2006年9月24日日曜日

【皇室問題】 昭和天皇(富田メモ)

「富田メモ」 A級戦犯靖国合祀と「天皇の心」 


 
私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが、
 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
 だから 私あれ以来参拝していない、それが私の心だ(原文のまま)

「A級戦犯靖国合祀 昭和天皇が不快感」「参拝中止『それが私の心だ』」――日本経済新聞7月20日朝刊は富田朝彦・元宮内庁長官(故人)の1988年4月28日付メモをスクープした。

 富田氏は、晩年の昭和天皇の言葉を最も身近で耳にしていた側近中の側近。信憑性の高い資料と即断できないにしても、「メモ」を慎重に精査して歴史的位置づけを考えることこそ緊要なのに、メモの真贋をめぐって憶測・中傷とおぼしき暴論が乱れ飛んでいる現状が気懸かりである。

 歴史学者それぞれの見解を各紙は報じているが、日経スクープの「富田メモ」と「日記」を事前に読み込んでいた学究二人の分析を紹介したうえで、関連する諸問題を考えたい。

 昭和史研究者の秦郁彦氏は「第一級の歴史資料であることはすぐに分かったが、この時期に公開することによる波及効果の大きさを思いやった」と前置きして、「論議の的となっている富田メモの靖国部分の全文についてだが、97年に故徳川義寛侍従長の『侍従長の遺言 昭和天皇との五十年』が刊行されて以来、他の関連証言もあって、天皇不参拝の理由がA級戦犯の合祀にあったことは、研究者の間では定説になっていた。

したがって、私は富田メモを読んでも格別の驚きはなく、『やはりそうだったか』との思いを深めると同時に『それが私の心だ』という昭和天皇発言の重みと言外に込められた哀切の情に打たれた」と、毎日7・28朝刊(『論点』)で指摘している。

 日経7・23朝刊は「富田メモ――意義と今後の検証」と題して半藤一利氏(作家)と御厨貴氏(東大教授)の対談を特集しているが、半藤氏は「松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使を合祀対象から除けば構わなかったのか」との問に、「A級戦犯全体だと思う。

合祀されたこと自体が天皇には不快だったととるべき」と語っている。そして半藤氏は「初めてメモを見せられたとき、感動したというとおかしいが、へーと思ったのが(メモの日付の)1988年。翌89年に亡くなる最後のぎりぎりのところまで戦争責任というか、戦争犠牲者に対する思いがずっと続いていたのかと。あの時代はほとんどの人が忘れていた。そのときに昭和天皇は一番に考えていた。要するに靖国問題の裏側にあるのは、戦争犠牲者に対する慰霊の思い。それが第一。第二に参拝しなくなったのはA級戦犯と合祀のためと思っていたのでやっぱり、と思った。富田メモを直接見て、『私の心だ』という部分に目がくぎ付けになった」と語っていた。

 真っ先に「メモ」を見た二人はともに昭和史に造詣の深い方だけに、視点の確かさを感じる。

 A級戦犯合祀発言をメモした日付は1988年4月28日。翌29日が87歳の天皇誕生日で、同日朝刊各紙に記者会見が掲載された。昭和天皇は約7カ月後の89年1月7日に崩御されており、この会見(88・4・25)が最後となった。

 この時の会見で「陛下が即位(昭和3年11月に即位式)されてから60年目に当たります。この間一番大きな出来事は先の大戦だったと思います。改めて大戦についてのお考えを」との質問に対し、昭和天皇は「なんと言っても大戦のことが一番いやな思い出であります。戦後国民があい協力して平和のために努めてくれたことを嬉しく思っています。今後も国民がそのことを忘れずに平和を守ってくれることを期待しています」と答えている。

 次いで「日本が戦争への道を進んでしまった最大の原因は何だったとお考えでしょうか」との質問には、「そのことは、人の、人物の批判とかそういうものが加わりますから、今、ここで述べることは避けたいと思っています」と答えただけだった。

 毎日、朝日の社会面を読むと、昭和天皇が先の大戦の話に触れた際、「昭和天皇の左目に光るものが見えた」と記していた。

 この会見が25日で、富田長官に昭和天皇が〝本音〟を語ったのが28日だったことからみて、昭和天皇が記者会見で語れなかった〝胸のつかえ〟を富田長官に漏らしたと、推察できる。

 「国家の命令で出征し、命を落とした兵士たちの慰霊に、戦争を命じた指導者を交ぜてしまったら、天皇が痛感する戦争への反省も、日本の再出発もうやむやになる。そんな所に参拝はできない。そう考えたのならわかりやすい。許せなかったのはA級戦犯というよりも、その合祀だった」(朝日7・31朝刊『風孝計』)という指摘は、「富田メモ」の真意を素直に汲み取っていると思う。

▽戦犯合祀を独断専行した松平永芳宮司

 本稿を書くに当たって、多くの資料に目を通したが、靖国・戦犯合祀問題をこじらせた最大の原因は、A級戦犯14人の合祀を独断専行した松平永芳・元宮司(故人)にあったと考えられる。

 この点につき保坂正康氏(作家)は、松平氏が退職後に講演した内容に関する記述で、「私が宮司に就任したのは昭和53年7月で、10月には、年に一度の合祀祭がある。合祀するときは、昔は上奏してご裁可をいただいたのですが、今でも慣習によって上奏簿を御所へもっていく。そういう書類をつくる関係があるので、9月の少し前でしたが、『まだ間にあうか』と係に聞いたところ、大丈夫だという。それならと千数百柱をお祀りした中に、思いきって十四柱をお入れしたわけです(「誰が御霊を汚したのか 『靖国』奉仕十四年の無念」平成4年12月号)」という発言を示し、戦犯合祀を確信的に実行した松平氏の行為を明らかにしている=月刊現代06・9号。

 疑う余地のない事実と言えるわけで、前任宮司(筑波藤麿氏)が抑えていた〝戦犯合祀〟を、松平氏は就任早々、〝もぐり込ませる形〟で強行したのだ。この暴挙を後で聞かされた昭和天皇が不快感どころではない〝怒り〟を持たれたことは想像に難くない。これらの史実に基づいて「富田メモ」を解読すれば、その資料価値の高いことが分かる。

 冷静に受け止めるべき「富田メモ」なのに、この報道が流れるや、「分祀派」の主張が声高になり、逆に「靖国擁護派」は〝陰謀〟〝ねつ造〟と応酬、常軌を逸した非難合戦になってしまった。

 「日中正常化を切望する財界関係者の策略」との噂まで流れたことには驚く。ポスト小泉の本命、安倍晋三官房長官の著書「美しい国へ」の発売日に特ダネをぶつけた〝陰謀説〟もデマ情報だった。さらに「安倍長官が四月に靖国参拝をしていた」との情報が官邸筋からリークされたのも奇々怪々。また、麻生太郎外相が「靖国神社は宗教法人格を自主的に返上し、財団法人などに移行。最終的には特殊法人『国立追悼施設靖国社』(仮称)とする」との私案を発表するなど、自民党総裁選がらみの様相を濃くしてきた。

 「富田メモを政治利用するな」「政教分離原則を守れ」と建前を主張するものの、自分たちの都合のいいように〝政治利用〟しているのが実態ではないか。

 「プレスウオッチ」の埒外ではあるが、週刊新潮8・10号の「富田メモは『世紀の大誤報』か」と題する一方的、センセーショナルな特集に週刊誌ジャーナリズムの荒廃を感じたことを書きとどめておきたい。明確な論証を示さないで「ここへ来て侍従長だった徳川義寛氏の発言だったとの見方が噴出している」との記述は、富田メモ全否定の文脈である。

 特に中西輝政・京大教授が同誌で「このメモは報道のタイミングからいっても政治利用されていることは明らかです。つまり政治性の強いこのメモの検証過程を明らかにしないなら、日経新聞の大誤報というより、意図的誤報という可能性さえ出てくるのではないでしょうか」との断定的決め付けは、学者とは思えぬ〝政治的暴言〟ではないだろうか。

 「このメモで過剰に騒ぐべきではない。天皇の発言がどうであれ、首相の靖国参拝は政教分離にも反するし、個人の意図とは別として、結果的に侵略戦争を美化するということを示してしまう。国民は首相参拝を認めるべきではない」という小森陽一・東大教授の警告(東京8・4『こちら特報部』)を胸にたたみ、「富田メモ」が投げかけた問題点の徹底検証と分析こそ急務である。