2008年12月22日月曜日

【外交文書公開】 沖縄返還&核持込

<外交文書>米「核」寄港の容認を示唆 65年に佐藤首相
12月22日0時0分配信 毎日新聞
 
65年1月に佐藤栄作首相がマクナマラ米国防長官(肩書は当時)との会談で、核を搭載した米艦船の寄港を容認したと受け取れる発言をしていたことが、22日付で外務省が公開する外交文書で判明した。核の持ち込み問題で日米間に「密約」があったことをうかがわせる史料が、日本側にも残されていた。

 同月、首相として初めて訪米した佐藤首相は、13日にマクナマラ氏と45分間会談した。会談要旨によると、首相は中国が前年に行った核実験に触れ、「戦争になればアメリカが直ちに核による報復を行うことを期待している。(略)洋上のもの(核)ならば直ちに発動できるのではないかと思う」と述べた。マクナマラ氏は「洋上のものについてはなんら技術的な問題はない」と答えた。

 ただ佐藤首相は、日本の核兵器所有や使用には「あくまで反対である」と述べ、核兵器の日本の陸上基地への持ち込みは「発言に気をつけていただきたい」と否定的に語った。

 日米間の核問題に詳しい我部政明・琉球大教授(国際政治学)は、有事には日本近海での米軍の核搭載艦船の迅速な行動を佐藤首相が望んだと解釈できる、と指摘。これらの艦船が補給などで日本に寄港することになり、「首相は、核搭載艦船が事前協議の対象外として寄港することを前提に話したとみられる」と分析する。

 また会談でマクナマラ氏は、「日本がその防衛産業のなしうるような軍事的援助をアジアの諸国に与えることはできないであろうか」と、日本の武器輸出の可能性を質問。首相は、日本が生産していた宇宙開発用ロケットに言及して「必要があれば軍用にも使うことができる」と述べた。

 首相は「中共の核爆発の性質については昨夜(CIAから)説明を聞いた」とも発言。米中央情報局(CIA)が首相に中国の核実験の実態を説明していたことも判明した。首相がCIAに「ソ連、中共の地上設備」の衛星写真を示されたことは首相自ら日記などで記していたが、その一端が具体的に分かった。我部教授は「日本の情報収集力のなさを知る米国側は、国際情勢での首相の独断的な理解や不用意な発言をなくすため、CIAの情報を与えていた」と解説する。

 99年に公開された米側史料では、日米両国は60年の安保条約改定の前に、核兵器を搭載した米軍艦船の日本寄港などは、条約の付属文書で定める事前協議の対象としないと、秘密裏に合意していたことが判明している。

 佐藤首相は74年、非核三原則の提唱などが評価され、ノーベル平和賞を受賞した。

 ▽鈴木量博・外務省日米安全保障条約課長の話 日米間に「核密約」はない。佐藤首相の発言は、戦時において、洋上からの米の核抑止力の提供に一般的な期待を表明したものだと考えている。【鈴木英生】



【外交文書公開】核武装を「カード」にした佐藤首相の瀬戸際政策
2008.12.22 00:52 産経新聞

今回明らかになった外交文書は、佐藤栄作首相が「瀬戸際政策」を貫ける、わが国では希有(けう)な政治指導者であったことを、あらためて印象付けた。

 この瀬戸際政策の背景にあるのは、マクナマラ国防長官との会談3カ月前に成功した中国の核実験だが、これを機に米側に生じた「日本の核武装」への疑念を、佐藤氏は外交の切り札に利用した。佐藤氏が核武装を否定(私的には肯定)してもなお、米側は疑念を解かない。だからこそ、佐藤氏は、マクナマラ国防長官との会談前日のジョンソン大統領との会談で「核の傘」の保証を要請し、大統領に応じさせた。

 そして佐藤氏は、マクナマラ氏との会談で、たとえ通常兵器であっても、中国の日本に対する軍事行動には、「日本」ではなく、米国の核兵器で即時報復する方針を求めた。これは米側の懸念を逆手に取ったものだ。米戦略が明言されれば、これを中国側に認識させ、中国の侵攻を抑止することができるという計算が背景にある。

 実は、後の沖縄返還(1972年)に至る過程でも、佐藤氏は「核武装」を利用した。「核抜き・本土並み返還」を国民に約束する一方、米軍が沖縄を撤退すれば日本が核武装する雰囲気を醸成した。その結果、米軍基地・艦艇への「核持ち込み」と「核武装」は取引され、67年に佐藤氏が公表した「非核三原則」へとつながっていく。65年の段階で、マクナマラ氏に核持ち込み黙認を示唆したことは、その伏線であったといえよう。 

 「非核三原則」は、核兵器の「製造・保有・持ち込み」の禁止であった。その一つ「持ち込み」は積極的に黙認してきた。「非核」に加えて専守防衛という制約下では、他に国を守りようがないからだ。

 一方で「製造・保有」は佐藤内閣時代、関係組織で極秘裏に検討しており「はったり」ではなかったが故に、米国の譲歩を引き出すことに成功した。

 佐藤氏は「核武装論者」に限りなく近い「核の傘論者」であったのだ。

 核を「議論せず」を加えた「非核四原則」で、国は守れないことの歴史的証明である。(野口裕之)



【外交文書公開】戦時は中国に即時「核報復を」 佐藤首相が昭和40年に発言 マクナマラ米国防長官と会談時
2008.12.22 00:06 産経新聞

佐藤栄作首相が1965(昭和40)年1月、首相として初訪米した際のマクナマラ国防長官との会談で、中国と戦争になった場合には「米国が直ちに核による報復を行うことを期待している」と、先制使用も含めた核による即時報復を要請していたことが、22日付で外務省が公開した外交文書で明らかになった。


「瀬戸際政策」貫く 稀有な存在だった佐藤首相

 首相は「洋上のもの(核)ならば直ちに発動できるのではないか」と、核の持ち込み黙認とも受け取れる発言もしていた。首相が前日のジョンソン大統領との首脳会談で「核の傘」の保証を求めていたことはすでに明らかになっているが、先制核使用まで念頭に置いていたことが新たに分かった。

 マクナマラ長官との会談は、首相の宿泊先のブレアハウス(迎賓館)で行われた。首相は、日本は核開発能力を持つが核兵器製造の考えがないことを強調。米側に核の持ち込みに慎重な発言を求めたが、「戦争になれば話は別」と、米国が直ちに核で報復することへの期待を表明した。さらに洋上の艦船にある核兵器なら即時使用できるのではないかとの認識を付け加えた。


【外交文書公開】マクナマラ米国防長官とのやりとりの要旨
2008.12.22 00:30 産経新聞

佐藤栄作首相とマクナマラ米国防長官の主なやりとりは次の通り。

 長官 中国の核爆発(核実験)の性格が問題で、今後2、3年でいかに発展するかは注目に値する。問題は日本が核兵器の開発をやるかやらないかだ。

 首相 日本は核兵器の所有あるいは使用についてあくまで反対だ。技術的には核爆弾をつくれないことはないが、フランスのドゴール大統領のような考え方(独自の核兵器開発)は採らない。陸上への核兵器持ち込みについては発言に気を付けてほしい。もちろん、戦争になれば話は別で、米国が直ちに核による報復を行うことを期待している。その際、陸上に核兵器用施設を造ることは簡単ではないかもしれないが、洋上のものならば直ちに発動できるのではないかと思う。

 長官 洋上のものについてはなんら技術的な問題はない。日本の政治的な空気も漸次変わるのではないか。

 首相 日本が核兵器を持たないことは確固不動の政策だ。防衛産業育成の問題があり、差し支えないものは日本でつくりたい。


【外交文書公開】対中政策で仏に仲介要請 ニクソン訪中前に日本政府
2008.12.22 00:38 産経新聞

22日付で外務省が公表した外交文書で、1972(昭和47)年2月のニクソン米大統領訪中の直前に開かれた同年1月の日仏協議で、福田赳夫外相は大統領訪中後の明確な対中政策を示さない米国への苦言とも受け取れる発言をする一方、フランスに日中間の国交正常化の仲介を要請していたことが分かった。

 福田氏は中国をめぐる日米の「アプローチの違い」を強調。日本の頭越しに大統領訪中を準備した米政府への複雑な思いや、米中接近に焦りフランスを引き込もうとした様子がうかがえる。

 72年1月17、18両日の日仏協議で、福田氏はシューマン外相に対して、同月上旬に米国で開かれた日米首脳会談で米側がニクソン大統領の訪中について「訪問すること自体に意義がある」と説明したことを紹介。同時に「日本は日中国交正常化という明確な目標を持ち、そのために政府間の接触を行うことを考えている」と述べ「(米国と)アプローチの方法は異なる」と繰り返した。

外交文書:日本漁船拿捕「補償はバナナで」 中華民国打診
毎日新聞 22日
 
1954年に中華民国が日本に対し、拿捕(だほ)した日本漁船の補償金をバナナで支払う打診をしていたことが、22日付で公開された外交文書で明らかになった。「バナナ補償」は実現しなかったものの、当時の日本でバナナは高級品。打診を受けた議論は文書では判明しなかったが、心が動いていた可能性もありそうだ。

 日本政府は当時、台湾に逃れた中華民国政府を中国を代表する合法政府として承認していた。

 第二次世界大戦後、日本の船は連合国軍総司令部(GHQ)の「マッカーサーライン」によって活動領域が制限されており、47年11月~49年8月に東シナ海で中華民国に2隻が撃沈され、30隻が拿捕された。その後、日本政府は漁船の水揚げに相当する額の補償を求めていた。

 外交文書によると、こうした中、54年2月に中華民国側から一つの打診があった。

 「32隻のうち2隻の返還が決まったとの話がある。補償額は1隻当たり15万台湾ドル相当のバナナ。市場で買い付けたバナナを日本に送り、売上金をもって補償とする」。在日大使館から入った連絡はこういう内容だった。

 日本が求めた補償額が2隻で7600万円だったのに対し、当時の15万台湾ドルは360万円で、かなりの差があった。ただ、当時の日本でのバナナ1箱(45キロ)の市場価格は約2万5000円、輸入価格は約2700円。15万台湾ドルで購入できる60トンを売れば約3330万円となる計算だった。

 外務省は、バナナ補償不発の後、何らかの決着が図られたとみているが、記録は残っていないという。【篠原成行】

2008年12月18日木曜日

【遊びメモ】 安曇族

 時空の彼方に没し去ってしまった安曇野の古代風景・・・・峻厳な北アルプス山麓で営まれた「みすずかるまほろば安曇湖伝説」・・・・舟の民族、安曇族が辿った遙かなる安曇桃源郷への旅路・・・・そしてやがてくる舟の民族と馬の民族の激闘、「八面大王伝説」・・・・安曇と出雲に引かれた「点と線」・・・・飛鳥と安曇をつなぐ「時空のトンネル」・・・信濃善光寺と諏訪大社に秘められた「謎の真相」とは・・・・etc.
 「直観的場面構築手法」をもって大胆に描写する安曇野の古代史仮説

穂高神社境内に立つ安曇比羅夫の像
安曇比羅夫(阿部比羅夫)
 大将軍大錦中阿曇連比羅夫は、天智元年(662年)天智天皇の命を受け、船師170艘を率いて百済の王子豊璋を百済に護送、救援し王位に即かす。天智2年、新羅・唐の連合軍と戦うも白村江(朝鮮半島の錦江)で破れ、8月申戌27日戦死する。 9月27日の例祭(御船祭)の起因であり、阿曇氏の英雄として若宮社に祀られ、英智の神と称えられている。 伝統芸術である穂高人形飾物は、阿曇比羅夫と一族の勇姿を形どったものに始まると伝えられる。 (境内石碑より)

(一)舟の文化

 筆者は技術研究所を経営しているのであるが、県外の顧客に会社の住所にある安曇という文字を告げるのにいつも苦労する。「あづみ」がなぜに「安曇」になるのかが漢字文化に慣れている日本人をもってしても「ピン」とこないのである。

 安曇野の古代風景を語るには、まず日本民族成立の風景を描写しなければならない。日本文化の根源には「舟の文化」と「馬の文化」のふたつがあると言われる。舟の文化は南方系民族の文化であり、馬の文化は北方系民族の文化である。

 縄文の原住民が狩猟採集生活をする日本に稲作文明を携え南方から舟に乗ってやって来た人々がいる。日本人は「しゃがむ」という習性をもっている。田んぼのあぜ道で隣人と話すにしゃがみ、最近では夜更けの街の歩道で若者がしゃがむ。このしゃがむという習性は西欧や中国にはないものであり、特にインドシナ半島のタイやベトナムの人々に多く見られる。遺伝的視点で考えれば日本にたどり着いた南方系、舟の民族とはこのインドシナのタイやベトナムの人々であったかと思われる。

 この地方は古代より「タオイズム」の精神が伝わってきた風土をもつ。タオイズムはその地で「ヒンズー教」を、中国に伝わり「道教」を、その道教から「密教」を創始することにつながる。タオイズムとは陰陽の2気によって宇宙が構成されているという思想であり、その宇宙は「太極」と呼ばれる。
 ヒンズー教の男女交合神は現代感覚で見れば何と淫靡な像と言うことになるかもしれないがこのタオイズムで見れば、それこそが宇宙の姿なのである。密教の一教典である理趣経は奈良東大寺において毎日あげられるお経であり、この理趣経が男女の交合を述べた内容であることを知る人はあまりいない。

 このタオイズムの精神から考えられる人間像とは争いを好まず平々凡々のんびりと生きる自然人の姿である。住み着いた稲作文明を基とする南方系民族のこの穏やかな文化は「舟の文化」と呼ばれる。

 また話は脇道にそれるが密教を日本で創始した空海こと弘法大師は四国讃岐の人であり、幼名を「真魚(まお)」と言った。空海という名前もそうであるが彼の周りには「海のイメージ」が色濃く漂っている。青年僧空海が道を求めての山野彷徨の途上、奈良橿原にある久米寺で密教の一教典に巡り合う。瞬間に彼は仏法の神髄は密教にありとすべてを悟達したと言われている。後に中国唐の都、長安におもむき当時の密教座主、恵果に対面した彼は即座に伝法灌頂を授けられている。恵果はこの伝法を待っていたかのごとく、その後まもなくして静かに黄泉に旅立った。この時をもって密教の法灯は中国から日本に渡ったのである。
 これらの経過から素直に考えられることは空海自身がインドシナから密教の源流タオイズムの精神を背負って日本に渡ってきた舟の民族の末裔ではなかったかという推理である。
 また讃岐にある金比羅宮は日本では珍しく舟を祀った宮寺である。舟の民族は気候温暖な瀬戸内の讃岐に多く住み着いたということであろうか。

(二)馬の文化

 こうして穏やかに暮らしていた人々にもやがて転機が訪れる。「馬の文化」の到来である。

 馬の文化は北方系民族、つまり中国大陸の北部アルタイ民族に源を発する騎馬民族であろう。この北方系民族は南方系民族と異なり好戦的で気が荒い。これは温暖と寒冷の両者の気候の異なりがこの人格形成に多大に影響したものと考えられる。

 この騎馬民族が朝鮮半島を南下し日本に渡って来た。そしてそこに暮らす穏やかな南方系、舟の民族を圧迫する。この民族紛争の勝敗は明らかであり、好戦的で気が荒い北方系、馬の民族が勝利をおさめる。

 この間のくだりを語るものが日本神話に遺る「国譲りの話」なのではないかと私は考えている。また出雲の国に遺るさまざまな神話はその痕跡であろう。出雲の沖合いにある隠岐島で最後をとげた「大国主尊(おおくにぬしのみこと)」こそ舟の民族の族長であったのではないか。この尊に漂う徳性を備えた穏健でゆったりとした人格こそタオイズムから発生する南方系、舟の民族の特徴である。

 国の主権者はこの時をもって馬の民族に移り、その後この国には「馬の文化」が展開する。神話時代以後、日本史に史実として登場する大和朝廷とはこの北方系、馬の民族の末裔が樹立した政権である。現在の天皇家はこの血筋をくむものであるとされる。

 しかしこのふたつの異質の文化が極東の島国で出会い融合したことは歴史的に大きな意味をもった。日本民族の優秀さはこの文化の二面性の融合にこそある。

 日本人は温厚と過激の両面をもつ。切腹や神風特攻隊のような過激な行動は世界にも例がない。また広島、長崎に原爆を落とされても米国を強く恨むようなことをしない穏健さも兼ね備えている。
 また緻密さといいかげんさの両面をもつ。日本の工業製品の品質は世界一の緻密さから生まれ、日本の政治外交姿勢はまことにファジーそのものである。

 文明的に立ち遅れていた極東の島国が明治維新以来の近代化をまれにみる短期間で成し遂げ、GNP世界第2位になるほどに発展したことは歴史的奇跡であると言われる。この原因もまたこの南方系「舟の文化」と北方系「馬の文化」の融合にあったとすることができよう。

 日本人の顔もこのふたつの民族の顔が併存する。つまり「狸顔」と「狐顔」である。前者は南方系、後者は北方系である。この○と△の顔かたちでおおよその人格が確定する。それは狸と狐に代表される性格の違いであり、遙か時空の彼方にあった南方系と北方系の民族の血の異なりである。
 日本を訪れる南方系のベトナムやタイの人々の顔や北方系の韓国の人々の顔を眺める時、我々とのあまりの類似性に驚くのは私だけではあるまい。それは日本民族が背負った遠い過去の記憶の断象である。

 また日本人の宗教観も異質である。仏教あり、神教あり、キリスト教あり、道教あり、儒教あり等々。これらの宗教のすべてを許容する人間性はこれまた世界に例を見ない。この人間性もこのふたつの文化の融合によるところ大であろう。

(三)文字の表象

 日本の古代風景の説明はこのくらいにして、いよいよ安曇野の古代風景を描写してみよう。

 先年亡くなった歴史作家、司馬遼太郎氏によれば「安曇」とは海洋民族の一氏族であると言う。この海洋民族こそ南方系、舟の民族であり、この氏族が内陸に移り住み地名として痕跡を遺したのである。これと同様な地名として伊豆の「熱海」、東海の「渥美」をあげており、ともに舟の民族の足跡を地名として遺している。私はこれに「奄美」も入るであろうと考えている。九州と沖縄の間にある奄美諸島の奄美である。この島に伝わる風習や儀式の多くにインドシナ文化の特徴であるタオイズムが漂う。

 私は文字は時空の窓であると考えている。漢字は万物事象の形から創られた象形文字であり、文字自身が意味を顕わす「表意文字」である。かたや西欧の文字は「表音文字」と呼ばれ、音を顕わす文字でしかない。
 漢字は現代人が忘れ去ってしまった幾つかの過去時空の物語を動物の化石や文明の遺跡と同じようにその文字の中に遺している。難しく言えば時空が文字の中に「表象」しているのである。

 文字を眺めているとその文字という窓から過去時空の風景がかいま見えてくる。つまり、現代の日本人がピンとこない「安曇」という文字には安曇野が辿った過去時空が表象しているのである。

 日本文化の中核を成す漢字文化はこの意味で貴重な文化遺産である。

 安曇野の人々の祖先は舟の文化を背負いインドシナ→奄美→渥美→熱海→安曇と遙かな歴史を旅をしてきた性格穏やかな南方系民族である。

 安曇野のほぼ中央に位置する穂高神社では舟が祀られていると聞いた。この島に渡った原因でもある舟を祀るのに何ら疑問はなく、これもまた安曇人が南方系、舟の民族であることの痕跡であろう。

 安曇野には漢字よりも古い日本最古の文字「アヒル文字」が刻まれた遺石があることをかって何かの本で読んだことがある。私は未だその遺石を目にしてはいないがおそらくその文字形は現在のタイ語などに表象されるヒゲ状の文字に似かよっているのではないかと想像している。

 またタイやベトナムなどインドシナ半島の現代語の中に「あまみ、あつみ、あたみ、あづみ」などの言葉の音を捜してみるのも面白いと思う。その音の言葉が何を意味するのかにも興味がある。多忙な日常にかまけてこれらを探求する機会がいまだにもてない。いつかゆっくりと考えてみたいものである。

 司馬遼太郎氏は渥美、熱海などの海岸線に住み着いた舟の民族が内陸に移り住み安曇に至ったとしているが私には釈然としない疑問が残る。
 「海こそふるさと」というその思いを捨ててまで海の無い内陸の安曇野に移り住むことにはそれなりの大きな動機がなければならない。

 私はその動機を出雲の沖合いにある隠岐島で最後をとげた南方系、舟の民族の族長「大国主尊」の物語の中に見る。



 穏やかな南方系、舟の民族が気の荒い北方系、馬の民族に滅ぼされた経緯が大国主尊の「国譲りの話」であることは述べた。私は安曇人こそこの大国主尊につき従っていた舟の民族ではなかったかと考えている。

 馬の民族に追われた彼らは北陸路を辿り、糸魚川から姫川を遡り、仁科三湖周辺に住み着く。しかし追っての執念はすさまじくやがてはそこも危うくなる。彼らはさらに南下し、ついには安曇野に至ったのではなかったか。

 稲作は舟の民族が日本にもたらした最も偉大な文明であり、安曇野に至った彼らは葦原の荒野を見事な稲作田園にしあげたことであろう。そして今もなお我々が見る安曇野は日本でも有数な米作地帯である。

 しかし、そこにもやがて気の荒い馬の民族が襲ってくる。おそらく激しい戦いが幾度か繰り返されたことであろう。日本の古代神話「八岐大蛇(やまたのおろち)」伝説は有名であるが、この伝説はおそらく舟の民族と馬の民族が出雲で戦った状況を伝えているのではないかと思う。同様に安曇野には「八面大王(はちめんだいおう)」伝説がある。この類似性はいったい何を意味するのか。

 安曇野でも同様な戦いがあった証拠ではないのか。「八岐大蛇」伝説ではヒノ川の上流にいたという頭部が八つに分かれた大蛇をスサノウ尊が退治したとなっており、「八面大王」伝説では有明山の麓、宮城にいた八面大王を坂上田村麻呂が退治したとなっている。この鬼のような名前を付された大蛇や大王こそ舟の民族の族長の象徴であろう。温厚な舟の民族の中にも徹底抗戦する気概に溢れた大将もいたのであろう。

 歴史は後の権力者に有利に記述されるのであり、自分たちに正当性をもたせるように表現されるのは歴史の必然である。ゆえに征服者である馬の民族であるスサノウ尊や坂上田村麻呂が英雄となり、被征服者である舟の民族が八岐大蛇や八面大王になるのは当然である。歴史の真相は時の権力者によって常に隠蔽される宿命をおびているのである。

 おそらく出雲であった戦いと安曇であった戦いの構図は同じものであり、これらの戦いの物語が混合し、このように類似した伝説が後の世に遺されたのではなかったか。

 ともあれ、安曇野は渥美や熱海に住み着いた舟の民族が移り住んだのではなく、出雲から追われた舟の民族がようようにして辿り着いた場所とした方が話の筋がよく通る。

 また「出雲」と「安曇」の文字に象出した「雲」の表象相似は私に強い直観を促す。仁科三湖の「仁科」とはアイヌ語であり、「雲のごとし」という意味をもつ。

 また、「いずも、あづみ」という音もかなり近いものが感じられる。「あまみ、あつみ、あたみ」は清音で構成され、「いずも、あづみ」は濁音で構成されている。この音の異なりこそが両南方系、舟の民族が辿った歴史の異なりを表象しているように見えるのである。

 私はこれらの直観から「出雲は安曇」であるとの大胆な仮説を立ててみたい。それはまさにかすかに遺された安曇野の「点と線」の痕跡である。

(五)出雲と安曇

 出雲と安曇の表象相似の直観はさまざまなことを語る。

 かって梅原猛氏の法隆寺論「隠された十字架」をさかのぼる30年程前に読んだ。梅原氏は法隆寺は聖徳太子の遺徳を讃え建立された寺などではなく、太子一族をおそった非業な運命(太子の皇子である山背大兄王とその一族の斑鳩宮での虐殺事件、下手人は蘇我入鹿であるが裏で策謀したのは大化改新で活躍した藤原鎌足とされる)に対する太子一族の恨みの怨霊を封じ込める寺であることを隠蔽された歴史から解明し従来の通説を覆した。

 梅原氏がそれを直観したのは法隆寺で行われる「聖霊会」の祭事であった。法隆寺内陣、講堂の前で催される聖霊会は装束をまとった太子の聖霊が長い白髪を振り乱し狂ったように舞う。これを見学した梅原氏はこれは「聖霊」などの姿ではなく恨みにもだえ狂う「怨霊」の姿であることを瞬間に理解したのである。

 その後、法隆寺をつぶさに調査した梅原氏はそれを裏付ける幾多の証拠を見出し、この直観の正当性を確信するに至る。
 一般に神社仏閣の門は奇数間で造られるが、なぜか法隆寺は偶数間で造られている。偶数間で門を造ると門の中央に柱がきてしまい入出を拒絶するような構造になってしまう。梅原氏は怨霊が外界に出ることを許さない意図がこの門の構造に顕現していると言う。またこの偶数間の社寺の例を他に捜すと島根出雲大社であると述べている。出雲大社とはまさに恨みをのんで出雲沖、隠岐島で最後をとげた南方系、舟の民族の族長「大国主尊」を祀った神社である。

 表向きは聖徳太子や大国主尊の遺徳を奉るように見せて裏ではその怨霊封じ込めを画策するなど誰によって為されたのか。

 それは彼らを滅ぼし大和朝廷を樹立した北方系、馬の民族の権力者以外にいない。太子一族虐殺の策謀者である藤原鎌足は姓は中臣、神事を司る官職から出発した人であり若い頃は中国の革命の書を読み耽っていたと言われている。性格その他からして祖先は馬の民族であったと考えられる。
 日本古代史を確定したとされる「古事記」、「日本書紀」は鎌足の子、その後の藤原氏繁栄の礎を築いた藤原不比等の意向によって編纂されたものであるとされる。この時をもって、それまでの多くの古代史の真実は時空の闇に消え去ってしまった。ゆえに我々はその隠蔽された出雲神話や八面大王伝説の記述から真実を探し出さなくてはならなくなってしまったのである。

 倉田兼雄氏の「有明山史」によれば隠岐島で最後をとげた大国主尊の御子、建御名方命は反骨の士であり馬の民族に何としても屈服せず諏訪大社に流罪になったとしている。穂高神社はその御子の「見張り所」であり、穂高の「穂」は槍の穂先の意、「高」は高見するの意である。穂高とは槍を持ち見張るという意味になる。

 私にはこの反骨の御子と八面大王の顔がなぜか重なって見える。そして諏訪大社で催される死をも畏れぬ勇壮な御柱祭があたかも法隆寺で催される聖霊会での太子怨霊の恨みの舞のごとく、非業の最後を遂げた大国主尊一族の怨霊、荒ぶる魂の七年に一度の狂乱乱舞の様に見えてくる。


(六)みすずかるまほろば

 この稿を稲作文明をもたらした弥生初期の「舟の文化」の風景から書き始めた。それ以前にあった風景とは日本原住民が営んでいた一万二千年に渡る「縄文の文化」の風景である。

 その風景に映る安曇は安曇野と呼ばれる平野ではなく、北は大町から南は塩尻にいたる広大な淡水湖、「安曇湖」が横たわる風景である。

 高い山々に囲まれ、遠く鳥獣の鳴き声が響き、満々と紺青色の清水を貯えた静寂な湖の風景はまさに桃源郷と呼ぶにふさわしいものであったにちがいない。縄文人はこの安曇湖の湖畔に定住し、この湖と山の豊饒な自然の恵みの中で安定した狩猟採集社会を営んでいたことが想像される。

 松本の「蟻ヶ崎」、明科の「押野崎」等は安曇湖に突き出た岬の意味であり現代まで遺された文字の表象である。また安曇松本平の山麓には縄文期の遺跡や古年代の古墳が多く散在する。
 大正時代にはこれらの遺跡や古墳が鳥居龍蔵博士により調査され、前出の八面大王の岩屋と言われている宮城の石窟はドルメン式古墳と称すべきものであり、日本全国においても他に容易に見ることが出来ないものであるとされた。
 また穂高の山麓は養蚕の元祖である「天蚕」が始められた地域でも知られている。

 縄文の文化は「ディオニュソス的原始性」、その後に渡って来た舟の文化は「タオイズム的自然性」である。この両者の文化を考えれば両民族は違和感なく融和したことであろう。融和した穏やかな社会は人間の生活にとって理想に近いものではなかったか。

 しかし、その社会はそれほど長くは続かない。好戦的で性格が激しい馬の文化の到来である。両民族の平和な営みは破壊され馬の民族の強力な軍事力に従属を余儀なくされる。また馬の民族はそれに留まらず「蝦夷退治」と称して日本武尊や坂上田村麻呂を将軍とし東北地方まで追討の軍を派遣したのである。

 現在、日本列島の最北の地、北海道の片隅に居住するアイヌ民族はその追討を逃れた縄文と舟の民族の末裔であろう。アイヌ民族のもつディオニュソス的原始性とタオイズム的自然性はかっての両民族が遺した香しい遺伝子である。ちなみにアイヌという言葉は「人間」を意味する。

 司馬遼太郎氏は縄文集落「三内丸山遺跡」をもち、今でも「マタギ」が生活する下北と津軽の両半島で陸奥湾を囲む青森の地を日本民族の「ふるさと」であるとし、「北のまほろば」と呼んだ。

 だが私は日本列島中央に位置し峻厳な山々で外敵から守られ豊饒な自然に恵まれた安曇湖周辺に営まれた社会こそ日本民族の「ふるさと」であったと考える。その桃源郷を私は「みすずかるまほろば」と呼びたい。

 安曇湖が蟻ヶ崎により囲まれた内灘は現在の松本市街地であろう。その内灘の奥、背後に美ヶ原をひかえた「美須々ヶ丘」の地は息をのむような景勝地ではなかったか。私は信濃のまくら言葉「みすずかる」とはこの美須々から採った「美須々かる」をあてたい。

 もっともここまでくれば安曇古代史仮説と題するよりも安曇古代史「幻視」、あるいは安曇古代史「瞑想」と題したほうがよさそうではあるが。

(七)安曇古代ロマン

 技術の研究は常に大胆な仮説を立てるところから出発する。まず直観力により認識の飛躍を起こさなければ無から有を生むことはできない。この飛躍は奇想天外なものであってはならず常に発生した現象を過不足無く、かつ妥当性をもって説明できるものでなくてはならない。

 この稿は私の技術研究手法「直観的場面構築」をもって、今や安曇野の時空に隠蔽されてしまった過去の時空、言うなれば安曇野の「点と線」を推理してみたものである。

 直観的場面構築とは意識の大海の中に埋没していたさまざまな認識の断片がある時、集合組成し、ある場面(シーン)が構築される「意識メカニズム」のことである。私はこの手法を技術開発に応用し現在国内外200件以上の特許権の成立をみた。

 このメカニズムが作動するためには多くの認識断片を意識の大海に「蓄える」こと、その断片認識を一体的に合成させる「きっかけ」のふたつが要点である。
 前者に必要なことは多くのことを「見聞き、読み、感じる」努力であり、後者に必要なことは熟成の時を気長に「待つ」持続力である。

 ここで構築された「直観的歴史場面」は信州真田の里で育った私が青春期を大阪、奈良で過ごし、今ここ安曇野の地に至ったことによる。
 吉野、飛鳥、斑鳩、西の京、平城京奈良、奈良坂を越え平安京京都と彷徨した時期に蓄えられた認識断片と安曇野に至ったきっかけの僥倖が作用したものに他ならない。

 その結果として顕れた「安曇古代史場面」はまさに日本民族のふるさと「みずずかるまほろば」の桃源郷の風景であった。

 しかしながら前述したごとく、これらは「仮説」であり仮説は長い地道な努力で実証されなければならないのである。

 前出の倉田氏の「有明山史」によれば出雲は安曇から出発し、出雲神話は安曇神話を基とし、有明山は昔、「戸放山」と呼ばれ、天の岩戸の伝説は有明山が舞台であるとし、現在の戸隠山や姨捨の有明山は戦国期にかの地に移しかえられたものであり、創作された過去であるとする。
 その多くの証拠書類、遺物、遺品は悲しいかな明治維新によって為された「廃仏毀釈運動」により方々に散逸してしまっている。

 そして今、西暦二千年の安曇野はかってこの地にあったであろう縄文人の「まほろばの世界」や舟の民族と馬の民族の「激しい戦いの世界」の痕跡をすっかり時空の闇に没し去り「なにくわぬ顔」で横たわっている。
 また生活する我々といえば日々なる「頭のハエ」を追うのに忙しく、その地を北に南にと走り回っている。

 安曇古代史仮説は「歴史ロマン」でありロマンは我々の時空を限りなく広げ大いなる夢を抱かせてくれる。

 多忙な我々ではあるがたまには悠久な歴史ロマンに思いを馳せるのも一興であろう。この拙稿がその一興に幾ばくかの手助けになれば筆者として望外の幸甚である。

 そして、いつかどこかでこの安曇人が辿ったであろう悠久な物語をしっかりと書いてみたいという気が今している。 (了)

(上)それぞれの歴史ロマン

 「安曇古代史仮説」(安曇野の点と線)の掲載に対し、数多くの皆様方から多大な共感が寄せられました。紙面をお借りして深く感謝申しあげます。

 郷土の古代史研究家の皆様からのご助言、ご指摘をはじめ、多くの読者からの応答に接し、筆者として望外の幸甚に浴した次第です。皆様からのご厚志に対し幾分かのお礼にと願い、安曇古代史仮説後記として、その後のこもごもについてお話したいと思います。

 研究家の皆様からのご意見としては、広大な安曇湖を安曇野に出現させるためには山清路の水位を数十メートルあげなければならず、筆者が言うような安曇湖は存在しなかったという地勢学的見地からのご指摘、「信州のアイヌコタン」の著者、百瀬信夫氏から寄せられた「古代語研究」の視点から探求された安曇湖説、氏の長年にわたる古代史研究文献の数々からは筆者として多くの啓発を受けました。

 一般読者からのご意見の多くを紙面上割愛しなければなりませんが、ともに七年に一度の善光寺御開帳と諏訪大社御柱祭の類似性、御開帳で建てられる一本の「回向柱」と御柱祭で社を囲むように建てられる四本の「御柱」から、馬の民族による諏訪大社に施された舟の民族に対する怨霊封じ込め結界の構図をご指摘され「ハッと」させられましたし、松本の人々が馬刺を食べるのは舟の民族の末裔だからか・・?、韓国クラブへ行く人はタイクラブへは行かず、タイクラブへ行く人は韓国クラブへは行かない理由は舟の民族と馬の民族の遺伝子の違いか・・?等の質問には「ウーン」と唸ってしまいました。

 これらのご意見のすべてが、郷土安曇野を愛する思いから生まれたそれぞれの歴史ロマンであり、かってあったであろう古代安曇歴史空間の扉を開く貴重なキーワードであると思います。安曇古代史仮説の拙稿が、今後展開されるさらなる研究や論議の「きっかけ」となったならば筆者としてこれ以上の喜びはありません。

 今まさに日本のみならず世界を取巻く社会情勢は混迷を深め、未来社会の前途に暗雲が立ちこめている観があります。

 戦後日本は貧困の中から立ち上がり、馬車馬のごとく物質的豊かさを求め、その達成に向けて脇目もふらずに邁進してきたのですが、この幸せの青い鳥を求めて世界中をさまよった旅の果てに見たものとはいったい何であったのでしょうか・・。それはニューヨークの世界貿易センタービルが瓦礫と化した荒涼たる風景であり、日本政治経済のどうしようもない荒廃の風景ではなかったか・・。

 今、人々は疲れ果て、その彷徨の旅から故郷に帰ろうとしているように筆者には見えます。かってこの旅の出発点にあったであろう、大和民族の底流に流れていた貧しくはあっても熱き情感に満ち、臥薪嘗胆の矜持に裏打ちされた誇り高き人格に彩られていた社会への帰郷です。

 おそらく、安曇古代史仮説に寄せられた共感とはこの荒廃した物質世界からまほろばの世界に向けての望郷であり、回帰への願いに他なりません。その共感の多くが年輩者からのものであったことが、それをよく物語っているように思います。

 いつも言われることではありますが、幸せの青い鳥は我が家の窓辺に憩い、さえずっているのです。

(中)飛鳥と信濃の点と線

 今、筆者にはふたつの印象的な場面が脳裏に映っている。

 ひとつは青雲の志を胸に郷関を後にし、大阪での勉学生活を始めた頃に訪れた奈良国立博物館での風景である。押しボタンによりパネル表示された寺院に創建年代順に赤い豆電球が点灯する装置があった。最初のボタンで日本列島にふたつの点灯が表示された。ひとつは摂津難波の四天王寺、他のひとつは我が信濃の善光寺である。善光寺が奈良に点在する幾多の古寺より古いとは想像だにしないことであり、驚きとともに、郷関を出た直後の思いと重なり、大いに誇りを感じた記憶がある。薄暗い館内で点灯していた、ふたつの赤い豆電球の場面は今も鮮やかに目に残っている。

 もうひとつの印象的場面は八面大王の岩屋と言われている宮城の石窟を訪れた時に蘇った記憶であり、奈良飛鳥の地にある有名な「石舞台」と呼ばれる蘇我馬子の石室古墳の風景である。ともに横穴式石室、規模は石舞台の方が数倍大きいが、天井に大きな一枚岩を置いた構造は同じであり、筆者に奇妙な類似性感覚を与えた。

 蘇我馬子とは名前の通り、馬の民族であり、飛鳥古代王朝における蘇我氏の権力を確立した大王である。その馬子の子が蝦夷、蝦夷の子が大化改新で中大兄皇子(後の天智天皇)によって誅殺された蘇我入鹿である。馬子は天皇ではないにしろ、大王と呼ぶにふさわしい権力者であり、日本史における「蘇我物部の戦い」が彼の名を有名にしている。

 この戦いは大和の古豪族であり、自らも天神の子として神を擁護していた物部氏と渡来系の新興豪族であり、当時伝来した仏教を擁護する蘇我氏との勢力争いを背景とした「神仏宗教戦争」であった。

 筆者は法隆寺の近く、大和川が巻くように流れる王寺の高台に3年間ほど住んでいたが、蘇我馬子と物部守屋はこの付近の大和川を挟んで対峙した。その戦役では蘇我軍の中に若き日の厩戸皇子(後の聖徳太子)も従軍している。
 聖徳太子は蘇我系の皇子であり、その戦いの後、推古天皇の摂政として大臣馬子とともに仏教を基とした大和民族統治システムを創立することになる因縁がここから始まったと言ってもよい。その戦場からほど近い、斑鳩の地に斑鳩宮(後の法隆寺)を建立した遠因もここに感じる。

 そして、その戦いの戦局が不利になった時、「もしこの戦いに勝たせて頂いたなら、四天王を祀る寺塔を建てましょう」と誓願され、その後、戦局が有利に転じ勝利したことにより、前述の四天王寺が建立されたとされる。

 一方、破れた物部一族の弓削氏からは、後に弓削道鏡が輩出してくる。弓削道鏡とは、咲き匂う奈良の都と称された平城京隆盛を極めた頃、孝謙天皇に呪術でとり入り、自らが天皇になろうとした極悪人として歴史に刻まれた僧侶である。孝謙天皇とは東大寺大仏を建立した聖武天皇と光明皇后の娘として生まれた女帝である。呪術的加持祈祷は舟の民族特有のアミニズム的風習であり、物部氏が舟の民族の末裔であることを深く印象づける。

 仏教は馬の民族が、稲作は舟の民族が日本に伝えた最大の文化遺産であろう。

 極論すれば、このふたつの文化遺産からその後の日本人の生活文化や精神文化のほとんどすべてを読み解くことも可能であろう。
 また古代飛鳥王朝において、蘇我氏を馬の民族の代表とするならば、物部氏は逆に舟の民族の代表であり、飛鳥の地で行われた蘇我物部の戦いとは安曇の地で行われた戦いと同じ構図であったといえよう。

(下)特別の意味をもった地

 「扶桑略記」の仏教渡来の記述によれば、信濃善光寺の草創の年次は明らかにしえないが、欽明天皇の代に百済国の聖明王が献じた一尺五寸の阿弥陀仏像と一尺の観音・勢至像が善光寺如来であるといい、この像を推古天皇の代に秦巨勢大夫(はたのこせのたいふ)に命じ、信濃国に送ったと記している。
 さらに同書は「善光寺本縁起」を引用して、欽明天皇の代に、百済国より摂津難波に漂着した阿弥陀三尊仏が、推古天皇の代に信濃国、水内郡に移ったとしている。

 また「伊呂波字類抄」には、推古天皇の代に信濃国、麻績村へ如来が移され、さらに皇極天皇の代に、水内に移り善光寺が創建されたと述べている。

 これらの記述は、いずれも伝説的であって、その是非をにわかに定めることはできないが、境内から出土した瓦は白鳳期のものであり、その創立は七世紀後半と推定されている。

 また善光寺信仰の勧進教化の説話には善光寺如来と聖徳太子との間で消息の往返がなされ、冥界からの救済を説く善光寺信仰と、四天王寺の西門で極楽往生を願う念仏信仰とを結びつけ、善光寺如来と聖徳太子が共同で念仏者を往生させるという話が遺されている。

 これらの経緯からは仏教伝来草創期における摂津四天王寺と信濃善光寺に引かれた点と線がかいま見える。

 さらに八面大王の石窟がある宮城の地を地元の人は「みやしろ」と訓読みするが、音読みすると「きゅうじょう」となる。古来、きゅうじょう(宮城)とは唯一、天子が起居する館の呼称である。であれば、何故にこの地を宮城と呼び、大王、蘇我馬子と八面大王の石室古墳が同じ構造であったのか。

 推古帝、聖徳太子、蘇我馬子が創立した古代飛鳥王朝と古代安曇の地に引かれた点と線の痕跡をここに見る。

 安曇古代史仮説では出雲と安曇に引かれた点と線をたどり、安曇の地にあった馬の民族と舟の民族の戦いを描いた。しかし、どうやらその裏には飛鳥の地でくり広げられた馬の民族と舟の民族の戦いであった蘇我物部の神仏戦争や、摂津四天王寺と信濃善光寺にまつわる仏教伝来の点と線が複雑に入り組んでいるようである。

 いずれにしても、みすずかるまほろば信濃安曇の地とは大和国家成立にとって、特別の意味をもった地であったことに疑いはないようである。
 しかしながら歴史の闇は未だ多くの謎を秘めてこの地を深く覆っている。今後の研究が待たれるところである。

 最後に松本市の74歳、K子さんからのお便りをご紹介し、この稿を結ぶこととします。

・・・・母が南安曇の生まれでしたので嫁にきてからも「安曇はいいよ」と言葉のはしはしに云っておりました「松本の土とはちがうよ、石ころもないしネ」と畑の石をひろい「土地の人情があったかいよ」とも。今、(十年くらい)私はよく有明の温泉へ行くのですが、その間の景観がずい分変ってきました、こんなふうにもう数年変っていったらどうなるでしょう、私は眉間にしわがよってしまいます・・・・

 安曇野に生きた母と娘との「とある日の情景」、その母の思いを背負って今を生きるK子さんの心情はかってあったであろう「安曇湖桃源郷の風景」を筆者にかいま見せてくれてあまりあります。ありがとうございました。

2008年12月17日水曜日

【危険な話】 馬毛島(米軍基地候補地)

 この馬毛島を基地へ転用・転売という話は、かなり前からあるのだが、非常に怪しい紳士たちが、そのたびに蠢く。

 1999年末、隣接する種子島に使用済み核燃料中間貯蔵施設を誘致する動きがあるという情報が伝わって以来、屋久島の南北二つの町(上屋久町&屋久町)ではそれぞれ住民有志が集まり、対策を探ってきました。

 中間貯蔵施設とは、各原発のプールに保管している使用済み核燃料が満杯に近づいているにもかかわらず、受け入れ予定の青森県六ヶ所村・再処理工場の建設が滞り、再処理後のプルトニウムを使った高速増殖炉計画も「もんじゅ」事故でストップしているための苦肉の策で、1999年6月成立の「原子炉等規制法」改正により使用済み燃料を原発敷地外に持ち出して一時保管できると決めたもの。政府は2000年度中に全国2か所の立地点を確定し、2006年着工、2010年完成・使用開始をめざしています。

 そのうち種子島で誘致話が持ち上がったのはもっとも早く、1999年春に一部住民への働きかけがはじまって、夏以降、漁業関係者を中心に東京電力・福島第一原発へ「備蓄燃料見学会」と称した無料ツアーが波状的に行われ、1999年末までに合計約400人が参加したと言われます。東京観光などを含む招待旅行の費用4000万円あまりは、東京在住の種子島出身者が地域浮揚のために負担したことになっていますが、金の出所や裏で糸を引くと噂される某代議士などについて不明な点がたくさんあります。

 しかし、立地の鍵となる漁業者をターゲットにした招待ツアーといい、不況下に似つかわしくない多額の金の動きといい、本格的な立地工作の兆しと考えられます。また、電力業界紙『電力時事通信』11月1日付け記事も、「鹿児島県の離島(無人島)」と名指しして候補地の筆頭に挙げています。

 「無人島」は西之表市の沖合に浮かぶ馬毛島(まげしま)で、80年代はじめに住民が離島して現在はニホンジカの貴重な亜種マゲシカが繁殖しています。かつて石油備蓄基地や核燃料サイクル基地が誘致されようとした複雑な歴史をもつこの島は、近年、土地の98%を所有する立石建設(本社東京・住友系)が目論む採石事業と、西之表市と鹿児島県が誘致をめざす日本版スペースシャトルHOPEの着陸場計画とがバッティングしていましたが、そこへ降って湧いたように中間貯蔵施設の立地話が割り込んできた格好です。いまのところ、枕崎出身の立石社長は核燃施設に土地を売る気はないと明言しており、近々採石事業に対する鹿児島県の許可がおりる予定です。しかし、バックがJCOと同じ住友らしいこと、計画に採石場らしからぬ1000mの飛行場が含まれていることなどから、中間貯蔵へのダミー事業になりかねないと危惧する声もあります。

 もう一か所誘致が取り沙汰されるのは東海岸の増田(中種子町)で、候補地に挙がった共用林地権者の中には歓迎の声もあり、音頭を取る地元建設会社が馬毛島との誘致合戦をしかけている気配です。

 こうした状況のもと、計画を憂慮する種子・屋久両島の住民有志は、まず多くの人たちに中間貯蔵と日本の原子力事情について知ってもらおうと、2月2日(種子島)と3日(屋久島)の両日にわたり、慶応大学の藤田祐幸助教授を招いた講演会を企画・開催しました。このかん、西之表市では1月23日に元市長や新旧市議多数を含む「核施設をつくらせない市民の会」が発足しました。

 講演会は種子島で400人、屋久島で300人を集める大成功でした。二つの町の実行委員会が共催した屋久島では、両町役場の後援のほか、屋久町漁協、屋久島観光協会、屋久町商工会、屋久町青年団、屋久町職員組合という幅広い協賛を取りつけ、会場の安房総合センターへ二つの町の送迎バスが走るユニークなものになりました。漁師の大漁旗に囲まれた会場は熱心な島民で埋まり、藤田先生が「18年にわたり上関原発立地を阻止してきた山口県・祝島漁協の海の男たちの熱い想いがここに受け継がれたようだ!」と感激するほどでした。

 講演会の成功を受けて、両町では3月議会で中間貯蔵施設への反対決議をし、関係各方面へ建設反対の意見書を提出する取り組みに移りました。上屋久町では2月26日に「核施設はいらない島民の会・上屋久町」が発足する予定です。ここからは主に私たち屋久町の動きを報告します。

 その前に、もう少し中間貯蔵施設について――
 使用済み核燃料といっても、燃えるウランの3分の1は残っていて、そのうえ核分裂反応で生成したプルトニウムなど20種類以上の高レベル放射性物質が含まれ、薪ならまだくすぶっている状態。放射能の強さは、遮蔽物なしに近づけば即死するほどです。弱い核反応が続くため冷やさなければならず、冷却に失敗したり燃料棒どうしを近づけすぎたりすると臨界事故が起こります。冷却方法としては、原発内の保管プールのように水で冷やす湿式と、ガスで冷やす乾式があり、種子島からの見学ツアーが福島第一原発に行ったのは、国内ではまだ珍しい乾式貯蔵の実験施設があるからです。乾式施設は、フランスやイギリスから高レベル放射性廃棄物を運んだ金属製キャスクに似た巨大な鋼鉄容器です。

 種子島に中間貯蔵施設ができたとすると、西日本の各原発から年間500トン、合計5000トンの使用済み核燃料が専用船で運び込まれます。5000トンの使用済み燃料の中には、広島の原爆から放出された量の15万倍以上の放射性物質(死の灰)が含まれます。これを、計画では数十年保管することになっていますが、もし日本の原子力利用がうまくいけば、2095年すぎまで、出入りはあってもつねに5000トンが保管されるため、実質的な貯蔵期間は100年近くになります。かたや、内外の多くの専門家が認めるとおり日本の原子力計画が予定どおり進まない場合は、そのまま高レベル核廃棄物の最終処分地になる可能性も否定できません。

 危険性としては、予想外の事故や故障で放射能が漏れ出さないか、核ジャックに狙われたり、天災や戦争で施設が壊れたりしないか、核燃料の輸送中に船の事故が起こらないかなど、施設周辺と輸送ルートでの環境汚染や住民の被曝が心配です。また、この施設の運営は国や電力会社ではなく、倉庫業者のような民間にもまかせられることになったため、長期間の責任や管理能力が、JCO事故で明るみに出たとおり採算や効率の犠牲になりやすい危険性も考えられます。万一、なし崩しで最終処分地になってしまったら、プルトニウムの半減期2万4000年(放射能が無害といえるレベルになるにはその10倍)という人類史的な長い時間にわたって正しく管理できるかどうか――自信をもってYESと答えられる人はいないでしょう。

 こんな核施設ができたら、種子島現地はもとより、一衣帯水の屋久島でも住民生活と産業(漁業・農業・観光 etc.)はあらゆる面で重大な影響を受けます。使用済み核燃料の取り扱いはきわめて難しい問題ですが、原則的になるべく動かさず、回収できない地下などに埋めず、衆人環視のもとに置いておくべきだと言われます。何が起こっても人目につかないうえ、台風や津波などの被害を受けやすい離島(とくに無人島)は、本来最悪の選択なのです。それなのに、全国に先がけて種子島に誘致の動きが起こったのはなぜでしょうか。ここで海に流れ出した汚染は、黒潮本流に乗って日本列島の沿岸に広がります。

 私たちは、一つの生態系に根ざして生きる人間としてごく自然な気持ちから(これを「地域エゴ」などと呼ぶのは不都合なものを押しつける側の理屈でしょう)、種子・屋久地域に暮らしや生命と両立しない核施設をつくらせたくないと思います。しかし同時に、ほかのどこにもつくらせてはならないと思います。末期症状を呈したプルトニウム利用計画という国策のツケを、原発の電気を使ったこともない僻地の住民に押しつけることなど、もう許される時代ではありません。お金や非民主的な上意に屈して中間貯蔵施設を引き受ける市町村がなければ、原発の増設や延命は不可能になります。核廃棄物が手に負えないとしたら、まず日夜それを生産する原子力発電を縮小・廃止しなければなりません。そのうえで、すでに抱え込んでしまった放射性廃棄物という膨大な負の遺産をどうしたらいいか、衆智を尽くして考えるべきなのです。

 《核廃棄物の中間貯蔵施設をつくらせない市町村議員・住民連絡会》屋久町事務局は、こうした想いを込めて2000年2月14日に発足しました。藤田祐幸講演会の企画・開催を通じて私たちが見聞きしてきたかぎり、圧倒的大多数の屋久島民は中間貯蔵施設を絶対につくらせたくないと願っており、この願いは自治体を構成する住民・議会・行政を通じて共有されています。ですから会の名称に、議員と住民が手をたずさえてこの問題に取り組む決意を表明し、同時に今後誘致問題が起こってくるであろうすべての市町村の心ある議員や住民とも連携・協力していく意思を示しました。

 当面の課題として、2月28日を第一次集約日に、「種子島の核施設誘致に反対する屋久町民署名」をはじめました。とくに、共通の海を仕事の場とする漁師たちが危機感をつのらせています。2月29日には署名や講演会でのアンケート結果を添えて、前述のとおり3月町議会に反対決議と関係各方面への反対意見書送付を求める陳情を提出します。またそれと並行して、種子・屋久両島1市4町の議員・住民との情報交換や連帯を図る努力をしていくつもりです。観光客へのアンケート調査、ポスター、小冊子、ホームページ、ネット上の反対投票、国際キャンペーンなど、種子島での情勢をにらみながら内外にこの問題を知らせる創意工夫も凝らしていきたいと思います。

 会の名称からもわかるとおり、従来型の硬い運動体ではなく、参加者一人ひとりの本音と自由意志を尊重する柔軟なネットワーク組織です。島外からの応援やアイデアも大歓迎です。また、自分の地域や周辺自治体で中間貯蔵施設誘致の動きがあったら、ぜひ知らせてください。私たちが手探りで集めた情報や資料があります。このプレス/ネットリリースは引用・転載自由です。

事務局連絡先:Tel/Fax: 09974-8-2861(羽生)
Tel/Fax: 09974-7-2898(星川)
Email: stariver@ruby.ocn.ne.jp



熊毛地区への使用済み核燃料中間貯蔵施設誘致に反対する決議および意見書の提出を求める陳情書

屋久町議会議長殿

平成12年2月29日
核廃棄物の中間貯蔵施設をつくらせない市町村議員住民連絡会・屋久町事務局

陳情趣旨

 昨年来、隣の種子島で原子力発電所から出る使用済み核燃料中間貯蔵施設の誘致が取り沙汰されています。当初、半信半疑だった新聞報道も、本格的取材とともにさまざまな事実を掘り出しつつあります。私たちが2月3日の藤田祐幸講演会実行委員会と、それに続く「核廃棄物の中間貯蔵施設をつくらせない市町村議員住民連絡会」の活動の中で学び、独自に調査してきたところでも、同施設の種子島誘致は“噂”の域をはるかに超えた現実味を帯びています。

もしこの計画が実現して、年間500トン、合計5000トンとも言われる大量の高レベル放射性物質が西日本各地の原発から日常的に種子島へ輸送され、先の見えない長期間にわたって保管されることになれば、熊毛地域のあらゆる産業と住民生活を脅かします。また万一放射能が漏れ出したり、臨界事故が起こったりした場合、種子・屋久両島は子々孫々におよぶ壊滅的打撃を受ける可能性があります(詳しくは添付資料参照のこと)。
 私たちはこれらの危険と悪影響を強く危惧し、「種子島の核施設誘致に反対する屋久町民署名」第1次集約(2月15日~28日)    人分を添えて、屋久町議会に次のような決議と、別紙により関係行政庁へ意見書の提出を求めます。


「非核宣言を掲げる屋久町議会は、恵み豊かな自然と住民の暮らしを末永く守っていくため、事故が起これば大きな影響があり、また事故がなくても半永久的な管理を必要とする使用済み核燃料を、熊毛地区に持ち込み貯蔵するすべての計画に、現在も将来にわたっても断固反対します。」


意見書

わが屋久町議会はこのたび、隣接の種子島に昨年来誘致が取り沙汰されている使用済み核燃料中間貯蔵施設(平成11年6月成立の原子炉等規制法改正第4章の2に定められたもの)に対して、町民多数の反対署名ならびに陳情を受け次のように決議しました。

「非核宣言を掲げる屋久町議会は、恵み豊かな自然と住民の暮らしを末永く守っていくため、事故が起これば大きな影響があり、また事故がなくても半永久的な管理を必要とする使用済み核燃料を、熊毛地区に持ち込み貯蔵するすべての計画に、現在も将来にわたっても断固反対します。」

 同施設の立地については、いまのところ鹿児島県にも候補地とされる二つの自治体にも公式な打診等ないと聞いていますが、水面下の動きは1年あまり前からあり、種子・屋久両島の住民のあいだに不安や懸念が広がっているのは確かです。屋久町議会は、本町の住民生活と産業を脅かすのみならず、国立公園および世界自然遺産の価値を著しく損なう恐れのある核施設立地が現実化した場合には断固その計画に反対し、鹿児島県知事、立地自治体の首長ならびに漁業組合長には計画への不同意を、関係行政庁には計画の見直しを求める所存です。

 電力安定供給の立場から、現在まで原子力発電が一定の役割を果たしてきたことは認めます。しかし、ここへ来て高速増殖炉原型炉「もんじゅ」のナトリウム火災事故(平成7年12月)から東海再処理工場アスファルト固化施設火災事故(平成9年3月)を経て、東海村JCO臨界事故(平成11年9月)にいたる経緯を見つめ、また先端技術の粋を集めたはずのH2ロケットとM5ロケットが県下で相次ぎ打ち上げに失敗した事実を直視するならば、安全神話の崩れた日本の原子力政策が大きな転機にさしかかっていることは明らかです。そうした原子力政策の行き詰まりから来る使用済み核燃料中間貯蔵によって、放射能の危険と汚染が、原子力発電の直接の恩恵など受けたこともない離島や遠隔地へ広がることには疑問を呈さざるをえません。

 議会での反対決議を求めた町民の陳情母体が「使用済み核燃料の中間貯蔵施設をつくらせない市町村議員住民連絡会」となっているように、本町の住民も議員も、ただ種子島への立地がなければ事足れりとは考えません。これまで縁の薄かった核廃棄物問題について、国民全体を巻き込んだ広範な議論に加わり、最善の解決法を探る一翼を積極的に担いたいと思います。21世紀の地域振興とエネルギー政策を見据える立脚点として、種子島・屋久島を含む熊毛地区はけっして的外れな場所ではないのですから。

 以上、屋久町民の付託を受けた議会として、種子島への中間貯蔵施設立地にあらかじめ断固反対の意思を表明するものです。


 意見書提出先

 使用済み核燃料中間貯蔵所轄
 1. 内閣総理大臣
 2. 通商産業省大臣

 国立公園・世界遺産所轄
 3. 外務大臣
 4. 環境庁長官
 5. 林野庁長官
 6. 文化庁長官

以上


種子島ネットワーキング報告 (2000.2.19現地調査)

1. 立地話の信憑性
●Y代議士からの働きかけ
1999年1月2日、船祝いの席で浜脇氏(種子島漁協組合長・中種子町議)が「馬毛島への核施設立地話があり、県知事も知っている」と発言。同席した西之表市議会議長と議員3名が驚いて、新年早々全員協議会召集。13日に市長と助役が確認のため県知事に面会。知事は「浜脇と面識はあるが、馬毛島は宇宙往還機の予定地であり、話したのは採石事業のこと」と回答。

3月、祝迫(いわさこ)鹿児島県議、野口西之表市議、徳永中種子町議が浜脇氏と面会、浜脇氏は「Y代議士から千載一遇のチャンスだと勧められた」と言明。現在、Y代議士も浜脇氏も表向きは関与を否定し、「共産党のデマ」と非難。

◎現鹿児島県知事の須賀氏は、98年に総合エネルギー調査会原子力部会で中間貯蔵問題を議論した委員の一人。前々知事の金丸氏は回顧録で、現在六ヶ所村にある核燃基地を馬毛島に誘致しようとしたが敗れたと語る。浜脇氏は有力なY氏支持者。

●電力業界誌『電力時事通信』99年11月1日付記事
中間貯蔵施設候補として「鹿児島県の離島(無人島)」を名指しし、「九州電力を中心に立地の可能性について検討に入る」と報道。

●東京電力・福島第一原発への「備蓄燃料見学会」
招待旅行はこれまで全国各地の例から原発など核施設立地の第一段階で、すでに参加した400人近い島民の費用は4000万円以上。ツアーは近く再開される模様。西之表市長と助役は1月に公費で福島原発と六ヶ所村を視察、近日中に議会特別委員会も視察予定。

★このほか、九電の非公式説明会、地元に出回る科学技術庁の交付金試算、建設業の組織的な誘致活動など数多くの状況証拠から、種子島では信憑性を疑う人は少ない。

2. 種子島での反対運動
●西之表市(候補地馬毛島)市議20名のうち17名が誘致に反対を表明。住民サイドでは1月に「核施設をつくらせない市民の会」発足、現職議員17名のほか元市長や元市議16名など多数参加。これと別に、社民系・平和センターでも反対運動を立ち上げ。3月から統一署名運動をはじめて6月議会で反対決議の予定。

●中種子町(候補地増田)町議17人のうち12人が誘致に反対で、2月中に幅広い住民を巻き込んだ組織を立ち上げ予定。農業委員会、区長会、青年団、校長会など、地域に密着した反対意思の結集を行ない、6月議会で反対決議の運び。候補地である増田共有林の地権者のあいだで、立地歓迎の意向は終息気味か。

★いずれも議員・住民の反対合意を広く浸透させることにより、議会での決議に実効性をもたせ、市長・町長に立地拒否を表明させやすくする、現地にふさわしい手堅い戦略。近いうちに南種子町でも反対運動発足の動きがあり、それを受けて種子島全体の連絡会をつくる予定。屋久島で一足早く3月議会で反対決議がなされることは、種子島の運動にとって大きな励みになるとのこと。

3. 馬毛島の開発状況
 反対運動の浸透は心強いが、そのいっぽう馬毛島で立石建設による採石事業が着工しそうなことは気になる。
●立石建設の裏は住友
 立石建設の現地法人である馬毛島開発は、全国にゴルフ場や霊園を展開する太平洋クラブが大株主。同クラブは住友系で、歴代国会議員が多数加盟。JCO事故でわかるとおり、住友と原子力産業とのかかわりは深い。

●立石建設の採石事業に近く県の認可
 2年前、種子島漁協に否決された事業内容を変更し、首都圏などからの建設残土を持ち込まず、採石した石も島外に持ち出さない不可解な計画で申請中。県は採石事業として不備がなければ許可することになっており、再度漁協の議決にかけられる見込み。馬毛島ではすでに重機が動き出しているとの報告も。

●民有地問題
 立石建設は島の98%以上を取得済みだが、残る地権者の一部と係争中。3月にも和解決着の見込みで、土地は立石側に渡る公算が強い。あとは、5つの浦に漁協名義の土地が少しずつと、名士一族の所有地若干、そして小中学校跡の市有地(4~5000坪)がある。西之表市は立石に学校跡地を売らないと決議済み。市関係者は、万一中間貯蔵施設立地が現実化しても、この土地が歯止めになると考えている。しかし・・・

●276億をどう取り戻す?
 立石建設≒太平洋クラブは馬毛島の土地取得にこれまで276億円という巨額の金を使った(裁判証言)。申請中の計画では、“持ち出さない採石事業”(?!)と羊の放牧(過去に島民が失敗)を行うとされるが、276億の資金を回収できるとは思えない。

 いっぽう、浜脇漁協長が「馬毛島でやる事業にかかる金」として県漁連に語った。 試算700億は、中間貯蔵施設の概算予算と符合する。今日、276億もの資金を注ぎ込んでペイするのは核関連事業ぐらいか?
(注:馬毛島には県と西之表市が日本版スペースシャトル発着場を誘致しようとしてきたが、発射場は位置的に有利な赤道クリスマス島が最有力視され、馬毛島誘致は現実味が薄れた。ただし西之表市は、中間貯蔵施設立地の歯止めとして宇宙往還機誘致の旗をおろさない意向。科学技術庁と県と市の表向きの合意でも、馬毛島はいぜんとして往還機基地候補であり、立石建設も往還機基地立地が確定すれば土地を売却すると約束している。)

★総合的に見て馬毛島が最有力候補と思われ、1000mの空港を含む立石建設の採石事業計画が、使用済み核燃料中間貯蔵施設の予備工事となる可能性は見逃せない。

4. 推進派の動き
 ●建設業者
 平成11年度末(3月いっぱい)が誘致に名乗りを挙げる締め切りと言われ、その条件と見られる2400人(人口の1割?)分の署名集めを行っている模様。3月はじめには、2~3000人規模の誘致促進集会を開く予定。現在、全国で10数か所の自治体が誘致に名乗りを挙げており、Y代議士の関与否定発言や、種子・屋久両島における反対運動の強さなどと併せ、このままでは立地話が立ち消えになりかねないとのあせりがあると考えられる。
●種子島漁協・組合長改選
 誘致の旗振り役である浜脇氏が5月の改選で再選されるかどうかが鍵。


続・種子島ネットワーキング報告(2000年2月22~23日)

2月22日 ㈱馬毛島開発・種子島事務所

「相談役」で実質的な所長と思われる後庵(ごあん)氏と、「所長代理」の徳浦氏が対応。「これまでだれも直接話を聞きにきてくれなかった」と喜んだ様子で、かなり突っ込んだ話をしてくれた。以下、額面どおり受け取るか否かは別として、馬毛島開発・種子島事務所の主張を要約する。

●後庵氏は校長を3期勤めた教育者で、立石社長は水産高校(枕崎市)の教え子。
●浜脇漁協長の誘致話浮上初期の言動
―1998年末、漁協理事会で中間貯蔵関係のカラー刷りパンフレットをまわし、25億の交付金がおりると説明。そのさい参事には席をはずさせ、理事たちには口止めする。
―1999年正月、船祝の席でみずから公言。漁協理事らは、「自分で口外するなと言っておいてなんだ」と鼻白む。(この場に西之表市議会関係者が数人いて、後日、全員協議会が召集され、市長・助役が事実関係を確認に県庁へ出向いたのは前回の報告どおり。)
―1月4日、浜脇漁協長、後庵氏と会い、「交付金は30億、馬毛島開発は(中間貯蔵の)倉庫業で2000億の仕事になるから協力しろ」と語る。
―2月、原幸一氏(のち見学ツアーに出資したとされる若狭会代表)リムジンで立石社長を訪れ、「エネルギーとゴミは国家事業だから」と、右翼の影をちらつかせながら土地の売却を促す。そのさい「全国に16か所候補地がある」と語った。原氏は昭和30年、九州電力勤務の父親の転勤で南種子町・広田へ。後庵氏が教師をしていた学校に転入。
―3月19日、立石社長、須賀鹿児島県知事と面会。知事は「中間貯蔵の計画推進しない」と約束。
●このかん、種子島漁協は馬毛島開発の採石事業計画に一貫して不同意。浜脇漁協長は、水路開設のための岩礁破砕に対する補償条件を漁協組合員に伝えないなどして妨害工作を続ける。(馬毛島開発の事業を断念させ、中間貯蔵計画に土地を売却させる目的か?)
●6月、馬毛島開発の事業に対する漁協承認問題で、浜脇組合長がアンケート調査を実施。そのうち第2問は「国・県が馬毛島を買い取り事業を行うこと」への賛否を問うもので、漁師たちはこれを県と西之表市が誘致運動していた宇宙往還機基地と解釈し、大多数が賛意を記した。のちに浜脇氏は、この結果をもって「漁業者は中間貯蔵に合意済み」と県に説明。6月25日、馬毛島開発はこの設問に抗議。
●7月8日、西之表市議会全員協議会で立石社長が「核燃施設に土地を売却しない」と約束。
●7月末、福島原発への見学ツアー開始。最初は建設業者、次はその夫人、中小事業主と広がり、9月ぐらいから漁協組合員、漁協婦人会、船主会なども参加。ツアー途中の食事会で若狭会事務局長(原幸一氏?)は参加者に、「2年前、馬毛島の購入を(立石社長に)頼んだが断られた。増田(中種子町)も検討しているが、敷地と海とのあいだに道路(県道)があるので難しい。理想は(種子島北端の)国頭(くにがみ)のゴルフ場予定地。全国に候補地が16か所ある。どうしても種子島ということではないが、地元から要望があれば立地できる」などと説明した。
●馬毛島の買い取りにさいして立石社長が住友銀行に支払った金額は5億円で、裁判証言での276億円ではない。
●採石事業は馬毛島の40分の1ぐらいの面積で数十年間は続けられるため、宇宙往還機の発着場ができる場合にも採石跡地が差し障ることはない。馬毛島の地質は砂岩で、コンクリート骨材か崩して砂として売る。1立米(?)あたり10円の利益があれば十分で、堅実に息長く経営したい。石材を運び出したあとには首都圏からの建設残土を持ち込んで覆土する予定。

 このほか、原発見学ツアーを運営し資金提供したという若狭会・原幸一氏の上部組織についても言及があり、現在主要メディアが調査中。その中には自民党K代議士の名も挙がっており、キーパーソンらしき代議士秘書経験者S氏の名前は、原子力資料情報室が掴んでいたものと合致。「馬毛島開発も浜脇漁協長による中間貯蔵施設誘致の動きで大変な迷惑をこうむっている」という後庵氏らの主張が、まったくの作り話ではないことをうかがわせる。ただし、住友の影が濃い立石建設/馬毛島開発の採石事業が途中で中間貯蔵施設に化けないかどうか、確証は得られていない。
 いっぽう、26日の上屋久町「核施設はいらない島民の会」に出席した西之表市「核施設をつくらせない市民の会」副会長・日高氏は、「馬毛島開発が近く閉鎖される」という噂を紹介(出席した当事務局・羽生町議の談)。


2月23日 馬毛島開発との電話によるやりとり

 翌日、馬毛島開発・後庵氏から事務局・星川宅へ電話(出張中のため夫人が応対)、
「推進派がまた動き出しています。止まっていたツアーがはじまり、こんどは西之表の一般主婦を対象にした女性ツアーのようで、27日(日)に出発するそうです」とのこと。こんな情報を伝えてくるのを不思議に感じたものの、「昨日は主人がお話をうかったようですが、まだ帰宅しておりませんので内容を聞いていません。重なるところがあるかとは思いますが、私の疑問とする点について少しお聞かせ願えませんか」と話しかける。

――立石社長が離島としては超破格の276億円で馬毛島を取得したと伝え聞きましたが、本当でしょうか。

後庵(以下G)
 そんなことはないのです。立石社長は5億円(種子島の反対運動関係者からは15億という情報が入っている)で購入した。276億というのは昔の石油備蓄基地誘致で平和相互銀行(のちに住友に吸収。住友はJCOと同じ原子力関係の系列)が志布志湾のほうと競ったときに使った金の額で、そういう話が流布することが困るんです。どこから伝わってきたんですか?

――それはお話しできません。5億円で購入して本当に採石事業をはじめるのですか?

G 前々からすぐにはじめたかったが、(中間貯蔵施設誘致)推進派の浜脇(種子島)漁協長がわれわれの建設に関するさまざまな説明を漁協の中に流さずにストップさせ、邪魔をしているのでことが進まずに本当に困っている。会社としては日一日と高額の金利がかかるわけで、この状態は非常に大変なことなんです。

――採石の開発予定に飛行場があるのはなぜですか?

G それは立石社長が枕崎の出身で友人がたくさんおり、枕崎から直接馬毛島に来れるよう、飛行場建設を予定しているんです(枕崎には地方空港がある)。

――馬毛島は長年、京都大学などがマゲシカの生態調査を進めていて、自然淘汰された群れの生態は世界の中でも珍しく、ほかにも植生や鳥、爬虫類などの研究にも着手しており貴重な島なので、研究者はもちろん私たちもなんとかこのまま「馬毛鹿サンクチュアリ(生態保護区)」として残し、子どもたちの勉強の場にもできないものかという願いをもっています。この件について立石社長にナショナル・トラスト化の可能性を問い合わせてみたいと思いますので、連絡先を教えてもらえませんか?

G いやいや、いまはそういう話を社長にしたくないし、できる状態ではない。トラストについては私もロンドンにいたし、いま娘がロンドンにおり、あちらの公園などいまあるところはトラスト運動の結果だということはよく知っています。社長も私も水産系の人間なんで、そのへんのことはよくわかっていますよ。その件についてはかならず時期を見て社長に話をしますが、いまはとにかくとてもその話をできるときでない。会社として金利に追われて大変なときですから。(南日本新聞は以前、若狭会の原氏の取材をしたとき同時に立石社長にも取材を申し入れたが、断られたという。)

――そのように金利で大変ということは、たとえば核施設推進の側から売ってほしいという話はないのですか? 新聞では立石社長が脅迫されているというお話も出ていましたが……。

G 去年、社長のところへ種子島出身の原という男がリムジンで乗りつけて売れと言ってきたことは聞いているが、そのほかにはないと思う。馬毛島については表土が薄く痩せたところで、前にも羊を飼ったことがあるようだが、ひどいダニが湧いてだめになったし、いまだって鹿もようやく生きてるんで、なんでもかんでも食べてツワなんか見当たらなくなっている状態だから……(裁判記録の中では立石氏が採石計画に付随して羊を飼う牧場を経営すると証言)。もう家内に「会社をやめなさい」とゆうべも言われた。直接だれも聞いてこないのに、悪い噂だけが取り沙汰されて迷惑して困っている。この女性ツアーの話もゆうべ家内が聞いてきたんですよ。

後庵氏は立石氏の恩師で、馬毛島開発の種子島事務所所長にあたる立場だが、より具体的な動きはあまりフォローしていないような印象だった。[聞き取り:星川加代子]

2月24日、宇宙往還機(HOPE)実験機の着陸場がクリスマス島に決定したとの発表を受けて、西之表市と鹿児島県、および熊毛地区協議会(1市4町の首長と県議で構成)は引き続き馬毛島に実用機の着陸場を誘致することを確認。これには、中間貯蔵施設誘致に対する間接的歯止めの意味もあると見られる。中種子町の「核施設をつくらせない町民の会」は3月3日に結成予定。



 在日米軍再編に絡み、政府は米軍厚木基地の空母艦載機離着陸訓練場として西之表市の馬毛島を候補地の一つとして検討している。同島は現在、ほぼ全域を馬毛島開発(本社・東京)が所有。昨年から空港建設の設計測量のための伐採を進めている。今後の構想などを同社の立石勲社長(73)に聞いた。
(種子島支局・三島盛義)


空港計画も推進

 -訓練場候補地の打診はあったのか。
 「政府からの打診はなく、報道陣に取材され知った。われわれも情報を聞きたいぐらいだ」
 -候補地として名前が挙がったが地権者としてどう考えるか。
 「一つの地域浮揚策としてあってもいい。県など地元から要請があれば、ビジネスチャンスととらえ前向きに検討したい。厚木基地を見に行ったが、周囲は住宅地で騒音も少ない。馬毛島と西之表市は13キロ離れており問題はない」
 -島は国に売却するのか。
 「馬毛島は15年かかって買った場所。土地は売らない。PFI(民間資金活用による社会資本整備)でやる」
 -貨物専用飛行場の建設計画はどうなるのか。
 「欧米から中国、インド向けの貨物仕分け空港を考えていた。しかし、既に上海に貨物空港ができ、チャンスを逃してしまった」
 -空港建設計画は中止するのか。
 「用途は別にして空港はつくる。(グループ主企業の)立石建設では出雲、新潟、羽田で空港建設の実績やノウハウがある。滑走路は南北方向4000メートル幅60メートル、東西方向2100メートル幅45メートルの2本。総工費は500-600億円」
 -具体的な建設計画は。
 「馬毛島に従業員が22人いる。2階建ての従業員宿舎を4月には完成させ、6月には6階建ての事務所ビルを建てる。学校用地も確保している。測量を行うための伐採は71ヘクタールが終了。今後90ヘクタールの伐採と測量を1年かけて行う」
 -馬毛島にはマゲジカなど希少動物もいるが。
 「シカにも生きる権利があり共生を考えていく。西海岸の約66ヘクタールを公園として残す計画だ」

 たていし・いさお氏  1933年、枕崎市出身。52年鹿児島水産高卒後、マグロ遠洋漁船に乗り組む。2級建築士資格などを取得後、58年に立石建設(東京)を設立。馬毛島開発社長。


日米両政府が在日米軍再編最終報告に2006年に合意して、5月1日で3年を迎える。馬毛島(西之表市)が候補地となった米空母艦載機の訓練施設の選定や、海上自衛隊鹿屋航空基地(鹿屋市)での空中給油機訓練計画で、目に見える動きはない。しかし、鹿屋基地で08年11月に初の日米共同訓練があり、県内各地で米軍機の往来が目撃されるなど、米軍との“垣根”は低くなりつつある。
(米軍再編取材班)

「本当に米軍は来るのか」。西之表市の無職男性は悩んでいる。男性は市内に土地・建物を所有。その物件をIターン希望者が購入したいと伝えてきた。
 西之表市の沖12キロにある馬毛島は、米軍機訓練施設の候補地。このことを知ったIターン希望者は突然、「米軍施設ができて、飛行機の騒音があるところに移住したくない」と言い出した。景気が悪い中、まとまった現金収入を期待していた男性だが、契約はまとまらなかった。
■ □ ■
 最終報告は、米空母艦載機が現在の厚木基地(神奈川県)から岩国基地(山口県)へ移駐するのに伴い、「恒常的な離発着訓練施設を09年7月、またはその後のできるだけ早い時期に選定する」とした。訓練はタッチ・アンド・ゴーと呼ばれ、着陸と同時に急上昇する飛行を繰り返す。
 日米合意後、馬毛島が訓練候補地の一つに浮上。07年12月には、馬毛島のほとんどを所有する民間会社・馬毛島開発が西之表市議会の特別委員会で「夜間離発着訓練を誘致する」と明かし、一気に注目を集めた。
 いまだ政府の公式見解はないが、今年3月30日、ジェームズ・ケリー在日米海軍司令官(神奈川県横須賀市)が司令部での会見で艦載機移駐に言及。「日本政府と協議し、岩国基地周辺の空海域に訓練スペースを見つけることについて、非常にうまく進んでいる」と発言したため、訓練地が岩国周辺で決まるのではないか、との憶測を呼んだ。
 これを受け、西之表市議会は4月3日に馬毛島対策特別委員会を緊急開催。情報収集に当たったが、米軍の真意は分からなかった。
 防衛省は取材に対し「司令官は岩国の現在の訓練空域について述べただけ。艦載機移駐による新たな訓練地は日米で調整中」とし、「岩国案」を否定。同司令官は既に退任し、両政府に翻弄される西之表市の姿が浮き彫りとなった。
■ □ ■
 防衛省は、現在離発着訓練が行われている硫黄島(東京都小笠原村、滑走路3000メートル)と同規模施設を建設できる場所を選定中。これまで馬毛島を含め、全国で350カ所を候補地とした。しかし、米軍から具体的な訓練計画が示されず、絞り込みは進まないという。
 最終報告の「今年7月」という期限が迫るが、衆院選の時期も絡み、同省は「選挙の争点になるのは避けたい。日米協議を踏まえ、状況を見て対応したい」と慎重姿勢を崩さない。選定日時があいまいになっているのも「訓練場所の決定は難しいとの認識が日米双方にあるため」と説明、協議が難航する可能性を示唆する。

 昨年11月、鹿屋市の海上自衛隊鹿屋航空基地を初めて使い、日米共同訓練が行われた。鹿屋基地には米海軍のP3Cと支援要員ら約55人が滞在。大きな混乱もなく、7日間の日程を終えた。多くの鹿屋市民にとって、このときが初めて米軍を間近に感じたときだったといえる。
 同市の飲食店主は「最初は米兵が来るのは怖かった。『米軍お断り』の店もあった」と話す。しかし、トラブルはなく、売り上げも上がったため、イメージが変わったという。「常駐しないのなら受け入れていい。商店街は潤うし、国の補助金も出る」と期待する。
 一方、別の飲食店主は「今回は階級が高く教養もあった」と指摘する。全国で相次ぐ米兵の犯罪を踏まえ、「鹿屋に来る隊員がどのような人か想像できない。市民の安全が保証されないと飲み屋街の客足は遠のく」と慎重姿勢。米軍をめぐり、市民の見方は割れたままだ。
■ □ ■

 最終報告で、沖縄県の普天間飛行場から岩国基地(山口県)に移駐し、鹿屋基地とグアムで訓練すると明記された給油機部隊。日米合意から3年たつが、「訓練回数や離発着回数など、具体的内容が米側から示されない」のを理由に、国から説明はない。鹿屋市も「騒音などの影響や基地の使用根拠について質問しているが、具体的な回答はない。詳細な説明があった段階で、地元への影響を検証し、鹿屋・大隅地域の総意を集約したい」とする。
 ただ、水面下では動きがあるようだ。政府関係者によると、普天間の給油機部隊が昨年、大幅に入れ替わり、「鹿屋を視察したい」と申し入れてきた。しかし、日本側が昨年11月の日米共同訓練を考慮し、地元を刺激するのを避けるため、視察を延期するよう求めたことがあったという。
 来年2月に任期満了を迎える鹿屋市長の選挙も、地元説明の時期に影響しているようだ。防衛省は「選挙に影響がないよう、タイミングを見計らっている。来年4月以降の早い時期に具体的な説明ができれば」としており、市長選が終わるのを待って本格協議に入る構えだ。

■ □ ■
 そんな中、県内各地では米軍機の往来が頻繁に目撃されている。2006年には給油機の同型機とみられる航空機が相次いで目撃され、今年4月には日置市上空を飛行する米空軍嘉手納基地(沖縄県)所属の特殊作戦機が確認された。県民には「米軍再編への地ならしでは」という見方も多い。
 また、昨年11月の鹿屋基地を拠点とした日米共同訓練は、潜水艦への対処が主目的だった。まったく同じ日程で、南西諸島周辺では米原子力空母ジョージ・ワシントンと海上自衛隊が対潜水艦訓練を実施した。

 この2つの訓練が連動しているかは不明だが、鹿屋の周辺で自衛隊と米軍の一体化が進んでいるのは間違いなさそうだ。

2008年12月16日火曜日

【新聞記事】 NYT(ズビグネフ・ブレジンスキー)

ズビグネフ・ブレジンスキー(Zbigniew Kazimierz Brzeziński, 1928年3月28日 - )は、ポーランド出身の政治学者

カーター政権時の国家安全保障担当大統領補佐官でオバマ政権の事実上の最高顧問で、戦略家として知られている。そのズビグネフ・ブレジンスキーは、ハト派の多い民主党のアドバイザーであるが、タカ派で有名である。共和党のヘンリー・キッシンジャーとの交流が知られている。

その彼が、2008年にNYTに寄稿をしたものである。

The global political awakening
By Zbigniew Brzezinski
Published: Tuesday, December 16, 2008
http://www.nytimes.com/2008/12/16/opinion/16iht-YEbrzezinski.1.18730411.html?pagewanted=1

A new president is assuming office in the midst of a widespread crisis of confidence in America's capacity to exercise effective leadership in world affairs. That may be a stark thought, but it is a fact.

Though U.S. leadership has been essential to global stability and development, the cumulative effects of national self indulgence, financial irresponsibility, an unnecessary war and ethical transgressions have discredited that leadership. Making matters worse is the global economic crisis.

The resulting challenge is compounded by issues such as climate, health and social inequality - issues that are becoming more contentious because they have surfaced in the context of what I call "the global political awakening."

For the first time in history almost all of humanity is politically activated, politically conscious and politically interactive. Global activism is generating a surge in the quest for cultural respect and economic opportunity in a world scarred by memories of colonial or imperial domination.

This pertains to yet another fundamental change: The 500-year global domination by the Atlantic powers is coming to an end, with the new pre-eminence of China and Japan. Waiting in the wings are India and perhaps a recovered Russia, though the latter is very insecure about its place in the world.

In this dynamically changing world, the crisis of American leadership could become the crisis of global stability. Yet in the foreseeable future no state or combination of states can replace the linchpin role America plays in the international system. Without a U.S. recovery, there will be no global recovery. The only alternative to a constructive American role is global chaos.

It follows that the monumental task facing the new president is to regain U.S. global legitimacy by spearheading a collective effort for a more inclusive system of global management. Four strategically pregnant words define the essence of the needed response: unify, enlarge, engage and pacify.

To unify pertains to the effort to re-establish a shared sense of purpose between America and Europe. To that end, informal but frequent top-level consultations are badly needed, even though we are all aware that there that there is no such thing yet as a politically unified Europe. The only practical solution is to cultivate a more deliberate dialogue among the United States and the three European countries that have a global orientation: Britain, France and Germany.

For many years, Europeans have complained they are excluded from decision-making, yet they are perfectly willing to let the United States assume the burdens of implementation. Differences over Afghanistan are but the latest example of that dilemma. It is to be hoped that the new U.S. president will make a deliberate effort to revitalize the U.S.-European dialogue.

To enlarge entails a deliberate effort to nurture a wider coalition committed to the principle of interdependence and prepared to play a significant role in promoting more effective global management. It is evident, for example, that the G-8 has outlived its function. Accordingly, some formula for regular consultations ranging in composition from G-14 to G-16 should be devised to bring together countries with geopolitical significance as well as economic weight.

To engage means the cultivation of top officials through informal talks among key powers, specifically the U.S., the European Triad, China, Japan, Russia and possibly India. A regular personal dialogue, for example, between the U.S. president and the Chinese leader would be especially beneficial to the development of a shared sense of responsibility between the only superpower and the most likely next global power. Without China, many of the problems we face collectively cannot be laid to rest.

Admittedly, China is economically nationalist, but it is also a fundamentally cautious power. It was Deng Xiaoping who best articulated how China defines its international approach: "Observe calmly; secure our position; cope with affairs calmly; hide our capacities and bide our time; be good at maintaining a low profile; and never claim leadership."

This underlines a significant distinction with Russia. Like Beijing, Moscow wishes to revise international patterns, but it tends to be impatient, frustrated and sometimes even threatening. Nonetheless, it is in the interest of the United States and of Europe to engage Russia. In so doing, America should seek agreements that enhance global stability, promote nuclear weapons reduction and deal with such regional problems as Iran.

America and Europe will have to find a way of reaffirming their commitment to the integrity of Ukraine and Georgia while conveying to Russia that their interest in these two states relates to the gradual construction of a larger democratic Europe and is not designed to threaten Russia itself.

To pacify requires a deliberate U.S. effort to avoid becoming bogged down in the vast area ranging from Suez to India. Urgent decisions need to be made, with Europe's help, on several potentially interactive issues.

The Israeli-Palestinian peace process needs to be a priority. The new president should state on the record that a peaceful accommodation between the two parties must: first, involve a demilitarized Palestinian state, perhaps with a NATO presence to enhance Israel's sense of security; second, the territorial settlement has to be based on the 1967 lines with equitable exchanges permitting Israel to incorporate the more heavily urbanized settlements on the fringes of the '67 lines; third, both parties have to accept the fact that Palestinian refugees cannot return to what is now Israel, though they should be provided with some compensation and assistance for settling preferably in the independent Palestinian state; and last, the Israelis will have to accept the fact that a durable peace will require the genuine sharing of Jerusalem as the capital of two states.

The United States will also have to undertake seriously reciprocal negotiations with Iran. That means abandoning the current U.S. posture that Tehran make a one-sided concession as a precondition to talks.

Finally, America's strategy regarding Afghanistan and Pakistan needs a basic reassessment. The emphasis should be shifted from military engagement to a more subtle effort to seek a decentralized political accommodation with those portions of the Taliban who are prepared to negotiate. A mutual accommodation should involve Taliban willingness to eliminate any Al Qaeda presence in return for Western military disengagement from the pertinent territory. The process should be accompanied by intensified reconstruction.

Let me conclude on a parochial note: Unfortunately, the American public is woefully undereducated about the wider world. Barack Obama will have to strive to make Americans understand the novel dimensions of global realities. Without sounding overly partisan, I believe that he has unique intellectual and rhetorical gifts for doing just that.

So let me end my remarks by asserting simply, "Yes, we can."

Zbigniew Brzezinski, President Jimmy Carter's national security adviser, is trustee and counsellor at the Center for Strategic and International Studies (CSIS). This article is based on his 2008 John Whitehead lecture at Chatham House, London. The complete text will be published in the January issue of International Affairs (London).





2008年12月1日月曜日

【厚生労働省】 年金改ざん問題

 私は、厚生労働大臣直属の調査委員会の委員として、「年金改ざん問題」の調査に加わった。その結果分かったことは、この「年金改ざん」による社会保険庁職員への非難がほとんど根拠のないものだということだ。

 少なくとも、社保庁職員が、国民に実害を生じさせるような「犯罪行為」に関わった具体的な証拠は、調査委員会の調査結果からは何一つ得られていない(標準報酬遡及訂正事案等に関する調査委員会報告書)。

そればかりか、全国の社会保険事務所で「仕事の仕方」として定着していた「標準報酬月額の遡及訂正」というやり方は、保険加入者間の負担の不公平を防止することにもつながるものでもあった。

 なぜ、ほとんど「空中楼閣」のような「社保庁組織丸ごと犯罪者集団ストーリー」が作り上げられてしまったのか。その大きな原因が、社保庁を含む厚生労働省のトップである舛添厚労大臣が、「改ざん」の事実を確認することもなく、制度の仕組みを理解することもなく、自らの部下である社保庁職員を「犯罪者」のように決めつけて一方的にこきおろしたことにある。大臣の国民への「人気取り」のパフォーマンスがマスコミのバッシングをエスカレートさせることにつながった。

 これまでにも数々の不祥事を重ねてきた社保庁組織や職員に問題が多々あったことは否定しないし、私は、それら全体を擁護する気持ちは全くない。しかし、少なくとも、この厚生年金記録の「改ざん問題」に関しては、社保庁職員に対する非難は明らかに重大な誤解によるものだ。

 しかも、その誤解を解消しないと、今後の年金に関する業務体制の構築や運用の在り方について重大な悪影響が生じる。将来の年金給付率の低下が予測され、若年世代に年金制度への不満が高まっている現状の下ではなおさらだ。誤解に基づくバッシングのツケは、将来、厚生年金加入者全体が払うことになりかねないのだ。

「刑事告発」が目的だった大臣直属の調査委員会

 中央大学法科大学院教授で弁護士でもある野村修也氏から、いわゆる年金「改ざん」問題に関する厚労省の調査委員会の件で依頼があったのは、9月末のことだった。「従業員の給料から年金保険料の半額が天引きされているのに、社保庁職員が、標準報酬月額を不正に減額して、事業者の年金保険料の支払いを免除したり、少なくしたりしている問題について、舛添厚生労働大臣から調査の依頼を受けている。場合によっては刑事告発に至る可能性もある。そのメンバーとして加わってほしい」という話だった。

 「消された年金」「年金改ざん」などと呼ばれて、社会的にも大きな関心を集めている問題であり、刑事処罰についての適切な判断のためにも検事経験の長い私のような弁護士が関わることが必要なのだろうと考えて、私は、野村教授の依頼を受けることにした。

 その後、具体的説明を受ける機会がないまま、10月6日の夕刻、厚生労働大臣室で調査委員会の最初の会合が行われることになった。そして、その当日の朝刊には、「年金改ざん、調査チーム設置へ、舛添厚労相、刑事告発も」という見出しで、この調査についての記事が出ていた。

 「舛添要一厚生労働相は5日、茨城県龍ケ崎市で講演し、厚生年金標準報酬月額改ざん問題での社会保険庁職員の関与を調べるため、弁護士数人でつくる厚労相直属の調査チームを6日に設置する方針を明らかにした。改ざんへの関与が明らかになった場合、公文書偽造などの罪に当たるため、時効になっていないケースの刑事告発を検討する。 舛添氏は『(改ざんされた)紙が残っていれば、それを証拠に悪い職員を逮捕できる。徹底的にうみを出したい』と述べた」

調査メンバーには直接の説明もないのに、舛添大臣は、調査の目的が「改ざん」への社保庁職員の関与の解明と関与した職員の刑事告発であることを公言している。要するに、社保庁職員が「公文書偽造などの犯罪行為」を行ったことが疑われているので、その具体的事実を明らかにして刑事告発するために我々弁護士を雇ったということのようだ。

 米国での違法行為が、個人の意思で個人の利益のために行われる単発的な行為、つまり「ムシ(害虫)型」が多いのに対して、日本での違法行為の多くは、組織の利益を主たる目的にして、継続的・恒常的に行われる「カビ型」だ。ムシ型は、その個人に厳しい制裁を科すという「殺虫剤の散布」で十分だが、カビ型違法行為は、その全体像を明らかにして原因となっている構造的問題を解明する「湿気や汚れの除去」をしなければ本当の解決にはならない。

かねて、官庁・企業の不祥事についてこのように述べている私には、社保庁の組織全体で行われていた可能性がある「年金改ざん」に対しても、違法行為の全体像を解明し、その構造的な要因を明らかにするカビ型対応が不可欠だと思われた。舛添大臣の依頼の趣旨が、単に、目についたムシに殺虫剤を撒く「ムシ退治」をしてほしいということであれば受任をお断りするしかないと考えて、10月6日の大臣室での初会合に臨んだ。

 会合に先立って舛添大臣から4人の調査委員への辞令交付が予定されているとのことで、大臣室の前にはテレビカメラが待ち構えていた。しかし、まず、大臣から調査の目的と趣旨についての説明を受けなければ、受任するか否かが判断できない。他の委員の意向も同様だった。4人の委員全員の要求で辞令交付の前に大臣と会談し、「『最初に告発ありき』ではなく、まず、事案の全体像を解明し、違法行為があればその悪性の程度を評価したうえで刑事告発の要否を判断するということでなければ受任できない」と条件を提示、大臣が了承したので、調査委員会の初回会合に移行し、テレビカメラを入れての大臣発言、辞令交付が行われた。そして、調査委員会の委員長には野村教授が就任、委員4人の下に9人の若手弁護士による調査チームも組織された。

 こうして、いわゆる「年金改ざん問題」についての厚労大臣直属の調査委員会の調査が始まった。しかし、その調査の結果からは、刑事告発の対象となる事実はおろか、不正行為への社保庁職員の具体的な関与はほとんど明らかにならかった。

厚生年金については、給与や報酬の実態に応じて事業主が個々の保険加入者の標準報酬月額を申告することになっており、それを基準に毎月の保険料が決まり、将来年金を受給する権利も生じる。この標準報酬月額の「遡及訂正」、つまり遡って引き下げる手続きをしたことが問題にされている。それによって、支払うべき保険料が遡って安くなるので、保険料の滞納額が帳消しになる一方、将来受け取ることになる年金額も減少する。

 ただ、「改ざん」と言っても、事業主の申告もなしに、社保庁職員が勝手にやったというのではない。少なくとも事業主自身の申告に基づいて遡及訂正が行われている。給与から保険料を天引きされている従業員の報酬月額がその本人の知らないうちに事業主によって勝手に引き下げられて、保険料の滞納が帳消しにされたのであれば、事業主による保険料の着服・横領そのものであり、それによって従業員の将来の年金額が不当に減らされ実質的な被害が生じる。舛添大臣が「犯罪」「刑事告発」などという言葉を口にするのは、そういう事業主による保険料の着服に社保庁職員が関わっている疑いがあるという意味のはずだ。

 しかし、そのような事業主の犯罪行為が実際にどの程度行われていたのかは、明らかになっていない。従業員分の報酬月額の遡及訂正に社保庁職員が関与したと疑う根拠はほとんどない。

 一方、事業主が自分の標準報酬月額の遡及訂正の申告をするのは、将来の年金が減ることを本人が納得したうえで手続きを行っているのだから実質的な被害はない。2008年11月28日に公表された調査委員会報告書で「社会保険事務所の現場で半ば仕事として定着していた」と述べているのは、このような事業主自身の標準報酬月額の遡及訂正だ。しかし、そのような行為が多くの社会保険事務所で恒常的に行われていたことには理由がある。

厚生年金は大企業向けに作られた制度

厚生年金は事業者に雇用される労働者を対象とする公的年金で、すべての法人事業者と従業員5人以上を常時雇用している個人事業主が厚生年金への加入が義務づけられ、従業員の保険料の半分は事業主が負担することになっている。個人事業主の場合は、事業主自身は厚生年金には加入できないが、法人事業者は、経営者もその家族も、法人から報酬を受け取っている限り厚生年金の加入の対象となる。厚生年金に加入すると、給与や報酬の額に応じて事業者の申告によって設定される標準報酬月額を基準に保険料の支払い義務と将来年金を受給する権利が生じる。

 このような厚生年金の制度は、経営基盤が安定し、経営者や従業員の社内での地位や待遇も明確に決められている大企業向けのものだ。大企業の場合、従業員の給与は給与規定などの社内規則で定められていて、その支払いの事実は賃金台帳に記載され、役員の報酬も取締役会決議などで定められているので、給与・報酬の金額が客観的に明らかでそれに応じて標準報酬月額を定めることが容易だ。

 資金繰りも計画的に行われ、社会的信用を重視するので、経営状態が変化しても社会保険料を滞納することもほとんどない。あらかじめ定められた標準報酬月額に基づいて保険料と年金受給額を定めるという方法での年金制度の運用に適している。

しかし、中小零細企業の場合は、法人であっても、その実態は個人事業者に近いものが多く、事業主が代表取締役、その親族が取締役という場合が多い。経営も不安定であり、収支が悪化すると、借金返済や従業員の給与の支払いが優先され、社会保険料の滞納が生じやすい。

 しかも、いったん滞納すると、年に14.6%という“サラ金”並みの延滞金がかかるので、滞納額は雪だるま式に膨れ上がっていく。一方、事業主も、形式的には法人の取締役などの地位にあっても、その報酬が「客観的に定まっている」とは到底言い難い。経営が悪化すると、報酬を受け取るどころか、売掛金や従業員の給与の支払いを事業主の借金で賄うというような「持ち出し」になることも珍しくない。

 一方、標準報酬月額は、厚生年金加入の時点で事業者の申告によって定められ、毎年度改定することになっているが、中小零細企業の場合、改定が行われないまま放置されていることも多い。経営悪化のため保険料を滞納 している事業主の場合、標準報酬月額が実際の報酬額より高い額のまま放置されている場合が多い。

中小零細企業の場合、あらかじめ給与・報酬の実態に応じて定められた標準報酬月額に基づいて保険料と年金受給額を定めるという厚生年金制度を適用していくことが、もともと困難なのだ。

保険料を払っても払わなくても将来の年金額は変わらない

 そして、重要なことは、厚生年金の場合、加入期間の標準報酬月額に応じた年金受給権は、保険料を滞納していても、事業主の倒産などで支払い不能が確定しても、全く変わらないということだ。要するに、厚生年金は保険料を払っても払わなくても将来もらえる年金は変わらない。労働者のための公的保険で、労働者は給与から保険料を天引きされているので、事業主が保険料を払わなかったからと言って年金がもらえないのはかわいそうだというのが、その理由だ。しかし、その結果、保険料を払わなかった事業主自身も、払った場合と同額の年金が受給でき、その分は、まじめに保険料を支払っている他の年金加入者が負担することになる。

 「そんなバカな!」と思われるかもしれない。調査委員会の調査を始めた段階では、委員も調査員も誰もこのことを認識していなかった。調査の過程で、厚労省の側に説明を求め、ようやく、それが確認できたのだ。このような厚生年金制度の下では、事業主の保険料滞納を放置すると保険加入者間の負担の公平を害することになる。

徴収率を維持するために社保庁職員が行うべきことは、まずは粘り強く説得して保険料を支払ってもらう努力をすることだ。しかし、経営不振で資金繰りに苦しんでいる中小零細企業に滞納している保険料を支払わせることは容易ではない。その場合、法律が予定している正規の手続きは、調査委員会報告書でも言っているように「毅然たる態度で滞納事業者の財産の差し押さえを行うこと」だ。

 しかし、中小零細企業には差し押さえて換価処分できるような会社名義の財産などほとんどないし、事業に不可欠な設備や売掛金が入金される銀行口座を無理に差し押さえたりすればただちに倒産してしまう。実際には、財産の差し押さえで保険料の滞納を解消することは容易ではない。

遡及訂正は保険加入者間の負担の公平のための唯一の手段

 そうなると、支払い困難な中小零細企業の事業主の保険料滞納を解消する唯一の方法は、事業主の標準報酬月額を遡って引き下げて、支払うべき保険料自体を遡って減額することだ。経営不振で資金繰りに困って長期間にわたって保険料を滞納している事業主であれば、まともに自分の報酬など受け取ることすらできない場合も多い。そのような事業主の標準報酬月額を遡って引き下げるのは、基本的に報酬の実態に近づけるもので、必ずしも「不適正」とは言えない。

 保険料が支払い困難な経営状態の事業者の滞納事案を放置した場合には、その事業者が倒産して多額の滞納が確定すると、保険料を支払わなかった事業主に将来多額の年金が支給されることになり、その資金は他の保険加入者が負担するという不合理な結果になってしまう。何とかして、そのような滞納を解消しようとするのが当然であり、それを放置する社保庁職員の方がよほど無責任と言えよう。

このように考えると、中小零細企業も含めて法人事業者にはすべて厚生年金への加入を義務づけている現行制度の下では、支払い困難と思える事案について、最終的な手段として、事業主側の納得を得たうえで標準報酬月額の遡及訂正を行うことは、加入者間の負担の公平を確保しながら年金財政を維持していくためにやむを得ない措置であったと言える。

 もっとも、「法令遵守」という観点だけから考えると全く違う考え方になる。報酬の実態に応じて保険料を支払うことは事業主にとっても法的義務なのだから、事業主が、標準報酬月額を実際に受け取っている報酬額を下回る金額に引き下げること、ましてや、そこに社保庁職員が関与することは許されない。調査委員会報告書が、事業主の標準報酬月額の遡及訂正も含めて不正行為ととらえ、関与した社保庁職員を処分の対象とすべきとしていることのベースにもこの考え方がある(報告書5ページ)。

 しかし、私は、この調査委員会の多数見解には異論がある。年金に関して「報酬の実態に応じて保険料を支払う義務」というのは、「所得に応じて税金を支払う義務」つまり、納税義務とは意味が異なる。

 納税は、納税者が国に対して一方的に義務を負うが、年金については、保険料の支払い義務とともに将来の年金受給権が生じる。標準報酬月額を実際の報酬額以下に引き下げたとしても、保険料の負担だけではなく将来の年金の給付の方も低くなるのであり、脱税のように国への支払い義務だけを一方的に引き下げるものではない。

 また、そもそも、個人事業者は厚生年金への加入義務がないばかりか加入することが認められてすらいない。一方、同程度の規模でも法人事業者はすべて厚生年金加入を義務づけられているが、実際には未加入の中小零細企業が膨大な数存在している。これら個人事業者や未加入事業者との比較から言えば、厚生年金に加入している中小零細事業主の標準報酬月額が実際の報酬額を下回ったとしても、そのこと自体は実質的には大きな問題とは言えない。

 ましてや、「保険料を払わなくても将来もらえる年金が変わらない」という現行制度の下で、保険料を滞納している中小零細事業主の標準報酬月額の遡及訂正は、保険料を支払わないで将来年金をもらう「年金泥棒」のような結果を防ぐ事実上唯一の手段なのであるから、この場合にまで遡及訂正が「違法だから許されない」というのは、実態を無視した「法令遵守」の形式論理そのものと言えよう。

 このように考えると、事業主の標準報酬月額の遡及訂正は、中小零細企業の経営実態からすると、そもそも報酬の実態に反する「不適正な遡及訂正」、つまり不正行為と言えるかどうかすらはっきりしないだけでなく、形式的に「法令遵守」に反していても、実質的に非難すべき行為とは言えないの だ。

 一方、従業員の標準報酬月額の遡及訂正の方は、それを事業主が従業員本人に無断で行って給与から天引きしていた保険料を着服したとすれば、事業主による犯罪であり、それに関わった社保庁職員がいるとすれば、公務員犯罪そのものだ。全国の社保庁職員の中にそういう職員がまったくいないと断言はできないが、少なくとも、調査委員会の調査ではそれを疑う具体的な根拠は得られていない。

 このように、同じ標準報酬月額の遡及訂正でも従業員の分と事業主の分とでは全く意味が違うのに、それが丸ごと「改ざん」と言われて犯罪行為のように扱われ、社保事務所の「仕事として定着していた」などと報道されたために、社保庁職員全体が社会から大きな誤解を受けることになった。

 私の新著『思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本』(講談社現代新書)では、「何も考えないで、単に『決められたことは守れば良い』」という「遵守」の姿勢がもたらす弊害が、「法令違反」の問題だけではなく、「偽装」「隠蔽」「捏造」「改ざん」などの問題にまで拡大している日本社会の現実について述べている。

 これらは必ずしも「法令違反」とは限らないが、一度そのレッテルを貼られると、一切の弁解・反論が許されず、実態の検証もないまま、強烈なバッシングの対象とされる。「年金改ざん」批判は、「思考停止」の典型と言えよう。「改ざん」という言葉が何を意味するのか、それが具体的にどのような行為で、どのような被害をもたらしたのか、ということすら明らかにされないまま、社保庁職員はマスコミなどから一方的に非難されたのだ。

 このような「年金改ざん」についての社保庁職員に対するバッシングがエスカレートしてしまったのはなぜなのか、舛添厚労大臣の発言や態度がどのような影響を及ぼしたのか、そして、それが、今後、給付率低下が予想される厚生年金制度にどのような悪影響を与えるのか、明日はその点について考えてみたい。

昨日の本コラムに対して、多くの方々からの反響があった。中には、私が述べていることの前提となる基本的事項についての質問・疑問もあった。厚生年金という制度に関わる問題であるだけに、若干分かりにくい面があったのかもしれない。

 そこで、「年金改ざん」問題を考える上での重要な事項について、改めて説明しておこうと思う。

年金額は「いくら支払うべきだったか」の金額で決まる

 まず、「保険料を払っても払わなくても将来もらえる年金額が変わらない」というのは、給与・報酬の実態に応じて申告で定める標準報酬月額に基づいて、支払うべき保険料と将来の年金受給額が決まっていて、その保険料を実際には払わなくても年金受給額には影響しないということだ。保険料を実際に「いくら支払ったか」ではなくて、「いくら支払うべきだったか」の金額に応じて、将来の年金額が決まるのだ。

 もし、保険料を滞納したまま事業者が倒産した場合のように、保険料の支払不能が確定した場合でも、年金の受給額には影響しない。それどころか、厚生年金の場合は、そもそも、保険料の滞納や不払いがあっても、標準報酬月額が変わらない限り、その人の年金受給額を減らすことにはなっていないのだ。

 厚生年金に加入している事業者が支払うべき保険料を支払わなければ、その分、保険料を支払う債務が残っているわけで、社保庁職員は、それを支払うよう説得し、それでも支払ってもらえなければ滞納処分としての差押えをして強制的に取り立てるというのが法律の建て前だ。

 しかし、実際には、保険料を滞納するような中小企業の場合、会社名義の財産はほとんどなく、差押えで滞納保険料を回収することは極めて困難だ。その結果、滞納が解消できないままになってしまっても、保険料を支払わなかった事業者の将来の年金額には影響しないということになる。

 その結果、保険料を真面目に払っている年金加入者の負担が増えるという不公平を招くというので、滞納している事業主の標準報酬月額を遡って引き下げて、支払うべき保険料自体を減額して、その分、年金受給額が少なくなるようにするというのが、事業主の標準報酬月額の遡及訂正だ(従業員と事業主の険料を区別して支払うことはできないが、事業主分だけの標準報酬月額を引き下げることは可能)。

 このような遡及訂正は、保険料を滞納している経営不振の事業主の報酬の実態に必ずしも反していないし、保険加入者の負担の公平のためにはやむを得ない措置と見るべきではないかというのが私の見方だ。

合理的な事業主案件まで「年金改ざん」と呼ばれた

 一方、従業員の標準報酬月額を本人が知らない間に遡及して引き下げるのは、その分、保険料を天引きされている従業員の年金受給額が減額されることになるから、まさに実質的な被害が生じる。このような案件は徹底して調査し、それに社保庁職員が関わっている事実があれば厳しく責任追及しなければならない。

 また、その結果不利益を受けている保険加入者がいれば救済しないといけない。しかし、少なくとも、調査委員会の調査では、この従業員の標準報酬月額の遡及訂正に社保庁職員が関わった具体的な根拠は得られていない。

 問題は、現時点では具体的に明らかにはなっていないと言っても、実際に、このような実質的な被害が生じている従業員案件がどの程度あるかだ。

この点については拙著『思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本』(講談社現代新書)で詳述しているが、今回の調査で対象とされた6.9万件の遡及訂正事案のうち、約70%が事業主分と思える1名だけの遡及訂正で、約30%の複数の遡及訂正の事案の中にも、事業主の親族など実質的に事業主に帰属するものや何らかの事情で従業員が架空である場合などが含まれている。

 その中から、本当に従業員の標準報酬月額が不当に遡及訂正され、被害が生じている案件を絞り込んだうえ、まず事業主側を調査対象にして一つひとつ丹念に事実関係を洗い出していかなければならない。それをやってみないと、従業員案件について社保庁職員を非難できるかどうか分からないのだが、そのような調査は、社保庁職員を主たる対象とする調査委員会の調査とはまったく方向が違うものだった

 結局、実質的被害がなく、それなりの合理的な理由のある事業主案件と犯罪行為そのものと言える従業員案件とをひとまとめに「年金改ざん」と呼んで、それに社保庁職員が組織ぐるみで関与したかのように非難してきたというのが、これまでの経過なのだ。

 社保庁という1つの官庁に対して、「年金改ざん」という名の下で、さしたる根拠もないのに強烈なバッシングが行われ、組織に対する信頼が崩壊してしまったのはなぜなのか、どのような経緯でそうなったのか。そこには、官庁・企業の不祥事に対するバッシングが拡大し、その歪みが生ずる構図に共通する要因が存在している。

社保庁への信頼はなぜこれほどまでに失墜したのか

 まず、社保庁が信頼を失墜するに至るまでの経過を振り返ってみる。

 ここ数年、社保庁では、不祥事が相次いだ。2004年3月、政治家の国民年金未納問題が報道されたのをきっかけに、同年7月、約300人の職員が未納情報等の業務目的外閲覧を行っていた「年金記録のぞき見問題」が発覚した。そして、同年9月には、カワグチ技研事件で社保庁の幹部職員が収賄罪で逮捕され、通常国会における年金改正法案の審議やマスコミの報道等で強い批判を受けた。

 2006年5月、全国各地の社会保険事務所が、国民年金保険料の不正免除を行っていたのが発覚した。2007年5月には、年金記録をオンライン化した際のコンピューター入力のミスや基礎年金番号に未統合のままの年金番号など5000万件強の「宙に浮いた年金記録」の問題が表面化し、年金記録のずさんな管理が批判された。そして、その確認作業が行われる中で、社保庁職員による年金保険料の横領事案が過去に50件あることが明らかになり、国民の激しい怒りを買い、既に被害弁償、懲戒処分済みのものも含めて27件が刑事告発された。

 そして、2008年4月、東京と大阪の両社会保険事務局において、確認されただけで計29人が組合活動に「ヤミ専従」をし、本来は支払う必要のない給与が約8億円支払われていたことが明らかになった。

 このような不正行為・犯罪の相次ぐ表面化で、社保庁という組織は、国民から「最低最悪の官庁」と決めつけられ、国民は「社保庁の職員ならどんな悪事を働いていても不思議ではない」という認識を持つに至った。そのような中で表面化したのが、今回の「年金改ざん問題」だった。

 前回詳しく述べたように、この問題については社保庁職員が厚生年金記録の「改ざん」という不正行為を行ったとして非難する根拠はほとんどない。しかし、国民は、それまでの社保庁に対するイメージから、この問題を、「社保庁職員が組織の都合や個人的な動機から組織ぐるみで行った不正行為」と決めつけ、「年金改ざん」という呼び方も定着した。その伏線となったのが国民年金不正免除問題だった。

国民年金不正免除問題が伏線に

 この問題は、収入が少ない人に対して申請をすることで保険料を免除・猶予する救済制度である国民年金保険料の免除・猶予の手続きを、本人からの申請がないままに行っていたというものだ。

 2004年の国民年金法の改正で、2005年度以降、市町村から所得情報を入手し免除・猶予の該当者を把握できるようになった。このため社保庁職員が、免除・猶予の事由の該当者に働きかけて免除・猶予の申請を出させようとしたが、戸別訪問しても不在だったり、文書を何度送っても反応がなかったりというような接触困難なケースが多かったので、本人からの申請を受けることなく免除・猶予の手続きを行ったという事案だ。これが全国で発生していたことが明らかになった。

 この免除制度というのは、免除の手続きをすることで、保険料を支払わなくても、老齢年金、障害年金、遺族年金の一部を受給できるという制度だ。保険料が支払えない低所得者に対して、老後の最低限の年金を確保させようとするところに目的がある。

 「不正免除」の多くは、せっかくこのような制度があるのに、それを知らないために免除申請をしていない該当者の利益のために行われた。それは社保庁職員の側の「悪事」と単純に切り捨ててよいとは必ずしも言えない。形式的には「違法」であっても、実質的に見て、被害や損害を与える行為ではない。

しかし、マスコミは、この不正免除問題でも一方的に社保庁を叩いた。実質的に、免除事由該当者の利益を図る面があったことなどはすべて無視され、社保庁職員が、年金の納付率を向上させて成績を良くしたいという動機だけで不正を行ったように単純化された。

「年金改ざん」が「組織ぐるみ」とされるまで

 このように「国民年金不正免除」が、「納付率」の向上という社保庁側の事情による不正行為と単純にとらえられたことが、「社保庁職員は、自分たちの都合のために何でもやりかねない人間」という印象を与えた。「年金改ざん」という問題が表面化した際にも、「徴収率」の向上のために他人の年金記録を勝手に改ざんしたというように受け取られたことは否定できない。

 当初、この「年金改ざん」が問題とされ始めた時、そのような行為に、社保庁職員の側がどのように関わっていたのかは全く不明だったが、多くの国民は、社保庁職員が組織ぐるみで徴収率向上のために不正行為を行ったのではないか、という疑いを持った。そこには「国民年金不正免除」問題からの連想が働いていたはずだ。

 その疑いを決定的にしたのが、滋賀県の大津社会保険事務所の元徴収課長の「社会保険事務所では徴収率向上のために組織的に年金記録の『改ざん』が行われていた」という証言だった。

 社会保険事務所で組織的に行われていたのは事業主の標準報酬月額の遡及訂正だったはずだが、この元徴収課長は、この2つを区別しないで、「改ざん」という不正行為が社会保険事務所の現場で組織的に行われていたように証言した。これによって、それまでは「疑い」であった「社保庁の組織ぐるみの改ざん」が、ほとんど確定的な事実のように扱われるようになった。

 そして、そのような見方を決定的にしたのが、舛添要一厚生労働大臣が、「年金改ざん」問題について、国会で「組織的関与があったであろうと思う。限りなくクロに近いだろう」と答弁し、これが「厚生労働大臣が社保庁の改ざんへの組織的関与を認めた」と報道されたことだ。

 そして、舛添大臣が、社保庁職員の関与者を刑事告発するために弁護士中心の調査委員会に事実関係を調査させると息巻いて立ち上げたのが、私も委員として加わった「標準報酬遡及訂正事案等に関する調査委員会」だった。

「法令遵守」的な不祥事対応は事態を一層悪化させる

 このようにして社保庁に対する信頼が崩壊し、組織全体が「犯罪者集団」のように見られることになってしまったことには2つのポイントがある。

 1つは、社保庁の一連の不祥事に対する対策が、単純な「法令遵守」に偏り過ぎていたことだ。社保庁の幹部が収賄で逮捕されたカワグチ技研事件に関連して、厚生労働省は省内に信頼回復対策推進チームを立ち上げたが、ここでの再発防止対策の柱は、法令遵守委員会の設置と内部通報制度の整備という単純な「法令遵守」のための措置だった。それらの対策が、それ以降の社保庁の不祥事の多発に対して全く効果がなかったことは明らかだ。

 そして、国民年金不正免除問題に関して、社保庁は、3次にわたって調査委員会を立ち上げ、事実関係の解明と原因の究明を行ったが、そこで書かれている原因分析は、法令遵守の観点から社保庁の組織や職員を批判しているだけで、多くの職員の不正行為の動機が「国民年金保険料の免除制度の恩恵を少しでも多くの人に受けさせたいという気持ちであったこと、それがこの問題の本質であること」は一切書かれていない。

 このように糾弾されるたびに、一方的に謝罪し、法令遵守の徹底を呼び掛けている間に、社保庁の組織は、どんどん追い込まれ、結局、組織自体が解体されるという事態に至った。

こういった「法令違反」や「偽装」「改ざん」「隠ぺい」「捏造」などで、いったん批判されると、一切の弁解・反論ができないまま、一方的に叩かれ、それが、新たな問題にまで波及し、事態が一層深刻化していく、という最近の官庁・企業の不祥事に共通する構図は、「水戸黄門の印籠を示された途端にその場にひれ伏す人々の姿」、すなわち、「遵守」による思考停止状態そのものだ。

信頼失墜を決定的にした舛添大臣のパフォーマンス

 もう1つ、社保庁の組織や職員にとって決定的な打撃になったのが、舛添大臣の発言と態度だ。舛添大臣は、社保庁を含む厚生労働省の組織のトップでありながら、その部下である社保庁職員をこき下ろし、事実を確認する前から部下の組織や職員の刑事責任にまで言及した。「改ざん」とはどういう意味で使われているのか、標準報酬月額の遡及訂正とどういう関係なのか、従業員の遡及訂正と事業主の分のみの訂正とどう違うのかなど、この問題を考えるに当たっての基本的な事項すら十分に理解していたとは思えない。

 せめて、「調査委員会を立ち上げるので、その調査結果を踏まえて適正に対応したい」と冷静な発言を行い、調査委員会の調査が終わった時点で、各委員から十分に話を聞いたうえで、問題の本質を、国民に分かりやすく説明する努力をしていたら、社保庁職員に対する誤った批判・非難がここまでエスカレートすることはなかったはずだ。

 組織内の不祥事が表面化した場合のトップの対応は様々だ。末端に責任を押しつけて自らは責任を問おうとしないトップもいれば、全責任は自分にあると言って引責辞任するトップもいる。しかし、事実関係を確認することもなく、当事者の弁解・反論を聞くこともなく、一方的に当該部門全体を「犯罪者扱い」するトップというのは、企業の世界ではあまり聞いたことがない。

 私は、社保庁という組織の体質自体に重大な問題があることは否定しないし、その組織がこれまで起こしてきた不祥事、トラブル全体を擁護するつもりはない。しかし、それにしても、今回の「年金改ざん」問題に対する世の中の認識は誤っており、批判・非難の行われ方は明らかに異常だ。

 社保庁やその職員にとっては、それも「自業自得」だという見方もできなくはない。しかし、問題はそれだけで済むものではない。この問題の本質を見極めることなく、このままの論調で「年金改ざん」を単純に社保庁の組織や職員の「悪事」のように決めつけて対応していけば、次に述べるように、厚生年金という制度とその運用に重大な支障を生じさせ、国民全体に大きな不利益をもたらすことになりかねない。
 

産業の二重構造と年金制度をどう調和させていくのか

 「標準報酬月額の遡及訂正」という行為自体が「年金改ざん」などと言われて丸ごと不正のように扱われると、社保庁側では、とにかく遡及訂正だけはやらないようにしようということになるであろう。

 中小零細事業者の事業主の保険料の滞納を解消する唯一の手段であったこの「標準報酬月額の遡及訂正」が行われなくなれば、保険料滞納が長期間にわたって放置されて徴収率が下がることになる。それは、将来、まじめに保険料を支払っている厚生年金加入者の負担で、滞納した事業主自身が高額の年金を受給できることにつながる。

 それを防止するために正規の手段は、調査委員会の報告書で言っているように、「毅然と差し押さえを行う」という方法しかないが、それによって中小零細事業者の滞納保険料を徴収することが困難だということは前回のこのコラムで述べた通りだ。

 では、遡及訂正の恒常化の背景となった「保険料を納めなくても年金がもらえる仕組み」という制度の枠組みそのものを改めればよいのかと言えば、それだけで解決できるような単純な問題ではない。

 厚生年金は、基本的には、多数の従業員を雇用する事業者が従業員の給与から保険料を天引きし、自らの負担分と合わせて保険料を支払うことを前提にしている労働者のための年金制度だ。

事業者が保険料を支払わなかった場合や倒産などで支払い不能となった場合に、年金を天引きされていた従業員が不利益を受けないようにするためには、厚生年金に加入している限り、実際の支払いの有無にかかわらず標準報酬月額に応じた年金の受給権が発生するという制度自体はやむを得ない面がある。

 そのような本来は労働者のための厚生年金が、中小零細事業者の実質的な事業主である代表者にまで適用されることに問題があることは確かだ。しかし、法人の代表取締役は、形式上は会社に雇われている立場であり、それが実質的に「事業主」と言えるかどうかの線引きは容易ではない。

 そう考えると、実態が個人事業者と変わらないような小規模な「法人事業者」をなくしていくこと、人的組織の面でも財産的にも法人としての十分な実体がある場合に限って法人としての会社の設立と存続を認める方向を目指すこと以外には根本的な解決はあり得ないように思える。

 しかし、実際には日本の会社法制は全く逆の方向に向かっている。2006年に商法から独立して定められた会社法では、株式会社の最低資本金の定めがなくなり、会社設立手続きも大幅に簡素化された。誰でも自由に簡単に株式会社が設立できるというのが現在の会社法だ。

「法令遵守」では解決できない日本の中小企業の実態

 極端な事例を考えた場合、1円の資本金で株式会社を設立し、定款で代表取締役の報酬額を定めておいて厚生年金に加入し高額の標準報酬月額を設定してしまえば、その後、保険料を何年間滞納し続けていようが、その報酬月額に見合う将来の年金受給権を得ることができることになる。会社の実体がなければ会社財産の差し押さえによって滞納保険料を徴収することもできない。その場合の年金の財源も、真面目に保険料を支払っている厚生年金加入者の負担になってしまう。

 小規模会社に関する会社法制の在り方は、社会保険制度や運用の問題と密接に関連する問題である。両者の整合性を考えながら制度改正を行わなければならないのに、日本では会社法の問題と社会保険制度の問題を全くバラバラに考えてきた。それが、制度の重大な矛盾を生じさせてしまった。

 この問題の背景には、法律の建て前通りにはいかない、つまり「法令遵守」では決して解決できない日本の中小企業の実態がある。その中小企業が、これまで戦後の日本経済の一翼を担ってきたのだ。

 日本の産業構造の二重性の下で、中小零細企業の経営の実態に適合した年金制度と運用の在り方を抜本的に検討する必要がある。それは、経済危機の深刻化に伴って中小零細企業の経営が急激に悪化し、社会保険料の負担が困難になりつつある現状においては、何はさておいても取り組まなければならない緊急の課題と言えよう。

 そのためには、実態も問題の所在も理解しようとせず、自らがトップを務める厚生労働省の一員である社保庁職員を一方的にこき下ろす「人気取りパフォーマンス」ばかり続けてきた舛添大臣が、まず、これまでの軽率な対応を謙虚に反省し、問題の本質に目を向けた対応を行うことが不可欠であろう。

 人気取りのためのパフォーマンスは、この「年金改ざん」問題に限らない。前に述べた社保庁の「ヤミ専従問題」でも同じだ。

 厚労省が事実関係の調査と処分の検討のために設置した第三者による調査委員会が、組織的、構造的な問題だという事案の性格や全額被害弁償済みであることなどを考慮して刑事告発については慎重に対処すべきとの見解を示していたのに、舛添大臣は、それを無視して40人もの社保庁職員を告発するよう指示し、結果的には全員不起訴(起訴猶予)となった。官公庁があえて刑事処罰を求めて告発した事件が全員不起訴になるというのは異例のことである。そのようなことに膨大な労力をかけるより、他に重要な問題が山ほどあるはずである。

 しかし、舛添大臣も含め「人気取りパフォーマンス」で目立っている政治家の名前ばかりが、人気崩壊の麻生首相に代わる「次の総理候補」として急浮上しているというのが、今の日本の政治の悲しい状況なのである。

 では、この問題について、今後何をすべきなのか、制度とその運用をどのように改めていったらよいのか。次回は、その点についての私の考え方を述べて、「年金改ざん」問題についての連載の締めくくりとしたい。

前々回と前回のこのコラムで述べてきたように、「年金改ざん」問題は、厚労省や社会保険庁組織が「法令遵守」に偏った対応ばかり行ってきたことや、組織のトップである舛添厚労大臣が、事実を確認もせず、問題の本質を理解することもなく、社保庁職員が犯罪者であるかのようにこき下ろしたことなどで、マスコミや世の中から、社保庁の職員が組織ぐるみで行った単なる「悪事」であるように決めつけられてしまい、問題が矮小化されている。

 では、この問題に対して、今後、どう対応したらよいのか、制度の在り方やその運用はどのように改めていったらよいのか。私なりの考え方を示しておきたい。

「年金改ざん」を巡る誤解の解消が急務

 何はさておいても、まず行わないといけないことは、この問題に関する国民の誤解を解消するために、「年金改ざん」と言われている問題を整理し、何が問題の本質なのかということを、分かりやすく国民に説明することだ。そのためには、厚労省トップとしての舛添大臣が、この問題の本質を理解し、自ら説明を行うべきだ。

 「年金改ざん」問題というのは、経営の不安定な中小企業に厚生年金という制度を適用したことで発生した問題で、大企業のサラリーマン、役員や公務員などには基本的に無関係だということをすべての国民に分かってもらうことが必要だ。「年金改ざん」と言われる「標準報酬月額の遡及訂正」が行われるのは何カ月にもわたる保険料の滞納が発生した場合であるが、大企業が社会保険料を長期にわたって滞納することはほとんどあり得ない。

 しかし、このような、ある意味では当然のことすら、新聞、テレビなどでは明確に伝えられてはいない。「『年金改ざん』は100万件以上に上る、その闇はどこまで広がっているのか分からない」というような報道もあり、多くの国民は、社保庁職員が組織ぐるみで行った「年金改ざん」のために自分たちも被害を受けた可能性があるような誤解をしているのが現状だ。

 次に、標準報酬月額の遡及訂正は、基本的に、事業者の申告によって行われたものだということを説明する必要がある。申告書自体を社保庁職員が偽造したというのであれば別だが、さすがにそのような話は、これまで全く出ていないし、そこまでして遡及訂正の訂正を行うほどの動機が社保庁職員の側には考えられない。調査委員会が設置したホットラインには全国から多数の情報が寄せられたが、その中でも、事業者の申告もしていないのに、勝手に年金が引き下げられたという情報提供はなかった。

 もっとも、前々回のこのコラムへのコメントの中に、「私は約35年間会社を経営し、現役を引退して5年後、社会保険事務所から連絡があり、給料が8万円に減額されているので確認したいと言う事でした。当時私の給料は75万円で一度も保険料の滞納はなく、引退するまで赤字決済はなく、もちろん給料減額はありませんし、減額されていた事等、私は全然知らない事であります」というものがあった。

 これが、事業主の標準報酬月額が本人の知らない間に遡及訂正されたということを意味するのであれば、調査委員会も、社保庁も認識していない事案である。

 標準報酬月額の遡及訂正は基本的に事業者自身の申告で行われているものであり、申告もなしに勝手に引き下げられている社保庁職員側の一方的な「改ざん」の事案は、現時点では全く見つかっていないが、万が一にもそういう事案があるのであれば徹底解明するということも明確にしておくべきであろう。

「事業主案件」と「従業員案件」の明確な区別を

 そして、重要なことは、同じ標準報酬月額の遡及訂正でも、事業主分の訂正(事業主案件)と従業員分の訂正(従業員案件)とは全く意味が異なること、現在把握されている遡及訂正の大部分は事業主案件(生計を同一にしている親族など分を含む)であることを国民に分かりやすく説明し、この2つを明確に区別した対応を行うことだ。

従業員案件は、保険料を天引きされていた従業員の標準報酬月額が本人の知らない間に遡って引き下げられ、その分、従業員の将来の年金受給額が減額される一方、事業主側が天引きしていた保険料を着服することになるのであるから、まさに実質的な被害が生じる犯罪そのものだ。このような案件は徹底して調査し、それに社保庁職員が関わっている事実があれば厳しく責任追及しなければならないのは当然だ。

 一方、事業主案件は、中小零細企業に厚生年金を適用することに伴って不可避的に発生する保険料の滞納に対して、それが「保険料を払っても払わなくても将来もらえる年金が変わらない仕組み」(前回のこのコラム1ページ参照)の下で、保険料を払わなかった事業主自身が将来多額の年金をもらうことになるという保険加入者間の負担と給付の不公平が生じることを防止するためには、やむを得ない面もある措置であった。滞納事業主に、保険料を払うよう説得し、差し押さえのための財産調査を行うなどの正規の手続きに向けての努力を全く行わず、安易に遡及訂正を行ったとすれば、そこに社保庁職員としての義務を尽くしていないと批判されるのもやむを得ない。しかし、この問題の根本には、厚生年金制度が中小企業の経営実態に適合していないという根本的な問題があり、重要なことは制度や運用の改善を行うことであって、社保庁職員の責任追及を行うことだけでは問題は解決しない。

 この事業主案件を、基本的に責任追及の対象から切り離し、その分の労力とコストを従業員案件についての調査に費やすのが合理的だ。従業員案件を徹底して解明するためには、調査委員会が対象とした6.9万件(社保庁が「長期間にわたる大幅な遡及訂正が行われ、直後に厚生年金資格喪失手続きが行われているもの」を不適正な遡及訂正が行われている可能性があるとして抽出した案件)だけを対象にしたのでは不十分である。

 長期間又は大幅な遡及訂正が行われている案件の中から、従業員が対象となっている案件を抽出し、その一つひとつについて事業主からの事情聴取を行い、給与の実態に反して不正に訂正されていないかどうかを確認し、そのうえで、社保庁職員の関与の有無を明らかにするという地道な調査を丹念に行っていく必要がある。調査委員会報告書でそのような方向性が示せなかったのは、その調査の中で確認できた事業主案件を「社保庁職員の組織ぐるみの不正」と評価し、従業員案件と明確に区別することなく、今後の調査の在り方を論じたところに原因がある。

事業主案件の背景にある構造的問題の解決の道筋

 では、事業主案件が社保庁の現場で広く行われ、「仕事の仕方」として定着していたことに対しては、どう対処すべきか。

 そのような行為は、中小企業に対する厚生年金の適用の現場で、やむを得ない面があったことは確かだが、問題は、それが不透明な非公式なやり方として定着していたことにある。

 そこで、当面の対応として考えられるのは、これまで非公式な方法として、現場で非公式に行ってきた標準報酬月額の遡及訂正を、要件を定めたうえで、制度化するか、あるいは、その運用方法として明確化することである。そのためには、報酬・給与の実態を確認する方法について何らかの基準を設けることや、遡及訂正によって将来の年金額が減額されることについて保険加入者側の承諾を得る手続きについても定めることが必要になる。

 しかし、それだけでは、前回の本コラム5ページで指摘した、年金受給権を確保するために、実体のない会社を設立して厚生年金に加入し高額の標準報酬月額を設定するというような確信犯的なやり方には対応できない。一定の規模以下の会社には一定の期間を「仮加入期間」として設定し、保険料支払いの実績を確認したうえで正式の加入を認めるというような方法も検討する必要がある。

 そして、最終的には、中小企業の実態に即した公的年金制度を創設すること以外にこの問題の根本的な解決はあり得ない。

事業者に社会保険料の半分を負担させることで公的年金による労働者の老後の保障を充実させようという趣旨の厚生年金制度が、企業の規模を問わずすべての法人事業者に一律に適用されるのが現行の厚生年金制度だ。その趣旨は尊重されるべきだが、日本の中小企業の実態は、そのような負担が可能な事業者ばかりではない。保険料負担が、14.6%という高額の延滞金と相まって中小企業の経営を圧迫する要因になることは避けがたい。

 そう考えた場合、基礎年金制度に下支えされた(厚生年金は国民年金の「上乗せ」の制度であり、加入している限り標準報酬月額が最低水準でも国民年金加入者の年金額を上回る)厚生年金の事業者の負担率を、大企業向けと中小企業向けとで区別するという方法もあり得るのではないか。

 法人事業者であっても、会社法などの法律が予定しているような組織や経営の実態ではない中小企業を巡る問題は、「法令遵守」だけでは絶対に解決できない問題である。法令による建前論ではなく、実態を把握し、現実を直視して解決策を考えていくほかない。

「遵守」を超えて「真の法治社会」を

 2年余り前に出した『「法令遵守」が日本を滅ぼす』(新潮新書)では、実態と乖離した法令を、そのまま単純に遵守すればよいという考え方が、日本社会に大きな弊害をもたらしていることを指摘した。先日公刊した『思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本』(講談社現代新書)では、「何も考えないで、単に『決められたことは守ればよい』」という「遵守」の姿勢がもたらす弊害が、「法令違反」の問題だけではなく、「偽装」「隠蔽」「ねつ造」「改ざん」などの問題にまで拡大している日本社会の現状について述べている。

 「法令違反」か否かとは関係なく、一度「偽装」などのレッテルを貼られると、一切の弁解・反論が許されず、実態の検証もないまま、強烈なバッシングの対象とされる。「年金改ざん」問題はその典型だ。

 「改ざん」という言葉が何を意味するのか、それが具体的にどのような行為で、どのような被害をもたらしたのか、ということすら明らかにされないまま、社保庁職員はマスコミなどから一方的に非難された。

 その一方で、この問題の本質が大企業向けの厚生年金制度を中小企業に適用することにあることも、この問題を放置すると、経済危機の深刻化、中小企業の経営悪化の下で厚生年金の徴収の現場が一層混乱し、回復不可能な状態になりかねないことも、ほとんど知らされていない。

 その構図は、多くの官庁・企業の不祥事に共通する。何か問題を起こすと、全く反論も弁解もできず、反省・謝罪をひたすら繰り返すばかりの官庁・企業の姿は、水戸黄門の印籠の前に、ただただひれ伏しているのと同様だ。

 その「遵守」の印籠の効果を高めているのが、国民への人気取りしか考えない政治家、責任回避の行政、問題を単純化するマスコミという「思考停止のトライアングル」だ。こうした中で、国民は、今この国で起きていることについて真相を知らされず、重大な誤解をさせられたまま、有権者、消費者、納税者などとして様々な選択を行わされている。

 同書では、この「年金改ざん」の問題をはじめ、食品を巡る偽装・隠ぺい、検査データねつ造、経済司法の貧困、裁判員制度、マスメディアの歪みなど様々な分野の問題を通して、そのような日本社会の現状を明らかにし、最後に、「遵守」による思考停止から脱却して「真の法治社会」を作っていく道筋を示している。

 我々は、まず、誰かに制裁を科して物事の決着をつけてしまおうとする単純な「悪玉」論を乗り越えて、少しでも多くの国民に、今起きていることの現実を知ってもらう努力をしなければならない。

 そして、そのうえで、どのような方向で解決したらよいのかを考えるコラボレーションの環を拡大していくことだ。多くの国民の利害に関わるこの厚生年金の問題への対応が、日本社会が日本人固有の知恵を取り戻せるかどうかのカギを握っている。

【京都大学新聞社】 京都大学11月祭講演会録 上杉隆

11月祭講演会録 「記者になりますか?それともジャーナリストになりますか?」(2008.12.01)
Filed under: 企画類
講師:上杉隆
日時:11月24日
場所:法経本館第六教室
主催:京都大学新聞社

外部の記者を阻み、メンバーすらも雁字搦めにする記者クラブ制度をはじめ、様々なシステム的問題を抱える日本のメディア。日本型の会社員的な記者ではなく、本当の意味でのジャーナリストになるためにはどうすればよいのか。この国は健全なジャーナリズムを築けるのか。議員秘書、海外メディア、フリーランスと様々な角度から日本のメディアを見てきたジャーナリスト上杉隆氏に話を聞いた。(編集部)

今日は、「記者になりますか?それともジャーナリストになりますか?」というテーマでお話をします。話は3部構成で、1つ目が最近の取材の中から抗議を受けたり、反政府ジャーナリスト扱いをされ、閣議決定までされてしまったエピソードの内幕など。2つ目が日本の記者クラブ制度について、私のかつての職場ニューヨーク・タイムズとの比較の中で話します。3つ目に日本のメディアがいかにその問題点を解決していくか、またジャーナリストを目指す人が、世界で通用するジャーナリストとなるためにはどうしたらよいかについて話します。


権力が発表したことはウラをとらなくていい
―産経新聞

まず、最近の取材のことで、自分自身が話題にもなったことです。ことの始まりは週刊朝日の10月31日号に掲載された『麻生「外交」敗れたり』という記事。麻生総理は外務大臣時代、『自由と繁栄の孤』という本を書いています。その中で対テロ戦争でのアフガニスタン支援について触れていますが、その核となる給油法案を通し日米同盟を守るということがそのまま首相としての政治目標となっています。麻生総理が所信表明演説で堂々と国連よりも日米同盟が上であるとうちだした。それが麻生外交のスタートなのです。ところがこれは日本の片思い外交に過ぎず、アメリカは日本をなんとも思っていなかった。その根拠としては、アメリカが北朝鮮のテロ支援国家指定解除をする際、韓国には一日前に連絡があったにもかかわらず、日本への連絡は解除のわずか30分前だった。これが外交の敗北だったわけです。

記事の一つの材料にしたのが、外務省の斎木アジア太平洋州事務局長の懇談の内容でした。その局長懇談は、記者クラブのメディア、いわゆる番記者だけを集めて毎週水曜日に非公式に開かれているものです。記者クラブに所属していないメディアは出席できないし、問い合わせてもそのような懇談はやっていないとこになっている。ということで、その懇談内容をすっぱ抜きました。

すると外務省の報道担当官が、週刊朝日の編集部を抗議に訪れた。ただ不思議なのが、その抗議が週刊朝日に対してであって私には来ない。応対した統括副編集長は、上杉氏に抗議を届けます、と言いましたが、報道官はそれを断った。結局、その時の抗議は私のところには届けられなかった。

ところが、翌朝、産経新聞の一面を見ると、私が外務省に抗議されたことになっている。仕方ないので抗議は来ていないけど、翌週の週刊朝日(11月7日号)に再反論する記事を書いた。すると今度は産経新聞が抗議をしてくるのですが、やっぱり抗議の対象が週刊朝日に対してであって、私には来ない。また、産経新聞記者の阿比留瑠比さんもブログで言及していますが、正式に抗議を受けていないので反論もできない。一方で不思議なことに、阿比留さんや外務省には、再三インタビュー依頼をしているのです。にも関わらず、一切受けてくれない上にこのような対応です。更に外務省はHPで週刊朝日の記事が事実無根だとして訂正を求めたいという意向を示しましたが、これも一切連絡はありません。

それからしばらくして、麻生内閣のひとりが、さきほどの閣議で週刊朝日の記事を外務省が政府答弁書で否定したと伝えてくれたんです。一雑誌の記事によくそこまでやるな、と思ってもう一度反論記事を書いたのですが、今もって反応はありません。

一連のことから分かるのは、ひとつは外務省の役人根性です。斎木局長はじめ外務省幹部については、決して知らない仲ではないので、堂々と抗議してくれればいいのにそうしない。おそらく、外務省としては、もうわけのわからない上杉とはこれ以上関わるのはやめようという判断なのでしょう。そういう意味では外務省の判断は正しかったのかもしれません。(笑)

一方、産経新聞はちょっと勇み足だった。外務省抗議を、産経新聞がかなり煽っている部分がありました。特に産経新聞の記事は、一方的な外務省の発表ものです。私や週刊朝日に取材もせずに、週刊朝日の記事を閣議で否定したということを載せた。これは、産経新聞自身が掲げている双方向への取材というルールから大きく逸脱しています。日本では「権力が発表したことはウラを取らなくていい」という勝手なルールがあるんですが、それが今回の産経の記事に現れていました。


権力側の文章を記者が書くということ
―朝日新聞

もうひとつ批判を受けたのが、たまたま同じ日に発表することになった記事なのですが、新潮45(11月号)に書いた『「所信表明演説」で読み解く麻生総理の“一寸先”』という記事。この記事では朝日新聞の編集委員の曽我豪さんが、麻生太郎さんが文藝春秋に書いた論文のゴーストライターを務めていたということを書きました。曽我さんは麻生さんと20数年来の付き合いで、永田町では麻生さんの意向は曽我さんに聞けば一番詳しいといわれている側近中の側近記者なんですね。実際しょっちゅう六本木の馬尻というお店や、最近話題のオークラのハイランダーや帝国のゴールデンライオンなどのホテルのバーで一緒にいます。その人が文藝春秋の麻生論文(冒頭解散を決断したとされている)のゴーストライターじゃないかという噂が流れたんですね。1ヶ月ほど取材をして、状況証拠やいくつかの具体的な証言がとれ、ほぼ確証を得たので、本人にインタビュー依頼と質問状を出し、文藝春秋の編集長宛にも質問を送りました。曽我さんの方は、インタビューは多忙のため受けられないといわれ、いくら時間がかかっても電話取材でも構わないから待つ、と伝えたのですが、結局そのまま返事がきませんでした。校了直前にも問題点を項目分けしてファックスで送ったのですが、結局、ノーコメントに終わりました。文藝春秋の方はというと、事実無根であると短い返事がきました。また麻生首相と村松首相秘書官にも当然ながら質問を送りました。やはりこれも返事はありませんでした。

この話で問題なのは、政治を左右する権力側の麻生総理の文章を、報道側の曽我さんという一記者が書いているということ。日本では、例えば新聞記者などが幹部になると政府の委員になるなど、報道と権力の垣根がはっきりしていない。海外でこのようなことが発覚した場合はその瞬間にクビ、更に深刻な場合ならジャーナリズム界からの追放ということになります。曽我さんはこういう意味で批判の対象となりました。といっても私しか批判していないのですが。(笑)

アメリカでは、権力と報道を人が行き来する際の明確なルールがあります。それはジャーナリズムが政府の委員やゴーストライターなどをして、権力になんらかの影響を与える場合はいったんペンを置かなくてはいけない。また、権力側にいるときはジャーナリズム側としての発表をしてはいけない。これをやってしまうと、両サイドへの二重の裏切りとなってしまいます。

例をあげると、作家で東京都副知事の猪瀬直樹さん。都民からの公金を得ながら、媒体に発表をしている。もし副知事の立場として書くのであれば、これは一向に構わない。しかしジャーナリズムの立場で書くことには問題がある。例えば東京都の情報を書くとき、副知事の立場を使って書類を出させることができる。それをなんらかの商業誌に書くことは公務員の立場としては漏えいにあたる可能性もある
し、ジャーナリズムの側からしても不正な手段で情報を得ていることになる。両方の立場でよくないんです。

また、先の2件に関してメディアの人たちから私が批判を受けているのですが、その理由が記者の名前を出したことについてでした。名前を出されて批判されることに慣れていないんですね。メディアの方というのは、ご自身たちは政治家や一般の人の名前を出して批判する割に、自分たちが批判にさらされると一切対応しないというダブルスタンダードを持っていて、それが問題なんです。

次に日本の記者クラブ制度について話します。私自身と記者クラブの関わりは、最初はNHKのスタッフとして中から、次に議員秘書という権力側から、その後ニューヨーク・タイムズというオブザーバーの立場から、最後に記者クラブから最も阻害されるフリーランス、という4つの立場からのものでした。15年ほど記者クラブという制度を見てきて、これが日本の報道がうまくいかない最たる理由ではないか、ひいては日本の社会システム全体を歪めているのではないかと思っています。

バブル崩壊後、企業などさまざまな組織が倒れていきました。自浄作用が働かない限り生きていけなくなったんです。遅れているといわれている官僚機構も、いろいろな形でスキャンダルが出て、国民の厳しい目線が注がれるようになり、ある程度自浄作用が働いてきている。農業ですら、WTO加入によって世界に合わせて変わっていかないといけなくなっている。

ところが、メディアだけが昔のまま変わらずに生きている。なぜかというと日本語という大きなバリアがあるからなんです。日本人は日本のメディアがジャーナリズムだと思っているが、海外ではまったく相手にされていない。記者クラブ制度は、同業者がアクセス権を持つという制度ですが、韓国でもなくなりましたし、いまや日本とそれをまねたアフリカのたぶんガボンだったと思いますが、そこにしかない珍しい制度です。

この制度がなぜ問題かというと、クラブの性質によって政治の様々なマイナス点が隠され続けてきたからなんです。最近の例をあげると後期高齢者医療制度。あれは3年ぐらい前に民主党の山井和則さんや福山哲郎さんなどの若手議員らが、とんでもない制度だといって委員会でどんどん質問をしていた。しかし記者クラブメディアはそれを一文字も取り上げない。なぜかと聞くと、野党の一議員が言ったってニュースにならないと言うんです。ところが2年経って制度の運用が始まると、今度は大騒ぎするわけですね。なぜこのことが明るみに出なかったのか、政府はこの制度を隠していたんじゃないのかと。しかし全然隠してなんかいなかった。山井さんなんか自分でビラを作って配っていました。このようなことになったのは、政治報道が権力側の発表に従う発表ジャーナリズムであることが原因なんです。政府が発表するまではニュースにならないし、逆に発表すればなんでもニュースになる。政府が発表したかどうかでニュースになるかを判断し、政策などで物事を判断しなくなってしまう。


“出入り禁止”禁止

この前、元財務省の高橋洋一さんと対談をしていて、そこで高橋さんが、マスコミは使いやすいよ、紙を1枚作っておけば、みんなヤギのように寄ってたかって取っていって、ありがたく記事にする。自分が作った中で本当のことなんて書いたことないが、それでも紙ならニュースになり、紙以外はニュースにならない。紙以外をニュースにする場合は取材が必要なわけです。権力側は、「本当に報じないといけないこと」は事実無根だと否定してくる。それを記事にするということこそ世界中のジャーナリストがやっていることなのですが、日本の場合は出しても全く得がないので出しません。これが記者クラブ制度の最大の問題点。

たとえば私が記事を出して、間違っていれば、基本的には、責任とって訂正記事を出すか、謝罪するか、再取材して改めて記事を出すか、そうしたことをすればいいだけだと思うんです。ところが日本のメディアでは1回間違えると、それがそのまま評価の対象になってしまう。そこには間違いは存在しないという前提があるんです。記者クラブの記者が、仮に間違えた場合どうなるかというと、処罰や人事に影響します。スクープをとればいいかというとそうでも無くて、場合によっては記者クラブから出入り禁止となってしまう。たとえば記者クラブには毎日のように紙が張り出されるのですが、それぞれのニュースには解禁時間があります。それを破ればスクープになるのですが、破ると出入り禁止になります。普通は出入り禁止になるのはいい記者の証なのですが、日本の記者は出入り禁止を恐れます。私なんかいろんなところで出入り禁止になっていて、いまやどこが出入り禁止かわからず、間違えて出入り禁止の事務所に入ってしまってしばらく話してから禁止を受けていることに気付いたなんてこともありました。麻生事務所なんですけど(笑)。そういう意味で出入り禁止自体はそこまで恐れる必要はないんです。

なぜそれを恐れるかといえば、取材された側が社内の上の方に言いつけて、お叱りをいただいて評価が下がるからです。非常に珍しいシステムです。それでもよければ記者は書き続けるのですが、当然ながら出世は見込めず、地方に飛ばされるか現場から外されるか、もしくは辞めざるを得ない状況に追い込まれる。記者も当然ながら生活をして家庭を構えているので、おとなしくせざるを得ない。それがシステムとして完成されているのが日本の記者クラブであって、そこから厳しい記事が出るはずがない。

根本にあるのが日本特有の経営と編集の一体化。ある政治部記者が担当する政治家が出世をすると、その記者も同時に出世します。逆に政治家が失脚すると記者も地位が下がる。取材対象と記者が連動しています。そうなるとその政治家のことはいろいろ知っていたとしても、政治家にとっていい記事は書いても悪い記事は書かない。自分の出世をなくしてしまう記事を書くような自爆行為はしません。そして政治家にとっていいことばかりを書くようになり、先にお話しした朝日の曽我さんのように論文なんかも書いてしまう。マイナス情報があれば事前に教えて対策を考える。

もっとひどいのでは、朝日新聞横浜・川崎支局が中心となった社会部によるリクルート疑惑報道。この時は、ある政治部記者が政治家に警告して、それでもままならないとなると、政治部は一切協力できないと言って社会部を妨害しました。こんなことをやっているといつまでも世界標準にはなりません。


便利な記者クラブ―秘書時代の経験から

自分の議員秘書時代の経験から言っても、記者クラブは権力側からすると本当に便利なシステムです。鳩山邦夫さんがまだ民主党の頃、私は政策と広報担当をやっていて、特に東京都知事選出馬の前にはマスコミ担当をやっていました。その時のノウハウから言うと、プラスになる情報を流すときは、あえてホテルなど誰もが入れる場所で記者会見を開きます。雑誌もフリーも海外のメディアも全部来られるので、報じてくれる可能性も上がるわけです。逆にマイナスとなる情報のときはそういうことはしません。

一つの例をあげるとオレンジ共済事件。友部達夫元参議院議員などが逮捕された事件ですが、その事件に当時選挙区であった中央区だということもあって、鳩山さんの名前も挙がったんです。記者クラブの記者は私に、社会部記者が鳩山さんを追っかけているという情報を入れてくれました。本人は関係なかったのですが、すぐに30人ぐらいの秘書を集めると、うち2人が関係があった。法的に問題はありませんでしたが、その2人には全部情報を出させて、政治資金収支報告書なども調べても含めてセーフではあったんですが、イメージのことを考えて1人を事務所から外し、事態の治まるのを待ってから、再雇用を考えるとしました。

次に記者クラブに取材状況を聞くと、雑誌などにはじきにでるだろうということだったので、記者会見を開くことにしました。報じられる前に自分で報じた方がいいというのはメディア戦略の鉄則です。その時会見に使ったのが国会内の記者クラブと都庁の記者クラブ。クラブで開けば、クラブ所属の記者しか入れないし、フリーなどがオブザーバーで入ったとしても質問権がない。さらにあらかじめ記者クラブに対して質問事項を出させて、それにそって質問をさせる。そうすれば、ある程度報じられても、少なくとも会見を開いた事実は担保される。取材の申し入れがあっても、断る口実にできます。今から考えると私自身が非常に不健全なことをしていたのですが、権力側がこういうことができるということにシステムとして問題があるという証人でもあるのです。

逆にニューヨーク・タイムズにいたときには、記者クラブに阻まれました。ニューヨーク・タイムズで当時の小渕総理の単独インタビューを取ろうとした際、秘書を通じてその許可をとりました。そこまでは良かったのですが、首相動静の欄などに載せないといけないというので内閣記者会(記者クラブ)にも一応日程を報告してくれと言われ、報告した。そうすると記者クラブで問題となり、結局単独インタビューを認めないと言ってきた。そんなことは記者クラブに入っているわけでもないし、守る必要はないのですが、今度は総理側が、記者クラブ全体を敵に回したくないので許可を取ってくれという。それでさんざんやりあったが、結局小渕首相の死によってインタビューは実現しなかった。


知るべきことを知らされない国民

記者クラブは、同業者の仕事の邪魔をする不思議な制度であって、権力側からすれば大変便利だが、フリーからすると非常に邪魔。しかし一番不利益を被っているのは、本来知るべきことを知らされない日本の国民です。これを打破する動きとして、鎌倉市や長野県で記者クラブを開放したということがあったのですが、これはいつのまにかなくなってしまった。また5年以上前に民主党が岡田克也代表のとき記者クラブを開放しているのですが、不思議なことに一切これは報じられなかった。これは既得権益に絡む問題です。民主党の記者クラブ開放を報じてしまうと、雑誌とか海外メディアや私のようなフリーが入ってくる。するとこれまでの記者クラブの調和が崩れてしまい、当たり前ですが政治家に厳しい質問も出てしまう。こういった理由で5年間黙っていたのですが、最近私が『ジャーナリズム崩壊』という本の中でこのことを書いてしまったために、記者クラブの開放が明るみになりました。民主党のある職員からは、お前のせいで仕事が増えてたまったもんじゃないよ、と言われました。(笑)それだけメディアは記者クラブの開放にナーバスになっています。

しかし記者クラブの開放自体は時代の流れだと思います。これまで記者クラブが維持されて来たのは記者たちが、どうでもいい情報をいかにも大事であるかのように扱い、自分たちだけが持っていることで価値を高めて、報じて来たからなんですね。

ところが、そういうことができなくなって来た。その一つの原因にインターネットの普及があります。かつては委員会などの国会審議とかは記者クラブの記者以外は現場に入ってみることができなかった。傍聴してもいいけれど、毎日やっている暇はない。それがいまや完全に動画で公開されている。それを見れば一般の人でも本当のことが何なのかがわかり、記者クラブの記者がどうでもいいことを取材したフリをするなんてことがまずできなくなってきている。また秘書や役人が匿名で書くブログのようなものも増えているし、なんといっても大きいのが政治家とか官僚、つまり取材される側が本人の名前でブログで直接情報を発信していること。特に若手政治家、河野太郎さんや山本一太さんなどはかなり早い段階でブログを書いていて、官邸で首相の話を聞いて来たなんてことをその直後にはアップするわけです。そうすると政治部記者はたまったもんじゃない。翌朝の新聞に書いてあることよりも、もっと詳しい内容を当事者が全部書いてしまうわけですから、いままでのようなごまかしはきかない。そういう意味で変化の兆しはあります。

ただ根本的な部分はちょっと変わりにくい。というのはやはり記者クラブを守って来た人が、いまやメディアの経営陣となっていて、それを開放するというのは自分たちのやって来たことを全否定することになってしまう。私が記者クラブ批判を書いていても、若い記者からは好意的な反応をもらったりもするのですが、幹部の人からは例外無く嫌われている。そういう今の幹部の人がいなくなって、記者クラブに疑問を感じている人が上にいけば、メディア自身から変わっていくこともあるかもしれません。

もうひとつやっていかないといけないのが署名記事の普及です。毎日新聞以外は誰が書いた記事か全く分かりません。毎日新聞もデスク等が手を入れることを考えると、記事に責任を持つという意味での厳密な署名制とは言えません。客観報道という名の下に名前を書けないということらしいのですが、まず人間が客観的だなんて100%有り得ない。客観なんて言う人に限って主観が入っている人が多い。客観報道なんて言うこと自体おかしい。まずその記事が誰によって書かれたかを読者に知らせることも情報のひとつとして必要です。海外の新聞は通信社の記事以外は全て署名記事です。新聞社の記事は分析や評論を主とするので、どういう人が書いたかということが非常に重要なんです。例えば書いた人が、保守的なのかリベラルなのかということを頭に入れながら記事を読めるわけです。また署名をして堂々と批判をすれば、相手も反論してきてそこで論争が芽生える。結果としてそれが政策に影響したり国民の知るところとなる。署名記事が普及することは記者クラブの開放にも繋がります。韓国の記者クラブ制度崩壊の一つの理由には、メディアの側が署名記事制にしたことも大きく関わっています。そうすることで個人が記者クラブに入るきっかけができた。そしていい記者は転職をどんどんするようになり、会社が記者クラブを作る利点がなくなったのです。これが、記者個人として変わっていくべきことです。


新聞業界の再編 通信と新聞の分離

システムとしての部分ではいろんな考え方があるのですが、最近私が一番いいと到達した考え方をお話しします。日本のメディアはジャーナリズムと言われていないのですが、じゃあ何に分類されるのかというと、ワイヤーサービス、いわゆる通信社の業務なんです。海外では新聞記者と通信記者の仕事は明確に分けられます。新聞記者は分析や評論、通信記者は発生もののストレートニュース。通信記者は事件があるといち早く現場に駆けつけて第一報を送る。新聞記者は事件が終わった後にその事件が取材すべき価値があるか、記事に書かれるべきかを判断して取材をして分析し記事を書きます。通信社の記者は署名はいらず、人数は大変多い。その分給料はちょっと安め。新聞記者は、人数は少ないけど、一本の記事が非常に長く執筆力を求められる、文体なども考慮されます。ニューヨーク・タイムズは全世界に300人程度の記者しか居ません。一方日本の朝日新聞は3000人を超えているという状況です。これをどうすればいいか。アメリカのまねをする必要は無いのですが、日本も世界と同じシステムにすればいい。そうすれば3000人の記者はおそらく300人ぐらいになる。ストレートニュースは通信社の記事で十分です。そうすれば記者クラブ自体不要になって通信社の記者だけがいればいい。新聞記者は外に出て取材をするようになる。

ただこの改革をすると、その新聞社は記者クラブを開放しなくてはならないし、9割ぐらいの記者の首を切らなくちゃいけない。難しいかなと思っていたのですが、最近一つアイデアを思いつきました。日本の新聞社が体制を変え、自社の改革として通信社を子会社として作ればいい。そうすれば取材ができて筆力のある記者を新聞社に残して、他は通信社の記者にする。全く取材のできないような記者は淘汰される。こうすれば3000人の高給取りを抱えて危機的状況にある新聞社の経営も、ずいぶん改善されるんじゃないでしょうか。

ただメディアの経営陣と話していると、ものすごく頭が古いのでそうは簡単にいきそうにありません。おそらくショック療法として一社や二社経営破綻して、いよいよどうしようもない状況にならなくては日本のメディアは変わらないのではないでしょうか。これだけ批判をしている私が言うのもなんですが、私も新聞やテレビで仕事をして生活している以上、潰れられては困るし、なんといっても報道機関が無い国では全体主義、独裁主義が始まる可能性もあるので、日本のメディアになんとかして立ち直って欲しいと常日頃思っています。


新しいメディア体制 その先駆者として

最後に、これからジャーナリストを目指す人。まず絶対に守って欲しいことが1つあります。これから報道機関を受ける時、私の名前を絶対に出さないでください。(笑)間違いなく落ちるので。よくエントリーシートとかに尊敬するジャーナリストとかいって書いてしまうと、上杉の上ぐらいまで書いたらもうアウト。面接の時も口が滑ってしまわないように気をつけてください。面接官に1人ぐらい奇特な人がいて、いいよね、なんて言ってくれるかもしれませんが、面接で上がっていって、経営陣になってくると、100%、橋本知事の言葉を借りると2万%、私のことが嫌いです。今日の講演とかも聞かなかったことにした方がいい。聞きにいこうと思っていたけど、雨だしやっぱりあの人変だからやめておいたということにしておいてください。最近じゃ内定取り消しとかもあるので、入社式が終わって、研修が終わって、半年後に正式に配属になって、初めて知っているとでも言っていただければいいと思います。でも基本的には中でも言わない方がいいです。

アドバイスになっていませんが、そもそも今目指されている方が入って第一線の記者になる頃には、今の記者クラブ体制は維持できていないと思います。なのでそれを変える努力をするというよりは、新しい日本のメディア体制の先駆者として自分なりのジャーナリズムをそれぞれが構築していけばいい。別に基本的なことをのぞけば、こうしなくちゃいけないというルールはありませんから。それぞれのジャーナリストとしての手法を自分なりに経験で学んでいってどんどん表現していくことがいいと思います。入る時はくれぐれも黙って入って、中で暴れる(笑)。まぁ追い出されるぐらいの方がどちらかというと優秀なジャーナリストとして拾ってくれるところに多くなると思われます。もしそうならなかったら、皆さんがクビになるよりも日本のメディアが終わっていく方が早いんじゃないでしょうか。逆の意味で、日本のメディアが機能していないからこそ、今から入る人は最初さえ上手くだませれば、ジャーナリストとしての未来は非常に明るいんじゃないかと思います。全くアドバイスにならずにすみません(笑)。

2008年11月3日月曜日

【右翼思想】 田母神論文

日本は侵略国家であったのか
 論文と呼べるかどうかはさておき、自衛隊の認識がいかなるものなのかの指針にはなるだろうか。しかし、微妙な論文ではある。シビリアン・コントロールという観点から考えた場合に非常に考えさせられてしまう。

一番大事なのは、自衛隊が「親日」であるかであって、極端な「新米」や「新中」ではあってはならないしまして「反中」や「嫌韓」ではあってはならないという事でしかない。

さて、今「中国製」の自衛隊制服で国が守れるか! という意見があるそうだ。では「アメリカ製」の制服も同様であるが・・・・おそらく「アメリカ製」であれば喜んで着るような気がしてならない。

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田母神俊雄(防衛省航空幕僚長 空将)

ア メ リ カ 合 衆 国 軍 隊 は 日 米 安 全 保 障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力
をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。

こ の 日 本 軍 に 対 し 蒋 介 石 国 民 党 は 頻 繁 に テロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936 年の第2 次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。

我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937 年8 月15 日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。

1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ( 誰も知らなかった毛沢東)( ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論( 黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け( 櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の1937 年7 月7 日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争( 岩間弘、岩間書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。

我 が 国 は 満 州 も 朝 鮮 半 島 も 台 湾 も 日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の1932 年1 月には3 千万人の人口であったが、毎年100 万人以上も人口が増え続け、1945 年の終戦時には5 千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからで
ある。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の35 年間で1 千3 百万人の人口が2 千5 百万人と約2 倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。

我 が 国 は 満 州 や 朝 鮮 半 島 や 台 湾 に 学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また1924 年には朝鮮に京城帝国大学、1928年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降9 つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6 番目、台北帝国大学は7 番目に造られた。
その後8 番目が1931 年の大阪帝国大学、9 番目が1939 年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊(ホンサイク)という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校2 6 期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。
朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1 期後輩には金錫源(キンソグォン)
大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約1 千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いてい
る。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。1 期後輩で蒋介石の参謀で何応欽(カオウキン)もいる。

李王朝の最後の殿下である李垠(イウン)殿下も陸軍士官学校の2 9 期の卒業生である。李垠(イウン)殿下は日本に対する人質のような形で1 0 歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。
陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠(イウン)殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子(まさこ)妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠(イウン)殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために1930 年に新居を建設した。
現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀(フギ)
殿下の弟君である溥傑(フケツ)殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。
こ れ を 当 時 の 列 強 と い わ れ る 国 々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメ
リカなどの国々でも同じことである。一方日本は第2 次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第1 次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。

時 間 は 遡 る が 、 清 国 は 1900 年の義和団事件の事後処理を迫られ1901 年に我が国を含む11 カ国との間で義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2 600 名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。また1915 年には袁世凱政府との4 ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21 箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4 年後の1919 年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編( 渡部昇一、祥伝社)」。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901 年から置かれることになった北京の日本軍は、36 年後の廬溝橋事件の時でさえ5600 名にしかなっていない「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。このとき北京周辺には数
十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。

さ て 日 本 が 中 国 大 陸 や 朝 鮮 半 島 を 侵 略 し たために、遂に日米戦争に突入し3 百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局( N S A )のホームページに載っている。

膨大な文書であるが、月刊正論平成18 年5 月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940 年から1948 年までの8年間これをモニターしていた。当時ソ連は1 回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である1943 年から解読作業を開始した。そしてなんと37 年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980 年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中
であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995 年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば1933 年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には3 百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2 の財務次官ハリー・ホワイトであった。

ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機100 機からなるフライングタイガースを派遣す
るなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ1 ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。

ル ー ズ ベ ル ト は 戦 争 を し な い と い う 公 約 で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1 撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。

日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第2, 第3 の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。
強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
さ て 大 東 亜 戦 争 の 後 、 多 く の ア ジ ア 、 ア フリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2 百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。

一 方 で 大 東 亜 戦 争 を 「 あ の 愚 劣 な 戦 争 」 などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。
亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難で
ある。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。ロシアとの関係でも北方四島は6 0 年以上不法に占拠されたままである。竹島も韓国の実効支配が続いている。

東 京 裁 判 は あ の 戦 争 の 責 任 を 全 て 日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63 年を経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は2 0 年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。

自 分 の 国 を 自 分 で 守 る 体 制 を 整 え る こ と は、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。

日 本 と い う の は 古 い 歴 史 と 優 れ た 伝 統を持つ素晴らしい国なのだ。
私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。

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6月22日、東京・千代田区の日本教育会館で前航空幕僚長、田母神俊雄氏の講演がフォーラム神保町の主催で開催された。200人ほどの出席者を前に、田母神氏は1時間半に及び熱弁を振るった。筆者にとっては、4月28日の九段会館での講演からほぼ1ヶ月と3週ぶりの再会だ。以下はその講演の抜粋メモで、基本的にはこれまでの主張の繰り返しだった。

 ・自衛隊は国際法で定められた軍隊としての行動ができない。
 ・そのために日本はまともな外交が出来ず、国民を守れないばかりか、国力が弱められている。
 ・憲法を改正できないのは歴史認識が阻害要因となっている。
 ・戦後、日本は左翼と占領米軍によって悪い国であると思わされるような洗脳を受けた。
 ・軍人は悪くない。軍人は戦争には慎重だ。むしろ文民の政治家が戦争を泥沼に引き込んだ。
 ・戦前の日本は、教育勅語、修身などのいい教育理念があった。
 ・南京虐殺30万人説はうそっぱち。当時の南京は国際都市。虐殺の報告などなかった。東京裁判でも取り上げられなかった。
 ・日中戦争、太平洋戦争はコミンテルンの陰謀の結果。
 ・どこの国も自国に優位な武器開発を行う。今、F-22をアメリカが日本に売らないのは、お金がなくバージョンアップしたものを作れてないからだ。外国には低級のものしか売らない。
 ・これからは大国同士が全面的に戦うようなことはない。小競り合いや外交の道具として軍備が必要になる。
 ・核を持つことによる平和もある。

 演説後、主催者の元外務官僚の東郷和彦氏から、「国防意識や国益保持の気持ちは共感できるものの、田母神氏の歴史観は事実に反し、かえって国益をそぐものではないか」という意見が出た。

 筆者は質問の機会を与えられたので、田母神氏に次のような質問をした。

 「私は5年前、南京に行き、日本軍に親を殺されたり、レイプされた人に出会った。南京虐殺の事実を広める活動にも関わっている。だが、9条改正には賛成だ。侵略とか自衛とかは政治的な意味合いを持つが、一般市民に被害を与えることは当時の軍紀でも違反だったはず。日本はもうそんなことはしないとドイツのように誓いをたてたうえで、再軍備を目指すほうが得策ではないか」

 これに対して田母神氏の回答はこうだった。

 「私が中国に言いたいのは、同じことをなぜイギリスには言わないかということだ。よそだってみんなやっている。それに比べ日本のしたことは穏やかだ。戦争が終わり講和条約で決着がついている。水に流すべきだと」

 実に意外な答えだった。長い演説と討論の後で疲れていたとはいえ、演説中に堂々と南京虐殺を否定していながら、筆者の質問に対しては、比較論を持ち出し、結局は事実を認めているような答え方をした。

 この人、けっして悪い人ではないんだなと思う。とても良い人なのだろう。国を想うがゆえに、言いたい放題のことをズバッと言う。それが災いしたと言えるが、同時に多くの国民に国防・外交、歴史認識などのタブーとなっていた議論に関心を持たせるきっかけを与えた。「怪我の功名」と言うべきか。

 

2008年10月20日月曜日

【メモ】 政治資金

自由連合、徳洲会側から72億円借り入れ 
2008.10.20 12:47

 徳田虎雄前衆院議員が代表を務める政治団体「自由連合」(東京)が、徳田氏が理事長の医療法人「徳洲会」グループ(大阪)から約72億円の借入金があることが分かった。自由連合は大きな資産を持っておらず、昨年には政党資格を失うなど、返済する見通しは立っていないもようだ。政治資金規正法には借り入れに関する規制がないが、徳洲会側が債権放棄をした場合、借入金は寄付とみなされ、同法違反(量的制限)にあたる可能性がある。

 平成19年分の自由連合の政治資金収支報告書によると、徳洲会グループの2社とその役員から計約72億円を借り入れている。

 自由連合は規正法や政党助成法などで定める政党として認められていたが、昨年に政党要件を失い、政党交付金や企業献金を受けられなくなっていた。

 総務省は「貸し付けた方が債権放棄すれば、献金したとみなされ、違法になる可能性がある」としている。

 自由連合は「法的な問題はない。借入金の返済は協議中」としている。

 徳田氏は「借入金の処理についてはすべての責任は自分個人で取る」とのコメントを出した。



日本経団連、献金総額4億増、民主は横ばい 政治資金収支報告
2008.9.13 00:27

 日本経団連は12日、平成19年の政治資金収支報告書に基づく、経団連会員企業の政治献金額を公表した。それによると、献金総額は前年比3億9000万円増の29億9000万円に伸びた。ただ、自民党向けが29億1000万円と大半を占め、民主党への献金はほぼ横ばいにとどまった。

 個別企業ではトヨタ自動車が前年と同額の6400万円でトップとなった。大手企業では前年より献金額を増やした企業が多く、新日本製鉄が1200万円増やしたほか、キヤノン、三菱重工業などが1000万円積み増した。また、政治資金規正法改正を機に献金を取りやめていた日産自動車が9年ぶりに復活し、2400万円を献金した。

 ただ、民主党に対する献金では、大和証券グループ本社が新規で100万円の献金を行ったものの、大半は横ばいにとどまった。政治献金を行う際の指標として経団連が公表している政策評価で、横ばいだった自民に対して、民主は評価を下げており、評価に準じた内容となった。

 献金額が増加したことについて、経団連の御手洗冨士夫会長は「社会貢献の一環として寄付を行う企業が増えた」と評価した。


事務所費は過去最低の98億円 平成19年分政治資金収支報告書
2008.9.12 19:54


 総務省が12日に公表した平成19年分政治資金収支報告書(中央分)によると、各政党本部を含む政治団体の収入総額は1278億2000万円で前年より0・8%増え、支出総額も1441億9000万円と27・7%増加した。

裏金づくりの温床とも指摘される事務所費は2・4%減の98億1000万円で、記録が残っている平成5年分以来、過去最低となった。安倍晋三前内閣での赤城徳彦元農相らの閣僚辞任などが影響したとみられる。

 収入で最も多いのは政治資金パーティーを含む事業収入で、455億3000万円(4・2%減)。

このうちパーティー収入は12億5000万円減って計114億3000万円だった。

次いで政党交付金の319億4000万円(0・7%増)。

政治献金は8・5%増の238億9000万円に上り、うち企業・団体献金は38億6000万円で9・1%増加した。