2010年2月11日木曜日

【民主党】 中島政希(二つの禁忌)

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司法合理性の陥穽

〈H22/1/27UP!〉 
二つの禁忌

 今回の石川議員逮捕劇は、戦後政治史的に見て極めて異例な出来事といわなければならない。

 昨年来、検察は、政治資金規正法違反容疑で鳩山総理や小沢幹事長の側近たちへの積極的な捜査を行ってきた。総理や政権中枢の政治家を捜査の対象とすれば、当然のこととして「内閣そのものに打撃を与え、ひいては内閣を倒壊させる可能性もある」との予想が成り立つ。そうした事態が予想できるにもかかわらず、政権中枢に捜査の手を及ぼすということは、その結果、「内閣が打撃を被り、ひいては内閣が倒れてもかまわない」という政治的判断がなければなし得ないところである。では「彼ら」は何故にそのような「政治的行動」に打って出たのだろうか。

 統帥権の独立が明治憲法下の政党政治を大きく掣肘したことはよく知られている。「軍事合理性」の追求を善とする軍部は、自ら想定する危機に対応するためとして、財政的配慮を欠いた過大な軍事費を要求したり、外交的配慮を欠いた軍事行動を起こしたりする。シビリアンコントロールとは、そうした軍部による軍事合理性の追求が、武力による脅迫となって民選政府の存立を動揺させることがないようにする制度的な保障である。

 軍部同様、司法部にもつねに「司法合理性」の追求を最善とする組織本能がある。検察が、強制力を伴う捜査権を行使して犯罪を捜査することは法律が許容するところだが、その「司法合理性」の行き過ぎが民選政府を危機に陥れる可能性は古来指摘されてきたところだ。それ故、検察制度に対する民主的統制をいかに図るかは、軍部に対するシビリアンコントロールと同様に、民主主義国家にとって重要な課題なのである。しかし戦後日本政治では、このことがあまりにも等閑にされてきた。

 戦前の司法部(検察)はしばしば、「司法合理性」の追求を優先的な価値とし、政党主体の内閣を倒壊させようと図った。その最も悪しき実例が「帝人事件」による斉藤実内閣の倒閣だった。帝人事件は後に全員無罪が確定するのだが、取調べに当たった黒木検事はこう言ってのけたそうだ。

 「俺たちが天下を革正しなくては何時までたっても世の中は綺麗にはならぬのだ。腐っておらぬのは大学教授と俺等だけだ。大蔵省も腐って居る。鉄道省も腐って居る。官吏はもう頼りにならぬ。だから俺は早く検事総長になりたい。そうして早く理想を実現したい」(河合良成『帝人事件』)

 戦後においても、昭電疑獄によって芦田均内閣が倒された例がある。しかし、第五次吉田茂内閣の造船疑獄以降は、検察が時の政権首脳に疑惑を見出し、それを執拗に追及して、内閣を窮地に陥れるに至った例はない。ロッキード疑獄やリクルート疑獄は、今回の鳩山、小沢献金捜査のように、始めから直接的に政権首脳を標的にしたものではなかった。

 それは民主主義国家における司法権力の節度というものであり、検察勢力は戦後長くその禁忌を維持してきた。

 他方、戦後日本政界には、もう一つの禁忌がある。政党内閣は、検察権の独立を認め、捜査に介入しない(指揮権を発動しない)という不文律である。

 それらは、政党内閣が検察による司法合理性の追求を許容する限度についての両者の暗黙の了解事項であった。

 私の見るところ、検察勢力は今回その禁忌を、意識的にか無意識的にか、自ら破った。そしてその反動として政権政党もまた自らの側の禁忌を破ろうとしている。それが今の時点の政治状況ということになる。

造船疑獄の政治的帰結

 さて、政党と検察双方の禁忌が成立したのは、造船疑獄がきっかけだった。

 第五次吉田内閣は、昭和28年4月のいわゆるバカヤロー解散の結果、少数内閣として成立したために、厳しい政局運営を余儀なくされ、やがて与党自由党の分裂、鳩山一郎民主党内閣の成立から保守合同に至る大政局が展開する。

 この大政局を与党自由党側で指導したのが緒方竹虎副総理だった。緒方には、当時もその後も、「知力胆力兼備の逸材、保守政治家の理想像を体現する人物」との評価が定着している。もし急死することがなければ鳩山一郎の後を襲って内閣を組織するはずだった。

 造船疑獄では、有田二郎ら4名の国会議員、土光敏夫らの財界人を含め逮捕者数は71人にも及んだ。やがてその捜査は、佐藤栄作幹事長、池田勇人政調会長、石井光次郎運輸相ら吉田政権中枢の逮捕劇に発展しようとしていた。

 昭和29年4月20日、検察庁は検察首脳会議の結論として佐藤自由党幹事長の逮捕許諾を求めた。緒方副総理は、優柔不断な犬養健法相を叱咤し、検察庁法十四条の指揮権を発動させ、佐藤幹事長の逮捕請求を延期させた。佐藤は後に収賄罪ではなく政治資金規正法違反で起訴されるが、国連加盟恩赦で免訴となった。この時の緒方の果断な対応で政治生命を救われた佐藤、池田、石井らが後の自由民主党の黄金時代を築くこととなる。

 「緒方は、親しい友人の反対にもかかわらず、内閣が検察庁の意向次第で進退せざるを得なくなり、いわば検察ファツショ的風潮が台頭することを恐れるという立場から」指揮権発動を決意したのである(緒方竹虎伝記刊行会『緒方竹虎』)。

 『緒方日記』(4月21日)によれば「検察側も大体事なきようなるも,犬養法務大臣の退官を条件とするが如し」とある。検察側は、指揮権による佐藤逮捕延期を受け入れたが、法相辞任を求めた、つまり相打ちにしたかったということだろう。緒方は吉田首相と協議し「辞職させては指揮権発動は悪だったという印象を与える」として辞職させないことを決めたが、犬養は「遮二無二に辞めてしまった」(山田栄三『正伝佐藤栄作』)。

 こうして、造船疑獄は、検察の「司法合理性」の追求に箍をはめるとともに、政党内閣による指揮権発動を「悪」として封印するという政治的帰結をもたらしたのであった。

 当時政界は、いわゆる55年体制という安定した戦後政治体制確立前の揺籃期にあった。政党側は、自由党内の吉田内閣支持派と鳩山一郎ら反吉田派が、第二保守党の改進党を巻き込んでの激しい権力抗争を展開していた。他方、検察内部では、岸本(最高検次長検事)派と馬場(東京地検検事正)派とがこれまた激しい派閥抗争の渦中にあり、佐藤藤佐検事総長は全く指導力を欠き、犬養法相もまた象徴的存在に過ぎなかった。

 要するに、指揮権発動に至る政治過程は、政界と検察内部の、双方の混乱の中で勃発した。吉田内閣が盤石であれば、検察勢力はそもそも政権中枢に捜査の手を及ぼすような判断をしなかったであろうし、強固な統制力をもつ検事総長がおれば、「司法合理性」を追う現場の暴走を許さなかったのではないか。

 当時現場の若手主任検事だった伊藤栄樹(後検事総長)は「佐藤検事総長はまことに人柄の良い方であったが、強気の意見に引きずられがちであった」と回想している(伊藤栄樹『秋霜烈日』)。

司法合理性の陥穽

 安定した政治体制の欠如と検察の内部統制の弛緩。それが検察勢力が「司法合理性の陥穽」に陥る要因だったのである。

 今また日本は、新たな政治体制確立のための揺籃の時期にある。民主党による政権交代により、従来の政官業複合体が解体を強いられ、官僚組織には動揺が広がっている。しかし民主党は衆議院で絶対過半数を確保しただけで、統治システム全体への強固な支配を確立したわけではない。

 他方、樋渡検事総長の指導力不足、佐久間特捜部長の功名心を危惧するマスコミ報道も散見する。検察内部の秩序が弛緩し、造船疑獄当時にも似た「司法合理性の陥穽」に陥っているのではないか、と危惧するのは私だけではない。

 造船疑獄は「スケジュール捜査」であったと当時の捜査官が回想している。すなわち「その最終目標は、ほかでもなく『造船利子補給法案』の国会通過をめぐって、自由党幹事長佐藤栄作氏と政調会長池田勇人氏が海運業界からごっそりいいただいていた罪を問うことだった」と(読売新聞社会部『捜査』)。

 当時の検察勢力は、初めから、捜査の果てに、この二人の自由党領袖の政治生命を失わせしめることを期し、その結果吉田政権を終焉に導くこともやむなしとしていたのである。

 昨年3月以来の小沢一郎氏の周辺に対する執拗な捜査も、その帰結するところは、同氏の政治生命を失わしめるところにあると推察できる。初めに「政界からの小沢排除」という大目的があり、なんとかその目的を達するために無理をして証拠を集めようとしている。そう思われても仕方がない展開となっている。

 民主党が追求する政治主導の政策決定システムは、必然的に官僚機構の安定した階層秩序を破壊する。その行き着くところ、GHQによる戦後改革でも生き残った「検察権の独立」を侵害するに至るのではないか。そのことへの過度の警戒感が、小沢一郎氏の政治的個性と相俟って、彼らを司法合理性の罠に陥落せしめたのではないだろうか。

 国民的支持によって成立した政党内閣側の立場からいえば、これは検察勢力による飽くなき司法合理性の追求によって、民選政府の存立が危機に陥っている事態であり、看過できないという論理が成り立つのである。小沢氏のいう「民主主義の危機」とは、この意味だろう。

 もちろん小沢氏に瑕疵がないとは言わない。しかしこうしたやり方で、彼を葬り去ることは決して良いことではない。

 「今回の特捜部捜査は、小沢幹事長の旧自民党的体質、つまり手段の部分だけに光をあて、政治と社会の変革という目的の部分を意図的に無視しているようにしか見えない。いま小沢一郎という人物を追い詰めることで、検察はこの国をどうしようとしているのか」

 御厨貴東大教授が、小沢氏の幹事長辞任による事態収拾に言及しつつも、このように指摘しているのには共感するものがある(『朝日新聞』1月17日掲載)。

 「検察はこの国をどうしようとしているのか」、同じような不安は、実は造船疑獄当時にも広く存在した。それは政党側だけでなく検察内部にもあったのだ。

 「(指揮権発動で)無念の思いに混じって、ホッとする気持ちがあることも否定できなかった。佐藤栄作幹事長を逮捕した後には、池田隼人政調会長を始め、なお何人かの国会議員の逮捕が予定されており、一体この事件はどこまで発展するのだろう、日本の政治はどうなるのだろうといった漠然とした不安が胸にあった」(伊藤栄樹『秋霜烈日』)

 それにもかかわらず、捜査現場は突っ走り、上層部は振り回されたのだ。軍部が戦争を始めたら途中で止めることは至難の業だ。同じように、検察の捜査権の暴走が始まったら止めることは難しい。したがって、国家統合レベルの観点から、軍事合理性に歯止めをかける枠組みが必要なように、司法合理性にも同じ観点からの歯止めが必要なのである。

「力の政治家」の魅力と限界

 原敬は「政治は力なり」と言った。実際に彼は力の政治家であり、その力の源泉は抜群の資金力にあった。金権政治を批判する馬場恒吾に、原はこう言ってのけた。「金を欲しがらない社会を拵えて来い。そうすれば金のかからぬ政治をして見せる」(馬場『回顧と展望』)と。小沢氏も同様の心境だろう。

 政治史に大きな足跡を残した政治家は、概ね資金調達能力に優れた人物であった。星亨も原敬も加藤高明も、佐藤栄作も池田勇人も…。そして「小沢一郎」もその例外ではない。政党政治に、規模の大小はあれ腐敗や金権はつきものなのである。

 藩閥官僚派に対して政党政治の優位を確立しようとした点では、原敬は充分に改革的な政治家であり、今日その評価は定着しているといってよいだろう。

 しかし、同時に、原内閣は汚職事件にまみれた政権だった。満鉄疑獄、東京市政汚職など政治腐敗事件が次から次へと明るみに出た。

 原のライバルだった国民党の犬養毅はこう批判した。「(政友会は)党員の慾心を満足させるためにいかなる悪事をしているか。…種々雑多な利権を振りまけばこそ党員が集合しているのではないか。これまで藩閥、官僚の政府がずいぶん悪いことをいたしたが、かくの如く広く行き渡る悪事をいつしたことがあるか。ないのであります」(『犬養木堂全集』)と。

 これらの疑獄に対して原は大木法相を督励して司法部に圧力をかけ、捜査の拡大を抑圧した。衆貴両院を縦断する原の圧倒的政治力がそれを可能とした。しかし、それは抑え込まれた司法部に政党内閣への敵意を醸成し、後の検察ファッショの遠因となったのである。

 後世の評価とは異なり、当時の原内閣は「腐敗した政治家が強大な権力を維持して国政を壟断している」とのイメージでとらえられていた。原敬が凶刃に倒れたとき、ある地方では号外売りが「万歳万歳」と叫んで売って歩いたのである。

 原敬は、政党(政友会)の勢力拡大こそが、藩閥官僚政治を打破し新しい政治をつくる道だと確信していた。それ故彼は、金を集め子分を養い、衆議院で多数を占めることはもとより、その勢力を貴族院にも、内務省(警察と県庁)にも拡大していった。そしてやがては軍部にも政党勢力を及ぼそうとしていたのである。

 自己の支配範囲の拡大イコール改革の前進と自負する強固な精神、それは「力の政治家」の常というべき性であろう。一方それは、第三者からは、手段を選ばぬ飽くなき権力の追求と見られかねない危惧がある。

 原が「政治は力なり」と言ったとき、犬養毅は「政治は正義なり」と叫んだ。原が目的のために手段を選ばずと言ったときには「手段もまた選ばざる可からず」と説いた(古島一雄『一老政治家の回想』)。

 力も正義も「政治的なるもの」の本質であり、人びとを突き動かす契機なのである。それ故、「力」の政治の前には、いつの時代にも「正義」の政治を掲げる人びとが立ちはだかる。「力」において劣る勢力は、必然的に人びとの「正義」の観念に訴えかけることによってその劣勢を挽回しようと図る。大衆民主主義社会では、マスメディアがそれを後押しする。

 小沢一郎氏はすでに原敬に匹敵する足跡を日本政治史に残した。彼が原敬同様に「改革的政治家」であり、「力の政治家」であることもまた事実である。そして日本政治史は、大久保利通、星亨、原敬、田中角栄など力の政治家に、その政治生命を全うせしめない先例に満ちている。力の政治家がその力を誇示するのは当然のことだが、それは、政治に正義を期待する人たちを刺激し、必ず大きな反作用をもたらすのである。力の政治家の魅力と限界はそこにある。

 今回の検察の暴走は、「小沢一郎という力の政治家」の存在を抜きにしては考えられない。この力の政治家の台頭への恐怖感と嫌悪感こそ、検察勢力に長年の禁忌を破らせた最大の要因であろう。

司法合理性へ新たな枷を

 私は、長年日本政治史に関心を持ってきたのだが、浜口雄幸民政党内閣のロンドン軍縮条約締結に際して、政友会の犬養毅や鳩山一郎が「統帥権干犯」の理論で反対したことだけは、理解できないできた。生粋の政党政治家で鋭敏をもって謳われた鳩山が、政友会が政権を奪還した時に自らもまた統帥権の脅威にさらされることを予測できたにもかかわらず、なぜあのような愚行に走ったのか。

 先日予算委員会室で谷垣自民党総裁の質問を間近で聞いた時、この長年の疑問が一気に氷解する思いがした。彼の言っているのは、「検察の神聖な捜査権を干犯するのはけしからん」という論理だった。法務大臣からは指揮権発動せずの言質を取ろうと必死だった。政権への渇望感は、かくも政治家の理性を失わしめるものなのだと実感した。

 事態を収拾するために、小沢氏はいつの時点かで幹事長を退かなくてはならないかもしれない。それは政党の側の節度として意味あることだ。と同時にこの機会に、検察勢力の司法合理性の追求が民選政府を危機に陥れないように、もう一度箍(たが)をしめ直さなくてはならない。懸案の検察改革を断行する契機とすべきであろう。

 まず第一に、政党側の憲法上法律上の権限を再生することである。

検察の逮捕許諾請求と政党側の釈放請求は憲法五十条で、共に認められた権利であり、どの時点かで石川議員の釈放請求決議を成立させることは、検察を含む官僚機構に対する民選政府の権威を確立する上で大いに意義がある。

 伊藤栄樹は「国会議員に対する逮捕許諾請求は、捜査にとって百害あって一利なし」と言っている。「当該議員がいくら否認してもかまわないたけの証拠を集め、議員については任意捜査ですませる。これが一番よい方法だと考えている。だから、私が指揮した国会議員に対する事件は、皆この方式で起訴に持ち込んでいる」(伊藤前掲書)

 これが民主主義国家の検察の節度というものだ。国会議員を逮捕することが、出世につながるかのような弊風は糾さなければならない。

 検察庁法十四条の指揮権についても、その禁忌を解き放つときだ。この際、民選政権を意図的に崩壊させるような捜査が行われる場合は「指揮権発動もありうる」と明言すべきである。

 第二には、検察権力の正統性が、あくまでも「国民の信任」に基づくことを明確にする諸措置を講ずるべきである。

 検察庁には検事総長はじめ認証官がたくさんいるが、国民審査もなく、国会の承認もなく、強大な権力を保持している。戦前の「天皇の官吏」のままの状況であり、民主国家として極めて異例である。検事総長や高検検事長ら認証官については全員国会承認人事とすべきである。

 検事総長が検察官僚でなくても、民間人でも一向に構わないし、法務大臣の兼任にしてもよい。こんな例は先進民主主義国家ではざらにある。

 GHQの戦後改革案では、検事の選挙や国民審査も検討されていた。この時のやり取りは、「検事に対する国民審査に対する会談録」として法務省に残っていた。先年公開されたので取り寄せて読んだが、改革に抵抗して潰した当事者が当時の佐藤法務次官つまり造船疑獄の時の検事総長だった。

 第三に、取調の可視化や証拠の全面開示のための法改正を断行することである。

 民主党の取調可視化法案は、これまでに二度にわたり参議院を通過している。衆議院選挙の民主党マニフェストでも明記されている。鳩山政権成立後の千葉法務大臣の対応は、誠に不可解だ。かつては民主党可視化法案の提出責任者であったにもかかわらず、あまりに消極的であり、法務官僚に取り込まれたとしか思えない。参議院で可決した法案はそれなりに良くできている。これを直ちに衆議院に提出すべきである。不備があれば改正すればよいのだ。もし法務省が出さないなら、議員立法で成立させるべきだ。

 また、検察に、調書などの証拠書類の全面開示義務を課すよう法改正を行うべきである。証拠の全面開示は、占領下においては実行されていた。検察の透明性はその後むしろ後退しているのである。

 今回の事件を機に「司法合理性の追求」の限界をより明確化し、検察の透明性を高める改革につなげることができれば、それだけで鳩山政権は歴史的意義を持ったと言えるだろう。

 鳩山総理は辞任など絶対に考えてはならないし、いざとなれば指揮権発動も辞さない決意を持って時局に臨まなければならない。それは政党政治を守る最終責任者としての当然の覚悟であろう。そのことでなら野党やマスコミの批判を気にする必要はない。造船疑獄の時の緒方竹虎の知力胆力に倣ってほしい。

(平成22年1月26日 中島政希 記)

【財務省】 外国為替資金特別会計

 外国為替資金特別会計、略して外為特会または外為資金特会と呼ばれる特別会計があります。為替相場が円高に振れるときに財務省が為替介入して円高を防ぐための資金です。

円高を阻止するための為替介入をするときは、まず、政府が、国債の一種である政府短期証券を発行し、金融市場から円資金を借金します。そして、外国為替市場で、この円資金を売って、ドルを買います。(大量の円が売られるわけですから、円の値段は安くなります!)

政府の手元には多額のドルが貯まりますが、ドルの現金を持っていても金利はつきませんから、手元のドルでドル建ての債権、つまりアメリカ国債を購入します。

この特別会計では、政府短期証券を発行することにより借金した円資金が負債になります。そして、円を売ってドルを買い、そのドルで買ったアメリカ国債が資産になります。

具体的に例を挙げましょう。一ドル百円のときに為替介入をしたと仮定します。百円分の短期証券を発行し、手元に百円入りました。これを売って一ドルを買いました。その一ドルでアメリカ国債を一ドル分買いました(手数料などは無視します)。このとき、負債は百円、資産は一ドルです。資産の一ドルを円換算すると百円ですから、負債は百円、資産は百円です。

さて、この後、円安になり、一ドル百二十円になりました。外為特会の負債は百円、資産は一ドルです。では資産の一ドルを円換算してみましょう。百二十円になります。つまり、為替介入したときよりも円安になれば、負債よりも資産の方が大きくなります。

では反対に、円高が進み、一ドル九十円になったらどうなるのでしょうか。外為特会の負債は百円、資産は一ドル、これは変わりません。では、資産を円換算すると、九十円。負債の方が資産よりも大きくなります。

現在、円の金利よりドル金利の方が高くなっています。だから、この特別会計のために政府が発行する円建ての政府短期証券の金利、つまり日本政府が払う金利、よりも特別会計で保有しているドル建てのアメリカ国債の金利、つまり日本政府がもらう金利、の方が高いのです。毎年、この金利差で、特別会計には三兆円近くの収入があります。そして、この特別会計から一般会計に二兆円近くが繰り入れられているのです。

では、ドル債を持っているときに円高になったら、どうしますか。先ほどみたように、一ドル百円で、この特別会計は資産と債務がとんとんになります。それ以上円高になると、資産よりも負債が多くなります。つまり、手持ちのアメリカ国債を全部売却しても借金を返せなくなります。

さらに、もし、円の金利が高くなって、ドル金利が低くなって、金利が逆転したらどうしますか。一般会計から金利の差額分を支払わなければなりません。

この外為特会の出口をそろそろきちんとしておかなければなりません。