2010年11月27日土曜日

安倍貞任・宗任の墓

安倍貞任・宗任の墓


京都清水の舞台真下の桜樹のなかにアテルイの記念碑が建立をされている。これは、近年建立された新しいものであるが同じ蝦夷であった安倍貞任・宗任の墓の言い伝えが同じ京都でも京北町に残されている。


今から約950年前の後冷泉天皇の時代 に行われた源頼義による奥州討伐・厨川の戦い(前九年の役)で敗れた安倍貞任・宗任の墓の存在が京北町下宇津に存在すると言い伝えられている。


安倍貞任・宗任や厨川の戦いに関しては高橋克彦氏の”炎立つ”を読まれた方は概略はご存知であろうと思う。東北(岩手県)出身の高橋氏の小説と京北町の言い伝えが微妙に違うのはご愛嬌としておこう。


過去に京都新聞社が刊行した書籍の中でもこの安倍貞任・宗任の墓に関して書かれていたような記憶があるが書籍のタイトルを忘れてしまい思い出せないでいる。


言い伝えでは、次の2点がポイントとなっている。1点目は、何ゆえに京北町の下宇津周辺なのかということである。話によれば、単に処刑をせず極刑(トゲのある柚の木で打殺し)に処し死体をバラバラに切断し近くの山へ埋葬をせよ。なお、埋葬地は、東西南北に流れる川の近くがいいというのが陰陽師のみたてであった。その条件にあった場所として選ばれたのが嵐山を流れる桂川の上流域である上桂川・下宇津周辺が選ばれた理由である。


地図でいえば栗生谷山のすそを東西に流れている上桂川が下宇津で南北に流れを変える。遺体を切り分けた場所が、宇津字弓槻の”切り畑”とされ現在も地名として残っているようである。近くは何度も通っていそうなのだが、明確にはわからない。


下宇津から日吉町中世木へ通じる峠を人尾峠とよぶ。この人尾峠から日吉町天若へ通ずる道を地元の方は貞任峠とよぶ。貞任峠の道端にあるという祠(気がつかなかった)は貞任の首塚と言い伝えられ人尾峠には安倍貞任の足を埋葬したとされ、頂上にはお地蔵さんがまつられていると聞く。


さて、では安倍貞任の胴体と安倍宗任の遺体はどこに埋められたのであろうか。残念ながら安倍貞任の胴体と安倍宗任の遺体に関しての言い伝えは聞いた記憶も文献・書籍も目にした記憶も自分にはない。


2点目は柚の話である。

厨川の戦いで安倍貞任は討ち死にをしたのであるが遺体は生きて捕らわれた安倍宗任と共に京に送られ極刑(トゲのある柚の木で打殺し)に処されている。安倍宗任は柚の木の鞭で打殺されるのであるが宗任は死ぬ間際に”宇津の川上ユウ(柚)を成らさぬ”と言い絶命したとされている。それ以来、上桂川の宇津から川上(上流)には柚が育たないという。


この柚の言い伝えを聞くまで自分は気にも留めないでいたのだが、上桂川は自分が鮎つりを覚えた川でもあり”そういえば、柚の樹は見た記憶がない”と気がつく。上桂川から深見峠を越えると美山川となり由良川の上流部となり日本海に注ぐ。この美山では小粒のみかんを食べた記憶がある。


みかんと柚では違うではあろうが同じ柑橘類と考えた場合、みかんが育つのであるから柚も・・・と考えれるのは素人の浅はかな考であろうか?


”安倍貞任・宗任の墓が京北町に存在する”という話を前は時折ブログ等で見うけられるのであるが、最近はとんと見かけなくなってしまった。自分も京都に戻ったら探してみようと思っているがようやくそれが叶いそうである。早ければこの秋、紅葉の季節には実現しそうである。