2009年6月6日土曜日

【メモ】 狼

◎日本列島にいた狼たち/ジャーナリスト橋本伸/1
エゾオオカミ/北海道/人間と共生した〝狩をする神〟

 日本列島には、百数十年前まで、2種類のオオカミが生息していました。ところが、明治時代に相次いで絶滅に追い込まれました。オオカミはなぜ、絶滅したのか。日本列島にはどんなオオカミがいたのか。探ってみました。
  ◇
 北海道にいたエゾオオカミは、人間にはやさしかったようです。

掃討作戦で絶滅?

 北海学園大学教授だった更科源蔵氏の著書『コタン生物記Ⅱ』(1976年刊)にこんな話が載っています。
 ――狼のことを釧路地方では狩をする神と呼び、十勝地方では鹿を獲る神と呼んでいる。この神様は鹿を獲って満腹になると、人間を呼んで残りの肉をさずけてくれるからである。また狼が鹿を獲って食べているところに行きあっても、咳払いをすると獲物を置いて人間に席を譲ってくれるものであるという。

 アイヌの人たちとエゾオオカミが〝いい関係〟で共生できたのは、明治以前の北海道には信じられないくらいたくさんのエゾシカがいたからと思われます。ところが、平岩米吉氏の著書『狼―その生態と歴史』などによれば、明治に入って、続々と開拓民が送り込まれ、エゾシカを毎年何万頭も殺したため、エゾシカが激減しました。

 その結果、主食のシカを捕れなくなったエゾオオカミは家畜、なかでも牧場の馬を狙うようになったのです。このため、オオカミの掃討作戦が行われ、オオカミの捕獲者には、最高で1頭10円という高額の賞金まで出したのです。賞金制度が1888年に廃止されるまで全道で捕獲されたオオカミの数は1539頭とも1827頭ともいわれています(このなかには北海道開拓使だったエドウィン・ダン氏の献策によって牧場で毒殺されたオオカミは入っていません)。こうしてエゾオオカミは1889年(明治22年)ごろまでにほぼ絶滅に追い込まれたとみられています。

大きな頭と

 長い爪と… では、エゾオオカミはどれぐらいの大きさだったのか。作家の戸川幸夫氏がエドウィン・ダン氏の二男の夫人ダン・道子さんから拝借したダン氏の書いた『我が半世紀の回想』に貴重な記録があります。ダン氏はこう記しています。

 「十分に生育した狼は七十ポンドから八十ポンドの重量があり、大きな頭と、恐ろしい歯牙で武装された口とを持っている。一般に極めて痩せていたが、筋肉はすばらしく逞しかった。毛の色は夏の間は灰色であるが、冬になると灰色がかった白色になり、毛は厚く且つ長くなる。足跡はその大きさですぐわかる。一番大きな犬の足よりも三倍か、四倍の大きさがあり、その形は似ているが爪はずっと長い」

 70ポンドから80ポンドといえば、換算すれば32㌔から36㌔になります。アーネスト・T・シートンによれば、アメリカのハイイロオオカミの体重がオス35㌔~47㌔、メス25㌔~36㌔といいますから、ハイイロオオカミの小型のオスぐらいだったことになります。

「狼の王」の学名も

 平岩氏と並んで、戦前から日本犬とオオカミの研究に打ち込んできた斎藤弘吉氏は著書『日本の犬と狼』(1964年発行)で、エゾオオカミについてこう指摘しています。

 「現在、標本の残っているものは、北海道大学博物館に牡牝の剥製一対とアイヌ人が狩猟神として祭った狼頭骨牝牡各一頭分収蔵されており、他に故杉山氏蔵の狼頭骨一個、並びに大英博物館所蔵の牡頭骨があって合計六体である。大英博物館蔵の頭骨は特に巨大で、先年同博のポコック氏が、カニス・ルプス・レックスという狼の王の意の新学名をつけて発表したくらいであって、旧大陸で獲られた狼中では、シベリアのコリマ河畔で捕った、カニス・ルプスデュダンスキー牡が匹敵するくらいであろう」

◎日本列島にいた狼たち/ジャーナリスト橋本伸/2
ニホンオオカミ/列島に広く生息していたが

 1992年8月、広島県加計(かけ)町の福光寺に保管されていた頭骨がニホンオオカミの頭骨と鑑定されました。明治8年(1875年)に亡くなった「住職の大祖父」が寺近くで捕獲したとの伝承があるといいます。

 西日本では、四国や九州でニホンオオカミの頭骨が見つかっていますが、中国地方で、ニホンオオカミの頭骨が確認されたのは、初めてのことです。同地方に江戸時代、あるいは明治の初めまで、ニホンオオカミがいたのはほぼ間違いありません。


「自然環境センター」の米田政明研究員(当時)が鑑定した広島県加計町のニホンオオカミの頭骨(1992年)

片山潜も書いた

 江戸時代末期に、加計町に近い岡山県弓削(ゆげ)村に生まれた著名な革命家、片山潜も『わが回想』(上巻)で、こう書いています。

 「又冬寒い晩などは夜更けて狼(おおかみ)の叫(な)くすさまじい嫌な声が聞こえることもあっておっかなかった」

 エゾオオカミと比べ、小柄だったニホンオオカミですが、遠吠(ぼ)えはすさまじいものだったようです。実際、ニホンオオカミの子どもさえ、強いイヌを恐れさせたという逸話がたくさん残っています。

 松谷みよ子さんの『現代民話考第十巻』(狼・山犬 猫)に、奈良県のこんな話が載っています。

 ――ある時、矢谷さんが村におりていくのに仔犬(こいぬ)がついてきた。仔犬が道を歩いていると、大きく強そうな犬までがこそこそ逃げてしまう。仔犬は実は狼だったのである。

 平岩米吉氏も『狼―その生態と歴史』で、「甲子夜話」にある次の話を紹介しています。

 ――伯州(鳥取県)の大山で狼の子を捕らえ、それを雲州(島根県)松江城下へもってきて、見世物にした。この狼の子は猫ほどの小さなものであったにもかかわらず、大きな犬が三間(5・5㍍)も離れているところから震えてしまって、鞭(むち)でうってもすすめなかった。

1905年が最後

 ニホンオオカミは1905年(明治38年)、奈良県鷲家口(わしかぐち)で捕獲されたのを最後に絶滅したといわれています。北海道を除く日本列島に広く生息していたニホンオオカミはなぜ絶滅したのでしょうか。

 平岩氏は、前記著書で、絶滅の原因として次の五つを上げています。

 ①海外からの狂犬病の侵入と流行によって、病狼となったオオカミが人を襲うようになった②このため、当時発達の著しかった銃器の対象になった③銃は鹿などの猟獣に向けられ、食物を奪った④開発の進行により、オオカミの生息地が奪われた⑤家犬との接触で、激しい伝染力をもつ疫病がニホンオオカミの世界に侵入、集団の中に広がった。

有害獣として駆除

 しかし、果たしてこれらの原因だけなのでしょうか。この点で、ことしの春、東京農工大大学院農学府の中沢智恵子氏がオオカミセミナーで行った研究報告が大変参考になります。 それによれば、東北6県の公文書調査で、かなりの数のニホンオオカミが有害獣として駆除されていたことが判明したというのです。 とりわけ岩手県では、オオカミ捕獲者への手当金制度開始時の布達で、オオカミは天皇の支配拡張を妨げるものと断定するなど、家畜を捕食するオオカミを天皇への反抗と見なしていたことが明らかになりました。 中沢氏は、江戸時代からの狼害対策が明治になっても続き、とりわけ岩手県ではオオカミ駆除手当金制度を1875年に開始、その後の5年間ほどで、子オオカミも含め、合計201頭が捕獲されたことを明らかにしました。 狂犬病やジステンバーの流行による打撃のうえに、懸賞金までかけられたことが、ニホンオオカミの絶滅に拍車をかけたのは間違いありません

◎日本列島にいた狼たち/ジャーナリスト橋本伸/3
佐川のオオカミ/高知/最大級の頭骨、四国で発見

 1999年3月5日、毎日新聞が、「ニホンオオカミの最大級頭がい骨 高知県の旧家で発見」と報道しました。

先祖が山中で射殺

 この頭骨は、高知県仁村森の片岡幸貞さん(当時73歳)方に「先祖が山中で天保八年(一八三七年)に射止めた」と伝えられ、保管されていたものでした。
 頭がい骨の最大長は23・5㌢で、日本各地で発見されたニホンオオカミの頭骨では最大と大阪市立大学医学部で鑑定されました。骨の上部に弾丸で貫いた穴があり、骨には肉片も付着しており、DNA鑑定も可能でした。

江戸時代まで生息

 なぜ四国に大型のニホンオオカミが江戸時代まで生息していたのか。仁淀村(現在は合併して仁淀川町)の近くに佐川町というところがあります。

 斎藤弘吉著『日本の犬と狼』によれば、紀元前5000年から紀元前後にわたるわが国の遺跡から、他の獣骨とまじってオオカミの骨が発掘されています。そのなかでも大きいのが、この佐川町で発掘されたオオカミの骨でした。

 斎藤氏はこう指摘しています。
 「特に土佐佐川の洞窟からは、日本石器時代の狼としては最も体格の大きいものが数体分、東大長谷部教授等によって発掘された」「わが国石器時代の狼のうちでも、その体格が特に大きい土佐佐川発掘のものは、現代日本狼よりも大きいが、地質時代の化石狼よりは小さく、ほぼ現代朝鮮狼の中体格くらいである。佐川以外の各地から発掘された石器時代狼の体格は、ほぼ現代日本狼の範囲内である」

 斎藤氏のいう「現代日本狼」とは、江戸時代中期以後に採集されたもので、主に頭骨です。


ニホンオオカミの骨格 佐野市葛生化石館

発見した

 骨に咬痕 佐川オオカミが発掘されたのは、佐川町城ノ台の石灰洞遺跡です。1941年(昭和16年)に長谷部言人博士らによって調査されたものです。

 『高知県の考古学』(1966年発行)は、縄文早期とみられるこの遺跡について、こう指摘しています。
 「調査の結果、石鏃・石槌・土器片などの遺物は洞窟の奥深いところから、洞中の堆積土中からは人骨をはじめ狼その他の獣骨が発見されている」

 「これらについても同遺跡を調査された長谷部博士は、石器時代人の食糧になった獣類などの骨でなく、これらの骨のなかにある狼が洞窟内にくわえこんだ動物の遺残であるとされ、穴熊や狸の骨には狼の咬痕がついているとされている。この狼の骨はこれも長谷部博士の研究によれば、特に〝佐川狼〟と名づけられ」「縄文時代には本州・四国・九州に住んだであろうとされている」

 珍しいのは、この遺跡からは小柄な老男子の骨の破片が多数発見され、なかにはオオカミのかみ痕が発見されていることです。

シベリア系の血?

 さて、佐川オオカミはどこからきたのか。ニホンオオカミの研究家で知られる直良信夫氏は『狩猟』(1968年刊)の中で、こう書いています。

 「本州、四国、九州には、ニホンオオカミとよばれていた、やや小型のオオカミが棲息していたが、実際には、そのような小型のものばかりではない。古墳時代後期の頃まで、エゾオオカミなどとともに、シベリアオオカミの系統にはいる大型のオオカミも棲息していた」

 縄文時代の〝佐川狼〟と江戸時代の仁淀村のオオカミは、古墳時代まで四国に生き残っていたシベリアオオカミの血を引いているのでしょうか。

◎日本列島にいた狼たち/ジャーナリスト橋本伸/5
続・化石オオカミ/ナウマンゾウと一緒にきた?

 前回、化石オオカミは北方系オオカミで、気候の温暖化で南方系オオカミが勢力を強めた説を紹介しました。

駆逐説が否定され 

 しかし、国立歴史民俗博物館教授の春成秀爾氏によると、新たな動物種の登場から、大陸と日本列島の陸橋の存在は次のように推定されるとしています(「更新世末の大形獣の絶滅と人類」2001年)。 
 氷河時代ともいわれ、新型の哺乳(ほにゅう)動物が出現した更新世は、約180万年前から約1万3000年前とされています。 

 春成教授は、更新世前期(120―100万前)は、南西?の道(東中国海)からシガゾウなどが、更新世中期前半(60―50万年前)に南西の道からトウヨウゾウなどが、更新世中期後半(40―30万年前)に西の道(朝鮮海峡)からナウマンゾウなどが、更新世後期末(3―2万年前)に北の道(宗谷海峡)からマンモスなどがきたと推測されるといいます。 この説に従うと、3万年前より古い化石オオカミは北方系ではなく、北方系オオカミを駆逐したのは南方から移住してきたオオカミという説そのものが否定されてしまいます。


化石オオカミの上あご(右側)と頭骨のレプリカ。佐野市葛生化石館

南西から渡った?

 それを裏付けるように、直良信夫氏は労作『日本産狼の研究』で、「最初に渡ってきたオオカミ」との見出しで、北九州市門司区松ケ枝町の洞窟(どうくつ)から出土したオオカミの化石について、こう記述しています。

 「大形のオオカミが、洪積世(注=更新世)のごく初期に、西南日本の一隅にゾウやサイなどと共にすでに出現していたという事実は、日本のオオカミを研究しようともくろんでいる私にとっては、特記に値することがらでなければならない。私の手もとには、現在では前臼歯その他の貧弱な資料しか残されていないが、臼歯の大きさからみて、大形のオオカミであったことがたしかめられた」

 さらに、直良氏は「北関東地方の化石オオカミ」の見出しで、栃木県葛生町(現・佐野市)会沢大久保宮田石灰工業の採石場から発見された化石オオカミについて、こう述べています。
 「復元して見ると、頭蓋(とうがい)骨長が約二六〇㍉㍍、基底骨長が約二五〇㍉㍍であったから、すばらしく大形なオオカミであったことが考えられよう。シベリア産のオオカミ(頭蓋骨長二三五・二㍉㍍、基底骨長二一九・〇㍉㍍)に比べてみると、頭骨はひとまわりほど大きく…」

 直良氏は、この葛生町の化石オオカミの生息年代を「下部洪積世(注=更新世前期)の終り頃のものか、あるいは中部洪積世のある時期」としています。同じ層からは、ヒョウや褐色グマの化石も発見されています。
 化石オオカミは北方系オオカミというより、南西あるいは西の道から、トウヨウゾウやナウマンゾウと一緒に日本列島に渡ってきたようです。


ナウマンゾウの骨格(更新世後期)。佐野市葛生化石会館

次第に寒くなり…

 直良氏は、前出の著書で、こう指摘しています。 「日本の洪積世はその前半は南方系のゾウの分布が示しているように、概して熱帯性獣類の棲息に好条件をもった環境が、久しく続いていた。したがってこのような気候風土では、北ユウラシア系に属するオオカミにとっては、割合にすみにくい世界であったといえよう」 ところが、日本の洪積世(更新世)も中期ごろから、しだいに寒くなってきたようで、続いてこう述べています。 「そのために北ユウラシア系好寒性の野獣化石の発見される地点からは、多少の差異はあってもオオカミの化石骨の出土が多い。発見される量も多いが個体の異常な発達が特に目立つ」

3 Responses to “続・化石オオカミ/ナウマンゾウと一緒にきた?/5”
Katymosscow Says:
5月 11th, 2009 at 2:54:04
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◎日本列島にいた狼たち/ジャーナリスト橋本伸/6/九州産ニホンオオカミ/北九州市から過去最大の頭骨

江戸時代の読本作家、滝沢馬琴を有名にした『鎮西八郎為朝外伝椿説弓張月』(1805年起草)に2頭のオオカミが登場します。

馬琴は知っていた?

 為朝が豊後の国(現在の大分県)の山中で道に迷ったとき、2頭のオオカミの子がシカの死体を前に血まみれで争っているのを仲裁したところ、2頭は争いをやめ、以来為朝が追い返そうとしても、離れずに為朝の住まいまでついてきました。2頭は山雄と野風と名づけられ、猟犬のように、シカやイノシシを捕らえては為朝の下に運んできたと書かれています。

 滝沢馬琴は、九州にニホンオオカミが生息していると知っていたのでしょうか。豊後の国の隣の肥後(現在の熊本県)藩主細川重賢の動物の写生本『毛介綺煥』(1758年)にオオカミの図があることから、知っていたかもしれません。

 それはともかく、熊本県でオオカミの骨が発見されたのは近年になってからです。1967年に八代郡泉村(現・八代市泉町)矢山岳のたて穴で発見(報告は1969年)されたのが第1標本です。

 第2標本は同じ八代郡泉村京丈山洞窟からニホンオオカミの全身骨格が発見されたもので、1990年代末に骨学的検討と年代測定が試みられています。

 熊本市立熊本博物館の「熊本博物館報」(1999年7月)に掲載された報告によれば、このオオカミの頭骨全長は218・8㍉で、平均より少し大きいといえます。

室町から江戸初期に

 さらに、放射性炭素法を使って、骨の年代測定を行った結果、室町時代から江戸時代初期にさかのぼる可能性が示されたといいます。室町時代から江戸初期といえば、その大半は各地で戦乱が相次いだ時代です。そんな時代に平均より大きなニホンオオカミが九州の山野を駆け回っていたことになります。

 注目されるのは、そんな九州から、過去最大のニホンオオカミの頭骨が出てきたことです。

 2004年6月27日、北九州市で開かれた日本古生物学会で、同市小倉南区平尾台の石灰岩洞窟で1972年に発見された動物の頭骨がニホンオオカミの頭骨で、うち1点はニホンオオカミでは過去最大の頭骨であることが発表されました。報告したのは、群馬県立自然史博物館の長谷川善和館長らのグループでした。

 同博物館の研究報告(8号)から、詳細をみてみると――。報告された標本は4点で、うち3点は福岡県北九州市の平尾台の頭骨で、1点は熊本県泉村矢山岳産の頭骨と体骨格の一部です。いずれもニホンオオカミの骨と鑑定されていますが、注目されるのは平尾台のこむそう穴から発見された第2標本です。

ずば抜けた頭骨が

 これまで、高知県仁淀村から発見された頭骨(全長235・8㍉)が過去最大級とされてきました。ところが、こむそう穴の第2標本は、吻の先が欠落しているものの、下あごの長さは仁淀村のものより大きく、そこから推定すると、頭骨全長は242・1㍉と、これまでのニホンオオカミでは最大級となります。

 同研究報告が掲載している各地のニホンオオカミの頭骨30点の表によれば、全長が230㍉を超えているものは4点しかなく、242㍉はずば抜けているといえます。

 平尾台の洞窟からは、ステゴドンゾウやナウマンゾウも発見されています。しかし、こむそう穴の第2標本が発見された地点で採集された動物遺骸は、野ウサギなど現生種ばかりであり、「更新世まで古くはならない」としています。同時に、各標本とも化石化の程度は弱く、江戸時代から明治時代初期に捕獲されたものより、「古いものと思われる」としています。

 室町時代から江戸時代にかけてのニホンオオカミの中でも、最大級のものが日本列島の南方に位置し、一種の島国である四国や九州に生息していたということは大変興味深いことです。

◎日本列島にいた狼たち/ジャーナリスト橋本伸/7/イヌのルーツは?/東アジアのオオカミが有力

 人間が最初に家畜化した動物といわれるイヌ。では、イヌの祖先はどんな動物なのか。これについては、さまざまな議論がありました。イヌとオオカミとジャッカル、コヨーテは交配が可能なことから、オオカミ説やジャッカル説、オーストラリアの野生犬、ディンゴ説などが生まれました。

世界のイヌの71%が

 ノーベル賞も受賞した世界的な動物学者、コンラート・ローレンツは、イヌの多くはジャッカル系で、わずかにオオカミ系も存在しているとして、ジャッカル祖先説を普及させました。しかし、その後の研究で、ジャッカル説を撤回しています。ディンゴ説は、いまではディンゴはイヌそのものであり、人間とともにオーストラリアに移住したイヌが野生化したものと考えられています。

 この点で、米科学誌『サイエンス』2002年11月22日号が興味深い論文を掲載しました。母親だけから受け継がれるミトコンドリアDNAの分析から、世界のイヌの祖先をたどると、少なくとも5頭の雌オオカミに行き着くというのです。

 それによると、スウェーデン王立工科大学のサボライネン博士らは欧州、アジア、アフリカなどの計654頭のイヌと、ユーラシア大陸の38頭のオオカミのミトコンドリアDNAを解析。塩基配列を比較検討し、五つまたは六つのグループに分類できることを解明しました。このうち東アジアのオオカミを祖先とするグループに、世界のイヌの71%が属していました。

3万年前に家畜化

 実は、1990年代のイヌとオオカミのDNA分析で、「イヌにもっとも近縁なのはオオカミであり、少し距離をおいてコヨーテ、つぎにジャッカルの順に近縁になっている。DNAの解析からは、オオカミだけがイヌの直接の祖先であると結論できるようだ」(猪熊壽著『イヌの動物学』)ということや、「イヌの家畜化は世界のいろいろな場所で異なる時期に生じた、あるいは一度家畜化されたイヌは各地で何回もオオカミと交雑されたことが示唆されている」

(同)ことなどがわかっていました。『サイエンス』論文は、こうした研究を土台にさらにくわしく調べたものでした。
 また、この『サイエンス』論文は、考古学的記録はオオカミの家畜化の時期を1万4000年前から9000年前と推測しているとのべたうえで、一方で私たちのデータは4万年前、もしくは1万5000年前に東アジアにおいて一頭のタイプのオオカミから始まったことを示唆している、とのべています。そのうえで、最終的には、オオカミの家畜化は1万5000年前の方が可能性が高いと結論づけています。

 実は、考古学では、1万5000年前よりも古いイヌの化石が発掘されています。
 猪熊氏は先の著書で、こう指摘しています。

 「考古学的研究によると、イヌはいまから約3万年前には人類の住居の周囲で暮らしていたようである。アラスカのユーコン地方で、少なくとも2万年前のイヌの化石が発掘されている(Kurten and Anderson 1980)。アメリカインディアンがアジアからアメリカへ渡ったのは約2万6000―2万8000年前なので(Muller―Beck 1967)、アラスカのイヌはヒトとともにアジアから移動した可能性が強い。イヌはそれより前の時代に、すでにヒトと共存していたのである」

柴犬の方が近縁

 一方、『サイエンス』2004年5月21日号は、米国の研究チームが85種414頭のイヌとオオカミのDNAを比較した結果、シェパードよりも柴犬や秋田犬、チャウチャウの方がオオカミに近いとする論文を掲載しました。

 外見がオオカミに似ているシェパードより、柴犬や秋田犬の方がオオカミに近縁なのは、イヌの有力な祖先が東アジアのオオカミだったせいでしょうか。

◎日本列島にいた狼たち/ジャーナリスト橋本伸/8/縄文イヌはどこから/家畜化したニホンオオカミ?

 氷河時代末のドイツ・ライン地方の集落遺跡「ゲナスドルフ」は、火山から噴出した軽石に覆われ、さまざまな遺物、住居跡が良好な状態で残っていたことで知られています。放射性炭素の年代測定によると、住居跡は紀元前1万400年のもので、当時は、温暖期に属していました。

歯に家畜化の兆候

 注目されるのは、ここから発見された二つのオオカミの歯です。オオカミを家畜化すると、その兆候は歯にも現れますが、ゲナスドルフのオオカミの歯は、わずかしか変形していないので、「すでに『イヌ』、あるいは幼獣を捕まえて人間が飼い慣らしたオオカミであると、明言できないこともない」(『ゲナスドルフ―氷河時代狩猟民の世界』)と指摘されています。

 明治大学名誉教授の大塚初重氏は、近著『考古学から見た日本人』で、3万年以上前に住んでいた旧人・ネアンデルタール人がすでにオオカミを飼い慣らし、マンモスを狩っていたという説があることを紹介しています。
 実際、ネアンデルタール人が3万年前に飼っていたイヌの骨を、東京大学理学部の調査隊がシリアで発見したという指摘もあります(佐原眞著『体系日本の歴史①日本人の誕生』)。

 ネアンデルタール人がイヌを飼っていたとすれば、新人と呼ばれる私たちの直接の祖先が、親とはぐれた子オオカミや巣穴の子オオカミを捕らえて飼い慣らし、狩猟に使ったことは、十分考えられます。

飼い慣らす努力が

 日本でも「長野県茅野市近郊の遺跡では、ニホンオオカミを飼い慣らして、家犬化することに努力している」(直良信夫著『狩猟』)という例も発見されています。

 では、縄文イヌは、ニホンオオカミを飼い慣らし、家畜化したものなのでしょうか。そういう気がしないでもありません。

 しかし、「骨学的研究によれば、和歌山県産のイヌにニホンオオカミの特徴らしきものがわずかに出現するけれども、現在の日本犬にニホンオオカミの血は一滴も混ざっていないというのが定説である」(今泉忠明著『イヌの力』2000年刊)という指摘もあります。

 確かに、縄文時代早期に発見された日本最古の縄文イヌ(約9500年前の夏島貝塚遺跡)が完全に家畜化されたイヌであることから、大陸から渡来したと考える方が自然かもしれません。

 岐阜大学農学部の田名部雄一教授(当時)の「血液タンパク質」に注目した研究によると、本州の日本犬の祖型は、南方から渡来したヘモグロビン遺伝子と朝鮮半島から渡来したヘモグロビン遺伝子の両タイプの混血によって生じたものと推測されています(猪熊壽著『イヌの動物学』2001年刊から)。

大きさ柴犬ほど

 今泉氏は、縄文人とともに各地にすみ着いた日本犬の祖先たちはその後に朝鮮半島経由で渡ってきた弥生犬の交雑を受け、日本犬が誕生したとしています。

 では、縄文イヌの容姿はどんなものだったのでしょうか。肩までの高さは35㌢から40㌢前後と、中型の日本犬ぐらいのニホンオオカミよりさらに小型で、柴犬ほどの大きさです。大塚氏は先の著書で、こう書いています。

 「現在の柴犬など在来の日本犬と比べると、骨が丈夫で、顔立ちもより鼻筋がとおったキツネ顔で、猟犬のようにあばら骨が浮き出るほど痩身だったという」

 また、縄文時代の泥人形やその後の銅鐸に描かれたイノシシ狩りの絵によれば、立耳・巻尾です。
 縄文時代初期に弓矢を手に入れた縄文人は、縄文イヌの助けを得て、シカやイノシシ狩りをしていたようです。縄文イヌが各地で大切に埋葬されていた理由が分かるような気がします。

◎日本列島にいた狼たち/ジャーナリスト橋本伸/9/ルーツを探る/シベリアン・ハスキーに近い

 ニホンオオカミやエゾオオカミは、いったいどこからきたのか。DNA分析で、そのルーツ(祖先)を探る研究はすでに始まっています。

DNA分析に成功

 ニホンオオカミのDNA分析に初めて成功したのは、石黒直隆・帯広畜産大学助教授(当時、現岐阜大学教授)です。5年前の2002年9月19日に発表されました(「毎日」)。

 分析したのは、連載3回目で紹介した江戸時代末期に射殺された高知県仁淀村のオオカミです。同年5月、石黒氏らが骨粉や肉片を採取、ミトコンドリアDNAを分離増殖し、塩基配列を確定しました。その結果、オオカミの特徴を持ってはいるものの、モンゴルや中国のオオカミとは遺伝的に遠く、シベリアン・ハスキー犬にもっとも近いことがわかりました。

 これは、驚きです。というのは、北方系のエゾオオカミに対して、ニホンオオカミの先祖は、モンゴルや中国のオオカミと遺伝的に近いのでは、と思いこんでいたからです。

 シベリアン・ハスキーは、シベリア北東部の極寒の地に住むチュクチ族に数千年にわたって改良されてきたそりイヌで、オオカミそっくりな風ぼうのイヌです。チュクチ族は、高価な毛皮の獲得を狙って、武力でシベリア全土を支配下に置こうと東進してきた大ロシア帝国に対して抵抗を続け、長年にわたって独立を維持してきた民族です。

「エゾ」は大陸系

 その後、石黒氏はエゾオオカミとニホンオオカミの遺伝的違いの解明に着手、2003年3月、日本獣医解剖学会で、「絶滅した日本のオオカミの遺伝的特徴と系統解析」と題して、講演しました。その要旨を紹介します。

 〈目的〉 エゾオオカミは形態的にもニホンオオカミに比べて大きく大陸系のオオカミとされてきた。一方、ニホンオオカミは大陸系オオカミと比べ、体型が小さくイヌに近い形質を有していた。本研究では、絶滅したオオカミの骨よりミトコンドリアDNAを増幅し、エゾオオカミとニホンオオカミの遺伝的な違いについて解析して大陸系のオオカミと比較したので、その成績を報告する。

 〈材料と方法〉 エゾオオカミは、北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園に所蔵されている四肢骨を2個体分解析した。ニホンオオカミは、第134回日本獣医学会で報告した四国・高知産のニホンオオカミ1個体に加えて、骨の特徴からニホンオオカミと同定され博物館などに保存されていた試料4個体を解析した。ミトコンドリアDNA(mtDNA)の分析は、骨より骨粉を採取し骨に残存しているmtDNAのDグループ600bpをPCR法にて増幅し、これまで報告されているオオカミとイヌの塩基配列と比較して系統解析を行った。

 〈結果と考察〉 今回解析したエゾオオカミ2体は、mtDNAの塩基配列が同じであり、系統解析した結果、大陸系オオカミに分類され、増幅した600bpの塩基配列はカナダ・ユーコン地方のオオカミと同じであった。ニホンオオカミに関しては、2個体は十分な領域が増幅できなかったが、残り2個体は以前報告した高知産のニホンオオカミと系統樹上ほぼ同じグループに位置し、大陸系のオオカミとは異なっていた。

ユーラシアから

 石黒氏らの研究から推測できるのは、ユーラシア大陸にいたオオカミが陸続きだったベーリング海峡を越えて、アラスカに行くとともに、北海道にも進出してきたのだろうということです。

 しかし、ニホンオオカミがなぜ中国やモンゴルのオオカミよりシベリアン・ハスキーと遺伝的に近いのか、わかりません。なぞのままです。今後の解明が期待されます。