2007年12月31日月曜日

【沖縄密約】 吉野文六

2007年だと記憶をしているのだが、朝日新聞の「逆風満帆」に掲載された吉野文六氏のインタビュー。
「逆風満帆」


■沖縄返還密約を証言

 新聞は英字紙を含めて3紙。米誌「ニューズウィーク」「ニューヨーカー」にも目を通す。週2回の囲碁と月2回のゴルフ。壁にかけたカレンダーは震えるような文字で埋まっている。

 「このところ、メディアの人たちがひっきりなしに訪ねてくるからねえ」

 35年前、沖縄返還交渉にあたった元外務省アメリカ局長の吉野文六(88)は、ぼやくように口元をゆるめた。
 横浜市内にある自宅には新聞記者だけでなく、大宅壮一ノンフィクション賞作家の佐藤優も通ってくる。

 米寿を迎えて、なお忙しいのには理由がある。

 昨冬、沖縄返還で日米間に密約があった、と証言した。協定には、米軍が使用していた土地の原状回復補償費400万ドルを米側が支払うと記されているものの、実際は日本側が肩代わりしていた――。かつて外務省機密漏洩(ろうえい)事件と呼ばれた事件の焦点だった。

 すでに00年と02年に発掘された米公文書で裏づけられている。しかし日本政府は一貫して否定してきた。その密約を、交渉の最高責任者として初めて認めたのだ。

 北海道新聞のスクープを追いかけるように、メディアが一斉に押し寄せた。

 「密約、密約っていうけどね、外交交渉はみんな密約なんですよ」

 駐ドイツ大使などを歴任し、勲一等瑞宝章も受けた元外務省高官の突然の告白。だが、政府は根拠を示すことなく打ち消した。

 「まあ、オフィシャルには認められないでしょうなあ」

 吉野には怒りどころか力みさえない。明かせない秘密を嘘(うそ)で塗りつぶすのは、かつての自分の姿でもあった。

■「嘘」を重ねた35年前

 沖縄返還の調印式が1カ月半後に迫っていた。

 72年3月27日。衆院予算委員会で、当時、社会党議員の横路孝弘が、外務省の秘密電信文のコピーを読み上げた。

 〈米側は財源の心配までしてもらって多としている〉
 〈問題は実質ではなくAPEARANCE(見せかけ)である〉

 これは素人の作文じゃない。いや、本物だ。吉野は動揺を隠して答弁に立った。

 「その文書を一応見せていただきまして、調べまして、あしたお答えいたします」

 吉野はすぐに自民党の議院運営委員長に相談した。

 「君はほんとうに世間知らずだね。外務省の電報なんぞは前からこんなに来ているんだよ」

 書類を積み上げるしぐさで笑われた。

 とはいえ、これが本物となれば、密約はないとしてきた佐藤内閣は揺らぎ、沖縄返還も覆りかねない。

 別室で、社会党議員と文書を突き合わせた。コピーは確かに本物の写しだ。見ると、決裁欄には審議官より上の人のサインがなかった。

 直後に、審議官付きの女性事務官が漏洩を認めた。毎日新聞政治部記者の西山太吉(75)に秘密電信文を渡し、それが社会党へ流れたのだ。2人は国家公務員法違反の疑いで逮捕された。

 〈情を通じ〉

 検察が起訴状にそう書き込むと、報道は一転、男女スキャンダルに染まった。

 「あれで、助かった」

 吉野は検察の事情聴取に、交渉中のことは一切機密だから国会でも否定すると言い、法廷でも偽証を重ねた。
 「とにかく私の仕事は、沖縄返還協定を国会で批准させること。それがすべてでした。だから、あとは野となれ――というような心境でね」

 一方、西山は新聞社をやめ、78年に最高裁で有罪が確定する。ペンは奪われ、密約は葬られた。

 それから四半世紀。05年春、西山は密約を否定しつづける政府を相手取り、謝罪と損害賠償を求めて提訴した。国と刺し違える覚悟だった。

 9カ月後、敵であるはずの吉野が突然、口を開いた。

 「べつに彼の裁判を後押ししようとか、申し訳ないという気持ちがあったわけではないんです」

 何に動かされたのか。吉野は今も言葉にしない。ただ、全てをうちあける直前に、61年連れ添った妻を亡くしていた。

■認知症の妻亡くして

 06年、正月明けの朝だった。妻の呼吸がうなるような音に変わった。

 「ゴーーゴーー」

 元外務省アメリカ局長の吉野文六(88)はベッドに歩み寄った。妻は介護する夫も見分けがつかない。認知症になって7年、ほどなく荒い息が途絶えた。86歳だった。

 11日後、北海道新聞の記者が訪ねてきた。

 妻のいない居間で、沖縄返還をめぐる米公文書を示された。1行ずつ確かめるように活字を追うと、末尾に手書きの文字があった。
 〈B.Y〉
 35年前、自分が書いたサインだった。直後に、吉野は真相を語り始めた。

 それなのに、こう言う。
 「私が話したのは妻の死とは関係ありません」
 前年に元毎日新聞記者の西山太吉(75)が起こした裁判の影響でもない、と。

 理由を語らない代わりとでもいうように、吉野はある冊子を取り出した。
 〈吉野文六 オーラルヒストリー〉。政策研究大学院大学が立ち上げた、歴史学者による聞き取り調査プロジェクト。99年に語った言葉が記されていた。

 〈うまくごまかして「交渉内容だから話せません」とか何とか言っていればいいんだけどね〉

 〈「そんなことは一切ありません」と言って否定したわけですから、相当国会に対しては嘘(うそ)を言った〉

 吉野は妻の死より7年も前に証言していたのだ。公表が前提ではなく、歴史を記録するためにと請われて応じたという。

 確かに、吉野は「歴史の目撃者」だった。

 外務省に入った翌41年、語学研修のためにドイツへ渡った。まもなく独ソ戦争が始まり、ユダヤ人排斥を目の当たりにする。

 目抜き通りでは商店が打ち壊され、服には「黄色い星」を縫いつけさせられ、いつしか強制連行の噂(うわさ)が流れた。でも、集団虐殺を知ったのは戦後になってからだった。

 ハイデルベルクやミュンヘンを回る3年間の研修後、ベルリンの日本大使館に勤めた。最初に覚えたのが暗号解読と電信文の扱いだった。

 45年5月、首都陥落。大使館にソ連兵が押し寄せ、機関銃を突きつけられた。
 「女はいるか」
 「いや、いるはずがない」
 実際は、地下壕(ちかごう)にタイピストのユダヤ人女性2人を匿(かくま)っていた。入り口は絨毯(じゅうたん)で覆い隠してある。ソ連兵は乱暴に館内を見回ると、酒や万年筆を奪って去っていった。
 その後、吉野はドイツから脱出する。着のみ着のまま、モスクワ経由で鉄道に揺られた。4人用コンパートメントに9人詰め込まれ、黒パンで飢えをしのいだ。旧満州(中国東北部)へ向かう途中、ヒトラーの自殺を知った。

■敗戦前、焦土に帰国

 帰国は8月1日。ハルビン発の直行便で羽田空港に降り立った。空が広い。一面が茶と黒の焼け野原だった。
 吉野には会いたい人がいた。シドニー生まれで英語を操る、貿易商の娘。大学時代に参加した日米学生会議で知り合い、上野の美術館に何度か行った。ドイツからは手紙も書かなかったが、横浜の家に直行した。

 「結婚しよう」
 5年ぶりの再会で告げた。

 2人は吉野の故郷・長野で式をあげた。外交官になれと言ってくれた弁護士の父は、5カ月前に亡くなっていた。

数日前、広島と長崎に原爆が落とされた。式を終えると、吉野は役場に出向いた。

 「帰ってきました。私を兵隊にとってください」

 東大在学中に外務省に入ったため「徴兵延期」になっていた。高校の同級生は多くが戦場に散った。自分だけ逃げるわけにはいかない。

 ドイツでは連日の空襲をくぐり抜け、大使館に1トン爆弾が落ちたこともある。
 「そのときは、そのとき」
 不思議とそう思うようになっていた。
 だが、役場の職員は手続きをしない。まもなく玉音放送が流れた。

 敗戦の翌年、条約局法規課に配属された。最初の仕事は翻訳だった。
 〈subject to MacArthur〉
 連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で、マッカーサー元帥と天皇の関係をどう訳すべきか。議論を重ねた。
 新憲法の公布より1カ月早く、長女が生まれた。
 「夜明けを迎えた日本にも朝が来るように」
 祈るような思いで、朝子と名づけた。

■「ニンジャがいる」

 振り返れば、あれが分かれ道だった。
 戦後まもなく、外務省条約局法規課にいた吉野文六(88)は、商工省から改組される通産省(現経済産業省

)へ出向したい、と申し出た。

 「外務省を出たら、事務次官にはなれないぞ」
 上司から反対された。
 でも、これからは貿易だ。面白い仕事がしたい。出世は二の次だった。
 通産省で3年働き、外務省では経済畑を歩む。日本の高度経済成長とともに、表舞台がめぐってきた。

 68年、ワシントンの駐米大使から電話を受けた。

 「ぜひ、君にきてもらいたいんだが」
 駐米公使として3度目のアメリカ赴任。当時としては珍しく、かならず家族を連れて行った。
 「でも、ワシントンは嫌いでね。刺激的だけど仕事漬けになっちゃうから」
 仕事だけに塗りつぶされまい。その感覚が、晩年に古巣を裏切る形での告白につながったのだろうか。

 当時のアメリカは揺れていた。キング牧師暗殺、ベトナム反戦運動、そして翌年、ニクソン政権が誕生する。

 吉野は、繊維製品の輸出自主規制を求める米側との間で日米繊維交渉を担った。折衝には、大統領補佐官

のH・キッシンジャーも同席した。

 「ブン、うまくやってくれよ。ニクソンが『早くまとめろ』と言ってるんだ」

 吉野が外務省派遣で米ハーバード大に留学したときの教官はニヤリと笑った。
 とはいえ交渉はこじれた。

 70年12月、吉野は通産省繊維局の了解をえて米側と合意にこぎつけるものの、翌日、官邸に覆された。それ

が2度続いた。何かおかしい。米国務次官補がささやいた。
 「ニンジャがいるらしい」

 首相の佐藤栄作は米大統領との間でひそかに対米輸出規制に合意し、密使を動かしていた。その裏交渉の相手がキッシンジャーだった。そうわかるのは後のことだ。

 繊維問題が片づけば、沖縄返還交渉での切り札がなくなる。だから、官邸は合意を引き延ばしている――。
 「糸(繊維)と(沖)縄の取引」との噂(うわさ)が広まり、交渉は暗礁に乗り上げた。

■蚊帳の外に置かれた

 翌71年、吉野は東京へ呼び戻された。繊維交渉に代わり、大詰めの沖縄返還交渉を担当する。

 「アメリカ局長の仕事は、協定を国会で批准させること。『落ち穂拾い』ですよ」
 ところが、その前に小さな棘(とげ)が残っていた。

 沖縄返還に伴う費用として、米側に計3億2000万ドルを支払うという大蔵省(現財務省)案を示された。

 「我々の知らんところで決められても知らんよ」
 突き返したが、覆らない。

 米軍用地の原状回復補償費400万ドルの問題が最後まで残った。
 米側はベトナム戦争の戦費負担に苦しみ、これ以上1ドルの支出も議会が認めない。
 日本側は沖縄をカネで買ったとの印象を与えたくない。
 調印の8日前、米側が秘策を持ち出してきた。
 「19世紀末の信託基金法という法律があるんです」
 400万ドルは日本が支払い、米国はそれを基金として、沖縄の地権者に補償する。ただし、協定には「米国が自発的に支払う」と記す。そうすれば日本の肩代わりは表ざたにならず、米政府も議会への説明が成り立つ――。

 こうして、日米間のねじれを解消する密約が編み出されたのだった。

 米公文書によれば、佐藤・ニクソンが沖縄返還を発表する69年秋までに、日本の大蔵省と米財務省が財政支出について合意していた。この時点で、返還の枠組みは決まっていたのだ。外務省は蚊帳の外に置かれていた。

 沖縄返還20周年にあたる92年、関係者が沖縄に招かれた。那覇へ向かう機内で、吉野は北米1課長だった千葉一夫の席に歩み寄った。

 「国会での答弁はあれでよかったかなあ」

 どこかで気になっていた。漏洩(ろうえい)した秘密電信文を起案し、交渉の実務を担った部下から、答えらしい答えは返ってこなかった。04年、千葉は鬼籍に入った。

 外務省退官後、吉野は勲一等瑞宝章を受けた。功績のなかで、もっとも大きな仕事は沖縄返還だった。しかし、苦い記憶しか残っていない。

 「結局、佐藤(栄作)さんが、きれいごとをやろうとしすぎたんです」

■再び真相のみこんだ

 新緑の朝、吉野文六(88)は郵便物の封を切った。なかに一冊の本がある。

 〈あの「事件」から35年 いま、全貌(ぜんぼう)が白日の下に!〉

 帯の文句が目に入った。元毎日新聞記者の西山太吉(75)が書いた「沖縄密約――情報犯罪と日米同盟」。

5月末の発売翌日、岩波書店の編集者から送られてきた。

 ページをめくると、沖縄返還をめぐる財政取り決めの虚構があぶりだされ、変質する日米軍事同盟にも触れられていた。

 すべてに同意したわけではなかったが、戦略なき外交への危機感に通じる思いがあった。吉野はペンを取った。
 〈西山さんが書かれているとおりだと思います〉
 文面を編集者から伝え聞くと、西山は言った。
 「書いて、よかった」

 かつて、ふたりは一度だけ食事をしたことがある。神田あたりの天ぷら屋だった。

 71年秋、西山が外務省から自民党の担当に変わる直前、吉野が送別の席を設けたのだ。異例のことだった。
 「政治家におもねらずにネタをとる。デキる記者という印象でしたね」

 再び顔を合わせたのは翌年12月、場所は東京地裁701号法廷だった。
 吉野は検察側証人として、被告席に座る西山の前に進み出た。当時の新聞が「(外務省機密漏洩(ろうえい)事件審理のハイライト」と位置づけた場面で、淡々と偽証を重ねた。

 78年、最高裁で西山の有罪が確定する。

 駐独大使だった吉野は、その知らせを聞いた覚えがない。西山の名前を思い出すのは22年後のことだ。

 00年5月、外務大臣の河野洋平から電話が入った。懐かしい声だった。外務省を退いた一時期、若き総理候補だった河野を囲む会に顔を出していたことがある。

 沖縄返還をめぐる密約を裏づける米公文書が見つかった、と近く朝日新聞が報じる。その前にコメントを求めてくるという。

 「これまでどおり(密約を否定する)ということで、お願いします」

 河野はかつて、自民党所属ながら弁護側証人としてメディアの重要性を訴えていた。外務大臣となり一転、真実を語るなという。

 吉野は前年、非公式ながら学者の聞き取り調査に密約を認めていた。しかし、逆らわずに真相をのみこんだ。

 密約否定の要請について、衆院議長の河野は「記憶にない」という。

 02年には、別の米公文書が発見された。外務大臣の川口順子は00年の吉野発言を持ち出して、密約はないと押し通した。

■「西山さんは偉大だ」

 ところが4年後、吉野は突然、発言を覆した。

 「あのときは、河野さんから口止めされたんです」

 400万ドルの密約につづく新証言。政府が唯一のよりどころとしてきた密約否定の根拠が失われた。
 堰(せき)を切って真実を語りはじめたように見えるものの、特別な理由があるわけではないという。

 「400万ドルなんて、沖縄返還全体からすれば小さな話でしょ」
 とはいえ、その400万ドルをめぐる嘘(うそ)により、西山が記者人生を絶たれたのは確かだ。

 「裁いたのは私ではなく、裁判官ですから」
 後ろめたさはない。だから西山が起こした裁判を後押ししようとの思いもなかった。

 ただ、と吉野はいう。
 「西山さんは偉大だと思いますよ」

 みずからを欺いた国に嘘を認めさせようという執念。歴史をありのままに記録させようという正義感。それによって自分の存在を認めさせたいという欲――。

 「そのすべてを含めて、ひとり素手で国と戦っているんですから」

 政府が嘘をついて密約を結んだという本質がすり替えられたという意味で、西山は「沖縄密約事件」と呼ぶ。
 一方、吉野にとってはいまも、「外務省機密漏洩事件」にすぎない。

 立ち位置は異なるものの、それでも重なる言葉がある。

 「沖縄返還は美化されて伝えられてきた。でも内実は違った。そのゆがみがいまも沖縄に燻(くすぶ)っているんです」

 あの701号法廷から35年、ふたりが直接顔を合わせたことはない。

 「会うと(メディアが)騒がしくなるからねぇ。落ち着いたら、いつかね」
 吉野の目元に皺(しわ)が寄った。

(諸永裕司)

〈よしの・ぶんろく〉 1918年、長野県生まれ。40年、外務省入省。47年、東大卒。71年、アメリカ局長とし

て沖縄返還交渉を担う。その後、駐独大使などを経て82年に退官。90年、勲一等。06年、「沖縄返還で密約あり」と証言した。

2007年9月29日土曜日

【雑誌記事】 週刊現代(安倍晋三)

週刊現代9月29日号
緊急ワイド
史上最低の「無責任な官邸」全真相

突如辞任を発表、翌日には緊急入院―「安倍首相をここまで追い込んだ」と、発売前から永田町、メディアを騒然とさせたのは、本誌のこのスクープだ。


週刊現代9月29日号 P26~30
(1)本誌が追い詰めた安倍晋三首相「相続税3億円脱税」疑惑
     亡き父・晋太郎の「遺産」6億円と“出資者不明”の巨額献金
                   ジャーナリスト 高瀬真実と本誌取材班

発売前から永田町は騒然

「なぜ参議院選挙大敗の責任を取らなかったのに、内閣改造のおわったいま辞任
するのか」
「インド洋の給油活動延長に職を賭す、といっていたのに逃げではないのか」
「所信表明をした直後で辞めるのは前代未聞」

 9月12日午後2時より開かれた安倍晋三首相(52歳)の記者会見では、本会議の直前までやる気を見せていた首相が突然、心変わりした理由は何か、納得のいかない記者たちから質問が相次いだ。しかし、最後まで首相は納得のいく説明ができなかった。

 その同日、首相の辞任を知らせる毎日新聞夕刊は、その辞任理由を「今週末発売の一部週刊誌が安倍首相に関連するスキャンダルを報じる予定だったとの情報もある」とー面で報じた。一部週刊誌とはいささか失礼な表現ではあるが、社会面にははっきり『週刊現代』と名前が出ている。

 そう、安倍首相を辞任に追い込んだスキャンダルとは、本誌が9月12日中に回答するように安倍事務所に質問をつきつけた「相続税3億円脱税疑惑」のことなのである。政治団体をつかった悪質な税金逃れの手口を詳細に突きつけられて首相は観念したというわけだ。

 実は、本誌は安倍首相の政治団体に関してー年にわたる徹底調査をしてきた。そのキッカケは、ベテランの政治記者から聞いたあるウワサだった。

 「安倍首相の父親である安倍晋太郎外相(当時)は総理総裁を目指して巨額の資金を用意していた。ところが闘病の末の逝去でそれが宙に浮いてしまった。そのカネはいったいどこへ行ってしまったのだろうか。晋三氏への相続に不透明なところが、あるのではないか」

 晋太郎が率いた安倍派時代を知る自民党のある古参秘書に、この語をぶつけたところ声をひそめていった。

 「'91年5月に父親が亡くなったときは、まだ中選挙区制なので補選はなく、'93年7月に総選挙で初当選するまで晋三さんは、秘書を解雇したり事務所も滅らしたり、リストラに大変だった。『なかなか政治資金が集まらない』と金庫番の秘書がよく派閥の事務所に相談に来ていました。晋太郎氏の派閥を引き継いだ三塚派会長(当時)の三塚(博)さんが見るに見かねて、お世話になった晋太郎さんの三回忌を兼ねた励ます会を計画して、派閥ぐるみでパーティー券を売ったのです。それが、フタを開けたら晋三さんが集金カトッブですからね。派閥の秘書仲間たちはみんなひっくり返りました」

 そのパーティーとは、'93年4月15日、首相の指定団体(当時)の「晋和会」が赤坂ブリンスホテルで開いた「安倍晋太郎先生を偲び安倍晋三君を育てる会」だ。2万円のパーティー券を1万4766人に売り、2億9636万円の収入があった。費用5300万円を差し引いて2億4300万円余りのボロ儲けだ。

 しかし、ベテラン秘書が腰を抜かしたのは、それだけではなかった。

 安倍首相が初当選した'93年、「晋和会」と「緑晋会」という二つの政治団体だけで、その収入は9億1067万円。新人議員でありながら、2位の橋本龍太郎政調会長(当時)らを抑えて、集金力で政界トップに立ったのだ。細川政権の誕生で自民党が野党に転落し、ベテラン議員もカネ集めに四苦八苦する中で、その突出ぶりは際立った。

 この年から始まった政治団体の資産公開でも、安倍首相は預金6億8949万
円で、金満家で有名な糸山英太郎衆院議員一当時)らに次いでいきなり4位にラ
ンクされている。

 そのカラクリは何か。当時注目を集めたのは、前述の「緑晋会」という団体だ。
'93年の収支報告書では、年間収入4億9595万円の93.8%にあたる4億6508万円の内訳が、1件あ
たり100万円以下のため「献金者を明示しない企業団体献金」として記載され
ていたのである。

 4億円以上もの献金者とは誰か。企業献金が集まらないと一言っていた安倍事務
所にふってわいた巨額献金の出所をめぐって、「安倍晋太郎の隠し資産が出てき
た」(ベテラン秘書)というウワサが駆け巡ったという。

 晋太郎氏から晋三氏への相続に政治団体が悪用されているのではないか――。この疑惑にせまるべく、本誌はあらためて安倍ファミリーの政治団体をすべて洗い直すことにした。

節税術をフル活用

 安倍首相が神戸製鋼所を辞めて、第一次中曽根内閣で外相に就任した父の大臣秘書官になったのは、'82年12月6日のこと。ポスト中曽根をニューリーダーの「安竹宮」(安倍晋太郎、竹下登、宮澤喜一の三氏)で争い始めたころだ。

「晋太郎先生は、派閥の事務所に来ては『晋三を頼むよ』と。もう後継は決まりだと誰もが思いましたね」
 清和会のベテラン秘書が当時を振り返る。

 秘書官当時、安倍首相は父の外遊にいつも同行し、帝王学を徹底的に叩き込まれた。そして、外相だった父が息子に遺したものは、政治や外交にあたるものが身につけるべき教訓だけではなかった。

 大手新聞の当時の番記者はいう。
「旧制6高(現・岡山大学)OBの財界人でつくる『六晋会』や『化学晋和会』『住宅晋和会』などの業種別後援会や、派閥の議員の地元に作られたという『千葉晋和会』『岡山晋和会』などの地方後援会。ニューリーダーと呼ばれるにふさわしく、政治活動の基盤を支える政治団体の数も当時の議員でトツプでした」

 本誌は、当時の関係者の証言をもとに、全国の収支報告書を集め、連結収支報告書を作り、分析した。その結果、多数の政治団体を使った驚くべき資産相続の実態が明らかになった。

 故安倍晋太郎氏は、晋三氏を外相秘書官にした'82年から病没する'91年までの10年間に、自らの政治団体である「晋太郎会」に2億5985万円、「晋和会」に2億5897万円、「夏冬会」にー億1940万円、3団体合計で6億3823万円もの巨額の個人献金をしていた。

 3つの団体はいずれも「指定団体」である。指定団体とは当時の政治資金規正法に則って届け出をした政治団体のことで、政治家はこの指定団体に寄付すると、その額に応じて所得控除を受けることができた。しかも控除額は青天井だったのである。

 晋太郎氏は、政治家にしか使えないこの所得控除制度をフルに活用していたのだ。これだけの巨額の個人献金をする一方で、自らの申告所得額は極端に少なかった。同じ10年間で1000万円以上の高額納税者名簿に掲載されたのは、病気療養中の'90年の納税額3524万円、わずか一度だけだった。その間に6億3000万円以上も献金をしているのに、である。

 そして問題なのは、この政治団体がそのまま息子の晋三に引き継がれ、相続税逃れに使われたことだ。

 晋太郎時代から安倍事務所に出入りしていた全国紙の記者は言う。

「晋太郎先生のときは、議員会館裏にある『TBR永田町』と『山王グランドビル』にそれぞれ個人事務所があり、赤坂ブリンスの派閥事務所とあわせて3ヵ所に金庫番の秘書がいました。さらにそれぞれの金庫番が管理する政治団体が、地方もふくめていくつもあったのです。
 晋三さんはそれをそのまま引き継ぎました。代替わりしてからは、『TBR』の事務所は閉めて、親父の代の金庫番は全員解雇しました。金庫番を一人にするために、政治団体もかなり整理しましたが……」

 実際に本誌で調べたところ、安倍晋太郎氏の生前に作られた「安倍系団体」と呼ぶべき団体は、タニマチ的なものも含めて、66団体にものぼった。さらに調べると、晋太郎氏は'91年5月に亡くなっているが、その直前の'90年末時点で、それらの団体には合計で6億6896万円もの巨額の繰越
金があった。

 安倍首相は父親の死後、政治団体を引き継ぐのと同時にそれら巨額の繰越金をもそっくり引き継いだのである。調べてみると、父の死の直後、'91年末時点では22団体が解散し、44団体になっている。資金残高も4億円余りに滅ってはいる。ところが、解散などに伴って整理された資産などの行方を追っていくと、どこに献金したかが不明になっている「消えた寄付金」が、合計で1億8522万円もあったのだ。2億円近い巨額なカネはいったいどこに消えてしまったのか。

国税幹部は「脱税」と断言


 繰り返しになるが、これらの「消えた寄付金」を含めると、首相は、亡父が政治団体に寄付した6億円の個人献金を政治団体ごとそっくり相続したことになるのだ。

 安倍首相は、これまで主な相続資産は、山口県長門市の実家と下関市の自宅のみとしてきた。相続した'91年以降の高額納税者名簿には首相の名前はない。

 政治団体に投じられた6億円の献金が、そのまま晋三氏に渡っていれば、これは政治活動に名を借りた明白な脱税行為ではないのか。

 財務省主税局の相続税担当の幹部に、連結収支報告書の数字を示しながら聞いた。政治団体を通じた巨額の資産相続に違法性はないのか?

「政治団体に個人献金した資金が使われずに相続されれば、それは相続税法上の課税対象資産に該当します。政治団体がいくつもある場合は、合算した資産残高のうち献金された分が課税対象になります。たとえ首相でも、法律の適用は同じです」

 そう説明した幹部は、連結収支報告書の数字を見比べてきっぱり言った。

「この通りなら、これは脱税ですね」

 仮に、政治団体を通じて相続した遺産が6億円とすれば、当時の税制ではー億円以上の最高税率50%が適用されて、相続税額は約3億円になる計算だ。

 もちろん、税法上は相続税の脱税の時効は最大で7年。首相が罪に問われることはない。しかし、これまでー億円以上の脱税は、政治家でも逮捕されてきた。重大な犯罪であることに変わりはない。

 主税局幹部は、個人的な意見と断って、こう言った。

「本来は、国税庁がきちんと見つけておくべき問題ですが、時効になった今は、税法上の徴税はできません。しかし、財政の窮状を行政の長として考えて、ぜひ時効の利益を放棄して、自発的に納税していただきたいですね」

 政治資金を国に寄付することは、公職選挙法で禁止されているが、過去に未納分の納税をする場合は、適用外なのだという。

 実は先の「緑晋会」は、'97年に名称を「東京政経研究会」と変えて今も平河町の首相の個人事務所として機能している。'05年末時点の東京政経研究会の預金残高は3億円ある。3億円の納税にちょうど困らない。

 本誌は政治資金報告書などから作成した資料を示したうえで、安倍事務所にこの相続のカラクリを指摘し、どのような処理をしたのか、脱税ではないのか、というA4にして5枚の質問状を送った。そして回答期限が迫った12日の午後2時、安倍首相は突然、辞任を表明したのである。しか
し、いまもって質問状への回答はない。

 内閣改造に際して、首相は「政治とカネに関して十分な説明ができない閣僚は去ってもらう」と言い放った。その言葉が自らにはねかえってくるとは、安倍首相もゆめゆめ思ってはいな
かったのだろう。(了)

2007年9月14日金曜日

「相続税3億円脱税」疑惑


週刊現代929日号 
緊急ワイド
史上最低の「無責任な官邸」全真相

突如辞任を発表、翌日には緊急入院―「安倍首相をここまで追い込んだ」と、発売前から永田町、メディアを騒然とさせたのは、本誌のこのスクープだ。

週刊現代929日号 P2630
(1)本誌が追い詰めた安倍晋三首相「相続税3億円脱税」疑惑
     亡き父・晋太郎の「遺産」6億円と“出資者不明”の巨額献金

                   ジャーナリスト 高瀬真実と本誌取材班

発売前から永田町は騒然
「なぜ参議院選挙大敗の責任を取らなかったのに、内閣改造のおわったいま辞任
するのか」
「インド洋の給油活動延長に職を賭す、といっていたのに逃げではないのか」
「所信表明をした直後で辞めるのは前代未聞」

 912日午後2時より開かれた安倍晋三首相(52)の記者会見では、本会議の直前までやる気を見せていた首相が突然、心変わりした理由は何か、納得のいかない記者たちから質問が相次いだ。しかし、最後まで首相は納得のいく説明ができなかった。
 その同日、首相の辞任を知らせる毎日新聞夕刊は、その辞任理由を「今週末発売の一部週刊誌が安倍首相に関連するスキャンダルを報じる予定だったとの情報もある」とー面で報じた。一部週刊誌とはいささか失礼な表現ではあるが、社会面にははっきり『週刊現代』と名前が出ている。
 そう、安倍首相を辞任に追い込んだスキャンダルとは、本誌が912日中に回答するように安倍事務所に質問をつきつけた「相続税3億円脱税疑惑」のことなのである。政治団体をつかった悪質な税金逃れの手口を詳細に突きつけられて首相は観念したというわけだ。
 実は、本誌は安倍首相の政治団体に関してー年にわたる徹底調査をしてきた。そのキッカケは、ベテランの政治記者から聞いたあるウワサだった。
 「安倍首相の父親である安倍晋太郎外相(当時)は総理総裁を目指して巨額の資金を用意していた。ところが闘病の末の逝去でそれが宙に浮いてしまった。そのカネはいったいどこへ行ってしまったのだろうか。晋三氏への相続に不透明なところが、あるのではないか」
 晋太郎が率いた安倍派時代を知る自民党のある古参秘書に、この語をぶつけたところ声をひそめていった。
 「'915月に父親が亡くなったときは、まだ中選挙区制なので補選はなく、'937月に総選挙で初当選するまで晋三さんは、秘書を解雇したり事務所も滅らしたり、リストラに大変だった。『なかなか政治資金が集まらない』と金庫番の秘書がよく派閥の事務所に相談に来ていました。晋太郎氏の派閥を引き継いだ三塚派会長(当時)の三塚(博)さんが見るに見かねて、お世話になった晋太郎さんの三回忌を兼ねた励ます会を計画して、派閥ぐるみでパーティー券を売ったのです。それが、フタを開けたら晋三さんが集金カトッブですからね。派閥の秘書仲間たちはみんなひっくり返りました」
 そのパーティーとは、'93415日、首相の指定団体(当時)の「晋和会」が赤坂ブリンスホテルで開いた「安倍晋太郎先生を偲び安倍晋三君を育てる会」だ。2万円のパーティー券を14766人に売り、29636万円の収入があった。費用5300万円を差し引いて24300万円余りのボロ儲けだ。
 しかし、ベテラン秘書が腰を抜かしたのは、それだけではなかった。
 安倍首相が初当選した'93年、「晋和会」と「緑晋会」という二つの政治団体だけで、その収入は91067万円。新人議員でありながら、2位の橋本龍太郎政調会長(当時)らを抑えて、集金力で政界トップに立ったのだ。細川政権の誕生で自民党が野党に転落し、ベテラン議員もカネ集めに四苦八苦する中で、その突出ぶりは際立った。
 この年から始まった政治団体の資産公開でも、安倍首相は預金68949
円で、金満家で有名な糸山英太郎衆院議員一当時)らに次いでいきなり4位にラ
ンクされている。

 そのカラクリは何か。当時注目を集めたのは、前述の「緑晋会」という団体だ。
'93
年の収支報告書では、年間収入49595万円の93.8%にあたる46508万円の内訳が、1件あ
たり100万円以下のため「献金者を明示しない企業団体献金」として記載され
ていたのである。

 4億円以上もの献金者とは誰か。企業献金が集まらないと一言っていた安倍事務
所にふってわいた巨額献金の出所をめぐって、「安倍晋太郎の隠し資産が出てき
た」(ベテラン秘書)というウワサが駆け巡ったという。

 晋太郎氏から晋三氏への相続に政治団体が悪用されているのではないか――。この疑惑にせまるべく、本誌はあらためて安倍ファミリーの政治団体をすべて洗い直すことにした。
節税術をフル活用
 安倍首相が神戸製鋼所を辞めて、第一次中曽根内閣で外相に就任した父の大臣秘書官になったのは、'82126日のこと。ポスト中曽根をニューリーダーの「安竹宮」(安倍晋太郎、竹下登、宮澤喜一の三氏)で争い始めたころだ。
「晋太郎先生は、派閥の事務所に来ては『晋三を頼むよ』と。もう後継は決まりだと誰もが思いましたね」
 清和会のベテラン秘書が当時を振り返る。

 秘書官当時、安倍首相は父の外遊にいつも同行し、帝王学を徹底的に叩き込まれた。そして、外相だった父が息子に遺したものは、政治や外交にあたるものが身につけるべき教訓だけではなかった。
 大手新聞の当時の番記者はいう。
「旧制6高(現・岡山大学)OBの財界人でつくる『六晋会』や『化学晋和会』『住宅晋和会』などの業種別後援会や、派閥の議員の地元に作られたという『千葉晋和会』『岡山晋和会』などの地方後援会。ニューリーダーと呼ばれるにふさわしく、政治活動の基盤を支える政治団体の数も当時の議員でトツプでした」

 本誌は、当時の関係者の証言をもとに、全国の収支報告書を集め、連結収支報告書を作り、分析した。その結果、多数の政治団体を使った驚くべき資産相続の実態が明らかになった。
 故安倍晋太郎氏は、晋三氏を外相秘書官にした'82年から病没する'91年までの10年間に、自らの政治団体である「晋太郎会」に25985万円、「晋和会」に25897万円、「夏冬会」にー億1940万円、3団体合計で63823万円もの巨額の個人献金をしていた。
 3つの団体はいずれも「指定団体」である。指定団体とは当時の政治資金規正法に則って届け出をした政治団体のことで、政治家はこの指定団体に寄付すると、その額に応じて所得控除を受けることができた。しかも控除額は青天井だったのである。
 晋太郎氏は、政治家にしか使えないこの所得控除制度をフルに活用していたのだ。これだけの巨額の個人献金をする一方で、自らの申告所得額は極端に少なかった。同じ10年間で1000万円以上の高額納税者名簿に掲載されたのは、病気療養中の'90年の納税額3524万円、わずか一度だけだった。その間に63000万円以上も献金をしているのに、である。
 そして問題なのは、この政治団体がそのまま息子の晋三に引き継がれ、相続税逃れに使われたことだ。
 晋太郎時代から安倍事務所に出入りしていた全国紙の記者は言う。
「晋太郎先生のときは、議員会館裏にある『TBR永田町』と『山王グランドビル』にそれぞれ個人事務所があり、赤坂ブリンスの派閥事務所とあわせて3ヵ所に金庫番の秘書がいました。さらにそれぞれの金庫番が管理する政治団体が、地方もふくめていくつもあったのです。
 晋三さんはそれをそのまま引き継ぎました。代替わりしてからは、『TBR』の事務所は閉めて、親父の代の金庫番は全員解雇しました。金庫番を一人にするために、政治団体もかなり整理しましたが……」

 実際に本誌で調べたところ、安倍晋太郎氏の生前に作られた「安倍系団体」と呼ぶべき団体は、タニマチ的なものも含めて、66団体にものぼった。さらに調べると、晋太郎氏は'915月に亡くなっているが、その直前の'90年末時点で、それらの団体には合計で66896万円もの巨額の繰越
金があった。

 安倍首相は父親の死後、政治団体を引き継ぐのと同時にそれら巨額の繰越金をもそっくり引き継いだのである。調べてみると、父の死の直後、'91年末時点では22団体が解散し、44団体になっている。資金残高も4億円余りに滅ってはいる。ところが、解散などに伴って整理された資産などの行方を追っていくと、どこに献金したかが不明になっている「消えた寄付金」が、合計で18522万円もあったのだ。2億円近い巨額なカネはいったいどこに消えてしまったのか。
国税幹部は「脱税」と断言

 繰り返しになるが、これらの「消えた寄付金」を含めると、首相は、亡父が政治団体に寄付した6億円の個人献金を政治団体ごとそっくり相続したことになるのだ。
 安倍首相は、これまで主な相続資産は、山口県長門市の実家と下関市の自宅のみとしてきた。相続した'91年以降の高額納税者名簿には首相の名前はない。
 政治団体に投じられた6億円の献金が、そのまま晋三氏に渡っていれば、これは政治活動に名を借りた明白な脱税行為ではないのか。
 財務省主税局の相続税担当の幹部に、連結収支報告書の数字を示しながら聞いた。政治団体を通じた巨額の資産相続に違法性はないのか?
「政治団体に個人献金した資金が使われずに相続されれば、それは相続税法上の課税対象資産に該当します。政治団体がいくつもある場合は、合算した資産残高のうち献金された分が課税対象になります。たとえ首相でも、法律の適用は同じです」
 そう説明した幹部は、連結収支報告書の数字を見比べてきっぱり言った。
「この通りなら、これは脱税ですね」
 仮に、政治団体を通じて相続した遺産が6億円とすれば、当時の税制ではー億円以上の最高税率50%が適用されて、相続税額は約3億円になる計算だ。
 もちろん、税法上は相続税の脱税の時効は最大で7年。首相が罪に問われることはない。しかし、これまでー億円以上の脱税は、政治家でも逮捕されてきた。重大な犯罪であることに変わりはない。
 主税局幹部は、個人的な意見と断って、こう言った。
「本来は、国税庁がきちんと見つけておくべき問題ですが、時効になった今は、税法上の徴税はできません。しかし、財政の窮状を行政の長として考えて、ぜひ時効の利益を放棄して、自発的に納税していただきたいですね」
 政治資金を国に寄付することは、公職選挙法で禁止されているが、過去に未納分の納税をする場合は、適用外なのだという。
 実は先の「緑晋会」は、'97年に名称を「東京政経研究会」と変えて今も平河町の首相の個人事務所として機能している。'05年末時点の東京政経研究会の預金残高は3億円ある。3億円の納税にちょうど困らない。
 本誌は政治資金報告書などから作成した資料を示したうえで、安倍事務所にこの相続のカラクリを指摘し、どのような処理をしたのか、脱税ではないのか、というA4にして5枚の質問状を送った。そして回答期限が迫った12日の午後2時、安倍首相は突然、辞任を表明したのである。しか
し、いまもって質問状への回答はない。

 内閣改造に際して、首相は「政治とカネに関して十分な説明ができない閣僚は去ってもらう」と言い放った。その言葉が自らにはねかえってくるとは、安倍首相もゆめゆめ思ってはいな
かったのだろう。(了)

安倍晋三首相「相続税3億円脱税」疑惑


週刊現代929日号 
緊急ワイド
史上最低の「無責任な官邸」全真相

突如辞任を発表、翌日には緊急入院―「安倍首相をここまで追い込んだ」と、発売前から永田町、メディアを騒然とさせたのは、本誌のこのスクープだ。

週刊現代929日号 P2630
(1)本誌が追い詰めた安倍晋三首相「相続税3億円脱税」疑惑
     亡き父・晋太郎の「遺産」6億円と“出資者不明”の巨額献金

                   ジャーナリスト 高瀬真実と本誌取材班

発売前から永田町は騒然
「なぜ参議院選挙大敗の責任を取らなかったのに、内閣改造のおわったいま辞任
するのか」
「インド洋の給油活動延長に職を賭す、といっていたのに逃げではないのか」
「所信表明をした直後で辞めるのは前代未聞」

 912日午後2時より開かれた安倍晋三首相(52)の記者会見では、本会議の直前までやる気を見せていた首相が突然、心変わりした理由は何か、納得のいかない記者たちから質問が相次いだ。しかし、最後まで首相は納得のいく説明ができなかった。
 その同日、首相の辞任を知らせる毎日新聞夕刊は、その辞任理由を「今週末発売の一部週刊誌が安倍首相に関連するスキャンダルを報じる予定だったとの情報もある」とー面で報じた。一部週刊誌とはいささか失礼な表現ではあるが、社会面にははっきり『週刊現代』と名前が出ている。
 そう、安倍首相を辞任に追い込んだスキャンダルとは、本誌が912日中に回答するように安倍事務所に質問をつきつけた「相続税3億円脱税疑惑」のことなのである。政治団体をつかった悪質な税金逃れの手口を詳細に突きつけられて首相は観念したというわけだ。
 実は、本誌は安倍首相の政治団体に関してー年にわたる徹底調査をしてきた。そのキッカケは、ベテランの政治記者から聞いたあるウワサだった。
 「安倍首相の父親である安倍晋太郎外相(当時)は総理総裁を目指して巨額の資金を用意していた。ところが闘病の末の逝去でそれが宙に浮いてしまった。そのカネはいったいどこへ行ってしまったのだろうか。晋三氏への相続に不透明なところが、あるのではないか」
 晋太郎が率いた安倍派時代を知る自民党のある古参秘書に、この語をぶつけたところ声をひそめていった。
 「'915月に父親が亡くなったときは、まだ中選挙区制なので補選はなく、'937月に総選挙で初当選するまで晋三さんは、秘書を解雇したり事務所も滅らしたり、リストラに大変だった。『なかなか政治資金が集まらない』と金庫番の秘書がよく派閥の事務所に相談に来ていました。晋太郎氏の派閥を引き継いだ三塚派会長(当時)の三塚(博)さんが見るに見かねて、お世話になった晋太郎さんの三回忌を兼ねた励ます会を計画して、派閥ぐるみでパーティー券を売ったのです。それが、フタを開けたら晋三さんが集金カトッブですからね。派閥の秘書仲間たちはみんなひっくり返りました」
 そのパーティーとは、'93415日、首相の指定団体(当時)の「晋和会」が赤坂ブリンスホテルで開いた「安倍晋太郎先生を偲び安倍晋三君を育てる会」だ。2万円のパーティー券を14766人に売り、29636万円の収入があった。費用5300万円を差し引いて24300万円余りのボロ儲けだ。
 しかし、ベテラン秘書が腰を抜かしたのは、それだけではなかった。
 安倍首相が初当選した'93年、「晋和会」と「緑晋会」という二つの政治団体だけで、その収入は91067万円。新人議員でありながら、2位の橋本龍太郎政調会長(当時)らを抑えて、集金力で政界トップに立ったのだ。細川政権の誕生で自民党が野党に転落し、ベテラン議員もカネ集めに四苦八苦する中で、その突出ぶりは際立った。
 この年から始まった政治団体の資産公開でも、安倍首相は預金68949
円で、金満家で有名な糸山英太郎衆院議員一当時)らに次いでいきなり4位にラ
ンクされている。

 そのカラクリは何か。当時注目を集めたのは、前述の「緑晋会」という団体だ。
'93
年の収支報告書では、年間収入49595万円の93.8%にあたる46508万円の内訳が、1件あ
たり100万円以下のため「献金者を明示しない企業団体献金」として記載され
ていたのである。

 4億円以上もの献金者とは誰か。企業献金が集まらないと一言っていた安倍事務
所にふってわいた巨額献金の出所をめぐって、「安倍晋太郎の隠し資産が出てき
た」(ベテラン秘書)というウワサが駆け巡ったという。

 晋太郎氏から晋三氏への相続に政治団体が悪用されているのではないか――。この疑惑にせまるべく、本誌はあらためて安倍ファミリーの政治団体をすべて洗い直すことにした。
節税術をフル活用
 安倍首相が神戸製鋼所を辞めて、第一次中曽根内閣で外相に就任した父の大臣秘書官になったのは、'82126日のこと。ポスト中曽根をニューリーダーの「安竹宮」(安倍晋太郎、竹下登、宮澤喜一の三氏)で争い始めたころだ。
「晋太郎先生は、派閥の事務所に来ては『晋三を頼むよ』と。もう後継は決まりだと誰もが思いましたね」
 清和会のベテラン秘書が当時を振り返る。

 秘書官当時、安倍首相は父の外遊にいつも同行し、帝王学を徹底的に叩き込まれた。そして、外相だった父が息子に遺したものは、政治や外交にあたるものが身につけるべき教訓だけではなかった。
 大手新聞の当時の番記者はいう。
「旧制6高(現・岡山大学)OBの財界人でつくる『六晋会』や『化学晋和会』『住宅晋和会』などの業種別後援会や、派閥の議員の地元に作られたという『千葉晋和会』『岡山晋和会』などの地方後援会。ニューリーダーと呼ばれるにふさわしく、政治活動の基盤を支える政治団体の数も当時の議員でトツプでした」

 本誌は、当時の関係者の証言をもとに、全国の収支報告書を集め、連結収支報告書を作り、分析した。その結果、多数の政治団体を使った驚くべき資産相続の実態が明らかになった。
 故安倍晋太郎氏は、晋三氏を外相秘書官にした'82年から病没する'91年までの10年間に、自らの政治団体である「晋太郎会」に25985万円、「晋和会」に25897万円、「夏冬会」にー億1940万円、3団体合計で63823万円もの巨額の個人献金をしていた。
 3つの団体はいずれも「指定団体」である。指定団体とは当時の政治資金規正法に則って届け出をした政治団体のことで、政治家はこの指定団体に寄付すると、その額に応じて所得控除を受けることができた。しかも控除額は青天井だったのである。
 晋太郎氏は、政治家にしか使えないこの所得控除制度をフルに活用していたのだ。これだけの巨額の個人献金をする一方で、自らの申告所得額は極端に少なかった。同じ10年間で1000万円以上の高額納税者名簿に掲載されたのは、病気療養中の'90年の納税額3524万円、わずか一度だけだった。その間に63000万円以上も献金をしているのに、である。
 そして問題なのは、この政治団体がそのまま息子の晋三に引き継がれ、相続税逃れに使われたことだ。
 晋太郎時代から安倍事務所に出入りしていた全国紙の記者は言う。
「晋太郎先生のときは、議員会館裏にある『TBR永田町』と『山王グランドビル』にそれぞれ個人事務所があり、赤坂ブリンスの派閥事務所とあわせて3ヵ所に金庫番の秘書がいました。さらにそれぞれの金庫番が管理する政治団体が、地方もふくめていくつもあったのです。
 晋三さんはそれをそのまま引き継ぎました。代替わりしてからは、『TBR』の事務所は閉めて、親父の代の金庫番は全員解雇しました。金庫番を一人にするために、政治団体もかなり整理しましたが……」

 実際に本誌で調べたところ、安倍晋太郎氏の生前に作られた「安倍系団体」と呼ぶべき団体は、タニマチ的なものも含めて、66団体にものぼった。さらに調べると、晋太郎氏は'915月に亡くなっているが、その直前の'90年末時点で、それらの団体には合計で66896万円もの巨額の繰越
金があった。

 安倍首相は父親の死後、政治団体を引き継ぐのと同時にそれら巨額の繰越金をもそっくり引き継いだのである。調べてみると、父の死の直後、'91年末時点では22団体が解散し、44団体になっている。資金残高も4億円余りに滅ってはいる。ところが、解散などに伴って整理された資産などの行方を追っていくと、どこに献金したかが不明になっている「消えた寄付金」が、合計で18522万円もあったのだ。2億円近い巨額なカネはいったいどこに消えてしまったのか。
国税幹部は「脱税」と断言

 繰り返しになるが、これらの「消えた寄付金」を含めると、首相は、亡父が政治団体に寄付した6億円の個人献金を政治団体ごとそっくり相続したことになるのだ。
 安倍首相は、これまで主な相続資産は、山口県長門市の実家と下関市の自宅のみとしてきた。相続した'91年以降の高額納税者名簿には首相の名前はない。
 政治団体に投じられた6億円の献金が、そのまま晋三氏に渡っていれば、これは政治活動に名を借りた明白な脱税行為ではないのか。
 財務省主税局の相続税担当の幹部に、連結収支報告書の数字を示しながら聞いた。政治団体を通じた巨額の資産相続に違法性はないのか?
「政治団体に個人献金した資金が使われずに相続されれば、それは相続税法上の課税対象資産に該当します。政治団体がいくつもある場合は、合算した資産残高のうち献金された分が課税対象になります。たとえ首相でも、法律の適用は同じです」
 そう説明した幹部は、連結収支報告書の数字を見比べてきっぱり言った。
「この通りなら、これは脱税ですね」
 仮に、政治団体を通じて相続した遺産が6億円とすれば、当時の税制ではー億円以上の最高税率50%が適用されて、相続税額は約3億円になる計算だ。
 もちろん、税法上は相続税の脱税の時効は最大で7年。首相が罪に問われることはない。しかし、これまでー億円以上の脱税は、政治家でも逮捕されてきた。重大な犯罪であることに変わりはない。
 主税局幹部は、個人的な意見と断って、こう言った。
「本来は、国税庁がきちんと見つけておくべき問題ですが、時効になった今は、税法上の徴税はできません。しかし、財政の窮状を行政の長として考えて、ぜひ時効の利益を放棄して、自発的に納税していただきたいですね」
 政治資金を国に寄付することは、公職選挙法で禁止されているが、過去に未納分の納税をする場合は、適用外なのだという。
 実は先の「緑晋会」は、'97年に名称を「東京政経研究会」と変えて今も平河町の首相の個人事務所として機能している。'05年末時点の東京政経研究会の預金残高は3億円ある。3億円の納税にちょうど困らない。
 本誌は政治資金報告書などから作成した資料を示したうえで、安倍事務所にこの相続のカラクリを指摘し、どのような処理をしたのか、脱税ではないのか、というA4にして5枚の質問状を送った。そして回答期限が迫った12日の午後2時、安倍首相は突然、辞任を表明したのである。しか
し、いまもって質問状への回答はない。

 内閣改造に際して、首相は「政治とカネに関して十分な説明ができない閣僚は去ってもらう」と言い放った。その言葉が自らにはねかえってくるとは、安倍首相もゆめゆめ思ってはいな
かったのだろう。(了)

2007年8月12日日曜日

【民主党】 偽メール事件の戦犯たち

国民への説明責任を果たさなかった玄葉光一郎細野豪志の厚顔

民主党メール問題検証チームの報告書は、真相を解明する目的のものではなく、逆に真実を隠蔽して事件の幕引きを図るための情報工作である。そこには真実は語られていない。すでに多くの問題が指摘されているが、報告書では仲介者(西澤孝)の向こう側にいるはずの情報源(ライブドア関係の元社員)について明らかにされていない。報告書は、「『情報提供者』の存在を含め、『メール』の作成者は不明であり、その調査は不可能である」と結論している。一ヶ月も時間をかけてメンバーに弁護士も入れて調査をしながら、情報提供者が不明で、その調査も不可能であるとはどういう言い草だろうか。偽メールは誰が何の目的で作成したのかという最も単純で肝心な問題について、調査報告書は何も回答を与えずに説明責任を放棄したまま逃げている。説明責任を果たしていない。玄葉光一郎は3/31の記者会見で「これ以上は政党の役割になじまない」などと意味不明な言い訳をしているが、その言葉に納得した国民が何人いるだろうか。民主党の態度はあまりに非常識で無責任である。

最初から真相解明する意思と能力が無いのなら、なぜ西澤孝を刑事告発して司法に任せないのか。見苦しい言い逃れはやめろ。多くの人間が喝破しているとおり、前原代表辞任と永田議員辞職は検証チームの報告書公表とセットの政治であり、要するに検証不能のエクスキューズとしての民主党の国民への代償措置であって、その目的は4/4の西澤孝の証人喚問を阻止することである。証人喚問を突きつけられて、追い詰められて逃れられなくなったのだ。報告書が真相の解明ではなくて真相の隠蔽を目的としたものである疑惑を根拠づける事実の一つは、西澤孝からの直接の事情聴取が報告書発表直前の3/30の一回だけであったという問題である。いかにも駆け込み的で帳尻合せ的な動きではないか。まず最初に3/31に報告書発表と代表辞任の日程が前提としてあり、それに向けて西澤孝からせめて一度だけでも話を聴いたという既成事実を作るべく3/30夜に滑り込みで聴取を行っている。それが無ければ報告書の体をなさないから、無理やり3/30に形だけの事情聴取をした。

本当なら、西澤孝から最初に事情を聴いた後で、その供述内容が事実かどうかを関係者に当って確認検証するという作業が必要だろうし、相手が虚言癖の西澤孝であれば、時間をかけて二度三度と慎重に聴取検証を繰り返す必要があっただろう。事件の中心にいて真相を知っているのが西澤孝であり、検証チームの目的が事件の真相解明であったのなら、当然、そのように営為したはずだ。ところが検証チームの西澤孝への接触は、報告書発表前ギリギリの(半日前の)タイミングの一回きりであり、西澤孝に何を聴き、西澤孝が何を言ったかも十分に明らかにしないまま、事前に書き上げていたアリバイ報告書をそのまま提出してしまっているのだ。要するに、始めに「辞任で幕引き」ありきであり、その日程を3/31で定めて、それに合わせて西澤事情聴取の既成事実を辻褄合わせしたのである。姑息と言うほかない。読売新聞の世論調査(4/2)では、「民主党の今回の決着のつけ方について納得できるか」という問いに対して、49%が「納得できない」と答え、「納得できる」の40%を上回っている。

国民は今回の「検証報告」に納得しておらず、民主党が説明責任を果たしたとは了解していない。幾つかの事項について報告書で明らかにするよう要求したが、民主党の検証報告書は、質問の核心的な部分は黙殺して回答を避けている。

その一つは河村たかしがテレビで何度も言っていた「メールの現物をPCの画面の中で確認した」という例の目撃情報についての検証である。河村たかしは、送受信アドレスが一致したメールを、紙ではなくPCの画面の中で見たと明確に証言していた。そして、2月下旬から3月中旬までテレビ出演していたときの河村たかしの紹介のされ方は、「メール問題検証チームにも参加している」という触れ込みだったのであり、実際に報告書の中にもメンバーとして名前が入っている。河村たかしがこの問題の証言をした日として確実に特定できるのは2/27だが、驚いたことに「調査報告書」の中では、河村たかしが目撃し証言していたこの事実に関する検証が何も登場しない。これはきわめて不自然だ。

検証チームの「検証」の内実を怪しませるものである。報告書には、今度の事件の騒動に殆ど関与していないはずの枝野幸男の名前まで登場していて、党の内部でこの問題に関わった人間の数の多さを思わせるのだが、2/16以降の事件の中心で動いていた河村たかしの言動や行動が完全に捨象されている。河村たかしが発言したメール情報についても報告書の中では何も触れられていない。無視している。これは河村たかしが嘘を言い、同じテレビのスタジオで同席していた細野豪志が河村たかしの嘘を見過していて、嘘だとバレると民主党の立場が悪くなるので敢えて報告書で捨象したか、あるいは、河村たかしの証言は事実だったのだが、その詳細を明らかにすると具合が悪くなるので、意図的に無視を決め込んだということになる。恐らく後者だろう。河村たかしの発言はテレビで何百万人もの視聴者に目撃されていて、しかもこの問題は偽メール事件の民主党の対応について国民に不審を抱かせる重要事なのだが、そこを敢然とネグレクトするとは、玄葉光一郎もなかなかよい度胸をしている。

河村たかしの証言が事実であれば、当時の民主党は、西澤孝とすでに接触して(一千万円で買収したのかどうなのかは別に)偽メールの「電磁情報」をすでに得ていたことになり、すなわち、西澤孝と全く接触できてないと言っていた民主党の当時の弁明は虚偽だということになる。


前原辞任 - 今宵勝利の美酒に酔い、生ける屍民主党を憂う
「情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴を繰り抜く(岩波文庫 『職業としての政治』 P.105)」作業に耐える人格でなければならない。偽メール事件を詳らかにすることが前原体制の没落を証しすることだと私には分かっていた。ここは「判断力」の部分であり、私は自分の判断を疑わなかった。前原誠司は逃げ切れると踏んでいたのだろう。


偽メール事件の真相を包み隠さず明らかにすれば、前原誠司は代表辞任では済まない。原口一博も間違いなく議員辞職に追い込まれるだろうし、また、悪質きわまる情報隠蔽工作を主導した細野豪志と河村たかしの二人の責任も厳しく問われ、逃げる場所を失うだろう。

メール問題検証チームの報告より先に前原辞任と永田辞職を発表したということは、代表辞任のサプライズの方に世間の耳目を集中させ、すなわち真実を隠蔽した出鱈目な「検証結果」に世間の眼が向かないようにマスクするためである。真相隠蔽の政治である。つまり前原誠司のクビを差し出すから、もうこれで勘弁してくれと言っているのだ。前原誠司のクビと交換の真相隠蔽なのであり、民主党側からの世間へ土下座取引の申し出なのだ。この事件はそのイベントのスタートが西澤孝を起点としているのではない。西澤孝は二次イベントであり、事件のスタート点は前原執行部と国対チームである。ライブドア事件で武部勤を標的にするという「国対戦略」があって、その材料として用意されたのが偽メールだ。

問題解決をここまで引っ張ったのは、引っ張らざるを得ないから引っ張ってきたのであり、あれこれ立ち回りながら、世間の追及がやむ日を待ち続けてきたのである。今回の行動も駆け引きなのだ。保身のための辞任なのである。今回の前原引責辞任でマスコミと党地方組織は納得して許してくれるだろう。だが、平沢勝栄の手の内には真相情報があり、このカードはいつでも切って出すことができる。真相解明が不十分だと言うことができるし、民主党の検証チームが報告した「検証結果」を覆す新証拠を突きつけることができる。事件はまだ終わったわけではないのだ。前原誠司は辞任したが、偽メール事件における民主党の責任という意味では、これはまだ蜥蜴の尻尾切りであり、その場凌ぎの逐次責任回避行動でしかない。前原誠司の代表辞任などで幕引きなどと思ってもらっては困る。膿は最後まで出し切ってもらわなくてはならない。人心一新は真相解明のためにこそ必要なのだ。

前原誠司の辞任会見を見たが、悪びれた様子もなく、ふてぶてしく倣岸な態度は何も変わっていなかった。一議員として安保問題をやって行くなどと言っていたが、前原誠司にこの後の政治生命などがあるのだろうか。前原誠司を政治家として評価信頼して一票入れようという人間がいるだろうか。それから辞職をここまで引き延ばした永田寿康に、社会人としての今後の活躍の場が果たしてあると言えるだろうか。

永田寿康は辞職にあたって、恐らく大金を(鳩山家の金庫から)受け取ったことだと想像するし、その金額は一生食うに困らないほどのものだろうと思うが、実際のところ、永田寿康は人生を棒に振ったのであり、もうこの男には浮かぶ瀬がない。2/23に辞職していれば政治家として復活する目は十分にあった。人生の判断を間違うとはこういうことだろう。前原誠司に付き合って「生き恥を晒す」政治処世を試したがために、一生を犠牲にしてしまった。そして真相解明という形でさらにこれからツケを支払わされる。水に落ちたイヌとして叩かれる。

これから新代表が選ばれるという話だが、もう誰も民主党に期待などしないだろうし、新執行部ができても注目を集めることはないだろう。民主党は終わっている。もう党を解散してもよいのではないか。日本に二大政党制の政治体制を作る「政治改革」の試みは失敗に終わったのであり、民主党はその役目を終えた。当の民主党議員たちがそのことを一番よく理解しているのではないか。

この偽メール事件の間、党内は異常なほど無風で、前原降ろしの動きもなく、二年前の菅直人の年金未納疑惑のときに右も左も大燥ぎしていたのとは様変わりだった。今回、スタジオに呼ばれた民主党の議員たちは、それをテレビで他人事のように論じていた。松原仁は、テレビ朝日の生放送で「私は別に党を代表して来ているわけじゃないので」と評論家様になってふんぞり返っていた。国民の前で申し訳ないと恐縮していた議員は一人もいなかった。党を代表して意見を言えないような人間が党を代表してテレビに出るんじゃない。テレビに出て国民の前に出たら、議員は党の代表だろうが。

民主党は生ける屍だ。組織として危篤状態で、人材がなく、蘇生する見込みはないと私は思っている。別の政治をアイディアしなくてはいけない。前原誠司は一応の責任をとったが、「政治改革」を喧伝した山口二郎と後房雄は責任をとらないのか。


疑惑五人衆 - 馬渕澄夫,石関貴史,北神圭朗,藤末健三,松本大輔

問題の雑誌Dumontパイロット版誌上にインタビュー記事が掲載された民主党議員は、永田寿康の他に馬渕澄夫、石関貴史、北神圭朗、藤末健三、松本大輔の五氏である。テレビ局が取材した情報では、永田寿康以外にDumont誌を購入した議員はいない。

この五人の中でHPやブログ上で僅かでも事の経緯を自ら説明している議員は藤末健三だけで、3月6日の日記において簡単に触れられている。それによれば、藤末健三がDumontのインタビューを受けたのは昨年10月17日で、民主党の同僚議員の秘書に紹介されてのものだった。先週の懲罰委員会での永田寿康の弁明でも、昨年の10月に民主党の国会議員の秘書を通じて西澤孝と知り合った事実が述べられている。現在、西澤孝と最も関係の深い民主党議員は永田寿康だが、半年前はそうではなく、別の民主党議員筋が西澤孝のカウンターパートだった。それは具体的には馬渕澄夫とその秘書である大西健介である。

Dumont編集長の佐藤晶と馬渕澄夫の政策秘書の大西健介は、同じ71年生まれで京大卒の同期生であり、一部の情報によれば学生時代から友人関係であったと言われている。今回の偽メール事件の発端は昨年9月のデュモンマーケティング設立に遡り、社長となる西澤孝と取締役となる佐藤晶の二人が結びつき、雑誌Dumontの創刊が企画されるところから始まる。

この二人の出会いなり結びつきに大西健介が深く絡んでいて、パイロット版を見ても明らかなとおり、初発から前原民主党と二人三脚の関係で創刊事業が始まったことが容易に窺える。富裕層向けメンズセレブ雑誌のDumontがこれほど民主党の宣伝一色の装いで立ち上がったのは、編集長の佐藤晶の存在が大きいと私は睨んでいる。格闘技系で虚言癖のガセネタ屋である西澤孝にはどう考えてもそのような企画や発想が似合わない。雑誌Dumontを民主党の宣伝媒体にしようという意図が最初からあったのではないか。

さらに言えば、デュモン社は民主党の下請情報機関として設立されたのではなかったのか。自民党関係の醜聞情報や不正情報を諜報したり、それを国会で追及する前に週刊誌にバラ撒いたりの情報工作をする専門機関としての位置づけが、会社設立の当初からデュモン社にはあったのではないか。

富裕層向け雑誌事業というのは、あくまで表向きの見せかけの営業看板だったのではないか。そのような憶測を持たざるを得ない。今回の証人喚問の対象は西澤孝だけだが、喚問は西澤孝だけでなく、佐藤晶に対しても行われなくてはならず、そうでなければ事件の真相解明には繋がらないだろう。ひょっとしたら西澤孝は前原民主党にとってのタニマチ的な存在ではなかったのか。

平沢勝栄がテレビで明らかにしたところでは、西澤孝は、ある民主党議員が国会質問の準備で役所の官僚を呼びつけて、議員会館で質問事案のレクチャーを受けるときに、その議員の横に座って聴いていたという。

実に意外な話で驚くが、意外というのは特に、フリー記者と言っても格闘技系で醜聞ネタ系の西澤孝が、国会議員が官僚から政策制度関連の専門的な説明を受ける場に同席していたという事実で、およそ似つかわしくない場所に似つかわしくない人物がいたという事実に対してである。

この事実は、西澤孝が民主党前原グループのタニマチで、言わば一般市民が国会議員の計らいで国会の議場を特別に参観させてもらうのと同じような感覚で、国会議員以外に一般人が経験できない官僚のレクチャーヒアリングの機会を堪能させてもらっていたとしか考えられない。

西澤孝が官僚の説明を聴いて理解できる何か専門的な政策知識を持っていたとは考えられないからだ(文科省が格闘技興行の改革について説明したとか)。民主党の外部情報機関の幹部がそこに座っていたというのは理解できる。だが、それがテレビで紹介されている虚言癖の西澤孝のイメージとは結びつかない。それが佐藤晶ならよく分かるのだ。

佐藤晶ならそこに座っていて不自然ではない(厚労省の役人による外国人労働者政策とか)。今回の証人喚問は、もういい加減にしろとか、やっても無意味だという声も多いのだが、一つ一つ真面目に考えて行けば本当に不明で奇怪な事が多い。何が真実なのか一向に正確な像が見えて来ず、ミステリアスで、真相追求への関心が衰えることはない。一部に、犯罪を犯したわけでもない民間人を強制的に国会に召還するのは人権上問題だとか、このような前例を作ったら誰も野党に情報提供をしなくなるという声も上がっているが、そういう意見は間違っている。ここで大事なのは何より国権の最高機関たる国会の権威であり、それが国会議員の手で傷つけ貶められたという問題こそが重要なのだ。

永田寿康は、偽メール事件は西澤孝の愉快犯的行為の責任で自分は騙されただけだと主張し、そして西澤孝は偽メール提供は事実無根だと言っていて、双方の主張は真っ向から対立しているのだから、議院が懲罰の判断に当たって両者の主張を聞くのは当然の責務である。

西澤孝が証人喚問を忌避するのら、事実無根などと言って逃げているのではなく、堂々と記者会見を開いてありのままを釈明すればよいのだ


綿貫民輔の正論 - 「政治改革」が生んだ嘘つき民主党

ようやく永田寿康の口から西澤孝の名前が出て、偽メール事件は次の段階に一歩進むことができるようになった。しかし、それにしても本当に時間を無駄に浪費してダラダラとやっている。時間稼ぎを際限なく続けて問題をうやむやの裡に揉み潰したい民主党と、国会審議の主導権と4月の衆院補選での優勢を確保する道具として利用したい自民党の、両党の思惑が一致して、五週間前の2/17に提出された永田寿康の懲罰動議の委員会処理が、結論を出さないままこんな遠くまで延々と先送りされていた。

「まだやっているのか」というのが国民の正直な感想だろう。私も同じだ。本日(3/24)の懲罰委員会質疑の中で正鵠を射ていたのは、最後に登場した国民新党代表の綿貫民輔の議論で、まさに国民の意見を代弁する正論中の正論が展開されていた。それは懲罰委員会の意義を正面から憲法論として述べたもので、中学三年生の公民の授業でそのまま生徒に聴かせたいような内容のものだった。

明治憲法下の帝国議会に懲罰委員会の制度はなく、これは現行憲法下で新設されたものである。その意味はまさに国民主権に関わるもので、国会を国民主権の国権の最高機関として担保するためには、議院は自らその権威と品格を守らなければならないという議会制民主主義の前提があり、懲罰委員会はその原則に基づいて存在するのだという定理だった。

綿貫民輔は「国会の権威と品格」という言葉を何度も繰り返し、国権の最高機関の権威が傷つけられる事は、主権者たる国民が傷つけられている事だと力説した。基本的な議論だが、偽メール事件の本質はまさにここにある。野党が野党の主体性を失えば、議会制民主主義は実質的に機能しなくなる。綿貫民輔の主張は、憲法が綿貫民輔になりかわって永田寿康や前原誠司に諭しているようだったが、聞く永田寿康の面の皮はぶ厚く、そんな教科書じみた正論の説教は不要とでも言いたげな顔で、ふてぶてしく開き直って聞き流していた。

前原誠司とか永田寿康とか細野豪志とか、民主党の若い連中には、議会制民主主義の理念が自己の思想の内側にない。議会制民主主義を守ろうという信念や規範意識が全くない。憲法の国民主権も、議会制民主主義も、彼らにとっては単に教科書に書かれた迂遠で面倒くさい一般論であり、タテマエを規定したペーパーセオリーの存在でしかないのだ。ゴマカシとスリカエでその場その場の時間を埋め潰せば、窮地を脱して責任回避できると確信している。

細野豪志と永田寿康の二人は、この偽メール事件の一ヶ月間に実にふてぶてしい面構えと立ち回りの能力を身につけて、彼らにとっての「理想」の政治家像に近づいた。「大人の政治家」に成長した。テレビカメラの前で嘘をつきまくっても、矛盾だらけの偽りの「説明」を吐きまくっても、表情ひとつ変えない豪胆な政治家に変身した。男は三十代に剛腹な人間に成長するものだなと思う。ところが先輩の前原誠司は、何やら消耗感を標榜する顔に変わり始めた。

男も四十代を過ぎると、嘘で窮地の連続を突破する体力に衰えが出るに違いないのだ。面の皮がぶ厚くなり、口の角が曲がるのが、三十代だとまだ「男の成長」と自覚できる程度なのだが、さすがに四十代になると、それに加えて頭髪が減耗したり、顔面の小皺に転化したりで、嘘つきが精神と身体に反作用する負担が重くなるのである。一ヶ月前と較べて確かに前原誠司の顔つきが変わった。細野豪志と永田寿康と前原誠司に言っておくなら、三人がテレビの前で白々しく嘘をつき、その場をゴマカシて逃げる場面を見せれば見せるほど、民主党に対する国民の嫌悪は増幅し、反発の感情が膨張し、民主党の支持率は下がって行くのだ。現時点で意識調査をすれば、民主党への国民一般のアパシーと言うかネガティブシンボルの心理状況の程度は、公明党や共産党と同じかそれを上回るのではないか。民主党の若い人間は平気で嘘をつく。例えばメール問題の検証結果を二週間後に出すなどと平気で嘘を言う。

国民を腹の底からバカにしているから嘘が言える。それが民主党だ。自分は選ばれたエリートであり、国民は頭の悪い働きバチであり、自分は国民を騙す身分と能力があり、国民は愚鈍で無能だから自分の嘘に騙されるしかない。そう信じているから何週間でも何ヶ月でも嘘を言い続け、自民党政権にすがって偽メール政局を責任揉み消しの結末までドライブし続ける

民主党の支持率が下がっ選挙はないからどうってことはないし、どうせ来年になれば国民はバカだから偽メールの話も全部忘れても、暫くは国政ている。バレなきゃいいから嘘をつき続ける。前原誠司が言っている「生き恥を曝す」政治処世というのは、バレるまで嘘をつき続けるということであり、権力闘争に負けて責任を取らされる最後の最後の瞬間まで居直り続けるということである。さて、次は西澤孝の証人喚問だが、民主党はいつまで偽メール事件の「嘘つき芝居」の興行を続けるつもりなのか。

懲罰委員会の席には小沢一郎と菅直人の二人が座っていた。

皮肉なのか何なのか。菅直人は自分が日本の議会制民主主義を破壊している中心人物だという自覚があるだろうか。そして左サイドから「政治改革」を扇動した山口二郎と後房雄、ブログを読んでいるのなら何か言ったらどうだ。「政治改革」が生んだ嘘つき民主党を見てどう思う。責任は感じないのか。


偽メール事件の政局 - 永田辞職は確定、次の焦点は前原辞任

偽メール事件の政局が、様々な関係者の思惑を交錯させながら続いている。焦点は基本的に永田寿康の議員辞職で、本当は自民と民主は今週中に永田寿康に辞職させようとしたのだが、永田寿康が抵抗して応じなかったために新しい手を打たざるを得なかった。3/22の国会弁明というのは永田寿康を辞職に追い詰めるための「政治行事」であり、目的は弁明後の永田寿康をテレビに徹底的に叩かせるところにある。これまで「登院停止」で動いていた懲罰委員会の結論を「除名」の厳罰に変えるための状況作りの政治である。3/22の後、国民世論は「除名やむなし」に変わるはずで、3/25-26の週末に妥当な懲罰の程度を問うアンケート調査が行われるだろう。それでも永田寿康が辞職しなかった場合は、仲介者の証人喚問の場を作って、仲介者に「偽メール事件は永田寿康の自作自演だった」と証言させる。そこまで行けば懲罰委員会は永田寿康を除名処分にすることができる。が、仲介者の証人喚問まで行けば、同時に前原誠司も代表辞任が必至となる。逃げ場がなくなる。

永田寿康も除名よりは辞職を選ぶだろう。カネも掴める。永田寿康を辞職から守れる防波堤や特効薬は何もなく、現時点で議員辞職は半ば決まったも同然だ。今後の焦点は前原誠司の辞任に向かう。偽メールの捏造に関わったのは永田寿康だけではないはずで、前原誠司も何らか関与していたはずだ。2/11にメールをテレビ局で初めて見たというのは嘘(作り話)だろう。永田寿康が真実を全てバラせば、前原誠司は代表辞任では済まなくなる事態になる。渡部恒三が「起き上がらない起き上がり小法師」を前原誠司に手渡してテレビに撮らせたのは絶妙の政治で、要するに「永田寿康が議員辞職したらお前も代表辞任しろよ」というメッセージである。老獪な味のある政治だった。「生き恥を曝す」のが前原誠司の政治手法だから、前原誠司も最後の最後まで抵抗するだろうが、渡部恒三の強いところは前原誠司以上に自民党との太いパイプを持っていることで、国対委と懲罰委は渡部恒三が自由自在にドライブできる。外堀が埋められ、国会運営に関して前原誠司は実権を失った。

4月の補選前に渡部恒三暫定代表の芽もある。党内でも筒井信隆がようやく国民が納得できる正論を吐くようになり、前原誠司の代表辞任が現実味を帯びてきた。偽メール事件の真相を追及し続ければ、必ず前原誠司を代表辞任へ追い込めるし、また民主党は一刻も早く前原誠司を辞めさせて、政策的にも国会運営でも本来の野党に戻らなくてはいけない。「もううんざりだ」を言い続けて結果的に前原誠司を庇護してきたバカ左翼は、今後の民主党の動きをよく見ていればいい。バカ左翼に教えてやるならば、バカ左翼が偽メール事件の追及を「うんざりだ」と言い続けて、国民の関心を偽メール事件から逸らして、結果的に政治救済してやろうとしていた前原民主党というのは、実はバカ左翼が一番嫌いな小泉政権の一部である。前原民主党は新自由主義革命の最前衛だ。前原誠司の民主党は小泉政権の新自由主義改革路線と右翼国家主義外交を支援するための翼賛野党である。一枚岩の新自由主義ブロックだ。したがって前原体制の打倒はまさに小泉政権の一角を崩すことに等しい。

どうしてバカ左翼はこんな簡単な政治的事実が理解できないのか。議席一桁の泡沫左翼政党が国会で言っていることをブログでコピペしていれば小泉政権を倒せるのか。党利党略しか眼中にない異端イデオロギー政党のスローガンをブログで連呼していれば新自由主義の政策を転換できるのか。無力な市民がブログで政治を変えようと言うのなら、効果的なピンポイントを捉えて、リアルに政治を変えられるリアルな力と動きを作り出す以外に無いんじゃないのか。前原民主党は昨年の総選挙がもたらせた新自由主義革命の副産物であり、反小泉と反新自由主義の立場にとって真正の敵である。この国会は本当は安晋会問題で安倍晋三の首を獲ってポスト小泉の芽を潰す国会だった。民主党が追及の矛先を武部勤に振り向けたのは、武部勤を安倍晋三の身代わりにして生首を捥ぎ獲ろうと画策したからだろう。安晋会疑惑から国会と国民の関心を逸らそうとした本当の狙いがあったはずだ。次の総理である安倍晋三に恩を売ろうとしたはずだ。武部勤ならポスト小泉に何の影響もない。

その意味では、この偽メール事件の政局というのは、安倍晋三と小泉首相との暗闘の性格も一部に確かに持っていた。武部勤の首が飛べば小泉首相のレイムダック化は完全なものになり、ポスト小泉の安倍晋三が前原誠司の支援を得て3月以降の政局を自在に仕切って操縦することができた。今国会最大の難関である教育基本法改正で公明党を排除して、安倍自民党と前原民主党で手を組んで可決成立させることも容易にできた。レイムダック化を防ぐため、小泉首相は2/16の夕刻、一瞬の決断で「ガセネタ発言」をかまして喧嘩(タイマン)の大博打に出たのだ。自分の首を賭けて武部勤の首を守ったのである。その時点で前原誠司と永田寿康の陰謀は潰えた。われわれは安倍晋三の首は獲り損ねたが、その代替物として前原誠司の首を獲らねばならない。前原体制を倒し、民主党を本来の野党に戻さなければならない。菅直人であれ、岡田克也であれ、代表が代わって本来の野党の姿を取り戻せば、再び今国会会期中に安晋会疑惑を取り上げて、安倍晋三を追及できる可能性もあるだろう。

検証チーム結果報告発表延期 - 民主党における危機感の不在
本日(3/15)のテレビ朝日「スーパーモーニング」によれば、民主党はメール問題検証チーム座長玄葉光一郎の名前で番組からの質問状に対して文書で回答し、「二週間程度としていた検証結果の報告を、今月中の取り纏めを目指して作業中」と納期の変更を正式に通告した。昨日の産経新聞の記事は単なる観測気球ではなかったわけで、細野豪志と民主党は国民に重大な嘘をついたことになる。玄葉光一郎は検証チームの結果発表時期を遅らせた理由について、外部の専門家(地検特捜部出身の弁護士)を検証チームに参加させて「仲介者」の調査を担当させたためだと弁解しているが、それは全くの嘘である。番組が西澤孝の弁護士から直接に聞き出した証言によれば、民主党の調査チームからの接触は、検証チームの民主党議員からも、検証チームの代理人からも、これまでも一度もないということだった。要するに「検証チーム」は名前だけ立ち上げたものの、実際の検証作業は二週間の間、何もやってなかったのだ。

民主党はまた嘘八百を言って国民を騙した。役員室長の細野豪志のブログの3/8の記事でも、「28日の記者会見で、幹事長が二週間という期間を設定していますので、急ピッチの作業となっています」と言っている。検証チームが設置されたのは3月1日だった。細野豪志は3/2のテレビ番組でも、3/3のテレビ番組でも、二週間で検証結果を国民の前に報告すると明言していたのだが、この前言撤回について細野豪志自身は何も説明していない。これは政治家として重大な公約違反そのものだろう。国民に対して約束した自分の言葉に責任をとる義務はないのか。細野豪志は自身のHPの中で、「私は、国民に対して最大限の説明責任を果たす努力をしてきましたし、今後も続けていきます」と言っている。が、この言葉は真っ赤な嘘であるとしか考えられない。34歳で真っ赤な嘘が平気でつける人間でないと日本では政治家にはなれないということか。今朝の番組のスタジオには細野豪志の姿はなかった。都合が悪かったのだろう。

細野豪志の代わりに、今度は末松義規が釈明要員として出演していた。生放送のスタジオで話をゴマカシ、スリカエて、適当にその場凌ぎをして逃げる民主党の三流詭弁屋たち。鳥越俊太郎も含めてスタジオの常連が民主党に甘く、追及が異常に手ぬるく、まるで民主党に弁解の機会を与えてやっているような映像が続いて、見ていて不愉快でストレスが溜まる。末松義規もその辺の事情をよく心得ているのか、表情には最初から緊張感の欠片もなく、むしろテレビに出て選挙民に顔を売る絶好の機会を得たかのように、余裕で顔を綻ばせていた。テレビに出演できるのが嬉しくてたまらないのだ。検証チームに手を挙げて入ったのは、河村たかしと細野豪志を見習って、ワイドショーで偽メール事件の釈明要員をして顔と名前を売るためだったのだろうか。検証チームは二週間で二回の会合を開いただけで、しかも二回目の会合で単に外部の専門家を入れる話を決めたのみで、実質的な検証作業は何もやっていない。形だけの方便の飾りだ。

3/6の「ニュース23」で岸井成格が「民主党の国会議員に危機感が全然感じられない」と言っていたが、この点は同感で、同感であると同時に、岸井成格と同様、非常に不審で異様な光景に感じる。危機感が感じられる民主党関係者は、3/4に全国幹事長会議に出席していた地方の幹部だけだ。国政選挙の日程が直近になく、参院選挙も来年で、9月の代表選までは適当に時間を潰しておけばいいだろうと誰もが安易に思っている。幹部も若い議員もそう思っていて、誰も前原誠司の過誤の責任を追及しようとしない。内部に責任追及してくる人間(反対派)がいないことを承知しているから、前原誠司は代表の椅子にふんぞり返ったまま、平気で口角の湾曲整形に日々精を出すことができる。このままでは党が潰れるかもしれないとか、解党するかもしれないなどと言うけれど、実際のところはこの党はもう事実上潰れている。これほど執行部体制が腐食しているのに、内部の人間が誰も党を立て直そうと動かないという現実は異常である。

菅直人も小沢一郎も何も言わない。権力闘争を控えての「待機」だと言えば理由づけにはなるが、民主党の幹部として偽メール事件に対して国民の前で政治家の責任を果たす必要はないのか。偽メール事件の政治をあまりに甘く見すぎているのではないのか。それとも民主党ブランドの信頼回復は無理だと判断して、新党結成の準備に水面下で動いているのか。偽メール事件によって、国民の多くは、国政に責任を持てる政党は自民党だけだという判断を強く固めた。岸井成格や田勢康弘に言われなくても、十分にその認識を確かなものにした。この事件は昨年9月の選挙結果、すなわち国民の選択を「間違いなかったものだった」と確信させるものであり、「自民党の勝ち過ぎだったかもしれない」という警戒や懸念の意識を払拭させるものである。日本の政治のレベルの低さをイヤと言うほど見せつけられて、政治に対する期待や希望をさらに失い、増税など負担増を行政がアドミニする政治の成り行きに文句を言わず黙って従う精神を培養するだろう。

偽メール事件が日本の民主主義にとってどれほど重大で深刻な問題かを理解できた人間は少なかった。一ヶ月間にわたって「うんざりだ」を言い続けたバカ左翼の政治的不感症のみが目立った。私から見て、今度の事件の本質を正確に見抜いて、「憲政史上最悪の不祥事だ」と言葉を発したのは福岡政行だけだった。左翼学者はワイドショーのネタ扱いで遊び半分に聞き流していた。21世紀の日本の大政翼賛会は、こうして、やむを得ぬものとして、必要悪の政治として国民から支持を受ける事実上の(いずれは形式も含めて)支配体制となる。野党の主体性を作り直す必要性が分からないバカ左翼は、その政治的リアリズムの挑戦の場に踏み込んで行けない人間は、結局のところ、大政翼賛会作りを助長する無能者としての存在意義しかないのだ。

馬渕澄夫の日記 - 野田佳彦が漏らした「墓場までもっていく」秘密
偽メール政局が燻っている。3/14の産経新聞の記事では、民主党メール問題検証チームの座長の玄葉光一郎の発言として、調査結果の発表の時期が「今月いっぱいか、来月にずれ込むかもしれない」と報じられている。カギカッコで閉じた形式で玄場光一郎の発言を紹介したということは、玄場光一郎が産経新聞の記者の前で実際にそう語ったことを意味するし、その言葉を記事にさせて、民主党の検証チームの発表を遅らせる旨の観測気球を上げて、世論の反応を様子見しようとしている意図が窺い知れる。これは私の予想どおりであり、検証チームの作業がデッドロックに乗り上げた状況を暗示しているが、しかしそういう記事を書かせて、検証結果発表の遅延を既成事実化しようとする民主党の姑息な情報工作を、われわれ国民は簡単に見逃すわけにはいかないだろう。細野豪志は3/2の「ワイドスクランブル」のスタジオで、二週間後に検証結果を発表すると公言している。

細野豪志本人もブログでその事実を認めている。検証結果は約束どおり今週末の3/17には発表してもらわなくてはならない。そうでなければ、民主党は国民の前でまた嘘を言ったことになる。「しっかり事実を検証して信頼回復」と言っていた言葉が嘘になる。玄葉光一郎も真相を知って愕然としたのだろう。ありのままを公表すれば民主党が潰れる。いま焦点は永田寿康の議員辞職で、昨日は前原誠司までが永田寿康に議員辞職を迫る発言をした。卑劣な男だ。2/23に永田寿康が議員辞職しようとしたとき、無理やり辞職会見を潰して永田寿康を病院に監禁し、「辞職の必要は全くない」と言っていた前原誠司のこの変わりよう。自分の代表の地位を守るためにはここまで何でもするのか。現時点で自民党と民主党の幹部間の思惑は完全に一致していて、落としどころは今週中の永田寿康の議員辞職である。永田寿康に掴ませるカネは自民党の方が用立てている可能性もある。

少し奇妙に見えるのは、民主党が言い出したフリー記者証人喚問容認発言で、これは少し裏を読む必要があるだろう。西澤孝に国会に出て来られて全てを喋られたらいちばん困るのは前原誠司のはずで、だからこそ、これまで仲介者の名前も出さずに隠し続けてきたわけだが、ここに来て証人喚問を容認するというのは、自民党と前原誠司と西澤孝の間で何らかの「芝居」の台本が一本出来上がったからなのだろうか。何れにしても、検証チームの結果発表をズルズルと先送りしたままで、しかも懲罰委員会の結論が単に三十日間の登院停止でお咎めなしでは国民が納得するわけがなく、そこで何か国民を納得させる「イベント」が必要になって、西澤孝に国会で何か喋らせるということだろう。無論、西澤孝の病院入りという「芝居」のやり方もあるわけで、国民の憎悪を西澤孝と永田寿康の二人に集中させて、言い訳の体面をつけた格好の前原誠司がのうのうと生き延びるという作戦はある。

が、果たしてそううまくいくか。前原誠司と民主党が真相をうやむやにして隠そうとすればするほど、国民は偽メール事件の真実を知りたがるわけで、この問題への関心の圧力がそれほど急速に低下するとは思わない。この件に関連して、馬渕澄夫のブログに面白い記事が載っていて、3月8日の日記だが、2/27の週のある夜に馬渕澄夫が野田佳彦を連れ出して神楽坂のバーで酒を飲みながら偽メール事件について話を聞く場面が登場する。記事では具体的なことは何も書いておらず、ただ野田佳彦が「「イヤー、いろいろあったけど、墓場まで持ってくしかねぇなー。」と言ったと書き、そして馬渕澄夫が「私などが知らないことが本当にいろいろあるのだろう」と書いて終わっているのだが、私はこれは嘘だと思う。野田佳彦は馬渕澄夫に全て真相を話したのだろう。野田佳彦というのは、嘘つきのワルばかりが揃った民主党の中では他人に嘘をつくのが下手な正直者のところがある。

2/26の「サンデープロジェクト」でも、田原総一朗が突っ込んで聴き出せば、弱気になって少し真相を漏らしそうな気配はあった。野田佳彦が神楽坂のバーで「墓場まで持ってくしかねぇなー」と言ったのは事実だろう。だが、その墓場まで持っていく話の中身を馬淵澄夫は野田佳彦から実際に聴き出したはずだ。記事では表面上は何も聞かなかったことにしているが、それは一般読者向けの「公開情報」であり、実はこのブログ記事は意味があって、俺は野田佳彦から偽メール事件の真相を全部聴いたぞという「事実」を民主党の執行部や議員たちに伝えているのだ。政治的なシグナルなのである。俺は真実を知っているぞという立場宣言であり、聴きに来たら教えてやってもいいぞという政治的暗号でもある。野田佳彦は馬渕澄夫から呼び出しの電話がかかってきたとき、当然、この誘いは偽メール事件の情報収集だろうと分かったはずだし、それに応じて出掛けたということは、情報提供に応じたということである。

神楽坂で会談を持った日付は記されてないが、2/27には野田佳彦は国対委員長を辞任していて、その直後ということになるだろう。「墓場まで持っていくしかない」とまで野田佳彦に言わせているのだから、コトは単純な話ではないのだ。沈黙を守り続けなければ党が潰れるほどの重大事件だという意味が含まれている。だから偽メール事件は、単に西澤孝がガセネタを週刊誌に売り損なって、それを民主党に売ってカネを儲けたというような簡単な話ではない。カネが動機ではない。西澤孝が事件の起点でもない。メール捏造は永田寿康自身が最初から関与している。西澤孝が週刊誌に売り込んだのは、永田寿康や原口一博と議員会館で国対戦略会議を開いて、ライブドア事件に絡めて武部勤追及の「企画」を相談した後だ。武部追及の大きなプロジェクトの一環としてメールを週刊誌に持ち込んだのだ。カネ目当てではない。それは平沢勝栄の作り話だ。偽メールは偶発的なものではなく計画的なものである。

そこには前原誠司も何がしか絡んでいる。偽メールの計画性と前原誠司の関与、それこそが野田佳彦の言う「墓場まで持っていく」秘密である。

BIGLOBEの世論調査結果 - 前原誠司は党代表を辞任すべき
今日(3/10)になって渡部恒三から「永田寿康は議員辞職すべきだ」という話が出た。観測気球だが、予想どおりの動きである。昨日、自公が幹事長・国対委員長会談を開いて「永田寿康は自発的に議員辞職せよ」という認識で一致したという報があったが、この報道はNHKの7時のニュースで丁寧に放送された。与党のメッセージが示されている。懲罰の要求内容は「登院停止」で決定しているのだが、民主党の検証チームに揺さぶりをかけて、3/17までに永田寿康を議員辞職させろと迫っているのだ。つまり、3/17に国民を納得させられない出鱈目な検証結果を出したら、間髪を置かずに西澤孝を国会招致するぞと脅しているのである。議員辞職要求は本気だ。3/17の報告次第で再び偽メール政局になる。渡部恒三のこの動きにはもう一つの理由があって、それは党内事情、すなわち検証チームのデッドロックと権力闘争状況である。3/17のデッドラインは避けられない。だが、偽メール事件の真相を隠さずありのまま出すわけにはいかない。出せば代表辞任では済まなくなる。検証結果をどう発表するかは悩ましい問題で、西澤喚問は絶対に避けねばならず、収拾の落としどころは永田寿康の議員辞職以外にない。

この渡部恒三の観測気球は、検証チーム座長の玄葉光一郎の意を受けたものだろう。代表選前倒しは前原誠司に潰されたが、検証チームの中が紛糾して再び渡部恒三が勢いを取り戻したのである。日曜日の「サンデープロジェクト」がこの問題を大きく取り上げれば、来週の永田町界隈の動きはそれに影響されて「永田辞職」が焦点になる。永田寿康が議員辞職となれば、当然、責任問題が波及して前原誠司も代表辞任せざるを得ない立場になる。野田佳彦と永田寿康だけに責任を押しつけて済むのかという話になる。執行部と周囲は、できれば永田寿康だけに議員辞職させて、前原誠司は代表留任のままで手を打とうと立ち回るだろう。永田寿康を巧く辞職させられれば西澤孝招致の最悪の事態は避けられる。適当な辻褄合わせの検証報告でも何とか逃げられる。永田寿康に議員辞職を飲ませて、さらに真相の口チャックを得るためには、本人にカネを握らせる以外にない。最低でも五億か。本当は、永田寿康は全てを喋って潔く議員辞職すればよいのだが、2/23の辞職会見キャンセルと病院入りの騒動で機会を逸した。前原誠司と同じく「生き恥を曝す」処世を選んだわけだが、その選択の失敗のツケは実に大きい。

BIGLOBEニュースのサイトの中に偽メール問題での前原代表の責任を問うたアンケート調査のページがあり、現時点で下図のとおりの結果となっている。ブログの読者でまだ投票を済まされてない方は、ぜひとも清き一票をお願いしたい。投票者のリモホが保存されていて、投票は一回だけしかできない仕組みになっている。このアンケート調査で注目すべき点が二点ある。一点は有効票数が2403票で、偽メール事件関連で前原誠司の責任を尋ねた各種媒体調査の中で恐らくこの調査のサンプル数が最大のものであり、したがって世論の反映として数字の信頼性が高いという点である。二点目に、このBIGLOBEの投票は偽メール事件が起きた直後から始まり、集計と開票が続けられていて、現在まで三週間ほど時間をかけて調査が進められている点がある。これまで読売新聞やJNNでも調査結果が報道されてきたが、それらはどれも短期(二日間)の調査であって、すなわち瞬間的な世論(感情)の反映である。BIGLOBEの場合は調査に時間幅があるために、言わば時々の感情的な評価が均される結果となっていて、そのため読売新聞やJNNと比較して数値結果に世論の全体的な安定性が担保されていると言える。

私は実はこの集計を毎日観察していたのだが、当初は「代表を退くべき」よりも「関係者に謝罪すべき」の票の方が多かった。また両者の間にはずいぶん差の開きがあって、それは当時のマスコミの調査や論調と同じ傾向だったが、私はグラフを見てがっかりした記憶がある。ところが、2/22の党首討論の後から両者の票差が詰まって接戦になり、そして2/26の「サンデープロジェクト」の放送の後で「代表を退くべき」が逆転して第一位になった。その後はそのまま徐々に差を広げている。ブログを注目して読んでいる民主党の国会議員や関係者もいるだろうから、その事実を承知しておいていただきたい。「サンデープロジェクト」で見せた前原誠司の倣岸な態度の影響は大きかった。あれから偽メール事件は永田問題ではなく前原問題になったと言ってもいいだろう。党首討論翌日の2/23の朝だったと思うが、代表の責任問題について記者から質問された前原誠司は、「代表に責任があると言っているのはマスコミだけで、国民からは代表を辞めろという声は上がっていない」と嘯いていた。確かにその時点では前原誠司の強弁も多少の説得力はあったが、現在は違う。国民世論はこのとおり前原誠司に代表を辞めろと言っている。

この世論調査の秀逸なところは、クロスで集計を出しているところであり、その点で大いに注目すべき中身がある。集計画面のスクロールバーを下にドラッグして支持政党別のクロス集計に着目していただきたい。面白い結果が出ている。すなわち、自民党支持者においては「代表を退くべき」よりも「関係者に謝罪すべき」の方が多く、民主党支持者においては逆に「関係者に謝罪すべき」よりも「代表を退くべき」の方が圧倒的に多いのである。当然と言えば当然だが、民主党支持者の方が事件についての危機感が甚だしく、党の信頼回復のためには代表辞任しかないと深刻に判断している。自民党支持者が「代表を退くべき」に投票しないのは、言うまでもなく、前原誠司を代表に温存させた方が自民党の支配にとって都合がいいからである。前原誠司を支えようとしているわけだ。民主党関係者はこのクロス集計を凝視していただきたい。この民主党支持者こそ、前回の衆院選で民主党に投票した人々である。さて、政党支持別のクロス集計はもっと面白い結果を示していて、それは社民党と共産党の支持者が偽メール事件における前原誠司の責任問題に対してどう回答したかという問題だが、この点については稿を別にして詳しく論じたい。

ライブドア事件や偽メール事件への論評は「もううんざりだ」とか「飽きた」とか言っている政治音痴のバカ左翼がいる。こういう連中の愚昧と倒錯が前原執行部を支え、小泉政権を支えているのである。

2007年7月22日日曜日

【雑誌記事】 文芸春秋(手嶋龍一)

 『文芸春秋』3月号(現在発売中)に外務省を震撼(しんかん)させる論文が掲載された。

元NHKワシントン支局長で外交ジャーナリストの手嶋龍一氏による「小泉訪朝 破綻(はたん)した欺瞞(ぎまん)の外交」と題する論文だ。北朝鮮の謀略に乗せられた日本の外務官僚が、主観的には官僚生命を賭(と)して困難な外交課題に取り組んでいるのであるが、客観的には金正日の手の平の上で踊らされ、日本の国益を毀損(きそん)していく様子が実証的に描かれている。

2000年、ブッシュ共和党政権が誕生した後、金正日政権はアメリカが北朝鮮の体制転覆を本気で考えているとの認識を強めた。

「こうした情勢のなかで金正日は一枚のカードをそっと日本に差し出した。それが『ミスターX』だった。
やがてカウンターパートとしてあらわれたのが就任間もない田中均アジア太平洋局長だった。
(中略)北朝鮮は、権力を取り込んで大向こうをあっと言わせる田中の性癖を知り抜いていた」。

こういう場合、「ミスターX」が何者であるかは、インテリジェンス(諜報(ちようほう))技法を用いて調査することが常識である。日本外務省の実力でも、例えば朝鮮語(韓国語ではない)に堪能で、北朝鮮事情に通暁している某専門家にこの課題を与えれば十分こなす。また、CIA(米中央情報局)、SIS(英秘密情報部)、モサド(イスラエル諜報特務局)に照会すれば、人定はそれほど難しくない。

特にイスラエルは北朝鮮の弾道ミサイル開発を阻止する工作に従事したときに、朝鮮労働党や国防委員会の幹部との取引を含むさまざまな工作に従事してきたので、北朝鮮情報をたくさんもっている。
あるいは日本外務省がインテリジェンス専門家をウランバートルに派遣し、モンゴルの対外諜報機関に「ミスターX」の人定について照会すればよい。しかし、外務省はそのような調査を一切しなかった。

照会することによって、諸外国から横やりが入り、交渉が頓挫することを恐れたからである。
こういうときに日本側が知りたいのが「ミスターX」に関する情報のみであるとしても、ほかに20くらいの質問を紛らせておけば、目立たない。仮に日本が依頼したことが露見しても北朝鮮側は外国のインテリジェンス機関に調査されることには慣れているので、その程度のことで「ミスターX」ルートを閉ざしてしまうことはない。こういった「インテリジェンスの基本文法」を田中均氏が身につけていなかったことが筆者にはむしろ驚きだ。

手嶋論文で最も迫力があるのは、2002年8月21日の外務事務次官室でのやりとりを再現した部分だ。
谷内正太郎総合外交政策局長(当時、現外務事務次官)が田中均氏に小泉純一郎首相訪朝時に署名される予定になっている平壌宣言についてただす。

「『この宣言には拉致という言葉がまったく書かれていないが、これでいいのか』。
核心を衝かれた田中は、一瞬押し黙っり、短く応じている。『拉致問題については別途交渉していますから』 拉致問題をめぐる田中と谷内の永く険しい対決がこの瞬間から始まった」

田中均氏の見通しは甘かった。小泉訪朝で拉致問題に関する正確な情報を日本外務省は引き出すことができなかった。外交は結果責任である。この時点で田中均氏は少なくともアジア太平洋局長を辞任すべきであった。しかし、ポストにしがみついた。田中均氏の主観的意識では「自分以外に対北朝鮮外交の突破口を開くことができる人物はいない」と思ったのであろう。しかし、官僚はポストで仕事をする「国家の機械」である。当該官僚が余人をもって替え難いと思った瞬間に、そのポストを去った方がよいというのが、筆者が霞が関官僚の生態観察からえた経験則である。

田中均氏は有能な外交官で、自らの命を国益のために投げ出すという職業的良心をもっている人物であると筆者は認識している。それにもかかわらず、筆者が田中均外交について論評するときはいつも辛口になってしまうのは、同氏の手法に有能な日本型外務官僚が陥りやすいわなが凝縮されていると考えているからだ。

田中均氏は悪徳外務官僚ではない。真の黒幕は田中均氏の陰に潜んでいて、今も外務省周辺で、猟官運動を画策し、また自己保身のための情報操作に従事している。次回はこの真の黒幕について、筆者も腹をくくって明らかにしたい。
                         佐藤優(FujiSankei Business i. 2007/2/15)

◆『真の外務省改革』隠蔽された不祥事を白日の下に

前回連載で紹介した手嶋龍一氏の論文「小泉訪朝 破綻(はたん)した欺瞞(ぎまん)の外交」(『文芸春秋』3月号)では、2002年9月の小泉訪朝に対する世論の評価が厳しくなった後、自己保身のために豹変(ひょうへん)する当時の竹内行夫外務事務次官(現外務省顧問)、田中均外務審議官の様子が描かれている。「拉致問題で日朝の正常化交渉が潰(つぶ)されててしまえば、外務省は詰め腹を切らされてしまう-。そう考えた外務省の竹内と田中は、新たな核疑惑が持ち上がると、時に強硬姿勢をとるようになった。それは外交官特有の自己保身だった。核疑惑が原因で日朝交渉が止まるなら失敗の矛先を何とかかわすことができると判断したのだ。/彼らは日米同盟をないがしろにして暴走しながら、新たに浮上した核疑惑で失態をすり抜けようとしている-。米側高官はそんな彼らに不快感を露(あら)わにした」

的確な分析である。ここで最も狡猾(こうかつ)に振る舞ったのが竹内行夫氏だ。田中均氏に世論の非難が集中し、自宅に爆発物まで仕掛けられテロの標的になったのに対し、竹内氏には非難の矛先は向かわなかった。そして、「一局長の暴走」という物語が作られていくが、事務次官であった竹内氏の了承なしに田中氏が「暴走」することは不可能であった。筆者が前回連載で予告した田中氏の背後にいる黒幕とは竹内氏のことである。最近、筆者は外務省の局長級幹部と会食したが、その幹部も「竹内氏が事務次官をつとめた4年間(02~05年)の間に外務省は内部から変質し、組織崩壊の危機に陥っている」とため息をついていた。これが現実なのだ。竹内氏について筆者が知るいくつかの具体例をあげよう。

02年4月、竹内氏は、鈴木宗男衆議院議員と近いと目されていた東郷和彦オランダ大使ともう1人の大使を免官にした。東郷氏は事務次官室に竹内氏を訪ね、最後のあいさつをした。東郷氏は「私が免官になるのはわかります。しかし、なぜ××まで巻き添えにしなくてはならないのですか」とただした。すると竹内氏は薄笑いを浮かべ「君は知らないだろうが××に辞めてもらうのは鈴木宗男との絡みだけじゃないんだ。大変なことが起きているんだよ。余計な詮索(せんさく)をしないほうがいいんじゃないか」といった。その瞬間、東郷氏は××大使がスキャンダルを握られ、外務省組織に脅されているのではないかと感じた。実は、免官直前に××大使は筆者に電話をかけてきて「佐藤君、僕は決断した。辞めることにする。この組織が怖くなった」と伝えてきた。それからしばらくして、民主党の有力国会議員が国会で××大使のセクハラ疑惑を追及する。この情報も外務省から提供されたものと筆者は見ている。

ちなみに筆者や鈴木宗男氏に関する外務省の秘密文書が日本共産党に届けられた。その中には改竄(かいざん)文書もあった。当時、共産党で情報収集の責任者を務めていたのが筆坂秀世参議院議員であった。昨年、同氏は「これらの秘密文書は外務省から組織的に流されたと確信している」と筆者に述べた。この文書流出に対する処分は全く行われていない。このときの外務省事務方の最高責任者も竹内氏である。現在、防衛庁で中国原子力潜水艦の火災に関する情報を漏洩(ろうえい)した幹部自衛官に対する内部調査が行われており、近く、刑事訴追が予想されているが、政府機関である外務省から革命政党である日本共産党への秘密文書流出に関してはまともな調査すら行われていない。

05年末、外務省顧問となった竹内氏の私邸を記者が訪ねる。記者は竹内氏が事務次官を務めていた04年5月6日未明に中国公安当局から脅され自殺した在上海日本総領事館員についてただした。竹内氏はこの記者を自宅にあげ、竹内氏が情報源であるということを明かさないことを条件に情報提供を行った。筆者は具体的な話を、そのとき竹内氏が、鈴木宗男氏や筆者について何を語ったかを含めこの記者から直接聞いている。さらに、総理官邸幹部が、駐米大使人事を巡る竹内氏の猟官運動について、鈴木宗男氏に電話で話していた内容を筆者も横で聞いていたので正確に記憶している。

真の外務省改革を行うためには竹内行夫外務事務次官時代に起きた国民の目から隠されている不祥事を白日の下にさらすことが不可欠だ。竹内氏には応分の責任をとってもらう。このためにならば、筆者は国会の場に出て竹内氏と刺し違える覚悟がある。
                        佐藤優(FujiSankei Business i. 2007/2/22)

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『竹内行夫』
本来は、加藤良三氏が次官になるはずだったが、田中真紀子外相体制下、加藤氏では外務省を守り切れないということから、武闘派の野上義二氏が川島事務次官の後任になった。
竹内氏はインドネシア大使で終わりだったはずが、野上氏がパージされた為に、間違えて事務次官の椅子が竹内氏に回ってきた。これが外務省の基礎体力を奪うことになった最大の原因だった。

現在ではロシアのチェチェン問題は国際テロと関連している認識されているが、当時は米英が人権問題としてロシアを叩こうとしていた。日本は独自の情報から橋本・小渕両政権は「チェチェン問題はロシアの国内問題であり、ロシアが解決すべき問題だ」と明言していた。
小渕内閣の改造人事で高村正彦氏から河野洋平氏に外相が代わると、当時総合政策局長だった竹内氏は米英のお先棒を担いでG8外相会議でロシアを叩くという日本政府の方針を無視した暴走を行おうとした。
このとき鈴木宗男氏に厳しく問いただされた竹内氏は”河野大臣の意向なので”と弁解したという。
プライドを傷つけられた竹内氏はその後事務次官になると、恨みを晴らすかのように福田康夫官房長官や川口順子外相と組んで鈴木氏攻撃を行うことになる。
その後米国で9・11テロが発生し、ブッシュ大統領はチェチェンに関する認識に誤りがあった事をロシアに謝罪し、テロ対策での国際協力を要請した。ロシアのプーチン大統領は「チェチェン問題で、ロシアは国際テロリズムと戦っているという立場でブレなかったのは、西側主要国では日本だけだ」と評価した。

2007年6月25日月曜日

【与太話】 前原誠司

『前原誠司と「パソナ」、「創価学会」の繋がり』


(1)前原誠司と南部靖之「パソナ」
(※この関係から、前原誠司と清和会、創価学会とのつながりがおぼろげに見えてきます。)

南部靖之は、兵庫県神戸市出身の企業家であり、人材派遣会社株式会社「パソナ」創業者であり株式会社「パソナ」代表取締役グループ代表兼社長、であると同時に創価学会の信者であるとされる。

ベンチャー企業の起業家が一般的ではなかった1970年代当時、ソフトバンクの孫 正義、H.I.Sの澤田秀雄とともに、“ベンチャー三銃士”と称された。

創価学会・公明党のみならず自民党との関係も深く、小泉政権の総務大臣だった竹中平蔵を、「パソナ」の“特別顧問”及び“アドバイザリー・ボード”のメンバーとしている。政官界との人脈も豊富な南部が、2007年2月には、元総務相で慶応大学教授の竹中平蔵を、「パソナ」の特別顧問に採用して、周囲を驚かせたのは記憶に新しい。

なお、竹中平蔵を小泉に紹介をしたのは、ハマコー氏だとも言われているのだが、これは、ハマコー氏と小泉氏の選挙に大きく影響を及ぼしている、竹内清氏は兄弟分だとも言われている。そこからの推挙だとの話が流れているのだが、熱海については、かなりのことまではわかるのであるが、さて、横須賀の事。

また、前原誠司(民主党)とは、前原誠司の夫人である前原愛里が、創価短大卒業後に「パソナ」で、南部靖之の個人秘書を務めていた関係にあり、前原愛里は防衛庁の人材派遣を通した利権に関与しているとされる。そのために、民主党党首を辞任をした時に「これからは安保」でとの言葉を述べている。

「前原誠司の女房・前原愛里は以前、大手人材派遣会社「パソナ」社長・南部靖之の秘書をやっていました。
いわゆる南部靖之の非常に近い間柄であるという噂もあった。

前原誠司は京都府議時代、衆議院議員になろうともがいていたおであるが、なんせ先立つものがない。現実に彼前原の政治資金報告書では、夫人から2000万円の借り入れがそのままの状態で残っていた。

そこで南部靖之に近づき、南部靖之の愛人を引き受けることで、選挙費用を援助してもらい1993年初当選したという。南部靖之の資金援助は1993年の選挙だけだった」(民主党議員秘書)

前原夫人の前原愛里は現在、地元の公設第一秘書。

衆議院選挙直前、「フライデー」で「衆議院女性候補者および美人妻たち」に登場しているのだが、実にてきぱきとして卒がなく、清楚であか抜けた美人であった。

少し古い情報ではあるが、2007年の参議院選挙で冷や飯を食い続けた場合、「前原氏が党を割るだろう」と予測されていた。民主党の動向の中で、反小沢一郎代表の急先鋒である前原誠司を、自民党、それも安倍晋三の側に結び付けているのが、人材派遣大手「パソナ」の社長・南部靖之という話も流れていたのであるが、どちらにしても前原と安倍、そして南部氏の間の話には暇がない。

ただし、この話は、安部の辞任で頓挫をしてしまうのであるが、産経とパソナの結びつきも強いと言う。これは現実に何例か目にもしている。

一方で、南部靖之の政官界人脈、特に安倍首相とのつながりを如実に物語ったのが、2007年3月に明らかになった総務相『人材バンク』の仲介業務受注の事実である。「国家公務員の再就職先を紹介する総務省の機関である『人材バンク』は、再就職の斡旋ノウハウが乏しく、設置してからの7年間で1件しか仲介実績がない。

省庁の斡旋を全廃して天下り批判をかわそうとする、官邸主導の『新人材バンク』構想を実現するには、『人材バンク』の機構を拡充するしかない。そこで、再就職先探しの仲介業務を民間委託することが検討され、企画競争の結果、「パソナ」が選定された。

「パソナ」の国との契約は、今のところ無償ですが、紹介先企業から紹介料を得ます。「パソナ」の国との契約は、今のところ無償ですが、紹介先企業から紹介料を得ます。官邸が目論むように、省庁による再就職斡旋の全廃が実現すれば、「パソナ」にとっては大規模な事業となる。

実務にあたっていた当時の行革担当相・渡辺は、「『新人材バンク』の業務を民間に委託することはない」と言及しているが、当の南部靖之は、「我々には公務員の才能を細かく分析するプログラムを作る能力がある」と周囲に語っており、『新人材バンク』業務の一部は、確実に「パソナ」に委託されるとの見方が常識的だ。

その渡辺も、最近では民間に任せられるものは、民間に任せるべきだとの発言が多いのも事実である。



2007年6月21日木曜日

【メモ】 信濃町の投資先

出典
ゴールドマン・サックス証券会社の社報2007年6月社報から

個人筆頭株主が****の企業リストです。

●コナミマーケティング株式会社
●株式会社コナミスクール
●楽天株式会社
●楽天証券株式会社
●楽天トラベル株式会社
●ワイノット株式会社
●株式会社サイバード
●ギガフロップス株式会社
●株式会社ケイ・ラボラトリー
●ヤフー株式会社
●株式会社たびゲーター
●株式会社ブライダルネット
●株式会社インディバル
●株式会社ネットラスト
●株式会社レインズインターナショナル
●株式会社アートフードインターナショナル
●レッドロブスタージャパン株式会社
●株式会社レインズフードレーベル
●株式会社コスト・イズ
●株式会社グッドウィル
●株式会社グッドウィル・エンジニアリング
●株式会社ソア
●株式会社コムスン
●株式会社ライブドア
●ネットアンドセキュリティ総研株式会社
●株式会社ライブドアモバイル
●株式会社テントラー・コミュニケーションズ
●株式会社ライブドアテレコム
●バリュークリックジャパン株式会社
●株式会社ライブドアファイナンス
●ビットキャッシュ株式会社
●ウェッブキャッシング・ドットコム株式会社
●株式会社ライブドアクレジット
●株式会社ライブドアファクタリング
●ターボリナックス株式会社
●株式会社イーエックスマーケティング
●森ビル株式会社
●フォレストオーバーシーズ株式会社
●六本木エネルギーサービス株式会社
●ゴールドマン・サックス証券会社
●ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント株式会社
●キャピタル・サーヴィシング債権回収株式会社
●ビー・ピー・ジャパン株式会社
●ソースネクスト株式会社
●株式会社アンダーナ
●株式会社カナフレックス
●株式会社OLC・ライツ・エンタテインメント
●株式会社サモンプロモーション
●株式会社トゥインコミュニケ−ション
●株式会社M&Aコンサルティング
●JVCエンタテインメント・ネットワークス株式会社
●株式会社J-WAVE
●株式会社プロシード
●株式会社フレッシュネス
●株式会社フードスコープ
●株式会社ファンドクリエーション
●株式会社ザ・サードプラネット
●株式会社トライン
●株式会社ハーシー
●株式会社メディオポート

上記の企業は個人筆頭株主が****です。
個人筆頭は企業ではないのですが発言力は相当なもの
ライブドアに関してはesugakuが直接的に支配しています。
その株式だけの資産で約6千5百億円にのぼります。

2007年5月2日水曜日

【沖縄密約】 西山太吉氏'(外国人特派員協会会見)

2007年05月02日16時43分掲載  
沖縄密約

「違法機密の暴露はメディアの使命」 「沖縄密約」報道で西山・元記者が外国人特派員協会で会見

 外国人特派員協会(The Foreign Correspondents Club of Japan)は4月26日、東京・有楽町の会議場に西山太吉・元毎日新聞記者を招き、昼食会のあと記者会見を行なった。西山氏は約1時間余、佐藤栄作政権の「沖縄返還交渉」に関する背景を詳しく説明。「日米密約の存在が米公文書公開などで明らかになっても、日本政府は一貫して『密約はなかった』と主張し続けている」と、その不条理を厳しく批判した。その論旨は筆者(池田)を含めて既に報道されているので、ここでは氏の密約報道の経緯と日本のジャーナリズムの姿勢をめぐる外国人特派員との質疑応答を紹介したい。(池田龍夫)

 ──西山さんの話されたことはすべてが正しいと思う。しかし、第一報(毎日1971・6・18朝刊3面)の「400億ドル密約」に関する記事は目立たず、このほか具体的記事がなかった。どうして、明快な記事にしなかったのか。社会党の横路孝弘衆院議員に電文コピーを渡して質問させた(72・3・27衆院予算委)のはよくない。これは政治活動で、正当な取材活動ではないと思うが…。

 西山 「請求権疑惑」は6・18朝刊だけでなく、ほかにも書いている。当時、請求権問題を追求しているリポーターは、毎日新聞の西山1人だった。従って大々的に書けば、外務省内外で「西山の記事だ」とすぐ分かってしまう。いろいろ考えたが、(1)はっきり書けば、ニュース源がバレル恐れがある。(2)「毎日」がいくら紙面に載せても、政府は否定し続けるだろう。この2点から紙面化に慎重になった。

 沖縄返還交渉をめぐって、政府に揺さぶりをかけていた社会党は私の所にしつこく情報提供を求めてきた。ずっと社会党の要請を拒んできたものの、「〝秘密〟の存在を、国民にいかに伝達するか」を考え続けていた。そして遂に(国会閉幕寸前)、横路議員への電信文コピー提供に踏み切った。「書くか書かないか以前の苦渋の選択だった」ことをご理解いただきたい。この選択には、自分自身満足してはいないが…。

 ──新聞社と記者の関係について聞きたい。あの事件に懲りて、新聞社は権力におもねり、自己規制に走ったのではないか。新聞社は貴方を守ろうとしたか。

 西山 一審で私は無罪だったが、ニュース提供者が有罪判決を受けた。この責任を痛感して、直ちに毎日新聞社に辞表を出した。これはこれとして、新聞社の根本的姿勢はダメだった。私の逮捕・起訴によって局面は暗転し、日本のジャーナリズムは政府の秘密・不正追及を止めてしまった。ジャーナリズムの自殺行為ではないか。

 ところが、米国の情報公開によって日本のジャーナリズムは大問題に気づかされ、動き始めた。柏木雄介・ジューリック日米財務担当官が合意した「密約文書」が1988年9月米国で発掘されたのを皮切りに、2000年と2002年に「密約」を裏づける膨大な米外交文書が表に出てきた。

 さらに2006年2月、当時の交渉責任者、吉野文六・元外務省アメリカ局長が北海道新聞の取材に応えて、「沖縄返還密約はあった。スナイダー米代表と自分の間で作成した文書にサインした」と爆弾発言したのである。これら動かぬ証拠を根拠に「国家賠償請求訴訟」を起こしたが、07年3月27日の東京地裁判決で「除斥期間」を理由に賠償請求は棄却された。

 私の裁判(外務省機密漏洩事件)で検察側証人に立った吉野文六氏は「知らぬ、存ぜぬ」と18回も偽証し、歴代政府はその証言を唯一の根拠に、「密約はなかった」と強弁し続けてきた。その吉野氏が「密約があった」とすべてのメディアに暴露したのに、麻生太郎外相は「外務省(「密約はない」)と、吉野発言(「密約はあった」)のいずれを支持するのか。国民は外務省を支持するに違いない」と、現在も詭弁を弄している。論理的に、政府の弁明は破綻してしまっているのだが…。

 読売まで、社説(07・3・28朝刊)で「『密約』の存在をいまだに否定し続ける政府の姿勢は、ちょっとおかしいのではないか」と指摘していた。

 ──問題の「電信文」を、どのような形で入手したのですか。これまでも「密約」はありましたか。

 西山 私は当時、「秘密文書」の存在を知らなかった。「公文書」の回覧・確認のため、外務省内で各部署の事務官が書類を日常的に持ち運んでいる。私の親しい事務官がたまたま、問題の「電信文」をコピーして渡してくれた。それを読んで、初めて「日米密約」の裏取引を知って驚いた。

 岸信介内閣の時に、「核持ち込み」の密約があった。このことは、『佐藤栄作日記』に記されている。また、佐藤首相も沖縄返還交渉の際、「核持ち込み」を密約していた。

 ──最近、中国潜水艦の火災報道をめぐって、防衛機密漏洩が問題化しました。この点をどうお考えですか。

 西山 機密には、「実質秘」と「形式秘」があるが、中国潜水艦火災は実質秘ではなく、東シナ海での火災事故に過ぎない。何故あんな騒ぎになるのか。米軍の衛星探査機が火災を検知し、防衛省に流した情報がマスコミに漏洩したことを、米側が問題視して圧力をかけてきたのだろう。一般的に公開すべき情報までが、〝防衛機密〟を盾に伏せられてしまう。政府は「機密保護法強化」を狙っている。中国潜水艦報道に当たって、メディアは「この火災事故は秘密に当たらないケース」との視点からスタートすべきだった。徒に騒ぐのはよくない。今の新聞は、政府のペースにはまっているような気がしてならない。

 一方、「沖縄密約」は実質秘だが、〝違法秘密〟は暴くべきだ。国家として守るべき実質秘はあるのだろうが、私が告発したような〝政府の違法秘密〟は許せない。

 ──最後に、西山さんの思いとアドバイスを。

 西山 日本の官僚機構は異質で、完全に閉鎖社会。欧米と違って、権力構造は〝鉄壁〝だ。外務事務次官がエンペラーのような権力を持ち、都合のよい情報しか出さないのが現実だ。〝内部告発〟が最近叫ばれているが、日本では真の〝内部告発〟を期待できない気がする。だからこそ、この〝鉄壁〟を破るには、メディアの力しかないのだ。〝特ダネ〟にはイレギュラーな要素がつきまとう。〝違法機密〟のネタは並大抵のことではとれない。

 日本の民主主義のレベルは低い。一方、政府権力は情報を守ろうと狂奔する。そして、機密保護法を強化し、都合のいいように情報操作して国民を誘導する。日本国民は特に外交・安保に無関心すぎる。あの沖縄・参院補選の投票率が47%台とは情けないではないか。メディアも国民も批判精神をなくして時代に流されたら一大事である。ボヤボヤしていられない。

2007年05月01日11時19分
沖縄密約

物足りない在京6紙の「沖縄密約」判決報道 国家権力のウソ追及に及び腰 


  「沖縄返還協定」は1971年6月17日調印され、翌72年5月15日に沖縄は祖国に復帰した。当時の日米首脳は、佐藤栄作首相とニクソン大統領だった。「核抜き本土並み返還」が評価されて佐藤氏は74年ノーベル平和賞に輝いたが、負の遺産である「沖縄返還密約」の疑惑解明は一向に進まず、封印されたままだった。

 2000年の米外交文書公開以降、「米国が負担すべき3億2000万㌦を、日本が肩代わりする密約があった」経緯が次々明らかになり、30年近く「外務省機密漏洩事件」として葬られていた「沖縄返還交渉のナゾ」が再び注目を集めている。国家公務員法違反で有罪となった西山太吉・元毎日新聞記者が2005年4月、国を相手取って国家賠償訴訟(請求額3300万円)を東京地裁に提起。その判決が07年3月27日言い渡されたが、「原告の請求をはいずれも棄却する」と、わずか5秒の〝門前払い〟には驚かされた。
 原告側が吉野文六・元外務省アメリカ局長の「密約存在証言」など約80点もの証拠を提出、約2年・9回も審理したにも拘らず、加藤謙一裁判長は最大の焦点だった「日米密約」には一切言及せず、民法724条後段の除斥期間(20年)を盾に、肝心の「密約」に口をつぐんでしまった。密約を証明する証拠が続々出てきたのに、「除斥期間」という〝武器〟で政府側のウソを隠蔽してしまった。

 藤森克美弁護士が判決文を分析、ホームページに公表した一文が、簡明・的確なので参考に供したい。

▼歴史の真実から逃げた裁判長、裁判官

 (1)アメリカ公文書の発掘によって、沖縄返還協定内外の密約は計5本、2億0700万ドルにも及ぶ巨額なものであり、密約の大枠は1969年11月の日米共同声明発表の折の柏木雄介大蔵省財務官とジューリック財務長官特別補佐官との間で交わされた『秘密覚書』で決められていたのである。これらの事実は今や社会的、客観的に誰の目にも明らかである。密約の存在を裁判所が認めることになると、次に密約の法的評価が問われることになる。国会の承認を得ず、密約を交わすことは憲法73条3号但書違反であるし、予算の執行を伴う以上、予算に嘘を盛り込むので虚偽公文書作成・同行使(刑法156条、158条)に該当し、血税を目的外支出させることになるので、詐欺(刑法246条)ないし背任(刑法247条)に該当することは明らかであり、正に沖縄返還密約は佐藤栄作首相、福田赳夫蔵相、大蔵官僚らの権力中枢の国家組織犯罪であったことを認めなければならなくなる。
 沖縄返還密約が国家組織犯罪であることを認めるとなると、西山太吉を起訴し、公訴を追行した検察官の訴訟行為は違法となるし、西山を有罪とした最高裁決定も当然誤判ということにならざるを得ない。

 (2)本判決は密約の存在について全くの言及をしていない。「争点に対する判断」中には一行一言も触れていない。歴史の真実である密約から裁判長以下3人の裁判官は正に逃げ出したという外ない。裁判を受けたというよりも行政当局の判断を受けたに等しい。裁判官が事実と証拠から目を背け、逃げ出してどうする! 司法の権威は失墜し、国民の裁判に寄せる信頼はゼロに帰したという外ない。

 (3)除斥期間による損害賠償権の消滅、国務大臣らの発言・回答は原告個人に向けられたものではないとの判断も亦、行政当局の言い訳を聞かされているに等しい。

 (4)消滅時効、除斥期間と関係ない検察官の再審請求権の権限不行使の違法の請求原因については、結論しか書いておらず、検察官が巨大な密約存在を知っていたか、知るべき立場にありながら違法な起訴と訴訟追行をした先行行為としての違法性に対する判断理由、判断過程については何ら言及していない欠陥判決である。

▼今後の方針

 (1) 沖縄返還は巨大な密約の塊であり、それらの密約は権力中枢の国家犯罪であり国民主権、官治国家でなく法治国家の立場、納税者の立場から西山さんは当然無罪の冤罪であり、その名誉は国家から回復されるべきであるので、控訴して闘いを続ける。
 (2)また、刑事再審では、時効消滅、除斥期間論で裁判所が密約判断から逃げることができず、密約の存否の判断は得られるので、刑事再審の申し立てに是非取り組みたいと思っている。

▽沖縄県2紙が、判決当日の夕刊に速報

 当初「知る権利・取材の自由」をめぐって政府と報道機関の間に激しい論争があったが、「外務省女性事務官を欺いての取材→国家公務員法違反の罪」に擦りかえられて、「国家権力のウソ」が隠蔽され続けたのが、沖縄密約裁判30数年の流れである。従って、今回の判決についての検証紙面を期待した。果たして、各紙はどう応えたろうか…。

 3月27日の判決言い渡しが午後1時半すぎだったため、夕刊に間に合わなかったのはやむを得まい。ところが、沖縄県の『琉球新報』と『沖縄タイムス』は夕刊最終版一面トップに「西山敗訴」を報じていた。際どい時間帯だったのに、一部地域とはいえ速報に踏み切った価値判断を高く評価したい。沖縄県紙は、米軍基地の動向に本土紙より厳しい目を注ぎ続けているが、現在の米軍再編問題に絡めて「沖縄返還密約裁判」も執拗に追っており、28日朝刊でも大々的に紙面展開していた。
 もう一つ驚かされたのは、『北海道新聞』が28日朝刊一面トップに報じていたことだ。同紙は昨年2月、「吉野証言」をスクープしており、裁判の行方を熱心にフォローしていたに違いない。

 在京六紙(28日朝刊)を点検すると、『東京新聞』が社会面トップに報じた以外、朝日・毎日・読売・日経・産経すべて第二社会面3段扱いだった。政治的に難しい事件だけに、各紙の分析・視点の置き方を知りたかったが、残念ながら物足りない紙面だった。

 六紙のうち社説を掲げたのは三紙だけで、『読売』は「『密約』の存在をいまだに否定し続ける政府の姿勢は、ちょっとおかしいのではないか。……外務省の元アメリカ局長は『密約とは公表されていない交渉内容。この問題は米側文書で公開された』とも語っている。『外交秘密』として保護すべき正当な理由は、もはや見当たらない」と述べ、『東京』は「すでに相手側が公表している事実を秘密にすることは、少なくとも外交上は必要性がない。強いて理由をあげれば、『平和的に領土を回復した』と称えられた佐藤栄作首相(当時)の栄誉を傷つけたくない、ぐらいだろう。司法は存否を判断しないことで、国民を欺く、政府の密約隠しに協力したことにならないか」と指摘していた。『朝日』社説は一日遅れだったが、『毎日』が書かなかったのは腑に落ちない。

▽「日米関係の基礎 空洞化」

 米国の公開文書から「沖縄返還密約」を発掘した我部政明・琉球大教授が『琉球新報』(3・28朝刊)に寄稿した論評の一部を紹介したい。
 「確かに、この判決は、密約の存在を認めない日本政府の短期的な利益を守った。しかし、日米両国民の信頼のもとに長期にわたり安定させるべき重要な二国間関係の基礎部分に空洞を作ってしまった。この裁判を通じて国民は、政府はやはりウソをついていたと知ったのではないか。国民の政府への信頼感が失われては、成熟する民主主義国家とはいえない。慰安婦の存在を否定する現政権への海外からの視線が厳しいのと同様に、国民への情報公開に消極的な政府は見放される。

 もう一方でこの事件は政府が秘密にする情報と、どのように対峙すべきかメディア自身に問うていた。メディアは国民の『知る権利』の代理人である。それ以上でも、それ以下でもない。取材する側の特権がメディアに与えられているはずもない。この裁判をめぐる報道に、情報源を守りながらも報道の透明性の確保こそが、国民からの信頼に応えることだとの言及は乏しかった。その背景には、情報を握る政府への接近が、ときに記者をして権力におもねることを厭わない素地があると指摘できよう。それは、取材側が日々接する政治家や官僚の視点に、自ら立つという勘違いをすることではないだろうか。こうした事態が起きるとき『知る権利』は存在しなくなる。だからこそメディアにとっての『知る権利』は、権力に向かっては自らを奮い立たせるエネルギーであり、自身に向かっては市井の視点を知る『知る原点』となろう」

 実に含蓄に富む指摘で、それだけに「沖縄密約事件」の更なる検証と執拗な追究の重要性を痛感する。


2007年04月03日15時30分
沖縄密約

沖縄返還「密約」の判断を回避 東京地裁の「西山・国賠訴訟」判決 


 「原告の請求をいずれも棄却する」─。3月27日の東京地裁「沖縄返還密約・国家賠償訴訟」で言い渡された判決は、素っ気ない主文のみ。約2年間口頭弁論を積み重ねてきたのに、加藤謙一裁判長はわずか5秒で〝幕引き〟を宣言して退廷した。まさに、司法の名の下に国家権力側が示した〝門前払い〟である。

 1971年6月に日米間で調印された「沖縄返還協定」に関する公電を外務省女性事務官から入手し密約を暴いたスクープは、佐藤栄作政権を揺るがす大問題に発展した。毎日新聞の西山太吉記者=当時=(75)が国家公務員法違反で逮捕され、一審無罪のあと二審で逆転有罪、最高裁で有罪(懲役4月執行猶予1年)が確定したものの、「知る権利」が大きな争点の事件として特筆される裁判だった。

 事件から約30年の歳月が流れ、〝風化〟の扉を破ったのが、「日米密約」を裏付ける米国外交文書公開である。2000年と2002年に封印を解かれた米公文書により、「密約はなかった」と強弁していた日本政府のウソが白日のもとに曝されてしまった。〝国策捜査でペンを奪われた〟西山氏は故郷に長らく蟄居していたが、「政府の謝罪と3300万円の賠償」を求めて2005年4月東京地裁に国家賠償請求訴訟を提起した。次いで06年2月、日米交渉に直接関わった吉野文六・元外務省アメリカ局長が従来の否定発言を翻して、「日米密約はあった」とマスコミに証言、政府はさらに窮地に追い込まれた。

 政府の密約否定の〝ウソ〟を大方の国民は察知しており、今回の東京地裁判決が極めて注目されていた。ところが、加藤裁判長は、最大の焦点だった「日米密約」には一切言及せず、「仮に違法な起訴や誤った判断があったとしても、賠償請求権は民法の除斥期間(20年間)を過ぎて消滅している」として、原告の請求をすべて棄却して「密約」を封印してしまった。

 原告側が9回の口頭弁論の場に提出した証拠は約80、その中で「検察官らに24の違法行為があった」とも指摘したのに対し、被告側(国)は実質審理に応じる姿勢を全く示さず、形式論理に終始。「密約論議の土俵には上がらない」との姿勢で臨み、「除斥期間」を盾にした判決を引き出す法廷戦術に出た。

 東京地裁が公表した「判決要旨」はB5判約14頁で、「争点」を(1)刑事事件の高裁判決及び最高裁決定は誤判か(2)原告に対する被告公務員の違法行為の有無(3)民法724条の適用の当否(4)原告の損害の有無及び程度等(5)名誉措置の必要性――の5点に分類。このあと「裁判所の判断」が明記されている。苦渋に満ちた判決文を通読して、「初めに結論ありき」の印象を受けたので、原文に忠実に要点を紹介しておきたい。

   「沖縄密約・国賠訴訟」東京地裁判決の骨子

[民法724条後段適用の当否]
 民法724条後段の規定は、不法行為による損害賠償請求権の除斥期間を定めたものであり、不法行為による損害賠償を求める訴えが除斥期間の経過後に提起された場合には、裁判所は、当事者からの主張がなくても、除斥期間の経過により上記請求権が消滅したものと判断すべきであるから、除斥期間の主張が信義則違反または権利濫用であるという主張は、主張自体失当であると解すべきである。

 原告主張の(国家公務員法違反にかかわる)違法行為については、これらの各行為から20年を経過した後に本訴が提起されたことが明らかであり、かつ、民法724条後段の規定の適用を妨げる事情は証拠上何ら認められないから、仮にこれらの行為について不法行為が成立するとしても、国家賠償法4条及び民法724条後段により、これらの行為に関する損害賠償請求権は既に消滅したとものというべきである。

 従って、原告主張の違法行為に関する請求はいずれも理由がない。

[検察官、政府高官及び国務大臣の原告に対する違法行為の有無]
 本件に顕れた一切の事情を検討しても、検察官において、本件刑事事件につき具体的に再審請求をしなければならない事情があるものとは考え難く(検察官でなければ再審請求をすることが著しく困難であるとの事情も見当たらない。)、検察官がその義務を負うものと認め難いというべきである。そうすると、検察官が再審の請求をしないことが、国家賠償法上、違法な行為であるとはいえず、この点についての原告の主張を採用することはできない。

 原告が指摘する国家公務員及び国務大臣らの発言・回答は行政活動に関する一般的なものにすぎず、原告個人に関してされたものとはいえないし、一般人の普通の注意と読み方・聞き方を基準として、当該発言回答が原告に関するものであることを認識しうる程度に特定性・具体性を有しているということもできない。原告主張の違法行為(羽田浩二外務省北米第一課長の回答及び河相周夫外務省北米局長の発言)においては、「西山氏の御発言については承知しておりません。いずれにせよ同氏個人の御発言について政府としてコメントする立場にないと考えます」との回答ないし「…日米間の合意というのは日米返還協定がすべてでございまして、それ以外の密約は存在していないということでございます。」との発言が、一般人の普通の注意と読み方を基準として、原告の社会的評価を低下させるに足りるものであると認めることはできない。したがって、この点についての原告の主張は理由がない。

 原告は、平成12年5月24日ころ、朝日新聞の米公文書発見報道に対して、外務省職員と河野洋平外務大臣は、吉野文六に電話して、「(報道の問い合わせに対して)『密約はない』と否定してほしい。」と懇願し、原告の名誉回復の機会を奪い、この行為は原告に対する不法行為を構成すると主張する。しかし、外務省職員と河野洋平外務大臣が上記行為をしたと認めるに足りる的確な証拠はなく、この原告の主張を採用することはできない。

 よって、その余の点について認定・判断するまでもなく、原告の請求はいずれも理由がないことに帰する。

        ――――◆――――

 原告側は「時効の起算点は、米公文書が発掘・報道された2002年6月とすべきだ。除斥期間を画一的に当てはめることは公平に著しく反し、権利乱用に当たる」と主張したが、上記のような〝三百代言〟的判決で、賠償請求の道を断ち切ってしまったのである。

 閉廷後、東京地裁内の記者クラブで西山太吉氏と藤森克美弁護士が記者会見、次いで弁護士会館で「沖縄密約訴訟を考える会」の報告会も開かれ、両氏から〝肩透かし判決〟に対する厳しい批判と今後の決意が表明された。

 西山太吉氏 こちらが目指したものは、全部肩透かし。想像していたものの中で、一番グレードの低いものが出てきた。除斥期間という武器で何でも抹殺できる、これが国家機密裁判だ。行政のメンツを守るためだけで、日本に司法がないことを証明するような判決だった。歴代外相が密約を否定し、それを社会、メディアが容認する。これは先進国じゃない。
 権力は〝鉄壁〟…生やさしいものじゃない。しかし、法廷は自分にしかできないジャーナリズムの場。勝ち負けはあるにせよ、問題を発信し続けていくことに意義がある。

 藤森克美氏 密約の存在に触れず、除斥期間という一番楽な方法で結論を導き出したと言わざるを得ない。木で鼻をくくったような判断で、非常に志の低い判決だ。控訴はもちろんだが、民事では〝つまみ食い〟判断されやすい。この際、(除斥期間で逃げられず、密約の存在の判断を避けられない)刑事再審を求めたいと考えている。

 吉野文六・元外務省アメリカ局長は2006年2月、北海道新聞の取材に応じ、「沖縄返還交渉当時の米国はドル危機で、議会に沖縄返還では金を一切使わないことを約束していた背景があった。交渉は難航し、行き詰まる恐れもあったため、沖縄が返るなら(本来、米国が負担すべき)土地の復元費400万ドルを日本が肩代わりしましょうとなった。当時の佐藤栄作首相の判断だ。……交渉当初は米国が無償で沖縄を返すと言うので、佐藤首相もバーンとぶち上げた。ところが、先ず大蔵省が折衝を始めたら、米国はこれだけ日本でもってくれとリストを出してきた。外務省は驚きましたよ。(協定7条で日本側が負担する)3億2000万ドルだって、核の撤去費用などはもともと積算根拠がない。いわばつかみ金。あんなに金がかかるわけがない。費用を多くすればするほど『核が無くなる』と国民が喜ぶなんていう話も出た。3億2000万ドルの内訳なんて誰も知らないです。……西山さんの言っていることは正しい。だから機密扱いなんです」と初めて密約を認めた(道新06・2・8朝刊)。

 この後も各報道機関に同趣旨の証言をしており、密約問題のキーマン的存在になった吉野氏だが、今回の判決内容を聞いて「西山さんは本物の電文(公電)を入手して報道したがゆえ罰せられた」(毎日07・3・28朝刊)、「法律の目的は真理の探求ではなく、みんなが平和に収まることだから、この判決は妥当だと思う。ただ、僕は裁判で罰せられても真理を探究する西山さんは偉いと思う」(道新同日朝刊)などと、感想を述べていた。

 「沖縄密約訴訟を考える会」世話人の田島泰彦・上智大学教授は新聞数紙の取材に答え、「米公文書や吉野発言などで密約は証明されており、西山さんを国家公務員法違反で有罪とした根拠はなくなった。当時と状況は変わっているのに東京地裁判決は全く触れず、除斥期間を中心とする法的な形式論だけで退けてしまった。司法が本来すべき判断を示さず、歴史の真実を隠した。非常に残念な判決だ」と、地裁判決を厳しく批判している。

 原告側は東京地裁判決を不服として控訴。一貫して「密約」の存在を否定している政府の厚い壁に挑む原告側との厳しい攻防は、今後さらに続くに違いない。



2007年02月22日10時47分掲載  
沖縄密約

「沖縄返還密約」裁判の今日的意義 3月27日に「国家賠償訴訟」判決 


  太平洋戦争後27年間も米軍占領下にあった「沖縄」が、祖国に復帰したのは1972年5月15日。あれから35年の歳月を経て、沖縄は〝平和の島〟を取り戻せたろうか。今なお米軍基地の75%が集中している現状は深刻である。在日米軍再編をめぐる動きが大きな政治課題になっている今、沖縄返還時の「密約」に関する裁判が注目されている。
 「密約の存在」をスクープした西山太吉・毎日新聞記者(当時)は、佐藤栄作政権の国策捜査(外務省機密漏洩の疑い)で有罪判決を受け、30余年蟄居し続けてきた。その西山氏が2005年4月25日、「密約を知りながら違法に起訴したうえ、密約の存在を否定し続けたことで著しく名誉を傷つけた」と、国に謝罪と約3300万円の損害賠償を求める訴訟を提起。1年半に及んだ東京地裁(加藤謙一裁判長)の口頭弁論が昨年末結審し、3月27日に判決が下される。

 沖縄返還密約を告発した西山氏が、30数年前の日米関係と現在の米軍再編の類似性を的確に指摘しているので、その一部を紹介したい。
 「〝歴史は繰り返す〟というが、今回の日米軍事再編の動きをみていると、まさに、あの沖縄返還時の手法そのものの再現といっても、決して言い過ぎではない。いや、〝繰り返す〟というよりは、あの当時まいたタネが、その後芽を出し、どんどん成長して、この手狭な庭園の中で、必要以上に深く、広く根を張りめぐらすほどの巨木としてもはや、ちょっとやそっとで動かすことのできない存在にまでなったと言ったほうがいい。しかも、この巨木の周囲には、〝立ち入り禁止〟の柵が張りめぐらされた感すらする。

 これまで、二度にわたって公開された米国の外交機密文書(2000年・02年)、さらには先に世間を驚かせた吉野文六元外務省アメリカ局長の証言(2006年2月)にみられるように、米国は、沖縄返還に際し二つの基本方針で臨んだ。一つは巨大な沖縄の軍事基地の自由使用であり、ほかの一つは、基地関係諸経費の日本側による肩代わりの推進である。この二大方針に基づいた米国の強い要求に対し、日本側は、大幅な譲歩をもって応じ、対米コミット(約束)を国内に流した場合の摩擦や混乱を避けるため、あるものは隠し、あるものはウソをつくといった外交史上例のない情報操作を繰り広げ、交渉成果の〝美化〟(吉野証言)に奔走したのである。

 例えば、〝核抜き〟の問題では、それを『永久秘密』とすることを予め想定してか、正式な外交ルートとは別に、『密使』をもって衝に当たらせ、表向きは〝核抜き〟をうたいながら、裏では、緊急時における核の沖縄への持ち込みについての日米両首脳による秘密合意議事録の署名という政治犯罪をやってのけた。また、返還後の米軍基地の扱いについても、『返還が先決であり、そのため実質的な話し合いは、ほとんどしなかった』(吉野証言)にもかかわらず、『都市部を中心に、基地の整理縮小を推進する』と宣伝し、『基地返還リスト』を公表したのである。これがいい加減な〝空手形〟であったことは、30数年経った今、沖縄の米軍基地が、日本全体の75%を占めているという事実が証明している。

 財政面では、米側支払いの形をとったⅤOA(ボイス・オブ・アメリカ)の沖縄外への移転や米軍基地の復元補償などを対米支払い3億2000万ドルの中に含める一方、今日の『思いやり予算』の原型ともいえる米軍施設改良・移転工事費6500万ドルを地位協定からはみ出していることと、対米支払いの増大につながる(米外交機密文書)という判断から、ついに発表しないまま実行に移し、さらに円をドルに交換して、無利子のまま米国に自由に使わせて1億1000万ドル以上の便宜供与を実施したことも公表しなかった。
 以上の対米支払い根拠の偽装と復元補償費の肩代わりや、6500万ドルの件は、返還時に暴露された電信文中に明記されていたが、ほかの問題も、すべて米外交機密文書により詳細が表面化し、吉野氏もこれを追認したのである。」

 「日米軍事再編――沖縄返還の今日的意義」と題する西山論文(『琉球新報』06・5・15~17掲載)のほんの一部を紹介させてもらったが、見事な〝今日的分析〟である。「在日米軍再編推進特別法案」が2月9日閣議決定され、〝日米軍事一体化〟が加速されている現状が、〝歴史は繰り返す〟を実証しているように映る。「今回の日米軍事再編は、日本側からの双務的協力の方向を固定化するとともに、これを拡充するための突破口をつくり出すことにある。沖縄返還が安保変質の原点であるとすれば、今度の再編はその集大成であり、究極の変質と言ってよい。このことは、憲法第9条の〝改憲〟への外堀を埋めることを意味する」という西山氏の指摘はズシリと重い。

▽生かされなかった「朝日1998年のスクープ」

 「沖縄密約問題とジャーナリズム」と題する研究会が2月3日岩波セミナーホールで開かれた。「日本マスコミ学会ジャーナリズム研究部会」主催で、マスコミ研究者やジャーナリストが多数集まって、熱っぽい論議を交わした(講師に招かれた西山太吉氏の発言内容は、インターネット新聞『日刊ベリタ(2・5)』参照を)。
 「沖縄密約問題」が再び注目されるようになった契機は、「2000年の米機密文書公開」以降と言われてきたが、それ以前に二つの重要な指摘があった。しかし ジャーナリストも研究者も追究を怠っていたことが、今回のセミナーで取り上げられ、反省をこめて「ジャーナリストと研究者の連携」などにも論議が及んだ。

 2000年の米機密文書公開以前の文書は1998年の朝日新聞記事と、1999年の政策研究大学院大学の「オーラルヒストリー」に応えた吉野文六証言の二つだが、朝日新聞98年7月11日夕刊1面トップに掲載された「特ダネ」をきっかけに、この問題を掘り下げる意識を持たなかったのは、〝ジャーナリズムの敗北〟と指摘されても抗弁の余地はあるまい。98年の朝日記事は、2000年公開文書のエッセンスが書き込まれている貴重な資料だ。
 [注=「吉野・オーラルヒストリー」が公になったのは2006年以降だった]

 「沖縄返還時/米軍移転費を秘密補償/大蔵が覚書/協定外に6840億円」との見出しを掲げたトップ記事で、「沖縄返還に日米政府が合意した佐藤・ニクソン日米首脳会談直前の1969年11月、当時の福田赳夫蔵相が米財務当局に沖縄米軍施設の移転費などを日本側が負担することを約束し、日米財務当局で秘密覚書を取り交わしていたことが、我部政明・琉球大教授が入手した米国立公文書館の外交文書や関係者の話で明らかになった。日本は沖縄返還協定に記載された対米補償額3億2000万ドル(当時の為替レートで1152億円)とは別に、在日米軍基地改善費などとして1億9000万ドル(同684億円)を秘密裏に米側に補償していた。公表分の補償額についても、核撤去費を実際より大幅に水増しし、核とは無関係の米軍施設移転費用などに転用することを黙認していた」と前文に明記していた。

 このあとの本文74行には「沖縄返還後に米大使館が作成した報告書では、沖縄返還協定に記載された対米補償額3億2000万ドルの使途についても、日本政府の公式な説明と食い違いを示している。日本政府の発表では、核撤去費用として7000万ドルが米側に手渡されたが、米側が実際に核撤去に使ったのは500万ドルに過ぎなかった。かわりに日本側発表にはない米ラジオ局ボイス・オブ・アメリカ(VOA)の移転費や『その他支出』などに計7800万ドルが使われており、核撤去費や『労働コスト増大分』の保証金が転用された実態を明らかにしている。柏木・ジューリック両氏の交渉は71年4月ごろまで続いており、同年6月の返還協定調印式までに最終的な秘密合意を結んでいた可能性が高い」など〝密約の存在〟を推察できる記述は、本質を衝くものだ。

 同紙2面の解説では、「文書は『沖縄の買い戻し』が明るみに出ることを福田蔵相ら当時の財務当局が恐れ、その費用を予算に計上させない方法に腐心しながら米側に『機密扱い』を求める経緯にも触れている。その結果得をしたのは、『より大きな経済的利益』を得た米国であり、交渉の『影の部分』を見せずに領土回復という政治的成果を達成した佐藤政権だった。……4半世紀が過ぎた今も、普天間飛行場、那覇軍港などの返還は、代替施設の建設に地元が反発し、暗礁に乗り上げたままだ。普天間基地返還に伴う海上基地建設問題などで、この『覚書』が前例になっていないか――」などと指摘していた。
 この記事から9年も経過した「沖縄基地の現実」の解説としても通用する内容ではないか。「沖縄返還の今日定意義」を痛切に感じるのである。

2007年01月05日18時07分
沖縄“密約”は明らか 「西山太吉・国家賠償訴訟」結審、3月27日に判決 


 沖縄返還交渉をめぐる“密約”問題は、35年経ってもベールに閉ざされたままだ。佐藤栄作・ニクソン日米両国首脳が交わした“密約”の存在が、米外交文書公開などで明らかになってきたのに、日本政府はいぜん隠蔽し続けている。この問題は、元毎日新聞記者・西山太吉氏(75)が1971年5月から6月にかけて入手した極秘電信文に、「米側が支払うべき軍用地復元補償費400万ドルを、日本側が密かに肩代わりする」と記載されていた事実を暴露したのが発端。佐藤政権は、密約を隠蔽するため“国策捜査”ともいえる姿勢で臨み、「沖縄返還密約事件」を「外務省機密漏洩事件」にすり替えて、西山氏と外交資料提供の女性事務官を逮捕、有罪にしたのである。その後、2000年の米外交文書公開を突破口に、“日米密約”を裏書きする新証拠が続々出てきた。

 西山氏は2005年4月25日、「密約を知りながら違法に起訴したうえ、密約の存在を否定し続けたことで著しく名誉を傷つけられた」と、国に謝罪と約3300万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。同年7月の第1回口頭弁論から1年半、9回の弁論を重ねてきた。

 第9回口頭弁論は2006年12月26日、東京地裁で開かれ、加藤謙一裁判長が冒頭「今回で弁論を終結する」と申し渡し、最終審理に入った。原告・被告双方の提出文書を確認したあと、原告代理人・藤森克美弁護士が10分余にわたって最終弁論を行なったが、裁判所に[甲70号書]として提出済みの澤地久枝著『密約──外務省機密漏洩事件』」の主要個所を紹介しながら、「密約の本質は明らか」と訴えた。淡々とした語り口に説得力があり、加藤裁判長が身を乗り出すようにして耳を傾けていた姿が印象に残った。藤森弁護士が法廷で読み上げた、澤地氏の鋭い指摘の一端を再録し、参考に供したい。

 「昭和46(1971)年6月17日の沖縄返還協定までの外交交渉において、佐藤栄作内閣ならびに外務省中枢の主務者たちによって米国政府との間に《密約》が結ばれた。相手国あっての外交であれば、限られた期間、守られるべき秘密があることは当然ともいえる。しかし、代理民主制を建前とするこの国で、国民にも知らせることのできないような国家機密は、きわめて限定されるべきであろう。譲歩につぐ譲歩、妥協につぐ妥協によって、基地の島沖縄をそのまま買いとったのが返還交渉の実情であり、蓮見→西山の連繋によって辛うじて公けになった基地復元補償400万ドル肩代わりは、いわばかくされた《密約》の氷山の一角に過ぎない。真実の全容は闇から闇へである」

 「アメリカが議会に対する約束を楯として、沖縄返還にあたり1ドルの支出もできないことを強く主張して『国益』と議会に対する信義を守ったのであれば、日本側は、国会(ならびに主権者)に対して、妥協譲歩しつつ沖縄返還の実をとらざるを得ない歴史状況・政治力学を明らかにする義務があったと私は思う。しかし、『密約なし』と国会で強弁をくりかえした佐藤首相は、日米間の電信文という動かぬ証拠をつきつけられて、あたかも政治責任をとるかのような意思表明をしながら責任を回避、検察当局は《密約》暴露に一役買った男女を告発し、いわゆる『下半身問題』を表面化させることで世論の矛先をそらさせると同時に、問題の本質を比較もならない卑小で低次元なものにすりかえてしまった」

 「『情通問題』の目つぶしをくらって世論が流れを変え後退する中で、昭和47(1972)年5月15日、傷だらけの沖縄はともかく27年ぶりに本土に復帰し、6月17日、佐藤首相は7年8ヵ月という首相としての最長不倒記録を確立して、引退の花道を去っていった。佐藤首相としては、最長不倒の記録の最後の花が、沖縄本土復帰の実現であり、その内幕について誰からもうしろ指をさされたくない心境であったことは推測できる。しかし、主権者の投票によって選ばれた政治家であり、与党であり、さらに政権担当者であることを考えれば、肩代わり400万ドルの損出を生じ、余分な税金を使った責任は、タックス・ペイヤーである国民に対して明らかにするべきものであったはずである。だいたい、基地復元補償の一点に限ってでも、ともかく日本の主張が通ったという見せかけをつくるために、わざわざ肩代わりの財源を提供する姑息な面子とはなんだったのだろうか。それが国家公務員法でいうところの『国家秘密』とよび得るものであったかどうか。ごく平静に常識的に判断をすれば、結論は『否』でしかない。だが、政治家たちや外務高級官僚たちの政治責任は問われることなく、裁きの場に一組の男女が被告人として残された。そして控訴審では西山氏一人になった」

 「法律の世界とは、奇妙な世界である。事柄の本質からみれば枝葉の部分にいる人間を国家公務員法違反の罪に問う。そして、西山氏は『国家秘密の取材』にかかわって法廷で裁かれる最初の新聞記者であった。『国家秘密』を取材した新聞記者が罪に問われる法律があるなら、国会と主権者に対し欺瞞と背任をおこなった政治家を告発する法律があってもよさそうなものである。しかし、『国民の知る権利』という正統的で受身な主張はなされたが、主権者の側からの法律上の告発はなかった。選挙がそれにかわるものとして存在するわけだが、投票する側の意識にはその因果関係の自覚は希薄であったように思える。『国家秘密』とはなにか。報道の自由とはなにか。西山氏の蓮見さんに対する言動が国公法の『そそのかし』に該当するか否か。法廷の争点はここへ絞られて、沖縄返還の内実も佐藤内閣の本質すりかえの責任も法廷では問われない。起訴状にそった検察対弁護側の応酬がくりかえされるのが裁判である。それが常識・常道であるとはいえ、事件の本質の質量に比べてきわめて限定されたたたかい──。それが裁判というものに約束された世界であった」

 「沖縄返還密約事件」裁判を熱心に傍聴、最高裁判決に至る経過を検証し問題点を探り続けた作家・澤地久枝氏の分析力・洞察力に改めて敬服した。30余年前に書かれたものだが、視点の鋭さはさすがだ。「西山国賠訴訟」の最終弁論に立った藤森弁護士が、その内容の一部を引用しながら、「密約の存在」を暴く補強材料に使った意図が分かる。

 藤森弁護士は、最高決定後に発掘された「2000年・2002年の米外交文書」のほか、「(1)柏木・ジューリック合意(2)吉野・シュナイダー密約(3)米国の『ケーススタディ』」、さらに「吉野元外務省アメリカ局長の爆弾発言」などの新証拠をあげて、原告側主張の正当性を主張。再度、澤地氏の「この事件の本質を見すえるところから私たちは歩きはじめるべきなのであろう」という下りを引用し、「その歩き始めが今回の国賠訴訟である。……真実を洞察し、歴史(の審判)に耐える判決を期待する」と述べ、最終弁論を締め括った。

 閉廷後に藤森弁護士は「2005年4月25日の提訴から1年8ヶ月、ついに弁論は終結した。当初入手できた資料は、米公文書と吉野・井川両尋問調書、刑事1~3審判決のみという手探りの状態でスタートした裁判だったが、各方面の協力を得て密約の事実および刑事判決・決定の誤判性について立証できたと思う。国側は最後まで実質的な認否・反論はせず、本質的な争いを避け、あくまでも形式論で逃げる戦術を取り続けた。裁判所においては、形式的な判断に依らず、証拠に基づく公正で厳密な事実判断と問題の本質を踏まえた実質的判断がなされるよう、裁判官の良心と勇気に期待して、2007年3月27日の判決言い渡しを待ちたいと思う」と述べ、傍聴人へ謝意を表した。

 [注]澤地久枝著『「密約──外務省機密漏洩事件」』。中公文庫版は絶版になったが、2006年「岩波現代文庫」で復刊。『第13章 新たな出発』からの引用。

【外務省】 外務省 外交文書 公開に関する規則

「外交記録公開に関する規則」骨子

【基本的考え方】

●30年経過した文書は自動的公開を原則とする。
→非公開部分は真に限定する。
→30年経過文書は「移管」又は「廃棄」を原則とする。
(「延長」は原則行わない。)
→保存期限が30年未満の文書は「延長」又は「廃棄」を原則とする。
(外交記録公開推進委員会からの特段の要求等がある場合には「移管」も可。)

●公開文書の歴史的意義等は「文書自体に語らしむ」との習慣を定着させる。

1.外交記録公開審査の対象
(1)作成から30年以上経過した行政文書
(イ)昭和53年末までに作成された文書(永年保存ファイルを含む)(約22,000冊)。
(ロ)今後、30年の保存期間が満了するもの(約2,000冊/年)。
(2)30年未満の保存期間が満了した行政文書

2.自動的公開の原則(非公開部分の限定)
●作成から30年以上経過した行政文書は、原則自動的に公開する。
●非公開部分は、現時点及び将来的に具体的な悪影響が生じるものに限定する。
情報公開法及び公文書管理法の関連規定を踏まえると、例えば、以下の情報
が想定されるが、以下に該当するものでも非公開とする部分は真に限定。
(1)個人に関する情報(個人の権利利益を害するおそれがあるもの等)
(2)法人等に関する情報(正当な利益を害するおそれがあるもの等)
(3)国の安全、他国との信頼関係等が現時点及び将来的に損なわれるもの。

①現時点及び将来的に国家の安全保障等に悪影響を与える情報
②現在及び将来的な交渉に悪影響を与える情報等

3.非公開部分に関する判断の流れ
●一次審査:官房総務課にて外務省OBも活用しつつ一次的判断を行う。
●二次審査:その上で、主管課室にて念のため必要最小限の確認を行う。
●最終判断:外交記録公開推進委員会(以下、委員会)が妥当性を判断し、
大臣の了承を最終的に得る。

4.既に30年以上経過した行政文書の公開手続(1.(1)(イ)の文書)
①委員会が、公開審査の優先順位を決定して、大臣の了承を得て、官房総務課長に
通知する(委員会の各種決定においては、有識者の意見を求めることができる。)。
②官房総務課長は移管審査を行い、廃棄・移管について判断する。(原則として延長
は行わない。)
③・④・⑤官房総務課長は審査結果を委員会に報告し、委員会はその妥当性を判断す
る。委員会は、大臣に報告し、その了承を得る。
⑥官房総務課長は、一次審査を行う。主管課室長は、期限を定めて二次審査を行い、
結果を官房総務課長に報告する。
⑦官房総務課長が必要と認める場合は、非公開部分について、主管課室長に対して、
再審査を指示できる。
⑧官房総務課長は、外交史料館の意見も踏まえ、公開審査結果(公開ファイルの非公

5.(参照) http://www.mofa.go.jp/mofaj/public/pdfs/kisoku_kosshi.pdf

6.30年未満の行政文書の公開手続(1.(2)の文書)
官房総務課長及び主管課室長は、外交史料館の意見も踏まえ、移管審査により主として
保存期間の延長又は廃棄を判断する。
(外交記録公開推進委員会からの特段の要求等がある場合には「移管」も可。)
→移管をすることとなる場合には4.の流れと同じ。

7.行政文書の廃棄手続
(1)既に作成から30年以上経過した行政文書
官房総務課長(主管課室長)が移管審査及び公開審査において、外交史料館の意見も踏まえ、廃棄の是非につき初歩的な判断を行う。
(2)今後30年の保存期限が満了する行政文書
官房総務課長及び主管課室長が移管審査(保存期間満了の前年の9月に開始)及び公開審査において、外交史料館の意見も踏まえ、廃棄の是非につき初歩的な判断を行う。
(3)保存期限30年未満の行政文書
官房総務課長及び主管課室長が移管審査(保存期間満了の前年の9月に開始)及び公開審査において、外交史料館の意見も踏まえ、廃棄の是非につき初歩的な判断を行う。
→いずれも廃棄相当と判断される文書のリストを委員会に提示し、委員会がその妥当性を判断し、最終的に大臣の了承を得る。

8.行政文書として保存期間を延長した文書及び非公開部分のその後の扱い
→5年が経過した時点で、官房総務課長及び主管課室長が移管審査及び公開審査を改めて行う。

9.対外公表方法
(注)本件規則は、公文書管理法施行(平成23年4月予定)に伴い、関連の政令等との整合性を図るため一部見直しを行う必要が出てくるものと思われる。

→公表の手続を終えたものから、ファイル名を定期的に対外公表し、外交史料館で閲覧できるようにする。
(現在の霞クラブのみに限定したエンバーゴ付きの公表方式を改め、すべてのプレス・学者等が同時に公表情報にアクセスできる「静かな公開方式」とする。)

2007年4月17日火曜日

軍事戦略の原点

 米国海軍の元少将のJ・S・ワイリーによって1967年に出版された「The Military Strategy: A General Theory of Power Control」という本がある。 

その、J・S・ワイリーの”The Military Strategy: A General Theory of Power Control ”の日本語版(奥山真司訳)が”軍事戦略の原点”である。書籍そのものはハードカバーからソフトカバーへと変えられページ数も少々厚手の岩波文庫程度のものである。

”The Military Strategy: A General Theory of Power Control”と言う本そのものは、マイナーな本ではあるがJ・S・ワイリー元少将は、アメリカ海軍では天才とまで言われた人物である。この本自体は戦略学理論の入門書と紹介されているが、一般的な戦略書とは趣が異なり軍事のみならずビジネスおよび国家にも応用できる一般的な戦略理論を構築する際の総合な基礎として活用ができる書ともいえる。

”The Military Strategy: A General Theory of Power Control”そのものは、欧米の戦略学の分野では古典的名著として評価されている模様である。自分が手にした”軍事戦略の原点”は2007年の春先に日本で発売されたものである。

この本の中でのポイントは、「戦略」とは何であり「戦術」とはどう違うのかシンプルな議論から始まり、「累積戦略」と「順次戦略」という二つの戦略のパターンに関する解説をしている。戦略の分類として、陸上・海上・航空・毛沢東のゲリラ戦の4種に分類している。また、陸海空の戦略が異なるのは当然で、目的に合わせた統合運用について60年代にその必要性に目を付けている。

 また、戦略のアプローチとして、華々しい戦闘を続ける「順次戦略」と地味に敵戦力を削ぐ「累積的戦略」の2つを挙げ、この2つの適切な組み合わせが必要とする柔軟性は、まさにビジネスや国家に適用される汎用性を持つ戦略と言えよう。

ここで簡単に要約をすると、先ず今までの戦略を、「順次戦略」と「累積戦略」という2つのパターンに分類した上で、「陸上戦略理論」「海上戦略理論」「航空戦略理論」「ゲリラ戦理論」とに理論的に整理している。

「順次戦略」というのは、例えば、敵野戦軍を撃滅して敵の首都を占拠すれば敵国は降伏するであろうというように、敵を攻略するための諸段階がある程度明確で、それを順次こなしていくような戦略であると理解できる。これに対して「累積戦略」というのは、海軍による経済封鎖や空軍による工業地帯の爆撃のように、その効果が敵に対して累積的にジワリジワリと発揮される戦略であると理解できる。

少々わかり辛いと思うのでもう少し身近な例に例えると、「順次戦略」とは、言わば。一般小売店はじめとし企業の経営のようなもので、顧客数・売上げ・仕入れ・経費を、過去のデータを基に順次組み立てていくもので、これは目に見えるかたちである程度の予測が立つことを基に、次の戦略を練るというものである。

それに対して「累積戦略」は、それぞれに全く関連性の無い個別の戦いの積み重ねが、ある段階を境に一挙に効果を発揮するという戦略である。J・S・ワイリー元少将のこの本では「累積戦略」の例として、
第二次大戦中に米軍が行った日本の商船や補給船等への潜水艦による攻撃・撃沈を挙げている。

一部の戦略家を除き、米軍日本軍側も、この攻撃が戦争全体の結末にどの程度影響を与えたかは当初読みきれていなかったというのが事実ではないだろうか。しかし、太平洋のあちこちで日本の商船等の撃沈(兵站・補給路の寸断)を積み重ねていったことで、日本軍ばかりか日本全体が窮してしまったというのは紛れもない事実なのである。


 本書の中で、J・S・ワイリーは彼の総合理論の解説に先立ち、西洋の三つの戦略理論と、東洋の戦略家によって提唱されたやや新しい戦略理論を提示する。すなわちマハンやコーベットによってその基礎が築かれた「海洋戦略理論」、ドゥーエによって提示された「航空戦略理論」、クラウゼヴィッツの研究に遡る「陸上戦略理論」であり、そして毛沢東のゲリラ戦略「人民戦争論」である。これら四つが既存の戦略理論であるが、同時にこれらは彼らの思考様式の土台である。つまり水兵には水兵の戦略的思考様式があり、それは海洋戦略理論を土台にしたものであり、その理論が彼らの行動の指針となるのだ。

 パイロットにはパイロットの思考様式があり、兵士には兵士のそれがある。そしてワイリーによれば、彼らの理論はそれぞれ特定の状況においてはそれなりの妥当性があり、また現実との整合性を多少なりとも有するものである。

 だがまさにそのことによって、それぞれの理論の主唱者たちの間で意見の衝突が生じるのだという。なぜなら彼らは自分らの信奉する理論をそれぞれ「戦略の総合理論」であると考えており、「その戦略のパターンをどの戦争のどの状況にも適用できる」と考えているからだ。

だがその何れもが「総合理論」となり得ないことは筆者であるJ・S・ワイリー言を俟たずとも明らかであり、これらは「それぞれの分野に特化された特殊な理論であり、それぞれ特定の条件下でのみ有効で、各理論が暗黙のうちに想定している状況に現実が当てはまらなくなってくると、そのとたんに有効性を失ってしまうもの」なのである。そこでJ・S・ワイリーは、本書において改めて「戦略の総合理論」の構築の必要性を説き、同時にその提示を試みる。

 総合理論は「紛争の状況、時代、場所を選ばず、しかもあらゆる制限や限界の存在や、それが課せられてくる状況にもすべて適用できるものでなければならない」普遍的なものとされ、それぞれの特化した理論を越えそれらを統合することができるような「ある程度のレベルの高さを持っていることが必要」と考えられる。

J・S・ワイリーはある程度の普遍性を持った総合理論に近いものとしてリデルハートの「間接アプローチ」(*第一次世界大戦後、リデル・ハートによって提唱された間接アプローチ戦略(Indirect approach strategy)とは正面衝突を避け、間接的に相手を無力化・減衰させる戦略をいう)を紹介するが、それもそのコンセプトが一定の形を持たず不明瞭でいい加減な部分があり、よって限界があるとしている。

J・S・ワイリーはここに自らの総合理論を構築しようと試みるが、まずは理論の根底にあるという以下の四つの想定を見てみたい。

 第一の想定:戦争やトラブルは起こるものと考えていなければならない
 第二の想定:戦争や争い事はの目的は敵をコントロールすることにある
 第三の想定:戦争やトラブルおよび争い事は我々の計画通りに進むことはなく、予測不可能である
 第四の想定:戦争や争い事の結果を最終的に決定するのは戦場に銃を持って立つ兵士である

 ここでは第二、第四の想定のみに言及しておきたい。

 第二の想定は、戦争遂行の目的があくまで「敵の意志の屈服」にあることを我々に想起させるものであり、戦争の目的を「敵の破壊」という手段と混同する過ちから我々を遠ざけてくれるものだ。

コントロールとはすなわち敵の意志の屈服であり、それは心理的関係に基づいている。平時における軍事力の意義とは、潜在的敵国に対する心理的インパクトとして用いられる所謂「物理的暴力の脅し」であるが、その意義はおそらく戦時においても消滅しない。

モーゲンソーは、物理的暴力が現実に行使されると、二者の間の心理的関係に代わって物理的関係が生じ、従って軍事力と政治権力とは区別されなければならないとしたが、上の想定を考慮するならば、戦時においても最終的に勝敗を左右するのは心理的インパクトであると考えなければならない。

 第四の想定はランドパワーの優位を主張する筆者(J・S・ワイリー)の信条である。たとえ現代の戦争で他の手段が決定的な影響力を持ち、敵にどのような荒廃や破壊を与えたとしても、戦争の行く末を最終的に決定するのは現場にいる兵士、すなわち陸軍である。

この想定には、太平洋戦争において米軍が日本本土に上陸する前に勝利したように、反証となりそうな事実がある。だがこれに対して筆者(J・S・ワイリー)は、日本側が米軍の本土上陸の可能性を認識したことによって、つまり第二の想定と併せ、米軍のプレゼンスが日本側に心理的インパクトを与えたことによって、戦争の決着が着いたのだと説いている。重要なのは銃を持つ兵士が戦場に立つ(日本にとっては「上陸する」)ことが可能であると認識されるか否かである。

 さて、筆者は戦略の総合理論とはこのようなポイントを発展させたものでなければならないとして、以下三点を主張している。

①戦略家が実践時に目指さなければならない最大の目標は、自分の意図した度合いで敵をコントロールすること。
②これは、戦争のパターン(形態)を支配することによって達成される。
③この戦争のパターンの支配は、見方にとっては有利、そして敵にとっては不利になるようなところへ「重心」を動かすことによって実現される。

「パターン」や「重心」といった単語は曖昧な部分を含む事から厳密に定義することは困難であろう。翻訳者の奥山氏は本書を『孫子』の現代版かつ西洋版として絶賛しているのだが、西洋的発想というより東洋的発想に近いように思えてならない。

戦争や争い事は、基本的に次の状況が予測不可能であるが、予測が困難な状況においてできる限りそれを予測するにはどうしたら良いか。

答えは非常に単純明快で、その状況を支配すれば良いのだ。つまり、自国にとって有利な戦争のパターンを勝ち取り、それをコントロールすることに他ならない。目下の戦争のパターンが相手に有利なものであれば、それを自分にとって有利なパターンに変更しなければならない。

 そこでキーとなるのが戦争の「重心」という概念である。我々は戦争の「重心」(the center of gravity)を新たな状況、もしくは自ら好む状況へシフトさせることで、戦争を自らの好むパターンに変更しようと努力するのである。

おそらくあらゆる戦争(ビジネスや国家運営にもいえる)には「重心」があり、その場面・場所・行動の変化によって戦局(両者の有利・不利、あるいは均衡)が流動するのだ。従って双方の戦略家は「重心」はどこにあるのか、それは敵国が望む場所にあるのか、自国の望む場所にあるのかといった問題を考えなければならない。戦争における重心こそがすべての戦略家が獲得しようとしなければならない基本的な優位なのであり、この自国の望む位置へのシフトが、自国の望む戦争のパターンを導くのである。

ここで、気が付くのは戦争という一つの事例のみならず概念という曖昧な言葉を用いたことで孫子同様、戦争に限らない様々なジャンルに活用できると言うことになる。戦略とは、自分が優位に立てるフィールドに敵を引きずり込むこと(「重心」を動かすこと)で、敵を「コントロール」すること、と理解できる。敵野戦軍の撃滅は相手をコントロールするための一つの手段であり、目的ではないとするところに、孫子やリデル・ハートとの共通性が見出せる。