2004年2月4日水曜日

【鈴木宗男】 北海道新聞

「北海道新聞の記事」は、当時の鈴木宗男氏を北海道新聞が如何なる立場から追い続けたものなのかは、自分にはわからない。しかし当時は「鈴木宗男は、悪である」という印象だけは非常に多くまた巧妙に伝えられたとしか思えない部分が沢山あった。今一度当時の北海道新聞の追求(記事)を読み直してみようと思った。

そもそも中川一郎氏の自殺により息子中川昭一氏が立候補し結果、中川昭一氏の後押しをしていたことから鈴木宗男氏への読売からのメディアバッシングが展開されている。当時、宗男氏は、中川一郎氏が世襲には否定的だった事を大儀とし、立候補をしている。

その後、三井環氏の検察の裏金を告発をした事件を隠蔽するように鈴木氏の事件が起きている。当時の新聞各紙の論調はすさまじいものがあったのだが、あえて北海道新聞の鈴木氏への疑惑連載記事を備忘録として残しておいたものである。

備忘録の引越しで当時の記事を読み直してみて、気がつくのは「検察の手口」が当時も現在(西松事件・陸山会事件・郵便不正事件)とほとんど同じ構図で取り調べられていることである。

鈴木宗男氏が現在被疑者とされ争っているのは、次の4件である。
*やまりん事件、*島田建設事件 *政治資金規正法違反 *モザンビーク事件

WIKIからこの事件を拾い上げてみる。
やまりん事件
1998年、製材会社やまりんは国有林無断伐採事件を起こした。林野庁は6月25日、国有林の公売などの入札参加資格を7カ月間停止する処分をした。行政処分後、やまりんの関連会社2社が樹木の公売7件を落札していたことが明らかになる。関連会社は処分の対象ではないが、林野庁は「道義的に問題がある」として、契約を辞退するよう説得する。2社ともこれを受け入れて辞退した。

やまりんの社長や関連会社の役員らは8月4日、内閣官房副長官だった鈴木宗男を訪ね、行政処分で受けた不利益を補うよう取り計らってほしいと依頼。鈴木は見返りとして500万円を受け取り、旧知の林野庁幹部に数回にわたり関連会社の落札開始の働きかけ及び随意契約による利益確保を働きかけていたとされる。

鈴木は、初当選時にお祝いの政治資金として400万円を正規の形で受け取ったのみである上、やまりんの不祥事の際に全て返還しており、残る100万円も検察側がでっち上げたであると主張している。

島田建設事件
1997年から1998年、網走港の防波堤工事や紋別港の浚渫工事など、島田建設が当時北海道開発庁長官であった鈴木に受注の便宜を頼んだ見返りにあわせて600万円を渡した事件。

鈴木は、工事の受注は指名競争入札で決まり、島田建設が落札したのであり、一切便宜は図っていないと主張している。

支援委員会不正支出事件
イスラエル関連の学会をめぐる外務省の事件。ロシア外交を展開していた鈴木宗男はイスラエルの学会はロシアと非常に繋がりの深かったことを日本の対ロシア外交で重要視し、そのためイスラエル関連の学会を巡って、外務省関連の国際機関「支援委員会」から支出が行われていた。

2000年1月にガブリエル・ゴロデツキー(テルアビブ大学教授)夫妻をイスラエルから日本に招待した時
2000年4月にテルアビブ大学主催国際学会「東と西の間のロシア」に7名の民間の学者と外務省から6人のメンバーを派遣した時
この2回の費用を外務省条約局が決済して「支援委員会」から計3300万円を違法に引き出して支払った疑惑が浮上した。

この事件で国際情報局分析第一課主任分析官だった佐藤優と元ロシア支援室課長補佐の外務官僚2人が背任罪で起訴され、有罪が確定した。

しかし、佐藤は、「支援委員会から支払をすることは通常手続きである外務事務次官決裁を受けており正当なものだった」との主張をしている。また、佐藤の上司だった当時の外務省欧亜局長東郷和彦は、「外務省が組織として実行しており、佐藤被告が罪に問われることはあり得ない」と証言している。そして、東郷は、佐藤が逮捕された時、外国にいたが、当時の野上義二外務事務次官(後に駐英大使)と電話で「こんなことが犯罪になるはずがない。何も問題はない」と話し、しかも、野上はこのことを記者会見で述べるとまで言ったと佐藤の著書には書かれている。

政治資金規正法違反事件
鈴木宗男の資金管理団体「21世紀政策研究会」における政治資金収支報告書が虚偽であり、政治資金規正法違反していた事件。

東京都南青山の鈴木宗男宅の費用約1億5000万円の内、約4分の1である3600万円が鈴木宗男の資金管理団体「21世紀政策研究会」の政治資金から自宅購入費に流用していた事件と資金管理団体「21世紀政策研究会」の1998年分を政治収支報告書から1億円の寄付収入を除外して1億円を裏金にした事件が発覚した。

この事件によって、鈴木宗男と秘書2人が起訴された。



序章 2002年6月24日掲載(北海道新聞)

「お、お、お」。顔色変えずに紙袋の現金を受け取った。

 一軒の家に、車から降りた紺の背広姿の男が駆け込んだ。2002年4月29日、十勝管内広尾町豊似。鈴木宗男だった。

 鈴木が秘書を務めた元農水相、中川一郎の実弟である故中川正男宅。2日前に正男の一周忌があったが、「静かに故人をしのびたい」として鈴木は出席を断られていた。突然、訪れた鈴木は仏壇の前で手を合わせた。

 その翌日、東京地検特捜部は鈴木の公設第一秘書宮野明を逮捕した。捜査の手が、鈴木にも迫ろうとしていた。秘密裏の来道だった。鈴木は町内の別の場所に住む正男の弟で71歳になる健三の家も訪ねた。「一郎先生にお参りしたかったんです」と鈴木は言った。


初当選翌日の1983年12月19日、広尾町にある中川一郎の墓前で当選の報告をする鈴木。衆院議員としての人生が始まった  正男と健三。一郎の自殺後、長男の中川昭一と「骨肉の争い」を展開した1983年の衆院選で、劣勢が伝えられる鈴木を支援し、初当選に結びつけた。だが、鈴木が選挙区を釧根にくら替えしてから関係は希薄になっていた。

 断られてもやって来た鈴木の真意を関係者は測りかねた。その当時の恩義に報いたいとの思いだったのだろうか。気持ちの整理だったのか。この時、すでに鈴木は「逮捕を覚悟していた」。

 1983年12月19日、鈴木はやはり広尾にいた。前日、投開票された衆院選での初当選を一郎の墓前で報告するために。

 旧北海道5区(釧路、根室、十勝、網走管内)での最初の総選挙。昭一が同情票を集め、破竹の勢いだったのに対し、鈴木は非難の集中砲火を浴びていた。「中川は鈴木が追いつめたから自殺した」
 鈴木の遊説の振り出しも広尾。人垣の中を握手して回る鈴木に「この人殺し!」と罵声(ばせい)を浴びせ、ほおをたたいた男がいた。空気が凍り付く。だが、鈴木は平然と、その人の右手を握りしめた。「鈴木宗男です。よろしくお願いします」

 35歳で初陣を飾った鈴木は新聞のインタビューでこう語っている。

 「3回当選するまでは地元優先、利益誘導と言われても思い切り現実路線で行きたいと思っています。地盤をがちっと固め、それから天下国家、北海道のことを言ってみたいと思っています」

 だが、選挙は苦しい戦いの連続だった。

 定数5の旧北海道5区で、初回は4位当選。2回目以降も4位、5位、4位と下位当選に甘んじた。道13区(釧路、根室管内)に国替えした5回目は北村直人=当時新進党=に敗れ、比例代表で復活当選。6回目は比例代表道ブロックのみで、出馬、当選した。

 「選挙が弱いから、当選を重ねても地元の面倒を見続けなければならなかった」。古くからの支持者は言う。

 鈴木がまだ中川の秘書だった1980年ごろ、東京・赤坂。車の中で、当時、建設会社の社員だった男性が紙袋を鈴木に差し出した。「お世話になりました。これは会社から」。「お、お、お」。鈴木は顔色一つ変えずに受け取った、とこの男性は証言する。紙袋には2000万円近い現金が入っていたという。

 男性は鈴木に「口利き」を依頼し、道内の自治体が発注する約6億円の事業を受注した。「謝礼は業界の常識。鈴木さんは若いうちにこれを覚え、金額や回数が増えるたびに態度が大きくなっていった」

 議員1期目のころ、省庁の局長クラスを呼びつけて「バカ野郎」と怒鳴る鈴木を、周囲がいさめた。だが、鈴木は「オレは若いからバカにされる。そうさせないためにやるんだ」。

 一方で、官僚に道東産の新巻きサケなどを盆暮れに送り続けた。「たいした額じゃないから、もらう方も気楽。これでおれの名前を覚えてもらえるし、『あれ、うまかったか?』と話ができるだろ」

 集金力に物を言わせ、実力者に取り入って、永田町の階段を駆け上がっていく。夜の会合の前にはスポーツジムへ。トレーニングの後、コップ一杯のタンパク質入り飲料を飲み干してマチに消えた。寝る前に200回の腕立て伏せを欠かさなかった。肉体を鍛えることで、どんな逆境にも打ち勝つ強靭(きょうじん)な精神力を築くことができる-。そんな信念がそこにあった。

 鈴木を「回り続けるコマ」にたとえた支持者がいる。「回るのをやめたとき、コマは倒れてしまう。ゼロから今の地位を築き上げた鈴木は、人一倍、必死に回り続けるしかなかった」

 落日は意外なほど早かった。疑惑の噴出、証人喚問、側近秘書の逮捕、そして自身も-。

 中川一郎が自ら命を絶ったのは初当選から19年後。くしくも、今年は鈴木の初当選からちょうど19年である。


 「ウチが世話になってる。頼む」

 元農水相、故中川一郎の元秘書は、1970年代後半、東京・永田町の衆院第一議員会館で見た光景を記憶している。

 中川の部屋だった720号室。道開発庁の職員が分厚い書類の束を抱えて入ってきた。港湾、道路など事業別になった開発予算の一覧表。中川は不在で、議員用のいすに腰掛けた公設第一秘書の鈴木宗男が次々とページをめくってゆく。

 「『この事業はこの業者、こっちはこの業者』。鈴木が振り分けて、印を付ける。割り付けだ。今でこそ業者同士の談合がどうのと言うが、当時は役所の人間が鈴木と談合していたんだ」


 中川事務所の関係者は「中川先生よりも鈴木のほうが偉い」と言い合った。地元から「口利き」の依頼で出てきた業者が、議員会館に中川がいても鈴木が不在だとその帰りを待つこともあった。「お礼は、議員分と鈴木の分の2つ用意していくのが、業者間の常識だったと言われていた」。元秘書はそう振り返る。

 当時、中川事務所には1日50-60件もの陳情があった。陳情者は1000人近くもいた。ほかに入学や就職の世話、中央省庁への働きかけ、公共事業の口利きの依頼もある。それらをさばく鈴木の手腕に周囲は驚嘆した。

 ある建設会社の元社員は1970年代後半、道内の一部事務組合が発注する公共事業を受注できるよう、鈴木に口利きを頼んだ。別の国会議員がバックに付いた業者との間で、せめぎ合いが数カ月に及んでいた。「分かった」。鈴木はすぐ受話器を取った。相手は組合を構成するある自治体の首長。「ウチが世話になってるんだ。頼む」

 「翌朝、受注が決まった。驚いたよ。事業費は約6億円。謝礼として鈴木に200万円を渡した。もちろん領収証は出ない。後から、会社の役員が1800万円を中川事務所に持参したと聞いた」

 中川事務所関係者によれば、口利きも、目の前で電話をかける手法も、中川のスタイルだった。

 「陳情の善悪はいいから、とにかくよく話を聞け。そして、すぐ対応しろ」。衆院議員となってから、鈴木は自分の秘書にそうたたき込んだ。

 「例えばマチに橋を造ってくれ、と頼まれても、全体状況を考えて難しければ、そう答えるのが普通だ。でも鈴木さんは違う」と、元支持者の1人は語る。「依頼者がどんなに困っているか真剣に聞いて、それにこたえることが彼の政治のすべて。彼には、“部分”がすべてなんだ」

 道東のある自治体の首長は「口利きは、右から左までやっていない政治家はない」と言いながら、こう続けた。

 「ただ、鈴木さんは無理したんでしょう。選挙が弱かったから。生き残るために、突出してしまった」

「分からないんです」 一転「バカ野郎」

 鈴木宗男が元農水相、中川一郎の私設秘書になったのは1969年。拓殖大政経学部政治学科4年の学生だった。中央省庁を走り回り、「分からないんです」と頭を下げて教えを請う実直な若者だった。

 ところが、2年目ごろから変ぼうする。同僚を怒鳴りつけるようになった。先輩秘書の1人は「怒るときは『バカ野郎! おまえ、この野郎』。先輩も、議員でもお構いなし。運転手や秘書はよく受話器で殴られた。自分も血を流したことがある」と明かす。

 9歳年上で、中川事務所の先輩格だった元衆院議員、上草義輝の関係者は「初めは『上草さん』と呼んでいたのが『上(うえ)さん』になり、ついには『うー』。議員になってからも『うー』だった」。若手の国会議員に「食事代を払ってこい」と財布を放り投げた、との証言もある。

 だが、中川の信厚く、金庫番として政治資金の管理を取り仕切った鈴木に、正面切って反発できる者はいなかった。

 秘書になるまで、それほどの激しさ、傲岸(ごうがん)さを周囲に見せてはいない。

 母校・足寄高で、硬式野球部の後輩を1、2度殴ったことがある。だが、同じ部だった同窓生は「当時の風潮を考えれば特別なことじゃない。鈴木が弱い人間に強く出ていたとか、そんなことは決してない」。拓大で親しかった学友も「講義をさぼらず、マジメで目立たない。一言、二言多かったが、今みたいな性格じゃなかった」と言う。

 ただ、内面の激しさを示す証言もある。

 拓大時代、燃えさかっていた学生運動に、鈴木は「学生の本分を外れている」と反発。左翼の学生運動つぶしのサークルに出入りしていた。「新左翼の学生活動家に待ち伏せされ、鉄パイプで殴り殺されるところだった」と、額から血を流して学生寮に逃げ込んできたこともある。

 秘書となってわずか2年後の1971年、中川の公設第一秘書となる。若くして得た信任が、内面にあった激しさに火を付けたのか。中川事務所の元関係者は「彼なりに懸命に考えて、この方法でいいんだと思い込んだのだろう。鈴木は秘書時代の13年間で変わった」とみる。

 かつて政界で、党人政治家のどう猛さが政治の表舞台を突き動かした。農家出身の中川も生産者米価をめぐる自民党の方針にかみつき、党総務会でコーラのびんをたたき割り、机をひっくり返したことがある。

 だが、おおらかな人柄が愛され、蛮行も大目に見られた中川に比べ、鈴木は敵をつくりすぎた。元支持者は言った。「時代も変わり、敵と見方を峻別(しゅんべつ)して、怒声で敵をたたきつぶす手法は限界に来ていた。でも、軌道修正できなかった。それが鈴木の宿命だった」

オレは1万人の名前を覚えている

 「おおお、父さん! 母さんの病気、治ったか」「息子の就職は決まったか」-。自民党総務局長(当時)の鈴木宗男が、マチで出会った町民に次々と声を掛ける。ホテル、飲み屋、そして街頭で。その数は、数十人に及んだ。名前はもちろん、一人ひとりのプロフィルまで、正確に言い当て、あいさつされた相手を感激させた。2000年10月、根室管内中標津町内。

 自ら推し進めた北方四島人道支援で、国後島に建設した発電施設。その完成式に向け、中標津空港から政府チャーター機で出発する前日の夕暮れ時だった。傍らには当時、外務省主任分析官だった側近の佐藤優(背任容疑で起訴)もいた。

 「オレは1万人の支援者の名前を覚えている。1万人が10人に声を掛けてくれたら10万人。当選できるだろう」。自信がみなぎっていた。


 記憶力は「驚異的だ」と陳情者を驚かせた。「『分かった、分かった』と話を途中でさえぎって、アドレス帳も見ずにダイヤルする。なのにかける相手も、内容も的確なんだ」(支持者の一人)。電話番号について「昔は1000件、今も500件以上は、覚えているな」と語っていた。

 ただ、秘書時代に鈴木が陳情を受けて即座にかけた電話番号を関係者が覚えていて、こっそり後からかけてみた。出たのは陳情とは無関係の相手だったという。「その場では『話し中だ』と言って電話を切り、周囲に『もう1本の番号を教えろ』と命じていた。記憶力をアピールするパフォーマンスの時もあった」

 道開発予算など政府予算案の個所付けなどの数字も内示前にいち早く聞き込み、支持者の前でそらんじて見せた。元首相、田中角栄や竹下登から盗み取った手法だった。

 「いつも後ろを振り向きながら歩いてたんだ」。秘書時代、郷里の十勝管内足寄町から上京した友人と一緒に入った食堂で、鈴木はそう語った。

 田舎育ちの目に、東京は巨大な迷路。だが、マチを駆けずり回り、隅々まで知り尽くさなくては務めは果たせない。帰り道を頭にたたき込もうと、車に乗っても前を向かなかった。「相当、努力したんだろうな」。友人は痛々しく感じた。

 「異能」ともいえる記憶力、そして体力。

 早朝の“マラソンもうで”が新年の恒例行事だった。帯広市内の自宅から十勝護国神社など五つの神社を回り、走行距離10キロ余り。ジャージー姿で厳寒の風を切り、疾走する鈴木に付いていくことのできる者は少なかった。東京でも、早朝ジョギングを欠かさなかった。

 「あんなにエネルギッシュに動き回っていて体は大丈夫なんですか」。周囲に問われて、秘書の二男、行二がこう漏らした。「今は大丈夫と思います。でも、議員をやめたら死ぬかもしれませんね」

涙浮かべ語った「馬一頭」の逸話

 1960年代前半、十勝管内足寄町大誉地(およち)。中学生の鈴木宗男がそこにいた。砂利道で自転車を押しながら、近所の顔なじみに得意げな笑顔を向けた。「中学で1番、貯金がたまったんだ」。開拓農家の自宅で搾った牛乳を、近所に配って回るのが通学前の日課だった。親からもらった、その駄賃をためた貯金額が1番になったと、無邪気に自慢してみせたのだった。

 当時、自転車を持っているのは比較的、余裕のある家だった。古くからの住民の1人は「むっちゃん(鈴木のこと)の家では住み込みの奉公人を2、3人使っていたし、小作人もいた。雑穀を入れておく蔵もあった。それほど貧しくはなかった」と語った。

 議員バッジを着けた鈴木が好んで語ったのが「馬一頭」の逸話だ。大学進学を希望した自分のために父が馬を売って、25万円を工面してくれた。そのおかげで、一度は閉ざされた大学への道が開けたという内容。後援会の会合などで、この当時の話を語り始めると、鈴木は感極まって目を真っ赤にすることも少なくなかった。

 足寄は1962年と1964年、続けざまに冷害に見舞われた。これで進学をあきらめた農家の子弟も少なくない。鈴木が足寄高を卒業した1966年、同じ学級の45人中、大学へ進んだのは鈴木を含めて10人前後だった。

 奇妙なことに、学生時代、そして秘書時代の鈴木と交流のあった人びとは「馬一頭の秘話」について「当時、聞いたことはない。選挙用の話じゃないか」と口をそろえる。

 拓殖大在学中の鈴木はワイシャツにセーターかカーディガンをまとい通学した。住まいは質素な四畳半だったが、アルバイトに精を出し、東南アジアへの研修旅行にも参加した。学生時代の下宿には秘書になってからも住み続け、25歳まで7年間暮らした。秘書になると、盆暮れに付け届けの包みが届くようになった。

 拓大で都会育ちの学友に「故郷はイモがおいしくて、きれいなところなんだろ」と問われ、「住んでみて初めて厳しさが分かる。本州の2倍も3倍も頑張らなくては生きていけないんだ」と真顔で語ったことがある。都会育ちに比べれば、厳しい少年時代を送ったのは間違いない。

 ただ、鈴木が「貧しかったころ」や「汗を流して働く美徳」を過剰なまでに語り始めるのは、衆院選に打って出てからのことだ。

 初出馬の1983年、道内では鈴木の師の元農水相、故中川一郎の長男昭一や元道知事、故町村金五の二男信孝も出馬した。2人とも東京育ちの東大卒。民主党代表の鳩山由紀夫も同様だ。

 エリート2世議員とは違う「貧農の出」「苦労人」。たたき上げ政治家のイメージに自らの存在意義を見いだしていく。

よし、明日からは泣きを入れるからな

 「昭和58年、最初に国会に出るべく、手を挙げた時を思い起こしながら…」。3月15日、離党会見。あふれる涙を白いハンカチでぬぐう鈴木宗男をテレビで見ながら、古くから鈴木を知る関係者は、ある言葉を思い出していた。

 故中川一郎の秘書時代、中川子飼いの国会議員が選挙に出るたび、鈴木は口癖のように言った。「おまえ、選挙が危ないっていうじゃないか。何で涙の一つも流せないんだ」「土下座して泣け」。突き放すような、強い口調だった。

 同じころ、鈴木は「何度生まれても中川先生の秘書になりたい」と言うのが口癖だった。忠誠心を示そうとしていたのだろうが、この関係者は思った。「こいつには照れというものが、ないのか。臆面(おくめん)もなく、よく平気で言えるな」

 その1983年(昭和58年)12月。冷たい雨にぬれ、鈴木はぬかるみに頭をすりつけて泣いていた。

 初出馬した衆院選の遊説中、帯広市内での一場面。ある会社の前で選挙カーを飛び降りて、ひざまずいた。泥まみれで次の場所に立つ。幾度となく鈴木は土下座し、涙で支持を訴えた。

 後年、この選挙戦に話が及ぶと鈴木は泣いた。古手の支持者は「演技じゃない。泣く瞬間は本気で感情を抑えられなくなる。ただ、彼はその瞬間を自分でつくり出すことができた」。

 パーティーで座席を見つけられない老人のために、壇上から駆け降りていすを用意する。どんなに多忙でも、法事に来て線香を上げてゆく。支持者の心を打つ行動には、激情と冷徹な計算が混然一体となっていた。

 政界入りのきっかけは拓殖大入学時、身元保証人を引き受けてくれた中川から「いつでも遊びに来なさい」と声を掛けられて、議員会館に出入りするうちに見込まれ、請われて秘書に-。鈴木はそう語り、劇的な出会いを強調した。求められれば、色紙に「人生出会い」としたためた。

 だが当時、中川の私設秘書だった古田修吾=東京在住=は「保証人の話など聞いたことがない。真っ赤なウソだと思う」と鈴木の話を否定する。古田によれば、鈴木は学生時代、東南アジアを訪れた。その旅行記の序文を中川に書いてほしいと議員会館に頼み込みに来た。約1カ月後に鈴木が再訪した際、中川が居合わせたのが最初の出会いだったという。

 「人生出会い」には脚色が含まれていたのか。

 中川もまた、よく泣く男だった。2人を知る関係者の1人は言う。「中川の人情は奥が深い。だが、鈴木のは単純。あいつは、どこででも泣けるんだ」

 議員バッジを着けてから、選挙戦の終盤で鈴木は周辺にこう漏らしたことがある。

 「よし、明日からは泣きを入れるからな」

自腹切らぬ飲み客に「オレは違う」

 1983年1月13日昼すぎ、東京・築地本願寺。縊死(いし)した元農水相、中川一郎の告別式が行われた。「病死」の発表が一転、自殺と分かった翌日だった。約5000人の弔問客の列が続く式場の受付に、秘書の鈴木宗男が一人、取り残されたように立っていた。

 「鈴木が参院選出馬を申し出て中川を悩ませた」「鈴木の強引な資金集めに苦悩した」。葬儀の後、縊死した原因について「鈴木主犯説」が強まっていった。

 鈴木は苦境に追い込まれてゆく。同年12月の衆院選について、出馬断念を迫る政界関係者からの「圧力」もあった。一郎の嫡男・昭一は十勝の経済界の主流が付き、正統な後継候補と位置づけられていた。鈴木は、傍流の道を歩むよりなかった。


 鈴木を選挙区で推したのは秘書時代から関係が深かった中小を中心とした土建業界、そして出身地の足寄など十勝郡部の人々だった。

 一郎も最初は地元で非主流の政治家だった。初出馬した1963年、十勝の保守本流は故本名武。本名の支持者を切り崩し、やがて本流となった。同じ道を、鈴木は歩き出したようにも見えた。

 「中川の金庫番」と言われた鈴木は、後発のハンディキャップを一郎の遺産で埋めた。「23あった中川後援会の貯金通帳は、すべて鈴木が押さえた。大阪の食肉業者の利権も引き継いだ」と、中川と親交のあった衆院議員は語る。

 傍流ゆえに、企業献金の多くは中小企業、特に土建業者から。鈴木が個別の入札にまで口出しするとされる理由は、ここにあるといわれる。

 赤じゅうたんを踏んだ後もいばらの道だった。最初はどの派閥にも入れてもらうことができず「政界の孤児」と揶揄(やゆ)された。

 「宿なしの野良犬を野放しにしておくわけには、いかんだろう」。1984年秋に自民党幹事長に就任した金丸信は周囲にこう語り、一匹おおかみだった浜田幸一とともに「番犬」として鈴木をそばに置くようになる。

 初めて派閥入りしたのは1993年。竹下派分裂で、選挙区で鈴木と争ってきた北村直人衆院議員が竹下派を脱藩、羽田派結成に駆け付けた。分裂で、最大派閥から第四派閥に転落した小渕(竹下)派は、「数は力」と鈴木を取り込んだ。

 鈴木は「外様は、しょせん外様」との小渕派内の陰口の中で独自に資金集めに奔走、若手の面倒を見ながら地歩を固めていかざるをえなかった。

 1980年代後半、銀座の高級クラブで、上等そうなスーツに身を包んだ一団をきつい目で見つめながら、言ったことがある。「あいつらは自分のカネで飲んでない。オレは違う」。傍流のプライドがにじんでいた。

「入れてくれたんだな」支持者に土下座

 1983年12月の衆院選で初当選直後、鈴木宗男は釧路管内鶴居村へ向かう車の中にいた。夜半、一軒の家の前で降り、扉をたたく。寝間着姿の年老いた男性が扉を開けた。

 「じいさん、入れてくれたんだな」

 「おめえ、よく分かったな」

 老人がそう言うと鈴木は感極まって土下座した。

 鶴居村は、その衆院選で鈴木と同じ旧北海道5区(釧路、根室、十勝、網走管内)から立候補した故北村義和の出身地。敵の牙城だった。鈴木陣営は最終盤まで鶴居の票を読めず、ゼロも覚悟した。だが、開票してみれば16あった。北村は鶴居で1240票を得ながら、次点に泣いた。


 「驚いた。何のつながりがあったのか。それで、票を入れてくれた人を全部特定しようと決めたんだ。考えていたら、以前会ったじいさんの顔が浮かんでなあ」。後日、鈴木は周囲に漏らした。「女房を寝取られても我慢できる。でも、票を取られるのだけは我慢できないんだ」

 「ホクレンを分割できないか」。5回目の当選を果たした1996年の衆院選後、農水省幹部に真顔でそう言い出したことがある。

 ホクレンは、この衆院選道13区(釧路、根室管内)で鈴木を退けて、当選した北村の長男直人=当時新進党、現自民党=の支持基盤。選挙前、鈴木がホクレンなど道内農業団体の幹部に支援を約束する念書を書かせた。それにもかかわらず、釧路地区農協組合長会は北村を推し、鈴木を激怒させていた。

 鈴木は重複立候補した比例代表で当選したが、しこりは消えなかった。巨大組織ホクレンを分割して、力を弱めようと思ったのか。同省幹部が「無理ですよ」と言って、その場は収まった。この幹部は「選挙のことが念頭にあったのだろうが、あまりにも唐突すぎて」と回想した。

 二世、三世や官僚OB議員にはまねのできないほど、鈴木はがむしゃらに票に執着した。それほど、選挙は弱かった。巨額の政治献金を集める力はあっても、小選挙区でトップを取る力はなかった。

 鈴木が学生時代から秘書になり、結婚するまで7年間住んでいた東京都板橋区中台の下宿。古びた電気炊飯器が、まだ残っていた。直径25センチ。2合炊き。スイッチは「入」「切」だけ。鈴木が下宿を出る際、「使ってください」と置いていった。

 風呂はなく、トイレも台所も共同。2階の片隅の四畳半が鈴木の部屋だった。ひっそりとした下宿の中で、炊飯器のアルミのふたは光沢を失い、くすんで見えた。

 票やカネに異常なまでに執着して勝ち取ってきた衆院議員の座。政治への道を踏みだしたこの下宿で、当時、どんな野心をたぎらせていたのか。

 「鈴木長官に頭を下げてくれ」

 1998年度政府予算案の本格編成を前にした1997年11月6日。東京・霞が関にある道開発庁で、同庁幹部は、空知管内奈井江町長の北良治にきまり悪そうな表情で切り出した。

 「北さん、悪いけど、鈴木(宗男開発庁)長官に頭を下げてくれないか」

 この幹部は直前に、同町内で建設予定の「北海ダム」の着工が1998年度予算に盛り込まれるとの見通しを北に告げたばかりだった。それを聞かなかったことにして、鈴木にあらためて陳情してほしいと求めたのである。

 「鈴木長官に邪魔される可能性がある。心配だ」それが懇願の理由だった。この年の9月に道開発庁長官に就任した鈴木は早くも庁内に、にらみを利かしていた。

 不承不承、長官がその時にいた議員会館へ向かった。鈴木は「よーし、分かった」と請け負うなり、北の眼前で農水省、道開発庁などに電話をかけまくった。「空知の北海ダムはマルだからなっ!」

 道開発庁に戻った北を、幹部らが立ち上がって出迎えた。「良かった、良かった」。笑顔で握手しながら喜ぶ姿を北は「これまでにも、どれだけ邪魔されてきたのか」と複雑な心境で見つめた。

 役人が鈴木を恐れれば恐れるほど、鈴木の虚像は膨れ上がっていった。

 「大臣が胆振の予算を半分に減らすと言っている。ああいう人だから陳情に来た方がいい」。同じ97年の暮れ、苫小牧市幹部らに同庁からたびたび電話が入った。

 当時、鈴木は「公共事業はいらないと言う鳩山由紀夫・民主党代表を当選させるところに付ける予算はない」と公言してはばからなかった。怒声を浴びると知っていても、苫小牧市長、鳥越忠行は再三、鈴木に陳情に行かざるを得なかった。予想通り、鈴木は鳥越を面罵(めんば)した。

 怒声で相手を従えていく「宗男流」。その舞台を、結果的に道開発庁の職員がおぜん立てしたことになる。どう喝に危機感を募らせた胆振管内の建設業者は鈴木の後援組織をつくり、選挙区でもない地域に献金企業が急増した。

 道央の自治体幹部は「官僚は本当に脅され、従っていただけなのか」と疑問を投げかける。

 公共事業削減の嵐の中、道開発庁は予算獲得に奔走したが、省庁再編で存続そのものが問われた。開発庁元幹部は「予算獲得だけが目的のような開発庁の存続に、熱を入れてくれる政治家はほかにいなかった」と打ち明ける。弱小省庁の同庁にとって、鈴木は最も頼りになる政治家であったのは、間違いない。

 「道開発予算の一括計上権の存続に尽力したお礼に、ある開発局幹部が業者に鈴木への献金を働きかけている」。1998年から1999年にかけて、道内建設業界に、こんなうわさが流れた。真偽について関係者は口を閉ざすが、道開発庁OBは、鈴木と同庁が「互いに利用し合う関係だった」と証言した。

砲撃音対策のさく「税金の無駄さ」

 陸上自衛隊矢臼別演習場に接する根室管内別海町上風連地区の酪農地帯。道路沿いに、真新しい牧さくが延々と続く。「砲撃音に驚いて暴走した牛が公道に出ないように」と同町が設置した。

 だが、砲撃音が「ドン」と空気を震わせても、牛は身じろぎもせず草をはんでいた。同地区の牧場主(44)が牧草刈り取りの手を休めて吐き捨てた。「牛が砲撃音に驚いて道路に出たことなんてない。税金の無駄遣いさ」

 牧さくは1997年、矢臼別で始まった在沖縄米海兵隊の実弾砲撃訓練を機に整備された。いち早く移転を受け入れた別海町長の佐野力三が、受け入れと引き換えに「住宅防音」「移転補償」とともに、防衛施設庁から引き出した騒音対策3点セットの1つだ。

 佐野によると、3点セットは当時の同庁長官、諸冨増夫との直談判で事業化が決まった。面会を取り次いだのは鈴木宗男。この前後、鈴木は別海を含む矢臼別の周辺3町長に、「地元の要望には責任をもって対処する」と米軍訓練の移転受け入れを強く迫っていた。

 牧さくの長さは、同町だけでも釧路-帯広間に匹敵する112キロ。木のくいを4段の鉄板でつなぐ簡易な構造だが、長さ100キロを超えると下手なハコモノより公共事業の波及効果がある。

 同町は1997年から5年間に総額16億円を発注、国が8割を補助した。地元建設業界は「特需」に沸き、発注リストには鈴木の献金業者がずらりと並んだ。

 しかし、同様に地元対策だったはずの「移転補償」は、酪農を基盤とする地域社会の崩壊に拍車を掛けた。

 1997年から2001年までの5年間に26戸が移転を申請。53億9000万円が支払われた。酪農家十数軒の同町上風連地区でも5軒が移転を決めた。多くは、ただ補償金をもらうだけで離農した。牧草地は「つぎはぎ状」になった。

 別海町には、かつてパイロットファームや新酪農村などの壮大な国家事業に夢を抱き、酪農の担い手が集まった。しかし、性急な機械化で借金は膨らむ一方。乳価も上がらず、離農が後を絶たない。

 「訓練受け入れでもうかったのは土建業者だけ。まじめに営農を続けたい酪農家には何の恩恵もなかった」。矢臼別周辺の農協幹部は、そう言い放った。

 1990年に4691人だった同町の農業者は2000年には4060人に減った。経営環境が厳しさを増す中、展望を欠いた農政、そしてもう一つの国策である米軍訓練移転が離農の引き金を引く結果を招いている。

 一方で建設業従事者は1991年に889人だったのが1999年には1011人と増加。公共事業への依存度は高まり、町はいつの間にか「カンフル剤」の事業を運んでくれる鈴木の強い影響下に入った。

 旧5区時代から鈴木と親交が深い佐野は、鈴木の逮捕・起訴を「大変な痛手だ。公共事業を持ってきてくれる人がいなくなった」と嘆いた。

「鈴木イニシアチブの確立だ」

 霞が関の道開発庁長官室で、鈴木宗男は大臣いすに身を沈めながら、満足そうに周囲に語った。

 「鈴木イニシアチブ(主導権)の確立だ」

 道開発庁長官に就任して9カ月余りの1998年6月下旬。同月30日付で、官僚のトップである事務次官をはじめ、開発庁の主要4幹部を総入れ替えしたうえ、道内11開建の全部長をすげ替える異例の大規模人事を固めたときだった。

 事務次官は2年が慣例だが、大蔵省出身の松川隆志を就任1年で退任させた。後任は鈴木と気脈を通じていたといわれた開発局長の新山惇。開発局長から事務次官に昇格するのは約6年ぶりで、霞が関の常識を覆す幹部人事だった。鈴木が苫小牧東部開発計画をめぐる松川の対応に不満を抱き、「長官の意のままに動く新山さんを引き上げた」との見方が庁内に広がった。

 開発局長への昇格ルートとされる開発局建設部長を「傍流」の開発土木研究所長へ、釧路開建部長を格下の網走開建部長へ転任させた。

 この人事の対象となった道東のある開建元幹部は当時、部長室に鈴木の地元秘書が足しげく出入りしたと証言する。「入札監視委員会があるので、露骨に入札をゆがめるのは無理。だが、特定の業者に配慮してほしいといった口利きはあったはずだ」

 開建部長は年2回、開建部長等会議で上京し、鈴木と顔を合わせる。地元秘書からも情報は伝わる。「言うことを聞かない人間を鈴木さんは分かっていたと思う。依頼を断れば人事で冷や飯を食わされる。職場にはそんな空気が充満していた」と元幹部は語る。

 1998年の大規模人事について当時の道開発庁幹部は「松川次官と鈴木長官の間にいろいろあったという人がいるが、憶測だ。実力があるのに、長官に近いから昇進したと言われるのはかわいそうだ」と鈴木の影響を否定してみせた。

 だが、実像であれ、虚像であれ、現場レベルまで「鈴木イニシアチブ」への恐怖が深く浸透していった。ある開建OBは「末端に至るまで恐怖政治が敷かれていた。『宗男ライン』の職員が近くにいる可能性があるから、口が裂けても長官の批判は言えなかった」と語った。

 「君も霞が関で順調にやってきたのだろうが、これからはどうなるか分からんわな」。長官在任中、自分に従わない職員を怒鳴りつけた後に、鈴木はこう付け加えるのを忘れなかった。いかに頑固な職員も、この一言でほとんど折れたという。

 大過なく過ごし、退職して天下る。そんな「道」を踏み外すことにおびえる役人心理を、鈴木は露骨に利用した。外務省でも駆使した役人操縦術だった。

 「鈴木と刺し違えようという気骨ある職員はいなかったのか」。そう問うと、開発局元幹部の1人は言った。「いないね」

 「釧根は政治家が必要」開発予算急伸

 鉛色の空にカモメが舞う釧路西港2号緑地。1998年5月に始まった第2期工事の着工記念碑があった。

 「国務大臣 北海道開発庁長官 鈴木宗男」。黒御影石に直筆の白い文字。5万トン級の大型貨物船も接岸できるよう、10年以上かけて、2つのふ頭を新設する事業着手を「手柄」として誇示するかのように鮮やかだった。

 「釧根は一番政治を必要としている」。着工3年前の1995年6月、釧路の官公庁のトップを前に鈴木は訴えた。同年度の釧路開建の開発予算は362億円(年度当初、以下同)で、帯広開建の半分強にすぎなかった。「1996年度は間違いなく400億円の大台に乗せて、420億円、430億円と伸ばしたい」

 小選挙区制の導入で釧根にくら替えすることが決まってから、3カ月後の発言だった。

 その言葉通り、翌1996年度の予算は407億円。以後、公共事業削減の流れにもかかわらず、釧路開建の開発予算だけは6年連続で前年を上回り、2001年度には522億円に達した。

 「公共事業をぶんどって来ることのできる貴重な剛腕」。あっせん収賄罪で起訴されてもなお、釧根の土建業界はもちろん、自治体の首長にさえそんな声が消えない。評価の裏付けは、この開発予算の伸びである。

 だが、この伸びの源泉は、本当に鈴木の力だけだったのか-。

 道開発庁の元幹部は「優先順位の似通った他の地域の事業を押しのけるのは政治の力。鈴木さんの力は否定できない」としながらも、こう続ける。「でも釧路の場合、開発予算が増えた主要因は空港と港湾の整備事業。どちらも長年の積み重ねの上の既定路線だった」

 複数の道開発庁・開発局元幹部によると、1996年度予算が膨らんだ要因は釧路空港の滑走路延長工事。だがこれは1995年度に着手し、1996年度の継続は既定の方針だった。釧路西港第2期工事も、漁業者への補償交渉が1996年3月に妥結したことが、着工への契機となった。

 そもそも、貨物需要が伸びながら設備能力が極端に不足していた西港は「予算配分の優先順位が全国でも高位。予算は増えこそすれ減る可能性はなかった」(同庁元幹部)。こうした情報を鈴木はいち早く手に入れ、巧妙に「利用したはずだ」-。複数の同庁幹部はそう口をそろえた。

 もちろん、鈴木が力を発揮した部分も少なくない。

 1998年12月21日。内閣官房副長官(当時)の鈴木は、釧根の市町村長ら50人を首相官邸に招いて胸を張った。「道路整備については私が予定を2年間前倒しにしておりますから」。1999年度開発予算の大蔵原案に、地域高規格道路など釧根での道路整備事業が要求通り盛り込まれたことの誇示だった。

 需要予測を前提に投資の必要性を予算当局に納得させなければならない港湾や空港に比べて、道路は、政治家が介入しやすい、という。

 「予算要求時にち密な計算はいらない。道路族の衆院議員がドンと机をたたいて決まることもある」(同庁の元幹部)

 1995年、鈴木が地元でこう言ったことがある。「これまでは地元の政治家がやるべきことをやってこなかった」。「虚像」を巧みに操り、「実像」以上に大きく見せながら、鈴木は釧根で票とカネをかき集めた。

「先生の視線の中に入っていた方が有利」

 2001年9月、釧路市内で1件の入札が行われた。釧路開建発注の釧路西港防波堤ブロック製作工事。参加したのは、地元の港湾土木業者8社。全社に共通点があった。

 どの企業も1995-2000年にかけて、鈴木宗男に政治献金をしていた。少ない社で総額168万円、多い社で同2400万円。入札は予定価格の99.02%で、毎年献金し、献金額が最も多い根室市の業者が1億2500万円で落札した。

 鈴木に献金している業者同士が落札を争う入札が、釧根で「日常の風景」となっている。98年度に始まった西港第2期工事も、2001年度までで入札参加業者の76%は献金業者。落札して受注した業者の80%も献金業者となっている。(共同企業体は構成員を1社ずつ計上)

 「選挙区で、たいていのところは私の後援会に入っていますよ。広く薄くですよ。北海道中そうじゃないですか」

 逮捕3日前の2002年6月16日、東京都内のホテルで北海道新聞と単独会見した鈴木は「後援企業に受注が集まっている」との問いに怒気で顔が真っ赤に染まった。

 「そういう見方が、間違っているんですよ!」

 だが、そう仕向けたのは、誰だったのか。

 鈴木が釧根にくら替えした1995年、釧路市内の建設業者は鈴木の資金管理団体から献金を求める封書を受け取った。「出さざるを得ない空気」と以後、毎年12万円を献金している。

 地元建設業協会の幹部から毎年、鈴木の新年交礼会のパーティー券数10万円分を購入するよう半強制的に求められている業者もいる。

 「鈴木先生は下請けにどこを使えと、元請けに注文することがあると聞いた。下請けに入るのを邪魔されたくないから、先生の『視線』の中に入っておいた方が有利と思った」。西港関連の工事で、大手の下請けに入った釧路管内の業者は、献金の理由をこう明かした。

 「邪魔されたくない」。ヤクザの用心棒代と同じ論理、と献金業者の多くが口をそろえた。

 業者など釧根からの鈴木への政治献金は、1995年は約2900万円だったが、2000年には約8600万円と約3倍に膨れ上がった。

 道央で土木・建築資材を扱う地場商社の社長は、「邪魔」されたことが昨年までに3度ある。土現発注のダム工事の資材納入で、工事を受注したゼネコンと土現の担当者から「鈴木先生が出てきて、先生が推す会社の名前が出ている」と断念を求められた。社長は「ゼネコン本社や土現に聞きに行っても『(そんな事実は)あるわけない』と突き放されるだけ」とあきらめた。

 この社長は鈴木事務所を「鈴木商会」と呼んだ。「実体のない会社だが、頼めば仕事を受けられる確率は高い。ただ、3-5%のマージン(裏金)を取られる。もうかるのは政治家と元請けの大手ゼネコン、商社だけさ」

労組さえも「背に腹は…」

 「合併すれば、必ず明るい未来があります!」。2002年1月22日、釧路市内で開かれた鈴木宗男の新年交礼会。釧路市と釧路管内釧路町の合併問題に触れて、鈴木は一段と声を強め、こぶしを突き上げた。

 「釧釧合併」問題は古くて新しい課題だ。だが、鈴木が特に熱心だったわけではない。それが、2001年11月の推進派市民団体の署名活動で盛り上がった機運をとらえ、一気に積極姿勢に転じた。側近の蝦名大也道議は「鈴木の政治力を最大限生かすには『大釧路』を築く必要があった」と解説してみせた。

 合併で「合併特例債」という新たな起債を使った財源調達も認められる。本年度一般、特別両会計合わせて1930億円もの起債残高(借金)を抱え、財源不足に悩む釧路市にも、新たな大型プロジェクト誘致の道が開ける。公共事業予算の獲得にらつ腕を振るう鈴木の出番がやってくる。

 「反鈴木」の釧路市議や周辺自治体の首長は、合併論議が鈴木主導で進むことに懸念を抱いた。だが、地元建設業界は署名活動に組織を挙げて協力した。ある業者は「仕事が増えるのなら一も二もなく合併に賛成」と本音を漏らした。

 北洋漁業の衰退、製紙産業の不振-。経済の地盤沈下が進む釧路で、反自民の旗頭だった労組さえも鈴木に急接近した。

 1997年3月、同市内の酒場で、太平洋炭鉱労組の幹部が鈴木と向かい合っていた。料理のメニューを手に「先生、お好みは何ですか」と尋ねた幹部に、傍らの秘書、宮野明がすかさず答えた。「そりゃあ票だろう」。鈴木は上機嫌で日本酒をぐいっと飲み干し、大きくうなずいた。

 三井三池鉱(福岡県)の閉山が迫り、太平洋炭砿も早期閉山説が流れた。労組の危機感は極限に達していた。鈴木も1996年10月の衆院選挙で当時新進党の北村直人に敗れ、立て直しが急務だった。「鈴木頼みは禁じ手だったが、背に腹は変えられなかった。彼は弱い立場の人間の攻めどころを知っていた」(同労組元幹部)

 1999年、同炭砿はアジアへの技術移転を柱に、一時は国の支援で存続の道筋ができた。元幹部は「超党派の政治力のおかげ」と振り返る。

 同年以降、鈴木が釧根で小選挙区から出馬する機会はなかったが、鈴木が露骨に求めた見返りの票についても「存続のためなら、用意する覚悟があった」と打ち明けた。

 その太平洋炭砿も展望が開けず、2002年1月に閉山。新会社が採炭を引き継いだが、規模縮小で1000人近くが職を失った。釧路市の人口は2002年3月末、35年ぶりに19万人を割り、減少に歯止めがかからない。繁栄する「中央」との格差への不満が、鈴木の政治力への期待感を高めさせた。

 だが、鈴木は釧路の将来像を明確に描いてみせたことはなかった。

 非政府組織(NGO)への圧力問題を機に、鈴木への逆風が強まり始めた2月8日、東京・永田町の自民党本部。同炭砿閉山後の地域対策を要請する地元陳情団に、鈴木は要請への答えもそこそこに、一連の疑惑についての弁明をまくし立て続けた。

 陳情団の1人は振り返る。「釧路が将来どう生き残っていくか。鈴木さんと、それを議論する機会はついになかった」

 「新たなムネオつくるしかないのかな」

 「青丸、赤丸って知ってるかい」。道央の土建会社の元社長はにやりと笑った。「(公共事業の)割り付け表の業者名の横に書き込んである印さ」。青丸は事故を起こしたか、天下った官庁OBの待遇が悪いため発注額を削る業者。赤丸は逆に、受注額を前年度から1割増やす業者。

 道内の開建や開発局の特定部局がつくる割り付け表には、4、5年前まで天下ったOBの有無や受け入れ予定が書き込まれていたと元社長は証言する。口利きをした政治家の名を書く欄もあった。それが空欄なら、OBの有無や処遇が受注額を左右する。

 だが、OB1人を抱えれば、年間1000万円以上掛かる。昇給もさせ、65歳まで在職時と同等の収入を保証するのが暗黙の了解事項だ。いやなら政治家に口利きを依頼するしかない。元社長も鈴木宗男に頼んだことがある。「鈴木さんが力をつけたのは、官庁の力が強すぎることと裏腹なんだ」。元社長は吐き捨てた。

 「政官業」の癒着構造にも、きしみが生じている。道央の建設業協会の役員を務める建設会社社長は「談合を仕切る力がなくなってきたから、政治家の口利きがひどくなってきた」と語る。

 2000年度の公共、民間合わせた道内建設投資(出来高)は3兆7300億円で、5年前の2割減だ。このうち民需の落ち込みを補ってきた公共事業も2兆3600億円と約15%減。中小まで足並みをそろえて「分け前」にあずかるのは難しい。

 加えて競争性の高い入札制度が導入され、官庁や業界団体主導の談合は成り立ちにくくなった。

 北大大学院教授の宮脇淳(行財政論)によれば、北海道は公共事業が手厚く予算配分されてきたが、その7、8割は元請けゼネコンなどを通じて本州に還流し、地元にはカネも競争力を付けるための技術も蓄積されなかったという。

 「公共事業の仕組みを根本的に変えない限り、道内の企業には体力がつかない。鈴木さん的な政治家が生まれる土壌が残り続けてしまう」と宮脇は語る。

 鈴木の逮捕後、釧根では開発予算の減少を心配する声が少なくない。釧根が地盤の自民党衆院議員北村直人は「これまでも鈴木さんだけの力ではなかった。私がしっかりやる」と言うが、鈴木に匹敵する強力な政治力を求める声は絶えない。

 地元建設業界は「嵐が過ぎ去るのをじっと待っている状態」(釧路市内の土建業者)だ。鈴木に献金を続けてきた釧路管内の土建会社の幹部は言った。「仕事がないから、政治にすがらざるを得ない現実は変わらない。新たなムネオをつくるしかないのかな」


 「場合によっては(所属する橋本派を)出てもいいんだ。他派閥からも引き抜いて30人から50人の新派閥をつくることができるんだ」。2001年4月の自民党総裁選を前に、党総務局長だった鈴木宗男が電話口でこう言い切ってみせた。相手は、鈴木が総額1000万円を超える政治資金を供与していた同派の若手衆院議員。

 同派の領袖、橋本龍太郎に不満を抱いていた鈴木は、総裁選で橋本ではなく、師と仰ぐ野中広務の擁立に奔走していた。



 野中が固辞して実現しなかったが、派閥を横断して議員の「面倒」を見てきた自信が、野中擁立のために橋本派分裂-新派閥結成さえいとわぬ、との言葉を吐かせた。

 鈴木が代表を務めた自民党支部や資金管理団体が1998-2000年の3年間、寄付金、陣中見舞いなどの名目で資金提供した国会議員、地方議員、首長は総勢 122人。額にして3億1400万円に上る。

 1998年には3000万円弱だったのが、99年には3.6倍に。2000年にはさらに8割近く増えた=グラフ参照=。

 2000年をみると資金提供を受けた衆院議員は51人もいた。道外選出だけでも42人と中堅派閥並み。鈴木から資金供与を受けた派閥横断の「ムネムネ会」のメンバーも含まれている。 提供額上位10人には、橋本派以外の議員が4人いた=表参照=。

鈴木議員からの提供額が多かった衆院議員上位10人
  選挙区 金額(万円) 派閥 当選回数
田中和徳 神奈川10区 1350 山崎
吉川貴盛 北海道2区 1200 橋本
大村秀章 愛知13区 1110 橋本
戸井田徹 兵庫11区=落選 1100 橋本
新藤義孝 埼玉2区 1050 橋本
西川公也 栃木2区 1050 江藤・亀井
木村隆秀 比例・東海 1000 橋本
松岡利勝 熊本3区 1000 江藤・亀井
河井克行 広島3区=落選 ・900 橋本
砂田圭佑 比例・近畿 ・810 高村

 もちろん、橋本派への貢献度も高かった。橋本が代表を務める「平成研究会」が2000年に開いたパーティー券を20万円以上購入した企業や個人、団体計53のうち26は、1995-2000年に鈴木に献金したことがある企業と個人。鈴木からの働きかけがあったとみる向きが強い。購入額も1754万円と、合計額3364万円の52%に達していた。

 道内の地方議員にも、まめにカネを配った。資金提供を受けた道議は1998年に8人だったが、統一地方選のあった99年には13人に増え、2000年も13人。1人当たりの提供額も1998年の50万円から99年は173万円に増えた。最多は鈴木の秘書だった道東の道議で市議時代を含めて総額2166万円を提供した。

 99年は選挙区の釧路管内阿寒、音別、浜中各町などの町議にも1人5万円または10万円の「陣中見舞い」を広く薄く配った。同年10月の釧路町議選では民主、共産、公明を除く保守系全候補12人に資金提供。「反鈴木」の町議も「金額がわずかだったので、ついつい受け取ってしまった」。

 2001年の自民党総裁選で、橋本は小泉純一郎に惨敗し、小泉政権が誕生した。その外相、田中真紀子との対立が、鈴木の命取りとなった。

 疑惑噴出で鈴木が自民党を離党した3月、「ムネムネ会」の若手をはじめ、鈴木から政治資金を受け取っていた道内選出の議員は、相次いで返金した。新派閥結成すら視野に入れていた同会は、あっけなく崩壊した。1


 鈴木宗男が1995-2000年の6年間で、資金管理団体と自ら支部長を務めた自民党支部を通じて集めた政治献金(パーティー券収入も含む)は、総額25億2870万円に上る。企業献金が63%、個人献金が18%で残りは政治団体から。献金企業は土木・建設業関連が圧倒的で、このほか、病院やホテル、食肉関連業者、保育園など多岐にわたる。

 献金の7割は道内から、3割は道外からだ=グラフ上=。5万円を超える献金をした企業、個人、政治団体を所在地別にみると、道外は39都府県。献金がなかったのは青森、福島、茨城、山口、島根、香川、佐賀の7県だけ。企業献金1件当たりの額も、延べ6960社の64%が12万円以下。月5000円、1万円といった小口献金の積み上げが集金力の源泉だ。

 道外からの献金を都府県別にみると、政治団体からの献金が多い東京都が1位で福井、富山、沖縄が続く=同下=。福井からは6年間で5353万円を集めた。人口83万人と全国で5番目に少ない県でなぜ、高い集金力を誇ったのか。

 福井では1970年代後半、地元選出の元建設相の死を受けて県経済界の若手が国政とのパイプを求め、元農水相の故中川一郎の後援会をつくった。鈴木は83年の中川の死後、地盤を引き継いだ。福井の支援者は「地元議員は面倒見の悪い人ばかり。鈴木さんは違った。いざというときほえてくれた」。

 同県内の零細土建業者は「献金額の伸びは沖縄開発庁長官を務めたことと関係がある」と打ち明ける。業者は鈴木が97年に同長官就任後、福井市内の大手土建会社から鈴木への献金を強制された。業者はこの大手の下請けだった。

 複数の地元業界関係者によると、この大手土建会社は沖縄に営業所を開いたが、公共工事への参入が難航。「下請けへの献金強制は、沖縄で仕事を獲得する狙いがあった」。98年の福井からの献金は前年の倍以上に膨らんだ。献金企業の4割近くはこの大手土建会社の下請けだった。

 道内では147市町村から6年間で18億円を集めた。献金額が1000万円以上の25市町のうち、伸びが最大だったのは苫小牧。95年は1社、12万円にすぎなかったが、2000年には27社・12人、963万円と80.3倍にもなった。地元選出の鳩山由紀夫・民主党代表への対抗心をむき出しに、地元土建業界に揺さぶりを掛けた結果だった。稚内(44.5倍)、恵庭(28.7倍)が続く。

 道開発庁長官時代の98年、後志管内からの献金が前年比で3.2倍、日高管内が2.6倍、胆振管内が2.0倍と増加した。全道の開発予算ににらみをきかせる長官の「威光」にひれ伏す形で、集金力は道央にまで拡大していく。



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 鈴木宗男への政治献金の額が、1995-2000年の6年間で実に2000万円近くも増えたマチがある。根室管内中標津町だ。95年は4社、2個人から計77万円だったのが、2000年は25社、29個人から計2064万円。増えた額は自治体別に見て、全国一だった=表=。

 小選挙区制の導入に伴い、鈴木が95年に十勝からくら替えした釧根からの献金も増えた。その中でも中標津が大きく増えた背景には、1つの大型公共工事が浮かび上がってくる。

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 献金額の伸び幅が大きい道内の市町村・・
(単位:円)
順位 市町村 1995年と2000年の献金額の差
根室管内中標津町 19,872,000・
苫小牧市 9,510,000
釧路市 9,090,754
根室管内別海町 7,990,000
根室市 6,348,000
稚内市 5,220,000
留萌市 4,738,635
釧路管内阿寒町 4,560,000
旭川市 4,150,000
10 伊達市 3,620,000
    ※いずれも1995-2000年に鈴木議員が支部長を務めた自民党支部と資金管理団体の政治資金収支報告書から集計
 釧根地域で初めての地域高規格道路「釧路中標津道路」。釧路市から根室管内標津町までの100キロのうち、同管内別海町の 「春別道路」(13キロ)部分の工事は97年度から始まった。

 道東の建設会社の社長は、工事開始前年の96年、土建業者を釧路市内のホテルに集めて、鈴木がこう言っ たと証言する。「釧根の公共工事 は、これ(釧路中標津道路)でこれから10年間は大丈夫ですから」

 同道路の完成までの総工費は約2000億円ともいわれる。1キロメートル当たり20億円。「他の議員が大風呂敷を広げても失笑を買うだけだが、鈴木さんの発言は必ず実がある。期待したよ」と社長は振り返った。

 期待とともに献金も膨らんでいく。97年の中標津町内からの献金は977万円で、前年の212万5000円の4.6倍。新たに献金を始めた企業39社の6割は土建業者とその関連業者だった。

 春別道路の着工から2000年度までの4年間で行われた工事の入札は26件。うち8件の工事を、同町内の4社が受注している(共同企業体での受注も含む)。4社から鈴木への献金は、役員らからの個人献金も含めて6年間で1124万円。同町内からの献金総額の21%を占める。

 隣の別海町でも同様の構図が見られる。別海をはじめ道東3町にまたがる陸上自衛隊矢臼別演習場では97年、米海兵隊の実弾射撃訓練が沖縄から移転した。地元の強い反対を押し切って、移転実現へ動いたのが鈴木だった。

 移転に伴い、防衛施設庁は同演習場の整備に着手。97-2000年度の4年間で計33件の工事の入札を行った。うち9件を別海町の6社が受注した。6社から鈴木への献金は役員からの個人献金も含めて1383万円に上り、同町からの献金総額の54%を占める。

 6社のうち5社が鈴木への献金を始めたのは、事業が始まった97年からだ。土建業者が渇望する大型の公共工事を「てこ」に、脈々とカネを吸い上げる構図が鮮明となる。


 公共工事の受注業者が地元選出の国会議員に献金するのは、鈴木宗男に限ったことではない。2001年度に釧路、帯広、網走開建から工事を受注した建設業者の60.1%がその前年の2000年、鈴木ら道東を地盤とする自民党の4衆院議員に政治献金している。

 鈴木と中川昭一(道11区)、武部勤(道12区)、北村直人(道13区)の政治資金管理団体と、それぞれが支部長を務めた自民党支部に2000年に献金した企業と、3開建が2001年度に発注した工事の落札業者を照合してみた。
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 ※いずれも敬称略
 ※受注は2001年度、献金は2000年の1年間  その結果、3開建から工事を受注した587社のうち、353社が4議員のいずれかに献金しており、献金総額は約2億800万円に上った。額は鈴木が最も多く、3開建の受注企業の3割に当たる175社から約9400万円を受けた。次いで武部、中川、北村の順=グラフ上=。

 選挙区内の開建の受注企業からの献金がひときわ目立つ。網走管内を選挙区とする武部には、網走開建の受注業者250社のうち41.6%に当たる104社が献金。十勝管内を選挙区とする中川にも帯広開建の受注業者の30.2%が献金し、釧路、根室両管内の北村にも釧路開建の受注業者の26.2%が献金していた=同下=。

 一方、2000年の総選挙で、比例代表道ブロックで当選した鈴木は、釧路開建の受注業者の37.2%から献金を受けたほか、帯広、網走両開建の受注業者の約3割からも献金を受けており、影響力は道東全域に及んでいた。

 北村、中川、武部に献金する傍ら、鈴木に献金する業者もおり、釧路開建では受注業者の9.3%、十勝開建では8.7%、網走開建では12.4%が「二また献金」していた。

 鈴木を除く3人にコメントを求めた。北村本人と武部、中川両事務所は、いずれも献金企業から依頼を受けて各開建に「口利き」したことはないと回答。受注企業からの献金については「何らかの規制はやむを得ない」(北村)「将来は個人献金だけにするのが好ましい」(武部事務所)「個人献金のみという方向も含めて検討すべきだ」


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