2010年1月28日木曜日

【政治資金規正法】 江田憲司の言い訳

 陸山会の不動産による政治資金の運用であるが、現実には散々「小沢一郎」ただ一人と言いながら、総務省分だけでも10名以上。地方の選挙管理委員会へ届けを出し、見なくしたものが約120名もいたと言う話のオチまで付いている。

近頃では、「政治資金で不動産を」などとはマスコミも言わなくなった。

政治資金で秘書の寮を建てたとして散々たたいていたのであるが、小沢氏は秘書数も多く中長期的に考えた場合、賃貸よりは購入をしたほうが政治資金を効率よく使える。

なによりも、賃貸であれば支払えば消えてなくなるが、土地であれば選挙の場合に担保で銀行からお金も借りやすい。

さて、江田憲司氏であるが、彼のブログには「この建物が、江田や家族、親族の私物になることは決してないように手当てをしました。」とある。有権者には本当か嘘かはまったく見えないしどのような手当てをしたのであろうか。

また「賃料も保証料(何百万円)もバカ高く、中長期的にみれば新築した方が安上がりという判断でした。」とも書かれているのだが、小沢氏の言い分とどこが違うのであろうか。

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 いやあ、えらい迷惑ですよ。例の小沢さんの不動産による政治資金の運用問題。10物件以上10億円以上の「運用」と、私の、たった一つしかない地元の事務所の建物が同一視されて、あれこれ言われる(まだ一部ブログの段階ですが)。

 この件では、どこに出てもどこを突つかれても一切問題はないと胸を張れるので、しっかり「説明責任」を果たしますよ! いいですか?

 くだんの物件は、先ほどもふれた私の地元の唯一の事務所(青葉台)。そこで現に私も秘書も日々働いている。支援者もひっきりなしに出入りしているし、多くのメディアの人も取材にくる。まさに江田の「政治資金管理団体」の事務所なのだから、そのお金でプレハブを建てるのは、献金の目的にも沿っているし、法的道義的にも当時、何ら問題はありませんでした。

 このプレハブは、選挙区変更に伴い、2003年に駐車場跡の土地を借りて新しく建てました(費用840万円・収支報告で公開済)。借りることも当然考えたのですが、地元青葉台商店街には適当な空き店舗がなく、賃料も保証料(何百万円)もバカ高く、中長期的にみれば新築した方が安上がりという判断でした。

 当時は(最近まで)無所属だったので、他の議員のように政党支部ももちろんなく(だから支部所有というわけにもいかず)、かといって、政治活動に使うのだから江田個人の「私有」というのもおかしい。「政治資金管理団体」の所有というのは、至極当然の処理だったわけです。

 それが、例の小沢問題の不動産問題発覚(07年)で、その後、法律で「政治資金管理団体」による不動産取得が禁止された。ただ、江田のような場合は、法的に継続所有が許されたわけです。(そりゃそうでしょう、許されなければせっかく建てたプレハブは壊さなければならないし、他に譲渡といっても誰にするんですか。政治家の事務所として現に政治活動に使っているんですよ)。

 ですから、当時も今も適法で何ら問題ないのですが、ただ、その時に、私も微塵も疑われたくなかったので、公私の峻別を対外的に明らかにするため、政治資金管理団体(憲政研究会)の規約で、解散する時は取り壊すか、第三者(江田本人や家族、親族を除く。)に譲渡することにして、この建物が、江田や家族、親族の私物になることは決してないように手当てをしました。

 昨年、「みんなの党」を結成し、私もはれて(?)政党支部を設置できるようになったため、そこにこの建物を譲渡することも一案とは思いますが(そうすれば私だけが政治資金管理団体所有ということで目立つということはなくなりますが)、現状で何ら問題のない案件でわざわざそういった操作をするのも、これまた、何か疑われてもいやだということで、今までどおりとしてきました。 

 私はこれまでの4回の選挙戦で、企業団体献金は一円も受け取らない、選挙の時にどの業界、どの労組の支援もうけないという立場を堅持してきました。自慢じゃありませんが、全国会議員で一番貧乏な政治家ですよ。それが、小沢さんのような何億円というカネを、しかも公共事業利権(ゼネコン)から集めて多くの不動産で運用している政治家と同一視されて批判される。極々一部の人からの意図的な批判だとは思いますが、政治家をやっていてつくづく悲しいことだと思います。

(参考)憲政研究会 規約 抜粋

(10 所有不動産)  本会を解散する時は、その所有する不動産は、取り壊すか、江田憲司氏以外の第三者(江田憲司氏の家族、親族を除く。)に譲渡しなければならない。

2010年1月27日水曜日

検察審査会に関して初めて言及をしている放送

刑事訴訟法第339条につぎのような条文がある。

2.起訴状に記載された事実が真実であつても、何らの罪となるべき事実を包含していないとき。公訴を棄却しなければならない。


『どうなる?政治とカネ"小沢一郎 VS 検察"最終戦争の舞台裏』(1)


『どうなる?政治とカネ"小沢一郎 VS 検察"最終戦争の舞台裏』(2)


『どうなる?政治とカネ"小沢一郎 VS 検察"最終戦争の舞台裏』(3)


『どうなる?政治とカネ"小沢一郎 VS 検察"最終戦争の舞台裏』(4)


『どうなる?政治とカネ"小沢一郎 VS 検察"最終戦争の舞台裏』(5)

2010年1月24日日曜日

【沖縄密約】 西山太吉の妻啓子「逆風満帆」

 記事だけを残し、ソースを残しておいていないというミス。西山太吉氏の記事は「逆風満帆」からであった事から、その関連であろうか?

日付けもこの記事を移転元が2010/1/24
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いつもなら声を荒らげ、睨みつけるように反論してくる夫が黙っている。啓子は身を縮めるような思いで待った。
いつもなら声を荒らげ、睨みつけるように反論してくる夫が黙っている。啓子は身を縮めるような思いで待った。

「あのね」

か細い声が聞こえた。拝むような表情の夫が続ける。
「ギャンブルしているときだけは、すべてを忘れられるんだ」

啓子は何も言えなかった。さよならと一言、口に出してしまえば終わるのに――。

「結局、決断できないのは私自身だったのね。私が放りだしたら、ひとりでは生きていけないだろう。私さえ我慢すれば、まわりに迷惑をかけずにすむ。そう思っていたけど、言い訳だったのかもしれない。だから、どんなにわがまま言っても大丈夫だろうって、主人から見透かされてしまうのね。ただ、心の底のどこかに、これではあまりにもかわいそうすぎるという気持ちがあったことも確かでした。このまま終わってほしくない、と」

別れを選択しなかったのではない。一緒にいることを選択したのでもない。どちらも選択できなかった。選択できないまま、日々に押し流されてきたというほうが近いのかもしれない。

九一年、夫が六十歳で青果会社を定年退職すると、マンションでのふたり暮らしはいっそう息苦しくなった。

競艇が開かれていない日はただ、部屋のなかにこもる。新聞社を辞めて以来、夫が目にするのは新聞とテレビのニュース番組ぐらい。このままでは、頭が錆びついてしまう。そう啓子は案じていた。

「パパ、本屋に行ってきて。一冊でもいいから本を買って勉強しないと、時代に遅れてしまいますよ」

啓子が小言のように繰り返しても聞き流す。

「本なんか読んでも役に立たない。現実に俺の身に起きたことを考えてみろ」

確かに、生半可な仕打ちではなかった。天職とも言える新聞記者の仕事をとりあげられ、郷里でやりたくもない仕事をして、政治の話ができるような相手も見当たらない。でも、と啓子は言い返す。

「でも、男でしょ。だったら撥ね返さないとだめじゃない。しっかりしてよ」

ためこんでいた本音をぶつけると、夫は激昂した。
「お前に何がわかるんだ。偉そうに」

ああ、かわいそうな人なんだ。事件がこの人を変えてしまったんだ。啓子はそう思いこむことで受け流してきた。それでいて、気になる本を見つけると、夫が手にとろうとしないことがわかっていても買ってきた。

やはり、立ち直ってほしかった。このまま死んでしまうのだけはもったいない。啓子はそう思っていた。夫としての西山太吉に翻弄されながら、新聞記者の西山太吉を忘れられずにいた。その再生をどこまでも信じようとしていたのは、ほかならぬ啓子だった。

啓子はタンスの引き出しに、真珠のブローチを仕舞っている。

かつて、夫が親しくしていた政治家の家を訪ねたとき、たまたま身内の結婚祝いを選ぶために呼ばれていた宝石商から買ったものだ。家に帰ってくると、小さな箱を背広のポケットから取り出して、「はい、これっ」と、ぶっきらぼうにそれだけ言って渡された。

「あれは結婚七年目でしたかね。きっと、宝石商の方から『よければ、奥様にも』とか勧められて、断りにくかったのか、ちょっと格好つけようとしたんじゃないでしょうか。あとにもさきにも主人から宝飾品なんてもらったことはありません。これがたったひとつの贈り物です」

十個の淡い桃色の珠は、かつて慌ただしいながらも穏やかだった日々があった証にも見える。それを、啓子はずっと持ち続けてきた。

奇跡は訪れた――明らかになった密約の存在

退職後、夫はボランティアで早朝のごみ拾いをはじめた。近所を約一時間かけて歩き、ポリ袋にごみを拾って入れる。社会とつながる、細い糸のようだった。それが日課となって九年近くすぎようとしていた二〇〇〇年五月二十九日、転機は突然、訪れた。

ごみ拾いから戻ってしばらくすると、電話が鳴った。啓子が取ると、相手は毎日新聞の記者を名乗った。なぜ、いまごろになって。いぶかりながら用件をたずねた。

「今朝の朝日新聞が密約を裏づける資料が出た、と一面で報じているんです。西山さんにコメントをいただきたいのですが」

あわてて夫に替わった。受話器を握り前屈みに話をする後ろ姿を見ながら、啓子は思った。

ああ、間に合ったんだわ。

電話を切ると、夫は玄関へ向かった。

「ちょっと新聞買ってくる」

飛び出すように出て行ったきり、なかなか帰ってこない。戻ってきたとき、手にした新聞はくしゃくしゃになっていた。

〈朝日新聞と琉球大の我部(がべ)政明教授は、沖縄返還(一九七二年五月)に至る日米両国政府の交渉の実態と最終結果を詳しく記録した米公文書のつづりを入手した。それによると、返還土地の原状回復補償費四百万ドルを日本政府が肩代わりする▽日本政府が物品・役務で負担する基地施設改善移転費六千五百万ドルなどの「秘密枠」をつくる――がいずれも極秘扱いの密約だったことが明らかになった〉

原状回復補償費四百万ドルをめぐる密約とは、かつて夫が問い、そのことによって罪を着せられた密約そのものだった。それを一面だけでなく、二、三面も見開きで報じていた。破格の扱いだった。

台所のテーブルに新聞を置くと、夫はつぶやくように言った。

「あんたの言ったとおりだったな」

口にしたのはそれだけだったが、啓子にはその意味がわかった。

「パパねえ、アメリカってでたらめなところのある国だけど、きっと公文書とかが出てくるわよ。密約があったことは、きっと証明されるから」

事件が起きた直後から、啓子はしきりにこう繰り返していたのだ。

予言したのではない。はたして公文書に記録されているのか。夫が生きているうちに出てくるのか。根拠も確信もなく、ただ祈るような思いで口にしていた。「いつか出てくるわよ」。そうとでも言わなければ、ほかにかける言葉が見つからなかった。

そのたびに夫は返事をしなかったが、確かに聞いていたようだ。淡い期待に望みをつないでも、実際に出てこなければ、ふたたび失意を重ねることになる。そう思って聞き流すふりをしていたのだろう。

「ああ、奇跡が起きたんだと思いました。主人はこのまま名誉を回復させることなく死んでいくものだとあきらめかけていましたから。長いこと、うれしいという気持ちを忘れていました。もう、味わうことはできないんだろうと思っていました。だから、こんな奇跡に遭遇できて、辛かったことも少しは間引かれたかしら」

事件が起き、夫が新聞記者を辞めてから二十六年。暗闇に閉ざされたような日々だった。しかし、その歳月はまた、一般に二十五年という米公文書の機密が解除されるまでに必要な時間でもあった。啓子もまた、密約によってもたらされた屈辱をともに生きていた。

朝日新聞には、沖縄返還交渉当時の責任者だった吉野文六・アメリカ局長のコメントが載っていた。

〈確かにサインは私のものだ。ただ、スナイダー公使とそのような話をした覚えはない。米側が議会に説明するためと頼まれてサインをしたのかも知れない。このような密約を交わしたことはなく、これに該当する文書は日本側にはないだろう〉

署名はみずからのものと認めながら、内容はまったく覚えていないという。何と奇妙な回答だろう。これに続き、外相の河野洋平は翌日、密約を否定。アメリカ政府による公式文書の内容を一蹴した。

〇二年にも、密約を裏づける米公文書は見つかった。

〈日本政府が神経をとがらせているのは、400万ドルという数字と、この問題に対する日米間の密約が公にならないようにすることだ〉

七二年六月、キッシンジャー大統領補佐官の来日を前にした米国家安全保障会議のブリーフィング・メモにそう記されていた。

日韓サッカーワールドカップの決勝が行われる二日前の六月二十八日、追われるように去った古巣の毎日新聞紙上に夫の談話が載った。

〈日米が行ったのは、密約どころか返還協定の偽造だ。外交、防衛に関する国家機密は行政、司法あらゆる組織を動員して押さえにかかる。国家のウソも私の倫理問題にすり替えられた。この文書で新しいのは、事件後に「密約」と認めていた点だ。日本政府はシラを切り通しているが、米国は追及されたら密約と認める構えだった。そこに民主主義の定着の違いを感じる〉

〇〇年に見つかった公文書が沖縄返還の交渉中に作成されたものだったのに対し、これは沖縄返還協定が結ばれた後、つまりは確定した事実として記録されていた。密約は完全に裏付けられた。

その秋、西山は東京・竹橋のかつての勤務先である毎日新聞本社ビルに足を踏み入れた。辞職して以来、初めてだった。あのころと変わらない正面玄関の扉を開け、先導されて地下へ降りた。毎日新聞労組が開いたシンポジウムに招かれていた。

〈情報はだれのものか〉

シンポジウムでは、ジャーナリストの筑紫哲也や上智大学教授の田島泰彦と並んで、マイクを握った。会場となった会議室に立ち見がでるほどの観衆がつめかけていた。

質疑応答に移ると、会場からいくつも手が挙がった。指名を受けて、五十代と思われる男性が立ち上がった。「西山さんは、裁判で国を追及することは考えていらっしゃらないのでしょうか」

確かに、政府が密約を認めることによってしか、名誉は回復されない。このまま沈黙を守っていては、国が密約を隠し、国民をだまして協定に嘘を書いた事実が消されてしまう。それに、自分が矢面に立たなければ、だれかが汚名を晴らしてくれるわけではない。

「いま、検討しているところです」

西山はそう答えたものの、実際には、あきらめに似た思いにとらわれていた。

事件から三十年以上がすぎ、いわゆる「時効」のようなものがあるのではないかと感じていた。そのうえ、当時の裁判で弁護団長を務め、その後、最高裁判事にまでなった弁護士の大野正男に相談をもちかけたものの、難色を示されていた。高齢で病と闘っているとも聞いたが、もっとも信頼を寄せる弁護士だっただけに、失意は大きかった。

大野の反応は、啓子にも意外だった。

この裁判は、西山というひとりの新聞記者の問題でなく、報道の自由や「知る権利」などの重要な問題を孕んでいる――。かつて、そう教えてくれたのは、ほかならぬ大野だった。

週刊誌の中吊りに「情通記者」などと大きく刷り込まれ、子どもが学校でいじめられている、と相談したときには、「大丈夫ですよ。息子さんには、お父さんとは別の人格がありますから」
という言葉に救われた。

夫が冒頭陳述をした第一回公判の日の夜には、わざわざ啓子にねぎらいの電話をくれた。確かな法廷戦術だけでなく、その人間性にも頼っていた。

夫はまたも、ひとりぼっちになっていた。

この人をちゃんと死なせなきゃ

だが、シンポジウムから八ヵ月後、一通の手紙が届く。質疑応答のとき、裁判に訴えるつもりはないかとたずねた男性からだった。

〈国と対等の立場で、闘いの場をもちませんか〉

手紙の主は、静岡の藤森克美(当時五十八歳)という弁護士だった。さらに一年あまりがすぎたころには、三通目の手紙が届いた。

〈だれも手を挙げる人がいなければ、挑戦したい気持ちがあります〉

沖縄返還後に作成され、密約が明記された米公文書がみつかった〇二年を起点とすると、国家賠償請求訴訟を起こせる期限の三年が迫るとして決断を求めるものだった。

「夫はひそかに名誉を回復する道筋を思い描きながらも、裁判になれば、あのときのように男女関係を蒸し返されるだろうという恐怖があったようです。それでも、このままでは、密約という国の嘘が消されてしまう。法廷で着せられた汚名は、法廷で雪ぐほかない。そのとき相談はありませんでしたが、そう考えるようになったのだと思います」
決断の理由を、啓子はのちに聞かされた。

「民主主義というより前に、コンチクショウだよ」

〇五年四月二十五日。弁護士の藤森は静岡から新幹線に乗り、東京・霞が関の東京地裁に出向いた。訴状には、ベトナム戦争をめぐる米国防総省の極秘文書を報じた新聞の発行差し止めを政府が求めた裁判で、米連邦最高裁が示した判決文を引いた。

〈政府の秘密は、政治の誤りを永続化させる〉

このとき、夫は東京へ行かなかった。提訴したにもかかわらず、記者会見で男女問題について聞かれるのをまだ恐れていた。

この朝、兵庫県尼崎市ではJR福知山線の列車が脱線してマンションに激突する事故が起きていた。死者は百七人。事故の影響で、提訴を取り上げた各紙の記事は社会面の片隅に小さく載っただけだった。

アメリカで公文書が相次いで見つかった後、夫は少しずつ変わってきた。突然、苛立ちをぶつけることが減り、癇癪を起こしても、はるかに穏やかになった。塊のようだった心が解けるように、感情が少しずつ表にでるようにもなっていた。

ある日、日課の散歩から戻った夫が突然、玄関で泣きだした。
「『ギョロ太』が死んだー」

子どものように泣きじゃくる姿に、啓子は驚いた。聞けば、自宅があるマンション近くの駐車場で猫の死体を見つけ、ちょうど姿が見えなくなっていた飼い猫だと思い込んだのだ。まもなく別の猫だとわかったが、夫がそこまで感情をあらわにしたことはなかった。おそらく、母親を亡くしたとき以来ではないだろうか。啓子は確かな変化を感じとった。

そしていつしか、別れようとの思いは胸の奥底に沈んでいった。

「最後まで面倒をみなければ。この人をちゃんと死なせなきゃ」

啓子はそう強く思うようになっていた。

〇七年五月、刷り上がったばかりの見本本が出版社から送られてきた。『沖縄密約??「情報犯罪」と日米同盟』(岩波新書)。夫が書いたものだ。印刷された紙の匂いをいとおしむように、夫は何度もページをめくっている。
パソコンは使えず、ワープロもない。筆圧の強いくせ字をノートに書きつける。ざら紙に原稿を書いていた新聞記者時代のように、そうやって原稿用紙のマス目を一つずつ埋めていった。裁判所に提出した意見陳述書を大幅に加筆・修正して、一冊にまとめた。

そのなかに、象徴的な言葉がある。
〈lump sum(一括払い)〉

個別の経費を積み上げるのではなく、一括でまとめて支払う方法を指す。米国務省が専門家に依頼して交渉プロセスをまとめた「沖縄返還――省庁間調整のケース・スタディ」という百十六ページに及ぶ公文書のなかで使われていた。日本が支払ったのは、総額三億二千万ドルという「つかみ金」だった。そこに、密約がもぐり込ませられた。

それはまた、このときちょうど交渉中だった在日米軍再編をめぐり、日本側の負担が「三兆円」とされたことと二重写しになった。

六九年に佐藤・ニクソン共同声明で沖縄返還が宣言される前に、日本側が支払う金額について大蔵省と米財務省が密かに合意していたこともわかった。公文書には、蔵相だった福田赳夫が漏らした日本政府の本音が記されている。

〈「沖縄を買い取った」との印象を与えたくない〉
そこから、密約は生まれた。

啓子は語りかけた。
「三十五年かかって、ようやくここまで来たわね」

夫が表舞台に戻ることは二度とないだろう、と長い間思ってきた。このまま朽ちるように終わるんだろう、とあきらめていた。一方で、そうした弱気を振り払うように、夫にはずっと、言い続けていた。

「本なんてすぐには書けないんだから、今から準備しといて」

「すべて、ここ(頭)に入っているから、いつでも書ける。大丈夫さ」

そううそぶきながら、原稿用紙になかなか向かおうとはしなかった。
「でも、死んだら頭のなかはあけられないのよ」

啓子が望んでいたとおり、裁判が注目を浴びはじめた〇六年の夏に、出版社から声がかかった。夫はようやく重い腰をあげる。年が明けると自室にこもり、三ヵ月で書き上げた。

できあがったばかりの本を前に、啓子は冗談のように投げかけた。

「パパ、何か私に言うことない?」
すぐに察したのだろう。夫は苦りきった顔で半身をそむけた。そんなこと僕に言わせるんか、と小声を漏らす。
「あり……」
そう言いかけたものの、後が続かない。啓子の視線を感じてか、プイッと横を向いて付け足した。
「がと」

それが、精一杯の表現だった。

「本を書かないと、あの人が死んだ後に何も残らない。あの人が新聞記者だった証というか、生きてきた意味がなくなってしまうんじゃないか、と。私が言うのもおかしいかもしれませんが、やっぱりあの人は優秀な記者だったのだと思います。六五年の日韓国交正常化交渉の取材のときは寝言で『線引き、線引き』って、うなされてたのを

覚えています。

その後も一面を飾るスクープをいくつも書きましたし、読売新聞の渡邉(恒雄)さんにも懇意にしていただいていました。沖縄返還をめぐる密約を報じたときも、返還協定の全文を朝日新聞に抜かれたので、なんとかしようと考えたところがあったんじゃないでしょうか。これは私の想像ですけど」
西山太吉という新聞記者は甦った。

啓子が生きてきた暗闇に、ようやく光の筋が差し込んできた。

「神様は耐えられないほどの試練は与えないといいますけど、私にはちょっと重すぎましたね。それにしても、よくこ

こまでこられたなあと自分でも思います。私は信仰をもっているわけではありませんが、思わず『神様』と口にしてしまいたくなるのです」

あれから37年――神様の贈り物

〇八年九月二日。
落胆と興奮が同時にやってきた。

西山が密約を認めない国を相手取り、謝罪と損害賠償を求めた裁判で、最高裁の決定が伝えられた。
〈上告棄却〉

夫は刑事裁判に続いて再び、敗れた。
一審、二審とも、提訴までに事件から二十年以上経過していることで、民事上の時効にあたる「除斥期間」が適用されるとして、密約の有無に立ち入らずに門前払いしていた。その判断を最高裁も追認したのだった。

その直後、ジャーナリストや作家ら六十三人が、沖縄返還をめぐって日米の政府が結んだ密約文書を公表するよう、外務省と財務省に対して情報公開請求の手続きをした。

すでにアメリカで公開された三通の公文書には、日米両政府の交渉責任者の署名がある。当然、日本側も同じ文書を保管しているはずである。これこそが、政府が否定し続けてきた密約の証になるはずだった。

錚々たる顔ぶれが揃う情報公開の請求人のなかに、澤地久枝の名前もあった。

東京・内幸町の日本プレスセンタービルで開かれた記者会見で、和服姿の澤地は静かに立ち上がると、マイクを手にした。

「私は、ひとりで戦いを続けてこられた西山さんに深い敬意を表す者のひとりです」

いきなりそう切り出した。席を二つはさんだ横で西山は正面を向いたまま、頬をすぼめたりふくらませたりしている。澤地の突然の告白ともいうべき言葉に深く心を動かされているのだろう。目をしばたたかせ、天井や中空へとせわしなく視線をさまよわせる。

「西山さんの事件が起きたのは一九七二年のことです。二〇〇〇年と二〇〇二年には密約を裏づける米公文書が見つかり、沖縄返還交渉の責任者だった外務省の元アメリカ局長も『密約はあった』と証言しています。


それでも認めない国家とは何でしょう。心の底から怒りを覚えます。こんな嘘さえ認められなくて、これで民主主義の国といえるのでしょうか。まるで徳川時代に戻ったようです」
澤地の張りのある声が響いた。

翌日、家に帰るなり「澤地が、澤地が――」と止まらない夫の話を聞いて、啓子は澤地もまたこの不条理を承服しないでいることを知った。あれ以来、事件と戦い続けてきたのは西山ひとりではなかったのだ。

「本当に長い間、孤独でしたからね。時とともに密約は忘れられ、主人はこのまま消えていくのではないかとむなしく思う時期が長くありました。それだけに、澤地さんがずっと思い続けてくださったことがうれしかったですね」

なにより、夫が喜んでいるのがわかった。それから数日間、何度も何度も記者会見の場面を語りつづけた。
しかし、その情報公開請求に対する回答期限直前の十月二日、外務省と財務省の答えが返ってきた。

〈文書不存在〉

わずか五文字で片づけられていた。

西山が罪に問われたのは、密約をほのめかす機密電信文によってだった。その密約がないというのであれば、西

山は「存在しない」文書によって裁かれたということになる。

翌月の十一月七日、情報公開の請求人代表だったジャーナリストの筑紫哲也ががんで亡くなった。七十三歳だった。

夫はそれより三つ上。いつまでも元気でいられる保証はない。最後の戦いは、時間との戦いでもあった。

〇九年春、外務省などが「不存在」とした処分の取り消しを求めて、澤地や西山らは提訴に踏み切った。

六月、第一回の口頭弁論が東京地裁七〇五号法廷で開かれた。冒頭、裁判長が被告である国側に説明を求めた。

「文書がないというのなら、なぜないのか。米公文書についてどう説明するのか。十分に納得のいく説明をしてください」

裁判の流れが決定づけられた。裁判長はさらに原告側にも注文をつけた。

「吉野文六さんに証人として出廷してもらうことはできますか」

元外務省アメリカ局長の吉野は、沖縄返還交渉にあたっていた日本側の最高責任者である。その名前に、啓子は特別な思いがあった。

七三年十二月、東京地裁七〇一号法廷。

当時の新聞が「(外務省機密漏洩)事件審理のハイライト」と位置づけた法廷で、吉野は検察側の証人として被告の西山と向き合った。そして、ことごとく密約の事実を否定した。機密電信文を掲げて追及された国会に続き、堂々と偽証を重ねたのだ。

「あのとき、西山から聞いたことが頭を離れないんです。吉野さんは法廷で、主人に目礼したというんです。わざわざ嘘をついて貶める相手にむかって挨拶するとは、どういうことなのか。そのことが強く印象に残っていました」吉野はずっと、沖縄密約のキーマンだった。

〇〇年と〇二年に密約を裏づける米公文書が見つかった際には、「B・Y」というイニシャルはみずからのものであるとしながら、密約の存在そのものは否定した。

ところが〇六年、北海道新聞の取材に対して一転、密約を認めた。その後、朝日新聞にも重大な証言をした。〇〇年に米公文書が見つかった際、外相だった河野洋平から密約を認めないよう口止めされていた、と明かしたのだ。

「取材を受けたら、従来通り(密約はないということ)でお願いします」

河野からの電話を受け、直接そう指示されたという。

政府は、このときの吉野証言を、密約はないとする根拠としてきた。しかし、その吉野が、河野から口止めされていたとして証言を覆した。密約を否定する根拠は失われた。

吉野を口止めした河野はかつて、逆の立場にあった。西山が国家公務員法違反に問われた刑事裁判の二審に弁護側証人として出廷し、「メディアの重要性」について証言している。自民党に籍を置きながら、堂々と「知る権利」擁護の弁論を展開してから三十年後、河野はみずからの信条を封印して、「密約はない」とする政府・外務省の代弁者となっていた。

啓子は不思議な気持ちにとらわれた。

「かつてあれほど嘘をつき続けた人が密約を認め、密約を暴いた主人を擁護していた人が、嘘をつくように指示するなんて」

その河野もこの夏、政界を退いた。

裁判長の要請に応じて、吉野は証人として法廷に立つことを了承した。秋には、吉野と西山が三十六年ぶりに再会する。しかも、同じ原告側に立つ。

平凡だが、事実は小説より奇なり、という言葉が浮かぶと、啓子はいう。

「人生の終わりが近づいたいま、思うんです。神様は見ていてくださった。最後の最後に、ちゃんと贈り物を用意してくださっていたのかな、と」

なんで一緒にいるのかしらね

枕が変わると眠れない。面倒くさいといっては風呂に入らない。電球が切れても取り替えず、贈り物をもらっても礼状ひとつ書かない。可愛がる二匹の飼い猫にも、エサはやるけどフンの始末はしない。手先が不器用で、自転車の鍵をうまく入れられない。そのうえ、気に入ったものしか身に着けない。かばんは茶色のビニール製ボストンバッグ。背広も上着は紺にグレーのシャツと決まっている。

口にするのは、もっぱら刺身。味にうるさいだけに、魚屋だけは、なじみの店まで自分で自転車を走らせる。酒は冷酒に限るというが、このごろは啓子の目を気にして、焼酎をすする。医者から数値をあげて注意されても、「俺は信じない」と取り合わない。

そんな夫がこのごろ、やさしくなったという。

「私もやはり、年をとってきたのか、昨年の夏に珍しく体調を崩したら、主人は自分から買い物に行くと言い出したんです。『あんた、きょうなんか買うもんない?』って。猫のエサの缶詰まで買ってきて」

啓子は今年一月、ストレスからくる大腸炎で事件以来初めて入院した。ちょうど、山崎豊子が「文藝春秋」に続けていた連載「運命の人」が終わったころだった。

啓子が入った六人部屋では、まわりの夫婦の会話がカーテン越しに聞こえてくる。

「君がいないと困るんだよ」
「早くよくなってくれ」
それなのに、夫は身の回りのものを持ってきても、ベッドに置いたらすぐに帰ってしまう。

「倉庫の掃除しなきゃいけないから」

穏やかになったとはいっても、昔気質の照れ性までなおるわけではない。

それでいて啓子の妹が電話を入れると、西山は本音を漏らした。
「(啓子がいないから)もう、だめなんだ。猫のうんちが臭くて大変なんだよ」

ただ、怒るときはいまだに、頭から湯気がでるのでは、と思うほど大声をあげる。
「あんまり大きな声を出すと、頭の血管が切れちゃうわよ」
そう言う啓子も、できるなら怒鳴り返したい。狭いマンションではなく、山の中の一軒屋ならできるのに。でも、それもまた言い訳かもしれない、と思いなおす。

「パパ、私のほうがずっとかわいそうだと思わない?」
そう投げかけても、夫は聞こえないふりをしているのか、返事はない。

「私が死んでから謝っても聞こえないのよ」

すると、決まって憎まれ口が返ってくる。
「あんたのほうが長生きするんだから」

いつだったか、母親からこう言われたことがある。
「あんたたち、あれね、案外と相性がいいのかしらね」

しかし、本当にそうなのか。私が荷物をまとめて引き揚げればあっけなく終わっただろう。でも、そうできなかった。


夫婦喧嘩をして一週間ぐらい口をきかないなんて聞くと、うらやましくなる。

「シンプルなんですよ、私。だから、なめられちゃうのよねえ、きっと。それが私の失敗だなって思います。それにしても、なぜ離婚しなかったのか。もうとっくにサヨナラしていていいはずなんですけどねー。うーん、好きというのとは違うのよ。でも、なんで一緒にいるのかしらね」

ちょっと考え込むような仕草をすると、啓子はおだやかな笑みを浮かべた。

「きっと、死ぬまでの宿題ね」

この春、夫の押入れから十着ほど背広を取り出した。いずれも三越などのオーダーメード。仕立ては崩れていないが、古い型のものばかりで、だれかに譲ることもできない。かといって、いつまでもタンスの肥やしにしておくわけにもいかない。

啓子は一着ずつ思い出をかみしめると、ゴミ袋に放り込んだ。その途中、思わず手が止まった。

深緑色の三つ揃いだった。

車の助手席に乗せて渋谷駅まで送り、雑踏に消えていった頼りなげな背中がよみがえる。それは、夫が逮捕されたときに着ていたものだった。瞬間、あふれだしそうになる思いを抑えて、言葉にかえた。

「パパ、これももう捨てちゃっていいわよね」
夫は短く「ああ」と答えた。  

2010年1月22日金曜日

【新聞時評】 新聞社が描く田中派と東京地検

 このブログは、自分の備忘録として、ココログに残していたものをBloggerに引越しをしたものであるが、各記事を移行をしながら読み返すと、各大手既存マスコミの偏った記事を目にする事が多かった。この記事は、公開をせずに下書きをしたものであるが、「田中角栄からつながる小沢一郎」という前提を崩していない。

おそらく、この前提を大手既存のマスコミは、小沢氏が議員を引退するまで言い続けることであろう。実に困った方々だとしか言いようがない。


嶌信彦のコラム

今日のニュース・明日の予測:[301]検察対田中派の長い長い闘い 小沢幹事長は最後の1人

 日本の政治は異様な様相を呈してきた。鳩山由紀夫首相、小沢一郎民主党幹事長の両トップが、政治資金規正法で地検特捜部から追及されると、小沢幹事長は戦う姿勢を見せている。時の政権の実質的な最高実力者と犯罪を追及する検察が正面切って闘いを宣言する国など、先進国では聞いた例がない。

 鳩山政権は、戦後初めてといってよい本格的な政権交代で誕生した内閣だ。自民党を軸とした戦後の保守政治のアカを洗い流し、日本の旧体質を改革、21世紀のグローバル社会や中国が台頭するアジアでどんな役割を担ってゆくか--そんなカジ取りを期待されていたはずだ。それが、2010年の国会の幕開けから、国民がさんざんウンザリしてきた“政治とカネ”の問題で衝突、たぶん予算審議そっちのけの政争になるのでは、「今年もまたダメか」とタメ息が出る思いだろう。

 検察の狙いは、やはり小沢幹事長の息の根を止めることではないだろうか。法律を熟知して、抜け穴をみつけ、政治資金を違法に集めたり使ったりすることは許さない、ここで最終的なケジメをつけよう、という意気込みがうかがえる。

 と同時に、田中角栄一門との“最終戦争”という感慨・執念もあるのではないか。今日的な政治とカネの問題は、田中金脈事件から始まっている。権力や政治的な力を利用して業者などから違法なカネを集め、このカネで派閥の力を拡大して日本の政治を支配するやり方だ。田中元首相はロッキード事件で逮捕されたが、その後も金丸信元自民党副総裁は佐川急便事件などで捕まった。次は竹下登元首相がリクルート事件に関与し、これが引き金となって首相の座を降りた。その後も日本歯科医師連合会の献金をめぐって、橋本龍太郎元首相、野中広務元官房長官らが関与したとされ、結局は村岡兼造元官房長官が在宅起訴されることで締めくくられた。この事件で橋本、野中氏らの影響力は急速に落ち込んだ。

 こうした田中人脈の中で唯一生き残ってきた実力者が小沢氏である。ちなみに鳩山首相も議員のスタートは自民党田中派だった。小沢氏は田中角栄、金丸信氏などが検察に引っ張られる過程をつぶさに見ており、特に田中ロッキード裁判は必ず傍聴して、検察がどんな手法・論理で政治家を追い詰めてきたかを熟知する。そしてその後の政治生活でその知恵を生かし、政治資金規正法に引っかからないようカネを集め、次々と新党を作り、新人議員を当選させて、ついに政権を実質的に動かす権力をつかんだ--と検察は見ているのではないか。検察としては、田中人脈の最後の大物の小沢氏を起訴することで、30年以上続いてきた田中一門との闘いを終結させようとしているように見える。たぶんこれは、東京地検特捜部の中心で働いてきた代々の先輩たちの無言の申し渡し事項だったと見てよいだろう。

 田中人脈から見れば、これは検察の横暴であり、権力の乱用と見える。特に小沢氏にとっては法の問題点をすべて知り、法令違反を犯さないよう細心の注意を払ってきたはずなのに、「なぜ違反と決めつけ、事情聴取を要請したり、元の部下などを逮捕するのか。検察の要求については弁護士を通じて回答し、資料も出してきた」という思いがあるに違いない。そして官僚や検察が、実質的に日本の政治を動かし得る現在の制度を改革するため、事務次官会議を廃止したり、官僚の国会答弁を原則禁止にしたりしている。また「法務省では法務次官を務めた人間が検事総長になるという制度も他の役所と比べおかしいのではないか」などと発言、法務・検察のシステムのあり方にまで首を突っ込む姿勢をみせていた。これも検察側にとっては気になったことだろう。

 こうしてみると「検察対小沢」の衝突は必然のコースであったようにも見える。ただ、検察はどこまで証拠を持ち、小沢氏を追い詰めているのか。裁判を考えると今から手持ち材料や捜査の筋を言うことはできない、というのが検察の言い分のようだが、メディアに次々と出てくる新事実の中に検察がリークして追い詰めているものも少なくないように思える。特に当初は小沢氏の資金のうち4億円の出所がはっきりしないとされ、メディアも巨額の4億円について、華々しく報道した。ところが、小沢氏が「カネの出所についてはすでに検察に通帳まで出してある」と主張し3億円以上は自分のお金を充てていると述べた途端、検察側は「まだ1億円の出所がはっきりしない」と4億から1億円強の行方に話が変わってきた。無論めまぐるしい資金の出し入れ、複雑な4億円をめぐる経緯についてまだ腑(ふ)に落ちない点も多い。それにしても4億から1億円に縮小しては随分と話が小さくなってしまい、4億円の数字はどんな意図でどこが流していたのか、と考え込んでしまう。国民からすると、悪銭にまみれた政治もゴメンだが、検察・警察の権力がギラつくのも薄気味悪い。検察もある程度の説明をしてもらいたいとも思う。

2010年1月22日

2010年1月18日月曜日

【検察問題】 東京新聞・小沢疑惑報道の読み方

 2010年1月13日に捜査が入り15日に石川議員が逮捕をされている。この13日の逮捕は、西松事件の第二回公判であった。

『小沢疑惑報道』の読み方
2010年1月18日

 小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる疑惑事件が元秘書らへの強制捜査に発展した。私は取材現場の事情は知らない。ただ、読者として多くの記事を読む限り、正直言って「これはいったい、なんだ」という感じも抱いてきた。

 なぜなら、当事者本人か捜査当局しか知り得ないような情報がしばしば盛り込まれているからだ。ときには当事者が捜査当局に供述したとされる内容が報じられたりしている。

 ということは、当事者が取材記者に話したか、あるいは当局が記者にリークしたのではないか。疑惑があるなら解明されねばならないのは当然である。現場で取材する記者の苦労は理解できるし、多としたい。

 だが、結果的に当局の情報操作に手を貸す結果になっているとしたら、それもまた見逃せないのだ。

 検察が公判請求し裁判になってからも、判決が報道された内容どころか起訴状の記載事実とさえ異なる場合はある。読み手としては、情報の出所にも注意を払わざるを得ない。

 民主党と鳩山内閣は一連の報道でダメージを受けた。その結果、支持率も落ちるだろう。この疑惑は間違いなく、本日から始まる通常国会で焦点になる。

 記事を書く側の一人として「本当に起きていることはなにか」という点に細心の注意を払って、今後の展開をウオッチしていきたい。 (長谷川幸洋)


石川議員逮捕、なぜこのタイミング? 最大の証拠隠滅「自殺」の恐れ…
2010.1.16 00:43
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100116/crm1001160046004-n1.htm

 深夜の電撃的な逮捕劇だった。東京地検特捜部はなぜ、15日に石川知裕容疑者らを逮捕したのか。その理由には最大の証拠隠滅といわれる「自殺」に加え、国会開会直前で、3月末に時効を控えているという時期の問題もあるとみられる。

 午後11時前に始まった逮捕発表会見で、佐久間達哉特捜部長は逮捕の理由について「石川容疑者らの供述は信用できない」「証拠隠滅の恐れがあった」と語った。報道陣から「自殺の恐れがあったからか」と問われると、佐久間部長は「あえて否定しない」とも話した。

 一方、国会議員には国会開会中の不逮捕特権があるため、捜査当局は会期中に議員を逮捕する場合、議員が所属する議院に逮捕許諾を求めなければならない。通常国会の開会が18日に迫る中、石川容疑者の逮捕許諾請求が与党多数の衆議院で拒否されることも懸念された。

 さらに、今回の容疑の時効は3月末。予算審議に影響を与えないためにも早期の逮捕が必要だったとみられる。石川容疑者らが起訴された時点で共犯者の時効は止まる。こうした理由も電撃逮捕につながったとされる。


特捜部執念の捜査 「国民を欺いている点で悪質」 
2010.1.16 00:28
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100116/crm1001160029003-n1.htm

 民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる政治資金規正法違反事件で、東京地検特捜部は15日夜、小沢氏の元秘書で会計事務担当だった衆院議員の石川知裕容疑者(36)らの逮捕に踏み切った。昨年3月の公設第1秘書の逮捕以来、小沢氏側の不透明な資金について、執念の捜査を続けてきた特捜部。捜査の経緯や狙いを追った。

批判をバネに

 特捜部が初めて小沢氏側の強制捜査に着手したのは西松建設の違法献金事件を立件した昨年3月。

 その際、民主党側だけでなく、身内の検察OBからも「衆院選が近い時期になぜ着手するのか」「表のカネだけで逮捕するのか」などの批判が渦巻いた。

 特捜部は“逆風”を受けながらも、その後もヤミ献金など小沢氏周辺の「裏のカネ」を探る捜査を継続。その過程で浮上したのが、小沢氏の資金管理団体「陸山会」が平成16年10月に購入した東京都世田谷区の土地をめぐる疑惑だった。

 昨年7月には、国発注の胆(い)沢(さわ)ダムの下請け工事を受注した水谷建設元幹部らから、土地購入と同時期に5千万円を石川容疑者に渡したとの供述を得て、ダム工事を受注した各社の裏献金が土地代金の原資になった疑いがあるとの見方を強めていった。

逮捕か在宅か

 購入原資の特定には当時、資金移動に直接関与していた石川容疑者の供述が焦点となり、昨年12月、特捜部は石川容疑者の任意聴取に踏み切った。

 しかし、石川容疑者は「小沢先生のたんす預金」「記載を忘れていた」などと虚偽ともとれる供述を続け、今月13日に陸山会などが一斉捜索を受けた後の3回目の聴取でも、その対応は変わらなかった。

 また、小沢事務所が土地代金の原資について、定期預金を担保にした融資で支払ったと虚偽の説明を報道機関に展開し、土地代金の原資を隠すための偽装工作が発覚。これに加え、小沢氏も5日の聴取要請を「忙しいから」などと無視し続けた。

 この事態に、任意での捜査を慎重に進めるべきだとする上級庁に対し、特捜部は石川容疑者らの逮捕を強く迫った。検察内部では石川容疑者らの刑事処分をめぐって判断が分かれた。

 だが、小沢氏の聴取拒否や石川容疑者の虚偽説明などが風向きを変えた。逮捕に慎重だった上級庁も「全容解明には石川容疑者らの逮捕が必要」と一致したのだ。ある検察幹部は「捜査に協力的ではない小沢氏側の対応で、検察内の雰囲気が変わった」と話す。

 陸山会の不動産問題では「隠し資産を所有している」との週刊誌記事をめぐって、小沢氏が出版社を訴えたが、20年6月の高裁判決で「前提事実の重要部分は事実」として1審に続いて小沢氏の請求が棄却されている。

 こうした経緯からも、ある幹部は「不動産問題がこれほど問題視されている中で、小沢氏側は一貫して融資で購入したと説明してきた。国民を欺き続けている点で悪質だ」としている。

2010年1月17日日曜日

4億円不記載

2004年4億円記載され2005年にも4億円記載されている。つまり2004年の4億円は銀行からの借入であり2005年に土地の本登記が済んだ時点で4億円を記載をした。つまり2005年1月に登記が済んだ時点では小沢氏名義の土地売買であり、2004年の収支報告書に記載すべき事案なのか・・・理解に苦しむ。






2010年1月14日木曜日

【西松事件】 金澤敬(報道メモ)

 消されないように証拠として残しておこうと思う


自民党、小沢氏追及勉強会を開催
2010年1月14日12時11分
http://www.asahi.com/politics/update/0114/TKY201001140209.html?ref=rss4&ref=tv_asahi

ウェブ魚拓:http://megalodon.jp/2010-0114-1256-48/www.asahi.com/politics/update/0114/TKY201001140209.html?ref=rss4&ref=tv_asahi

 自民党は14日、「小沢幹事長政治資金問題勉強会」を党本部で開き、昨年3月の小沢氏の資金管理団体への強制捜査の直前に証拠資料を隠したと月刊誌に実名告白した石川知裕・民主党衆院議員の元秘書らから話を聞いた。元秘書は「石川氏が『小沢先生から何かまずいものがあれば隠せと指示された』と話していた」などと証言した。

<「独裁者」の肖像>西松事件 元秘書の告発/消えた五箱の段ボール(「文藝春秋」2月号)

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「石川議員に頼まれ証拠隠した」 元秘書が自民勉強会で告白
2010.1.14 12:06
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100114/stt1001141117001-n1.htm

 民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入問題で、自民党は14日午前、東京地検特捜部に家宅捜索を受けた小沢氏の元秘書の石川知裕民主党衆院議員の秘書だった金沢敬氏を招き、一連の疑惑に関する勉強会を開いた。金沢氏は「昨年特捜部が陸山会の事務所を家宅捜索する際、石川氏に頼まれ証拠資料を隠すのを手伝った」と証言した。金沢氏は18日召集の通常国会に参考人として出席する考えも示した。

 金沢氏によると、特捜部が陸山会事務所を捜索した昨年3月3日、石川氏から「小沢氏から『チュリス(陸山会事務所が入る都内のマンション)でまずいものを隠せ』と指示があった。手伝ってほしい」と電話を受け、勤務先の札幌市から上京し、同日夜に石川氏と合流した。

 石川氏は「隠せるものは隠したが、自分の衆院議員会館事務所も捜索が入るかもしれない」と話し、翌4日に石川氏の事務所に出向き、鹿島や西松建設などゼネコン関係の名刺や資料を黒いナイロン製のボストンバッグに詰め込んだという。バッグは一度松木謙公民主党衆院議員の事務所に預けたことも明らかにした。

 金沢氏は当時小沢氏の秘書だった樋高剛民主党衆院議員から「陸山会事務所の証拠隠滅工作に加わった」と聞いたことも暴露。樋高氏は「資料が押収されていたら小沢氏を含め全員逮捕だった」と話したという。
 金沢氏は「小沢氏が記者会見で『国策捜査』と訴えられたのは、証拠資料を隠すことができたから。石川、樋高両氏もそう話していた」と述べた。

 金沢氏は今月8日、松木氏から電話で「石川も議員をやっているから」などと証言を自粛するよう要請を受けたことも証言。また勉強会後記者団に対し、石川氏と事件をめぐり電話でやりとりした録音テープを特捜部に提出したことも明らかにした。

 金沢氏は平成20年9月から21年7月まで、石川氏の私設秘書を務めていた


某新聞社記者のブログからの転載

いやあ、昨日、自民党で開かれた民主党の小沢一郎幹事長の政治資金をめぐる勉強会での、小沢氏の元秘書である石川知裕衆院議員の元秘書、金沢敬氏の証言は衝撃的でしたね。月刊文藝春秋の記事も読みましたが、実に生々しい。現時点では、すべてを事実であると鵜呑みにするわけにはいかないかもしれませんが、金沢氏は同様の内容の上申書と証拠テープを東京地検に提出しているそうですし、国会での参考人招致にも応じるといいますから、信憑性は高いのではないかと思います。そこまでやって「嘘でした。間違っていました」では、罪に問われるのは金沢氏の方になってしまいますからね。

 で、この金沢氏の勉強会での証言内容は、今朝の産経の1面(土地問題 隠蔽「小沢氏の指示」 昨年の捜索時 石川議員元秘書が証言)、3面(小沢氏らとのやりとり生々しく 資料出ていたら全員逮捕 地検見逃し礼言うべき=発言要旨)、5面(金沢元秘書が証言 秘書給与ピンハネ疑惑も)と、3つの面にわたって詳細に掲載しています。

 今朝の産経は1面トップでも、旧自由党が政治資金収支報告書上は藤井裕久前財務相に支出したことになっている15億円余の党費が、実際には小沢氏の関係政治団体の「改革フォーラム21」に流れていたという記事を世に問うており、手前味噌ながら読み応えがありました。昨日の自民党勉強会では、ジャーナリストの松田賢也氏は、小沢氏は50億円ぐらいのカネを持っているかもしれないと指摘していたようですが、「小沢ダム」がいま、決壊しつつあるのかもしれません
 そこで本日は、この勉強会後の、金沢氏と記者団のやりとりを紹介します。内容的には、勉強会で話したものの域を出ないものですが、まあ、何かの補足か参考になればと。それは以下のようでした。

記者 自民党の勉強会で証言したが。
金沢氏 勉強会で発言した通り、私が石川氏の方から「小沢先生から指示があり『これから(小沢氏の資金管理団体「陸山会」がある)チュリスに行って、何かまずいものがあったら隠すように』といわれた」と電話があった。間違いない事実だ。
記者 石川氏も小沢幹事長も「法に触れるようなことはしていない」と発言している。
金沢氏 ご自身でやられていることは分かっているので、当然マスコミ対策向けと思わざるをえない。
記者 来週(18日)から通常国会が始まる。自民党からは参考人招致の要求もあるが。
金沢氏 私は要請があればいつでも参ります。石川氏や小沢氏のやっていることを国民の前に説明するのが私の義務だと思っている。
記者 あなたは鹿島についても言及した。小沢氏と鹿島の関係は。
金沢氏 私が石川氏から聞いているのは、西松事件の時、「西松は金額がたいしたことない。何で西松だけ捜索が入るのか」と。折しも昨日捜査が入った。地検は適正な捜査をしていると思う。
記者 それは誰と誰の会話か。
金沢氏 樋高(剛衆院議員、元小沢氏秘書)氏、私、石川氏の会話だ。証拠を隠す車中で、世間話をしていた。その時の会話だ。「こんな西松でやられて、もっと金額の大きい鹿島はやられていないから、そっちはどうなっているんだ」と。「資料を隠せて良かった」という会話も車中であった。その時に鹿島の名前ははっきりでている。
記者 今回は小沢氏の関連団体にも捜査が入っている。
金沢氏 前回は証拠を隠したのだから、今回はきちんとした証拠が出てきて、地検もきちんとした捜査ができると期待している。
記者 一連の動きをちょっとおさらいしてほしい。
金沢氏 昨年3月3日夜(大久保被告の逮捕当日)、私が東京に出てきて石川氏と打ち合わせを行い、翌4日からある程度証拠を隠す行為に及んだ。4日は朝1番で石川氏の議員会館事務所に行き、鹿島の名刺、西松の名刺、西松の政治団体の名刺、ファイルを隠し、(小沢氏に近い)松木謙公衆院議員の事務所に一度預けてから、タクシーでチュリスに行き、そこで段ボールも合わせ、弁護士の南裕史さん(元小沢氏秘書)のところに持って行った。
記者 ファイルには鹿島の名前があったのか。
金沢氏 石川事務所にはあった。チュリスから持ち出したのは分からないが、石川事務所にはあった。
記者 胆沢ダムのファイルもか。
金沢氏 それもあった。完成予想図もあった。
記者 勉強会の中で、松木議員から1月8日に電話(「石川も議員をやっていくんだから、金沢君、この辺でやめておいてくれないか」)があったと話していた。証言を止めさせようという意図を感じたか。
金沢氏 それはそうだ。松木さんからすれば石川はかわいいと思う。やはり賭け麻雀仲間でもある。毎日赤坂の雀荘で賭け麻雀をやっている。メンバーが欠けたら困るということで、私の方にも電話いただいたこともある。松木の電話では恐怖感はないが、民主党がどのような対応に出ても、私の方で引くつもりはない。徹底してこういうとんでもない政権とは戦っていきたい。
記者 小沢氏からの指示とは
金沢氏 小沢代表(当時)から石川氏と樋高氏の携帯電話に電話があった。「まずいものがあったら隠すように」と指示があったということは聞いている。
記者 この内容は録音テープなどないか。
金沢氏 石川氏と私が会話をしている録音テープがあり、それは地検特捜に提出している。手元にない。いろいろ公認する、しないを含め、石川氏と7月10日に2時間くらい私の札幌事務所で話した録音テープがある。ICレコーダーに入っている。
記者 (西松事件などの)証拠隠滅する経緯が触れられているのか。
金沢氏 少し入っている。
記者 どういう話か。
金沢氏 「証拠を隠す場面も立ち会ったのに、公認できないのはおかしいじゃないか」と私が話している。石川氏は「すいません、すいませんと。自分はできるかできないか分からないが、参院が無理なら衆院の方でもう1度小沢さんに話してみます」と話している。私は「そんないろいろやっているんだから、小沢さんにそういうところも含めて押して下さいよ」と。
記者 石川議員が隠滅に触れた箇所は。
金沢氏 多少ある。「金沢さんが言う通り、小沢さんには押します。なかなか小沢先生も手強いので公認が取れるか分からない」と話している。折りをみてテープも全部公表したい。国会で証言を求められたとき、テープを公開するのもいい。地検には、領収書のコピーや石川の行動経緯書などを出している。(了)

 …政界では、よく「秘書とケンカしてはいけない」と言いますが、本当ですね。金沢氏は小沢氏本人ではなく、あくまで石川氏の、それも地元秘書だったわけですから、事件の全体図などは知り得る立場にないでしょうが、こうした部分的な体験談だけでも十分、興味深いものがありますね。フジテレビと産経新聞の次回世論調査は18日に発表されますが、この事件の動向がどう影響してくるのか、あまりしないのか。そして民主党内ではどんな動きが出てくるのか。非常に気になるところです。

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昨日自民党本部で、金沢なる者が石川知裕代議士のことで話をしているが、陳腐なことである。

 私も金沢なる者を知っている。石川代議士の私設秘書と言うが、後援者の一人で、石川事務所の手が足りないものだから、会合等に代理出席していた程度の人物だ。何か仰々(ぎょうぎょう)しく側近と言うべき様な人物ではない。

 おまけにこの金沢氏と石川代議士とは直接のパイプがあった訳ではない。元々は当時の公設第二秘書の江藤氏との人間関係で、江藤氏が金沢氏に「東京に行ってくれ」と頼み、上京したのである。

 石川代議士に東京に呼ばれたと言っているが、石川代議士は呼んではいない。この点でも、石川代議士に呼ばれたと言った金沢氏の発言はウソであると江藤氏は話している。

 おまけに江藤氏は、金沢氏の発言は8割方事実でないと言っていた。ボストンバッグは石川氏の洗濯物を入れていたものだそうである。

 この様な人物が検察に上申書を出しているそうだが、漫画チックな話ではないか。金沢氏がいかなる人物か、時が解決することだろう。

 中傷、風聞で人を貶(おとし)めては、人間として失格である。金沢氏はテレビに出て少々舞い上がっている様な感じだったが、冷静に事態を見つめていきたい。

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全てが明らかになった時に、上の記事に虚偽があった場合には、それなりの法的な処罰は受けなければならない。

2010年1月13日水曜日

【西松事件】 第二回公判

2政治団体「ダミーと思わず」西松元幹部が証言
(2010年1月13日21時23分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100113-OYT1T01250.htm

 準大手ゼネコン「西松建設」から小沢一郎・民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」などへの違法献金事件で、政治資金規正法違反(虚偽記入など)に問われた小沢氏の公設第1秘書で同会の元会計責任者・大久保隆規被告(48)の第2回公判は13日午後も、岡崎彰文・元同社取締役総務部長(68)の証人尋問が行われた。

 岡崎元部長は、同社OBを代表とした二つの政治団体について、「西松建設のダミーだとは思っていなかった」と証言した。

 公判では、大久保被告が両団体を同社のダミーと認識していたかどうかが争点で、審理に影響が出そうだ。

 岡崎元部長は、裁判官の尋問に対し、「二つの団体については、対外的に『西松建設の友好団体』と言っていた。事務所も会社とは別で、家賃や職員への給料も団体側が支払っていた」と説明。前任者に引き継ぎを受けた際にも、「ちゃんとした団体で、問題はないと言われていた」と答えた。

 昨年12月の初公判で、検察側は、同社が信用できる社員を政治団体の会員に選び、会員から集めた会費を献金の原資にしていたと指摘したが、岡崎元部長は「入会は自分の意志だと思う。私自身は、社員に入会を強要したことはない」と述べた。


民主・小沢幹事長の公設第1秘書第2回公判 西松建設元部長「大久保被告と献金方法相談」
(01/14 01:17)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00169939.html

政治資金規正法違反の罪に問われている民主党の小沢幹事長の公設第1秘書・大久保 隆規被告の第2回公判が、東京地方裁判所で開かれ、西松建設の元総務部長が出廷し、「大久保被告と献金の方法を相談していた」と証言した。

民主党の小沢幹事長の公設第1秘書・大久保 隆規被告は、2つの団体から受けたあわせて3,500万円の献金について、収支報告書にうその記載をした政治資金規正法違反の罪に問われていて、2つの団体が西松建設のダミーと認識していたかが争点になっている。

13日の公判には、西松建設の元総務部長が証人として出廷し、「西松建設本社1階の応接室で、大久保被告が持参した2つのダミー団体の、前年度の献金の実績表をもとに相談し、その後、小沢事務所から請求書が送られてきた」とし、献金額については、国沢幹雄元社長の了承を受けていたと証言した。

また、大久保被告が政治団体をダミーと認識していたかに関する質問では、「記憶にない。わからない」などと話した。
次の公判は1月26日で、大久保被告本人への被告人質問が予定されている。


西松違法献金裁判:窓口役の部長が証言 来月26日結審へ
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20100114k0000m040078000c.html

 西松建設の違法献金事件で、政治資金規正法違反(虚偽記載など)に問われた小沢一郎民主党幹事長の公設第1秘書、大久保隆規被告(48)の第2回公判が13日、東京地裁(登石郁朗裁判長)で開かれ、献金の窓口役だったとされる同社元総務部長(68)が証言した。今月26日の第3回公判で被告人質問を行うが、これで実質的な審理は終了し、2月26日の公判で結審する公算が大きくなった。

 公判で元部長は「西松本社に大久保被告が前年の実績を示す表を持ってきて、小沢氏側のどの団体に献金するか割り振りを決め、国沢幹雄元社長に承諾をもらった」と語った。

 大久保被告が担当する前の00年までは、小沢氏側の窓口は、当時小沢氏の秘書だった民主党の樋高剛衆院議員(44)=神奈川18区=だったとも述べた。

 一方で元部長は、検察が西松のダミーと主張する二つの政治団体について「外部の政治団体という認識でダミーとは思っていない」と証言。大久保被告が2団体をダミーと認識していたかは主な争点の一つで、大久保被告は初公判で「あくまで政治団体からの寄付で西松からとは思っていなかった」と起訴内容を否認している。【安高晋】

2団体「対外的には独立」=西松元総務部長の証言続く-小沢氏秘書第2回公判・東京
(2010/01/13-18:21)
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010011300809

 西松建設の偽装献金事件で、政治資金規正法違反罪に問われた小沢一郎民主党幹事長の公設第1秘書大久保隆規被告(48)の公判は13日午後も、東京地裁(登石郁朗裁判長)で続いた。西松側の献金担当者だった同社元総務部長(68)は、献金元の二つの政治団体について「対外的には西松建設と独立していた」などと証言した。

 次回期日は26日で被告人質問が行われる。
 この2団体は、新政治問題研究会と未来産業研究会。元部長は「対外的には西松OBによる友好団体。政治団体として届け出をし、政治資金収支報告書も出していた」と説明した。

 一方、社内的にどうだったか問われると、「事務所も別に借り、給料も別だった。引き継いだときには問題ないということだった」と話した。

 検察官が2団体をダミーと言わないのは株主代表訴訟を恐れているからかなどと聞くと、「ダミーとは思っていなかった。質問は何が言いたいのか理解に苦しむ」と声を強める場面もあった。


西松元総務部長「大久保被告と献金決定」
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20100113-OHT1T00189.htm

 西松建設の巨額献金事件で、政治資金規正法違反の罪に問われた小沢一郎民主党幹事長の公設第1秘書大久保隆規被告(48)の第2回公判が13日、東京地裁(登石郁朗裁判長)で開かれ、西松の岡崎彰文元総務部長(68)が証人尋問で、自身と被告が西松献金の窓口だったと認めた。

 元総務部長は検察側の主尋問で「被告が前年の献金実績表を西松本社に持ってきて、2人で献金額の増減や受け皿の割り振り方を決めた」とし、その上で上司だった国沢幹雄元社長(71)=規正法違反の罪などで有罪確定=らから承認を得た、と証言した。

 一方で献金元の政治団体について「(献金していた)当時は、(西松の)ダミーとは全く思っていなかった」とも証言。

 検察側は、政治団体の会員だった社員の賞与に上乗せ支給する手法で実際には西松が会費を負担していたのではないかと聞いたが、元総務部長は「知らない」と述べた。

 この日の公判では「政治団体は西松のダミーで、原資は西松の資金だった」とする政治団体元代表の供述調書が証拠採用された。26日の第3回公判は被告人質問の予定。

 元総務部長は元社長とともに逮捕されたが、処分保留で釈放され起訴猶予処分となった。

 起訴状では、小沢氏の資金管理団体「陸山会」の会計責任者だった大久保被告は2006年までの4年間、西松からの献金を政治団体からの献金と偽って収支報告書に記入した、などとしている。被告側は「違法な企業献金との認識はなかった」と無罪を主張。

 被告は、陸山会の土地購入をめぐり簿外の資金移動に関与した疑いが持たれ、東京地検特捜部が規正法違反の罪での刑事処分を検討している


大久保被告が献金「実績表」、西松元部長が証言
(2010年1月13日12時22分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100113-OYT1T00631.htm

 準大手ゼネコン「西松建設」から小沢一郎・民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」などへの違法献金事件で、政治資金規正法違反(虚偽記入など)に問われた小沢氏の公設第1秘書で同会の元会計責任者・大久保隆規被告(48)の第2回公判が13日、東京地裁で開かれた。


 検察側証人として、同社で小沢氏側との交渉窓口になっていた岡崎彰文・元取締役総務部長(68)が出廷し、献金を巡る大久保被告とのやりとりを具体的に証言した。

 公判では、陸山会などへ献金していた西松建設OBが代表を務める政治団体「新政治問題研究会」と「未来産業研究会」を、大久保被告が「西松建設のダミー」と認識していたかどうかが最大の争点となっている。

 岡崎元部長は検察側の尋問に、毎年、東京都港区の本社1階の応接室で大久保被告に対応していたと証言。二つの団体から小沢氏側の政治団体への献金の割り振りを記した「実績表」を大久保被告が持参し、それをもとにその年の献金額を決めていたと述べた。

 そのうえで岡崎元部長が「社内で調整します」と言い、後日、社内での検討結果を大久保被告に連絡すると、大久保被告から献金の請求書が送られてきたという。

 大久保被告は2003年~06年、西松建設から陸山会などに計3500万円の献金を受けながら、収支報告書には寄付者を2団体とする虚偽の記載をしたなどとして同法違反に問われている。

 大久保被告は陸山会の土地購入を巡る問題でも同法違反容疑で告発され、今月5日、東京地検特捜部から事情を聞かれている。

「小沢氏秘書と額調整」 献金事件公判、西松元部長が証言
(16:00)
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20100113ATDG1301213012010.html

 西松建設の巨額献金事件で、政治資金規正法違反(虚偽記載など)の罪に問われた、小沢一郎・民主党幹事長の公設第1秘書、大久保隆規被告(48)の第2回公判が13日、東京地裁(登石郁朗裁判長)であり、同社の献金担当だった元総務部長(68)の証人尋問が行われた。

 元総務部長は検察側の尋問に対し「2000年ころに大久保秘書が小沢氏側への献金の窓口になった」と証言。「西松本社で大久保秘書と会い、前年分の献金実績を基に、小沢氏側のどの団体にいくら献金するかを調整していた」とした。その上で献金額などについて、当時上司だった元社長=有罪確定=からの了承を得ていたとした。

 検察側の冒頭陳述によると、大久保秘書は遅くとも02年ころから、元部長に対し、ダミーとされる2つの政治団体名義を含め年間1500万円の献金を依頼していたという。


大久保被告と献金割り振り=西松元総務部長が証言-小沢氏秘書第2回公判・東京地裁
(2010/01/13-12:23)
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&rel=j7&k=2010011300048

 西松建設の偽装献金事件で、政治資金規正法違反罪に問われた小沢一郎民主党幹事長の公設第1秘書大久保隆規被告(48)の第2回公判が13日、東京地裁(登石郁朗裁判長)で開かれた。西松側の献金担当者だった同社元総務部長(68)の証人尋問が行われ、献金について「大久保被告が前年の実績表を持参し、割り振りをどうするか打ち合わせた」と述べた。

 元部長によると、献金の打ち合わせは西松建設本社応接室で行われた。大久保被告が持参した実績表には、小沢氏側の献金の受け皿団体と西松側の支出元の一覧が書かれ、内訳をどうするか相談した。

 割り振り案が固まると、元部長は「社内で調整します」と同被告に告げ、上司だった国沢幹雄元社長(71)=有罪確定=らの了承を得た。大久保被告に伝えると、献金の請求書が届いたという。

 小沢氏側の献金の受け皿団体が一つだったのが、小沢氏の資金管理団体「陸山会」など三つに増えたことについて、「先方の要望だったと思う」と話した。

 検察側冒頭陳述などによると、西松建設から小沢氏側へはダミーの政治団体名義などで1997年から2004年まで毎年1500万円の献金が行われた。その後、額を縮小し06年まで続いた。


西松事件公判 『大久保被告と献金調整』 元部長証言
2010年1月13日 夕刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2010011302000219.html

西松建設の巨額献金事件の第2回公判で東京地裁に入る大久保隆規被告=13日午前9時29分

 準大手ゼネコン「西松建設」(東京都港区)がダミーの政治団体を使って民主党の小沢一郎幹事長側に三千五百万円の企業献金をしたとされる事件で、政治資金規正法違反(虚偽記載など)の罪に問われた小沢氏の公設第一秘書大久保隆規被告(48)の第二回公判が十三日、東京地裁(登石郁朗裁判長)で開かれた。西松建設の元総務部長岡崎彰文氏(68)が検察側の証人として出廷し、「大久保被告が献金の窓口だった」と証言した。

 岡崎氏は、政治団体が小沢氏側に献金していた年間千五百万円について「大久保被告と西松本社一階の応接室で献金の割り振り方を打ち合わせ、『案を社内で調整します』と話した」と述べ、事実上、西松側の献金であることを伝えていたことを認めた。

 打ち合わせにあたっては、大久保被告が前年の献金実績表を用意して、西松側の支出団体と小沢氏側の受け皿の割り振り案を決定していたという。岡崎氏は、この案について「上司だった元社長らの承認をもらっていた」と話した。

 また、二〇〇〇年に大久保被告が西松からの献金の窓口となる以前の担当者を問われ、「(小沢氏の元秘書で民主党の)樋高剛衆院議員(神奈川18区)だったと思う」と述べた。

 起訴状によると、大久保被告は二〇〇三~〇六年、小沢氏の資金管理団体「陸山会」と民主党岩手県第4区総支部が西松から受けた計三千五百万円の企業献金を、同社のダミーの政治団体「新政治問題研究会」「未来産業研究会」からの献金と偽って政治資金収支報告書に記載したなどとされる。

 大久保被告は昨年十二月十八日の初公判で起訴内容を否認し、無罪を主張。公判では大久保被告が西松の献金だと認識していたかどうかが最大の争点となっている。献金した側の西松元社長(71)は、政治資金規正法違反罪(他人名義の寄付)などで禁固一年四月、執行猶予三年の判決が確定している。

 一方、陸山会の土地購入をめぐる政治資金収支報告書の虚偽記載問題で、東京地検特捜部は今月五日、大久保被告から任意で事情聴取した。

 岡崎氏の証言について、樋高議員の事務所は本紙の取材に「本人と連絡がつかない」とした。


献金「大久保秘書と決定」 西松建設公判、元部長が証言
2010/01/13 13:00 【共同通信
http://www.47news.jp/CN/201001/CN2010011301000235.html

 西松建設の巨額献金事件で、政治資金規正法違反(虚偽記載、第三者名義の寄付受領など)の罪に問われた小沢一郎民主党幹事長の公設第1秘書大久保隆規被告(48)の第2回公判が13日、東京地裁(登石郁朗裁判長)で開かれ、被告と献金交渉したと検察側が指摘している西松の岡崎彰文元総務部長(68)の証人尋問があった。

 元総務部長は検察側の主尋問に対し、自身と大久保被告が西松献金の窓口だったことを認め「大久保被告が前年の献金実績表を西松本社に持ってきて、2人で献金額の増減や受け皿の割り振り方を決めた」と証言。こうした取り決めについて上司だった国沢幹雄元社長(71)=規正法違反の罪などで有罪確定=らから承認を得た、と述べた。

 弁護側の反対尋問では、献金元を装ったと検察側が指摘している政治団体の収支は詳しく把握していなかったとして「団体側に(献金可能な額を)確認していた」と答えた。

 被告側は「違法な企業献金との認識はなかった」と無罪主張している。

 元総務部長は元社長とともに逮捕されたが、処分保留で釈放され起訴猶予処分となった。

小沢氏秘書、大久保被告の第2回公判
http://www.mbs.jp/news/jnn_4330225_zen.shtml

 西松建設を巡る違法献金事件の裁判で、西松建設の元幹部が「寄付の金額は西松建設元社長に相談して承諾を得ていた」などと証言しました。

 民主党・小沢一郎幹事長の公設第一秘書、大久保隆規被告(48)は、西松建設から違法な献金を受け取り、小沢幹事長の資金管理団体・陸山会の収支報告書に、あわせて3500万円のウソの記載をしたとして、政治資金規制法違反の罪に問われています。

 東京地裁で開かれた2度目の公判で、西松建設の元総務部長(68)への証人尋問が行われ、元総務部長は小沢事務所側への献金について、大久保被告と西松建設本社で打ち合わせを行っていたなどと述べました。

 また「寄付の金額について国沢元社長らに相談し、承諾を得ていた」とも述べ、ダミーの政治団体を使った西松建設からの献金だった実態を証言しました。(13日11:22)

2010年1月12日火曜日

【日米安保】 -INSIDER 1996年12月1日号

 過去(1970~80年代)に、米国政府高官もしくは米軍高官が「駐留なき安保」を口にしたことがある。そのレポートが誰であったのか思い出せないでいる。永井陽之助が「日米同盟を有事駐留」に切り替えていくという構想であり、松下圭一へとつながる時代でもあったと記憶をしている。ちょうどその時代に、米国政府(もしくは軍)関係者が「駐留無き安保」が可能だという記事(レポート)には、驚いたし喜びさえ感じた。
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 96年4月に橋本・クリントンによる「日米安保再確認」宣言があって、それに対する異論というかオルタナティブとして同年9月旧民主党による「常時駐留なき安保」論の大胆な提起があった。それは突拍子もないことでも何でもなくて、米国の国防政策中枢においても"ポスト冷戦"の時代状況への適合と沖縄少女暴行事件の悲惨に象徴される沖縄での過大な基地負担への対応を計ろうとするそれなりに真剣な努力が始まっていた。

 しかしその米国側の動きは、東アジアにおける「勢力均衡=抑止力」という19世紀的な旧思考に足をとられた不徹底なものに留まっていて、沖縄県の「基地返還プログラム」やそれに学んだ旧民主党の「常時駐留なき安保」論は、まさにそこに切り込んでいって、日米が共に"脱冷戦"を果たすよう、日本のイニシアティブで米国を積極的に導いていくことを狙いとしたものだった。

 その意味で、「常時駐留なき安保」論が、ちょっとした思い付きというようなものでなく、96年当時の戦略的思考の磁場の中で思い切って前に出ようとする意欲的な問題提起だったことが理解されなければならない。そのことを示す当時の2つのINSIDER記事を以下に再録する。分量があるが、この問題に真面目に取り組みたい向きには我慢強く読んで頂きたい。

 大事なポイントは、アーミテージが言ったように「朝鮮半島情勢が緩和すれば在沖海兵隊は撤退すべきである」ということで、当時はまだその条件は熟していなかったが、今日ではまさにそれが可能になりつつあるという点である。「常時駐留なき安保」論は今こそ有効で、それこそが鳩山政権の普天間問題の日米再交渉の基礎でなければならない。

米側から沖縄海兵隊撤退説も

 対日安保政策について米政府に大きな影響力を持つリチャード・アーミテージ元米国防次官補が、朝日新聞のインタビューに答えて「沖縄の米海兵隊は朝鮮半島情勢が変化すれば、少数の基幹要員を残して撤退すべきで、日本など西太平洋での米海空戦力の増強でそれを補える。撤退はまだ先でも、その計画作成から実施までは年月がかかるため、その再編成計画にいま取り掛かるべきだ」と、条件付きながらも"常時駐留なき安保"の方向を積極的に推進する考えを明らかにした(96年11月14日付)。<中略>

■アーミテージの提案

 アーミテージは、11月6日にワシントンで開かれた戦略国際問題研究所(CSIS)の「パシフィック・フォーラム」で沖縄海兵隊の撤退計画の作成に着手すべきだと講演した。そのフォーラムは非公開だったが、のちに朝日新聞がインタビューしてその内容を聞き出した。彼は上の引用に続いてさらに次のように述べた。

「単にすぐに撤退せよとは言わない。朝鮮半島問題が解決すれば沖縄の海兵隊はほぼ撤退できる。小規模な中核となる部隊は残るだろう。普天間飛行場の代わりに海上の飛行場を造れば、人員も少なくなる」

「(72年の)沖縄返還後、米当局者が近視眼的で、沖縄では本土の基地ほど騒音問題や地元民との関係に配慮せず、日本政府も関心が薄かった。多数の米兵が沖縄に集中するのは問題であることに同意する」

 ここでは、沖縄海兵隊だけに限定してのことではあるけれども、従ってまた「日本(本土)など西太平洋での米海空戦力」はかえって強化されるような言い方にはなっているものの、沖縄県民にとって圧倒的に大きな比重を占める悩みの種である海兵隊を、一部だけを残して撤退させ必要に応じて再展開させる、まさに"常時駐留なき海兵隊"に転換する方向が明確に指摘されている。

 それだけでも基地問題は大きく前進するが、しかし米政府が一旦、重要部隊の常時駐留なしでも米軍のアジア防衛態勢に支障はないという論理に踏み込んでしまえば、日本側としては、本土も含む他の基地についても1つ1つ、本当に常時駐留が必要なのかを俎上に乗せて交渉していくことに道が開かれる。

 在日米軍基地は、(1)北を向いた対旧ソ連の海洋核戦力の支援機能の名残、
(2)朝鮮半島を向いた大規模地域紛争への前線配備、
(3)アラスカから中東までユーラシア大陸南辺のどこにでも対応する主として海空兵力の戦略投入のための拠点、
(4)日本が侵略された場合の対応----などのいろいろな機能が混然となっているが、このうち(1)はすでに事実上無用となっており、(2)は朝鮮半島情勢が緩和されれば必要がなくなる。

 沖縄海兵隊は日本側としては、主として(2)に対応し、同時に(4)にも対応していると受け止めていたが、アーミテージは(4)については全く考慮していない様子で(それはそうで、今どき日本に大規模上陸侵攻を企てる者があるとはどんな軍事専門家も想定していない)、朝鮮半島の緩和が進めば海兵隊は引けると判断している。(3)については、一定の機能が相当長期にわたって残ることが予測される。

■再確認と再定義

 アーミテージの発言は今のところ個人的なもので、米政府がそのような認識で固まっているとは言えないが、しかしいずれ米側からこのあたりに踏み込んでくることはだいぶ前から予想されたことであった。

 本誌はNo.347(95年10月1日号)でナイ・イニシアティブのスタッフの1人であるマイケル・グリーン防衛分析研究所研究員とのワシントンでの対話の様子を紹介しつつ要旨次のように書いていた。なお当時はクリントン訪日による安保再確認宣言は11月に予定されていたが、のちに延期されて96年4月に実現した。

▼ナイは毎日新聞のインタビューに答えて「日米安保体制を堅持しながら中国や韓国、他の諸国も含めた信頼醸成の場としての多国間協議体を発展させていきたい」と語っていた。そうだとすると11月に予定された日米安保"再確認"宣言は、単に再確認に止まっていいはずがない。冷戦後の東アジアの軍事情勢をどう捉えるか、とりわけ中国の脅威なるものをどこまで実体を伴ったものと見るのか、というところから始まって、中長期的に見た米軍のアジアにおける配置、日本自衛隊の防衛構想の再検討と縮小・再編の方策、そして彼の言う地域的な集団的安全保障の機構についての構想と手順など、広範な問題が検討に上らなければならない。

▼マイケル・グリーンは8月にワシントンで意見交換した際に、ナイ・イニシアティブはその点が曖昧だと私が指摘すると、「11月までが第1段階で、まず安保維持を再確認する。しかしそれは第2段階の始まりであって、そこでは今あなたが言ったような広範囲の問題を"再定義"することが検討されることになろう」と、ナイが二段構えで物事を考えていると語った。

▼しかし日本の政府・外務省はそのようにナイの真意を理解しているとは思えず、単に今まで通りに安保は続けなくてはいけないという後ろ向きの発想しか持っていないのではないか、そうだとすると11月の宣言は何の意味もないではないか、と指摘すると、グリーンは確かに日本の外務省を見るとそういう危険があるが、政治家にはもう少しちゃんと理解している人もいるはずだと期待感を表した......。<中略>

■外務省の迷妄

 ところが当時、日本の外務省は、沖縄の少女暴行事件をきっかけに安保見直しの議論が高まっていることを危惧して「再定義という言葉は安保見直しと受け取られかねない」と、これを再確認のレベルに止めることに躍起となった。その結果、4月の橋本・クリントン会談における日米安保再確認は、何十年も前から言われ続けてきた日米安保の片務性----米国は日本を守るが、日本は米国を守らないどころか、極東での米作戦に協力もしない----を若干改善して、例えば朝鮮有事の際に日本自衛隊が一定限度の支援を行うという、過去へ向かって安保を強化するだけのものとなり終わった。

 本来ここで外務省がやらなければならなかったのは----

(1)直前の米韓首脳会談で提唱された、朝鮮半島の休戦協定を和平協定に格上げするための南北米中の4者会談の枠組みを、次のステップとして日露を加えた6者に拡大させ、さらにそれを北東アジアの包括的な信頼醸成型の多国間安保対話のシステムへと発展させていく展望を示して米国に対して知的イニシアティブを発揮する、

(2)北朝鮮に戦争をやる気を起こさせないための努力を米国任せにしないで、日本としても独自にコメ支援や日朝国交交渉の再開はじめ半島の緊張緩和に役割を求めていく決意を明らかにする、

(3)そうした朝鮮半島の緩和の進展に応じて、日米安保体制とその下での在日基地のありかたの再検討についてこちらからメニューを提示してナイ・イニシアティブの第2段階に積極的に対応する、

(4)その中で特に沖縄については、沖縄県当局が発表している2015年までにすべての基地の返還を実現する「基地返還アクション・プログラム」をカードの1つとして、思い切った対策を要求する......

 といったことであったはずだが、そういった発想のかけらもないままに後ろ向きの再確認と付け足しのような普天間返還でこと足れりとしたのである。

 そのあたりの外務省の思考様式を典型的に表したのが、ナイ・イニシアティブおよび沖縄基地問題の日本側担当者となった田中均=北米局審議官が『中央公論』11月号に寄せた「新時代の日米安保体制を考える」である。

■対米追従の尻尾

 田中は冒頭で、「冷戦思考に基づく安保思考はこのさい捨て去ることがなにをおいても必要」とか「安保体制は未来永劫同一であるといったことはあり得るはずもない」とか、ポスト冷戦への適合の必要性を盛んに主張しているが、実際には彼の情勢認識は冷戦思考を引きずっている。

 彼は「アジア太平洋においても安全保障課題は構造的な変化を遂げている」として「地球規模の戦争の脅威はほとんど存在しない」と指摘しながら、「と同時に、地球規模の戦争の引き金となる恐怖により抑止されてきた局地的紛争の芽は依然として存在するばかりか、むしろこれが顕在化する危険は増えた」と、毎度お馴染みの、ソ連の脅威はなくなったが朝鮮や中国が危ないという"脅威の横滑り"論を展開する。

 これについては本誌はさんざん書いてきているから多くを繰り返さないが、第1に、冷戦時代に旧ソ連が日本に対して直接侵略する危険(それが本当にあったかどうかも実は疑問なのだが)と、朝鮮半島や台湾海峡で内戦が起こった場合に日本が間接的に受ける影響の問題を同レベルで論じるのはデマゴギーにすぎない。後者は基本的に(米国はいざ知らず)日本が軍事力を用いて対処する事柄ではありえない。よく言われる邦人救護やシーレーンへの脅威排除も、日本としては武力を用いて解決する方策を採らないという節度を保たなければならないし、まして難民救援は自衛隊の仕事ではない。

 第2に、局地紛争が顕在化する危険は増えたというのは間違いで、冷戦中も冷戦後もしょっちゅう世界中で行われていた内戦が、米ソが介入しなくなっただけ減って、米ソが管理しなくなっただけ増えているという程度の話で、冷戦後に特に増えたという訳ではない。湾岸戦争は、イラク側から見れば自分の領土であると主張するクウェートに対して行われた作戦であり、それに対して米ブッシュ政権が、サウジアラビアの石油を失うという恐怖心に加えて、ソ連という敵がなくなって困っていたところに都合よく出てきたフセインを"ヒトラーより悪辣な独裁者"に仕立て上げて国威発揚と選挙での再選を狙うという冷戦後遺症的な過剰反応を示したのでおおごとになってしまっただけで、本質的に"最後の冷戦"だった。クリントン政権も含めて米国もまた冷戦時代のマッチョ的な武力信仰から卒業し切れていないために起きている事象を捉えて、冷戦後は紛争が増えるなどと言うのは錯乱である。

 第3に、もっと直接的には田中は、朝鮮半島有事を頭に描いているようだが、それについては同じ『中央公論』のすぐ前に置かれた毎日新聞論説委員の重村智計の「"北"兵士侵入事件の正しい見方」および彼が同誌7月号に書いた「朝鮮半島"有事"はない」が正しくて、「米国はいまや北朝鮮と意思疎通ができる唯一の超大国」として、いかにして戦争を起こさせずに金正日体制を軟着陸させるかを戦略的に追求している。もちろん米国としては、その努力が破綻した場合の軍事的備えをするのは当然で、特にペンタゴンはその万が一の部分を受け持たざるをえないし、その場合に日本を適度に脅してこれまで以上の対米協力約束を引き出せればこんな有り難い話はないと考えるだろう。米国とすれば、北朝鮮との対話ルートを独占して米大企業の北への進出の実績を積み上げる一方で、日本や韓国の頭は抑えて抜け駆けをさせないという二重戦略を採るのが賢明なやり方で、外務省はまんまとそれに乗せられて、極東有事への日本の協力を求められて名誉なことだなどと考えているのである。

 日本としては、そのような米国の対日マインド・コントロールに引っかからずに、特に外務省としては外交面で朝鮮有事を起こさせないような北東アジアの環境を主体的に作り上げていくためのイニシアティブを採らなければならないが、田中の論文にその一番肝心なことは触れられていない。もちろん彼は、多国間の信頼醸成努力は大事だとは言っているが、それも、日米・日豪の2国間安保を基軸にアジア・太平洋における覇権を確保した上で、その補完的な手段として地域安保対話も認めるという米国の認識の枠組みを一歩も出るものではない。

 このような対米追随こそ冷戦思考の尻尾なのである。

■有事駐留はダメ?

 田中は、そのように安保堅持がいかに重要かを述べた後、結論部分では"常時駐留なき安保"を否定して次のように言っている。

「安保環境の一層本質的な整備と日本が米国とのきちんとした役割分担に基づく防衛協力を行い得る体制整備を行わずして、沖縄における海兵隊は不要であるとか、有事駐留がよいといった議論には、日本の安全保障という観点から見れば多くの問題がある」

「その最大の問題点は、合理的根拠がない米軍の撤退は抑止力の低下に繋がることである」

 また有事になれば戻ってくればいいという議論は非現実的で、普段から地形や基地に習熟し訓練を通じて即応能力を高めておかないと、突然本国から派遣しても役に立たないというのである。

 彼が一番言いたかったのはこの部分だろうが、しかしアーミテージが言うように、朝鮮半島危機が緩和されれば沖縄海兵隊は撤退する"合理的根拠"を得るのである。田中が書いているそばから、日本が頼りにしている対米パイプの要人からこういう発言が出てくるというところに、日本の哀れがある。

 朝日新聞96年11月12日付の連載「新政権への視点(下)」は「脱追従外交」と題して次のように述べている。

「日米安保再定義の作業は、日本が米国の要望にいかに沿うかを、外務・防衛官僚のペースで進めただけだった。日本の国益は何か、米国の国益とどこが一致するのか、日米安保は冷戦後も必要かどうかを見直し、日本の役割について『戦略的選択』を行う責任を、政治家が放棄してしまった」

 つまりここでも、従来の発想の延長でしか物事を考えられない"官主導"の外交・安保政策を、世の中の常識によって支配する方向へ転換するという課題が浮かび上がっている。朝日の記事は、「しかし、国会には新しい流れも生まれ始めている」として、"常時駐留なき安保"を選択肢の1つにすることを公約に掲げた民主党の鳩山代表の「米国の発想についていけばいいというのでは、米国から安心されるかもしれないが、それでは尊敬され信頼される国にならないのではないか」という発言を紹介している。

 その通りで、必要なのは、ワシントンと東京を共に不安に陥れた沖縄の大田昌秀知事のように、的確な情報に基づいて大胆に将来を見越した変革プランを提示して、21世紀への知的・政策的イニシアティブを発揮することである。▲


2005年に沖縄海兵隊撤退か----朝鮮半島の緩和が前提

 前号で、日米安保・沖縄協議の陰のキーマンであるアーミテージ元国防次官補の「朝鮮半島情勢が変化すれば、沖縄海兵隊は少数の基幹要員を残して撤退すべきだ」という発言の意味を解析したが、その後も米側重要人物たちによる「朝鮮危機回避=沖縄海兵隊撤退」論が相次いでいる。ワシントンですでに1つのトレンドとなりつつあるこの論調は、決着が迫られている沖縄・普天間基地の代替ヘリポート問題に直接関わりがあるのはもちろんのこと、広く21世紀のアジアの安全保障システムをどう構想するかにも大いに影響がある。

●朝鮮統一は近いかも?

 まずそれぞれの発言とそれをめぐる報道を日付順に列記しよう。

(1)船橋洋一=朝日新聞北米総局長は11月19日付同紙に「日米双方に"海兵隊お荷物"感/海上へリポート案浮上の背景」と題した長いレポートで要旨次のように書いた。

▼普天間返還が難航すると、米軍の日本におけるプレゼンスのあり方への疑問を強めることになりかねない。米国は、日本国内における「米海兵隊をみんなで足蹴にする政治ゲーム」の登場に不安感を募らせた。

▼日米安保堅持派は「駐留海兵隊の数を減らさないことには安保が持たない」と主張し、"駐留なき安保"派は「駐留撤廃の第一歩」との期待を強め、安保破棄勢力は「海兵隊嫌いの感情を利用する安保空洞化」を仕掛け始め、"普通の国"志向の人々は「日本が米軍の肩代わりをする方向に持っていく好機」ととらえた。少なくとも米国の目にはそう映った。

▼自民党、外務省の中にさえ「基地縮小から米プレゼンスの縮小」を求める声が出始め、米国は、日本政府がそれに対し、説得力ある国民教育をしないだけでなく、むしろそれを放置しているのではないかと不安を強めた。

▼が、海兵隊の規模縮小をはじめとするプレゼンスの"合理化"を求める声は米側、それも日米安保を堅持しようとする立場の専門家からも聞こえ始めた。海上へリポート案の源流をつくったウィリアム・オーウェンズ退役海軍大将にしても、それを普天間基地代替案として強く進めたリチャード・アーミテージ元国防次官補にしても、いずれも将来の海兵隊のプレゼンスを考え直さざるを得ない、との点では意見が一致している。「朝鮮半島が統一したとき、いまのままの米軍プレゼンスを維持できるとは思わない。しかし、何らかの形でのプレゼンスを考えたとき、海上へリポートは1つの案として考えられると思う」 (オーウェンズ氏)

▼この間一貫して、米国の究極の関心は米国のプレゼンスのすごみ、ひいては米国の威信の確保にあった。ただ、それは同時に、日本での米軍のプレゼンスと日米安保が、長期的には海兵隊抜きの海軍と空軍主体の兵力構造へと徐々に進化していくことを図らずも指し示しているのかもしれない。もう1つ、沖縄の海兵隊の主たる駐留存在理由である"朝鮮半島有事"シナリオも南北統一の展開次第では、根本的に揺らぐ。沖縄基地問題に携わってきた米政府高官はヘリポートの"寿命"との関連で「朝鮮半島の統一は意外と近いかもしれない」とつぶやいたが、ヘリポートはそれまでの緊急避難措置だ、と聞こえた......

 この最後の部分は1つのポイントで、普天間代替基地の県内建設に難色を示してきた沖縄県の大田昌秀知事が11月23日、「一時的に県内に移設するものの、期限を切って撤去させる方法が可能かどうか検討する必要がある」と語ったのは、沖縄海兵隊撤退が意外に早いかもしれないことを考慮に入れての発言であることは言うまでもない。大田の知恵袋の吉元政矩副知事は8月上旬に本誌のインタビューに答えて「北朝鮮は、5年と言わずもっと早くカタがついて、米海兵隊は2000年までにいなくなると見ている。そんなに早くては我々の(経済自立)計画が追いつかないので、むしろ危機感を抱いている」と、3カ月後の米側からの撤退論の噴出を見越した発言をしていた。当時、外務省の関係者にその見解をぶつけたら「そんな馬鹿な」と言っていたが、情報収集と先の見通しについて外務省より沖縄県のほうがよほど上であることが実証されたことになる。

●元司令官の撤退論

 もちろん、現役のペンタゴン高官の発言は慎重で、軽々に撤退論など口にするはずがない。ジョン・ホワイト米国防副長官は21日、久間章生長官ら防衛庁首脳と東京で会談し、米国が来年取りまとめる4年ごとの国防政策見直しの中で「米軍兵力の近代化や兵力構成について、財政面を含め検討している」と説明し、しかし「日本やアジア・太平洋政策の変更は予想されていない」と強調した。しかし同じ日、米空軍は「地球規模の関与----21世紀の空軍ビジョン」と題した報告書を発表し「2025年までには紛争地帯への空軍力投入は主として米本土から行われるようになり、海外での空軍配備は削減されるだろうとの見通しを明らかにした。これに関連して、ウィドノール米空軍長官は25日、ワシントンで講演し「沖縄の嘉手納基地を含む海外の主要な米空軍基地の閉鎖は短期的には予想されない」と語った(21日および25日ワシントン発時事電)。

 逆に言えば、中長期的には予想されるということで、海兵隊に限らず海外駐留の米軍全体の思い切った本土撤退のシナリオが検討にのぼっていることを示唆している。

 次に注目すべきは朝日の軍事記者=田岡俊次の原稿である。

(2)田岡俊次=朝日新聞編集委員は、23日付同紙のシリーズ「漂う基地」第5回で「撤退論、海兵隊内部にも」と、次のように書いている。

▼クリントン大統領は再選直後から、最優先課題として"均衡予算"を掲げており、国防費の一層の削減が不可避となりそうだ。一方、海兵隊は今後装備の近代化に巨額の予算を必要とする。対艦ミサイルの発達で揚陸艦が陸岸に接近するのが危険となった今日、海兵隊は約90キロの沖合からの発進を可能とする特殊な近代装備を持たないと存在価値を失う。海兵隊司令部は予算増大に期待をつなぐが、沖縄の第3海兵師団参謀もつとめた軍事記者は「海兵隊は一応17万人の維持を言うが、内心では90年初期に一度言われた15万9000人以下まで後退することを覚悟している気配だ」と言う。若手の将校や退役将校の間では作戦や訓練の効率などの観点から、沖縄撤退論を唱える人も少なくない。

▼現海兵隊司令官チャールズ・クルーラック大将の父親、ビクター・クルーラック退役中将(元太平洋艦隊海兵隊司令官)もその1人だ。9月に全米で約60の新聞に載った同中将の論文は海兵将校たちを驚かせた。沖縄は悪天候に強い泊地が乏しく、訓練場も狭い。戦略上もベトナムのカムラン湾かオーストラリアに移る方が良い、との論だ。

▼米海兵隊機関誌「マリンコー・ガゼット」の編集長ジョン・グリンウッド退役大佐は「私も沖縄撤退論者だが少数派。当然多くの将校は現状維持派だ。いまの状況では急激な変化が来年決まる公算は小さいが、見直しの進展次第では、いま考えにくいことが起こるかもしれない」と見ている......。

 さすがに軍事記者は面白いところに目を付けていて、技術的な発展に応じて海兵隊に思い切った予算を付けて最新装備を充実させるか、逆に用済みとして撤退・縮小を進めるかの選択を余儀なくさせていることを指摘している。これに関連して、国防副長官も言及した来年の兵力構成見直しについて田岡は、「5月末までに国防総省による戦略や兵力の見直しが行われると同時に、議会が任命する9人の専門家による再評価も行われ、11月までに最終報告の予定だ」と述べ、その焦点は「従来通り中東と朝鮮半島で同時に大規模地域紛争の起きる場合に備える兵力を保持すべきか否か、だと米国防当局者たちは言う」と書いている。

 推測すれば、来年春までに朝鮮半島の危機回避の枠組みが確立しているとは考えにくく。そうだとすると来年の兵力見直しでは、直ちに沖縄海兵隊撤退の方針が盛り込まれることはない。しかし、逆にその4年後の2001年の見直しの時には、朝鮮の潜在危機が今のまま続いているとは極めて考えにくい。2000年前後に撤退が現実のこととなるという吉元の見通しは、いい線を突いていることになるのではないか。

●2人の大物の発言

(3)マイケル・アマコスト前駐日大使は22日ワシントンで、毎日新聞のインタビューに答えて次のように語った。

▼(4万7000人の在日米軍が将来削減される可能性について)数字自体に特別な意味はなく、安全保障は兵力規模に依拠するわけでもない。調整は可能だ。地域の状況によりけりで、北朝鮮をめぐる問題が解決すれば事態は変わる。

▼それでも東アジアでは日本ほど重要な同盟国はない。特に沖縄県のように大規模な兵力を前進配備する際は、その国や地域の政治的支持に配慮する必要がある。沖縄県民の痛みを除きつつ米国の安保機能の信頼性を保つという2つの課題を両立する必要がある......。

 ここでも、海兵隊を含む在日米軍の削減は朝鮮半島緩和の従属変数であるとの認識がはっきりと語られている。前大使はまた、日米防衛協力ガイドラインの見直しに関連して、「米国は日本が海外で軍事的役割を果たすことなど求めていない。米軍にとっては平時の後方支援が関心事だろう」と述べ、さらに朝鮮有事に当たっても「非武装地帯で軍事衝突が起きるか、大量難民が発生するかなど、危機の種類によって対応は異なる。が、米国民は同盟国に負担を求めるものだ。断定的に言えないが、後方支援分野の貢献が主になろう」と述べている。

(4)ジョゼフ・ナイ前米国防次官補は朝日新聞主催のシンポジウム「21世紀におけるアジアとの共生」に出席し、次のように語った(24日付同紙)。

▼2005年ごろ朝鮮半島から紛争がなくなる。朝鮮半島に米軍が残っているか否かは韓国政府の要請による。朝鮮半島は日本、中国という大国に挟まれている。大国の隣に住む小国は隣国に近づくのを望まず、ほかの大国に頼る。韓国は米国に何らかの形の同盟関係を保険として求めるが(米軍が撤退するかどうかは韓国がその後も)目先の脅威を感じるか、一般的な保険として期待するかによる......。

 このあと、出席者の1人であるリー・クアンユー元シンガポール首相が、米軍を「撤退させるのは、簡単に侵略できるという誤解を招く」として慎重さを要望し、さらに司会の船橋洋一が「米国のプレゼンスが陸から海に出ていく感じがする。普天間基地の代替地も海上ヘリポートになりそうだ」と発言したのに対し、ナイはこう述べた。

▼技術革新が非常に大きな要素となっている。兵員を長距離に展開することは可能になったと一般的にいえる。問題は心理的に安心できるかどうかということだ。これがリーさんの言ったジレンマだと思う。前進基地には2つの役割がある。戦う能力と、戦いを発展させないよう防止するという心理的な安心を与えることだ......。

●台湾海峡の緊張は?

 船橋はシンポの後の印象記で「朝鮮半島の緊張が『来世紀初頭には片付く』(ナイ氏)との見方が支配的になるにつれ、長期的には台湾海峡、つまり中国と台湾の間のアイデンティティと主権をめぐる葛藤が日中、米中、さらにはこの地域全体の緊張要因となるとの予感が広がっている」と述べた。

 問題は2つあって、1つは、確かに朝鮮半島危機は数年中に除去されるという見方は支配的になりつつあるが、それをどう確実にしていくかについての手順と枠組みを米中南北それに日露の間で確定することである。民主党の鳩山由紀夫代表は『文芸春秋』11月号の論文で次のように提唱している。

「まずいわゆる"極東有事"が発生しない北東アジア情勢を作り出していく。それが、沖縄はじめ本土も含めた米軍基地を縮小し、なくしていくための環境づくりとなる。私はそのような条件は次第に生まれつつあると考えている。すでに米韓両国からは、南北と米中の4者会談が呼びかけられている。その会談が成功を収めた後には、さらにそれをロシアと日本を加えた"6者協議"の枠組みへと発展させ、米中露日が見守る中で南北が相互理解と経済交流の促進と将来の統一をめざして対話を継続するよう促すのが現実的である。そして、その6者とは実は、日本海を囲む北東アジアの関係国すべてであり、朝鮮半島の問題だけでなくこの地域の紛争問題や資源の共同管理、多角的な経済交流などを話し合っていく場ともなりうるだろう」

 もう1つは、朝鮮半島が片付いたとしても、まだ台湾海峡が危ないから米軍撤退は時期尚早だという主張が米日にまたがって必ず出てくるだろうが、それをどう見ればいいかである。ナイはシンポの中で「わたしの提案は『台湾は独立を宣言しない』だけだ。そうすれば北京も台湾が国際的な場に出ることを容認できるだろう」と端的に述べている。これは全く正しくて、台湾が独立を強行したときだけ中国は武力を行使するだろう。だからまずそれをさせないことである。それ以外に、今年春のように中国が演習などの名目で軍事挑発を弄び、それが突発的な事態に結びつかないとは言えないが、いずれにしても国際社会は「台湾問題は中国の内政問題である」という原則に立って、徒にこれに軍事介入すべきではない。中国脅威論を過大に騒ぎ立て、米日がそれに軍事力を用いて対処しなければならないかの幻想は早めに除去しておく必要がある。

●戦略欠如の日本

 第2期クリントン政権がこれまで以上に中国に対して"積極的関与"政策を採ることは疑いがない。その関与の意味が、一方では米国が中国と地域安保面まで含めた政治的対話を重視し、さらに中国の軍事建設にも支援の手を差しのべて敵対性を除去していきながら、他方では特にコンピュータ、情報通信をはじめとしたハイテク市場としての中国の潜在性に着目して、対中貿易赤字を解消していこうとするところにあることは、マニラでのAPEC総会で明らかになった。米国の対北朝鮮政策も、そのような対中国戦略とパラレルなもので、米中韓で北を包み込むようにして軟着陸させることをすべてに優先している。そのこともまたマニラでの米韓首脳会談で明らかになった。

 他方、中国はAPEC直後に江沢民主席を初めてインドに送り、国境停戦ラインでの信頼醸成措置の強化について合意を達成した。中国は今年4月には、ロシアはじめ旧ソ連の中央アジア3国との間でも画期的と言っていい信頼醸成協定を結んでいる。他方、ロシアは先のプリマコフ外相の来日を通じて、北方4島の共同開発方式を提唱し、膠着している領土紛争へのバイパスを敷設する努力を見せた。

 北朝鮮も、図們江開発の推進に加えて、最近は、10月28日インドのニューデリーで開かれた国連アジア太平洋経済社会理事会(ESCAP)閣僚会議で決議された、釜山~ソウル~北朝鮮・羅津~シベリア鉄道~欧州と、同じく釜山~ソウル~北朝鮮・新義州~中国~モンゴル~ロシア~欧州という2つの汎ユーラシア横断鉄道の復元構想に事実上同意した。また、韓国の週刊誌が伝えるところでは、9月22日から3日間北京で開かれた「第2回東北アジア天然ガス・パイプライン国際会議」に出席した北代表は、ロシア・イルクーツクのガス田を中心とするシベリアの天然ガスを日本まで運ぶパイプライン計画について、初めて積極関与を表明し、パイプラインを中国経由、北朝鮮から板門店を通って韓国へ抜けるルートで建設するよう強く提案したという。

 東北アジアを1つの面と捉えて、多国間の安保対話機構と経済協力の枠組みを作る条件は熟しているのに日本にその戦略が不在である。▲