2009年7月25日土曜日

【西松事件】 天の声(顛末予想)

「無条件降伏」公判でも認定されなかった「天の声」
検察は検察審査会の民意を本当に反映させたのか
郷原 信郎

7月17日、東京地裁で、西松建設の国沢幹雄元社長の政治資金規正法違反などの事件に対する判決が言い渡された。

 この事件では、西松建設側が検察側の主張立証を全面的に受け入れる「無条件降伏」状態であったことに乗じて冒頭陳述で、「天の声」などの言葉を多用して小沢前代表秘書の有罪と行為の悪質性を世の中に印象づけようとする検察の「欠席裁判」的なやり方が問題になった(「天の声」とは、いったい何を意味するのか)

 もう一つの問題は、検察審査会での議決と公判審理との関係だった。検察は、「他の事件で起訴済みで求刑にも量刑にも影響しない」との理由で一旦は起訴猶予にしていた二階俊博経済産業大臣の派閥の政治資金パーティー券の購入の余罪を、検察審査会の「起訴相当」の議決を受けて論告求刑後に起訴した。判決期日が取り消されて弁論が再開され、追起訴に伴って求刑が変更されるかが注目されたが、検察は、求刑を従前どおりに維持し、立証も最小限のものにとどめた。検察審査会の議決を受けて追起訴を行っても、追起訴事実についての公判での立証が十分に行われなければ、民意が実質的に反映されたとは言えない。

判決は政治献金の談合受注との対価性を否定

 今回の判決は、政治団体名義での寄附を西松建設による「第三者名義の寄附」と認め、政治資金規正法違反が成立するとしたが、寄附の動機については、「公共工事の受注業者の決定に強い影響力を持っていた岩手県選出の衆議院議員の秘書らと良好な関係を築こうとして平成9年ころから行ってきた寄附の一環であり」と認定するにとどめた。

 また、検察が受注工事一覧表まで示して寄附が公共工事の談合受注の対価であったことを主張したにもかかわらず、判決は、量刑面で被告人に有利な事情として、寄附は「特定の公共工事を受注できたことの見返りとして行われたものではない」と認定し、検察の主張を正面から否定した。判決の認定の前提は、検察側の冒頭陳述より、むしろ、筆者が前記拙稿で述べたゼネコン談合の実態に近いと思われる。

 検察側は、寄附が談合受注の対価であることを具体的に認める西松建設などゼネコン関係者の供述調書などを証拠請求したものと思われるが、裁判所は、「工事の受注を得たいという積極的な動機より受注活動を妨害しないでほしいという消極的な理由」を指摘する西松建設の内部調査報告書の方が実態に近いと判断したのであろう。

 「無条件降伏」状態での西松建設側の公判ですら、このような状況なのであるから、被告・弁護側との全面対決となる小沢氏秘書公判での審理において、検察側の主張立証が一層困難になるのは必至だ。

宙に浮いた検察側冒頭陳述

 今回の西松側公判では、検察側が冒頭陳述で9ページにもわたって詳述した小沢氏側への寄附の背景については判断を示さず、冒頭陳述は宙に浮いた形になってしまった。それは、検察側が行った詳細な主張立証が、国沢被告人に対する起訴事実の立証に必要な範囲を大幅に逸脱していることが根本的な原因と見るべきであろう。検察側は、本件の小沢氏秘書に対する捜査で重大な政治的影響を生じさせ説明責任を問われたことを意識し、その「説明」の意味も含めて詳細な主張立証を行ったものと思われるが、それは起訴事実の範囲とは余りにバランスを失している。

 このことは、今後開始される小沢氏秘書の大久保隆規被告人に対する公判にも共通する問題である。そこでの審理の対象になるのは、大久保秘書個人の犯罪事実と情状に関する事実であるが、同秘書に対する起訴事実は、2003年以降の寄附に関する収支報告書の虚偽記入の事実で、しかも、同秘書が政治資金の寄附の受け入れにかかわるようになったのは、検察側冒頭陳述によれば2000年ころからである。検察側の冒頭陳述のうちの寄附の経緯や背景、そして公共工事をめぐる談合と小沢事務所との関係に関するかなりの部分は、仮にそれが事実だとしても、大久保秘書の前任の秘書に関するものであり、大久保秘書個人の刑事責任とは直接関係ない。

大久保秘書の公判で、検察側が今回の公判と同様に詳細な冒頭陳述を行ったとしても、それを裏付ける供述調書などの証拠請求に対しては弁護側が不同意とするであろうし、検察側が調書の内容を証人尋問で立証しようとしても、大久保秘書個人の起訴事実と関連性が希薄な事実について裁判所が証人尋問を採用する可能性は低いであろう。結局、検察が、詳細な主張立証を行おうとしても、公判審理の対象にすらならず、今回と同様に冒頭陳述が浮いた形になるものと考えられる。

 刑事事件の公判は、あくまで当該被告人の刑事責任の有無と量刑を決する場であって、検察の捜査・起訴の社会的、政治的影響についての説明責任を果たすことを目的とするものではない。検察は、公判での立証は、刑事事件の立証として許される範囲内にとどめるべきであり、それで不十分であれば、公判への影響に配慮しつつ、別の場で説明責任を果たすべきであろう。

 要するにいくら検察が重大性・悪質性を強調しようとしても、今回の事件で、検察が実際に起訴した事実は、政治資金規正法としては極めて小規模で軽微なものであり、その起訴事実と情状に関する立証の範囲を超えて過大な主張立証を行うことは、本来、刑事裁判として許容されないものだ。

 今回の判決では、刑事事件の公判を、マスコミを通じて世の中に事件を過大に評価させようとするパフォーマンスの場にしようとする検察と、刑事事件の公判として必要な範囲で事実認定を行おうとする裁判所との立場の違いが極端な形で表れたものと言うべきであろう。

判決についての報道は正しく行われたか

 このような判決の内容は、正しく報道され論評されたのであろうか。

 第1回公判の段階では、「欠席裁判」のような検察の主張立証が不当であることを指摘する論調はまったくなく、多くの新聞、テレビが、小沢事務所の意向が公共工事の談合受注での「天の声」になっていたとの検察の冒頭陳述での主張を、あたかも確定的な事実のように報道した。

 そのような報道が行われた背景には、西松建設側が全面的に事実を認め「無条件降伏」している裁判だから、判決でも、「天の声」などの検察の主張がそのまま全面的に認定されるだろうとの予想があったのかもしれない。いずれにしても、小沢事務所の「天の声」を大々的に報道したマスコミにとって、裁判所が工事受注と政治献金との対価関係を明確に否定し「天の声」に関する検察の冒頭陳述が完全に宙に浮いてしまったことは予想外だったはずだ。

 しかし、この判決についてのマスコミの報道には、小沢事務所側の「天の声」を強調する検察の冒頭陳述での一方的な主張を、確定的な事実のように報じたことに対する反省は感じられない。

 新聞の社説の中には、「有罪とされた事実の一部は、分離公判となった小沢氏の公設第1秘書の起訴事実と重なっている。今回の判決で、間接的に認められたという見方もできる」などと、国沢被告人に対する判決で政治資金規正法違反の事実が認められたことをもって、違反を全面的に争っている小沢氏の秘書についても違反事実が認定されたかのように述べているものがある(7月19日読売新聞社説)。

 被告・弁護人が公判で公訴事実を全面的に認めていても、裁判所の独自の判断で無罪判決を出すというのは、理論上はあり得ないことではない。しかし、検察官が公訴権を独占し、訴追裁量権を持っている現行法制の下では、検察の起訴は「有罪の確信」に基づいて行われることが事実上前提となっている。被告人が事実関係を全面的に認め、まったく争っていない事件で裁判所が独自の判断で無罪判決を出すことは、起訴を行った検察の判断そのものを正面から否定することになるのであり、実際にはほとんど考えられない。被告・弁護人側が全面的に事実を認めている場合には、有罪判決を出すのは当然のことであり、事実を争っている公判で、「弁護人の主張」に対する判断を示して有罪判決を出すのとはまったく意味が異なる。

また、判決が、小沢氏秘書の談合受注への影響力について言及していることに関して、「小沢氏は判決をどう受け止めるのか。これまでの説明は根拠を失った」などと述べている社説もある(同日付産経新聞「主張」)。しかし、判決は、西松建設側の寄附の動機という同社側の認識について前記のように判示しただけで、寄附受領者側の行為は一切認定していない。それどころか、寄附と公共工事の談合受注の対価関係について明確に否定している。これで「小沢氏側の説明」が根拠を失った、と述べているのは、判決の趣旨を正しく理解しているとは言い難い。

 裁判員制度の下では、共犯者間で、捜査段階で自白していて公判でも事実を認める予定の被告人と、事実を否認していて公判でも争う予定の被告人とがいる場合、自白している被告人の公判の経過や結果が報道されることが、否認公判における裁判員の心証に不当な与えることのないよう、十分な配慮が必要となる。

 刑事事件の報道においてそのような配慮を行うに当たっては、まず、裁判における当事者の主張立証のルールと、一部共犯者の判決の事実認定が他の共犯者の公判にどういう意味を持つのかについて十分な理解が必要であろう。今回の西松建設側の公判の報道を見る限り、その点についての基本的理解が欠けているのではないかと疑問に思われるものが少なくない。

 裁判員制度施行後の刑事公判の立証の在り方の問題も含めて、十分な検討が必要であろう。

検察審査会の「起訴相当」の議決を受けて行われた追起訴

 この判決に至るまでの経過には、もう一つ大きな問題があった。

 国沢元社長の当初の起訴は、3月24日に、小沢氏の大久保秘書の起訴と同時に行われた小沢氏側への資金提供500万円についての「第三者名義の寄附」の事実と、7000万円の現金の海外からの無届持ち込みの外国為替貿易法違反だけであった。

 しかし、その後、同一の政治団体名義で行われた、二階俊博経済産業大臣の派閥の政治団体「新しい波」の政治資金パーティー券340万円分の第三者名義での購入という同種の犯罪事実について、大阪市の市民団体によって告発が行われた。検察は、「起訴しても、求刑上も、量刑上も変わらない」という理由で不起訴(起訴猶予)にしていたが、6月19日の第1回公判の直前の6月16日、東京第3検察審査会が、この不起訴処分について「起訴相当」の議決を行った。

 今年5月に施行された検察審査会法の改正によって、「起訴相当」の議決が2回行われると起訴が強制され、しかも、起訴の手続きや公判立会は裁判所が指定する弁護士が行うことになる。検察審査会の「起訴相当」の議決は重要な意味を持つものになっていた。6月19日の第1回公判の時点では、この検察審査会の「起訴相当」の議決が行われており、検察は、この事件について、不起訴処分を維持するのか、それを覆して起訴するのかの判断を迫られていた。

 第1回公判が、当初の起訴事実の審理だけで結審し、次回の第2回公判で判決予定とされたのは、この時点では、検察としては追起訴を予定しておらず、検察審査会での「起訴相当」の議決が出された二階派の政治資金パーティー券購入の事実についても、不起訴処分を覆して起訴を行うことは予定されていなかったからであろう。

 ところが、それから1週間後の6月26日、検察は、この政治資金パーティー券の購入の事実について不起訴処分を覆し、国沢元社長を追起訴した。これによって、7月14日の判決期日は取り消され、この日にこの追起訴事実についての審理が行われることになった。

2回目の「起訴相当」の議決が行われて、裁判所の指定する弁護士が起訴手続きや公判立会を行うことになれば、その指定弁護士に事件に関する資料をすべて提供しなければならなくなる。提供する資料に情状立証に関連する資料も含むということになると、西松関連団体から二階氏側への起訴されていない資金提供に関する事実も提供せざるを得なくなることも考えられるが、その結果、検察のそれまでの捜査・処分の妥当性が問われることになりかねない。検察は、そのような事態になることのないように、1回目の「起訴相当」の議決にしたがって追起訴を行ったのであろう。

注目された追起訴分についての求刑

 検察が検察審査会の「起訴相当」の議決を受けて追起訴したことで、当初1年6月の禁錮としていた求刑をどうするのか、追起訴後も求刑を維持するのか引き上げるのかが注目された。求刑を引き上げると、検察が当初の不起訴処分の理由としていた「追起訴しても求刑も量刑も変わらない」という考え方が誤っていたことを認めることになる。

 しかし、同種の340万円の違反が加わっても求刑が変わらないということになると、500万円の「第三者名義での寄附」の事実と外国為替貿易法違反についての禁錮1年6月の求刑との(外国為替貿易法違反は懲役6月以下なので政治資金規正法違反を少なくとも禁錮1年相当としたことになる)バランスがとれないことになり、当初の本起訴分で禁錮1年6月という求刑が不当だったことになる。

 7月14日の第2回公判で、検察は、追起訴分についての立証を行った後に行った論告求刑で、「政治家側との癒着の実態や献金規模等から見て今回追起訴分よりはるかに悪質な政治資金規正法違反の事実につき・・・相当と考える求刑を行っており、今回追起訴分に対する刑事責任もその中で十分に評価し得る」として、求刑を従前どおり「禁錮1年6月」のまま維持した。

 しかし、求刑を維持した理由として検察が示した、本起訴分の「第三者名義による寄附」の事実が、追起訴分の同種の「第三者名義によるパーティー券購入」の事実より「はるかに悪質」という見方には重大な疑問がある。

 「献金規模」という面では、本起訴事実が合計500万円の第三者名義による寄附であるのに対して、追起訴事実は第三者名義での政治資金パーティー券340万円の購入であり、起訴にかかる金額は遜色のないものだ。時効完成済みのものなど起訴されていない事実も含めて「献金規模」を比較するのであれば、西松建設関連団体が平成7年に設立されて以降、その名義で行われた政治資金の提供の総額を比較しなければならないはずであるが、総額が概ね示されているのは小沢氏側への資金提供だけで、二階氏側については起訴された事実以外はまったく明らかにされていない。

 また、「癒着の実態」についての指摘は、政治資金規正法の趣旨を取り違えているように思われる。政治資金規正法は、収支報告書の記載の真実性について基本的には会計責任者に義務と責任を集中させ、一方で、寄附者側にも「本人以外名義の寄附」を禁止し、(会計責任者より軽い法定刑で)処罰の対象としている。それは、本人以外の名義で寄附が行われた場合、会計責任者がその事情を知らない場合には、収支報告書に寄附者を誤って記載する恐れがあり、それが、政治資金の収支にかかる真実を公開するという政治資金規正法の趣旨に反するという理由によると考えられる。このような「第三者名義の寄附」の処罰の趣旨は、贈賄者と収賄者の結託を本質とする贈収賄とは決定的に異なる。

つまり、「政治家側との癒着の実態」があったからと言って、「第三者名義の寄附」という政治資金規正法違反の悪質性が高まるわけではないし、逆に、「癒着の実態」があって、寄附を受領した会計責任者側が、「本人以外の名義の寄附」であることを認識した上で、敢えて寄附者として収支報告書に記載したのであれば、会計責任者側が収支報告書の虚偽記入の責任を厳しく問われることはあっても、寄附者側の「第三者名義の寄附」についての責任が重くなるわけではない。

 本起訴分の政治資金規正法違反が追起訴分より「はるかに悪質」だという検察の主張の妥当性には問題があり、追起訴分も含めて「禁錮1年6月」の求刑を維持したことが妥当だとは思われない。

二階氏側への資金提供についての検察立証は不十分

 今回の判決は、国沢被告人に対して禁錮1年4月執行猶予付の量刑を行った。そして、判決理由の中で、同追起訴事実については「証拠から西松建設からの支払であることを公表されないようにする以上の背景をうかがうことはできず。(本起訴分)とともに処罰するのであれば、これを量刑上有意に評価することはできない」と判示した。この指摘は、検察側が「起訴しても、求刑上も、量刑上も変わらない」との理由で起訴猶予にし、追起訴分が加わっても禁錮1年6月の求刑を維持したことを正当と認めたようにも思える。

 しかし、重要なのは、この判示の「証拠から」という文言である。要するに、検察が、二階派のパーティー券購入については、「西松建設からの支払であることを公表されないようにする」という目的しか追加冒頭陳述でも述べていないし、証拠も提出していないので、その程度の犯行動機しか認定しようがない、だから、悪質性を認めることができないという趣旨と理解すべきであろう。

 西松建設の関連団体名義の二階派の政治資金パーティー券購入の購入額は、平成16年以降、総額で844万円に上るのであり、常識的に考えれば、それが公共工事の受注と無関係だとは思えない。二階派への資金提供の悪質性については、小沢氏側への資金提供と同様に捜査をしなければ明らかにできないはずだ。検察が一度起訴猶予にしているこの事件については、その点についての捜査は尽くされていない。

 追起訴分の事実に関しては、判決が指摘している「寄附の背景」以外にも、過去からの二階氏側への寄附の総額など、小沢氏側への資金提供の事実と比較して立証が不十分な点が多々ある。本件のように、検察が起訴猶予処分にした事案について検察審査会が「起訴相当」の議決を行った場合、議決で示された「民意」を尊重するというのであれば、議決にしたがって起訴をするだけでは足りない。

 起訴した事実について公判で十分な立証を行うことで初めて議決で示された「民意」を尊重したことになるのである。今回の件での検察の姿勢は、形式的には検察審査会の議決にしたがったものの、公判で十分な立証を行わないことで、実質的には議決に示された民意を軽視したものと言わざるを得ないであろう。

「天の声」とは、いったい何を意味するのか
西松建設「無条件降伏」公判での検察側「立証」への疑問
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090623/198246/

6月19日に東京地裁で行われた、西松建設前社長らに対する外国為替及び外国貿易法違反及び政治資金規正法違反の事件の第1回公判で、検察側は、西松建設が、社員らを会員にして作っていた政治団体の名義で小沢一郎前民主党代表の資金管理団体「陸山会」への寄附が行われた背景などに関して、詳細な冒頭陳述を行った。

「欠席裁判」に近い西松建設公判での検察側冒頭陳述

 この事件では、小沢氏の公設秘書で「陸山会」の会計責任者の大久保隆規氏も逮捕・起訴され、弁護人のコメントなどによれば、政治資金規正法違反の事実を全面的に争う方針とされているが、西松建設側は、株主総会までに事件を早期に収束させて企業として受けるダメージを最小限に抑えたいとの方針から、第1回公判で事実を全面的に認め、即日結審するというスピード審理となった。

 いわば「無条件降伏」の状態にあり、検察側の主張について争う意思が全くない西松建設側の公判での検察の主張は、相手方当事者の反論、反対尋問を全く受けない一方的なもので「立証」などと言えるレベルではない。事実を全面的に争う姿勢の大久保氏側、そして当該資金管理団体の代表で当事者的立場にある小沢氏にとって、この公判で検察側が主張したことがそのまま報道され世の中にすべて真実のように受け取られるとすれば「欠席裁判」そのものだ。

 裁判員制度が開始されようとしている状況において、同一事件または関連事件について、共犯者の一部が自白し、一部が否認している場合に、このような一方的な欠席裁判のような公判立証を行い、それをマスコミに報道させることは、一般市民の裁判員に不当な予断を与えるもので絶対に許されないはずだ。

 しかも、冒頭陳述などによる検察側の主張の内容は、私が、かねて本コラム(「小沢代表秘書刑事処分、注目すべき検察の説明」など)で指摘し、政治資金問題第三者委員会報告書でも指摘した、検察の捜査・起訴に対する疑問に答えるものにはなっていない。

 それどころか、検察が、この事件の事実関係を歪曲し、それをそのまま報道させることで世論を誘導しようとする意図が窺われる。それが端的に表れているのが「天の声」という言葉の使い方だ。

「天の声」が冒頭陳述で多用された意味

 このような西松建設の公判での主張の中で、検察側が冒頭陳述などで繰り返し用いたのが、「天の声」という言葉である。

 以下は、関連する冒頭陳述の一節である。

 東北地方では、昭和50年代初め、E社が中心となって、東北建設業協会連合会と称するゼネコン各社による談合組織を立ち上げ、以後、E社社員を仕切り役として、談合によって公共工事の受注業者を決めていた。東北建設業協会は平成3年頃表向き解散したが、その後もE社を中心とする談合組織・体制は存続し、談合が続けられた。

 そのような中、岩手県下の公共工事については、遅くとも昭和50年代終わり頃から、小沢議員の事務所(以下「小沢事務所」という)が影響力を強め、前記談合において、小沢事務所の意向がいわゆる「天の声」とされ、本命業者の選定に決定的な影響を及ぼすようになった。また、平成9年頃から、小沢事務所は、秋田県下の公共工事に対する影響力も強め、以後、一部同県下の公共工事に係る談合においても、小沢事務所の意向が「天の声」となった。

 すなわち、岩手県下または一部秋田県下の公共工事の受注を希望するゼネコンは、小沢事務所に対し、自社を談合の本命業者とする「天の声」を出してほしい旨陳情し、同事務所からその了承が得られた場合には、その旨を談合の仕切り役に連絡し、仕切り役において、当該ゼネコンが真実「天の声」を得ていることを直接同事務所に確認のうえ、当該ゼネコンを当該工事の本命業者とする旨の談合が取りまとめられていた。

この「天の声」という言葉が、新聞、テレビなどでそのまま報じられ、小沢氏側が西松建設関連の政治団体から受け取っていた政治献金は、小沢事務所側が「天の声」を出して西松建設に工事を談合で受注させた見返りであったことが、あたかも確定的な事実であるかのように扱われている。しかし、ここでの「天の声」という言葉の使い方自体が、従来の業界内での用語とは異なるだけでなく、冒頭陳述の内容にも重大な疑問がある。

 かつてのゼネコン業界の談合の世界における「天の声」というのは、一般的には「発注者側のトップつまり、知事、市町村長など地方自治体の首長の意向」を示すものであり、その意向に従って受注予定者が決まるという談合ルールを「天の声」談合と呼ぶことがあった。

「天の声」談合の由来

 「天の声」という言葉が公共工事を巡る談合に関して初めて具体的に使われるようになったのは、ゼネコン汚職事件の皮切りとなった1993年6月末から7月にかけてのゼネコン汚職事件仙台市長ルートの捜査の頃であった。ゼネコン4社から2500万円ずつ合計1億円が石井仙台市長側に提供されたという贈収賄事件であったが、この事件で、仙台市発注の公共工事は、すべて発注者側の意向に従って受注予定者を決めるルールで談合が行われ、大規模工事については市長自身の意向で受注者を決定している談合の実態が明らかになった。

 それが、「『天の声』談合」という言葉を世の中に知らしめることになった。そして、その後、宮城県知事や茨城県知事などが収賄罪で摘発されたが、これらの事件の背景にも、このような「天の声」談合の存在があると報じられた。

 このようにして、発注者側のトップの意向に従って談合による公共工事の受注予定者が決定される「天の声」型談合の構図が出来上がった背景には、次のような背景があった。

 日本の公共工事を巡る談合は、昭和30年代頃からは、非公式のシステムとして建設業界で定着していたが、かつては、入札の前に受注者を話し合いで決めること自体は、形式上は違法な行為であっても社会的には悪ではないと思われてきた。受注調整は、工事現場の所在地、周辺での受注実績や過去の同種工事の受注実績、特殊技術に関する技術力を考慮することで、その工事を受注するのに最も相応しい業者を話し合いで決めるものだったが、その決定に当たっては、発注者側や政治家などの有力者の意向が考慮されることもあった。このような調整は、業界団体や業界の親睦団体の会合の場で「民主的」に「半ば公然」と行われていた。

 その状況を大きく変えたのが、1990年頃からの日米構造協議における米国からの独禁法の運用強化の圧力だった。刑事告発の動きが現実化した埼玉土曜会事件を機に、大手ゼネコンは、表面上は談合排除を宣言し、受注調整のための親睦団体は次々と解散した。しかし、業界調整という非公式のシステムの中で話し合いによって受注者が決定されていた実態には基本的に変わらなかった。

談合システムは非公然化し、社内でもごくわずかな特定の者にしか調整の実態は知らされず、業者間の会合に一堂に会して決定する方式ではなく、受注を希望する業者同士の個別の話し合いや情報交換によって受注希望を調整して、受注予定者を1社に絞り込むという形態に変化していった。

 しかし、会合による「民主的」な受注者の決定と異なり、個別の話し合いで受注希望を調整することは容易ではなかった。多数の業者が受注を希望する工事については、個別に話し合っているだけではなかなか、受注希望を調整して1社に絞り込むことができない。それが、業界内の受注調整において、それまで以上に自治体の首長などの意向が尊重されることにつながった。それが、多くの地方自治体発注の工事について、首長など発注者側の意向によって受注者が決定される「天の声」型談合が定着することにつながった。

談合構造の「進化」

 ゼネコン汚職事件で複数の首長が逮捕され、「天の声」型談合の実態が明らかになったのを機に、談合の構造は再び変化することになった。発注者側の意向は、談合による受注者決定において「客先意向」として尊重されることに変わりはなかったが、そのような意向がストレートに受注業界側に出されることは少なくなった。刑事事件で摘発されることを恐れ、首長自身は受注業者側と接触しなくなり、首長と何らかの形で意思疎通ができる人物に、その自治体の発注工事に関する「首長の意向」が間接的に伝えられるという形態に「進化」した。

 その工事を受注するのに最も相応しい業者を選定するという業界内の受注調整の構図は基本的に変わらなかったが、そこに、間接的に伝えられる首長の意向や、発注自治体に予算や補助金の配分などで影響を与え得る立場の政治家や、地域の有力者の意向なども、受注者の決定に強い影響力を持った。これらの要因が複雑に交錯して、業界内での情報交換や話し合いを通じて受注予定者が絞り込まれていくという構図が出来上がっていった。

 このような談合構造の下での受注予定者となるために重要だったのは、その工事を受注することについての地域内での有力者のコンセンサスを得ることであった。それは、受注した場合の工事施工を円滑に行うための条件であり、逆にその条件を満たしていないと、受注予定者になる資格がないと見なされる恐れがあった。

 そのような構造の下で、発注自治体の首長の側や発注者に影響力がある政治家などに対して金銭の提供が行われることもあった。「意向」を出してもらって受注したことの対価そのものである首長側への金銭等の提供は、通常、「意向の伝達役」に対して行われ、首長自身には刑事事件の捜査などが波及しないようにするという方法がとられた。

 公共工事受注業者から政治家に対して行われる政治献金には、2通りあった。1つは、発注者側の意向、つまり「客先意向」に強い影響力を与える立場の政治家に対するもの、例えば、当該工事の事業に関して補助金を交付する官庁に関係している政治家や、その官庁から予算の割り当てなど、工事の発注予定に関する情報を提供してくれる族議員に対する政治献金だ。これらは、その献金の事実が明らかになると、その政治家に対する社会的非難や、あっせん利得罪、収賄罪での摘発につながりかねない性格の政治献金であり、裏金による献金か、下請会社名義などで、絶対に他者には分からないような形態で行われた。

もう1つは、地域において強い影響力を及ぼす有力な政治家や政党に対する献金である。例えば、その自治体の議会の与党の幹部などに対して行われる政治献金は、工事受注との直接的な対価関係を持つものではない。業界内の談合で受注予定者となることを希望している業者にとっては、工事を円滑に受注し施工するために地域の有力者の間で受注予定者になるためのコンセンサスを得ておくことが重要であり、有力者からの横やりで、そのコンセンサスが破られることを強く警戒する。そこで、地域における有力な政治家や政党に対しては、特定の工事の受注とは関係なく、恒常的に相当な金額の政治献金が行われることになる。この場合の政治献金は、受注を妨害されないための保険料的な性格が強かった。

 県発注工事について、県議会で圧倒的な多数を有する与党の地方組織に対してこのような趣旨の政治献金が行われていた実態を明らかにしたのが、自民党長崎県連違法献金事件であった。

 筆者は、日米構造協議における米国側からの圧力で談合など独禁法違反に対する制裁強化が図られていた90年から93年にかけて公正取引委員会に出向し、埼玉土曜会談合事件の摘発に関わったほか、ゼネコン汚職事件でも、上記の仙台市長ルートの仙台現地捜査班に加わって「天の声」談合の構造を解明し、長崎地検次席検事時代には、上記の自民党長崎県連事件の捜査を指揮、多くの談合事件や贈収賄、違法献金事件の摘発に関わった。そして、これらの経験に基づき、この分野に関する唯一の捜査実務書(『入札関連犯罪の理論と実務』)を著している。

 上記のようなゼネコン談合と「天の声」、政治資金に関する実態は、筆者が、この問題に関する一般的な認識として、著書などでも述べているところだ。

小沢氏への政治献金と公共工事との関係

 小沢氏がゼネコンから長年にわたって政治献金を受けていた背景に何があったのか、筆者は直接知り得る立場ではない。しかし、上記のようなゼネコン談合と政治献金の関係に関する私の一般的な認識からすると、業界用語として「発注者のトップの意向」を意味する「天の声」という言葉が、検察の冒頭陳述において、何の理由も示されず「国政レベルの政治家側の意向」として使われていることには大きな違和感がある。

 しかも、冒頭陳述の中で、ゼネコン側が「自社を談合の本命業者とする『天の声』を出してほしい旨陳情し、事務所からその了承が得られた場合には、その旨を談合の仕切り役に連絡し」と書かれている部分は、業界調整の常識からは考えられない。

 政治家の意向が「天の声」に影響を及ぼすとしても、それは、発注者側に対して影響力を行使し、その意向が発注者側から業界側に伝わるということであって、政治家側から業界側に直接伝わることは、通常は考えられない。

 小沢氏が自民党幹事長として、与党内で絶対的な権力を握っていた時代においては、岩手県など東北地方の一部において、公共工事の発注自体に大きな影響力を有していたと考えられるので、小沢事務所の意向が、発注者の地方自治体首長の「天の声」をしのぐ絶対的な力があった、ということも十分に考えられる。しかし、小沢氏の国会議員としての立場は、その後、細川政権側の有力政治家という政権与党側の立場から、新進党、自由党などの野党の立場に大きく変わっている。そのような政治的立場の変化によって、小沢事務所の公共工事の発注に対する影響力は異なったものになったと考えられる。

今回の西松建設関連の政治団体の名義での政治献金が行われた時期のほとんどは、小沢氏が野党の国会議員の立場にあった時期だ。その時期に、小沢氏の側に、公共工事に関連してゼネコンから多額の政治献金を受ける理由があるとすれば、発注自治体への影響力というより、地元の政治家としての、地元の公共工事関連業者や、公共工事と利害関係を持つ有力者などに対する影響力が背景になっていたと考えるのが合理的であろう。

 ゼネコン側にとって、小沢氏側に恒常的に多額の政治献金をする理由として考えられるのは、地域の住民や有力者、業者などと密接な関係があり、地元建設業者や建設資材供給業者などとも関係が深い小沢事務所や秘書と良好な関係を維持することが、ゼネコンがその地域で工事を受注して円滑に施工するために重要と考えられていたことによるものであろう。小沢事務所との良好な関係を維持することは、その地域の有力者のコンセンサスを得て、業界内の談合で受注予定者になることについての保険料的な性格が強かったものと思われる(今年の5月16日に公表された西松建設の内部調査報告書では、「献金を行う趣旨に関しては、工事の発注を得たいという積極的な動機よりも、受注活動を妨害しないでほしいという消極的な理由もあったと供述する者もいた」とだけ述べられている)。

検察冒頭陳述を裏づける供述の「質」

 「天の声」に関する検察の冒頭陳述の内容は、談合構造の歴史的経過から考えると、極めて不自然であり、西松建設の関連団体から小沢氏側への政治献金の原因・動機に関して真実を述べているとは到底思えない。

 西松建設側にとっては、政治献金の事実を積極的に隠したいと考えたのは、むしろ、その献金の事実が明らかになると、その政治家に対する社会的非難や刑事事件での摘発につながりかねない与党議員側への献金の方だと考えるのが合理的であろう。「新政治問題研究会」という西松関連団体と同一名称の故橋本龍太郎氏の政治団体が同じ千代田区に存在していることで、自民党議員に対する献金が特定できないようにすることが、政治団体設立の主たる目的ではないかとの政治資金問題第三者委員会報告書(10頁)の指摘を、改めて注目すべきであろう。

 このような検察の冒頭陳述の内容を裏づけるゼネコン関係者の供述調書が存在していて、ゼネコン関係者が署名しているとしても、それを額面通り受け取ることはできない。既にゼネコン間の談合構造が3年以上も前に崩壊し、談合が過去のものとなってしまった現在、過去の談合の事実に関してどのような供述を行おうと処罰や処分を受けることはないのであるから、ゼネコンの談合担当者にとっては「どうでも良い話」である。検察側の誘導によって、そのような内容の調書に署名している可能性が高い。

 重要なことは、これらの点は、事実を争っている大久保被告人の公判において、反論・反対尋問に耐え得る立証によって明らかにされるべきだということだ。

「法務大臣の指揮権」を巡る思考停止からの脱却を
造船疑獄指揮権発動は「検察の威信」を守るための策略だった
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090616/197741/

日本は、いつから、法律に明記されている行政庁の権限について議論することすらタブー視する国になってしまったのだろうか。

 6月10日に公表された「政治資金問題を巡る政治・検察・報道のあり方に関する第三者委員会」(政治資金問題第三者委員会)の報告書に対して、新聞、テレビの多くは、検察当局や報道機関の批判に重点を置き、小沢一郎氏の説明不足を追及していないなどと批判している。とりわけ、報告書中で、法務大臣の検事総長に対する指揮権発動に関して言及したことに対しては、朝日新聞以外の各紙の批判は「非難」のレベルにまで達している。

報告書での「指揮権発動」言及に対するマスコミの「非難」

 例えば、読売新聞は、「検察・報道批判は的外れだ」と題する6月11日の社説で、報告書の「法相の捜査中止の指揮権発動を求めるかのような表現」を厳しく批判した後、同日夕刊の「よみうり寸評」でも、戦後ただ一度の指揮権発動で涙を浮かべる検事正や無念の思いに暮れる検事たちの情景を描いた後、「犬養健法相が造船疑獄の捜査に関し、検事総長に対し指揮権を発動した。これで佐藤栄作自由党幹事長への捜査はストップ。法相は辞任した。以来、発動はない。ずっと抑制の姿勢が貫かれてきた。半世紀以上も前の古い話を民主党の第三者委員会の報告で思い出した。『西松事件』について何と『法相が政治的配慮から指揮権を発動する選択肢もあり得た』とある。検察・報道批判の色が濃く、『第三者』の報告というよりは鳩山、小沢両氏の代弁のようだ」などと重ねて詳細に批判する、という念の入りようだ。

 しかし、このような批判は、報告書が言うところの「政治的配慮」の趣旨を読み違えているだけでなく、検察庁法が「法務大臣の指揮権」を規定していることの意義、検察の権限行使に対する民主的コントロールの手段としての位置づけを正しく理解していない。

 第三者委員会のメンバーであった者の1人として、このようなマスコミからの「非難」に対して個人的立場から反論を行うこととしたい。

渡邉文幸著『指揮権発動』が解き明かした戦後検察史の核心

 「法務大臣の指揮権」をタブー視する考え方は、造船疑獄事件での犬養法務大臣の指揮権発動という「政治の圧力」が「検察の正義」の行く手を阻んだ、という歴史認識に基づくものだが、実は、そこには重大な誤謬がある。元共同通信記者の渡邉文幸氏の著書『指揮権発動』では、当時、法務省刑事局長だった井本台吉氏が事件から40年経って初めて語った証言などを基に、捜査に行き詰まった検察側が「名誉ある撤退」をするために、自ら吉田茂首相に指揮権発動を持ちかけた「策略」だったことが明らかにされている。まさに、戦後検察史の核心を突く迫真のノンフィクションだ。

 そして、2006年6月14日付朝日新聞夕刊の「(ニッポン人脈記)秋霜烈日のバッジ」(村山治編集委員)では、上記の井本氏の証言に加えて、当時東京地検特捜副部長だった神谷尚男氏の「あのままでは佐藤を起訴するだけの証拠がなかった」との証言、当時、一線の検事として捜査に加わっていた栗本六郎氏の「捜査は行き詰まっていた。拘置所で指揮権発動を聞き、事件がストップして正直ほっとした」という証言のほか、「日本の検察には『正義の特捜』対『巨悪の政界』という単純化された構図による呪縛と幻想がある」との渡邉氏の指摘も紹介されている。

 造船疑獄における指揮権発動が検察側の策略によるものだったことは、ほとんど疑う余地のないものと言ってもよいであろう。

 同書に記載されている造船疑獄での佐藤栄作自由党幹事長への容疑事実を見る限り、検察の捜査が行き詰まっていたというより、最初から、この事件は、ほとんど無理筋だったように思える。容疑事実は、海運・造船に対する助成法案に絡んで、海運業者から自由党に政治献金が行われたことについて、当時の佐藤自由党幹事長が海運会社から請託(具体的に依頼すること)を受けて、第三者である自由党に賄賂を供与させたというものだが、そのような依頼があったとしても、与党の幹事長に与党としての法案のとりまとめを依頼したということであって、国会議員の職務に関する請託とは言えないであろう。

 もし、このような事実が第三者供賄になるとすれば、具体的な法案実現を目指す政党への政治献金はすべて賄賂ということになる。そして、贈賄側とされていた飯野海運の当初の逮捕事実は、このような政治献金の資金捻出のために造船会社からリベートを受け取ったことが商法の特別背任とされていたものだったが、この事実については、後日、一審で無罪判決が出て確定しており、それを含め、この造船疑獄で起訴された事実の多くが無罪となっている。

造船疑獄の検察捜査は、「暴走」を通り越して「爆走」に近いものだったと言わざるを得ないが、そのような検察捜査によって、当時の吉田首相の自由党政権に対する世論の批判が高まり、ついに首相退陣に追い込まれるという重大な政治的影響が生じることとなった。しかし、佐藤幹事長に対する容疑事実自体がほとんど有罪を得ることが不可能なものだったことは、世の中には全く知られていない。また、飯野海運の社長が全面無罪で確定したからと言って、世論が検察捜査を批判したわけでもないし、それで、責任を問われた検察幹部はいない。「検察捜査の当否は裁判所が判断すべきものであり、検察は裁判外で説明責任を負わない」という理屈が全く通用しないことは、この造船疑獄の史実から明らかなのだ。

造船疑獄事件によって封印された「指揮権発動」

 造船疑獄での指揮権発動を巡る誤謬は、「検察の正義」を神聖不可侵のもののように扱い、外部からの圧力・介入を断固排除すべきという考え方を生じさせる一方、その行く手を阻んだ法務大臣の指揮権は、検察庁法に規定されていても、実際にそれを行使することは許されない「封印されたもの」のように理解されることとなった。しかし、造船疑獄の指揮権発動の真実は全く異なったところにあった。指揮権発動までの経過には、経済検察と思想検察との複雑な検察内部の派閥抗争があり、策略や政治的思惑によって歪められた「検察の正義」があった。そのことを、渡邉氏の著書は見事に描き出している。

 逆に言えば、この造船疑獄を巡る史実は、検察の権力に対する何らかの抑制システムの必要性を如実に表していると言えよう。そして、そういう意味での検察の捜査権限や公訴権の行使に対する唯一の民主的コントロールの手段となり得るのが、現行法上、この法務大臣の指揮権なのである。

 「法務大臣は、第四条及び第六条に規定する検察官の事務に関し、検察官を一般に指揮監督することができる。但し、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる」という検察庁法第14条の規定は、本文で、検察庁も法務省に属する組織であることから検察官の職務は法務大臣の一般的な指揮監督に服することを規定する一方で、但し書きで、具体的事件の捜査や処分について法務省と検察庁との関係を限定している。この規定により、一般的な事件については法務省が検察庁の捜査や処分に関わることはなく、検察庁から法務省への報告も行われないが、例外的に、検事総長にも報告されるような重大事件については、法務省が「法務大臣の指揮権」を前提に、検察庁から報告を受けることがあり得る。

 この「法務大臣の権限」は、行政庁としての法務省の権限をその意思決定者たる長の権限として規定しているだけで、一般の行政庁において「…大臣は」と法文に書かれていることと何ら変わらない。既に述べた造船疑獄事件についての誤謬や法務省が検察庁と一体化して「法務・検察」などと言われている実情があるため、そこから孤立した法務大臣個人が権限を有しているように誤解されているだけなのだ。

 検察庁と法務省の間には、請訓(組織内の上位者に指示を求める手続き)規定に基づいて重要事件、重大事件についての報告が行われている。それを認める唯一の法律上の根拠が、検察庁法14条但し書きなのであり、この規定は、決して死文化しているわけではない。今回のような重大な政治的影響が生じる政治資金規正法違反事件については、法務大臣に指揮権について判断する時間的余裕を与える形で請訓が行われるのは当然のことと言えよう。

報告書での「法務大臣の指揮権」についての指摘

 今回の第三者委員会報告書では、まず第1章で、民主党代表であった小沢氏の公設秘書の大久保氏を逮捕・起訴した政治資金規正法違反事件の捜査・処理に関しては、そもそも違反が成立するか否か、同法の罰則を適用すべき重大性・悪質性が認められるか、任意聴取開始直後にいきなり逮捕するという捜査手法が適切か、自民党議員等に対する寄附の取り扱いとの間で公平を欠いているのではないか、など多くの点について述べているが、新たな事実調査を行ったわけではなく、公表されている政治資金収支報告書や西松建設内部調査報告書などで事実を確認しただけの第三者委員会の調査結果からも、検察の捜査・起訴への疑念は一層深まっている。

報告書では、小沢氏個人の資金管理団体である「陸山会」への寄附は、逮捕・起訴事実とされた2003年以降の2100万円だけで、それ以前は行われていないこと、小沢氏側への寄附は自由党、新進党の政治資金団体や民主党岩手県連に対する寄附をすべて含めても23.7%に過ぎず、西松建設関連団体の設立目的は小沢氏の政治家個人への寄附とは無関係だったと考えざるを得ないことを指摘している。

 そして、むしろ、西松建設が「新政治問題研究会」と称する団体を設立した真の意図は、橋本龍太郎氏の資金管理団体と同一の名称の団体を千代田区内に設立することで、区までの所在地と団体の名称しか記載されない官報の上で自民党議員への寄附の具体的内容が明らかにならないようにすること、つまり自民党議員側への寄附について迷彩を施すことにあったのではないかと推測されると述べている。

 このように、今回の検察捜査に重大な疑念があることを述べたうえで、そのような捜査によって野党第一党党首が辞任に追い込まれるという政治的に極めて重大な影響が生じたことを踏まえて、第2章と第3章では制度論の検討を行っている。委員会のメンバーで行政法学者の櫻井敬子学習院大学教授が中心になって、第2章で政治資金規正法の制度論について述べ、第3章では、一行政組織に過ぎない検察の判断によって行われる捜査で国民の政治的判断が重大な影響を受けることに対する何らかの抑制システムが必要なのではないかという観点から、現行制度を検証し、検察に関する制度の在り方を論じている。

 このような第三者委員会での検討において、検察と法務省の在り方を論じる第3章の中で、現行法上、検察の権限行使に対する民主的コントロールのための唯一の制度である検察庁法14条但し書きの「法務大臣の指揮権」の問題に触れないという「選択肢」があり得ないことは明らかであろう。

 そして、もう1つ重要なことは、この点についての報告書の記述は、捜査の対象が野党党首側だという事実を前提にして、今回の政治資金規正法違反事件について、法務大臣の指揮権発動が「選択肢」の1つだったと述べていることだ。自民党サイドにも波及する可能性があると言っても、それは現時点まで実際に行われていないのであり、今回の検察捜査を、総選挙を半年以内に控えた時期に野党第一党の党首に対して公設秘書の逮捕という強制捜査が行われた事例としてとらえたうえ、法務大臣の指揮権発動問題を検討しているということだ。

検察との関係での法務大臣の職責とは

 造船疑獄事件での指揮権発動についての誤った歴史認識のために、法務大臣の指揮権発動というと、これまでは、与党側の政治家である法務大臣が、与党側に捜査の手が伸びないようにするために行うものとのイメージが固定化していた。しかし、今回の事件で問題になるのは、与党側の法務大臣が野党側に対する捜査に対して指揮権を発動することの是非なのだ。

 法務大臣に対して、請訓規定に基づいて、検察からの請訓が行われ、法務大臣としての判断を法務省が組織としてバックアップしていたら、今回の検察捜査には、違反が成立するか否か、仮に成立するとしても、総選挙が近い時期に、こういう捜査によって国民の政治選択、政権選択に重大な影響を与えてまで行うような重大・悪質な事案と言えるか否か、などの点に重大な問題があることは、法務大臣にも認識できたはずだ。

 そこで、法務大臣として、「総選挙を控えた時期に、このように重大な問題がある政治資金規正法違反事件で、野党第一党の党首にダメージを与えることは、与党側の選挙対策上は有利になることではあっても、民主主義政党たる与党としても不本意なことである。国民に政権選択の機会を与えることを尊重すべきだ」と判断して、捜査の着手を遅らせるよう指揮権を発動する「選択肢」は十分にあり得たのではないか。それを行っていたとすれば、法務大臣の判断は、党利党略ではなく、本当の意味で検察捜査と民主主義との関係を真摯に考えた末での客観的で公正な立場から行った指揮権発動の判断として、歴史的な評価に値するものとなったのではなかろうか。

森英介法務大臣が、6月12日の閣議後の記者会見で、民主党が設置した第三者委員会の報告書が法相の指揮権発動に言及したことについて、「看過できないものがある」と述べ、強い不快感を示したこと、その際「私は検察に全幅の信頼を置いて、その独立性・中立性を尊重したい」と強調したことが報じられているが(6月12日読売新聞夕刊)、「検察に全幅の信頼を置いて、その判断を尊重する」というだけでは、法務大臣の職責を果たしたとは言えない。

 今回の政治資金規正法違反事件について、請訓規定によって検事総長から法務大臣に対して請訓が行われたのか、それについて法務省としての十分な検討が行われたのか。それらの点を検証し、検察庁法14条但し書きという「法令」を無視するような検察の強制捜査着手が行われたのであれば、検事総長に対して、同条本文の一般的な指揮監督権に基づいて責任を問うことを検討すべきであろう。

 「正義の刀」を振り回す検察に対して、民主主義の唯一の砦となるのが法務大臣であることを忘れてはならない。法務省の重要ポストの多くが検事によって占められ、実務を担当する参事官、局付も多くが検察庁からの出向検事であり、法務・検察が人事上一体であることがその「唯一の砦」としての機能を妨げるのであれば、法務大臣の人事権に基づいて、それが行い得る体制を構築すべきであろう。

マスメディアの「思考停止」

 今回、政治資金問題第三者委員会で当然行うべき検討を行った結果として、報告書で、法務大臣の指揮権の問題に言及したことを、多くのマスメディアはこぞって「非難」した。

 一方で、報道では、その検討の前提としての検察の捜査・起訴に関する重大な疑問については「検察批判に偏っている」とするだけで、その中身には一切触れていない。その点に関して報告書が指摘した事実の中には、西松関連団体から陸山会への寄附が2003年以降の2100万円だけで、それ以前には行われていないことや、西松関連団体の「新政治問題研究会」という名称と全く同一で所在する区も同じ、橋本氏の政治団体が存在していたことなど、新聞、テレビでも十分把握していた事実が含まれていたはずであるが、それらはこれまで報道されてこなかった。指揮権発動問題について「非難」する前に、まずその前提として述べている検察捜査に関連する重要な事実の指摘について報じるべきであろう。

 中西輝政教授は、「子供の政治が国を滅ぼす」(文藝春秋2009年5月号)で、昭和初期、政治不信の高まり、世界恐慌など、現在と共通する政治、経済状況の中で、検察による疑獄事件の摘発が相次ぎ、それが、最後に「司法の暴走」帝人事件(現在の民主党鳩山由紀夫代表の祖父鳩山一郎文部大臣など政治家、官僚が逮捕・起訴され後に全面無罪となった)を引き起こし、政党政治を崩壊させて、日本が道を誤って敗戦まで突き進む大きな要因になったことを述べ、西松建設事件での検察捜査の危うさを指摘している。その中で、検察庁法14条の法務大臣の指揮権発動が、「本来、政から官への民主主義的なチェックシステムであり、これこそ重要な民主主義の担保の一つ」だと述べている。

 このような中西教授の意見にも耳を貸さず、渡邉氏が解き明かした造船疑獄事件の真相も意に介さず、第三者委員会報告書中に「指揮権発動も選択肢」との記述を見つけただけで、過剰反応するマスメディアの報道姿勢こそ「思考停止」そのものと言うべきであろう。

辞任に至った経緯を重く受け止めよ
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090511/194285/

代表辞任の記者会見で小沢氏自身が述べたように、辞任すべしという意見が世論調査でも民主党内でも増えている状況で、政権交代の可能性を最大限に高めるために、今辞任するのがベストだと考えたという言葉を、それなりに納得できる話だと思う。

辞任の発端は代表秘書の逮捕・起訴

 小沢代表の辞任は、公設第一秘書が政治資金規正法違反で逮捕・起訴されたことが契機となっている。その影響を相当強く受けたと思える世論調査の結果から、小沢氏の周辺も辞任一色に染まった。

 今回の辞任によって、小沢氏の秘書の政治資金規正法違反の逮捕・起訴を行った検察の捜査のあり方、説明責任の問題から目を逸らすようなことはあってはならない。

 小沢氏の辞任で、検察の政治資金規正法違反の捜査のあり方という問題から世の中の関心が離れてしまったとすると、こういったことがいつ何時繰り返されるか分からないことになる。それは民主主義にとって重大な脅威だ。

 3月初めの段階で次期総理の有力候補とされていた野党第一党党首が検察の捜査の影響で辞任するに至ったという事実を重く受け止めるべきだ。改めて、検察の捜査とは何だったのか、どんな問題があったのか、それに対して検察が十分に説明責任を果たしたのか――。これを機会に十分に議論し、問題として受け止めなければいけない。

 そういう意味では、小沢氏にも今の段階で可能な説明責任を果たしてもらい、それによって検察の説明責任を問うという態度をとってもらいたかった。それは決して困難なことではなかったはずだ。

 13日に行われる予定であった党首討論から逃げたという見方もあるようだが、党首討論にしっかりと臨み、麻生首相と対決すれば十分、小沢氏には勝ち目があったと思う。それが辞任の理由とは思えない。

1日も早く公判で“潔白”を明らかにすべきだった

 民主党は先月、第三者委員会(「政治資金問題をめぐる政治・検察・報道のあり方に 関する第三者委員会」)を設置した。私はメンバーとして加わったが、政治資金問題に関する検察とメディアの説明責任、そして小沢代表および民主党の対応と説明責任についてバランスのとれた議論をしてきたと思うし、十分な成果が上がっていると思う。しかし、報道では小沢氏の説明責任、辞任論ばかりが議論されているように報じられ、議論の内容が正しく伝えられてこなかった。こういう状況も、今回の辞任の背景にあるだろう。

 検察の捜査について議論すべきポイントについては、これまでこのコラムで述べてきた(「代表秘書逮捕、検察強制捜査への疑問」)。

 残念なのは、起訴から50日ほどにもなるのに、起訴の段階からほとんど何も進まないうちに辞任という事態になったことだ。すでに「小沢代表が今、行うべきこと」で指摘したことだが、自信を持って政治資金規正法上問題がないというのなら、それを1日も早く刑事公判で明らかにするための努力をすべきだった。

 民主党はもちろん、自民党も含めた政治全体が検察の捜査が不当な政治介入ではないか、という問題意識を持って闘う必要があったのではないかと思うが、そのような状況にはならず、マスコミの報道も一方的に小沢辞任論に傾く中では、小沢氏の辞任は致し方なかったのかも知れない。そういう意味で、同じ辞めるのだったら、現時点がベストのタイミングだったのではないかとは思う。いずれにしても、起訴直後ではなくここまで辞任問題を引っ張ってきたことは、検察にとっては相当のプレッシャーになったはずだ。(談)


小沢代表が今、行うべきこと
第三者委員会で検察、メディア問題の検証を行うことの意味
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090413/191726/

民主党が、小沢一郎代表の公設第一秘書が政治資金規正法違反で逮捕・起訴された政治資金の問題に関して、小沢代表の説明責任、検察、メディアの在り方などを検討・議論する党外の有識者による会議を設置。その初会合が4月11日午前、都内のホテルで開かれた。

 同日午後には座長の飯尾潤教授(政策研究大学院大学)と座長代理の筆者が記者会見を行い、正式名称を「政治資金問題をめぐる政治・検察・報道のあり方に 関する第三者委員会(略称:政治資金第三者委員会)」とし、5月中旬までに、計6回程度の会合を開催して検討・議論の結果を報告書に取りまとめる予定であること、委員会開催後には、毎回メディア向けのブリーフィングを実施し、ビデオニュースで公開、ゲスト有識者も招き、意見の聴取、意見交換を原則公開、専用のホームページを立ち上げて広く意見募集を行うなど、オープンな議論を行っていく方針を明らかにした(第1回会合の概要、記者会見の動画などは専用のホームページで公開)。

 この委員会は、今回の政治資金問題に関する小沢代表および民主党の対応、説明責任、それに関連する検察とメディアの問題を検討することを目的として民主党が設置したものだが、民主党からは完全に独立した位置づけになっており、事務局も新日本有限責任監査法人の子会社が行い、検討の具体的内容、進め方などにつ いては委員会が独自に判断することとされている。

検察、メディアの問題を検討・議論することの意義

 半年以内に総選挙が行われるという政治的に極めて重要な時期に、野党第一党の党首の公設秘書がいきなり逮捕され、結局、起訴された事実は、3500万円という比較的少額の政治資金規正法違反、しかも、収支報告書に記載された「表の寄附」の名義に関する「形式犯」だけ、という従来の検察の常識からは考えられないものだった。

 一方で、秘書逮捕以降、新聞、テレビでは、出所不明の「関係者供述」によって、政治献金が公共工事の談合受注の見返りであるかのような報道が連日行われた後、世論調査の結果から「小沢氏説明不足」「辞任すべし」が民意だとの報道が繰り返されている。

 しかし、その辞任論の根拠は、「政治資金に関してかねて問題が指摘されていた小沢氏の公設秘書が政治資金規正法違反で起訴されたこと」だけだ。与野党の支持率を大きく変え、小沢氏を首相候補の筆頭から引きずり降ろす結果になった検察の捜査、そして、それに関するマスコミ報道についても検証を行うことが、国民が、小沢辞任論の当否を判断し、総選挙における政権選択を適切に行うためにも不可欠であろう。

 メンバー構成にも、そのような委員会設置の目的が反映されている。小沢代表や民主党の対応や説明責任を明らかにするという委員会の主たる目的からすれば、民主党の在り方等に関してかねて厳しい意見を述べておられる政治学者の飯尾教授が座長として委員会を代表するのは極めて自然なことと言えよう。

 筆者は、検察の現場で多数の政治資金規正法違反を手掛けてきたほか、不二家関連報道におけるTBS「みのもんたの朝ズバッ!」の捏造疑惑の追及を はじめ、メディアとコンプライアンスの問題や新聞、民放会社、NHKなどでのコンプライアンスの指導・啓蒙にも関わってきた。検察やメディアの問題についての検討を主として担当することを期待されているのであろう。

 検察の説明責任については、行政法学者で行政組織の説明責任の問題にも詳しい、学習院大学の櫻井敬子教授が加わられていることで議論の客観性が確保される。また、メディア論の専門家でBPO放送倫理検証委員会の委員でもある立教大学の服部孝章教授の参加は、今回の政治資金問題の事件報道の在り方の検討・議論のためであろう。

民主党が、小沢代表の説明責任の問題に関して、このような有識者会議を設置することに対しては冷ややかな見方もある。4月3日に、鳩山由紀夫・民主党幹事長の定例会見で有識者会議の設置が公表された際の報道には、「小沢氏の政治資金の調査には消極姿勢を示した」「党内外で指摘されている小沢氏の『説明不足』批判をかわす狙いがある」というようなことも書かれていた。

 そのような見方は、検察の捜査や起訴に問題があったとしても、それは公判で争えばよいし、メディアの事件報道に問題があったのであれば、それは 別途問題にすればよい、総選挙を目前に控え、小沢氏の説明責任や代表の進退の問題を解決することが先決で、小沢氏は、それとは別に政治家として説明責任を果たし、それが十分に果たせないのであれば党首を辞任すべきだという考え方を背景にしているのであろう。

 確かに、一般的には、刑事事件について起訴された事実について犯罪が成立するかどうかの判断は検察官・弁護人が公判で主張・立証を尽くしたうえで 裁判所が行うもので、政治的責任論はそれとは切り離して行うべきだと言えよう。しかし、今回の問題には、果たして、その一般論がそのまま適用できるのであろうか、そこに重大な問題がある。

検察捜査を巡る問題が先決事項である理由

 第1に、刑事事件とは言っても、今回の問題は、殺人や窃盗のような道義的・倫理的な問題ではなく、小沢代表の資金管理団体の政治資金の処理という政治に関する手続きの問題だ。小沢氏の説明責任、辞任論の発端が、政治資金の手続の問題であり、その前提となる 政治資金規正法の解釈と罰則適用に疑念が生じている以上、その点を先決事項として検討するのは当然だ

 そして、もう1つ重要なこと、小沢代表の秘書が逮捕され起訴された事実が、果たして、政治資金規正法違反になるのかどうか、違法なのかどうかについて、根本的な疑問があるということだ。

 3月11日の「代表秘書逮捕、検察強制捜査への疑問」 でも述べたように、政治資金規正法では、収支報告書に「寄附をした者」、つまり寄附の外形的行為を行った者を記載するよう求めているだけで、寄附の資金を 誰が出したのかについては記載する義務はないというのが、これまでの一般的な解釈だ。小沢氏の秘書が、寄附の資金が西松建設から出たものだと知っていたとしても違反にはならない。違反になるとすれば、寄附名義の政治団体には全く実体がなく寄附行為者になり得ない場合、しかも、それを小沢氏側が認識していた場合だ。しかし、事務所を賃借し、常勤の役員もいると言われるこの団体が政治団体としての実体がないとは言い難い。それが実体がないと言うのであれば、全国に何千、何万とある政治献金を行うだけの目的の団体の設立届が虚偽で、それを寄附者と記載した収支報告書は虚偽記載ということになる。

 もう1つ、あえて検察の解釈論を忖度するとすれば、今回の寄附名義の政治団体は、実体があっても、人的にも資金的にも西松建設のダミーであって、 西松建設と一体のものだから、このような政治団体の実体を認識した以上、西松建設を寄附者と記載すべきだという、脱税事案などでよく用いられる「法人格否認の法理」のような考え方を取ろうとしている可能性もある。

 しかし、実質的な所得の帰属に応じて課税しようとする税の世界の問題、その中で、実質的に多額の所得を得ているのに、それを形式上ごまかして税を免れよ うとしている人間を処罰する脱税事犯の摘発の問題と、政党・政治家が共通のルールによって政治資金の透明化を図り、健全な民主主義を実現していこうとする 政治資金の世界とは全く異なる。従来の解釈を逸脱した法解釈による罰則適用は捜査機関による不当な政治介入を招く恐れがある、もし、そのような解釈論を取るのであれば、事前にそのことが明示される必要があろう。

 このように考えると、小沢氏の資金管理団体の収支報告書について虚偽記載罪が成立するのか否かについて重大な疑問があり、そもそも、これを政治資金規正法違反だとする検察の主張自体が、公判審理に入る前の段階で崩壊する可能性すらある。

 このような指摘が正しいとすれば、今回、小沢代表の秘書が政治資金規正法で起訴されたことが、ただちに小沢代表の説明責任や辞任の問題につながるということにはならないはずだ。

 この事件の勾留満期の当日の3月24日の「小沢代表秘書刑事処分、注目すべき検察の説明」の中でも述べたように、検察には、今回の起訴の前提となる法解釈について説明すべきだ。

 (1)政治資金収支報告書には「資金の拠出者」の記載も義務づけられている、(2)「実体がない政治団体」は「寄附者」として記載してはならない、(3)特定の法人・団体のダミーのような存在の政治団体は「寄附者」として記載してはならない、このいずれかの法解釈を取らない限り、本件について虚偽記載罪が成立することはあり得ない。

 そして、この(1)~(3)のいずれの解釈も、もし、それが取られるということになれば、総選挙を控え、最も活発になる政治活動と政治資金の収支に重大な影響を与えるものだ。この法解釈の問題を放置したまま、総選挙に突入すれば、選挙運動や選挙を巡る政治活動は大混乱に陥ることになりかねない。

 今回の事件の起訴の当日、司法クラブ記者向けのレクチャー(非公開であり「記者会見」ではない)の中で、東京地検幹部は、これらの点については、 「公判で明らかにする」と述べたようだ。しかし、これらの法解釈の問題は、事件の中身についての証拠関係とは切り離して説明することができる一般論の問題だ。本件の起訴の前提となる法解釈が、近く行われる総選挙に与える重大な影響を考えれば、検察にはこの点についての説明責任がある。

 検察が、この点について説明を行う姿勢を見せていない以上、今回の第三者委員会において、あらゆる可能性を想定して、法解釈に関する問題を検討し、その結果を国民に示すことの意義は大きいと言うべきであろう。

メディアの事件報道を巡る問題

 本件の事件報道に関しても多くの問題が指摘されているが、報道内容が検察に有利な方向に偏っていることは、これまでの特捜事件の多くに共通する現象であり、捜査当局と担当記者クラブとの関係や、取材現場の特異な状況など様々な構造の下で生じているもので、「検察リークによる報道」と単純化できるものではないし、それら全体を検証することは今回の委員会が行うべきことではない。

 しかし、今回の事件報道には、従来にはなかった一つの特徴がある。それは、従来、「関係者によると」「とされている」などと完全にぼかされていた取材源が、「捜査関係者」などと特定されている記事が多かったことだ。

 そして、その報道の中には、看過し難い重大な問題を含 むものもある。

 1つは、陸山会代表としての小沢氏の「監督責任」に関する3月8日の産経新聞の記事だ。3月25日の「検察は説明責任を果たしたか」で述べたように、代表者の責任は「選任」にも過失がある場合に限られるのに、ことさらに「監督責任」だけを強調し、小沢氏を議員失職に追い込めるように報じたこの記事は、この問題に関する関係者の行動や社会一般の認識に重大な影響を与えるものであった。

 もう1つは、検察の小沢代表秘書起訴を受けて、小沢代表が重ねて違反事実を否定し、捜査・起訴の不当性を訴えて、代表続投の意向を表明した直後の25日午前0時から翌朝にかけて、「小沢代表の秘書が『西松建設からの献金だと認識していた』と、収支報告書へのうその記載を認める供述をしていることが 関係者への取材でわかった」とトップニュースで報じたNHKの問題だ。

 このNHK報道がきっかけとなって、多くの新聞、テレビが、「大久保隆規秘書、容疑事実を大筋で認める供述」などと報じたが、27日、大久保氏の弁護団は、大久保氏が自白していることを真っ向から否定した。

この報道が行われた後、各新聞、テレビで世論調査が行われ、「小沢代表の説明に納得できるか」「小沢代表は続投すべきか」という質問に対する回答結果が、翌週の初めに次々と公表された。NHKの報道と、それに追従した他のメディアの報道によって、多くの人が、起訴された秘書が違反を認めているのにな おも違反を否定し続けている小沢代表の「苦しい言い逃れ」との印象を受け、「小沢代表の説明には納得できない」という回答に誘導されたと考えられる。

 この報道が、小沢代表秘書の政治資金規正法違反事件による起訴をどう受け止めるべきかについて国民に誤った認識を与えたことは否定できない。

 取材源の秘匿、報道の自由への配慮との関係もあり、第三者委員会は、取材や報道の内容について直接 事実関係を調査すべき立場ではないことは言うまでもない。しかし、このような報道の問題に関して、それを行った報道機関がどのように受け止め、どのように 検証しているのかという点は、この問題の第一次的な当事者である小沢代表の対応と説明の在り方を考えるうえでも重要だ。

 第三者委員会では、これらの点を中心に、検察、メディアの問題を前提事項として検討・議論したうえ、小沢代表と民主党の対応と説明責任の問題を中心に幅広く有識者をゲストとして招いて意見交換を行い、その模様をできる限り公開するとともに、国民からも広く意見を募集するという方法で、この問題についての議論・検討の場を国民全体に広げていくことを目指している。

不可解な小沢代表秘書刑事事件への対応

 一方で、不可解なのが、今回の政治資金規正法違反事件についての小沢代表秘書の弁護側団の動きとこれに対する小沢代表自身の姿勢だ。

 刑事事件については法解釈上の問題も含め、当事者が公判で主張立証を行い、裁判所が判断を行うのが原則であり、これに関して第三者委員会の検討・議論を行うとしても、あくまで副次的な手段だ。

 小沢代表は、今回の事件が政治資金規正法違反に該当しないと一貫して主張してきた。 しかも、筆者が指摘するように検察の起訴事実について重大な疑念が生じている。そうである以上、最も重要なことは、公判の場で早急に結論を出すことだ。選挙違反事件について公職選挙法で「100日裁判」が要求されているのと同様に、今回の事件についても、早急に公判前整理手続で争点を整理し、集中審理によって、早期に判決が出せるようにするべきだ。私は、起訴直後から、「選挙との関係を考慮し遅くとも7月ぐらいまでには判決が出せるようにすべきだ」と述べてきた(3月25日付朝日新聞など)。

 弁護側が、早急に手続きを進めることを強く求めれば、裁判所も、検察もそれに応じざるを得ないはずだが、報道されている限りでは、小沢代表秘書の起訴から20日余り経過した現在まで、保釈に関する動きも公判手続きに関する動きも全くない。違反に該当するかどうかも微妙な形式犯で40日以上も秘書の身柄拘束が続いているのは、決して容認できることではないはずだ。

 今回の事件が小沢代表の政治資金管理団体の問題であり、起訴された被告人の大久保氏が、今も小沢代表の公設第一秘書の立場にある以上、小沢代表は、今回の刑事事件について当事者に準じる立場にある。小沢氏から公判審理の促進を強く求める意向が示されれば、 被告人の秘書本人も弁護人も従うはずだ。

 秘書の逮捕直後から一貫して検察の捜査を批判してきた小沢代表の主張が変わらないのであれば、公設秘書が起訴された政治資金規正法違反事件に真正面から向き合う姿勢を明確に示し、公判での真剣勝負に挑むべきだ。そうでない限り、今回の問題について、小沢代表が、国民から理解と納得を得ることはできないであろう。

 第三者委員会での議論・検討が、本当に意味のあるものとなるか否かも、刑事事件に対する小沢代表の姿勢にかかっている。

検察は説明責任を果たしたか
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090324/189886/

24日、逮捕事実に若干のプラスアルファが付いただけで民主党小沢代表の公設第一秘書が起訴された。

 昨日のこのコラム(「小沢代表秘書刑事処分、注目すべき検察の説明」)に書いたように、今回の事件は一般の刑事事件とは違う、政治資金規正法という民主主義の根幹にかかわる事件であり、それに対して検察がどのような罰則を適用し運用するのかは政治的に極めて重要な問題だ。したがって、検察は基本的な考え方をきちんと説明し、今回どんな考え方でこの事件を起訴したのかについて説明すべきだと主張した。

検察からは一般論的な説明のみしかなかった

 ところが聞くところによると、検察からはそのような説明はまったくされなかったという。政治資金規正法は非常に重要な法律で、違反する行為というのは重大だという一般論的な説明のみしかされなかったとのことだ。

 今回のような事件を、こういう時期に政治的影響を生じさせてまで摘発したことについて説明責任を回避するというのは、検察としては許されない。なぜこの事件だけが悪質と言えるのか、結局まったくわからない。強制捜査に対する疑問点については「代表秘書逮捕、検察強制捜査への疑問」で書いた。

 当然のことながら、寄附をするゼネコンは公共事業の受注に少しでも役に立てばということが目的だが、具体的にある工事について、政治家に動いてもらって発注者に働きかけてもらい、それで対価をもらえばあっせん収賄罪になり、口利きだけでもあっせん利得罪になる。

 しかし、その当時はみながやっていたことであるのに、過去の一時点のことだけをつまみあげて悪質だというのは、検察がその気になればいくらでも処罰できるということになってしまう。これは民主主義の否定であり、検察が国会より上に位置づけられる「検主主義」であると昨日のこのコラムで述べた。

 しかも談合による受注のメカニズムは単純なものではない。特定の工事に関して小沢事務所に頼んだら、談合の仕切り役に声を掛けてくれそれで受注できたというようなそんな単純な世界ではない。

 談合受注の構造が単純ではないことについてもすでに述べてきた。私は公正取引委員会に出向して埼玉土曜会事件に関わった時から、公共工事を巡る腐敗構造の解明には10年以上にもわたって取り組んできた。この経験から言っても、談合の解明は応援検事を集めて10日か20日でできるようなものではない。

今回の断片的で説明にもならない検察のコメントを読むと、ほとんど理屈にもなっていない。なぜこのようなことになったのだろうかという思いだ。検察は少なくとも理屈に通ったことをやらなければいけないのに、まったくそうなっていない。

 政治的な影響だけが生じて、あとは公判で明らかにするというのは、完全に民主主義の否定だ。まさかそんな無茶なことはしないだろうと、強制捜査が始まった時から私はずっと思ってきた。そして私なりのコメントを出してきた。それでもこういう無茶なことをやってしまったというのは、検察という組織の現状を端的に象徴しているとしか言いようがない。

 なぜこんなばかなことをやってしまったのかというのが、今回の1つの疑問点である。検察の真の意図はどこにあったのだろうか。国策捜査だとか自民党つぶしなどとかの憶測を呼んだが、私はそのような高尚なものではなく、基本的ミス、誤算という可能性が強いと思う。

検察は重大な基本的ミスを犯した?

 誤算というのは小沢氏側の対応の見誤りだ。秘書の事件で強制捜査に入り、小沢氏に対する批判が強まれば小沢氏は辞職するだろう。そうすれば政治力がなくなり、秘書も事実を認めて大した問題にはならないだろう。検察がこういった甘い見通しを持っていたのではないかということだ。そうだとすると、それなりの目算がなければならないが、そのことを教えてくれるのが、3月8日付の産経新聞の記事だ。ここで述べられているのは、監督責任の問題だ。

 これは、陸山会代表としての小沢氏の「監督責任」に関して、「捜査関係者」として、「特捜部は監督責任についても調べを進めるもようで起訴されれば衆院議員を失職する可能性も」という内容だった。

 同記事には、特捜部が摘発した埼玉県知事だった故土屋義彦氏の資金管理団体の政治資金規正法違反で、土屋氏から事情聴取し、監督責任を認め知事を辞職した土屋氏を「反省の情がみられる」として起訴猶予にしたことも書かれている。

 しかし、代表者の責任は「選任及び監督」に過失があった場合で、ダミーの会計責任者を選任したような場合でなければ適用できない。土屋氏の場合と同様に代表者の監督責任による立件をちらつかせて小沢氏を辞任に追い込めると判断していたとすると重大な基本的ミスだ。

同じ8日のテレビ番組や新聞のインタビューで私が、監督責任だけでは代表者の立件はできないことを指摘したところ、小沢代表聴取の報道は急速に鎮静化し、その後、「小沢氏聴取見送り」が一斉に報じられた。

強制捜査までのハードルは本来もっと高くあるべき

 過去にあった談合構造のもとで小沢氏が政治資金を集めていたとしたらそれが問題であることは否定できない。しかし、このことと検察の説明責任は別の問題だ。

 貧すれば鈍するという言葉があるように、低レベルのことを始めてそれが許されると、その組織はそのレベルに落ちていく。私は自民党長崎県連事件では、必死の思いで苦しんでハードルを乗り越えていった。この事件とは、公共事業受注業者から上前をはねるように裏献金などの様々な献金を集め、パーティー券収入を何千万と裏に隠していたというものだ。

 私は長崎でこの事件をやったとき、これでもかこれでもかと最高検や法務省から厳しく高いハードルを課せられ、それを乗り越えなければ前に進めないという状況に追い込まれていた。そういった状況をたった野球1チームほどの、検事任官2年目、3年目の“アマチュア”といっていいようなメンバーばかりのチームで乗り越えていった。しかし、その過程でスキルアップしたと思っており、大変なハードルを課されたことには感謝している。

 その時、法務省から口をすっぱくして言われたのは、ここで手をつけたことが横に広がったらどうするかということだった。この事件がほかとは差別化できるということでなければだめなのだということだ。私はこう言われたことに納得し、これならいけるというような事実を我々なりにがんばって聞き出して立件し、強制捜査の対象にしていった。

 今の特捜の姿勢はこの時とはあまりに違う。政治家の事件の強制捜査に着手するまでのハードルは本来もっと高くなければいけないということに立ち返り、特捜部はそれを乗り越えられるようになってもらわなければいけない。そして、そうなってもらいたいというのが、私の検察への思いだ。(談)

小沢代表秘書刑事処分、注目すべき検察の説明
民主党、自民党、マスコミにとっても正念場の1日
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090323/189737/

前回のこのコラムで、「ガダルカナル」化、すなわち戦線の泥沼化という状況ではないかと推測した民主党小沢代表の公設第一秘書の政治資金規正法違反事件の捜査は、今日(3月24日)、大きな節目を迎える。

 総選挙を間近に控え、極めて重大な政治的影響が生じるこの時期に、まさか、逮捕事実のような比較的軽微な「形式犯」の事件だけで、次期総理の最有力候補とされていた野党第一党の党首の公設秘書を逮捕することはあり得ない、次に何か実質を伴った事件の着手を予定しているのだろうというのが、検察関係者の常識的な見方だった。

「逮捕事実のみで起訴」はほぼ確実

 しかし、その後、新聞、テレビの「大本営発表」的な報道で伝えられる捜査状況からすると、他に実質的な事件の容疑が存在するとは思えない。態勢を増強して行われている捜査では、もっぱら東北地方の公共工事について調べているようだが、2005年の年末、大手ゼネコンの間で「談合訣別宣言」が行われて以降は、公共工事を巡る旧来の談合構造は解消されており、それ以降、ゼネコン間で談合が行われていることは考えにくい。それ以前の談合の事実は既に時効であることからすると、談合罪での摘発の可能性は限りなく小さい。

 また、いわゆる「あっせん利得罪」は、「行政庁の処分に関し、請託を受けて、その権限に基づく影響力を行使して公務員にその職務上の行為をさせる」ことが要件であり、野党議員や秘書に関して成立することは極めて考えにくい。

 このように考えると、少なくとも、現在、検察の捜査対象となっている大久保容疑者の容疑事実は逮捕事実の政治資金収支報告書の虚偽記載だけと考えるのが合理的であろう。

 一方、逮捕事実について不起訴ということも事実上あり得ないであろう。建前上は検察が逮捕・勾留した場合でも不起訴という選択肢がないわけではない。しかし、検察が独自に捜査を行い、これだけ大きな政治的影響を生じさせた後に不起訴に終わったのでは、検察は重大な責任を問われることになる。検事総長の辞任に匹敵する大失態だ。そのような選択が容易にできるとは思えない。

 そう考えると、本日の勾留満期での大久保容疑者の処分は、逮捕事実だけで起訴(公判請求)になることがほぼ確実と言ってよいであろう。

 そこで、大久保容疑者の処分がそのような形で終わった場合に問題になる、今回の事件についての検察の説明責任について考えてみたい。

「検察に説明責任はない」との主張の誤り

 この点に関して、「検察に説明責任はない」と主張するのが検察OBの堀田力氏だ(3月20日付朝日新聞「私の視点」)。政治資金規正法違反は、汚職と同様に、国民の望む政治の実現のために重要な役割を担う「規制」の違反だから、検察は必要に応じて逮捕を行い法廷で容疑の全容を明らかにするだけでよく、それ以外のことを説明する責任はないというのだ。

 この見解は根本的に誤っている。政治資金規正法違反は、汚職と同列に位置づけられるものではない。「汚職」は、「金銭等の授受によって公務員の職務をゆがめた」という評価を伴うものであり、汚職政治家を排除すべきであることについては、当初から国民のコンセンサスが得られている。汚職政治家が多数いるのであれば、それを片っ端から摘発していくことが検察の使命と言い得るであろう。そして、その摘発の是非を判断するのは裁判所である。

 しかし、政治資金規正法は、政治資金を「賄賂」のように、それ自体を「悪」として規制する法律ではない。政治活動を、それがどのような政治資金によって行われているのかも含めて透明化して国民の監視と批判にさらし、それを主権者たる国民が判断する、という基本理念に基づく法律だ。「規制」ではなく「規正」とされているのも、政治資金を透明化によって正しい方向に向けようとする考え方に基づいている。

同法の理念の実現は、基本的には、法律の内容についての指導・啓蒙、適法性についてのチェック、収支報告書の記載に誤りがあった場合の自主的な訂正、それに対するマスコミや国民の批判などの手段に委ねられるべきであり、罰則の適用は、他の手段では法律の理念が達成できないような場合に限られるべきだ。歴史的に見ても、政治資金は徐々に透明化されてはきたものの、実態と法律の規定との間には相当大きなギャップが存在していたのが現実だ。違反が全くないと言い切れる政治家は少数なのではなかろうか。

 政治資金規正法違反を贈収賄と同列にとらえ、政治資金規正法に違反して政治資金の透明性を害した行為があれば、検察は、いかなる行為を選択して摘発することも可能で、それについて説明責任を負わないという考え方は、同法の理念に反するばかりでなく、検察の権力を政治より圧倒的に優位に位置づけることになりかねない。健全な民主主義の基盤としての権力分立の仕組みをも否定するいわば「検主主義」の考え方と言うべきであろう。

 今回の事件については、他の手段によって対処可能な単なる「形式犯」ではない、実質を伴った悪質な犯罪だと判断した根拠と基本的な考え方について検察に明確な説明が求められるのは当然だ。

検察は何を説明すべきか

 では、検察は、いかなる点について説明をすべきであろうか。

 何よりも、政治資金規正法という、罰則の適用の方法いかんによっては、重大な政治的影響を与え、まさに政治的権力を行使することにもなり得る法律についてどのような方針で臨んでいるのかについて、検察のトップである検事総長が、検察の組織としての基本方針を説明する必要がある。

 刑事事件について法と証拠に基づいて適切に捜査処理を行うという職務の性格上、個々の具体的事件についての判断を外部に説明することには制約がある。しかし、検察も国民の負託を受けて職務を行っている行政組織である以上、憲法が定める三権分立の枠組み自体にも影響を与えかねない政治資金規正法の罰則適用に関して基本方針を説明することは、当然の義務と言うべきであろう。

 とりわけ、本件の捜査に関しては、政治資金規正法の罰則適用が法の基本理念に反しているのではないかという重大な疑念が生じている。しかも、著名人であり社会的影響も極めて大きい検察OBの堀田氏が、上記のように、政治資金規正法を贈収賄と同様に位置づけ、その違反が認められる限り、検察は、必要に応じて逮捕を行い法廷で容疑の全容を明らかにすべきで説明責任すら負わない、という見解を新聞紙上で披瀝しているのである。検察が組織としてそのような見解を取っていないのかどうかを国民に対して明確に説明する必要がある。

 もし、堀田氏のような見解で政治資金規正法の罰則適用に臨むというのであれば、そのように強大な権限を検察に与えることについて国民の承認を受けなければならないはずであり、その点について、国会の場で検事総長が説明を行うことが必要であろう。

 堀田氏の見解とは異なり、筆者の言うように、他の手段では法律の目的が達せられない場合にのみ罰則を適用するという方針で臨んでいるということであれば、本件が、そのような場合に該当することについて、十分な説明が求められることになる。

 一般的には、捜査の秘密や公判立証との関係などから、現時点での個別具体的事件の内容についての説明には制約がある。しかし、罰則適用の前提となる政治資金規正法の解釈問題についての説明には何らの制約もないはずだし、事実関係についても、政治的に極めて重大な影響を与える事件であることを考慮すれば、具体的な支障を生じる恐れがない限り積極的に説明を行う必要があろう。一般的な刑事事件では、被疑者側のプライバシーの保護が、個別具体的な事件についての説明を拒否する主たる理由になるが、大久保容疑者が本件についてプライバシーの保護を求めることはあり得ないであろう。

 そこで、検察が説明すべき点とそれに関して問題となる点を指摘する。説明すべき点は、違反の成否に関わる問題、悪質性の評価に関わる問題、捜査の手続き・手法に関する問題の3つに整理できる。

違反の成否に関して説明すべき点

 違反の成否の問題で説明すべき第1のポイントは、本件の政治資金収支報告書の虚偽記載の事実について、検察が、どのような法解釈に基づいて「虚偽記載」と判断したのかである。

 私は、「政治資金規正法上、寄附の資金を誰が出したのかを報告書に記載する義務はない。つまり、小沢氏の秘書が、西松建設が出したおカネだと知っていながら政治団体の寄附と記載したとしても、小沢氏の秘書が西松建設に請求書を送り、献金額まで指示していたとしても、それだけではただちに違反とはならない。政治資金規正法違反になるとすれば、寄附者とされる政治団体が実体の全くないダミー団体で、しかも、それを小沢氏側が認識していた場合だ」とかねて指摘してきた(3月11日の本コラム参照)。この点について、検察がどのような考え方に基づいて今回の事件の捜査・処理を行ったのかが問題になる。

 この点についての解釈が筆者と同様だとすると、第2のポイントは、この場合の「政治団体に実体がない」というのはどういう意味なのかである。

 新聞報道などでは、検察は「会員名簿の管理や、献金などの事務手続きを行わず、実際には西松社員が担当していたこと」で政治団体の実体がないと断定した(3月20日付産経)などとされているが、その程度で「実体がない」ということになると、全国に何千、何万と存在する、単なる政治献金のためのトンネルとしての政治団体や政党支部もすべて「実体がない」ことになり、その名義による政治献金を記載した収支報告書はすべて虚偽だということになる。この点について、明確な判断基準が示される必要がある。

 仮に、政治団体に実体がないということだったとしても、それを大久保容疑者が認識していなければ犯罪は成立しない。この点は、違反の成否に関する重要な問題点ではあるが、本件に関する個別具体的な事項なので、公判での立証において明らかにすべきであろう。

悪質性の評価に関して説明すべき点

 次に、事件の悪質性の評価に関する問題である。

 前に述べたような、政治資金規正法の目的・理念からすると、罰則の対象とされる違反は、収支報告書の訂正や改善指導などでは目的が達せられない悪質な違反に限られることになる。

 本件の寄附は収支報告書に寄附の事実は記載している「表の寄附」だ。収入の総額に誤りはないし、その寄附収入に見合う支出の内容も開示しなければならない。収入自体が秘匿され、支出にも全く制限が働かない「裏の寄附」とは大きな違いがある。

 そのような「表の寄附」について、単に名義を偽ったというだけの違反が、「裏の寄附」と同視できるほどに政治資金規正法違反として悪質と言えるとすれば、2つのポイントが立証される必要があろう。1つは、「表の寄附」であっても寄附の名義を偽っていることで実質的に「裏の寄附」と同様だと言えること、もう1つは、寄附の見返りとしての便宜供与の事実あるいはその可能性があったということである。

 本件に関しては、西松建設の名義を隠して政治献金を行ったことで、小沢氏側から何らかの便宜供与が期待できたのかどうか、つまり、本件に贈収賄的な要素があるのかどうかが問題になる。

そこで、第3のポイントは、「ダミー団体」名義であることが、本当に西松建設からの寄附であることを隠すことになっていたかどうかだ。この団体は、小沢氏側だけではなく、自民党の多数の政治家に対して寄附やパーティー券の購入を行っていたとされており、これらの政治家は皆、この団体が西松のダミーだということを知っていたはずだ。そういう団体の名義で小沢氏側に寄附をしていれば、少なくとも政治の世界や政治と関係が深い業界関係者にはバレバレで、西松建設の名義を隠匿する効果はあまりなかったのではないか。

 また、政治資金収支報告書の中には、この「ダミー団体」の所在地が、西松建設の本社所在地になっていたものもあったとのことだ(3月6日付朝日)。その事実は、その団体と西松建設が一体であったことを示す事実、つまりダミー性を裏づける事実ではあるが、他方で、収支報告書を丹念に見れば、実質的に西松建設からの寄附だということが他社にも分かってしまうことにもなる。そういう意味では名義を隠すという効果があまりなかったことを示す事実でもある。

 これらの疑問について検察の側の説明がないと、そもそも本件の「表の寄附」が、名義を隠すことによって、「裏の寄附」と同様に悪質な事案と言えるかどうかについて重大な疑念が生じることになる。

 第4のポイントは、政治献金の見返りとしての便宜供与の事実あるいは、便宜供与の可能性があったか否かだ。この点に関して、最近の新聞、テレビなどで、大手ゼネコンなど建設業者の一斉聴取が行われ、東北地方での公共工事の談合による受注について小沢氏の秘書の大久保容疑者が影響力を及ぼしたり、談合に関与したりして、西松の公共工事の受注に協力した、というような内容の多数の報道が行われた。

 このような形での便宜供与が、本件の政治資金規正法違反としての悪質性、つまり「贈収賄的な性格」を根拠づけるように報じられているが、それを便宜供与的な事実ととらえているのか、検察としての基本的な考え方を説明する必要があろう。

 この点に関して、野党側の小沢氏の秘書の大久保容疑者がなぜ談合による受注者の決定に影響力を及ぼすことができたのかについては重大な疑問があるが、個別の事実関係の問題なので、公判立証の中で明らかにすべき事項であろう。

捜査手続き・手法に関して説明すべき点

 上記のような法律解釈上の疑問点について考え方を明らかにし、悪質性の評価に関しても基本的な考え方を示したうえで、説明すべきもう1つの重要な事項がある。それは、この種の事案の捜査手続き、捜査手法について、基本的にどのような方針を持っているかである。これが第5のポイントだ。

 刑事事件の捜査においては、逃亡の恐れまたは罪証隠滅の恐れなど身柄拘束の「必要性」があって、しかも「相当性」がある場合に、被疑者の逮捕、勾留が行われる。その判断は、事案の重大性と身柄確保の必要性を勘案して行われる。

 本件の大久保容疑者の場合、「必要性」について言えば、逃亡の恐れは考えにくいし、前記の法律解釈に関して筆者の見解を取るとすれば、本件の最大の争点は「政治団体の実体がなかった」と言えるのかどうかという客観的な事実なのであるから、これについて罪証隠滅の恐れは考えられない。

 したがって、そもそも逮捕の必要性には疑問がある。これに加えて、「相当性」については、事案の重大性がその重要な判断要素となるが、果たして本件が悪質・重大な政治資金規正法違反と言えるかどうかについても、先に述べたような重大な疑念がある。

これらの点を踏まえて、本件で、総選挙を間近に控えた時期に、野党第一党の代表の秘書をいきなり逮捕するという捜査手法が相当であり、任意で取り調べて弁解を十分に聴取したうえで、必要に応じて政治資金収支報告書の訂正を行わせるという方法では政治資金の透明化という法の目的が達せられない事案であったことを説明することが必要になる。

検察が説明責任を果たすことの意義

 一般的には、検察は捜査処理について説明責任を負うことはない。起訴した事件については、公判で主張立証を行い、その評価は裁判所の判決に委ねられる。また、不起訴にした事件について不服があれば検察審査会への申し立てという手段が用意されている。

 今回の事件について検察の説明責任が問題になっているのは、政治資金規正法という運用の方法いかんでは重大な政治的影響を及ぼす法令の罰則の適用に関して、不公正な捜査、偏頗な捜査が行われた疑念が生じており、同法についての検察の基本的な運用方針が、同法の基本理念に反するものではないかという疑いが生じているからだ。

 検察は、そのことの重大さ、深刻さを認識し、誠実に、真摯に説明責任を果たすべきだ。その説明が国民に納得できるだけのものでない場合には、不公正で偏頗な捜査が行われた疑いが一層顕在化することになる。検察は、その責任を正面から受け止めなければならない。

 もし、この点について説明責任が果たされることなく、今回の捜査による影響が日本の政治状況や、世論の形成に重大な影響を与える結果が生じた場合、それは、1つの司法行政機関によって、国や社会に対して一種の「テロ」が行われたのに近い効果を生じさせたということになろう。

 検察の説明を直接受けて報道する立場にあるのがマスコミ、とりわけ、司法担当記者だ。何ゆえに検察に説明責任が求められるのか、いかなる点について、いかなる問題を意識した説明が行われる必要があるのかを十分に理解認識したうえ、納得できるだけの説明を求め、その説明を客観的に評価して報道することが、民主主義の砦となるべき言論機関、ジャーナリズムの使命だ。

 そして、注目されるのが、民主党、自民党が、検察の説明責任の問題にどう対応するかだ。まさに民主主義政党としての両党の正念場だと言えよう。

 民主党は、小沢代表の進退を巡って党内で意見が対立し内紛の恐れをはらむ。一方自民党側には、二階氏をはじめ、本件と同様の手法で検察の摘発を受けることを懸念する議員が多数いるため、検察の捜査の前に足がすくんでいるというのが現状だ。

 しかし、両党は、今回の事件についての検察の説明責任の問題が、民主主義の根幹に関わる問題であることを改めて認識する必要がある。本当の意味での民主主義政党と言えるか、その真価が問われている。

 「実体のない政治団体」についての検察の説明いかんでは、政治資金規正法によって検察が摘発し得る範囲は無限に広がる。そのような団体から政治献金を受けた政治家は、いつ何どき検察の摘発を受けるか分からない。実際に摘発されなくても、それは検察に「お目こぼし」をしてもらっているだけであり、まさに、検察が政治に対して圧倒的に優位に立つということに他ならない。

 これまで、政治資金規正法の基本理念である政治家の自主自律による政治活動と政治資金の透明化への取り組みは極めて緩慢なものだった。そのため、度重なる「政治とカネ」を巡る問題が発生し、その度に国民の強い政治不信を招き、最終的に、今回のような検察の捜査が行われる事態を生じさせることにつながった。

 両党の政治家は、まず、そのことを痛切に反省し、政治資金の「規正」の在り方全体について抜本的な見直しに取り組むべきだ。そのためにも、今回の事件についての検察の説明責任の問題から目をそらしてはならない。

「ガダルカナル」化する特捜捜査
「大本営発表」に惑わされてはならない
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090315/189047/

民主党小沢代表の公設第一秘書の大久保氏が東京地検特捜部に、政治資金規正法違反(政治資金収支報告書の虚偽記載罪)の容疑で逮捕されてからおよそ2週間。衆議院議員総選挙を控え、極めて重大な政治的影響が生じるこの時期に、比較的軽微な政治資金規正法違反の事件で強制捜査に着手した検察側の意図、捜査の実情、今後予想される展開が、おぼろげながら見えてきた。

捜査は当初から想定された展開ではない

 この時期に検察があえて強制捜査に着手したことについて、「国策捜査」などの見方もあったが、どうやら、今回の検察の強制捜査着手は、これ程までに大きな政治的影響が生じることを認識したうえで行われたのではなく、むしろ、検察側の政治的影響の「過小評価」が現在の混乱を招いているように思える。

 その推測の根拠は、今回の強制捜査着手後に、東京地検の特捜部以外の他の部のみならず、全国の地検から検事の応援派遣を受けて行われている事実だ(3月8日付毎日)。

 検事の異動の大半は、定期異動で行われる。全検事のうちの3分の1近くが一斉に異動する年度末を控えたこの時期、事件の引き継ぎの準備を行いながら、捜査・公判の日常業務を処理しなければならない全国の地検はただでさえ多忙だ。そのような時期の応援検事派遣には検察部内でも相当な抵抗があるはずである。

 ましてや、今年5月には裁判員制度の施行を控えており、検察は、この制度を円滑に立ち上げることに組織を挙げて取り組んできたはずだ。この時期、定期異動に伴う繁忙を克服して、裁判員制度開始に向けての総仕上げを行うことが、裁判員制度導入の中心となってきた樋渡利秋検事総長の下の検察にとって、何はさておいても優先させなければならない事柄だったはずだ。

 そのような時期に、今回の特捜捜査に大規模な戦力投入が行われていることで、検察の他の業務に重大な影響が生じていると思われる。特捜部が担当する脱税事件、証券関係の事件の捜査処理の遅延だけではなく、裁判員制度の対象となる一般刑事事件を扱う検察の現場も相当な影響を受けているであろう。

 今そういう事情がありながら、あえて応援検事派遣も含む捜査体制の増強を行ったのであれば、よほどの事情があるからであろう。それは、強制捜査に着手したところ、民主党サイドの猛反発、強烈な検察批判などによって、予想外に大きな政治的・社会的影響が生じてしまったことに驚愕し、批判をかわすため、泥縄式に捜査の戦線を拡大しているということではないか。当初から、他地検への応援要請が必要と考えていたのであれば、強制捜査着手を別の時期に設定していたはずだ。

 民主党サイドだけへの偏頗な捜査と言われないように自民党議員にも捜査対象を拡大させる一方、小沢氏側に対しても、何かもっと大きな容疑事実をあぶり出すか、秘書の逮捕事実が特に悪質であることを根拠づけることが不可欠となり、その捜査のために膨大な人員を投入しているというのが実情だろうと思われる。

「大本営発表」を垂れ流す新聞、テレビ

 では、このような東京地検特捜部の捜査は、果たしてうまくいくのであろうか。

 3月11日の記事でも述べたように、今回、逮捕容疑の政治資金規正法違反事件には、「寄附者」をどう認定するかという点に関して重大な問題がある。献金の名義とされた西松建設のOBが代表を務める政治団体の実体が全くないということでなければ、大久保容疑者が西松建設の資金による献金だと認識していても収支報告書の虚偽記載罪は成立しない。そして、政治団体には実体が存在するかどうか疑わしいものが無数に存在するのであり、新聞では報じられていないが、この政治団体には事務所も存在し、代表者のOBが常駐し、一応活動の実態もあったという情報もある。団体としての実体が全くなかったことの立証は容易ではなさそうだ。

 もちろん、資金の拠出者の企業名を隠して行われる政治献金が、政治資金の透明化という法の趣旨に反することは明らかだが、そのことと犯罪の成否とは別の問題だ。とりわけ、政治に関する事件の処罰は厳格な法解釈の制約内で行わなければ、検察の不当な政治介入を招くことになる。

それに加え、自民党サイドへの捜査も、逮捕事実の悪質性を根拠づけるための捜査も順調に進んでいるとは到底思えない。特捜部の捜査は、戦略目的も定まらないまま、兵力を逐次投入して、米国軍の十字砲火の中に白兵銃剣突撃を繰り返して膨大な戦死者を出し、太平洋戦争の戦局悪化への転換点となったガダルカナル戦に似た様相を呈している。

 こうした状況の下で、新聞各紙は連日、1面トップで、今回の事件の捜査の展開や見通しを報じている。従来は、特捜事件に関する報道が「検察リーク」によるものと批判されてきたこともあって、記事は、「関係者によると」としたうえで、被疑者側の犯罪性や悪性に関する事実が述べられ、そこには「東京地検特捜部もこの事実を把握しているもよう」とつけ加えられるというのが、一つのお決まりのパターンだった。捜査機関側ではなく、被疑者側などの関係者への独自取材によって事実を把握し、その事実を捜査当局が把握していることも関係者側から聞いた、という前提の記事だ。被疑者側が自らに不利なことをベラベラしゃべり、また、それを特捜部側が把握していることまで教えてくれるということは考えにくいことだが、こうすれば一応外形的には「検察リーク」が否定できる。

 ところが、今回の事件の報道はやや雰囲気が異なる。新聞、テレビの特捜捜査報道では、「特捜部は…の調べを進めるとみられる」「特捜部は…と見ているもようだ」というような表現が目立つ。特捜部の捜査の意図・目的を推測しているような表現だが、何を根拠に推測しているのかはよく分からない。単なる憶測では記事にはならないはずであり、記事にするだけの根拠があるとすれば特捜部側に何らかの確認を取っていると考えるべきであろう。まさに「なりふり構わず」という感じで、検察当局側からの情報が垂れ流されているようだ。

 このような報道は、ある意味では捜査の動きを国民に伝えることにつながっていることも確かであり、捜査の動きが全く報じられないよりはましと言えなくもない。しかし、質問・疑問に答えることも、批判・反論を受けることもないという点では、捜査機関側の会見などの正式な広報対応に基づく報道とは決定的に異なる。当局にとって都合の良い情報だけが一方的に報じられるという点で、むしろ、戦時中の「大本営発表」とよく似ていると言うべきであろう。

捜査の現状と見通しを検証することが必要

 太平洋戦争中の日本では、連日、「大本営発表」によって、帝国陸海軍の戦果ばかりが報じられた。ミッドウェー海戦での海軍の大敗、ガダルカナル戦での陸軍の大敗を機に戦局が急速に悪化していることは全く報じられなかった。

 そして、大本営発表による華々しい戦果ばかりを聞かされていた日本の国民は、戦況を客観的に認識することもできず、「帝国陸海軍の不敗神話」を信じ破滅的な敗戦に巻き込まれていった。

 日本は、その敗戦から復興し、奇跡の経済成長を遂げ、世界第2位の経済大国となったが、昨年秋以来の未曽有の経済危機によって、経済の基盤が根底から揺らぐ深刻な事態に陥っている。そうした中で行われている今回の特捜捜査は、経済対策を主導すべき政治の世界を大混乱に陥れているだけでなく、バブル経済崩壊後の最安値を更新した証券市場の下落などの経済問題から国民の目をそらす結果にもなっている。

 政治の世界の透明化を目的とする政治資金規正法違反の事件の捜査を、重大な政治的影響を与えつつ行っているのだから、捜査機関の側にも可能な限り透明化、説明責任を果たすことが求められるのが当然だ。しかし、残念ながら、現在まで検察はその責任を全く果たしておらず、その代わりに行われているのが、捜査の成果を一方的に報じる「大本営発表」だ。そうであるのなら、その「大本営発表」を客観的に分析し、捜査の現状と見通しを可能な限り検証してみることが必要であろう。

二階氏側への捜査には政治資金規正法の「大穴」

 まず、二階氏側に対する容疑事実の1つは、派閥の政治資金パーティー券を西松建設のOBが代表を務める政治団体の名義で購入していた問題だ。これについては、今回の逮捕容疑の小沢代表側への寄附と同様の問題がある。政治資金規正法は、資金の拠出者の公開までは求めていないので、西松建設が政治団体の名義でパーティー券を購入したとしても、ただちに違法となるわけではない。その政治団体が全く実体のないダミーで、しかもそれを二階氏側が認識していたことが立証できなければ違反には問えない。

二階氏側への「裏金供与疑惑」問題も報じられた。3月8日付の毎日新聞は、西松建設が「二階俊博経済産業相側に直接、現金を提供していた疑いがあることが、関係者への取材で分かった。政治資金収支報告書には記載されていない『裏献金』の可能性もあるとみられる」と報じている。この事実は最も悪質な政治資金規正法違反として立件可能と思われるかもしれない。

 しかし、そこには政治資金規正法の「大穴」が立ちはだかる。それは、政治家側に直接渡った裏金について、政治資金規正法違反の事実をどう構成するかという問題だ。

 政治資金規正法は、政党や政治団体の会計責任者に政治資金収支報告書の作成・提出を義務づけている。国会議員であれば、個人の政治資金管理団体のほかに、代表を務める政党支部があり、そのほかにも後援会など複数の政治団体があるのが一般的だ。このような政治家が、企業側から直接政治献金を受け取ったのに、領収書も渡さず、政治資金収支報告書にも全く記載しなかったとすれば、政治資金の透明化に露骨に反する最も悪質な行為だ。

 しかし、このような「裏献金」の事実について政治資金規正法違反で刑事責任を問うとすれば、どう構成すれば良いのか。違反事実として考えられるのは、企業等は政党または資金管理団体以外に対して寄附をしてはならないという規定に違反する寄附を受領した事実か、受領した寄附を収支報告書に記載しなかったという虚偽記載の事実だ。その「裏献金」が、政治家個人に宛てたものか、資金管理団体、政党支部などの団体に宛てたものかがはっきりすれば、政治資金規正法のどの規定に違反するのかが特定できる。しかし、裏金は、最初から寄附を表に出すことを考えていないのだから、政治家個人宛か、どの団体宛かなどということは考えないでやり取りするのが普通だ。結局、「政治資金の宛先」が特定できないので、政治資金規正法違反の事実が構成できず刑事責任が問えないのだ。

 自民党長崎県連事件の場合は、「裏献金」が、正規に処理される「表の献金」と同じ形態で授受されていたので、個人ではなく県連宛の寄附と認定することが容易だった。しかし、政治家個人が単独で受け取った場合のように、政治資金の宛先がはっきりしない場合には、違反事実の特定は困難だ。

 同じ政治献金でも、職務権限との関係が立証できないために賄賂にならない「贈収賄崩れ」のような裏金のやり取りは、政治資金の透明化という法の趣旨から言うと最も悪質な行為であるにもかかわらず、違反の立件が著しく困難なのだ。

 かねて政治資金規正法は「ザル法」だと言われてきた。しかし、実は、そのザルの真ん中に「大穴」が空いているのだ。政治資金規正法の罰則は、刑事処罰の一般的な考え方になじまない面がある。悪質な違反行為の一部に例外的に適用できる武器でしかない。

 このような立件の困難さがようやく認識されたためか、二階氏側への裏金寄附に関する記事は、その後はほとんど報じられていない。自民党サイドへの捜査の展開は著しく困難な状況になっているものと考えられる。

ゼネコン捜査は無謀な「白兵突撃」

 それに代わって、にわかに活発になったのが、東京地検特捜部が東北地方の大手ゼネコンなどの一斉聴取に乗り出したことを報じる「大本営発表」だ。3月12日には、「東北の業者一斉聴取」(朝日)、「ゼネコン数社を聴取」(読売)などの見出しの記事が一面トップを飾っている。

 これらの記事によると、代金の水増し支払いなどでゼネコン側が資金を負担して下請け業者に献金をさせる「迂回献金」が小沢氏側に行われており、その背景に公共工事を巡る談合構造が存在したとのことだ。これらの捜査の意図はどこにあるのだろうか。

 まず、この「迂回献金」や公共工事を巡る談合などに関する小沢氏側の新たな犯罪事実を立件できる可能性はほとんどないと言ってよいだろう。

「迂回献金」は、政治資金の寄附行為者の開示だけが義務づけられ、資金の拠出者の開示を求めていない現在の政治資金規正法上は違法ではない。また、2005年の年末、大手ゼネコンの間で「談合訣別宣言」が行われ、2006年以降は、公共工事を巡る談合構造は一気に解消されていった。現時点では2006年3月以前の談合の事実はすべて時効が完成しているので、談合罪など談合の事実自体の立件は考えにくい。また、談合構造を前提にした「口利き」などでのあっせん利得罪の時効期間も同じであり、立件は考えられない。

 そうなると、今回の建設業者への捜査は、新たな犯罪の立件のためではなく小沢氏の秘書の逮捕事実の悪性を根拠づける証拠の収集のための捜査としか考えられない。

 実際に、それ以降の新聞記事には、「特捜部は、西松建設による違法献金の背景にある、東北地方の談合構造を調べている」(3月14日付読売)、「東京地検特捜部は、ゼネコン各社も同じ趣旨で代表側に献金を続けていた疑いがあるとしてダム工事をめぐる受注経緯の解明を捜査の焦点の一つとしている模様だ」(同日付朝日)などと、捜査の目的が談合構造の解明、とりわけダム工事と政治献金との関係の解明にあることが報じられている。

 中には、「小沢代表はこれまでの記者会見などで、『公共工事について、口利きやあっせんを行った事実は一切ない』などと話している」(3月14日付読売)と、わざわざ小沢氏の会見での言葉を引用して、小沢氏の特捜捜査批判の矛盾を強調したり、「ゼネコン関係者は『東北の公共工事で小沢事務所の影響力は絶大。大久保さんが了承しないと、チャンピオンは最終決定とはならなかった』と証言している」(14日付産経)などと、既に、特捜部が小沢事務所の談合受注への影響力の解明という「大戦果」を挙げたように報じている記事もある。

 これらの「大本営発表」によれば、今回の大手ゼネコンなどへの一斉聴取の目的は、東北地方の公共工事を巡る談合構造の下での受注者の決定に大久保容疑者が強い影響力を持っていたこと、小沢氏側への政治献金は、談合受注の見返りの趣旨だったことを明らかにすることで、逮捕容疑となった西松建設側からの政治献金が実質的に贈収賄に近いものだったという事件の悪性を立証することにあるようだ。

単純ではない談合受注の構造

 しかし、前に述べたように、そもそも、この政治献金が違法と言えるかどうかに重大な問題があることに加えて、仮に違法であったとしても、3月11日の記事でも述べたように、談合受注の構造は決して単純なものではない。

 ゼネコン間の談合構造の下での公共工事の受注者決定は、受注希望の有無、技術力、経営規模、同種工事や近隣工事の受注実績、発注者への協力の程度など様々な要因を考慮し、さらに、自治体の首長や有力政治家の意向なども考慮して受注予定者を絞り込んでいくという複雑なメカニズムだった。この中での個別の工事の受注と、個別の政治献金との対価関係は、必ずしも直接的なものではない。

 朝日新聞などでは岩手県内のダム工事の一部を西松建設が受注したことと逮捕容疑の小沢氏側への政治献金の関係を問題にしているが、国土交通省発注の工事について、発注者側への影響力を有しているとは思えない野党側の小沢氏側に、果たして、談合による受注者の決定に影響を及ぼすことが可能なのであろうか。しかも、このダムは総工費2000億円を超える巨大なダムであり、10年以上も前からの企画・設計の段階で、ゼネコン側から発注者への協力が行われ、その積み重ねが落札につながる。入札に近い時期の政治献金が直ちに受注に結びつくような単純な話ではない。

談合受注に影響力を与え得るのは、基本的に「客先意向」つまり、発注官庁側から何らかの意向が示された場合だ。政治家の「口利き」の影響力も発注者側への働きかけを通して及ぼされるのが通常だ。小沢氏側がその「客先意向」に影響を及ぼし得るとすれば、まず考えられるのは地元の岩手県だが、当時の県知事の増田寛也氏(前総務大臣)が、地元紙の取材に対し、「2期目(1999年~2003年)以降は小沢氏との関係が疎遠になり話もほとんどしていない」といった趣旨のことを述べている(3月16日付岩手日報)。岩手県での発注者への「口利き」の立証は極めて困難だ。

 小沢氏側が、西松建設だけではなく、他の大手ゼネコンからもかなりの額の政治献金を受けることができたのは、岩手県を中心に地域社会での有力者だったことによるものであろう。地域の有力者には、「あいさつ」をして、つながりを保っておくことで、受注の邪魔をされないようにする必要があり、そのために、「保険料」的な意味で政治献金を行ったというのが実態であろう。

捜査の早期終結と政治資金の透明化に向けて取り組みを

 このように考えると、東北地方のゼネコン関係者の一斉聴取によって、逮捕容疑の政治資金規正法違反の悪性の立証につながる証拠の収集に関して具体的な「戦果」が挙がっているとは考えられない。

 しかも重要なことは、ゼネコン間の談合構造は2006年以降解消され、その後は、むしろ、猛烈なダンピング競争になっているということだ。「過去の遺物」となった談合構造を、3年以上も経った今になってあたかも現在も続いているかのように問題にされるのは、経済危機による深刻な経営悪化に直面する大手ゼネコンにとって迷惑極まりない話だ。

 今回の特捜捜査は、政治的にも極めて重大な影響を生じさせているだけでなく、経済社会的にも深刻な影響を与えている。しかも、裁判員制度の施行を控えた時期に、膨大な人員が今回の事件の捜査に投入されることは、制度の円滑な施行に向けての総仕上げの準備業務にも影響を生じさせることになりかねない。

 私は決して裁判員制度に賛成ではないし、これまで、様々な形で反対の意見を表明してきた(「裁判員制度が刑事司法を崩壊させる」など参照)。しかし、そのような反対意見にも全く耳を貸さず、ここまで裁判員制度の導入に向けて突き進んできたのが検察だ。制度の施行まで2カ月、もはや導入がどうしても回避できないところまできたのであれば、せめて制度導入のために最後まで最善の努力を尽くしてほしい。今になって「裁判員制度などそっちのけ」で今回の事件に膨大な労力をかけるのは、あまりに無責任ではないか。

 ガダルカナルの緒戦、わずか2000名の一木支隊は、帝国陸軍の伝統的戦法である「白兵銃剣による突撃」をもってすれば米軍の撃破は容易だと信じて1万3000人の兵力の米軍基地に突撃し、ほとんど全滅した。しかし、「帝国陸軍の不敗神話」を信じた日本軍は、兵力を逐次投入し、2度にわたる総攻撃を行って惨敗を喫し、その後も撤退の決断が遅れたために膨大な数の兵士が島に取り残されて餓死した(『失敗の本質~日本軍の組織論的研究』戸部良一ほか)。

 そして、ようやく日本軍が撤退の決断をした際、大本営発表は次のように報じた。

 「ソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は昨年8月以降、激戦敢闘克く敵戦力を撃摧しつつありが、その目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり」

 今回の事件の捜査の経過と現状が、これまで述べてきた推測の通りなのであれば、展望のないまま捜査をこれ以上長期化・泥沼化させることは絶対に避けなければならない。それは、ただでさえ政治、経済の両面で危機的な状況にある日本を一層深刻な状況に陥れることになりかねない。

 検察は、「特捜不敗神話」へのこだわりを捨てて事件を早期に決着させ、今回の捜査の目的と経過について国民に説明責任を果たすべきだ。そして、政治の世界では、この事件を機に、与野党ともに政治資金の現状についての自主的な調査を行うこと、政治資金規正法の「大穴」をふさぐための立法措置を行うことなど、政治資金の透明化に向けての具体的な方策を講じ、極限に達している政治不信の解消に努めるべきだ。

代表秘書逮捕、検察強制捜査への疑問
民主党は率直に反省し、政治資金透明化の好機とせよ
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090310/188674/

遅くとも半年余り先には「天下分け目」の衆議院議員総選挙が確実に行われるという時期に、世論調査では、次期総理候補の人気で麻生首相を圧倒的にリードしている民主党小沢一郎代表の公設第一秘書が、東京地検特捜部に逮捕され、日本中に大きな衝撃を与えた。

 容疑は、政治資金規正法違反。小沢氏の資金管理団体である陸山会が、西松建設から政治資金の寄附を受け取ったのに、それを同社のOBが代表を務める政治団体からの寄附であるように政治資金収支報告書に記載したことが虚偽記載に当たるというものだ。

 これに対して、小沢氏側は、記者会見で、容疑を全面的に否定、検察の捜査が不公正だと批判、民主党側からは「国策捜査」との批判も行われた。その後、小沢氏の会見での発言内容に反する事実が各紙で大きく報じられたこともあって捜査批判はトーンダウンしつつあったが、内閣官房副長官が「自民党側には捜査は及ばない」と発言したことが問題になったこともあって国策捜査批判が再燃。検察は、他地検の検事も増員して同じ政治団体から寄附等を受けていた自民党側議員にも捜査の対象を拡大すると報じられている。

 100年に1度とも言われる経済危機が深刻化する最中、政治を大混乱に陥れている今回の事件だが、検事時代、自民党長崎県連事件など多くの政治資金規正法違反事件を捜査してきた私の経験からすると、今回の検察の捜査にはいくつかの疑問がある。

 しかし、小沢氏はその問題とは切り離して今回の問題について率直に反省し、民主党は政治資金の透明化に向けて新たな取り組みをしていく好機と捉えるべきである。

違反の成立に問題はないのか

 まず、小沢氏側の会計処理が本当に政治資金規正法違反と言えるのかどうかに問題がある。

 この法律では、「寄附をした者」を収支報告書に記載することとしており、陸山会の収支報告書では西松建設のOBが設立した2つの政治団体が寄附者として記載されている。その記載が虚偽だというのが今回の容疑だが、政治資金規正法上、寄附の資金を誰が出したのかを報告書に記載する義務はない。つまり、小沢氏の秘書が、西松建設が出したおカネだと知っていながら政治団体の寄附と記載したとしても、小沢氏の秘書が西松建設に請求書を送り、献金額まで指示していたとしても、それだけではただちに違反とはならない。

 政治資金規正法違反になるとすれば、寄附者とされる政治団体が実体の全くないダミー団体で、しかも、それを小沢氏側が認識していた場合だ。捜査のポイントはこの点を立証できるかどうかだが、全国に数万とある政治団体の中には、政治資金の流れの中に介在するだけで活動の実態がほとんどないものも多数ある。西松建設の設立した政治団体が全く実体がないダミーと言えるのかは、微妙なところだ。

 もちろん、政治資金の流れの透明性を高めるという政治資金規正法の目的から考えると、実質的な拠出者も収支報告書に記載して公表するのが望ましいことは確かだが、政治資金の規正は、ヤミ献金をなくし、収入の総額を正確に開示することを中心に行われてきたのが現実で、資金の実質的拠出者の明示の公開とは程遠い段階だ。法律の趣旨を達成するために今後実現していくべきことと、現行法でどこまで義務付けられ、罰則の対象とされているのかということとは別の問題だ。

小沢氏が会見で「資金の出所は詮索しない」と発言したこともあって、資金が西松建設から出ていることを小沢氏側が認識しているかどうかに関心が集中し、あたかもそれが捜査のポイントであるように報じられているが、違反の成否という点からすると、問題は、政治団体が実体のないダミーと言えるかどうか、それを小沢氏側が認識しているかどうかだ。

事件の重大性・悪質性はこの時期の摘発に値するものか

 今回の事件は、総選挙を控えた時期に次期首相の筆頭候補と言われていた野党第一党党首の秘書を逮捕することで重大な政治的影響を及ぼした事件だ。この事件は、こうした重大な影響を生じさせてまで強制捜査に着手すべき事件と言えるのか。

 これまで政治資金規正法で摘発されてきた事件は、違反の態様が特に悪質か、金額が多額か、いずれかであった。

 政治資金規正法は、昔はほとんど形骸化していた。1990年代までは、政治資金規正法のルールを完全に守っている政治家などほとんどいなかったのではないか。2000年以降、政治とカネの問題が取り上げられる度に、政治資金の透明化の要求が高まり、少しずつではあるが透明化の方に向かってきた。

 今回の容疑事実の大部分は2003年から2004年にかけてだが、ちょうどこの時期に摘発された自民党長崎県連事件、日歯連事件、坂井隆憲代議士事件などと比較すると、寄附の総額が4年間で2100万円、しかも、すべて表の寄附で、その寄附の名義を偽った疑いがあるというだけの今回の事件は、規模、態様ともに極めて軽微であることは否定できない。むしろ、この当時の政治献金は、大手ゼネコンから政党や政治家への寄附は、自社の名義で行われるとは限らず下請業者、取引先業者に行わせたり、今回の事件のように政治献金をするための政治団体を設立して行ったりしていたものも多かった。

 しかも、このような政治献金の見返りとして個別の工事の受注が可能になるような場合であれば、職務権限の関係で贈収賄にはならなくても、一つの悪質性の要素になると言える。しかし、具体的な公共工事の受注との間に直接的な対価関係があるかというと、それはほとんどないというのが実情だった。

 業者間の話し合いや情報交換が行われて、その中でどこかの特定の会社に受注予定者が絞り込まれていくのがゼネコン間の談合システムだった。技術力や実績、工事の特性、発注者側への事前協力の有無など、いろいろなことを考慮して受注予定者を1社に絞り込んでいく。その過程で、発注者側の有力者や、地域の有力者などにも、受注業者となることについて了解を得て、関係者すべてのコンセンサスを得ておく必要があった。それをやっておかないと、入札直前になって横やりを入れられ、そのコンセンサスが崩れてしまう恐れがある。そうすると、せっかくの苦労が水の泡になり、入札前に施工の準備まで整えていたのに、すべて無駄になってしまう。

 そこで有力者にはいろいろなところに目配りをして挨拶をして、最後の最後に、文句を言われないようにしないといけない。そういう挨拶の構図が重畳的に出来上がっているというのが一般的だった。その有力者については、与党の県連の幹事長が力を持っていたり、あるいは議長が力を持っていたり、知事が力を持っていたり、あるいは有力代議士が力を持っていたりなど、いろいろだ。しかも、それは業界内で有力者と認識されているだけで、本当に力を持っているかどうかは分からない。受注業者側は「保険料」のつもりで、有力者と思えるところに挨拶に行き、求められればお金も持っていくという世界だった。そういう談合の構図なので、いくら調べても直接的な対価関係は出て来ない。

 そういう構造というのは、当時はほとんど全国共通だったと考えられる。政治献金というのが特定の工事における受注の対価だということ、対価の明確性を持っているということはあまりない。本件についても、ダム工事を西松建設が受注していたことと政治献金との直接的な対価関係があるとは考えにくい。しかも、小沢氏は、この当時、自由党の党首から民主党との合流で民主党副代表になった時期、国発注のダムについて発注者側に対する影響力があるとは考えられない。有力者と言っても、工事を円滑に進めていくための地域のコンセンサスを得るための挨拶の一環と考えるのが自然だろう。

2005年末の談合排除宣言によってゼネコン間の談合構造が解消され、政治献金をめぐる構図も大きく変わっていった。それ以前の過去の時点に遡れば違法の疑いがある政治献金は相当数あるはずだが、こうした過去の一時期に形式的に法に違反したというだけで摘発できるということになると、検察はどの政治家でも恣意的に捜査の網にかけることが出来てしまう。政治資金規正法で摘発する事件は、他の政治家が一般的に行っているレベルよりも明らかに悪質性が高い事案、収支報告書の訂正などでは済まされないような事案でなければならない。

 新聞報道などでは、事件の悪性を可能な限り強調しているように見えるが、そのような報道を見る限りでも、今回の事件が、このような時期に、重大な政治的影響を与えてまで強制捜査を行うべき悪質・重大な政治資金規正法違反とは思えない。

小沢氏・民主党側の対応は適切だったか

 小沢氏は、今回の秘書逮捕を受けて、翌日、記者会見を行い、検察の捜査を「従来のやり方を超える異常な手法。政治的にも法律的にも不公正な国家権力、検察権力の行使」と批判し、秘書の政治資金規正法違反の事実に関して、「政治団体からの献金と認識しており、金の出所を詮索することはない」と言って、容疑を全面的に否定した。これを受けて、民主党の鳩山幹事長も、「国策捜査のような雰囲気がする」などと検察を批判した。

 これらの対応が、今回のような事件で秘書が逮捕され、政治生命にも関わる重大な危機に直面した時の野党党首の対応として適切だったと言えるであろうか。

 まず、検察の捜査を「異常な手法、不公正」と批判した点である。鳩山幹事長の「国策捜査」発言と相まって、民主党全体が、検察捜査を批判し全面対決をしようとしている印象を与えることになった。予想していなかった秘書の逮捕で精神的に動揺し、感情的になっていたのかもしれない。しかし、「国策捜査」というのが政府・与党と結託して政治的意図で捜査を行うことという意味であれば、検察がそのような捜査を行うことはあり得ない。検察自身の捜査方針が政治的意図に影響される余地が全くないとまで断言はできないが、その点は、摘発された事件の中身が明らかになってから、具体的に問題を指摘すべきだ。強制捜査着手直後の段階で「国策捜査批判」を展開することは、そのような不当な捜査が一般的にもあり得るという前提で批判しているように受け取られかねない。

 同様に、不適切であったのは、「金の出所を詮索することはない」と述べた点である。企業が資金を出して政治献金を行う場合、その企業からのものであることを政治家の側に認識してもらわなければ献金する意味がない。政治団体の政治献金の資金の拠出者が西松建設だったのであれば、少なくともその点についての認識があると考えるのが常識であろう。その常識に反する弁明をしたために、その後、新聞で、秘書と西松建設側が直接献金先についての話をしていたことなど、弁明を覆す事実が指摘され、イメージを悪化させることにつながった。

 しかも、前に述べたように、政治資金規正法違反の成否のポイントは、西松建設が資金の拠出者であったことの認識があったかどうかではない。政治団体が実体のないダミーであったか否か、その点について小沢氏側に認識があったか否かなのである。会見での小沢氏の弁明が、議論の焦点をそのポイントからずらすことにつながった。

このような小沢氏の不適切な対応に同調したために、民主党全体に対する国民のイメージも少なからず悪化することになった。対する麻生内閣の方も、あまりに不人気であることから、支持率の極端な悪化にはつながっていないが、そうでなければ、与野党の支持率の関係に決定的な影響を及ぼしかねない対応であった。

民主党は今後どうすべきか

 では、今後、民主党は、どうすべきか。

 ここで何より重要なことは、政治資金規正法違反の成否という法的責任の問題と、「政治資金の透明化」に向けての政党としての取り組みの問題とを区別することだ。

 検察の摘発は、厳格な法解釈により、しかも厳正中立、不偏不党の姿勢で行われなければならないことは言うまでもない。今回摘発された事件が本当に違法だと立証できるのか、それが強制捜査、逮捕という手法が事件の中身と比較して適切か、という点に疑問の余地があることは既に述べたとおりである。しかし、それは、検察の責任において明らかにすべき事柄であり、そのことと、民主党という政党が、政治資金の透明化に対してどのような姿勢で、どのような取組みをすべきかとは別問題である。

 今回問題にされている政治献金について、小沢氏側が西松建設からの資金と認識していたとしても、それだけでは違法とは言えない。しかし、それは、与党も含む政治家の政治資金処理の実情が、まだまだ透明とは到底言えない現状の下で、政治資金規正法という法律による規正のレベルが、その程度にとどまっているということであって、この数年、野党第一党として、政治資金の透明化を一層進める取り組みをしてきた民主党が「違法でなければよい」などという考え方で対応してもよいということでは決してない。

 民主党は、党首の政治資金に関して検察の摘発を受けたことを機に、全議員の政治資金に関して、政治献金の実質的な拠出者を明らかにするための緊急調査に着手し、その結果を国民に開示すべきである。そして、国会議員に、寄附の受領又は政治資金パーティーの購入に当たって資金の拠出者を確認する義務を課す政治資金規正法の改正を政権公約に掲げるべきである。それが、民主党にとって「法令遵守」から脱却し、「社会的要請に応えること」に向けての行動と言えるであろう。

「公共工事受注企業からの政治献金の全面禁止」はどこへ

 今回の事件の政治献金が行われたのと同時期の2003年の早春、長崎は燃えていた。

 検事の数が野球チームにも満たない日本最西端の中小地検、長崎地検が、全庁一丸となって取り組んだ半年にわたる検察独自捜査。その苦闘の末にたどりついたのが、自民党長崎県連事件だった。県連幹事長らによるゼネコン各社への県発注工事の受注高に応じた露骨な寄附要求の実態を明らかにし、政党への政治献金に対するものとしては史上初めての公選法の罰則適用を行い、直前に議員辞職していた県連幹事長と事務局長を逮捕、ゼネコンから県連への多額のヤミ献金の事実をも暴き出し政治資金規正法違反で起訴。パーティー券収入を裏金にした同法違反で県議会議長を略式起訴し、公民権停止で失職に追い込んだこの事件は、政権政党の地方組織の不正に斬り込んだ事件として全国的にも大きな注目を集め、国会での「政治とカネ」をめぐる論議のきっかけにもなった。

 この時、国会で、小泉自民党の追及の先頭に立ったのが菅代表率いる民主党、それを受けて民主党が打ち出したのが「公共工事受注企業からの政治献金の全面禁止」のマニフェストだった。

 公正で清潔な政治を追求していた、あの時の民主党はどこに行ってしまったのか。

 今回の事件を機に、民主党が、政治資金透明化に向けて大きく動き出せば、旧来の自民党の体質にも大きな脅威となるであろうし、それによって自民党が変わることは、日本の政治全体を大きく変えることになるかもしれない。

 小沢氏は、検察との無用な対立・対決などに国民の関心を向けさせてはならない。法的責任については、反論・主張を刑事手続の中で粛々と主張し、適切な判断を期待していくほかない。談合構造解消前の過去のことであり、違反の成否、事案の重大性と摘発の相当性には反論の余地があったとしても、結果的に政治資金の透明化が不十分であったことは否定できないはずだ。その点を率直に反省し、今回の事件による党内の混乱を一刻も早く収拾し、政治資金透明化に向けての取組みの環境整備に努めることが、多くの国民が次の政権を担う野党として期待している民主党の党首としての使命と言うべきではなかろうか。

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