2009年7月20日月曜日

【沖縄密約】 費用負担密約(VOA)

沖縄密約、韓国史料にも 「VOA移転費、日本も負担」
2009年7月20日8時0分

72年の沖縄返還の際に、米国の短波放送「アメリカの声(VOA)」の施設移転費1600万ドルを日本が負担するとした日米間の「密約」の内容を、米側が73年に韓国に伝えていたことが分かった。韓国外務省(現外交通商省)が当時作成した記録を、大阪市立大の小林聡明研究員(メディア史)が発見した。

 日本政府が一貫して否定している沖縄返還に伴う費用負担をめぐる密約の存在が、韓国の史料でも裏付けられた形。作家の澤地久枝さんらによる、沖縄密約の情報公開訴訟にも影響しそうだ。

 見つかったのは、73年5月31日、韓国外務省の張セン(王へんに宣)燮・北米1課長が在韓米国公報院のスミス院長と会談した際の記録。韓国外交史料館に保管されていた。在韓米国公報院は、VOAを運用していた米広報文化交流局(USIA)の出先機関だった。

 当時米国は、VOAの移転先に韓国を検討していた。記録によると、スミス氏は韓国側から移転費用について質問されて「総規模はまだ確定していないが、第1段階で約3200万ドルと概算しており、そのうち半額は日本側が負担することで意見調整されている」と説明していた。

 さらに今回、韓国外務省が当時収集したVOA移転に関連する文献も見つかった。その中の、73年5月30日の米上院の議事録によると、ハリー・バード上院議員が、移転費用について「我々(米国)が2300万ドルを用意し、日本が1600万ドルを用意する」と発言。フルブライト外交委員長が「その通り」と確認していた。

 小林氏は「米国が韓国の課長レベルの外交官に伝えていたこと、米上院で公然と議論されていたことから、すでに米国では『密約』扱いされていなかったことがうかがえる」と話す。沖縄密約問題に長年取り組んできた我部政明・琉球大教授は、73年の米上院議事録がこれまで注目されなかった理由について「研究者は、密約が結ばれた71年までの史料は見ているが、合意以降は手つかずになっている」と指摘している。

 VOAの韓国移転計画は結局頓挫し、フィリピンに移転された。小林氏はこの経緯について今月刊行の日本マス・コミュニケーション学会誌に発表する。(井上未雪)

「核密約」文書、かつては外務省で保管 国会対応要領も
2009年7月11日12時49分
http://www.asahi.com/politics/update/0711/TKY200907110104.html?ref=reca

核兵器を積んだ米艦船の日本への寄港を、日米安保条約上必要とされる事前協議なしに認める日米の「核密約」について、英文の合意文書自体がかつて外務省内に保管されていたことが分かった。元外務省幹部が11日、朝日新聞の取材に明らかにした。01年ごろに当時の外務省幹部が密約関連文書の破棄を指示したのを受けて、合意文も失われた可能性が大きいという。

 核密約については、村田良平元外務事務次官が、日本語の次官用引き継ぎ資料の存在を証言していた。

 元幹部の説明では、保管されていたのは、米側で公開された公文書と同内容の文書。60年の安保条約改定交渉の際に「米軍機の日本飛来、米海軍艦艇の日本領海並びに港湾への進入に関する現行の手続きに影響を与えるものと解釈されない」と合意した秘密文書などが含まれていると見られる。

 74年にラロック元米海軍少将が「寄港の際、核武装を解かない」と証言した際などに外務省内で極秘に行われた議論と、国会向けの対応要領なども保管されていたという。

 河野太郎衆院外務委員長は11日、朝日新聞の取材に、密約はなかったとする従来の政府答弁の変更を政府に求める意向を明らかにした。


核密約文書、外相「調査考えてない。ないんだから」
2009年7月10日10時29分
http://www.asahi.com/politics/update/0710/TKY200907100048.html?ref=reca

60年の日米安保条約改定時に、核兵器を搭載した米艦船の日本への寄港を容認した両国政府の「核密約」をめぐり、関連文書を破棄するよう外務省幹部が01年ごろに指示したとの朝日新聞の報道について、中曽根外相は10日、「(調査は)考えていない。ないんだから」と述べた。外務省として調査をする考えはないことを示したものだ。

 閣議後の会見で記者の質問に答えた。中曽根氏は「報道は承知しているが、再三、国会で答弁しているように密約はない」と語った


核密約文書、外務省幹部が破棄指示 元政府高官ら証言
2009年7月10日3時8分
http://www.asahi.com/politics/update/0709/TKY200907090429.html

日米両国が、60年の日米安保条約改定時に、核兵器を搭載した米艦船の日本への寄港や領海通過を日本が容認することを秘密裏に合意した「核密約」をめぐり、01年ごろ、当時の外務省幹部が外務省内に保存されていた関連文書をすべて破棄するよう指示していたことが分かった。複数の元政府高官や元外務省幹部が匿名を条件に証言した。

 01年4月に情報公開法が施行されるのを前に省内の文書保管のあり方を見直した際、「存在しないはずの文書」が将来発覚する事態を恐れたと見られる。

 核密約については、すでに米側で公開された公文書などで存在が確認されている。日本政府は一貫して否定してきたが、80年代後半に外務事務次官を務めた村田良平氏が先月、朝日新聞に対して「前任者から事務用紙1枚による引き継ぎを受け、当時の外相に説明した」と話した。

 今回証言した元政府高官は密約の存在を認めた上で、破棄の対象とされた文書には、次官向けの引き継ぎ用の資料も含まれていたと語った。外相への説明の慣行は、01年に田中真紀子衆院議員が外相に就任したのを機に行われなくなったと見られるという。

 元政府高官は、文書が破棄された判断について「遠い昔の文書であり、表向きないと言ってきたものを後生大事に持っている意味がどこにあるのか」と説明した。別の元政府関係者は「関連文書が保管されていたのは北米局と条約局(現国際法局)と見られるが、情報公開法の施行直前にすべて処分されたと聞いている」と述べた。ライシャワー元駐日大使が81年に密約の存在を証言した際の日本政府の対応要領など、日本側にしかない歴史的文書も破棄された可能性が高いという。ただ、両氏とも焼却や裁断などの現場は確認しておらず、元政府関係者は「極秘に保管されている可能性は残っていると思う」とも指摘する。

ある外務事務次官経験者は、密約の有無については確認を避けたが「いずれにしても今は密約を記した文書はどこにも残っていない。ないものは出せないということだ」と話す。密約の公開を訴える民主党が政権に就いても、関連文書を見つけられないとの言い分と見られる。

     ◇

 ■核持ち込みをめぐる日米間の密約 60年の日米安保条約改定時に、日本国内へ核兵器、中・長距離ミサイルを持ち込む場合などには、日米間の事前の協議が必要と定められた。しかし、核兵器を積んだ米艦船の寄港、航空機の領空の一時通過などの場合は、秘密合意によって事前協議が不要とされた。00年に見つかった米国務省の文書や、米国関係者の証言などで、秘密合意があったことが裏付けられている。

元外務省高官「米の核持ち込み公認検討」 田中内閣時代
2009年7月9日5時0分
http://www.asahi.com/politics/update/0708/TKY200907080331.html?ref=reca

1974年の田中角栄内閣時代に、政府が核兵器を搭載した米艦船の日本への寄港や領海通過を公認する方向で検討を進めていたことを、当時の事情を知る元外務省高官が8日、朝日新聞の取材に対して明らかにした。

 日米両国は、60年の日米安保条約改定の際に核搭載艦船の日本への寄港や領海通過を認める「核密約」を結んでいた。田中内閣は「密約」を維持し続けることには無理があると判断していたと見られる。核を作らず、持たず、持ち込ませずとする非核三原則のうち、「持ち込ませず」が当初から形骸(けいがい)化していたことが改めて明らかになった。

 この元高官によると、74年当時、木村俊夫外相、東郷文彦事務次官(いずれも故人)らによる少人数の会合で、木村外相が、核を積んだ米艦船の寄港を政府が公式見解として認めていないことについて「なんとかしなければならない。田中首相とも話したが、そうした考えだった」と述べたという。

 74年当時、政府が米艦船による核持ち込みを認める方向で米側と折衝し、非公式な合意に達していたことは、木村元外相が生前、朝日新聞記者に証言していた。交渉は、田中内閣の総辞職に伴い中断されたという。今回の元高官の証言は、木村・元外相の証言を裏付けるものだ。

 木村元外相が75年に朝日新聞記者に対して行った証言の骨子は(1)米艦船が核を積んだまま寄港し、領海を通過しているのは事実(2)政府は寄港や領海も事前協議の対象だとしているが、これを証明する文書はない(3)偽りを続けるよりは領海通過と寄港だけは容認する方針を田中首相と決め、対米折衝した結果、非公式合意した(4)しかし、本交渉に入る前に田中内閣総辞職でご破算になった、の4点。

核持ち込み密約、元次官から話聞く方針 衆院外務委員長
2009年7月1日13時18分
http://www.asahi.com/politics/update/0701/TKY200907010183.html?ref=reca

1960年の日米安保条約改定の際、核兵器を搭載した米艦船の寄港や領海通過に事前協議は必要ないとする密約があったとされる問題で、衆院外務委員会の河野太郎委員長は1日の委員会後に記者会見し、「この問題は(密約はないとする)政府答弁だけを信じて議会運営をできる状態ではなくなった。立法府として看過するわけにいかない」と述べ、参考人招致などで村田良平元外務事務次官から話を聞く機会を設ける方針を示した。

 今国会会期中に行う考えで「可能なことは何でもやる」と他の歴代次官や米国側からも話を聞きたい意向。一方、中曽根外相はこの日の委員会で「歴代の総理大臣および外務大臣が密約の存在を明確に否定している。改めて村田氏に事実関係を確認することは考えていない」と外務省としては再調査しない考えを示した。

政府高官「密約はないことになっている」 核持ち込みで
2009年6月30日0時59分
http://www.asahi.com/politics/update/0629/TKY200906290279.html?ref=reca

日米両政府の「核持ち込み密約」の存在を河村官房長官が否定したことについて、政府高官は29日、記者団に対し「政府見解だからしょうがない。文書そのものがないことになっている。ないものは出せない」と、政府見解が建前とも受け取れる発言をした。

 元外務次官の村田良平氏が密約に関する文書を引き継いだと証言したことについては「政府見解として固まっているから、その人の言っていることは正しい、なんて言えない。本当に証拠を出してくるなら別だが。外交とはそんなものだ」と述べ、政府として調査する考えがないことを強調した

核持ち込み黙認、米と密約「文書あった」と元外務次官
2009年6月29日20時54分
http://www.asahi.com/politics/update/0629/TKY200906290265.html?ref=reca

1960年の日米安保条約改定の際、核兵器を積んだ米艦船の日本寄港や領海通過に事前協議は必要ないとする秘密合意を日米両政府が結んだとされる問題で、元外務事務次官の村田良平氏(79)が29日、朝日新聞の取材に「そうした文書を引き継ぎ、当時の外相に説明した」と述べた。

 核密約については、米側公文書などで、すでに存在が裏付けられているが、日本政府は一貫して否定してきた。外務省の事務次官経験者が証言するのは初めて。

 村田氏は87年7月から約2年間、外務事務次官を務めた。村田氏によると、外務省で当時使っていた「事務用紙」1枚に記された日本語の密約文書を前任者から引き継ぎ、後任に渡した。村田氏は、当時の倉成正、宇野宗佑両外相に秘密合意について説明。三塚博外相には「(宇野内閣が短命で)話すチャンスがなかった」とした。首相に自ら直接説明することはしなかったという。「それは外相から説明するからと。ただ、実際に外相が話したかどうかは知らない」と説明した。

 政府が否定する秘密合意の存在を認めた理由については「代々の外相に歴代の次官が伝えてきた一方、国会答弁では核の持ち込みはないと言う。それはおかしいと思う」と述べた。「安保ができたばかりの時は、外交交渉の結果を表にできなかったこともある。だが今は50年がたち、核の持つ意味も変化した。北朝鮮も核を持っているのだから」とも語った。

 河村官房長官は29日の記者会見で「ご指摘のような密約は存在しない」と改めて否定。「事前協議がない以上は核持ち込みがないと、まったく疑いの余地を持っていない」と述べた。


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「密約」 公表の2年後に自決
長男に 明かしていた舞台裏
 
「個人的には、核の再持ち込みこそ密約だと思う」。岡田克也外相は3月9日、1972年の沖縄返還をめぐる「密約」を認め、有識者委員会も「密使」の存在に初めて光を当てた。96年に命を絶った国際政治学者の若泉敬。その長男が初めて口を開き、友人からの書簡も明らかになった。「沖縄に殉じた男」の足跡と心中に迫る。

本誌 諸永裕司
(編集者注・週刊朝日に掲載された傑作ノンフィクションです。ぜひ「魚の目」の読者にもよんでいただきたいと思ったので、週刊朝日の了承を得て再録します)
 
 
 その報告書の末尾には、次のような一文があった。

〈若泉─キッシンジャー・ルートが開かれたことは大いに評価できる〉

 岡田克也外相から密約の検証を委嘱された有識者委員会(座長=北岡伸一・東大大学院教授)は9日、日米関係にからむ四つの密約についての報告書を出した。

 そのひとつ、1972年の沖縄返還にともなう「核の再持ち込み密約」について、「必ずしも密約とは言えない」
 と結論づけながら、この交渉に人生を捧げた「密使」の存在を初めて認めた。

 若泉敬(享年66)。表の顔は京都産業大教授。裏の顔は、沖縄返還交渉における佐藤栄作首相の「密使」。核の再持ち込み密約のシナリオライターだった。

 戦後、米軍の施政権下にあった沖縄の返還にあたって、日本側は米軍基地に貯蔵されていた「核の撤去」を求めた。

 一方、アメリカ側は、返還後も基地を自由に使用することのほかに、「緊急時の核の再持ち込みと通過の権利」を求めた。

 若泉は、米側の交渉相手である米大統領補佐官のキッシンジャーとの壮絶な交渉の末、次の文言を盛り込むことで合意した。

〈日本国政府は、大統領が述べた前記の重大な緊急事態が生じた際における米国政府の必要を理解して、かかる事前協議が行なわれた場合には、遅滞なくそれらの必要をみたすであろう〉

アメリカは「遅滞なく必要をみたす」との言質をとることで、有事に核を持ち込める。日本は事前協議が行われなければ、「核兵器の持ち込みはない」と言い逃れできるというわけだ。

 そのうえで、ふたりの「密使」は次のようなシナリオを描いた。

 1969年11月の日米首脳会談の最後に、ニクソン大統領が佐藤首相に、大統領執務室に隣接する小部屋で美術品を鑑賞することを提案する。通訳も除いて2人だけで小部屋に入り、核の再持ち込みに関する秘密の合意議事録に署名、それぞれ1通ずつ保管する ──

 予定では頭文字を記すだけのはずだったが、ニクソンがフルネームで署名をしたため、佐藤もこれに倣ったという。

 こうした交渉の経緯を、若泉は94年、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』によって明らかにした。628㌻に及ぶ大著だった。

「一つの間違いも許されない」

 出版前、若泉が何度となく口にしていた言葉を、早稲田大大学院教授の後藤乾一(66)は覚えている。じつは、若泉から命じられて秘かに執筆を手伝っていた。今年1月に出版した『「沖縄核密約」を背負って──若泉敬の生涯』で明かした。

「『細部まで徹底的に考証してほしい』と言われました。これは『危険な書』だとも」

 国家の秘密を暴くだけに、「国賊」と呼ばれるかもしれない。襲撃されることも覚悟していたという。そのため、出版の前には、福井県鯖江市の自宅の塀をさらに1㍍ほど高くする工事を済ませていた。

「冒頭に『何事も隠さず/付け加えず/偽りを述べない』とわざわざ書き記したように、歴史の証言台に立つ思いだったのでしょう。国会に証人として喚問されることを想定していらっしゃいました」

 後藤はそう回想する。実際、想定問答を繰り返す姿も目撃した。しかし、国は事実上、黙殺した。

 この密約については当時、両首脳のほか、シナリオを描いた若泉とキッシンジャーの4人しか知らなかった。秘密合意議事録のその後について、若泉は『他策──』で次のようにつづっている。

〈「ところで総理、“小部屋の紙”(日米秘密合意議事録)のことですが、あの取り扱いだけはくれぐれも注意して下さい」と、総理の眼をぐっと見つめる私に、「うん。君、あれはちゃんと処置したよ」と、総理は心なしか表情を弛めて言った。

“安心してくれ”といわんばかりの響きがあった。

 それは具体的にどういう意味なのか、と一瞬訝しく思ったが、それ以上深追いはしなかった〉

 処置した──
 佐藤栄作首相がそう話した文書はしかし、自宅に残されていた。首相退任後に持ち帰った執務机のなかにあったことを昨年暮れ、首相の次男で元通産相の信二(78)が明らかにした。

文書は、〈1969年11月21日発表のニクソン米大統領と日本の佐藤首相による共同声明に関する合意議事録〉と題され、69年11月19日付で両首脳のフルネームの署名もあった。

 合意議事録の文書が存在し、若泉が残した記述も、その後公開された複数の米公文書と重なる。

 しかし、岡田外相の命を受けて調査にあたった有識者委員会は外務省と同じく、密約とは認めなかった。

「先生が心血を注いで結んだ合意、命をかけて明かした歴史の真実が評価されなかった。あれが密約でなければ何だと言うのでしょう」

 後藤は、『他策──』刊行から16年後の政府の公式見解に、若泉の無念を思う。

 密約調査の結果発表を見守っていたのは、後藤ばかりではない。

 これまで、メディアの取材を一切、拒んできた若泉の長男、聡一郎(50)が口を開いた。

「あの密約が日本にとって、沖縄にとってよかったのか、私にはわかりません。結果的に沖縄への負担が増したのだとすれば、息子として胸を張って人前に出ることはできないと思ってきました」とはいえ、密約が認められなかったことには釈然としない。報告書が、〈この(若泉─キッシンジャー)ルートを通してニクソン大統領の意向が佐藤首相に届いたことの意義は大きい〉としているだけに、なおさらだ。

「国が、父の果たした役割を評価しながら、その結晶とも言うべき密約を認めない、というのは理解できません。残念です。父は決して嘘をつく人ではありませんでしたから。密使として動いたあの2年間は、父の人生にとってすべて、といえるほどのものでした」

 若泉はいかにして密命を帯びることになったのか。『他策──』のなかに、こう記されている。

〈福田(赳夫・自民党)幹事長は、開口一番、引き締まった表情で、「先生を全面的に信頼しての話ですが、沖縄問題の件でひと肌ぬいでもらえないだろうか。(略)アメリカ最高首脳部の意向を打診してきてもらいたいんです」と単刀直入に要請してきた。(略)

「総理からぜひともお願いしたい、ということで、総理の意を受けて言っているのです」〉

 前年には米国防長官マクナマラとの単独会見記を「中央公論」に発表するなど、米ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究所(SAIS)への留学時代に培った人脈を見込まれたのだ。37歳の国際政治学者は、密使の打診を断らなかった。

〈この一九六七年九月二十九日で、私の第一の人生は終り、第二の人生が始まったようなものであった〉
 家族や同僚などにも察知されてはいけない。孤独な闘いが始まった。

 聡一郎はこのとき、7歳。

 父はめったに家にいなかった。印象に残っているのは、電話をしている父の姿だ。

「いつも電話ばかりしているので、弁護士の母が『仕事にならない』とこぼしてました。夕食でも、食卓まで黒電話を引いていました」

 残された請求書では、国際電話料金が69年当時、34万円を超える月もあった。そのすべてを若泉は自腹でまかなっていた。

 海外出張でもよく家を空けた。帰らない日が続き、母ひなをは一時期、本気で浮気を疑ったという。

 沖縄返還から3年後の75年夏、聡一郎は留学中の父からアメリカへ来るように言われた。

「会わせたい人がいる。沖縄返還交渉のとき、お世話になったんだ」

 このとき、父が「密使」だったことを初めて知った。15歳の聡一郎が、元大統領補佐官のロストウを訪ねると、テキサス大の研究室には額が飾ってあった。

「危機」

 筆で書かれた二文字は、父が書いて贈ったものだった。

 80年、父は突然、「東京を離れる」と言いだした。京都産業大教授の職を辞し、故郷の福井県鯖江市へ居を移すという。50歳での隠遁には、弁護士として家計を支える母も反対した。でも、言いだしたらきかない。

 聡一郎は居間に呼ばれ、ふたりきりで向き合った。転居するのは、沖縄返還交渉について執筆するためだ、と父は打ち明けた。

「本を書けば、俺は国賊になる。お前の人生も吹っ飛んでしまうかもしれない。でも、わかってほしい」

 聡一郎は言葉が見つからない。また、家庭の平穏が遠ざかる。いや、二度と訪れないかもしれない。でも、反対しても無駄なことはわかっている。黙って聞くしかなかった。

 受験を控えた聡一郎を残し、父は母と次男の核を連れて鯖江に帰った。まもなく、執筆用に離れも建てた。

 会いに行くと、庭に面した16畳ほどの和室は資料で足の踏み場もない。文机に線香を1本立てて、父は原稿用紙に向かっていた。

 5年後、母が急逝する。弁護士として福井と東京を往復する激務が体を蝕んだように、聡一郎には思えた。まだ55歳だった。

 火葬場で納棺した後、父は火を入れるためのスイッチを前に固まっていた。

「代わりに押してくれないか」

 それでは後悔することになるのではないか。聡一郎は初めて、父に異を唱えた。

「やっぱり、父さんが押したほうがいい」

 まもなく、父は観念したかのようにスイッチに手をかけた。その右手は震えていた。

 それから、父は酒に逃げた。一晩で一升をあけることもあった。厳格で武士を思わせる父が崩れる姿を初めて見た。

「一緒にいてくれ。会社なんて、一日ぐらい休んでもいいだろう」

 週末ごとに鯖江へ呼び戻された。

 それから9年。

 94年5月、聡一郎のもとに小包が届いた。

「ああ、来るべきときが来た」

 直感どおり、なかには分厚い本が入っていた。

『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』
 題名は、日清戦争時の外相、陸奥宗光がその著作『蹇蹇録』の結びに記した言葉から取っていた。

 ベトナム戦争のただなかで、基地の自由使用を求めるアメリカから外交のテーブル越しに沖縄の施政権を取り戻すには、核の再持ち込み密約を結ばざるをえなかった──

 そこに、「密使」としての父の苦悩が読み取れた。日米の首脳が密約に署名してから25年。戦後50年を迎える前年のことだった。

 出版の直前、若泉は交渉相手だったキッシンジャーに連絡する。

「私は評論家ではないので、書く以上は真実を書く。あなたのような伝記は書かない」

 キッシンジャーの回想録『キッシンジャー秘録』では、「小部屋」で作成された合意議事録についてはまったく触れられていなかった。

 聡一郎は父のキッシンジャー評を聞いたことがある。

「海千山千で、本音なんて言う奴じゃないんだ」

 交渉では、「本当のことを言え」と父が迫ったこともあったという。

 しかし、覚悟の出版にもかかわらず、世間の反応は冷ややかだった。

 羽田孜首相(当時)は、「核密約はありません」とのコメントで一蹴した。

 日米安保条約にかかわる秘密が暴かれたというのに、若泉が望んだ証人喚問はおろか、国会でもほとんど審議されない。

 メディアの反応も鈍かった。政治問題としてではなく、とりあげたのはいずれも書評欄だった。94年7月3日付の朝日新聞で、東大教授の山内昌之はこう書いた。

〈行動派の学者とはいえ社会科学者がかくも最重要の国家の政策決定に秘密裡に関わり、その機密をいま公開した是非は、今後も朝野の議論を賑わすであろう〉

 しかし、その予想ははずれた。

 目先のカネに狂乱したバブル経済の崩壊を目の当たりにしながら、国の根幹にかかわる安全保障の問題を顧みようともしない社会を、若泉は「愚者の楽園」と呼んだ。深い失意に沈み、世間ともいっそう距離をとるようになった。

 とはいえ、親しい友人たちには著作についての感想を求めた。

〈先に謹呈した“拙著”(私なりに心魂を傾けました)に対い(ママ)する、大兄の率直な御高評を承わりたく、御芳翰を切々お待ちして居ります〉

 そこには、相手を試すかのような趣さえ漂う。

 学生時代からの友人で、鎌倉に住んでいた池田冨士夫は3度にわたって催促を受けた。その思いに応えるように返した読後感想文はじつに、便箋274枚に及ぶものだった。

 若泉の晩年、秘書役を務めていた福井県商工会議所専務理事の鰐渕信一(62)は言う。

「先生からは、死後、書簡類などの一切を焼却するように言われていましたが、これを捨てることはとてもできませんでした」

 手元には、池田からの計8通の手紙が残された。

 1通目となる読後感想文の冒頭には、こう記してある。

《若泉が私に真剣勝負を挑んでいる、そうした心を突き刺すような思いであった》

 それだけに、真正面から向き合わなければと考えたのだろう。

 若泉の人となりにも触れている。

《相手の目をじっと見る。瞬きもせず見続けると言う事は、それだけの心得がないと常人には難しい一つの業である》

《相手が誰であらうと、臆する所もなく、言うべき事を言う。「NO!」と言うべき時には、相手の意図に斟酌する事なく、断乎として「NO!」と自己の見解を主張する》

 若き日々を振り返った後で、本題に入っていく。

《民族の悲願、達成に伴う日本の代償は(核の再持ち込み密約という)「小部屋のレター」唯一つであった》

 戦争で奪われた領土を外交交渉によって取り戻した点を、《歴史的な傑作》と評価したうえで、こうつづる。

《兄のライフワーク“他策”は沖縄返還に伴う日米交渉の実態についての、歴史的原典として公刊の時をもって確定した、私はそう信じている》

 一方で、池田は、引用の多さに辟易すると正直に記し、読後に抱いた違和感も伝えている。

《兄の書物は、力作である。その周到な準備と努力には心からの敬意を表している。然か(ママ)し、それはそれである、(略)私には兄の心情の実体を理解する事は出来そうにない》

 それは、『他策──』の末尾に記された言葉についてのものだった。

〈私は筆硯を焼く〉

 すべての文章、つまりは書物を捨てる、との覚悟である。

 池田はその心中に思いを馳せる。

《沖縄返還交渉を通じて、米国の世界戦略の機密の真実を知ってしまった。それを承知の上で尚国際政治学者として「核と安全保障」を論ずる資格はない》

 若泉は学者としての良心に苛まれているのだろうと理解を示しつつ、期待を捨てきれない。
《これからが兄の生涯の理念を実現する時ではないか。沖縄返還が実現したからと言って、日本の再独立が果された訳ではない。日本はまだまだ国際的な危機に直面している。兄の理念を実現する、その時代が来ている》

 そのうえで、こう問いかける。

《五十才を期して都落ちを実践して、その後蟄居の十四年間、一冊の書物を著して、兄は自身のライフワークの完結と決している。一体、兄にとって「沖縄」とはなんであったのだらうか。沖縄返還交渉にたずさわった二年間の、その為だけが兄の人生のすべてゞあったのだらうか》

 文面には哀切さえ漂う。

《何故兄一人が、そうも心に深か(ママ)い痛手を負い、一人筆硯を焼いて沖縄二十万の霊に殉じなければならなかったのであらうか》

 若泉の思いつめたような文面が気にかかり、池田は福井県鯖江市の自宅を訪れている。読後感想文を送ってから1カ月ほどたった94年12月15日のことだ。

 案内されたのは、若泉邸の前にある地下1階、地上2階建ての建物だった。薄暗がりの書庫は空だった。「筆硯を焼く」の言葉どおり、3万冊とも言われる蔵書はすでに処分されていた。

「書物はすべて焼いた。蔵書は学者の命なんだ」

 国際政治学者として死んだことを伝えると、若泉は紙を見せた。そこには、こう書かれていた。

〈この世を去るにあたって〉

 晩年は、それが口癖だった。
「余命」
 国際政治学者の若泉敬は「密使」として1972年の沖縄返還を実現させると、死を見すえるようになる。
 沖縄の人々を裏切って、核の再持ち込み密約を結んだ。返還のためには必要だったと考えたいが、はたして正しかったのか──
 自責の念にとらわれていた。
 94年5月、交渉の舞台裏を詳細につづった『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を世に問う。その7カ月後、福井県鯖江市の自宅を訪ねてきた友人の池田冨士夫を前に、やはり「余命」という言葉を口にした。
 生きるべきか、生かざるべきか。死をほのめかす若泉に、池田は思わず、たずねた。
「やはり、沖縄か」
「そうだ。僕は沖縄に殉じた」
 69年11月21日。
 佐藤栄作首相とニクソン大統領が共同声明で「72年の沖縄返還」に合意した。海の向こうでの歴史的な瞬間を、テレビの特別番組が伝えている。両首脳の映像を見ながら、若泉は、生涯のもっとも重要な仕事を成し終えたと感じていた。
〈精神の静かなる昂揚が収まると同時に、外交交渉上“代償”を支払わざるをえなかったことへの責任感が重くのしかかってくるのを覚えた〉(『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』)
 夜明け前、若泉は東京・荻窪の自宅を出て靖国神社へ向かった。
〈境内は森閑とし、人影はほとんど見られなかった。(略)沖縄で戦い、沖縄で死んでいった許多の人々を想った。また、民族、国籍を問わず、あの戦争で生命を喪った無数の人々のことが胸中をよぎった〉
 若泉は黙祷を捧げる。
〈「まもなく、そして間違いなく、皆さまの沖縄が祖国に還ってくることになりました」
 深いところから込み上げてくる感動のうねりは抑えようがなかった。嗚咽は慟哭となった〉
 1カ月ほどして、若泉は沖縄の南部戦跡を訪ねた。「密使」としての最後の儀式でもあったのだろう。
 晩年、若泉の秘書役を務め、『他策──』の著作権を受け継いだ福井県商工会議所専務理事の鰐渕信一(62)のもとには、池田から送られた8通の手紙が残っている。
《若泉は昭和四十四年末、沖縄返還の日米共同声明が成功裡に発表された当日、暁闇の靖国神社の神前に於いて沖縄に殉ずる事を誓っている。それは、百万の沖縄同胞の希望を裏切ったとする有事核の再持込みの密約の締結を推進した、その直接担当者としての“背信行為”に対い(ママ)する責任感に由来するものであった》
 池田の文章はこう続く。
《それ以降の人生は若泉にとっては如何にして死ぬべきかを模索し、方策を定め、それを実践するための死生観に基ず(ママ)く苦行・精進の日々であった。それが若泉にとって死を全うするための生き方であった。その完結が“他策”の公刊であった》
 これは、若泉邸を2度目に訪れた直後に送られた手紙の一節である。
 池田が再訪したのは95年1月23日。そのときの様子を、手紙をもとに再現してみよう。
 鯖江駅で出迎えた若泉は開口一番、こう告げる。
「帰りの列車を予約しておこう」
 着いたばかりだというのに、あたかも追い立てるかのように言った。そして、午後5時すぎの特急を押さえた。
 自宅に着いても、若泉は脈絡なく話を続けた。ゆっくり言葉を交わすこともできない。落ち着かないまま時がすぎる。若泉は、かつて靖国神社で拾ったという桜の押し花を手渡すと、タクシーを呼んだ。
 池田は仕方なく玄関で靴を履き、鞄を手に立ちあがった。そのとき、若泉は茶碗をふたつもってきた。そして、一升瓶から清酒を注ぐ。
「それでは……」
 若泉に促されるまま盃を乾した。それはまるで《死への出陣の儀式》のようだった。
《今回の再会についての兄の言動は、始めから終りまで終始常識では考へられない異常と感じられる事の連続でした》
 池田からの手紙によれば、この日、若泉は、こう話している。
「64歳の自分は、あまりに永く生きすぎた」
『他策──』という題名を引いた『蹇蹇録』の著者で外相だった陸奥宗光が53歳、心酔していた同郷の橋本左内は25歳で亡くなっている。尊敬するふたりと比べて、みずからの人生は長すぎた、という。
 若泉は遠からず、みずから命を絶つだろう。その予感が確信に変わった。池田は再訪問の5日後、若泉に宛てて「弔辞」をしたためた。
《若泉の日常は、学生時代からストイックそのもの、修行僧のそれであった。潔癖なまでに心の清潔を尚ぶ人であった》
 その過剰なまでの純粋さが、みずからを追いつめていく。
《“若泉、君は殉ずる事によって、自分の死を飾らうとしていたのではないか。”私は生きている間にこの質問に対い(ママ)する若泉の返事を聞いておきたかった》
 生きるべきか、死ぬべきか。そう問われた池田は、苦しげな心中を明かしている。
《私は兄を心友と目し、畏友と敬している。そして兄も心友であると言って呉れた。その私が、兄の生死について、死と答へる訳け(ママ)がないではないか。(略)若泉、生きるべきだ、そう言ったとしたら、それは兄にとっても極めて困難なものである。果してそれが出来るかどうか》
 池田は書きながら、涙が止まらなかった。
《心友と感謝されながら、私にはその友人に手を差し伸べる事も出来ない。無念である。こんな悲しい事ばかりが人生なんだらうか。兄と私との友情とはこんな無力なものなんだらうか。又た(ママ)会へる日があるだらうか》
 弔辞を書き終えたのは土曜日だった。死なないでくれ。そう願いながら迎えた月曜日の朝7時、池田は若泉の携帯を鳴らした。
 電話はつながったが、若泉は出ない。もしかして、と胸騒ぎがする。1回、また1回とベルが鳴る。いつもなら、2回か3回で取るのに、呼び出し音が続く。10回近く鳴ったとき、ようやく若泉が出た。
「きょう速達を出すから、何をするにしても、それを読んでからにしてくれ。それを読むまでは何もするなよ。いいな」
 池田は早口でそれだけ告げた。速達が着くまでは生きている──。ソファに座り込むと、池田はしばらく動けなかった。
 まもなく、弔辞を受け取った若泉から〈恐るべき的確さに身震いした〉と返事がきた。そこには、こうも書かれていた。
〈実はこちらで御覧になって戴きたいものがあるのです〉
 翌2月3日、池田は三度、鯖江を訪れている。
「無畏無為庵」と称する自宅の2階には、24畳のリビングがある。若泉は、いくつも並ぶ地球儀のなかでもっとも大きいものの横に立った。
「池田君、この地球儀はアメリカでしか作れないんだよ。日本で作れないものは、ジャンボ・ジェット機とこの地球儀だけなんだ」
 若泉はそう言って、胸の高さまである地球儀の灯をつけた。
「池田君、これが一番いいよ。これで決まった。武士の一言だ」
 若泉は、池田への贈りものを選ぶと、笑顔を見せた。それが、顔を合わせた最後となった。
 この直前、池田は衝撃的な告白を聞いていた。
『他策──』を出した前年の6月23日、若泉は喪服姿で沖縄・摩文仁の丘を訪れた。沖縄戦が終結した「慰霊の日」。約18万人の遺骨が納められる国立沖縄戦没者墓苑の碑の前で手を合わせ、頭を垂れた。このとき、みずから命を絶つ覚悟だった──そう打ち明けたのだ。
 じつは、飛行機の切符は片道しか手配せず、事前に「歎願状」もしたためていた。
〈拙著の公刊によって沖縄県民の皆様に新たな御不安、御心痛、御憤怒を惹き起した事実を切々自覚しつつ、一九六九年日米首脳会談以来歴史に対して負っている私の重い「結果責任」を執り、武士道の精神に則って、国立沖縄戦没者墓苑において自裁します〉
 しかし、徹夜して何度も書き直した歎願状はなぜか自宅に忘れていた。
「何かもっと大きな力がそうさせたのかもしれない。そうとしか考えようがない」
 その言葉を、池田は震えるような思いで聞いた。
 若泉はこのとき、国立沖縄戦没者墓苑の慰霊碑の前で、あるジャーナリストと会った。「琉球放送」記者の具志堅勝也(55・現「琉球朝日放送」報道制作局長)。メディアの取材には一切口をつぐむなか、唯一、言葉を交わす相手だった。
「いまは取材は受けませんが、お会いするだけなら。いつか、時期がきたらお話しできるかもしれません」
 若泉はみずから電話をかけて面会を取りつけると、慰霊式典の終わった夕刻に姿を見せた。具志堅は短く言葉を交わすと、墓参する姿を写真に収めて引き揚げた。実際には思いとどまるが、このとき自裁する覚悟だったとは知らなかった。
 その後も、沖縄行脚は続く。

(95年6月、山岸豊治氏撮影)
 
 戦後50年となる95年、若泉は、皇室御用達でもあるハーバービューホテルに滞在する予定だった。最上階の部屋を半年前から押さえていた。ところが、1週間ほど前になって、沖縄県警の警備担当者から連絡が入った。
「別のホテルに移っていただけませんでしょうか」
 聞けば、村山富市首相や土井たか子・衆院議長(いずれも当時)らの沖縄訪問が急に決まったという。
「パフォーマンスで来るような政治家にあけるつもりはない」
 結局、最後まで譲らなかった。
 沖縄戦では県民の約4人に1人が亡くなったとされ、亡骸があちこちに埋まったままになっている。
 遺骨収集の現場にも、若泉は足を運んだ。
 本島南部・糸満市にあるガマ(洞窟)へ案内したのは、半世紀にわたってひとりで遺骨収集を続ける那覇市の国吉勇(70)だった。ジャーナリストの具志堅が橋渡しした。
 ジャングルのような樹林を分け入った奥に、入り口はあった。落盤の恐れもあるガマの中はひんやりとしている。
 作業着でヘルメットをかぶった若泉は地を這いながら、国吉に続いた。ようやく立てるほどのところまで進むと、地面を掘る。ロウソクの火を頼りに、スコップを立てた。
 一心不乱に掘り進めると、まもなく白っぽい骨が現れた。長さ40㌢ほどの大腿骨。若泉はその骨を胸に抱くと、静かに目を閉じた。
 このとき、若泉は「ヨシダ」と名乗っていた。それは、若泉がキッシンジャーと国際電話で話すときに使ったコードネームだった。
 若泉は628㌻に及ぶ『他策──』の最後に、こう記している。
〈心眼を開き、心耳を澄ませば、私の魂の奥深く静かに喚(よ)びかけてくるこの人柱たちの祈りの声を、私は、否、われわれは、これ以上黙殺してよいのだろうか。(略)拙著の公刊を、“永い遅疑逡巡の末”ここに決断するに至ったのは、まさに私のその塞き止め難い想念のなさしめる業に他ならない〉
 その言葉どおり、光が閉ざされたガマの中で、死者の声に耳を澄ませた。それは、みずから死を選ぶ1年ほど前のことだった。
 しかし、そんな若泉に対して、池田は疑問を投げかけていた。再び、手紙を引用する。
《沖縄に殉ずる。そう決断を下した理由は、沖縄百万の同胞の真の期待を裏切って、有事核の再持込みの日米両首脳の密約成立に加担したと言う、若泉の潔癖なまでの責任感である。沖縄百万の同胞は、現に生存し、米軍の大軍事基地の中にあって、戦後五十年を経た今日、いまだに苦難の生活を強いられている。そして若泉が裏切った人々とは現存の沖縄県民であって、被災して亡くなった一般住民の九万人、或いは日米両軍を合せての二十一万の戦死者・戦没者ではない筈である》
 向き合うべきは沖縄戦の犠牲者ではなく、いま米軍基地に苦しむ人々ではないか、と問いかけたのだ。
《若泉の沖縄に殉ずると言う純粋な心情が創り出す大きな矛盾である。(略)これでよかったのか!と若泉に言いたかった》
 池田はさらに、たたみかける。
《若泉は“他策”公刊を終ったあと、直ちにその本拠を沖縄に移し、住民票を持つ、実在の一人の沖縄県人として、沖縄にその骨を埋めるべきであった。(略)“他策”の著者、国際政治学者若泉敬が本拠を移し、一県民として住民票を持ち、その骨を沖縄に埋めたとするならば、その事実だけで若泉は日本の歴史を動かす原動力となり得た筈であった》
 当時の沖縄県知事、大田昌秀は『他策──』が出版されるとすぐ、話を聞かせてもらえないか、と若泉に連絡している。沖縄返還前には、ともに学者として会議で席を並べたこともあった。しかし、若泉からは丁重な断りが届いた。
〈本に書いてあることがすべてです〉
 大田は途方に暮れた。
「問い合わせたものの、答えてもらうことはできませんでした」
 沖縄県議会で、そう答弁した。県議たちも、重ねて声を上げようとはしなかった。
 ところが、若泉には秘かに沖縄に出向く心づもりがあった。
 遺骨収集をアレンジするなど、若泉の信頼を得ていた具志堅は、こう打ち明けられていた。
「覚悟していたものの、国会から証人として呼ばれることはなかった。でも、もし(沖縄の人々の総意として)沖縄の県議会から招かれれば、断れない」
 その意向を知り合いの県議に伝えれば、若泉招聘は実現する。そうすれば、〈天下の証言台に立つ〉という若泉の願いは叶えられる。
 それだけではない。
 日米安保条約とは何か。
 沖縄の基地負担は必要か。
 そもそも、日本はどんな国をめざすべきなのか。
 そうした議論が深まる契機にもなるはずだ。自民党単独政権が崩れ、村山連立内閣ができていた。
 ただ、若泉からは、具志堅と接触していることは他言しないよう、強く言われていた。もし、県議に働きかければ公になってしまう。
 とはいえ、約束を破ってでも伝える価値はある。
 葛藤の末、具志堅は沈黙を選んだ。決め手となったのは、かつて若泉から言われたセリフだった。
「私はあなたを信じています。たとえ裏切られても、あなたを恨みません。それは、あなたを信じた私の不徳の致すところですから」
 結局、若泉が沖縄県議会で証言することはなかった。
 翌年の春を前に、若泉は日本最西端の与那国島へ渡った。『他策──』の英訳版に寄せる序文を書くためだった。滞在した民宿は偶然にも、「ホワイトハウス」といった。白く塗った壁がその由来というものの、若泉は不思議な縁を感じていた。
 鯖江に戻った3カ月後、訃報が届いた。若泉の死をだれよりも案じていた池田が脳腫瘍に倒れた末、6月19日に息を引き取ったという。
 その4日後、若泉は沖縄に向かった。すい臓がんで、告げられた余命はすぎていた。それでも、4度目の、そして最後となる慰霊を済ませた。
 故郷に帰り、再び入院する。衰弱が激しかった。まもなく、みずから望んで自宅に戻った。
 その2日後の96年7月27日。

 関係者6人が若泉邸に集まり、英訳版出版のための“合意議事録”に署名した。若泉はおだやかな笑みを浮かべた。
 その直後、みずから命を絶った。晩年、秘書役を務めていた鰐渕によると、地球儀が並ぶ2階のリビングで青酸カリを口にしたという。66歳だった。
 まもなく、宮内庁から電話が入った。若泉とは長く親交があり、ともに沖縄に心を寄せる天皇陛下から、お悔やみの言葉が伝えられた。
 長男の聡一郎(50)は、父の死に目には会えなかった。それどころか、『他策──』を出版する半年ほど前に、絶縁を言い渡されていた。
 93年の大晦日に突然、次のような手紙を受け取った。
〈猶今後は、ひなを(亡妻)への供花を鯖江へ贈られることを、当方で固く辞退します〉
 これを最後に、若泉は音信を絶った。遺産も残さなかった。その理由は定かではない。聡一郎はいまだに、父の心中を測りあぐねている。
 その後、聡一郎は、父がつけてくれた「耕」から正式に改名した。父母にあやかりたいという願いを込めた「聡」と、ふたり兄弟の長男らしくという意味の「一郎」をあわせた。
 いま、東京都内の会社に勤め、経理畑を歩んでいる。
「父は大きすぎる存在でした」
 その父が殉じた沖縄はいまも、米軍基地の負担にあえいでいる。

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