2010年1月24日日曜日

【沖縄密約】 西山太吉の妻啓子「逆風満帆」

 記事だけを残し、ソースを残しておいていないというミス。西山太吉氏の記事は「逆風満帆」からであった事から、その関連であろうか?

日付けもこの記事を移転元が2010/1/24
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いつもなら声を荒らげ、睨みつけるように反論してくる夫が黙っている。啓子は身を縮めるような思いで待った。
いつもなら声を荒らげ、睨みつけるように反論してくる夫が黙っている。啓子は身を縮めるような思いで待った。

「あのね」

か細い声が聞こえた。拝むような表情の夫が続ける。
「ギャンブルしているときだけは、すべてを忘れられるんだ」

啓子は何も言えなかった。さよならと一言、口に出してしまえば終わるのに――。

「結局、決断できないのは私自身だったのね。私が放りだしたら、ひとりでは生きていけないだろう。私さえ我慢すれば、まわりに迷惑をかけずにすむ。そう思っていたけど、言い訳だったのかもしれない。だから、どんなにわがまま言っても大丈夫だろうって、主人から見透かされてしまうのね。ただ、心の底のどこかに、これではあまりにもかわいそうすぎるという気持ちがあったことも確かでした。このまま終わってほしくない、と」

別れを選択しなかったのではない。一緒にいることを選択したのでもない。どちらも選択できなかった。選択できないまま、日々に押し流されてきたというほうが近いのかもしれない。

九一年、夫が六十歳で青果会社を定年退職すると、マンションでのふたり暮らしはいっそう息苦しくなった。

競艇が開かれていない日はただ、部屋のなかにこもる。新聞社を辞めて以来、夫が目にするのは新聞とテレビのニュース番組ぐらい。このままでは、頭が錆びついてしまう。そう啓子は案じていた。

「パパ、本屋に行ってきて。一冊でもいいから本を買って勉強しないと、時代に遅れてしまいますよ」

啓子が小言のように繰り返しても聞き流す。

「本なんか読んでも役に立たない。現実に俺の身に起きたことを考えてみろ」

確かに、生半可な仕打ちではなかった。天職とも言える新聞記者の仕事をとりあげられ、郷里でやりたくもない仕事をして、政治の話ができるような相手も見当たらない。でも、と啓子は言い返す。

「でも、男でしょ。だったら撥ね返さないとだめじゃない。しっかりしてよ」

ためこんでいた本音をぶつけると、夫は激昂した。
「お前に何がわかるんだ。偉そうに」

ああ、かわいそうな人なんだ。事件がこの人を変えてしまったんだ。啓子はそう思いこむことで受け流してきた。それでいて、気になる本を見つけると、夫が手にとろうとしないことがわかっていても買ってきた。

やはり、立ち直ってほしかった。このまま死んでしまうのだけはもったいない。啓子はそう思っていた。夫としての西山太吉に翻弄されながら、新聞記者の西山太吉を忘れられずにいた。その再生をどこまでも信じようとしていたのは、ほかならぬ啓子だった。

啓子はタンスの引き出しに、真珠のブローチを仕舞っている。

かつて、夫が親しくしていた政治家の家を訪ねたとき、たまたま身内の結婚祝いを選ぶために呼ばれていた宝石商から買ったものだ。家に帰ってくると、小さな箱を背広のポケットから取り出して、「はい、これっ」と、ぶっきらぼうにそれだけ言って渡された。

「あれは結婚七年目でしたかね。きっと、宝石商の方から『よければ、奥様にも』とか勧められて、断りにくかったのか、ちょっと格好つけようとしたんじゃないでしょうか。あとにもさきにも主人から宝飾品なんてもらったことはありません。これがたったひとつの贈り物です」

十個の淡い桃色の珠は、かつて慌ただしいながらも穏やかだった日々があった証にも見える。それを、啓子はずっと持ち続けてきた。

奇跡は訪れた――明らかになった密約の存在

退職後、夫はボランティアで早朝のごみ拾いをはじめた。近所を約一時間かけて歩き、ポリ袋にごみを拾って入れる。社会とつながる、細い糸のようだった。それが日課となって九年近くすぎようとしていた二〇〇〇年五月二十九日、転機は突然、訪れた。

ごみ拾いから戻ってしばらくすると、電話が鳴った。啓子が取ると、相手は毎日新聞の記者を名乗った。なぜ、いまごろになって。いぶかりながら用件をたずねた。

「今朝の朝日新聞が密約を裏づける資料が出た、と一面で報じているんです。西山さんにコメントをいただきたいのですが」

あわてて夫に替わった。受話器を握り前屈みに話をする後ろ姿を見ながら、啓子は思った。

ああ、間に合ったんだわ。

電話を切ると、夫は玄関へ向かった。

「ちょっと新聞買ってくる」

飛び出すように出て行ったきり、なかなか帰ってこない。戻ってきたとき、手にした新聞はくしゃくしゃになっていた。

〈朝日新聞と琉球大の我部(がべ)政明教授は、沖縄返還(一九七二年五月)に至る日米両国政府の交渉の実態と最終結果を詳しく記録した米公文書のつづりを入手した。それによると、返還土地の原状回復補償費四百万ドルを日本政府が肩代わりする▽日本政府が物品・役務で負担する基地施設改善移転費六千五百万ドルなどの「秘密枠」をつくる――がいずれも極秘扱いの密約だったことが明らかになった〉

原状回復補償費四百万ドルをめぐる密約とは、かつて夫が問い、そのことによって罪を着せられた密約そのものだった。それを一面だけでなく、二、三面も見開きで報じていた。破格の扱いだった。

台所のテーブルに新聞を置くと、夫はつぶやくように言った。

「あんたの言ったとおりだったな」

口にしたのはそれだけだったが、啓子にはその意味がわかった。

「パパねえ、アメリカってでたらめなところのある国だけど、きっと公文書とかが出てくるわよ。密約があったことは、きっと証明されるから」

事件が起きた直後から、啓子はしきりにこう繰り返していたのだ。

予言したのではない。はたして公文書に記録されているのか。夫が生きているうちに出てくるのか。根拠も確信もなく、ただ祈るような思いで口にしていた。「いつか出てくるわよ」。そうとでも言わなければ、ほかにかける言葉が見つからなかった。

そのたびに夫は返事をしなかったが、確かに聞いていたようだ。淡い期待に望みをつないでも、実際に出てこなければ、ふたたび失意を重ねることになる。そう思って聞き流すふりをしていたのだろう。

「ああ、奇跡が起きたんだと思いました。主人はこのまま名誉を回復させることなく死んでいくものだとあきらめかけていましたから。長いこと、うれしいという気持ちを忘れていました。もう、味わうことはできないんだろうと思っていました。だから、こんな奇跡に遭遇できて、辛かったことも少しは間引かれたかしら」

事件が起き、夫が新聞記者を辞めてから二十六年。暗闇に閉ざされたような日々だった。しかし、その歳月はまた、一般に二十五年という米公文書の機密が解除されるまでに必要な時間でもあった。啓子もまた、密約によってもたらされた屈辱をともに生きていた。

朝日新聞には、沖縄返還交渉当時の責任者だった吉野文六・アメリカ局長のコメントが載っていた。

〈確かにサインは私のものだ。ただ、スナイダー公使とそのような話をした覚えはない。米側が議会に説明するためと頼まれてサインをしたのかも知れない。このような密約を交わしたことはなく、これに該当する文書は日本側にはないだろう〉

署名はみずからのものと認めながら、内容はまったく覚えていないという。何と奇妙な回答だろう。これに続き、外相の河野洋平は翌日、密約を否定。アメリカ政府による公式文書の内容を一蹴した。

〇二年にも、密約を裏づける米公文書は見つかった。

〈日本政府が神経をとがらせているのは、400万ドルという数字と、この問題に対する日米間の密約が公にならないようにすることだ〉

七二年六月、キッシンジャー大統領補佐官の来日を前にした米国家安全保障会議のブリーフィング・メモにそう記されていた。

日韓サッカーワールドカップの決勝が行われる二日前の六月二十八日、追われるように去った古巣の毎日新聞紙上に夫の談話が載った。

〈日米が行ったのは、密約どころか返還協定の偽造だ。外交、防衛に関する国家機密は行政、司法あらゆる組織を動員して押さえにかかる。国家のウソも私の倫理問題にすり替えられた。この文書で新しいのは、事件後に「密約」と認めていた点だ。日本政府はシラを切り通しているが、米国は追及されたら密約と認める構えだった。そこに民主主義の定着の違いを感じる〉

〇〇年に見つかった公文書が沖縄返還の交渉中に作成されたものだったのに対し、これは沖縄返還協定が結ばれた後、つまりは確定した事実として記録されていた。密約は完全に裏付けられた。

その秋、西山は東京・竹橋のかつての勤務先である毎日新聞本社ビルに足を踏み入れた。辞職して以来、初めてだった。あのころと変わらない正面玄関の扉を開け、先導されて地下へ降りた。毎日新聞労組が開いたシンポジウムに招かれていた。

〈情報はだれのものか〉

シンポジウムでは、ジャーナリストの筑紫哲也や上智大学教授の田島泰彦と並んで、マイクを握った。会場となった会議室に立ち見がでるほどの観衆がつめかけていた。

質疑応答に移ると、会場からいくつも手が挙がった。指名を受けて、五十代と思われる男性が立ち上がった。「西山さんは、裁判で国を追及することは考えていらっしゃらないのでしょうか」

確かに、政府が密約を認めることによってしか、名誉は回復されない。このまま沈黙を守っていては、国が密約を隠し、国民をだまして協定に嘘を書いた事実が消されてしまう。それに、自分が矢面に立たなければ、だれかが汚名を晴らしてくれるわけではない。

「いま、検討しているところです」

西山はそう答えたものの、実際には、あきらめに似た思いにとらわれていた。

事件から三十年以上がすぎ、いわゆる「時効」のようなものがあるのではないかと感じていた。そのうえ、当時の裁判で弁護団長を務め、その後、最高裁判事にまでなった弁護士の大野正男に相談をもちかけたものの、難色を示されていた。高齢で病と闘っているとも聞いたが、もっとも信頼を寄せる弁護士だっただけに、失意は大きかった。

大野の反応は、啓子にも意外だった。

この裁判は、西山というひとりの新聞記者の問題でなく、報道の自由や「知る権利」などの重要な問題を孕んでいる――。かつて、そう教えてくれたのは、ほかならぬ大野だった。

週刊誌の中吊りに「情通記者」などと大きく刷り込まれ、子どもが学校でいじめられている、と相談したときには、「大丈夫ですよ。息子さんには、お父さんとは別の人格がありますから」
という言葉に救われた。

夫が冒頭陳述をした第一回公判の日の夜には、わざわざ啓子にねぎらいの電話をくれた。確かな法廷戦術だけでなく、その人間性にも頼っていた。

夫はまたも、ひとりぼっちになっていた。

この人をちゃんと死なせなきゃ

だが、シンポジウムから八ヵ月後、一通の手紙が届く。質疑応答のとき、裁判に訴えるつもりはないかとたずねた男性からだった。

〈国と対等の立場で、闘いの場をもちませんか〉

手紙の主は、静岡の藤森克美(当時五十八歳)という弁護士だった。さらに一年あまりがすぎたころには、三通目の手紙が届いた。

〈だれも手を挙げる人がいなければ、挑戦したい気持ちがあります〉

沖縄返還後に作成され、密約が明記された米公文書がみつかった〇二年を起点とすると、国家賠償請求訴訟を起こせる期限の三年が迫るとして決断を求めるものだった。

「夫はひそかに名誉を回復する道筋を思い描きながらも、裁判になれば、あのときのように男女関係を蒸し返されるだろうという恐怖があったようです。それでも、このままでは、密約という国の嘘が消されてしまう。法廷で着せられた汚名は、法廷で雪ぐほかない。そのとき相談はありませんでしたが、そう考えるようになったのだと思います」
決断の理由を、啓子はのちに聞かされた。

「民主主義というより前に、コンチクショウだよ」

〇五年四月二十五日。弁護士の藤森は静岡から新幹線に乗り、東京・霞が関の東京地裁に出向いた。訴状には、ベトナム戦争をめぐる米国防総省の極秘文書を報じた新聞の発行差し止めを政府が求めた裁判で、米連邦最高裁が示した判決文を引いた。

〈政府の秘密は、政治の誤りを永続化させる〉

このとき、夫は東京へ行かなかった。提訴したにもかかわらず、記者会見で男女問題について聞かれるのをまだ恐れていた。

この朝、兵庫県尼崎市ではJR福知山線の列車が脱線してマンションに激突する事故が起きていた。死者は百七人。事故の影響で、提訴を取り上げた各紙の記事は社会面の片隅に小さく載っただけだった。

アメリカで公文書が相次いで見つかった後、夫は少しずつ変わってきた。突然、苛立ちをぶつけることが減り、癇癪を起こしても、はるかに穏やかになった。塊のようだった心が解けるように、感情が少しずつ表にでるようにもなっていた。

ある日、日課の散歩から戻った夫が突然、玄関で泣きだした。
「『ギョロ太』が死んだー」

子どものように泣きじゃくる姿に、啓子は驚いた。聞けば、自宅があるマンション近くの駐車場で猫の死体を見つけ、ちょうど姿が見えなくなっていた飼い猫だと思い込んだのだ。まもなく別の猫だとわかったが、夫がそこまで感情をあらわにしたことはなかった。おそらく、母親を亡くしたとき以来ではないだろうか。啓子は確かな変化を感じとった。

そしていつしか、別れようとの思いは胸の奥底に沈んでいった。

「最後まで面倒をみなければ。この人をちゃんと死なせなきゃ」

啓子はそう強く思うようになっていた。

〇七年五月、刷り上がったばかりの見本本が出版社から送られてきた。『沖縄密約??「情報犯罪」と日米同盟』(岩波新書)。夫が書いたものだ。印刷された紙の匂いをいとおしむように、夫は何度もページをめくっている。
パソコンは使えず、ワープロもない。筆圧の強いくせ字をノートに書きつける。ざら紙に原稿を書いていた新聞記者時代のように、そうやって原稿用紙のマス目を一つずつ埋めていった。裁判所に提出した意見陳述書を大幅に加筆・修正して、一冊にまとめた。

そのなかに、象徴的な言葉がある。
〈lump sum(一括払い)〉

個別の経費を積み上げるのではなく、一括でまとめて支払う方法を指す。米国務省が専門家に依頼して交渉プロセスをまとめた「沖縄返還――省庁間調整のケース・スタディ」という百十六ページに及ぶ公文書のなかで使われていた。日本が支払ったのは、総額三億二千万ドルという「つかみ金」だった。そこに、密約がもぐり込ませられた。

それはまた、このときちょうど交渉中だった在日米軍再編をめぐり、日本側の負担が「三兆円」とされたことと二重写しになった。

六九年に佐藤・ニクソン共同声明で沖縄返還が宣言される前に、日本側が支払う金額について大蔵省と米財務省が密かに合意していたこともわかった。公文書には、蔵相だった福田赳夫が漏らした日本政府の本音が記されている。

〈「沖縄を買い取った」との印象を与えたくない〉
そこから、密約は生まれた。

啓子は語りかけた。
「三十五年かかって、ようやくここまで来たわね」

夫が表舞台に戻ることは二度とないだろう、と長い間思ってきた。このまま朽ちるように終わるんだろう、とあきらめていた。一方で、そうした弱気を振り払うように、夫にはずっと、言い続けていた。

「本なんてすぐには書けないんだから、今から準備しといて」

「すべて、ここ(頭)に入っているから、いつでも書ける。大丈夫さ」

そううそぶきながら、原稿用紙になかなか向かおうとはしなかった。
「でも、死んだら頭のなかはあけられないのよ」

啓子が望んでいたとおり、裁判が注目を浴びはじめた〇六年の夏に、出版社から声がかかった。夫はようやく重い腰をあげる。年が明けると自室にこもり、三ヵ月で書き上げた。

できあがったばかりの本を前に、啓子は冗談のように投げかけた。

「パパ、何か私に言うことない?」
すぐに察したのだろう。夫は苦りきった顔で半身をそむけた。そんなこと僕に言わせるんか、と小声を漏らす。
「あり……」
そう言いかけたものの、後が続かない。啓子の視線を感じてか、プイッと横を向いて付け足した。
「がと」

それが、精一杯の表現だった。

「本を書かないと、あの人が死んだ後に何も残らない。あの人が新聞記者だった証というか、生きてきた意味がなくなってしまうんじゃないか、と。私が言うのもおかしいかもしれませんが、やっぱりあの人は優秀な記者だったのだと思います。六五年の日韓国交正常化交渉の取材のときは寝言で『線引き、線引き』って、うなされてたのを

覚えています。

その後も一面を飾るスクープをいくつも書きましたし、読売新聞の渡邉(恒雄)さんにも懇意にしていただいていました。沖縄返還をめぐる密約を報じたときも、返還協定の全文を朝日新聞に抜かれたので、なんとかしようと考えたところがあったんじゃないでしょうか。これは私の想像ですけど」
西山太吉という新聞記者は甦った。

啓子が生きてきた暗闇に、ようやく光の筋が差し込んできた。

「神様は耐えられないほどの試練は与えないといいますけど、私にはちょっと重すぎましたね。それにしても、よくこ

こまでこられたなあと自分でも思います。私は信仰をもっているわけではありませんが、思わず『神様』と口にしてしまいたくなるのです」

あれから37年――神様の贈り物

〇八年九月二日。
落胆と興奮が同時にやってきた。

西山が密約を認めない国を相手取り、謝罪と損害賠償を求めた裁判で、最高裁の決定が伝えられた。
〈上告棄却〉

夫は刑事裁判に続いて再び、敗れた。
一審、二審とも、提訴までに事件から二十年以上経過していることで、民事上の時効にあたる「除斥期間」が適用されるとして、密約の有無に立ち入らずに門前払いしていた。その判断を最高裁も追認したのだった。

その直後、ジャーナリストや作家ら六十三人が、沖縄返還をめぐって日米の政府が結んだ密約文書を公表するよう、外務省と財務省に対して情報公開請求の手続きをした。

すでにアメリカで公開された三通の公文書には、日米両政府の交渉責任者の署名がある。当然、日本側も同じ文書を保管しているはずである。これこそが、政府が否定し続けてきた密約の証になるはずだった。

錚々たる顔ぶれが揃う情報公開の請求人のなかに、澤地久枝の名前もあった。

東京・内幸町の日本プレスセンタービルで開かれた記者会見で、和服姿の澤地は静かに立ち上がると、マイクを手にした。

「私は、ひとりで戦いを続けてこられた西山さんに深い敬意を表す者のひとりです」

いきなりそう切り出した。席を二つはさんだ横で西山は正面を向いたまま、頬をすぼめたりふくらませたりしている。澤地の突然の告白ともいうべき言葉に深く心を動かされているのだろう。目をしばたたかせ、天井や中空へとせわしなく視線をさまよわせる。

「西山さんの事件が起きたのは一九七二年のことです。二〇〇〇年と二〇〇二年には密約を裏づける米公文書が見つかり、沖縄返還交渉の責任者だった外務省の元アメリカ局長も『密約はあった』と証言しています。


それでも認めない国家とは何でしょう。心の底から怒りを覚えます。こんな嘘さえ認められなくて、これで民主主義の国といえるのでしょうか。まるで徳川時代に戻ったようです」
澤地の張りのある声が響いた。

翌日、家に帰るなり「澤地が、澤地が――」と止まらない夫の話を聞いて、啓子は澤地もまたこの不条理を承服しないでいることを知った。あれ以来、事件と戦い続けてきたのは西山ひとりではなかったのだ。

「本当に長い間、孤独でしたからね。時とともに密約は忘れられ、主人はこのまま消えていくのではないかとむなしく思う時期が長くありました。それだけに、澤地さんがずっと思い続けてくださったことがうれしかったですね」

なにより、夫が喜んでいるのがわかった。それから数日間、何度も何度も記者会見の場面を語りつづけた。
しかし、その情報公開請求に対する回答期限直前の十月二日、外務省と財務省の答えが返ってきた。

〈文書不存在〉

わずか五文字で片づけられていた。

西山が罪に問われたのは、密約をほのめかす機密電信文によってだった。その密約がないというのであれば、西

山は「存在しない」文書によって裁かれたということになる。

翌月の十一月七日、情報公開の請求人代表だったジャーナリストの筑紫哲也ががんで亡くなった。七十三歳だった。

夫はそれより三つ上。いつまでも元気でいられる保証はない。最後の戦いは、時間との戦いでもあった。

〇九年春、外務省などが「不存在」とした処分の取り消しを求めて、澤地や西山らは提訴に踏み切った。

六月、第一回の口頭弁論が東京地裁七〇五号法廷で開かれた。冒頭、裁判長が被告である国側に説明を求めた。

「文書がないというのなら、なぜないのか。米公文書についてどう説明するのか。十分に納得のいく説明をしてください」

裁判の流れが決定づけられた。裁判長はさらに原告側にも注文をつけた。

「吉野文六さんに証人として出廷してもらうことはできますか」

元外務省アメリカ局長の吉野は、沖縄返還交渉にあたっていた日本側の最高責任者である。その名前に、啓子は特別な思いがあった。

七三年十二月、東京地裁七〇一号法廷。

当時の新聞が「(外務省機密漏洩)事件審理のハイライト」と位置づけた法廷で、吉野は検察側の証人として被告の西山と向き合った。そして、ことごとく密約の事実を否定した。機密電信文を掲げて追及された国会に続き、堂々と偽証を重ねたのだ。

「あのとき、西山から聞いたことが頭を離れないんです。吉野さんは法廷で、主人に目礼したというんです。わざわざ嘘をついて貶める相手にむかって挨拶するとは、どういうことなのか。そのことが強く印象に残っていました」吉野はずっと、沖縄密約のキーマンだった。

〇〇年と〇二年に密約を裏づける米公文書が見つかった際には、「B・Y」というイニシャルはみずからのものであるとしながら、密約の存在そのものは否定した。

ところが〇六年、北海道新聞の取材に対して一転、密約を認めた。その後、朝日新聞にも重大な証言をした。〇〇年に米公文書が見つかった際、外相だった河野洋平から密約を認めないよう口止めされていた、と明かしたのだ。

「取材を受けたら、従来通り(密約はないということ)でお願いします」

河野からの電話を受け、直接そう指示されたという。

政府は、このときの吉野証言を、密約はないとする根拠としてきた。しかし、その吉野が、河野から口止めされていたとして証言を覆した。密約を否定する根拠は失われた。

吉野を口止めした河野はかつて、逆の立場にあった。西山が国家公務員法違反に問われた刑事裁判の二審に弁護側証人として出廷し、「メディアの重要性」について証言している。自民党に籍を置きながら、堂々と「知る権利」擁護の弁論を展開してから三十年後、河野はみずからの信条を封印して、「密約はない」とする政府・外務省の代弁者となっていた。

啓子は不思議な気持ちにとらわれた。

「かつてあれほど嘘をつき続けた人が密約を認め、密約を暴いた主人を擁護していた人が、嘘をつくように指示するなんて」

その河野もこの夏、政界を退いた。

裁判長の要請に応じて、吉野は証人として法廷に立つことを了承した。秋には、吉野と西山が三十六年ぶりに再会する。しかも、同じ原告側に立つ。

平凡だが、事実は小説より奇なり、という言葉が浮かぶと、啓子はいう。

「人生の終わりが近づいたいま、思うんです。神様は見ていてくださった。最後の最後に、ちゃんと贈り物を用意してくださっていたのかな、と」

なんで一緒にいるのかしらね

枕が変わると眠れない。面倒くさいといっては風呂に入らない。電球が切れても取り替えず、贈り物をもらっても礼状ひとつ書かない。可愛がる二匹の飼い猫にも、エサはやるけどフンの始末はしない。手先が不器用で、自転車の鍵をうまく入れられない。そのうえ、気に入ったものしか身に着けない。かばんは茶色のビニール製ボストンバッグ。背広も上着は紺にグレーのシャツと決まっている。

口にするのは、もっぱら刺身。味にうるさいだけに、魚屋だけは、なじみの店まで自分で自転車を走らせる。酒は冷酒に限るというが、このごろは啓子の目を気にして、焼酎をすする。医者から数値をあげて注意されても、「俺は信じない」と取り合わない。

そんな夫がこのごろ、やさしくなったという。

「私もやはり、年をとってきたのか、昨年の夏に珍しく体調を崩したら、主人は自分から買い物に行くと言い出したんです。『あんた、きょうなんか買うもんない?』って。猫のエサの缶詰まで買ってきて」

啓子は今年一月、ストレスからくる大腸炎で事件以来初めて入院した。ちょうど、山崎豊子が「文藝春秋」に続けていた連載「運命の人」が終わったころだった。

啓子が入った六人部屋では、まわりの夫婦の会話がカーテン越しに聞こえてくる。

「君がいないと困るんだよ」
「早くよくなってくれ」
それなのに、夫は身の回りのものを持ってきても、ベッドに置いたらすぐに帰ってしまう。

「倉庫の掃除しなきゃいけないから」

穏やかになったとはいっても、昔気質の照れ性までなおるわけではない。

それでいて啓子の妹が電話を入れると、西山は本音を漏らした。
「(啓子がいないから)もう、だめなんだ。猫のうんちが臭くて大変なんだよ」

ただ、怒るときはいまだに、頭から湯気がでるのでは、と思うほど大声をあげる。
「あんまり大きな声を出すと、頭の血管が切れちゃうわよ」
そう言う啓子も、できるなら怒鳴り返したい。狭いマンションではなく、山の中の一軒屋ならできるのに。でも、それもまた言い訳かもしれない、と思いなおす。

「パパ、私のほうがずっとかわいそうだと思わない?」
そう投げかけても、夫は聞こえないふりをしているのか、返事はない。

「私が死んでから謝っても聞こえないのよ」

すると、決まって憎まれ口が返ってくる。
「あんたのほうが長生きするんだから」

いつだったか、母親からこう言われたことがある。
「あんたたち、あれね、案外と相性がいいのかしらね」

しかし、本当にそうなのか。私が荷物をまとめて引き揚げればあっけなく終わっただろう。でも、そうできなかった。


夫婦喧嘩をして一週間ぐらい口をきかないなんて聞くと、うらやましくなる。

「シンプルなんですよ、私。だから、なめられちゃうのよねえ、きっと。それが私の失敗だなって思います。それにしても、なぜ離婚しなかったのか。もうとっくにサヨナラしていていいはずなんですけどねー。うーん、好きというのとは違うのよ。でも、なんで一緒にいるのかしらね」

ちょっと考え込むような仕草をすると、啓子はおだやかな笑みを浮かべた。

「きっと、死ぬまでの宿題ね」

この春、夫の押入れから十着ほど背広を取り出した。いずれも三越などのオーダーメード。仕立ては崩れていないが、古い型のものばかりで、だれかに譲ることもできない。かといって、いつまでもタンスの肥やしにしておくわけにもいかない。

啓子は一着ずつ思い出をかみしめると、ゴミ袋に放り込んだ。その途中、思わず手が止まった。

深緑色の三つ揃いだった。

車の助手席に乗せて渋谷駅まで送り、雑踏に消えていった頼りなげな背中がよみがえる。それは、夫が逮捕されたときに着ていたものだった。瞬間、あふれだしそうになる思いを抑えて、言葉にかえた。

「パパ、これももう捨てちゃっていいわよね」
夫は短く「ああ」と答えた。