2009年11月9日月曜日

【沖縄資料】 沖縄タイムズ 国策のまちおこし

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](1)第1部 円卓の夕げ
恨み節 呼び水に 「島懇」招いた出会い

 すべては、那覇市内の中華料理店で二人の男が出会ったことから始まった。嘉手納町長の宮城篤実と、のちに沖縄担当首相補佐官となる岡本行夫。1996年6月16日のことだった。

 この日、宮城は旧知のNTT幹部から呼び出しを受けた。

 「おもしろいメンバーが集まっている。私のおごりで那覇で一杯やりませんか」

 「おごりならいいですね」

 そんな軽口をたたいて、宮城は嘉手納から那覇へ向かった。

 那覇に着いたときには、すでに日はとっぷり暮れていた。2階の個室のドアを開けると、円卓を囲む6人の中に一人だけ見慣れない顔がある。最後に到着した宮城は、空席になっていた岡本の隣席に導かれるように腰を下ろした。

 東京の国際コンサルタント会社代表を名乗る岡本という男が元外務官僚と分かり、宮城の口からは、政府への積年の恨みつらみが堰を切ったようにあふれ出た。

 嘉手納基地の被害軽減を訴えるために訪米した95年、宮城は事前にワシントンの主要人物との面談のセッティングを外務省に依頼した。が、外務省は地方の一首長の「外交交渉」に手を貸そうとはしなかった。宮城の米国行脚を助けたのは、地元で米軍のトラブルが起こるたびに苦情を申し入れていた嘉手納基地の元司令官だった。

 歴代司令官の中には、ごく限られた権限を駆使し、問題の改善に当たろうとする者もいた。日米地位協定を盾に、「米軍の運用にかかわる問題」という決まり文句で、木で鼻をくくったような対応をとる日本政府よりも、よほど話の通りがいいこともあった。

 嘉手納基地の元司令官の取り次ぎでペンタゴン(米国防総省)関係者との面談が実現した経緯を一気にまくしたてた宮城は、酒の勢いもあって、「外務省というのはひどいところですね」と恨み節を岡本にぶつけた。

「呼吸困難」窮状訴え
嘉手納町長「100億あれば」

 岡本は頭をかきながら、「嘉手納のことはあまり知らない」と宮城に詫びた。

 岡本は外務省北米局で、安保課長や北米第一課長を務めていた。嘉手納基地の軍事面の機能や安全保障上の役割は頭にたたき込まれている。いわば、米軍基地のエキスパートだ。その岡本が「あまり知らない」というのは、「まちの空気」のことを指していた。

 岡本は「金武なら少し知っている」と遠慮がちに自らの体験を口にした。

 外務省の課長時代に沖縄へ出張した際、公務が終わった夜、一人でタクシーに乗って米海兵隊キャンプ・ハンセンのゲート前にある金武町の繁華街へ向かった。岡本はバーの止まり木に座って、若い海兵隊員に話し掛け、彼らの本音を聞き出そうとした。

 海兵隊員は、沖縄でトラブルを繰り返す「問題児」だった。約1年前の1995年9月に起きた悲劇的な事件も、若い海兵隊員たちによる蛮行だった。

 宮城は「嘉手納には金武のようなにぎやかな繁華街もない」と皮肉交じりに、まちの沈滞ムードを訴えた。同時に、『彼(岡本)はこういうかたちで情報収集をするのか』と内心、当惑した。これまで知っている外務官僚とは異なるタイプのようだった。

 「わが町は呼吸困難な状況に陥っている。このまま放置しておくのか」

 宮城は思い切って、町面積の83%を基地が占める町の窮状を岡本に打ち明けた。土地がないため企業誘致もかなわず、若者の町外流出に歯止めがかけられないこと、「爆音のまち」のイメージで町外の若者も敬遠しがちであること、幼少人口が減り続ける一方で老年人口は増加し、高齢化が加速していることなど、洗いざらいをはき出した。

 さらには、自らが描くまちづくりへの情熱と、基地の存在がいかにそれを阻害しているか、思いの丈をぶつけた。

 宮城によると、このとき宮城が用いた「呼吸困難」という言葉を「閉塞感」という表現に置き換え、最初に使ったのが岡本だったという。「閉塞感の打破」という言葉は、のちに大田昌秀、稲嶺恵一の事実上の一騎打ちとなった98年11月の知事選の際、稲嶺陣営のキャッチコピーとなる。

 黙って耳を傾けていた岡本がおもむろに口を開け、質問した。

 「ところで、町長の描くまちづくりはカネがあれば何とか改善できる話なんですか。だとしたら、いくらあれば実現できるんですか」

 岡本は、単なる興味本位で聞いているようには見えなかった。荒唐無稽と笑われるかと思いながらも、宮城は酔いにまかせて「100億もあれば何とかなるんですがね。もらうということではなく、それぐらいの額を貸してもらえれば、何とか町を蘇らせることができる」と豪語した。

 宮城の頭には、町の長年の悲願である新町地区の再開発があった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](2)第1部 不条理の軌跡
土地追われ住宅密集

 「極東最大」を誇る米空軍嘉手納基地の形成過程は、住民にとって日常の暮らしが根こそぎ米軍に奪われていく不条理の軌跡にほかならない。

 沖縄本島のほぼ中間地点という地理的条件に恵まれた嘉手納町(前身は北谷村嘉手納)は戦前、県営鉄道嘉手納線も運行する物流拠点だった。戦時中、東側一帯を旧日本陸軍が接収し、1944年9月に「中飛行場」を開設したのが、町のその後の運命を暗転させる契機となる。

 45年4月、中飛行場近くの海岸は沖縄戦で米軍の本島最初の上陸地点となり、し烈を極める集中砲火を浴びた。上陸した米軍は真っ先に中飛行場を占拠。本土攻略の前進基地として拡張を図り、同年6月には大型爆撃機が離着陸できる2250メートルの滑走路を整備した。その後、米軍が飛行場管理を強化し、住民の通行や立ち入りを全面禁止したのに伴い、北谷村域が二分される。

 このことが、住民生活や行政運営に致命的な支障をきたし、48年12月、北谷村から分離独立した「嘉手納村」(現嘉手納町)の誕生につながる。町の行政区域の成り立ち自体、軍備強化によってもたらされた災いの末路だった。

 50年6月の朝鮮戦争勃発後、米軍はさらに基地機能を拡充し、ベトナム戦争が激化する67年には4000メートル級の滑走路2本を完成させる。基地拡張の都度、慣れ親しんだ宅地や農地が姿を消し、ついには町域の83%を接収されるに至る。残された2・6平方キロメートルのわずかな土地に、約1万4000人の住民は肩を寄せ合うように暮らすことを余儀なくされた。

 基地建設は各地から労働者を集める呼び水にもなった。一時、米軍の物資集積場として使われていた「嘉手納ロータリー」は58年に開放されたが、周辺は疎開先から戻った住民や仕事を求めてきた人たちの急ごしらえの小屋が無秩序に軒を連ねた。その名残がロータリーに隣接し、零細商店と小規模住宅がひしめく新町地区だった。土地や建物の権利者が複雑に入り組み、まちづくりをするにも手の付けられない一帯となった。

 宮城篤実は73年から嘉手納町議に4期連続当選し、91年1月、町長に初当選。96年当時は2期目だった。

 宮城の再開発の夢は町議時代にさかのぼる。嘉手納基地が米軍のベトナム出撃拠点としてフル回転していた68年11月、核も搭載する米軍のB52爆撃機が嘉手納基地を離陸直後に墜落、16人が重軽傷を負う惨事があった。

 この際、避難場所もなく町民がパニック状態に陥るのを目の当たりにした宮城は町議会で、嘉手納ロータリー地下にシェルターを整備する案を町に提起した。

 当時、町商工会は新町一帯の再開発を提案していた。宮城はこの動きと連動し、隣接するロータリーの地下シェルターを、非常時以外は再開発後の商店街にやって来る買い物客の駐車場として活用する腹づもりだった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](3)第1部 100億円の事業
政府の「扉」開く予兆

 宮城篤実の新町再開発への思いは、嘉手納町長に就任した後も消えなかった。宮城は1991年の初当選後、最初に行った防衛施設庁(当時)への陳情でも支援要請した。が、同庁の補助メニューに再開発事業はなく、高率の公的補助を得る方途は見いだせずにいた。

 町長2期目の95年4月。宮城は新町を含む市街地再開発に向け、町幹部や民間代表らからなる検討委員会を発足する。ここで、新町商店街に「西洋風アーケード」などを設置する近代化計画と連動し、大型再開発ビルを隣接して建設する青写真を描いた。

 事業予算は80億から100億円規模を想定。当時、宮城は「今世紀中に事業化したい」としていたが、予算面の裏付けや用地確保のめどはまったく立っていなかった。コンサルタントが作成した完成予想図は、まさに「絵に描いた餅」として宮城の手元にあった。

 96年6月の岡本行夫との会話で、「100億円」という数字が宮城の口をついた理由はもう一つあった。数年前、来県中の自治大臣が県内の市町村長を対象に講演し、「あなた方は政府からのお金の借り方が下手だ。どんどん(陳情に)行くべきだ」とぶった。いかにも沖縄の首長を見くびったような物言いだった。

 反発した宮城はとっさに挙手し、発言した。「貸していただけるなら100億円をお願いしたい。これだけあれば町を動かせる。ぜひ自治省(現総務省)でお願いしたい」。宮城の迫力に気圧された自治大臣は「自分がいつまでも大臣をやっているわけではないから…」とトーンダウンし、尻込みしたという。

 那覇の中華料理店の円卓で顔を突き合わせた岡本に、宮城はこの自治大臣とは異質の「本物」のにおいを嗅ぎ取っていた。

 岡本「町長、そんなに熱い思いがあるんだったら政治家に会って、ぜひ伝えるべきですよ」

 宮城「政治家と言ったって、私が知る沖縄の政治家には力がない」

 岡本「もっと責任のある政治家に会うべきでは」

 宮城「そんな政治家とは会いたくても会えない。山中(貞則)先生ぐらいならなんとかなるかもしれないが…」

 岡本「梶山(静六内閣官房)長官に会いませんか。私は親しくさせてもらってます。私からも言っておきます」

 宮城は半信半疑で受け止めたが、帰宅後も興奮を抑えられなかった。

 この夜、常に携えている手帳にこうつづった。

 「エキサイティングな夕べだった。国際コンサルタントの岡本行夫氏を交えての夕食会。嘉手納の将来について極めて重要な意味をもつ人になりはしないか。豊かな人脈を通して、基地を抱えている町の行き先に大きな影響を与える人々との出会いが期待できそうだ。この半年は時代を画する日々となるのではないか」。この予見は的中する。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](4)第1部 生い立ち
米軍支配逃れ東京へ

 宮城篤実は1936年、北谷村嘉手納(現嘉手納町嘉手納)で生まれた。「分家の六男」だった父親は決して裕福ではなかったが、教育熱心な人だった。宮城の長兄は師範学校で学び、長姉も女学校を出ていた。父親は畑仕事の傍ら副業の牛の売り買いで生計を立て、そのささやかな儲けで教育費を捻出した。

 地上戦を経験したのは8歳のとき。小学2年の途中で本島北部へ疎開した。自力で小屋を造り、山中を転々とする生活。疎開先では畑仕事の途中に機銃掃射で人が殺されるのを目の当たりにしたり、川の中に浮く遺体を目撃した。それでも戦後、投降した宜野座村内で白人や黒人を初めて見たときは「腰を抜かさんばかり」の衝撃を受けた。

 戦後は石川(現うるま市)に根を下ろし、石川高校卒業後は軍雇用員になろうと、一時は名護の英語学校へ入学した。が、うっせきした思いも抱えていた。あこがれは政治、文化の中心地・東京だった。映画で観る東京の学生は輝いていた。

 そんな宮城の思いを見越してか、叔母が「お前、これでいいのか」と声を掛けてくれた。叔母に思いを打ち明け、東京までの旅費などを用立ててもらった。下宿先も叔母のつてを頼った。上京して1カ月後の受験で早稲田大学に合格した。

 沖縄を離れる際、那覇港から晴海埠頭行きの船に乗った宮城は「大学に合格したとしても、この島にはもう二度と戻ることはない」と心に決めていた。浪人するゆとりはなく、崖っぷちに立つ思いで上京したが、開放感の方が増していた。「沖縄に対する絶望感から島を出たいという思いが強かった」と回想する。

 社会的関心の強かった宮城は高校生のときから、沖縄人民党の書記長瀬長亀次郎らの熱弁を聞きに、地元の演説会場によく足を運んだ。

 「とにかく米軍批判ばっかり。米軍支配で希望がないし、先も見えない。彼らの演説を聞くことだけが、ある意味娯楽というか希望、夢だった。人間としてこういうかたちでいいのか、という思い詰めた感情から逃げたくて、とにかく東京へ行かなきゃならんという思いが募った」

 入学して間もなく、学内で「寮生募集」の張り紙が目に留まった。宮城は「私の人生を変えたのが寮に入れたこと」と振り返る。西武新宿線の東伏見駅近くの寮に沖縄出身者は宮城ただ一人。ほかの寮生の言葉がほとんど聞き取れず、宮城は標準語が使いこなせないことに強い劣等感を抱いていた。ある日、勇気を奮って寮番の年配夫婦に「私の言葉、分かりますか」と恐る恐る尋ねてみた。彼らは「あなたの言葉は一番分かりやすい」と太鼓判を押してくれた。

 全国から約400人の地方出身学生が暮らす寮は、東北から九州まで多様な方言であふれていた。寮番夫婦のお墨付きで勇気を得た宮城は、それから生き生きと腹を割って寮生たちと語り合うようになった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](5)第1部 帰郷
闘争経て 東京に絶望

 上京した宮城篤実を最初にとらえたのは、米軍基地拡張に反対する「砂川闘争」だった。「沖縄の土地の強制接収と重なり、許せないという義憤が募った。報道で知って、これは行かなきゃならんと駆り立てられるものがあった」。沖縄で瀬長亀次郎らの演説になじんでいた宮城の心には、ストレートに響いた。

 大学1年のとき、石橋湛山内閣が発足。その後の岸信介内閣へと続く、ときはまさに日米安保の揺籃期だった。

 砂川闘争に寮から参加したのは宮城だけ。「デモ隊の最後尾にいたが、周囲からは、あいつは沖縄から来ているから基地問題にかかわるんだなということで、砂川から帰ってへとへとになって寝ているのに話し掛けられ、参ったなというのはあった」。

 宮城は次第に学生運動のリーダーに推されていく。大学3年のときには寮長として学内の学生運動の執行委員長に抜てき。早稲田の全学学生協議会メンバーになってからは、反戦・反安保のイベントのたびに新宿駅前に立ち、誰も足を止めない中、しゃべりまくった。「そこである意味、演説の訓練をした」と振り返る。

 3、4年生は学生運動に明け暮れた。「国家権力に対する庶民の抵抗や弱者、被害者の立場からの抵抗に感動を覚えた。思想ではなく素朴な正義感」が宮城を突き動かしていた。

 4年で卒業はしたが、就職活動は惨憺たるものだった。「大学の推薦状がないため、企業の試験はまず受験資格がとれない」状態だった。実家の仕送りも絶え、「どこでもいいや」との思いで大手運送会社のアルバイトで食いつなぐ。寮を出て、荻窪駅近くの安アパートで暮らし始めて半年後。運送会社の社員から「お前は早稲田を出て仕事もないのか」とかなり屈辱的なことを言われた。「当時は労働問題に関心があり、筑豊の炭坑騒動にも行った。それで業界誌の記者になった」。正社員として最初の就職先だった。

 5年ほど勤めたとき、沖縄の叔母から「そろそろ帰ってこい」と連絡が入る。

 「叔母には、よたものみたいな暮らしと映ったんでしょう。沖縄に帰れば何とかなるよと。張り切って上京したものの、大都会の歯車にもなりきれない。結局、東京での私の役割はこんなものかと、1年間ぐずぐず考えた末に帰郷した。ものすごく自分がちっぽけな人間に思えた」

 10年たって沖縄の状況も変わっていた。「若い人たちが待たれる空気があると感じた。沖縄に絶望して上京したが、東京に絶望していた。東京にいても自分には先がない、何もできない。これで自分の人生終わっていいのかという焦りもあった」。本土復帰を5年後に控えた1967年、宮城は31歳で再び故郷の地を踏む。

 砂川闘争の舞台となった東京都の立川基地の拡張問題は、10年余の曲折を経て、米軍が計画を断念。一方、沖縄では、旧日本軍が造成した中飛行場の約40倍に拡張された嘉手納基地をはじめ、本土の施設の「掃きだめ」のように米軍基地が増殖していた。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](6)第1部 元陸士
梶山「沖縄助けたい」

 岡本行夫は1968年に一橋大学経済学部を卒業後、外務省に入省。在エジプト日本大使館や在米日本大使館などの勤務を経て、85年に北米局日米安全保障条約課長、88年には同局北米第一課長に就任した。

 外務官僚の出世コースの王道をひた走る岡本は「将来の事務次官候補」とささやかれていたが、91年1月、突如外務省を去る。同年3月には、国際コンサルタント会社を立ち上げ、代表取締役に就任した。

 岡本は96年6月の来県前、内閣官房長官梶山静六の下を訪ねていた。すでに岡本は外務省を離れていたが、梶山の依頼を受け、時折、官邸で国際情勢のブリーフィング(状況説明)をしていた。このとき梶山は「頼む、沖縄の問題を手伝ってくれ」と岡本に懇請した。

 当時、「沖縄問題」は橋本内閣の最重要課題だった。95年の米兵暴行事件以降、知事大田昌秀は米軍用地強制使用の代理署名手続きを拒否。本土世論も沖縄の立場に共鳴し、全国から大田への激励電報や手紙が殺到した。「沖縄の基地問題」は日本全体で争点化し、日米関係をも揺るがしかねない事態に発展していた。

 岡本が梶山の知遇を得るきっかけは、梶山が法相だった90年9月の出来事に起因していた。梶山は閣議後会見で、東京・新宿区の繁華街が外国人の売春地帯になっていると指摘し、「『悪貨が良貨を駆逐する』というが、アメリカに黒(人)が入って白(人)が追い出される、というように新宿が混住地になっている」と発言。この人種差別発言は米国内で波紋を広げ、米下院外交委員会が全会一致で梶山を非難する決議を採択した。

 このとき、岡本は北米一課長。「課長の分際」だったが、梶山のところへ出向き、なぜ発言が不適切かを説明した。「そのとき彼は非常によくそれを聞いてくれた。それからですね、彼との関係ができたのは。すべての政治家の中で梶山さんを一番尊敬していますかねえ。すごい人でしたよ」

 梶山は官房長官在任時、「沖縄は自分の死に場所だ」と周囲に漏らしていた。陸軍航空士官学校で学んだ「元陸士」の梶山は、住民を巻き込み日米合わせて20万人以上が死亡した沖縄戦を引きずっていた。地上戦の最中に沖縄根拠地隊司令官の大田実中将が自決する直前、海軍次官に打ったとされる「県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ…沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という電報の文言も、身内に刷り込まれていた。

 梶山は近親者に「沖縄は兄貴のふるさとだ」とも打ち明けていた。梶山の兄と長年、仕事を共にし、静六とも親交のあった那覇市の石材会社会長緑間武によると、家業の石材業を営んでいた梶山の兄は、75年の沖縄国際海洋博覧会開催時に来県し、現場作業の指揮もとったという。2000年に死去した梶山静六について緑間は「戦争で沖縄が大きな被害を受けたことを常に気に留め、沖縄を何とか助けたいという思いが終生あった」と回顧した。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](7)第1部 密使
官僚離れ沖縄と関係

 外務官僚時代の岡本行夫は沖縄を「基地の中から」見る立場にあった。

 「そりゃ楽でしたよ。ヘリコプターで基地まで連れて行ってもらって、将校クラブかなんかで酒飲ませてもらって」

 基地内では、米軍幹部から在沖米軍基地の戦略的重要性について懇切丁寧なレク(説明)を受ける。住民との間でトラブルを抱えていることも、「基地の側から」聞くが、民生にかかわる分野は防衛施設庁が窓口という不文律が役所内には浸透していた。

 それでも、岡本は沖縄を「気の毒」に思っていた。「自民党の部会やいろんな国会議員の集まりに出て、発言もしたが、ほとんど(沖縄に)関心をもたれない。沖縄の応援団がいないわけですから」

 岡本は外務省で本土と沖縄の基地負担の感覚に対する「温度差」も実感していた。

 安保課長のとき、神奈川県逗子市の池子の森に米海軍住宅を建設する計画が浮上した。「とにかく自然保護だ、緑を残せと住民の大反対運動が起きた。しかし、自分たちは乱開発で宅地化したところに住んでいる。海軍住宅は池子の米軍弾薬庫にある緑の15%を切るっていうだけで大反対になってね」

 同じころ、岡本は金武町から陳情を受けていた。陳情団は「課長さん、お願いですから、家族住宅を金武町のキャンプ・ハンセンにもってきてもらえませんか」と要請した。「海兵隊員は独身ばっかりだからすさむ。平和な家族住宅があったら、ずっと居心地がよくなります」(岡本)という趣旨からの「家族住宅誘致」だった。

 犯罪抑止対策として米軍家族住宅を「誘致」する金武と、住宅が来ると空気が乱れるという池子。このギャップに岡本は「沖縄のために何かしなきゃいかん。梶山静六(内閣官房長官)さんなら、何かやってくれるかもしれんなと思って動き始めた」と明かす。

 1995年9月の米兵事件後、日米地位協定の見直しを求めて上京した知事大田昌秀に対し、外相河野洋平は「議論が走りすぎ」と発言。こうした政府の冷遇や認識の甘さが引き金となって、大田は事件前からの懸案だった米軍用地強制使用の代理署名を拒否する方針を固める。10月21日には、日米地位協定の見直しや基地の整理・縮小を求める県民大会が超党派主催で開かれた。

 岡本は騒然とする沖縄のことが気にかかり、現場にこだわる「外交官」としての血が騒いでいた。

 ただ、梶山の「密使」として沖縄にかかわるに当たって、岡本には外務官僚にはできない仕事を成し遂げる意思があった。それを具現化するきっかけとなったのが、96年6月の宮城篤実との夕げだった。

 100億円ぐらいあれば再開発構想とかいろいろ考えられる、と答えた後、「そんなことはとても現実的な話ではありません」と寂しく笑う宮城の姿が、岡本の脳裏に焼き付いていた。

 前例のない沖縄米軍基地所在市町村活性化特別事業(島田懇談会事業)が萌芽のときを迎えていた。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](8)第1部 振興策の岐路
「所在」絞り直接折衝

 岡本行夫は「国際都市形成構想は、基地のあるところの利用計画は返還されてから、という考え方で、それじゃおかしいと思った」と1996年当時の心情を語る。

 県が同構想とセットでまとめた基地返還アクションプログラムは、嘉手納基地の返還スケジュールを最終段階の2015年と設定していた。岡本は「基地と隣り合わせに暮らしながらも、できるだけのことはしなきゃならない。それで、基地の占めるスペースが大きく、閉塞状況にある街ということで、嘉手納や金武を見始めた」という。

 96年6月に来県した際、岡本は宮城篤実との面談以外にも北部自治体などを訪ね、まちづくりに関する首長の本音を聞きだしていた。金武町からは米軍犯罪を防止するため、街灯を設置するのに「2億円くらいあれば何とかなる」という声も聴いた。沖縄から東京へ戻った岡本には、「やっぱりカネさえあれば相当のことはできるのかな」との確信があった。

 ただ、国が策定した計画に基づき、高率補助の振興予算を配分する従来の沖縄振興の在り方については、地元の人材育成や自立経済の確立に十分寄与していない、との指摘もあった。岡本はこれまでの役所の枠にとらわれない、大胆な沖縄振興策の必要性を痛感していた。

 新たな振興策の特色は、国が県を飛び越え、自治体と直接折衝するシステムの構築と、対象を「基地所在市町村」に絞ることだった。

 沖縄では本土復帰以降、政府がさまざまな優遇措置や振興策を投じてきたが、インフラ整備などの「本土との格差是正」という表向きの目的はほぼ達成されようとしていた。それでも、政府が沖縄に対する「特別扱い」を停止できない理由には、全国の在日米軍専用施設の75%が沖縄に集中することへの「政治的配慮」という側面と無縁ではなかった。が、少なくとも表立って基地負担の「見返り」名目で、他県にはない特別な振興予算を投下することは、はばかられてきた。

 岡本が起案した、沖縄の基地所在市町村に絞り込んだピンポイント的な振興策は、政府の基地政策の重大な岐路となる可能性をはらんでいた。

 96年7月1日、岡本は官邸で内閣官房長官梶山静六に「まず諮問会議みたいなものをつくる必要があります」と進言した。「(事業予算を)このまちにいくら、このまちにいくらということを行政(国)の側で勝手に決めるわけにはいかない。まず、沖縄の人を入れた会議を立ち上げましょう。そこで、どのまちに何をするかということを協議していくというのはいかがですか」

 梶山は「ぜひそうしてくれ」と二つ返事だった。

 数日後、岡本は再び沖縄へ赴く。のちに就任する首相補佐官を辞すまでの2年弱の間、計55回にわたる「沖縄通い」の始まりだった。

 外務省で培った岡本の卓越した交渉能力が国内の沖縄に向けられたのは、沖縄問題が「国益」と直結していることの証しでもあった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](9)第1部 退官の理由
役人の立場に見切り

 県内の基地所在市町村長との面談を重ねた岡本行夫は島田懇談会の構想を携え、1996年7月中旬に再び内閣官房長官梶山静六を訪ねる。

 梶山は、岡本を首相橋本龍太郎の執務室へ招いた。橋本は上機嫌だったが一言、「構想は非常にいいが、問題は人だよ」と注文を付けた。橋本から「誰に(座長を)やってもらうんだ」と問われた岡本は即座に、「ネアカな人がいいです」と答え、慶応大教授の島田晴雄(現千葉商科大学長)を座長に推挙した。

 島田は米国やフランスの大学などで客員教授を歴任し、OECD(経済協力開発機構)、ILO(国際労働機関)といった国際機関でアドバイザーを務めた国際派エコノミスト。岡本とは91年に共著も出版している。

 島田は、岡本との出会いについてこう振り返る。「彼(岡本)がまだ外務省にいたころ、政府のアドバイザーをやったとき一緒に働いた。そこで出会ったんだけど、発言のきらきらした人だから、強く印象に残っていたんだ」

 91年に岡本が外務省を辞めたのは、霞が関界隈では大事件だった。

 島田の解釈はこうだ。「どこかの会合で、(岡本が)『俺辞めたんだ』って言うから、『どうして』と聞いたら、いやもう頭にきているんだと。湾岸戦争のときに国会答弁をさせられて、彼は内心煮えくり返っていた。世の中にはしてはならない戦争と、しなきゃならない戦争があるんだ、そんな区別も付かねえのかって。安保課長としてまさかそんなことは言えないと思って辞めたんだよ」

 一方、岡本本人は湾岸戦争が始まる前には官房長に退職を申し入れていたことを明かし、湾岸戦争と退官の直接の関連を否定する。「ちょうど45歳で課長の今が一番おもしろいなと。ここから先は、自分が『切り込み隊』になるということがない。管理業務になっていくんじゃないかと。それで自分の城をつくって一人で思うようにやってみたいという気持ちが抑えられなくなった」と述懐する。

 湾岸戦争時、多国籍軍への物資協力プログラムで岡本は奮闘した。が、結果的に米国から、日本は十分な国際貢献を果たしていない、との烙印を押されるかたちとなった。退官がその仕事に一区切りつくタイミングと重なっているのは事実だ。

 岡本は「湾岸戦争のときは一生懸命やりましたよ。いろんな思いはありますけど、誰かに抗議するというものではない。嫌気がさしたことがあるとすれば国会答弁。国会があまりにも(湾岸戦争への対応に)後ろ向きだった。要するに野党にさんざん威張られてぼろくそに言われて、こっちは反論もできない。反論しちゃいけないんですよね、国会では。それから米国があまりにも理不尽だった」と官僚として抱いた当時の不満を率直に吐露した。

 ただ、岡本の心中では「そんなことは役人の仕事をしておれば当然起こること。それに抗議して、ということはない。それよりは新しいことを自分でやりたい」との思いの方が強かったという。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](10)第1部 「島懇」誕生
盟友口説き座長託す

 島田晴雄は岡本行夫の思想や生きざまに心酔していた。

 「いい男だというんで極めて親しくなって、お互いにブランクチェックを交わし合う仲になった」

 ブランクチェックとは「白紙の小切手」と訳され、相手に白紙委任や自由裁量を与える―といった意だ。

 「あいつ(岡本)が何かできないってときに、僕の了解をとらずに島田を使え、僕が何かできないときには了解をとらずに岡本をって。沖縄の問題でも戦友になろうとしていた」

 だが当初、島田は岡本からの座長就任の誘いを固辞し続けた。

 島田は岡本と同様、大のダイビング好き。「沖縄には何度も行ったが魚しか知らない。陸上の人は知らなかった」と冗談交じりに打ち明ける。

 「はしっこの委員としてなら手伝うが、座長にはもっとふさわしい、歴史的に沖縄にかかわってきた人がいる」というのが理由だった。

 しかし、岡本はあきらめなかった。10回以上にわたって電話をしたり、島田の研究室に出向き、就任要請を繰り返した。宮城篤実からもらった、基地に侵食された嘉手納町の地図を広げてみせ、「こんなところに嘉手納の人たちは肩を寄せ合って苦労しているんだ。島田さんも国家的な問題だと感じるでしょ」と力説したこともあった。

 ある日の昼食どき、岡本から島田に連絡が入った。「ずいぶん島田、島田って官邸も騒がしちゃって、古川(貞二郎)さんにも期待をもたせちゃったから、手打ちにそばぐらい一緒に食べてよ」

 島田が官邸に出向くと、内閣官房副長官の古川をはじめ、審議官の守屋武昌、及川耕造ら内閣内政審議室の主要メンバーが顔をそろえ、そばをすすっていた。

 島田が古川の向かいに座ると、顔を上げた古川が即座に「先生、このたびは(座長就任を)お引き受けいただき、ありがとうございました」と明るい声で礼を述べた。

 何言ってんだ?と思い、島田が隅に立っていた岡本を見やると、気まずそうにうつむいている。

 間もなく、「階上で梶山長官が待っておられます、ごあいさつを」と勧められた。島田はこの期に及んでようやく、座長就任の腹をくくったという。

 官房長官の執務室で、開き直った岡本が横から「島田さんは笑顔がいいんですよ」と茶化した。

 内閣官房長官梶山静六は「島田さんは得してるよ。俺はこの顔だからね。小沢(一郎・現民主党代表)君といろいろやってね、損ばっかりしてんだ」と言って相好を崩した。

 島田は内心で「だまし討ちだ」と岡本をなじった。

 岡本は島田懇談会の座長について「沖縄に感情移入してくれる人でないと駄目。火の玉となって自分の問題として情熱を傾けてくれる人。そして楽観主義者であること。だから、島田さんは最初に浮かんだ人だった」と当時の心情を明かす。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](11)第1部 地元メンバー
各界から委員を選抜

 岡本行夫は島田晴雄の座長就任要請と同時並行で、委員の人選と了解取り付けに奔走していた。

 岡本には「メンバーの半分以上を沖縄の人に就いてもらう」という目論見があった。1996年6月以来、沖縄で岡本の手引き役を務めたのが当時、那覇商工会議所専務理事の米村幸政だった。

 米村と岡本の出会いは、米村が県教育長、岡本が外務省安保課長のときにさかのぼる。

 「米軍基地をネガティブな側面ばかりでとらえるのではなく、前向きな活用はできないか」との観点から、米村は県内の米軍基地内大学への日本人就学を外務省に要請。その際、省内で窓口となり、米側との折衝や国会対策に尽力したのが岡本だった。基地内大学の日本人入学は87年に実現したが、その後も米村と岡本の交流は途絶えることはなかった。

 岡本から地元委員の人選について意見を求められた米村は、県経営者協会長の稲嶺恵一、名桜大学長の東江康治のほか、「いつもネガティブなことしか取り上げない」地元2紙の社長と、連合沖縄会長の渡久地政弘の計5人をメンバーに加えるようアドバイスした。

 渡久地は岡本が米村の案内で那覇市内の事務所を訪れ、島田懇談会の構想を説明し、委員就任を要請したときのことを強く印象にとどめている。

 岡本とは初対面だったという渡久地は「何十年もつきあっているような感じで話し掛けてきたので、こちらもついそんな気になった。沖縄の人はざっくばらんな人が好きだから、ちゃんとそこを見抜いておったのかは分からないが」と苦笑まじりに当時を振り返った。

 渡久地は岡本の要請には即答を避けつつ、「考えておきましょう」と引き取ったという。

 渡久地は沖縄の労働界の重鎮。労組専従30年の筋金入りの組合人だ。郵便局職員だった渡久地は本土復帰時、沖縄全逓信労働組合中央本部の書記長を務めていた。

 琉球政府職員から郵政省職員への完全な身分引き継ぎをはじめとする復帰に向けた要求に関する政府・郵政省との交渉は難航を極めた。このため、渡久地ら同労組幹部は要求実現のため解雇も覚悟の上で、本土復帰を約1カ月後に控えた72年の4月4日から5日間の連続ストライキに突入する。

 このストによる郵便業務の麻痺は、政府の復帰準備にも影響をきたし、政治問題化していく。渡久地らの不退転の取り組みが奏功し、身分の完全引き継ぎと臨時職員150人の本採用確定など実質的な要求実現をもぎ取った。

 その後、渡久地は78年、同労組委員長に就任、連合沖縄会長は93年から99年の3期6年間にわたった。

 「専従生活30年だからいろんな運動を見てきている」と自負する渡久地。自身を委員に推薦した米村や、岡本の思惑について「渡久地なら杓子定規で考えずに、幅をもって考えるのではという思いがあったのではないか」とみる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](12)第1部 振興策 逆リンク論
基地返還後を念頭に

 岡本行夫らは東京の連合中央本部にも島田懇談会参加を打診していた。

 連合中央本部は当時、政府の諮問会議などには積極的に参加し、連合の理念や考えを国の政策に反映させるべきだという組織方針を掲げていた。中央本部は事務局長鷲尾悦也(のちに会長)の委員就任を受諾する一方、連合沖縄に対しては基地問題がからむため、「沖縄の判断に委ねる」と地元の意思を尊重するスタンスをとった。

 渡久地政弘の委員就任をめぐって、連合沖縄内部は紛糾する。連合沖縄は基地の整理・縮小や日米地位協定の見直しを問う1996年9月の県民投票を提唱するなど、基地問題に関する県内世論の誘導に積極的役割を果たしていた。そういう時期に、官房長官の私的諮問機関にトップが加入することに対し、「振興策でごまかされるのではないか」「政府に取り込まれるのではないか」といった警戒論が台頭するのは必然でもあった。

 組織内部は、「中央本部と足並みをそろえ、懇談会に参加してしっかりと意見を主張し反映させた方がいい」という積極参加派と、「政府に利用される」という参加反対派、「参加すれば県民から批判を浴びる」という慎重派に分かれていた。沖縄での島田懇談会の微妙な立ち位置を反映していた。

 「最終的に賛否の結論がつかず、会長判断に委ねる、となった。僕は虎穴に入らずんば虎児を得ずという思いで飛び込んだ」

 渡久地には、政府が力を入れようとしている懇談会の趣旨が「地域振興」に絞られると、基地返還後の基地従業員の雇用保障問題が埋もれてしまうという危機感があった。

 95年9月の米兵事件を受け、同年10月に超党派で開かれた県民大会では、「米軍基地の整理・縮小」が県民の総意として採択された。この流れを踏まえ、渡久地は(1)基地の整理・縮小という文言をきちっと入れさせる(2)基地返還後の姿を想定して地域振興を図る(3)基地従業員の雇用先確保―の3点にこだわり、その前提方針を島田懇談会の理念として反映させることが自らの役割と考えるに至った。

 渡久地は「あのときは地元側から振興策と基地問題のリンクを求めた」と冗談交じりに振り返る。「あとで逆になって、普天間飛行場の県内移設受け入れと振興策をリンクさせるということも出ているけれども、われわれはむしろ関連付けた。沖縄の基地はいずれ返るんだ、返ったときに地域でやっている活性化事業がどう結びつくのかを念頭に置けと」。振興策によって基地の整理・縮小がなおざりにされないようくぎを刺す、という意味においての「逆リンク論」だった。

 島懇事業を基地の維持装置にさせてはならない、という強い思いが渡久地にはあった。

 「僕も(のちに施設局誘致を打ち出した)宮城(篤実)町長じゃないけど、参加することで自分への非難が集中するのも覚悟で入ったよ。結果としていろんなことを言われても甘んじて受けようと思っていた」(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](13)第1部 以心伝心
「島懇」介し絆強める

 1996年8月20日、内閣官房長官梶山静六は記者会見で、長官の私的諮問機関として「沖縄米軍基地所在市町村に関する懇談会」(島田懇談会)の設置を正式発表する。この中で、11月をめどに振興策を作成し、次年度予算に盛り込む方針を明らかにした。

 メンバーの一人として紹介された岡本行夫は「自民党や政府で議論している航空運賃など県全体の措置とは別に、懇談会では具体的な町おこし、村おこしがテーマになる」と強調した。

 島田懇談会の発足は、在日米軍の重要施設を抱える沖縄の基地所在市町村とのパイプを、政府中枢(官邸)が直接握ることを可能にするシステムの確立でもあった。そのルートを開拓した立役者が岡本だった。「まちおこし」を入り口に、首長たちの信頼を得た岡本は、のちに首相補佐官として普天間代替施設の受け入れをめぐって名護市と交渉する上でも大役を果たす。

 同年6月の那覇での会食以降、宮城篤実と岡本は緊密に連絡を取り合っていた。宮城は新聞報道で懇談会設置を知ったというが、構想の輪郭は事前に岡本から聞いていた。このため、懇談会発足時、「岡本さんが動いた、彼以外にない」と宮城は確信していた。

 元エリート官僚として民間の立場となっても「国益」を背負い続ける岡本と、学生時代には「砂川闘争」に身を投じ、地方政治家として「自治」に人生を傾けてきた宮城。この2人が以心伝心で共鳴し合うのは不思議な縁でもあった。宮城は「わが町の発展」、岡本は「本土と沖縄、日本と米国の関係正常化」という異なる命題を抱えていたが、島田懇談会という仕掛けを介し、互いに強い絆で結ばれていた。

 懇談会設置の発表から間もなく、岡本から宮城に連絡が入る。「いつ上京しますか。そのときに(梶山)長官と会ってください」。岡本は6月の会食時の約束を果たそうとしていた。

 数週間後、官房長官の執務室前。宮城は秘書らしき人物に耳元で「長官はあなたの町のことはすべて知っています。3分程度に要約して伝えてください」とささやかれた。入室すると、梶山は腰を浮かし、「大変ご苦労をおかけしています。岡本からも状況をよく聞いております」と丁重に出迎えた。宮城は町議時代から基地関連の陳情で官邸に通ってきたが、これほど慇懃な対応をされるのは初めてだった。

 「北谷町は基地返還でにぎわいを呈し、読谷村はSACO(日米特別行動委員会)合意で返還が進むという情報で沸き立っています。一方、嘉手納基地は長期固定化の方向が見え、町民はうち沈んでいる。これから先、何の希望もありません」

 宮城はわずか3分で具体的な要望をしても意味がない、感情に訴えようと腹に決めていた。途中、秘書が何度もメモを手に出入りし、面談の打ち切りを催促したが、梶山は「もう少し聞かせてほしい」と食いつき、30分近く話し込んだ。「嘉手納には政府中枢の人たちが繰り返し来られるが、みんな上空から視察するだけです」。このとき宮城の投じた言葉が梶山の新町視察へとつながる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](14)第1部 施設局誘致
他に先がけ熟度訴え

 1996年8月26日、島田懇談会の初会合が首相官邸で開かれた。検討事項として(1)基地所在市町村のまちづくりなど各種施策の在り方(2)地元と米軍とのより良い関係を築く方策―を確認。9月に委員が来県し、基地所在市町村から直接要望を聴くことを決めた。

 内閣官房長官梶山静六は、政府として在沖米軍基地の「整理・統合・縮小」や、沖縄への振興策の検討を進めていることを説明し、「沖縄の痛みや心を草の根から行政に取り上げていくにはどうすればいいかを議論してほしい」とはっぱをかけた。

 自由討議では、政府が多額の支援をしながら沖縄経済は活性化していない―という指摘があり、「これまでの振興策は適切だったのか」との疑問も提示された。

 会合後、記者会見した座長島田晴雄は、SACO(日米特別行動委員会)や沖縄米軍基地問題協議会などとは分業とし、他機関のテーマには特に触れない、としながらも「基地所在市町村に住む人々の目の高さに立ち、議論そのものは徹底的にやる」との姿勢を示した。

 9月14日の現地視察初日。県内外の経済人、学識経験者ら11人で構成する島田懇談会は、北谷町を皮切りに嘉手納、読谷、沖縄、具志川、勝連、北中城の7市町村を訪問し、首長から意見聴取する強行スケジュールに臨んだ。

 前夜に県内入りした委員らが宿泊する那覇市内のホテルに、この日の朝、宮城篤実の姿があった。宮城は(1)市街地再開発と政府機関の誘致(2)沖縄航空宇宙博物館(3)オーチャードロード(4)高度医療センター(5)市街地住環境整備(6)基地の実態に見合う交付金の新設―を盛り込んだ要請書を携えていた。

 「要請書 平成8年9月14日 沖縄県嘉手納町長 宮城篤実」と表書きされた文書は、この日のために用意した宮城の「夢の結晶」だった。宮城はどの市町村よりも早く委員の手に届けることで、懇談会に懸ける情熱と事業計画の熟度の高さをアピールしようとした。

 要請の冒頭に挙げられた「市街地再開発と政府機関の誘致」は、島懇事業の嘉手納タウンセンター事業と沖縄防衛局移転の原形となる。

 この中で、市街地再開発は「再生産を伴う魅力ある多目的ビルを商業の核とし、良質な住宅を配した複合事業として有効な手法であり、町の命運を懸けて事業化を推進したい」と提案した。

 政府機関の誘致については「主要な米軍基地が集中する中部地区には基地政策を主管する国の機関はなく、総合的な民生安定施策を展開する上で不合理。基地からの障害防止に関して周辺住民と国が同じ視点に立ち、相互理解を深める一環」と訴え、那覇防衛施設局(現沖縄防衛局)の移転を要請した。

 これが、「施設局誘致」方針を嘉手納町が初めて外部に示した瞬間だったが、この時点で気に留めるものはいなかった。相手にされなかった、というのが正確かもしれない。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](15)第1部 千載一遇
再開発と誘致へ攻勢

 宮城篤実は、1995年4月に市街地再開発の検討委員会を発足させたときにも、再開発ビルの入居候補に「政府機関」と盛り込んでいた。「那覇防衛施設局誘致」は、宮城が長年ひそかに温めてきた「切り札」だった。

 検討委の計画についても、「施設局が頭にあったから『政府機関』という表現を使った。ずっと記憶の中にあって、政府機関といえば施設局しかないという思いだった」と明かす。

 宮城の施設局誘致の腹案は、局幹部との何げない会話が発端だった。

 ある日、宮城は事業部長から「局ではいろんな仕事を民間に発注しながらやっている。駐車場も民間委託だし、民間業者の出入りもひっきりなしだ」という話を聞いた。

 「そのときは嘉手納町にあればという思いなどなく、いいなという程度に受け止めていた」(宮城)。が、結局、それがヒントになり、宮城の頭に「民活のポテンシャル」として、ずっとインプットされる。

 周辺の北谷町や沖縄市では当時、大型ショッピングセンターや商業集積ビルの整備が話題を集めていた。しかし、施設局からは毎年確実に多額の事業費が落とされ、500人近くの職員が日々働く。宮城は「どんな大きなショッピングセンターをもってくるよりもメリットがある」と踏んだ。

 岡本行夫との情報交換を密にし、内閣官房長官梶山静六とも面談していた宮城は、島田懇談会を再開発と施設局誘致の「千載一遇」のチャンスととらえていた。

 「とにかく必死だった。この懇談会で何とか、という思い。日米協議で決まるSACOは私の意思では動かせない。自分がじかに協力をお願いできるのはこの場しかない」という覚悟を固めていた。

 一方、島懇事業の対象となるほかの基地所在市町村は当初、宮城の攻勢ぶりとは対極の冷めた反応も目立った。

 1日に7市町村という「駆け足視察」には、首長らから「事務方から基地問題に触れず、経済振興について話せとくぎを刺された。基地の町で基地に触れずに何が語れるのか」「委員から質問もない。こんなに駆け足で大丈夫か」といった疑心も噴き出した。

 内閣内政審議室で事務局を担当した佐藤勉は「懇談会への対応は市町村によって真面目、不真面目なところで大きな差があった。政府の宣撫工作という白い目もあった」と振り返る。

 当時の北谷町長辺土名朝一は「何しろ前例のないケース。どの省庁が担当するのかや予算も不明確で、懇談会が今後どう動いていくのか、まったく分からない状況だった。従来の法律の枠内でやるのであれば、自治体も相当分の持ち出しを考えないといけない。これをつくれ、あれをつくれとはうかつに言えなかった」と打ち明ける。

 理念が先行するばかりで予算の裏付けも不明確な振興策に、自治体の責任者としてむやみにに飛びつくわけにはいかないのも当然だった。

 島懇事業に賭ける政府中枢の本気度を肌で感じ、満を持して臨んだ宮城と、ほかの首長たちとではスタートラインで懇談会に対する認識に大きなギャップがあった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](16)第1部 嘉手納統合案
三連協で「突出」を回避

 島田懇談会発足の背景要因として、同時期の米空軍嘉手納基地をめぐる動きは無視できない。政府にとって、同基地周辺の自治体の「ガス抜き」が不可欠となる政策課題が浮上していた。

 米海兵隊普天間飛行場の移設返還が決まった1996年4月、首相橋本龍太郎は「ヘリコプター部隊は嘉手納基地など県内の既存の米軍基地内にヘリポートを建設し、移転する」と条件提示した。日米の返還合意は代替施設建設をめぐる混乱の幕開けでもあった。

 同年9月16日。危機感を募らせた嘉手納基地周辺の沖縄市、北谷町、嘉手納町は「嘉手納飛行場への米軍ヘリポート移設反対連絡協議会」(三連協)を発足。代表の沖縄市長新川秀清ら3市町の首長と議会議長の6人は同日、沖縄市役所で記者会見し、嘉手納基地への機能統合案を「15万市町民の切り捨てだ」と訴え、基地の県内移設に反対する共同声明を発表した。

 三連協は、翌17日に来県した橋本に共同声明文を手渡した。この地元自治体の行動は、首相への「直訴」として強いインパクトを放った。

 宮城篤実は三連協発足の経緯について、「当時は基地被害といえば嘉手納町中心の反対運動。嘉手納統合案が浮上したとき、沖縄市や北谷町はピンときていなかった。沖縄市、北谷町を巻き込んでやった方がいいということで全部、私が根回しした」と打ち明ける。

 宮城には、フィリピンのクラーク基地から米空軍特殊作戦部隊と輸送機が一時移駐と称し、嘉手納基地に居座った91年の苦い教訓が頭にあった。

 「一度OKと言ったら取り返しがつかない」と直感した宮城は、普天間飛行場返還合意の直後から「統合案つぶし」に邁進する。

 同合意発表の約1週間後の4月20日には、「移設反対町民大会」を開催。雨の中、約1000人の町民が参加し、町内の通称「安保の見える丘」までデモ行進した。

 その後も嘉手納統合案が有力視されたことから、危機感を募らせた宮城は三連協発足に本格着手する。

 「町単独で動いてもなかなか政府に伝わらない。基地被害に敏感な嘉手納町だけで動いても、国はまたかと受け止めるだけだった。嘉手納基地全体の問題だということで沖縄市、北谷町に呼び掛け、嘉手納統合案をつぶす決定的なものにしようと動いた」。


 宮城は沖縄市をメンバーに取り込むため、海兵隊のヘリポート機能は嘉手納基地内の沖縄市側に配備が予定されている、との米軍内部の情報も積極的に触れて回った。

 嘉手納統合案阻止を目的とする三連協発足で中心的役割を果たす宮城には、「島懇事業は確実にものにしなければならない」という宿願もあった。その点、沖縄市長が代表を務める三連協には、政府にもの申す反対運動で宮城の突出したイメージを打ち消す「効能」も内在していた。

 宮城は「駆け引きではなく、政府が打ち出した政策に対応し、その場その場で決断し、動いてきた」と振り返る。が、政府との交渉では「基地問題と振興策は別」と簡単には割り切れない現実を知る政治家宮城のしたたかな一面も垣間見える。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](17)第1部 相似の振興策
「代替の代償」あらわ

 島田懇談会の発足時期と、嘉手納統合案に対する地元の反発の盛り上がりが重なったのは単なる偶然かもしれない。だが、1995年の米兵事件だけでなく、96年の普天間飛行場の県内移設方針により、自治体レベルにまで波及した不満の渦を鎮めたい当時の政府にとって、基地が集中する本島中北部の自治体の「ガス抜き」を必要とする世論状況だったことは否めない。

 こうした見方に、岡本行夫はこう反論する。「地元のガス抜きという意識はなかった。純粋に僕は同情した。各市町村を回ると、小さな金額でもいろんなことができるはずなのにできない。無理もない、防衛施設庁の基地交付金だけではそういうことはできない。これは官邸のやる仕事だと思った」

 「ガス抜き」という表現が適切かどうかは別にしても、当時の政府には、島懇事業が「気の利いた施策」である点に変わりはなかっただろう。

 96年7月から那覇防衛施設局長を務めた嶋口武彦(現駐留軍等労働者労務管理機構理事長)は、島懇事業について「最初は普天間移設の絡み。そこから拡大していった」との見解を示す。

 那覇局に赴任して間もなく、嶋口は名護市幹部を局長室に招いた。嶋口によると、「実は普天間代替施設はキャンプ・シュワブ沖で進めたいと思っていますが、どうですか」と切り出すと、同幹部はややあって「二つ条件がある」と提示した。(1)工法は埋め立てに(2)キャンプ・シュワブの借料アップを―との依頼だったという。

 「その場で私は、こんな飛行場みたいなものを受け入れるのであれば、名護市全体を全面的につくり替えるぐらいのおカネをもらえばいいんですよ、と言った。それが島懇事業の始まり」と嶋口は説く。

 この説に、岡本は「島田懇談会は7月にコンセプトが決まって8月には発足した。その時点では嘉手納統合案で進んでいた」とし、名護市への代替施設受け入れ打診との関連を否定する。

 嶋口は、県と名護市の普天間代替施設受け入れ表明を受け、99年に閣議決定した北部12市町村を対象とする「おおむね10年間で1000億円」の北部振興策と混同している可能性もある。

 ただ、事業費の9割を国庫補助で賄い、自治体負担分を最小限に抑える北部振興策は、島懇事業と同じ事業推進フレームを採用している。北部振興策は、県内25の基地所在市町村を対象に「7年間をめどに1000億円」を投じる島懇事業とは額面上の類似だけでなく、事業形態も相似をなす。時系列で判断すれば、北部振興策は島懇事業がモデルとみるのが妥当だろう。

 当初、基地とのリンクがあいまいにされた北部振興策は、米軍再編で政府が普天間代替施設建設を推進する過程で「基地受け入れの見返り」という本性があらわにされる。島懇事業もまた、名護市への代替施設受け入れの代償となる「アメ」の一つとして活用されたことは、市町村別の予算内示の段階で明らかになる。

 嶋口の記憶の中で、北部振興策と島懇事業が重なったとすれば、それは政府内部の意識の反映ともとれる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](18)第1部 自立と依存
“旨み”増すほど矛盾

 1996年10月1日の島田懇談会第4回会合。この席で座長島田晴雄は「市町村の窮状を緩和し、自立的な経済発展を実現するために、国が行う施策の余地は大きい」と主張。施策の原則として(1)市町村の閉塞感を緩和し、雇用創出と若者を定着させるプロジェクトの実現(2)基地返還後を念頭に置いた振興策と基地労働者の雇用不安解消―など4点を挙げ、可能なものは次年度予算に盛り込む方針を打ち出した。

 しかし、バブル崩壊の余韻が残る当時、町最大の課題である埋め立て造成地の美浜アメリカンビレッジの企業誘致に忙殺されていた北谷町長辺土名朝一は「とにかく方向性を出せと言われたが、箱ものは極力嫌われるしで正直困った。自治体が自活できる、地域の活性化につながる事業を出せと急に言われても、そう簡単に探せるものではない。美浜の企業誘致だけでも頭がいっぱいなのに」と戸惑いも感じていた。

 北谷町は本土復帰直後、米軍基地が町面積の65%を占め、企業立地に必要な土地も確保できなかった。その後、ハンビー飛行場(約43ヘクタール)、メイモスカラー射撃場(約23ヘクタール)の返還に伴い、隣接する公有水面の埋め立て事業に着手。大型ショッピングセンターやアミューズメント施設を次々に立地し、ビーチと連動した都市型リゾート地区へと再生させた手腕は高く評価され、県内外からの視察が相次いでいた。

 民間活力を利用し、基地の跡地開発を推進する北谷町で指揮をとる辺土名は「自治体がかかわるから成り立つというのは商売ではない。町が入らなくても成り立つのが真の事業」と企業へのトップセールスを展開。町職員には「基地が開放されても、野ざらしにしているようでは駄目。そこに活気ある街をつくって初めて政府にものが言える。自立できる沖縄をつくれば住民も米軍基地に頼らず発展できる方がいい、となるはずだ」と叱咤していた。

 大田県政の基地返還アクションプログラムや国際都市形成構想にも触発され、基地収入に頼らない自立経済を模索し始めた自治体は、北谷町だけではなかった。そうした自治体にとって、国から振興策の要求をせっつかれる島田懇談会の出現は「有り難いこと」ではあったが、困惑も広がった。

 しかし、事業採択される自治体が出てくると、どれだけ大きなパイをとれるかをめぐって、自治体間の要求競争があおられる様相も呈した。

 「自立的な経済発展」に向け、国が直接、市町村をサポートする島田懇談会は、自治体が主体的にまちづくりを考え、行政能力を磨く修練の場にもなった。一方で、高率補助の至れり尽くせりの国策事業は、その旨みが増すほど自治体が中央依存を深めていく矛盾する機運も醸成した。とりわけ、近い将来、返還の見込みが低い本島中北部の基地を抱える自治体にとって、「基地返還後を念頭に置いた振興策」という島懇事業の原則は建前にすぎず、当面の活性化のために、より多くのアメを政府から引き出すことが現実的な命題となった。それは自治体に「基地があることのメリット」を想起させる契機にもなった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](19)第1部 作業部会
懐疑的意見はね返す

 1996年10月18日、首相官邸で開かれた懇談会の第5回会合。委員からは、嘉手納町が提示した再開発に肯定否定の立場から意見が寄せられた。

 「特定の町の再開発という問題を考えた場合、実はどうしたら本当によいかということは大変難しい。単に、箱ものをつくればよいというものではない。政策的な視点が必要」

 「町の再開発についてはいろいろな問題はあるが、今より失うものがあるということはないのではないか。基地の制約を特に大きく受けている市町村については、何か一つずつプロジェクトの例示が必要」

 10月23日。那覇市のホテルで開かれた第3回作業部会で、委員は各市町村長と個別に質疑を交わした。宮城篤実にとって命運を懸けた日だった。

 「どうしても進めたい課題について言います」と意を決した口ぶりで立ち上がった宮城は、町の衰退状況を説明した上で「まずは1ヘクタールの再開発から始めたい。そうすれば、そこを起点とした人の動きも出てくる。防衛施設局の誘致も進めてもらいたい。再開発でそこにいた人がとどまるのみならず、新たな住民も来るようにしたい」と新町の再開発事業と那覇防衛施設局(現沖縄防衛局)誘致を要請した。

 しかし、委員からは懐疑的な意見が相次いだ。以下、国作成の議事録。

 委員「防衛施設局を誘致すると、基地固定化につながるとの批判が予想されないか」

 宮城「あるだろうが、説得できる」

 委員「雇用や活性化効果は高いと思うが、地元の合意形成は大丈夫か」

 宮城「大丈夫。町民には空理空論は言わない。今生きている人々の環境改善になるなら理解は得られる」

 委員「活性化のために防衛施設局を、というが、個人的には疑問だ。政治的対立を生まないか」

 宮城「活性化効果は大きい。大衆運動も心配されるが、それはのみ込むつもり。すでに町は基地自体のみ込んでいる。基地に比べれば運動ぐらいは」

 委員「県との相談は」

 宮城「町独自の判断だ」

 委員「通常の再開発の制度ではかなり困難。床を誰に売るのか。また、零細商店を営む住民や借地の人たちは、普通に再開発をやったらビルには入居できない。新たな工夫や公設市場などの合わせ技がないと難しいだろう」

 宮城「町には産業がない。こういう事態になったことを国がどう受け止めるのかがポイントだ。ロータリー地区の再開発の構想もあるが、新町地区を優先して着手したい」

 一方、宮城の記憶ではこうだ。「施設局に来てもらえれば活性化につながると言うと、豊平良一委員(沖縄タイムス前社長)が突如笑いながら『町長それはユニークな発想だが、デモ隊も来ますよ』と警告したので、私は即座に『デモ隊も大歓迎。一緒にまちづくりに参加してもらいます』と言った。すると、渡久地政弘委員が『そういう志ならいい』と賛同してくれた。私は人さえ来てもらえれば誰だっていいと言ったら、みんな笑っていた。これで雰囲気が和らいだ」(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](20)第1部 連判状
基地所在首長が署名

 宮城篤実が施設局誘致と再開発を要請した1996年10月23日の第3回作業部会について、渡久地政弘はこう回想する。

 「(施設局誘致について)政府側のメンバーも意外なことを言ってきたな、少し驚いたという感じだった。嫌われている施設局をもってこいということに、ええーとなった」

 宮城の提案を受け、渡久地は(1)基地返還を想定してそれに結びつける振興策、再開発という思いはあるのか(2)(基地返還後に)基地従業員の役場への優先採用も考えているか―と問うた。

 「(宮城は)異議はありませんと言うので、それなら僕がもっている戦略目標と合致すると。そして何よりも、彼が本当に腹をくくってやろうとしているのかを聴きたかった」

 渡久地はさらに宮城に問う。「施設局をもってこようとしたとき、世論の集中砲火を浴びて四面楚歌になる可能性もあるが、その覚悟はあるのか。途中で腰砕けとなると、かえって混乱を引き起こすことになるが、そういうことを想定してなおかつ誘致するのか」

 宮城はにこやかに悠然として「非難集中は覚悟している。腰砕けにもならない。事業として採用してくれるなら自分の信念として断固として進める」と答えた。

 渡久地は宮城の回答に満足した。「僕は町の代表がそこまで言うんだったら、その意思を尊重すべきだと思い、賛成した」

 周辺自治体の理解を得るため、宮城はこの後、「奥の手」を打つ。97年4月、那覇防衛施設局で正式に移転要請した際、これを見た局長嶋口武彦は「これは連判状ではないですか」とつぶやいたという。

 「連判状」を宮城に進言したのが当時、町企画総務部長の塩川勇吉だ。塩川らは基地を抱える本島中北部の18基地所在市町村の首長に、嘉手納町への施設局誘致に賛同を呼び掛けた。疑義を唱える首長は皆無で、わずか数日で全首長の署名捺印がそろったという。

 施設局は基地が集中する中北部の市町村にとって、陳情や要請で最も頻繁に職員を派遣する国の機関だ。そのたびに那覇へ出向くのは時間と労力のロスでもあった。「施設局が嘉手納町へ移転すれば皆さんも楽になるのでは」というのが周辺自治体への嘉手納町の売りだった。

 また、政府に対しては、口うるさい革新首長も含め、保守・革新の区別なく政治的にはクリアできているというメッセージが込められていた。

 しかし、島田懇談会では「誘致作業は懇談会の役割ではないとして、『おもしろいアイデアですが、町長ご自分で努力してください』で終わった」(宮城)。施設局誘致は懇談会での議論とは切り離し、町が独力で政府折衝を図ることになった。

 宮城は第3回作業部会を機に、上京のたび、政府関係者に那覇防衛施設局の嘉手納移転要請を重ねるが、政府の扉は予想外に重いことが次第に明らかになる。移転決定の遅れが、再開発事業の成否にもかかわる事態を招く。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](21)第1部 財源問題
予算作成ルール逸脱

 1996年10月29日。第6回会合が首相官邸で開かれた。嘉手納町や金武町など、基地の重圧が大きな自治体に特に配慮するかたちで各種プロジェクトを実施することで合意。しかし、具体的プロジェクトについては国、県、市町村との調整や予算面の問題があり、継続協議とした。

 冒頭、あいさつした内閣官房長官梶山静六は「懇談会もヤマ場にさしかかった」との認識を示し、基地所在市町村の期待に沿う提言の取りまとめを要望した。会合後、座長島田晴雄は「プロジェクトを実施するには予算の問題もある。関係省庁の説明を聞くなど段階は踏んでいるが、さらに詰めなければならない」として、プロジェクトの全体像については言及を避けた。

 この時期、島田が会見で触れた「予算の問題」がまさにヤマ場を迎えていた。当時の状況について島田はこう振り返る。

 「各市町村を回って意見聴取し、事業概要がリポートとしてかたちになるにつれ、市町村側の期待感が非常に高まっていた。しかし、予算措置ができないんだよね。まったく既存の予算措置から外れているから。ただ、もしそれだけのお金を使わないとなると、本土に裏切られたという感じを沖縄の人たちはもつという懸念を岡本さんも梶山さんも非常に強くもっていた」

 国の予算編成にあたっては、前年度の夏から秋にかけて各省庁が必要な予算額を財務省(当時大蔵省)に提示する「概算要求」を経て、同省主計局が財務省原案をとりまとめる。この予算原案作成のレールに島懇事業はまったく乗っていなかった。さらには、官房長官の私的諮問機関という位置付けの同事業は、予算を要求する主体官庁も不在だった。

 「(事業を担う主体官庁は)全然決まっていなかった。それがはっきりしない中で、沖縄への思いだ思いだって、梶山さんが頑張ろうって言ってるだけの話だから。雲をつかむような話だということがはっきりしてきて、財務省は勝手なことを言われても困る、ということになった」(島田)

 懇談会メンバーにとって、11月に予定している懇談会提言の段階で予算面の裏付けを示せないのは体面にかかわる事態だった。島田も財務省主計局に足を運び、予算確保の談判に及んだ。

 机をはさんで対座した主計局職員は、島田の目の高さまで握り拳を掲げ、そこから下に向け、拳をぱっと開いた。拳の中にあった架空のボールが放たれ、机の下まで滑り落ちていく、そんな様子をジェスチャーで示し、こう言い放ったという。

 「島田先生、そうおっしゃるが、いったん手放すと、こんなふうに、ころんと落っこってコロコロいっちゃうんですよ」

 ボールは予算を意味していた。受け皿の責任官庁が不在のまま予算投下すれば使途のチェックが効かず、垂れ流し状態になるという警句だった。そもそも主体官庁が明確でない事業の予算を計上すること自体、「財政の番人」である財務省にとっては論外だった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](22)第1部 総事業費
SACO経費が原点

 島田晴雄が財源確保で財務省主計局と格闘していたころ、岡本行夫は「深く静かに潜行していた」(島田)。

 岡本はのちに「総額1000億円」と決定する島懇事業費の由来について、キャンプ・ハンセンで行われていた米海兵隊の県道104号越え実弾砲撃訓練の本土5道県の演習場への分散・実施に伴う経費との関連を挙げた。

 「だいたいどれくらいのカネがいるんだと梶山(静六官房長官)さんに聞かれたので、SACOで恩納岳のりゅう弾砲実弾射撃訓練を本土へ移すための経費(住宅防音工事や民生安定助成事業など)が150億円だったことを指摘した。沖縄は分散されるところの5倍の演習量をこれまで無料で背負わされていた。僕はSACOで150億円使うなら、沖縄にも150億円必要ですよ、と梶山さんに申し入れた」

 さらに、梶山は岡本に「何年間、必要なんだ」と問うた。岡本はとっさに「こういうプロジェクトは立ち上げから7年はかかります」と答えた。「それで150億×7という数字が梶山さんの頭にインプットされた」という。

 1996年11月19日の首相官邸。懇談会提言発表の1時間前、控室で岡本、審議官及川耕造、島田らが戦略会議を開いた。岡本は島田に「1000億円のオーダーでやりましょう。ただ、予算措置ってわけにはいかないので、誰か(記者)が質問しますから、島田さんはこれぐらいの事業をやるとなれば1000億円、7年間ぐらいかかるでしょうと口頭で言ってください」と持ち掛けた。

 岡本の「根回し」を察した島田は会見で、記者の質問に答えるかたちで事業期間は約7年との見通しを示し、経費は「数百億円から1000億円ほど」との見解を表明した。「弁慶の勧進帳と同じ。何もないところでしゃべった。直後に座長見解が出ましたって、記者がいっぱいいる中で梶山さんが走り書きのメモをもって三塚博大蔵大臣のところへ行った。そうしたら三塚さんは『重く受け止めてまいります』って口頭で答えた」(島田)

 沖縄と政府の関係が最も緊迫したこの時期、島懇事業に限らず、沖縄特別振興対策調整費など「沖縄振興」は百花繚乱の様相を帯びていた。日米安保のかなめである沖縄の民生安定を企図した、多分に政治色の濃い国庫予算の集中投下は、SACOでは解消しきれない基地問題への県民の不満を振興策にすり替える政府の狙いを映す鏡でもあった。

 それでも、座長見解に対しては地元マスコミも「具体的事業がない段階で座長見解とはいえ、具体的金額を打ち出すのは通常の予算措置ではあり得ない異例の対応」と評価した。

 ただ、「総額1000億円」の予算設定の見方はさまざまだ。内閣内政審議室にいた佐藤勉は「丼勘定。島懇の契機になった嘉手納、金武にこれくらいなら全体でこれくらい担保する必要があるという政治家的発想」と指摘。那覇防衛施設局長だった嶋口武彦は「一度に1000億円ではなく10年以上かけてなら、たいした額ではない」とみる。島懇事業は97年度から「7年間」の予定がいまだ完了せず、現段階では2011年度までの15年間にまたがる見込みとなっている。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)


[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](23) 第1部 事業採択
基地負担の重み考慮

 島田懇談会は1996年11月19日、(1)嘉手納タウンセンター(嘉手納町)(2)ふるさとモデル地区整備(金武町)(3)伊江マリンタウン(伊江村)(4)人材育成センター(名護市)(5)こども未来館および周辺施設整備(沖縄市)の5市町村5プロジェクトを例示した提言をまとめ、内閣官房長官梶山静六に提出した。

 5市町村にとどまった理由について、座長島田晴雄は「各市町村に願望はあっても、十分考え抜いたところまでいっていない」と説明。基地の比重や基地被害がより大きな自治体を軸に、「有用性と具体性」を考慮に入れた結果とした。

 懇談会提言は嘉手納タウンセンターについて、「町域の83%が基地で占められている嘉手納町の場合は、すでに面的拡大の余地がなく、基地返還の見通しも得られていないため、市街地の拡大による過密解消は困難であり、また高度利用化を促す潜在力も十分でないという八方ふさがりの状況にあるので、町の活性化の拠点として嘉手納ロータリー周辺の総合的な再開発を行う」と再開発の方針を明示した。

 その上で、中核的プロジェクトとして「町の活性化の拠点となる多目的ビルの建設、町民広場の整備等を行うとともに、雇用効果のある施設、商業・サービス機能の導入などを進め、雇用機会の創出や若者の定着、さらには国際交流を図る」とした。

 再開発事業については事業採択という町の念願が早々にかなったものの、宮城篤実がセットで要望してきた「施設局移転」の文言はどこにも付されていなかった。

 総括で梶山は「提言が実施されれば、基地の存在による閉塞感を緩和し、内発的発展への展望が期待されるなど、極めて重要な内容を含んでいると認識する」と述べ、提言を実現に移すことを約束した。

 だが、プロジェクト自体は「箱もの」中心で、沖縄開発庁(現内閣府)主導で行われてきた従来の社会資本整備の域を出ないもの、と見ることもできた。

 8月26日の第1回会合以来、3カ月で計10回という異例のハイペースで協議を重ねた島田懇談会は区切りの段階を迎えたが、各プロジェクトが市町村経済の活性化や雇用機会創出、人材育成という最終目標につながるのか、不透明感をぬぐえないままの「船出」となった。

 懇談会提言はまた、基地内通行や制限水域解除など5項目を米側と折衝することも併せて求め、政府に連絡調整窓口を設けて基地所在市町村から今後出される要望に対応する必要性にも言及した。

 このことは、米軍基地と県民の「共存」は当面続かざるを得ない―という前提の下、県民の反基地感情がこれ以上高まらないよう、政府に最大限の配慮を求める提言の趣旨が色濃くにじんでいた。

 「沖縄は振興策と基地存続を取引したわけではない。懇談会提言は、基地が存在する間のマイナス面を放置せずに、多少なりとも取り除くものと解釈したい」(96年11月20日沖縄タイムス朝刊)。

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](24)第1部 首長の意識
基地維持 気付きつつ

 島田懇談会提言が発表された当時、基地問題と振興策の関連を地元自治体はどうとらえていたのか。

 1997年2月に行われた本島中部の沖縄市、宜野湾市、嘉手納町、読谷村の4首長の座談会の中で、それをうかがい知る一幕がある。

 「地域振興を条件に基地を受け入れるという考えと、基地問題と地域振興を取引すべきでないとの考えもある」と問題提起された読谷村長山内徳信(現社民党参院議員)と嘉手納町長宮城篤実は、それぞれこう回答している。

 山内「基地問題も地域振興も解決しなければならない命題。沖縄側からは二つの命題をアメとムチという構造でとらえてはいけない。命題を県民挙げて解決しなければ、基地所在地市町村の閉塞状態を突き破れないからだ。復帰前のアメとムチ論を絡ませたりしてはいけない。政府は基地問題も地域振興も解決する責任があり、沖縄側は必要以上に政府の恩を感じる必要はない。恩を感じるとアメとムチとなる」

 宮城「地域住民は閉塞状態で呼吸困難に陥っている。政府は改善の手を加える責任がある。よそから見てアメとムチ論をいうが、基地に苦しむ住民にアメを食うな、我慢しろというのか。自治体の長としてそれは決してできない」(いずれも97年2月9日沖縄タイムス朝刊)

 米軍統治下の沖縄では、56年の那覇市長選で瀬長亀次郎が当選した際、米軍は琉球政府の頭越しに銀行の融資を禁じ、援助計画を中止。布令によって瀬長を追放し、選挙権も剥奪した。一方で米軍は、基地行政に協力的な自治体に補助金を重点的に注ぐなど直接、間接に影響力を行使した。

 また、本土復帰間もないころの沖縄を知る元那覇防衛施設局職員は「沖縄では軍人は住民を守らないというイメージが強く、施設局職員は『隠れ自衛隊員』と嫌悪された。施設局の補助事業は首長ですら『宣撫工作の資金なんて死んでも受けとらない』という人もいた」と振り返る。

 岡本行夫らによって既存の法律の枠を超えた島懇事業が編み出されたことで、首長たちに基地絡みの振興策を受け取る「権利意識」が定着し、保革を問わず、それを県内世論に公然と発する風土も醸成された。自治体間競争の激化で、「実利」を重んじる風潮が日本全体を覆いつつある時期でもあった。

 島懇事業はまた、初代沖縄開発庁長官の山中貞則衆院議員という特定の「沖縄担当」政治家の力にすがり、同議員への陳情によって成立していた従来の沖縄振興の構造を質的に転換した。

 官邸直轄の島懇事業は「政府側の都合」で開始された国策であり、背景には「基地の安定維持」という明確な政策意図があった。

 沖縄側はこれに気付きながらも、基地負担の見返りとして振興策を受け入れることをタブー視しない方向へとシフトした。これにより、「ひもつき」の振興策が基地政策に有効に作用するとの教訓を政府側に与え、アメとムチ政策へと発展させる契機となった。

 それは露骨さこそ影を潜めたものの、根本は復帰前の米軍政と変わらない手法だった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](25)第1部 免罪符
「閉塞」不満 はけ口に

 1996年11月の島田懇談会提言は「現在の米軍基地を固定的に考えず、基地の返還後の姿も念頭に置いて計画をつくる」「基地従業員の雇用不安解消の措置を講ずる」ことを明記した。

 これらは連合沖縄会長渡久地政弘が委員就任時にこだわった(1)基地の整理・縮小の推進(2)基地返還後の自立的発展も見据えた振興策(3)基地従業員の雇用確保―に配意したものだった。

 8月26日夕の首相官邸での懇談会初会合で、内閣官房長官梶山静六は政府として沖縄米軍基地の「整理・統合・縮小」に取り組む姿勢を示していたが、懇談会提言では「統合」の文字が消え、「整理・縮小」に修正された。統合は普天間飛行場の「県内移設」容認のニュアンスとも受けとれるため、渡久地が座長島田晴雄や主要メンバーの岡本行夫らと掛け合い、もぎとった成果だという。

 しかし、提言から10余年が経過した今、渡久地は島田懇談会について複雑な胸の内を明かす。

 「基地問題と振興策をリンクさせるという考えは当時、まったくなかった。県政が代わったこともあるが、特に小泉政権誕生以降、ややもすると基地と振興策をリンクさせるような動きがあからさまに出てきた。政府の意思を押し付けるような動きが島懇事業の続いている時期と重なったため、その流れに巻き込まれてしまったのかなあという気持ちと、一緒にされかねないという心配もしている」

 米軍再編以降、普天間移設と北部振興策のリンクを明確化し、代替施設建設の進ちょく状況に合わせた「出来高払い」となる交付金制度を打ち出してきた政府の「豹変ぶり」に対する戸惑いと、島懇事業が「アメとムチ」の基地政策の源流とされることへの強い危惧が渡久地にはある。

 が、実際には、SACO(日米特別行動委員会)によっても基地の整理・縮小が図られない嘉手納町のような自治体にとっては「基地を抱える今」の閉塞状況の緩和が最優先課題だった。島懇事業が予算を重点配分したのも、過重負担が今後も続く見通しの自治体であったことを踏まえれば、「基地返還後も見据えた振興策」という懇談会提言はうたい文句にすぎず、むしろ「基地との駆け引き」という警戒感や後ろめたさを県民からぬぐい去る免罪符の役割を果たしたのではないか。

 また、運動論として基地の整理・縮小を唱えてきた渡久地や、県内世論に影響力をもつ地元紙の社長をメンバーに加え、議論を重ねた懇談会の協議過程そのものが、県民各層を納得させるだけの「体裁」を整えるのに大きく寄与したことも指摘できる。この点からも、基地問題へのスタンスを超えて地元の経済、教育、マスコミ、労働界のリーダーをメンバーに取り込んだ岡本行夫らの企図は功を奏したといえる。

 委員の一人、稲嶺恵一は岡本らの機略の神髄を見抜き、こう指摘している。「これじゃあ当時の革新県政も文句を言えない(地元)メンバーを、きっちりそろえたんですね」(08年7月の嘉手納町の島懇事業完成式典祝賀会のあいさつより)。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](26) 第1部 本土世論
沖縄への共感冷める

 島田懇談会が発足した時期は、1995年に起きた米兵事件とその後の政府対応のまずさ、知事の代理署名拒否、超党派の県民大会、普天間飛行場の県内移設などに伴う県民各層の反発に加え、こうした一連の沖縄の動きに対する全国世論の共感が、政府に強いストレスを与えていた。日米安保の根幹をなす既存の在沖米軍基地すら維持できないという政府の危機感の発露として生まれた振興策の一つが、島懇事業だったと位置付けられる。

 しかし今、沖縄や日本全体を取り巻く状況は大きく変容している。

 元那覇防衛施設局長嶋口武彦は「当時、梶山(静六)官房長官が『(沖縄振興は)日の高いうちにやりなさい』ってよく言っていた。橋本、小渕首相は沖縄に対してすごい思い入れがあったが、小泉(純一郎)さんにはそれが驚くほどなかった。沖縄を見ていて思うけど、タイミングを逸しちゃったなって」としみじみ語る。

 経済成長率の鈍化や少子高齢化社会の進展で政府の財政難は深刻さを増し、島懇事業や北部振興策のようなばらまき的な大盤振る舞いをするゆとりがなくなっている。これに符合するように、米軍再編交付金は「出来高払い」で全国一律となり、税制面などの沖縄への優遇措置も消える傾向にある。政治家や官僚の間には沖縄を「特別扱いしない」という冷めた見方も定着しつつある。

 島懇事業を立ち上げた橋本政権、沖縄サミットを決定した小渕政権当時の中央政治家の心の内には、沖縄に対する戦中戦後の「贖罪の精神」が息づいていたことも確かだろう。だが、世代交代が進み、政治家や官僚の認識も変化している。それに伴い、顔を出してきたのは振興策をエサとして基地行政への協力を促す「アメとムチ」の政策だ。再編交付金は自治体の基地負担に対する補償や報いという側面よりも、合理性を最優先に安保政策を受け入れさせる装置としての役割に主眼が置かれている。

 政府の基地政策は、沖縄側の意識の変化や全国世論の受け止めとも連動している。沖縄側には、「基地と経済振興」を表立って取引することを是認する風潮が芽生えると同時に、基地関連収入が途絶えることへの恐れも植え付けられた。96年以降の島懇事業をはじめとする沖縄への巨額な振興投資は自治体の基地依存を強めた、という意味で政府は一定の「成果」を収めたといえるだろう。

 一方、他県はそうした沖縄の状況を冷めた目で見ている。全国世論の変化の兆しを知る上で、2004年8月の沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故を受け、沖縄タイムスが実施した全国知事アンケートに対する高知県知事橋本大二郎の回答は示唆に富んでいる。

 「沖縄は(基地)負担を過剰に背負っていると思う。だが、別の意味で厳しい経済環境にある自治体から見ると、その負担の分、さまざまな優遇を受け入れられていることをうらやましく感じる思いがないとはいえない」。率直な思いを吐露したこの見解は、沖縄の「基地被害」に寄せられた、かつての全国世論の素朴な共感は影を潜め、色眼鏡で見る風潮が広まりつつある現実を投影していた。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)=第1部終了。あすから第2部


http://www.okinawatimes.co.jp/search.html?pg=1&kwd=%E5%9B%BD%E7%AD%96%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%81%A1%E3%81%8A%E3%81%93%E3%81%97

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](27) 第2部 予算内示
SACO実施で増減

 島田懇談会の提言発表から4日後の1996年11月23日。内閣官房長官梶山静六が嘉手納町の視察に訪れた。

 「町役場に入る前に現地が見たい」とリクエストした梶山に宮城篤実が同行し、新町・ロータリー地区を案内した。宮城は「(梶山は)基地被害ではなく、人々の暮らしぶりを見たがった。どこが一番汚いか、そこを案内しようと思った」と振り返る。

 魚屋、花屋、雑貨店などが軒を連ねる新町市場は、細く入り組んだ路地にあり、多くはお年寄りが店番をしていた。「どぶの匂いがし、ぎっしりと民家や商店が詰まっているところ」を宮城はあえて選んで梶山を導いた。

 現職官房長官である梶山の異例の視察先に神経をとがらせたのは、県警の警備だった。最大のネックはトイレだった。梶山が急に用を足したいと言ったときは、ロータリー地区にある宮城の自宅のトイレを提供することで収まった。ただし、宮城の自宅は平屋建ての14坪。トイレは屋外に設置した和式しかなかった。梶山が和式トイレを嫌ったときは、洋式のある役場まで我慢してもらうことになった。

 「(梶山は)黙々と町を見ていた。こちらは見てもらうだけで十分という感じ。基地問題を訴えているわけではない。町の空気を伝えたかった。基地は国にとって一番重要な施設だが、しかしそのような施設を運営する背景には、こういう自治体があるということを見てもらうのが大事だと思った」

 宮城は悲願の再開発に向け、着々と地歩を固めつつあった。

 97年7月。島田懇談会の事務局を務める内閣内政審議室の職員が各市町村と県を回り、総事業費1000億円の配分予定額を首長らに非公式に個別内示した。

 内部資料によると、島懇事業の「市町村別配分予定額」の算定方式は、各自治体共通の基準額(50億円)を設定し、それに「配分調整」として複数の係数を掛け合わせ、配分額をはじき出す方式がとられた。

 係数は(1)基地占有率(2)SACO(日米特別行動委員会)(3)航空機騒音や砲撃音など恒常的な基地被害―の3要素を加味。SACOについては「新たに土地を提供する市町村」や「新たな機能を受け入れる市町村」に増額する一方、土地が返還される市町村は規模に応じて減額するよう係数を設定している。

 SACO合意は96年12月。当時はまだ未実施の段階だったが、同合意による基地の整理・縮小も見据え、今後予期しうる情勢の変化に応じた基地負担に見合う予算配分を立案していた。このため、SACO合意に基づく普天間飛行場返還を前提とした宜野湾市への配分は10億円程度にとどまった。

 一方、普天間代替施設の受け入れ先に浮上していた名護市について、内政審議室は県への説明で「基地受け入れによる算定を配慮しており、受け入れがなくなった場合は減額もあり得る」方針を内々に示した。

 島懇事業の予算をめぐっても、名護市に対してはすでに「アメとムチ」政策の片りんがうかがえる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](28)第2部 さじ加減
配分額算定に「裏技」

 1997年7月の島懇事業の対象市町村への予算内示で、内閣内政審議室は嘉手納町に総額の4分の1近い「200億~220億円」(予備費を除く)を伝達、メーン事業としての位置付けが明確になった。次いで多いのは金武町の「100億円程度」、3番目が名護市の「80億~90億円」だった。

 内部資料によると、当時の内政審議室が97、98年度中に実施可能と判断していた島懇事業は、対象25市町村のうち嘉手納町など11市町村。予算を伝達したのは17市町村に及んだ。

 プロジェクトが固まる前に配分額が内示されたことで、「特需」に沸く地元建設業界の期待も背負う市町村にとっては「使い切る」ことが必須の課題となった。このため、島懇事業の目的である「将来に向けての積極的な自立策」とは相いれない「目先の利益」に奔走させられる側面も生じた。「予算ありき」のいびつな公共事業は、税金の使い方としても不合理とならざるを得ない要素をはらんでいた。

 ただ、町の5年分の予算総額に匹敵するとてつもない額の内示を受けた嘉手納町は比較的冷静に受け止めていた。このころ、宮城篤実と岡本行夫の信頼関係はより強固に結ばれ、「総額の4分の1=250億円」という数字も、宮城の頭には内示前にインプットされていた。岡本は98年5月には、宮城の肝いりで創設された「町友」制度の第1号に選ばれている。

 嘉手納タウンセンター事業について宮城は「最初、私の頭の中にあったのは新町の再開発事業だった。ロータリーも含めて再開発できるなんて夢にも思わなかった」と打ち明ける。

 96年6月に岡本と初めて会食した際、宮城が新町地区の再開発に必要な経費としてほとんど闇雲に挙げたのが100億円。その2倍超の予算確保が実現し、新町・ロータリー地区を一体とする再開発が一段と現実味を帯びた。「岡本さんと何度も会って話を聞きながら(規模を)膨らませていった。岡本さんは新町の再開発だけでは規模が小さいとも言っていた。その助言に基づいてロータリーも足した」

 岡本はこうした経緯を否定せず、予算に関しては「だいたい総額が1000億円ということで、あとは機械的な計算でね。町面積の83%を基地が占める嘉手納町に二百数十億円、ああそうかと思いましたね。これなら宮城さん、喜んでくれるだろうと思いましたけどね」とあくまで自然の成り行きのように語るが、決してそうではない。

 岡本が言う「機械的な計算」は、算定の前提として「閉塞感」という物差しを導入したことによる。嘉手納町に断トツの予算をもたらす仕組みは、「基地占有率」を係数に用いることや、基地被害の具体的要素として「航空機騒音」を算定基準に採用するなど細かな裏技によって初めて成立する。個々の係数値をいくらに設定するかによっても配分額は大きく変容する。

 これは基地負担の代償の見積もりが政府のさじ加減ひとつにかかっている証左でもある。その恣意性を象徴するかのように、嘉手納町の基地負担について自治省は同時期、島田懇談会とは対照的な算定結果をはじき出していた。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](29)第2部 傾斜配分
新算定で取り分低く

 1997年7月28日。宮城篤実は町長室に地元紙の記者を呼び、従来の基地行政の基本方針である「段階的整理・縮小」から、今後は「全面返還」要求へと転換する、と表明した。

 当面の取り組みとして、嘉手納基地内の海軍駐機場一帯の約1・5平方キロメートルの即時返還を求めることを明言。これまで日米安保容認の立場から基地行政を取り仕切ってきた宮城が全面返還を打ち出すのは初めてで、宮城の「反逆」を地元紙は大きく報じた。

 方針転換の引き金となったのは、政府が打ち出した普通交付税からの基地関連経費の傾斜配分の算定方法だった。宮城は「算定方法が被害の実態を反映していない」と批判。「このような国の基地政策の考え方では、嘉手納町の将来は見えてこない。町が生き延びるためにはどうすればいいかを考えた」と理由を説明した。

 基地関連経費の傾斜配分による新たな交付金は、そもそも宮城が96年9月の島田懇談会への最初の要請事項に「基地の実態に見合う交付金の新設」を盛り込んだのがきっかけだった。

 「例えば箱ものをつくっても、この町では運営する手段がない。私たちが自立できるまでは特別な交付金をつくっていただいて、町が基本的に動きだすまでは、政府で面倒を見てほしいということで交付金の新設を求めた」(宮城)。

 これを受け、内閣官房長官梶山静六が普通交付税からの基地関連経費の傾斜配分を提唱。首相特別補佐官に就任した岡本行夫が自治省と調整し、新たな交付金の実現にこぎ着けた。

 政府は97年度から基地を抱える全国の自治体に対し、普通交付税から総額150億円を傾斜配分することを決定。過剰な米軍基地を抱える沖縄県と県内自治体には半額の75億円の配分を決め、宮城が基地政策で全面返還要求へと舵をきった翌29日に閣議決定を控えていた。

 宮城は岡本を通じ、7月4日の時点で「全国で150億円」「沖縄に75億円」が毎年交付される、との経過報告を受けていた。

 宮城は島田懇談会の総事業費の4分の1近くを嘉手納町が確保したことを念頭に、「それに見合うもの」を傾斜配分でも期待していた。官邸での面談で梶山も「しきりにうなずいていた」ことや、「私の話だけでなく岡本さんからも情報が入っているだろう」との憶測から、「脈はある」と踏んでいた。

 1週間後の11日。岡本から町長室に電話が入る。市町村別の配分額を知らされた宮城は、嘉手納町の取り分の少なさに絶句した。

 傾斜配分の額は、各自治体に住む軍人・軍属とその家族らの人数と、米軍・自衛隊施設の面積を基に算定していた。滑走路を抱える嘉手納町域の居住者数は3457人、施設面積は12・46平方キロメートル。町の配分額は県内7位の約3億900万円、関係全市町村に占める構成比率は6・1%にとどまった。

 政府は「沖縄に傾斜配分できるよう工夫した」(政府関係者)と成果をアピールしたが、宮城には仕打ちと映った。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](30)第2部 全面返還要求
政治責任の覚悟決意

 基地関連の傾斜配分による新たな交付金で、宮城篤実の前に立ちはだかったのは自治省だった。

 「県に25億円、市町村に50億円。ところが、市町村配分になった途端、自治省の細かい基準が入った。確かに自治省の算定基準に間違いはない。だが、普通交付税の基地関連経費は政治判断で創設されたのに、市町村配分では事務的になった」と宮城には映った。自治省への不満が募った。

 自治省がネックと知った宮城は、配分額が固まる前に自治省財政局長の二橋正弘(小泉内閣、福田内閣で内閣官房副長官)と掛け合った。

 「霞ヶ関で鉛筆を転がして算定額を決めてもらっては困る」と基地被害の実情を訴える宮城に、二橋は「基地被害なら防衛に言ってくれ。(傾斜配分の問題を)自治省が引き取った以上、自治省の基準でやるしかないんだ」と繰り返したという。さすがの宮城も、二橋の自治官僚としての自負の強さには勝てなかった。

 1997年7月11日に岡本行夫から基地関連経費の傾斜配分の受け取り額を知らされたときの思いを、宮城は手帳にこう記録している。

 「自治省の交付金配分の基準は、国民の税金であり、公平を期するため、それから基地提供面積、米国軍人の居住者数、地域の人口、慣例、国会対策ということを自治省から示された。(自治省の)二橋正弘財政局長は(嘉手納町の配分額の大幅増加は)国会審議に耐えられないと言っていた。嘉手納町の首長としては基地被害の実態、閉塞感の打破、平和と安全を担う公平な負担を求める。この状態は受け入れられない。(嘉手納基地などの)段階的整理・縮小から全面返還要求に切り替えようと思う。タウンセンター事業計画、防衛施設局移転への影響、軍用地主の反響、一波乱ありそうな気配だ。政治責任をとる決意」

 宮城自身、「かなりの興奮状態でつづった」と振り返るが、結局、約2週間後には「政治責任をとる決意」を固め、7月28日の「全面返還要求」の記者発表へと歩を進める。

 「全面返還要求への転換で島懇事業まで駄目になったら町民に申し訳ない。しかし、この傾斜配分をそのままイエスとのんでしまったら、町民から、次の若い世代から、一人だけ空回りした男がいたよと言われる」と宮城は苦悩を深めていた。

 これまでの行政経験で基地関係の交付金や補助制度は地元からの強い陳情や要請があれば、政府の「さじ加減」によって、ある程度の幅をもって運用されている実情を肌で知る宮城には、スタート時点で黙認すればのちのちまで不利な査定を受け続ける、との判断もあった。

 まして新たな交付金は島田懇談会での宮城の要請をきっかけに、官邸主導で創設された極めて政治色の強い制度だ。原点が島田懇談会である以上、「沖縄への配慮」とりわけ、嘉手納町をはじめとする基地負担の重い県内自治体の不満解消が図られなければ政策意図に反する、という矛盾も宮城は見通していた。

 そこまで展望した上でなお、宮城の中では「全面返還要求」を打ち出すことと、自身の「政治責任」を賭けるのはセットだった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](31)第2部 基地カード
国との関係悪化 想定

 基地関連経費の傾斜配分による新たな交付金で、宮城篤実は自身の立場や政府との関係悪化のリスクを度外視してまで算定方式に異議を申し立てた。宮城の「決死の覚悟」は役場内の事前調整にも現れていた。

 宮城は「自分の後継に助役か収入役が町長選に立候補するかもしれない。とにかく巻き添えで二人をつぶしてはいかん」との思いから、全面返還要求方針を事前に伝えたのは企画総務部長塩川勇吉ただ一人だった。

 「施設局移転も不透明な状況で、国と万が一のことがあったら、(町長を)きっぱり辞めるということでこの問題にけりをつけようと考えた。あとで政府との間でトラブルが発生しても、私が(町長を)辞めれば島懇事業自体は進んでいくのではないか。町の人は期待し始めているから、これまでつぶしたら何をやったか分からない」と思い詰めていた。

 「基地問題は基地問題、振興策は振興策」という原則はあくまで建前であり、政治の現場では通用しないことは宮城自身、誰よりも強く自覚していた。とはいえ、宮城は日米安保を否定したわけでも、期限付きで嘉手納基地の全面撤去を求めたわけでもない。提供区域の契約拒否などに踏み込むこともなく、政府の実務面の基地行政には影響を及ぼさない範囲内での「希望表明」を行ったにすぎない。嘉手納基地の全面返還に向けた第1弾として打ち出した同基地内の海軍駐機場一帯の約1・5平方キロメートルの返還要求も、町の土地利用基本計画でかねて民間転用を求めていたエリアだった。

 それでも、島懇事業への影響を恐れる宮城には、町長のポストを賭すほどの覚悟が必要だった。政府との折衝で「基地カード」はそれぐらいデリケートな政治バランスを包含していた。

 宮城は1997年8月7日、防衛施設庁に長官萩次郎を訪ね、嘉手納基地の海軍駐機場部分の早期返還を要請した。

 宮城は「これまで交付金の新設を要請し、今回、政治判断で実現した。嘉手納町は町域の83%を基地にとられているが、そのことが算定に反映されていない。戦闘機の離着陸回数や騒音被害なども考慮されていない。このような事務的処理で町民は納得できない。不公平だ」と抗議。基地撤去を求める立場を鮮明にし、「自立の道を歩みたい」と強い口調で真意を伝えた。

 宮城はこの席で、「那覇防衛施設局の嘉手納町への移転」も要請項目に盛り込んだ。

 しかし、移転に向けた政府との具体的な議論はいっさい進展していない状況で国との関係を悪化させれば、もともと移転に前向きとは思われない防衛庁や防衛施設庁側に白紙化の口実を与えかねない、という最悪のシナリオも宮城は想定していた。

 防衛施設庁長官萩への要請後、宮城は記者団に「梶山官房長官らに迷惑を掛け申し訳ないが、私自身が追い込まれてしまった」と漏らす。混乱した心中を覆い隠す余裕もなかった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](32)第2部 嘉手納外語塾
交付金の意義を強調

 基地関連経費の傾斜配分による新たな交付金をめぐる政府への要請行動で、宮城篤実は明確な落としどころや引き際をあらかじめ計算していたわけではなかった。引っ込みが付かなくなった宮城に手を差し伸べたのは、内閣官房長官梶山静六だった。

 1997年8月7日の防衛施設庁への要請から数日後、梶山から町長室に電話が入る。梶山は「あなたも選挙で選ばれた政治家だから、いったん全面返還と言ったものを取り下げられないだろう。だが、俺の政治的な立場もあるんだ。理解してくれよ。配分額は直させる。自治省にげたを預けたのが悪かった。申し訳ない」と自ら胸襟を開き、宮城に矛を収めるよう促した。

 宮城は「いくらなんでも官邸にたてつくわけにはいかない」と内心で恐れ入り、「(交付金を)受け取らせていただきます」と即答した。政府にとっても、宮城は「話が通じる交渉相手」であり、「貴重なパイプ役」だった。

 電話から間もなく、梶山が沖縄に別用務で来県した際、宮城は詫びを入れるつもりで那覇空港まで迎えに出向いた。梶山は空港から那覇市内のホテルまで宮城に同行を求めた。入室するや、梶山は「悪いが、みんな席を外してくれ」と取り巻きの政府高官を払った。その上で、梶山はあらためて宮城に向かい、「あれは私の不覚だった」と嘉手納町の傾斜配分額が低かったことを直接陳謝した。

 「配分額は直させる」と言った梶山の約束は果たされた。同町への配分額は翌年度には1・5倍の約4億6000万円に増額、2007年度以降は5億円を超えている。基地の占有面積が考慮された結果との見方もあるが、算定方式の変更以外にも、政府の交付金額が変動するカラクリは存在する。

 防衛省関係者は防衛施設周辺整備法に基づく補助金を例に、「規定の算定式に基づいてはじき出された総額は通常、実際の配分額をかなり超過しており、配分段階では圧縮して交付する。このため算定方式を変えなくても、圧縮分を抑えれば増額できる」と自在に増減できる仕組みを明かす。

 傾斜配分の交付開始を受け、宮城は1998年5月、町予算で町立嘉手納外語塾を開塾した。塾生は町在住の高校新卒者が対象で、入学金や授業料は無料。2年制で実践的な英会話を中心に習得するカリキュラムを盛り込んだ。ここで注目されるのは、外語塾をスタートした際、宮城が傾斜配分による交付金の活用を内外に強調している点だ。交付金収入はいったん町の一般会計に組み込まれ、ほかの歳入と混合される。一般会計の特定の歳入項目がどの事業に活用されたのかを、行政側が説明するのは異例だ。

 それでも、宮城はあえて外語塾の運営費の財源と傾斜配分による歳入を結び付けた。使途を明確化することで、傾斜配分が目に見えるかたちで住民サービス向上につながっていることを町民だけでなく政府にもアピールし、交付の意義を印象付ける狙いがうかがえる。宮城のこの手法は、沖縄防衛局移転に伴うテナント収入の使途をめぐっても踏襲される。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](33)第2部 態度保留
再開発の行方を懸念

 1997年4月28日。宮城篤実は那覇防衛施設局に局長嶋口武彦を訪ね、嘉手納町への施設局誘致の要請文を手渡した。文書には、基地を抱える中北部の18市町村すべての首長の賛同署名と押印が添えられた。

 要請を受けた嶋口は「ありがたい話。消極的でも否定的でもなく、真剣に検討したい。ただ、職員の通勤や財政上の問題もあり、直ちに結論は出せない。嘉手納町の町振興への努力は高く評価しているので、その文脈の中で検討する」と如才なく応じた。

 要請後、宮城は「前向きな姿勢を感じた」と評価した。が、嶋口の本心は別のところにあった。

 「今だから言うと、部内にそういう(嘉手納町への移転)話をしたら、ものすごい反発があった。要するに、那覇近辺の人が多いから(嘉手納町は)遠い、通勤が大変だからやめてくれと、ほとんどの人が言っていた。私は(移転を)やらざるを得ないとは思ったが、局員の発言も無視するわけにはいかなかった」

 こう打ち明ける嶋口は、宮城と内閣官房長官梶山静六のパイプの強さも承知していた。嶋口は職員がどれだけ反発しようと、政治力学を考慮すれば移転は止めようがないと踏んでいた。ただ、町による再開発事業の成り行きには懐疑的だった。

 「宮城さんは、町の再開発をしたいから一緒に来てほしいという話だった。私は『宮城さん、再開発は難しいんじゃないの』と言った。地権者がものすごく入り組んでいるという話を聞いているから、再開発はできないと思ったんだ」

 新町地区について、嶋口は「土地に『傷』がある」との見方をしていた。「不法占拠みたいなものや境界不明確地もある。俺はそれを処理するのは無理だろうと思った。ちゃんと調べている。軍用地でなくても、うち(施設局)はそういうのお得意だから」(町によると、借地契約の書類が残っていないケースはあったが、再開発区域内に境界不明確地はなかった)。無論、嶋口が当時、こうした認識を宮城に直言することはなかった。

 「まあいいですよ。しかし、再開発(の成り行き)を見ましょうという思いで態度を保留した。本心を言うと、宮城さんの話だから断ることはできない。が、どうせ再開発は難しいだろうから、それを待って判断すればいいじゃないかと」

 那覇防衛施設局は当時、那覇市おもろまちに建設が計画されていた国の地方合同庁舎ビルに、沖縄総合事務局(同市前島から08年3月に移転)などとともに移転、入居することも検討していた。

 「しかし、それははっきりと断った。理由は嘉手納(町への移転の可能性)が残っているから。そこで何十億円使ったら嘉手納へ行けなくなる。ただ、私は(嘉手納町へ)行けるかどうか決めきれなかった」。嶋口は再開発事業の成否を見極めるため、嘉手納町への移転に対しては態度を保留する一方、合同庁舎への入居にもゴーサインを出さなかったという。

 施設局は98年12月、計画中の合同庁舎ビルには入居しない方針を沖縄総合事務局へ正式に伝えた。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](34) 第2部 職員アンケート
「遠隔地通勤」に抵抗

 那覇防衛施設局の嘉手納移転を留保した経緯について、当時の局長嶋口武彦は「すべて私の判断」と言い切る。

 「あのころ、(嶋口)局長にしては珍しく判断を示さなかったって、周囲から言われた。私は何でもぱっぱっぱってやるでしょ。しかし、嘉手納移転だけは何回言われても分かんねえなって。それはそうだよ、俺はあいまいな作戦でやってたんだから。再開発は不可能に近いと思ったよ」

 嶋口は本音でずばり核心を口にするタイプだ。宮城篤実は嶋口を「沖縄県の市町村長は彼(嶋口)が施設局長に就任したとき、この男、失敗するぞ、舌禍事件を起こすぞと思った。なぜなら、あまりにもあからさまにぽんぽんものを言うから。しかし、きれいごとを言わず、逆に響く面もある。自分たちも感じていることをずばっと言う」と評する。

 宮城は早稲田大で嶋口の先輩に当たる。宮城は施設局移転でも「彼(嶋口)は熱心に支持してくれた。本物だと思った。私は移転推進派と信じ込んでいた…」と嶋口の援護射撃を信じて疑わなかった。

 が、再開発事業への疑心から移転を留保したという嶋口の真相告白に、宮城は開いた口がふさがらないといった表情を浮かべた。

 それほど宮城は再開発と施設局移転の実現に粉骨砕身させられた。

 嶋口は1998年6月に那覇局長を離任する。「後任の北原は馬鹿まじめなんだよね。嘉手納町へ行くのはいい。ただ一部だけだと。主要部門は全部那覇に残すと。俺は馬鹿なこと言うな、中途半端だと反対したんだ」

 北原巌男の局長在任時、施設局内で数回にわたって嘉手納移転に関する職員アンケートが実施された。結果は約7割が移転に反対。局幹部は、その結果を宮城のところへわざわざ報告にやって来た。

 アンケートの目的は、嘉手納町への移転阻止がみえみえだった。地元職員の大半は、将来も職場が那覇にあることを前提に那覇近郊で自宅を確保していた。施設庁本庁の態度が煮え切らない中で、北原らは、那覇からバスや車で約1時間を要する「遠隔地通勤」に抗する地元職員の声を無視できなくなっていた。

 当時の職場の空気について、ある職員は「県庁所在地から出て行くなんて有り得ないでしょというのが常識だった」と明かす。

 防衛施設庁の地方機関のうち、県庁所在地以外に局を配置しているのは例外的だった。同庁関係者は「組織防衛の論理として、沖縄に限らず全国の施設局を県庁所在地に配置する理由については、他の国の機関との連絡調整、出入り業者の交通の利便性を踏まえて、と対外的に説明してきた。この点からも嘉手納への移転は異質」と指摘する。

 町長室までアンケートの報告に来た局幹部を宮城は一喝する。

 「施設局次長が来て、『アンケートの結果では厳しいものがあります』と言うから、私は何てことされるんですかと怒った。国の機関の移転に職員の希望や意向を聞くなんておかしいではないですかと」。宮城も必死だった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](35) 第2部 潮目の変化
知事反対で関係冷却

 那覇防衛施設局が嘉手納町移転に関する職員アンケートの結果を宮城篤実に報告した後の顛末について、嶋口武彦の解釈はこうだ。

 「宮城さん怒ったんだよ。怒って梶山さんのところへ飛び込んだんだよ。そうしたら梶山さんが一言『(嘉手納町へ)行けー』と(笑い)。これが決定打。宮城さんは政治力あるし、梶山さんに上がったら、(嘉手納町へ)行けって言われるに決まってる。再開発のことも全然頭になくてアンケートとるなんて馬鹿げている。アンケートぐらいで移転場所を決められるもんじゃないんだよ」

 ところが、宮城の「政治力」の有力な後ろ盾である梶山静六は、1997年9月の橋本内閣改造に伴い、官房長官を退任。98年7月の自民党総裁選で小渕恵三に敗れた後は次第に「武闘派」のイメージも薄れ、政府中枢から距離を置くようになる。

 一方、「非常勤、無報酬」を条件に首相補佐官を引き受けた岡本行夫も、97年9月の内閣改造の際、退任を申し出た。このときは梶山が慰留したが結局、98年3月で首相補佐官を退く。

 沖縄の基地問題は「普天間移設問題」に集約されようとしていた。岡本自身、「(政府は自分に)これをさせたかったのかな」と振り返るように、96年11月の首相補佐官就任後、政府の最重要課題に浮上した普天間移設問題への対応にシフトを余儀なくされていた。大田県政が普天間飛行場の県内移設に難色を示す中、島田懇談会を入り口に基地所在市町村との信頼関係を築いていた岡本の起用は、移設候補先の名護市の「てこ入れ」を図りたい国の戦略に合致していた。国が安保政策を進める上で県を飛び越え、自治体と直接交渉するレールを敷いたという意味でも岡本の果たした役割は大きかった。

 普天間移設問題で政府と名護市が水面下の交流を深める一方、政府と沖縄県の関係は急速に冷却していた。政府から沖縄への風向きが変わった大きな要因としては、98年1月の名護市長選投票日の2日前、知事大田昌秀が普天間代替施設の海上基地建設反対を正式表明したことが挙げられる。

 これを機に、政府はあからさまに県との接触を断ち、「県政不況」と呼ばれる状況を演出した。同年11月の知事選で島田懇談会副座長の稲嶺恵一が「閉塞感の打破」を掲げて立候補し、大田を破って知事に当選するまで、この「逆風」は収まらなかった。

 「沖縄熱」が冷めつつある政府内には、もともと嘉手納町への移転に後ろ向きな那覇防衛施設局のスタンスとも相まって、施設局移転を積極的に推進するポテンシャルが生まれにくい状況にあった。こうした事情も作用し、政治的要素の濃い施設局移転は置き去りにされるかたちとなる。宮城にとっては潮目の変化を痛感させられる時期だった。

 ただ、見方を変えれば、国と県のパイプが外れた時期こそ、島懇事業が存在感を発揮し、政府の沖縄政策をフォローする「潤滑油」として地元を揺さぶる好機ととらえることもできた。のちに政府が施設局移転を正式発表するタイミングが、それを如実に示すことになる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](36)第2部 素人集団
ビル規模確定へ曲折

 1997年6月17日。基地を抱える市町村の振興策を提言し、同年3月に解散した島田懇談会をフォローアップするため、政府は有識者懇談会を発足、那覇市内のホテルで第1回会合を開いた。

 座長に島田晴雄、副座長に稲嶺恵一を選出し、有識者懇談会の下に稲嶺をキャップとする作業部会を設置。プロジェクト実現に向け、具体的なアドバイスを行い、市町村とともに作業を進めることになった。

 あいさつに立ったメンバーの岡本行夫は有識者懇談会を家屋建築に例え、「島田懇談会が家を建てる材料をそろえたとすると、今度はそれをどのように組み立て、どのような部屋をつくるかを審議していただきたい」と強調。「基地と隣り合わせで暮らしていかなければならない閉塞感の打破に大きな期待が寄せられている。若い人に夢を与えるプロジェクトが具体的につくり出されることを熱望する」と述べた。

 嘉手納町施工の「嘉手納タウンセンター開発事業」は97年度にスタートしていた。しかし、町に好意的な岡本の目にも、「素人集団」である町に二百数十億円規模の再開発事業を託すのは危ういと映っていた。岡本は、ゼネコンの旧知の社長に無償支援を依頼する。岡本は支援を要請する立場だったが、支援にあたって条件を付した。

 「大きなプロジェクトがあるんだけども、申し訳ないが、無報酬で人をだしてくれませんかと依頼した。ただし、お宅の会社では仕事を引き受けないでくれと」。無償で相談に応じても、その後の受注にかかわれば利益誘導ととられかねない。「とにかく純粋に沖縄を助けてくれと言ったら、そこの社長さんがね、分かったと言って都市計画の専門家を1人だしてくれた。それでその人が嘉手納町にしばらくの間、泊まり込んでね、宮城さんの知恵袋になった」

 再開発事業の核となるビルは町役場の倍のスケールだった。現在の地上6階、地下1階のビル2棟に落ち着くまでは曲折を重ねた。岡本の紹介で宮城の「知恵袋」になった人物の意見も取り入れ、当初、町が作成した図面には20階建て規模の高層ビルの絵が描かれていた。

 この高層ビルは有識者会合でも「こんな大きな建物をつくって、どうやってランニングコストを負担するつもりだ」と失笑の憂き目に遭った。97年4月に開いた地権者らへの初の説明会でもさんざんだった。

 高層ビルの予想図を見た高齢の女性が手を挙げ、「町長、あなたは歳いくつになるか。あなたもこれから老人よね。だったら分かると思うが、こんなビルにわれわれ老人を押し込めて、毎日降りたり昇ったりしろというのか」とあきれ返った様子で酷評した。

 宮城は「20階建てと決めたわけではない」と答えるのがやっとだった。

 町にとって未曾有の事業は、スタート時点から暗雲が立ちこめていた。土地の高度利用と高付加価値化という通常の再開発の方向性と合致しない、嘉手納町の特殊事情が次第に浮かび上がる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](37) 第2部 特別セッション
町構想に厳しい注文

 1998年7月9日。作業部会の特別セッションが嘉手納町の軍用地主会館で開かれた。委員の主眼は「嘉手納町の事業をどうするか」に置かれていた。委員らは島懇事業のメーンである嘉手納町の事業進ちょくの遅れを危惧していた。

 同セッションには約4時間が費やされたことからも、委員の熱の入れようがうかがえる。以下、事務方作成の議事録より。

 冒頭、部会長の稲嶺恵一は「有識者懇談会が考えているものは、将来の沖縄を見据えたかたちの産業振興、人材育成、雇用拡大など次世代に夢をもたせるものだが、各市町村からの当初の提案はわれわれが目指すものと大幅な食い違いがあった」と率直な思いを吐露。嘉手納町の事業に関しては「マルチメディアに関連する産業プロジェクトが出てきており、大変喜んでいるが、具体的に詰める段階では問題点が多々生じると思う。それらを解消したい」と積極的な議論を呼び掛けた。

 委員一人一人の意見を促され、まず座長の島田晴雄が発言した。「基地所在市町村の重圧を軽減するため、前代未聞の企てを行おうとしている。その最大かつ重要な拠点がまさに嘉手納。嘉手納がこのプロジェクトを見事にやり通すことができれば日本の歴史が変わるだろう」と力説。さらに島田は「これは今までの補助金とは異なり、たった一回のお金。なので、それを生かしてもらいたい。それが基となり、人材が生まれ、技術が育つような、経済的自立を促進するものでなければならない」と言い添えた。

 委員唐津一(東海大教授)も「嘉手納地域に日本一のものを造りたいというのが私の考え。そのためには絵に描いた餅のようなものを造ってはいけない。私は食べられる餅を造るためのアイデアの議論をしたい」とぶった。

 しかし、町がこの日、説明した事業の検討状況は委員の批判の的となる。

 嘉手納町の担当職員は「嘉手納タウンセンター開発構想」「嘉手納マルチメディアタウン構想」の2プロジェクトを説明した。タウンセンターは、那覇防衛施設局誘致を柱とする新町・ロータリー再開発事業、マルチメディアタウンはマルチメディア企業の誘致による町おこしを企図していた。

 町の概要説明を聞き終えた島田は即座に「現段階の町の構想は、まだ絵に描いた餅の段階だ」と切り捨てた。

 マルチメディア企業誘致への取り組みについて島田は「この構想を本当の餅にするには、トップの企業がどこにあって、それを誰に頼んで、どうやって早く予算をだして、それを引っ張ってくるか。そして実績を見せるか。とにかく早く実績づくりにとりかかってほしい」と注文した。

 唐津も同様に「絵に描いた餅」と言い切り、「われわれは有望企業についての情報提供を今までにも行っているし、それらに対して根回しもしている。一番大事なことは即行動を起こすこと。本当の餅にするためのチームをすぐスタートさせてほしい」と迫った。

 町に任せていては立ち往かなくなる、ということに委員たちはようやく気付き始めていた。「官製」の事業としての色彩が濃くなりつつあった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](38) 第2部 幽霊屋敷
箱ものありきに批判

 1998年7月の特別セッションで、町の事業概要説明を聞き終えた委員からは、マルチメディアタウン構想だけでなく、那覇防衛施設局誘致を柱とする新町・ロータリー再開発事業についても厳しい指摘が相次いだ。

 再開発事業に関し、座長島田晴雄は「計画している再開発のプロジェクトが経済的に回ると考えているか」と質問した。これに、町から調査業務を委託されているコンサルタント会社は「正直にいうと、再開発ビルが回るかどうかはまだ分からない。具体的にビルへ入居するテナントなどと折衝しないと具体的な数字をはじきだすことはできない」と苦しい胸の内を明かした。

 この回答に触発されたように委員からは次々に辛辣な言葉が飛ぶ。

 「まず仕事の中身を考えることが大事で建物はその後。それを何度も言っているにもかかわらず、今、町から出てきているのはあまりにも箱ものの色合いが強い」「この施設が幽霊屋敷になるのは目に見えている」「この姿勢だとわれわれは事業を打ち切る」「われわれがいいと思わないプロジェクトに予算は執行しない」

 部会長の稲嶺恵一は最後に「若干こちらの言葉が強い面もあったと思うが、それは逆に愛情の現れと受け取ってもらいたい。有識者懇談会として一番重要なポイントは嘉手納だ。嘉手納にはもっと見えるもの、もっと立派なものをつくりたいから、それだけ若干いらいらしている面もあるし、本気で考えていこうと思っている」と結んだ。

 特別セッション終了後、有識者懇談会メンバーは帰路につくため、バスに乗り込んだ。車内では「嘉手納町は手取り足取り、最初からやっていかなきゃだめだなあ」とあきれ果てた声も聞かれた。同じ日にセッションを開催した沖縄市との行政能力の差が委員には歴然として映った。別の委員は「病人に花を贈るようなものですかね」と漏らした。これを耳にした島田は即座に「薬だ」と訂正したという。

 特別セッションは全面公開で行われた。会場では、町商工会役員や町議を含む約100人が固唾をのんで見守っていた。

 宮城篤実はこの特別セッションを鮮烈に記憶している。「記録にはないが、町の事務方は事前に唐津一委員の指導を受けていた。情報通信関連の事業を集約しようという唐津先生のアドバイスを受け、担当係長が一生懸命に資料をまとめてセッションで発表した。そうしたら真っ先にケチをつけたのが唐津先生だった。自分が作らせておいてよく言うな、と私は思った」

 しかし、特別セッションの間、宮城はほとんど口をはさまず泰然としていた。終了後、傍聴していた町議らに近くの居酒屋に呼び付けられたという。

 議員たちは「町長、情けない。自分の部下があんなにやっつけられているのに反論もしないで何かニタニタしていたように見えたが、どうしたことか」と宮城にかみついた。宮城は「あれは反論しなくてよかったんだ。公の場で名だたる経歴の委員があれだけの情熱をもって、嘉手納のことに助言してくれた。責任をとってもらおうじゃないか」と弁じ、何とかその場を収めたという。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](39)第2部 「後付け」活性化策
即効性重視し国主導

 1998年7月の特別セッションで座長島田晴雄は「私が急げと言っているのは再開発事業ではなく企業誘致の方だ」と強調。「例えば」とことわった上で「那覇新都心にNTTデータが台湾と協力してテレコムセンターをつくるが、私はその活動拠点を嘉手納にもってくることができないかと思った。まずは福祉センターの空き間を利用し、そこでスタートしてもいい。つまりは町にそういうことをやろうとする意識があるかどうかだ」と具体的な提案を持ち掛けていた。

 これが嘉手納町の島懇事業の第一号となる。2000年5月、既存の町総合福祉センターの一部を改築した「町コールセンター」を開所。情報通信大手のNECのパソコンや周辺機器の技術的な問い合わせに対応する事務職を含む20人を県内で新規採用し、うち12人が町内から雇用された。「目にみえるかたち」の活性化策が初めて嘉手納町で実現した。

 宮城篤実によると、特別セッション後、有識者懇談会の唐津一、稲嶺恵一の両委員が直接、NECで社長と談判し、誘致にこぎ着けたという。実務面では内閣内政審議室が全面的にフォローした。

 さらに02年2月には、IT関連企業6社が入居する鉄筋コンクリート造5階建ての「嘉手納町マルチメディアセンター」も同町水釜に新設された。

 本命の再開発が都市計画決定も受けられていない段階で、「後付け」ともいえる活性化策が官僚や有識者委員主導で先行した背景について、政府関係者は「再開発は都市計画決定ですらあと数年はかかり、島懇事業の期限の7年間で実現するのは不可能ということが見えてきた。有識者委員の間で、何か即効性のある別のものが必要という認識が生まれ、すぐにできるのはマルチメディアだとなった」と説明する。

 「嘉手納タウンセンター開発事業」は二百数十億円の予算が確保された時点で、新町・ロータリー地区の再開発以外は白紙だった。再開発にかかるコストも精査されていなかった。「であれば、できるものからやって、再開発は規模を縮小してもできればいい。内閣内政審議室としては何らかの事業ができればよかった」(政府関係者)。

 マルチメディア関連の活性化策は島懇事業の特殊事情である「予算ありき」を逆手にとり、嘉手納町への二百数十億円の予算配分の一部を取り崩して対応した。この時点で再開発が確実に実施できる保障もなかった。「不透明な要素の多い再開発事業に絞っていては、いつまでたっても成果が見えず、何をやっているんだということになりかねない」(同)というムードが島懇関係者の間に広がっていた。

 実際、嘉手納町のプログラムに投入された国庫補助額(実績)は、再開発事業(約155億円)完了前に、「マルチメディアタウン事業」に約21億円、道の駅「かでな」(供用開始03年度)や35戸の町民住宅(同05年度)を整備した「総合再生事業」に約21億円が振り向けられている。

 嘉手納町の島懇事業はこの3事業を一括して「嘉手納タウンセンター開発事業」に組み込むかたちで処理された。町全体の地域バランスも考慮し、「押し込んだ」(町関係者)ともいわれる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](40)第2部 不協和音
国交省 事業関与渋る

 1998年7月の特別セッションには、有識者懇談会の委員以外にも、政府側の関係者が約15人出席していた。その中に那覇防衛施設局対策計画課技術専門官の下地朝一もいた。下地は99年9月に嘉手納町職員へ転身、現在は町建設部長を務めている。

 下地は宮古島の旧平良市出身。熊本工業大学卒業後、技官として74年に入庁。以来、那覇防衛施設局で基地所在市町村の補助事業や、「思いやり予算」にかかわる基地内の事業に携わる施設取得第一課に在籍した。「ほとんどが嘉手納町担当。歴代の町の部長はみんな知っている」という下地は町に対する親近感も強かった。

 下地が嘉手納町の島懇事業を担当したのは98年4月から。主に、再開発に向けた権利者の把握などの調査業務に当たっていた。国と町の間に立つ下地には日ごとに「町施行による再開発事業の限界」が見えてきた。そのことを、いち早く町側に警告したのが下地だった。

 下地はカウンターパートの町企画総務部長塩川勇吉に「再開発(の調査業務段階)は防衛施設庁が9割の補助をしているが、防衛庁、施設庁にも再開発のノウハウはない。沖縄総合事務局で国交省(当時は建設省)から出向している職員か、県の都市計画課のエキスパートの職員を町に引っ張ってこないと、この先は難しい。僕は施設局の嘉手納町担当だが、再開発の認可も指導もできない」と繰り返し伝えた。

 市街地再開発は、都市再開発法などに基づく国交省管轄の認可事業で、施設局には実績も権限もなかった。国交省のサポートが得られないまま、巨額の再開発事業を進めることは不可能に近かった。

 「200億円を超えるとてつもない予算をつけておきながら、国の側でも次第に町だけで進めるのは困難と認識した。地権者らの調査業務で9割を補助していた施設庁が最初にそのことに気づいた」と下地は振り返る。

 予算規模からいえば嘉手納町の再開発事業は本来、国交省主導で進めるべき事業だが、なぜプロである国交省がこの時点でコミットしていなかったのか―。通常の補助事業であれば事業採択後、年度ごとに所管官庁を通じて予算要求するが、島懇事業の場合、官僚ではない民間の島懇委員たちが審査して決定した。このため、官僚内部にも不協和音が生じていた。

 国交省管轄の認可事業にもかかわらず、調査業務が施設庁予算で実施された背景について下地は「当初、国交省が関与を渋ったと聞いている。それは『おおむね7年間でやりなさい』という島懇事業の条件について、国交省に相談もしないで勝手に事業採択したことへの抗議だった」とみる。

 施設局で嘉手納町の島懇事業の担当に任じられて以降、下地は本土の複数のコンサルタントに事業スケジュールを問い合わせた。いずれも、「7年間で再開発事業ができるわけがない。山ほどある認可のうち、せいぜい一つしかとれない」「国交省が精査に乗り出したら権利者合意だけで最低10年はかかる」と島田懇談会の決定の矛盾を指摘する声であふれ返ったという。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](41)第2部 国交省の論理
異物補助率 最小限に

 「島田懇談会が(独断で)再開発を7年間の事業として採択したのが、嘉手納町にとってはよかった」。元那覇防衛施設局技術専門官、現町建設部長として再開発事業を担当した下地朝一はこう振り返る。理由は「(島田懇談会事務局の)内閣内政審議室が二百数十億円の予算配分を内示する前に国交省へ相談していれば、国交省は(7年間の事業実施は実現不可能と判断し)事業にOKをだしたかどうかは分からない」とみるからだ。

 ただ、1997年度の事業スタート後は「(国交省は)都市計画決定を得て、法的に事業が進められる網をかぶせることができれば、嘉手納町の再開発事業にかかわりましょうとなった」(下地)。99年9月に下地が町職員に転身したときには「内閣府と国交省で内密にそういう合意ができている」と推測される状況だったという。

 国交省が嘉手納町の島懇事業への関与に消極的だった理由として、ある政府関係者はこう解説する。「島懇事業は国交省にとって『異物』だから積極的に協力しないということ。国交省は9割補助という例外的な島懇事業のために、本来、再開発事業の国庫補助率を3分の1と規定している原則をゆがめたくなかった。やると宣言したら、ほかの国交省所管の再開発事業との整合を問われかねない」

 市街地再開発事業における国庫補助率に関しては、国の交付要綱で「事業に要する費用の3分の1に相当する金額」と規定されている。国交省は嘉手納町の再開発実施に当たり、9割補助の島懇事業の条件に当てはめる特例的な「交付要綱」を別途設ける必要があった。

 嘉手納町の再開発事業が2001年10月に都市計画決定を受けたのを見極めた国交省は、02年度からようやく島懇事業に参入。同年7月、「沖縄米軍基地所在市町村活性化特別事業費補助交付要綱」を通知し、この中で国庫補助の額を「10分の9に相当する金額とする」と明示した。

 しかし、交付要綱の通知後も、例外規定を最小限に抑えたい国交省の論理が働く。「9割補助の適用は再開発事業の中でもごく一部分とし、事業全体を通じて9割補助はできないと(国交省は)突っぱねた。例えば最もかさむ用地取得費は補助対象にできないと言ってきた」(下地)。しかし、国としては島懇事業全体で9割補助の事業にしなければならない。結局、国交省の補助対象にできないものは防衛施設庁が補てんし、つじつまを合わせた。「嘉手納町が那覇防衛施設局からこの約束を取り付けるのに半年間ぐらいかかった」(同)という。

 再開発にかかる国負担分の総事業費155億円のうち、防衛省負担は93億円。一方、国交省負担は62億円で、結果的に総事業費(173億円)の3分の1程度に収まっている。

 防衛省は総事業費の過半を負担した補助事業の中核ビルに、毎年約2億円のテナント料を支払って地方機関(沖縄防衛局)を入居させる羽目になる。ほかの補助事業との整合や税金の効率的運用を度外視した、嘉手納町限定の優遇措置だった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](42)第2部 再開発の専門家不在
荒田氏の指導を仰ぐ

 特別セッションで有識者懇談会委員から叱咤され、尻に火がついたのは嘉手納町だけではなかった。実務を取り仕切る内閣内政審議室の官僚たちも同様だった。が、町と内政審議室の間で再開発事業の方向性の違いが次第に顕在化していく。

 「町施行による新町・ロータリー地区の一体的な再開発」と「施設局誘致」にこだわる町。不確実性の高い町施行を断念し、かつ施設局が移転しないケースも考慮に入れ、再開発以外の活性化策も取り入れるべきだ、と軌道修正を迫る内政審議室。両者のせめぎ合いは、「千載一遇の再開発」をものにしたい宮城篤実と、「とにかく期間内に成果を確実にかたちにしていく」のが使命である内政審議室の立場の違いに由来していた。が、不幸なことに、どちらにも再開発の専門家は不在だった。

 特別セッションから12日後の1998年7月21日。内政審議室が嘉手納町の再開発事業の課題をまとめた文書がある。

 この中で補助対象について「公共施設用地の取得費用に対する補助が基本」とした上で、「町全体の活性化事業にもかかわらず、再開発区域内に居住していた者のみが国の補助金で財産を取得することとなり不適当」と指摘。事業規模に関しては、町が想定する規模の再開発ビルを建設した場合の維持管理費を「年間3・2億~5・2億円」とはじく一方、那覇防衛施設局を誘致した際のテナント収入見通しとして「現施設局は約6000平方メートルを年間約1・3億円で賃借しており、この相場を大幅に上回ることは困難」と見積もっている。さらに、店舗への賃貸については大型ショッピングセンターなどの誘致は「(すでに進出している近隣の)沖縄市・北谷町との兼ね合いから厳しい」と予測している。

 こうした分析は、当時の内政審議室の再開発事業に対する懐疑的な見方が色濃く反映されている。

 一方、町の関門は有識者懇談会の委員荒田厚だった。「再開発の設計全体については荒田さんのゴーサインが不可欠だった」(宮城)からだ。

 荒田は東京大学工学部建築学科、同大大学院博士課程を経て、日本を代表する建築家丹下健三が開設した都市・建築設計研究所に勤務。その後、都市計画やまちづくりのコンサルタント会社を設立した。「沖縄返還の翌年から始まった本島中南部の広域都市計画という調査があって、事務所の初仕事として30代半ばのとき初めて沖縄の土を踏んだ。その後、天久や小禄の(跡地利用の)絵を描く仕事をやった。たぶん沖縄には何百回通っている」という荒田は復帰後の沖縄のまちづくりを熟知する大家だ。現在、在日米軍再編で嘉手納基地より南の6施設返還が想定されることを踏まえ、内閣府や県、市町村、有識者が跡地利用の方策を話し合う検討会の座長を務めている。

 有識者懇談会加入は「当時の建設省都市局長と岡本行夫さんが知り合いだった関係で、誰かメンバーをというんで、都市局長が省内の関連部署の人にお尋ねになり、紹介していただいた」(荒田)のがきっかけ。特別セッションを契機に、町職員やコンサルタントが代わる代わる東京の荒田の事務所を訪ね、指導を仰ぐ「荒田詣で」が続く。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](43) 第2部 2種事業
「期限内」対応に有利

 有識者懇談会の委員荒田厚の目にも、嘉手納町の再開発事業はかなり危なっかしく映っていた。「いや、正直難しいなとは思った。嘉手納町は相当額の割り振りをもらったが、それをどう使えるのかなと」

 1998年8月10日に荒田と面談した町委託のコンサルタント会社作成のメモからは、町と荒田の事業に対する認識の違いがうかがえる。

 メモによると、面談でコンサル側はまず、経過説明と現状報告をした。

 「(配分予算の)二百数十億円を頭に置き、床利用計画をつくり、対外的に利用者探しを図る予定」「町は事業化を1日も早くということで、ロータリーを含めた事業前提で啓蒙活動に入っている」

 これに対し、荒田は「できれば区域を小さく、これはロータリーを捨てるという意味でなく環境整備型にするとか、とにかく何か目に見えるもの、現実的なものにしてもらえないか」と提言した。

 荒田は当時の心情について、「スケジュールが非常にタイトだった。なおかつ、何をやれば一番閉塞感の打破に役立つのかは本当によく考えなければいけないはずで、派手な箱もの事業だけではないと思った。本当に嘉手納町にふさわしい姿はどういうものなのか、それについては多少悩みもあった」と打ち明ける。

 荒田には当初から、嘉手納町での再開発事業に戸惑いと違和感がぬぐえなかった。「基本的に再開発というのは、仲間を連れて来て床を売って、自分たちの床も新しくする。要するに容積を増やして、というのが基本的構造。だが、嘉手納町の場合、買ってくれるのは誰なんだろうと。もともとそういうポテンシャルがないところだから」

 市街地再開発事業は、中高層の再開発ビル建設や公園広場の整備などによって、土地の高度利用を図るのが目的だ。再開発によって都市環境を再生し、土地の付加価値を高めなければ事業として成り立たない。

 市街地再開発は、第1種と第2種事業に分けられる。

 1種は区域内の土地・建物などの権利者が、再開発前の権利に見合う再開発ビルの敷地や床(権利床)を施行者から取得(権利変換)する。施行者は権利床以外に余分の床(保留床)を建設し、これを売却して事業費に充てる。

 一方、2種は区域内の土地建物を施行者が一括買い取りし、事業後に入居希望者に再配分する手法。施行者を公的機関に限定し、土地収用の権限を与えているのが特徴だ。

 2種事業は防災上きわめて危険とされる地域や大震災発生時の避難広場など緊急性、公共性の高い施設を要する特殊な地域に適用されるため、再開発は1種事業が主流だ。

 那覇防衛施設局で嘉手納町の再開発事業を担当していた下地朝一は当初、「1種でも2種でも、できればいい」という思いだった。が、コンサルの話を聞くうちに、島懇事業が7年の期限付き事業であることを踏まえれば、「2種は認可のハードルが高いが、強制執行(土地収用)できるのが最大の強み」と認識したという。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](44)第2部 追い出し
権利者の8割が転出

 再開発の1種、2種事業には一長一短がある。1種は「権利変換」方式のため、補償費がかからない。一方、全員補償型の2種は補償費で予算が膨らむ。また、1種は強制執行が認められていないため、権利者の合意形成に相当な時間を割く必要がある。ただ、強制執行という強権力の発令も可能な2種は公共性の高い事業に限定され、許認可のハードルが高い。2種がレアなのは事業費がかさむことと、許認可の困難さに起因する。

 こうした特質を勘案し、嘉手納町に当てはめた場合、どうなるか。二百数十億円という膨大な事業資金を最大限活かし、できる限り短期間で実現を図るには「2種しかない」というのが町の判断だった。

 宮城篤実は「1種ではできないという思いがあった。全権利関係者と交渉し、減歩などの調整をしていたら何十年先になるか分からない。すべて買い取る2種の方式でないと難しい。だが、国に無駄カネを使わせたくない内政審議室には、1種でできなければ(再開発が)できなくてもいい、という空気が感じられた」と振り返る。

 下地朝一は「強制執行ができる2種を採用していなければ、嘉手納町の再開発事業は行き詰まっていた可能性があった」と指摘する。

 町は権利者の合意取り付けが困難な10件程度を収用委員会にかける準備をしていた。このうち、最終的に合意が得られなかった1件を実際、収用委にはかった。ただ、この権利者は収用委が提示した査定額で折れたため、行政代執行は土壇場で回避されたという。

 1998年8月10日の面談でコンサル側は、町が「第2種」で事業を進める意向も有識者委員荒田厚に伝えた。

 荒田は町が第2種で事業を進めることには、「住民の転出率が高まり、追い出しのイメージになる」との懸念から慎重姿勢を崩さなかった。8月12日の町職員との調整でも荒田は「権利者の転出率を減らすことを検討すべきだ。国の施設のために床を張り、住民が町外へ流出したという事態にはならないようしなければならない」「基本的には1種で進め、どうしようもないとき、2種にすべきでは」(町作成メモより)と執拗に抵抗している。

 町によると、今回の再開発事業の権利者268人中、町外を含む転出者は211人。全体の8割近くに上った。

 荒田は当時の思いをこう語る。「基本的に今いる人たちが居続けられる事業であるべきだと思った。時間との勝負になるが、1種でというのはそういう意味。床をたくさんつくって、よその人を連れてくることができなくても、もと居た人たちが夢のある商売や暮らしができればと。2種は転出を応援(助長)する話になる。実際に用地購入費や補償費は相当額に上るから」。潤沢な物件補償費(約50億円)や用地購入費(約20億円)が「呼び水」となり、転出を選択する権利者が多数を占める結末を荒田は予期していた。

 また、国交省の立場について荒田は「推測」とことわった上で、「2種事業は防災上の問題などそれなりの性質を備えた地区。相当な強権発動を伴うため件数も多くはない。国交省からみれば制度の趣旨をちょっと曲げているなという違和感から素直には乗れなかったと思う。いわば防衛の施策のためにまちづくりの制度がゆがめられるという面はあったと思う」との見方を明かした。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](45)第2部 修正圧力
町施行能力に疑問も

 1998年8月12日、町職員が東京の荒田厚の事務所を訪ねた。町作成の報告書によると、その際、荒田は「防衛施設局が入居するかしないかによって、事業の内容は大きく異なってくる。中核となる部分がはっきりせず、事業内容が仮定のままでは話が進展しない。施設局の入居の件は正式に誰がいつ明確にするのか」とただした。このとき、施設局からはなしのつぶてで、移転は白紙の状態だった。町職員は回答に窮した。

 荒田はまた、「防衛施設局全体が移転するのは無理があるのではないか」「施設局が入らない場合の案も机の下にもっておく必要があるのではないか」などと指摘。「まず新町を再開発的な手法で立ち上げ、次のステップでロータリー地区の土地の確保を実施していくことも一案」と告げた。

 8月18日には那覇市内のホテルで町と内閣内政審議室、施設局職員が協議した。町作成の報告書によると、内政審議室主幹の佐藤勉は、さらに突っ込んだ表現で町に事業方針の修正を促している。

 「嘉手納町単独でこれほど大きな事業をこなすのは無理がある。天久(那覇新都心)などの開発とは違う住環境整備のようなかたちになると思う。事業主体は町ではなく、大企業か公団などにやってもらうべきでは」「島田(晴雄)先生とも話し合ったが、新町、ロータリーだけではなく屋良地域も含めた町全域を対象に広げた『21世紀の嘉手納タウン』というイメージで住環境整備を図った方がいいのでは」

 佐藤は最後にこう宣告する。「政府内でも沖縄熱が冷めており、大蔵省も期限は7年と言っている。宮城町長は重大な決意を迫られるだろう」

 連日続く、島懇関係者からの「調整」という名目の圧力にたまりかねたコンサルが、官僚や有識者委員にかみつくこともあった。

 島懇関係者「等身大の計画にならないか。事業期間について大蔵省は強硬にめどを付けろと言ってきている。最短スケジュールを送ってほしい。例えば新町中心の再開発など、落としどころを決められないか。町の施行能力には限界がある」

 コンサル「町の施行能力というが、どこの町でも事業が完成したとき、一緒に携わった人もプロとして完成する。島田懇談会の意図にも人を育てるのが目的だったはず」

 島懇関係者「時間がなくなってきている。例えば公団と町の共同施行でもいいのでは」(8月26日。コンサル経由の町資料より)

 「等身大」とは「縮小」を意味していた。新町は1ヘクタール、ロータリーは2・7ヘクタール。島懇関係者は当時、円形のロータリー地区と方形の新町地区を「前方後円墳」と呼んだ。再開発事業が新町、ロータリー地区を合わせた計3・7ヘクタールに決定されるまでは、新町にビルを建て、そこに施設局の一部を移転する「方墳」のかたちで「お茶を濁される」という危機感が町にはつきまとっていた。

 施設局移転のめどが立たない中、強気の姿勢だった宮城篤実も次第に追い詰められ、やがて「重大な決意」を迫られる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](46) 第2部 部分移転
方針転換迫られる町

 1998年8月27日、那覇防衛施設局。内閣内政審議室の佐藤勉、施設局の下地朝一、町からは宮城篤実を含む関係者が一堂に集まり、9月1日の有識者懇談会作業部会に向けた最終打ち合わせが行われた。

 内政審議室作成のメモによると、この非公式の場で、宮城は施設局の「部分移転」受容に言及している。

 席上、まず佐藤が現状報告と称し、再開発事業への苦言を並べ立てた。「今のままでは懇談会事業の計画期間(97年度~2003年度)中の工事着工すら困難」と指摘。その要因として「金額ありきの考えで、今なお事業費に合わせた仮定の事業内容になっている。最大のスペースをとる防衛施設局の誘致も未決定」と弁じた。

 「金額ありき」は国側が決めたことだったが、佐藤は意に介さず、「ここに提示してある資料は、荒田厚委員と調整して作成した。内政審議室長も了解済み」と前置きした上で、以下の方針をまくし立てた。

 (1)事業地区は商店街の近代化など再開発の意識が高い新町地区とする。ロータリー地区は別途事業化の方向で位置付ける。合意形成が不調の場合は新町地区をさらに区分することも検討する(2)事業手法については第1種事業とし、地区内の合意形成に努め、権利者の町外転出率を限りなく少なくする。どうしても不都合がある場合、あらためて第2種を検討する―。

 「新町地区のみ」「原則1種」と一方的に町の方針転換を迫られ、追い詰められた宮城はぐらついた。

 宮城は「原点は再開発事業であり、新町だけではなくロータリーを含んだ一体的な整備が島田懇談会で提言され、町民にも喜ばれた」と抵抗するのがやっと。次第にトーンダウンし、「再開発ビルは当初、20階や14階建てといった計画はあったが、ドンガラ(胴殻)はやめる。中身はこれから考えるが、その一つが那覇防衛施設局の誘致。全部が移転するとは考えていない。中北部とのかかわりのあるところは移転してもらう」と部分移転も可とする姿勢をちらつかせた。

 このときの心中について宮城は「(施設局移転は)建設関係の部署だけでもいいかなと思っていたころもある。しかし、これでは町の活性化にはつながらない、やはり全員来てもらわないと、とあとで思い直した。あのときは誰からの助言もなく、すべて1人で葛藤しながらどうすればいいか、考えあぐねていた」と明かす。

 一方、当時の内政審議室や施設局の思惑について下地は「内政審議室は3年もたてば町は(再開発はできないと)音を上げるだろうと踏んだ。そうなれば200億円も使わず、規模を縮小してもいい。再開発ではなく、新町の一角を買収してビルを一つ建ててそれで終わりにしようと。施設局も移転するが、業者のための建設部と補助事業のための事業部だけ。総務部と施設部は那覇に残るという案だった」と解説する。

 9月1日の作業部会で荒田はこう発言する。「基本的な事項の整理として、施設局誘致をあてにしていいのか。島懇事業として何を補助対象にできるのかをはっきりさせるべきだ」。町に施設局誘致断念の引導を渡す一歩手前まで来ていた。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](47)第2部 「東京会議」
移転決定期限を協議

 1998年9月30日。総理府(現内閣府)会議室で嘉手納町、内政審議室、防衛施設庁などの関係者と有識者委員の荒田厚が顔をそろえ、再開発事業の詰めの協議を行った。これが施設局移転決定の「期限設定」の場となる。町がのちに命名した「東京会議」だ。

 安達俊雄(内政審議室審議官)「施設局の移転はいつごろまでに決めればいいのか」

 荒田「施設局が移れるか移れないかはタウンセンターの規模に影響する話なので、できればすぐにでも決めてもらいたい」

 宮城篤実「あす野中広務官房長官に会った際にもお願いしたい。事務方ではなかなか詰めづらいだろうから、政治的にお願いすることを考えている」

 荒田「期間としては本年度いっぱいには決めていただきたい」(以上、町作成の議事録より)

 宮城が「政治決着」を口にしたことで、荒田から「最後通告」を突きつけられるかたちとなった。

 宮城は当時の思いをこう打ち明ける。「町が委託しているコンサルが傍聴席にいたが、私と荒田さんのやりとりを聞いて肝を冷やしたようだ。町長は自ら退路を断ち、墓穴を掘ったと。コンサルも施設局移転に半信半疑で、これを核にしたため自分たちの仕事が進まないという懸念を深めていたと思う。しかし私は、施設局以外のテナントは予想もできなかった。スーパーとかテーマパークでは駄目だと思い詰め、背水の陣で臨んだことが、翌日の(野中との)交渉のバネになった」

 町建設部長下地朝一は「有識者懇談会の委員にすれば、国の9割補助事業で空きビルを造ったら、政府の恥だという意識があった。それはいかんから、大口(施設局)から入居の確認をとって来いとなった」と当時の内情をかみ砕く。「政府の恥」との認識について荒田は否定せず、「それは確かにみっともない。それどころか、国民に申し訳ない」と強調。その上で、「やはり一番大きかったのは施設局の移転。施設局の入居がなかったら、ちょっと悲惨だった。床は張れるだろうが、それこそ空いた床のドンガラ(胴殻)になっていた」と振り返る。

 すべては、施設局の移転が実現できるかにかかっていた。だが、「移転するのは施設局の方々の意思ではない。自分の住まいを(那覇近辺に)抱えている多くの職員は(嘉手納へ)行きたくはなかっただろう。普通は自主的には動かない」(荒田)状況にあった。それを動かしたのは、「トップの鶴の一声」(同)だった。

 荒田は当初、自らがイメージした再開発について「ボリュームをできるだけ抑え、湯水のようにお金を使ってもいいから環境とかデザイン面でいいものをつくればいい。お金はあるから、そういうかたちの開発はできたと思う」と吐露する。しかし、それでは「人がやって来て消費が起き、働く人が増えるという町全体の振興にはつながらない。そういう意味で説得力を持ち得なかった」と口惜しげに語る。

 荒田は今、嘉手納町の再開発事業が成功したと思うか、との問いに「それは町民の方々が判断すること。最初からお金ありきの事業はほかの再開発事業とは構造が違う。町民の閉塞感がどれくらい緩和されたかをどうやって測るか。それは私には測れない」と慎重に言葉を選ぶ。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](48)第2部 背水の陣
官邸・施設庁から言質

 1998年9月30日の「東京会議」終了後、宮城篤実はその日のうちに官房副長官古川貞二郎へ電話し、翌10月1日の面談を求めた。1日は官房長官野中広務との面談が決まっていたが、事前に古川と会っておきたかった。政府関係者がそろった30日の「東京会議」で、「年度内」という最終期限を突きつけられたことが、宮城をせき立てていた。

 電話口で急な面談要請の理由を尋ねる古川に、宮城は「島懇事業の行方が厳しくなってきました…」と告げるのが精いっぱいだった。宮城に具体的な戦略があるわけではなかった。それでも、ただじっとしてはいられなかった。

 その夜、都内のホテルで宮城は眠れなかった。自らが提起して実現にこぎ着けた傾斜配分の問題では肝心の配分額が満足のいく収穫を得られず、施設局移転は提案から2年を経ても動かない。しかも、再開発は最終的なプランすらまとまらず、縮小の話まで出ている。「みんなに期待をもたせておきながら、こんなかたちでぽしゃってしまったら立場がないどころか、仕事を続ける意欲も失ってしまう」。宮城は岡本行夫と出会った96年6月以降の出来事を脳裏に去来させ、危機感を募らせた。

 1日午前10時。官邸で古川と面談した宮城は「那覇防衛施設局の移転はどこが決定するのか」とストレートに問うた。古川は「それは防衛施設庁になる」と回答した。

 宮城はその足で防衛施設庁に駆け込んだ。長官に面談を要請したが、出張中だった。次長西村市郎が面談に応じ、総務部長新貝正勝が同席した。

 次長室のソファに、宮城と随行の町職員3人が切羽詰まった顔で、西村、新貝と向かい合った。

 西村はこれまでの施設庁の態度を繰り返した。移転に前向きなそぶりを見せつつも、のらりくらり、確定的な言い方を避ける相変わらずの口ぶりだった。しびれをきらした宮城の頭にふと浮かんだのは、知事大田昌秀を引き合いに出すことだった。普天間代替施設建設問題で県内移設容認の是非を明らかにせず、逡巡した揚げ句に名護市長選の投票日2日前に「海上基地建設反対」を表明した大田は当時、防衛内部ですこぶる評判が悪かった。

 宮城は「あなた方はいつも期待をもたせる話をするが、大田知事といかほどの違いがあるのか。早く決断を」と迫った。これが功を奏し、西村から「施設庁内では(移転は)固まっている。ただし、最終決断は官邸で」との言葉を引き出したという。

 宮城の眼前に光が差し込んだ。宮城は内心で「しめた」とほくそ笑み、決定するのは私だ、と受け止めた。同日朝の古川との面談で「移転を決定するのは施設庁だ」との言質をとっていたからだ。取りようによっては「たらい回し」だが、施設庁の次長が官邸の古川と密接に連絡を取り合い、「口裏を合わせた」とは考えにくい、と宮城は踏んだ。

 宮城は「そうですか官邸ですか」と心とは裏腹にすました顔で施設庁をあとにした。

 同日午後4時20分。宮城は官邸で官房長官野中との面談に臨む。官房副長官鈴木宗男と沖縄開発政務次官下地幹郎も同席した。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](49) 第2部 知事選
移転発表を政治利用

 1998年10月1日午後4時20分。宮城篤実は官邸で官房長官野中広務との面談に臨んだ。

 宮城は野中に「島懇事業は防衛施設局の嘉手納移転が決まらず、困難を極めていましたが、おかげさまできょう確認がとれました」と切り出すと、同席していた官房副長官鈴木宗男がすっと席を立った。

 数分後、宮城が経緯を説明している間に鈴木が戻ってきた。鈴木は長官室の入り口で胸元に指でオーケーのサインを示しながら、「決まった」と小さく叫び、顔をほころばせた。

 それを見て宮城は、鈴木がしかるべき筋から確認をとってきた、と解した。

 宮城は「正式発表は官房長官が官邸でやってもらいたい。その間、私に経過を伝える必要もありません。ただ、今月いっぱいにはお願いしたい」と野中に申し出た。「今月いっぱい」とした理由について宮城は「来月(11月)の知事選前にやらないと政治的効果は薄いという含みをもたせる言い方をした。私の猿知恵。少しでも早く決定させようと思った」と明かす。

 知事選には島田懇談会委員を務め、有識者懇談会で副座長を務めた稲嶺恵一が普天間飛行場の県内移設を容認する「現実路線」を掲げ、自民などの推薦を受けて立候補、同飛行場の県内移設に反対する現職の大田昌秀と事実上の一騎打ちを繰り広げていた。

 「基地」と「経済」を争点にした知事選で、稲嶺は「閉塞感の打破」や「県政不況」をキャッチコピーに打ち立てた。沖縄で「閉塞感」という言葉が浸透したのは、96年6月に宮城が岡本行夫と那覇市内で会食し、宮城が「呼吸困難に陥っている」と訴えたことがきっかけだった。それ以降、島田懇談会の会合などで「基地所在市町村の閉塞感の打破」という言葉が自治体関係者や委員らによって繰り返し唱えられた。

 これは本来、沖縄の米軍基地の整理・縮小が進まないことによる自治の弊害について、基地所在市町村側から政府への異議申し立てという意味合いで用いられた。しかし、このセリフは98年の知事選を通じて、いつの間にか「大田県政によって導き出された閉塞感」にすり替えられていた。

 にもかかわらず、橋本政権が設置した大臣、沖縄県知事らによる沖縄振興策を検討する「沖縄政策協議会」が、大田の普天間飛行場の県内移設反対表明を受け、1年余にわたって再開されていないことなどに由来する「閉塞感」として、県民世論にも比較的違和感なく浸透していた。

 宮城は選挙期間中、稲嶺陣営の有力支持者として「稲嶺さんの手法を踏まえれば、こう着している沖縄問題は確実に動いていく」などと要所要所で応援演説を行い、精力的に支援した。稲嶺の知事当選後、宮城は最初の副知事候補に浮上する。

 官邸での宮城と野中の面談を受け、知事選を控えた10月中に施設局移転を正式発表した政府の判断が、宮城の「猿知恵」にどれだけ反応した結果なのかは定かでない。が、結果的に政府中枢と基地所在市町村をつなぐ島懇事業が、県政の行方に影響を与えるカードとしても用い得ることを体現するかたちとなった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](50)第2部 板ばさみ
移転道筋 地元に課題

 有識者懇談会座長の島田晴雄は、官房長官野中広務の那覇防衛施設局の移転決定が1998年の知事選に与えた政治的インパクトをこう表現する。

 「あれは稲嶺知事候補が猛烈に選挙を戦っていた最後の最後、稲嶺さんがちょっともうろうとして注射を打ちながら戦っていたときに、東京で野中さんの発表があった。私はその発表を聞いて、野中広務というのはやるなと思ったんですね。目に見えないミサイルがウァーと飛んで、ドーンと入った。それで稲嶺さんがブワァーと勝利した」(2008年7月の嘉手納町の島懇事業完成式典祝賀会のあいさつで)

 宮城篤実は野中との面談で施設局移転の確約を得た1998年10月1日を指し、「あの日を境に流れが一変した」と振り返る。それまで移転問題は「白紙」だった。

 通勤などで不便を強いられる「実害」を被る那覇防衛施設局の地元職員の多数は移転反対の強硬派だった。防衛施設庁は施設局職員の根強い反発や、地権者が複雑に入り組んだ新町地区の再開発事業の難度も認識し、移転には消極的だった。ただ、橋本内閣の肝いりだった島懇事業にからむ事案だけに、官邸の顔色をうかがう必要があった。表立って否定的な見解を表明することはしないが、腹の内では移転が自然消滅することを願うスタンスをとり続けていた。

 国交省や内政審議室の官僚も同様だった。例外的な認可事業への積極的な関与を避けたい国交省と、素人集団である町施行の再開発事業の危うさを肌で感じ、「身の丈にあった」事業を確実に遂行したかった内政審議室の論理が背景にあった。

 しかし、官僚たちには、(1)基地が集中する本島中北部の基地所在市町村の利便性の向上につながる(2)基地被害を実感できる場所に移転することで地元の理解も得やすい(3)移転によって島懇事業の目玉である嘉手納町の事業の充実発展にもつながる―という宮城の移転ロジックに正面から異を唱える理屈を見いだせないでいた。

 一方、官僚の本音を知る官邸は静観を決め込んだ。梶山静六は98年7月の総裁選に敗れ、小渕内閣とは距離を置き、岡本行夫も首相補佐官を退いていた。

 宮城は小渕内閣の官房長官野中とは面識もなかった。沖縄と政府の関係も、知事大田昌秀が普天間飛行場の「県内移設反対」のスタンスを明確にした後は冷却期間に入っていた。宮城も傾斜配分の配分額の低さに抗議し、嘉手納基地の「全面返還要求」を打ち出した後は、実質的に「身動きとれなくなっていた」(宮城)。

 こうした事情から積極的に宮城を後押しするベクトルは政府内に存在しなかったが、移転を握りつぶすほどのポテンシャルもなく、宙に浮いた状況に置かれた。沖縄側が基地問題で強い姿勢に出ることは、政府とのあつれきを招き、優遇や恩恵に授かれない事態に陥るリスクと直結していた。

 潮目を変えたのは9月30日の東京会議での有識者委員荒田厚の発言だった。宮城は「事業をつぶされかねない」との危機感から一念発起し、火事場の底力で防衛施設庁や官邸への要請行動を展開した。これが事態打開の原動力となった。

 官邸と防衛施設庁が、施設局移転に重い腰を上げようとしたとき、地元職員との間で板ばさみとなったのが那覇防衛施設局長北原巌男だった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](51)第2部「全面移転」
野中と島田懇で決着

 宮城篤実が施設局移転の合意を取り付けた約1週間後の1998年10月7日午前の官房長官会見。野中広務は「防衛施設庁に一部施設を嘉手納に移転する方向で検討させている。できるだけ期待に沿えるようやっていきたい」と述べ、防衛施設庁などに「今月中にまとめるよう」指示したことを明らかにした。

 防衛施設庁は同23日の会議で移転を決定。那覇防衛施設局長北原巌男は同26日、嘉手納町役場に宮城を訪ね、同町への移転を正式に伝えた。

 10月29日の官房長官会見で再び施設局移転に言及した野中は「那覇に30人前後を連絡要員として残し、事務所は嘉手納に移したい。嘉手納町役場の職員数は200人と聞いているので、それを考えると、これに倍する職員が入る施設局が移転するということは嘉手納町にとって大きな意義があると思う」と実質的な全面移転を発表した。

 当初、「一部施設の移転」としていた方針が、土壇場で「全面移転」となった経緯について野中は詳細の明言を避けつつ、北原の理解が「大きな力になった」と振り返る。

 野中は宮城との面談後、官房長官室に北原を招いて直接、意見を聞いたという。「彼は沖縄の人の心をよく知っている男だった。彼に意見を聞いたら、長官がそういうお気持ちであれば、職員の通勤とかの問題はあるが、やっぱりこれからのことを考えると、基地との連絡調整などで施設局が果たす役割は大きいと思います、と言うてくれたんで大きな力になりましたね」

 北原の立場をおもんばかれば、官房長官の野中から嘉手納移転を懇請され、それに「ノー」という選択肢はなかったに違いない。

 施設局職員によると、北原は野中の移転発表の直後、局内の講堂に200人を超える係長以上の職員を一堂に集め、「官房長官決定で嘉手納へ移転することになった」と報告し、理解を求める訓示を行ったという。

 施設庁関係者は当時の状況について組織内部の事情と関連付け、こう補足する。「防衛庁内の装備品調達に絡む不祥事などで組織としてがたがたになり、施設庁の組織内部の問題でも官房長官まで上がってイエスとならないとファイナルにならない状況だった。こうした決定の権限の問題に加え、施設局移転に関しては再開発事業が本当にできるのかという懐疑的な見方も相まって、施設庁だけで判断して責任を取りたくないという論理も働いた」

 一方、島田晴雄は「(施設局移転を)決めたのは野中広務さんだよ。ものすごい政治力。あの人なら一人でやっちゃう。強烈な実力ですから」と打ち明ける。また、宮城が「誘致作業は島田懇談会の役割ではないとして、『おもしろいアイデアですが、町長ご自分で努力してください』で終わった」と振り返っていることについて、島田は「島田懇がないと、あんなの(施設局移転)できないじゃないか」と言い放った。

 施設局移転は、宮城の意志と行動力が風穴を開け、野中の政治力が最終局面で後押ししたのは事実だろう。だが、島田が指摘するように、島懇事業が日米安保の安定という目的に沿った「国策」であり、嘉手納町への施設局移転がその根幹をなす―という暗黙の了解が政府内で共有されていたことも、外せない要因と見るのが妥当だろう。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](52)第2部 特措法改定
拒否カード奪われる

 1998年10月1日の官房長官野中広務との面談について、宮城篤実は「野中さんとのつながりは私個人とも嘉手納町としてもまったくなかった。とてもじゃないが、(事前に)何か言える立場ではない」とパイプや根回しが一切なかったことを打ち明ける。宮城にとって、野中は政府中枢の縁遠い存在だった。が、世襲の政治家でもなく、自身の才覚のみで郷里の京都府園部町(現南丹市)の町議や町長なかれつどを経て、苛烈な政治闘争の末に権力の中枢まで上り詰めた野中には、宮城と共通の「土臭さ」のにじむ気骨が備わっていた。

 「さすがに基地の深刻性を率直に言うてくれる町長だなと思いましたよ」と宮城の印象を振り返る野中は、移転発表のタイミングが知事選の直前だったことについて「そんなセコイこと、考えてない」と一笑に付した。

 野中の沖縄原体験は、町長時代の62年にさかのぼる。復帰前の沖縄で、全国の自治体が沖縄戦で亡くなった地元出身者のための慰霊碑を相次いで建立していた時期。京都出身者が最も多く戦死した場所は宜野湾市の嘉数高台であることが分かり、そこに京都府の慰霊碑を建てるべきだとの思いから、野中は現地視察に向かった。那覇市からタクシーに乗り、宜野湾市付近にさしかかったとき、タクシー運転手が急ブレーキを踏んで止まった。そして、「私の妹はあそこで殺された」と声を震わせ、1時間ほど車を動かせなかったという。米軍ではなく日本兵に殺されたと告白する男性運転手との出会いが、野中にとって「最初の一番強烈な沖縄体験」だった。

 野中は自民党衆院安保土地特別委員長を務めていた97年4月11日、改定米軍用地特別措置法を約9割の圧倒的多数で可決した衆院本会議での委員長報告で「圧倒的多数で可決されようとしているが、『大政翼賛会』のようにならないように若い方々にお願いしたい」と異例の意見表明を行った。

 野中は「あれは突然出たんですよ。

 委員長報告には何も書いてなかった。

読んどる間に、わーとね、タクシーの運転手がハンドルにしがみついて泣いている、そして僕に言うた光景が出てきたんだ。それでここでひとこと発言を許してくださいと言うたんですよ。委員長やっとっておかしいけどね、国が直接収用するぞっていう法案に9割も賛成するというのはおかしい。議会の在り方としてちょっと怖いと思った」

 特措法改定案は自民、さきがけの両与党と新進、太陽など野党の賛成で国会提出後間もない4月11日に衆院を通過。17日の参院で約8割の賛成で成立した。改定のポイントは、使用期限が切れた後も国の継続使用を可能とする「暫定使用制度」を創設した点だ。国が地主に対し損失補償の担保さえ供託すれば、県収用委の裁決手続きが終了するまで継続使用が可能となった。

 同法改定は、95年の米軍事件を契機に知事大田昌秀が強制使用手続きの代理署名を拒否し、期限切れに伴い、一部民有地を国が不法占拠する事態が起きたことに端を発していた。同法改定によって、国による「不法占拠状態」が生じる可能性は事実上なくなった。

 さらに、99年7月の同法再改定で、市町村長や県知事に委任していた「代理署名」や「公告縦覧」を国の直接執行事務とすることで、国の基地政策に異議を唱える地元の「拒否カード」は完膚なきまでに奪われた。

 2度にわたる特措法改定は、沖縄の基地問題が全国的な争点として浮上する芽を絶つ分岐となった。同時期、基地所在市町村では島懇事業や傾斜配分など「基地の恩恵」が行き渡りつつあった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](53)第2部 政争の具
パイプ役も国益優先

 民有地が多くを占める沖縄の米軍基地をターゲットにした1997年4月の米軍用地特別措置法改定を政府内で強く主張したのは、内閣官房長官梶山静六だった。

 同法改定案の国会成立を後ろ盾した首相橋本龍太郎と新進党党首小沢一郎の合意は、首相訪米前に改定案を成立させる必要があると判断した梶山が仕掛けたものだった。梶山は同法改定案合意をめぐって、かつて党内抗争を繰り広げた政敵・小沢率いる新進党との「保保連合構想」を模索し、野中広務ら「自社さ派」と激しく対立した。しかし、橋本が「自社さ派」に軸足を置いたため、梶山は97年9月の自民総裁選後の「第2次橋本改造内閣」で官房長官の座を明け渡す。

 同法改定は梶山らによって中央政界の「政争の具」として扱われたも同然だった。また、知事に委任していた強制使用手続きの「代理署名」などを国の直接執行事務とする99年7月の同法再改定を成立させたときの官房長官は野中だった。

 「贖罪の精神」を抱え、沖縄にとって頼りになる政府中枢のパイプ役も、優先順位は政治抗争に勝ち抜くことと国益が常に上位にあることを踏まえれば、当然の帰結でもあった。中央とのパイプは国益と地元益が一致する、ごく限られた局面においてのみ有効に機能する。

 こうした背景について琉大教授の島袋純(政治学)は「95、96年当時に大田県政が沖縄の自立に向け、政府と交渉していたとき、初代沖縄開発庁長官として沖縄振興に尽くしたとされる山中貞則氏はむしろ阻止勢力になったといわれている。中央支配の構造の中で、沖縄が自分の利益にもプラスになるポジティブ・サム(互いが利益を得る)のゲームのときだけ助力するが、ゼロ・サム(ほかの人の利益が増し、相対的に自分の利益が減ること)になったら、沖縄利権を手放せないからつぶしにかかる。これが、公平性や合理性を基にした政策形成とは逆の『恩顧主義』や『ボス政治』の限界」と解説する。

 自民党衆院安保土地特別委員長を務めていた野中が改定米軍用地特別措置法の可決に際し「大政翼賛会」と苦言を呈した背景には、「保保連合」にはしる梶山に対する批判が込められていたともいわれる。しかし野中はこのとき、より根源的な政界の変化をひしひしと感じていた。その象徴のひとつが沖縄に対するスタンスだった。

 「沖縄には琉球政府時代の自立心や琉球王府としての歴史もある。それから米軍の支配で復帰が遅れた。こういうことを無視してはいけないし、われわれもまた、沖縄は兵隊だけでなく一般民衆も犠牲になった、沖縄には耐え難い歴史がずっと残っているんだということを脳裏に置きながら、節目節目で民族としての償いをしてきた。しかし、それが分かっている政治家がだんだん少なくなっていた。政治家だけでなく日本全体だけれども」

 一方で沖縄側にも厳しい目を向ける。「一つは沖縄の国会議員があんまり動けへんな。利権ばっかり考えとるやつもおるしね。そういうことに対する不満が僕にはあった」と明かす野中は、沖縄には「二つの面がある」と指摘する。「基地を撤去せえと言いながら撤去されたらその後、借地料が入ってこない。沖縄経済というのはある意味、基地でもっているところはある。この二面性をどうするのかというのが僕らの悩みやった」

 沖縄に対する「政府の熱意」は特措法改定で急速にしぼみ、「沖縄の問題は終わった」とのムードが政府内に漂っていく。

 衆院議院運営委員会は、改定特措法を圧倒的多数で可決した衆院本会議の4日後の97年4月15日に開いた理事会で、「大政翼賛会にならないように」との野中の発言を議事録から削除することを決めた。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](54)第3部 機構改革
外部起用で事業推進

 1998年10月に内閣官房長官野中広務が那覇防衛施設局の嘉手納移転を正式発表したことで、嘉手納町の再開発事業の課題は、事業主である町の施行能力に絞られた。

 宮城篤実は8年ぶりに役場の機構改革に乗り出す。99年9月、役場内に島懇事業の推進を目的にしたチーム「プロジェクト未来」を新設。助役をチームリーダーに、サブリーダーの部長とこれまでになかった調整監(部長級)を配置した。建設振興部(現建設部)にあった都市開発課を再開発推進課と名称変更し、プロジェクト未来に置いた。「失敗は許されない」という宮城の意気込みが伝わる布陣だった。

 さらに宮城が手を打った秘策が、那覇防衛施設局職員の「引き抜き」だった。プロジェクト未来の目玉人事となる調整監に、那覇防衛施設局施設対策計画課技術専門官だった下地朝一を起用したことが事業進展のカギとなる。

 下地は島懇事業をサポートする施設局の嘉手納町担当として、再開発事業を熟知する国交省や県の職員を引き込む必要性を町に提言し続けてきた。しかし、町は適任者を確保できずにいた。「県や国との調整役となる都市計画法に精通した人がこれからは欠かせない、とずっと言ってきたんだが、1年半ぐらいたっても人選のめどが立たないという。それで言い出しっぺだから、お前でもいいから来いとなった」(下地)

 下地の引き抜きを宮城に進言したのは町企画総務部長塩川勇吉だった。「これだけボリュームのある仕事なので役場のスタッフだけでこなすのは無理があった。ちょうど彼(下地)が嘉手納担当で、町のことをよく考えてくれているという感じを受けたので町長に(引き抜きを)提言した」と振り返る塩川は、下地に半端なスタンスを許さなかった。

 「最初は施設局からの出向というかたちなら行けると答えたんだが、塩川部長には『腰掛けでは困る。失敗したら戻るというのは言い訳になる。辞めてこい』と言われた」(下地)。だが、下地は再開発の専門家ではない。「再開発のことは分からない」と下地が躊躇すると、塩川は「そんなのは来てから考えろ。分からなくていいから、失敗してもいいから来い」と背中を押したという。

 下地は当時50歳。転職は人生を懸けて決断だった。下地は上司に相談した。ある上司は「自分の人生をどうするかという話。大きな組織の部品の一つになって働き続けるか。それとも、お前も定年が見えてきているんだから残りの10年間、人生を懸けて好きな仕事をやるか。そう思えば、成功しようが失敗しようが(転職すれば)いいんじゃないの」とアドバイスした。

 別の上司は「首長は4年の任期しかないんだぞ。町長が代わったら、冷や飯食うことになるぞ」と諭してくれた。

 下地は両方の意見を踏まえて結局、「冷や飯食っても、今(施設局)の部品の中の部品であり続けるよりはいいかな」と転職を決断した。当時は那覇に住んでいたが、町職員に転身した日から新町にアパートを借りた。

 プロジェクト未来設置で15人体制の部が新設されたが、職員総数は調整監である下地の外部起用による1人増にとどまった。その分、庁内各部から要員を供出したため、他部門へのしわ寄せも生じた。9月1日の辞令交付式で宮城は「町民は国策との関連で50有余年、重い荷物を背負ってきた。町の未来を切り開く特別のチームを編成した結果としてのしわ寄せは、お互いが背負わなければならない。志なければ前進はない。目標到達の努力をしてほしい」と訓示し、全庁体制の取り組みであることを職員に意識付けした。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](55)第3部 推進協議会
町と両輪の取り組み

 嘉手納町によると、新町・ロータリー地区の権利者は268人。行政だけで全員の意思統一を図るのは至難の業だった。町とともに車の両輪となり、事業推進に取り組む権利者主体の機関が必要だった。

 宮城篤実が「成功した」と自負しているのが、権利者を束ねる「嘉手納タウンセンター開発事業権利者協議会」の設立だ。同会は1997年9月に第1回発足準備会を開き、計5回の発足準備会を経て99年2月に結成。99年10月には町内に事務所を開設し、町の全面的なバックアップを受け、権利者の相談窓口や啓発など本格的な活動をスタートした。

 宮城が会長として白羽の矢をたてたのが当時、ガス会社社長(現会長)で宮城の町議時代の先輩に当たる渡口彦信=読谷村在住。渡口は本土復帰をはさんで3年間、町商工会長を務めた際、新町の再開発を最初に企画した人物だった。

 渡口の会長就任要請について宮城は「(渡口は)かつて新町の一角にビルを建てる計画を立てたが、とん挫した。資金面で不安のある権利者たちは、権利を奪われてしまうという恐怖感があったと思う。彼は志の低い男ではないが、分かってもらえなかった。そういう経緯があったので、あなたが最初にやろうとした思いを一緒にやり遂げましょうと誘いをかけた」と語る。

 渡口は本部町で生まれた。中学生のとき、父親が万年筆店を営んでいた嘉手納町(当時北谷村)へ移住。米軍の本島上陸直前の45年3月、兵役検査が繰り上げされ、18歳で県立農林学校の卒業式を待たずに徴兵された。入隊後間もなく、沖縄戦の激戦地・糸満の摩文仁海岸で米軍の捕虜となり、一時、ハワイの捕虜収容所に送られた。

 戦後、嘉手納町へ戻った渡口は新町市場で家庭用品店を経営する。会長就任要請について「地権者でもあるし、土地も割合多く持っておった。町商工会長もしておるし、町議会議員もしておるんで、この人はいろいろと知っているだろう、ということだったと思う」と宮城の思いを忖度する。

 渡口は町商工会長時代から本土復帰に伴い商業の近代化は欠かせないと考え、新町市場の再開発構想を練っていた。渡口が「島懇のタウンセンター事業の卵」というのが、85年1月に設立した新町市場周辺地区再開発推進協議会の活動だ。渡口が会長を務め、町の助成も得てコンサルタントに調査を依頼するなど、本格的な計画立案にとりかかった。しかし、資金面の不安と後継者不足などから着手には至らなかった。

 「再開発で国から得られる補助は30%くらい。ある程度町の補助が得られても、出資の主体は民間の権利者が負わないといけない。しっかりした後継者がおればまだ安心できるが、店の規模も小さく、子どもたちはほかの仕事に就く。経営者が高齢化する中、果たして支払いができるかとなった。そうこうしているうちに時間だけが経過していった」

 島田懇談会で200億円を超える政府予算が確保された今回、資金面の課題はすでにクリアされていた。宮城が説くまでもなく、この機を逃せば二度と再開発はできない、という認識が渡口にはインプットされていた。

 渡口は「『権利者の会』では自分の権利を主張するのが目的みたいな印象を受ける。会員の意識の上でもこれでは困る。自分たちのまちづくりを役場に頼るのではなく、一緒になって取り組む気概をもつべきだ」と訴え、2年目に組織の名称を「推進協議会」に変更した。渡口によって、再開発を「推進」する組織としてのスタンスがより明確になった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](56)第3部 地権者
第戦後の混沌 強く反映

 県発行の「沖縄・戦後50年の歩み」―激動の写真記録―によると、嘉手納ロータリーの由来は「軍需物資輸送の混雑を解消するため、米海軍設営部隊により建設された」とある。

 再開発区域の権利者団体「推進協議会」の会長を務めた渡口彦信は、嘉手納ロータリーの成り立ちについてこう説明する。

 「ロータリーは終戦直後、米軍が整備した。歩いて中に入ることはできるが、地主が看板でも立てると、MP(米軍憲兵隊)がすぐに飛んで来て『壊せ』と命令した。地料ももらえないから、当時の首長が米軍工兵隊と折衝したら、家を建ててもいい、ということだった。実は米軍に接収されていなかった。制限区域だったんだが、米軍内部でもしっかり調整されていなかった。それじゃあ、ということでどんどん家が建った」

 1983年に町役場が発行した「分村35周年記念誌」によると、「ロータリー内返還」は58年と表記されている。

 米軍が一時、立ち入りを制限したロータリー地区は、終戦直後のパニック的な社会状況下に人々が押し寄せ、野放図に生活空間を築いていった新町地区のような混沌を避ける余地に恵まれた。とはいえ、後発の分、地権者の区画や路地の整備は比較的進んだものの、行政が積極的に介入し、計画的なまちづくりを施すには至らず、ロータリーの円形を維持するかたちで家屋や商店がすき間を埋めるように乱立していったという。

 新町・ロータリー地区の再開発事業での地権者説得の苦労について宮城篤実は「地域懇談会で地権者に構想を打ち出したときは、更地にして新しい街をつくるなんてできっこない、ほら吹いている、とみんなあきれ返っていた。だが、現実に私たちが図面なんかを見せ始めたので、本気だなということになって騒然となった」と振り返る。

 ロータリー地区には、庭付きの一戸建て住宅を新築したばかりの人もいた。新町地区の住民も「終の棲家」と信じて暮らす高齢者が多かった。権利者を対象にした地域懇談会では当初、「どうせ無理だ」、あるいは「余計なことを」という否定的なムードが支配していた。

 宮城はプロジェクト未来の再開発担当職員に地権者宅を戸別訪問し、協力依頼するとともに、家族構成や縁戚関係を徹底的に洗いだした名簿の作成を指示した。3・7ヘクタールの再開発区域にひしめく268人の権利関係者のデータからは、激戦によって廃虚と化した地に身を寄せ合い、ゼロからはい上がった人々の暮らしの断面が透かし絵のように浮かんできた。

 「戦争が終わって人々が一挙に嘉手納に集まって来て、地主の許可を得ないで無秩序に家が建てられた。米軍が全部焼き尽くして原っぱになっているからつくりやすい。そういう状況の中でまちづくりが始まったから、一つの建物に3人の地主がまたがっていたり、はっきりしないことがたくさんあった」(宮城)

 「米軍基地があると、基地関連の工事を求めて労働者がずいぶん集まって来た。新町などは元の住民と戦後移ってきた人が混在し、一つの屋敷に何所帯も入ったりして権利者も入り組んでいる」(渡口)

 こうした状況でも、権利者の事業への同意取り付けは意外なほどスムーズに進展した。その要因の一つに渡口は「先進地視察研修会」を挙げる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](57)第3部 旗振り役
町長自らムード形成

 推進協議会の「先進地視察研修会」は年1回行われた。計4回実施し、60人が参加。経費はすべて町が負担し、540万円に上った。名目は再開発の先進地視察だったが、旅程をともにすることで、会員どうしの親睦を深める目的も果たされた。これが推進協議会を団結させる潤滑油になった。

 宮城篤実は「権利者に再開発事業とは何なのかを基礎的なことから勉強してもらおうと、東京の都心や金沢市(石川県)など全国あちこちに研修へ行ってもらった。家族代表の全員を行かせるように、と指示した」と明かす。

 町によると、推進協議会には1998年度から2003年度まで計3820万円の補助金を町予算から拠出している。

 先進地視察をはじめとする推進協議会の啓発活動は、権利者の協力姿勢を引き出す上で有効な「懐柔策」として機能したのは確かだろう。が、町全体の世論を「再開発推進」の方向へと導く最大の牽引力となったのは宮城のリーダーシップだった。

 91年から町長を務め、盤石の町政をしく宮城の影響力は絶大だった。宮城は権利者の合意について「私が圧力をかけさせたわけでもない」と言うが、町建設部長下地朝一は「町長が町内のあちこちで『命懸けで取り組む』と発言し、嘉手納は今、再開発をやらないと空洞化してどうしようもなくなると唱えて回った。町のためという看板があるから、誰も反対しなくなった」と指摘する。

 元ロータリー地区住民で再開発区域の権利者だった嘉手納町議会議長の田崎博美=同町屋良在住=は「先進地視察に行くと、再開発は通常30~40年かかると言われた。それを嘉手納町では建築業者や大地主たちが圧力をかけて(異議を)押さえつける手法をとった。大きな事業だけに建築業者はやりたくてうずうずしていた。そんな中、不平を言ったら周囲から総スカンを食らう状況だった。個人個人に不満があっても、町長との関係もあるから表立って反対はできないという空気があった」と打ち明ける。

 こうした町全体のムードも後押しし、当初難航が予想された都市計画決定は01年10月、町が志向した第2種市街地再開発事業として認可された。国交省が事業にコミットする試金石とした節目の手続きを事業着手から4年でクリアした。

 が、町にとっての「最大の関門」は都市計画決定後に待ち受けていた。権利者との補償交渉は修羅場となる。

 宮城自らが旗振り役となり、新町・ロータリー地区の再開発が「千載一遇のまちづくりのチャンス」という認識は町内に浸透していた。このため、権利者も事業に表立って異議を唱える者はほとんどいなくなった。しかし、「事業には賛成だが、補償費を提示したら99%が反対となった」(下地)。「政府のカネだろう、町が損するわけじゃないのだから」と少しでも高額の補償費を要求する権利者が後を絶たなかったという。

 町は「鑑定や相場に見合わない補償は一切応じなかった」と強調する。宮城は「小さな町で1件でも特別扱いをしたら、すぐに情報が広まって収拾がつかなくなる」と担当職員への指示を徹底していた。それでも権利者側が不公平と受け取る事態は生じた。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](58) 第3部 補償交渉
「よそ者」起用が奏功

 補償交渉で町が権利者の不平や反発をかった要因の一つは、住宅や店舗の構造による査定額の違いだった。

 町は、公共用地の取得に際する補償基準を定めた「損失補償算定標準書」の規定に基づき、鉄筋コンクリート造の耐用年数は90年、木造は48年と設定した。このため、鉄筋コンクリート造の家屋の権利者は大半が新築時の9割前後の補償費を得た。一方、築48年を超える木造家屋の権利者は新築の2割程度しか補償されなかった。大半が9割補償の対象となる鉄筋コンクリート造の権利者との交渉は比較的容易に進んだが、戦後間もない時期の建築が多い木造住宅の権利者は腑に落ちず、契約を渋ったという。

 再開発前のロータリー地区で「鉄筋半分、木造半分」の家屋で暮らしていたという町議会議長田崎博美は「自分の家は60、70年物のスギ材を使っていた。シロアリにも食われていない。価値があるはずなのに、木造というだけで安価な査定をするのはおかしいと申し立てた」と振り返る。

 借地権の問題もネックだった。嘉手納町では、基地造成によって住んでいた土地を追い出された人たちに、地権者は「気の毒だから」などと、相場を度外視した安値で長年、土地を貸与していた。町によると、残留した借地権者の平均借地料は1平方メートルあたり月約54円。「それまで嘉手納町に、補償対象として借地権という概念は存在しなかった。善意で成り立っていたものに権利が付いたとき、地権者に大パニックが起きた」(町建設部長下地朝一)。

 ほとんどの人が長期契約のため法律上の借地権を保持していたが、町は混乱を避けたいのと、破格の安値で借地料が設定されてきた特殊事情も鑑み、地権者と借り手の話し合いを優先し、合意に至らないケースのみ施行者である町が介入することになった。

 町によると、地権者に恩義を感じて数カ月分の家賃を受け取ってすんなり出ていく人もいたが、インターネットで他地域の相場を調べ、通常の家賃を支払ってきたケースと同等の借地補償を要求し、地権者との合意が長引くケースもあった。また、ロータリー内の県営鉄道嘉手納線(軽便鉄道)の敷地だった県有地部分は、路線価の4割という高比率の借地補償を県が設定していた。このため、県有地からわずかに外れ、低比率の補償を提示された借地権者からは不満の声も上がった。

 借地権者だった田崎は「私の場合は、市場の評価で借地料を払っていた。そういう人はたくさんいた。私は地権者と3回ぐらいの交渉をしてある程度の権利は認められたが、法律に明るくない人たちは、よく知らないで一銭もとらずに借地権を放棄させられた。中には自分たちの権利関係をしっかり説明してもらえなかったという憤りを抱えて出ていった人もいる」と根の深さを語る。「権利者どうしで話し合えというだけでなく、町施行の再開発事業として着手した以上、町が責任をもって間に入り、事前説明も含め、積極的に仲介者として対応に当たればこういうことは起こらなかった」と田崎は訴える。

 宮城の指示に従って、「1件でも特別扱いしない」方針を貫いた下地は、権利者から「地上げ屋」「暴力団」と罵声を浴びせられたという。「要するに、補償費をけちって出て行けとは、ひどいやつだと。よそ者が来て偉そうに、となった」(下地)。が、町にとっては、地縁血縁に縛られない、「よそ者」の下地が補償交渉の責任者に就いたことが奏功したともいえる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](59) 第3部 転出の理由
一戸建て望めず不満

 計画決定前の内閣内政審議室との調整では、事業手法は「第1種市街地再開発事業」とし、(1)地区内の合意形成に努め、権利者の町外転出率を限りなく少なくする(2)どうしても不都合がある場合、あらためて第2種市街地再開発事業を検討する―方針が示されていた。だが、町はこの「原則1種」をはね返し、2種事業で都市計画決定を取得した。

 都市計画決定は、国交省が事業に関与するスタートラインと位置付けていた。このため、事業を進展させる上で大きな弾みとなり、町は早い段階で補償交渉に着手することができた。一方で、権利者の転出率が8割近くに及んだことの功罪は検証が必要だろう。

 町建設部長下地朝一は「2種事業は残留希望者に対し、町が資産に替えて床を分配する。結果的に残留希望者が少なかったことから、多くの床を確保せずに、今の規模のビル(地上6階地下1階が2棟)と低層住宅や店舗の分ですんだ」と説明する。空きテナントを抱え込まないよう、町は当初から最小限の保留床にとどめる方針で臨んでいた。残留希望者が予想以上に少なかったため、抽選などで入居者を絞る必要もなく、限られた再開発スペースに希望者全員が収まったという。

 「残る残らないについて、町はプレッシャーをかけなかった。権利者の自主的な選択に委ねた結果」(下地)というが、有識者懇談会委員の荒田厚らが危惧した「追い出しのイメージ」にはならなかったのか―。

 町議会議長で旧ロータリー地区の権利者だった田崎博美は再開発区域の権利者の8割が転出したことに、「犠牲者をいっぱい出した」と嘆く。

 町のアンケートによると、残留希望者は当初6対4の割合で過半数だったが、計画の熟度が高まり、再開発後の町のイメージが具現化するにつれ、3対7、2対8へと減少していった。この数字の変遷は、再開発に対する権利者の期待が失望に塗り替えられていくさまを端的に映し出している。

 権利者たちが残留を望まなくなった理由は明快だ。田崎の言葉を借りれば「設計上、無理があった」ということになる。「計画が固まるにつれ、いびつなかたちになることが見えてきた。ほとんどの人が、集合住宅みたいな中で住みたいという気は起こらなかった。それまで一戸建てで暮らしていた人が、3、4棟連なったアパート形式をよしとしなかった」(田崎)

 田崎自身、再開発後のロータリー地区に残留する選択肢もあったが、熟慮の末、同町屋良地区に転居した。その理由について、田崎は「庭に対する思い入れがあった。狭い庭でも草花や樹木を植えて緑の中で生活したいという思いがあった。ロータリーの中で暮らしていたときはネコの額ほどの広さしかなかったが、それでも確保できた。しかし、今の再開発区域の住宅ではおそらく土は踏めないだろう。家族も同じような気持ちだった」と明かす。

 島懇事業で再開発計画が浮上した当初、田崎は過去に町商工会主導で取り組んだ際にとん挫した経緯も承知していることから、「いいことではないか」と肯定的に受け止めた。だが、再開発が完了した今、まちづくりに託した夢は色を失いつつある。

 補償交渉での借地権者に対する町の突き放した対応や移転後の生活環境、再開発後の町の姿などをオーバーラップさせ、田崎は「今でも自分たちは追い出されたと不平不満を抱え、町外転出した人もいれば、こんな町に何の未練もないという言い方をする人もいる」と義憤を募らせる。

 市街地再開発は土地の高度利用が前提であり、2種事業は防災上きわめて危険とされるエリアなど緊急性、公共性の高い施設を要する特殊な地域に適用される。防衛局入居という「公共性」と、島懇事業の期限内という「緊急性」を優先するために、町民から「犠牲者」が出たとすれば本末転倒だろう。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](60)第3部 町内転出
移転の末、音の「地獄」

 旧ロータリー地区の権利者だった田崎博美が転居した屋良地区の土地は、再開発区域からの転出者のために6区画が用意されたという。

 田崎によると、現地説明会には権利者10人近くが参加したが結局、田崎の家族以外は全員、入居を拒んだ。理由は「騒音がひどすぎる」ことだった。

 嘉手納基地の滑走路わきに位置する屋良地区の米軍機騒音は同じ嘉手納町内でも新町やロータリーの比ではない。が、町議会議員の田崎に町外転出という選択肢はなく、町内でほかに確保できる宅地はなかった。

 凛とした枝ぶりの松が閑雅な趣を醸し出す。緑豊かな庭付きの自宅は田崎の希望に沿うものだったが、耳をつんざく戦闘機のごう音は、視覚と聴覚のギャップをこれ以上はないというくらい残酷なコントラスで切り裂く。

 自宅は防音工事を施してあるが、「とてもじゃないが話にならない。外の爆音は閉めきっても1デシベル変わるかどうか。会話もできない。防音の体をなしていない」状態だ。自宅で取材中も数分おきに米軍機が離陸し、そのたび会話は中断を余儀なくされた。ICレコーダーでこのときの会話を再生すると、鼓膜が破れそうなほど激烈な金属音が反響し、到底イヤホンをつけていられなかった。

 移転して今の率直な思いを尋ねると、田崎は一言、かみしめるように「爆音、それだけ」とつぶやいた。窓の外の庭を見やり、今度は淡々とした口調でつないだ。「地面はちゃんと確保されたが、ここは住めるようなところじゃない。地獄だなと感じている」

 再開発がなければよかったという思いがあるのか、と問うと、少し間を置き、「借地住まいだったが、(再開発がなければ)隣近所も一緒に残れたかなと。町全体のことや転出した人の思いをおもんぱかれば、今の状況ならなかった方がよかった」と吐露した。

 防衛省は1978年度以降、田崎の住む屋良地区の一部など嘉手納基地周辺で騒音の激しい「第2種区域」(WECPNL90以上)の移転希望者を対象に、建物の移転補償や土地の買い上げを事業化している。「第2種区域内に居住する住民をより好ましい環境に移転させるとともに、その跡地を買い上げ、基地と民家の間に緑化緩衝地帯を設ける」のが狙いだ。沖縄防衛局によると、同事業に基づく嘉手納町域の土地買い取りは2008年度末までに約1万7000平方メートルに上る。

 いったん国に買い取られた土地に、新たに民家を建てることはできない。このため、結果的に人口の頭打ちや減少につながる。町域の83%を基地が占める嘉手納町では、基地外も国有地に「侵食」される状況が日々進行しているのが実態だ。

 再開発の町内転出先として田崎があてがわれた土地が、国の買い取り対象になる爆音地域だったことは、嘉手納町内で快適に暮らせる宅地の確保がいかに困難かを物語っている。

 再開発の権利者は自らの判断で転出したのは事実だが、再開発後の町の姿が、多くの人にとって暮らし続けたいと思う魅力を欠いていた、というのが真相だろう。中には日々、やりきれない思いを抱え、転出後の生活を送る人たちもいる。希望したのに残れなかったという人が皆無だからといって、これを「自主的な選択」とみるか、「追い出し」とみるか見解は分かれるところだろう。

 田崎は実感を込めて言う。「自分たちの権利を手放して再開発に協力したにもかかわらず、こういう状況ではまちづくりに参加できませんよという人は多い。まちづくりに懸けていた人たちの情熱を挽回するにはどうすればいいのかがこれからの課題」(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](61)第3部 町外転出
土地へ愛着断ち難く

 嘉手納町は再開発で町外に転出した権利者について「読谷村、北谷町、沖縄市などに移転しているが、人数などは把握していない」と関知しないスタンスだ。

 嘉手納町では、再開発前から米軍施設の返還が相次ぐ隣の読谷村への人口流出が続いている。嘉手納町より地価が安く、土地や家屋を確保しやすいことから、再開発で転出した人の多くも同村へ流れたとみられている。が、町外転出者の思いは複雑だ。

 再開発に伴って新町市場で長年営んでいた商店を閉じ、5年前に読谷村へ転居した50代の女性は「再開発に反対ではなかったが、まさか町外に出ることになるとはね」と、ため息交じりに思いを打ち明ける。

 転居先として町から斡旋されたのは再開発区域内の集合住宅だった。しかし、「今更、集合住宅で暮らしたくない」と転出を選択。町内で条件に合う一戸建ては確保できず、土地を所有していた読谷村に新築を建てて引っ越した。

 ところが、読谷村に移転後も、小学生の子どもは転校したくないと言い張ったため、住民票を嘉手納町に残し、町内の小中学校に通わせ続けた。

 転居先の読谷村の自治会には今も未加入だ。「読谷には(村外からの転入者を指して)『その他組』という言葉がある。読谷でも字(自治会)に入れないということはないが、無理をしてまで入る気もしない」とこぼす。

 宅地開発が進み、県内外から毎年1500人前後の転出入者のある読谷村は近年、自治会加入率の低下に頭を悩ませている。かつては保証人が必要な自治会もあったというが、今は会費を納めれば加入できる。村や行政区も転入者の自治会への加入促進に取り組んでいるが、負担金の支払いへの抵抗もあり、村内23区の平均加入率は5割強にとどまっている。経済的な理由に加え、読谷村は元の字出身者どうしの結束が強い土地柄のため、転入者の側が加入を尻込みするケースも見受けられるという。

 女性は買い物や友だちと会うのも嘉手納町に出向く。一日の生活の大半は嘉手納町で過ごし、自宅のある読谷村に戻るのは「寝るときだけ」。婦人会は今も「なあなあ」で嘉手納町のメンバーにもぐりこませてもらっている。「このままだと向こう(読谷)の老人会にも入れないし、今は住民票もこっち(嘉手納)ではないし。すごい中ぶらりん」。住民登録上は読谷村民だが、村のコミュニティーとの接点は一切ない。周囲の嘉手納出身者の多くも同じような状況だという。

 新町市場での暮らしは隣近所で「普段から『おーい』と呼び合う」仲だった。古くからの顔なじみで占める気の置けない庶民的なコミュニティーは、再開発で「みんなばらばらになった」。今はかつての隣近所と連絡を取り合うこともないが、転居先で商売を続けている人の話も聞かない。「転出する前からそんなに儲かっている状況じゃなかった。みんな高齢で後継ぎがいなかったから、これ(再開発)を機会に店じまいを、という感じになったのでは」と説明する。

 取材を受けることに戸惑っていた女性には、誰かを非難したり、愚痴をこぼしたりといったふうはなく、むしろひょうひょうと質問に答えていた。その女性が唯一、力を込めて「主張」したのが慣れ親しんだ土地への愛着だ。

 「本当は嘉手納にずっといたかった」。最後にぽつりとこぼした。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](62)第3部 再開発肯定派
町外の「勢い」に活路

 商業関係者にとって再開発に伴う転出は、住居だけでなく職種の転換にもつながる深刻な問題だった。

 町商工会関係者は「仕方なく出て行った人もいれば、補償費に不満をもっている人もいる。特に長年商売してきた人にとっては、この地でようやく築いた人脈やお得意さんを手放し、別の土地で一から商売を始めるのは死活問題」と話す。

 着工前に町が作製した再開発後の「新町店舗のイメージ」は、2階部分にループ状の空中遊歩道をはり巡らせたショッピングエリアのイラストが描かれている。が、現実には「再開発は高度利用が原則だが、嘉手納では店舗は1階しか需要がない。商売をしている人は2、3階に店舗を構えようとはしない」(町建設部長下地朝一)ため、空中遊歩道は存在理由をもち得なかった。

 とはいえ、後継ぎのない高齢の経営者が主だった新町市場とは異なり、ロータリー地区で店を構えていた人たちは、転出後も同じ商売を継続しているケースが多いという。その中には、店舗移転で打撃を浴びながらも、再開発自体は肯定的にとらえる向きもある。

 ロータリー地区で約25年間、メキシコ料理店「オブリガード」を経営し、5年前に移転した読谷村の店舗で店長を務める津波古敏子は再開発について「結果的にはよかったのでは」と受け止めている。「個人の商店は大きな影響を受けたが、商店街や町全体のことを考えれば、交通量が多い地域で十分な駐車場もないままでは、いずれどうにもならなくなっていた」とみるからだ。再開発エリアには公共の無料駐車場が3カ所に計91台分配置されている。

 津波古が切り盛りしていたロータリー地区の料理店の経営は順調だった。「再開発はずっと先の遠い話」と思っていたが、再開発の工事が始まると、移転を余儀なくされ、読谷村とうるま市内に新店舗を確保した。

 再開発終了後、なじみ客から嘱望され、「本店」があった旧ロータリー地区への復帰も検討した。再開発区域の空き店舗を買い取る選択もあったが、採算性を考慮した結果、嘉手納町での再出店は断念したという。

 ロータリー地区でともに商売を営み、町外に転出したかつての通り会のメンバー15人は今、親睦会「友愛会」を結成している。一緒に旅行したり、もちつきやゴルフなどのイベントを楽しむ仲だ。かつては通りの活性化をテーマに日夜、議論を交わしたが、今は旧交を温める同窓会のような集まりになっている。

 津波古は13年前に嘉手納町から読谷村へ住まいを移したが、読谷村の自治会には今も加入していない。しかし、孫が今年、読谷村の小学校に入学したことから、「学校行事などのかかわりを通じて、これから読谷村の住民という自覚もわいてくるのでは」と予感している。

 5年ごとの国勢調査によると、嘉手納町の人口は1965年の1万4392人をピークに、ほぼ横ばいを続け、現在約1万3800人。一方、読谷村は1万6574人だった50年以降、増加の一途を遂げ、現在4万人突破を目前にしている。「村」が「町」の約3倍という人口比だ。

 再開発を契機に、読谷村など「勢い」のある周辺自治体に転出し、そこでの暮らしや商売に新たな活路を見いだす権利者も少なくない。その背景には、嘉手納町の将来展望が再開発によっても容易には開かれそうにない現実を、シビアに見極めた上での判断という底意もうかがえる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](63)第3部 合併
2度の協議 立ち消え

 嘉手納町と読谷村の間には過去2回、合併論議がもち上がっている。1回目は合併の一歩手前まで進んだ1970年代、2回目は全国に「平成の大合併」の号令が響いた2000年初めだ。

 1回目の合併論議は、嘉手納の「村」時代にさかのぼる。1973年に嘉手納・読谷の両村議会で合併協議会規約が議決され、翌74年1月に合併協議会が発足した。第1回会合で当時の読谷村長古堅宗光は「両村は地形的にも似通っており、人事、経済、文化の交流も深い。地域の新しいまちづくりを共同で進めていこう」、嘉手納村長古謝得善も「合併の目的はあくまでも住民福祉の向上にある。住民の現実的な立場にたって合併を考えていきたい」と、ともに積極姿勢を打ち出している。

 その後の協議会で、合併は「対等」とし、時期は74年9月1日とすることなどがとんとん拍子で固まった。新町名の公募も実施され、「比謝川町」など約100種類300通の町名が両村民から寄せられた。

 合併が現実味を帯びるにつれ、狭あいな嘉手納から読谷へ転居する嘉手納村民が相次いだ。

 ところが、同時期に読谷村内で計画されていたアスファルト工場建設をめぐる問題で住民の反対運動が激化。これが引き金となり、読谷村長古堅が辞任に追い込まれた。

 これを受けて協議会は、合併期日を75年3月1日に延期すると決定した。が、読谷村長選は合併問題について「十分時間をかけ、各方面にわたって慎重に調査研究し、村民とともに検討し、村民意思を尊重して結論を出す」と慎重姿勢の山内徳信が無投票当選。このため、合併は白紙となった。

 宮城はこの合併論議の際、嘉手納村議だった。「私は合併推進派だった。合併を見越し、議員や役場職員を含む多くの人が読谷へ転居していた。にもかかわらず、一方的に合併を白紙化されたことに抗議し、議会の声明文を書いた」。嘉手納村議会は75年3月、合併破綻について「読谷村側の一方的都合により生じたもので、少なくとも自治体間の信頼関係を損なうもの。読谷村側は全面的にその責めを負わなければならない」と厳しく指弾する声明文を決議している。

 平成の大合併の際も、宮城は合併に前向きだった。嘉手納町、読谷村に北谷町も交えた3町村は2002年12月に事務レベルの合併研究会を発足。同研究会は03年8月、合併後の05~14年度までの10年間で人件費など計81億円余の節減効果を予測したシミュレーションを報告する一方で、「合併の直接の効果は従来の財政負担が一部軽くなるだけで、必ずしも自立力・経済力が増すことにはならない」と指摘。さらに「合併を検討している3町村は嘉手納基地により分断された形となっており、土地利用の連担性が確保されておらず、(中略)町村間の整合性や平等性の確保が難しいと思われ、地域の振興計画や住民活動の面で効率が悪い」などとするデメリットも提示した。

 これを受け、3首長は合併特例法期限内の合併を断念し、「これからも検討を続け、いずれかの機会に合併を進めたい」と持ち越しが決まった。

 3町村合併の阻害要因にも挙げられる嘉手納基地だが、周辺自治体の合併は同基地にとって悪い話ではない。

 仮に将来、嘉手納町が読谷村などと合併した場合、町域の83%が基地に侵食されている「枕ことば」は消失する。「同じ自治体内でなら」という移転希望者が増加し、爆音にさらされる第2種区域で国が進める土地買い上げや移転補償は加速化する可能性もある。

 嘉手納基地を今後も安定的に維持したい日米にとって、嘉手納町の合併は「目の上のこぶ」がとれる好機かもしれない。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](64)第3部 人の流れ
基地の弊害 浮き彫り

 町面積の83%を基地に侵食された嘉手納町では「将来的に読谷村などとの合併は欠かせない」との危機感は根強い。すでに消防機関やゴミ、し尿処理など8分野で読谷村などとの一部事務組合や広域連合方式による広域圏の行政サービスをスタートしている。

 宮城篤実は「嘉手納はこんな小さな空間に人々がひしめきあい、譲り合って暮らしている。嘉手納には人工的な設備が行き届いたよさはあるが、それ以外は土地の広さにしろ、読谷にはいろんな可能性がある。将来はそれぞれの地域のよさを生かしながら合併するのが自然だと思う」と展望する。

 元嘉手納町企画総務部長の塩川勇吉は1970年代の合併論議の際、合併を見越し、嘉手納から読谷へ転居した一人だ。「合併は将来せざるを得ないこともあるかもしれないが、自分の田畑はしっかり整備しないといけない。自分の畑が荒れ放題で『一緒に』と言ってものってこないと思う。再開発にあぐらをかいていてはいけない」と述べ、継続的にまちづくりの充実、発展に取り組む必要性を強調する。

 町議会議長で旧ロータリー地区の権利者だった田崎博美は「読谷や北谷とも将来的に合併は避けられないだろうが、嘉手納と合併しても駄目というふうになると嘉手納は生き残れない。合併するとしても吸収合併というかたちにならざるを得ない」と警告。「そういう危機感をもって将来のまちづくりに取り組むためにも、町外に転出した権利者からも『一緒に』という気持ちを引っ張り出すにはどうすればいいか、今から考えていく必要がある。そうでなければ自治体間競争にも負けていくと思う」と唱える。

 嘉手納町関係者が将来的に合併は避けられない、と口をそろえていることについて沖縄大学名誉教授の新崎盛暉(沖縄現代史)は「島懇事業による再開発は結局、一時のカンフル的な役割にすぎず、長期的な発展につながらないということ。あれだけ知恵を絞って、政府と駆け引きし、カネをとってきたはいいが、それが嘉手納町の将来にどう寄与するのか、クールに見据えないといけない」と訴える。

 嘉手納町の再開発について新崎は「むしろ負の教訓を残した」との見解だ。転出が権利者の8割を占めたことに、「補償費などを与えられ、もっといい生活ができるという判断で人々が移転を選択していったのだとすれば、結果的に防衛省が進めている爆音地域の移転補償や土地買い上げと変わらない。また、仕方なく離散していった人たちにとっては、地域のネットワークを破壊されたことになる」と指摘する。

 読谷村は本土復帰時の72年には米軍基地占有比率が73%に上ったが、「村ぐるみ」といわれたかつての反基地闘争も奏功し、現在は36%まで返還が進んだ。これと反比例するかたちで人口は増加の一途をたどっている。

 これに対し、いまだに83%を米軍基地で占められている嘉手納町は、再開発によっても人口が増加に転じる兆候は見られない。これは必然的に将来予期し得る合併にも不利な要素となる。

 嘉手納町と読谷村の対比から浮かぶのは、まちづくりに及ぼす基地の弊害だ。基地と引き換えの振興策で直接潤うのはひと握りの住民にすぎない。基地の維持を前提にどれだけ巨額の国庫を引き出しても、住民が行政任せの体質に染まってしまえば、「自治」や「協働」に欠かせないマンパワーは育たず、真の活性化にはつながらない。

 基地返還によってもたらされる「可能性」こそ、人々を惹きつけ、奮い起こす最も有効なまちおこしの活力源となることを両町村の人の流れが明示している。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](65)第3部 嘉手納方式
発注工夫し地元優先

 「ボーナスの公共工事」ともいえる島懇事業で、直接の恩恵を受けるのは事業を受注する建設業界だ。建設業界を支持母体にもつ多くの首長にとって、島懇事業でどれだけ大きなパイを奪取できるかは、まさに力量が問われる局面だった。

 宮城篤実は総事業費の4分の1という断トツの事業費を確保しただけでなく、再開発事業の着工段階で確実に地元業界が潤うシステムの確立にも手腕を発揮した。

 宮城が「町施行」にこだわった理由について、町建設部長下地朝一は「ゼネコンを排除するためだった」と説明する。「再開発の恩恵を町全体に」という宮城の方針に従った結果、再開発に関する工事は「嘉手納方式」という独自の業者発注システムが生まれた。

 下地は宮城から「外観にこだわらなくていい。設計から地元の業者が参入できるように」と指示を受けた。基本設計から地元業者に優先受注させることで、特殊な技術力をもつゼネコンにしかできないような工法やデザインをあらかじめ排除する狙いだ。この地元優先発注のための指名競争入札が「嘉手納方式」だ。

 町によると、同町内には、特Aランク業者が4社、Bが1社、Cが1社、Dが6社の計12社の建設業者がある。例えば、特Aランクの工事は地元4社を含む8社を選定する。仮に9社以上を指名した場合、町外業者が過半数を占める。そうなると、町内業者が入札の主導権を握れなくなることを念頭に置いたものだ。町が町外業者の指名を排斥するわけにはいかないため、指名には入れる。ただし、町内より町外の業者を多く指名することはしなかった。町にはランクによって指名業者数を規定する「指名基準」が設定されていなかったため、ある程度町の恣意的な裁量を差しはさむ余地があった。無論、どの業者が落札するかについて町は関知しない。が、結果的には「9割ぐらいは町内業者が応札したので、よそからは『嘉手納方式』と言われるようになった」(下地)。

 零細のDランク業者が6社と多いのも町の特徴だ。このため、大手だけに仕事が集中しないよう、特AにDランクの業者を組み合わせるJV(共同企業体)の設定パターンを多用した。本来、特AとのJVは、技術力の近いAかBランクと組ませるのが常識だが、これにこだわらず、町内のDランク業者に仕事が回るよう、あえていびつなJVをリクエストした。

 この結果、再開発事業の工事のうち、町外業者の受注は約1割にとどまった。また、県外業者は1社も指名せず、大手ゼネコンは一切工事にからむ余地がなかった。「町長と私に相当なプレッシャーがかかったが、ゼネコンは入れなかった」と下地は胸を張る。再開発事業の専門的知識がなかった下地は、町が委託したコンサルタントを最大限活用することで課題をこなした。

 下地は「コンサルに使われるかたちになると、ゼネコンが入ってくるような設計にノーと言えない。再開発のことが分からなくても、施設局で補助事業を20年経験した手前、コンサルの使い方は分かる」と明かす。専門的知識をもつ東京のコンサルは、たいていは大手ゼネコンと提携している。このため、コンサルは地元業者ができない高い技術力を要する開発計画を採用したがる傾向がある。「ほっておいたら、彼ら(コンサル)はゼネコンの図面を書いてくる」(下地)。コンサルに「これが常識です」と言われても、下地は「嘉手納の常識ではない」と突っぱねた。コンサルの提案をうのみにせず、宮城の意思に沿うかたちで修正を促すのが下地の役割だった。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](66) 第3部 再開発の明暗
くすぶる業者の不満

 「国の補助で再開発を行い、建設した施設や土地を町所有にし、国から家賃を取る。そんなシステムはわが国で唯一ではないか」

 宮城篤実が自賛する嘉手納町の再開発事業。総事業費の9割に当たる約155億円を国庫で賄った上に、主要テナントの沖縄防衛局が毎年億単位の家賃を支払う―まさに至れり尽くせりの事業システムだ。それでも、これに飽き足らない宮城は町内の分配益アップを図るべく、防衛局のテナント料についても「嘉手納方式」を要求する。

 町建設部長下地朝一は、宮城から「防衛局には那覇から業者を連れて来させるな。すべて町内の業者を使わせろ」と指示を受けていた。

 町は鑑定で1平方メートルあたり平均2000円の単価をはじき出していた。これに基づけば、防衛局から最大2億2000万円のテナント収入が得られる換算だ。ただ、この場合、防衛局は国の規定で委託業者をすべて一般競争入札で決めることになっている。そうなると、競争力の弱い町内業者が入り込む余地はなく、維持管理にかかる清掃、警備などを請け負うのはすべて町外業者となる可能性が高くなる。

 そこで下地は防衛局と折衝を重ね、一部の床を町の占有とする手法を編み出した。例えば、業務機密にかかわる職員の執務室の床は防衛局占有とするが、廊下や階段、食堂、売店などは町占有とし、防衛局からは共益費のかたちで別途徴収する。これにより、町が随意契約で町内業者に清掃や警備業務を発注できる仕組みが整った。同様に、食堂は町母子寡婦福祉会、売店は町社会福祉協議会に、それぞれ町が運営を委託している。

 防衛局の占有面積が減ったことで、町が国から得るテナント料は年間1億9000万円となったが、警備や清掃など約3300万円分の業務を町内で確保することに成功した。

 しかし、町内でも再開発工事や防衛局移転の恩恵に授かるグループは限定され、明暗は分かれている。

 町商工会加盟の建設業者数(電機・水道関係などを含む)は2000~07年は70~80台だったが、08年以降は潮が引くように53社まで減少。町商工会によると、建設業者は再開発関連工事の需要を見込んで町外から一時的に移転し、工事終了に伴い、町外へ撤退した。全国的な公共工事の減少に伴い、廃業も数社に上るという。

 こうした中、「再開発工事で潤ったのは規模の大きな元請けのみ」との不満も町内にくすぶっている。

 再開発や防衛局移転を契機に、町内の商店街を束ねて昨年5月に発足した嘉手納ニュータウン商栄会の会長安森盛雄は「町内優先発注システムで実際、町内の建設業者は潤い、つぶれそうな会社も生き延びた。しかし、下請け業者はどうだったか」と提起する。「元請けとして受注した町内の建設業者は、発注する側になると必ずしも町内業者を優先せず、下請けをとことんいじめて利益の上がらない数字をつきつけてくる業者もあった。これでは不公平感が生じ、町内全体が潤ったという実感はわかない」と嘆く。

 町商工会は防衛局が移転した昨年4月、歓迎ムードを高めようと、「めんそーれ嘉手納町へ」と書かれたのぼり200本を通りに掲げた。

 「1年たってどうか。ほとんどの商店主は変わんないね、と言っている。再開発でリニューアルしたメーンの通り以外は今も閑散とし、空き店舗も出ている」(安森)。防衛局は職員が個人的に支払う飲食代などを除き、予算処理を伴うものはすべて入札で発注するため、「商店街として防衛局にアプローチできていない」(同)状況だ。

 安森は今、嘉手納基地と合同のフリーマーケットの定期開催を模索している。「あくまで商店街の活性化のため。嘉手納基地は有名。知名度のあるものを利用しない手はない」。藁にもすがる思いだ。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](67)第3部「超法規的」事業モデル
税金使途にいびつさ

 嘉手納町の再開発事業の中核施設であるビル2棟(6階建て地下1階)はフル稼働状態だ。宮城篤実は「借金を残すかたちのものは何もやっていない。まったく無駄がない」と誇示する。

 町は町民サービスにかかわる公共施設が入るビルを「ロータリープラザ」、沖縄防衛局がキーテナントのビルを「地域振興施設」と命名。ロータリープラザの中央公民館や子育て支援センターなどについて町は「町内に分散配置していた既存施設を集約してスクラップ&ビルドを図った」としている。

 一方、地域振興施設からは年間約2億円(沖縄防衛局1億9000万円、入管約730万円)のテナント料が町収入となる。再開発区域全体ではほかに、商業施設から年間約3000万円、計32戸の借家住宅の入居者からも家賃収入が町の懐に入る。

 今年3月の嘉手納町議会。宮城は後期高齢者医療制度の保険料均等割分の助成など町独自の福祉施策を打ち出した。財源については施政方針演説で「1億円を超える新しい施策の財源は沖縄防衛局を中核とする地域振興施設からの賃料収入を充てる」と明言した。

 だが、このアピールは会計検査院を刺激するものだった。施政方針演説前の2月10日、後期高齢者医療制度の助成財源について「島懇事業による沖縄防衛局の入居を柱とする嘉手納タウンセンター事業の収入を充てる」との町の見解が新聞報道で出た。町によると、この直後に会計検査院から連絡が入った。2月26日に町を訪れた調査員は「補助金でつくった施設で収入を得るのはおかしい」と注文を付け、関係書類の提出を求めたという。

 補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律(補助金適正化法)は7条(交付の条件)で「各省庁の長は補助事業等の完了により、補助事業者等に相当の利益が生ずると認められる場合においては、補助金等の交付の目的に反しない場合に限り、その交付した補助金等の全部または一部に相当する金額を国に納付すべき旨の条件を付することができる」と規定している。

 9割の国庫補助で整備した施設のテナント料として、政府機関から年間約2億円の利益を得ている嘉手納町の実態は、補助金適正化法の趣旨に照らし、問題はないのか―というのが会計検査院の調査員の着眼点だった。

 町は「地域の活性化という島懇事業の目的に資するかたちで運用しており、法的に何ら問題はない」と突っぱねた。町によると、調査員は「補助金の適正使用の観点から調査する」と会計検査院の立場を強調したが、町との間でそれ以上、踏み込んだやりとりはなかったという。

 嘉手納町の「超法規的」な事業モデルは島懇事業の中でも異形だ。会計検査院の指摘は、税金の使途をめぐる全国一律の物差しでは計れない嘉手納町のいびつさを図らずも浮かび上がらせた。過剰な基地負担とともに、地域限定の特例措置を政府から付与された嘉手納町は、沖縄の抱える矛盾の縮図でもある。

 普段は覆い隠され、町外から気に留められることのない嘉手納町のひずみが、いったん公の場で問題提起されたとき、その現実は国民にも県民にも重しとなってはね返る。

 県外の国民が嘉手納町の実態に触れることは、日本の安全保障が沖縄に依拠することで成り立っている「見たくない現実」と向き合うことになる。県民にとっても嘉手納町の今は、必ずしも自治の理想である自律や自立とは相いれない状況であることを認めないわけにはいかないのではないか。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](68)第3部 補助金の「進化」
市町村操るノウハウ

 島懇事業でメーンの再開発事業をもぎとっただけでなく、間接的とはいえ、事業利潤を福祉施策の充実に振り向け、その意義をはばかることなく公言してきた宮城篤実は、基地とリンクした政府補助金の付加価値を高めてきた先駆者でもある。宮城は1997年度から交付された普通交付税の基地関連経費傾斜配分も、嘉手納外語塾というソフト事業に充て、それをPRしてきた「実績」がある。

 政府も防衛関連補助金の「政策効果」を見逃さなかった。基地とリンクした政府補助金の使途緩和も島懇事業が節目となった。

 防衛関連補助金の「元祖」ともいえる特定防衛施設周辺整備調整交付金は、補助対象を「交通施設」や「教育文化施設」「社会福祉施設」など公共施設に限定してきた。島懇事業はこうした制限を一切取り払い、「雇用機会の創出」「経済の自立」といった懇談会の趣旨に沿えば、あらゆる事業を起案することができた。

 これを踏襲するのが北部振興策の「非公共分野」事業だ。ソフト事業も対象とする再編交付金は、基金に積み立てて複数年度の利用も可能になった。

 「使いやすさ」に磨きをかける防衛関連補助金への自治体の依存度は、必然的に高まる傾向にある。

 キャンプ・ハンセンの陸上自衛隊の共同使用を容認し、再編交付金を得た3町村のうち金武町は学童保育の拡充などに充当。宜野座村、恩納村も村民の健康づくり助成事業など福祉や教育分野に充てている。

 キャンプ・シュワブ沿岸部への普天間代替施設建設受け入れの代償として再編交付金を受け取った名護市は、救急ヘリの運航再開に向けた運営補助金としても活用している。

 琉大教授島袋純(政治学)は市町村が困っているところに手が届く防衛関連補助金の「進化」に警鐘を鳴らす。

 国民の健康で文化的な生活を保障する責務は国にあるとされ、基本的には法律で国の財政支援の基準や内容が明示されている。自治体はそれを基盤とし、福祉・教育分野の事業については本来、安定した財源を確保しなければならない。にもかかわらず、防衛省の胸三寸で停止もあり得る不安定な再編交付金に依拠し、防衛省の顔色をうかがって福祉政策などを維持していく自治体のありようは、行政の施策の進め方として極めて不健全であり、市民への責任も十分に果たせない、と島袋は問題視する。

 再編交付金は、防衛相が交付対象となる市町村を指定。進ちょく次第では減額し、ゼロとすることもできる。「米軍再編への賛成が遅れるほど総額が減る仕組み」(防衛省幹部)だ。

 防衛関連補助金をまちづくりに積極活用してきた宮城の政治手法について、沖縄大学名誉教授の新崎盛暉(沖縄現代史)は「見方を変えれば、政府に踊らされ、結果として政府に対応モデルを提供したのでは」とみる。

 政府は島田懇談会で、基地所在市町村にピンポイントでアプローチする政治的意義を見いだした。この沖縄での成功体験が、効果的に市町村を操る再編交付金へとつながっている、との見解だ。「政府の方がはるかに上手。基地所在市町村を手玉にとるノウハウを蓄積された」と新崎は指摘する。

 米軍再編で空母艦載機移転が浮上した岩国基地を抱える山口県岩国市は、住民投票で反対が約9割を占めると、SACO交付金を凍結され、市庁舎建設工事の中断に追いやられた。「兵糧攻め」によって有権者の民意を反転させた政府はその後、新市長が容認を表明した時点でSACO交付金を復活、再編交付金の支給対象に指名した。

 政府が「先進地」の沖縄ではぐくんできた「アメとムチ」政策は本土に拡散、応用されている。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](69)第3部 島懇総括
財政圧迫の「重荷」へ

 かつて、内閣官房長官とともに沖縄開発庁長官も兼務した野中広務は、島懇事業についてこう評価する。

 「沖縄開発庁(現内閣府)が沖縄振興を自分たちのもののように考えるのは間違っておるし、行政的、財政的な考え方だけではいけないので、それぞれの市町村の首長あるいは住民の立場を考えて島田懇談会ができた。島懇事業の果たした役割は大きい」

 また、総事業費を最大1000億円としたことに関しては、「それはまあ、一つの『つかみ』でしてね。1000億円を下回るようなことを、当時の沖縄に言うことは政府の熱意を疑われるという気持ちがありましたからね」と振り返る。

 米軍基地に正面から「ノー」と主張し始めた「当時の沖縄」を鎮める政策意図から生み出された島田懇談会の果たした政治的役割は、その後の防衛省の基地政策の「進化」につながったという点からも確かに大きかった。

 ただ、経済の自立や地域活性化といった島懇本来の事業目的から成否を検証した場合、どうなのか。

 2008年11月、内閣府が島懇事業の「実績調査報告書」をまとめた。

 政府関係者によると、政権交代を見据え、野党が税金の無駄遣いをチェックする姿勢を強めていることも調査の背景にあるという。

 政治、経済情勢の変化に伴い、公共事業の費用対効果を問う民意は年々高まっており、安保政策と密接にからむ国策として実施された島懇事業も「聖域」ではなくなっている。座長の島田晴雄が事業費確保をめぐって財務省と折衝したとき、担当官が危惧した「(予算が)コロコロと垂れ流しになっていないか」が、国民の目にさらされる局面を迎えたといえる。

 島田は「沖縄の公共工事ってのは箱ものはできるが、中身がないから回らない。回らないからお客が来なくて赤字になって劣化するか、また予算をつけて同じ失敗を犯す。国は30年間、それを繰り返してきた。結局、建設費は本土のゼネコンへいき、沖縄には何も残らない。ドンガラ(胴殻)の廃虚みたいなものを繰り返しつくってきたのが沖縄支援の在りようだった」と従来の沖縄振興をばっさり斬るが、島懇事業はどうだったのか。

 島懇事業は、25市町村(合併により現在21市町村)から提案されたプロジェクト(38事業、47事案)を1997年度から実施し、2007年度で継続中の1事業(金武町のふるさとづくり整備事業)を除いて終了した。予算額は本年度までの累計で約836億円に上る。

 調査報告書は総括にあたる「今後の展望と課題」の項で、島懇事業の成果について「有識者の意見を聴取した結果、(中略)おおむね相応の成果があったと認められるとする評価が大勢を占めた」と結んでいる。

 しかし、この総括には違和感がぬぐえない。

 沖縄防衛局長真部朗は、08年7月5日に嘉手納町で開かれた島懇事業の完成式典の来賓祝辞でこう述べている。

 「(島懇事業は)必ずしもすべてが今、順風満帆というわけではないというふうに聞いております。いまだ事業の理想と完成された施設等の運営の現実のギャップを前にして苦心を重ねておられる自治体もないわけではないというふうに側聞しております。そのような中にありまして、嘉手納町におかれましては本事業の成果がすべて十二分に活用されているというふうに承知しております」

 福祉施策に振り向ける余剰金を生む嘉手納町のような「健全運営」を維持しているのは、島懇事業の中では例外に属する。自治体にとって「つかみカネ」の財源で手掛けられた島懇事業の多くは10年余を経て、財政面で地元を圧迫する「重荷」になりつつある。そのほんの一例を紹介したい。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](70)第3部 ギャップ
のしかかる財政負担

 「個別事業ごとにみると、稼働率や施設のさらなる有効活用、広域連携の必要性等の課題を有するものもある」

 「今後、事業によっては安定的に維持・発展させていくため、民間事業的発想に基づき、減価償却の考え方を取り入れた事業運営が、より一層求められてくるものと考えられる」

 内閣府の報告書のこうした指摘は具体的に何を意味するのか。

 島田晴雄は座長を務めた当時から「島懇事業は1回限り。一度のお金を知恵を絞って永久に使えっていうモデル。だから、これでずうっと回ってもらわなくちゃ困る。だからコンテンツが重要なんだ」と繰り返し唱えていた。「回ること」が原則だった。が、現実と理想のギャップは、維持管理や運営にかかる財政負担というかたちで自治体につけが回っているのが実情だ。

 予算額約17億8000万円で整備したうるま市の「きむたかホール」は当初計画で維持管理などにかかる歳出を2838万円とし、ホール稼働率58%と見込んでいた。が、稼働率は25%(02年度)~65%(05年度)と変動が激しく、07年度は44%。歳出はオープンした01年度から04年度までの間は3470万~3930万円の幅で推移し、当初計画を大幅超過した。05年度以降は人件費や光熱費の抑制に取り組み、2450万円(05年度)~2190万円(07年度)で推移。それでも年間2000万円前後は自治体の一般財源からの補てんに頼らざるを得ない状況だ。本年度は3000万円近くを計上しており、同ホールが開業した01年度以降の自治体財政からの補てん総額は、2億円を超える見通しだ。

 うるま市は05年の合併後、石川市、具志川市、勝連町、与那城町の旧4市町の島懇事業を継承した。この結果、同市は「箱もの」4施設の運営や維持管理にかかる負担も抱えることになった。4施設の運営管理費は08年度の単年度実績で8300万円余に上る。

 このうち、市直営の「舞天館」(旧石川市)と「じんぶん館」(旧具志川市)については管理運営コストの縮減を図るため、今年4月から指定管理者制度を活用し、民間への運営委託に切り替えた。今後は運営状況を見ながら、市の管理委託料を漸次削減していく方針だ。

 しかし、民間委託で運営が飛躍的に好転する保障はない。

 予算額約21億8000万円で整備した第三セクターの海洋療法施設「かんなタラソ沖縄」の年間利用人数はオープンした03年度に17万5546人だったのが、08年度は11万4831人に漸減。宜野座村は2500万円の出資金に加え、06年度に1250万円、07年度に2010万円、08年度に1500万円を追加増資し、08年度現在の村の出資額は計7260万円、出資比率は66%に達している。

 島懇事業の「優等生」とたたえられる嘉手納町の再開発事業も、個別の採算を精査すればシビアな数字が浮かぶ。町の公共施設が入る「ロータリープラザ」の管理・運営にかかる歳出は08年度実績で約2億1200万円に対し、歳入は約1100万円にすぎない。この中には、温水プール付きの健康増進センターなど再開発後に新設された施設の運営にかかるコストも含まれている。こうした事業全体の採算をカバーするには「防衛局の入居」という後ろ盾抜きには成り立たないのが現実だ。

 公共施設に限定した特定防衛施設周辺整備調整交付金などの補助事業とは異なり、「経済の自立」を標ぼうする島懇事業を検証するのであれば、採算性という尺度は必須だろう。

 しかし、内閣府の報告書は各事業の「事業実績」については利用人数の推移などのデータを添えて紹介しているが、運営維持や管理委託にかかる自治体の「財政圧迫」に関する具体的な金額には一切触れていない。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](71)第3部 自治体の本音
報告書の内実に疑問

 内閣府の島懇事業に関する実績調査報告書は「現時点で十分な成果が上がっているかとの観点から客観的な検証を行うこととした」と調査の趣旨を説明している。が、果たして「客観的」な調査だったのかについては疑問が残る。

 報告書によると、調査方法は各市町村に作成を依頼した調書などに基づき、自治体の実務担当者からヒアリングしたほか、「座長であった島田晴雄氏をはじめ事業の背景や経緯にも詳しい外部有識者から、事業全体を俯瞰して市町村の活性化・閉塞感の緩和等の状況について評価意見を聴取し、内閣府の責任においてとりまとめを行った」とある。

 しかし、巻末所収の「有識者等の主な発言」に目を通すと、「評価意見」のメンバーは島田、岡本行夫のほか、内閣府政策統括官(沖縄政策担当)の原田正司、内閣内政審議室沖縄問題担当室長や内閣府沖縄振興局長、政策統括官を歴任した安達俊雄、琉球放送会長の小禄邦男、沖縄振興開発金融公庫理事長(当時)の松田浩二の名が連なる。「外部」は小禄、松田を指すと思われるが、それ以外は島懇関係者の「身内」で占められているといっても過言ではない。

 ここで島田は「平均値というか、全体像で見れば見事に事業目的は達成されているし、産業効果も大きいし、将来へのいろいろな効果も大きい」と自画自賛ともいえる総括をしている。

 だが、調査に客観性をもたせるには本来、第三者によるチェックが前提だろう。報告書をとりまとめたのが島懇事業の政府側窓口の内閣府沖縄担当部局である以上、報告書の内容に我田引水な面が生じるのは必然といえる。

 市町村関係者からは実際、こんな本音も聞かれる。

 「地元は何のプランもないのに、ある日突然、予算を割り振られ、何か事業をやれと言われた。事業継続中の道半ばで島田懇談会は解散したが、事業は残された。懇談会としては報告書もつくって事業も芽だしできたから、失敗するも成功するも、後は首長次第という立場だろうが、自分たちで審査しておきながら、という思いはある」

 「島田懇談会はこの事業が当初計画通りできていれば失敗はないという前提だが、自治体は事業申請する際、とにかく『集客に努力する』と言わされている。そう言わないと、事業採択してもらえなかったからだ」

 「事業は住民でつくる『チーム未来』の要望を受け、首長が選択したが、上がってきたのは箱ものばかり。これまでの沖縄振興で箱ものをつくったはいいが、維持管理費がもたないということで箱ものはやらないと当初言っていたにもかかわらず、結局ほとんどが箱ものになった」

 「より多く、よりいいものを、と欲張った自治体ほど維持管理コストで財政を圧迫し、きゅうきゅうとなっている」

 こうした苦言は「予算を配分してもらう側」の自治体担当者が、国の官僚らに面と向かって口にできるセリフでないことは容易に察せられる。

 島懇事業の大半が「採算性」の観点からは及第点に達していない。しかし、この要因のすべてを自治体など地元の「努力不足」に帰結させるわけにもいかないだろう。もともとの計画に無理があったのだとすれば、事業を審査する島懇委員や予算を拠出した政府側にも問題があったことになる。

 こうした根本に触れることのない内閣府の「報告書」は、国と地方の関係が対等とは言い難い地方分権の未成熟さや、税金を「使う側」が使途のチェックを行う矛盾と限界を露呈している。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](72)第3部 チーム未来
「事業ありき」形骸化

 島懇事業をめぐっては、総額1000億円という「お上」が設定した枠内で、県内の自治体が予算の「分捕り合戦」に踊らされる側面もあった。

 内部文書によると、内閣内政審議室は当初、基地占有率10%以上の16市町村を対象に、計800億円程度の配分額を設定。残りを予備費とし、16市町村の計画変更や基地占有率の低い9自治体の事業に充てる方針だった。

 この「予備費」をものにしようと、攻勢をかける自治体もあった。10億円単位の事業計画の変更は、事実上、島懇委員や内閣内政審議室の裁量に委ねられていた。

 ある自治体関係者は「基地を維持するためという懇談会の意図は透けて見えたが、こちらとしては予算獲得のまたとないチャンスだけに懸命にならざるを得なかった」と当時を振り返る。

 宮城篤実が折に触れて岡本行夫や梶山静六の援助を活用したように、事業の追加や認定をめぐっては、最終的に政府中枢とのパイプがものをいう局面も存在した。

 島田懇談会の舞台裏で繰り広げられた、こうした政治的な駆け引きと対極にあるのが、「チーム未来」の設置だろう。

 公募に応じた住民でつくる「チーム未来」が首長に事業提言するスタイルは、座長島田晴雄が「プランから(市民が)入っている例というのは、沖縄が最初の例だといえると思う」(内閣府の報告書より)と胸を張る手法だ。

 「自分たちの将来は市民の手で決めるべきだということでチーム未来を担ぎ出した。今までは国からお金がくる、市町村が受ける、ゼネコンが入ってくる。僕はそれを全部否定したんだよ。チーム未来をつくっていないところは島懇事業の予算はつけないと言ったんだ」

 しかし、島懇事業のメーンである嘉手納町で、チーム未来は島田の企図したようには機能しなかった。

 嘉手納町ではチーム未来の発足前に、目玉の再開発が事業採択され、「後付け」のマルチメディア事業も有識者懇談会や内政審議室主導で推進されたのが実情だ。

 「嘉手納は再開発を採択した後に、チーム未来をつくって議論しろとなったから、まったく無意味。形骸化し、中身もパンクしてしまった。再開発をやると決めているのに、議論しても成果がないのは当たり前」(町関係者)だった。

 宮城は「嘉手納は事業の方向が出来上がっていたから、チーム未来には事業内容を説明し、結局はそれを追認してもらう形になった。それ以上のものがチーム未来からは出てこなかった」と打ち明ける。宮城は他市町村の状況についても、「必ずしもチーム未来が成功しているとは思えない」との認識だ。

 市民の「協働」の姿勢を引き出し、多様な意見を採り入れようとする「チーム未来」は、理念として文句のつけようがない。ただし、島懇事業が結果的に似たような「箱もの」のオンパレードとなり、採算がとれず維持管理に自治体財政が圧迫されている現状を見る限り、事業の質や熟度を高める上で万能だったとは認め難い。

 島田は内閣府の報告書で自ら島懇事業の本質を明かしている。「単に数字だけではこの事業の意味が分からないということがある。特に質的なことがとても重要で、何のためにこういうことをしたのか」。その解はこうだ。「大げさに言うと、日本の安全と平和と世界の平和にもかかわることなので、非常に大きな意味を持っている」

 平たく言えば、日本の安全、ひいては世界の平和を担う沖縄の米軍基地を安定的に維持する目的を負った事業であるから、単に税金の効率的運用という視点でとらえてくれるなよ、ということだろう。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](73)第3部 箱もの
描けない 自立・雇用

 市民協働型の「チーム未来」の設置や有識者が計画段階から関与した島田懇談会は、従来の沖縄振興とは異なる先進的な事業を手掛ける意識が強かった点は認められるものの、「それが結実したとは言い難い」というのが琉大教授島袋純(政治学)の見方だ。

 「最初から予算が決まっていて、費用対効果に関して厳格な審査もなく、結果的にばらまきと変わらない状況になった」と指摘する島袋は、7年間で総額1000億円という「予算ありき」「事業ありき」の島懇事業のスタイルが、「期限内に予算を消化する」従来型の公共工事の域を超えられなかった主要因とみる。

 島袋は「大田県政は沖縄の基地の整理・縮小を国政レベルで争点化させる構造的な仕組みを模索し、沖縄主導で基地問題と振興策をリンクさせて議論する沖縄政策協議会などの発足につながった。が、政府は振興策を政府主導で推進することで、沖縄が基地問題でも抗えないようにした」と解説。政府主導の振興策と沖縄側が求めた基地問題をリンクさせることによって、いずれも沖縄の地域内部の問題として押さえ込み、国政の政治的議題に上らせないように非争点化していくシステムを島袋は「利益還元政治の制度化」と定義し、「そのきっかけとなったのが島田懇談会」と位置付ける。

 こうした背景から島袋は、島田懇談会の真の目的が「沖縄の基地の安定維持や再編強化」にある点を強調。このため、事業内容を精査することよりも目に見える即効的な成果に重点が置かれ、「結局ある程度甘い事業計画も盛り込むことになり、従来の補助事業とたいして変わらないものになってしまった」とみる。しかし、こうした事業でつくられた「箱もの」の維持管理コストに対する補助はないため、「再編交付金など用途を問わない補助金を自治体が要請する現在の動きへとつながっている」と分析する。

 沖縄の基地を維持できるのであれば、地元がどんな補助金の使い方をしても無駄遣いではないという感覚が政府にはある。基地政策の「アメ」として振興策が活用されてきたことが、沖縄の自治体運営の足腰を弱くしている、と島袋は危惧する。

 一方、元内閣府沖縄総合事務局調整官で琉大と沖縄国際大で非常勤講師を務める宮田裕(地域開発論)は沖縄振興の構造的な欠陥要因として「箱もの」の弊害を強調する。「基地所在市町村の財政は基地交付金、島懇事業、北部振興策で『箱ものづくり』がなされてきたが、維持管理などのランニングコストで市町村財政は硬直化し、地域は閉塞感から抜け切れていない。基地とリンクした振興策で沖縄は豊かになれない」と唱える。さらに「基地受け入れのパフォーマンスとして目に見える『箱もの行政』を必要としたのはむしろ政府側ではなかったのか」と問題提起している。

 沖縄振興について宮田は「沖縄総合事務局が発注する公共事業費の約5割は県外業者が受注し、沖縄への財政投資が本土に還流する『ザル経済』を構築しており、政府の沖縄政策の目玉とされる『本土との格差是正』や『自立的発展の基礎条件整備』のために投下された振興開発事業費は経済自立には結びついていない」と指摘。沖縄県の歳入総額に占める地方税収入の割合が、他都道府県に比べ極端に低い点などを挙げ、「政府による沖縄振興開発の財政資金は、途上国援助として投入される政府開発援助(ODA)同様、大半が日本(本土)企業の受注で日本(本土)に還流しており、『ODA沖縄版』になっている」と解説する。

 島懇事業についても宮田は「10余年を経過して地域は潤っていない。『箱もの』ばかりが目立ち、経済の自立や雇用機会の創出などの事業目的は達成されず、将来の展望は描かれていない」と現状を嘆く。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](74)第3部 機能強化
権限及ばず 騒音倍増

 島田懇談会は1996年11月の提言で沖縄の基地について「米軍基地の整理・縮小を引き続き推進することが基本的に重要であり、この点についての日米両国政府の継続的な努力を期待したい」と付記。2008年11月の内閣府の報告書でも「日米安全保障体制により、我が国の平和と安全が確保され、国民が等しくその利益を享受しているが、その負担は沖縄のとりわけ基地所在市町村に集中している。国においては、このような実情にあらためて思いを致し、この基地負担を軽減すべく、その整理・統合・縮小に向けて取り組む」必要に言及している。

 しかし、振興策をとりまとめる島田懇談会が、「基地の整理・縮小」に沿った理念を掲げたところで、その実現にどれだけの意味があったのか、となると議論は別だ。

 最重要かつ喫緊の課題とされた普天間飛行場の返還は日米合意から10年余が経過した今も実現せず、市街地上空でのヘリ運用が続いている。SACO最終報告に基づく返還を見越し、米海兵隊ギンバル訓練場跡地に島懇事業の中核施設配置を計画した金武町の「ふるさとづくり整備事業」は、「移設条件付き」のため返還合意が遅れ、緒に就いたばかりというのが実情だ。

 基地の整理・縮小は「県内移設」条件が実現を阻む一方、嘉手納基地やキャンプ・ハンセンなど主要基地は米軍の統合運用や自衛隊との共同使用など機能強化が着実に図られている。

 特に在日米軍再編以降、普天間飛行場代替施設の「県内移設計画の順守」を盛り込んだ米国とのグアム移転協定締結など、政府の沖縄基地政策は地元の頭越しに強行するスタイルが定着している。

 半面、在日米軍再編で「負担軽減の目玉」とされた嘉手納基地のF15戦闘機の本土の航空自衛隊基地への訓練移転は「移転する機数よりも外来機の飛来が圧倒的に多く、基地運用の実態は負担軽減からほど遠い」(嘉手納町)現状だ。

 訓練移転は07年3月から始まり、今年2月までに計7回実施、延べ30機が参加した。町によると、同期間中、嘉手納基地への戦闘機など外来機の飛来は少なくとも126機に上り、騒音はかえって増加している。F15が訓練移転で県外に展開した延べ36日間のうち、24日間は06年度の騒音1日平均発生回数(109回)を上回る一方、土日祝日や地元が訓練中止を要請した高校入試の日を除き、平均を下回ったのは4日間のみだった。

 また、嘉手納基地には07年2月から約3カ月間、米空軍最新鋭のステルス戦闘機F22ラプター12機が一時配備。今年1~4月に続き、5月以降も一時配備され、ローテーション配備が恒常化している。07年12月と08年12月には米空軍と米海兵隊合同の即応訓練も実施され、岩国基地所属のFA18戦闘攻撃機やAV8ハリアー垂直離着陸攻撃機など約30機が飛来し、嘉手納基地を拠点に訓練した。

 町によると、沖縄防衛局が嘉手納町に移転した08年度の騒音発生回数は、同町屋良地区で3万9357回、嘉手納地区で2万3074回といずれも過去5年間で最多。騒音規制措置で飛行が制限されている午後10時~午前6時の嘉手納地区の騒音発生回数は1996年度の約4倍、前年度の約2倍に上った。

 沖縄防衛局の嘉手納町への誘致理由について宮城篤実は「職員が基地被害を日常的に実感することで対策事業に生かせる」としてきたが、移転後に騒音が増大している皮肉な現実を前に、「権限のないもの(町と沖縄防衛局)どうしでは意味がない。政府が動かないと」と嘆息するしかない状況だ。主に民生安定事業を担当する国の出先機関である防衛局のレベルで、米軍の運用改善にまで権限が及ばない内実は要請行動を繰り返す宮城自身、強く認識しており、ジレンマは募る一方だ。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](75)第3部 不公平感
抑止力強化で負担増

 日米安保と在日米軍基地の果たす役割を積極肯定する岡本行夫は「在沖米軍基地の本土移転は僕の信念」という。

 それはこんなロジックだ。

 1960年の新安保条約制定時に想定されていた「日本防衛」に、米国施政権下の沖縄は含まれていなかった。「日本防衛」に必要な「在日米軍」は本土に展開されていた部隊だけだった。ところが、72年に沖縄が返還されたとき、在沖米軍基地が大量に加わったかたちで「日本防衛」となった。「沖縄防衛」が加わったからといって、「日本防衛」のために、これほどの基地を沖縄に残す必要はなかった、と。

 この間、本来ならば沖縄の基地を優先的に減らすべきところを、実際には沖縄の基地削減は15%にとどまる一方、本土の基地は関東地方を中心に65%減った。この要因を岡本は「沖縄の政治力が弱かったせいもあるが、やはり本土と沖縄のバランスを考えなかったせいだと思う」と指摘する。

 岡本はこのアンバランスの解消を図る上で、沖縄に米軍基地が集中することを端的に表す「全国の在日米軍専用施設の75%」という数字を「どう減らすか」がポイントとみる。「75%をうんと引き下げる唯一の道は、沖縄の基地を減らし、本土の基地を増やす『行ってこい』の措置。だから、本土移転が必要」と唱える。

 さらに、これは決して非現実的な話ではない、というのが岡本の持論だ。

 「本土の過疎地域では地域振興のために『ぜひ自衛隊基地をもってきてほしい』という町や村が多数ある。それならば、地元を説得すれば米軍基地だって先入観が解ければ可能なはず。もちろん、長い時間がかかる話だが、たとえ10年かかっても、たとえ一部でも、基地を本土に移転するという方向性が国の方針として絶対に必要」

 岡本はこうした意見を当時の官房長官梶山静六に具申。梶山が主導した97年の「駐留軍用地特別措置法一部改正」の特別決議に、「日米安保条約の義務をわが国全体で果たすべく、沖縄への過度の負担の軽減を目指す」の一文が盛り込まれたのだという。

 岡本は「これは本土移転を促す画期的な文章。そのフォローアップは国としての使命」と断じる。

 宮城篤実も同様の見解だ。「在日米軍基地は必要という安全保障の現実を見据えた上で、沖縄の不公平感を取り除くため、本土とのバランスを図る必要がある。それが基地の安定維持につながる」。仮に現有の在日米軍施設が必要という前提に立つならば、在沖米軍基地の整理・縮小をスローガンとして唱えるだけでなく、本土側に受け入れも是とする「覚悟」が含まれなければ、宮城のようなタイプの地元政治家には「うたい文句」としか映らない。

 小泉純一郎は首相在任時の2004年10月、「国外・本土移転も考えていい」と述べ、在沖米軍基地の県外移転の可能性を模索する意向を首相として初めて打ち出した。しかし、本土移転については言ったきり、表立った政治行動に踏み出すこともなく、05年6月には「総論賛成、各論反対。自分の所には来てくれるなという地域ばかりだ」とあっさり断念した。

 岡本の働き掛けで改定特措法に添えられた一文もあくまで「努力目標」であり、今なお過剰な基地負担が続く沖縄からみれば「免罪符」でしかない。

 SACO(日米特別行動委員会)では在沖米海兵隊による県道104号越え実弾射撃訓練の本土演習場への分散移転が実現した。これは沖縄と本土の「負担バランスの是正」に主眼が置かれていた。が、在日米軍再編での嘉手納基地のF15戦闘機の本土自衛隊基地への訓練移転は、「沖縄の負担軽減」を名目にしているものの、真の狙いは「日米の軍事融合の促進」にある。アジア太平洋地域の「抑止力強化」方針の下、沖縄の負担感は在日米軍再編以降、むしろ増大しているのが実情だ。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](76)第3部 鶏口牛後
安保のまち こだわる

 宮城篤実は1998年11月の知事選で初当選した稲嶺恵一から副知事就任を請われている。

 稲嶺は同年12月、2度にわたって宮城に電話で副知事就任を打診したが、宮城は「今の立場で県政を支えたい」とかたくなに固辞したという。

 稲嶺は当時の経緯について「副知事を誰にするかというときに、稲嶺お前は経済は詳しいかもしれないが、基地問題とか政治は分からない。分かる人に(副知事を)させなさいというんで、宮城さんを最初の副知事候補にあげたんです」(2008年7月5日の嘉手納町の島懇事業完成式典祝賀会あいさつより)と告白している。

 一方、宮城は「その場で断った。一度も思わせぶりな態度は見せず、心が揺れることもなかった」と打ち明け、「私の人生のテーマは日米安保という極めて高度な政治的要素を抱えた嘉手納町。ぼんやりしていたら、この町の首長は務まらない。これだけ凝縮されたやりがいは県政にはないと考えた」と振り返る。

 町域の83%を基地で占められた嘉手納町のトップとして政府や米軍との折衝に当たり、町益の確保に使命感と生きがいを見いだす宮城は「安保のまち」の町長にこだわった。

 「鶏口牛後という言葉もあるが、小さくても自治体の首長として、という思い、自治へのこだわりはある。今も首長より副知事が偉いとはまったく考えていない」と吐露する。

 一方、知事時代の稲嶺のブレーンの一人は「副知事は有能であると同時に、知事に忠実でなければならず、リーダーシップは不要。そうでないと知事がかすむ。しかし、宮城さんはそれとは対極のタイプ。周囲は勧めたかもしれないが、副知事就任が実現しなかったことが(稲嶺、宮城の)双方にとってよかったのでは」との見解を示す。

 宮城は自らの政治信条について「大事なのは、私がここで給料をもらっている以上はすべて、町民が何を考えているかを中心に判断するということ。自分の主義主張を唱えれば、結果的に町民の利益を妨害することになる」と持論を説く。

 宮城のこうした姿勢は基地行政に関しても、嘉手納基地の管理権の日本側への移管や基地使用協定の締結を求める政策となって表れている。

 「基本的に私にはプラグマティズム(実用主義)がある。高い理想を求めるのは大事だが、それは私の顔ではない。とても実行できない高い理想だけ言って、根本的な是か非かしか問わないやり方を私は選ばない」という宮城のスタンスに基づけば、「嘉手納町長である以上、今与えられている資格条件の中で私がやりこなせるのは何かと設定したときに、例えば基地の即時全面撤去とか日米地位協定の全面改定を求めても少しも前進はないと思う。今生きている人々の生活改善への責任を果たすという意味では、基地使用協定というかたちを次善の策としてもちだす」のも理の当然となる。

 宮城は嘉手納基地司令官や防衛省との交渉を重ね、民間地域への騒音や水しぶきの被害が問題化していた嘉手納基地内の洗機場の移転を昨年9月に実現させた。この例を挙げ、宮城は「こういう現実的手法による動かし方もある」と主張する。

 同じ県内の基地所在市町村の中でも、新基地建設が計画されている名護市や、基地返還が日米で合意されている宜野湾市とは異なり、騒音などの実害を常時及ぼしながらも、「近い将来は返還されない」という暗黙の前提条件が付与されている嘉手納基地を抱える嘉手納町。基地の存在は認めた上で基地被害を盾にした政府との駆け引きの中で現状改善の「実」を得ていく宮城の政治手法は、町の置かれた特殊な環境によって培われたともいえる。

 稲嶺やそのブレーンもこうした宮城の手腕をかい、副知事就任を求めたといえるだろう。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](77)第3部 自治とは
問われる経営の「質」

 宮城篤実が愛用している色あせた手提げかばんは約20年前に県町村会の互助会で配布されたものだという。

 宮城は「この安っぽいかばんで、これまで1000億円以上のカネをわが町に運んできている」と冗談を飛ばすのが口癖だ。今も上京の際、たいていは事務方を従えず、このかばん一つで出張するという。

 宮城は基地被害を人質に国から最大限の「代償」をもぎとる一方、町運営にあたっては2003年度から特別職の助役と収入役のポストを廃止するなど大胆な行財政改革も断行してきた。沖縄の自治をリードしてきた政治家宮城の手法に落とし穴はないのか―。

 琉大教授の島袋純(政治学)は「問題は声なき声も含めて本当に社会のニーズに対応しているのかどうか。充足した自治の仕組みを(宮城が)つくれたのかと問われれば、私はこのやり方では逆に後退していくと思う」と指摘する。

 具体的な問題点として「基地関係の補助金は恩恵に授かる人と、ほとんど利益にならない人の差が極端に分かれる。そうなると社会的連帯が育たない。どうやって国からの予算を極大化するかという発想しかない自治体の住民には、自治体からどれだけお金をもらうかという発想しか出てこない。その中で利益を受けられる人は限られてくるため、社会的連帯は崩壊し、互いに支え合う雰囲気がなくなり、暮らしにくいぎすぎすした社会になる」と主張。同様に県全体でも「現実問題として沖縄の自治権は極めて制約され、軍事的な目的に自治が従属する状況に直面している。経済や財政の危機から、基地によってどうにか利益を得ようとする側とそれを拒絶する側とで地域社会は分断され、社会的連帯を大きく失っている」と警鐘を鳴らす。

 予算縮小に伴い、自治体の経営の質が問われるこれからの時代は、住民目線で政策を形成する手法や住民参加のプロセスを育てていくやり方が必要、と島袋は唱える。

 島懇事業の投資が続いた02年度から06年度の財政に占める基地依存度を調査した元内閣府沖縄総合事務局調整官で大学非常勤講師の宮田裕(地域開発論)は、基地依存度の高い自治体として嘉手納町、宜野座村、金武町を挙げ、「これらの市町村は基地収入が税収の2倍を超えており、基地収入がないと予算が組めない、基地との共存連鎖を断ち切れない構造的な問題を抱えている」と分析する。

 03年8月の北谷町、嘉手納町、読谷村の合併問題研究会の報告書の中でも、嘉手納町の財政状況に関し「現在の各種住民サービスについては当面維持されるものと予測されるが、本町財政が地方交付税、基地交付金等の依存財源に頼る構造となっているため、国による財政改革の推進により、これらの大幅な見直し、縮減が行われるようなことがあれば、今後の財政運営に及ぼす影響は大きい」と提起されている。

 国からの補助に依存する自治が正常ではないことは宮城も承知している。

 宮城は自らの理想の自治の姿と現実の落差を認めた上で「嘉手納は土地も、魅力ある観光資源もない。あるのは被害だけ。こんなところでまちづくりをするには、知恵を絞って普通の自治体とは別の手を打つしかない。(基地から派生する国の補助金は)いただいているという気はまったくない。代償として国はこれまで支払うべきものを支払わなかった。支払えと要求する人がこれまでいなかったにすぎない」と断じる。

 負担に対する「報い」があるのは当然かもしれない。しかし、その報いは、ときに本質を覆う毒にもなる。問題の本質である全国の米軍専用施設の75%が集中する沖縄の過重な基地負担に政府はほとんどメスを入れず、ひたすら振興策にすり替えてきた。こうした政府の政策手法が、本当に「沖縄のため」だったといえるのか。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](78) 第3部 動かせない基地
振興策 一時の緩衝剤

 沖縄大学名誉教授の新崎盛暉(沖縄現代史)は、政府から最大限の「アメ」を導き出す宮城篤実の政治力の背景には、「沖縄の民衆の反対運動があった」と指摘する。

 新崎の見方はこうだ。1995年の米兵事件を契機とする沖縄の民衆の反発に突き動かされるかたちで、知事大田昌秀も代理署名拒否の決意を固めた。その結果として対応に追われた政府が、沸騰する沖縄世論を抑え込もうとする知恵の中で生まれたのが、沖縄政策協議会であり島田懇談会だった。

 基地所在市町村の閉塞感の緩和を掲げる島田懇談会の本質は「どうごまかしていくか」にある。基地の整理・縮小という根源的な解決は避けつつ、基地とどう共存させていくかという政府側の課題と向き合ったのが、「動かせない基地」を抱える宮城だった。

 基地が動かないのであれば、そこからできる限りの実=カネを得ようという宮城の論理と、政府の都合が絶妙のタイミングで符合した。

 こうした流れに沿って、宮城の政治力を実効ならしめた梶山静六や野中広務には、沖縄に対する「贖罪の精神」を感じとる心理的なバックグラウンドはあったかもしれないが、「彼らは自民党としての国策を進めてきたにすぎない」との見解だ。

 95年の米兵事件を、沖縄と中央政府の関係をめぐる一つの転換点ととらえたとき、現在に至るまで沖縄側のメジャープレーヤーとして最前列でらつ腕をふるってきた宮城の政治手法について、新崎は「今後はあまり通じそうにない」と悲観的に展望する。

 「政府は米軍用地特措法の改定によって民衆のエネルギーを抑え込んだ。これにより、沖縄は軍用地問題を盾に政府と同じ土俵にのって闘うことが困難になった。政府はいったん抑え込んだら、カネはださない方向へとシフトしている」とみるからだ。

 「したたかにやらないと負の条件を押し付けられている沖縄、特に基地が集約されている嘉手納町などは生き残れない。(宮城の)全面返還要求も形式的な掛け声にすぎないと政府に見透かされている。自治体が基地撤去を求めても、制度としてのカネ(借地料や、米軍再編交付金を除く旧来の基地関連交付金)は確保できる。政府のカネも民衆の強い反発の声があるから、より多く引き出せるという側面もある」と指摘する新崎は、一方で「政府からより多くのカネを引き出したから成功したとはいえない。基地撤去を求め続け、少しずつでも返還させることと、どちらが将来への希望や周辺住民の満足度の向上につながるか。(宮城が)政府からとってきたカネで得たものは何だったのか、見つめ直す必要がある」と論じる。

 長い目でみて、沖縄の過重な基地負担を放置し、振興策にすり替えることで沖縄と本土の関係をよい方向に向かわせられるのかは疑問だ。ましてや島田懇談会が企図したように、「1回きり」の投資で、広大な基地を抱えることによる閉塞感や不公平感をそぎ落とすのには無理がある。

 今後も沖縄への基地の過重負担という政治的な火種を残したまま、一時の緩衝剤にしかならない振興策に多額の税金を注ぎ続けることが果たして「国益」にかなうのか―。しかし残念ながら、政府はそう認識しているとしか思えない。本土の過疎地に在日米軍基地を新たに確保することによって生じる政治的リスクや財政負担よりも、米軍に「免疫」のある沖縄など既存の基地所在市町村に押し付けた方が「安上がり」というのが政府の真意だろう。

 肝心の基地被害はむしろ増大する中、本来あるべき自治とは異なる現状に忸怩たる思いを抱えつつ、「ほかにどんなやり方があったのか」と問い掛ける宮城の言葉は、県民ひとり一人が向き合うべき課題を照射している。

 それは、こう問うのと表裏一体だろう。基地を担保にした国の振興策で、自分たちの生活は本当に良くなってきたのかと。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](79)第3部 「防衛町」
交流事業で浸透図る

 事業着手から11年が経過した2008年7月5日、嘉手納町の島懇事業の完成を祝う「竣功」式典が開かれた。同年4月に嘉手納町に移転した沖縄防衛局の局長真部朗は来賓祝辞で、同局の「移転効果」に対する地元の期待をくむように、こう宣言した。

 「今や私ども自身が本事業の一部と申し上げてもよろしいかと思います」
 真部は再開発事業の成否を握る「屋台骨」としての自覚を内外に示した上で、「今後とも周辺地域住民の皆さま方の生活と防衛施設との調和を図るとの基本的な考え方の下、関係住民の皆さま方の生活の安定と福祉の向上に寄与するための各種政策を講じてまいる所存であります」と表明した。

 防衛局は当初、宮城篤実の熱意に押され、受け身で嘉手納町への移転を決定したきらいはある。だが、移転後はむしろ「移転の意義付け」を積極的に図ろうとする傾向もうかがえる。

 移転から1年間を振り返って、「周辺住民の生活と防衛施設との調和を図る」方針に沿ったとみられる嘉手納町内での事業例を紹介する。

 今年3月7日。沖縄防衛局が入居するビルの前にある嘉手納ロータリー広場で、同局主催の「日米スポーツ・文化交流会」が開かれた。嘉手納町と嘉手納基地内の住民が障害物競走などのレクリエーションに興じたり、米軍関係者らを対象に三線講習も行われた。参加したのは町側109人、米側84人の計193人。開催目的について同局は「在日米軍施設を安定的に使用するためには米側と米軍施設周辺住民が相互に理解を深めることが重要との認識の下、嘉手納基地の米軍人やその家族と嘉手納町民がスポーツや文化を通じて交流を図る事業を行った」としている。

 防衛省は08年度から「在日米軍施設周辺地域の交流事業に関する調査」として約5900万円を計上。「米軍基地の安定的使用」を目的に、在日米軍関係者と基地周辺自治体住民の交流事業をスタートしている。

 08年度はモデル地域として嘉手納町のほか、三沢基地周辺の青森県三沢市と東北町、横田基地周辺の東京都福生市、横須賀基地周辺の神奈川県横須賀市の全国5自治体で文化交流事業を実施。09年度は約6200万円を計上し、開催場所などを検討している。

 嘉手納町での開催については08年度は試行とし、09年度以降は「参加者からのアンケートなどを踏まえ、検討する」としている。

 昨年12月5日。沖縄防衛局の入居ビルに隣接する「ロータリープラザ」の嘉手納町中央公民館2階大ホールで第3回防衛セミナーが開かれた。テーマは「国際テロを根絶するために~インド洋での補給支援活動~」。沖縄防衛局や外務省の担当職員が講演し、アフガニスタンに対する人道・復興支援の政策目的や意義を解説したほか、海上幕僚監部の援護業務課長が現地での体験談を披露。那覇市以外では初の開催となった同セミナーには約150人が参加した。

 極東最大の米空軍基地である嘉手納基地を抱える嘉手納町が日米安保を背負う「かなめの町」だからこそ、政府は巨額の国庫を注ぎ、嘉手納町の島懇事業を完遂させた。政府は同町へ移転した沖縄防衛局に、「安保の安定」につなげる役割をこれからも課し続けるだろう。

 嘉手納町内には今年4月1日、県内の米軍基地従業員の労務管理を行う独立行政法人駐留軍等労働者労務管理機構の那覇支部とコザ支部が移転統合した「沖縄支部」も発足した。同機構によると、沖縄防衛局との連絡調整や中部地域に基地従業員が多いことなどから、利便性を考慮し移転が決まったという。

 08年の嘉手納町3月議会。登壇した町議の一人は、こう警句を発した。「防衛局が嘉手納に来て、将来『防衛町』と呼ばれないような町政運営が必要」(敬称略)(中部支社・渡辺豪)

[国策のまちおこし・防衛局移転の真相](80)第3部 変革の兆し
評価・審判は次世代に

 神聖な儀式のようだった。真っ白なシートが外されると、しみひとつない壁に浮き出た、赤銅色の男たちの顔がスポットライトを浴び、一瞬破顔したように映った。

 今年5月16日。嘉手納町の再開発ビル「ロータリープラザ」のオープン1周年に合わせ、玄関ロビーで梶山静六、岡本行夫、島田晴雄の3人の上半身をかたどったレリーフの除幕式が行われた。

 「何らかの形でこの方々が汗をかいた事実を伝えないといかん」という宮城篤実の思いに、工事に携わった町建設業者会が、町に記念レリーフを寄贈するかたちで応えた。

 たて80センチ、横60センチのそれぞれのプレート内に収まる3体の彫像。胸元に生年月日や経歴が刻み込まれている。レリーフの内と外で時間が線引きされ、3人は嘉手納町の「歴史上の人物」として人々に記憶される資格を付与された。

 除幕式であいさつした宮城は「これをもって私どものタウンセンター事業は完結したという思い。しっかりとメンテナンスを続けながら、100年先まで後輩たちが使える象徴的な建物として活用してもらいたい」と後世にまちづくりの夢を託した。

 沖縄側に「宮城篤実」という地元政治家がいたことと、政府側に「岡本行夫」という懐刀が存在したこと、さらには、この2人の出会いが、内閣の最重要課題として「沖縄問題」が浮上した時期だったこと。この三つの偶然が重なり、嘉手納町に前例のないまちおこし事業をもたらした。

 1995年以降の沖縄の「自治モデル」を体現する宮城が、国との交渉を通じて町の歴史に残る偉業を成し遂げた事実について誰しも異論はないだろう。しかし、嘉手納基地は今なお騒音被害を増大させ、厳然と町の大部分を占めている。この現実もまた、沖縄の今を象徴している。

 宮城も、普通交付税の基地関連経費傾斜配分の配分額や普天間代替施設の嘉手納統合案をめぐって政府の対応に異議を唱える局面では、島懇事業や防衛局誘致との両立に苦しみ抜いた。振興策の恩恵が大きくなればなるほど、政府の基地政策に物言いをつけながら実を得るのは至難の業であることを、宮城のこれまでの足跡が雄弁に語っている。

 今後も国益と町益が重なる局面が続くとは限らない。国策の恩恵に授かる以上、国益の名の下に犠牲を強いられることを覚悟する必要がある。宮城が築いたまちづくりの礎に、次世代がそのままただ乗りできる確約はどこにもない。

 時代は今、地殻変動を予感させる過渡期にさしかかっている。未曾有といわれる地球規模の経済危機が、米国の影響力低下や多極化時代の到来を暗示している。日本国内でも政権交代や地方分権改革で旧来の官僚統治機構に変革の兆しがみられる。沖縄だけが時代に逆行し、地方分権の蚊帳の外に置かれたまま、というわけにはいかないだろう。

 外国軍隊の大規模駐留という特異な形態が長続きしないことは、世界の歴史が証明している。国際情勢や国内の政治事情の変化など、常に不安定な要素にさらされているのは在日米軍も例外ではない。

 在日米軍再編で、嘉手納基地とキャンプ・ハンセンの自衛隊との共同使用が盛り込まれた。いつか米軍が沖縄の基地を手放すとき、沖縄防衛局の役割は嘉手納基地などを自衛隊基地として存続させることにシフトする、とみるのはうがち過ぎだろうか。しかし仮にそうなったとき、将来の住民たちは基地関連収入の誘惑を断ち、国策に抗ってでも軍事施設と決別する道を選択できるだろうか。

 政府と嘉手納町の蜜月の証しともいえる3人のレリーフを、見えざる時代の手によって「国策のまちおこし」に導かれた人々の群像を、これから迎える激動の時代をくぐり抜けた人々はどんな思いで眺めることになるのか。評価の審判は次世代が下すことになる。(敬称略)(中部支社・渡辺豪)=終わり

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