なぜ、狭い国土に120もの空港と1300もの貨物港があるのか。大山鳴動して断行された「平成の大合併」も、結局は利権の巣窟として食い物にされる始末。「地方の時代」が叫ばれる一方、その主体となる統治機構は、完全な制度疲労を起こしている。それは──。
9月の任期満了が近づき、衆院の解散総選挙が間近に迫ってきた。
「次の選挙は世襲と献金が大きな争点になる」と言ったのは、先の民主党代表選に出馬して落選した岡田克也幹事長。こんなつまらない男が代表選で有力候補扱いされるのだから民主党も情けない。党首になった鳩山由紀夫氏も消費税が争点になる、と代わり映えしないことを言っている。
そもそも国政選挙というのは、この国をどうするかが争点になるべきで、世襲や企業献金を制限するか否かなどというのは、単なる手続き上の問題にすぎない。もともと企業・団体献金をなくすために政党助成金をつくったのだから、抜け道を塞いで徹底すればいいだけの話だ。それを「3年後から」などと言っているのは意味不明である。
世襲については、被選挙権は誰しもあるのだから政治家になりたければなればいい。世襲がはびこる最大の理由は、政治資金団体を無税で踏襲できるからである。日本では政治家と農民は相続税なしに親の地盤を継げるのだ。
政治資金を管理している側からすれば、息子でも娘でも担ぎ出せば、自分たちの食い扶持は安泰と、こういうわけである。これも簡単な手続き上の問題で、政治資金団体の相続を有税にするか、一代限りにして国庫に返還、とすればそれでおしまい。政治を“家業”にしにくくすればいいのだ。
日本というのは不思議な国で、国政選挙なのに、この国をどうするかという議論が争点になったことはほとんどない。世襲や企業献金の問題のように、いつも矮小化してしまうのだ。
時の小泉純一郎首相が自ら、「郵政選挙」と銘打った前回の2005年総選挙にしても、郵政三事業など民営化しようが国でやろうが、大勢に影響はない問題だった。
道路公団の民営化に関しても、道路公団は日本が金のない時代に高速道路をつくるために時限立法でできた組織だ。時限立法の期限はとっくに切れて、本来なら存在自体が問われなければならないはずなのに、民営化によって所有権が日本国から株主に移ってしまうため、国民の手を離れて未来永劫続く組織になってしまった。
かくのごとく小泉時代の民営化論議というのは、すべてアジェンダ(取り組むべき課題)が間違っていた。郵政民営化が争点になるはずがないのだ。
また、一昨年の参院選挙では、「年金選挙」と言われて民主党が大躍進した。たしかに年金問題は非常に重要な争点の一つだが、選挙戦の争点は年金記録問題に矮小化されてしまって、年金改革の議論がなおざりにされた。
その年金記録問題にしても、与党が公約した調査・統合はいまだ果たしていないのに、白旗を掲げた舛添要一厚生労働大臣がいつのまにか次期首相候補の一人に数えられているのだから、国民を愚弄した話である。
21世紀のボーダレス大競争時代にあって、日本丸がなかなか浮上できないのはなぜか。それは近代以降に築いてきた国家の仕組みが、制度疲労を起こしているからだ。対症療法で船体の穴を塞ぐ今までのやり方はもはや通用しない。すぐまた別の部分が綻んで水が浸入してくる。そろそろ船体を新しくする、つまり国家としてのあり方そのものを新たに選択しなければならない時期にきているのだ。
これからの日本をどんな国にしてゆくのか、国政の場で論じなければならない争点は実にたくさんある。そして国論を二分する問題について、A案を掲げる党とB案を掲げる党が戦うのが本当の国政選挙というものだろう。
私はこの5月、『最強国家日本の設計図』(小学館刊)という本を上梓した。この本の中で、日本の国論を二分する論点を提示し、「AかBか、あなたはどちらなのか?」という問い掛けを読者に行っている。同じことを政治家にも突きつけ、「ブレイン・ジャパン」という頭脳組織を立ち上げて具体化していくことも宣言した。今後、これらの論点については本連載で取り上げていく予定だが、今回はその第1回として、「日本の統治機構」の問題について考えてみたい。
これは今選挙でも大きな争点になるべき課題の一つだと私は思っている
日本の統治機構というのは、明治維新と終戦後間もない時期にマイナーな手直しがあったものの、基本的には江戸時代の幕藩体制のままできた。
東北地方を見るとわかりやすい。自治体こそ若干集約されて東北六県になっているが、秋田なら大館能代空港と秋田空港、山形なら庄内空港と山形空港、青森は津軽藩と南部藩に一つずつという具合に、幕藩体制の単位そのままに同一県の北と南に空港が設置されている。
日本の狭い国土に120もの空港と1300もの貨物港があるのは、まさに幕藩体制の残滓。交通の便のいい福岡空港があるのに近隣の佐賀や北九州にも空港ができるのは、筑前、肥前、豊前という枠組みが根強く残っているからなのだ。水利権のようなものは、聖徳太子の時代の大宝律令で制定された縄張りが今も続いている、という研究もある。
また、行政において一番大事なのは組織単位だが、日本ではそれが確固たる形に決められていない。
明治新政府による廃藩置県によって、「47都道府県」という行政区分が導入された。しかし都道府県が何かということを明確に定義した文書は、何もない。都と道と府と県とは、何がどう違うのか。行政単位として権限に違いがないのなら全部県と呼べばいいのに、なぜ北海道は「道」で、東京は「都」で、大阪や京都は「府」なのか。何の法的根拠も持っていないのだ。
「市町村」もそうだ。一般に都道府県の下位にある概念と思われているが、これについても何ら規定されていない。政令指定都市では市と呼ばれていても、県と同等の力がある。神奈川県知事が横浜と川崎に口が出せず、“湘南市長”と揶揄される所以である。役場のある村もあれば、ない村もある。役場もなく自治会だけの町もあれば、町議会があって、町長選挙まで実施している町もある。しかし、何の権利・根拠があって町議会や町長が存在するのかも不明だ。逆の言い方をすれば、そんな町議会や町長は要らないという問題提起もできるだろう。
今回の定額給付金の支給では、全国の市役所が窓口になった。では、市が基本的な行政のユニットなのかと思えば、東京都では定額給付金の窓口は区。市と区が同格なのかといえば、これも定かではない。横浜市には神奈川区や鶴見区など18の区があるが、こちらは東京の区とは違って定額給付金の窓口にはなっていない。東京・千代田区は区長も議会もあるが、神奈川区は役場と市で任命された区長がいるだけである。同じ区でも行政単位としては窓口以上の機能は果たしていないのだ。
「皆さんが暮らしている地域社会の安心と安全が地方行政の重大な任務でございます」と言いながら、都道府県や市町村の権限がきちんと規定されていないから、住民サービスの担い手も整理されていない。
たとえば警察は県、消防は市、水道も市が責任を持つというのが基本線のようだが、東京では都が水道局を管理している。日本全国でパターン化されていないから、水道料金が市によって4倍も違ったり、ゴミの収集や分別方式がバラバラだったりするのである。
曖昧模糊とした統治機構のまま今日まできたことは、日本の社会をさまざまな面で歪ませてきた。その歪みが行き着いた先の一つが、「高齢者介護」の問題である。
高齢者の面倒を見る、老人福祉・介護・医療の行政サービスの責任は市、東京都でいえば区にある。
たとえば自宅での療養が難しく、常に介護が必要な65歳以上の高齢者を受け入れる特別養護老人ホームのような施設でサービスを受ける場合、当人は1割負担で、あとは住民税を徴収している市と国が費用を負担する。その財政負担が非常に大きいために、どこの自治体も高齢者を受け入れたがらない。温暖で風光明媚な場所を見つけて老後をそこで迎えたいと思っても、市としては介護に金がかかる高齢者の移管はウエルカムではないのだ。
私はアクティブシニアタウンをつくる構想を持っていて、全国を行脚して土地を探しているが、なかなか話が進まない。埼玉県秩父市に素晴らしい土地を見つけたのだが、県知事は「人も増えるし産業にもなる」と理解を示してくれても、負担の当事者である市長はノーという。モデルケースとなる第1号の建設が今ほぼ終了したところだが、その市との交渉に数年かかった。
今年3月、群馬県渋川市の高齢者施設「静養ホームたまゆら」で火災が発生し、入所者10人が死亡する事件があった。この事件も、行き場のない高齢者と、それを持て余して地方に押し付ける福祉行政の実態が浮き彫りにされた格好だ。というのも、この渋川の施設、入所者の多くは東京都墨田区からの紹介だったのだ。
墨田区にはケア付き住宅がなく、区内の老人ホームは満員状態。墨田区は生活保護費の負担と引き換えに、区外の施設に高齢の生活保護受給者を送り込んでいた。その一つが「たまゆら」だったのである。
私は「東京棄民」と呼んでいるが、つまりは棄民政策である。これは墨田区に限ったことではない。都市部の自治体はどこも、地代、建設費ともに高いから、簡単に老人介護施設をつくれない。しかし高齢化が進んで施設に入らなければ生活できない住民は増える一方だから、結局は地方の高齢者施設に越境して入ってもらうしかない。
他方で、高齢者の年金や生活保護の受給を狙ってひと儲けを企む輩もわいて出てきて、無届けの高齢者施設があちらこちらにつくられ、自治体に売り込みをかける。
届け出のある高齢者施設なら介護士の数は法的に決められているし、防火設備やバリアフリーも整っているが、無届けではそうはいかない。NPOが運営していたという渋川の「たまゆら」の実態はわからないものの、報道によるとやはり無届けの施設で建物は古く、スプリンクラーは設置されていなかった。火災の晩も担当者が一人しかいなかったために、20人以上もいた入所者を運び出せなかったという。
こうした「現代版・姥捨て山」は全国に600施設以上ある。明日はわが身、なのである。
介護環境をきちんと把握しないで、地方の施設に高齢者を丸投げする自治体の責任は問われなければいけない。だが、そもそも財政上の限界がある市区町村に、増加する一方の高齢者の面倒を見させること自体、明らかに憲法違反だと私は考える。
憲法25条には、人間の尊厳を失わない健康で文化的な最低限度の生活を国が保障することを規定している。介護士の人手が不十分で、火災が起きても助けてもらえないような劣悪な介護環境で余生を送って、人間としての尊厳は守られているといえるのか。
国が全面的に責任を持って高齢者介護を行っていれば、今回のような悲惨な火災事故は避けられたはずだ。国の責任で高齢者が過ごしやすい最適地に介護施設をつくる。あるいはグリーンピアやかんぽの宿を叩き売るくらいなら、すべて高齢者施設につくり変えればいい。
国が運営する施設ならモグリはないから、フィリピン、タイ、インドネシアなどで訓練を積んだ外国人介護士や看護師も受け入れやすい。法律一本通せばできることだ。沖縄の島など温暖なところに介護特区をつくって、外国人の介護士や看護師が自由に働けるようにしてもいい。
その際、日本語のペーパー試験にこだわる必要はない。認知症や寝たきりの高齢者介護で求められるのは、言葉によるコミュニケーションより、優しく食事を与えたり、丁寧に入浴や排泄の世話をしてあげることだろう。そして、いざ火事というときに安全に運び出してくれれば、言葉など重要な問題ではなくなる。
高齢者介護の問題も含め、都道府県や市区町村の入り組んだ権限を整理し、国と地方、地域の役割分担をもう一度仕切り直せばいい。だが、それを難しくしているのが、全国市町村にベッタリと張り付いた日本独特の利権構造である。
西松建設の問題でも明らかになったように、地方に無駄な空港ができる最大の理由は、空港建設のゼネコン利権がそこにあるからだ。私が住んでいる千代田区にも行政に食い込んでいる利権屋がいて、たくさんの高齢者が入居待ちの状態であることを無視して、破格の超高級高齢者施設をつくっている。
ゴミの収集や焼却などを見ても、複数の市町村で一緒にやったほうがよほど効率的なのに、業者の利権になっていてそう簡単には手放さない。
水道も利権である。東京の水は幸い都が管理しているが、関東広域で一括管理すれば、江戸川の下流で活性炭を限界まで使った浄水ではなく、利根川水系や渡良瀬遊水池の美味しい水を都民も飲めるようになる。九州の福岡は毎年夏場に水不足で悩まされるが、九重山を隔てた大分県は悩んだことがない。道州制にすれば福岡の水不足はたちどころに解決する。
このように、我々の生活の安全と安心にかかわる行政サービスは、大きな行政区でやったほうがいいものもあれば、小さな行政区でやったほうがいいものもある。
しかし日本の統治機構は、戦後半世紀以上が経過し、歪みが拡大し続けた結果、生活者にとってひどく使い勝手の悪いものになっている。大山鳴動して行われた市町村合併も、気がついてみれば行政サービスの向上どころか、西松事件に象徴されるように、ますます利権の巣窟になって身動きが取れなくなっている始末なのだ。
利権行政の根絶には「道州制」しかない!
日本が抱えているさまざまな国内問題を一つ一つ考えていくと、最後には現行の行政システム、統治機構の問題に行き着く。それは利権にからめとられている現場では変えられない。国政が決めなければいけないのはこの種の問題であり、それこそが国政選挙の争点となるべきなのだ。
現業の行政区を一度オールクリアにして、日本の国家運営の体系はどうあるべきか、統治機構をどうするのか、改めて決める。そして都道府県や市町村という現行の区割りを廃して、新しい時代に即した国家構成の単位として「道州制」を取り入れようというのが、かねてからの私の主張である。
私の道州制プランはこうだ。区割りはシンプルに、道州とコミュニティの2通りだけにする
コミュニティの規模は、人口30万人程度とすると、日本全国で400ほどのコミュニティができて、これが生活基盤の単位になる。コミュニティの役割は生活基盤の整備であり、安心と安全の提供。警察、消防、地域医療、小学校、中学校、そして高校までを義務教育と改めて、生まれてきた人が(18歳で)社会人となるまではコミュニティで面倒を見る。各コミュニティの活動の財源は各コミュニティで確保、そこで生活する人の所得税や資産税を徴収する。
一方、道州は地域国家の概念に照らして一つの経済圏として成り立つ大きさで、500万~1000万人規模で11の“道”に区割りするのが私の案。道州の役割は産業基盤の整備。世界中から資金、情報、企業、人材を呼び込んで雇用を創出し、経済を活性化する。そのための財源として、企業や個人から付加価値税を徴収する。
また、たとえば下水は一次処理、二次処理、三次処理をして安全な形にして海に流さなければいけないが、コミュニティでは三次処理まで手が回らない。そうした下水処理や水の調達、ゴミの焼却など、コミュニティ単位ではうまくいかない問題を代わってコーディネートするのも道の役割だ。
コミュニティと道に権限を委譲すると、国の仕事は通貨・外交・防衛という国家の根幹にかかわる基本政策だけになる。ただし、人間の尊厳を失わない最低限度の生活は国が守ると憲法に書いてあるのだから、コミュニティや道ではケアしきれない恵まれない人たちや高齢者に対する最終的な責任は国が持つ。
このように、生活者の立場から日本の統治機構をこうすべきであるというA党があり、片や統治機構をいじるのはコストも時間もかかるから不具合だけを直していこうというB党があり、両党が国政の場で議論を戦わせ、総選挙で国民の支持を仰ぐというのが正しい道筋だろう。
ところが残念ながら今の永田町には、この国を何とかしたいという強い気持ちより、目先の選挙に当選することばかり考えているから、国論を二分する争点に持ちこめる政治家がいない。
道州制に関していえば、各党や超党派の推進議連ができるたびに、“元祖・道州屋”として私も呼ばれてきたが、揃いも揃ってまがいものばかり。東京都が外形標準課税を徴収したら、自分たちも同じようにやりたいとか、単に行政の効率化の方法論として、市町村合併の次は都道府県合併と、過去の延長線上でしか考えていない連中が多すぎる。
先行して北海道で道州制を実施すれば、国の出先機関と統合して行政経費が1000億円削れると言っているが、国と重複しているならさっさと削ればいいのであって、道州制は関係ない。これも非常に矮小化した議論である。
地方経済を自立させ、世界から資本と企業と人材を呼び込み、繁栄の単位を道州制にする。そこまでの気概を持たなければ、廃藩置県以来の統治機構の大改革につながる道州制も、新しい利権構造を生み出すだけの企画倒れに終わるだろう。