2002年6月28日金曜日

【細川内閣】 小池百合子

細川首相退陣の引き金は「北朝鮮有事」だった

 細川政権時代、総理の首席秘書官を務めた成田憲彦氏による小説「官邸」(講談社刊)がベストセラーとなっている。歴代の総理は、議員と二人三脚で長年政治生活をともにしてきたベテラン秘書を総理秘書官として起用するのがふつうだが、国会図書館職員で政治、選挙制度研究の第一人者、学者肌の成田氏の起用は、細川護煕氏らしい選択だった。  著書は上下二巻にわたる大作で、38年ぶりの非自民党政権の表と裏を知り尽くした成田氏だけある。小選挙区導入を含む政治改革法案やコメの自由化に関するウルグアイ・ラウンド対応など、当時の重要政策を巡ってギクシャクする連立与党内の複雑な人間模様や、野党、官僚との駆け引きを詳細に、リアルに描き出している。  小泉政権の9割近い数字には届かないが、70%を超える支持率を記録しながらも、細川政権はなぜ、わずか10ヶ月で終焉を迎えたのか。その理由は1つではない。成田氏は行政、政治改革といった表看板でのもたつきや、佐川急便問題などのスキャンダルによる挫折よりも、国民福祉税導入騒ぎを含む「税制改革」への挑戦と失敗を最大の柱とした。  新党旗揚げ直後から、参院選(1992年)続く総選挙(93年)、そして細川政権樹立と、日本新党に関わってきた私の見方はまったく違う。  ずばり、北朝鮮問題だ。

米国が武村官房長官を不安視

 94年2月12日夜、日米包括協議のためにワシントンを訪問中の細川護煕総理(当時・以下同じ)から、私の東京での居所である高輪の衆議院議員宿舎に電話が入った。受話器からは、意外な名前が飛び出した。
「武村さんは問題だっていうんです」
 武村さんとは、言うまでもなく、細川連立政権のパートナーであり、新党さきがけの代表であった武村正義官房長官のことである。実際、ワシントンから帰国直後の2月15日、細川総理は唐突に内閣改造の意向を表明し、武村官房長官と村山富市社会党委員長からは猛烈な反発が巻き起こった。
 日米包括協議「決裂」というこれまでの日米交渉にはない厳しい結果を迎える一方で、ワシントン滞在中の細川総理は、アメリカの政府高官から北朝鮮情勢が緊迫していること、朝鮮半島有事の際の日本の安全保障上の問題点を指摘された。米側から核兵器の開発現場を含む衛星写真の提示もあったと聞く。ホワイトハウスが抱く最大の不安は、朝鮮半島にからむ情報が、日本と共有するにあたって、他へ漏れる恐れがあることだった。日本の中枢、他でもない総理官邸におけるナンバー2、武村官房長官から北朝鮮へ流れるのではないか、との不安だという。官房長官の更迭という重要閣僚の人事にからむ話だけに、一国の総理へのアメリカ側の伝え方は慎重だったろうが、内政干渉以外のなにものでもない。
 細川氏は新党立ち上げ以前からも、当時は自民党衆議院議員だった武村氏、田中秀征氏らと秘密裏に打ち合わせを重ね、着々と政界復帰のシナリオを練っていた。細川氏が月刊誌に寄せた一文に、編集部が「民主改革連合結党宣言」と大胆なタイトルを打ったために、92年5月、準備半ばで慌てて新党を結成。7月の参院選で細川氏と、現役キャスターからにわかに政界に転じた私を含め、4人が当選した。華々しく政界再デビューを果たした細川氏は本来のターゲットであった総選挙の準備に専念し、毎晩のように、武村、田中両氏と今後の段取りなどの打ち合わせを重ねていた。まさに同志であった。
 翌93年6月18日、宮沢内閣不信任案の可決を受けて、武村氏らは自民党から集団離党、新党さきがけを設立した。新党ブーム一色となった総選挙で、日本新党、さきがけ、同じく自民党を離党した小沢一郎氏、羽田孜氏らによる新生党がそれぞれ大躍進を遂げた。7月29日、これら新党に社会党、公明党、民社党と社民連を加え、7党1派による非自民政権が成立する。武村氏は当初、自民党を相手に審議をこなすのは無理と、自民党との連立を優先しようとしていたが、日本新党の若手の猛反対で非自民政権が選択された。その結果、細川氏が総理に、総理の女房役である官房長官に武村氏が就任した。
 細川・武村両氏の結び付きの強さを知っていた私からすれば、武村氏の官房長官への就任に違和感はなかった。その後、官邸の細川総理を支えたのは、新人議員ばかりの日本新党議員ではなく、武村官房長官、鳩山由紀夫官房副長官、そして細川氏自らがブレーンとして任命した田中秀征総理補佐官だった。 
 94年2月3日未明、突然、まさに突然、細川総理は国民福祉税なる新税導入案を発表した。これまでの消費税を廃止し、国民福祉税として7%の直接税を設けるというものだった。記者から数字の根拠を尋ねられ、総理は「腰だめの数字」としれっと答えたのは強烈な印象を残した。増税という、政治の重要課題をこれほど安易に提案した例はない。その分、撤回されるのも早かった。武村官房長官が記者会見で新税導入は「あやまち」と切って捨て、総理を批判。細川総理もあっさりと引き下がるかたちで事態を収拾したが、これまでの同志、細川・武村ラインに取って代わって、いわゆる一・一ライン(小沢一郎新生党代表幹事、市川雄一公明党幹事長)へとすでに体重移動していたことも事実だ。
 とはいえ、女房役の武村官房長官のクビを自らが斬らねばならない事態に直面し、細川総理は悩み抜いた。ふだんの相談相手の処遇だけに、誰に相談するかを含め、迷ったに違いない。ワシントンからの電話を受けた私も、ことが国家の安全保障上の話であり、連立政権の命運に関わる重大な内容に驚き、迷った。
 当時、すでに北朝鮮は社会主義、全体主義政策の失敗で崩壊寸前にあり、食糧不足から数十万人の餓死者が出ていると、おどろおどろしく伝えられていた。一方で、核兵器の開発が着々と進められているとの疑惑もあった。IAEA(国際原子力機関)による核施設の査察を巡って、北朝鮮はアメリカとギリギリの駆け引きを続けていたが、まさに一触即発の状態だった。

朝鮮半島有事への対応で悩んだ細川総理

 細川総理は連立解消にも繋がりかねない内閣改造に踏み切るか否か、そして緊迫する北朝鮮情勢への対応と2つの大きな課題に揺れ続けた。
 なにしろ、個々の具体的政策や党の歴史が異なる7党1会派からなる細川連立政権である。「寄せ集め」「ガラス細工」と発足当初から、そのぎくしゃくぶりを揶揄されていた。大きなくくりとしての政策合意は存在しても、特に国家運営の基本である安全保障政策についての各党の違いは歴然としており、護憲を旗印としてきた社会党の象徴である土井たか子氏は、ていよく衆院議長に祭り上げられていた。政治改革や行政改革など、国内問題では足並みが揃っても、危機管理という国家運営、政治の最大の役割において、各党の政策には開きがありすぎた。「待ったなし」の判断を迫られるような状況に至れば、たちまち瓦解する危険をはらんだ、文字通りガラス細工の政権だった。
 朝鮮半島有事となると、湾岸戦争の時のように、国会で延々と神学論争を繰り広げる暇はない。ましてや牛歩国会など、できるはずもない。わずか8分で北朝鮮からミサイルはわが国に到達するのだ。たとえ有事への事前、直前警告があったとしても、日本には有事法制が整っていない。日米安保についても、法解釈で揉めたり、実際の自衛隊出動も混乱することが予想され、不安材料は山積みしていた。ひとことで言うと、日本は何も起こらないことを前提として、ようやく成り立つ国なのだ。
 細川総理はこれら有事に必要な閣議決定において、閣僚全員のサインが揃うかどうか、その際の対応はどうすべきか、思いを巡らせていた。それにしても、武村官房長官の処遇は、改造の意向を表明した瞬間から官邸でのギクシャク度を増していただけに、早く結論を出さねばならなかった。総理と官房長官の物言いが少しでも違えば、野党から内閣不一致と付け込まれる。
 細川総理は物事を決める際、よく人の話を聞いた上で、最後に決断するタイプだ。周囲には、学者や文化人などのブレーンがキラぼしのようにいて、テーマ毎に相談を持ち掛けていた。ただ、アドバイスした内容と、本人の決断の中身が大きく異なる時があり、不満を漏らす人もいた。ブレーンの間では、細川総理へのアドバイスのコツは一番最後に吹き込むことだと囁かれていた。これは祖父にあたる近衛文麿元総理からの伝統とのことであった。
 3月2日、時計の針が午後10時を回った頃、そろそろ頃合と感じた私は、総理官邸に電話を入れた。武村官房長官を更迭やむなしとの意見を伝えるためだった。有事の際、総理と官房長官で方向性が違うのはまずいという基本的な判断に立ったからだ。そのことを伝えると、電話口の向こうでは、長い沈黙があった。そして一言、
「そうですか。そう思われますか」
と、気のない返事が返ってきた。
 それから30分もしないうちに、内閣改造を断念する旨の総理会見が行われた。電話を入れた時点で、ぶら下がり会見の設定がされていたのだ。すでに後の祭りだった。
 官邸内の亀裂が深まるとともに、国会では細川総理に絡む佐川急便疑惑の究明が進んでいたが、国内での混乱と北朝鮮情勢は別物だ。
 3月19日、板門店で行われた韓国と北朝鮮の南北会談で、北朝鮮の代表は「戦争が起これば、ソウルは火の海になる」と、世界をどう喝した。さらにIAEAの査察を拒否、態度をますます硬化させていった。細川総理は国内のゴタゴタを避けたい気持ちもあったろう。官邸の主として、北朝鮮有事を防ぐための努力にエネルギーを注入していた。3月19日には訪中し、江沢民主席に中国の北朝鮮への影響力行使を要請、24日には韓国の金泳三大統領を迎えて、対北朝鮮で日米韓の協力を確認した。

突然の退陣表明

 4月5日、参院議員のコロムビア・トップ氏らとの夕食の最中に、細川総理が「やめたい」と辞意を漏らしたことから、流れは一気に辞任の方向へと傾く。私もそんな心情を幾度か聞いてはいたが、悪い冗談としか受け取っていなかった。が、本人は、本気だった。「北朝鮮が暴発すれば、今の体制では何もできない。ここは私が身を捨てることで、社会党を斬らなければダメなんです。それで地殻変動を起こすしかないんです」
 4月8日、ついに細川総理が退陣を表明した。最終的な決意については、誰にも相談はなかった。細川総理が北朝鮮有事への対応に追われる一方で、自民党と社会党の55年体制コンビによる政権奪取計画は着々と進んでいた。「社会党斬り」どころか、自社さ三党による「細川斬り」が成功した。
 その後、渡辺美智雄元副総理の離党騒ぎや、海部俊樹元総理や鹿野道彦衆院議員が相次ぐ離党と新党結成、社会党の連立離脱と、政界は地震と津波と大火事が一度に襲ってきたような状態となる。結局、少数与党による羽田政権が誕生したが、わずか2ヵ月後に崩壊した。北朝鮮有事どころか、日本国内の政治が有事へと陥っていた。
 そして6月29日、社会党の村山委員長と自民党を離党した海部元総理との衆院本会議場での対決は261対214となり、自民・社会・さきがけ三党による村山連立政権が勝利、誕生した。皮肉なもので、日本を有事に対応させるべく、武村氏更迭を進言したアメリカが見たのは、社会党委員長の総理就任という驚くべき結果だった。
 北朝鮮情勢にも大きな変化が生じていた。IAEAの核施設査察を巡る駆け引きでは、北朝鮮の度重なる消極的な対応にしびれを切らしたIAEAは、理事会で北朝鮮に対する制裁決議を採択するなど、国際社会も北朝鮮に対しての態度をさらに硬化させた。北朝鮮がIAEAからの即時脱退を発表した6月13日、アメリカのジミー・カーター元大統領が訪朝、16日にはカーター、金日成会談が実現した。朝鮮半島での一触即発の事態をカーター元大統領が平和の使者として食い止めたと、賞賛の声もあった。
 ところが、7月9日に金日成主席が急逝したことで、事態は立ちすくみ、じりじりと後戻りを続けた。結果的にカーター訪朝はその時点での北朝鮮の爆発は防げたものの、問題を温存させただけだった。最近のカーター元大統領のキューバ訪問の様子もある意味で感慨深い。
 日本の政権崩壊をも可能としてしまう北朝鮮は、アメリカが「悪の枢軸」と指定する以前から、日本にとっては最も近くて、厄介、そして危険な存在であることは言うまでもない。最近では東シナ海で沈没した不審船問題、中国・瀋陽での日本総領事館への駆け込み事件、古くて新しい有本恵子さんら日本人拉致問題と、北朝鮮を巡る問題は枚挙に暇がない。つまり北朝鮮の緊張状態は細川政権以来、何ひとつ変わっていないわけで、だからこそ、わが国として、最悪の事態には万全の備えをし、同時に最悪の事態を避けるための努力が必要なのである。
 国家であれ、企業であれ、あらゆる組織運営に必要な4つの要素として、「人、モノ、カネ、情報」があげられる。わが国はこれらの四要素すべてにおいて、北朝鮮との軋轢を抱えている。すべて日本から北朝鮮に吸い上げられていると言ったほうが正しい。

朝銀に1兆円もの公的資金を注入

 第一に、「カネ」の分野だが、私は日本における北朝鮮系の金融機関、朝鮮信用組合に1兆円もの公的資金を投入する問題に関して、99年7月6日、議員として初めて国会(大蔵委員会、現金融財政委員会)の場で取り上げた。同僚だった西村愼吾議員から、
「朝銀に3000億円の公的資金が注入されたのを知ってるか。ワシ、金融のことはようわからへんから、ちょっと調べといて」
 と、聞かされたことがきっかけだった。当時(今もだが)、不良債権処理問題に追われる大蔵委員会(現財政金融委員会)では金融機関へ兆単位の公的資金を注入する問題で与野党が侃々諤々の議論を展開していた。ところが大蔵委員会の委員でさえ、破綻した北朝鮮系の朝銀大阪に3101億円もの公的資金が注入された事実を知らなかった。どうして資金注入が行われたのか、なぜ破綻するにいたったか、誰が管理していたのか、カネはどこへ消えたのか、調べれば調べるほど、驚くべき事実が判明した。自分でも恐ろしくなったし、「ほどほどにしておいたほうが、身のため」という忠告もあった。
 しかし、いっけん金融問題のようでいて、実はわが国の安全保障にかかわる問題と考え、気合を入れた。むしろおおっぴらにすることで、かえって身の安全が守られるとの思いもあった。今では「朝銀問題を考える超党派の会(中山利生会長)」なる組織、仲間もでき心強い。
「朝銀北海」から「朝銀東京」「朝銀大分」まで、主に在日朝鮮人を顧客とする朝銀は、全国に33の本店、170にのぼる支店を有した民族系の金融機関である。他の邦銀、信金、信組と同様、バブルに踊り、破綻の道をひた走った点は同じだが、最大の違いは北朝鮮本国への資金調達のための財布的存在であったことだ。帳簿類も雑、もしくは存在せず、およそ金融機関としての体をなしていない、お友達、親戚縁者間の頼母子講のようなものだった割には、扱い額は億単位で、担保価値のない物件に平気で数十億円の融資を行った。
 結果として、破綻し、金融債務超過分の公的資金を新たな受け皿信組で受け取ってきた。法的根拠である金融再生法の期限が切れる本年3月31日までに、旧信組は次々に破綻、変わって受け皿機関が駆け込みで設立された。現在は全国7つの信組に集約され、これまでに投入された公的資金は総額で6231億円に上る。今後、条件さえ満たせば、6月末までに新設4組合を対象に4000億円が投入される予定だ。合せて1兆円の資金が、間接的に北朝鮮の金正日政府へ「プレゼント」されるわけだが、そうはいかない。ましてや領収書代わりに、ミサイルをお見舞いされてはたまらない。

朝銀と朝鮮総連との密接な関係

 民族系であれ、日本の金融機関である限りは、朝銀関係信組には公的資金を受ける権利はある。しかし、北朝鮮への送金疑惑、おびただしい架空、借名口座の存在、実質的には朝銀本店と言われる朝鮮総連との密接な関係などが、次々と浮上した。2001年11月28日には、朝銀東京の不正資金流用事件に関連して、北朝鮮の駐日大使館ともいえる朝鮮総連中央本部に警視庁の家宅捜索が行われる事態にまで至った。
 特に最後まで受け皿が確定しなかった四信組(ハナ、ミレ、京滋、兵庫ひまわり信用組合)については、新設組合設立の定款に朝鮮総連の役員経験者を役員としないという項目を盛り込ませた。まともな金融機関として体面を保ち、公的資金を受ける信組の役員には、理事長職などに在日朝鮮人の名士を持ってこようとするものだ。が、名士であればあるほど、朝鮮総連とのつながりは強く、現役役員、または役員経験者名が並んでしまう。実際、総連とのかかわりを持たずにいることの方が難しい。
 実際、四信組の役員の中には、総連の実働部隊である非公然組織「学習組」のメンバーを含む該当者が多数存在し、定款に抵触していた。これでは新設信組設立の条件を満たしているとはいえない。この条件を定款に盛り込んだ時点で、通りすがりの在日朝鮮人の名前でも借りてこない限り、信組の体裁は整わないことになる。これでは借名口座ならぬ、借名役員の名がズラリと並ぶかもしれない。問題は、金融庁が役員人事について、申請書による審査しかしておらず、先方の言いなりであったことだ。長年、朝銀の杜撰な運営を放置してきたのは、他でもない日本の甘い対応だったのではないか。
 すでに6000億円もの巨額の公的資金が注入されている。北朝鮮からすればほぼゲームは終わって、あとは夏のボーナス4000億円が入れば「御の字」と考えているかもしれない。いずれにせよ6月末までの攻防は続く。
 今年の正月に続いて、連休中の5月に、私はワシントンを訪れ、アーミテージ国務副長官、ボルトン国務次官補、プリチャード北朝鮮特使らと意見交換をした。アメリカも朝銀問題に対する関心は極めて高い。プリチャード氏はミッキーマウスの時計とネクタイを好むキャリア外交官だが、長年、朝鮮半島問題に関わってきた専門家であり、北への刺激をできるだけ控える慎重派である。概してキャリア外交官には慎重派、リベラル派が多い。政治任命を受けた政府高官は時々の政権次第でがらりと変わる。強硬派が多いブッシュ政権の場合は、94年のカーター訪朝が問題をさらに深く、先延ばしすることになったと受け止める人が多い。対中東政策も同じで、クリントン前大統領が功名心からか、政権末期にパレスチナ問題、中東政策を中途半端にいじったことが、ウサマ・ビンラーディンやアルカーイダをのさばらせ、パレスチナ問題を複雑化にしたと考える。

無防備な日本の情報管理体制

 第二の「情報」については、情報漏洩と情報収集と、二方面で考えねばならない。
 漏洩については、北朝鮮を旅行中、拘束され、2年間にわたり平壌で取り調べを受けた元日経新聞社員の杉島苓氏が月刊誌に寄せた手記は衝撃的であった。北朝鮮当局が杉島氏に関する日本の公安・内調情報を、ほとんど握っていたというくだりには戦慄を覚えた。公安関係者が北朝鮮と通じているなどとは考えたくもないが、では誰が通報したのか。日本の公安への信頼を失われるための北の高等戦術か。大問題である。
 ここで先述した武村官房長官のことを思い出したい。アメリカが武村氏と北朝鮮の関係をどこまで知り得たかは、わからない。実際に、どこまで関係があったかも、私には知り得ない。しかし、アメリカが同盟国とはいえ、時の総理に官房長官の更迭を示唆するのはよほどのことである。他にも、情報漏洩のチャネルは多数存在すると聞く。
 鈴木宗男氏問題で、情報収集力に優れ、ラスプーチンとも呼ばれた佐藤優分析官が注目されたが、情報収集力は情報提供量とバランスすると考えてよいだろう。支援委員会の巨額の予算を私物化していたとあるが、これこそ本来の意味での機密費だったのではないか。その情報を私物化したことが問題だろう。
 情報面で、日本はあまりにも無防備すぎる。何が真の情報、機密か、判断力に欠ける国家として、個人として、致命的な欠陥を感じる。今年は日中友好条約締結30周年だが、その前に、日本の頭越しに米中関係を結んだキッシンジャー氏の判断理由が、日本に伝えると「容易に情報が漏れるから」というのは妙に頷ける。
 またどんなに高能力の情報収集衛星を、大枚はたいて導入しても、情報の分析力を有さずしては、宝の持ち腐れだし、何よりも、自国の持てる情報収集衛星以上の商品を、他国に売り渡すようなことはしない。

北朝鮮には確固たる安保政策が必要

第三はモノだ。度重なる不審船問題も、ミサイル開発、核兵器開発の材料、開発ソフトのいずれもが日本からのモノがほとんどである。第三国を通じたり、部品を分解しての輸出など、巧みに行なわれている。かつてのソ連・東欧貿易におけるCOCOM(対共産圏輸出統制委員会)のように、日本政府はさらに厳しい目を向けなければならない。
 最後に、もっとも大切な「人」だが、長年にわたる両親の訴えにもかかわらず、先日、ようやく11番目の拉致認定対象となった有本恵子さんが神戸出身だったことから、私は時折、両親である有本夫妻と連絡を取り合っている。新拉致議員連盟の副会長にも就任したばかりだ。ご両親に国会の場で参考人として意見陳述をしてもらおうと、衆院安全保障委員会への招致も決めた。
国会招致について、最初は有本夫妻は懐疑的だった。この話もどこかで、誰かに必ずつぶされて、実現しないと言うのだ。よほどこれまで嫌な思いばかりをさせられたのだろう。娘を返してほしいという親として当然、かつ切実な思いを何度も外務省に陳情する度に、不愉快な思いをしてきた夫婦だけに、何を信じてよいのかとの思いは極めて強い。
近く北朝鮮で恵子さんと日本のテレビ局とのインタビューが行われるとの情報に、プロパガンダに使われるだけではないかと、新拉致議連としてインタビューを阻止した。両親は一日も早く、一秒でも早く自分の娘に会いたいとの思いでいっぱいのはずである。その望みを断ち切ってしまったことを謝罪したが、父親の明弘さんは「娘一人が帰れば、それでええなんて思ってませんわ」と毅然とした答えに、母親の嘉代子さんが深く頷いていた。自国民の生命、安全でさえ、まともに守ろうとしない日本政府に何度も裏切られながらも、立派な態度だと感心するしかなかった。
つねに日本の政権を揺さぶってきた北朝鮮情勢…。振り回される日本…。日韓共同開催のサッカーW杯に対抗し、大枚を投じて行われるアリラン祭の開催、成田空港でブランド品に身を包んだ姿をカメラの放列にさらけ出した金正男。一方で食料不足と貧困は続き、今回の瀋陽事件をはじめ、亡命予備軍が何十万人もいるという北朝鮮である。かつて東欧ハンガリー国境から鉄条網を破り、一人抜け、二人抜けし、ついにはベルリンの壁は崩壊した。最近の北朝鮮情報はそんな兆しが感じられるが、道は長い。
父金日成主席の死後、公の場で一言も発する事がなく、謎の人物として面白、おかしく扱われることの多かった金正日氏は、相当まともで、論理的な人物だとの評がある。一見、何をしでかすかわからない国のようで、実はきわめて冷静な国だと、北朝鮮を詳しく知る人たちは口を揃えて言う。ただ「金王朝」を守るためには何ごとも躊躇しない恐ろしさはある。これまでは国際社会が北朝鮮の暴発を恐れたが、最近は北朝鮮がブッシュ政権は何をしでかすかわからないと恐れているとの見方がある。この変化が北朝鮮をして、拉致問題を扱う日朝赤十字会談の開催にも表れている。
細川政権の頃にはなかった有事法制、ACSA(日米物品役務相互提供協定)、SACO(沖縄に関する日米特別行動委員会)、周辺事態法など、法的な整備も進んできた。いわゆる有事法制三法案も審議の真っ最中だ。北朝鮮情勢次第で政権が振り回されてきた原因は北朝鮮というよりも、安保政策で党内が二分されたり、まとまらない政党や、180度政策が異なる政党同士の連立政権のあり方に問題がある。最近、野党の間で「第二次細川政権を作ろう」との動きがあると聞くが、ゾッとする。中途半端な政界再編はちょっとの間は楽しいが、結局は時間の無駄だ。真の政界再編への引き金を小泉総理が引くことができるのか。大詰めを迎えた今国会も、まだまだ波乱含みだ。
http://www.yuriko.or.jp/column/column2002/column020704.shtml

正論2002年7月号