この足利事件は、過去にブログでも3度記事にしているのであるが、非常に嫌な思いのする事件であるし、腹立たしい事件でもあった。この事件発生当事の新聞記事を図書館で調べた事があるのだが、初めから菅家氏を犯人と決め付けた記事である。これは断定をしても良いと思う。
多くのジャーナリストは、この事件に関して皆検察・警察の捜査の杜撰さを記事にし、再発防止を記事にしている。それでありながら、小沢事件は、検察からのリークで記事を書き続けているのであって、まったく反省をしていないのではないかと思えてしまう。
また、読者も新聞記事・テレビ報道が正しいという前提で見てしまっているのであるが、検察からの情報そのものの真偽の検証が果たして行われているのであろうか。
とかく最近は、マスコミと検察の関係に疑問を感じているネットユーザーが増えている事をマスコミ各社も頭の片隅に置かない限り、経営の悪化はどんどん進んでいくと予想される。
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足利事件から学ぶこと(江川)
2009年06月13日
栃木県で1990年に発生した幼女殺害事件(足利事件)で、無期懲役の判決が確定し、服役していた菅家利和さんが、6月4日に釈放された。東京高裁の再審請求審で認められたDNA再鑑定の結果、真犯人とは別人であることがほぼ明らかになったためだ。再審開始が決まる前に検察側が刑の執行停止に応じるのは、おそらく初めて。検察側も、今回の件では完全に白旗を揚げた格好で、最高検の次席検事がその後、謝罪のコメントを発表する展開となっている。
事件が起きた頃は、ちょうど警察がDNA鑑定を科学捜査の手法として導入し始めた時期だった。十分な鑑定試料さえあれば、指紋と同じように、百発百中で犯人を特定できるかのようなイメージが流布されつつあった。
しかし、今からみると、当時の鑑定方法はまだ精度が低かったうえに、それを扱う技官たちの技術も未熟だったようだ。今回の再鑑定で、当時と同じやり方で検査をしてみても、菅家さんと犯人が残した精液のDNA型は異なる、という結果が出ている。最先端の技術であっても、それを使うのが人間である限り、間違いはありうる、ということを、今回の事件から私たちは、よくよく学び取る必要がある。
特に、刑事裁判の世界では、まもなく裁判員制度での裁判が実際に始まろうとしている。裁判では、DNA鑑定に限らず、様々なジャンルの専門家が、最新の技術を駆使した鑑定結果を説明する。それぞれの道で、それなりの権威を持っている人が出てくることも多く、自分の学説や技術には確信を持っているので、自信たっぷりに説明をするだろう。
その道の素人は、専門家の自信や、技術のすごさに圧倒されがちだ。だが、どんなに権威を言われる人のやったことでも、人間がやる限り、間違いや失敗はありうる。
裁判員となる人たちには、そのことをよくよく理解してもらったうえで裁判に臨んでもらう必要があるだろう。裁判所は、足利事件からしっかりと教訓を学んでもらいたい。
ところで、足利事件を裁いた裁判官たちは、もちろん裁判のプロである職業裁判官たち。1審から最高裁まで、少なくとも11人の裁判官がかかわっていながら、無実の人を無期懲役刑にして刑務所に送り込むようなことになったのか。
1)裁判官もDNA鑑定の魔術に幻惑されてしまった
科警研のDNA鑑定が間違うなどとは、裁判官にとっては「想定外」のことだっただろう。
2)菅家さんの自白があった
それも、捜査機関だけでなく、裁判所でも一審の第6回後半で突然否認するまで、自白を維持していた。一審の裁判官からすれば、自分が強制したわけでもないのに、犯行状況を語るのだから、これは間違いない、と思っただろう。しかも、一度否認した後、すぐそれを撤回し、その理由を、被害者の遺族が死刑を望んでいると知らされて怖くなったから、と説明する上申書を提出されている。よもや、弁護人が説得して、そういう上申書を書かせたとは、裁判官も思わなかったろう。なので、再度否認に転じても、一審の裁判官たちが自白を信用したくなった気持ちは、分からないではない。
自白は、おそらく裁判官たちにとっては、DNA鑑定以上に大きな影響を及ぼしただろう。裁判官も法医学に関しては専門家ではないので、DNA鑑定について、弁護側が学者の意見をあれこれ提出しても、専門的な目でそれを判断することはできない。しかし、自白に関しては、何と言っても「裁判官の前で罪を認めた」という事実は分かりやすい。
二審以降、弁護人がDNA鑑定への疑問をいくら呈示しても、主張が認められず、再鑑定も行われずに来たのは、裁判官たちがどれほど自白に引きずられていたかを物語っている。
では、菅家さんはなぜ自白したのか。そして、それを維持したのはどうしてだろうか。
菅家さんに話からは、次の4要素が浮かび上がってくる。二つは捜査側の構造的な問題点、二つは菅家さんの側の事情だ。
前者としては、
A)強引な取り調べ
B)被疑者を孤独を強いる
という点が挙げられる。
後者としては
C)気の弱い性格で、対立的な人間関係でのコミュニケーションが極めて苦手
D)黙秘権など被疑者の権利についても、検察官や弁護人の存在など刑事手続きの仕組みについて全く知らなかった
という事情がある
取り調べに関しては、任意同行したその日が全てだった。
菅家さんによれば、朝、いきなり捜査員がやってきて、有無を言わさぬ態度で、”任意”同行された。実際は「強制」だったと菅家さんは言う。
黙秘権を告知されたことは、まったく記憶にない。形式的に告知はあったのかもしれないが、黙っている自由はまったくなく、頭ごなしに「子どもを殺したな」と決めつけられた。否定しても、「証拠がある」と聞き入れてもらえない。「やった」「やらない」のやりとりが夜遅くまで延々続いた。
当時の新聞記事を見ても、その厳しさは伺われる。
<「私がやりました……」
菅家容疑者は、絞り出すような声で真実ちゃん殺しを自供した。午前中、取調官が事件に触れると、ポロリと涙を流した。「容疑者に間違いない」と取調官は感じた。
だが、菅家容疑者が事件について語り始めたのは夜十時近くになってから。取り調べは一日朝から十四時間にも及び、事件発生から一年半にわたる捜査がようやく実を結んだ瞬間だった>(1991年12月2日付読売新聞)。
ましてや、菅家さんは気が弱く、これまで不当に職場を解雇されても、経営者に文句を言うどころか、理由を問い詰めることさえしなかった。そんな風に、争いを避け、無難に、角が立たないように人生を生きてきた。
捜査員に対しても、「やってない」と繰り返すのが精一杯だったという。
認める時、菅家さんは捜査員の手を取って泣き出した、という。
おそらく、捜査員はこれを「悔悟の涙」と受け取ったのだろう。しかし、菅家さんにとっては「やってもいないことを言わされた悔し涙」だった。
この日の取り調べで、菅家さんの自分を守る砦は完全に崩れた。日常とあまりにもかけ離れた環境にいきなりおかれて、現実感も希薄だったろう。ましてや、事件には無関係なので、このままいけば、死刑や無期懲役などの厳しい刑罰を受けるという実感もわかないとにかく、初日の取り調べに気圧されて、すっかり萎縮したまま、すべてが夢の中のような、非現実的な時間が流れていったようだ。
当時の心理状態を、菅家さんは「ただ怖かった」という。誰も信じてくれる人は周りにおらず、まったく孤独な状態。そんな中で、「やった」という前提で話していれば、平穏な状態が続く。菅家さんは、ひたすら周囲に迎合し、悪夢が覚めるのを待つように、ただ時間をやり過ごす。
警察に関しては「市民を守ってくれるところ」というイメージがあったが、自分が責められることで、その思いは崩壊した。弁護士や検察官に関しては、その役割もよく分かっていなかった。弁護士は自分より年上で、取っつきにくく、この人は自分の味方という風には感じることができなかった。なので、弁護士に対しても、ただただ頭を下げるだけ。
とにかく「やった」といれば、無難に時間が過ぎていく。そのままの状態で、裁判が始まった。高いところから見下ろす裁判官には威圧感があった。なので、やはり怖く感じた。自分が犯行を認めている限り、裁判は平穏に進み、無難に時は流れていく。裁判官は偉い人なので、自分があれこれ説明しなくても、すべてをお見通しだろうという期待もあったようだ。なんか、このままではマズイなと思いながらも、流れを変えるきっかけもなく、重罰への実感も持てないまま、ズルズルと公判の回数を重ねてしまった……
その菅家さんが、新たに自分を守る砦を築くきっかけとなったのは、一人の主婦の手紙。その主婦は、新聞で裁判の報道を読み、菅家さんがいったん否認し、すぐにそれを撤回したことを知った。撤回は、弁護士に諭されてのことだったが、そうした事情は知らないまま、手紙を書き、拘置所に面会に行った。
「なんだかおかしいな、と思った。それで、もし本当にやったのなら、被害者のことを考えて心から償って欲しい、でもやってないのなら、真実を貫くべきだ、と言ったんです」とその主婦は言う。
菅家さんが、無実を訴えると、信じてくれた。警察の取り調べを受けて以来、初めて自分のことを信じ、励ましてくれる人と出会えたことで、彼は真実を貫く決意をする。それまで、怖かった弁護士にも、思い切って手紙を書いた。
この支援者が、弁護士としては早くからDNA鑑定の問題点に着目していた佐藤博史弁護士を訪ね、控訴審の弁護人になってくれるよう頼んでくれた。
多くの人は、「やってもいないのに、自白するわけがない」と思う。その点では、裁判官もあまり変わらない。
激しい拷問があったのなら、まだ分かりやすい。捜査員が巧妙な誘導や強制をしたのであれば、詳細な嘘の自白調書ができあがるのも、まだ理解できる。また、警察の取調室など、密室の中ならともかく、公開の法廷で嘘の自白をするわけがない、と裁判官もマスコミも一般市民の大半が思っていることだろう。
しかし、菅家さんの自白は、多くの人が冤罪事件でイメージするより、早い段階で行われ、誘導や強制も少ないうえに、法廷でもしばらく維持された。
こういう事態は、法律や制度を作った時には、想定されていなかったのではないだろうか。
しかし、これは決して菅家さんに特有な出来事だったわけではない、と思う。強姦・同未遂事件で実刑判決を受けた男性が、服役後に、真犯人が現れて再審無罪となった富山の冤罪事件でも、いったん自白をした後は、それを公判廷でも維持し、一審で判決が確定した。
この柳原さんの場合も、孤独と無理な取り調べにより、すっかり打ちのめされ、事実を語っても無駄だと諦めてしまったようだ。大人しく、自己主張が強くない人が、孤独な状況におかれれば、ひとたび崩壊してしまった自分を守る砦は、そう簡単に再構築されることはない。そのことを、この二つの事件はよく示している。
釈放されて4日目の日曜日、菅家さんはテレビ朝日の「サンデー・プロジェクト」に出演していた。
その時、自白の内容を説明する様に、視界の田原さんも少し慌てている様子だった。事情をよく知らない人が菅家さんの話を聞いていると、テレビカメラの前で自白を始めてしまったように思っただろう。
実は、佐藤弁護士の家族も、テレビの前でパニック状態に陥っていたそうだ。「うちのお父さんの弁護士生命も、これで終わりじゃないか…」と思ったらしい。
しかし、佐藤弁護士は平然としていた。菅家さんの話した、「……と自分は自白しちゃったんです」という風に落ち着くことが分かっていたからだ。
テレビはもちろんだが、他人に自分の事情を説明したり、説得したりする経験があまりない菅家さんは、多くの交渉事や説明では「結論から言う」ということを知らない。そういう場でのコミュニケーションの機会があまりなかったからだ。
身柄を拘束されていた頃には、コミュニケーションの能力はもっと弱く、佐藤弁護士も裁判で知的障害の可能性があると主張していたくらいだ(ところが、釈放後、こうやってインタビューを受ける機会が増えて、菅家さんのコミュニケーション能力が飛躍的に向上。人が言うことに、オヤジギャクを交えて返すほどになった。その変化に、佐藤弁護士も驚いている)。
そして、菅家さんの特集が終わった後、政治家たちが登場して、政局に関する議論になった。石原伸晃氏や辻本清美氏ら、0.5秒でも空白があればすかさず自己主張をし、人が話している間でも、より大きな声で圧倒しようとする、雄弁な政治家たちが”活発な”議論を展開した。なんと菅家さんと対象的な人たちだろう。
しかも、日本の刑事手続きを作るのは、こういう雄弁な人たちなのだ。彼らが法律や制度を作るうえで、菅家さんのような人をまったく想定してこなかっただろう。
権利に精通した裁判官も、弁護士も、あるいは悪事を働きながら何とか言い逃れようとする犯罪者に対峙してきた警察の捜査員も検察官も、菅家さんのような、気が弱くて、波風を立てることが何より苦手な存在は、想定せずに仕事を進めている。しかし、現実には、そういう人たちは決して例外的に少ないわけではなく、それどころか知的障害者など、自己主張の能力が極めて弱い人たちも刑事手続きに乗っかってきている。けれど、それはないものとして、多くの手続きが進んでいる。つまり、みんなが見て見ぬふりをしてきたのだ。
今回の事件は、これまで見ないで(あるいは見ないふりをしてきて)いた事柄を、きちんと直視し、そのうえで法や制度を変えなければなければならないのだと教えている。
その一つとして、現在、捜査過程をもっと透明化するために、「可視化」の必要性が論議されている。
取り調べをすべて可視化する必要性を訴える声に対して、捜査機関は反対を唱え、取り調べの最終段階、自白をまとめて喋る程度ならOKと言っているようだ。
しかし、菅家さんのように、”任意”の段階で事故を守る砦を完全に破壊されてしまっている例があるわけで、冤罪を防ぐためには、取調室に入った時から、被疑者の様子も分かる形で映像に残しておく必要があるのではないか。
菅家さんの父親は、息子が逮捕されたショックで亡くなり、母親も無実が明らかになるのを待たずに世を去った。きょうだいなどは、犯罪者の家族ということで、苦労させられてきただろう。冤罪は、その被害者だけでなく、その周囲の人たちの人生をもめちゃめちゃにする。
そればかりか、被害者や遺族にとっては、真犯人が分からないということになり、まさに何重もの悲劇だ。
それを考えると、冤罪をなくすための対策は、本当に急務だ。「想定外」のこと、見ぬふりをしてきたことも、しっかりを直視をしなければならない。
足利事件・菅家さんインビュー
http://www.egawashoko.com/c006/000290.html
2009年06月13日
――よろしくお願いします
「テレビでいつも見てましたよ」
――刑務所の中で? 何の番組を?
「あれは確か、関口宏さんの」
――サンデーモーニング?
「そうです。それ見てました」
――日曜日は作業はないから…
「そうなんです。見られるのは9時からなんですが」
――菅家さんがいらしたのは、雑居房?
「雑居房です。今はですね、日曜日だけは、9時から3時半頃まで、それから、また夜7時から9時までは見られるんですよ。それで9時になると寝る時間なんです」
――その時間になると、切られるんですよね。
「自動的に消えちゃうんです」
――何を見ようか、っていうのは?
「自由です」
――誰が決めるの?
「やはりですね、一週間交替で、決める。今週は自分だとすると、来週は相手。一週間おきになっちゃうんですよ」
――刑務所にいたときに、誰かとケンカしたことあります?
「そういうことはないですね」
――でも嫌なこと、いっぱいありましたでしょ?
「嫌なことはありますね」
――例えば?
「自分がね、入所してすぐ、(同房の人に)一週間は菅家さんはお客なんだからと言われました。それで、一週間のあいだに、見ててもらって、全部覚えろというんですよ。布団のあげかた、毛布の揃え方、トイレ掃除、窓の拭き方、全部覚えろっていうんですよ。ところが、誰も一週間じゃ覚えることはできなかったんです。自分だけじゃなく。新しい人が来るとみんなその人が命じるんですよ。絶対一週間以内で全部覚えろと。誰も覚える人いないんですよ。全然無理ですよ」
――できなかったら、怒鳴られたりするんですか?
「怒鳴られましたよ」
――どんなふうに?
「殴られたり、肋骨を2本折られて。洗面器の中に水をいっぱい入れられて、顔を頭から押さえつけられて、もがきましたよ、私は」
――どういう人なんですか、そんな事をするのは?
「その人は昔、暴走族だったんですよ。ものすごい乱暴者で。自分だけじゃなくて、他の人にもやったらしいんですよ」
――そういう人と同じ房だった
「そうです、そうです」
――それに対して、抗議したりしなかったんですか?
「できないですよ、自分は。入ったばかりで…。その人は17年いるんですよ。無期懲役で。だから、あれから8年経ちましたから、20何年いるんです」
――でも、そういう時のために刑務所の職員がいるじゃないですか?
「それを(刑務官に)言ったら大変ですよ。殺されちゃいますよ。自分はそんな目にあいましたから。12月の寒い時ですよ。トイレの中へ、裸で、すっぽんぽんですよ。閉じこめられたんですよ、一晩中ですよ。『てめえ、中入ってな、こごんでろ!』こういう風に、(便器を)またいでろって言われたんですよ。
しまいには、『しょんべん飲め』とか。溜まってるんですよ。タワシの中にこういう、タワシを置く入れ物がありますよね。溜まっちゃうんですよ、どうしても。それを飲めっていうんですよ。それからあと、もう一つ。うんこですよ。食えっていうんですよ。そういうんですよ。
――そんなひどい事されて、房を変えてくれって言えなかったの?
「その時は、入ったばかりで…。「言ったら殺す」っていわれるんですよ(だから言えなかった)」
――いじめられた時に、抗議とかしない方ですか?
「できなかったですよ。もう、性格ですよね。自分は気が弱くて、言い返す、それは出来なかったですよ」
――事件の前にお仕事されてましたけど、社会でも嫌なこととかあっただろうけど、そういう時は抗議したりケンカしたりはしなかった?
「そういうことは、ありませんでしたね。おとなしい性格で、人に対して攻撃、できない質でした」
――ましてや、刑事さんに言われたときに、言い返すっていうのは?
「出来なかったですね」
――思いもよらなかった?
「思いも寄らなかったです」
――事件が起きる1990年まで普通に生活してて、それまで、警察ってどんな所だと思ってました?
「やはり警察というところは、市民を守る。そういう風に思ってました。ところが、実際に自分がね、無実の罪でね、捕まって、取り調べをされて、髪の毛をひっぱったり、蹴飛ばされたりしてね。取り調べのときね、私はね、『やってない』『やってない』と言ってたんですよ。ところがね、頑として聞き入れてくれなくて。(語気を強めて)『お前がやったんだ!』と、こうですよ。デカい声で。『証拠があるんだ』と。でもその時、言い返すことが、自分はできなかったんですよ」
――その時はどんな気持ちでしたか?
「もう、ムヤムヤもやもやしてて…。何も考えてなかったですね」
――この時に、「やりました」と言ったら、自分は刑務所へいっちゃうとか、死刑になっちゃうとか、そういうことは考えていました?
「考えてません。やはり、自分は事件のことは、全く身に覚えがないので、死刑になるとか、刑務所に送られるとか、全然考えてません。はい」
――例えば自白したら、逮捕されて裁判になるとは考えてました?
「それは考えてましたけど、でも、死刑とかは全く考えてなかった」
――逮捕される前、事件があって、その後に交番のおまわりさんが訪ねてきたときがありましたよね?その時も、そういうことは全然考えていなかった?
「もう全然。ビクビクなんて全然してませんよ。事件には関係ないんですから。やってないんですから。だから、1年間(警察に)尾行されていたと(後から)言われたんですが、自分は全然気がつかなかったです」
「(逮捕の)確か1年前だと思うんですが、交番のおまわりさんが来たんですよ。それで、『上がってもいいか?』っていうんですよ。『いいよ』っていって。もう自分としては、何のやましいところはないんですから。上げたんですよ。それで、『ちょっと悪いけど、押入れ開けてくれる?』って言われたんですよ。そうすると、自分が秋葉原で買ってきた、そういうテープレコーダーですね、何が入ってるんだ?っていうから見せたんですよ。『ああ、そうかそうか』と。それから、『灰皿貸してくれないか?』というんですよ。『ああ、どうぞどうぞ』って(灰皿を出した)。何本吸ったんだろうな、すごいですよ。30分の間に10本くらい吸ってましたよ」
――その時に『お前があやしい』というような話は?
「全然ありません」。
――では、自分が疑われているって、いつ気がついたんですか?
「(仕事で)幼稚園の送迎やってました。それで、まあ、刑事がきたわけですよ、幼稚園に。それも、後になって聞いたんですけど、刑事が来たとか。それで、自分がね、解雇されたんですよ。その後ですけどね。気がついた、っていうか、教わったっていうか…」
――誰かから言われたんですか、疑われるぞ、って?
「自分は辞めさせられて、他の幼稚園に行ったんですよ。もう一度送迎やろうと。そこの幼稚園行っても、二日間でまた辞めさせられたんですよ。その辺で、おかしいと思ったんです」
――そういう辞めさせる時に、相手を問いつめたりしなかったんですか?
「全然しなかったんですよ」
――だって真面目にやってる訳でしょ、仕事は?
「そうそう、自分としてはね。真面目にやってるつもりなんですよ。一切事故も起こしたこともないし。だから、保育園の送迎やったときも、先生に、信頼されていた訳ですよ、私は」
――なのに、クビにするのおかしいじゃないか、って言わなかったんですか?
「言わなかったんです、そこが。だから、自分、何回も言いますけど、気持ちが小さいんですよ。気持ちが小さくて、問いつめるってことが全然出来なかったんですよ。今ならですね、聞きたいですよ。どうして、クビにするんだ、と。今ならですよ。その時は、なんて言うんですかね。性格というんですかね、気が小さいというんですかね。気が小さかったですよ。
少し気持ちが変わったのは、刑務所に入ってからですよ。入ってから、入所したときは殴られましたよ。しかし、1年から2年経った時点で、同僚の人に、『菅家さん、気が小さいなあ。もっと強くなれよ』と言われたことがあるんですよ。
それまでは、中でケンカしてる人を見ても、自分は壁の方へ離れていったんですよ。関係していたくないから。端のほうへ行って、知らんぷりしてたんですよ。でも、『そうか、やっぱりもっと気を強く持とうと、決心したわけですよ』
――菅家さん自身は、ケンカしたことあります?
「いや、ないですけど……」
――じゃあ、ケンカしてる人を注意したり?
「したことあるんですよ。『ケンカしない方がいいよ』なんて言ったんですよ。で、何て言うんですかね。自分も気が強くなっちゃったんですよ、急に。ケンカするのだったら、自分からね、注意してやろうと思いましたね。
――菅家さん、中にいたときに懲罰受けたことあります?
「ないです。一度もありません。一回もないです」
――そうでしょうね…。争い事とか、モメ事とかは好きじゃないのね?
「全然ダメです」
――論争なんかも苦手だろうなと思うんですけど。
「苦手ですよね」
――事件に戻りますが、いわゆる事情聴取っていうのは、逮捕の前にはなかったんですか?
「全然ありません」
――では、いきなりですか?
「いきなりです。刑事が、いきなり来たんですよ。
――連れて行かれる時は、どんな状況だったんですか?
「自分がね、午前7時頃に起きたんですよ。パジャマ姿です。玄関の方で音がするんですよ。誰だろうな、と。カーテンと鍵を開けましたら、『菅家、いる?警察だ』っていうんですよ。開けたら、ドカドカって入り込んできて。なんだこの野郎、と思ったら、『おう、そこ座りや』」って言うんですよ、刑事が。で、言われたまま、座ったわけですよ。そしたら、『お前、子ども殺したな』って言うんですよ。『子ども?! 知りませんよ』って言ったんですよ。そしたら、言った途端に肘鉄砲ですよ。自分をドーンと突き飛ばして。自分はどんとひっくり返って、ガラスが割れるわけですよ。もう少しで頭ぶつかりそうでしたよ。もしぶつかってたら、切っちゃってましたよ。
もう1人の刑事が、ポケットから写真を出したんですよ。その写真が、真美ちゃんなんですよ。自分も、真美ちゃんの写真に見覚えがあるんですよ。その見覚えっていうのは、パチンコ屋さんの、入り口に貼ってあるのと同じなんですよ。
――情報提供を求めるポスターね?
「そうです、そうです。そうか、それと同じなんだな。と。それで、自分が疑われてるんだなって」
――じゃあ、本当に当日なんだ、自分が疑われてるってはっきり知ったのは?
「それまでは(よく分からなかった)。自分がね、『今日は保育園の先生の結婚式に行くんですよ』って言った。そしたら、『そんなの、どうでもいいんだ!』って。頭きましたよ。
――頭に来ても、反抗はできなかった…。
「ダメです。それで、今から警察いくからな、と。そのまま」
――着替えはしたんですか?
「着替えはしました。着替えてそのまま。任意同行じゃないですよ、強制ですよ」
――今は、任意同行って分かってらっしゃるけど、当時は?
「よく分からなかったですよ。今思うと、任意と強制、違いますよね。でも、当時は全然分からなくて…」
江:警察が行くと言うからには、行かないといけない、と?
「そうですよ」
――それで行ったら?
「取り調べですよ。30分位待った、中で。刑事が入ってきて、今から調べを始めるからと」
――取り調べの時に、自分が喋りたくないことは喋らなくてもいいという黙秘権は告げられました?
「それは、自分は聞いてないと思う。裁判の時は、聞いたと思う。その時は聞かなかった」
――その日は遅くまで取り調べを受けましたよね?
「今からやるからと。「お前は子どもを殺したんだな」と。自分はやってないですから、『やってませんよ!』と。『お前がやったんだ』『やってませんよ』と。それの繰り返し。一日中。それで、夕飯が終わってから、『証拠がある』と。証拠があるとしても、自分は何の事か分からないし。当時、DNA鑑定のことは自分も分からないし。刑事も知らないと思う、DNAって。『やってる』とか、『やってない』って。同じようなこと(をずっとやりとりしていた)。夜10時くらいになって、これじゃあ、自分は帰れないと。もういいや、どうにでもなれと。『はい、分かりました、自分がやりましたよ』と言ったら『おお、そうか』と。こうですよ。その日は(取り調べは)それで終わったんです」
――その自白の時に、警察の人が言うのは、菅家さんが警察官の手をとって泣き崩れたと?
「それはありました」
――その時の気持ちは?
「悔しい涙でしたよ。やったとか、やらなかったとか、そういうんじゃないですよ。悔し涙ですよ。自分はやってないのに、どうしてこんな事されなきゃならないの?って、ずーっと思ってました」
――悔しさのあまり?
「そういうことですよ。やって、泣いてたんじゃないですよ。悔し涙ですよ。本当に。だから今だったらハッキリと言いますよ、やってないと。当時は、何も分からないですから。本当に初めてで。警察というのは、市民を守ってくれると、ずっと思ってましたから。なのに『お前がやったんだ』と言われるとは思ってないし」
――お前がやったとなった後、結構細かいストーリーが出てきますよね?それはどういう風に作られた?
「事件当日、幼稚園の勤めに行ってたんですよ。送迎で。それで、実家から幼稚園まではバイクで通勤してたんですよ。それで、幼稚園の送迎が終わって、土曜日ですから、車の中を少し掃除して、実家に帰っていったわけですよ、バイクで。それで、うちへ帰ってきて、即席ラーメンですけど、食べて、バイクでなくて、自転車で行ったわけですよ、菓子屋まで。それで、菓子屋まで行ったんですけど。その日は、事件があった日なんですけど、私は自転車で行ったんですよね、菓子屋まで。その日は、自転車を使ってたんだから、自転車で、真美ちゃんを乗せたことにして、現場まで行ったことにしたんですよ。自分で作ったんですよ、それは」
――なんで、そんな話まで作っちゃったんですか?
「やはり、そういう風にね、言わないと、なかなか刑事っていうのは、なんていうんですかね、『おお、そうか』とか言ってくれないですからね。適当に、自分で、作っちゃったんです」
――作ると、刑事さんは納得するんですか?
「分からないですもん、真犯人がどうやったか。だから自分で適当に、真美ちゃんをパチンコ屋さんから、載せて、土手から下りになるんですよ。下って野球場がある。ネットの後ろいって、河川敷いって、おろして、自転車そのままにして、真美ちゃんをおろして、なんていうんですか、ムラムラっていう言葉を使って、真美ちゃんのクビ締めて殺して、抱いて、現場まで行ったと言ったんですよ。
――そのストーリーは、刑事は納得した?
「納得したというか、そうですよ」
――現場は行ったことのある場所だったんですか?
「そこはないですよ。全然」
――行ったことない場所については、想像したんですか?
「想像です。橋の上から見えるんですよ、だいたい。河川敷も見えますし。それで、自転車おいて、真美ちゃんのクビ締めて、抱いて、おいて、自分は逃げたと、と(言ったんです)」
――客観的な事実と、菅家さんのストーリーが違うときはありませんでしたか?
「それは、たまにありますね」
――そういう時は、どんな風に言われましたか
「それは、(実況見分で)。警察官と現場に行ったときに、刑事が、『真美ちゃんの死体はどこにあるんだ?』と。自分は分からないから、(適当に)『ここです』と言った。すると刑事は『違う、もうちょっと向こうだ』と言って、『ここだ』と(別の場所を示した)。それで、ここかと思った。自分は(遺体のあった場所を)分かりませんから」
――違うって、警察官が教えてくれた?
「教えてくれるんですよ、違う、ここだって」
(ここで佐藤弁護士が補足説明。「殺した場所以外は、彼の言うことで警察は納得するんです。遺体があった場所教えて貰って、あとは、彼が言う通りに調書とってるんですよ。警察も(犯人の経路や行為の詳細は)分からないし」。首の絞め方も、菅家さんが説明する通りの両手で絞める方法が調書にされた。法医学者によれば、遺体の状況からは、そうではなく、片手で絞めたと考えられるが、この時の栃木県警はそうした殺害状況にはあまりこだわらなかった。「普通は、これじゃ満足しないですよ。でもDNA鑑定があるから、もうそれで、いいんだ、と。判決でも、足りない部分はDNAが補っているんですよ」と佐藤弁護士)
――捜査の途中で弁護士さんがつきましたね。自分がやってないっていうのを、会った弁護士さんに訴えよう、というのは思いませんでしたか?
「その時は、思わなかったですよね」
――なんでかしら?弁護士さんに対して、本当の事言いたいという気持ちはなかった?
「それはありましたけど、でも、それを言うと怒られるとか、そういう風に思ってましたね」
――え、誰に?!
「弁護士に」
――え? じゃあ、弁護士はやってると思いこんでる感じ?
「そうです、そうです」
――それなのに、やってないと言ったら怒られると思った?
「そうです、そうです」
――弁護士さんについては、どんなイメージを持っていました?
「いや、イメージも何も、分からないですよ。何も知らない。弁護士という言葉も分からなかったし、検察も分からなかったし。ただ分かっていたのは警察ですよ。市民を守る。それぐらいしか分かってません」
――じゃあ、弁護士の役割って分からなかったんだ?
「全然分かりません。何も分からなかったんですよ」
――弁護士から「君を守るために来たんだ」という説明はなかった?
「全然ないですよ。だから、何も分からないですよ、自分は」
――検察と弁護士の違いも?
「全然分かりません。本当に」
佐藤「今の点は、弁護士に非常に深刻な反省を迫ってる所なんです。DNA鑑定で捕まったと報道されている中、お兄さんがなけなしのお金をはたいて、私選弁護士を頼んだんですよ。
弁護士さんも犯人だと思っちゃったんですよ。それで、『菅家さん、本当にやったんですか?』って聞いたんです。そう聞かれるから、『この弁護士さんも、自分のこと犯人だと思っちゃってるな』と思って、最初はメソメソ泣いてたんですって。
それでね、3回目かなんかに『やりました』って言っちゃって。それを聞いて弁護士さんも安心しちゃって、外の待ってる記者に向かって、『とうとう私の前でも自白しました、間違いありません』って言って、これで良かったと弁護士さんも思ってしまった。
こんなおとなしい人で、(警察で)すぐ潰されちゃってるでしょ。そのうえ、弁護士の役割も分かっていない。弁護士は、よっぽど『本当のことを言っていいんだよ』って言ってあげないと、本人の心には届かないですよね。
起訴された後、警察から拘置所に移って、家族に対して手紙が書けるようになった。弁護士には、全然真実は言えなかったんだけど、唯一、家族には、僕はやってませんと書き続けるんですよ。お兄さんは、おかしいなと思って、ある日弁護士に19通の手紙を届けるんですね。ところが、お兄さんがまた大人しい人で、弁護士さんが留守だったので、(事務所に)手紙を届けただけで帰っちゃうんですよ。
弁護士さんは手紙を読みまして無実って書いてますね。ずっとやってますと認めてて、家族に無実って書いてあるの、どういう意味だった聞いたんですよ。そしたらね、菅家さんは『無実ってことは、やってないっていうことで』って言ったんですよ。『やってないって、どういう事だ、今まで言ってたことは違うのか?』って問い詰められて『はい、そうです』って泣き崩れちゃうんですよ。
――弁護士さんに最初会ったとき、どんな人でした?
「年がいった人で、なんか、怖いような印象が残ってる。だから、やってないと言うと、怒る、そういう風に思ってました」
――実際に、弁護士さんに怒られたこともありますか?
「それはないですけど、でも、やはり自分としては、気が弱いから、何言われるか分からないと思って…。本当に辛かったですよね。今ならね、絶対ハッキリ言います。当時は、何も分からないもの。弁護士とは、どういう役割。検事さんはどういう役割。当時なんか、何も知らないですもん。突然ですから、本当に分からなかった。何も分からないで…」
――裁判が始まって、法廷でも自白を維持されてましたね。裁判官に本当のことを言おうとは思いませんでしたか?
「その当時は、思わなかったんですね。どうしてかと言われると、あれなんですけど。本当にね、何にも分からないですから。ただ、怖い。それしか思ってなかったですね。当時は、刑事がいると思ってたんですよ、傍聴席に。だから、何かやだな、やだな、と思ってて。そのまま、やった風になっちゃったんですよ」
――裁判官も怖かったんですか?
「そうです、そうです。そうです。だから周りの人はみんな怖い人だと思ってましたよ」
――裁判でも犯行の状況を身振りまで混ぜてされましたよね?なんでそこまで具体的にされてた?
「やはり、そういう風に説明しないと、何ていうんですかね、怒鳴られる、怒られる、そういう気持ちだけでしたよ。だから、当時のことを思うと、今ですけど、なんで自分はハッキリものが言えなかったんだろう、そう思ってますよ、今は」
――裁判始まったとき、このままだと自分は刑務所に入れられるとか、死刑になるかもとか?
「死刑とかそういうことは、全然頭になかったですよ。全然なかった。自分はやってない、そういう気持ちでいましたから」
――被害者のご遺族が、菅家さんを極刑にして欲しいと調書の中で言っているでしょう? それを聞いて、どうでした?
「やっぱり、動揺はしましたよ。自分はやってないけど、もし死刑にされたら困るなと、その時思いましたけど、それで求刑になって、無期懲役ですよね。それで、弁護士の先生に、『無期懲役は嫌ですよ』って言ったんです。『そうか、嫌か』と。それで終わっちゃったんですよ。もう、話なんか聞くような関係じゃないですよ」
――判決で、無期懲役と言われたときは、どんな気持ちでしたか?
「冗談じゃない、と。やってないのに、なんで無期懲役だと。そう思いましたよ」
――一審の途中で一度否認をして、すぐに撤回して、その後論告・求刑の後、再び否認に転じて、以後は否認を貫いていますね。真実を言うと強い決心をしたのは、何かきっかけがあった?
「それは、支援者の方が面会に来てくれたんですよ。それからですよ。
――支援者の方っていうのは、どういう繋がりなんですか?
「繋がりはないんですよ。全く知らない人で」
――どういうところから、支援してくれるようになったんですか?
「最初、その人から手紙をもらったんですよ。手紙をもらった後に、1か月くらい先だったと思いますが、面会に来てくれたんですよ。それで、『私は絶対やってません。これからもお願いします』と頼んだ訳ですよ。それからです」
――その人の手紙を読んだり会ったりした時に、どんな気持ちになりましたか?
「『そうか。こういう人がいるんだ』と。自分は、気が強くなっちゃった訳ですよ。それまでは、誰もいないんですよ、周りには」
――信じてくれる人が?
「そうです。で、その人が来てくれたおかげで自分は、よし、これから頑張ろうと。そういう気持ちになりましたよ」
――その方が、真実はちゃんと言った方がいいですよと?
「言われましたよ。本当のことを言いなさい、と」
――信じてくれる人がいるって、違いますか?
「そうなんですよ。だから、そういう人が出てきたおかげで、自分も救われたんですよ。もし、その人が来てくれなかったら、自分は、終わりでしたよ。無期懲役のまんまで。もう、終身刑と同じですよ」
――それで、頑張ろうと思って?
「そうです」
――その後、控訴審から佐藤弁護士が着きましたよね。佐藤先生は、自分のことを信じてくれてると、感じました?
「感じました。感じましたよ。もし、佐藤先生がついてくれなかったら、今の自分はなかったですよ。釈放もありません。なにもありません。人生終わりですよ」
――佐藤先生が、最初面会に来てくれたこと、覚えていますか?
「ええ、覚えてます。この先生なら絶対俺を救ってくれるんだと、思いましたよ。ピンときましたよ。本当に」
――でも、それから15年。佐藤先生がついてくれたからと思ったけど、すんなり順調にはいかないですね。
「順調にはいかないけど、でも、私は、佐藤先生を絶対信じてましたから、本当に。本当に信じてましたよ」
――でも、高等裁判所は信じてくれなかった。高裁の判決聞いたときは、どんな気持ちでした?
「やっぱり悔しかったですよ。ふざけんな、この野郎!と思いましたよ」
佐藤「控訴棄却と言われるでしょ、そうしたら菅家さんは『裁判長』って手を挙げたんですよ。『私、やってません』って。もう判決終わりですよ。で、裁判長が、『そういう事は弁護人に相談するように』って終わっちゃった」
――裁判官には一言言わずにはおれなかった?
「そうです、そうです」
――その判決を受けた後、拘置所に戻りますよね。どうして一晩過ごしてました?
「全然眠れなかったですよ」
――悔しくて?
「そうです」
――もう、これダメかな、と思いました?
「いや、そういう事は全然考えてません。ダメかなとは、考えてません。本当にダメかな、と思ったのは一審ですよ。あの弁護士はもう、ダメだと思いましたよ」
――佐藤先生がついたあと、弁護士さんが何人かつきましたよね、みんな信じてくれました?
「信じてくれましたよ。本当ですよ、それは」
――それはやっぱり心強いですか?
「心強かったですよ。だから、まあ、今も話しましたけど、もし佐藤先生がいなかったら、今の自分は無いですよ。(涙)本当に。本当に感謝してますよ。これだけね、すごい弁護士さんいないですよ。自分はそう思いましたよ。本当に。
――いい出会いがあって良かったですね。
「そうですよ」
――それを引き合わせてくれたのは支援者の方ですよね?
「そういうことですよ。その支援者の方にも、自分は感謝してますよ。本当ですよ」
――逆に、怒っているのは、誰に対して怒っていますか?
「やっぱり、自分としては、当時の刑事、検事。この2人ですよ。それから、裁判官。この3つですね。ものすごく怒ってますね」
――謝ってほしいとおっしゃいましたね?
「ああ、その通りですよ。今もその気持ちは変わってません。今でも来てもらって、謝ってもらいたいですよ。もし、今でもね、当時の刑事が、当時の気持ちと同じでいたら、ぶん殴りますよ。殴りたい気持ちです。今、本当に。それだけ怒ってますよ、今。絶対許さない。謝りにくるまで。冗談じゃない。そのためにね、自分の親父ですよ。ショックを受けてね、亡くなったんですよ。だから、亡くなったのは誰のせいだと言いたいんですよ。刑事でしょ。だから、絶対許さないですよ。今でも。絶対許さない。(涙)そうですよ、両親ですよ。悔しながら死んでいったんです(涙)」
佐藤「ここへ来る途中ね、空を見ながら『お母さんと、前来たことがある』って」
――この辺(横浜)に?
「東京見物ですよ。当時ね、自分の母親が生きてるときに、自分と兄と、妹、兄の息子で来たんですよ。東京見物に。一緒に来たんですよ。その時の母親、喜んでくれてましたよ(涙、涙、涙)。お前ら、絶対許さないからな。絶対許すもんか(涙)。無実の人間をね、今日まで苦しめてきたんですよ、あの刑事たちは。それも何の話もないんですよ。謝罪もないんですよ。一生許さないですよ、私は。だから、当時の刑事がね、私の家庭をめちゃめちゃにしたんだから……」
――これから、再審やったり、国賠請求やったりすると思うんですけど、これからどうやって生活していきたい?
「自分としては、地元へ帰りたいです。免許証もありますよ。当時、次の年、免許証書き換えの時期だったんですよ。それができなくなっちゃったんですよ」
――でも、帰るのは、なかなか簡単じゃない?
「簡単じゃないですよ」
――一度犯人にされちゃうと、その後…
「大変ですよ、本当に。本当に。もう」
――足利に帰れたら、どんな生活しますか?
「静かに生活したいですよ。またですね、子どもたちの相手をして、送迎をやりたいなー、という気持ちがありますよ」
――子ども、好きなんですね。
「当時の子どもがもう、30いくつになってるんですよ。また会いたいなと思いますよ。
――テレビきっと見てますよ。
「絶対見てますよ。当時の子どもが私のこと『やってない、やってない』って言ってくれていたらしいんですよ。自分はね、(それを聞いて)本当に嬉しかったですよ、だから今ね、30すぎて、どうしてるかなーと思って。会いたいと思ってるんですよ。まあ、それと(会いたいのは)保育園の先生ですね」
――今となっては、もう時効で、被害者のご両親は、真犯人に対して「子どもを返して」と叫ぶことさえできなくなってしまいました
「だから、自分としては、時効、これがあっては絶対ダメだと思ってるんですよ」
――真美ちゃんたちのご両親のことを思うこともありますか?
「あります、あります。だからね、自分は、真美ちゃんの両親に会いに行って、話したいんですよ。本当に」
――ありがとうございました。
(2009年6月7日 横浜市の佐藤弁護士の自宅で)
冤罪「足利事件」で、栃木県警の石川正一郎本部長が菅家利和さんに直接謝罪することになった、という。
謝罪ということであれば、謝る側の方が出向くべきであって、謝られる菅家さんの方がわざわざ足を運ぶというのは、なんだか変な気がする。とはいえ、住まいも当面の生活費も用意されることなく、事前の告知もないまま、いきなり釈放されてしまった菅家さんは、主任弁護人の自宅に身を寄せている状態で、県警本部の人たちがどやどやと来られても困る、ということがあるのかもしれない。
先日、石川本部長名のコメントを刑事部長の記者クラブで代読させ、「これが謝罪とは言えるのか」と批判を招いたこともあったのだろう。比較的早い時期での直接謝罪となったのは、悪いことではない。どういう文言や態度での謝罪になるのか、注目したい。
いきなり引っ張っていかれて、無理やり自白させられ、挙げ句に刑務所に送られて、合計17年半も拘束されていた菅家さんにとっては、本部長が1回謝っただけで、許せる心境にはならないだろうし、当時の捜査関係者、とりわけ自分に自白を迫った人たちに直接謝ってもらいたいという思いはあるだろう。
警察や検察の謝罪が、通り一遍のものではなく、本当に実のあるものとするには、直接当人に謝ること以外にも、やらなければならないことがある。たとえば――
*きちんと賠償をする
*このような冤罪が生まれた原因を究明する
再審で無罪が確定すれば、菅家さんには刑事補償が払われる。その金額は、1日当たり1000円以上12500円以下で、おそらく菅家さんには最高金額が支払われるだろう。
しかし、刑事補償は失われた財産を補填するという趣旨で行われるもので、警察や検察、裁判所などの誤った権力行使に対する償いとは異なる。失われた17年半を取り戻すのは不可能でも、せめて一定の賠償金を支払って、償いの意思を示してもらいたい。
しかも、菅家さんには生活の拠点もなければ、生活のあてもない。62歳という年齢を考えれば、これから老後の蓄えをすることは難しいだろうし、十分な年金も得られないだろう。また、無実を晴らすためには、多くの弁護士がこれまで手弁当で弁護活動をやってきたわけで、彼らに対する報酬も払われるべきだ。そのためにも、国と栃木県は話し合って、なるべく早い時期に菅家さんへの賠償金を支払えるように準備をして欲しい、と思う。
また、菅家さん側は、なぜ無実の罪を着せられることになったのか、その原因を知りたいと願っている。その要請には、警察や検察も、なるべく協力をすべきだ。たとえば菅家さんと弁護団は、再審請求審に、捜査段階で最初のDNA鑑定を行った警察庁科学警察研究所の技官らを証人申請している。そういう申請には反対をすることなく、速やかに証人尋問が実現するようにしてもらいたい。取り調べを担当した栃木県警の捜査員にも、再審などの課程で、どういう経緯で菅家さんに自白をさせるに至ったのか、正直に述べて欲しい。
警察や検察は、今回の捜査や裁判の進行について、それぞれ内部で検証を行う意向らしい。しかし、特に警察の場合、これまでも誤ちがあっても検証の結果を公表してこなかった。そのため、他の警察が教訓を学ぶこともなく、同じような過ちが繰り返されてきた。今回のことで、そのようなことがあってはならない。ぜひとも、公開の裁判の場などで、原因究明がなされるべきだ。
それは、何も担当した捜査員をさらし者にして断罪するためではない。
もしかすると、取り調べを担当した捜査員も、どうしてこのような結果になったのか分からないでいるかもしれない。
菅家さんを恐怖させ、絶望させた初日の取り調べだが、日頃から凶悪事件の容疑者に対峙している捜査員にとっては、さほど厳しく取り調べた実感はないのではないか、という気がする。最後に、菅家さんが悔し涙にくれながら自白する場面を、捜査員たちは、悔悟の涙と受け取っただろう。ひとたび犯行を認めてしまった後の菅家さんは、捜査員の目には、スラスラと犯行を供述したように映っただろう。
なのになぜ、このような間違いが起きてしまったのか。それを検証することは、こうした悲劇が繰り返されないために、何をどうすればいいのかを捜査関係者が考えるためにも、どうしても必要なことだ。
取り調べ課程の全面可視化が必要なことは言を俟たないが、それ以外にも、私たちは考えなければならないことがあるように思う。捜査員らの証言を公開の場で行ってもらいたいのは、これが警察などの捜査関係者だけの問題ではないように感じられるからだ。
これは私の想像だが、警察庁からDNA鑑定の結果を受けた、栃木県警の捜査本部は、菅家さんが犯人で間違いないと確信しただろう。同時、DNA鑑定はあたかも百発百中の最先端技術であるかのように喧伝されていた。捜査員たちは、DNA鑑定の仕組みや精度なども分からず、とにかく「間違いない」という結論だけを教えられ、取り調べに臨んだのではないだろうか。
凶悪事件であればあるほど、犯人が自白して謝罪することを、マスメディアも、一般市民も、そして検察や裁判所も期待している。この事件でも、捜査員たちはそうした期待に応えるべく、使命感をもって取り調べを行ったに違いない。捜査員たちは、社会からの期待を、どのように感じていたのだろうか。そうした期待がプレッシャーとなって、嘘の自白を招くような強引に取り調べに至ったのだとしたら、担当した捜査員や当時の栃木県警の捜査本部だけを責めてすむ問題ではなくなる。
私たちの社会が、この事件から教訓を得るためにも、公の場での原因究明をしてもらいたい。
また、謝罪がなされるべきは、菅家さん一人だけはない。
真犯人を取り逃がす結果になったわけで、被害者遺族、地元の市民に対しても、当然、真摯な謝罪がなされるべきだ。
それにしても、この事件で警察や検察以上に責めを負うべき人たちが、責任を認めるわけでもなければ、謝罪するわけでもないことに、とても疑問を感じている。
冤罪が明らかになると、メディアでも警察や検察が厳しく批判される。それは当然としても、それ以上に批判されて然るべき人たちに対しては、あまり批判がなされない。それどころか、冤罪の被害者を救ったかのような扱いをされることすらある。
私が冤罪事件で最も責めを負うべきだと思うのは、裁判官である。今回の事件で言えば、とりわけ菅家さんの上告を棄却し、無期懲役刑を確定させてしまった最高裁の裁判官たちだ。具体的に言うと、亀山継夫裁判長と、河合伸一、福田博、北川弘治、梶谷玄ら4裁判官である。
弁護団は、最高裁の段階で菅家さんの髪の毛を使って独自のDNA鑑定を行った。その結果が科警研の鑑定と違っていることから、再鑑定を請求すると共に、鑑定試料(被害者の衣服)を適切に保存するよう要請した。
ところが、再三にわたる弁護側の請求を最高裁は無視し続け、上告から5年半後に菅家さんの無実の訴えを退けた。最初の上申書が出されたのは1997年10月で、菅家さんの逮捕からは5年10ヶ月後だ。この時に、再鑑定を行っていれば、もっと早くに菅家さんの無実は明らかになった。菅家さんの失われた17年半のうち、少なくとも11年間は最高裁の5人の裁判官(及び調査官)の責任だ。
また、上申書が出された時期は、事件発生から7年5ヶ月後で、また公訴時効まで7年半あまりの時間があった。この時点で捜査をやり直せば、真犯人を逮捕する可能性はあったのだ。その点では、被害者に対しても、最高裁は大きな責任を負っている。
一部報道で、最高裁の関係者が「当時としてはベストのベストを尽くした結果」と述べていると報じられたが、とんでもない話だ。
最高裁を擁護する意見として、「事実審は高裁までであって、最高裁は法令違反や判例違反を審理する所だから」というものがある。しかし、最高裁が事実について判断してはならない、という決まりがあるはずがない。実際、この4月には、電車内の痴漢事件で罪に問われた防衛大学校の教授が1審2審と有罪判決を受けていたのを、最高裁が破棄して、無罪を自判した。下級審の事実誤認を、最高裁が訂正しただけでなく、早く被告人の座から解放するために、高裁に差し戻すのではなく、自ら判断をしたのだった。私が以前取材したひき逃げ事件でも、同じように1、2審の有罪判決を最高裁が破棄して自ら無罪判決を出していた。
再鑑定をして自ら事実を判断するのが嫌なら(そういう横着者は、そもそも裁判官にならないでもらいたいが)、高裁に事件を差し戻し、高裁で再鑑定など事実に関する吟味をもう一度行うように命じることだってできた。
菅家さんを裁いた最高裁の5裁判官は、いずれの道もとらず、しかも被害者の衣服を冷凍保存するなどして、付着した犯人のDNAが破壊しないように努めることすらしなかった。幸いなことに、今回の再鑑定では、無事DNAが完全な形で検出できたからよかったようなものの、そうでなければ、菅家さんの無実を証明するのは難しかっただろう。
亀山裁判長ら最高裁の裁判官たちは、事実に対する謙虚さに欠け、事実を知ろうという好奇心すら希薄で、その怠慢により無実の人を刑務所に送り込んでしまったのだ。
有罪判決が確定から1年5ヶ月して、菅家さんは宇都宮地裁に再審を請求した。
この再審請求審で、ようやく被害者の衣服が冷凍保存されることになった。しかし、弁護側が行った再鑑定について、「鑑定に使った毛髪が菅家さんのものである証明がない」として証拠価値を認めず、結局5年2ヶ月近くの歳月をかけて、棄却決定が出された。
弁護側の再鑑定に使われた髪の毛は、菅家さんが自ら引き抜いて、弁護人への手紙の中に同封したものだ。そういう手法を取らざるをえなかったのは、拘置所・刑務所では、弁護人は面会室でアクリル板越しに会うしかなく、直接の受け渡しができないからだ。もし、鑑定に使われた髪の毛が菅家さんのものではない可能性があると考えるのであれば、裁判所自ら髪の毛を採取して、鑑定を行うようにすればよいのだ。やるべきことをやらずにいた宇都宮地裁も、真実発見に対する姿勢があまりにも薄弱であり怠慢であったと言わざるをえない。
結局、最高裁と再審請求の宇都宮地裁で、9年以上の歳月が無駄に費やされたのだ。その間に、事件は公訴時効を迎えた。いったいこの責任は誰が取るのだろうか。
再審請求の宇都宮地裁の裁判官たちにとっては、最高裁の判断と”法的安定性”が、菅家さんの人生や人権、真実を発見することよりも大きかったのだろう。
確定判決を死守し、めったなことでは改めないことが、司法の信頼につながると多くの裁判官たちは信じているらしい。そういう裁判官たちにとっては、再審を開いて、過去の裁判の過ちを正すことは、裁判所の沽券や面子にかかわることなのだろう。だから、事実を知る努力をするより、どうしたら再審を開かずに済ませられるかが先に立つ。
今回の事件は、不幸中の幸いで、東京高裁の段階で再鑑定が行われ、菅家さんの無実が明らかになったが、名張毒ブドウ酒事件などでは、有罪を支えた物的証拠がすべて崩れた後になっても、「まだ、捜査段階の自白があるじゃないか」と、再審を認めてもらえない。
この現実を考えると、再審請求審こそ、国民の司法参加が必要ではないか、と思う。
一般市民であれば、先輩裁判官に対する遠慮やしがらみはない。”法的安定性”より、事実や人の人生の方を大事に考えるだろう。再審請求が行われるような事件は、発生から時間が経過しており、事件の衝撃や怒りなどの感情も落ち着いて、一般市民も冷静な目で判断できるはずだ。
そう考えると、一審を裁判員でやるより、むしろ再審請求審の方が、市民が参加する意義やメリットは大きい。
検察審査会のように、一般市民が法律家などの専門家の助言を受けて判断した方が、最高裁の”権威”や裁判所の面子にとらわらず、まっとうな判断ができるのではないか、と思う。せめて、裁判官だけでなく、それ以上の数の一般市民が加わって判断をする裁判員方式とすべきだ。
それに、そもそも警察の捜査員は自白にこだわるのは、自白調書を裁判所が安易に証拠採用してきた、長い慣例があるからだ。
無理な取り調べを生む土壌は、裁判所が作り上げてきた、とも言えるのではないか。
判決だけではない。裁判所は、捜査機関から請求があればホイホイ逮捕状や勾留状や捜索令状を出している。人権の砦であるべき裁判所が、その役割を果さないことが、多くの冤罪を生んでいる。
なのに、裁判所にはその自覚がなさすぎる。
富山の冤罪では、再審が開かれたが、その公判で裁判長が「被告人、前に出なさい」と命令する偉そうな態度をとっているのを傍聴席から見ていて、怒りがこみ上げてきた。
自分たちの先輩が、一人の人間の人生をめちゃめちゃにしたという自覚も反省も謝罪も、まるでないのだ。
誤ったら謝る――子どもにも分かる、こんな当たり前のことを、改めて裁判官に説かなくてはならないのは淋しい限りだが、間違ったら誠実に謝ってこそ、国民の裁判所に対する信頼は取り戻せることを、よくよく認識してもらいたい。
そこで思い出すのは、吉田巌窟王事件と呼ばれる冤罪事件の再審判決だ。大正時代に起きた強盗殺人事件で、犯人の二人が自分たちの責任を軽くするために第三者を主犯にでっち上げる供述を行ったことから、吉田石松さんが逮捕された。一審は死刑だったが、二審は無期懲役となり、最高裁で確定した。事件発生から22年後に仮出所してから、自分を罪に陥れた男たちを探し出し、再審請求を重ね、事件から約50年後に、ついに再審を勝ち取った。
名古屋高裁で行われた再審で無罪が言い渡された。その判決文を、小林登一裁判長は、次のように結んでいる。
「当裁判所は、被告人、否、ここでは被告人というに忍びず、吉田翁と呼ぼう、われわれの先輩が翁に対しておかした過誤を、ひたすら陳謝すると共に、実に半世紀の久しきに亘り、よくあらゆる迫害にたえ、自己の無実を叫び続けてきたその崇高なる態度、その不撓不屈の正に驚嘆すべき精神力、生命力に対して、深甚なる経緯を表しつつ、翁の余生に幸多からんことを祈念する次第である」
そして小林裁判長は、左右の陪席裁判官を促して、裁判官席から被告人席の吉田氏に頭を下げた、という。
検察側は上告を断念し、無罪が確定。だが吉田氏は、それから1年もしないうちに亡くなった。まさに雪冤のための人生となってしまった。さぞかし悔しかったことだろうと思うが、裁判官たちの謝罪があったことで、少しは報われた気持ちになったのではないだろうか。
果たして、菅家さんの再審請求審や再審で裁判官たちはどういう対応をするのだろうか。 そこに、私は注目したい。
さらに、一審を担当した弁護人の責任も大きい。
公判中、面会にもほとんど行っていないようだし、菅家さんが勇気をふるって無実を訴えた時に、それを再び引っ込めてしまったのは、弁護士に諭されたからだったという。
富山事件でも、弁護士が弁護人としての職責をきちんと果たさなかったことが指摘されている。
足利事件も、一審での弁護活動がもう少しまともになされていれば、菅家さんが服役するような事態は避けられたかもしれない。
未だに当時の弁護人から謝罪の言葉は出ていないようである。この問題について、弁護士会はどう取り組むのかについても、合わせて注目していたい。