JR奈良駅の真東、奈良県奈良市中院町11に「元興寺」という寺院が存在する。
猿沢池の東の道を真南に下がった場所にひっそりとその寺院はある。最近は、かなり観光客も増えたと聞く。ここの寺院の横を桜井での仕事の行き帰りには、必ずと言ってもいいほどこの近くを通ったものである。
近くには、元興寺町と町名まで残っていて、敷地面積は2万9000坪以上という巨大寺院だったようである。
この元興寺は、「東洋文化社」の寺社シリーズ・天竜寺の中にも書かれているのだが、禅宗がはじめて伝えられた寺院ともされている。その古い歴史のある寺院の「元興寺」であるが、広辞苑で元興寺を調べた場合に「がんごうじ」と「がごうじ」では違う意味に書かれている事をご存知であろうか。
世の中には同じ事を考える方がおるもので、
① がんごうじ。
② (元興寺の鐘楼に鬼がいたという伝説から) 鬼の異称。
③ 鬼のマネをして小児をおどすこと。 がごじ。がごぜ。
この③の「がごぜ」は、「元興神」とも書かれている。
元興寺住職・辻村泰善氏の書かれた「元興寺の鬼」に関しての説明文である・
世界文化遺産「古都奈良の文化財」は八資産群からなっている。その中で元興寺は史跡元興寺極楽坊境内という狭い空間の、旧僧坊遺構である国宝極楽堂(極楽坊本堂)と国宝極楽坊禅室が登録されている。
この寺は、我国最初の本格的伽藍である飛鳥寺(法興寺)が平城遷都により新築移建された官大寺たる元興寺の極一部にすぎない。かって平城京の東部外京に、興福寺と南北に接した大伽藍は、たび重なる罹災により姿を消し、この一画と史跡元興寺塔跡、史跡小塔院跡、そして寺に由来する奈良町の町名にかろうじて記録される程度となってしまった。
この忘れ去られ様とした元興寺が世界文化遺産に登録されたのは、一重に戦後の文化財保護法による成果といえよう。多くの人々が地道な調査研究を進め、国庫を中心とした多額の資金が注入され、保存事業が行われて、真正性(オーセンティシイ)が証明されたからなのである。
一方、伝説や習俗など無形の証明性に乏しい遺産がある。元興寺の伝説として巷間に流布し、変形して忘れられた鬼について見てみよう。
最近余り見かけなくなったことだが、子供が舌を出し、目の下を指で押さえて、「アッカンベ」とか「ベッ」と言っておどける仕草があった。鬼事(鬼ごっこ)の古い型で、ベカコは、メカゴー(目掻う)あるいは目赤子ともあるが、「ベカコ」「ベッカンコ」といい、「ベッガンゴ」から変化したものかもしれない。「ガンゴ」は「ガンゴウ」からきており、「ガゴジ」や「ガゴゼ」と同様に元興寺(がんごうじ)から生まれた鬼の言葉のようである。
淡路や徳島方面の古老によると、昔、泣き止まない子どもを論すのに、「ガゴジが来るぞ」とか「ガゴゼが来たよ」と言ったといい、元気の良い子供を「ガンゴ」とか「ガンボウ」と呼んだという。
近世の風物や習俗を解いた書物には、子供を威すのに「ガゴジ」、「ガゴゼ」と言って、目を見開き、口を大きく開けて、鬼の真似をすることがあったという。「ガゴゼ」というのは、昔、元興寺にいた鬼のことをいうので、「ガゴジ」(元興寺)といったが、後に寺方が「ガゴゼ」(元興神)というようになったと識している。
狂言「清水(しみず)」の中で、太朗冠者が清水寺に代参するのを断わる理由として、「ガゴゼが出るから恐ろしくて行けません。」というセリフが今も残っている。
『大和名所図会』の元興寺の項には、「美しい女(おんな)を鬼ときく物を、元興寺(がごじ)にかまそというは寺(てら)の名」と言う狂歌が載せられている。
つまり、元興寺は寺の名よりも鬼の代名詞として浸透していたことが分かるものである。
元興寺の鬼伝説は、「日本霊異記」の道場法師の話がその原型とされる。道場法師は雷の申し子として誕生し、大力となって朝廷の強力に勝ち、元興寺の鬼を退治し、寺田の引水に能力を発揮して功績を上げ、後に立派な法師となったという出世話である。ところが、この中で鬼退治の場面がクローズアップされ、唱導師が解釈を加えて、鬼事(春を迎えるおこない)と結び付けられていったのであろう。元興寺では鬼を退治した道場法師を神格化して、「八雷神(やおいかづちのかみ)」とか「元興神」と称し、奇怪な鬼面を伝えている。農耕を助け、鬼を退治し、佛法を興隆した鬼神を象徴しているのだろう。
古来、鬼は闇に隠れ、人を啖(くら)うものとされ、悪鬼邪気の象徴であり、追い払わなければ、春は来ないと言う。この鬼を退治するのに元興神のような鬼を超える鬼神(雷)の存在を想定したのだ。元興神のような鬼の御礼や屋根の鬼瓦、「なまはげ」などは、人が避けなければならない恐ろしいもの(悪鬼)なのではなく、悪鬼が畏れる存在(善鬼)なのだ。
悪鬼は指が三本とされる。三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)の煩悩しかない。智慧と慈悲という大切な二本の指を亡失したのだ。鬼神のように活躍する人は、待望したいが似て非なる悪鬼の人は追い払わねば、春は来ないと言うことだ。
何故に、突然「元興寺」のことを持ち出したのか不思議に思う方がおるかもしらんのですが、このブログ記事の最初の部分に「同じことを考える方がおるもので」と書いたのを思い出してほしい。
実は、「元興寺を分析する」という記事を書かれた方がいて、その記事の中にこう書かれているのです。
元興寺には一般の人に近かよってほしくなかったのではないでしょうか?
藤原不比等は、法興寺にも平城京に移転するように命令しましたが、移転しないので、五重塔を建設し、法興寺の一院である寺を移転することになり、奈良時代には三論・法相の教学の一方の中心として栄えたが、平安後期以降は智光の住房であった極楽寺が信仰の中心となったのではないでしょうか? 五重塔の方は、現在塔の礎石が残るだけですが、元興寺極楽寺と芝新屋町の華厳宗観音堂は宗派も異なりますから、移転の経緯に違いがあったのではないでしょうか?
極楽寺の屋根の瓦に現在の飛鳥寺と同じ窯で焼いたと思われる瓦がありますので、法興寺を壊して素材をそのまま利用したのではなく、法興寺は、そのまま残り、現在の飛鳥寺になったと思われます。
元興寺の境内の広さは、30000平方メートルほどある膨大な敷地です。南都七大寺の一つといわれるだけのことはありますが、薬師寺・大安寺などと同様に、藤原氏が保護をしたから大きくなれたと思われます。
元興寺の北に猿沢池があります。この北にあるのが興福寺です。この記事を書く前は、藤原不比等は、法興寺は父鎌足が殺した蘇我氏の氏寺ですから、反逆しないように、興福寺の南に法興寺を移転させて、監視をするのだと思っていましたが、反対に保護をしたのだと思えるようになっています。その根拠が、元興寺の鬼の伝説です。
蘇我入鹿は、確かに絶大なる力を有するようになり、天皇を蔑ろにするぐらいの力を持っていたのかも知れませんが、聖徳太子の一族を殺すには、それだけの理由があったために、斑鳩寺で殺したのではないでしょうか? 入鹿を殺すほどのことはないと、心に思っていたのではないでしょうか?
「元興寺縁起」というものがある。現在は、CiNiiには「元興寺伽藍縁起〓流記資材帳の研究A Study of Gangoji-garanengi-narabini-rukishizaicho」が残されている。
http://nels.nii.ac.jp/els/110004047585.pdf?id=ART0006307836&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1267978324&cp=
6世紀に仏教を積極的に導入をしようとした蘇我氏と、日本古来の神道を守ろうとした物部が対立をしたことは知られた話である。蘇我稲目と物部尾興が対立をし、仏教を迫害をする事態となり、蘇我馬子と物部守屋の間で丁未の変へと発展をしてしまうのであるが、この戦いでは廐戸皇子や泊瀬部皇子(崇峻天皇),竹田皇子らの蘇我氏の血を引く皇族も蘇我馬子の軍に加わった。また,紀氏,巨勢氏,膳部氏,葛城氏,大伴氏,安倍氏,平群氏などの有力豪族も蘇我氏軍について戦った。
蘇我軍は志紀郡(藤井寺市,柏原市あたり)から物部氏の本拠地であった渋河(渋川)の館(八尾市)に至った。
当初は、蘇我軍が敗退をしていたのだが、蘇我軍の迹見赤檮から放たれた矢が物部守屋を射抜いたとされ、結果、仏教を信望するという路線が引かれたのである。
その結果、飛鳥の地に「元興寺」が仏教推進はのシンボルとして建立をされたと見てもいい。CiNii「元興寺縁起」には怪しい部分と怪しくない部分か検証をされているが、仏教推進のシンボルとの位置づけである事にには間違いはないようである。問題は、「元・元興寺」がどこであるかというぶぶんである。一般的には、「飛鳥寺・法興寺」である。
元興寺縁起には、桜井寺(豊浦寺)の名前が見られたのだが、桜井寺(豊浦寺)は、当初尼寺で、飛鳥寺と対を為す蘇我氏の氏寺だったとされ、飛鳥寺についで建立されたと言われています。
物部守屋による廃仏運動により「善信尼」法衣を剥ぎ取られて全裸にされ、海石榴市の駅舎で鞭打ちの刑に処された。善信尼は後に、この桜井寺に住んだとされるのだが、元興寺とするのには無理が生じる。
海石榴市に関しでは、過去に記事にしたことがある。
その記事の中に自分も書いている。「今では想像も出来ない程度の川でしかないのだが「*海石榴市」は、大和川の上流(初瀬川河畔に位置し)「仏教伝来の地」とされ(石碑あり)ている。」と。
ところが、大化の改新で天皇家を蔑ろにするほどの勢力を持っていた蘇我入鹿と蘇我宗本家の滅亡という状況下
で、天皇は平城京に遷都をする。
すなわち、仏教と神道との争いの功労者である蘇我氏を滅亡に追いやり、天皇は遷都をしたという事になる。当然仏教推進のシンボルとして建立をされた「法興寺(元・元興寺)」が天皇に従わないという事態が起こりうる事は、予想ができたはずである。ところが、飛鳥の地に「法興寺(元・元興寺)」を残し、平城京に新たな「元興寺」を建立をし騒ぎを抑えたと見ることができる。
類聚三代格には、この記事が残されているという。あくまでもその部分のメモとして書き留めておいたものであるが、次のような記述がなされているという(概略)
「去る和同三年、帝都平城へ遷るの日、諸寺随って移る。件の寺のみ独り留まる。朝廷更に新寺を造りて、其の移らざるの闕を備ふ。所謂、元興寺是なり」とある。
「闕を備ふ」・・・つまり朝廷に従わない。故に、平城京に「元興寺」を建立をしたという事である。
聖徳太子の親族である蘇我氏によって「法興寺(元・元興寺)」が建立をされた事は間違いのない事実と言える。
「元興寺を分析する」を書かれた方がいみじくも
極楽寺の屋根の瓦に現在の飛鳥寺と同じ窯で焼いたと思われる瓦がありますので、法興寺を壊して素材をそのまま利用したのではなく、法興寺は、そのまま残り、現在の飛鳥寺になったと思われます。
つまり自分は文献から調べ彼(彼女)は、瓦からの年代や建造物に残る痕跡から調べたという事になります。
彼の、「聖徳太子の一族を殺すには、それだけの理由があったために、斑鳩寺で殺したのではないでしょうか? 入鹿を殺すほどのことはないと、心に思っていたのではないでしょうか?」この部分は、当時は通い婚であったはずである。斑鳩宮を蘇我入鹿が、急襲をし山背大兄王をはじめ上宮王家を包囲をした時に、わざわざ逃げ切ったものが、斑鳩宮に集まり自害をして果てたのであろうか。
そもそも、当時は通い婚である。子供達は、母親の実家で育てられていたのである。確かに聖徳太子から連なる聖者の一族らしい最後のようには思える。しかし、わざわざ、子供達まで集めて自害をするものであろうか。
しかし、推古天皇崩御以降の山背大兄王の行動は、蘇我家を分断してしまったのである。結果反山背・蘇我本宗家と親山背・分家の間では絶えず、諍いがおこったのである。それもひとえに山背大兄王が、皇位に固執をした事から起きた事だと言われているのである。
しかし、平安時代以前に法隆寺で山背大兄王や上宮王家を祀った気配がほとんどみられないのである。蘇我入鹿を暗殺後に、早々に山背大兄王の祀るのが当然ではないのだろうか?
ましてや、蘇我氏から藤原氏に権力は移っているのである。
「法王帝説」に「後の人、父の聖王(聖徳太子)ト相ひみだるトいふは、非ず」とある。すなわち、山背が聖徳太子の子ではないなどと、言いふらしてはいけない。と書いてある。すなわち、平安時代には、山背は聖徳太子の子ではないとの疑いがもたれていて、尚且つ全否定はしていないのである。
「扶桑略記」には、蘇我入鹿を殺害し大化の改新が起こり、斉明天皇が地獄へ落ちたとの噂が流れた。と。又この話は善光寺の縁起にも載せられているそうである。時間があったら一度じっくり調べてみたいものである。