2009年8月14日金曜日

【道州制】 大前 研一

 47都道府県という現在の制度では、当たり前だが47人の知事がいる。このうち道州制に賛成しているのは3人程度だ。それ以外は反対派である。ところが、よく考えてみると、道州制導入後は、知事の席は11しか必要ないのだ。つまり、自分達のポストが4分の1以下に減ってしまう。自分の地位を守りたい知事の多くが反対するのは、簡単に予想がつく。

 知事の中にはまだ1期目の人もいる。そういう知事は内心で「あと3期はできる」と思っているかもしれない。それがまもなく道州制に移行して県知事の席がなくなるとなったらどうだろう。命がけで反対するに決まっている。それに、現在の県知事の中には、「自分は道州の知事という器ではない。選挙をしても落選するだろう」と、志の低い人もいる。せめて「ステップアップして、道州の知事になってやろう」と意欲を持っている人ならいいのだが。

 役所も絶対に反対するだろう。何しろ役所にとっては道州制になって得することがない。天下り先が47から10前後になるのだから。今の都道府県の役所に行ってみれば分かるが、助役とか副知事とか局長のレベルで、いかに中央の人がはまり込んでいるか、もう驚きを通り越してあきれるばかりだ。ところが道州制が実現したら、彼らのポストが減るから要らなくなるわけだ。総務省がかたくなに反対するのは明らかだ。

 だからこそ、わたしは抜き打ちでもいいから、やってしまう人が出てこないと実現はできないと言っているのである。議論していては駄目だ。議論よりも、道州制の意義を信じきって、やりとげる真の政治家が必要なのだ。道州制が日本を救うという信念を持つ識者の人たちの力にかかっているのである。

 反対するのは県知事や役所の人間だけではない。マスコミが反対派に回るのも確実だ。なぜなら、地方のマスコミ、つまりテレビ局や新聞社も県単位で利権を持っているからだ。例えば、山形第4の民放である山形さくらんぼテレビのような後発のテレビ局は、道州制が導入されたらどうなってしまうのだろうか。彼らのようなテレビ局が存在できたのは、“さくらんぼ”という名前が示しているように「県」という限られた範囲があったからだ。道州制への流れが本格的に起こったら、既得権益を失いかねない新聞社やテレビ局などが一斉に反対することだろう。

 するとマスコミでは「道州制に反対か賛成か」という議論が始まって、「反対派が99、賛成が1」などという結果が出るのだ。マスコミを支配している人たちは、自分の利権を考えて反対派に回り、賛成派に立つのは日本の将来と発展を考えてという立場の人だけ。それは1くらいということになる。そうなれば当然、マスコミも99の意見に乗せられて話が進み、議論をすればするほどわけが分からないことになる。挙句の果てに、中途半端な道州制になってしまう可能性もある。

 もっともテレビ局に関しては、インターネットがもっと普及したら、番組もネットを通じて視聴するスタイルに切り替わってしまい、現在の都道府県別のテレビ局の利権など関係なくなる。現在必死でしがみついているその利権も、いずれ価値がなくなるに違いない。だから、わたしには、守るべき価値のない利権にしか見えないのだが。

3ステップで道州制に移行するのがよい

 さきほど「中途半端な道州制」という言葉を使った。中途半端とはどういうことか。これは、府県連合みたいなものをイメージしてもらえば分かりやすい。

 東北地方は「東北道」という一つの州になるが、山形県や宮城県など現在の県も依然として残り、それぞれに県知事もいるような感じだ。こうして出来上がるのは、それぞれの県が連合して「州」を形成するという程度の道州制で、それでは結局、オブリーク(間接的)な統治機構じゃないかということになる。もちろん屋上屋では経費がかさみ、行政の透明性も後退することになる。

 そんなことにならないためには、道州制に移行するまでの流れを明確にしておくことが大事だ。だから、わたしは移行するための3ステップを提案している。

 まず第1段階では、地方にある国の出先機関を統合する。第2段階では、府県連合を作る。例えば九州なら、知事が集まり、九州全体の議会を一つにする。そして、これまで国が握っていた立法や行政の権限も府県連合に移譲する。

 そして第3段階で、道州知事を直接選挙で選ぶ。道州知事は、対外的にはプレジデント(大統領)みたいな存在だ。このようにして、地方での行政権と立法権を確立していくのである。道州制を実現するには、こういう三つのステップを明確に決めていかないといけない。このアイデアは、わたしが1995年の文芸春秋に書いたことだ。

本来のメリットは長期衰退の日本を救うこと

 わたしには一つ気がかりがある。推進派でも、道州制の本当のメリットを理解していない人があまりにも多いことだ。わたし自身は昔から道州制推進派の人たちに何度も、そのメリット、意義を説明している。しかし、こういっては語弊もあろうが、彼らは理解力に乏しいと感じることしきりだ。

 彼らには、道州制を「市町村合併の延長」としてとらえている人が非常に多い。「市町村合併が終わったから、次は都道府県の合併だ。それが自然の流れだな」なんてことを言う人もいる。何度も説明しているのに、返ってくる言葉がそんなだと、わたしもがくぜんとして、もう説明する気がなくなってしまうのだ。

 強調しておくが、道州制は市町村合併とはまったく異なる次元の話だ。決して市町村合併の延長ではない。道州制の本当のメリットとは、繁栄を世界から持ってくることだ。納税者のお金を使わずに、世界中に余っているお金を呼び込む単位、産業基盤を確立する単位、としての道州制なのである。現在の推進派でもそのイメージを持っている人は少ない。何しろ道州制にして発展した姿を頭に描くことができないのだから。

 だが、世界で起こっていることをよく考えてほしい。中国がなぜ今、これだけ発展しているのかを。それに対してロシアがダメなままなのはどうしてなのかを。

 ロシアはいまだに連邦中央政府の強いコントロール下にある地域が多い。それに対して中国は権力を地方に譲渡し、地方は世界中から企業や投資資金を呼び込んでいる。だから中国には勢いがある。中国の現在の姿を見れば、道州制が世界からお金を呼び込むための単位であり、外資などに対する特別優遇措置などを定める単位であり、自立経済の単位である、ということが分かるはずだ。

 では、なぜ日本が世界からお金を呼び込む必要があるのか。

 実は日本は、すべてのピークを1990年代に迎えて、現在は長期衰退の道を歩み始めているのだ。近ごろ、中国特需やリストラの成果などで若干、景気が上向きになり、法人所得も史上最高の50兆円となっているものの、長期的には衰退しつつあることは間違いない。それは人口でも給料でも、すべての統計を見れば分かることだ。

そして長期衰退から脱却するための手段が、統治機構を変えることなのだ。日本は、もはや中央集権国家としては終わってしまった国だ。これからは地域ごとに統治機関を持ち繁栄を競争するようにならないと新たな活力は出てこない。そして北海道や九州など、地域ごとに違うリズム、違う方針を打ち出していく必要がある。

 北海道はおそらく極東ロシア開発の前線基地となるだろう。先進国の企業がそこに集結してくる。第二外国語はロシア語、ということも考えられる。逆に九州では東アジアの繁栄の真っただ中で黄海経済圏のハブの一つとなるだろう。第二外国語は中国語、そして多くの人が小学校から韓国語を学ぶことも考えられる。全国一律に英語を、という状況でなくていいのだ。

 航空ネットワークも、金融市場も、東京中心ではなくそれぞれの道州が決めていく問題となる。かなりの立法権および徴税権を道州に渡し、繁栄の方程式を自立的に作っていくことができるようにしなくてはいけない。世界中から資本、企業、技術、人材、情報を呼び込む競争が始まる。そして繁栄に取り残されたところは、逆に癒やしを求めるバケーション客とか高齢者のリタイアメントタウンなどで生計を立てることになる。米国で言えばモンタナ州とかバーモント州、ということになる。

 道州ごとに経済を膨らませるプランを立て、それをベースに繁栄を競うことになる。納税者の税金で景気を刺激するのではなく、世界に有り余る資金を吸引して繁栄する。それがわたしの提唱する「地域国家論」に基づく道州制というものだ。

日本が進むべき道は複数あっていい

 もし道州制に移行しないでこのまま中央集権で凝り固まって大きな変革ができずに今までの延長線上の道を進んだらどうなるか。

 米国は年間何百万人という規模の移民を受け入れて、ついに人口は3億人を突破した。それに対して日本は人口減少と高齢化に悩まされている。これまでは米国と日本は、一人あたりGDPはほぼ同じで、経済規模も2対1の関係だったが、今後その差は広がる一方だ。2050年には4対1くらいになっていると推定される。このまま日本の力が弱まれば、インド、中国、EUとの力関係も変わってくる。今のところ世界の経済の10%を日本が担っているが、維持できずに5%前後まで落ち込む可能性が高い。

 そういう危機感が、国民にも政府にも役人にも足りない。「まだ景気が回復するかもしれない」「デフレ回復宣言をしないといけない」などと言っている場合ではないのだ。長期衰退の道からどうやって脱却するか。今、統治機構の抜本的変革をてこに、新しい浮揚力を付ける道を真剣に考えなくてはいけない。

 そのためには21世紀の日本の進むべき道は一つではない、複数のアプローチがあっていいのだ。それを人口1000万人くらいの広域地域(他国なら十分な国の大きさ)ごとにトライする。そして、そうした必死の努力の結果、うまく行くところ、行かないところがでてくる。地方が中央の施策を待っているのではなく、世界から直接投資という形での「成績表」を突きつけてもらう。そうした死にものぐるいの努力の中から、日本全体が進むべき道が見えてくるのだ。

 机上の議論をいくらやっても少子高齢化を脱却する抜本策は出てこない。戦後60年間でたまったあかを落とすのも容易ではない。ガラガラぽん、とわたしが「平成維新」や「新国富論」を書いたころから本質は何も変わっていない。いやそうした著書で指摘した中央集権の弊害はむしろ広がっている。だからこそ、既得権益者や中央政府の役人達がどんなに反対しても、この振り子は今までと反対方向に振らなくてはいけない。

 安倍政権にはその長期ビジョンを持ち、信念を持って決断してもらいたい。2010年に工程表を作る、というのではいかにも遅すぎる。“その頃には実行に移す”、と是非言ってもらいたい。またそのくらいのスピードで進まなければBRIC'sやその他の新興国の追い上げもあり、日本の地盤沈下は加速するだけである。