2006年7月23日日曜日

【メモ】 黒田清

大谷昭宏の兄貴分であった黒田清氏は、2000年7月23日、膵臓癌のため死去をしている。これに伴い黒田ジャーナルは解散し、大谷は独立して「大谷昭宏事務所」を設立した。なお、他紙が数段抜きの訃報を掲載した(顔写真入りで掲載した新聞もあった)のに対し、読売に掲載された訃報は一段のベタ記事であった。これは、読売の渡邉恒雄と意が異ったからであり、結果黒田は読売を退社をしている。

 一貫して反戦、反権力を訴え、読売新聞大阪社会部長時代には「黒田軍団」の異名を取った大阪社会部を率いて大阪府警警官汚職事件などをスクープした。1987年(昭和62年)に退社後に事務所「黒田ジャーナル」を創設、草の根ジャーナリストとしてミニコミ紙「窓友新聞」を発行した。絶筆となった7月号のコラムでは、出血と輸血を繰り返す病状について「たくさんの血をありがとう」と。



黒田清
「(p.298~ 批判ができない新聞)日本のメディアは(中略)本来は現実批判がもとにあったと思うんですが、気がついたら、批判できないようになっている。

非常に大きいのは、政治についての批判がぎりぎりのところでできなくなったことです。不幸なことに高度成長で日本の新聞社は読者も増える、ページ数も増えるなど、いろいろなことで社屋を大きくしなければならなくなって、特に東京で社屋の土地が無かったから、自民党に頼んで国有地を安く売ってもらった。

読売、朝日、毎日、産経、みんなそうです。とても大きな借りを作ってしまった。だから新聞記者が一生懸命何かを書こうと思っても、中枢のところで握手をしていますから、突破できない。もう一つは、日本の新聞社の経営は、自己資金が少ない。

たとえば朝日や読売にしても、資本金は一億か一億五千万、いま増資して三億とか五億とか、せいぜいその程度でしょう。そして銀行は、新聞社と手を結んでおいたらいいということで、ずっと貸していた。

この10年ほどで、その借入金が一桁か二桁、また増えたわけです。これはご存知のようにコンピュータシステムをとりいれたからです。そうなると金融機関に対するチェックは非常に甘くなりますね。だから、そのあと、土地問題、不動産問題、銀行の不正融資と、表に出ているのは知れたもので、さらにひどいことが金融機関をめぐってはやられていますよ。けれども、新聞はさわっていませんね」

(p.303)「はずかしいけれど、そう言われてもしかたないと思いますよ。特に私は読売新聞にいましたから。読売新聞の幹部がどういう考えで新聞をつくっているかというのは、社内に発表される社内報で知っていますから。それに私自身が辞める前は編集局次長で首脳会議に何年か出席していたわけですからね。

その時に驚いたのは、新聞記者、ジャーナリスト、マスコミの役割は--あの人たちにはジャーナリストもマスコミもみんな一緒です--政府が行政を行うのをサポートすることだ、と言われたことです。私は三十年以上政府権力をチェックするという考えだったんですけれど、最後の数年は、サポートするんだとトップは考えて紙面を作るようになっていた」

「無事」に帰国したイラクでの人質3人を心なき言葉が迎えた。・・・・・批判も自由だ。でも「現場」に行こうとした意思そのものを根本から否定するかのような発言は、1945年以前の 国家総動員法の時代への回帰だ。

政府が繰り返している勧告に従わなれば犯罪者なのか。関西空港や羽田空港での3人の様子は国家機関に保護された「囚われ人」であった。・・・・・3人が政府の保護下になってからの憔悴しきった表情からは、自由意思までもその管理下になったようにさえ見えてしまう。

イラクで人質になった5人はこれまで、インターネットのホームページなどに多くの意見や情報を掲載してきた。・・・帰国の際の飛行機での"隔離"などは、それは「解放」と同時に見えざる手によって「幽閉」されたようにも見える。・・・・・私人の思想や行為を「公」あるいは国家の意思が押しつぶしていくサマを、傍観していいはずがない。・・・・・(・・・・・は省略部分)

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 親交あった大谷昭宏氏が悼む 黒田さんとは記者とデスクとして出会ってから30年の付き合いになりますが、物の見方や目のつけどころをたたき込まれました。大所高所から物事を見るのではなく、地をはいずり回りながら取材するのがジャーナリスト、そしてもぐらたたきではありませんが、たたかれたらまたどこかで飛び出せばいいと。根っからの社会部記者で、そこから数々のスクープが生まれてきたのではないでしょうか。
 先輩デスクに教わった話だそうですが、自転車の部品を減らして軽量化するとしたら、タイヤやブレーキではなく、ベルが真っ先になくされる対象になるはず。ベルは従業員何人で、どんなふうに作っているのかを知るのが大事だ。合理化される場合、世の中、そういうところから切られていくのだから、タイヤではなく、ベルのようなものに目をつけていかなければだめだ、と。こんな話を後輩記者に伝えることが、黒田さんなりの記者の育て方だったと思います。

 読売を辞めようかと言っていた1987年(昭和62年)の年賀状に「どういうこっちゃから、こういうこっちゃへ」と書かれてあったのが、今も印象に残っています。どういうこっちゃと疑問を持ったら、こういうこっちゃと、私たちで答えを出していこうという意味だったと思います。

 5月の連休明け、1時間半くらい話をしましたが、その時も最初から最後まで仕事の話題でした。私が「黒田さんは何度生まれ変わっても新聞記者でしょうね」と言うと、うれしそうにしていたのが忘れられません。(談)

 TBS「ニュース23」筑紫哲也キャスター 最後にお会いしたのは今年4月。病室で「今回は長期戦を覚悟しなくては」と話され、体調もよさそうに拝見したのですが……。私の番組に何度も出演していただき、阪神大震災直後の神戸からリポートしていただいたことが印象に残っています。あの腰を落とした庶民の視線で取材される姿勢は、ジャーナリストが本来持ち続けるべきもので、メディアの原型というべきもの。「かわら版精神」の見本のような方でした。

 辻元清美衆院議員 黒田さんは大阪の良心というべき方だった。学生時代、当時はピースボートの活動がまだ認められていなかったが、黒田さんは熱心に話を聞いてくれてすぐに協力を申し出てくださった。私にとっては恩人。人権や平和、環境に鋭く切り込んでいく大阪文化の発信者でもあった。それだけに、亡くなったのは非常に残念です。

 元「サンデー毎日」編集長の牧太郎氏 黒田氏は一貫して“庶民の美学”を追求したジャーナリストだったと思う。この点では“権力の美学”を追い求めた渡辺恒雄氏(読売新聞社長)とぶつかるのは当然だった。核の問題にしても、差別の問題にしても、常に弱者の立場にたっていた。東京に出てきたときは、新宿にある警察担当記者が集まる飲み屋によく顔を出しており、年齢を重ねても、サツ回りの心を忘れないようにしていたのだろう。これからまだまだ活躍できたのに残念だ。