1週間後の1998年10月7日午前の官房長官会見。野中広務は「防衛施設庁に一部施設を嘉手納に移転する方向で検討させている。できるだけ期待に沿えるようやっていきたい」と述べ、防衛施設庁などに「今月中にまとめるよう」指示したことを明らかにした。

 防衛施設庁は同23日の会議で移転を決定。那覇防衛施設局長北原巌男は同26日、嘉手納町役場に宮城を訪ね、同町への移転を正式に伝えた。

 10月29日の官房長官会見で再び施設局移転に言及した野中は「那覇に30人前後を連絡要員として残し、事務所は嘉手納に移したい。嘉手納町役場の職員数は200人と聞いているので、それを考えると、これに倍する職員が入る施設局が移転するということは嘉手納町にとって大きな意義があると思う」と実質的な全面移転を発表した。

 当初、「一部施設の移転」としていた方針が、土壇場で「全面移転」となった経緯について野中は詳細の明言を避けつつ、北原の理解が「大きな力になった」と振り返る。

 野中は宮城との面談後、官房長官室に北原を招いて直接、意見を聞いたという。「彼は沖縄の人の心をよく知っている男だった。彼に意見を聞いたら、長官がそういうお気持ちであれば、職員の通勤とかの問題はあるが、やっぱりこれからのことを考えると、基地との連絡調整などで施設局が果たす役割は大きいと思います、と言うてくれたんで大きな力になりましたね」

 北原の立場をおもんばかれば、官房長官の野中から嘉手納移転を懇請され、それに「ノー」という選択肢はなかったに違いない。

 施設局職員によると、北原は野中の移転発表の直後、局内の講堂に200人を超える係長以上の職員を一堂に集め、「官房長官決定で嘉手納へ移転することになった」と報告し、理解を求める訓示を行ったという。

 施設庁関係者は当時の状況について組織内部の事情と関連付け、こう補足する。「防衛庁内の装備品調達に絡む不祥事などで組織としてがたがたになり、施設庁の組織内部の問題でも官房長官まで上がってイエスとならないとファイナルにならない状況だった。こうした決定の権限の問題に加え、施設局移転に関しては再開発事業が本当にできるのかという懐疑的な見方も相まって、施設庁だけで判断して責任を取りたくないという論理も働いた」

 一方、島田晴雄は「(施設局移転を)決めたのは野中広務さんだよ。ものすごい政治力。あの人なら一人でやっちゃう。強烈な実力ですから」と打ち明ける。また、宮城が「誘致作業は島田懇談会の役割ではないとして、『おもしろいアイデアですが、町長ご自分で努力してください』で終わった」と振り返っていることについて、島田は「島田懇がないと、あんなの(施設局移転)できないじゃないか」と言い放った。

 施設局移転は、宮城の意志と行動力が風穴を開け、野中の政治力が最終局面で後押ししたのは事実だろう。だが、島田が指摘するように、島懇事業が日米安保の安定という目的に沿った「国策」であり、嘉手納町への施設局移転がその根幹をなす―という暗黙の了解が政府内で共有されていたことも、外せない要因と見るのが妥当だろう。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](52)第2部 特措法改定
拒否カード奪われる

 1998年10月1日の官房長官野中広務との面談について、宮城篤実は「野中さんとのつながりは私個人とも嘉手納町としてもまったくなかった。とてもじゃないが、(事前に)何か言える立場ではない」とパイプや根回しが一切なかったことを打ち明ける。宮城にとって、野中は政府中枢の縁遠い存在だった。が、世襲の政治家でもなく、自身の才覚のみで郷里の京都府園部町(現南丹市)の町議や町長なかれつどを経て、苛烈な政治闘争の末に権力の中枢まで上り詰めた野中には、宮城と共通の「土臭さ」のにじむ気骨が備わっていた。

 「さすがに基地の深刻性を率直に言うてくれる町長だなと思いましたよ」と宮城の印象を振り返る野中は、移転発表のタイミングが知事選の直前だったことについて「そんなセコイこと、考えてない」と一笑に付した。

 野中の沖縄原体験は、町長時代の62年にさかのぼる。復帰前の沖縄で、全国の自治体が沖縄戦で亡くなった地元出身者のための慰霊碑を相次いで建立していた時期。京都出身者が最も多く戦死した場所は宜野湾市の嘉数高台であることが分かり、そこに京都府の慰霊碑を建てるべきだとの思いから、野中は現地視察に向かった。那覇市からタクシーに乗り、宜野湾市付近にさしかかったとき、タクシー運転手が急ブレーキを踏んで止まった。そして、「私の妹はあそこで殺された」と声を震わせ、1時間ほど車を動かせなかったという。米軍ではなく日本兵に殺されたと告白する男性運転手との出会いが、野中にとって「最初の一番強烈な沖縄体験」だった。

 野中は自民党衆院安保土地特別委員長を務めていた97年4月11日、改定米軍用地特別措置法を約9割の圧倒的多数で可決した衆院本会議での委員長報告で「圧倒的多数で可決されようとしているが、『大政翼賛会』のようにならないように若い方々にお願いしたい」と異例の意見表明を行った。

 野中は「あれは突然出たんですよ。

 委員長報告には何も書いてなかった。

読んどる間に、わーとね、タクシーの運転手がハンドルにしがみついて泣いている、そして僕に言うた光景が出てきたんだ。それでここでひとこと発言を許してくださいと言うたんですよ。委員長やっとっておかしいけどね、国が直接収用するぞっていう法案に9割も賛成するというのはおかしい。議会の在り方としてちょっと怖いと思った」

 特措法改定案は自民、さきがけの両与党と新進、太陽など野党の賛成で国会提出後間もない4月11日に衆院を通過。17日の参院で約8割の賛成で成立した。改定のポイントは、使用期限が切れた後も国の継続使用を可能とする「暫定使用制度」を創設した点だ。国が地主に対し損失補償の担保さえ供託すれば、県収用委の裁決手続きが終了するまで継続使用が可能となった。

 同法改定は、95年の米軍事件を契機に知事大田昌秀が強制使用手続きの代理署名を拒否し、期限切れに伴い、一部民有地を国が不法占拠する事態が起きたことに端を発していた。同法改定によって、国による「不法占拠状態」が生じる可能性は事実上なくなった。

 さらに、99年7月の同法再改定で、市町村長や県知事に委任していた「代理署名」や「公告縦覧」を国の直接執行事務とすることで、国の基地政策に異議を唱える地元の「拒否カード」は完膚なきまでに奪われた。

 2度にわたる特措法改定は、沖縄の基地問題が全国的な争点として浮上する芽を絶つ分岐となった。同時期、基地所在市町村では島懇事業や傾斜配分など「基地の恩恵」が行き渡りつつあった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](53)第2部 政争の具
パイプ役も国益優先

 民有地が多くを占める沖縄の米軍基地をターゲットにした1997年4月の米軍用地特別措置法改定を政府内で強く主張したのは、内閣官房長官梶山静六だった。

 同法改定案の国会成立を後ろ盾した首相橋本龍太郎と新進党党首小沢一郎の合意は、首相訪米前に改定案を成立させる必要があると判断した梶山が仕掛けたものだった。梶山は同法改定案合意をめぐって、かつて党内抗争を繰り広げた政敵・小沢率いる新進党との「保保連合構想」を模索し、野中広務ら「自社さ派」と激しく対立した。しかし、橋本が「自社さ派」に軸足を置いたため、梶山は97年9月の自民総裁選後の「第2次橋本改造内閣」で官房長官の座を明け渡す。

 同法改定は梶山らによって中央政界の「政争の具」として扱われたも同然だった。また、知事に委任していた強制使用手続きの「代理署名」などを国の直接執行事務とする99年7月の同法再改定を成立させたときの官房長官は野中だった。

 「贖罪の精神」を抱え、沖縄にとって頼りになる政府中枢のパイプ役も、優先順位は政治抗争に勝ち抜くことと国益が常に上位にあることを踏まえれば、当然の帰結でもあった。中央とのパイプは国益と地元益が一致する、ごく限られた局面においてのみ有効に機能する。

 こうした背景について琉大教授の島袋純(政治学)は「95、96年当時に大田県政が沖縄の自立に向け、政府と交渉していたとき、初代沖縄開発庁長官として沖縄振興に尽くしたとされる山中貞則氏はむしろ阻止勢力になったといわれている。中央支配の構造の中で、沖縄が自分の利益にもプラスになるポジティブ・サム(互いが利益を得る)のゲームのときだけ助力するが、ゼロ・サム(ほかの人の利益が増し、相対的に自分の利益が減ること)になったら、沖縄利権を手放せないからつぶしにかかる。これが、公平性や合理性を基にした政策形成とは逆の『恩顧主義』や『ボス政治』の限界」と解説する。

 自民党衆院安保土地特別委員長を務めていた野中が改定米軍用地特別措置法の可決に際し「大政翼賛会」と苦言を呈した背景には、「保保連合」にはしる梶山に対する批判が込められていたともいわれる。しかし野中はこのとき、より根源的な政界の変化をひしひしと感じていた。その象徴のひとつが沖縄に対するスタンスだった。

 「沖縄には琉球政府時代の自立心や琉球王府としての歴史もある。それから米軍の支配で復帰が遅れた。こういうことを無視してはいけないし、われわれもまた、沖縄は兵隊だけでなく一般民衆も犠牲になった、沖縄には耐え難い歴史がずっと残っているんだということを脳裏に置きながら、節目節目で民族としての償いをしてきた。しかし、それが分かっている政治家がだんだん少なくなっていた。政治家だけでなく日本全体だけれども」

 一方で沖縄側にも厳しい目を向ける。「一つは沖縄の国会議員があんまり動けへんな。利権ばっかり考えとるやつもおるしね。そういうことに対する不満が僕にはあった」と明かす野中は、沖縄には「二つの面がある」と指摘する。「基地を撤去せえと言いながら撤去されたらその後、借地料が入ってこない。沖縄経済というのはある意味、基地でもっているところはある。この二面性をどうするのかというのが僕らの悩みやった」

 沖縄に対する「政府の熱意」は特措法改定で急速にしぼみ、「沖縄の問題は終わった」とのムードが政府内に漂っていく。

 衆院議院運営委員会は、改定特措法を圧倒的多数で可決した衆院本会議の4日後の97年4月15日に開いた理事会で、「大政翼賛会にならないように」との野中の発言を議事録から削除することを決めた。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](54)第3部 機構改革
外部起用で事業推進

 1998年10月に内閣官房長官野中広務が那覇防衛施設局の嘉手納移転を正式発表したことで、嘉手納町の再開発事業の課題は、事業主である町の施行能力に絞られた。

 宮城篤実は8年ぶりに役場の機構改革に乗り出す。99年9月、役場内に島懇事業の推進を目的にしたチーム「プロジェクト未来」を新設。助役をチームリーダーに、サブリーダーの部長とこれまでになかった調整監(部長級)を配置した。建設振興部(現建設部)にあった都市開発課を再開発推進課と名称変更し、プロジェクト未来に置いた。「失敗は許されない」という宮城の意気込みが伝わる布陣だった。

 さらに宮城が手を打った秘策が、那覇防衛施設局職員の「引き抜き」だった。プロジェクト未来の目玉人事となる調整監に、那覇防衛施設局施設対策計画課技術専門官だった下地朝一を起用したことが事業進展のカギとなる。

 下地は島懇事業をサポートする施設局の嘉手納町担当として、再開発事業を熟知する国交省や県の職員を引き込む必要性を町に提言し続けてきた。しかし、町は適任者を確保できずにいた。「県や国との調整役となる都市計画法に精通した人がこれからは欠かせない、とずっと言ってきたんだが、1年半ぐらいたっても人選のめどが立たないという。それで言い出しっぺだから、お前でもいいから来いとなった」(下地)

 下地の引き抜きを宮城に進言したのは町企画総務部長塩川勇吉だった。「これだけボリュームのある仕事なので役場のスタッフだけでこなすのは無理があった。ちょうど彼(下地)が嘉手納担当で、町のことをよく考えてくれているという感じを受けたので町長に(引き抜きを)提言した」と振り返る塩川は、下地に半端なスタンスを許さなかった。

 「最初は施設局からの出向というかたちなら行けると答えたんだが、塩川部長には『腰掛けでは困る。失敗したら戻るというのは言い訳になる。辞めてこい』と言われた」(下地)。だが、下地は再開発の専門家ではない。「再開発のことは分からない」と下地が躊躇すると、塩川は「そんなのは来てから考えろ。分からなくていいから、失敗してもいいから来い」と背中を押したという。

 下地は当時50歳。転職は人生を懸けて決断だった。下地は上司に相談した。ある上司は「自分の人生をどうするかという話。大きな組織の部品の一つになって働き続けるか。それとも、お前も定年が見えてきているんだから残りの10年間、人生を懸けて好きな仕事をやるか。そう思えば、成功しようが失敗しようが(転職すれば)いいんじゃないの」とアドバイスした。

 別の上司は「首長は4年の任期しかないんだぞ。町長が代わったら、冷や飯食うことになるぞ」と諭してくれた。

 下地は両方の意見を踏まえて結局、「冷や飯食っても、今(施設局)の部品の中の部品であり続けるよりはいいかな」と転職を決断した。当時は那覇に住んでいたが、町職員に転身した日から新町にアパートを借りた。

 プロジェクト未来設置で15人体制の部が新設されたが、職員総数は調整監である下地の外部起用による1人増にとどまった。その分、庁内各部から要員を供出したため、他部門へのしわ寄せも生じた。9月1日の辞令交付式で宮城は「町民は国策との関連で50有余年、重い荷物を背負ってきた。町の未来を切り開く特別のチームを編成した結果としてのしわ寄せは、お互いが背負わなければならない。志なければ前進はない。目標到達の努力をしてほしい」と訓示し、全庁体制の取り組みであることを職員に意識付けした。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](55)第3部 推進協議会
町と両輪の取り組み

 嘉手納町によると、新町・ロータリー地区の権利者は268人。行政だけで全員の意思統一を図るのは至難の業だった。町とともに車の両輪となり、事業推進に取り組む権利者主体の機関が必要だった。

 宮城篤実が「成功した」と自負しているのが、権利者を束ねる「嘉手納タウンセンター開発事業権利者協議会」の設立だ。同会は1997年9月に第1回発足準備会を開き、計5回の発足準備会を経て99年2月に結成。99年10月には町内に事務所を開設し、町の全面的なバックアップを受け、権利者の相談窓口や啓発など本格的な活動をスタートした。

 宮城が会長として白羽の矢をたてたのが当時、ガス会社社長(現会長)で宮城の町議時代の先輩に当たる渡口彦信=読谷村在住。渡口は本土復帰をはさんで3年間、町商工会長を務めた際、新町の再開発を最初に企画した人物だった。

 渡口の会長就任要請について宮城は「(渡口は)かつて新町の一角にビルを建てる計画を立てたが、とん挫した。資金面で不安のある権利者たちは、権利を奪われてしまうという恐怖感があったと思う。彼は志の低い男ではないが、分かってもらえなかった。そういう経緯があったので、あなたが最初にやろうとした思いを一緒にやり遂げましょうと誘いをかけた」と語る。

 渡口は本部町で生まれた。中学生のとき、父親が万年筆店を営んでいた嘉手納町(当時北谷村)へ移住。米軍の本島上陸直前の45年3月、兵役検査が繰り上げされ、18歳で県立農林学校の卒業式を待たずに徴兵された。入隊後間もなく、沖縄戦の激戦地・糸満の摩文仁海岸で米軍の捕虜となり、一時、ハワイの捕虜収容所に送られた。

 戦後、嘉手納町へ戻った渡口は新町市場で家庭用品店を経営する。会長就任要請について「地権者でもあるし、土地も割合多く持っておった。町商工会長もしておるし、町議会議員もしておるんで、この人はいろいろと知っているだろう、ということだったと思う」と宮城の思いを忖度する。

 渡口は町商工会長時代から本土復帰に伴い商業の近代化は欠かせないと考え、新町市場の再開発構想を練っていた。渡口が「島懇のタウンセンター事業の卵」というのが、85年1月に設立した新町市場周辺地区再開発推進協議会の活動だ。渡口が会長を務め、町の助成も得てコンサルタントに調査を依頼するなど、本格的な計画立案にとりかかった。しかし、資金面の不安と後継者不足などから着手には至らなかった。

 「再開発で国から得られる補助は30%くらい。ある程度町の補助が得られても、出資の主体は民間の権利者が負わないといけない。しっかりした後継者がおればまだ安心できるが、店の規模も小さく、子どもたちはほかの仕事に就く。経営者が高齢化する中、果たして支払いができるかとなった。そうこうしているうちに時間だけが経過していった」

 島田懇談会で200億円を超える政府予算が確保された今回、資金面の課題はすでにクリアされていた。宮城が説くまでもなく、この機を逃せば二度と再開発はできない、という認識が渡口にはインプットされていた。

 渡口は「『権利者の会』では自分の権利を主張するのが目的みたいな印象を受ける。会員の意識の上でもこれでは困る。自分たちのまちづくりを役場に頼るのではなく、一緒になって取り組む気概をもつべきだ」と訴え、2年目に組織の名称を「推進協議会」に変更した。渡口によって、再開発を「推進」する組織としてのスタンスがより明確になった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](56)第3部 地権者
第戦後の混沌 強く反映

 県発行の「沖縄・戦後50年の歩み」―激動の写真記録―によると、嘉手納ロータリーの由来は「軍需物資輸送の混雑を解消するため、米海軍設営部隊により建設された」とある。

 再開発区域の権利者団体「推進協議会」の会長を務めた渡口彦信は、嘉手納ロータリーの成り立ちについてこう説明する。

 「ロータリーは終戦直後、米軍が整備した。歩いて中に入ることはできるが、地主が看板でも立てると、MP(米軍憲兵隊)がすぐに飛んで来て『壊せ』と命令した。地料ももらえないから、当時の首長が米軍工兵隊と折衝したら、家を建ててもいい、ということだった。実は米軍に接収されていなかった。制限区域だったんだが、米軍内部でもしっかり調整されていなかった。それじゃあ、ということでどんどん家が建った」

 1983年に町役場が発行した「分村35周年記念誌」によると、「ロータリー内返還」は58年と表記されている。

 米軍が一時、立ち入りを制限したロータリー地区は、終戦直後のパニック的な社会状況下に人々が押し寄せ、野放図に生活空間を築いていった新町地区のような混沌を避ける余地に恵まれた。とはいえ、後発の分、地権者の区画や路地の整備は比較的進んだものの、行政が積極的に介入し、計画的なまちづくりを施すには至らず、ロータリーの円形を維持するかたちで家屋や商店がすき間を埋めるように乱立していったという。

 新町・ロータリー地区の再開発事業での地権者説得の苦労について宮城篤実は「地域懇談会で地権者に構想を打ち出したときは、更地にして新しい街をつくるなんてできっこない、ほら吹いている、とみんなあきれ返っていた。だが、現実に私たちが図面なんかを見せ始めたので、本気だなということになって騒然となった」と振り返る。

 ロータリー地区には、庭付きの一戸建て住宅を新築したばかりの人もいた。新町地区の住民も「終の棲家」と信じて暮らす高齢者が多かった。権利者を対象にした地域懇談会では当初、「どうせ無理だ」、あるいは「余計なことを」という否定的なムードが支配していた。

 宮城はプロジェクト未来の再開発担当職員に地権者宅を戸別訪問し、協力依頼するとともに、家族構成や縁戚関係を徹底的に洗いだした名簿の作成を指示した。3・7ヘクタールの再開発区域にひしめく268人の権利関係者のデータからは、激戦によって廃虚と化した地に身を寄せ合い、ゼロからはい上がった人々の暮らしの断面が透かし絵のように浮かんできた。

 「戦争が終わって人々が一挙に嘉手納に集まって来て、地主の許可を得ないで無秩序に家が建てられた。米軍が全部焼き尽くして原っぱになっているからつくりやすい。そういう状況の中でまちづくりが始まったから、一つの建物に3人の地主がまたがっていたり、はっきりしないことがたくさんあった」(宮城)

 「米軍基地があると、基地関連の工事を求めて労働者がずいぶん集まって来た。新町などは元の住民と戦後移ってきた人が混在し、一つの屋敷に何所帯も入ったりして権利者も入り組んでいる」(渡口)

 こうした状況でも、権利者の事業への同意取り付けは意外なほどスムーズに進展した。その要因の一つに渡口は「先進地視察研修会」を挙げる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](57)第3部 旗振り役
町長自らムード形成

 推進協議会の「先進地視察研修会」は年1回行われた。計4回実施し、60人が参加。経費はすべて町が負担し、540万円に上った。名目は再開発の先進地視察だったが、旅程をともにすることで、会員どうしの親睦を深める目的も果たされた。これが推進協議会を団結させる潤滑油になった。

 宮城篤実は「権利者に再開発事業とは何なのかを基礎的なことから勉強してもらおうと、東京の都心や金沢市(石川県)など全国あちこちに研修へ行ってもらった。家族代表の全員を行かせるように、と指示した」と明かす。

 町によると、推進協議会には1998年度から2003年度まで計3820万円の補助金を町予算から拠出している。

 先進地視察をはじめとする推進協議会の啓発活動は、権利者の協力姿勢を引き出す上で有効な「懐柔策」として機能したのは確かだろう。が、町全体の世論を「再開発推進」の方向へと導く最大の牽引力となったのは宮城のリーダーシップだった。

 91年から町長を務め、盤石の町政をしく宮城の影響力は絶大だった。宮城は権利者の合意について「私が圧力をかけさせたわけでもない」と言うが、町建設部長下地朝一は「町長が町内のあちこちで『命懸けで取り組む』と発言し、嘉手納は今、再開発をやらないと空洞化してどうしようもなくなると唱えて回った。町のためという看板があるから、誰も反対しなくなった」と指摘する。

 元ロータリー地区住民で再開発区域の権利者だった嘉手納町議会議長の田崎博美=同町屋良在住=は「先進地視察に行くと、再開発は通常30~40年かかると言われた。それを嘉手納町では建築業者や大地主たちが圧力をかけて(異議を)押さえつける手法をとった。大きな事業だけに建築業者はやりたくてうずうずしていた。そんな中、不平を言ったら周囲から総スカンを食らう状況だった。個人個人に不満があっても、町長との関係もあるから表立って反対はできないという空気があった」と打ち明ける。

 こうした町全体のムードも後押しし、当初難航が予想された都市計画決定は01年10月、町が志向した第2種市街地再開発事業として認可された。国交省が事業にコミットする試金石とした節目の手続きを事業着手から4年でクリアした。

 が、町にとっての「最大の関門」は都市計画決定後に待ち受けていた。権利者との補償交渉は修羅場となる。

 宮城自らが旗振り役となり、新町・ロータリー地区の再開発が「千載一遇のまちづくりのチャンス」という認識は町内に浸透していた。このため、権利者も事業に表立って異議を唱える者はほとんどいなくなった。しかし、「事業には賛成だが、補償費を提示したら99%が反対となった」(下地)。「政府のカネだろう、町が損するわけじゃないのだから」と少しでも高額の補償費を要求する権利者が後を絶たなかったという。

 町は「鑑定や相場に見合わない補償は一切応じなかった」と強調する。宮城は「小さな町で1件でも特別扱いをしたら、すぐに情報が広まって収拾がつかなくなる」と担当職員への指示を徹底していた。それでも権利者側が不公平と受け取る事態は生じた。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](58) 第3部 補償交渉
「よそ者」起用が奏功

 補償交渉で町が権利者の不平や反発をかった要因の一つは、住宅や店舗の構造による査定額の違いだった。

 町は、公共用地の取得に際する補償基準を定めた「損失補償算定標準書」の規定に基づき、鉄筋コンクリート造の耐用年数は90年、木造は48年と設定した。このため、鉄筋コンクリート造の家屋の権利者は大半が新築時の9割前後の補償費を得た。一方、築48年を超える木造家屋の権利者は新築の2割程度しか補償されなかった。大半が9割補償の対象となる鉄筋コンクリート造の権利者との交渉は比較的容易に進んだが、戦後間もない時期の建築が多い木造住宅の権利者は腑に落ちず、契約を渋ったという。

 再開発前のロータリー地区で「鉄筋半分、木造半分」の家屋で暮らしていたという町議会議長田崎博美は「自分の家は60、70年物のスギ材を使っていた。シロアリにも食われていない。価値があるはずなのに、木造というだけで安価な査定をするのはおかしいと申し立てた」と振り返る。

 借地権の問題もネックだった。嘉手納町では、基地造成によって住んでいた土地を追い出された人たちに、地権者は「気の毒だから」などと、相場を度外視した安値で長年、土地を貸与していた。町によると、残留した借地権者の平均借地料は1平方メートルあたり月約54円。「それまで嘉手納町に、補償対象として借地権という概念は存在しなかった。善意で成り立っていたものに権利が付いたとき、地権者に大パニックが起きた」(町建設部長下地朝一)。

 ほとんどの人が長期契約のため法律上の借地権を保持していたが、町は混乱を避けたいのと、破格の安値で借地料が設定されてきた特殊事情も鑑み、地権者と借り手の話し合いを優先し、合意に至らないケースのみ施行者である町が介入することになった。

 町によると、地権者に恩義を感じて数カ月分の家賃を受け取ってすんなり出ていく人もいたが、インターネットで他地域の相場を調べ、通常の家賃を支払ってきたケースと同等の借地補償を要求し、地権者との合意が長引くケースもあった。また、ロータリー内の県営鉄道嘉手納線(軽便鉄道)の敷地だった県有地部分は、路線価の4割という高比率の借地補償を県が設定していた。このため、県有地からわずかに外れ、低比率の補償を提示された借地権者からは不満の声も上がった。

 借地権者だった田崎は「私の場合は、市場の評価で借地料を払っていた。そういう人はたくさんいた。私は地権者と3回ぐらいの交渉をしてある程度の権利は認められたが、法律に明るくない人たちは、よく知らないで一銭もとらずに借地権を放棄させられた。中には自分たちの権利関係をしっかり説明してもらえなかったという憤りを抱えて出ていった人もいる」と根の深さを語る。「権利者どうしで話し合えというだけでなく、町施行の再開発事業として着手した以上、町が責任をもって間に入り、事前説明も含め、積極的に仲介者として対応に当たればこういうことは起こらなかった」と田崎は訴える。

 宮城の指示に従って、「1件でも特別扱いしない」方針を貫いた下地は、権利者から「地上げ屋」「暴力団」と罵声を浴びせられたという。「要するに、補償費をけちって出て行けとは、ひどいやつだと。よそ者が来て偉そうに、となった」(下地)。が、町にとっては、地縁血縁に縛られない、「よそ者」の下地が補償交渉の責任者に就いたことが奏功したともいえる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](59) 第3部 転出の理由
一戸建て望めず不満

 計画決定前の内閣内政審議室との調整では、事業手法は「第1種市街地再開発事業」とし、(1)地区内の合意形成に努め、権利者の町外転出率を限りなく少なくする(2)どうしても不都合がある場合、あらためて第2種市街地再開発事業を検討する―方針が示されていた。だが、町はこの「原則1種」をはね返し、2種事業で都市計画決定を取得した。

 都市計画決定は、国交省が事業に関与するスタートラインと位置付けていた。このため、事業を進展させる上で大きな弾みとなり、町は早い段階で補償交渉に着手することができた。一方で、権利者の転出率が8割近くに及んだことの功罪は検証が必要だろう。

 町建設部長下地朝一は「2種事業は残留希望者に対し、町が資産に替えて床を分配する。結果的に残留希望者が少なかったことから、多くの床を確保せずに、今の規模のビル(地上6階地下1階が2棟)と低層住宅や店舗の分ですんだ」と説明する。空きテナントを抱え込まないよう、町は当初から最小限の保留床にとどめる方針で臨んでいた。残留希望者が予想以上に少なかったため、抽選などで入居者を絞る必要もなく、限られた再開発スペースに希望者全員が収まったという。

 「残る残らないについて、町はプレッシャーをかけなかった。権利者の自主的な選択に委ねた結果」(下地)というが、有識者懇談会委員の荒田厚らが危惧した「追い出しのイメージ」にはならなかったのか―。

 町議会議長で旧ロータリー地区の権利者だった田崎博美は再開発区域の権利者の8割が転出したことに、「犠牲者をいっぱい出した」と嘆く。

 町のアンケートによると、残留希望者は当初6対4の割合で過半数だったが、計画の熟度が高まり、再開発後の町のイメージが具現化するにつれ、3対7、2対8へと減少していった。この数字の変遷は、再開発に対する権利者の期待が失望に塗り替えられていくさまを端的に映し出している。

 権利者たちが残留を望まなくなった理由は明快だ。田崎の言葉を借りれば「設計上、無理があった」ということになる。「計画が固まるにつれ、いびつなかたちになることが見えてきた。ほとんどの人が、集合住宅みたいな中で住みたいという気は起こらなかった。それまで一戸建てで暮らしていた人が、3、4棟連なったアパート形式をよしとしなかった」(田崎)

 田崎自身、再開発後のロータリー地区に残留する選択肢もあったが、熟慮の末、同町屋良地区に転居した。その理由について、田崎は「庭に対する思い入れがあった。狭い庭でも草花や樹木を植えて緑の中で生活したいという思いがあった。ロータリーの中で暮らしていたときはネコの額ほどの広さしかなかったが、それでも確保できた。しかし、今の再開発区域の住宅ではおそらく土は踏めないだろう。家族も同じような気持ちだった」と明かす。

 島懇事業で再開発計画が浮上した当初、田崎は過去に町商工会主導で取り組んだ際にとん挫した経緯も承知していることから、「いいことではないか」と肯定的に受け止めた。だが、再開発が完了した今、まちづくりに託した夢は色を失いつつある。

 補償交渉での借地権者に対する町の突き放した対応や移転後の生活環境、再開発後の町の姿などをオーバーラップさせ、田崎は「今でも自分たちは追い出されたと不平不満を抱え、町外転出した人もいれば、こんな町に何の未練もないという言い方をする人もいる」と義憤を募らせる。

 市街地再開発は土地の高度利用が前提であり、2種事業は防災上きわめて危険とされるエリアなど緊急性、公共性の高い施設を要する特殊な地域に適用される。防衛局入居という「公共性」と、島懇事業の期限内という「緊急性」を優先するために、町民から「犠牲者」が出たとすれば本末転倒だろう。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](60)第3部 町内転出
移転の末、音の「地獄」

 旧ロータリー地区の権利者だった田崎博美が転居した屋良地区の土地は、再開発区域からの転出者のために6区画が用意されたという。

 田崎によると、現地説明会には権利者10人近くが参加したが結局、田崎の家族以外は全員、入居を拒んだ。理由は「騒音がひどすぎる」ことだった。

 嘉手納基地の滑走路わきに位置する屋良地区の米軍機騒音は同じ嘉手納町内でも新町やロータリーの比ではない。が、町議会議員の田崎に町外転出という選択肢はなく、町内でほかに確保できる宅地はなかった。

 凛とした枝ぶりの松が閑雅な趣を醸し出す。緑豊かな庭付きの自宅は田崎の希望に沿うものだったが、耳をつんざく戦闘機のごう音は、視覚と聴覚のギャップをこれ以上はないというくらい残酷なコントラスで切り裂く。

 自宅は防音工事を施してあるが、「とてもじゃないが話にならない。外の爆音は閉めきっても1デシベル変わるかどうか。会話もできない。防音の体をなしていない」状態だ。自宅で取材中も数分おきに米軍機が離陸し、そのたび会話は中断を余儀なくされた。ICレコーダーでこのときの会話を再生すると、鼓膜が破れそうなほど激烈な金属音が反響し、到底イヤホンをつけていられなかった。

 移転して今の率直な思いを尋ねると、田崎は一言、かみしめるように「爆音、それだけ」とつぶやいた。窓の外の庭を見やり、今度は淡々とした口調でつないだ。「地面はちゃんと確保されたが、ここは住めるようなところじゃない。地獄だなと感じている」

 再開発がなければよかったという思いがあるのか、と問うと、少し間を置き、「借地住まいだったが、(再開発がなければ)隣近所も一緒に残れたかなと。町全体のことや転出した人の思いをおもんぱかれば、今の状況ならなかった方がよかった」と吐露した。

 防衛省は1978年度以降、田崎の住む屋良地区の一部など嘉手納基地周辺で騒音の激しい「第2種区域」(WECPNL90以上)の移転希望者を対象に、建物の移転補償や土地の買い上げを事業化している。「第2種区域内に居住する住民をより好ましい環境に移転させるとともに、その跡地を買い上げ、基地と民家の間に緑化緩衝地帯を設ける」のが狙いだ。沖縄防衛局によると、同事業に基づく嘉手納町域の土地買い取りは2008年度末までに約1万7000平方メートルに上る。

 いったん国に買い取られた土地に、新たに民家を建てることはできない。このため、結果的に人口の頭打ちや減少につながる。町域の83%を基地が占める嘉手納町では、基地外も国有地に「侵食」される状況が日々進行しているのが実態だ。

 再開発の町内転出先として田崎があてがわれた土地が、国の買い取り対象になる爆音地域だったことは、嘉手納町内で快適に暮らせる宅地の確保がいかに困難かを物語っている。

 再開発の権利者は自らの判断で転出したのは事実だが、再開発後の町の姿が、多くの人にとって暮らし続けたいと思う魅力を欠いていた、というのが真相だろう。中には日々、やりきれない思いを抱え、転出後の生活を送る人たちもいる。希望したのに残れなかったという人が皆無だからといって、これを「自主的な選択」とみるか、「追い出し」とみるか見解は分かれるところだろう。

 田崎は実感を込めて言う。「自分たちの権利を手放して再開発に協力したにもかかわらず、こういう状況ではまちづくりに参加できませんよという人は多い。まちづくりに懸けていた人たちの情熱を挽回するにはどうすればいいのかがこれからの課題」(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](61)第3部 町外転出
土地へ愛着断ち難く

 嘉手納町は再開発で町外に転出した権利者について「読谷村、北谷町、沖縄市などに移転しているが、人数などは把握していない」と関知しないスタンスだ。

 嘉手納町では、再開発前から米軍施設の返還が相次ぐ隣の読谷村への人口流出が続いている。嘉手納町より地価が安く、土地や家屋を確保しやすいことから、再開発で転出した人の多くも同村へ流れたとみられている。が、町外転出者の思いは複雑だ。

 再開発に伴って新町市場で長年営んでいた商店を閉じ、5年前に読谷村へ転居した50代の女性は「再開発に反対ではなかったが、まさか町外に出ることになるとはね」と、ため息交じりに思いを打ち明ける。

 転居先として町から斡旋されたのは再開発区域内の集合住宅だった。しかし、「今更、集合住宅で暮らしたくない」と転出を選択。町内で条件に合う一戸建ては確保できず、土地を所有していた読谷村に新築を建てて引っ越した。

 ところが、読谷村に移転後も、小学生の子どもは転校したくないと言い張ったため、住民票を嘉手納町に残し、町内の小中学校に通わせ続けた。

 転居先の読谷村の自治会には今も未加入だ。「読谷には(村外からの転入者を指して)『その他組』という言葉がある。読谷でも字(自治会)に入れないということはないが、無理をしてまで入る気もしない」とこぼす。

 宅地開発が進み、県内外から毎年1500人前後の転出入者のある読谷村は近年、自治会加入率の低下に頭を悩ませている。かつては保証人が必要な自治会もあったというが、今は会費を納めれば加入できる。村や行政区も転入者の自治会への加入促進に取り組んでいるが、負担金の支払いへの抵抗もあり、村内23区の平均加入率は5割強にとどまっている。経済的な理由に加え、読谷村は元の字出身者どうしの結束が強い土地柄のため、転入者の側が加入を尻込みするケースも見受けられるという。

 女性は買い物や友だちと会うのも嘉手納町に出向く。一日の生活の大半は嘉手納町で過ごし、自宅のある読谷村に戻るのは「寝るときだけ」。婦人会は今も「なあなあ」で嘉手納町のメンバーにもぐりこませてもらっている。「このままだと向こう(読谷)の老人会にも入れないし、今は住民票もこっち(嘉手納)ではないし。すごい中ぶらりん」。住民登録上は読谷村民だが、村のコミュニティーとの接点は一切ない。周囲の嘉手納出身者の多くも同じような状況だという。

 新町市場での暮らしは隣近所で「普段から『おーい』と呼び合う」仲だった。古くからの顔なじみで占める気の置けない庶民的なコミュニティーは、再開発で「みんなばらばらになった」。今はかつての隣近所と連絡を取り合うこともないが、転居先で商売を続けている人の話も聞かない。「転出する前からそんなに儲かっている状況じゃなかった。みんな高齢で後継ぎがいなかったから、これ(再開発)を機会に店じまいを、という感じになったのでは」と説明する。

 取材を受けることに戸惑っていた女性には、誰かを非難したり、愚痴をこぼしたりといったふうはなく、むしろひょうひょうと質問に答えていた。その女性が唯一、力を込めて「主張」したのが慣れ親しんだ土地への愛着だ。

 「本当は嘉手納にずっといたかった」。最後にぽつりとこぼした。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](62)第3部 再開発肯定派
町外の「勢い」に活路

 商業関係者にとって再開発に伴う転出は、住居だけでなく職種の転換にもつながる深刻な問題だった。

 町商工会関係者は「仕方なく出て行った人もいれば、補償費に不満をもっている人もいる。特に長年商売してきた人にとっては、この地でようやく築いた人脈やお得意さんを手放し、別の土地で一から商売を始めるのは死活問題」と話す。

 着工前に町が作製した再開発後の「新町店舗のイメージ」は、2階部分にループ状の空中遊歩道をはり巡らせたショッピングエリアのイラストが描かれている。が、現実には「再開発は高度利用が原則だが、嘉手納では店舗は1階しか需要がない。商売をしている人は2、3階に店舗を構えようとはしない」(町建設部長下地朝一)ため、空中遊歩道は存在理由をもち得なかった。

 とはいえ、後継ぎのない高齢の経営者が主だった新町市場とは異なり、ロータリー地区で店を構えていた人たちは、転出後も同じ商売を継続しているケースが多いという。その中には、店舗移転で打撃を浴びながらも、再開発自体は肯定的にとらえる向きもある。

 ロータリー地区で約25年間、メキシコ料理店「オブリガード」を経営し、5年前に移転した読谷村の店舗で店長を務める津波古敏子は再開発について「結果的にはよかったのでは」と受け止めている。「個人の商店は大きな影響を受けたが、商店街や町全体のことを考えれば、交通量が多い地域で十分な駐車場もないままでは、いずれどうにもならなくなっていた」とみるからだ。再開発エリアには公共の無料駐車場が3カ所に計91台分配置されている。

 津波古が切り盛りしていたロータリー地区の料理店の経営は順調だった。「再開発はずっと先の遠い話」と思っていたが、再開発の工事が始まると、移転を余儀なくされ、読谷村とうるま市内に新店舗を確保した。

 再開発終了後、なじみ客から嘱望され、「本店」があった旧ロータリー地区への復帰も検討した。再開発区域の空き店舗を買い取る選択もあったが、採算性を考慮した結果、嘉手納町での再出店は断念したという。

 ロータリー地区でともに商売を営み、町外に転出したかつての通り会のメンバー15人は今、親睦会「友愛会」を結成している。一緒に旅行したり、もちつきやゴルフなどのイベントを楽しむ仲だ。かつては通りの活性化をテーマに日夜、議論を交わしたが、今は旧交を温める同窓会のような集まりになっている。

 津波古は13年前に嘉手納町から読谷村へ住まいを移したが、読谷村の自治会には今も加入していない。しかし、孫が今年、読谷村の小学校に入学したことから、「学校行事などのかかわりを通じて、これから読谷村の住民という自覚もわいてくるのでは」と予感している。

 5年ごとの国勢調査によると、嘉手納町の人口は1965年の1万4392人をピークに、ほぼ横ばいを続け、現在約1万3800人。一方、読谷村は1万6574人だった50年以降、増加の一途を遂げ、現在4万人突破を目前にしている。「村」が「町」の約3倍という人口比だ。

 再開発を契機に、読谷村など「勢い」のある周辺自治体に転出し、そこでの暮らしや商売に新たな活路を見いだす権利者も少なくない。その背景には、嘉手納町の将来展望が再開発によっても容易には開かれそうにない現実を、シビアに見極めた上での判断という底意もうかがえる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](63)第3部 合併
2度の協議 立ち消え

 嘉手納町と読谷村の間には過去2回、合併論議がもち上がっている。1回目は合併の一歩手前まで進んだ1970年代、2回目は全国に「平成の大合併」の号令が響いた2000年初めだ。

 1回目の合併論議は、嘉手納の「村」時代にさかのぼる。1973年に嘉手納・読谷の両村議会で合併協議会規約が議決され、翌74年1月に合併協議会が発足した。第1回会合で当時の読谷村長古堅宗光は「両村は地形的にも似通っており、人事、経済、文化の交流も深い。地域の新しいまちづくりを共同で進めていこう」、嘉手納村長古謝得善も「合併の目的はあくまでも住民福祉の向上にある。住民の現実的な立場にたって合併を考えていきたい」と、ともに積極姿勢を打ち出している。

 その後の協議会で、合併は「対等」とし、時期は74年9月1日とすることなどがとんとん拍子で固まった。新町名の公募も実施され、「比謝川町」など約100種類300通の町名が両村民から寄せられた。

 合併が現実味を帯びるにつれ、狭あいな嘉手納から読谷へ転居する嘉手納村民が相次いだ。

 ところが、同時期に読谷村内で計画されていたアスファルト工場建設をめぐる問題で住民の反対運動が激化。これが引き金となり、読谷村長古堅が辞任に追い込まれた。

 これを受けて協議会は、合併期日を75年3月1日に延期すると決定した。が、読谷村長選は合併問題について「十分時間をかけ、各方面にわたって慎重に調査研究し、村民とともに検討し、村民意思を尊重して結論を出す」と慎重姿勢の山内徳信が無投票当選。このため、合併は白紙となった。

 宮城はこの合併論議の際、嘉手納村議だった。「私は合併推進派だった。合併を見越し、議員や役場職員を含む多くの人が読谷へ転居していた。にもかかわらず、一方的に合併を白紙化されたことに抗議し、議会の声明文を書いた」。嘉手納村議会は75年3月、合併破綻について「読谷村側の一方的都合により生じたもので、少なくとも自治体間の信頼関係を損なうもの。読谷村側は全面的にその責めを負わなければならない」と厳しく指弾する声明文を決議している。

 平成の大合併の際も、宮城は合併に前向きだった。嘉手納町、読谷村に北谷町も交えた3町村は2002年12月に事務レベルの合併研究会を発足。同研究会は03年8月、合併後の05~14年度までの10年間で人件費など計81億円余の節減効果を予測したシミュレーションを報告する一方で、「合併の直接の効果は従来の財政負担が一部軽くなるだけで、必ずしも自立力・経済力が増すことにはならない」と指摘。さらに「合併を検討している3町村は嘉手納基地により分断された形となっており、土地利用の連担性が確保されておらず、(中略)町村間の整合性や平等性の確保が難しいと思われ、地域の振興計画や住民活動の面で効率が悪い」などとするデメリットも提示した。

 これを受け、3首長は合併特例法期限内の合併を断念し、「これからも検討を続け、いずれかの機会に合併を進めたい」と持ち越しが決まった。

 3町村合併の阻害要因にも挙げられる嘉手納基地だが、周辺自治体の合併は同基地にとって悪い話ではない。

 仮に将来、嘉手納町が読谷村などと合併した場合、町域の83%が基地に侵食されている「枕ことば」は消失する。「同じ自治体内でなら」という移転希望者が増加し、爆音にさらされる第2種区域で国が進める土地買い上げや移転補償は加速化する可能性もある。

 嘉手納基地を今後も安定的に維持したい日米にとって、嘉手納町の合併は「目の上のこぶ」がとれる好機かもしれない。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](64)第3部 人の流れ
基地の弊害 浮き彫り

 町面積の83%を基地に侵食された嘉手納町では「将来的に読谷村などとの合併は欠かせない」との危機感は根強い。すでに消防機関やゴミ、し尿処理など8分野で読谷村などとの一部事務組合や広域連合方式による広域圏の行政サービスをスタートしている。

 宮城篤実は「嘉手納はこんな小さな空間に人々がひしめきあい、譲り合って暮らしている。嘉手納には人工的な設備が行き届いたよさはあるが、それ以外は土地の広さにしろ、読谷にはいろんな可能性がある。将来はそれぞれの地域のよさを生かしながら合併するのが自然だと思う」と展望する。

 元嘉手納町企画総務部長の塩川勇吉は1970年代の合併論議の際、合併を見越し、嘉手納から読谷へ転居した一人だ。「合併は将来せざるを得ないこともあるかもしれないが、自分の田畑はしっかり整備しないといけない。自分の畑が荒れ放題で『一緒に』と言ってものってこないと思う。再開発にあぐらをかいていてはいけない」と述べ、継続的にまちづくりの充実、発展に取り組む必要性を強調する。

 町議会議長で旧ロータリー地区の権利者だった田崎博美は「読谷や北谷とも将来的に合併は避けられないだろうが、嘉手納と合併しても駄目というふうになると嘉手納は生き残れない。合併するとしても吸収合併というかたちにならざるを得ない」と警告。「そういう危機感をもって将来のまちづくりに取り組むためにも、町外に転出した権利者からも『一緒に』という気持ちを引っ張り出すにはどうすればいいか、今から考えていく必要がある。そうでなければ自治体間競争にも負けていくと思う」と唱える。

 嘉手納町関係者が将来的に合併は避けられない、と口をそろえていることについて沖縄大学名誉教授の新崎盛暉(沖縄現代史)は「島懇事業による再開発は結局、一時のカンフル的な役割にすぎず、長期的な発展につながらないということ。あれだけ知恵を絞って、政府と駆け引きし、カネをとってきたはいいが、それが嘉手納町の将来にどう寄与するのか、クールに見据えないといけない」と訴える。

 嘉手納町の再開発について新崎は「むしろ負の教訓を残した」との見解だ。転出が権利者の8割を占めたことに、「補償費などを与えられ、もっといい生活ができるという判断で人々が移転を選択していったのだとすれば、結果的に防衛省が進めている爆音地域の移転補償や土地買い上げと変わらない。また、仕方なく離散していった人たちにとっては、地域のネットワークを破壊されたことになる」と指摘する。

 読谷村は本土復帰時の72年には米軍基地占有比率が73%に上ったが、「村ぐるみ」といわれたかつての反基地闘争も奏功し、現在は36%まで返還が進んだ。これと反比例するかたちで人口は増加の一途をたどっている。

 これに対し、いまだに83%を米軍基地で占められている嘉手納町は、再開発によっても人口が増加に転じる兆候は見られない。これは必然的に将来予期し得る合併にも不利な要素となる。

 嘉手納町と読谷村の対比から浮かぶのは、まちづくりに及ぼす基地の弊害だ。基地と引き換えの振興策で直接潤うのはひと握りの住民にすぎない。基地の維持を前提にどれだけ巨額の国庫を引き出しても、住民が行政任せの体質に染まってしまえば、「自治」や「協働」に欠かせないマンパワーは育たず、真の活性化にはつながらない。

 基地返還によってもたらされる「可能性」こそ、人々を惹きつけ、奮い起こす最も有効なまちおこしの活力源となることを両町村の人の流れが明示している。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](65)第3部 嘉手納方式
発注工夫し地元優先

 「ボーナスの公共工事」ともいえる島懇事業で、直接の恩恵を受けるのは事業を受注する建設業界だ。建設業界を支持母体にもつ多くの首長にとって、島懇事業でどれだけ大きなパイを奪取できるかは、まさに力量が問われる局面だった。

 宮城篤実は総事業費の4分の1という断トツの事業費を確保しただけでなく、再開発事業の着工段階で確実に地元業界が潤うシステムの確立にも手腕を発揮した。

 宮城が「町施行」にこだわった理由について、町建設部長下地朝一は「ゼネコンを排除するためだった」と説明する。「再開発の恩恵を町全体に」という宮城の方針に従った結果、再開発に関する工事は「嘉手納方式」という独自の業者発注システムが生まれた。

 下地は宮城から「外観にこだわらなくていい。設計から地元の業者が参入できるように」と指示を受けた。基本設計から地元業者に優先受注させることで、特殊な技術力をもつゼネコンにしかできないような工法やデザインをあらかじめ排除する狙いだ。この地元優先発注のための指名競争入札が「嘉手納方式」だ。

 町によると、同町内には、特Aランク業者が4社、Bが1社、Cが1社、Dが6社の計12社の建設業者がある。例えば、特Aランクの工事は地元4社を含む8社を選定する。仮に9社以上を指名した場合、町外業者が過半数を占める。そうなると、町内業者が入札の主導権を握れなくなることを念頭に置いたものだ。町が町外業者の指名を排斥するわけにはいかないため、指名には入れる。ただし、町内より町外の業者を多く指名することはしなかった。町にはランクによって指名業者数を規定する「指名基準」が設定されていなかったため、ある程度町の恣意的な裁量を差しはさむ余地があった。無論、どの業者が落札するかについて町は関知しない。が、結果的には「9割ぐらいは町内業者が応札したので、よそからは『嘉手納方式』と言われるようになった」(下地)。

 零細のDランク業者が6社と多いのも町の特徴だ。このため、大手だけに仕事が集中しないよう、特AにDランクの業者を組み合わせるJV(共同企業体)の設定パターンを多用した。本来、特AとのJVは、技術力の近いAかBランクと組ませるのが常識だが、これにこだわらず、町内のDランク業者に仕事が回るよう、あえていびつなJVをリクエストした。

 この結果、再開発事業の工事のうち、町外業者の受注は約1割にとどまった。また、県外業者は1社も指名せず、大手ゼネコンは一切工事にからむ余地がなかった。「町長と私に相当なプレッシャーがかかったが、ゼネコンは入れなかった」と下地は胸を張る。再開発事業の専門的知識がなかった下地は、町が委託したコンサルタントを最大限活用することで課題をこなした。

 下地は「コンサルに使われるかたちになると、ゼネコンが入ってくるような設計にノーと言えない。再開発のことが分からなくても、施設局で補助事業を20年経験した手前、コンサルの使い方は分かる」と明かす。専門的知識をもつ東京のコンサルは、たいていは大手ゼネコンと提携している。このため、コンサルは地元業者ができない高い技術力を要する開発計画を採用したがる傾向がある。「ほっておいたら、彼ら(コンサル)はゼネコンの図面を書いてくる」(下地)。コンサルに「これが常識です」と言われても、下地は「嘉手納の常識ではない」と突っぱねた。コンサルの提案をうのみにせず、宮城の意思に沿うかたちで修正を促すのが下地の役割だった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](66) 第3部 再開発の明暗
くすぶる業者の不満

 「国の補助で再開発を行い、建設した施設や土地を町所有にし、国から家賃を取る。そんなシステムはわが国で唯一ではないか」

 宮城篤実が自賛する嘉手納町の再開発事業。総事業費の9割に当たる約155億円を国庫で賄った上に、主要テナントの沖縄防衛局が毎年億単位の家賃を支払う―まさに至れり尽くせりの事業システムだ。それでも、これに飽き足らない宮城は町内の分配益アップを図るべく、防衛局のテナント料についても「嘉手納方式」を要求する。

 町建設部長下地朝一は、宮城から「防衛局には那覇から業者を連れて来させるな。すべて町内の業者を使わせろ」と指示を受けていた。

 町は鑑定で1平方メートルあたり平均2000円の単価をはじき出していた。これに基づけば、防衛局から最大2億2000万円のテナント収入が得られる換算だ。ただ、この場合、防衛局は国の規定で委託業者をすべて一般競争入札で決めることになっている。そうなると、競争力の弱い町内業者が入り込む余地はなく、維持管理にかかる清掃、警備などを請け負うのはすべて町外業者となる可能性が高くなる。

 そこで下地は防衛局と折衝を重ね、一部の床を町の占有とする手法を編み出した。例えば、業務機密にかかわる職員の執務室の床は防衛局占有とするが、廊下や階段、食堂、売店などは町占有とし、防衛局からは共益費のかたちで別途徴収する。これにより、町が随意契約で町内業者に清掃や警備業務を発注できる仕組みが整った。同様に、食堂は町母子寡婦福祉会、売店は町社会福祉協議会に、それぞれ町が運営を委託している。

 防衛局の占有面積が減ったことで、町が国から得るテナント料は年間1億9000万円となったが、警備や清掃など約3300万円分の業務を町内で確保することに成功した。

 しかし、町内でも再開発工事や防衛局移転の恩恵に授かるグループは限定され、明暗は分かれている。

 町商工会加盟の建設業者数(電機・水道関係などを含む)は2000~07年は70~80台だったが、08年以降は潮が引くように53社まで減少。町商工会によると、建設業者は再開発関連工事の需要を見込んで町外から一時的に移転し、工事終了に伴い、町外へ撤退した。全国的な公共工事の減少に伴い、廃業も数社に上るという。

 こうした中、「再開発工事で潤ったのは規模の大きな元請けのみ」との不満も町内にくすぶっている。

 再開発や防衛局移転を契機に、町内の商店街を束ねて昨年5月に発足した嘉手納ニュータウン商栄会の会長安森盛雄は「町内優先発注システムで実際、町内の建設業者は潤い、つぶれそうな会社も生き延びた。しかし、下請け業者はどうだったか」と提起する。「元請けとして受注した町内の建設業者は、発注する側になると必ずしも町内業者を優先せず、下請けをとことんいじめて利益の上がらない数字をつきつけてくる業者もあった。これでは不公平感が生じ、町内全体が潤ったという実感はわかない」と嘆く。

 町商工会は防衛局が移転した昨年4月、歓迎ムードを高めようと、「めんそーれ嘉手納町へ」と書かれたのぼり200本を通りに掲げた。

 「1年たってどうか。ほとんどの商店主は変わんないね、と言っている。再開発でリニューアルしたメーンの通り以外は今も閑散とし、空き店舗も出ている」(安森)。防衛局は職員が個人的に支払う飲食代などを除き、予算処理を伴うものはすべて入札で発注するため、「商店街として防衛局にアプローチできていない」(同)状況だ。

 安森は今、嘉手納基地と合同のフリーマーケットの定期開催を模索している。「あくまで商店街の活性化のため。嘉手納基地は有名。知名度のあるものを利用しない手はない」。藁にもすがる思いだ。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](67)第3部「超法規的」事業モデル
税金使途にいびつさ

 嘉手納町の再開発事業の中核施設であるビル2棟(6階建て地下1階)はフル稼働状態だ。宮城篤実は「借金を残すかたちのものは何もやっていない。まったく無駄がない」と誇示する。

 町は町民サービスにかかわる公共施設が入るビルを「ロータリープラザ」、沖縄防衛局がキーテナントのビルを「地域振興施設」と命名。ロータリープラザの中央公民館や子育て支援センターなどについて町は「町内に分散配置していた既存施設を集約してスクラップ&ビルドを図った」としている。

 一方、地域振興施設からは年間約2億円(沖縄防衛局1億9000万円、入管約730万円)のテナント料が町収入となる。再開発区域全体ではほかに、商業施設から年間約3000万円、計32戸の借家住宅の入居者からも家賃収入が町の懐に入る。

 今年3月の嘉手納町議会。宮城は後期高齢者医療制度の保険料均等割分の助成など町独自の福祉施策を打ち出した。財源については施政方針演説で「1億円を超える新しい施策の財源は沖縄防衛局を中核とする地域振興施設からの賃料収入を充てる」と明言した。

 だが、このアピールは会計検査院を刺激するものだった。施政方針演説前の2月10日、後期高齢者医療制度の助成財源について「島懇事業による沖縄防衛局の入居を柱とする嘉手納タウンセンター事業の収入を充てる」との町の見解が新聞報道で出た。町によると、この直後に会計検査院から連絡が入った。2月26日に町を訪れた調査員は「補助金でつくった施設で収入を得るのはおかしい」と注文を付け、関係書類の提出を求めたという。

 補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律(補助金適正化法)は7条(交付の条件)で「各省庁の長は補助事業等の完了により、補助事業者等に相当の利益が生ずると認められる場合においては、補助金等の交付の目的に反しない場合に限り、その交付した補助金等の全部または一部に相当する金額を国に納付すべき旨の条件を付することができる」と規定している。

 9割の国庫補助で整備した施設のテナント料として、政府機関から年間約2億円の利益を得ている嘉手納町の実態は、補助金適正化法の趣旨に照らし、問題はないのか―というのが会計検査院の調査員の着眼点だった。

 町は「地域の活性化という島懇事業の目的に資するかたちで運用しており、法的に何ら問題はない」と突っぱねた。町によると、調査員は「補助金の適正使用の観点から調査する」と会計検査院の立場を強調したが、町との間でそれ以上、踏み込んだやりとりはなかったという。

 嘉手納町の「超法規的」な事業モデルは島懇事業の中でも異形だ。会計検査院の指摘は、税金の使途をめぐる全国一律の物差しでは計れない嘉手納町のいびつさを図らずも浮かび上がらせた。過剰な基地負担とともに、地域限定の特例措置を政府から付与された嘉手納町は、沖縄の抱える矛盾の縮図でもある。

 普段は覆い隠され、町外から気に留められることのない嘉手納町のひずみが、いったん公の場で問題提起されたとき、その現実は国民にも県民にも重しとなってはね返る。

 県外の国民が嘉手納町の実態に触れることは、日本の安全保障が沖縄に依拠することで成り立っている「見たくない現実」と向き合うことになる。県民にとっても嘉手納町の今は、必ずしも自治の理想である自律や自立とは相いれない状況であることを認めないわけにはいかないのではないか。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](68)第3部 補助金の「進化」
市町村操るノウハウ

 島懇事業でメーンの再開発事業をもぎとっただけでなく、間接的とはいえ、事業利潤を福祉施策の充実に振り向け、その意義をはばかることなく公言してきた宮城篤実は、基地とリンクした政府補助金の付加価値を高めてきた先駆者でもある。宮城は1997年度から交付された普通交付税の基地関連経費傾斜配分も、嘉手納外語塾というソフト事業に充て、それをPRしてきた「実績」がある。

 政府も防衛関連補助金の「政策効果」を見逃さなかった。基地とリンクした政府補助金の使途緩和も島懇事業が節目となった。

 防衛関連補助金の「元祖」ともいえる特定防衛施設周辺整備調整交付金は、補助対象を「交通施設」や「教育文化施設」「社会福祉施設」など公共施設に限定してきた。島懇事業はこうした制限を一切取り払い、「雇用機会の創出」「経済の自立」といった懇談会の趣旨に沿えば、あらゆる事業を起案することができた。

 これを踏襲するのが北部振興策の「非公共分野」事業だ。ソフト事業も対象とする再編交付金は、基金に積み立てて複数年度の利用も可能になった。

 「使いやすさ」に磨きをかける防衛関連補助金への自治体の依存度は、必然的に高まる傾向にある。

 キャンプ・ハンセンの陸上自衛隊の共同使用を容認し、再編交付金を得た3町村のうち金武町は学童保育の拡充などに充当。宜野座村、恩納村も村民の健康づくり助成事業など福祉や教育分野に充てている。

 キャンプ・シュワブ沿岸部への普天間代替施設建設受け入れの代償として再編交付金を受け取った名護市は、救急ヘリの運航再開に向けた運営補助金としても活用している。

 琉大教授島袋純(政治学)は市町村が困っているところに手が届く防衛関連補助金の「進化」に警鐘を鳴らす。

 国民の健康で文化的な生活を保障する責務は国にあるとされ、基本的には法律で国の財政支援の基準や内容が明示されている。自治体はそれを基盤とし、福祉・教育分野の事業については本来、安定した財源を確保しなければならない。にもかかわらず、防衛省の胸三寸で停止もあり得る不安定な再編交付金に依拠し、防衛省の顔色をうかがって福祉政策などを維持していく自治体のありようは、行政の施策の進め方として極めて不健全であり、市民への責任も十分に果たせない、と島袋は問題視する。

 再編交付金は、防衛相が交付対象となる市町村を指定。進ちょく次第では減額し、ゼロとすることもできる。「米軍再編への賛成が遅れるほど総額が減る仕組み」(防衛省幹部)だ。

 防衛関連補助金をまちづくりに積極活用してきた宮城の政治手法について、沖縄大学名誉教授の新崎盛暉(沖縄現代史)は「見方を変えれば、政府に踊らされ、結果として政府に対応モデルを提供したのでは」とみる。

 政府は島田懇談会で、基地所在市町村にピンポイントでアプローチする政治的意義を見いだした。この沖縄での成功体験が、効果的に市町村を操る再編交付金へとつながっている、との見解だ。「政府の方がはるかに上手。基地所在市町村を手玉にとるノウハウを蓄積された」と新崎は指摘する。

 米軍再編で空母艦載機移転が浮上した岩国基地を抱える山口県岩国市は、住民投票で反対が約9割を占めると、SACO交付金を凍結され、市庁舎建設工事の中断に追いやられた。「兵糧攻め」によって有権者の民意を反転させた政府はその後、新市長が容認を表明した時点でSACO交付金を復活、再編交付金の支給対象に指名した。

 政府が「先進地」の沖縄ではぐくんできた「アメとムチ」政策は本土に拡散、応用されている。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](69)第3部 島懇総括
財政圧迫の「重荷」へ

 かつて、内閣官房長官とともに沖縄開発庁長官も兼務した野中広務は、島懇事業についてこう評価する。

 「沖縄開発庁(現内閣府)が沖縄振興を自分たちのもののように考えるのは間違っておるし、行政的、財政的な考え方だけではいけないので、それぞれの市町村の首長あるいは住民の立場を考えて島田懇談会ができた。島懇事業の果たした役割は大きい」

 また、総事業費を最大1000億円としたことに関しては、「それはまあ、一つの『つかみ』でしてね。1000億円を下回るようなことを、当時の沖縄に言うことは政府の熱意を疑われるという気持ちがありましたからね」と振り返る。

 米軍基地に正面から「ノー」と主張し始めた「当時の沖縄」を鎮める政策意図から生み出された島田懇談会の果たした政治的役割は、その後の防衛省の基地政策の「進化」につながったという点からも確かに大きかった。

 ただ、経済の自立や地域活性化といった島懇本来の事業目的から成否を検証した場合、どうなのか。

 2008年11月、内閣府が島懇事業の「実績調査報告書」をまとめた。

 政府関係者によると、政権交代を見据え、野党が税金の無駄遣いをチェックする姿勢を強めていることも調査の背景にあるという。

 政治、経済情勢の変化に伴い、公共事業の費用対効果を問う民意は年々高まっており、安保政策と密接にからむ国策として実施された島懇事業も「聖域」ではなくなっている。座長の島田晴雄が事業費確保をめぐって財務省と折衝したとき、担当官が危惧した「(予算が)コロコロと垂れ流しになっていないか」が、国民の目にさらされる局面を迎えたといえる。

 島田は「沖縄の公共工事ってのは箱ものはできるが、中身がないから回らない。回らないからお客が来なくて赤字になって劣化するか、また予算をつけて同じ失敗を犯す。国は30年間、それを繰り返してきた。結局、建設費は本土のゼネコンへいき、沖縄には何も残らない。ドンガラ(胴殻)の廃虚みたいなものを繰り返しつくってきたのが沖縄支援の在りようだった」と従来の沖縄振興をばっさり斬るが、島懇事業はどうだったのか。

 島懇事業は、25市町村(合併により現在21市町村)から提案されたプロジェクト(38事業、47事案)を1997年度から実施し、2007年度で継続中の1事業(金武町のふるさとづくり整備事業)を除いて終了した。予算額は本年度までの累計で約836億円に上る。

 調査報告書は総括にあたる「今後の展望と課題」の項で、島懇事業の成果について「有識者の意見を聴取した結果、(中略)おおむね相応の成果があったと認められるとする評価が大勢を占めた」と結んでいる。

 しかし、この総括には違和感がぬぐえない。

 沖縄防衛局長真部朗は、08年7月5日に嘉手納町で開かれた島懇事業の完成式典の来賓祝辞でこう述べている。

 「(島懇事業は)必ずしもすべてが今、順風満帆というわけではないというふうに聞いております。いまだ事業の理想と完成された施設等の運営の現実のギャップを前にして苦心を重ねておられる自治体もないわけではないというふうに側聞しております。そのような中にありまして、嘉手納町におかれましては本事業の成果がすべて十二分に活用されているというふうに承知しております」

 福祉施策に振り向ける余剰金を生む嘉手納町のような「健全運営」を維持しているのは、島懇事業の中では例外に属する。自治体にとって「つかみカネ」の財源で手掛けられた島懇事業の多くは10年余を経て、財政面で地元を圧迫する「重荷」になりつつある。そのほんの一例を紹介したい。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](70)第3部 ギャップ
のしかかる財政負担

 「個別事業ごとにみると、稼働率や施設のさらなる有効活用、広域連携の必要性等の課題を有するものもある」

 「今後、事業によっては安定的に維持・発展させていくため、民間事業的発想に基づき、減価償却の考え方を取り入れた事業運営が、より一層求められてくるものと考えられる」

 内閣府の報告書のこうした指摘は具体的に何を意味するのか。

 島田晴雄は座長を務めた当時から「島懇事業は1回限り。一度のお金を知恵を絞って永久に使えっていうモデル。だから、これでずうっと回ってもらわなくちゃ困る。だからコンテンツが重要なんだ」と繰り返し唱えていた。「回ること」が原則だった。が、現実と理想のギャップは、維持管理や運営にかかる財政負担というかたちで自治体につけが回っているのが実情だ。

 予算額約17億8000万円で整備したうるま市の「きむたかホール」は当初計画で維持管理などにかかる歳出を2838万円とし、ホール稼働率58%と見込んでいた。が、稼働率は25%(02年度)~65%(05年度)と変動が激しく、07年度は44%。歳出はオープンした01年度から04年度までの間は3470万~3930万円の幅で推移し、当初計画を大幅超過した。05年度以降は人件費や光熱費の抑制に取り組み、2450万円(05年度)~2190万円(07年度)で推移。それでも年間2000万円前後は自治体の一般財源からの補てんに頼らざるを得ない状況だ。本年度は3000万円近くを計上しており、同ホールが開業した01年度以降の自治体財政からの補てん総額は、2億円を超える見通しだ。

 うるま市は05年の合併後、石川市、具志川市、勝連町、与那城町の旧4市町の島懇事業を継承した。この結果、同市は「箱もの」4施設の運営や維持管理にかかる負担も抱えることになった。4施設の運営管理費は08年度の単年度実績で8300万円余に上る。

 このうち、市直営の「舞天館」(旧石川市)と「じんぶん館」(旧具志川市)については管理運営コストの縮減を図るため、今年4月から指定管理者制度を活用し、民間への運営委託に切り替えた。今後は運営状況を見ながら、市の管理委託料を漸次削減していく方針だ。

 しかし、民間委託で運営が飛躍的に好転する保障はない。

 予算額約21億8000万円で整備した第三セクターの海洋療法施設「かんなタラソ沖縄」の年間利用人数はオープンした03年度に17万5546人だったのが、08年度は11万4831人に漸減。宜野座村は2500万円の出資金に加え、06年度に1250万円、07年度に2010万円、08年度に1500万円を追加増資し、08年度現在の村の出資額は計7260万円、出資比率は66%に達している。

 島懇事業の「優等生」とたたえられる嘉手納町の再開発事業も、個別の採算を精査すればシビアな数字が浮かぶ。町の公共施設が入る「ロータリープラザ」の管理・運営にかかる歳出は08年度実績で約2億1200万円に対し、歳入は約1100万円にすぎない。この中には、温水プール付きの健康増進センターなど再開発後に新設された施設の運営にかかるコストも含まれている。こうした事業全体の採算をカバーするには「防衛局の入居」という後ろ盾抜きには成り立たないのが現実だ。

 公共施設に限定した特定防衛施設周辺整備調整交付金などの補助事業とは異なり、「経済の自立」を標ぼうする島懇事業を検証するのであれば、採算性という尺度は必須だろう。

 しかし、内閣府の報告書は各事業の「事業実績」については利用人数の推移などのデータを添えて紹介しているが、運営維持や管理委託にかかる自治体の「財政圧迫」に関する具体的な金額には一切触れていない。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](71)第3部 自治体の本音
報告書の内実に疑問

 内閣府の島懇事業に関する実績調査報告書は「現時点で十分な成果が上がっているかとの観点から客観的な検証を行うこととした」と調査の趣旨を説明している。が、果たして「客観的」な調査だったのかについては疑問が残る。

 報告書によると、調査方法は各市町村に作成を依頼した調書などに基づき、自治体の実務担当者からヒアリングしたほか、「座長であった島田晴雄氏をはじめ事業の背景や経緯にも詳しい外部有識者から、事業全体を俯瞰して市町村の活性化・閉塞感の緩和等の状況について評価意見を聴取し、内閣府の責任においてとりまとめを行った」とある。

 しかし、巻末所収の「有識者等の主な発言」に目を通すと、「評価意見」のメンバーは島田、岡本行夫のほか、内閣府政策統括官(沖縄政策担当)の原田正司、内閣内政審議室沖縄問題担当室長や内閣府沖縄振興局長、政策統括官を歴任した安達俊雄、琉球放送会長の小禄邦男、沖縄振興開発金融公庫理事長(当時)の松田浩二の名が連なる。「外部」は小禄、松田を指すと思われるが、それ以外は島懇関係者の「身内」で占められているといっても過言ではない。

 ここで島田は「平均値というか、全体像で見れば見事に事業目的は達成されているし、産業効果も大きいし、将来へのいろいろな効果も大きい」と自画自賛ともいえる総括をしている。

 だが、調査に客観性をもたせるには本来、第三者によるチェックが前提だろう。報告書をとりまとめたのが島懇事業の政府側窓口の内閣府沖縄担当部局である以上、報告書の内容に我田引水な面が生じるのは必然といえる。

 市町村関係者からは実際、こんな本音も聞かれる。

 「地元は何のプランもないのに、ある日突然、予算を割り振られ、何か事業をやれと言われた。事業継続中の道半ばで島田懇談会は解散したが、事業は残された。懇談会としては報告書もつくって事業も芽だしできたから、失敗するも成功するも、後は首長次第という立場だろうが、自分たちで審査しておきながら、という思いはある」

 「島田懇談会はこの事業が当初計画通りできていれば失敗はないという前提だが、自治体は事業申請する際、とにかく『集客に努力する』と言わされている。そう言わないと、事業採択してもらえなかったからだ」

 「事業は住民でつくる『チーム未来』の要望を受け、首長が選択したが、上がってきたのは箱ものばかり。これまでの沖縄振興で箱ものをつくったはいいが、維持管理費がもたないということで箱ものはやらないと当初言っていたにもかかわらず、結局ほとんどが箱ものになった」

 「より多く、よりいいものを、と欲張った自治体ほど維持管理コストで財政を圧迫し、きゅうきゅうとなっている」

 こうした苦言は「予算を配分してもらう側」の自治体担当者が、国の官僚らに面と向かって口にできるセリフでないことは容易に察せられる。

 島懇事業の大半が「採算性」の観点からは及第点に達していない。しかし、この要因のすべてを自治体など地元の「努力不足」に帰結させるわけにもいかないだろう。もともとの計画に無理があったのだとすれば、事業を審査する島懇委員や予算を拠出した政府側にも問題があったことになる。

 こうした根本に触れることのない内閣府の「報告書」は、国と地方の関係が対等とは言い難い地方分権の未成熟さや、税金を「使う側」が使途のチェックを行う矛盾と限界を露呈している。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](72)第3部 チーム未来
「事業ありき」形骸化

 島懇事業をめぐっては、総額1000億円という「お上」が設定した枠内で、県内の自治体が予算の「分捕り合戦」に踊らされる側面もあった。

 内部文書によると、内閣内政審議室は当初、基地占有率10%以上の16市町村を対象に、計800億円程度の配分額を設定。残りを予備費とし、16市町村の計画変更や基地占有率の低い9自治体の事業に充てる方針だった。

 この「予備費」をものにしようと、攻勢をかける自治体もあった。10億円単位の事業計画の変更は、事実上、島懇委員や内閣内政審議室の裁量に委ねられていた。

 ある自治体関係者は「基地を維持するためという懇談会の意図は透けて見えたが、こちらとしては予算獲得のまたとないチャンスだけに懸命にならざるを得なかった」と当時を振り返る。

 宮城篤実が折に触れて岡本行夫や梶山静六の援助を活用したように、事業の追加や認定をめぐっては、最終的に政府中枢とのパイプがものをいう局面も存在した。

 島田懇談会の舞台裏で繰り広げられた、こうした政治的な駆け引きと対極にあるのが、「チーム未来」の設置だろう。

 公募に応じた住民でつくる「チーム未来」が首長に事業提言するスタイルは、座長島田晴雄が「プランから(市民が)入っている例というのは、沖縄が最初の例だといえると思う」(内閣府の報告書より)と胸を張る手法だ。

 「自分たちの将来は市民の手で決めるべきだということでチーム未来を担ぎ出した。今までは国からお金がくる、市町村が受ける、ゼネコンが入ってくる。僕はそれを全部否定したんだよ。チーム未来をつくっていないところは島懇事業の予算はつけないと言ったんだ」

 しかし、島懇事業のメーンである嘉手納町で、チーム未来は島田の企図したようには機能しなかった。

 嘉手納町ではチーム未来の発足前に、目玉の再開発が事業採択され、「後付け」のマルチメディア事業も有識者懇談会や内政審議室主導で推進されたのが実情だ。

 「嘉手納は再開発を採択した後に、チーム未来をつくって議論しろとなったから、まったく無意味。形骸化し、中身もパンクしてしまった。再開発をやると決めているのに、議論しても成果がないのは当たり前」(町関係者)だった。

 宮城は「嘉手納は事業の方向が出来上がっていたから、チーム未来には事業内容を説明し、結局はそれを追認してもらう形になった。それ以上のものがチーム未来からは出てこなかった」と打ち明ける。宮城は他市町村の状況についても、「必ずしもチーム未来が成功しているとは思えない」との認識だ。

 市民の「協働」の姿勢を引き出し、多様な意見を採り入れようとする「チーム未来」は、理念として文句のつけようがない。ただし、島懇事業が結果的に似たような「箱もの」のオンパレードとなり、採算がとれず維持管理に自治体財政が圧迫されている現状を見る限り、事業の質や熟度を高める上で万能だったとは認め難い。

 島田は内閣府の報告書で自ら島懇事業の本質を明かしている。「単に数字だけではこの事業の意味が分からないということがある。特に質的なことがとても重要で、何のためにこういうことをしたのか」。その解はこうだ。「大げさに言うと、日本の安全と平和と世界の平和にもかかわることなので、非常に大きな意味を持っている」

 平たく言えば、日本の安全、ひいては世界の平和を担う沖縄の米軍基地を安定的に維持する目的を負った事業であるから、単に税金の効率的運用という視点でとらえてくれるなよ、ということだろう。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](73)第3部 箱もの
描けない 自立・雇用

 市民協働型の「チーム未来」の設置や有識者が計画段階から関与した島田懇談会は、従来の沖縄振興とは異なる先進的な事業を手掛ける意識が強かった点は認められるものの、「それが結実したとは言い難い」というのが琉大教授島袋純(政治学)の見方だ。

 「最初から予算が決まっていて、費用対効果に関して厳格な審査もなく、結果的にばらまきと変わらない状況になった」と指摘する島袋は、7年間で総額1000億円という「予算ありき」「事業ありき」の島懇事業のスタイルが、「期限内に予算を消化する」従来型の公共工事の域を超えられなかった主要因とみる。

 島袋は「大田県政は沖縄の基地の整理・縮小を国政レベルで争点化させる構造的な仕組みを模索し、沖縄主導で基地問題と振興策をリンクさせて議論する沖縄政策協議会などの発足につながった。が、政府は振興策を政府主導で推進することで、沖縄が基地問題でも抗えないようにした」と解説。政府主導の振興策と沖縄側が求めた基地問題をリンクさせることによって、いずれも沖縄の地域内部の問題として押さえ込み、国政の政治的議題に上らせないように非争点化していくシステムを島袋は「利益還元政治の制度化」と定義し、「そのきっかけとなったのが島田懇談会」と位置付ける。

 こうした背景から島袋は、島田懇談会の真の目的が「沖縄の基地の安定維持や再編強化」にある点を強調。このため、事業内容を精査することよりも目に見える即効的な成果に重点が置かれ、「結局ある程度甘い事業計画も盛り込むことになり、従来の補助事業とたいして変わらないものになってしまった」とみる。しかし、こうした事業でつくられた「箱もの」の維持管理コストに対する補助はないため、「再編交付金など用途を問わない補助金を自治体が要請する現在の動きへとつながっている」と分析する。

 沖縄の基地を維持できるのであれば、地元がどんな補助金の使い方をしても無駄遣いではないという感覚が政府にはある。基地政策の「アメ」として振興策が活用されてきたことが、沖縄の自治体運営の足腰を弱くしている、と島袋は危惧する。

 一方、元内閣府沖縄総合事務局調整官で琉大と沖縄国際大で非常勤講師を務める宮田裕(地域開発論)は沖縄振興の構造的な欠陥要因として「箱もの」の弊害を強調する。「基地所在市町村の財政は基地交付金、島懇事業、北部振興策で『箱ものづくり』がなされてきたが、維持管理などのランニングコストで市町村財政は硬直化し、地域は閉塞感から抜け切れていない。基地とリンクした振興策で沖縄は豊かになれない」と唱える。さらに「基地受け入れのパフォーマンスとして目に見える『箱もの行政』を必要としたのはむしろ政府側ではなかったのか」と問題提起している。

 沖縄振興について宮田は「沖縄総合事務局が発注する公共事業費の約5割は県外業者が受注し、沖縄への財政投資が本土に還流する『ザル経済』を構築しており、政府の沖縄政策の目玉とされる『本土との格差是正』や『自立的発展の基礎条件整備』のために投下された振興開発事業費は経済自立には結びついていない」と指摘。沖縄県の歳入総額に占める地方税収入の割合が、他都道府県に比べ極端に低い点などを挙げ、「政府による沖縄振興開発の財政資金は、途上国援助として投入される政府開発援助(ODA)同様、大半が日本(本土)企業の受注で日本(本土)に還流しており、『ODA沖縄版』になっている」と解説する。

 島懇事業についても宮田は「10余年を経過して地域は潤っていない。『箱もの』ばかりが目立ち、経済の自立や雇用機会の創出などの事業目的は達成されず、将来の展望は描かれていない」と現状を嘆く。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](74)第3部 機能強化
権限及ばず 騒音倍増

 島田懇談会は1996年11月の提言で沖縄の基地について「米軍基地の整理・縮小を引き続き推進することが基本的に重要であり、この点についての日米両国政府の継続的な努力を期待したい」と付記。2008年11月の内閣府の報告書でも「日米安全保障体制により、我が国の平和と安全が確保され、国民が等しくその利益を享受しているが、その負担は沖縄のとりわけ基地所在市町村に集中している。国においては、このような実情にあらためて思いを致し、この基地負担を軽減すべく、その整理・統合・縮小に向けて取り組む」必要に言及している。

 しかし、振興策をとりまとめる島田懇談会が、「基地の整理・縮小」に沿った理念を掲げたところで、その実現にどれだけの意味があったのか、となると議論は別だ。

 最重要かつ喫緊の課題とされた普天間飛行場の返還は日米合意から10年余が経過した今も実現せず、市街地上空でのヘリ運用が続いている。SACO最終報告に基づく返還を見越し、米海兵隊ギンバル訓練場跡地に島懇事業の中核施設配置を計画した金武町の「ふるさとづくり整備事業」は、「移設条件付き」のため返還合意が遅れ、緒に就いたばかりというのが実情だ。

 基地の整理・縮小は「県内移設」条件が実現を阻む一方、嘉手納基地やキャンプ・ハンセンなど主要基地は米軍の統合運用や自衛隊との共同使用など機能強化が着実に図られている。

 特に在日米軍再編以降、普天間飛行場代替施設の「県内移設計画の順守」を盛り込んだ米国とのグアム移転協定締結など、政府の沖縄基地政策は地元の頭越しに強行するスタイルが定着している。

 半面、在日米軍再編で「負担軽減の目玉」とされた嘉手納基地のF15戦闘機の本土の航空自衛隊基地への訓練移転は「移転する機数よりも外来機の飛来が圧倒的に多く、基地運用の実態は負担軽減からほど遠い」(嘉手納町)現状だ。

 訓練移転は07年3月から始まり、今年2月までに計7回実施、延べ30機が参加した。町によると、同期間中、嘉手納基地への戦闘機など外来機の飛来は少なくとも126機に上り、騒音はかえって増加している。F15が訓練移転で県外に展開した延べ36日間のうち、24日間は06年度の騒音1日平均発生回数(109回)を上回る一方、土日祝日や地元が訓練中止を要請した高校入試の日を除き、平均を下回ったのは4日間のみだった。

 また、嘉手納基地には07年2月から約3カ月間、米空軍最新鋭のステルス戦闘機F22ラプター12機が一時配備。今年1~4月に続き、5月以降も一時配備され、ローテーション配備が恒常化している。07年12月と08年12月には米空軍と米海兵隊合同の即応訓練も実施され、岩国基地所属のFA18戦闘攻撃機やAV8ハリアー垂直離着陸攻撃機など約30機が飛来し、嘉手納基地を拠点に訓練した。

 町によると、沖縄防衛局が嘉手納町に移転した08年度の騒音発生回数は、同町屋良地区で3万9357回、嘉手納地区で2万3074回といずれも過去5年間で最多。騒音規制措置で飛行が制限されている午後10時~午前6時の嘉手納地区の騒音発生回数は1996年度の約4倍、前年度の約2倍に上った。

 沖縄防衛局の嘉手納町への誘致理由について宮城篤実は「職員が基地被害を日常的に実感することで対策事業に生かせる」としてきたが、移転後に騒音が増大している皮肉な現実を前に、「権限のないもの(町と沖縄防衛局)どうしでは意味がない。政府が動かないと」と嘆息するしかない状況だ。主に民生安定事業を担当する国の出先機関である防衛局のレベルで、米軍の運用改善にまで権限が及ばない内実は要請行動を繰り返す宮城自身、強く認識しており、ジレンマは募る一方だ。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](75)第3部 不公平感
抑止力強化で負担増

 日米安保と在日米軍基地の果たす役割を積極肯定する岡本行夫は「在沖米軍基地の本土移転は僕の信念」という。

 それはこんなロジックだ。

 1960年の新安保条約制定時に想定されていた「日本防衛」に、米国施政権下の沖縄は含まれていなかった。「日本防衛」に必要な「在日米軍」は本土に展開されていた部隊だけだった。ところが、72年に沖縄が返還されたとき、在沖米軍基地が大量に加わったかたちで「日本防衛」となった。「沖縄防衛」が加わったからといって、「日本防衛」のために、これほどの基地を沖縄に残す必要はなかった、と。

 この間、本来ならば沖縄の基地を優先的に減らすべきところを、実際には沖縄の基地削減は15%にとどまる一方、本土の基地は関東地方を中心に65%減った。この要因を岡本は「沖縄の政治力が弱かったせいもあるが、やはり本土と沖縄のバランスを考えなかったせいだと思う」と指摘する。

 岡本はこのアンバランスの解消を図る上で、沖縄に米軍基地が集中することを端的に表す「全国の在日米軍専用施設の75%」という数字を「どう減らすか」がポイントとみる。「75%をうんと引き下げる唯一の道は、沖縄の基地を減らし、本土の基地を増やす『行ってこい』の措置。だから、本土移転が必要」と唱える。

 さらに、これは決して非現実的な話ではない、というのが岡本の持論だ。

 「本土の過疎地域では地域振興のために『ぜひ自衛隊基地をもってきてほしい』という町や村が多数ある。それならば、地元を説得すれば米軍基地だって先入観が解ければ可能なはず。もちろん、長い時間がかかる話だが、たとえ10年かかっても、たとえ一部でも、基地を本土に移転するという方向性が国の方針として絶対に必要」

 岡本はこうした意見を当時の官房長官梶山静六に具申。梶山が主導した97年の「駐留軍用地特別措置法一部改正」の特別決議に、「日米安保条約の義務をわが国全体で果たすべく、沖縄への過度の負担の軽減を目指す」の一文が盛り込まれたのだという。

 岡本は「これは本土移転を促す画期的な文章。そのフォローアップは国としての使命」と断じる。

 宮城篤実も同様の見解だ。「在日米軍基地は必要という安全保障の現実を見据えた上で、沖縄の不公平感を取り除くため、本土とのバランスを図る必要がある。それが基地の安定維持につながる」。仮に現有の在日米軍施設が必要という前提に立つならば、在沖米軍基地の整理・縮小をスローガンとして唱えるだけでなく、本土側に受け入れも是とする「覚悟」が含まれなければ、宮城のようなタイプの地元政治家には「うたい文句」としか映らない。

 小泉純一郎は首相在任時の2004年10月、「国外・本土移転も考えていい」と述べ、在沖米軍基地の県外移転の可能性を模索する意向を首相として初めて打ち出した。しかし、本土移転については言ったきり、表立った政治行動に踏み出すこともなく、05年6月には「総論賛成、各論反対。自分の所には来てくれるなという地域ばかりだ」とあっさり断念した。

 岡本の働き掛けで改定特措法に添えられた一文もあくまで「努力目標」であり、今なお過剰な基地負担が続く沖縄からみれば「免罪符」でしかない。

 SACO(日米特別行動委員会)では在沖米海兵隊による県道104号越え実弾射撃訓練の本土演習場への分散移転が実現した。これは沖縄と本土の「負担バランスの是正」に主眼が置かれていた。が、在日米軍再編での嘉手納基地のF15戦闘機の本土自衛隊基地への訓練移転は、「沖縄の負担軽減」を名目にしているものの、真の狙いは「日米の軍事融合の促進」にある。アジア太平洋地域の「抑止力強化」方針の下、沖縄の負担感は在日米軍再編以降、むしろ増大しているのが実情だ。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](76)第3部 鶏口牛後
安保のまち こだわる

 宮城篤実は1998年11月の知事選で初当選した稲嶺恵一から副知事就任を請われている。

 稲嶺は同年12月、2度にわたって宮城に電話で副知事就任を打診したが、宮城は「今の立場で県政を支えたい」とかたくなに固辞したという。

 稲嶺は当時の経緯について「副知事を誰にするかというときに、稲嶺お前は経済は詳しいかもしれないが、基地問題とか政治は分からない。分かる人に(副知事を)させなさいというんで、宮城さんを最初の副知事候補にあげたんです」(2008年7月5日の嘉手納町の島懇事業完成式典祝賀会あいさつより)と告白している。

 一方、宮城は「その場で断った。一度も思わせぶりな態度は見せず、心が揺れることもなかった」と打ち明け、「私の人生のテーマは日米安保という極めて高度な政治的要素を抱えた嘉手納町。ぼんやりしていたら、この町の首長は務まらない。これだけ凝縮されたやりがいは県政にはないと考えた」と振り返る。

 町域の83%を基地で占められた嘉手納町のトップとして政府や米軍との折衝に当たり、町益の確保に使命感と生きがいを見いだす宮城は「安保のまち」の町長にこだわった。

 「鶏口牛後という言葉もあるが、小さくても自治体の首長として、という思い、自治へのこだわりはある。今も首長より副知事が偉いとはまったく考えていない」と吐露する。

 一方、知事時代の稲嶺のブレーンの一人は「副知事は有能であると同時に、知事に忠実でなければならず、リーダーシップは不要。そうでないと知事がかすむ。しかし、宮城さんはそれとは対極のタイプ。周囲は勧めたかもしれないが、副知事就任が実現しなかったことが(稲嶺、宮城の)双方にとってよかったのでは」との見解を示す。

 宮城は自らの政治信条について「大事なのは、私がここで給料をもらっている以上はすべて、町民が何を考えているかを中心に判断するということ。自分の主義主張を唱えれば、結果的に町民の利益を妨害することになる」と持論を説く。

 宮城のこうした姿勢は基地行政に関しても、嘉手納基地の管理権の日本側への移管や基地使用協定の締結を求める政策となって表れている。

 「基本的に私にはプラグマティズム(実用主義)がある。高い理想を求めるのは大事だが、それは私の顔ではない。とても実行できない高い理想だけ言って、根本的な是か非かしか問わないやり方を私は選ばない」という宮城のスタンスに基づけば、「嘉手納町長である以上、今与えられている資格条件の中で私がやりこなせるのは何かと設定したときに、例えば基地の即時全面撤去とか日米地位協定の全面改定を求めても少しも前進はないと思う。今生きている人々の生活改善への責任を果たすという意味では、基地使用協定というかたちを次善の策としてもちだす」のも理の当然となる。

 宮城は嘉手納基地司令官や防衛省との交渉を重ね、民間地域への騒音や水しぶきの被害が問題化していた嘉手納基地内の洗機場の移転を昨年9月に実現させた。この例を挙げ、宮城は「こういう現実的手法による動かし方もある」と主張する。

 同じ県内の基地所在市町村の中でも、新基地建設が計画されている名護市や、基地返還が日米で合意されている宜野湾市とは異なり、騒音などの実害を常時及ぼしながらも、「近い将来は返還されない」という暗黙の前提条件が付与されている嘉手納基地を抱える嘉手納町。基地の存在は認めた上で基地被害を盾にした政府との駆け引きの中で現状改善の「実」を得ていく宮城の政治手法は、町の置かれた特殊な環境によって培われたともいえる。

 稲嶺やそのブレーンもこうした宮城の手腕をかい、副知事就任を求めたといえるだろう。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](77)第3部 自治とは
問われる経営の「質」

 宮城篤実が愛用している色あせた手提げかばんは約20年前に県町村会の互助会で配布されたものだという。

 宮城は「この安っぽいかばんで、これまで1000億円以上のカネをわが町に運んできている」と冗談を飛ばすのが口癖だ。今も上京の際、たいていは事務方を従えず、このかばん一つで出張するという。

 宮城は基地被害を人質に国から最大限の「代償」をもぎとる一方、町運営にあたっては2003年度から特別職の助役と収入役のポストを廃止するなど大胆な行財政改革も断行してきた。沖縄の自治をリードしてきた政治家宮城の手法に落とし穴はないのか―。

 琉大教授の島袋純(政治学)は「問題は声なき声も含めて本当に社会のニーズに対応しているのかどうか。充足した自治の仕組みを(宮城が)つくれたのかと問われれば、私はこのやり方では逆に後退していくと思う」と指摘する。

 具体的な問題点として「基地関係の補助金は恩恵に授かる人と、ほとんど利益にならない人の差が極端に分かれる。そうなると社会的連帯が育たない。どうやって国からの予算を極大化するかという発想しかない自治体の住民には、自治体からどれだけお金をもらうかという発想しか出てこない。その中で利益を受けられる人は限られてくるため、社会的連帯は崩壊し、互いに支え合う雰囲気がなくなり、暮らしにくいぎすぎすした社会になる」と主張。同様に県全体でも「現実問題として沖縄の自治権は極めて制約され、軍事的な目的に自治が従属する状況に直面している。経済や財政の危機から、基地によってどうにか利益を得ようとする側とそれを拒絶する側とで地域社会は分断され、社会的連帯を大きく失っている」と警鐘を鳴らす。

 予算縮小に伴い、自治体の経営の質が問われるこれからの時代は、住民目線で政策を形成する手法や住民参加のプロセスを育てていくやり方が必要、と島袋は唱える。

 島懇事業の投資が続いた02年度から06年度の財政に占める基地依存度を調査した元内閣府沖縄総合事務局調整官で大学非常勤講師の宮田裕(地域開発論)は、基地依存度の高い自治体として嘉手納町、宜野座村、金武町を挙げ、「これらの市町村は基地収入が税収の2倍を超えており、基地収入がないと予算が組めない、基地との共存連鎖を断ち切れない構造的な問題を抱えている」と分析する。

 03年8月の北谷町、嘉手納町、読谷村の合併問題研究会の報告書の中でも、嘉手納町の財政状況に関し「現在の各種住民サービスについては当面維持されるものと予測されるが、本町財政が地方交付税、基地交付金等の依存財源に頼る構造となっているため、国による財政改革の推進により、これらの大幅な見直し、縮減が行われるようなことがあれば、今後の財政運営に及ぼす影響は大きい」と提起されている。

 国からの補助に依存する自治が正常ではないことは宮城も承知している。

 宮城は自らの理想の自治の姿と現実の落差を認めた上で「嘉手納は土地も、魅力ある観光資源もない。あるのは被害だけ。こんなところでまちづくりをするには、知恵を絞って普通の自治体とは別の手を打つしかない。(基地から派生する国の補助金は)いただいているという気はまったくない。代償として国はこれまで支払うべきものを支払わなかった。支払えと要求する人がこれまでいなかったにすぎない」と断じる。

 負担に対する「報い」があるのは当然かもしれない。しかし、その報いは、ときに本質を覆う毒にもなる。問題の本質である全国の米軍専用施設の75%が集中する沖縄の過重な基地負担に政府はほとんどメスを入れず、ひたすら振興策にすり替えてきた。こうした政府の政策手法が、本当に「沖縄のため」だったといえるのか。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](78) 第3部 動かせない基地
振興策 一時の緩衝剤

 沖縄大学名誉教授の新崎盛暉(沖縄現代史)は、政府から最大限の「アメ」を導き出す宮城篤実の政治力の背景には、「沖縄の民衆の反対運動があった」と指摘する。

 新崎の見方はこうだ。1995年の米兵事件を契機とする沖縄の民衆の反発に突き動かされるかたちで、知事大田昌秀も代理署名拒否の決意を固めた。その結果として対応に追われた政府が、沸騰する沖縄世論を抑え込もうとする知恵の中で生まれたのが、沖縄政策協議会であり島田懇談会だった。

 基地所在市町村の閉塞感の緩和を掲げる島田懇談会の本質は「どうごまかしていくか」にある。基地の整理・縮小という根源的な解決は避けつつ、基地とどう共存させていくかという政府側の課題と向き合ったのが、「動かせない基地」を抱える宮城だった。

 基地が動かないのであれば、そこからできる限りの実=カネを得ようという宮城の論理と、政府の都合が絶妙のタイミングで符合した。

 こうした流れに沿って、宮城の政治力を実効ならしめた梶山静六や野中広務には、沖縄に対する「贖罪の精神」を感じとる心理的なバックグラウンドはあったかもしれないが、「彼らは自民党としての国策を進めてきたにすぎない」との見解だ。

 95年の米兵事件を、沖縄と中央政府の関係をめぐる一つの転換点ととらえたとき、現在に至るまで沖縄側のメジャープレーヤーとして最前列でらつ腕をふるってきた宮城の政治手法について、新崎は「今後はあまり通じそうにない」と悲観的に展望する。

 「政府は米軍用地特措法の改定によって民衆のエネルギーを抑え込んだ。これにより、沖縄は軍用地問題を盾に政府と同じ土俵にのって闘うことが困難になった。政府はいったん抑え込んだら、カネはださない方向へとシフトしている」とみるからだ。

 「したたかにやらないと負の条件を押し付けられている沖縄、特に基地が集約されている嘉手納町などは生き残れない。(宮城の)全面返還要求も形式的な掛け声にすぎないと政府に見透かされている。自治体が基地撤去を求めても、制度としてのカネ(借地料や、米軍再編交付金を除く旧来の基地関連交付金)は確保できる。政府のカネも民衆の強い反発の声があるから、より多く引き出せるという側面もある」と指摘する新崎は、一方で「政府からより多くのカネを引き出したから成功したとはいえない。基地撤去を求め続け、少しずつでも返還させることと、どちらが将来への希望や周辺住民の満足度の向上につながるか。(宮城が)政府からとってきたカネで得たものは何だったのか、見つめ直す必要がある」と論じる。

 長い目でみて、沖縄の過重な基地負担を放置し、振興策にすり替えることで沖縄と本土の関係をよい方向に向かわせられるのかは疑問だ。ましてや島田懇談会が企図したように、「1回きり」の投資で、広大な基地を抱えることによる閉塞感や不公平感をそぎ落とすのには無理がある。

 今後も沖縄への基地の過重負担という政治的な火種を残したまま、一時の緩衝剤にしかならない振興策に多額の税金を注ぎ続けることが果たして「国益」にかなうのか―。しかし残念ながら、政府はそう認識しているとしか思えない。本土の過疎地に在日米軍基地を新たに確保することによって生じる政治的リスクや財政負担よりも、米軍に「免疫」のある沖縄など既存の基地所在市町村に押し付けた方が「安上がり」というのが政府の真意だろう。

 肝心の基地被害はむしろ増大する中、本来あるべき自治とは異なる現状に忸怩たる思いを抱えつつ、「ほかにどんなやり方があったのか」と問い掛ける宮城の言葉は、県民ひとり一人が向き合うべき課題を照射している。

 それは、こう問うのと表裏一体だろう。基地を担保にした国の振興策で、自分たちの生活は本当に良くなってきたのかと。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](79)第3部 「防衛町」
交流事業で浸透図る

 事業着手から11年が経過した2008年7月5日、嘉手納町の島懇事業の完成を祝う「竣功」式典が開かれた。同年4月に嘉手納町に移転した沖縄防衛局の局長真部朗は来賓祝辞で、同局の「移転効果」に対する地元の期待をくむように、こう宣言した。

 「今や私ども自身が本事業の一部と申し上げてもよろしいかと思います」
 真部は再開発事業の成否を握る「屋台骨」としての自覚を内外に示した上で、「今後とも周辺地域住民の皆さま方の生活と防衛施設との調和を図るとの基本的な考え方の下、関係住民の皆さま方の生活の安定と福祉の向上に寄与するための各種政策を講じてまいる所存であります」と表明した。

 防衛局は当初、宮城篤実の熱意に押され、受け身で嘉手納町への移転を決定したきらいはある。だが、移転後はむしろ「移転の意義付け」を積極的に図ろうとする傾向もうかがえる。

 移転から1年間を振り返って、「周辺住民の生活と防衛施設との調和を図る」方針に沿ったとみられる嘉手納町内での事業例を紹介する。

 今年3月7日。沖縄防衛局が入居するビルの前にある嘉手納ロータリー広場で、同局主催の「日米スポーツ・文化交流会」が開かれた。嘉手納町と嘉手納基地内の住民が障害物競走などのレクリエーションに興じたり、米軍関係者らを対象に三線講習も行われた。参加したのは町側109人、米側84人の計193人。開催目的について同局は「在日米軍施設を安定的に使用するためには米側と米軍施設周辺住民が相互に理解を深めることが重要との認識の下、嘉手納基地の米軍人やその家族と嘉手納町民がスポーツや文化を通じて交流を図る事業を行った」としている。

 防衛省は08年度から「在日米軍施設周辺地域の交流事業に関する調査」として約5900万円を計上。「米軍基地の安定的使用」を目的に、在日米軍関係者と基地周辺自治体住民の交流事業をスタートしている。

 08年度はモデル地域として嘉手納町のほか、三沢基地周辺の青森県三沢市と東北町、横田基地周辺の東京都福生市、横須賀基地周辺の神奈川県横須賀市の全国5自治体で文化交流事業を実施。09年度は約6200万円を計上し、開催場所などを検討している。

 嘉手納町での開催については08年度は試行とし、09年度以降は「参加者からのアンケートなどを踏まえ、検討する」としている。

 昨年12月5日。沖縄防衛局の入居ビルに隣接する「ロータリープラザ」の嘉手納町中央公民館2階大ホールで第3回防衛セミナーが開かれた。テーマは「国際テロを根絶するために~インド洋での補給支援活動~」。沖縄防衛局や外務省の担当職員が講演し、アフガニスタンに対する人道・復興支援の政策目的や意義を解説したほか、海上幕僚監部の援護業務課長が現地での体験談を披露。那覇市以外では初の開催となった同セミナーには約150人が参加した。

 極東最大の米空軍基地である嘉手納基地を抱える嘉手納町が日米安保を背負う「かなめの町」だからこそ、政府は巨額の国庫を注ぎ、嘉手納町の島懇事業を完遂させた。政府は同町へ移転した沖縄防衛局に、「安保の安定」につなげる役割をこれからも課し続けるだろう。

 嘉手納町内には今年4月1日、県内の米軍基地従業員の労務管理を行う独立行政法人駐留軍等労働者労務管理機構の那覇支部とコザ支部が移転統合した「沖縄支部」も発足した。同機構によると、沖縄防衛局との連絡調整や中部地域に基地従業員が多いことなどから、利便性を考慮し移転が決まったという。

 08年の嘉手納町3月議会。登壇した町議の一人は、こう警句を発した。「防衛局が嘉手納に来て、将来『防衛町』と呼ばれないような町政運営が必要」(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](80)第3部 変革の兆し
評価・審判は次世代に

 神聖な儀式のようだった。真っ白なシートが外されると、しみひとつない壁に浮き出た、赤銅色の男たちの顔がスポットライトを浴び、一瞬破顔したように映った。

 今年5月16日。嘉手納町の再開発ビル「ロータリープラザ」のオープン1周年に合わせ、玄関ロビーで梶山静六、岡本行夫、島田晴雄の3人の上半身をかたどったレリーフの除幕式が行われた。

 「何らかの形でこの方々が汗をかいた事実を伝えないといかん」という宮城篤実の思いに、工事に携わった町建設業者会が、町に記念レリーフを寄贈するかたちで応えた。

 たて80センチ、横60センチのそれぞれのプレート内に収まる3体の彫像。胸元に生年月日や経歴が刻み込まれている。レリーフの内と外で時間が線引きされ、3人は嘉手納町の「歴史上の人物」として人々に記憶される資格を付与された。

 除幕式であいさつした宮城は「これをもって私どものタウンセンター事業は完結したという思い。しっかりとメンテナンスを続けながら、100年先まで後輩たちが使える象徴的な建物として活用してもらいたい」と後世にまちづくりの夢を託した。

 沖縄側に「宮城篤実」という地元政治家がいたことと、政府側に「岡本行夫」という懐刀が存在したこと、さらには、この2人の出会いが、内閣の最重要課題として「沖縄問題」が浮上した時期だったこと。この三つの偶然が重なり、嘉手納町に前例のないまちおこし事業をもたらした。

 1995年以降の沖縄の「自治モデル」を体現する宮城が、国との交渉を通じて町の歴史に残る偉業を成し遂げた事実について誰しも異論はないだろう。しかし、嘉手納基地は今なお騒音被害を増大させ、厳然と町の大部分を占めている。この現実もまた、沖縄の今を象徴している。

 宮城も、普通交付税の基地関連経費傾斜配分の配分額や普天間代替施設の嘉手納統合案をめぐって政府の対応に異議を唱える局面では、島懇事業や防衛局誘致との両立に苦しみ抜いた。振興策の恩恵が大きくなればなるほど、政府の基地政策に物言いをつけながら実を得るのは至難の業であることを、宮城のこれまでの足跡が雄弁に語っている。

 今後も国益と町益が重なる局面が続くとは限らない。国策の恩恵に授かる以上、国益の名の下に犠牲を強いられることを覚悟する必要がある。宮城が築いたまちづくりの礎に、次世代がそのままただ乗りできる確約はどこにもない。

 時代は今、地殻変動を予感させる過渡期にさしかかっている。未曾有といわれる地球規模の経済危機が、米国の影響力低下や多極化時代の到来を暗示している。日本国内でも政権交代や地方分権改革で旧来の官僚統治機構に変革の兆しがみられる。沖縄だけが時代に逆行し、地方分権の蚊帳の外に置かれたまま、というわけにはいかないだろう。

 外国軍隊の大規模駐留という特異な形態が長続きしないことは、世界の歴史が証明している。国際情勢や国内の政治事情の変化など、常に不安定な要素にさらされているのは在日米軍も例外ではない。

 在日米軍再編で、嘉手納基地とキャンプ・ハンセンの自衛隊との共同使用が盛り込まれた。いつか米軍が沖縄の基地を手放すとき、沖縄防衛局の役割は嘉手納基地などを自衛隊基地として存続させることにシフトする、とみるのはうがち過ぎだろうか。しかし仮にそうなったとき、将来の住民たちは基地関連収入の誘惑を断ち、国策に抗ってでも軍事施設と決別する道を選択できるだろうか。

 政府と嘉手納町の蜜月の証しともいえる3人のレリーフを、見えざる時代の手によって「国策のまちおこし」に導かれた人々の群像を、これから迎える激動の時代をくぐり抜けた人々はどんな思いで眺めることになるのか。評価の審判は次世代が下すことになる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)=終わり