2008年12月22日月曜日

【外交文書公開】 沖縄返還&核持込

<外交文書>米「核」寄港の容認を示唆 65年に佐藤首相
12月22日0時0分配信 毎日新聞
 
65年1月に佐藤栄作首相がマクナマラ米国防長官(肩書は当時)との会談で、核を搭載した米艦船の寄港を容認したと受け取れる発言をしていたことが、22日付で外務省が公開する外交文書で判明した。核の持ち込み問題で日米間に「密約」があったことをうかがわせる史料が、日本側にも残されていた。

 同月、首相として初めて訪米した佐藤首相は、13日にマクナマラ氏と45分間会談した。会談要旨によると、首相は中国が前年に行った核実験に触れ、「戦争になればアメリカが直ちに核による報復を行うことを期待している。(略)洋上のもの(核)ならば直ちに発動できるのではないかと思う」と述べた。マクナマラ氏は「洋上のものについてはなんら技術的な問題はない」と答えた。

 ただ佐藤首相は、日本の核兵器所有や使用には「あくまで反対である」と述べ、核兵器の日本の陸上基地への持ち込みは「発言に気をつけていただきたい」と否定的に語った。

 日米間の核問題に詳しい我部政明・琉球大教授(国際政治学)は、有事には日本近海での米軍の核搭載艦船の迅速な行動を佐藤首相が望んだと解釈できる、と指摘。これらの艦船が補給などで日本に寄港することになり、「首相は、核搭載艦船が事前協議の対象外として寄港することを前提に話したとみられる」と分析する。

 また会談でマクナマラ氏は、「日本がその防衛産業のなしうるような軍事的援助をアジアの諸国に与えることはできないであろうか」と、日本の武器輸出の可能性を質問。首相は、日本が生産していた宇宙開発用ロケットに言及して「必要があれば軍用にも使うことができる」と述べた。

 首相は「中共の核爆発の性質については昨夜(CIAから)説明を聞いた」とも発言。米中央情報局(CIA)が首相に中国の核実験の実態を説明していたことも判明した。首相がCIAに「ソ連、中共の地上設備」の衛星写真を示されたことは首相自ら日記などで記していたが、その一端が具体的に分かった。我部教授は「日本の情報収集力のなさを知る米国側は、国際情勢での首相の独断的な理解や不用意な発言をなくすため、CIAの情報を与えていた」と解説する。

 99年に公開された米側史料では、日米両国は60年の安保条約改定の前に、核兵器を搭載した米軍艦船の日本寄港などは、条約の付属文書で定める事前協議の対象としないと、秘密裏に合意していたことが判明している。

 佐藤首相は74年、非核三原則の提唱などが評価され、ノーベル平和賞を受賞した。

 ▽鈴木量博・外務省日米安全保障条約課長の話 日米間に「核密約」はない。佐藤首相の発言は、戦時において、洋上からの米の核抑止力の提供に一般的な期待を表明したものだと考えている。【鈴木英生】



【外交文書公開】核武装を「カード」にした佐藤首相の瀬戸際政策
2008.12.22 00:52 産経新聞

今回明らかになった外交文書は、佐藤栄作首相が「瀬戸際政策」を貫ける、わが国では希有(けう)な政治指導者であったことを、あらためて印象付けた。

 この瀬戸際政策の背景にあるのは、マクナマラ国防長官との会談3カ月前に成功した中国の核実験だが、これを機に米側に生じた「日本の核武装」への疑念を、佐藤氏は外交の切り札に利用した。佐藤氏が核武装を否定(私的には肯定)してもなお、米側は疑念を解かない。だからこそ、佐藤氏は、マクナマラ国防長官との会談前日のジョンソン大統領との会談で「核の傘」の保証を要請し、大統領に応じさせた。

 そして佐藤氏は、マクナマラ氏との会談で、たとえ通常兵器であっても、中国の日本に対する軍事行動には、「日本」ではなく、米国の核兵器で即時報復する方針を求めた。これは米側の懸念を逆手に取ったものだ。米戦略が明言されれば、これを中国側に認識させ、中国の侵攻を抑止することができるという計算が背景にある。

 実は、後の沖縄返還(1972年)に至る過程でも、佐藤氏は「核武装」を利用した。「核抜き・本土並み返還」を国民に約束する一方、米軍が沖縄を撤退すれば日本が核武装する雰囲気を醸成した。その結果、米軍基地・艦艇への「核持ち込み」と「核武装」は取引され、67年に佐藤氏が公表した「非核三原則」へとつながっていく。65年の段階で、マクナマラ氏に核持ち込み黙認を示唆したことは、その伏線であったといえよう。 

 「非核三原則」は、核兵器の「製造・保有・持ち込み」の禁止であった。その一つ「持ち込み」は積極的に黙認してきた。「非核」に加えて専守防衛という制約下では、他に国を守りようがないからだ。

 一方で「製造・保有」は佐藤内閣時代、関係組織で極秘裏に検討しており「はったり」ではなかったが故に、米国の譲歩を引き出すことに成功した。

 佐藤氏は「核武装論者」に限りなく近い「核の傘論者」であったのだ。

 核を「議論せず」を加えた「非核四原則」で、国は守れないことの歴史的証明である。(野口裕之)



【外交文書公開】戦時は中国に即時「核報復を」 佐藤首相が昭和40年に発言 マクナマラ米国防長官と会談時
2008.12.22 00:06 産経新聞

佐藤栄作首相が1965(昭和40)年1月、首相として初訪米した際のマクナマラ国防長官との会談で、中国と戦争になった場合には「米国が直ちに核による報復を行うことを期待している」と、先制使用も含めた核による即時報復を要請していたことが、22日付で外務省が公開した外交文書で明らかになった。


「瀬戸際政策」貫く 稀有な存在だった佐藤首相

 首相は「洋上のもの(核)ならば直ちに発動できるのではないか」と、核の持ち込み黙認とも受け取れる発言もしていた。首相が前日のジョンソン大統領との首脳会談で「核の傘」の保証を求めていたことはすでに明らかになっているが、先制核使用まで念頭に置いていたことが新たに分かった。

 マクナマラ長官との会談は、首相の宿泊先のブレアハウス(迎賓館)で行われた。首相は、日本は核開発能力を持つが核兵器製造の考えがないことを強調。米側に核の持ち込みに慎重な発言を求めたが、「戦争になれば話は別」と、米国が直ちに核で報復することへの期待を表明した。さらに洋上の艦船にある核兵器なら即時使用できるのではないかとの認識を付け加えた。


【外交文書公開】マクナマラ米国防長官とのやりとりの要旨
2008.12.22 00:30 産経新聞

佐藤栄作首相とマクナマラ米国防長官の主なやりとりは次の通り。

 長官 中国の核爆発(核実験)の性格が問題で、今後2、3年でいかに発展するかは注目に値する。問題は日本が核兵器の開発をやるかやらないかだ。

 首相 日本は核兵器の所有あるいは使用についてあくまで反対だ。技術的には核爆弾をつくれないことはないが、フランスのドゴール大統領のような考え方(独自の核兵器開発)は採らない。陸上への核兵器持ち込みについては発言に気を付けてほしい。もちろん、戦争になれば話は別で、米国が直ちに核による報復を行うことを期待している。その際、陸上に核兵器用施設を造ることは簡単ではないかもしれないが、洋上のものならば直ちに発動できるのではないかと思う。

 長官 洋上のものについてはなんら技術的な問題はない。日本の政治的な空気も漸次変わるのではないか。

 首相 日本が核兵器を持たないことは確固不動の政策だ。防衛産業育成の問題があり、差し支えないものは日本でつくりたい。


【外交文書公開】対中政策で仏に仲介要請 ニクソン訪中前に日本政府
2008.12.22 00:38 産経新聞

22日付で外務省が公表した外交文書で、1972(昭和47)年2月のニクソン米大統領訪中の直前に開かれた同年1月の日仏協議で、福田赳夫外相は大統領訪中後の明確な対中政策を示さない米国への苦言とも受け取れる発言をする一方、フランスに日中間の国交正常化の仲介を要請していたことが分かった。

 福田氏は中国をめぐる日米の「アプローチの違い」を強調。日本の頭越しに大統領訪中を準備した米政府への複雑な思いや、米中接近に焦りフランスを引き込もうとした様子がうかがえる。

 72年1月17、18両日の日仏協議で、福田氏はシューマン外相に対して、同月上旬に米国で開かれた日米首脳会談で米側がニクソン大統領の訪中について「訪問すること自体に意義がある」と説明したことを紹介。同時に「日本は日中国交正常化という明確な目標を持ち、そのために政府間の接触を行うことを考えている」と述べ「(米国と)アプローチの方法は異なる」と繰り返した。

外交文書:日本漁船拿捕「補償はバナナで」 中華民国打診
毎日新聞 22日
 
1954年に中華民国が日本に対し、拿捕(だほ)した日本漁船の補償金をバナナで支払う打診をしていたことが、22日付で公開された外交文書で明らかになった。「バナナ補償」は実現しなかったものの、当時の日本でバナナは高級品。打診を受けた議論は文書では判明しなかったが、心が動いていた可能性もありそうだ。

 日本政府は当時、台湾に逃れた中華民国政府を中国を代表する合法政府として承認していた。

 第二次世界大戦後、日本の船は連合国軍総司令部(GHQ)の「マッカーサーライン」によって活動領域が制限されており、47年11月~49年8月に東シナ海で中華民国に2隻が撃沈され、30隻が拿捕された。その後、日本政府は漁船の水揚げに相当する額の補償を求めていた。

 外交文書によると、こうした中、54年2月に中華民国側から一つの打診があった。

 「32隻のうち2隻の返還が決まったとの話がある。補償額は1隻当たり15万台湾ドル相当のバナナ。市場で買い付けたバナナを日本に送り、売上金をもって補償とする」。在日大使館から入った連絡はこういう内容だった。

 日本が求めた補償額が2隻で7600万円だったのに対し、当時の15万台湾ドルは360万円で、かなりの差があった。ただ、当時の日本でのバナナ1箱(45キロ)の市場価格は約2万5000円、輸入価格は約2700円。15万台湾ドルで購入できる60トンを売れば約3330万円となる計算だった。

 外務省は、バナナ補償不発の後、何らかの決着が図られたとみているが、記録は残っていないという。【篠原成行】