「逆風満帆」 2006年7月15日
元毎日新聞記者 西山太吉
■沖縄返還の真実問う
パソコンは使えない。ワープロもない。筆圧の強いくせ字をノートに書きつける。かつて、ざら紙に原稿を書いていたときのように。
元毎日新聞記者の西山太吉(74)は7月初め、裁判所に提出する意見陳述書の草稿づくりに取りかかった。
「これが私にとってのジャーナリズムっちゃ」
沖縄返還をめぐる密約を否定し続けてきた国を相手取り、昨年春、謝罪と損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。裁判はいま、終盤を迎えつつある。
陳述書は、国家によって着せられた汚名を自らの手でそそぐ最後の機会になるかもしれない。
北九州市にある自宅には、機密指定が解かれた米公文書など史料があふれている。
たとえば、米国務省が専門家に交渉プロセスをまとめさせた「沖縄返還――省庁間調整のケース・スタディー」。116ページに及ぶ英文のなかで、西山はひとつの言葉に目をとめた。
〈lump sum(一括払い)〉
個別の経費を積み上げるのではなく、まとめていくらとすることを意味していた。
「つかみ金だから、密約をもぐり込ませられたんだ」
この春、在日米軍再編をめぐって突然、日本側の負担が「3兆円」とされたことと二重写しになった。
文書からは、69年秋に佐藤・ニクソン共同声明で沖縄返還を宣言する前に、大蔵省と米財務省が日本の支払額について裏で合意していたことが読み取れた。福田赳夫蔵相が漏らした日本政府の本音も記されていた。
〈「沖縄を買い取った」との印象を与えたくない〉
そこに密約が生まれた。
思いやり予算の原型となる施設移転費(6500万ドル)など五つの財政合意がひそかに交わされていた。
かつて西山が問いかけた、土地の原状回復補償費400万ドルを日本が肩代わりするという密約は、氷山の一角にすぎなかった。
いまだに解けない基地問題の原点となる沖縄返還協定。そのからくりが浮かび上がってきた。
「面白いやろっ。俺(おれ)はいまだにブンヤなんよ」
■「情を通じて」で一転
昨年暮れ、北海道新聞の記者から電話を受けた。
「じつは、吉野さんが認めたんですよ。『400万ドルは日本側が払った』と」
吉野文六・元外務省アメリカ局長。交渉にあたった当時の最高責任者は一貫して密約を否定してきた。
ニュースですよね、と記者から問われ、胸のうちで吐き捨てた。「これがニュースでなければ、いったいどんなニュースがあるのか」。それでも、人生を狂わせた男の突然の告白を簡単に信じることはできなかった。
72年3月、衆院予算委員会。社会党(当時)の横路孝弘議員は外務省の秘密電信文を手に政府を追及した。
そこには、密約を示唆する言葉が書かれていた。
〈APPEARANCE(見せかけ)〉
電信文を入手したのは西山だった。疑惑を指摘する記事を書いたが、政府は取り合わない。返還が約1カ月半後に迫るなか、横路に託した。
「国民に真実を知らせる最後の手段だ、と。記者としてギリギリの決断だった」
しかし、国会で答弁に立った吉野は否定した。
「協定以外には、何ら密約もなければ約束もない」
まもなく電信文の漏出元が判明し、西山は外務省の女性事務官とともに国家公務員法違反の疑いで逮捕された。
佐藤栄作首相は日記にこうつづっている。
〈この節の綱紀弛緩(し・かん)はゆるせぬ。引きしめるのが我等(われ・ら)の仕事か〉
11日後、検察が起訴状で使った言葉が流れを変えた。
「情を通じて」
妻子ある新聞記者と夫のいる事務官。ともに40歳をすぎた大人の関係だった。国民の「知る権利」への弾圧だとする報道は、男女スキャンダル一色に染まった。
密約を暴いたはずの西山は一転、批判の矢面に立つ。闇に閉ざされた日々の始まりだった。
■死の影、競艇、ネオン街
「国会や裁判で『記憶にない』『忘れた』と繰り返していたから、本当に忘れてしまったんです」
今年2月、密約を初めて認めた外務省元アメリカ局長の吉野文六(87)の言葉を新聞で目にした。
西山太吉(74)はうなった。怒りよりも、妙な納得があった。もちろん、そのために暗転した日々を忘れることはできない。
逮捕後、自宅を引き払い、賃貸アパートなどを転々とした。報道陣が待ち受けるため、昼間は外出できない。夜が更けるのを待って散歩に出かけた。
ある日、気がつくと薬局に足が向いていた。睡眠薬を探していた。ただ楽になりたかった。歩きながら、でも、と問いかけるもうひとりの自分がいた。
「このまま死んだら、自分を否定し、敗北を認めることになる。権力を喜ばせるだけじゃないか」
結局、薬を口にすることはなかった。
裁判では、女性事務官の証言に一切反論しない方針を立てた。取材源を守れなかった以上、やむをない。それでも一審は無罪。女性事務官は有罪だった。
西山は会社を辞め、ペンを折る。「ほかに責任のとりようがなかった」。43歳の働き盛りだった。
台湾からの輸入で稼ぎ、「九州のバナナ王」と呼ばれた父が商売でつまずき、株に手を出して転落したのも40代半ばだった。
「やっぱり血は争えんのかねえ」
そんな軽口をたたく余裕は当時はなかった。
妻子を東京に残し、北九州の実家に戻った。まもなく母親が死去。ひとりになった。
空っぽになった胸の内を埋めるように、庭一面にチューリップを植えた。欠かさず水をやると、鮮やかな花が咲いた。植物は裏切らなかった。
父が興し、親族が継いだ青果会社に食いぶちを得て、営業の責任者として全国の産地を回った。それまで、だれかに頭を下げることを知らなかった。
慶応大学では全塾自治委員長。同大学院の修士論文では、ベトナムの革命指導者ホーチミンを取り上げた。新聞記者は、幼い頃からのあこがれだった。
毎日新聞の政治部では自民党と外務省を担当した。日韓交渉をはじめ、米原潜の日本への初寄港など特ダネを飛ばした。官房長官だった大平正芳らに食い込み、読売新聞の渡辺恒雄とは毎週のように酒を飲んだ。
それも遠い記憶となった。
逮捕から6年後の78年、二審で逆転した有罪の判決が最高裁で確定した。
取材手法に問われるべき点があったとしても、国民を欺いて密約を結んだ罪の重さとは比べものにならない。なぜ、日本政府の責任がまったく問われないのか。
西山は競艇場に通いつめた。群衆に紛れ、水しぶきを上げて競り合うボートを眺めた。震えるような特ダネ競争にはもう戻れない。夜はネオン街をさまよった。
「ただ呼吸してるだけ。生きる屍(しかばね)のようだった」
■退社26年、公文書に光
逮捕前年の71年。ベトナム戦争をめぐる米国防総省の内部文書を掲載した米紙をめぐる裁判で、米連邦最高裁判所は、新聞の発行差し止めを求めた政府を退けていた。
〈報道は国民に奉仕するものであり、国家に尽くすものではない〉
あらためて言論の自由の価値が認められた。
しかし、それは海の向こうのできごとだった。
60歳で会社を退くと、やるべきことが見あたらない。ポリ袋を手に、自宅周辺のゴミを1時間ほどかけて拾って歩いた。毎朝の清掃が日課になった。誰かのために役立っているという「ちっちゃな存在理由」の確認。切れかけた糸でかろうじて社会とつながっていた。
定年退職から9年。転機は突然、訪れた。
00年5月29日、清掃を終えて自宅に戻ると、しばらくして電話が鳴った。毎日新聞の記者からだった。古巣との接触は最高裁で有罪が決まって以来、初めてだった。
「きょうの朝日にやられました」
400万ドルの土地原状回復補償費を日本側が肩代わりしたことを裏付ける米公文書が見つかった、と1面で報じているという。西山はあわてて新聞販売所に走った。
新聞記者を辞めて26年がすぎようとしていた。
■妻が信じた「その日」
妻(71)の言葉はずっと、聞き流していた。
「いつか、あなたが正しかったと裏付けるものがアメリカから出てくるわよ」
逮捕直後から、その日はきっと来る、と妻は予言のように繰り返した。
望みが砕かれれば、失意を重ねることになる。西山太吉(74)は耳を貸さなかった。
00年5月29日。
朝日新聞朝刊が報じた米公文書は、琉球大教授の我部政明が米国立公文書館から入手した。陸軍省参謀部軍事史課による「琉球諸島の民政史」ファイル。外交とは直接関係のない資料に、密約を裏付ける記述はあった。
逮捕から28年。それは、秘密指定が解除され、米公文書が公開されるために必要な年月でもあった。
「あんたが言った通りだったな」
妻の前で、西山はぼそっとつぶやいた。息子たちが大学を卒業した後、北九州で再び一緒に暮らしていた。
外へ出ると、行きかう人々の顔が目に入った。まるで、目の前を覆っていた膜に穴が開いたようだった。
「笑みを浮かべたり、楽しそうに話していたり。それまで他人の表情なんて気にしたことはなかった」
長い間、自分の殻のなかに逃げ込んでいた。
しかし翌日、河野洋平外相が「密約はない」と否定。米政府の発表と同義であるはずの公文書を一蹴(いっしゅう)した。
河野は75年、二審で弁護側証人に立ち、メディアの役割の重要性を訴えていた。それでも、個人の信条が立場を超えることはなかった。
記事が出てまもなく、取材の申し込みがジャーナリストの本多勝一からあった。西山は事件後、初めて沈黙を破った。週刊誌に載ったインタビュー記事は思いがけない反響を呼んだ。
直後に、山崎と名乗る女性から電話が入った。同姓の元同僚だと思い込み、最近何しとるんや、とたずねた。
「私は作家の山崎豊子よ。『大地の子』や『沈まぬ太陽』を読んでないの」
「読んじゃおらんよ」
実際、事件後に小説を手にすることはなかった。自分の身に起きたことの重さと比べれば、どれも薄っぺらく、きれいごとにすぎないように思えてならなかった。
「あなたの人権は絶対に守りますから」
連載にしたいという山崎の申し出を電話口で了承した。
いつしか、人に会うことへの抵抗も薄れていった。
ある日、東京へ向かった。飛行機嫌いのため、新幹線で5時間。大手町の読売新聞本社に、同グループ会長の渡辺恒雄を訪ねた。
渡辺は一審で弁護側証人として法廷に立ち、自著のなかで西山記者の活躍にも触れている。盟友だった。
山崎による連載を知った渡辺は、主人公はだれか、とたずねた。
「もちろん、俺(おれ)さ」
会長室での歓談は2時間を超えた。
■古巣で政府批判再び
02年6月。興味もない日韓W杯が連日、ブラウン管に流れていた。ある晩、米ワシントン在勤のTBS記者からファクスが送られてきた。沖縄返還後に作成された米公文書だった。
〈日本政府が神経をとがらせているのは400万ドルという数字と、この問題に関する日米間の密約が公にならないようにすることだ〉
決定的な証拠だった。
吐きだされてくる感熱紙を眺めながら、西山は思った。ああ、アメリカからもファクスは届くのか。
W杯決勝の2日前。この公文書について報じた毎日新聞に西山の談話が載った。
「日米が行ったのは、密約どころか返還協定の偽造だ」
追われるように去った古巣の紙上で政府を批判した。
その年の暮れ、毎日新聞労組主催のシンポジウムに招かれた。質疑応答で、聴衆のひとりから問いかけられた。
「裁判で国を追及することは考えていらっしゃらないのでしょうか」
確かに、政府が密約を認めることによってしか、名誉は回復されない。
「いま、検討中です」
実際は違った。事件から30年近くがすぎ、「時効」のようなものがあるのではないかと、あきらめにも似た思いにとらわれていた。
8カ月後、西山のもとに手紙が届いた。シンポジウムで質問した男性からだった。
〈国と対等の立場で、闘いの場を持ちませんか〉
男性は弁護士だった。
■「コンチクショウだよ」
その朝、空は澄んでいた。
05年4月25日。静岡市の弁護士、藤森克美(61)は新幹線に乗り、東京・霞が関の東京地裁に出向いた。
沖縄密約をめぐる事件が起きたのは、弁護士1年目を終えたころだった。記者の逮捕と問題のすり替え。密約そのものは問われなかった。
「国家がこんな恐ろしいことを実際にするのか、と驚きました」
00年の米公文書報道で、その思いがよみがえった。
訴状には、ベトナム戦争をめぐる極秘文書を報じた米紙をめぐる裁判で、米連邦最高裁が示した判決文を引いた。
〈政府の秘密は政治の誤りを永続化させる〉
兵庫では、死者107人を出したJR宝塚線の脱線事故が起きていた。
西山太吉(74)は地元の北九州にいた。裁判所でメディアにさらされたくなかった。
「都合がいいときに、都合のいいところだけ報じる」
起訴後、男女スキャンダルに染まった報道に裏切られたとの思いは深い。
それだけに、提訴に踏み切るまで迷い抜いた。
裁判に訴えれば、男女関係を蒸し返されるのは避けられない。でも、このままでは密約という、国が国民をだまして協定に嘘(うそ)を書いた事実が消されてしまう。
西山は、かつての裁判で弁護人をつとめた大野正男にも相談した。
返ってきた手紙の文面は冷ややかだった。00年に米公文書が出たときも反応は薄かった。まして、02年の文書については存在さえ知らないようだった。
04年12月、藤森から3通目の手紙が届いた。
〈だれも手を挙げる人がいなければ、挑戦したい気持ちがあります〉
密約を明記した米公文書が発見された02年を基点とすると、民事訴訟の訴えを起こせる期限の3年が迫っていた。決断を迫るものだった。
確かに、自分が表に出なければ、だれかが汚名を晴らしてくれるわけではない。なにより、西山を動かしたのは単純な思いだった。
「民主主義より前に、コンチクショウだよ」
男女問題という時限爆弾を抱えているため牙をむけるわけがない。否定を続ける政府から、そう見下されているようで許せなかった。
当時から、尊大ともとられかねない言動が誤解や反発を招いてきた。でも、そうするしかできなかった。そうしなければ崩れてしまいそうだった。虚勢を張ることで自分を支えてきた。
しかし、そのかたくなさが抵抗のバネになった、と言うこともできる。
「負の遺産を引きずり、生き恥をさらしたとしても、(政府と)刺し違える」
有罪確定から27年。揺れ続けた天秤(てんびん)は止まった。
■民主主義みせかけか
いまも、妻(71)にはよく当たる。
「おい、あの資料どこだ」
3分と待てずに、声を荒らげる。講演会に呼ばれても、うまく笑顔をつくることができない。それでも以前と比べれば、ずっと穏やかになったという。
ある日、自宅近くの駐車場で猫の死体を見つけた。姿が見えなくなっていた飼い猫だと思いこみ、戻ってくるなり玄関で号泣した。
「『ギョロ太』が死んだ」
実際は別の猫だった。
いらだち以外の感情を表に出すようになったのは、米公文書が発見された以降のことだという。不思議なことに最近、白髪に黒いものがまじるようにもなった。
〈問題は実質ではなくAPPEARANCEである〉
沖縄返還にともなう土地の原状回復補償費は日本が負担し、アメリカが支払ったようにみせかけておけばいい。西山が手に入れた外務省の秘密電信文には、米政府高官の本音が記されていた。
事件の発端となった言葉はまた、沖縄返還の本質を象徴するものでもあった。
密約を裏づける米公文書に加え、交渉当事者が証言したにもかかわらず、政府は根拠なく否定を重ね、メディアは追及しきれていない。結局、日本はみせかけの民主主義しか手に入れられなかったのではないか。
「ブンヤがしっかりしなきゃ、だめなんだ」
密約が認められなければ、西山もまた「みせかけ」だったという後半生から抜け出すことはできない。
8月29日に開かれる口頭弁論を前に、意見陳述書の草稿を書き上げた。原稿用紙で45枚になった。
敬称略(おわり)
(諸永裕司) 撮影(溝越賢)
〈にしやま・たきち〉 1931年、山口県生まれ。56年、慶大大学院卒業後、毎日新聞社入社。外務省の女性事務官から入手した秘密電信文が発端になった沖縄密約事件により74年に退職。その後、北九州市の青果会社に勤め、91年に定年退職した。
西山太吉国賠訴訟