2004年9月11日土曜日

【政治資金】 細田博之

 パソコンの中のメモを見ていると、記憶違いをしていることに気がつく事がある。
細田博之氏の運転手給与の肩代わりと橋本元首相の日歯事件が、同時期に告発をされていたことに気がつく。橋本元総理が亡くなられてからもう4年ですか。(2010年、追記)


1.橋本元首相、細田官房長官刑事告発の予告の新聞記事

① 共同通信 社会ニュース - 2004年8月11日(水)23時34分
細田官房長官を告発へ 運転手給与肩代わりで

 細田博之官房長官の運転手給与肩代わり問題で、大阪市の市民団体「政治資金オンブズマン」のメンバーらが、政治資金規正法違反(虚偽記載など)の疑いで細田長官と政治資金管理団体の会計責任者を近く東京地検に告発することが11日、分かった。

 また同オンブズマンは、日本歯科医師連盟から自民党旧橋本派への1億円の献金問題でも、橋本龍太郎元首相ら2人を告発するとしている。

 告発状などによると、細田長官は1996年1月から2003年12月にかけ、日本道路公団の取引先の運転手派遣会社「日本道路興運」(東京)から運転手給与の一部約3142万円の肩代わりを受けた。

 細田長官側は今年5月、肩代わり分は献金に当たるとして、細田長官が代表を務める自民党島根県第1選挙区支部の収支報告書について、過去4年分(2000-03年)の約1500万円の修正を申告。(共同通信)
[8月11日23時34分更新]


②西日本新聞 2004年8月11日 22:01
細田官房長官を告発へ 運転手給与肩代わりで

 細田博之官房長官の運転手給与肩代わり問題で、大阪市の市民団体「政治資金オンブズマン」のメンバーらが、政治資金規正法違反(虚偽記載など)の疑いで細田長官と政治資金管理団体の会計責任者を近く東京地検に告発することが11日、分かった。また同オンブズマンは、日本歯科医師連盟から自民党旧橋本派への1億円の献金問題でも、橋本龍太郎元首相ら2人を告発するとしている。


③ 四国新聞 2004年08月11日 23:33
 細田博之官房長官の運転手給与肩代わり問題で、大阪市の市民団体「政治資金オンブズマン」のメンバーらが、政治資金規正法違反(虚偽記載など)の疑いで細田長官と政治資金管理団体の会計責任者を近く東京地検に告発することが11日、分かった。

 また同オンブズマンは、日本歯科医師連盟から自民党旧橋本派への1億円の献金問題でも、橋本龍太郎元首相ら2人を告発するとしている。

 告発状などによると、細田長官は1996年1月から2003年12月にかけ、日本道路公団の取引先の運転手派遣会社「日本道路興運」(東京)から運転手給与の一部約3142万円の肩代わりを受けた。

 細田長官側は今年5月、肩代わり分は献金に当たるとして、細田長官が代表を務める自民党島根県第1選挙区支部の収支報告書について、過去4年分(2000-03年)の約1500万円の修正を申告。


④ 河北新報ニュース
細田官房長官を告発へ 運転手給与肩代わりで
 細田博之官房長官の運転手給与肩代わり問題で、大阪市の市民団体「政治資金オンブズマン」のメンバーらが、政治資金規正法違反(虚偽記載など)の疑いで細田長官と政治資金管理団体の会計責任者を近く東京地検に告発することが11日、分かった。

 また同オンブズマンは、日本歯科医師連盟から自民党旧橋本派への1億円の献金問題でも、橋本龍太郎元首相ら2人を告発するとしている。

 告発状などによると、細田長官は1996年1月から2003年12月にかけ、日本道路公団の取引先の運転手派遣会社「日本道路興運」(東京)から運転手給与の一部約3142万円の肩代わりを受けた。  細田長官側は今年5月、肩代わり分は献金に当たるとして、細田長官が代表を務める自民党島根県第1選挙区支部の収支報告書について、過去4年分(2000-03年)の約1500万円の修正を申告。

2004年08月11日水曜日


⑤ 徳島新聞
細田官房長官を告発へ 運転手給与肩代わりで

 細田博之官房長官の運転手給与肩代わり問題で、大阪市の市民団体「政治資金オンブズマン」のメンバーらが、政治資金規正法違反(虚偽記載など)の疑いで細田長官と政治資金管理団体の会計責任者を近く東京地検に告発することが11日、分かった。

 また同オンブズマンは、日本歯科医師連盟から自民党旧橋本派への1億円の献金問題でも、橋本龍太郎元首相ら2人を告発するとしている。

 告発状などによると、細田長官は1996年1月から2003年12月にかけ、日本道路公団の取引先の運転手派遣会社「日本道路興運」(東京)から運転手給与の一部約3142万円の肩代わりを受けた。

 細田長官側は今年5月、肩代わり分は献金に当たるとして、細田長官が代表を務める自民党島根県第1選挙区支部の収支報告書について、過去4年分(2000-03年)の約1500万円の修正を申告。


⑥ 静岡新聞
細田官房長官を告発へ 運転手給与肩代わりで

 細田博之官房長官の運転手給与肩代わり問題で、大阪市の市民団体「政治資金オンブズマン」のメンバーらが、政治資金規正法違反(虚偽記載など)の疑いで細田長官と政治資金管理団体の会計責任者を近く東京地検に告発することが11日、分かった。

 また同オンブズマンは、日本歯科医師連盟から自民党旧橋本派への1億円の献金問題でも、橋本龍太郎元首相ら2人を告発するとしている。

 告発状などによると、細田長官は1996年1月から2003年12月にかけ、日本道路公団の取引先の運転手派遣会社「日本道路興運」(東京)から運転手給与の一部約3142万円の肩代わりを受けた。

 細田長官側は今年5月、肩代わり分は献金に当たるとして、細田長官が代表を務める自民党島根県第1選挙区支部の収支報告書について、過去4年分(2000-03年)の約1500万円の修正を申告。


⑦ デーリー東北新報

細田官房長官を告発へ 運転手給与肩代わりで

 細田博之官房長官の運転手給与肩代わり問題で、大阪市の市民団体「政治資金オンブズマン」のメンバーらが、政治資金規正法違反(虚偽記載など)の疑いで細田長官と政治資金管理団体の会計責任者を近く東京地検に告発することが11日、分かった。

 また同オンブズマンは、日本歯科医師連盟から自民党旧橋本派への1億円の献金問題でも、橋本龍太郎元首相ら2人を告発するとしている。

 告発状などによると、細田長官は1996年1月から2003年12月にかけ、日本道路公団の取引先の運転手派遣会社「日本道路興運」(東京)から運転手給与の一部約3142万円の肩代わりを受けた。

 細田長官側は今年5月、肩代わり分は献金に当たるとして、細田長官が代表を務める自民党島根県第1選挙区支部の収支報告書について、過去4年分(2000-03年)の約1500万円の修正を申告。


⑧ 東奥日報 2004年8月11日(水)
細田官房長官を告発へ 運転手給与肩代わりで

 細田博之官房長官の運転手給与肩代わり問題で、大阪市の市民団体「政治資金オンブズマン」のメンバーらが、政治資金規正法違反(虚偽記載など)の疑いで細田長官と政治資金管理団体の会計責任者を近く東京地検に告発することが11日、分かった。

 また同オンブズマンは、日本歯科医師連盟から自民党旧橋本派への1億円の献金問題でも、橋本龍太郎元首相ら2人を告発するとしている。

 告発状などによると、細田長官は1996年1月から2003年12月にかけ、日本道路公団の取引先の運転手派遣会社「日本道路興運」(東京)から運転手給与の一部約3142万円の肩代わりを受けた。

 細田長官側は今年5月、肩代わり分は献金に当たるとして、細田長官が代表を務める自民党島根県第1選挙区支部の収支報告書について、過去4年分(2000-03年)の約1500万円の修正を申告。
(共同通信社)


⑨ ニュースふくしま24 2004年08月11日(水)
細田官房長官を告発へ 運転手給与肩代わりで
 細田博之官房長官の運転手給与肩代わり問題で、大阪市の市民団体「政治資金オンブズマン」のメンバーらが、政治資金規正法違反(虚偽記載など)の疑いで細田長官と政治資金管理団体の会計責任者を近く東京地検に告発することが11日、分かった。

 また同オンブズマンは、日本歯科医師連盟から自民党旧橋本派への1億円の献金問題でも、橋本龍太郎元首相ら2人を告発するとしている。

 告発状などによると、細田長官は1996年1月から2003年12月にかけ、日本道路公団の取引先の運転手派遣会社「日本道路興運」(東京)から運転手給与の一部約3142万円の肩代わりを受けた。  細田長官側は今年5月、肩代わり分は献金に当たるとして、細田長官が代表を務める自民党島根県第1選挙区支部の収支報告書について、過去4年分(2000-03年)の約1500万円の修正を申告。


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2.橋本元首相、細田官房長官刑事告発の新聞記事


② 南日本新聞(共同通信配信)
細田長官も
 
 細田博之官房長官の政治資金団体が運転手派遣会社「日本道路興運」から運転手給与の一部約3100万円の肩代わりを受けた問題でも、細田長官と会計責任者、同社の告発状を郵送した。

 同オンブズマンメンバーの上脇博之神戸学院大大学院教授は「国民の『知る権利』という基本的人権を侵害した行為で、金額の多さからも単純なミスでは済まされない」と話している。


③ 毎日新聞
日歯連献金:
橋本元首相らを告発 大阪の市民団体
 自民党旧橋本派(平成研究会)が日本歯科医師連盟(日歯連)から1億円の献金を受領しながら政治資金収支報告書に記載しなかった問題で、大阪市の市民団体「政治資金オンブズマン」のメンバーらが24日、橋本龍太郎元首相と会計責任者を政治資金規正法違反容疑で告発することを決め、東京地検あてに告発状を送った。

 告発状によると、橋本元首相は01年7月、日歯連から額面1億円の小切手を受け取ったが、会計責任者に政治資金収支報告書に記載させなかった。同派は「会計上の単純ミス」としているが、同団体の共同代表を務める上脇博之・神戸学院大大学院教授は「橋本元首相の監督責任は明らか」としている。

 また、メンバーらは同日、東京都内の車両管理会社に運転手の給与を肩代わりしてもらいながら政治資金収支報告書に記載しなかった細田博之官房長官らについても、同法違反容疑で告発状を送った。【一色昭宏】
毎日新聞 2004年8月25日 3時00分


④ 日本経済新聞 2004年8月25日夕刊
日歯連献金問題で橋本元首相らを告発・大阪の市民団体

 自民党の旧橋本派(平成研究会)が日本歯科医師連盟(日歯連)からの1億円の献金を政治資金収支報告書に記載しなかったのは政治資金規正法違反容疑にあたるとして、市民団体「政治資金オンブズマン」(大阪市)のメンバーらは25日までに、同派の代表者だった橋本龍太郎元首相と会計責任者についての告発状を東京地検に送付した。

 告発状によると、会計責任者は同法違反の虚偽記載に、橋本元首相は会計責任者の選任・監督についての注意義務違反にあたるとしている。

 この問題では、民主党の国会議員がすでに橋本元首相を同法違反(虚偽記載)容疑で告発しているが、「1億円を受け取りながら記憶にないというのは、市民の常識では理解できない。今日の政治不信を招いている政治家の常識を許してはいけないと告発に踏み切った」という。

 また細田博之官房長官の運転手給与の一部を派遣会社が肩代わりしていた問題についても、同法違反容疑にあたるとして、細田長官らについての告発状を送付した。
(11:00)


⑤ 朝日新聞 2004年8月25日朝刊
 橋本龍太郎元首相が日本歯科医師連盟側から1億円の小切手を受け取りながら、橋本派の政治団体「平成研究会」の収支報告書に入金を記載していなかった問題で、大阪市の市民団体「政治資金オンブズマン」のメンバーは24日、平成研代表を務める元首相と会計責任者に対する政治資金規正法違反容疑の告発状を東京地検に郵送した。元首相には、会計責任者への監督責任を問うている。

 また、細田博之官房長官と、自民党島根県第1選挙区支部(代表・同長官)の会計責任者に対する同容疑の告発状も同地検に送った。


細田幹事長政治団体

「通商産業エネルギー政策研究会」
「細田博之後援会」
「細田政経研究所」
「通商産業エネルギー政策研究会」

2004年3月31日水曜日

【ミニ論文】 飯尾潤

財政過程における日本官僚制の二つの顔
http://www.rieti.go.jp/jp/publications/dp/04j007.pdf


本稿は、飯尾潤が独立行政法人経済産業研究所ファカルティ・フェローとして、2003年1月から参加した、財政構造改革プロジェクトの成果の一部である。本稿を作成するに当たっては、青木昌彦所長、鶴光太郎上席研究員を始め、プロジェクトの参加者の方々から多くの有益なコメントを頂いた。もちろん本稿の内容や意見は、筆者個人に属し、経済産業研究所の公式見解を示すものではない。

要旨

 日本の議院内閣制は、官僚制を主体として構成される「官僚内閣制」とでも呼ぶべき公式政府組織と、それを補完する政治家による「与党」との並立を特徴とするが、財政規律の維持は前者の組織過程のよって果たされていたので、民主制の定着とともに官僚の政権主体としての正統性が失われると、財政規律も失われることになった。

 この状況で財政再建を遂行するためには、単なる行政組織の変革だけではなく、超党派的な合意をもとに、安定した財政再建の政治的意志を確立することが必要である。そのうえで、財政運営システムも、目的指向型のものに変更することが求められるが、その際には、分散処理によって各省庁に権限が移行する側面だけではなく、それを統制する仕組みを内在化させて、割拠性の深刻化を防ぐ工夫が必要である。

 それは日本の官僚制における社会的利益の代弁者としての顔を押さえて、国益を追求する自律性ある集団としての顔を協調することが、先の超党派合意を担保する上でも必要だからである。


(1)問題意識
 日本の財政が危機にあるという認識は一般的であるようにも見えるが、その改革に取り組む危機感の高揚は感じられない。それどころか長期金利が急上昇するという状況が見られないため、財政赤字が差し迫った問題であるという印象が薄まっている。そこで財政再建論者にも焦りがあり、「やるべきことは決まっているから、後は実行あるのみである」という意見を聞くこともある。しかし大筋において、支出を減らし、収入を増やすしか手段がないのは当然であるが、どういう手段・手順でそれを実現するのかという点についての合意があるとは見えない。

 その点で財政改革における手段や手順の問題は、もっと真剣に議論されるべきテーマである。

 実のところ小泉純一郎内閣の「構造改革」政策で、最も一貫しているのは、財政再建への取り組みである。森喜朗内閣時代から少しずつ始まっていた歳出削減の動きは、小泉首相の高支持率によって、方針として確立した。その点で、財政赤字が拡大し続けるという状況に対しては、一定の対策がとられている。

 ところが財政は、政府活動の一部分をなす特殊な領域にとどまるものではなく、政府活動全体を統御する戦略的な領域である。その点であらゆる政策や改革が財政と関わりを持ってくる。

 財政赤字を削減するにしても、その削減方法が広く政策のあり方に影響を及ぼすとともに、ある程度改革が進行すれば、財政の構造的な問題に手をつけざるを得ないのである。

 そうした財政構造改革において必要とされる改革方策については、鶴論文に譲るとして、ここで考えたいのは、そうした改革に必要とされる政府のあり方、あるいは関係諸アクターの役割分担である。

 一般にこうした問題を比較政治学的に考えるときには、まず大統領制であるか議院内閣制であるかといった大きな制度的な違いを手がかりに考えることが多い。また逆に同様の事態に立ち至った時に、違った反応が見られる

ことを手がかりに、制度や歴史的経緯の影響を探るということも行われてきた。ただ当面の目的である日本の財政改革を考えるためには、そうした一般的な法則性とでもいうべき知見は、それ自体としては、きわめて限られた実践的意味しか持たない。

たとえば1980年代の状況を思い返せば、大統領制をとるアメリカでは立法権と行政権の調整に手間取って、財政再建が難しいのに対し、議院内閣制をとるイギリスや日本では、政治的意思統一が行いやすく、財政再建が進んでいるといった議論が可能であった。

しかしその後の歴史的展開において、日本が議院内閣制を維持したままで財政赤字を拡大し、アメリカが大統領制を維持したまま、財政再建を進めたことによって、こうした単純な議論は難しいことが、目に見える形で示された。

そこで、問題をより微視的に検討するために、議院内閣制をとる諸国の比較を行うと、たとえば大蔵大臣の権限の強弱が財政規律の維持と関係しているという結論が導き出される。しかし先に見たような1980年代と、1990年代の日本の財政について、財政担当大臣の権限の変化を考えることは難しい。もちろん連立内閣の問題を取り上げることはできるが、短い例外を除き、ほぼ一貫して自由民主党が圧倒的な議席数を持って連立の中核にあったことを考えると、その影響を過大評価するわけにはいかない。

このように一般的に制度の枠組みを考え、財政再建の道筋を考えるのにも一定の意味があるとしても、より具体的な文脈で問題を考えることが不可欠である。その点で、気になるのは、財政構造改革における「官僚神話」とでもいうべき考え方である。これはさまざまなニュアンスを持って現れるが、単純化すれば「選挙に頼らざるを得ない政治家には、人気を考えて財政再建などできないのであって、選挙がない時をねらって官僚が財政再建を成し遂げなくてはならない」といった考え方である。

確かにあとで検討するように、最近の日本の歴史を検討すると、政治家の影響力が増大したとみられる状況の下で、財政赤字が拡大した経験があるので、こうした考え方にも根拠がないわけではないが、事態はそれほど単純ではない。しかも逆に、たとえば退職後の処遇を考えて特殊法人などを乱立させ、歳出をふくらませるとか、関係の深い利益団体や業界を保護するために、補助金などの支出を守って歳出削減に抵抗するという官僚イメージも一般的である。

 さらに政治家と官僚との関係が入り乱れており、截然とそれを分けてしまえないという問題もあって、問題はいっそう複雑になる。

そこで本論では、日本の政府構造における官僚あるいは官僚制の役割に焦点を当て、それを通じて財政構造改革に必要とされる制度改革の要素をみてゆきたい。もちろんそれは財政構造改革における政治家あるいは政党の役割を逆照射することにもつながるから、記述は自然にその両者の関係の再定義へと発展してゆくことが予想される。その前提として、議院内閣制を基軸とする日本の政府構造のあり方と、財政構造に関わる政治・行政の最近50年ほどの歴史的な回顧を行って、問題の具体的なあり方について整理しておきたい。

(2)「日本型議院内閣制」と財政規律
 日本の政府構造は一般に「議院内閣制」をとっているとされ、このことは憲法上も明確であるように見える。しかしながら制度の外観を離れて、日常の政権運営の実態に目をやると、議院内閣制の想定するものとは異質な慣行が目につく。たとえば議院内閣制で政権運営の中枢を担うはずの閣議が空洞化していること、あるいは首相が総選挙と関係なく交代すること、また各大臣が1年程度の短い在任期間で次々と交代する慣行、さらに内閣とは別に「与党」政策審議機関が存立し、そこが法案の事前審査を行っていることなどである。その点で、日本の議院内閣制は、ある独特の性質を持っていることを前提としなければ、制度の作動についての理解を得ることができない「日本型議院内閣制」とわざわざ括弧を付けて、小見出しとしたゆえ(1)。んである。

 議院内閣制は、行政権の存立基盤を議会の信任におく政治制度であり、少なくとも消極的な意味で議会の信任を得た政党が、行政府の執政権を握る体制である。このとき正統性の基盤は、有権者が議員を選出し、議員が多数派形成という形で、首相を選出し、さらに首相が国務大臣を選任し、大臣が官僚の任命権者となるという、選任の連鎖によっている(2)。つまり官僚の正統性は大臣により、大臣の正統性は首相により、首相の正統性は国会(衆議院)により、国会(衆議院)の正統性は国民(有権者)によって与えられる。

 ところが日本の内閣制において、こうした連鎖はきちんと認識されているであろうか。
最も問題となるのは、大臣が首相に正統性の根拠を持つ点である。特に日本国憲法においては、任命のみならず罷免についても首相に自由裁量権が与えられているので、文字通り大臣は首相の代理人となる制度構成となっている。つまり議院内閣制を支える論理的な要は、首相に民意に基づく権威と任命権がいったん集約されるところにある。

 しかし日本の現実においては、各大臣は特に政策面で各省庁の代理人として振る舞うことが多い。そして各大臣の役割規定が、各省庁の代理人であるという行動様式が形成される。そのあり方を「議院内閣制」とあえて対比すれば、「官僚内閣制」ということになろう。つまり内(3)閣は議院内閣制が想定するような、首相の選任によっていったん集約された民意を基軸に一体化されたチームではなく、個別の存立基盤を持つ各省庁官僚の代理人の合議機関だという意味である。

 こうした「官僚内閣制」は、戦前の内閣制をある意味で引き継いでおり、その点で無意識のうちに、議会に対して「超然的」性格を持っている。もっとも民主制が定着した現代日本において、それだけで政府が正統性を持つことはできず、議院内閣制が持つ民主的側面を機能的に代替する機関が必要となる。それが政府と区別された意味での「与党」である。

 議院内閣制をとる諸国において、政権に参加する政党という意味で「政権党」(governmentparty)という意味の言葉は存在する。また議会において「多数党」「少数党」といった言葉が使われることもある。これに対して「与党」という言葉には、日本独自の意味合いが含まれる。

 「与党」には、まさに「与る(あずかる)」というニュアンスがあり、政権の主体ではないが、政権に関わる政党であるという意味が含まれるように思われる。「政府・与党連絡会議」なる会議の存在は、まさに政府である内閣とは別に、連絡しなければならない実態を備えた「与党」が厳然と存在することを示している。

 このことは一方で、政権を担当する政党(すなわち与党)が「政権党」と呼ばれるほどの主体性を内閣の運用においては果たしていないことを、他方では、その存在を無視して政権が運営できるほど無意味な存在ではないことを示している。

 議院内閣制の理念型においては、選挙によって勝利し、政権を担当する政権党は、選挙における公約実現のために、行政組織を使って、新規立法を準備し、それを成立させたり、あるいは日常行政業務の変更・改善を企てる。しかしながら「官僚内閣制」の下では、官僚制に独自の基盤があるために、この理念型がそのまま妥当しない。しかし選挙によって多数を得た政党の権威は高いので、「政府」に対抗する形で「与党」政策審議機関という独自の組織を発達させたと考えられるのである。

問題は、そうした「政府・与党二元体制」が、政府構造を二重化させて、政策過程を複雑化させること、大臣などの職にない一般の与党議員が、各省庁の官僚組織と、それぞれ関係を取り結ぶことを要請する点である「官僚内閣制」は現代において、それ自体としての存立基盤を持たないために、「与党」との関係を維持することが不可欠となる。つまり「官僚内閣制」内部においては立法は完結せず、国会の多数派を握る「与党」の手を借りなければ法律ができない。そこで「与党」の主役は与党国会議員であるが、彼らへ政府組織から調整のために多数の官僚が接触する。

そして自民党など与党の了承のない法案が閣議決定・国会提出がなされないことから、与党側の官僚内閣制に対する優位を示しながら、他方で、基本的な法案準備の主導権は各省庁側が握っているという高度に融合した政官関係が成立する。

そこで現れるのは族議員である。
族議員とは特定の領域の政策決定に際して、一定の影響力を持つ議員であり、実質的には各省庁から関係の議員としての扱いを受け、事前の説明を受けることのできる議員である。こうした族議員現象が一般化すると、大臣などとの公式の指揮命令関係とは別に、省庁官僚が日常的に与党の族議員を中心として接触することが必要になる。

そして法案の準備過程で、その内容について説明することはもちろん、関係の政策分野における予算獲得の際の応援を依頼するなど、省庁側から政治家に接触することが日常化している。
そうしたなかで、族議員を中心とする政治家の機嫌を損ねず、積極的な協力関係を取り付けることのできる官僚が優秀な官僚とされるようになる。いわゆる「調整型官僚」の台頭である。((4))

逆に政治家の側でも、族議員に分類されれば、自動的に官僚側からの情報提供が期待できるだけではなく、陳情処理などでも有利な取り扱いを受けることになる。さらにお互いの貸し借り関係のなかで、族議員となった政治家と官僚が、一定の利益共同体的な関係を取り結ぶようになる。

そこで通常の議院内閣制の予定するような頂上における政官関係の成立ではなく、裾野の部分における低位の政官関係が発生する。そうすると政治家側の関心が、具体的な政策の細部にある場合には、政治家の影響が行政執行にまで及んでいくことになる。その意味で「政府・与党二元体制」のもとでは、省庁の割拠性は整理されるよりも、増幅させられる傾向が強くなる。

さらに、こうした体制においては、政府における当面の活動目的が明確化されないという問題がある。つまり総選挙によって、マニフェストなりプログラムなりを掲げて勝利した政党が、政権党として内閣を組織し、その実現のために政府を運営するということが起こりにくい点である。先に見たように官僚内閣制は、省庁割拠性を強く反映するから、政府全体の方針を立てることが難しい。

それに対応する「与党」の側も、自由民主党に典型的にみられるように議員の寄せ集めの性格が強いために、統一的な政権運営目的を明確化することが難しい。しかも下位のところで政官関係が融合しているためにこうした

傾向は助長される。財政に関係づけると、政策の優先順位をつけるのが難しいということは、全体として歳出に方向付けを行うことが難しいことを意味し、日常運営的には漸変的な予算編成を予定せざるを得なくなるということになる。

先政府規模が大きくなり複雑化していることもあり、進諸国の多くでは漸変的な特徴を強く持った予算編成が行われることが多く、日本も例外ではないのであるが、日本でその傾向が強くなるのは、先に述べたような政府構造による。

このように分散化された政府システムを統合するための様式が、総合調整という仕組みであり、省庁の自律性を前提としながら、全体として辻褄が合うようにする仕組みである。そしてその代表例が予算編成過程であるといえる。そこで各省庁が積み上げ式に要求する予算額を、(5)対面式の査定によって査定側の財務省(大蔵省)が、積み上げ式に認めるなかで、金額を調整する仕組みがとられる。これは支出官庁側に、予算に関する第一次的な情報があることを前提に、挙証責任を要求側に負わせれば、予算の妥当性が確保されるという論理になっている。これを逆に考えれば、要求のないものに予算をつけることはほとんど不可能であり、また個別の積み上げ式交渉によるために、はじめに全体像を示してそれに併せて予算編成を行うことがきわめて難しい仕組みである。

 ある意味では、全体の予算のバランスとか、優先順位をつけることはしない方式になっている。

しかしながら、このプロセスが存在するために、ともかくも組織過程として、政策がいったん予算というフィルターを通って、一律に制御される仕組みにはなっている。近年、補正予算が多用されたのも、本予算においてはきわめて堅い仕組みで、予算額をどちらかといえば一律に査定するために、必要な事業に対知る柔軟な支出を補正予算で計上する必要があると同時に、全体としての歳出には何らかの枠をはめたいという試みであったといえる。

これに対して経済財政諮問会議の活性化によって、「骨太の方針」など予算全体の方向性を決める動きが出てくると、小泉内閣が歳出抑制方針をとっていることもあり、補正予算を活用するのではなく、目玉政策を本予算に盛り込むという動きが出てきたのであり、こうした動きは、裏側から、積み上げ式予算の性格を映し出している。

つまり積み上げ式予算編成は、内容についての吟味をある程度放棄した形で、形式的に統制する仕組みであり、それゆえ形式的に堅い統制をとることが、財政過程全体の統制という観点から要請されるのである。その結果、形式的に適切に処理されていれば、その時点で支出の適切性が確保される形となり、事後的な予算の吟味の要請も少なくなる。

こうした予算編成過程は、社会諸利益からの予算要望や、それを代弁する政治家の要求を、各省庁の要求という形に統御して噴出させ、それを予算編成過程という組織的調整過程に投げ入れることで、一定の形式を与え、全体としての帳尻を合わせる仕組みとなっている。それゆえ、査定官庁の権限が弱まると、こうした過程は政府の分散的な性格をそのまま反映して弛緩し、財政規律も弱くなる傾向が顕著になる。

ここで注目されるのは、歳出予算編成過程と同時に行われる、毎年度の税制改革過程である。

税制においては、歳出の査定と違って、要求官庁と査定官庁が相対でやり合うだけでは編成過程は終了しない。それは税制が、その言葉が示すように、制度の改正となるからであって、金額の多寡だけを決着するのではなく、それを制度全体の整合性に照らして通用する形に変換する作業が必要だからである。

そこで税制調査会という組織が、政府にも自民党内にもおかれ、後にみるようにある時期からもっぱら自民党税制調査会(党税調)が最終的な税制改正の姿を決めるという方式が定着した。党税調においては長年にわたって税制に関係した税制通の数名の議員が、税調の「インナー」と呼ばれる小グループを形成して、そこで一挙に事柄を決定する仕組みとなっていた。そこでは過去の税制改正のいきさつの記憶をもとに、長期多角決済的に、細かな制度の調整が毎年繰り返される。その結果として税制はますます複雑化するのであるが、その中身に精通するのは党税調の幹部だけということになれば、要求を抑える舞台装置としてはかなり完成度の高いものとなり、その結果として、毎年一応の決着をつけることができる仕組みとなったのである。

その点で税制改正作業は、日本の制作過程としては例外的に、集権的な決定が可能な場となっていたが、当事者の権力の源泉の一つが、複雑な制度に精通していることであるため、税制の簡素化・単純化といった改革課題をこなすことは難しい仕組みにもなっていた。
さらに、こうした税制改革過程は、総額についての調整は行われるものの、歳出予算編成過程と平行して独立して行われるために、財政全体の姿を確認することが難しくした。

(3)日本政治における財政過程の歴史的背景
前節で説明した「官僚内閣制」と、「政府・与党二元体制」を軸とする政府構造は、五五年体制と呼ばれる政党システムを背景として成立した。このシステムは、選挙による政権交代の可能性がほとんどないことを前提として成立している。すなわち自民党が政権を担当し、他の政党は野党として政権獲得をあきらめ、野党の多党化が進行し、ますます自民党の優位が高まるというメカニズムである。

実のところ五五年体制成立以前の政治状況は流動的であったが、そのなかで政党政治家の活動が活発化すると、財政に関して放漫化の傾向が見られた。最近の研究が指摘するように、((6))大蔵省の「官房系官僚」による「調査の政治」という枠組みのなかで、予算編成過程をはじめとして、政策決定過程を制度化する動きが現れた。そして自民党の政務調査会をはじめとする政策審議機関が整備されるとともに、予算編成過程などを官僚制の組織的枠内で整序する装置が整備されて、政府・与党二元体制が成立するとともに、それに規律を与える仕組みが形成された。また流動状況における「調査の政治」は、次第に「審議会政治」という形をとるようになり、「官僚内閣制」内部における政策転換の手段となってゆく。

政党システムの上で、政権交代が現実化しなかったのは、野党の側にある種の硬直性が生じたことが大きな要因となった。冷戦のもとで西欧の政党政治も左右対立を軸として展開したが、政権交代が常態化した主要国では、いずれも左翼政党が社会民主化することによって、資本主義の枠内での福祉国家建設を目指す政権を樹立した。ところが日本の場合には、日本社会党が「護憲平和」という。アピール力はあるが実現可能性の点では国内冷戦状況を長引かせる効果のある政策を掲げたために、社民的転換が遅れ、政権につく機会を失っていった。

その反面で、むしろ自民党が早い段階で幅広い支持基盤を作り上げ、包括政党化することによって政権維持を確実にしてゆく。つまり一九六〇年代の日本においては、戦後の急速な経済成長によって、階級的対立というよりは都市と農村との格差をめぐるものとなった。そこで逆説的ながら政権の座にある自民党が農村あるいは農林水産業への所得補填を視野に入れた政策を開発してゆくことで、日本的な形の社会民主的政策を推進して基盤を固めるようになったのである。具体的な政策としては、インフラ整備をすれば過疎が防げ、均衡ある国土発展が期待できるという建前のもとで、公共事業が農村地帯において全面的に展開され、時を経るに従って、公共事業事態の雇用創出効果が期待される状況を生みだし、「土建国家ニッポン」と呼ばれる体制へと発展してゆくのである。

この過程は政治的組織の観点からは、自民党議員が、戦前から連続して維持してきた「地盤」つまり、地方の有力者による有権者の集約体制から脱皮して、独自の後援会組織を発達させて有権者の組織化をはかる動きとして展開した。その代表例が田中角栄による越山会の形成と、後にそのモデルを議員集団に広げる媒体としての田中派の拡大である。

反面、一九六〇年代末になると自民党の組織活動の遅れた都市部においては、経済成長から取り残された層を、共産党および公明党(あるいは創価学会)が競って組織化し、まだ一定の勢力を保っていた社会党とが結びつく形で、革新自治体がつぎつぎに誕生する。しかし革新自治体の成立は首長公選制に依存し、議会での勢力拡張につながらず、石油危機後のスタグフレーションにおいて革新首長が財政運営を誤ると、相次いでその責任を追及される形で、革新自治体は減少した。

しかも自民党は、一九七〇年代にいたって「福祉元年」という言葉に表されるように、社会保障体制の整備を進めることによって、日本型の福祉国家体制を構築して、野党の存立基盤を脅かす。つまり自民党は、農村に対しては公共事業によって所得の再配分を行い、都市に対しては、給付の拡大を先行させる形で、社会民主的政策を展開していったのである。

こうした動きによって、従来の大蔵省の財政運営の基本原則であった「均衡財政主義」は歳入欠陥によって、やむを得ず公債発行に追い込まれた既に一九六五年にくずれていた。その後社会基盤整備のために、次第に建設公債が増大するとともに、一九六七年の大蔵省による「財政硬直化打開キャンペーン」も成功せず、均衡財政主義は全面的に放棄された。((7))

そして石油危機をきっかけとして、財政出動の要求が高まると、税収が落ち込む状況で、1975年には財政特例法が制定され、2兆2900億円の赤字国債の発行が始まり、以降は赤字財政が恒例化してゆくことになる。

国際的にも「日独機関車論」などがとられて、貿易黒字をため込む日本が、財政出動によって内需拡大を行い、世界経済を支えるべきだという論がうたわれて、赤字財政を擁護する力になった。またこれを可能にする仕組みとして、日本の金融業界が閉鎖的であるとともに、大蔵省の庇護を受ける立場から、国債引き受けに協力的であったことも関係している。((8))

日本型社民政策は、個別政策の累積によるものであったから、制度欠陥を個別事情に応じて修正する作業を必要とした。そこで自民党の議員は後援会組織をもとに、関係省庁への「陳情」を行うことで、有権者の政策的欲求に応えるシステムを形成した。もとより野党は福祉国家化に賛成であるから、ここに与野党を通じての総社民化あるいは、政党間の福祉国家的合意が成立することになった。それゆえ、一九七〇年代中盤以降は、国会においても表面的な対立の裏で、実質的に与野党の協力体制が成立して、与野党の棲み分けが進むとともに、形式化した安全保障における対立を除けば、政党間の政策的競争の空洞化が進行した。

しかしこうした動きは、欧米の新保守主義化とは違った動きであった。同時期の欧米においては、石油危機への対応に苦慮したあげく、一九八〇年代には「小さな政府」を目指す政策潮流が、かつての福祉国家的合意に置き換わっていった。たとえばイギリスのサッチャー政権は、民営化による企業の株式や、公営住宅の売却によって住宅を労働者にも保有させる「大衆資本主義」の展開によって、労働者の伝統的な団結の基盤を掘り崩していった。

そこで一九九〇年代になって社会民主党が政権に返り咲く頃には、社民政権であっても、経済政策においては新保守主義的な「小さな政府」を前提とするようになっていた。その結果、先進各国は景気対策として財政を出動させない、あるいは行政の民営化であるNPM(新公共経営)を推進するといった共通点を持つに至った。

ところが日本では、石油危機後の経済回復が早く、出来たばかりの福祉国家の危機も軽かったので、そうした全面的な政策転換は遅れた。むしろ自民党政権は、新保守主義的な政策を、財界人などを動員した第二臨調(土光臨調)の権威を使う形で実現しようとした。このことは有権者を説得し、政治的組織化の方法を自ら変える形で、改革を行うということを放棄したことを意味する。

五五年体制において官僚制は、自民党の政策体系の不在の反射的効果として、個別政治家の政策要求を組織過程で制御することで、政策的整合性を確保してきた。その具体的装置が、各省庁内外における綿密な相議(あいぎ)体制であり、大蔵省による予算および税制査定であり、内閣法制局による法案審査であった。政治家は全面的に官僚の政策的体系化に依存しているので、地元の要求が実現しないときは、ある時期まで「大蔵省が認めてくれなくて」といった言い訳が通用した。

ところが政治家による利益要求の伝達システムが成長してくると、民主的な正統性基盤を持たない官僚は、次第に政治家の要求を断ることが難しくなってゆく。まさに「族議員の王国」が誕生したのであり、それは先に述べた七〇年代後半の政党政治における総社民化の時期と重なっている。

そのなかで官僚の類型としても、政治家に右顧左眄せずに自らの信念を貫く「国士的官僚」が影を潜め、政治家の要求と従来からの政策体系(言い換えれば各省庁の集団的考え方)との調整をはかる「調整型官僚」が幅を利かすようになる。そこでは政官の融合がいっそう進むとともに、官僚の自律性がおかされる場面が多くなり、個別の政治家と官僚の関係における上下が明確化するので、ミクロ的に見れば「政高官低」現象が見られるということになった。

そのことを象徴するのが、大蔵省が予算の査定権限の一部を族議員の代理人たる要求型の各省庁に委譲する「ゼロ・シーリング方式」(何を減らし、何を増やすかは、要求官庁による選択を前提にしていた)の開始であった。
赤字国債発行の責任者であった大平正芳は、首相になると財政健全化に意欲を燃やすようになり、ヨーロッパで広がっていた付加価値税を参考にしながら、一般消費税の導入を目指すようになる。ところが1979年の総選挙では、解散に打って出たものの議席を減らし、このこ(9)とが原因となって自民党内の抗争が激化し、その結果としての1980年の総選挙中に、大平首相が死去することで、こうした新税導入による財政健全化の動きはいったん頓挫することになった。

このころ政党システムの点では、自民党が優位を保つ構図が、ますます定着した。つまり野党を支持しなくても、野党の掲げるような政策は実現するために、わざわざ野党を支持するという動機が成立しにくい状況ができたのである。それが一九八六年の総選挙における中曽根内閣の勝利と「柔らかい保守主義の勝利」の背景である。ところがそうした中曽根政権下においても、「売上税」と呼ばれる日本型付加価値税の導入は、中曽根首相の戦略ミスと、広がりを見せる反対運動に呼応した党内反乱によって失敗に終わる。

こうした状況を前提として、財政再建に取り組もうとしたのが、竹下登首相による1989年から90年にかけての消費税導入である。平時に新税を導入することに成功したのは比較政治的にも数少ないことであり、その手腕は高く評価されるべきである。しかしその竹下内閣がリクルート事件によって、きわめて低い内閣支持率を経験し、退陣を余儀なくされた。リクルート事件は、事件内容としては繰り返された政界スキャンダルの一つにすぎないが、それが特筆されるのは、有権者の怒りがたいへん大きく、しかも長続きしたことである。

リクルート事件は、政財官界の指導者がインナー・サークルで不当な利益を得ているという印象を広く与えたが、その発覚が新税の導入時期に重なったため、負担を求める政治家に反発が集中したのである。そして竹下首相が消費税導入に成功したのも、まさに反対する利益集団一つ一つに代替処置を施して反対を弱め、与野党の政治家をさまざまな手段で見方に引き込む卓越した根回し術によるものであり、その閉ざされた政策形成システムが有権者の批判を感覚的に喚起することになったのである。

それに対して、一部の政治家が「政治改革」を掲げて行動を起こし、有権者も巻き込んだ運動を展開した。しかし事態の深刻さは、政治家や有権者の想像を超えるものであり、単に選挙制度を変更しただけでは、事態の一挙転換は引き起こせなかった。中選挙区制度が、与野党の棲み分け・なれ合いを促進し、政党間の政策競争を阻害していることは明らかであったから、選挙制度改革は必要条件ではあったが、十分条件ではなかったのである。

それにしても、折からの冷戦終結は与野党の垣根を引き下げ、大規模な政界再編の動きをもたらすことになった。冷戦が終わってしまえば、体制の維持のために自民党に投票するというインセンティブが働かなくなり、新党が出来れば、そこへ票が流れるという現象も容易に生じたのである。

そして当事者にとっても予想外に早く、1993年には自民党の分裂、総選挙における新党ブームと、細川護煕非自民連立内閣の発足という激動が生じた。しかしこうした政界再編はまさに「永田町の政界」再編にとどまり、有権者を巻き込んだ有権者再編にはならなかった。

いわゆる改革派が政権を確保することを急いで、既存の政党勢力の組み替えによって新党を結成し、有権者と政党との関係の見直しに踏み込まなかったことも原因であるし、有権者の側も容易に新勢力が形成されるのを見て、他人任せの態度を改めなかった。しかしこうした状況では、首尾一貫した新政治勢力はつくることが出来ず、旧来型の政治に不満な有権者は、無党派層とならざるを得なかったのである。

村山富市内閣の成立によって、早期の政権復帰を遂げた自民党は、他党との連立で政権維持を図りながら、自らの勢力の温存を至上目的とするようになる。そうした連立政権の継続は、もともと分散的であった政策決定過程をいっそう分散化させ、政策体系や財政規律を弛緩させる効果を持った。また勢力維持のために、関係団体の要求に敏感にならざるを得なかった政権では、予算要求を厳しく切ることが難しくなり、政権交代の可能性によって、特に大蔵省官僚と自民党との関係が微妙になると、従来の安定的な政官関係が崩れ、「政治主導」の名のもとに、族議員政治の拡大が進行していった。

しかし1990年代前半の選挙制度改革を中心とする政治改革は何の効果も持たなかったわけではなく、たとえば自民党と新進党の政権をめぐる争いが演じられた1996年総選挙に勝利した橋本龍太郎内閣が、大規模な行政改革とともに、財政構造改革法による財政再建に乗り出したのは、小選挙区制が、政策的競合関係と、首相(党総裁)への権力集中をある程度もたらした効果であったとみられる。こうした試みは政策運営のまずさ(柔軟性のない、硬直的な再建方策)や、党内基盤の脆弱性によって実質的には1年程度しか永続せず、改革は道半ばで放棄される結果に終わる。

しかし2001年に小泉純一郎内閣が予想外の経緯を経て成立し、高い人気を博するようになると、再び政界は改革の時代を迎えた。補正予算の編成をおこわず、歳出削減方針を何度も確認するなど、ともかくも財政赤字の拡大を食い止める最小限の手は打たれ始めた。

また中央省庁再編によって創設されながら休眠状態であった経済財政諮問会議が一挙に活性化し、中身はともかく「骨太の方針」という形で予算編成の大きな方向性を示すことを始めたことなど、積み上げ式予算編成体制にも変革の兆しが見え始めた。そして閣僚の派閥推薦慣行の廃止や、定期的な内閣改造による閣僚の総入れ替え停止など、人気のある首相のもと政府・与党二元体制にも修正が加えられ、一元化の試みがなされるようになった。

さらに2003年の総選挙においては、政権公約(マニフェスト)の必要性が訴えられ、主要各政党が実現可能性を考慮しながら、具体的な選挙公約を策定したほか、その検証体制を整備しつつあるのは、「目的なき政府」の改革の試みである。

(4)財政再建への政治的意志の確立と恒久官僚制
このような経緯を前提に財政構造改革のために必要な改革は、大きく分けて二つの領域に分けることができる。

一つは財政再建を目指す政治的意志を確立し、それを安定化させる方策である。もう一つは具体的に財政再建を進めるためには、日常の財政運営方式を改革することである。

まず前者の課題についてみておこう。財政再建に関しては、とかく再建テクニックに関心が集まりがちであるが、テクニックだけで長期にわたる再建過程を乗り切ることはできない。それどころか橋本内閣における、財政構造改革法にみられるように、財政再建への関係者の意欲に疑いがあるために、骨抜きにならないようにと、硬直的な緊縮策を規定してしまうと、急な景気の落ち込みなどに柔軟な対応ができず、結果として枠組み自体が崩壊することが起こる。

こうした事態を避けるためには、財政再建が必要であるという意識が長期間にわたって継続する仕組みを考えるべきである。もっとも、この課題が難しいからこそ、さまざまな代替案が生まれるのであるが、論理的に突き詰めれば解答は存在する。

もし財政破綻が絶対的な意味での失敗であり、なんとしても避けなければならない事態であるとすると、政治的競争への全ての参加者が、そうした意識を共有することによって、弱い意味での財政再建への意欲が保持される。逆に言えば、財政再建自体については、政争の対象としないことが求められる。

一方の政治勢力が財政再建を掲げ、他方がその不必要性を掲げるようなことでは、事態を安定的に処理することはできない。たとえ多くの人々が財政再建の必要性を認めていたとしても、ほかの政策に関する判断によって、財政再建の必要性を認めない勢力に政権を担当させることがあり得るからである。

あるいは不況の到来などによって、ある勢力が積極財政を唱えて、人気を博した場合に、ほかの勢力が財政再建プランに拘束されるのは、競争上不利な場合が容易に想像でき、財政再建プラン放棄は、簡単に起こってしまうように思われる。その点で、少なくとも中長期的には、財政再建が必要であることを、ゲームのルールとすることが望ましい。

つまり財政再建プランの枠組みに関しては、超党派的な合意を作り、そうした合意をいわば憲法的規範として、長期にわたって継続させることが必要となる。かつては金本位制の採用や、財政均衡主義が当然視されることによって、財政に規律を与えることがなされていたが、それに変わる財政規律回復のための規範を超党派的に合意するのである。

もちろん、そうした合意があるから、予算や財政に関する政党間対立がなくなるわけでもないし、そうすべきでもない。財政再建で問題になるのは、基本的には財政の総額レベルにおける規律の確保なのであって、個別費目の配分などについてまで堅い合意をする必要はない。そこで、中長期的な財政再建プランを前提として、その中で予算配分の優先順位を政党が付け、それをもとに有権者の審判を仰ぐという形になるのが望ましい。

そうした時に、前提となるのは、こうした超党派合意がエリート間に確固として維持され続けることである。

政治の基本的な役割が、トレードオフの存在する事案についての決断であったり、それぞれ相当の根拠のある選択肢のなかから一つの結論を民意による選択というフィクションを用いて選び出すことにあるとするならば、こうした超党派合意を行うところまでは政治的決断であるにしても、そうした合意の維持を生きた政治の力学に任せる必要はない。

むしろこうした課題は、「政治的中立性」が確保された勢力が、その擁護に当たるというのが望ましいであろう。その点で、恒久官僚制には、財政再建プランの枠組みに関する超党派合意の保持者としての役割が期待されてもよい。

そうした点で、本論のはじめで紹介した「官僚神話」には、一定の根拠があるといえよう。ただ問題は、官僚だけでこの課題を処理することはできないのであり、主要政党間の超党派合意という行為があって、初めて官僚によるその合意の確保・維持という行為の政党制が生まれることである。

(5)財政システムの合理化と社会利益代表としての官僚制
このように財政再建についての超党派的合意が存在することは、中長期的な財政再建過程にとって必要であると考えられるが、それだけでは財政再建は難しい。それは「総論賛成、各論反対」という事態が生じたときに、総論を各論に落とし込む仕組みがなければ、いつまでたっても財政規律は確保されず、いわば「かけ声倒れ」の事態に陥るからである。

その点で、先に見たような社会的利益の代表者としての省庁のあり方に一定の変更が加えられなくてはならない

。そうでなければ、総論では財政再建に賛成しても、自らが関係する歳出の削減や、減税措置の廃止などといった課題に、各省庁および関連族議員が抵抗し続ける事態となって、改革の推進が難しくなるからである。

この問題の古典的な解決策は、先に挙げたような官僚内閣制的な分散過程を改め、議院内閣制の標準モデルを用いて、内閣あるいは首相への権限の集中化を行うことである。あるいは、内閣全体の役割分担からすれば

、財務大臣への権限の集中化でもよいだろう。そうした集中化によって、総論としての財政再建課題を具体化するのが、予算編成過程であるという予算編成過程の意味転換が起これば、事態はずいぶん改善するはずである

関連して、もう一つ必要な改革は、各省庁が関係する利益集団あるいは業界からのある程度の自立性を確保することであり、議院内閣制的な集中化と同時に、関係する族議員からの隔離という課題であろう。言い換えれば大臣の指揮命令系統を明確化して、外部からのノイズを遮断するということになり、政府・与党二元体制を内閣レベルでの高い位置で一元化することになる。

こうして集中化によって、省庁割拠性が打破されることが望ましいとしても問題は、そこで終わらない。それは集中化をするとしても、個別の予算あるいは政策課題に関する情報は要求官庁側に圧倒的にあるわけで、権限の集中化はこの問題を解決しないからである。

それどころか新公共経営(NPM)的な発想による財政制度改革は、鶴論文を始め他の論文でもしばしば取り上げられているように、むしろ政府内分権化によって、予算項目をまとめて、個別の形式統制をやめ、各執行単位に大きな裁量を付与する方向にある。こうした動きは、ここで提案した議院内閣制的集中化といかなる関係にあるのであろうか。

問題を明確化するために結論を単純化すれば、予算統制の対象を変更することにより、権限集中と、分散処理が両立するということになる。すなわち予算を目的別に編成し、そうした目的の達成に必要な費用をまとめて予算に計上し、その内部における費目配分は執行責任を負う単位(省庁など)の裁量にゆだねるとともに、目的達成度を厳しくチェックすることにすれば、予算費目の具体的な配分を分散しながら、予算の目標管理については統制が行き届くということが理論的に考えられるからである。

このようなシステムのもとでは、各省庁は自己の権限内部においては財政に関する行動の自由度を増すことになるが、財政の形式統制のもとでは、あまり重視されなかった目的達成度に関する評価を受けることになるため、目的においては政府全体の方針に関する統制を強く受けるようになる。

財政担当部局に関していえば、財務省主計局のような組織は、積み上げ式予算折衝といった作業から解放されるとともに、逆に政府の目的を具体的な数値目標に置き換え、それに必要な予算を推定し、さらに目標達成度のチェックを行うといった役割を果たす必要が出てくる。さらにその上には、内閣全体の方針をまとめる機関が別に必要になり、予算編成方針に関していえば、そうした機能を内閣府におくのか、イギリス風に財務省を首相の官庁というような形で構成して、財務省内におくのかという選択肢はあるものの、そうした機能を果たす組織が必要だという点では変わりがない。((10))

このようにみてくると、財政改革においては、官僚制の二つの顔、すなわち国益の担い手として社会からの自律性を協調する顔と、所轄に関わる社会的諸利益の代弁者としての顔を使い分けてきた官僚制の特質をよく見極める必要があることがわかる。

ある意味では、肥大化しすぎた社会利益代表の顔を、少し国益の担い手としての顔に引き寄せることが必要なのであって、その意味で、NPM 的な分散処理を特徴とするシステムを導入する場合には、現状の分散的な権力状況に夜規律の喪失を加速しないような方策を十分にとる必要があるといえよう。さらに、財政再建に関する超党派合意のところで述べたように、恒久的官僚制の役割の一つに、そうした中長期的な規範の維持という役割があることを認識し、そうした官僚制の機能を強化する方策がとられることが望ましいといえよう。


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(1)こうした議院内閣制の論理構造については、飯尾潤「日本における二つの政府と政官関係」『レヴァイアサン』

34 号(2004 年春)7-19 頁(近刊)
(2) こうした連鎖の意味を追求したものとしてKaare Strøm, Delegation and accountability

inparliamentary democracies, European Journal of Political Research, 37-3,2000
(3)この用語を用いて問題提起を行ったのは、松下圭一「国会イメージの転換を」『世界』一九七
七年二月号。
(4)佐竹五六『体験的官僚論』有斐閣、1998 年の用語法による。
(5) 日本の予算編成過程の古典的な姿については、ジョン・C.キャンベル( 小島昭, 佐藤和義訳)
『予算ぶんどり: 日本型予算政治の研究』サイマル出版会, 1984 年
(6)牧原出『内閣政治と「大蔵省支配」』中央公論新社、2003 年。
(7)山口二郎『大蔵官僚支配の終焉』岩波書店、1987 年。
(8)真渕勝『大蔵省統制の政治経済学』中央公論社、1994 年。
(9)消費税導入に至る過程と、そこにおける政治力学および官僚制の役割については、加藤淳子『税
制改革と官僚制』東京大学出版会、1997年。
(10)問題は、実のところ多くの省庁の行政事務の、実際の執行を地方自治体にゆだねている現状
から、問題はここで述べたような中央政府内の関係再編だけではすまない。とりあえず指摘でき
るのは、権限と責任関係が明確になるこうした改革を行う上で、現在まで続いている融合的な中
央-地方関係が大きな障害になることである。

2004年3月19日金曜日

【自由党】 民主党(横路氏)との安全褒章に関しての合意文書

小沢一郎氏と横路孝弘氏の間での安全保障などについて合意

イラクへの自衛隊派遣など、政府の勝手な解釈で自衛隊の行動についての歯止めが完全になくなってきています。また、憲法改正への動きも政界の中で加速され、日米同盟を中心に集団的自衛権の行使を実現しようという主張が増えるなど、日本は「保安官(アメリカ)の助手」になろうとしています。

 国連憲章2条4項は、日本国憲法9条と全く同じ精神です。この理想に向かって進むために、私と小沢さんは、憲法9条は守っていこう、同時に国連の平和秩序維持のためには国連協力の組織(名称は国連待機軍でも平和維持協力隊でもいいのですが)を作って協力し、自衛隊は国土防衛に徹して海外へは出さないことなどを合意しました。

2004.3.19
日本の安全保障、国際協力の基本原則

 冷戦の時代は終焉したとはいえ、世界各地においては紛争が頻発している。世界の安全保障と国際協力について確固たる基本原則を改めて定め、確認しておくことは時代の要請でもあり、また、喫緊の課題でもある。
 私共は、我が国の安全保障及び国際協力について、この間慎重かつ精力的に検討を続けてきたが、ここに次の通りの基本原則で一致したので公表する。

< 現 状 認 識 >

1.いまのままでは自衛隊は米国について世界の果てまでも行ってしまう危険性が高い。政府自民党による無原則な自衛隊の派遣に歯止めをかけなければいけない。

2.世界秩序を維持できる機能を有する機関は国連しかない。日本も国連のこの警察的機能に積極的に貢献する。

3.憲法の範囲内で国際貢献するために、専守防衛の自衛隊とは別の国際貢献部隊を作る。

4.現在国連はその機能を充分果たしていない。日本は国連の組織、機能を拡充、強化するようあらゆる機会に国際社会に働きかける。


< 基 本 原 則 >

1.自衛隊は憲法9条に基づき専守防衛に徹し、国権の発動による武力行使はしないことを日本の永遠の国是とする。一方においては、日本国憲法の理念に基づき国際紛争の予防をはじめ、紛争の解決、平和の回復・創造等国際協力に全力を挙げて取り組んでいく。

2.国際社会の平和と安全の維持は国連を中心に行う。それを実現するために、日本は国連のあらゆる活動に積極的に参加する。

3.国連の平和活動への参加を円滑に実施するために、専守防衛の自衛隊とは別に、国際協力を専らとする常設の組織として「国連待機部隊(仮称)」を創設する。待機部隊の要員は自衛隊・警察・消防・医療機関等から確保する。また、特に必要があるときは自衛隊からの出向を求める。

4.将来、国連が自ら指揮する「国連軍」を創設するときは、我が国は率先してその一部として国連待機部隊を提供し、紛争の解決や平和の回復のため全面的に協力する。

5.国連軍が創設されるまでの間は、国連の安全保障理事会もしくは総会において決議が行われた場合には、国際社会の紛争の解決や平和と安全を維持、回復するために、国連憲章7章のもとで強制措置を伴う国連主導の多国籍軍に待機部隊をもって参加する。ただし、参加の有無、形態、規模等については、国内及び国際の情勢を勘案して我が国が主体的に判断する。

6.安保理常任理事国の拒否権行使等により安保理が機能しない場合は、国連総会において決議を実現するために、日本が率先して国際社会の意思統一に努力する。

以 上

  2004年3月19日

2004年3月18日木曜日

【自民党政治】 国会運営とマスメディア

 日本」では、マスメディアに対する信頼度が高いようである。しかし、世界的にみたら、それが異常な事のようである。なぜなら、新聞社もテレビ放送会社も企業なのである。企業であれば当然、利益優先の部分があるのが当然と考えるべきであろうか。



宮脇磊介「騙されやすい日本人」より
新潮文庫, 2003.3.1 発行、ISBN 4-10-116421-5
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4101164215

#(主張の全体的方向性には、ある種の危惧を感じたが、政府の中枢近くにいた著者による、現代日本の構造的問題の全貌についての貴重な証言になっている。以下、国会運営とマスメディアに関する部分だけ紹介。)

p23 「国民の目を永田町の実態から隔離してきたカベは、いわゆる55年体制下において限りなく有効に機能してきた。それは、与党自民党の中での密室政治にとどまらず、与野党間の密室談合によって作られたシナリオに沿った国会運営をもたらすことで、その真骨頂を発揮する。

これがいわゆる国対型国会運営、「国対政治」といわれるものである。そして、政治記者はシナリオ通り国会対策委員会のいわゆるウラ国対で党利党略の調整の結果まとめたシナリオを尊重して、そのシナリオにあった記事作り、紙面構成をしてきた。

・・・自民党は国会対策上、重要法案を最終的に会期内に可決するために、いかにも野党の立場を尊重して五分五分の与野党対決をしているかのようなシナリオを、野党と談合の上で作る。国対委員長が、そのシナリオライターであった。政治記者は、そのシナリオを作成する経緯がわかっていても、紙面で暴露するようなことはしない。むしろ、時にはシナリオ作りに加担することさえあったといわれる。このシナリオには、必ず、「審議拒否」が重要な意味を有する。つまり、白熱シナリオのクライマックスである。

・・・野党は審議に復帰し、法案成立のタイムリミットにぎりぎりで間に合う。
・・・与野党談合、政治記者黙認の共同作業が生んだお決りの展開が繰り返されていく。」
#(国立大学法人法案の審議では、与野党間は談合はなかったと信じたいが、参議院文教科学委員会の最後2回の審議では、民主党議員の質疑内容と態度に、その疑念を抱かせるものがあった。)

p186「 行政とジャーナリズムのとの癒着の最大の場は、つとにその弊害が指摘されている記者クラブ制であろう。記者クラブは、政・官・業いずれとの間にも存在するが、政治家と番記者との関係に次いで癒着度が高いのは、官庁記者クラブであるといわれる。長年の記者クラブと行政官庁との間の歴史の中で、次第に記者の独自取材や調査報道の力が削がれ、行政官庁のいわゆる「発表もの」に依存するようになってしまった。「新聞の官報化」は、かねてから指摘されているところである。」

p192 「癒着によりジャーナリズムが書かないこと、ジャーナリズムの腐敗である。マスメディア自身も国民も「癒着は腐敗である」との厳しい見方で臨まないと、マスメディアのモラルハザードが進行する。日本のマスメディアの場合には、ニュースソースとの関係において、意識的・理性的に選択されたポリシーとしてのオープンな協力関係と、こうした癒着とがはっきり区別して意識されていないために、緊張感が欠けて腐敗を生んでいるのであろう。」

p194 「私が内閣広報官の仕事をしている間に自分自身で感得した言葉に、"毒をまわす"という語がある。・・・「魂を奪う」とか「肝を抜く」という言葉は承知していた。「毒をまわす」とは、丁寧に言えば「ご理解いただき、ご協力を賜る」ということである。
・・・毒をまわす手法は、
・・・システムとしても形成されている。
・・・その最も有効なシステムが「叙勲」をエサに魂を奪い虜にすることである。
そのシステムの典型は、政・官が特に役所を窓口として、政・官においてこれから実現しようとする政策に対して批判勢力になりかねないマスメディアの関係者・評論家・学者や財界人などを懐柔するための段階的システムである。・・・新聞関係では、特定の新聞社の社長が新聞協会の会長を順に務めるとになっているが、会長経験者には、勲章、それも勲一等瑞宝章が授与されるとが慣行として定着しつつある。新聞人にあっては、叙勲を辞退した人がどれだけいるであろうか。・・・」

国立大学独立行政法人化問題週報 NO118 目次
Weekly Reports  No.118 2003.7.21
http://ac-net.org/wr/wr-118.html
総目次:http://ac-net.org/wr/all.html
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[0] 内容紹介

 [0-1] 与野党の談合が推測された国対政治
  [0-2] 最大の功労者はマスメディア。
 [0-3] 諸問題の基盤をなす構造的問題の解決が大学復興の近道
 [0-4] 国公私立大学通信の転載

[1] 7/9 12:30 am 国立大学法人法案に対する議員別投票結果
http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/vote/156/156-0709-v001.htm

[2] 宮脇磊介「騙されやすい日本人」
新潮文庫, 2003.3.1 発行、ISBN 4-10-116421-5
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4101164215
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[0] 内容紹介

[0-1] 与野党の談合が推測された国対政治

国立大学法人法が7月9日に参議院本会議で可決されました[1]。

この週報は、国立大学の独立行政法人化政策の問題性を大学内外に理解してもらうことを主目的として2000年3月に発刊を始めたものでしたが、最後の段階では、当事者である国立大学関係者自身の意見表明などの行動を喚起する方に時間をとられ、大学外のみなさまに訴える余裕がなく、残念でした。

前号を発行した6月16日以降、参議院文教科学委員会での審議が紛糾し、会期末の6月18日までには成立せず、国立大学法人法案等は廃案または継続審議となるべきものでした。しかし、会期延長の中で、実質的な審議がないまま、委員長の職権による強行採決が行なわれ、可決されました。本会議では賛成131反対101で、与党議員の中でも棄権が9名あるというきわどい結果でした。しか
も、23項目もの付帯決議がなされ、国会自身が「欠陥法案」であるという註釈付きの可決となりました。

百年の一度の大改革にたいしても、数を頼む与党の無責任で粗雑な政権担姿勢が、国会対策委員会による議事運営[2]に現れていたと感じましたが、最終的には、野党の一部の「談合」的姿勢にも、失望は禁じえませんでした。


[0-2] 最大の功労者はマスメディア。

旧文部省が1999年に国立大学を独立行政法人化する方針に転換したときから、国立大学全体が独立行政法人化を既定事実として法人化対策に終始しようとしていたことに、当事者意識の希薄さに編集人は驚きました。また、独立行政法人化で大学の自主性が増すという政府見解を執拗に報道しながら、その問題点は一切報道しようとしないメディアの偏向に驚きましたーー国立学校設置法・国立大学特別会計法・教育公務員特例法などの法によって運営的・財務的な独立性がかなり保障されている国立大学制度を廃止し、政府の強い管理下に大学を置く、という点を一切報道しようとしなかったのです。

これらのことに危惧を頂き、主に大学関係者に対し、慣れない広報活動を行ってきましたが、焼け石に水のようでした。マスメディアにより毎日数千万人にばらまかれる偏った情報の効果を、週に一回、千数百人に配布するメールマガジンの情報で打ち消すことなど、できようがはずはありません。(その点で、4月以降に野村さんが中心となって行われた4回にわたる意見広告は多大な効果がありました。)

国立大学法人法可決の最大の「功労者」はマスメディアです。その功の中心にいた「文教族記者」の一部が、教員あるいは理事として国立大学法人に「天下る」ことは必至でしょう[2]。


[0-3] 諸問題の基盤をなす構造的問題の解決が大学復興の近道

今後は、国立大学法人制度の「白紙」の部分を文部科学省と国立大学協会が協力して埋めていくのでしょう。しかし、国立大学協会が政府の言いなりの存在であることが、この4年間の行状により、そしてなにより、法案公表から可決までの4ヶ月間の沈黙により、白日の下に曝されましたので、政府が国会の委任を受けて思いのままに国立大学法人制度を作っていくことを妨げるものはもはや何もないでしょう。

長期的に種々の弊害の発生が予期されている国立大学法人制度への移行が断行されたのと同じような問題は、種々の分野で起きています。問題の解決を阻む諸政策が一部の人たちの利益のために実現されることを可能にする構造が存在することの方が、ここの問題より深刻ですが、特に、情報支配に伴う重い責任への自覚がマスメディア界全体に欠如していることが深刻な問題です。

マスメディアによる情報支配を無効化するための技術的契機はすでに準備されていますが、ここでも問題となるのは情報の「信頼性」や「質」です。これを組織的に確保するためには、大学関係者の多岐わたる取組みが必要となります。そのような活動を通して、荒廃した日本の復興が可能となる土壌が形成されていけば、大学の存在意義は明確となり、場当たり的な大学政策の連発で疲弊し荒廃が進んでいる日本の大学界全体の復興は、おのずとなされることでしょうーー夢物語のようですが、そういった社会全体の行く末とリンクした長期的なビジョンを大学界内外で多くの人が共有しなければ、大学の復興などありえないと思います。


[0-4] 国公私立大学通信の転載

今後は「国公私立大学通信」を配信させて頂くことにします。これは、「国立大学独立行政法人化の諸問題」サイトのウェブログの見出しとリンクを紹介するものです。(編集人)


行政を代弁して憚らない記者達
朝日新聞2003年7月21日 社会部 長谷川 玲 記者
「自立に向け意識改革をーー法人化される国立大学」
報道機関から政府広報紙への大手紙の退化を証明する歴史的記事といえるだろう。大学関 係に長く携わっていて文科省とも知己の多い「族記者」の一人なのであろうか、 毎日新聞2003年6月23日付の横井信洋記者のエセー「国立大学教員よ甘えるな」と同じ趣旨の内容であることにも驚きを覚える。どこまで政府の肩を持てば気が済むのであろうか。大手紙(読売・朝日・毎日)のみが示す余りに偏った記事は、安く土地を譲ってもらった政府への負い目 を証明してしまっていると言えるのではないか。なお、都立大学の長谷川宏氏が長文の公開質問状を長谷川玲記者に送っている。



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2004年2月4日水曜日

【鈴木宗男】 北海道新聞

「北海道新聞の記事」は、当時の鈴木宗男氏を北海道新聞が如何なる立場から追い続けたものなのかは、自分にはわからない。しかし当時は「鈴木宗男は、悪である」という印象だけは非常に多くまた巧妙に伝えられたとしか思えない部分が沢山あった。今一度当時の北海道新聞の追求(記事)を読み直してみようと思った。

そもそも中川一郎氏の自殺により息子中川昭一氏が立候補し結果、中川昭一氏の後押しをしていたことから鈴木宗男氏への読売からのメディアバッシングが展開されている。当時、宗男氏は、中川一郎氏が世襲には否定的だった事を大儀とし、立候補をしている。

その後、三井環氏の検察の裏金を告発をした事件を隠蔽するように鈴木氏の事件が起きている。当時の新聞各紙の論調はすさまじいものがあったのだが、あえて北海道新聞の鈴木氏への疑惑連載記事を備忘録として残しておいたものである。

備忘録の引越しで当時の記事を読み直してみて、気がつくのは「検察の手口」が当時も現在(西松事件・陸山会事件・郵便不正事件)とほとんど同じ構図で取り調べられていることである。

鈴木宗男氏が現在被疑者とされ争っているのは、次の4件である。
*やまりん事件、*島田建設事件 *政治資金規正法違反 *モザンビーク事件

WIKIからこの事件を拾い上げてみる。
やまりん事件
1998年、製材会社やまりんは国有林無断伐採事件を起こした。林野庁は6月25日、国有林の公売などの入札参加資格を7カ月間停止する処分をした。行政処分後、やまりんの関連会社2社が樹木の公売7件を落札していたことが明らかになる。関連会社は処分の対象ではないが、林野庁は「道義的に問題がある」として、契約を辞退するよう説得する。2社ともこれを受け入れて辞退した。

やまりんの社長や関連会社の役員らは8月4日、内閣官房副長官だった鈴木宗男を訪ね、行政処分で受けた不利益を補うよう取り計らってほしいと依頼。鈴木は見返りとして500万円を受け取り、旧知の林野庁幹部に数回にわたり関連会社の落札開始の働きかけ及び随意契約による利益確保を働きかけていたとされる。

鈴木は、初当選時にお祝いの政治資金として400万円を正規の形で受け取ったのみである上、やまりんの不祥事の際に全て返還しており、残る100万円も検察側がでっち上げたであると主張している。

島田建設事件
1997年から1998年、網走港の防波堤工事や紋別港の浚渫工事など、島田建設が当時北海道開発庁長官であった鈴木に受注の便宜を頼んだ見返りにあわせて600万円を渡した事件。

鈴木は、工事の受注は指名競争入札で決まり、島田建設が落札したのであり、一切便宜は図っていないと主張している。

支援委員会不正支出事件
イスラエル関連の学会をめぐる外務省の事件。ロシア外交を展開していた鈴木宗男はイスラエルの学会はロシアと非常に繋がりの深かったことを日本の対ロシア外交で重要視し、そのためイスラエル関連の学会を巡って、外務省関連の国際機関「支援委員会」から支出が行われていた。

2000年1月にガブリエル・ゴロデツキー(テルアビブ大学教授)夫妻をイスラエルから日本に招待した時
2000年4月にテルアビブ大学主催国際学会「東と西の間のロシア」に7名の民間の学者と外務省から6人のメンバーを派遣した時
この2回の費用を外務省条約局が決済して「支援委員会」から計3300万円を違法に引き出して支払った疑惑が浮上した。

この事件で国際情報局分析第一課主任分析官だった佐藤優と元ロシア支援室課長補佐の外務官僚2人が背任罪で起訴され、有罪が確定した。

しかし、佐藤は、「支援委員会から支払をすることは通常手続きである外務事務次官決裁を受けており正当なものだった」との主張をしている。また、佐藤の上司だった当時の外務省欧亜局長東郷和彦は、「外務省が組織として実行しており、佐藤被告が罪に問われることはあり得ない」と証言している。そして、東郷は、佐藤が逮捕された時、外国にいたが、当時の野上義二外務事務次官(後に駐英大使)と電話で「こんなことが犯罪になるはずがない。何も問題はない」と話し、しかも、野上はこのことを記者会見で述べるとまで言ったと佐藤の著書には書かれている。

政治資金規正法違反事件
鈴木宗男の資金管理団体「21世紀政策研究会」における政治資金収支報告書が虚偽であり、政治資金規正法違反していた事件。

東京都南青山の鈴木宗男宅の費用約1億5000万円の内、約4分の1である3600万円が鈴木宗男の資金管理団体「21世紀政策研究会」の政治資金から自宅購入費に流用していた事件と資金管理団体「21世紀政策研究会」の1998年分を政治収支報告書から1億円の寄付収入を除外して1億円を裏金にした事件が発覚した。

この事件によって、鈴木宗男と秘書2人が起訴された。



序章 2002年6月24日掲載(北海道新聞)

「お、お、お」。顔色変えずに紙袋の現金を受け取った。

 一軒の家に、車から降りた紺の背広姿の男が駆け込んだ。2002年4月29日、十勝管内広尾町豊似。鈴木宗男だった。

 鈴木が秘書を務めた元農水相、中川一郎の実弟である故中川正男宅。2日前に正男の一周忌があったが、「静かに故人をしのびたい」として鈴木は出席を断られていた。突然、訪れた鈴木は仏壇の前で手を合わせた。

 その翌日、東京地検特捜部は鈴木の公設第一秘書宮野明を逮捕した。捜査の手が、鈴木にも迫ろうとしていた。秘密裏の来道だった。鈴木は町内の別の場所に住む正男の弟で71歳になる健三の家も訪ねた。「一郎先生にお参りしたかったんです」と鈴木は言った。


初当選翌日の1983年12月19日、広尾町にある中川一郎の墓前で当選の報告をする鈴木。衆院議員としての人生が始まった  正男と健三。一郎の自殺後、長男の中川昭一と「骨肉の争い」を展開した1983年の衆院選で、劣勢が伝えられる鈴木を支援し、初当選に結びつけた。だが、鈴木が選挙区を釧根にくら替えしてから関係は希薄になっていた。

 断られてもやって来た鈴木の真意を関係者は測りかねた。その当時の恩義に報いたいとの思いだったのだろうか。気持ちの整理だったのか。この時、すでに鈴木は「逮捕を覚悟していた」。

 1983年12月19日、鈴木はやはり広尾にいた。前日、投開票された衆院選での初当選を一郎の墓前で報告するために。

 旧北海道5区(釧路、根室、十勝、網走管内)での最初の総選挙。昭一が同情票を集め、破竹の勢いだったのに対し、鈴木は非難の集中砲火を浴びていた。「中川は鈴木が追いつめたから自殺した」
 鈴木の遊説の振り出しも広尾。人垣の中を握手して回る鈴木に「この人殺し!」と罵声(ばせい)を浴びせ、ほおをたたいた男がいた。空気が凍り付く。だが、鈴木は平然と、その人の右手を握りしめた。「鈴木宗男です。よろしくお願いします」

 35歳で初陣を飾った鈴木は新聞のインタビューでこう語っている。

 「3回当選するまでは地元優先、利益誘導と言われても思い切り現実路線で行きたいと思っています。地盤をがちっと固め、それから天下国家、北海道のことを言ってみたいと思っています」

 だが、選挙は苦しい戦いの連続だった。

 定数5の旧北海道5区で、初回は4位当選。2回目以降も4位、5位、4位と下位当選に甘んじた。道13区(釧路、根室管内)に国替えした5回目は北村直人=当時新進党=に敗れ、比例代表で復活当選。6回目は比例代表道ブロックのみで、出馬、当選した。

 「選挙が弱いから、当選を重ねても地元の面倒を見続けなければならなかった」。古くからの支持者は言う。

 鈴木がまだ中川の秘書だった1980年ごろ、東京・赤坂。車の中で、当時、建設会社の社員だった男性が紙袋を鈴木に差し出した。「お世話になりました。これは会社から」。「お、お、お」。鈴木は顔色一つ変えずに受け取った、とこの男性は証言する。紙袋には2000万円近い現金が入っていたという。

 男性は鈴木に「口利き」を依頼し、道内の自治体が発注する約6億円の事業を受注した。「謝礼は業界の常識。鈴木さんは若いうちにこれを覚え、金額や回数が増えるたびに態度が大きくなっていった」

 議員1期目のころ、省庁の局長クラスを呼びつけて「バカ野郎」と怒鳴る鈴木を、周囲がいさめた。だが、鈴木は「オレは若いからバカにされる。そうさせないためにやるんだ」。

 一方で、官僚に道東産の新巻きサケなどを盆暮れに送り続けた。「たいした額じゃないから、もらう方も気楽。これでおれの名前を覚えてもらえるし、『あれ、うまかったか?』と話ができるだろ」

 集金力に物を言わせ、実力者に取り入って、永田町の階段を駆け上がっていく。夜の会合の前にはスポーツジムへ。トレーニングの後、コップ一杯のタンパク質入り飲料を飲み干してマチに消えた。寝る前に200回の腕立て伏せを欠かさなかった。肉体を鍛えることで、どんな逆境にも打ち勝つ強靭(きょうじん)な精神力を築くことができる-。そんな信念がそこにあった。

 鈴木を「回り続けるコマ」にたとえた支持者がいる。「回るのをやめたとき、コマは倒れてしまう。ゼロから今の地位を築き上げた鈴木は、人一倍、必死に回り続けるしかなかった」

 落日は意外なほど早かった。疑惑の噴出、証人喚問、側近秘書の逮捕、そして自身も-。

 中川一郎が自ら命を絶ったのは初当選から19年後。くしくも、今年は鈴木の初当選からちょうど19年である。


 「ウチが世話になってる。頼む」

 元農水相、故中川一郎の元秘書は、1970年代後半、東京・永田町の衆院第一議員会館で見た光景を記憶している。

 中川の部屋だった720号室。道開発庁の職員が分厚い書類の束を抱えて入ってきた。港湾、道路など事業別になった開発予算の一覧表。中川は不在で、議員用のいすに腰掛けた公設第一秘書の鈴木宗男が次々とページをめくってゆく。

 「『この事業はこの業者、こっちはこの業者』。鈴木が振り分けて、印を付ける。割り付けだ。今でこそ業者同士の談合がどうのと言うが、当時は役所の人間が鈴木と談合していたんだ」


 中川事務所の関係者は「中川先生よりも鈴木のほうが偉い」と言い合った。地元から「口利き」の依頼で出てきた業者が、議員会館に中川がいても鈴木が不在だとその帰りを待つこともあった。「お礼は、議員分と鈴木の分の2つ用意していくのが、業者間の常識だったと言われていた」。元秘書はそう振り返る。

 当時、中川事務所には1日50-60件もの陳情があった。陳情者は1000人近くもいた。ほかに入学や就職の世話、中央省庁への働きかけ、公共事業の口利きの依頼もある。それらをさばく鈴木の手腕に周囲は驚嘆した。

 ある建設会社の元社員は1970年代後半、道内の一部事務組合が発注する公共事業を受注できるよう、鈴木に口利きを頼んだ。別の国会議員がバックに付いた業者との間で、せめぎ合いが数カ月に及んでいた。「分かった」。鈴木はすぐ受話器を取った。相手は組合を構成するある自治体の首長。「ウチが世話になってるんだ。頼む」

 「翌朝、受注が決まった。驚いたよ。事業費は約6億円。謝礼として鈴木に200万円を渡した。もちろん領収証は出ない。後から、会社の役員が1800万円を中川事務所に持参したと聞いた」

 中川事務所関係者によれば、口利きも、目の前で電話をかける手法も、中川のスタイルだった。

 「陳情の善悪はいいから、とにかくよく話を聞け。そして、すぐ対応しろ」。衆院議員となってから、鈴木は自分の秘書にそうたたき込んだ。

 「例えばマチに橋を造ってくれ、と頼まれても、全体状況を考えて難しければ、そう答えるのが普通だ。でも鈴木さんは違う」と、元支持者の1人は語る。「依頼者がどんなに困っているか真剣に聞いて、それにこたえることが彼の政治のすべて。彼には、“部分”がすべてなんだ」

 道東のある自治体の首長は「口利きは、右から左までやっていない政治家はない」と言いながら、こう続けた。

 「ただ、鈴木さんは無理したんでしょう。選挙が弱かったから。生き残るために、突出してしまった」

「分からないんです」 一転「バカ野郎」

 鈴木宗男が元農水相、中川一郎の私設秘書になったのは1969年。拓殖大政経学部政治学科4年の学生だった。中央省庁を走り回り、「分からないんです」と頭を下げて教えを請う実直な若者だった。

 ところが、2年目ごろから変ぼうする。同僚を怒鳴りつけるようになった。先輩秘書の1人は「怒るときは『バカ野郎! おまえ、この野郎』。先輩も、議員でもお構いなし。運転手や秘書はよく受話器で殴られた。自分も血を流したことがある」と明かす。

 9歳年上で、中川事務所の先輩格だった元衆院議員、上草義輝の関係者は「初めは『上草さん』と呼んでいたのが『上(うえ)さん』になり、ついには『うー』。議員になってからも『うー』だった」。若手の国会議員に「食事代を払ってこい」と財布を放り投げた、との証言もある。

 だが、中川の信厚く、金庫番として政治資金の管理を取り仕切った鈴木に、正面切って反発できる者はいなかった。

 秘書になるまで、それほどの激しさ、傲岸(ごうがん)さを周囲に見せてはいない。

 母校・足寄高で、硬式野球部の後輩を1、2度殴ったことがある。だが、同じ部だった同窓生は「当時の風潮を考えれば特別なことじゃない。鈴木が弱い人間に強く出ていたとか、そんなことは決してない」。拓大で親しかった学友も「講義をさぼらず、マジメで目立たない。一言、二言多かったが、今みたいな性格じゃなかった」と言う。

 ただ、内面の激しさを示す証言もある。

 拓大時代、燃えさかっていた学生運動に、鈴木は「学生の本分を外れている」と反発。左翼の学生運動つぶしのサークルに出入りしていた。「新左翼の学生活動家に待ち伏せされ、鉄パイプで殴り殺されるところだった」と、額から血を流して学生寮に逃げ込んできたこともある。

 秘書となってわずか2年後の1971年、中川の公設第一秘書となる。若くして得た信任が、内面にあった激しさに火を付けたのか。中川事務所の元関係者は「彼なりに懸命に考えて、この方法でいいんだと思い込んだのだろう。鈴木は秘書時代の13年間で変わった」とみる。

 かつて政界で、党人政治家のどう猛さが政治の表舞台を突き動かした。農家出身の中川も生産者米価をめぐる自民党の方針にかみつき、党総務会でコーラのびんをたたき割り、机をひっくり返したことがある。

 だが、おおらかな人柄が愛され、蛮行も大目に見られた中川に比べ、鈴木は敵をつくりすぎた。元支持者は言った。「時代も変わり、敵と見方を峻別(しゅんべつ)して、怒声で敵をたたきつぶす手法は限界に来ていた。でも、軌道修正できなかった。それが鈴木の宿命だった」

オレは1万人の名前を覚えている

 「おおお、父さん! 母さんの病気、治ったか」「息子の就職は決まったか」-。自民党総務局長(当時)の鈴木宗男が、マチで出会った町民に次々と声を掛ける。ホテル、飲み屋、そして街頭で。その数は、数十人に及んだ。名前はもちろん、一人ひとりのプロフィルまで、正確に言い当て、あいさつされた相手を感激させた。2000年10月、根室管内中標津町内。

 自ら推し進めた北方四島人道支援で、国後島に建設した発電施設。その完成式に向け、中標津空港から政府チャーター機で出発する前日の夕暮れ時だった。傍らには当時、外務省主任分析官だった側近の佐藤優(背任容疑で起訴)もいた。

 「オレは1万人の支援者の名前を覚えている。1万人が10人に声を掛けてくれたら10万人。当選できるだろう」。自信がみなぎっていた。


 記憶力は「驚異的だ」と陳情者を驚かせた。「『分かった、分かった』と話を途中でさえぎって、アドレス帳も見ずにダイヤルする。なのにかける相手も、内容も的確なんだ」(支持者の一人)。電話番号について「昔は1000件、今も500件以上は、覚えているな」と語っていた。

 ただ、秘書時代に鈴木が陳情を受けて即座にかけた電話番号を関係者が覚えていて、こっそり後からかけてみた。出たのは陳情とは無関係の相手だったという。「その場では『話し中だ』と言って電話を切り、周囲に『もう1本の番号を教えろ』と命じていた。記憶力をアピールするパフォーマンスの時もあった」

 道開発予算など政府予算案の個所付けなどの数字も内示前にいち早く聞き込み、支持者の前でそらんじて見せた。元首相、田中角栄や竹下登から盗み取った手法だった。

 「いつも後ろを振り向きながら歩いてたんだ」。秘書時代、郷里の十勝管内足寄町から上京した友人と一緒に入った食堂で、鈴木はそう語った。

 田舎育ちの目に、東京は巨大な迷路。だが、マチを駆けずり回り、隅々まで知り尽くさなくては務めは果たせない。帰り道を頭にたたき込もうと、車に乗っても前を向かなかった。「相当、努力したんだろうな」。友人は痛々しく感じた。

 「異能」ともいえる記憶力、そして体力。

 早朝の“マラソンもうで”が新年の恒例行事だった。帯広市内の自宅から十勝護国神社など五つの神社を回り、走行距離10キロ余り。ジャージー姿で厳寒の風を切り、疾走する鈴木に付いていくことのできる者は少なかった。東京でも、早朝ジョギングを欠かさなかった。

 「あんなにエネルギッシュに動き回っていて体は大丈夫なんですか」。周囲に問われて、秘書の二男、行二がこう漏らした。「今は大丈夫と思います。でも、議員をやめたら死ぬかもしれませんね」

涙浮かべ語った「馬一頭」の逸話

 1960年代前半、十勝管内足寄町大誉地(およち)。中学生の鈴木宗男がそこにいた。砂利道で自転車を押しながら、近所の顔なじみに得意げな笑顔を向けた。「中学で1番、貯金がたまったんだ」。開拓農家の自宅で搾った牛乳を、近所に配って回るのが通学前の日課だった。親からもらった、その駄賃をためた貯金額が1番になったと、無邪気に自慢してみせたのだった。

 当時、自転車を持っているのは比較的、余裕のある家だった。古くからの住民の1人は「むっちゃん(鈴木のこと)の家では住み込みの奉公人を2、3人使っていたし、小作人もいた。雑穀を入れておく蔵もあった。それほど貧しくはなかった」と語った。

 議員バッジを着けた鈴木が好んで語ったのが「馬一頭」の逸話だ。大学進学を希望した自分のために父が馬を売って、25万円を工面してくれた。そのおかげで、一度は閉ざされた大学への道が開けたという内容。後援会の会合などで、この当時の話を語り始めると、鈴木は感極まって目を真っ赤にすることも少なくなかった。

 足寄は1962年と1964年、続けざまに冷害に見舞われた。これで進学をあきらめた農家の子弟も少なくない。鈴木が足寄高を卒業した1966年、同じ学級の45人中、大学へ進んだのは鈴木を含めて10人前後だった。

 奇妙なことに、学生時代、そして秘書時代の鈴木と交流のあった人びとは「馬一頭の秘話」について「当時、聞いたことはない。選挙用の話じゃないか」と口をそろえる。

 拓殖大在学中の鈴木はワイシャツにセーターかカーディガンをまとい通学した。住まいは質素な四畳半だったが、アルバイトに精を出し、東南アジアへの研修旅行にも参加した。学生時代の下宿には秘書になってからも住み続け、25歳まで7年間暮らした。秘書になると、盆暮れに付け届けの包みが届くようになった。

 拓大で都会育ちの学友に「故郷はイモがおいしくて、きれいなところなんだろ」と問われ、「住んでみて初めて厳しさが分かる。本州の2倍も3倍も頑張らなくては生きていけないんだ」と真顔で語ったことがある。都会育ちに比べれば、厳しい少年時代を送ったのは間違いない。

 ただ、鈴木が「貧しかったころ」や「汗を流して働く美徳」を過剰なまでに語り始めるのは、衆院選に打って出てからのことだ。

 初出馬の1983年、道内では鈴木の師の元農水相、故中川一郎の長男昭一や元道知事、故町村金五の二男信孝も出馬した。2人とも東京育ちの東大卒。民主党代表の鳩山由紀夫も同様だ。

 エリート2世議員とは違う「貧農の出」「苦労人」。たたき上げ政治家のイメージに自らの存在意義を見いだしていく。

よし、明日からは泣きを入れるからな

 「昭和58年、最初に国会に出るべく、手を挙げた時を思い起こしながら…」。3月15日、離党会見。あふれる涙を白いハンカチでぬぐう鈴木宗男をテレビで見ながら、古くから鈴木を知る関係者は、ある言葉を思い出していた。

 故中川一郎の秘書時代、中川子飼いの国会議員が選挙に出るたび、鈴木は口癖のように言った。「おまえ、選挙が危ないっていうじゃないか。何で涙の一つも流せないんだ」「土下座して泣け」。突き放すような、強い口調だった。

 同じころ、鈴木は「何度生まれても中川先生の秘書になりたい」と言うのが口癖だった。忠誠心を示そうとしていたのだろうが、この関係者は思った。「こいつには照れというものが、ないのか。臆面(おくめん)もなく、よく平気で言えるな」

 その1983年(昭和58年)12月。冷たい雨にぬれ、鈴木はぬかるみに頭をすりつけて泣いていた。

 初出馬した衆院選の遊説中、帯広市内での一場面。ある会社の前で選挙カーを飛び降りて、ひざまずいた。泥まみれで次の場所に立つ。幾度となく鈴木は土下座し、涙で支持を訴えた。

 後年、この選挙戦に話が及ぶと鈴木は泣いた。古手の支持者は「演技じゃない。泣く瞬間は本気で感情を抑えられなくなる。ただ、彼はその瞬間を自分でつくり出すことができた」。

 パーティーで座席を見つけられない老人のために、壇上から駆け降りていすを用意する。どんなに多忙でも、法事に来て線香を上げてゆく。支持者の心を打つ行動には、激情と冷徹な計算が混然一体となっていた。

 政界入りのきっかけは拓殖大入学時、身元保証人を引き受けてくれた中川から「いつでも遊びに来なさい」と声を掛けられて、議員会館に出入りするうちに見込まれ、請われて秘書に-。鈴木はそう語り、劇的な出会いを強調した。求められれば、色紙に「人生出会い」としたためた。

 だが当時、中川の私設秘書だった古田修吾=東京在住=は「保証人の話など聞いたことがない。真っ赤なウソだと思う」と鈴木の話を否定する。古田によれば、鈴木は学生時代、東南アジアを訪れた。その旅行記の序文を中川に書いてほしいと議員会館に頼み込みに来た。約1カ月後に鈴木が再訪した際、中川が居合わせたのが最初の出会いだったという。

 「人生出会い」には脚色が含まれていたのか。

 中川もまた、よく泣く男だった。2人を知る関係者の1人は言う。「中川の人情は奥が深い。だが、鈴木のは単純。あいつは、どこででも泣けるんだ」

 議員バッジを着けてから、選挙戦の終盤で鈴木は周辺にこう漏らしたことがある。

 「よし、明日からは泣きを入れるからな」

自腹切らぬ飲み客に「オレは違う」

 1983年1月13日昼すぎ、東京・築地本願寺。縊死(いし)した元農水相、中川一郎の告別式が行われた。「病死」の発表が一転、自殺と分かった翌日だった。約5000人の弔問客の列が続く式場の受付に、秘書の鈴木宗男が一人、取り残されたように立っていた。

 「鈴木が参院選出馬を申し出て中川を悩ませた」「鈴木の強引な資金集めに苦悩した」。葬儀の後、縊死した原因について「鈴木主犯説」が強まっていった。

 鈴木は苦境に追い込まれてゆく。同年12月の衆院選について、出馬断念を迫る政界関係者からの「圧力」もあった。一郎の嫡男・昭一は十勝の経済界の主流が付き、正統な後継候補と位置づけられていた。鈴木は、傍流の道を歩むよりなかった。


 鈴木を選挙区で推したのは秘書時代から関係が深かった中小を中心とした土建業界、そして出身地の足寄など十勝郡部の人々だった。

 一郎も最初は地元で非主流の政治家だった。初出馬した1963年、十勝の保守本流は故本名武。本名の支持者を切り崩し、やがて本流となった。同じ道を、鈴木は歩き出したようにも見えた。

 「中川の金庫番」と言われた鈴木は、後発のハンディキャップを一郎の遺産で埋めた。「23あった中川後援会の貯金通帳は、すべて鈴木が押さえた。大阪の食肉業者の利権も引き継いだ」と、中川と親交のあった衆院議員は語る。

 傍流ゆえに、企業献金の多くは中小企業、特に土建業者から。鈴木が個別の入札にまで口出しするとされる理由は、ここにあるといわれる。

 赤じゅうたんを踏んだ後もいばらの道だった。最初はどの派閥にも入れてもらうことができず「政界の孤児」と揶揄(やゆ)された。

 「宿なしの野良犬を野放しにしておくわけには、いかんだろう」。1984年秋に自民党幹事長に就任した金丸信は周囲にこう語り、一匹おおかみだった浜田幸一とともに「番犬」として鈴木をそばに置くようになる。

 初めて派閥入りしたのは1993年。竹下派分裂で、選挙区で鈴木と争ってきた北村直人衆院議員が竹下派を脱藩、羽田派結成に駆け付けた。分裂で、最大派閥から第四派閥に転落した小渕(竹下)派は、「数は力」と鈴木を取り込んだ。

 鈴木は「外様は、しょせん外様」との小渕派内の陰口の中で独自に資金集めに奔走、若手の面倒を見ながら地歩を固めていかざるをえなかった。

 1980年代後半、銀座の高級クラブで、上等そうなスーツに身を包んだ一団をきつい目で見つめながら、言ったことがある。「あいつらは自分のカネで飲んでない。オレは違う」。傍流のプライドがにじんでいた。

「入れてくれたんだな」支持者に土下座

 1983年12月の衆院選で初当選直後、鈴木宗男は釧路管内鶴居村へ向かう車の中にいた。夜半、一軒の家の前で降り、扉をたたく。寝間着姿の年老いた男性が扉を開けた。

 「じいさん、入れてくれたんだな」

 「おめえ、よく分かったな」

 老人がそう言うと鈴木は感極まって土下座した。

 鶴居村は、その衆院選で鈴木と同じ旧北海道5区(釧路、根室、十勝、網走管内)から立候補した故北村義和の出身地。敵の牙城だった。鈴木陣営は最終盤まで鶴居の票を読めず、ゼロも覚悟した。だが、開票してみれば16あった。北村は鶴居で1240票を得ながら、次点に泣いた。


 「驚いた。何のつながりがあったのか。それで、票を入れてくれた人を全部特定しようと決めたんだ。考えていたら、以前会ったじいさんの顔が浮かんでなあ」。後日、鈴木は周囲に漏らした。「女房を寝取られても我慢できる。でも、票を取られるのだけは我慢できないんだ」

 「ホクレンを分割できないか」。5回目の当選を果たした1996年の衆院選後、農水省幹部に真顔でそう言い出したことがある。

 ホクレンは、この衆院選道13区(釧路、根室管内)で鈴木を退けて、当選した北村の長男直人=当時新進党、現自民党=の支持基盤。選挙前、鈴木がホクレンなど道内農業団体の幹部に支援を約束する念書を書かせた。それにもかかわらず、釧路地区農協組合長会は北村を推し、鈴木を激怒させていた。

 鈴木は重複立候補した比例代表で当選したが、しこりは消えなかった。巨大組織ホクレンを分割して、力を弱めようと思ったのか。同省幹部が「無理ですよ」と言って、その場は収まった。この幹部は「選挙のことが念頭にあったのだろうが、あまりにも唐突すぎて」と回想した。

 二世、三世や官僚OB議員にはまねのできないほど、鈴木はがむしゃらに票に執着した。それほど、選挙は弱かった。巨額の政治献金を集める力はあっても、小選挙区でトップを取る力はなかった。

 鈴木が学生時代から秘書になり、結婚するまで7年間住んでいた東京都板橋区中台の下宿。古びた電気炊飯器が、まだ残っていた。直径25センチ。2合炊き。スイッチは「入」「切」だけ。鈴木が下宿を出る際、「使ってください」と置いていった。

 風呂はなく、トイレも台所も共同。2階の片隅の四畳半が鈴木の部屋だった。ひっそりとした下宿の中で、炊飯器のアルミのふたは光沢を失い、くすんで見えた。

 票やカネに異常なまでに執着して勝ち取ってきた衆院議員の座。政治への道を踏みだしたこの下宿で、当時、どんな野心をたぎらせていたのか。

 「鈴木長官に頭を下げてくれ」

 1998年度政府予算案の本格編成を前にした1997年11月6日。東京・霞が関にある道開発庁で、同庁幹部は、空知管内奈井江町長の北良治にきまり悪そうな表情で切り出した。

 「北さん、悪いけど、鈴木(宗男開発庁)長官に頭を下げてくれないか」

 この幹部は直前に、同町内で建設予定の「北海ダム」の着工が1998年度予算に盛り込まれるとの見通しを北に告げたばかりだった。それを聞かなかったことにして、鈴木にあらためて陳情してほしいと求めたのである。

 「鈴木長官に邪魔される可能性がある。心配だ」それが懇願の理由だった。この年の9月に道開発庁長官に就任した鈴木は早くも庁内に、にらみを利かしていた。

 不承不承、長官がその時にいた議員会館へ向かった。鈴木は「よーし、分かった」と請け負うなり、北の眼前で農水省、道開発庁などに電話をかけまくった。「空知の北海ダムはマルだからなっ!」

 道開発庁に戻った北を、幹部らが立ち上がって出迎えた。「良かった、良かった」。笑顔で握手しながら喜ぶ姿を北は「これまでにも、どれだけ邪魔されてきたのか」と複雑な心境で見つめた。

 役人が鈴木を恐れれば恐れるほど、鈴木の虚像は膨れ上がっていった。

 「大臣が胆振の予算を半分に減らすと言っている。ああいう人だから陳情に来た方がいい」。同じ97年の暮れ、苫小牧市幹部らに同庁からたびたび電話が入った。

 当時、鈴木は「公共事業はいらないと言う鳩山由紀夫・民主党代表を当選させるところに付ける予算はない」と公言してはばからなかった。怒声を浴びると知っていても、苫小牧市長、鳥越忠行は再三、鈴木に陳情に行かざるを得なかった。予想通り、鈴木は鳥越を面罵(めんば)した。

 怒声で相手を従えていく「宗男流」。その舞台を、結果的に道開発庁の職員がおぜん立てしたことになる。どう喝に危機感を募らせた胆振管内の建設業者は鈴木の後援組織をつくり、選挙区でもない地域に献金企業が急増した。

 道央の自治体幹部は「官僚は本当に脅され、従っていただけなのか」と疑問を投げかける。

 公共事業削減の嵐の中、道開発庁は予算獲得に奔走したが、省庁再編で存続そのものが問われた。開発庁元幹部は「予算獲得だけが目的のような開発庁の存続に、熱を入れてくれる政治家はほかにいなかった」と打ち明ける。弱小省庁の同庁にとって、鈴木は最も頼りになる政治家であったのは、間違いない。

 「道開発予算の一括計上権の存続に尽力したお礼に、ある開発局幹部が業者に鈴木への献金を働きかけている」。1998年から1999年にかけて、道内建設業界に、こんなうわさが流れた。真偽について関係者は口を閉ざすが、道開発庁OBは、鈴木と同庁が「互いに利用し合う関係だった」と証言した。

砲撃音対策のさく「税金の無駄さ」

 陸上自衛隊矢臼別演習場に接する根室管内別海町上風連地区の酪農地帯。道路沿いに、真新しい牧さくが延々と続く。「砲撃音に驚いて暴走した牛が公道に出ないように」と同町が設置した。

 だが、砲撃音が「ドン」と空気を震わせても、牛は身じろぎもせず草をはんでいた。同地区の牧場主(44)が牧草刈り取りの手を休めて吐き捨てた。「牛が砲撃音に驚いて道路に出たことなんてない。税金の無駄遣いさ」

 牧さくは1997年、矢臼別で始まった在沖縄米海兵隊の実弾砲撃訓練を機に整備された。いち早く移転を受け入れた別海町長の佐野力三が、受け入れと引き換えに「住宅防音」「移転補償」とともに、防衛施設庁から引き出した騒音対策3点セットの1つだ。

 佐野によると、3点セットは当時の同庁長官、諸冨増夫との直談判で事業化が決まった。面会を取り次いだのは鈴木宗男。この前後、鈴木は別海を含む矢臼別の周辺3町長に、「地元の要望には責任をもって対処する」と米軍訓練の移転受け入れを強く迫っていた。

 牧さくの長さは、同町だけでも釧路-帯広間に匹敵する112キロ。木のくいを4段の鉄板でつなぐ簡易な構造だが、長さ100キロを超えると下手なハコモノより公共事業の波及効果がある。

 同町は1997年から5年間に総額16億円を発注、国が8割を補助した。地元建設業界は「特需」に沸き、発注リストには鈴木の献金業者がずらりと並んだ。

 しかし、同様に地元対策だったはずの「移転補償」は、酪農を基盤とする地域社会の崩壊に拍車を掛けた。

 1997年から2001年までの5年間に26戸が移転を申請。53億9000万円が支払われた。酪農家十数軒の同町上風連地区でも5軒が移転を決めた。多くは、ただ補償金をもらうだけで離農した。牧草地は「つぎはぎ状」になった。

 別海町には、かつてパイロットファームや新酪農村などの壮大な国家事業に夢を抱き、酪農の担い手が集まった。しかし、性急な機械化で借金は膨らむ一方。乳価も上がらず、離農が後を絶たない。

 「訓練受け入れでもうかったのは土建業者だけ。まじめに営農を続けたい酪農家には何の恩恵もなかった」。矢臼別周辺の農協幹部は、そう言い放った。

 1990年に4691人だった同町の農業者は2000年には4060人に減った。経営環境が厳しさを増す中、展望を欠いた農政、そしてもう一つの国策である米軍訓練移転が離農の引き金を引く結果を招いている。

 一方で建設業従事者は1991年に889人だったのが1999年には1011人と増加。公共事業への依存度は高まり、町はいつの間にか「カンフル剤」の事業を運んでくれる鈴木の強い影響下に入った。

 旧5区時代から鈴木と親交が深い佐野は、鈴木の逮捕・起訴を「大変な痛手だ。公共事業を持ってきてくれる人がいなくなった」と嘆いた。

「鈴木イニシアチブの確立だ」

 霞が関の道開発庁長官室で、鈴木宗男は大臣いすに身を沈めながら、満足そうに周囲に語った。

 「鈴木イニシアチブ(主導権)の確立だ」

 道開発庁長官に就任して9カ月余りの1998年6月下旬。同月30日付で、官僚のトップである事務次官をはじめ、開発庁の主要4幹部を総入れ替えしたうえ、道内11開建の全部長をすげ替える異例の大規模人事を固めたときだった。

 事務次官は2年が慣例だが、大蔵省出身の松川隆志を就任1年で退任させた。後任は鈴木と気脈を通じていたといわれた開発局長の新山惇。開発局長から事務次官に昇格するのは約6年ぶりで、霞が関の常識を覆す幹部人事だった。鈴木が苫小牧東部開発計画をめぐる松川の対応に不満を抱き、「長官の意のままに動く新山さんを引き上げた」との見方が庁内に広がった。

 開発局長への昇格ルートとされる開発局建設部長を「傍流」の開発土木研究所長へ、釧路開建部長を格下の網走開建部長へ転任させた。

 この人事の対象となった道東のある開建元幹部は当時、部長室に鈴木の地元秘書が足しげく出入りしたと証言する。「入札監視委員会があるので、露骨に入札をゆがめるのは無理。だが、特定の業者に配慮してほしいといった口利きはあったはずだ」

 開建部長は年2回、開建部長等会議で上京し、鈴木と顔を合わせる。地元秘書からも情報は伝わる。「言うことを聞かない人間を鈴木さんは分かっていたと思う。依頼を断れば人事で冷や飯を食わされる。職場にはそんな空気が充満していた」と元幹部は語る。

 1998年の大規模人事について当時の道開発庁幹部は「松川次官と鈴木長官の間にいろいろあったという人がいるが、憶測だ。実力があるのに、長官に近いから昇進したと言われるのはかわいそうだ」と鈴木の影響を否定してみせた。

 だが、実像であれ、虚像であれ、現場レベルまで「鈴木イニシアチブ」への恐怖が深く浸透していった。ある開建OBは「末端に至るまで恐怖政治が敷かれていた。『宗男ライン』の職員が近くにいる可能性があるから、口が裂けても長官の批判は言えなかった」と語った。

 「君も霞が関で順調にやってきたのだろうが、これからはどうなるか分からんわな」。長官在任中、自分に従わない職員を怒鳴りつけた後に、鈴木はこう付け加えるのを忘れなかった。いかに頑固な職員も、この一言でほとんど折れたという。

 大過なく過ごし、退職して天下る。そんな「道」を踏み外すことにおびえる役人心理を、鈴木は露骨に利用した。外務省でも駆使した役人操縦術だった。

 「鈴木と刺し違えようという気骨ある職員はいなかったのか」。そう問うと、開発局元幹部の1人は言った。「いないね」

 「釧根は政治家が必要」開発予算急伸

 鉛色の空にカモメが舞う釧路西港2号緑地。1998年5月に始まった第2期工事の着工記念碑があった。

 「国務大臣 北海道開発庁長官 鈴木宗男」。黒御影石に直筆の白い文字。5万トン級の大型貨物船も接岸できるよう、10年以上かけて、2つのふ頭を新設する事業着手を「手柄」として誇示するかのように鮮やかだった。

 「釧根は一番政治を必要としている」。着工3年前の1995年6月、釧路の官公庁のトップを前に鈴木は訴えた。同年度の釧路開建の開発予算は362億円(年度当初、以下同)で、帯広開建の半分強にすぎなかった。「1996年度は間違いなく400億円の大台に乗せて、420億円、430億円と伸ばしたい」

 小選挙区制の導入で釧根にくら替えすることが決まってから、3カ月後の発言だった。

 その言葉通り、翌1996年度の予算は407億円。以後、公共事業削減の流れにもかかわらず、釧路開建の開発予算だけは6年連続で前年を上回り、2001年度には522億円に達した。

 「公共事業をぶんどって来ることのできる貴重な剛腕」。あっせん収賄罪で起訴されてもなお、釧根の土建業界はもちろん、自治体の首長にさえそんな声が消えない。評価の裏付けは、この開発予算の伸びである。

 だが、この伸びの源泉は、本当に鈴木の力だけだったのか-。

 道開発庁の元幹部は「優先順位の似通った他の地域の事業を押しのけるのは政治の力。鈴木さんの力は否定できない」としながらも、こう続ける。「でも釧路の場合、開発予算が増えた主要因は空港と港湾の整備事業。どちらも長年の積み重ねの上の既定路線だった」

 複数の道開発庁・開発局元幹部によると、1996年度予算が膨らんだ要因は釧路空港の滑走路延長工事。だがこれは1995年度に着手し、1996年度の継続は既定の方針だった。釧路西港第2期工事も、漁業者への補償交渉が1996年3月に妥結したことが、着工への契機となった。

 そもそも、貨物需要が伸びながら設備能力が極端に不足していた西港は「予算配分の優先順位が全国でも高位。予算は増えこそすれ減る可能性はなかった」(同庁元幹部)。こうした情報を鈴木はいち早く手に入れ、巧妙に「利用したはずだ」-。複数の同庁幹部はそう口をそろえた。

 もちろん、鈴木が力を発揮した部分も少なくない。

 1998年12月21日。内閣官房副長官(当時)の鈴木は、釧根の市町村長ら50人を首相官邸に招いて胸を張った。「道路整備については私が予定を2年間前倒しにしておりますから」。1999年度開発予算の大蔵原案に、地域高規格道路など釧根での道路整備事業が要求通り盛り込まれたことの誇示だった。

 需要予測を前提に投資の必要性を予算当局に納得させなければならない港湾や空港に比べて、道路は、政治家が介入しやすい、という。

 「予算要求時にち密な計算はいらない。道路族の衆院議員がドンと机をたたいて決まることもある」(同庁の元幹部)

 1995年、鈴木が地元でこう言ったことがある。「これまでは地元の政治家がやるべきことをやってこなかった」。「虚像」を巧みに操り、「実像」以上に大きく見せながら、鈴木は釧根で票とカネをかき集めた。

「先生の視線の中に入っていた方が有利」

 2001年9月、釧路市内で1件の入札が行われた。釧路開建発注の釧路西港防波堤ブロック製作工事。参加したのは、地元の港湾土木業者8社。全社に共通点があった。

 どの企業も1995-2000年にかけて、鈴木宗男に政治献金をしていた。少ない社で総額168万円、多い社で同2400万円。入札は予定価格の99.02%で、毎年献金し、献金額が最も多い根室市の業者が1億2500万円で落札した。

 鈴木に献金している業者同士が落札を争う入札が、釧根で「日常の風景」となっている。98年度に始まった西港第2期工事も、2001年度までで入札参加業者の76%は献金業者。落札して受注した業者の80%も献金業者となっている。(共同企業体は構成員を1社ずつ計上)

 「選挙区で、たいていのところは私の後援会に入っていますよ。広く薄くですよ。北海道中そうじゃないですか」

 逮捕3日前の2002年6月16日、東京都内のホテルで北海道新聞と単独会見した鈴木は「後援企業に受注が集まっている」との問いに怒気で顔が真っ赤に染まった。

 「そういう見方が、間違っているんですよ!」

 だが、そう仕向けたのは、誰だったのか。

 鈴木が釧根にくら替えした1995年、釧路市内の建設業者は鈴木の資金管理団体から献金を求める封書を受け取った。「出さざるを得ない空気」と以後、毎年12万円を献金している。

 地元建設業協会の幹部から毎年、鈴木の新年交礼会のパーティー券数10万円分を購入するよう半強制的に求められている業者もいる。

 「鈴木先生は下請けにどこを使えと、元請けに注文することがあると聞いた。下請けに入るのを邪魔されたくないから、先生の『視線』の中に入っておいた方が有利と思った」。西港関連の工事で、大手の下請けに入った釧路管内の業者は、献金の理由をこう明かした。

 「邪魔されたくない」。ヤクザの用心棒代と同じ論理、と献金業者の多くが口をそろえた。

 業者など釧根からの鈴木への政治献金は、1995年は約2900万円だったが、2000年には約8600万円と約3倍に膨れ上がった。

 道央で土木・建築資材を扱う地場商社の社長は、「邪魔」されたことが昨年までに3度ある。土現発注のダム工事の資材納入で、工事を受注したゼネコンと土現の担当者から「鈴木先生が出てきて、先生が推す会社の名前が出ている」と断念を求められた。社長は「ゼネコン本社や土現に聞きに行っても『(そんな事実は)あるわけない』と突き放されるだけ」とあきらめた。

 この社長は鈴木事務所を「鈴木商会」と呼んだ。「実体のない会社だが、頼めば仕事を受けられる確率は高い。ただ、3-5%のマージン(裏金)を取られる。もうかるのは政治家と元請けの大手ゼネコン、商社だけさ」

労組さえも「背に腹は…」

 「合併すれば、必ず明るい未来があります!」。2002年1月22日、釧路市内で開かれた鈴木宗男の新年交礼会。釧路市と釧路管内釧路町の合併問題に触れて、鈴木は一段と声を強め、こぶしを突き上げた。

 「釧釧合併」問題は古くて新しい課題だ。だが、鈴木が特に熱心だったわけではない。それが、2001年11月の推進派市民団体の署名活動で盛り上がった機運をとらえ、一気に積極姿勢に転じた。側近の蝦名大也道議は「鈴木の政治力を最大限生かすには『大釧路』を築く必要があった」と解説してみせた。

 合併で「合併特例債」という新たな起債を使った財源調達も認められる。本年度一般、特別両会計合わせて1930億円もの起債残高(借金)を抱え、財源不足に悩む釧路市にも、新たな大型プロジェクト誘致の道が開ける。公共事業予算の獲得にらつ腕を振るう鈴木の出番がやってくる。

 「反鈴木」の釧路市議や周辺自治体の首長は、合併論議が鈴木主導で進むことに懸念を抱いた。だが、地元建設業界は署名活動に組織を挙げて協力した。ある業者は「仕事が増えるのなら一も二もなく合併に賛成」と本音を漏らした。

 北洋漁業の衰退、製紙産業の不振-。経済の地盤沈下が進む釧路で、反自民の旗頭だった労組さえも鈴木に急接近した。

 1997年3月、同市内の酒場で、太平洋炭鉱労組の幹部が鈴木と向かい合っていた。料理のメニューを手に「先生、お好みは何ですか」と尋ねた幹部に、傍らの秘書、宮野明がすかさず答えた。「そりゃあ票だろう」。鈴木は上機嫌で日本酒をぐいっと飲み干し、大きくうなずいた。

 三井三池鉱(福岡県)の閉山が迫り、太平洋炭砿も早期閉山説が流れた。労組の危機感は極限に達していた。鈴木も1996年10月の衆院選挙で当時新進党の北村直人に敗れ、立て直しが急務だった。「鈴木頼みは禁じ手だったが、背に腹は変えられなかった。彼は弱い立場の人間の攻めどころを知っていた」(同労組元幹部)

 1999年、同炭砿はアジアへの技術移転を柱に、一時は国の支援で存続の道筋ができた。元幹部は「超党派の政治力のおかげ」と振り返る。

 同年以降、鈴木が釧根で小選挙区から出馬する機会はなかったが、鈴木が露骨に求めた見返りの票についても「存続のためなら、用意する覚悟があった」と打ち明けた。

 その太平洋炭砿も展望が開けず、2002年1月に閉山。新会社が採炭を引き継いだが、規模縮小で1000人近くが職を失った。釧路市の人口は2002年3月末、35年ぶりに19万人を割り、減少に歯止めがかからない。繁栄する「中央」との格差への不満が、鈴木の政治力への期待感を高めさせた。

 だが、鈴木は釧路の将来像を明確に描いてみせたことはなかった。

 非政府組織(NGO)への圧力問題を機に、鈴木への逆風が強まり始めた2月8日、東京・永田町の自民党本部。同炭砿閉山後の地域対策を要請する地元陳情団に、鈴木は要請への答えもそこそこに、一連の疑惑についての弁明をまくし立て続けた。

 陳情団の1人は振り返る。「釧路が将来どう生き残っていくか。鈴木さんと、それを議論する機会はついになかった」

 「新たなムネオつくるしかないのかな」

 「青丸、赤丸って知ってるかい」。道央の土建会社の元社長はにやりと笑った。「(公共事業の)割り付け表の業者名の横に書き込んである印さ」。青丸は事故を起こしたか、天下った官庁OBの待遇が悪いため発注額を削る業者。赤丸は逆に、受注額を前年度から1割増やす業者。

 道内の開建や開発局の特定部局がつくる割り付け表には、4、5年前まで天下ったOBの有無や受け入れ予定が書き込まれていたと元社長は証言する。口利きをした政治家の名を書く欄もあった。それが空欄なら、OBの有無や処遇が受注額を左右する。

 だが、OB1人を抱えれば、年間1000万円以上掛かる。昇給もさせ、65歳まで在職時と同等の収入を保証するのが暗黙の了解事項だ。いやなら政治家に口利きを依頼するしかない。元社長も鈴木宗男に頼んだことがある。「鈴木さんが力をつけたのは、官庁の力が強すぎることと裏腹なんだ」。元社長は吐き捨てた。

 「政官業」の癒着構造にも、きしみが生じている。道央の建設業協会の役員を務める建設会社社長は「談合を仕切る力がなくなってきたから、政治家の口利きがひどくなってきた」と語る。

 2000年度の公共、民間合わせた道内建設投資(出来高)は3兆7300億円で、5年前の2割減だ。このうち民需の落ち込みを補ってきた公共事業も2兆3600億円と約15%減。中小まで足並みをそろえて「分け前」にあずかるのは難しい。

 加えて競争性の高い入札制度が導入され、官庁や業界団体主導の談合は成り立ちにくくなった。

 北大大学院教授の宮脇淳(行財政論)によれば、北海道は公共事業が手厚く予算配分されてきたが、その7、8割は元請けゼネコンなどを通じて本州に還流し、地元にはカネも競争力を付けるための技術も蓄積されなかったという。

 「公共事業の仕組みを根本的に変えない限り、道内の企業には体力がつかない。鈴木さん的な政治家が生まれる土壌が残り続けてしまう」と宮脇は語る。

 鈴木の逮捕後、釧根では開発予算の減少を心配する声が少なくない。釧根が地盤の自民党衆院議員北村直人は「これまでも鈴木さんだけの力ではなかった。私がしっかりやる」と言うが、鈴木に匹敵する強力な政治力を求める声は絶えない。

 地元建設業界は「嵐が過ぎ去るのをじっと待っている状態」(釧路市内の土建業者)だ。鈴木に献金を続けてきた釧路管内の土建会社の幹部は言った。「仕事がないから、政治にすがらざるを得ない現実は変わらない。新たなムネオをつくるしかないのかな」


 「場合によっては(所属する橋本派を)出てもいいんだ。他派閥からも引き抜いて30人から50人の新派閥をつくることができるんだ」。2001年4月の自民党総裁選を前に、党総務局長だった鈴木宗男が電話口でこう言い切ってみせた。相手は、鈴木が総額1000万円を超える政治資金を供与していた同派の若手衆院議員。

 同派の領袖、橋本龍太郎に不満を抱いていた鈴木は、総裁選で橋本ではなく、師と仰ぐ野中広務の擁立に奔走していた。



 野中が固辞して実現しなかったが、派閥を横断して議員の「面倒」を見てきた自信が、野中擁立のために橋本派分裂-新派閥結成さえいとわぬ、との言葉を吐かせた。

 鈴木が代表を務めた自民党支部や資金管理団体が1998-2000年の3年間、寄付金、陣中見舞いなどの名目で資金提供した国会議員、地方議員、首長は総勢 122人。額にして3億1400万円に上る。

 1998年には3000万円弱だったのが、99年には3.6倍に。2000年にはさらに8割近く増えた=グラフ参照=。

 2000年をみると資金提供を受けた衆院議員は51人もいた。道外選出だけでも42人と中堅派閥並み。鈴木から資金供与を受けた派閥横断の「ムネムネ会」のメンバーも含まれている。 提供額上位10人には、橋本派以外の議員が4人いた=表参照=。

鈴木議員からの提供額が多かった衆院議員上位10人
  選挙区 金額(万円) 派閥 当選回数
田中和徳 神奈川10区 1350 山崎
吉川貴盛 北海道2区 1200 橋本
大村秀章 愛知13区 1110 橋本
戸井田徹 兵庫11区=落選 1100 橋本
新藤義孝 埼玉2区 1050 橋本
西川公也 栃木2区 1050 江藤・亀井
木村隆秀 比例・東海 1000 橋本
松岡利勝 熊本3区 1000 江藤・亀井
河井克行 広島3区=落選 ・900 橋本
砂田圭佑 比例・近畿 ・810 高村

 もちろん、橋本派への貢献度も高かった。橋本が代表を務める「平成研究会」が2000年に開いたパーティー券を20万円以上購入した企業や個人、団体計53のうち26は、1995-2000年に鈴木に献金したことがある企業と個人。鈴木からの働きかけがあったとみる向きが強い。購入額も1754万円と、合計額3364万円の52%に達していた。

 道内の地方議員にも、まめにカネを配った。資金提供を受けた道議は1998年に8人だったが、統一地方選のあった99年には13人に増え、2000年も13人。1人当たりの提供額も1998年の50万円から99年は173万円に増えた。最多は鈴木の秘書だった道東の道議で市議時代を含めて総額2166万円を提供した。

 99年は選挙区の釧路管内阿寒、音別、浜中各町などの町議にも1人5万円または10万円の「陣中見舞い」を広く薄く配った。同年10月の釧路町議選では民主、共産、公明を除く保守系全候補12人に資金提供。「反鈴木」の町議も「金額がわずかだったので、ついつい受け取ってしまった」。

 2001年の自民党総裁選で、橋本は小泉純一郎に惨敗し、小泉政権が誕生した。その外相、田中真紀子との対立が、鈴木の命取りとなった。

 疑惑噴出で鈴木が自民党を離党した3月、「ムネムネ会」の若手をはじめ、鈴木から政治資金を受け取っていた道内選出の議員は、相次いで返金した。新派閥結成すら視野に入れていた同会は、あっけなく崩壊した。1


 鈴木宗男が1995-2000年の6年間で、資金管理団体と自ら支部長を務めた自民党支部を通じて集めた政治献金(パーティー券収入も含む)は、総額25億2870万円に上る。企業献金が63%、個人献金が18%で残りは政治団体から。献金企業は土木・建設業関連が圧倒的で、このほか、病院やホテル、食肉関連業者、保育園など多岐にわたる。

 献金の7割は道内から、3割は道外からだ=グラフ上=。5万円を超える献金をした企業、個人、政治団体を所在地別にみると、道外は39都府県。献金がなかったのは青森、福島、茨城、山口、島根、香川、佐賀の7県だけ。企業献金1件当たりの額も、延べ6960社の64%が12万円以下。月5000円、1万円といった小口献金の積み上げが集金力の源泉だ。

 道外からの献金を都府県別にみると、政治団体からの献金が多い東京都が1位で福井、富山、沖縄が続く=同下=。福井からは6年間で5353万円を集めた。人口83万人と全国で5番目に少ない県でなぜ、高い集金力を誇ったのか。

 福井では1970年代後半、地元選出の元建設相の死を受けて県経済界の若手が国政とのパイプを求め、元農水相の故中川一郎の後援会をつくった。鈴木は83年の中川の死後、地盤を引き継いだ。福井の支援者は「地元議員は面倒見の悪い人ばかり。鈴木さんは違った。いざというときほえてくれた」。

 同県内の零細土建業者は「献金額の伸びは沖縄開発庁長官を務めたことと関係がある」と打ち明ける。業者は鈴木が97年に同長官就任後、福井市内の大手土建会社から鈴木への献金を強制された。業者はこの大手の下請けだった。

 複数の地元業界関係者によると、この大手土建会社は沖縄に営業所を開いたが、公共工事への参入が難航。「下請けへの献金強制は、沖縄で仕事を獲得する狙いがあった」。98年の福井からの献金は前年の倍以上に膨らんだ。献金企業の4割近くはこの大手土建会社の下請けだった。

 道内では147市町村から6年間で18億円を集めた。献金額が1000万円以上の25市町のうち、伸びが最大だったのは苫小牧。95年は1社、12万円にすぎなかったが、2000年には27社・12人、963万円と80.3倍にもなった。地元選出の鳩山由紀夫・民主党代表への対抗心をむき出しに、地元土建業界に揺さぶりを掛けた結果だった。稚内(44.5倍)、恵庭(28.7倍)が続く。

 道開発庁長官時代の98年、後志管内からの献金が前年比で3.2倍、日高管内が2.6倍、胆振管内が2.0倍と増加した。全道の開発予算ににらみをきかせる長官の「威光」にひれ伏す形で、集金力は道央にまで拡大していく。



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 鈴木宗男への政治献金の額が、1995-2000年の6年間で実に2000万円近くも増えたマチがある。根室管内中標津町だ。95年は4社、2個人から計77万円だったのが、2000年は25社、29個人から計2064万円。増えた額は自治体別に見て、全国一だった=表=。

 小選挙区制の導入に伴い、鈴木が95年に十勝からくら替えした釧根からの献金も増えた。その中でも中標津が大きく増えた背景には、1つの大型公共工事が浮かび上がってくる。

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 献金額の伸び幅が大きい道内の市町村・・
(単位:円)
順位 市町村 1995年と2000年の献金額の差
根室管内中標津町 19,872,000・
苫小牧市 9,510,000
釧路市 9,090,754
根室管内別海町 7,990,000
根室市 6,348,000
稚内市 5,220,000
留萌市 4,738,635
釧路管内阿寒町 4,560,000
旭川市 4,150,000
10 伊達市 3,620,000
    ※いずれも1995-2000年に鈴木議員が支部長を務めた自民党支部と資金管理団体の政治資金収支報告書から集計
 釧根地域で初めての地域高規格道路「釧路中標津道路」。釧路市から根室管内標津町までの100キロのうち、同管内別海町の 「春別道路」(13キロ)部分の工事は97年度から始まった。

 道東の建設会社の社長は、工事開始前年の96年、土建業者を釧路市内のホテルに集めて、鈴木がこう言っ たと証言する。「釧根の公共工事 は、これ(釧路中標津道路)でこれから10年間は大丈夫ですから」

 同道路の完成までの総工費は約2000億円ともいわれる。1キロメートル当たり20億円。「他の議員が大風呂敷を広げても失笑を買うだけだが、鈴木さんの発言は必ず実がある。期待したよ」と社長は振り返った。

 期待とともに献金も膨らんでいく。97年の中標津町内からの献金は977万円で、前年の212万5000円の4.6倍。新たに献金を始めた企業39社の6割は土建業者とその関連業者だった。

 春別道路の着工から2000年度までの4年間で行われた工事の入札は26件。うち8件の工事を、同町内の4社が受注している(共同企業体での受注も含む)。4社から鈴木への献金は、役員らからの個人献金も含めて6年間で1124万円。同町内からの献金総額の21%を占める。

 隣の別海町でも同様の構図が見られる。別海をはじめ道東3町にまたがる陸上自衛隊矢臼別演習場では97年、米海兵隊の実弾射撃訓練が沖縄から移転した。地元の強い反対を押し切って、移転実現へ動いたのが鈴木だった。

 移転に伴い、防衛施設庁は同演習場の整備に着手。97-2000年度の4年間で計33件の工事の入札を行った。うち9件を別海町の6社が受注した。6社から鈴木への献金は役員からの個人献金も含めて1383万円に上り、同町からの献金総額の54%を占める。

 6社のうち5社が鈴木への献金を始めたのは、事業が始まった97年からだ。土建業者が渇望する大型の公共工事を「てこ」に、脈々とカネを吸い上げる構図が鮮明となる。


 公共工事の受注業者が地元選出の国会議員に献金するのは、鈴木宗男に限ったことではない。2001年度に釧路、帯広、網走開建から工事を受注した建設業者の60.1%がその前年の2000年、鈴木ら道東を地盤とする自民党の4衆院議員に政治献金している。

 鈴木と中川昭一(道11区)、武部勤(道12区)、北村直人(道13区)の政治資金管理団体と、それぞれが支部長を務めた自民党支部に2000年に献金した企業と、3開建が2001年度に発注した工事の落札業者を照合してみた。
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 ※いずれも敬称略
 ※受注は2001年度、献金は2000年の1年間  その結果、3開建から工事を受注した587社のうち、353社が4議員のいずれかに献金しており、献金総額は約2億800万円に上った。額は鈴木が最も多く、3開建の受注企業の3割に当たる175社から約9400万円を受けた。次いで武部、中川、北村の順=グラフ上=。

 選挙区内の開建の受注企業からの献金がひときわ目立つ。網走管内を選挙区とする武部には、網走開建の受注業者250社のうち41.6%に当たる104社が献金。十勝管内を選挙区とする中川にも帯広開建の受注業者の30.2%が献金し、釧路、根室両管内の北村にも釧路開建の受注業者の26.2%が献金していた=同下=。

 一方、2000年の総選挙で、比例代表道ブロックで当選した鈴木は、釧路開建の受注業者の37.2%から献金を受けたほか、帯広、網走両開建の受注業者の約3割からも献金を受けており、影響力は道東全域に及んでいた。

 北村、中川、武部に献金する傍ら、鈴木に献金する業者もおり、釧路開建では受注業者の9.3%、十勝開建では8.7%、網走開建では12.4%が「二また献金」していた。

 鈴木を除く3人にコメントを求めた。北村本人と武部、中川両事務所は、いずれも献金企業から依頼を受けて各開建に「口利き」したことはないと回答。受注企業からの献金については「何らかの規制はやむを得ない」(北村)「将来は個人献金だけにするのが好ましい」(武部事務所)「個人献金のみという方向も含めて検討すべきだ」


2004年2月3日火曜日

【皇室問題】 天皇陛下謁見(一ヶ月ルール)

  昨年末に「一ヶ月ルール」を民主党が無視をしたの破ったのと大騒ぎをしている。

しかし、その一ヶ月ルールの通達なるものの実物を見た一般の国民が目にする機会はないはずである。同時に、宮内庁からの通達が外務省へのものであれば余計、外には出る事はないはずだと考えられる。

ところが、某氏はその実物のコピーを持っているのである。

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平成7年3月13日

天皇皇后両陛下謁見願の取扱いについて

貴省から当庁に対する外国要人(離任する駐日大使を含む)の天皇皇后両陛下への謁見の正式願い出は、謁見希望日の真近に行われる場合が多々あり、そのこと自体好ましくないのみならず、御日程調整にも支障を来しています。ついては平成7年度から、外国要人の謁見願いについては、原則として謁見希望日の一か月以前に要請をされるよう願いたく在外公館など関係方面にもこの趣旨が徹底されるようおとり計らいください。



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平成16年2月3日(外務省小田野)←(宮内庁川島)

天皇皇后両陛下謁見願の取扱いについて(依頼)
標記について平成7年3月13日付け宮内庁式発題403号をもって外国要人(離任する駐日大使を含む)の天皇皇后両陛下への謁見の正式願い出は、原則として謁見希望日の一か月以前に要請願いたい旨(いわゆる「一か月ルール)を通知し、その後も暫(?)時貴省にお願いしてきたところです。

 しかるに当庁から再三の申し入れに拘わらず貴省から当庁に対する外国要人の謁見願い出は、今なおこのルールに則らないものが相次いでおり、当庁としては必要に応じ謁見実現にむけて努めているものの、意に反して謁見に応えできない事例があるばかりか、御日程全体に支障を来す事態が生じていることは、まことに遺憾であります。

 貴官におかれては、本件ルールの趣旨を再度確認を願うとともに、在外公館など関係方面にも改めてこの趣旨を然るべく周知徹底いただき、本件につき講じた措置について当方へ報告願います。

やむお得ず一か月ルールに抵触をする願い出条件については、儀典総括官から式武官(外事担当)へ可及的速やかに通報の上、その取り扱いにつき貴官の意見を添えた文書を持って打診願います。


宮内庁から外務省への通達が外へ出てくる事もどうかとは思うのだが、それよりも、

やむを得ず一か月ルールに抵触をする願い出条件については、儀典総括官から式武官(外事担当)へ可及的速やかに通報の上、その取り扱いにつき貴官の意見を添えた文書を持って打診願います。

この部分には、驚いた。はじめから特例の場合を想定をしていたのである。

2004年1月8日木曜日

「司法支配の密約」をスッパ抜く  国会の歴代法務委員長は公明党が独占

「司法支配の密約」をスッパ抜く  国会の歴代法務委員長は公明党が独占 http://www.weeklypost.com/jp/031226jp/news/news_6.html  

1) 「弁護士予備軍」への贈り物  本来なら余人には見ることができない珍しい光景を目のあたりにした。  
 場所は東京・八王子市にある創価大学のキャンパス。ほんの10日ほど前、冷たい雨が降る日の出来事だった。
                                                   創価大学は池田大作氏(創価学会名誉会長)の「新しき大文化建設の揺籃たれ」の号令の下で71年に創立され、現在、法学・経済・文学・教育・経営・工学の6学部、学生数約8000人を擁する総合大学である。学会員の子弟が多く、≪学会のエリート養成校≫ともいわれる。  武蔵野の台地を切り拓いた約82万平方メートルの広大なキャンパスには、正門を入ってほどなくギリシャ神殿風の『池田記念講堂』があり、敷地奥の高台に建つ地上80メートルの本部タワーには『SGI』(創価学会インターナショナル)の看板が掲げられている。月に何回も学会関係の催しが開かれ、全国から数千人が訪れることから、東京・信濃町の創価学会本部と並ぶ、学会の二大拠点の一つとして知られている。  さて、11月29日。同大学の『A―128教室』で法科大学院の入学説明会が開かれた。法科大学院とは、小泉改革の目玉の一つでもある司法制度改革で来年4月に開設されることが決まったロースクール、つまり弁護士養成機関である。創価大学も全国66校の一つとして開設が認可された。入学説明会には法学部の学生らしい在校生150人ほどが集まっていた。  教授陣のあいさつが一通り終わると、桐ヶ谷章・副学長が創立者である池田大作氏のメッセージと贈り物を携えて演壇に立った。こう切り出した。 「今日、この説明会があることを創立者に御報告したら、『雨が降って寒いから風邪をひかないように』という伝言をいただきました。創立者は法科大学院の認可がおりた時『おめでとう。ありがとう。関係者の方々によろしく』  ――と、たいへん喜ばれてこう詠まれました」  桐ヶ谷氏が句を披露した。 <勝ちにけり 栄えゆかなむ創価大>  池田氏が選挙前に学会員の士気を鼓舞したり、選挙勝利の喜びを表わす時などに短歌や俳句をつくることはよく知られているが、最近では健康不安説も流れ、動向は謎に包まれていた。創価大が文部科学省から法科大学院開設の認可を受けたのは11月21日であり、これが池田氏の直近の肉声と句ということになる。さらに面食らったのは池田氏の≪贈り物≫の中身だ。 「創立者から(説明会の参加者に)かっぱえびせんとパンの差し入れがあります」  桐ヶ谷氏は確かにそういった。“大作えびせん?”と半信半疑でいると、帰り際、参加者全員に、『かっぱえびせん』と『丸ごとソーセージパン』が1袋ずつ配られた。えびせんと司法試験の因果関係はよくわからないが、これを食べて合格してほしいという励ましのようなのだ。学生たちは感激した面持ちだった。  (2) 秘密指令・学会検事を全国に派遣せよ  法曹界に学会員を大量に送り込むことは、創価学会の政界進出と並ぶ池田氏の長年の悲願だったとされる。  それは創価学会の弾圧の歴史と深くかかわっている。  創価学会は1930年に初代会長・牧口常三郎氏によって設立された(当時は創価教育学会)。しかし、第2次大戦中、牧口氏は幹部20人とともに政府の国家神道による宗教統制に逆らったとして逮捕され、獄中で死亡した。戸田城聖・2代会長も治安維持法違反で逮捕されている。  創価学会の古参幹部がこう語った。 「数々の弾圧を受けてきた学会は、組織防衛のために公明党を結成して政界での勢力拡大をはかる一方で、弁護士や検事、裁判官にシンパをつくったり、学会員の子弟で優秀な学生に奨学金を出して大学に進ませ、司法試験を受けさせた。学会弁護団を強化する目的でした」  創価学会は当初、選挙によって政権を取り、『国立戒壇』をつくって一宗教を国教化するという王仏冥合思想を掲げていたが、『言論出版弾圧事件』を機に国民の批判が強まると、池田氏は70年に<政教分離>を宣言した。  “政権の夢”破れた学会はそれから一層、組織をあげて弁護士、検事、裁判官の育成に乗り出す。その養成機関の役割を果たしてきたのが、池田氏が政教分離宣言の翌年に設立した創価大学法学部に他ならない。  同大学は毎年、司法試験合格者ランクの上位20校に入り、これまでに108人の合格者を出して裁判官や、検事、弁護士を送り出してきた。 『法学委員会の新体制について』と題する学会内部文書がある。76年に作成されたもので、学会の司法支配の狙いが記された貴重な資料だ。当時、学会は学生部に『法学委員会』という部門をつくり、創価大学にとどまらず、他の大学に通う学会員を含めて、司法試験や国家公務員試験の受験を支援する態勢をとっていた。文書は組織の改革を提言した内容である。 <法学委員会は現在学生部に所属し、受験生の掌握・指導、合格者の輩出という点に重点を置いて活動している。しかしながら、(中略)総体革命において各分野にどのように切り込んでいくか(官僚機構等に対するくい込み、そのあり方)を検討していかなければならない段階に差しかかっている。さらに、学会の諸活動に関する戦略ブレーンの本格育成も重要な任務となっている>--。  文章には、76年当時の法曹界での勢力が、弁護士33人、検事18人、判事3人、司法修習生16人の合計70人とあり、「今後の展望」として、 <合格者の増員、今後5年間で現在の倍、10年間で現在の4倍にすること。検事は、5年後には各都道府県に1人、10年後には2人配置できる人数になる> --とも書かれている。  文章が出されてすでに27年が経ち、創価大学出身者だけでも108人の司法試験合格者が生まれている。全国の裁判所や検察はすでに学会ネットワークが広く張りめぐらされていると考えた方がいいのかもしれない。  (3) 「池田先生のために働こう」  司法試験に合格すると、法務省の司法研修所で1年半勉強し、判事や検事、弁護士への道に分かれる。  学会員は進路をどうやって選ぶのか。司法研修所の教官を勤めた法務省OBの証言には驚く。 「司法研修所に入った段階で出身高校や大学から、この生徒は学会員だろうというのは大体わかる。ある教え子が、研修期間を終えると、検事の道を進みたいと希望した。非常にまじめな生徒だったが、『君は学会員だろう。弁護士の方が活躍の場があるんじゃないか』と尋ねると、こんな答えが返ってきた。 『修習生の仲間と一緒に池田大作先生に食事に招かれて、その時、先生は一人一人の顔をじっと見つめ、“君は検事に向いている”“あなたは判事だ”と指導してくれました。私は先生の言葉に従いたい』  頑として弁護士にはならないと言い張った」  裁判官や検事には公正、公平さが要求されることはいうまでもない。その修習生は裁判官になったが、果たして、自分が手がける訴訟に学会の利害がからんだ時、信仰を取るのか、裁判官の良心を選ぶのか。  学会出身の弁護士にも話を聞くことができた。 「司法試験に合格するとすぐに学会から連絡が入り、池田名誉会長と食事をする機会を与えられたり、名誉会長の直筆署名入りの書籍を贈られます。それは学会員にとってたいへんな名誉で、池田先生のために働こうという気持ちになる。司法研修所に入ると、年に数回、学会本部を訪ね、学会の弁護士を統括する副会長の接待を受ける。印象に残っているのは、副会長の『今や学会には弁護士は掃いて捨てるほどいる。広宣流布に本気でない者はやめてもらって結構だ』という言葉です。みんな、逆に忠誠心をかきたてられる思いになります」  司法研修期間も学会は、裁判官や検事の卵たちに忠誠心を植えつける一種の“マインドコントロール”をしているのか。  立教大学法学部教授の井上治典氏が警鐘を鳴らす。 「創価学会員の裁判官、検事、弁護士は、正義のスタンダードが一般の司法関係者とかなり違うと思われる。池田大作氏や学会のためになることを最大の正義と考えて行動する可能性があるとしたら、法律家が持つべき中立性を保てるのかと疑問を抱く」  (4) 法務・検察・裁判所の予算を握る  国会でも公明党・学会の司法支配はさらに進んでいた。別表は戦後、新憲法制定後の歴代の参院法務委員長をリストアップしたものだ。  法務委員会は刑法や民法をはじめ法律改正全般にかかわり、法務省と検察庁、裁判所の予算を審議する。わかりやすくいえば、衆参の法務委員長が首を縦に振らなければ、法務省は法律一つ、予算一つも通せない。そうした司法行政に決定的な影響力を持つ参院法務委員長ポストを、過去38年間にわたって公明党が独占してきたことがわかる。  国会の各委員長は各党が議席数に応じて分け合う慣例がある。公明党は結党(64年)後最初の選挙だった65年の参院選で20議席に飛躍すると、当時、党副委員長だった和泉覚氏を念願の法務委員長に就任させた。以来、現在の山本保氏まで34代にわたってこのポストを手離していない。まさに異例、異常といえるが、公明党広報部は、 「わが党として参院法務委員長にこだわりを持っているわけではない」  ――と言い張る。それにしては長すぎる。  自民党幹部が明かす。 「公明党が法務委員長を押さえているのは、池田大作氏の国会喚問を阻止する、いわば“拒否権”発動をできるようにするためだ。他の党にとっては、国土交通委員長や農水委員長のように補助金や公共事業の配分に口を出せる利権ポストと違って、法務には魅力がなく、欲しがらない。だから、公明党がいつまでも独占できる」  利権がないというのは間違っている。小泉内閣が推進してきた司法制度の舞台となったのは衆参の法務委員会であり、法科大学院の設置は、小泉首相と公明党・学会、法務省が一体となって実現させたといっていい。創価大学で法学部の学生に池田氏の句が披露された1年前の11月28日、参院法務委員会で法科大学院を開設するための司法試験法改正案が可決されている。  創価大学が法科大学院開設の認可を受けることができたのも、法曹界に学会シンパを着々と増やしてきたのも、参院法務委員長ポストをがっちり握って法務・検察、裁判所ににらみを効かせてきたからではないのか。公明党にとって大きな政治利権を得るポストだろう。  公明党・学会は敵対する勢力や時の権力による圧迫から組織を守るために、法曹界に学会支持派を拡大した。国会も例外ではなく、公明党の指導者には、弁護士9人がズラリ並んでいる。そして公明党は今や連立与党として権力の側に立った。むしろ危惧すべきは、法曹コネクションに政治権力が加わって、学会批判を封じ込めるフリーメーソン化する危険性だ。そうでないというなら、学会は組織の情報開示と活動の透明性を示すべきだ。  小泉首相は、公明党とともに司法制度改革を進めることで学会の≪司法支配≫に手を貸した。