2009年6月17日水曜日

【検察問題】 指揮権発動

「法務大臣の指揮権」を巡る思考停止からの脱却を
造船疑獄指揮権発動は「検察の威信」を守るための策略だった


日本は、いつから、法律に明記されている行政庁の権限について議論することすらタブー視する国になってしまったのだろうか。

 6月10日に公表された「政治資金問題を巡る政治・検察・報道のあり方に関する第三者委員会」(政治資金問題第三者委員会)の報告書に対して、新聞、テレビの多くは、検察当局や報道機関の批判に重点を置き、小沢一郎氏の説明不足を追及していないなどと批判している。とりわけ、報告書中で、法務大臣の検事総長に対する指揮権発動に関して言及したことに対しては、朝日新聞以外の各紙の批判は「非難」のレベルにまで達している。

報告書での「指揮権発動」言及に対するマスコミの「非難」

 例えば、読売新聞は、「検察・報道批判は的外れだ」と題する6月11日の社説で、報告書の「法相の捜査中止の指揮権発動を求めるかのような表現」を厳しく批判した後、同日夕刊の「よみうり寸評」でも、戦後ただ一度の指揮権発動で涙を浮かべる検事正や無念の思いに暮れる検事たちの情景を描いた後、「犬養健法相が造船疑獄の捜査に関し、検事総長に対し指揮権を発動した。これで佐藤栄作自由党幹事長への捜査はストップ。法相は辞任した。以来、発動はない。ずっと抑制の姿勢が貫かれてきた。半世紀以上も前の古い話を民主党の第三者委員会の報告で思い出した。『西松事件』について何と『法相が政治的配慮から指揮権を発動する選択肢もあり得た』とある。検察・報道批判の色が濃く、『第三者』の報告というよりは鳩山、小沢両氏の代弁のようだ」などと重ねて詳細に批判する、という念の入りようだ。

 しかし、このような批判は、報告書が言うところの「政治的配慮」の趣旨を読み違えているだけでなく、検察庁法が「法務大臣の指揮権」を規定していることの意義、検察の権限行使に対する民主的コントロールの手段としての位置づけを正しく理解していない。

 第三者委員会のメンバーであった者の1人として、このようなマスコミからの「非難」に対して個人的立場から反論を行うこととしたい。

渡邉文幸著『指揮権発動』が解き明かした戦後検察史の核心

 「法務大臣の指揮権」をタブー視する考え方は、造船疑獄事件での犬養法務大臣の指揮権発動という「政治の圧力」が「検察の正義」の行く手を阻んだ、という歴史認識に基づくものだが、実は、そこには重大な誤謬がある。元共同通信記者の渡邉文幸氏の著書『指揮権発動』では、当時、法務省刑事局長だった井本台吉氏が事件から40年経って初めて語った証言などを基に、捜査に行き詰まった検察側が「名誉ある撤退」をするために、自ら吉田茂首相に指揮権発動を持ちかけた「策略」だったことが明らかにされている。まさに、戦後検察史の核心を突く迫真のノンフィクションだ。

 そして、2006年6月14日付朝日新聞夕刊の「(ニッポン人脈記)秋霜烈日のバッジ」(村山治編集委員)では、上記の井本氏の証言に加えて、当時東京地検特捜副部長だった神谷尚男氏の「あのままでは佐藤を起訴するだけの証拠がなかった」との証言、当時、一線の検事として捜査に加わっていた栗本六郎氏の「捜査は行き詰まっていた。拘置所で指揮権発動を聞き、事件がストップして正直ほっとした」という証言のほか、「日本の検察には『正義の特捜』対『巨悪の政界』という単純化された構図による呪縛と幻想がある」との渡邉氏の指摘も紹介されている。

 造船疑獄における指揮権発動が検察側の策略によるものだったことは、ほとんど疑う余地のないものと言ってもよいであろう。

 同書に記載されている造船疑獄での佐藤栄作自由党幹事長への容疑事実を見る限り、検察の捜査が行き詰まっていたというより、最初から、この事件は、ほとんど無理筋だったように思える。容疑事実は、海運・造船に対する助成法案に絡んで、海運業者から自由党に政治献金が行われたことについて、当時の佐藤自由党幹事長が海運会社から請託(具体的に依頼すること)を受けて、第三者である自由党に賄賂を供与させたというものだが、そのような依頼があったとしても、与党の幹事長に与党としての法案のとりまとめを依頼したということであって、国会議員の職務に関する請託とは言えないであろう。

 もし、このような事実が第三者供賄になるとすれば、具体的な法案実現を目指す政党への政治献金はすべて賄賂ということになる。そして、贈賄側とされていた飯野海運の当初の逮捕事実は、このような政治献金の資金捻出のために造船会社からリベートを受け取ったことが商法の特別背任とされていたものだったが、この事実については、後日、一審で無罪判決が出て確定しており、それを含め、この造船疑獄で起訴された事実の多くが無罪となっている。

造船疑獄の検察捜査は、「暴走」を通り越して「爆走」に近いものだったと言わざるを得ないが、そのような検察捜査によって、当時の吉田首相の自由党政権に対する世論の批判が高まり、ついに首相退陣に追い込まれるという重大な政治的影響が生じることとなった。しかし、佐藤幹事長に対する容疑事実自体がほとんど有罪を得ることが不可能なものだったことは、世の中には全く知られていない。また、飯野海運の社長が全面無罪で確定したからと言って、世論が検察捜査を批判したわけでもないし、それで、責任を問われた検察幹部はいない。「検察捜査の当否は裁判所が判断すべきものであり、検察は裁判外で説明責任を負わない」という理屈が全く通用しないことは、この造船疑獄の史実から明らかなのだ。

造船疑獄事件によって封印された「指揮権発動」

 造船疑獄での指揮権発動を巡る誤謬は、「検察の正義」を神聖不可侵のもののように扱い、外部からの圧力・介入を断固排除すべきという考え方を生じさせる一方、その行く手を阻んだ法務大臣の指揮権は、検察庁法に規定されていても、実際にそれを行使することは許されない「封印されたもの」のように理解されることとなった。しかし、造船疑獄の指揮権発動の真実は全く異なったところにあった。指揮権発動までの経過には、経済検察と思想検察との複雑な検察内部の派閥抗争があり、策略や政治的思惑によって歪められた「検察の正義」があった。そのことを、渡邉氏の著書は見事に描き出している。

 逆に言えば、この造船疑獄を巡る史実は、検察の権力に対する何らかの抑制システムの必要性を如実に表していると言えよう。そして、そういう意味での検察の捜査権限や公訴権の行使に対する唯一の民主的コントロールの手段となり得るのが、現行法上、この法務大臣の指揮権なのである。

 「法務大臣は、第四条及び第六条に規定する検察官の事務に関し、検察官を一般に指揮監督することができる。但し、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる」という検察庁法第14条の規定は、本文で、検察庁も法務省に属する組織であることから検察官の職務は法務大臣の一般的な指揮監督に服することを規定する一方で、但し書きで、具体的事件の捜査や処分について法務省と検察庁との関係を限定している。この規定により、一般的な事件については法務省が検察庁の捜査や処分に関わることはなく、検察庁から法務省への報告も行われないが、例外的に、検事総長にも報告されるような重大事件については、法務省が「法務大臣の指揮権」を前提に、検察庁から報告を受けることがあり得る。

 この「法務大臣の権限」は、行政庁としての法務省の権限をその意思決定者たる長の権限として規定しているだけで、一般の行政庁において「…大臣は」と法文に書かれていることと何ら変わらない。既に述べた造船疑獄事件についての誤謬や法務省が検察庁と一体化して「法務・検察」などと言われている実情があるため、そこから孤立した法務大臣個人が権限を有しているように誤解されているだけなのだ。

 検察庁と法務省の間には、請訓(組織内の上位者に指示を求める手続き)規定に基づいて重要事件、重大事件についての報告が行われている。それを認める唯一の法律上の根拠が、検察庁法14条但し書きなのであり、この規定は、決して死文化しているわけではない。今回のような重大な政治的影響が生じる政治資金規正法違反事件については、法務大臣に指揮権について判断する時間的余裕を与える形で請訓が行われるのは当然のことと言えよう。

報告書での「法務大臣の指揮権」についての指摘

 今回の第三者委員会報告書では、まず第1章で、民主党代表であった小沢氏の公設秘書の大久保氏を逮捕・起訴した政治資金規正法違反事件の捜査・処理に関しては、そもそも違反が成立するか否か、同法の罰則を適用すべき重大性・悪質性が認められるか、任意聴取開始直後にいきなり逮捕するという捜査手法が適切か、自民党議員等に対する寄附の取り扱いとの間で公平を欠いているのではないか、など多くの点について述べているが、新たな事実調査を行ったわけではなく、公表されている政治資金収支報告書や西松建設内部調査報告書などで事実を確認しただけの第三者委員会の調査結果からも、検察の捜査・起訴への疑念は一層深まっている。

 報告書では、小沢氏個人の資金管理団体である「陸山会」への寄附は、逮捕・起訴事実とされた2003年以降の2100万円だけで、それ以前は行われていないこと、小沢氏側への寄附は自由党、新進党の政治資金団体や民主党岩手県連に対する寄附をすべて含めても23.7%に過ぎず、西松建設関連団体の設立目的は小沢氏の政治家個人への寄附とは無関係だったと考えざるを得ないことを指摘している。

 そして、むしろ、西松建設が「新政治問題研究会」と称する団体を設立した真の意図は、橋本龍太郎氏の資金管理団体と同一の名称の団体を千代田区内に設立することで、区までの所在地と団体の名称しか記載されない官報の上で自民党議員への寄附の具体的内容が明らかにならないようにすること、つまり自民党議員側への寄附について迷彩を施すことにあったのではないかと推測されると述べている。

 このように、今回の検察捜査に重大な疑念があることを述べたうえで、そのような捜査によって野党第一党党首が辞任に追い込まれるという政治的に極めて重大な影響が生じたことを踏まえて、第2章と第3章では制度論の検討を行っている。委員会のメンバーで行政法学者の櫻井敬子学習院大学教授が中心になって、第2章で政治資金規正法の制度論について述べ、第3章では、一行政組織に過ぎない検察の判断によって行われる捜査で国民の政治的判断が重大な影響を受けることに対する何らかの抑制システムが必要なのではないかという観点から、現行制度を検証し、検察に関する制度の在り方を論じている。

 このような第三者委員会での検討において、検察と法務省の在り方を論じる第3章の中で、現行法上、検察の権限行使に対する民主的コントロールのための唯一の制度である検察庁法14条但し書きの「法務大臣の指揮権」の問題に触れないという「選択肢」があり得ないことは明らかであろう。

 そして、もう1つ重要なことは、この点についての報告書の記述は、捜査の対象が野党党首側だという事実を前提にして、今回の政治資金規正法違反事件について、法務大臣の指揮権発動が「選択肢」の1つだったと述べていることだ。自民党サイドにも波及する可能性があると言っても、それは現時点まで実際に行われていないのであり、今回の検察捜査を、総選挙を半年以内に控えた時期に野党第一党の党首に対して公設秘書の逮捕という強制捜査が行われた事例としてとらえたうえ、法務大臣の指揮権発動問題を検討しているということだ。

検察との関係での法務大臣の職責とは

 造船疑獄事件での指揮権発動についての誤った歴史認識のために、法務大臣の指揮権発動というと、これまでは、与党側の政治家である法務大臣が、与党側に捜査の手が伸びないようにするために行うものとのイメージが固定化していた。しかし、今回の事件で問題になるのは、与党側の法務大臣が野党側に対する捜査に対して指揮権を発動することの是非なのだ。

 法務大臣に対して、請訓規定に基づいて、検察からの請訓が行われ、法務大臣としての判断を法務省が組織としてバックアップしていたら、今回の検察捜査には、違反が成立するか否か、仮に成立するとしても、総選挙が近い時期に、こういう捜査によって国民の政治選択、政権選択に重大な影響を与えてまで行うような重大・悪質な事案と言えるか否か、などの点に重大な問題があることは、法務大臣にも認識できたはずだ。

 そこで、法務大臣として、「総選挙を控えた時期に、このように重大な問題がある政治資金規正法違反事件で、野党第一党の党首にダメージを与えることは、与党側の選挙対策上は有利になることではあっても、民主主義政党たる与党としても不本意なことである。国民に政権選択の機会を与えることを尊重すべきだ」と判断して、捜査の着手を遅らせるよう指揮権を発動する「選択肢」は十分にあり得たのではないか。それを行っていたとすれば、法務大臣の判断は、党利党略ではなく、本当の意味で検察捜査と民主主義との関係を真摯に考えた末での客観的で公正な立場から行った指揮権発動の判断として、歴史的な評価に値するものとなったのではなかろうか。

森英介法務大臣が、6月12日の閣議後の記者会見で、民主党が設置した第三者委員会の報告書が法相の指揮権発動に言及したことについて、「看過できないものがある」と述べ、強い不快感を示したこと、その際「私は検察に全幅の信頼を置いて、その独立性・中立性を尊重したい」と強調したことが報じられているが(6月12日読売新聞夕刊)、「検察に全幅の信頼を置いて、その判断を尊重する」というだけでは、法務大臣の職責を果たしたとは言えない。

 今回の政治資金規正法違反事件について、請訓規定によって検事総長から法務大臣に対して請訓が行われたのか、それについて法務省としての十分な検討が行われたのか。それらの点を検証し、検察庁法14条但し書きという「法令」を無視するような検察の強制捜査着手が行われたのであれば、検事総長に対して、同条本文の一般的な指揮監督権に基づいて責任を問うことを検討すべきであろう。

 「正義の刀」を振り回す検察に対して、民主主義の唯一の砦となるのが法務大臣であることを忘れてはならない。法務省の重要ポストの多くが検事によって占められ、実務を担当する参事官、局付も多くが検察庁からの出向検事であり、法務・検察が人事上一体であることがその「唯一の砦」としての機能を妨げるのであれば、法務大臣の人事権に基づいて、それが行い得る体制を構築すべきであろう。

マスメディアの「思考停止」

 今回、政治資金問題第三者委員会で当然行うべき検討を行った結果として、報告書で、法務大臣の指揮権の問題に言及したことを、多くのマスメディアはこぞって「非難」した。

 一方で、報道では、その検討の前提としての検察の捜査・起訴に関する重大な疑問については「検察批判に偏っている」とするだけで、その中身には一切触れていない。その点に関して報告書が指摘した事実の中には、西松関連団体から陸山会への寄附が2003年以降の2100万円だけで、それ以前には行われていないことや、西松関連団体の「新政治問題研究会」という名称と全く同一で所在する区も同じ、橋本氏の政治団体が存在していたことなど、新聞、テレビでも十分把握していた事実が含まれていたはずであるが、それらはこれまで報道されてこなかった。指揮権発動問題について「非難」する前に、まずその前提として述べている検察捜査に関連する重要な事実の指摘について報じるべきであろう。

 中西輝政教授は、「子供の政治が国を滅ぼす」(文藝春秋2009年5月号)で、昭和初期、政治不信の高まり、世界恐慌など、現在と共通する政治、経済状況の中で、検察による疑獄事件の摘発が相次ぎ、それが、最後に「司法の暴走」帝人事件(現在の民主党鳩山由紀夫代表の祖父鳩山一郎文部大臣など政治家、官僚が逮捕・起訴され後に全面無罪となった)を引き起こし、政党政治を崩壊させて、日本が道を誤って敗戦まで突き進む大きな要因になったことを述べ、西松建設事件での検察捜査の危うさを指摘している。その中で、検察庁法14条の法務大臣の指揮権発動が、「本来、政から官への民主主義的なチェックシステムであり、これこそ重要な民主主義の担保の一つ」だと述べている。

 このような中西教授の意見にも耳を貸さず、渡邉氏が解き明かした造船疑獄事件の真相も意に介さず、第三者委員会報告書中に「指揮権発動も選択肢」との記述を見つけただけで、過剰反応するマスメディアの報道姿勢こそ「思考停止」そのものと言うべきであろう。

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読売新聞から、
「指揮権発動言及
「看過できない」…森法相が強い不快感
という記事が先週の12日に出ていたのは知っていた。
ちょうど、鳩山(弟)氏の辞任やなにやらで、この発言をブログに書こうと思って下書き途中でやめていたのだが、産経新聞や読売新聞の記者の質の悪さというか、品の無さを記録として留めておこうと思う。
しかし、googleで指揮権発動に関して書いてあるブログを探したのだが、殆ど見当たらない。三木内閣時の田中角栄逮捕という逆指揮権発動という事実を踏まえ、この度の小沢氏秘書逮捕は、逆指揮権を用いたと捉えかねられない一面を持っていることも否めない。その部分を踏まえて考えると、森法相の「強い不快感」の意味が、明確になる。
また、与党が野党側に配慮をするという部分ではなく、「正確・公平に政権を選択をさせる」という部分を考えると、「指揮権発動」という選択があってもあながち的はずれな論議ではないように思う。
政治資金問題を巡る政治・検察・報道のあり方に関する
第三者委員会報 告 書[記者会見配布資料]
http://www.dai3syaiinkai.com/pdf/090610report01.pdf (リンク切れ)
記者会見
http://www.videonews.com/asx/press/090610_dpj_300.asx (リンク切れ)
21分40秒以降
行政上の義務違反に関して行政刑罰であり、即ち総務省の所管となる。しかし罰則に関しては法務省・法務省の所管となる。

つまり、政治資金規正法違反というのであれば、総務省が規範を明確にするべきである。ところが、政治資金の寄付者の名前の記入方法が明確ではないことに起因をしているわけで、これは行政企画局政治資金課課長補佐 市川 靖之氏とのヒアリングのビデオを見ることで、言葉は悪いが「いい加減で、明確に答えられない回答」には私自信みていて驚いた。一つの法律が二つの省庁が管理をしていてどうも不透明な霞ヶ関の対応が見られる(24分)

立法のあり方に、櫻井敬子学習院大学教授は未熟さを指摘をしているにも係わらず、どの新聞を読んでも載せている様子がない。
櫻井敬子学習院大学教授の記者会見の中で「検察権の行使と民主主義の関係」という部分に触れている。

櫻井敬子学習院大学教授は、やんわりと語ってはいるが、本来ならばマスコミが監視をすべき問題であるこの「検察権の行使と民主主義の関係」を今の腐敗をしたマスコミが出来るわけがないと私は思っている。
第二回ヒアリング後の議事録
http://www.dai3syaiinkai.com/panel02.html
第二回ヒアリング後記者会見のビデオ
http://www.videonews.com/asx/press/090417_dpj-2_300.asx
総務省担当者とのヒアリングのビデオ
http://www.videonews.com/asx/press/090417_dpj-1_300.asx
3.検察権の行使と民主主義の関係 18P
3-1.議院内閣制との関係
国民を主権者とする民主国家においては、検察の権限行使といえども民主的正当性が要求されることは当然であり、それが行政権の範疇に含まれる以上は、民主的正当化の要請の程度は、司法権を担う裁判官の場合に比して相対的に高いということができる。検察の権限が時の政府に都合のいい形で行使される傾向があるということは歴史の教訓であり、憲法50条が議員の不逮捕特権を保障しているのは、政府に批判的な議員の活動が政府によって妨害を受けないようにする趣旨である。検察の権限が議会に向けられる場合、与野党のいずれに対してもそれが公正・平等な形で行使されなければならないことはいうまでもないが、議院内閣制のもとでは政府・与党が一体的であることから、とりわけ野党に対する権限行使について慎重な配慮が要求されるという指摘が可能である。
西松事件では、政治資金規正法という、もともと政治の世界における権力バランスにかかわる法律の問題であるということに加えて、検察の権限行使が野党に対して向けられた事案であるため、民主主義の観点からすると、与党議員に対する事案処理との間でバランスがとれているかどうかは国民にとって重大な関心事項である。検察当局は自らの権力行使の正当性について、主権者たる国民に向けて踏み込んだ説明をすることが求められる。
3-2.直接的な民主的正当性を持たない検察官僚
裁判官が行う判決については、憲法学上「統治行為論」が唱えられ、最高裁判例にもこれに依拠したものがある。統治行為論とは、高度に政治性のある国家行為については、たとえ裁判所による法律判断が可能であったとしても、事柄の性質上裁判所が審査をしない問題領域を認める考え方をいう。これは、政治問題は国民の代表者からなる国会および国会に信を置く内閣において解決されることが本来望ましく、裁判官は選挙によって選任されていないという意味で直接的な民主的正当性を持たない以上、政治問題については判断を差し控えることが好ましいという配慮に基づいている。このように、司法権ないし司法官僚たる裁判官の判決行動につき民主主義への礼譲を説く考え方を司法消極主義という。西松事件は、検察官による逮捕、公訴提起が被疑者・被告人個人の問題を超えて、民主主義社会における国民の意思決定に少なからぬ影響を及ぼし得ることを示した事例であり、検察権力の行使が野党第一党に大きな打撃を与え、間近に控えた総選挙での国民による政権選択の可能性を事実上奪ってしまいかねない状況を作り出した。このような政治案件の場合、裁判官の権限行使にかかわる統治行為論と同様の発想に立って、検察官はたとえ法律的には逮捕、公訴提起が可能であったとしても、あえてこれを控えることが正当化される場合があるのではないかという問題が認識された。
3-3.政治資金規正法違反事案の特殊性
本来、刑罰権の行使については、それが国家によるもっとも過酷な人権侵害行為であるということから、刑罰権の行使は抑制的であることが人権保障の観点から好ましいという「謙抑主義」の考え方が妥当している。起訴便宜主義は、起訴するについての法定要件を満たしている場合であっても検察官が諸般の事情を考慮したうえ、あえて起訴しない裁量を認めるものであり、謙抑主義の考え方が具現化したものと見うる。
このように、検察官の権限行使は一般論としてもその慎重さが要求されるが、とりわけ政治資金規正法の虚偽記載罪においては、「虚偽」の意義をめぐり犯罪構成要件が明確性を欠き、その解釈・あてはめに疑義があること、そもそも法律自身が政治活動に対する行政による干渉について抑制的であるべきことを謳い、政治活動への配慮を要請している。この事情に加えて、西松事件は検察の権限行使が国民の政治的選択に少なからぬ影響を与えることが容易に予見される案件であった。このような事案では、直接的な民主的正当性を持たない検察官がその権限行使に踏み切るにあたっては、幾重にも慎重な考慮がなされることが求められており、通常の刑法犯とは同列に論じがたい面がある。本件のように重大な政治的影響のある事案について、単に犯罪構成要件を充足しうるという見込みだけで逮捕、起訴に踏み切ったとすれば、国家による訴追行為としてはなはだ配慮に欠けたとの謗りを免れないというべきであろう。逮捕・起訴を相当とする現場レベルでの判断があったとしても、法務行政のトップに立つ法務大臣は、高度の政治的配慮から指揮権を発動し、検事総長を通じて個別案件における検察官の権限行使を差し止め、あえて国民の判断にゆだねるという選択肢もあり得たと考えられる。
また、本当の意味で法務省と検察庁とが独立した官庁なのであれば、このような観点からなされる法務大臣の指揮権発動を、法務省が組織的に支えることは可能なはずである。いずれにせよ、本件を契機として、指揮権発動の基準について、改めて研究・検討がなされて然るべきであろう。
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読売新聞の渡辺記者がビデオの(50分19秒)から質問をしていて、この指揮権の問題にも触れている。
櫻井敬子学習院大学教授が(51分42秒)で答えているのだが、納得(理解)が出来なく森法相を突っついたような記事が出ていた。
どうゆう基準で指揮権発動を視野に入れるかという問題であり、与党が与党議員にするわけではなく、与党が野党の対して行なうことも視野に入れる可能性に書かれている。
尚、ビデオでは櫻井敬子学習院大学教授が答えている。
このビデオを見てから考えた場合、読売新聞の質問の仕方や記事の書き方の品のなさは否めない。
読売新聞の記事
指揮権発動言及「看過できない」…森法相が強い不快感
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090612-OYT1T00389.htm
(ここから)
指揮権発動言及「看過できない」…森法相が強い不快感
 森法相は12日の閣議後の記者会見で、西松建設の違法献金事件を受けて民主党が設置した第三者委員会の報告書で、法相の指揮権発動に言及したことについて、「看過できないものがある」と述べ、強い不快感を示した。
 法相は、民主党が東京地検の捜査を「国策捜査」と批判したことに触れ、「公党の姿勢として大いなる疑問を感じざるを得ない」と強調した。その上で、「私は検察に全幅の信頼を置いて、その独立性・中立性を尊重したい」と強調した。
(2009年6月12日11時26分 読売新聞)(ここまで)
「森さんも看過できない」なんて言っていいのかな?
政権交代が出来たら自民党批判が噴出すかも(笑
国民の約半数近くが、今回の西松事件での東京地検は信頼が出来ないとしているわけで、その意味でも、与党から野党への指揮権発動が行なわれたならば、民主党の政権交代は逆にすっ飛んでいたかも?
政府が、対政府側の人間を逮捕をさせることを逆指揮権というのであれば、このたびも逆指揮権ともとれる。
また考えようでは、自民党が下野をしても最悪の場合は、使用が可能になるわけである。それを考えると、自民党に知恵者が少なくなったのかも?
どうしても、第三者委員会の報告書が、受け入れないのであるならば、自分で資料を全て読んで報告書の裏をとりそして相違点を記事として書くべきであろう。
つまみ食いをしただけの記事しか書けないような新聞記者に給料をはらう新聞社が倒産をしようが、何をしようが読者は知った事ではないのだが、「押し紙」のように最終的には一般庶民から「搾取」をするような新聞社が「つまみ食いをした文章を使った偏向記事」を書くことは........如何なものか(爆
産経新聞も読売新聞もその上で反論をしたらいい。
第三者委員会の質問から逃げたヘタレ新聞社の産経は当然ながら、記者会見のビデオでの質問を聞いていて、どこかの国の首相も矜持が無いという話だが、読売新聞もその類だろうとしか思えない。
読売新聞社説に赤ペンを入れてみた♪
民主「西松」報告 検察・報道批判は的はずれだ
(6月11日付・読売社説)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20090610-OYT1T01223.htm
>これが第三者委員会の名に値する公正な報告なのか。はなはだ疑問と言わざるを得ない。
これが日本の大新聞社を名乗る新聞社の社説というのが、はなはだ疑問といわざるを得ない。
> 小沢一郎・前代表の公設第1秘書が逮捕・起訴された西松建設違法献金事件を受けて、民主党が設置した有識者4人による第三者委員会が報告書を発表した。
世界一の発行部数を誇る新聞社でありながら、政府にべったりの御用新聞である読売新聞が、野党に対してのイチャモン社説を書いた。
> 検察当局や報道機関への批判に重点を置き、小沢氏の説明不足には軽く触れただけ――という印象がぬぐえない。
検察当局や報道機関への批判を出来るだけ触りたくは無いという新聞社の思惑が見えただけ――という印象がぬぐえない
> さらに、法相に捜査中止の指揮権発動を求めるかのような表現も盛り込まれている。一方的に小沢氏の側に立った報告書と言われても、仕方あるまい。
さらに、法相に会見の内容を正確には伝えず捜査中止の指揮権発動を求めるかのような表現も盛り込まれているという虚偽を伝えている。
一方的にマスコミの側に立った社説と言われても、仕方あるまい。
> 民主党の対応については、小沢氏の政治家個人の立場と、政党の党首としての立場を切り離さずに対応した「危機管理の失敗」と指摘するにとどまった。
民主党の対応については、小沢氏の政治家個人の立場と、政党の党首としての立場を切り離さずに対応した「危機管理の失敗」と指摘するにとどまってはいるが、マスコミが切り離せないような記事を書いたことは、載せずにいてくれた。
> 的はずれもいいところだ。小沢氏に持たれた疑惑の核心部分はもっと別のところにある。
 的はずれもいいところだ。小沢氏秘書逮捕に持たれた疑惑の核心部分はもっと別のところにある。
> 秘書が西松建設幹部と相談し、ダミーの政治団体からの献金額や割り振り先を決めていたとして、検察当局は悪質な献金元隠しと認定した。
秘書が西松建設幹部と相談し、ダミーの政治団体からの献金額や割り振り先を決めていたとして、検察当局は悪質な献金元隠しと認定し、斡旋利得まで持ち込もうとしたが、無理だった。
> 小沢氏はこれまで、「献金の出所は知る術(すべ)もないし、詮索(せんさく)することはない」「秘書に任せていた」などと繰り返してきた。
小沢氏はこれまでアホなマスコミにあげ足を取られないために「献金の出所は知る術(すべ)もないし、詮索(せんさく)することはない」「秘書に任せていた」などと繰り返してきた。
> だが、同様に献金を受けた他の与野党議員と比べても巨額だ。出所や趣旨を吟味するのは、政治家として当然の責任だろう。
だが、同様に献金を受けた他の与野党議員と比べても巨額だとおもったが、年に直すと3000万であり巨額といえるかどうかは、わからない。出所や趣旨を吟味するのは、政治家として自民党議員をはじめ当然の責任だろう。
> 小沢氏は今なお、疑惑に正面から答えようとしていない。代表辞任で、国民が求める説明責任を免れることはできない。
小沢氏は今なお、裁判を控えているために疑惑とされる嫌疑に答えることは法律上不可能である。代表辞任で、国民が求める検察の説明責任を免れることはできない。
> 委員会も、小沢氏から事情聴取したが、小沢氏は「資金をどう捻(ねん)出(しゅつ)したか尋ねるのは失礼」と従来の主張を繰り返しただけだった。委員が突っ込んだ質問をしたようには見受けられない。
委員会も、小沢氏から事情聴取したが、小沢氏は「資金をどう捻出するかは献金を行なう側の事情」と従来の主張で一貫していた。郷原委員が突っ込んだ質問をしたようだが法的な問題点は見つからなかった。
> 鳩山代表は、こんな報告書で、今回の問題に幕を引けると思っているのだろうか。既に保釈されている秘書から事情を聞き、事実関係の解明に取り組むこともできるはずである。
鳩山代表は、この報告書で、今回の問題に幕を引く気は無いだろう。
既に保釈されている秘書から事情を聞き、事実関係の解明に取り組みマスコミの偏向・虚偽報道を告発をしていくことも出来るはずである。
> これから西松事件の公判が始まる。報告書が疑問点として挙げたことは、検察も公判の中で丁寧に答えていく必要がある。
これから西松事件の公判が始まる。報告書が疑問点として挙げたことは、検察も公判の中で丁寧に答えていく必要があり、もし「無罪」の判決が出た場合は、検察・マスコミは腹を切るべきであろう。
> 報道のあり方について、報告書は「検察情報に寄りかかった報道」などとしている。
報道のあり方について、報告書は「検察情報に寄りかかった報道」などしないことにしていたのだが、この点は、ニューヨークタイムズがバラしたおかげで弁解の余地はない。
> しかし、報道機関は、検察当局だけでなく、さまざまな関係者への取材を積み重ねている。客観的かつ正確な報道を期すためだ。批判は当たらない。
しかし、報道機関は、検察当局だけでなく、政府高官や仕事をくれる関係者への取材を重ねている。その身内の中では客観的かつ正確な報道を期すためだ。批判は当たらない。
(2009年6月11日01時51分 読売新聞)

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