2009年8月19日水曜日

【地方分権】 冷泉 彰彦

 各州に刑法もあれば民法もあり、その上に憲法もあるのがアメリカの地方自治です。その結果として各州の独立採算があり、それは州の下の郡、市町村に至るまで徹底しています。仮に財政破綻ともなれば、その自治体を誰も助けてくれません。公教育は市町村レベルの教育委員会が責任を持っており、そのコストは基本的にほぼ100%が市町村税で賄われます。こうした地方自治を支えているのが、政治による意志決定システムで、大きな政府論の民主党イデオロギーと、小さな政府論の共和党イデオロギーが、市町村のレベルに至るまで決定の軸になっています。

 更に国の成り立ちと発展過程のおかげで、アメリカでは一極集中が回避されています。政治の中心はワシントンDCですが、株と国際金融はニューヨーク、商品や債券の市場はシカゴ、ハイテクは西海岸のシリコンバレーや東のボストン地区、ジャーナリズムはNYでもエンターテインメントはLAと、様々な産業が全米に分散しています。

 歴史的経緯もそうです。まず各植民地があり、その植民地連合が英国の徴税権と闘って勝利し、その後に賛否両論がせめぎ合う中で中央政府が設置されたという独立のプロセス、地方自治の理念はここから来ています。州の中には、政治的な立場を分かったために分裂したとか(バージニア、ウェストバージニア)、弾圧された宗教がたどり着いた安住の地がやがて州になったとか(ユタ)、一旦は独立国としてメキシコの支配を脱して後に合衆国に加盟したとか(テキサス)、とにかく「地方の独立」という理念が様々な形で記憶されているのです。勿論、連邦からの集団離脱と復帰(南北戦争)という負の歴史もそこには含まれます。

 そんなアメリカから見ていますと、まずもって日本の一極集中現象は異様に見えますし、これを解消しようという地方分権論議も、生ぬるくて全く実感に乏しく感じられます。まずもって、地方分権をして予算と権限を奪い取るのは「地方自身が主体となって産業振興を進める」ためだと思うのですが、その産業振興の方針が見えてこないのです。また予算と権限を奪い取るといっても、全国法の制定を中央政党に「お願いする」という姿勢から何が出てくるのでしょうか?

 そもそも徴税権というのは闘って奪うものだと思うのです。例えば「ふるさと納税」という制度があります。ですが、地方が育てた人材がどんどん都市に流出して教育コストが回収できないとか、労働人口が減って税収が減り引退した世代への公共サービスのコストが負担できないとして、その財源を都市に住む地方出身者の支払い能力から引っぱってくるとしたら、それは制度的な強制力を持つべきだと思うのです。地方が中央の法律を離脱して、出身者への強制徴税権を行使するとか、地方出身者の都市における地方税のうち高齢者を支えるコストの部分は強制的に地方に吐き出させるとか、徹底的に闘って税収を奪い取る気概がなくてはダメだと思うのです。

 例えば、地方分権とか道州制というスローガンはあっても、中央の政治が変わって中央の法が変わり「地方でなく国の政策として」分権が進んだとして、一体それは何なのでしょう。例えば道州制が導入されたとして、それが「国の政策として」一斉に施行されたら、全国一律の「地方分権記念日」でもできるのでしょうか? 分権とか自立というのはそういうことではないと思うのです。ある地域の何県かが州を結成したとしたら、それはその州の独立した成果であり、その州として中央から権限を奪い取り、州の産業振興の計画を立て、州の法人格を確立した日が「その州の成立の記念日」になるはずで、それは各州に独自のものになる、それが自然でしょう。

 とにかく「上から」の「一斉」というのは、その時点で自治ではないのです。二段階方式とか「廃県置藩」とか言うのでも、例えば一つの県で各市町村が立ち上がって県を「ぶっ壊して」自立したら、それぞれの市町村が主体としての「自立」がバラバラに順次起きていくのが当然であり、一斉に自立ということはあり得ないと思うのです。まして、全国一斉に「廃県」などというのは、それ自体がまだまだ一極集中の発想に縛られていると言えます。

 どうして分権を進めなくてはならないのか? それは各地方が産業の将来像を描いて、自分たちで「食べてゆく」ようになること、これが地方の活性化の目的であり、そのようにして地方が活性化しなくては日本全体の経済の成長もあり得ないし、日本に生きる人々の幸福感の向上も期待できないからではないかと思うのです。であるならば、各地方は「独自産業の将来像」を描くことが先決で、例えば国からカネとか権限を「奪い取る」というのはその新産業振興の手段に過ぎないとも言えます。

 新産業振興というと、大昔の高度成長・安定成長時代の「新産業都市」であるとか「日本列島改造」などの、トップダウン形式の青写真が思い出されます。ですが、こうしたアプローチはあくまで中央の発想で、一つの国として全体像を考え、その各機能を各地方に分散しただけのものです。交通網に関しても、地方を中央と結びつけるという発想だけでした。ですが、分権というのは違うはずです。地方が自立して「食べてゆく」ための「飯のタネ」を立ち上げる、つまり独り立ちして「食ってゆく」ことを考えなくてはなりません。

 どんなイメージになるのでしょうか? 例えば、ある州は「厳しい環境規制」「自然の景観保護」「高付加価値の農林水産業」「クオリティの高い観光サービス業」「外国人観光客への利便性を徹底提供」「高付加価値な伝統工芸の育成」というような組み合わせで観光立国を目指すのです。イメージとしては、群馬+長野+岐阜+富山+石川+福井+山梨などという組み合わせなどが考えられます。農学部や観光業のMBAなどでは全国一の教育体制を敷くだけでなく、例えば日本の古典文学や伝統工芸などの学習を高校レベルでも必修にするなど、州の性格に見合った人材を育成することが大事でしょう。

 場合によっては、新幹線の碓氷峠を遮断したり、リニア新幹線を通過させるだけで駅を設置しないなどの対策により東京や中京の「規模の経済」とは距離を置く、と同時に「日帰り観光」を不可能にすることも必要かもしれません。文芸出版社とか、能狂言、クラシック音楽などの文化もこの州がイニシアティブを取っても良いのではと思います。外交としては、オーストリア、スイス、スロベニア、ポルトガル、チリ、フィンランド、アイルランドなどと「業務提携」をしてはと思います。

 逆に東京圏から中京圏に加えて、東北の太平洋沿岸に至る太平洋岸は先端産業、金融とグローバリゼーションの地域を宣言、「陸上輸送機器」「半導体」「バイオ」「製薬」「ナノ」「素材」「原子力エネルギー」などで最先端の国際競争力を何が何でも維持するようにします。具体的には、静岡+神奈川+埼玉+千葉+東京多摩地区+栃木+茨城+福島+宮城+岩手を一括りとして「太平洋州」ということにするのです。公用語は日本語と英語、アメリカとの関係を重視し完全なFTAに加えて相互に無制限な労働許可、アメリカの大学とは無制限に単位交換が可能、恐らくは小さな政府で低税率、その代わり福祉は抑え気味という社会になるのかもしれません。

 新潟から山形、秋田、青森、北海道は一括りとして「規模の水産業」と「規模の農林業」を追及しつつ、ロシアの沿海州や中国東北部などと共通の経済圏を築く方向に進む、そんな可能性もあると思います。一方で、京都から鳥取、島根、山口、福岡、長崎は韓国との経済関係を密接として、精密機械工業や食品加工業、素材産業などで世界一の競争力を追及することにする、また温暖な和歌山+高知+愛媛+広島+徳島+宮崎+熊本は「規模の農業」「規模の水産業」を追及しつつ、「太平洋州」に準じた先端産業の生産拠点という機能も担うのです。中型の民生用ジェットを含む、宇宙航空産業を大規模に展開する、これをこの地区に持ってくるのも面白いと思います。

 残りの愛知+三重+大阪+奈良+滋賀+兵庫+香川+岡山はある意味で、中国モデルの「中付加価値大量生産」のビジネスで中国との協業もあり、また何よりも中国の生産性と競うようにしてはどうでしょう。この「中国との関係」を意識したエリアに、飛び地として鹿児島と沖縄を加えて中国に対して「相手を知りつつ、相手を抑える」役割をしていくという考え方も面白いと思います。ちなみに、東京の23区は金融とメディアの情報センターという機能に徹して効率化する、つまり居住には高コスト、ビジネスに関しては規制緩和という特殊なエリアにするのです。国全体の首都機能は、やはり大自然の中の全く新しい土地に遷都するのが良いのではと思います。

 以上は全くのホラ話に近いアイディアですし、こうした構想を描くこと自体、「中央から」の目線が入ってしまっているのも事実です。ですが、仮に地方から「中央への反旗」をひるがえすとしても、こうした大胆な「事業計画」がなくては、単に予算をヨコに動かし、組織や州境をいじるだけの形式的なものに終わる可能性があると思います。とにかく、どんな産業を柱にするのか、そのためには世界のどこと関係を強化するのか、どんな人材を育てればいいのかということがなくては、自立した地方というのはかけ声に終わってしまうでしょう。

 何よりもカギを握るのは人材育成です。とにかく主要な大学が東京圏と、関西圏に集中しているという現象をまず是正しなくてはなりません。例えば、英米の場合ですが、オクスフォード、ケンブリッジなど英国の大学が郊外型キャンパスであるのは勿論、アメリカでもアイビーリーグ加盟の伝統校の約半数が郊外型ですし、ペンシルベニア州立大学のメイン・キャンパスに至っては主要都市までクルマで最低二時間はかかる山間部に独立しています。

 日本の場合は青山学院大学の厚木キャンパスが失敗したように、郊外型キャンパスというのは不人気です。というのも、特に文科系学部の場合は、学生も先生も「大学本来の活動に関わっていない」時間が多くあり、そのために都市型の生活空間を必要としているという構造があるからです。大学が学問の場でないということは、その大学で行われている「学問」が実学ではないということにも裏打ちされてねじれた正当化がされていますが、さすがに国際競争力の点で追う立場になればそんな「のんきな」ことは言っていられなくなるのではと思います。

 それはともかく、大学は人材育成の核であり、大学が育てた人材が新産業で活躍することで地域が活性化するという効果を真剣に考えるべきでしょう。例えばバイオで世界有数、ナノで世界有数、環境工学で世界有数、臨床医育成で日本有数、初等教育の専門家育成で日本有数といった大学が、大都市圏に集中しているのはおかしいのであって、少なくとも州の中核都市には、何らかの分野で日本一の大学があり、更に自然の中で24時間教育研究に没頭するような空間があって良いと思います。そして、その地域特性に見合った生産性の高い人材が育ち、その人材が地域の産業を支えてゆく中で、地域の特性が益々磨かれてゆく、そうしたサイクルを作り上げるべきだと思います。

 そんなに地域特性を深めて地域を自立させては、日本がバラバラになってしまうとか、天皇制の破壊を狙っているのではという批判もあるようです。ですが、長い日本の歴史の中で、明治以降の「緊急避難的な首都一極集中」というのは例外に属するのであって、奥州藤原氏にしても、戦国の各大名にしても、いや江戸期の幕藩制度にしてももっと緩やかな連合体であったように思うのです。仮に憲法レベルまで独自性を持った地域が生まれてくるとなれば、これは近代の考え方からすれば「連邦国家」ということになりますが、その場合も同君連合という法律論も可能ですし、そもそも日本国憲法の効力が停止された地域でも、自然法としての立憲君主制が効力を持っているという法理も可能だと思います。

 いずれにしても、人口維持と持続的な付加価値創出に赤信号がともった現在の日本を、一刻も早く上昇のサイクルに乗せてゆくには、地方の自立が欠かせないと思います。答が一つではないポストモダンの世界で、更に付加価値を創造してゆくには、価値観と感性が産業に結びつく繊細さが要求されます。そのためにも、明治以来の中央集権を一旦は壊して、地域の自立を計る中で日本列島の隅々まで「付加価値創造の精神」そして「採算性」と「成長」の論理が浸透してゆく、そのプロセスが必要のように思います。思えば、戦国時代の混乱というのも、元寇と南北朝の戦乱に疲弊した列島が、分権の中でそれぞれに力を蓄えてゆく、再生の時代であったのではないでしょうか。戦国に芽生えた地方の自立性が、江戸期の幕藩制度の中でうまく機能したとすれば、明治以降はその自立性を摩耗してゆく過程だったように思います。その歴史をひっくり返すのです。

 いずれにしても、中央政界に付随した議論で道州制とか地方分権などを語っていてもダメだと思います。個別の市町村が、個別の地域がまず立ち上がって「何をするのか」「何で食ってゆくとするのか」を鮮明にしつつ、中央集権から離脱してゆく、そうしたエネルギーがないのであれば、議論のための議論に終わるに違いありません。