2005年12月8日木曜日

従軍慰安婦 備忘録

2004年9月18日、ソウル大学校ジェンダー研究所と社会史研究会共催のセミナーでおこなった報告の原稿に、2005年6月12日に「追記」を付加した。

2012年1月12日に補注1と注49への追記を加えた

 日本軍の慰安所政策について 永井 和 (京都大学文学研究科教授)

 この報告は、永井和「陸軍慰安所の創設と慰安婦募集に関する一考察」『二十世紀研究』創刊号、2000年をもとに、一部補足したものである。

 はじめに 問題の所在

Ⅰ.警察資料について

Ⅱ.陸軍慰安所の創設

Ⅲ.日本国内における慰安婦募集活動
1.和歌山の誘拐容疑事件
2.北関東・南東北での募集活動

Ⅳ.地方警察の反応と内務省の対策

おわりに 補論:陸軍慰安所は酒保の附属施設 追記(2005年6月12日記)

 注 はじめに

 はじめまして、永井和と申します。日本の京都大学で日本現代史を教えております。しばらくの間、おつきあいをよろしくお願いいたします。

まず、この研究会にお招きいただき、報告する機会が与えられたことに対して、あつくお礼申し上げます。とくに、社会史研究会を主宰されている鄭根埴先生のご厚意がなければ、日本国内でもそれほど名を知られているわけではない、私のような者が、ソウル大学校で報告をするという、身に余る光栄を経験することはなかったはずでありまして、心より感謝いたしております。 

朴宣美さんより伝えられたところでは、最初は「天皇制と女性」というタイトルで、「従軍慰安婦問題」(韓国では「挺身隊問題」と言うべきかもしれませんが、日本での慣用に従わせていただきます)を天皇制に関連付けながら講演するようにとの、御希望であったのですが、お恥ずかしながら、天皇制はともかく、ジェンダー研究はほとんど私の専門外ですので、私には荷が重すぎる、とてもお話しできそうもないと、お断りしまして、その代わりに、日中戦争初期の陸軍慰安所のことについて、少しばかりお話することにした次第です。 と申しましても、私は軍慰安所や慰安婦について専門的に研究してきたわけではありません。

今までに私が軍慰安所と慰安婦について書いたのは、2000年に発表した論文「陸軍慰安所の創設と慰安婦募集に関する一考察」、1本あるのみですので、お世辞にも専門家とはいえません。

吉見義明氏をはじめとして軍慰安所や慰安婦問題についての日本の研究者は多数おられますが、私をこの方面の専門家として認める方は、私の友人である大阪産業大学の藤永壮助教授を唯一の例外として、ほとんどいないだろうと思われます。昨年刊行されました尹明淑さんの『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』(明石書店、2003年)、この本は、この問題に関する研究としては、日本の大学ではじめて学位を授与された画期的な作品でありますが、そこでも私の論文に対する言及はありません。 そのような私に、「従軍慰安婦問題」について話すようにとのリクエストがあったのは、たぶん、私の唯一の論文が、比較的早くに韓国で紹介されたからではないかと、自分では思っています。私の旧い知り合いでもある釜山外国語大学校の金文吉先生が、たいへんありがたいことに、2001年に韓国で発表された論文で、私の論文に言及されたことがあります。 そのようなわけですので、これからお話いたしますのは、今申し上げた4年前の論文の内容ほとんどそのままでして、それに少しばかり補足を加えただけにすぎません。おそらく皆様のご期待を大きく裏切るであろうことを、あらかじめお断りし、お許しをいただきたいと思います。  前置きばかり長くなり、恐縮ですが、もう少し話を続けます。私が慰安所及び慰安婦に関する唯一の論文を書くきっかけが何であったかと言いますと、それは、1998年に私の担当する演習で「自由主義史観論争を読む」という授業をいたしまして、そこではじめて藤岡信勝氏や小林よしのり氏の歴史解釈をまじめに検討することになり、その史料解釈がはなはだしく恣意的あるにもかかわらず、政治的言説としてそれなりの支持を受けていること、また従来史料実証主義を看板にしていた一部の歴史家が、この動きに釘をさすどころか、逆にそれを支持する姿勢をとろうとしていたことを知って、いささか驚いたのが、そもそものきっかけでした。 従軍慰安婦問題は、南京大虐殺問題と並ぶ「自由主義史観論争」の二大問題でしたので、それについていろいろ文献を漁ったところ、偶然、1996年の末に新たに発見された内務省の警察資料が、「女性のためのアジア平和国民基金」から刊行された資料集(『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』1、1997年)に収録されているのを知り、それを読み進めました。私は歴史家ですので、ともかく史料を読んで、それをもとに考えるという癖が身に染みついてしまっております。読んでみますと、いわゆる「従軍慰安婦論争」において、その史料解釈が論議の的となった陸軍のある文書が、どのような背景で出されたのかを説明してくれると思われた、一連の資料に出くわしました。そこで、史料実証主義の面目を回復できるのではないかと思い、論文を執筆することにしたわけです。 それから、「従軍慰安婦論争」に関する文献を読んでみて、慰安所は軍の施設であるにもかかわらず、論争の当事者双方いずれもが、軍隊制度についての知識を欠いたまま議論をしているのではないかとの、感想をもちました。軍隊というものについて基礎的な知識があれば、「軍慰安所は公娼施設である」といった主張はおよそ成り立つはずがないと、私には思えるのですが、それが堂々と主張され、いっぽう否定する側も、「軍慰安所は公娼施設でない」という主張を、軍隊制度に即して展開するよりも、一足飛びに「公娼施設の抑圧性、犯罪性」を強調することが多く、議論がすれ違っているように見えたのです。日本は戦後ながらく平和が続いたせいか、軍隊についての知識が偏っています。作戦、指揮命令、戦闘、兵器といった面に集中していて、軍隊を支える非常に重要な要素にほかならない、兵站や後方組織についての知識が欠けており、それが「従軍慰安婦論争」において思わぬ視野の狭窄を引き起こしているのではないかと感じたことが、論文を書こうと思ったもう一つの理由です。と言いましても、私自身は軍隊の経験はありません。ただ、軍事史を少しばかり勉強したことがありますので、戦前の日本の陸軍の制度については、一般の人よりも詳しい知識があります。といっても、たいしたものではありませんが、その私が見ても、ある種の軍事的分野についての常識を欠いたまま議論が進められているように思えたのでした。 以上述べましたことからもわかりますように、1991年の慰安婦訴訟の開始から10年ほどの間、つまり従軍慰安婦問題が社会の注目を浴び、日韓の国際問題となり、「従軍慰安婦論争」が展開されていた間ということですが、私自身はこの問題にはまったく無関心でありました。吉見氏が日本ファシズムから戦争責任問題、具体的には軍慰安婦と化学戦へと研究テーマをシフトされていくのを横目に見て知ってはいましたが、私自身はまったく別のことに関心を寄せていたのです。そして、「従軍慰安婦論争」なるものがすでにヤマを越してしまったあと、政治的な言説にのっかった史料の恣意的解釈が横行するいっぽうで、言語論的展開を持ち出して史料実証主義の終焉を宣言する言説1)が出されたあと、史料実証主義の立場からささやかな抵抗を試みたのが、2000年に発表した論文だったと、自分では思っております。その意味では、私も戦争責任問題や戦後補償問題に鈍感な、保守的な日本人の一人にすぎません。そういう者の発言であることを、あらかじめお断りしたうえで、本論に入っていくことにいたします。 問題の所在 所謂「従軍慰安婦論争」は、直接には1997年度から使用される中学校用文部省検定教科書の「従軍慰安婦」に関する記述の是非をめぐる論争としてはじまったが、その背景をさかのぼれば、1991年以降次々とカム・アウトし、日本政府を告発した韓国、フィリッピン、台湾等の元慰安婦たちの活動、とくに謝罪と賠償を求める法廷闘争と、それに触発されてはじまった日本政府と国連人権委員会の調査活動、そして政府調査結果をふまえてなされた日本政府の謝罪と反省の意志表明といった、一連の動きに対する反発、反動としてとらえることができる。 本報告では、1996年末に新たに発掘された警察資料を用いて、この「従軍慰安婦論争」で、その解釈が争点のひとつとなった陸軍の一文書、すなわち陸軍省副官発北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」 (1938年3月4日付-以後副官通牒と略す)の意味を再検討する。 まず問題の文書全文を以下に引用する(引用にあたっては、原史料に忠実であることを心がけたが、漢字は通行の字体を用いた)。 支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於イテ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ其実地ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニシ次テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス2) この文書は吉見義明の発見にかかるもので、軍が女性の募集も含めて慰安所の統制・監督にあたったことを示す動かぬ証拠として、1992年に朝日新聞紙上で大きく報道された。吉見はこの史料から、「陸軍省は、派遣軍が選定した業者が、誘拐まがいの方法で、日本内地で軍慰安婦の徴集をおこなっていることを知っていた」のであり、そのようなことが続けば、軍に対する国民の信頼が崩れるおそれがあるので、「このような不祥事を防ぐために、各派遣軍が徴集業務を統制し、業者の選定をもっとしっかりするようにと指示したのである」と解釈し、慰安婦の募集業務が軍の指示と統制のもとにおこなわれたことが裏づけられる、とした3)。 いっぽう、これに対立する小林よしのりは、この通牒をもって「内地で誘拐まがいの募集をする業者がいるから注意せよという(よい)「関与」を示すものだ」、「これは違法な徴募を止めさせるものだ」4)、「「内地で軍の名前を騙って非常に無理な募集をしている者がおるから、これを取り締まれ」というふうに書いてあるわけです」5)と、いわゆる「よい関与論」を唱え、同様の主張が藤岡信勝によってもなされた。 藤岡は「慰安婦を集めるときに日本人の業者のなかには誘拐まがいの方法で集めている者がいて、地元で警察沙汰になったりした例があるので、それは軍の威信を傷つける。そういうことが絶対にないよう、業者の選定も厳しくチェックし、そうした悪質な業者を選ばないように-と指示した通達文書だったのです。ですから、強制連行せよという命令文書ではなくて、強制連行を業者がすることを禁じた文書」6)と、言う。また、秦郁彦もこれとよく似た解釈を下している7)。 他方、小林よしのりを批判する上杉聡は、逆にこの文書をもって「強制連行」の事実があったことを示す史料だとし、そのような悪質な「業者の背後に軍部があることを「ことさら言うな」と公文書が記しているのであり、強制連行だけでなく、その責任者もここにハッキリ書かれている」8)と反論した。 いずれも、日本国内で悪質な募集業者による誘拐まがいの行為が現実に発生しており、さらにそういった業者による「強制連行」や「強制徴集」が行われうる、あるいは実際に行われていた可能性を示す文書だと解釈する点では共通している。 ちがいは、吉見および上杉の方は、軍による募集業者の選定と募集・徴集活動の統制が行われていたことを重視し、それゆえこれを「軍の関与」を示す決定的証拠としてとらえ、そこから軍には当然の義務として慰安婦に対して適切な保護を与え、虐待や不法行為を防止する監督責任が発生するのであり、それが守られなかった場合には、その責任を問われうると論じるのに対して、いわゆる自由主義史観派は慰安所に対する軍の関与を認めつつも、その関与とは業者による「強制連行」「強制徴集」など不法行為の取締であり、この通牒は軍がそのような取締を実際に行っていたことを示す証拠であって、この文書がある以上、たとえ数々の不法行為や虐待、性暴力事件が起きたとしても、それはそのような行為をおこした個々の業者や軍の下部機関、一般将兵が悪いのであって、軍および政府の責任を問うことはできないと、そう主張する点にある。 両者の差異は、根本的には、慰安所と軍および政府との関係をどう把握し、そこで女性に加えられた虐待行為に対する軍および政府の責任の有無をどう判断するのか、その立場の差異に由来する。言うまでもなく、吉見や上杉は、慰安所は国家が軍事上の必要から設置した軍の施設であり、そこでなされた組織的な慰安婦虐待行為の究極的な責任は軍および政府に帰属すると考える立場に立っている。 それに対して、自由主義史観派は慰安所に対する軍と政府の関係を否定するか、あるいは否定しないまでも、それはもっぱら業者や利用将兵の不法行為・性的虐待を取締まる「よい関与」であったと主張する。慰安所は戦地においてもっぱら兵士を対象に営業した民間の売春施設であり、公娼制度が存在していた戦前においてはとくに違法なものではなかったから、そこでなされた虐待行為に軍および政府が責任をとわれる理由はない。もし仮に軍および政府が責任を問われうるとすれば、それは強制的に慰安婦を徴集・連行した場合のみだが、そのようなことを軍ないし政府が命令した事実はないというのが、彼らの慰安婦問題に対する基本的理解であり、そのような観点から、この副官通牒を解釈し、もっぱら「強制連行」の有無を争う文脈で論争の俎上にのせたのであった。そのことが上のような解釈の相異を生みだしたのである。 なお、慰安所と軍の関係について自分自身の考えをあらかじめここではっきりさせておくと、私は、慰安所とは将兵の性欲を処理させるために軍が設置した兵站付属施設であったと理解している。その点では吉見と同じ考えに立っており、これを民間業者の経営する一般の公娼施設と同じであるとして、軍および政府の関与と責任を否定する自由主義史観派には与しない。もっぱら「強制連行」の有無をもって慰安所問題に対する軍および政府の責任を否定せんとする彼らの言説は、それ以外の形態であれば、軍と政府の関与は何ら問題にならないし、問題とすべきではないとの主張を暗黙のうちに含んでいるのであり、慰安所と軍および政府の関係を隠蔽し、慰安所の存在を正当化するものと言わざるをえないからである。 話を副官通牒に戻すと、最近になって警察関係の公文書が発掘され、問題の副官通牒と密接に関連する1938年2月23日付の内務省警保局長通牒(内務省発警第5号)「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(以下警保局長通牒と略す)の起案・決裁文書とそれに付随するいくつかの県警察部長からの内務省宛報告書が見つかった。 この警察資料を分析することにより、この二つの通牒が出されるにいたった経緯と背景をある程度まで明らかにすることができる。そこから見えてくる事情は、先ほどの解釈論争が想定していたのとはかなり異なるのである。たとえば、警察報告では、たしかに婦女誘拐容疑事件が一件報告されてはいるが、しかし、それ以外には「強制連行」「強制徴集」を思わせる事件の報告を見いだすことはできない。もちろん、発見された警察資料は、山県、宮城、群馬、茨城、和歌山、高知の各県警察部報告と神戸や大阪での慰安婦募集についての内偵報告にすぎないので、日本全国はもちろん朝鮮・台湾など募集がおこなわれた全地域を網羅するものではない。よって、それらの地域で「強制連行」や「強制徴集」がおこなわれた可能性を全面的に否定するものではない。 しかし、副官通牒で言及されている「募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル」という事件は、間違いなく和歌山県警察部から一件報告されており、そのような事件が現におこっていたことが、この警察報告により証明された。つまり、警察報告と副官通牒との間には強い関連性が存在する。 そこで、今後さらに新しい警察資料が発見され、それによって必要な変更を施す必要が生じるまでは、もっぱら以下に述べる作業仮説を採用し、その上で考察を進めることにする。すなわち内務省は主として現在知られている警察資料に含まれている諸報告をもとに、前記警保局長通牒を作成・発令し、さらにそれを受けて問題の副官通牒が陸軍省から出先軍司令部へ出されたのである、と。 この作業仮説を前提におくと、和歌山の婦女誘拐容疑事件一件を除き、警察は「強制連行」や「強制徴集」の事例を一件もつかんでいなかったと結論せざるをえない。そうすると、副官通牒から「強制連行」や「強制徴集」の事実があったと断定ないし推測する解釈は成り立たないことになる。また、これをもって「強制連行を業者がすることを禁じた文書」とする自由主義史観派の主張も誤りと言わざるをえない。なぜなら、存在しないものを取締ったりはできないからである。では、いったい副官通牒や警保局長通牒は何を取締まろうとしたのか、そもそもこれらの通達はいったい何を目的として出されたのか、それをあらためて問題とせざるをえない。 結論を先回りして言えば、問題の警保局長通牒は、軍の依頼を受けた業者による慰安婦の募集活動に疑念を発した地方警察に対して、慰安所開設は国家の方針であるとの内務省の意向を徹底し、警察の意思統一をはかることを目的と出されたものであり、慰安婦の募集と渡航を合法化すると同時に、軍と慰安所の関係を隠蔽化するべく、募集行為を規制するよう指示した文書にほかならぬ、というのが私の解釈である。さらに、副官通牒は、そのような警察の措置に応じるべく、内務省の規制方針にそうよう慰安婦の募集にあたる業者の選定に注意をはらい、地元警察・憲兵隊との連絡を密にとるように命じた、出先軍司令部向けの指示文書であり、そもそもが「強制連行を業者がすることを禁じた」取締文書などではないのである。 Ⅰ.警察資料について 本稿で考察の材料とするのは、女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』第1巻(龍渓書舎、 1997年、以下『資料集成』と略す)に収録されている内務省文書の一部である。 最初に、本稿で扱う警察資料の全タイトルを紹介する。このうち、1と8-2は外務省外交史料館所蔵の外務省記録に同じものが含まれており、前々からその存在がよく知られていた。 外務次官発警視総監・各地方長官他宛「不良分子ノ渡支ニ関スル件」(1938年8月31日付) 群馬県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 (1938年1月19日付) 山形県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月25日付) 高知県知事発内務大臣宛「支那渡航婦女募集取締ニ関スル件」(1938年1月25日付) .和歌山県知事発内務省警保局長宛「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」(1938年2月7日付) 茨城県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 (1938年2月14日付) 宮城県知事発内務大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 (1938年2月15日付) -1.内務省警保局長通牒案「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(1938年2月18日付) -2.内務省警保局長発各地方長官宛「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」 (1938年2月23日付) 「醜業婦渡支ニ関スル経緯」(内務省の内偵メモ、日付不明) 2~7および9は、1937年の末に慰安所の開設を決定した中支那方面軍の要請に基づいて日本国内で行われた慰安婦の募集活動に関する一連の警察報告であり、8は軍の要請に応じるため中国への渡航制限を緩和し、募集活動の容認とその統制を指示した警保局長通牒の起案文書(8-1)および発令された通牒本体(8-2)である。 この一連の文書については、すでに、吉川春子9)、八木絹10)によってその内容の概略が紹介されており、さらに和田春樹11)も詳しい紹介をおこなっている。なお、これらの資料は元内務省職員種村一男氏の寄贈にかかるもので、警察大学校に保存されていた。1992年と93年の政府調査報告の際にはその所在がつかめなかったが、1996年12月19日に参議院議員吉川春子氏(共産党)の求めに応じて、警察庁がこの資料を提出したため、その存在が明るみに出ることになった12)。現在は東京の国立公文書館に移管されており、その一部がアジア歴史資料センターで公開されている。 Ⅱ.陸軍慰安所の創設 前記史料5の和歌山県知事発内務省警保局長宛「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」(1938年2月7日付)なる文書中に、長崎県外事警察課長から和歌山県刑事課長宛の1938年1月20日付回答文書の写しが参考資料として添付されている。さらに、この長崎県からの回答文書中には、在上海日本総領事館警察署長(田島周平)より長崎県水上警察署長(角川茂)に宛てた依頼状(1937年12月21日付)の写しも収録されている。 この上海総領事館警察署の依頼状は、陸軍慰安所の設置に在上海の軍と領事館が深く関与したことを示す公文書にほかならない。以下に引用するのはその全文である。  皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件  本件ニ関シ前線各地ニ於ケル皇軍ノ進展ニ伴ヒ之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中処頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ         記 領事館  (イ)営業願出者ニ対スル許否ノ決定  (ロ)慰安婦女ノ身許及斯業ニ対スル一般契約手続  (ハ)渡航上ニ関スル便宜供与  (ニ)営業主並婦女ノ身元其他ニ関シ関係諸官署間ノ照会並回答  (ホ)着滬ト同時ニ当地ニ滞在セシメサルヲ原則トシテ許否決定ノ上直チニ憲兵隊ニ引継クモトス 憲兵隊  (イ)領事館ヨリ引継ヲ受ケタル営業主並婦女ノ就業地輸送手続  (ロ)営業者並稼業婦女ニ対スル保護取締 武官室  (イ)就業場所及家屋等ノ準備  (ロ)一般保険並検黴ニ関スル件   右要領ニヨリ施設ヲ急キ居ル処既ニ稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナルカ之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ルニ付乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度尚着滬後直ニ就業地ニ赴ク関係上募集者抱主又ハ其ノ代理者等ニハ夫々斯業ニ必要ナル書類(左記雛形)ヲ交付シ予メ書類ノ完備方指示シ置キタルモ整備ヲ缺クモノ多カルヘキヲ予想サルルト共ニ着滬後煩雑ナル手続ヲ繰返スコトナキ様致度ニ付一応携帯書類御査閲ノ上御援助相煩度此段御依頼ス (中略) 昭和十二年十二月二十一日                 在上海日本総領事館警察署13) 冒頭に、「之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中ノ処頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ」とあるように、この文書から、1937年の12月中旬に上海の総領事館(総領事は岡本季正)と陸軍武官室と憲兵隊の三者間で協議がおこなわれ、その結果、前線に陸軍慰安所を設置することが決定されたこと、さらにその運用に関して三者間に任務分担の協定が結ばれたことが判明する。 ここで言及されている陸軍武官室とは、正式には在中華民国大使館付陸軍武官とそのスタッフを意味する。その長は原田熊吉少将であり、1938年2月には中支特務部と改称された。軍事面での渉外事項や特殊な政治工作を担当する陸軍の出先機関であり、上海戦がはじまってからは、上海派遣軍や中支那方面軍の隷下にある陸軍特務機関として第三国の出先機関や軍部との交渉、親日派中国人に対する政治工作、さらに上海で活動する日本の政府機関や民間団体との交渉・調整窓口の役割をはたした。 軍慰安所の設置が軍の指示、命令によるものであったことは、今までの慰安所研究により明らかにされており、今では史実として広く受け入れられている。その意味では、定説の再確認にとどまるのだが、この在上海総領事館警察署の依頼状は、慰安所の設置を命じた軍の指令文書そのものではないとしても、政府機関と軍すなわち在上海陸軍武官室、総領事館、憲兵隊によって慰安所の設置とその運営法が決定されたことを直接的に示す公文書として他に先例がなく、その点で重要な意義を有する。 もっともこの文書の記述にもかかわらず、陸軍慰安所開設の決定は、陸軍武官室や憲兵隊、領事館の権限だけでできるものではない。軍組織のありかたからすれば、陸軍武官室と憲兵隊の双方に対して指揮権を有するより上級の単位、この場合は中支那方面軍司令部において、まず設置の決定がなされ、それを受けてこの三者間で慰安所運用のための細目が協議・決定されたのだと解すべきであろう。 吉見および藤井忠俊の研究14)によれば、上海・南京方面での陸軍慰安所の設置に関する既存史料には次のようなものがある。(これ以外にも、慰安所を利用した兵士の日記・回想があるが略す)。 飯沼守上海派遣軍参謀長の日記15) 1937年12月11日の項「慰安施設の件方面軍より書類来り、実施を取計ふ」 1937年12月19日の項「迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す」 上村利通上海派遣軍参謀副長の日記16) 1937年12月28日の項に「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」 山崎正男第十軍参謀の日記17) 1937年12月18日の項に「先行せる寺田中佐は憲兵を指導して湖州に娯楽機関を設置す」 在上海総領事館警察の報告書18) 1937年12月末の職業統計に「陸軍慰安所」の項目。 常州駐屯の独立攻城重砲兵第2大隊長の状況報告19) 1938年1月20日付「慰安施設は兵站の経営するもの及び軍直部隊の経営するもの二カ所あり」 元陸軍軍医麻生徹男の手記によれば、1938年の2月には上海郊外の楊家宅に兵站司令部の管轄する軍経営の陸軍慰安所が開設されていた20)。 また、1938年1月に軍の命令を受け、奥地へ進出する女性(朝鮮人80名、日本人20名余り)の梅毒検査を上海で実施した21)。 今回さらに、 在上海総領事館警察署発長崎県水上警察署宛「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」(1937年12月21日付) が新たに加わったわけである。 これらを総合すれば、1937年の遅くとも12月中旬には華中の日本陸軍を統括する中支那方面軍司令部レベルで陸軍慰安所の設置が決定され、その指揮下にある各軍(上海派遣軍と第十軍)に慰安所開設の指示が出されたと考えて、まずまちがいない。 それを受けて各軍で慰安所の開設準備が進められるとともに、関係諸機関が協議して任務分担を定め、総領事館は慰安所の営業主(陸軍の委託により慰安所の経営をおこなう業者)および慰安所で働く女性(慰安所従業婦すなわち慰安婦)の身許確認と営業許可、渡航上の便宜取り計らい、また業務を円滑におこなうため内地・植民地の関係諸機関との交渉にあたり、憲兵隊は営業主と従業女性の前線慰安所までの輸送手配と保護取締、さらに特務機関が慰安所用施設の確保・提供と慰安所の衛生検査および従業女性の性病検査の手配をすることが定められたのであった。 さらにこの依頼状から読みとれるのは、慰安所で働く女性の調達のために、軍と総領事館の指示を受けた業者が日本および朝鮮へ募集に出かけたこと、および彼等の募集活動と集められた女性の渡航に便宜をはかるように、内地の(おそらく朝鮮も同様と思われる)警察にむけて依頼がなされた事実である。 この募集活動によって、実際に日本内地および朝鮮から女性が多数上海に連れられてきたことは、6の麻生軍医の回想によって裏づけられる。なお、麻生軍医に女性100名の性病検査を命じたのは「軍特務部」であり、その命令は1938年1月1日付であった22)。この記述は、上記依頼状にみられる軍・憲兵隊・領事館の任務分担協定が現実に機能していたことの傍証となろう。 ところで、依頼状に記された任務分担協定は、陸軍慰安所に対する風俗警察権が領事館警察ではなくて、軍事警察=憲兵隊に属していたことを示している。協定の定めるところによれば、領事館警察は中国に渡ってきた慰安所営業主と女性のたんなる受け入れ窓口にすぎず、手続きが終われば、その身柄は軍に引き渡され、その取締権も領事館警察から憲兵隊に移される。移管とともに彼らは領事館警察の風俗警察権の圏外に置かれるのであり、管轄警察権の所在において陸軍慰安所は通常一般の公娼施設とは性格を異にする。これは慰安所が軍の兵站付属施設であることを意味するのだが、陸軍慰安所を一般の公娼施設と同様とみなす議論は、この点を無視ないし軽視していると言わざるをえない。 通常一般の公娼施設は、それを利用する軍人・軍属の取締のために憲兵が立入ることはあっても、業者や娼妓に対する風俗警察権は内務省警察・植民地警察・外務省警察などの文民警察に属し、軍事警察すなわち憲兵の関知するところではない。ところが、陸軍慰安所の従業員は軍籍を有さぬ民間人でありながら、その場所で働いているかぎりは憲兵の管轄とされるのである。これは慰安所が酒保などと同様、前線近くに置かれた軍の兵站付属施設であり、軍人・軍属専用の性欲処理施設だったことに由来する23)。なお、この点については、補論で詳しく論じたい。 さて、依頼状に「之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ル」とあるように、軍と総領事館から依頼された業者は在上海総領事館の発行する身分証明書を所持して、日本内地及び朝鮮にわたり、慰安所で働く女性の募集活動に従事したのであった(「稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナル」)。彼等がどのような方法で募集活動をおこなったかは、史料2~7の警察報告に実例が出てくるので、次章で検討するが、日本内地または植民地において女性を集めた業者は、彼女等を連れて上海に戻ってこなければならない。あるいは上海まで女性を送らなければならない。しかし、日中戦争がはじまるや、日本国内から中国への渡航は厳しく制限され、原則として日本内地または植民地の警察署が発給する身分証明書を所持しなければ、乗船・出国ができなくなっていた。 しかも、1937年8月31日付の外務次官通達「不良分子ノ渡支取締方ニ関スル件」(史料1)は各地の警察に対して、「混乱ニ紛レテ一儲セントスル」不良分子の中国渡航を「厳ニ取締ル」ため、「素性、経歴、平素ノ言動不良ニシテ渡支後不正行為ヲ為スノ虞アル者」には身分証明書の発行を禁止するよう指示しており、さらに「業務上又ハ家庭上其ノ他正当ナル目的ノ為至急渡支ヲ必要トスル者ノ外ハ、此際可成自発的ニ渡支ヲ差控ヘシムル」よう指導せよと、命じていた24)。 まともに申請すれば、「醜業」と蔑視されている売春業者や娼婦・酌婦に対して身分証明書の発給が許されるはずがない。だからこそ、上海の領事館警察から長崎県水上警察署に対して、陸軍慰安所の設置はたしかに軍と総領事館の協議・決定に基づくものであり、決して一儲けを企む民間業者の恣意的事業ではないことを通知し、業者と従業女性の中国渡航にしかるべき便宜をはかってほしいとの要請(「乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度」)がなされたのである。よって、この依頼状の性格は、軍の方針を伝えるとともに、前記外務次官通達の定める渡航制限に緩和措置を求めたものと位置づけるのが至当である。 Ⅲ.日本国内における慰安婦募集活動 1.和歌山の誘拐容疑事件 この章では軍と総領事館の依頼を受けて、日本国内および朝鮮に赴いた募集業者がどのような活動をおこなったのかを警察の報告をもとに紹介する。最初にあげるのは、和歌山県でおこった婦女誘拐容疑事件である。内務省警保局長宛報告(前掲史料5の1938年2月7日付「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」)によれば、事件の概要は以下のとおりであった。 1938年1月6日和歌山県田辺警察署は、管下の飲食店街を徘徊する挙動不審の男性3名に、婦女誘拐の容疑ありとして任意同行を求めた。3人のうち2人は大阪市の貸席業者で、もう1人は地元海南の紹介業者であった。 彼等は、自分たちは「疑ハシキモノニ非ス、軍部ノ命令ニテ上海皇軍慰安所ニ送ル酌婦募集ニ来タリタルモノニシテ、三千名ノ要求ニ対シ、七十名ハ昭和十三年一月三日陸軍御用船ニテ長崎港ヨリ憲兵護衛ノ上送致済ミナリ」ととなえ、とある料理店の酌婦に上海行きを勧めた。3人が「無智ナル婦女子ニ対シ金儲ケ良キ点、軍隊ノミヲ相手ニ慰問シ、食料ハ軍ヨリ支給スル等」と、常識では考えられないことを言い立てて勧誘しているとの情報をつかんだ田辺警察署は、婦女誘拐の疑い濃厚であると判断し、3人の身柄を拘束した25)。 取調にたいして、大阪の貸席業主金澤は、次のように供述した。 1937年秋、大阪市の会社重役小西、貸席業藤村、神戸市の貸席業中野の3人が、陸軍御用商人で氏名不詳の人物と共に上京、徳久少佐なる人物の仲介で荒木貞夫陸軍大将と右翼の大物頭山満に会い、年内に内地から上海に3000人の娼婦を送ることに決まったとの話を、2人の貸席業主(金澤と佐賀)が藤村から聞き込んだ。そこで、渡航娼婦を募集するために和歌山に来訪し、地元紹介業者の協力を得て、募集活動にあたっているところである。すでに藤村と小西は女性70名を上海に送り、その際大阪九条警察署と長崎県外事課から便宜供与をうけた、と。 また、同じ供述によると、慰安所酌婦の契約条件は「上海ニ於テハ情交金将校五円、下士二円ニテ、二年後軍引揚ト共ニ引揚クルモノニシテ前借金ハ八百円迄ヲ出」すというもので、すでに前借金470円、362円を支払って2人の女性(26歳と28歳)と上海行きを決めたという。 不審に思った田辺警察署はことの真偽を確かめるために、長崎県警察外事課と大阪九条警察署に照会をおこなった。長崎からは、照会のあった酌婦渡航の件は、上海総領事館警察の依頼によるもので、長崎県警としては、総領事館指定の必要書類を所持し、合法的雇用契約と認められるものについては、すべて上海行きを許可しているとの回答が寄せられた26)。この時点では、1937年8月の外務次官通達がまだ有効だったから、軍及び総領事館から前もっての依頼がなければ、長崎県水上警察署が女性の渡航を許可したかどうかは大いに疑問である。逆に言えば、この第1回の渡航を認めた時点で、長崎県警察は慰安所要員の渡航は「業務上正当ナル目的」を有するものと認定したことになる。もちろんその根拠は、慰安所が軍の決定によるものであり、総領事館から慰安婦の募集と渡航につき便宜をはかって欲しいとの要請が前もってなされていたことによる。 また、大阪九条署からは、内務本省からも渡航を認めるよう、内々の指示があったことを思わせる回答が田辺署に与えられた。その概略は以下のようなものであった。 上海派遣軍慰安所の従業酌婦の募集については、内務省より非公式に大阪府警察部長(荒木義夫)へ依頼があったので、大阪府としても相当の便宜をはかり、既に1月3日に第1回分を渡航させた。田辺署で取調中の貸席業者はいずれも九条署管内の居住者で、身元不正な者ではない。そのことは九条警察署長(山崎石雄)が証明するので、しかるべき取計らいをお願いする、と27)。 この九条警察署の回答書から、1月3日に長崎から上海に70名の女性が送られたとの金澤の供述が根も葉もない嘘ではないことがわかる。その一部は大阪で集められたようであり、警察は内務省の非公式な指導のもとに、慰安婦の渡航に便宜をはかったのであった。 金澤の供述を裏づけるとともに、便宜供与を示唆した内務本省からの非公式のコンタクトがあったとする九条警察署長の言が嘘でないことを示すのが、史料9「醜業婦渡支ニ関スル経緯」と題された手書きメモである。重要なので、以下に全文を引用する(■は公刊に際して抹消された箇所を示す。□は抹消もれと思われるので、永井の判断で削除した)。 一、十二月二十六日内務省警務課長ヨリ兵庫県警察部長宛『上海徳久■■■、神戸市中野■■■ノ両名ハ上海総領事館警察署長ノ証明書及山下内務大臣秘書官ノ紹介名刺ヲ持参シ出頭スル筈ニ付、事情聴取ノ上何分ノ便宜ヲ御取計相成度』トノ電報アリ 一、同月二十七日右両名出頭セルガ内務大臣秘書官ノ名刺ヲ提出シ徳久ハ自身ノ名刺ヲ提出セズ且身分ヲモ明ニセズ中野ハ神戸市福原町四五八中野□□ナル名刺ヲ出シタルガ同人ノ職業ハ貸座敷業ナリ。 一、同両人ノ申立ニ依レバ大阪旅団勤務ノ沖中佐ト永田大尉トガ引率シ行クト称シ最少限五百名ノ醜業婦ヲ募集セントスルモノナルガ周旋業ノ許可ナク且年末年始ノ休暇中ナルガ枉ゲテ渡支ノ手続ヲセラレ度キ旨ノ申述アリ 一、兵庫県ニ於テハ一般渡支者ト同様身分証明書ヲ所轄警察署ヨリ発給スルコトヽセリ 一、神戸ヨリ乗船渡支シタルモノナキモ陸路長崎ニ赴キタルモノ二百名アル見込ミ 一、一月八日神戸発臨時船丹後丸ニテ渡支スル四、五十名中ニ湊川警察署ニ於テ身分証明書ヲ発給シタルモノ二十名アリ 一、周旋業ノ営業許可ナキ点ハ兵庫県ニ於テハ黙認ノ状態ニアリ28) 整理してみると、1937年12月26日に内務省の警務課長(数藤鉄臣)から兵庫県警察部長(纐纈弥三)宛に上海の徳久と、神戸市の中野が協力要請におもむくので、何分の便宜をよろしくとの電報が届き、 翌27日には徳久、中野の両名が山下内務大臣秘書官の名刺を携えた上で、軍に協力して目下最小限500名の慰安婦を募集中であり、 周旋業の免許のない点には目をつむって、渡航許可を与えて欲しいと頼みこんだのであった。 兵庫県警察は違法行為には目をつぶり、二人の要請を容れて、集められた女性に身分証明書を発給した。長崎、大阪につづいて兵庫県警察も募集業者に協力し、慰安婦の調達に支援を与えたのである。それだけではない、非公式にではあるが、内務省の高官(秘書官や警務課長)も彼らに便宜をはかったのである。和歌山田辺の事件では大阪九条警察署長が「内務省ヨリ非公式ナガラ當府警察部長ヘノ依頼」があったと回答したが、おそらく、この内務省メモのようなはたらきかけが、大阪府警察部長に対してもなされたのであろう。 すでに見たように、徳久と中野の2人は田辺の事件にも名前が出てくる。上海総領事館警察署長の証明書を所持する彼らは、上海で軍・総領事館から直接依頼を受けた業者とみてまずまちがいない。徳久と中野の実在が別の資料で裏づけられた以上、藤村経由で中野の話を聞いたと思われる金澤の供述も、細かい点は別として、おおむね信用できると考えてまちがいないだろう。 以上をまとめると、次のようになる。上海で陸軍が慰安所の設置を計画し、総領事館とも協議の上、そこで働く女性の調達のため業者を日本内地、朝鮮に派遣した。その中の1人身許不詳の人物徳久と神戸の貸席業者中野は、上海総領事館警察署発行の身分証明書を持参して日本に戻り、知り合いの売春業者や周旋業者に、軍は3000人の娼婦を集める計画であると伝え、手配を依頼した。さらに警察に慰安婦の募集および渡航に便宜供与をはかってくれるよう申入れ、その際なんらかの手ずるを使って内務省高官の諒解を得るのに成功し、内務省から大阪、兵庫の両警察に対して彼らの活動に便宜を供与すべしとの内々の指示を出させたのであった。 大阪府、兵庫県両警察部は、売春させることを目的とした募集活動および渡航申請であることを知りつつ、しかも営業許可をもたない業者による周旋・仲介行為である点には目をつむり、集められた女性の渡航を許可した。この時上海に送られた女性の人数は正確にはわからないが、関西方面では最低500人を集める計画であり、1938年1月初めの時点で大阪から70人、神戸からは220人ほどが送られたと推測できる。 最後に、長崎県及び大阪九条署からの回答を受けた田辺警察署がどのような処置をとったのかを述べておこう。同署は、「皇軍慰安所」の話の真偽はいまなお不明であるが、容疑者の身元も判明し、九条警察署が「酌婦公募証明」を出したので、容疑者の逃走、証拠隠滅のおそれはないと認めて、1月10日に3人の身柄を釈放したのであった29)。 自由主義史観派の主張するごとく、慰安所なるものが軍とは直接関係のない、民間業者の経営する通常の売春施設だったのであれば、自分たちは「軍部ノ命令ニテ上海皇軍慰安所ニ送ル酌婦募集ニ来タリタルモノ」とのふれこみで、「無智ナル婦女子ニ対シ金儲ケ良キ点、軍隊ノミヲ相手ニ慰問シ、食料ハ軍ヨリ支給スル等」と勧誘した金澤らの行為は、軍の名前を騙り、ありもしない「皇軍慰安所」をでっち上げて、女性をだまし、中国へ送り出そうとした、あるいは実際に送り出したものであって、婦女誘拐に該当する。金澤らは釈放されることなく、婦女誘拐ないし国外移送拐取で逮捕・送検されたにちがいないし、警察は当然そうすべきであったろう。 ところが、「皇軍慰安所」がまぎれもない事実、すなわち陸軍慰安所が軍の設置した兵站付属施設であったらどうなるか。国外で売春に従事させる目的で女性を売買し(前借金で拘束し)、外国(=上海)に移送するという、行為の本質においてはいささかの変わりもないにかかわらず、ありもしない軍との関係を騙って、女性をだましたわけではないので、この場合には誘拐と認定されず、逆に「酌婦公募」として警察から公認される行為に逆転するのである。和歌山県警は、金澤らの女衒行為が、もとをたどればたしかに軍と総領事館の要請につらなり、また内務省も内々に慰安婦の募集に協力していることが判明した時点で、犯罪容疑として取り扱うのを放棄した。すなわち、陸軍慰安所が軍の設置した公認の性欲処理施設であり、通常の民間売春施設とは異なるものであることが確認された時点で、警察は慰安婦の募集と渡航を合法的なものと認定したのである。国家と軍の関与により、それがなければ犯罪行為となるべきものが犯罪行為ではなくなったのであった。 2.北関東・南東北での募集活動 次に、和歌山田辺の事件とは異なり、誘拐容疑で警察に検挙されることはなかったが、群馬、茨城、山形で積極的な募集活動を展開し、そのため警察から「皇軍ノ威信ヲ失墜スルコト甚タシキモノアリ」30)と目された神戸市の貸座敷業者大内の活動を紹介する。前記副官通牒にも出てくる「故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ」とおぼしき実例は、以下のようなものだったのである。 群馬県警が得た情報によると、大内は1938年1月5日前橋市内の周旋業者に次のような話をもちかけ、慰安所で働く酌婦の募集を依頼した(前掲史料2「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月19日付))。 出征すでに数ヶ月に及び、戦闘も一段落ついて駐屯の体制となった。そのため将兵が中国人売春婦と遊ぶことが多くなり、性病が蔓延しつつある。 「軍医務局デハ戦争ヨリ寧ロ此ノ花柳病ノ方ガ恐シイト云フ様ナ情況デ其処ニ此ノ施設問題ガ起ツタ」。 「在上海特務機関ガ吾々業者ニ依頼スル処トナリ同僚」の目下上海で貸座敷業を営む神戸市の中野を通して「約三千名ノ酌婦ヲ募集シテ送ルコトトナッタ」。 「既ニ本問題ハ昨年十二月中旬ヨリ実行ニ移リ目下二、三百名ハ稼業中デアリ兵庫県ヤ関西方面デハ県当局モ諒解シテ応援シテイル」 .「営業ハ吾々業者ガ出張シテヤルノデ軍ガ直接ヤルノデハナイガ最初ニ別紙壱花券(兵士用二円将校用五円)ヲ軍隊ニ営業者側カラ納メテ置キ之ヲ使用シタ場合吾々業者ニ各将兵ガ渡スコトヽシ之レヲ取纏テ軍経理部カラ其ノ使用料金ヲ受取ル仕組トナツテイテ直接将兵ヨリ現金ヲ取ルノデハナイ軍ハ軍トシテ慰安費様ノモノカラ其ノ費用支出スルモノラシイ」 .「本月二六日ニハ第二回ノ酌婦ヲ軍用船デ(神戸発)送ル心算デ目下募集中テアル」31) また前掲史料3「北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月25日付)によれば、 大内は、山形県最上郡新庄町の芸娼妓酌婦紹介業者のもとに現れ、「今般北支派遣軍〔上海派遣軍のまちがいであろう-永井〕ニ於テ将兵慰問ノ為全国ヨリ二千五百名ノ酌婦ヲ募集スルコトヽナリタル趣ヲ以テ五百名ノ募集方依頼越下リ該酌婦ハ年齢十六才ヨリ三十才迄前借ハ五百円ヨリ千円迄稼業年限二ヶ年之ガ紹介手数料ハ前借金ノ一割ヲ軍部ニ於テ支給スルモノナリ」と述べ、勧誘した32)。 さらに、前掲史料6「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(1938年2月14日付)からは、 大内は茨城県出身であり、1938年1月4日頃遠縁にあたる茨城県在住の人物に上海派遣軍酌婦募集のことを話して協力を求め、その人物を通じて県下の周旋業者に斡旋を依頼した。 その業者の仲介で、大内は水戸市の料理店で稼業中の酌婦2名(24才と25才)とそれぞれ前借金642円、691円にて契約を結び、上海に送るため1月19日神戸に向けて出発した。 ことがわかる33)。 上記1から6のうち、次の諸点については、他の史料とも符合し、大内の語ったことはおおむね事実に即していたと解される。 まず、3の「在上海特務機関」とは、最初に紹介した上海総領事館警察署長の依頼状にある「陸軍武官室」にほかならぬ。また、大内に「在上海特務機関」の慰安婦募集の件を伝えたとされる神戸の中野は、和歌山の婦女誘拐容疑事件や前記内務省メモに出てくる中野と同一人物であると考えてまちがいない。また、「酌婦三千人募集計画」の話は田辺事件の被疑者の供述にも出てくる(ただし、山形県警の報告では「二千五百人計画」に縮小している)。 これらのことから、軍の依頼を受けた中野が知り合いの売春業者や周旋人に軍の「酌婦三千人募集計画」を打ち明け、協力を仰いだとの大内の言には十分信がおける。また、4の「既ニ本問題ハ昨年十二月中旬ヨリ実行ニ移リ」や「兵庫県ヤ関西方面デハ県当局モ諒解シテ応援シテイル」との話も、既に紹介した諸史料に照らし合わせて、間違いのない事実とみなせよう。逆に大内の言葉から、なぜ神戸の中野が上海の特務機関と総領事館から依頼されたのか、その疑問が氷解する。中野は神戸で貸席業を営むほか、上海にも進出していたのである。 警察報告にあらわれた大内の言動のうち、少なくとも3、4は事実に即しており、誇張や虚偽は、かりに含まれていても、わずかだと思われる。ならば、彼が語ったとされる慰安所の経営方針(上記5)も、根も葉もない作り話として一笑に付するわけにはいかない。少なくとも、大内は中野からそれを軍の方針として聞かされたことは、まずまちがいない事実であろう。 大内が勧誘にあたって提示した一件書類(趣意書、契約書、承諾書、借用証書、契約条件、慰安所で使用される花券の見本) のうち、「陸軍慰安所ニ於テ酌婦稼業(娼妓同様)ヲ為スコトヲ承諾」する旨を記し、慰安所で働く女性とその戸主または親権者が署名・捺印する「承諾書」の様式が、上海総領事館の定めた「承諾書」のそれとまったく同一であること34)、派遣軍慰安所と記された「花券」(額面5円と2円の2種類-田辺事件の金澤は「上海ニ於テハ情交金将校五円、下士二円」と供述していた-)を所持していたことが、それを裏づける決め手となろう。 5で述べられているのが慰安所の経営方針だとすると、慰安所は軍が各兵站に設置する将兵向けの性欲処理施設ではあるが、日常的な経営・運営は業者に委託されることになっていた。しかし、利用料金の支払いは、個々の利用者が直接現金で行うのではなくて、軍の経費(=慰安費)からまかなわれる仕組みだったことになる。これがほんとうならば、軍の当初の計画では、将兵に無料で買春券を交付する予定だったことになる。このシステムでは、慰安婦の性を買うのは、個々の将兵ではなくて、軍=国家そのものである。もちろん、軍=国家の体面を考慮してのことであろうが、実際の慰安所ではこのような支払い方法は採用されなかった。だから、これをもって軍の当初の計画だったとただちに断定するのは控えねばならないだろうが、しかし、かえってこの計画にこそ、慰安所なるものの本質がよくあらわれていると言うべきであろう。 最後に、大内が勧誘にあたって周旋業者や応募した女性に提示した契約条件を紹介しておこう。      条  件 一、契約年限     満二ヶ年 一、前借金      五百円ヨリ千円迄   但シ、前借金ノ内二割ヲ控除シ、身付金及乗込費ニ充当ス 一、年齢        満十六才ヨリ三十才迄 一、身体壮健ニシテ親権者ノ承諾ヲ要ス。但シ養女籍ニ在ル者ハ実家ノ承諾ナキモ差支ナシ 一、前借金返済方法ハ年限完了ト同時ニ消滅ス   即チ年期中仮令病気休養スルトモ年期満了ト同時前借金ハ完済ス 一、利息ハ年期中ナシ。途中廃棄ノ場合ハ残金ニ対シ月壱歩 一、違約金ハ一ヶ年内前借金ノ一割 一、年期途中廃棄ノ場合ハ日割計算トス 一、年期満了帰国ノ際ハ、帰還旅費ハ抱主負担トス 一、精算ハ稼高ノ一割ヲ本人所得トシ毎月支給ス 一、年期無事満了ノ場合ハ本人稼高ニ応ジ、応分ノ慰労金ヲ支給ス 一、衣類、寝具食料入浴料医薬費ハ抱主負担トス35) このような条件でなされる娼妓稼業契約は「身売り」とよばれ、これが人身売買として認定されておれば、大内の行為は「帝国外ニ移送スル目的ヲ以テ人ヲ売買」するものにほかならず、刑法第226条の人身売買罪に該当する。しかし、当時の法解釈では、このような条件での娼妓契約は「公序良俗」に違反する民法上無効な契約とはされても、少なくとも日本帝国内にとどまるかぎりは、刑法上の犯罪を構成する「人身売買」とはみなされなかった。 この契約を結べば、前借金(借金額は500円から1000円だが、そのうち2割は周旋業者や抱主が差し引くので、実際の手取りは400円から800円までである)を受け取る代わりに、向こう2年間陸軍慰安所で売春に従事しなければならない。衣類、寝具、食料、医薬費は抱主の負担とされているが、給与は毎月稼高の1割だから、かりに毎日兵士5人の相手をしたとして(日本国内の娼婦稼業の平均人数)、実働25日としても、月25円にしかならぬ。50円を稼ごうとすれば、毎日10人の兵士を相手にしないといけない。しかも契約書では、所得の半分は強制的に貯金することになっている36)。いっぽう抱主は1人の慰安婦の稼ぎから平均月225円の収入を得ることができ(1日5人の兵士を相手にするとして)、2年間では総額5400円にのぼるのである。 問題なのは年齢条項である。16才から30才という条件は、「18歳未満は娼妓たることを得ず」と定めた娼妓取締規則に完全に違反し、満17才未満の娼妓稼業を禁じた朝鮮や台湾の「貸座敷娼妓取締規則」にも抵触する。さらに、満21才未満の女性に売春をさせることを禁じた「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」(1925年批准)ともまったく相容れない。大内の活動は明らかに違法な募集活動と言わざるをえない。その点は警察もよく認識していたと見え、群馬県警が入手し、内務省に送付した上記契約条件の年齢条項には、警察側がつけたと思われる傍線が付されている。この契約条件が、上海での軍・総領事館協議において承認されたものなのかどうか、そこが議論のポイントの一つとなろう。私見では、この契約条件がまったく大内の独断で作成されたとはとても思えない。何らかの形で軍ないし総領事館との間で契約条件について協議がなされていたと思われる。たとえそれが契約条件は業者に任せるとの諒解だったとしても、である。 しかし誤解を恐れずに言うと、この年齢条件をのぞけば、趣意書の文面といい、契約条件の内容といい、公娼制度の現実を前提に、さらに陸軍慰安所が実在し、軍と総領事館がこれを公認しているとの条件のもとでは、就業地が国外である点を除くと、この大内の活動は当時の感覚からはとりたてて「違法」あるいは「非道」 とは言い難い。まして、これを「強制連行」や「強制徴集」とみなすのはかなりの無理がある。警察は要注意人物として大内に監視の目を光らせ、彼の勧誘を受けた周旋業者に説諭して、慰安婦の募集を断念させたが(山形県の例)、しかし和歌山のように婦女誘拐容疑で検挙することはしなかった。 ただし、念のために言っておくが、自由主義史観派の言うように、慰安所が軍と関係のない民間業者の売春施設であるならば、田辺事件の例と同様、この大内の募集活動も、軍の名を騙って、女性に売春を勧誘するものであるから、婦女誘拐ないし国外移送拐取の容疑濃厚であり、警察としては放置すべきではなかったことになる。 警察報告にあらわれた募集業者の活動は、これ以外にあと二件あり、ひとつは、史料4の高知県知事の報告に、「最近支那渡航婦女募集者簇出ノ傾向アリ之等ハ主トシテ渡支後醜業ニ従事セシムルヲ目的トスルモノニシテ一面軍ト連絡ノ下ニ募集スルモノヽ如キ言辞ヲ弄スル等不都合ノモノ有之」37)とあるにとどまり、具体的な事実まではわからない。 他の一件は、宮城県名取郡在住の周旋業者宛に、福島県平市の同業者から「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ル酌婦トシテ年齢二十歳以上三十五歳迄ノ女子ヲ前借金六百円ニテ約三十名位ノ周旋方」を依頼する葉書が届いたというもので、警察は周旋業者の意向を内偵し、本人に周旋の意志のないのを確認させている38)。こちらでは、年齢条件が大内の条件とは異なる。警察が説諭して募集をやめさせたのは、上に述べたことから当然の措置といえよう。また、史料1の外務次官通牒に定める渡航制限の趣旨からしても、そうあるべきである。前述の山形県警察がとった措置ともあわせて考えると、当時の警察の方針は、外務次官通牒に準拠しつつ、売春に従事する目的で女性が中国に渡航するのを原則として禁止していたのだと考えてよい。 以上が、警察報告に現れた業者の募集活動のすべてである。さて、話を例の副官通牒に戻そう。警察資料を見る限り、通牒にあげられた3つの好ましくない事例のうち、「故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ」は大内の活動およびこれに類似のものをさし、「募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル」が、田辺の婦女誘拐容疑事件を念頭においていることは、まずまちがいない。残る「従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ」は、これに該当する事例は警察報告に見あたらぬ。このことは、未発掘の警察資料の存在を示唆するとも考えられるが、「従軍記者、慰問者」とあるので、あるいは警察ではなく、憲兵隊の報告だった可能性も十分ありうる。その場合には、警察報告には見つからないはずである。 この通牒があげている好ましくない事例がここで紹介したようなものだとすると、とくに「募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル」が田辺事件をさすのだとすれば、この通牒の解釈について、従来の説が当然のこととしてきた前提そのものを再検討せざるをえない。 というのは、この事件で事情聴取された業者の行為は、陸軍慰安所が軍と関係のない民間の施設であれば、まったくの詐欺・誘拐行為にほかならないと断定できるが、それがまぎれもない軍公認の施設だった場合には、そう簡単に誘拐とは断じえない性質のものだからである。たとえ本人の自由意志による同意があろうとも、売春に従事させる目的で前借金契約をかわして国外に女性を連れ出すこと、それ自体がすでに違法だというならば話は別だが、そうでないとすれば、この業者の行為は、軍の要請に応じて、その提示条件をもとに、酌婦経験のある成人の女性に、先方に着いてから何をするのか、一応きちんと説明した上で、上海行きを誘っただけにすぎず、決して嘘偽りをいって騙したのではない。まして、拉致・略取などに及んではいない。考えてみれば、慰安婦の勧誘法としては、これ以外にどんな方法があるだろうか。ただ、警察から誘拐行為と目されることになったのは、軍がそのような施設をつくり、業者に依頼して女性を募集しているという話そのものが、ありうべからざること、にわかには信じがたい、荒唐無稽なことだったからに、ほかならない。 警察資料に登場する慰安婦募集活動は、いずれもこの田辺事件と大同小異のものばかりであって、詐欺や拉致・拐取は一例もない。明らかに違法なのは、大内の示した契約条件の年齢条項だけである。しかし、未成年の女性を実際に勧誘した事実は警察報告からは読みとれない。 現存する警察資料が明らかにしている事実関係からすれば、この有名な副官通牒が出された際に、現実に問題となった誘拐行為は、じつは慰安所そのものが軍の施設であるならば、合法とみなされるべきたぐいのものにすぎなかった。実際には、「内地で軍の名前を騙って非常に無理な募集をしている者」や「強制連行」「強制徴集」を行う悪質な業者などどこにも存在していなかったのだとすると、この通牒も直接的にはその種の行為を禁止するために出されたのではないと解釈せざるをえない。では、いったい何が取締まらねばならないと考えられていたのか、そもそもこの通牒は何かを取り締まる目的で出されたものなのか。それを検討するには、このような活動に地方の警察がいったいどうのように反応したのかを見ておく必要がある。 Ⅳ.地方警察の反応と内務省の対策 大内の募集活動を探知した群馬県警察はこれに対してどのような反応を見せたのか。史料番号2の警察報告は次のような言葉で締めくくられている。 本件ハ果タシテ軍ノ依頼アルヤ否ヤ不明且ツ公秩良俗ニ反スルガ如キ事業ヲ公々然ト吹聴スルガ如キハ皇軍ノ威信ヲ失墜スルモ甚シキモノト認メ厳重取締方所轄前橋警察署長ニ対シ指揮致置候39) この史料から、軍による陸軍慰安所の設置とその要請を受けた慰安婦募集は警察にとってはにわかに信じがたいできごとであったことがよくわかる。上海総領事館警察から正式の通知を受け取っていた長崎県や、内務省から非公式の指示があった兵庫県・大阪府は軍の要請による慰安婦募集活動であることを事前に知らされ、それゆえ内々にその活動に便宜をはかったのだが、何の連絡も受けていない関東や東北では、大内の話はまったくの荒唐無稽事に聞こえたのである。 軍が売春施設と類似の慰安所を開設し、そこで働く女性を募集しているとなどという話はそもそも公秩良俗に反し、まともに考えれば、とても信じられるものではない。ましてそれを公然とふれまわるにいたっては、皇軍の名誉を著しく傷つけるにもほどがあると、そう群馬県警察は解した。大内は嘘を言って、女性を騙そうとしたわけではない。真実を告げて募集活動をしたために、警察から「皇軍ノ威信ヲ失墜スルモ甚シキモノ」とみなされたのであった。 他の二県(山形、茨城)でも警察の反応は同様である。山形県警察の報告では、 如斯ハ軍部ノ方針トシテハ俄ニ信ジ難キノミナラズ斯ル事案ガ公然流布セラルヽニ於テハ銃後ノ一般民心殊ニ応召家庭ヲ守ル婦女子ノ精神上ニ及ボス悪影響少カラズ更ニ一般婦女身売防止ノ精神ニモ反スルモノ40) と記され、茨城県でも群馬県とほぼ同様に 本件果タシテ軍ノ依頼アリタルモノカ全ク不明ニシテ且ツ酌婦ノ稼業タル所詮ハ醜業ヲ目的トスルハ明ラカニシテ公序良俗ニ反スルガ如キ本件事案ヲ公々然ト吹聴募集スルガ如キハ皇軍ノ威信ヲ失墜スルコト甚シキモノアリト認メ厳重取締方所轄湊警察署長ニ対シ指揮致置候41) との判断および指示が下されたのであった。すなわち、警察から「皇軍ノ威信ヲ失墜スルコト甚シキモノアリ」と非難され、厳重に取締まるべきものとされたのは、「誘拐まがいの方法」でもなければ、「違法な徴募」「悪質な業者による不統制な募集」「強制連行」「軍の名前を騙る非常に無理な募集」「強制徴集」のいずれにも該当しない大内の活動だったのである。もっと言えば、中国に軍の慰安所を設置し、そこで働く女性を内地や植民地で公然と募集することそのものが(つまり軍の計画そのものが)、「公序良俗」に反し、「皇軍ノ威信ヲ失墜」させかねない行為だったのである。 以上のことから、当時の警察の考えと対応は次のようにまとめられよう。 一部の地方を除き、軍の慰安所設置について何も情報を知らされておらず、慰安所の設置はにわかに信じがたい話であった。国家機関である軍がそのような公序良俗に反する事業をあえてするなどとは、予想だにしなかった。 .かりに軍慰安所の存在がやむを得ないものだとしても、そのことを明らかにして公然と慰安婦の募集を行うのは、皇軍の威信を傷つけ、一般民心とくに兵士の留守家庭に非常な悪影響を与えるおそれがあるので、厳重取締の必要があると考えていた。そして、実際にそのような募集行為を行わないよう業者を指導し、管下の警察署に厳重取締の指令を下した。 この警察の姿勢をもっとも鮮明に打ち出したのは高知県だった。高知県には大内は立ち寄っていないが、すでに述べたように、「渡支後醜業ニ従事セシムル目的」で中国渡航婦女を募集する者が続出し、「一面軍ト連絡ノ下ニ募集スルモノヽ如キ言辞ヲ弄」していたのである。それに対して高知県警察は次のような取締方針を県下各警察署に指示した。 支那各地ニ於ケル治安ノ恢復ト共ニ同地ニ於ケル企業者簇出シ之ニ伴ヒ芸妓給仕婦等ノ進出亦夥シク中ニハ軍当局ト連絡アルカ如キ言辞ヲ弄シ之等渡航婦女子ノ募集ヲ為スモノ等漸増ノ傾向ニ有之候処軍ノ威信ニ関スル言辞ヲ弄スル募集者ニ就テハ絶対之ヲ禁止シ又醜業ニ従事スルノ目的ヲ以テ渡航セントスルモノニ対シテハ身許証明書ヲ発給セザルコトニ取扱相成度42) 警察としては当然かくあるべき方針といえるが、「軍ノ威信ニ関スル言辞ヲ弄スル募集者ニ就テハ絶対之ヲ禁止シ、又醜業ニ従事スルノ目的ヲ以テ渡航セントスルモノニ対シテハ身許証明書ヲ発給セザルコト」になれば、慰安婦の募集は不可能となり、慰安所そのものが成り立なくなる。軍の計画は失敗せざるをえない。このような地方警察の反応を警察報告で知らされた内務省や陸軍省としては、早急に何らかの手を打たねばならないと感じたはずである。 軍の慰安所政策(国家機関が性欲処理施設を設置・運営し、そこで働く女性を募集する)は、当時の社会通念からいちじるしくかけ離れたものであったうえ、そのことが府県警察のレベルにまで周知徹底されないうちに、業者のネットワークを伝って情報がひろがり、慰安婦の募集活動が公然と開始されたため、このような事態をまねいたのであった。この混乱を収拾して、軍の要請に応じて、慰安婦の調達に支障が生じないようにするとともに、地方の警察が懸念する「皇軍ノ威信ヲ失墜」させ、銃後の人心の動揺させかねない事態を防止するためにとられた措置が、警保局長通牒(内務省発警第5号)であり、それに関連して陸軍省から出先軍司令部に出されたのが問題の副官通牒(陸支密第745号)だったのである。 警保局長通牒43)は、その冒頭で、最近、売春に従事する目的で中国に渡航する婦女が増加しており、かつまた「軍当局ノ諒解アルカノ如キ言辞ヲ弄」して、内地各地で渡航婦女の募集周旋をなす者が頻出しつつあると、現状を把握した上で、これらの「婦女ノ渡航ハ現地ニ於ケル実情ニ鑑ミルトキハ蓋シ必要已ムヲ得ザルモノアリ警察当局ニ於テモ特殊ノ考慮ヲ払ヒ実情ニ即スル措置ヲ講ズルノ要アリト認メラルル」44)と、慰安婦の中国渡航をやむをえないものとして容認する判断を下した。さすがに警保局長の通牒文書であるので、軍が慰安所を設置し、業者を使って慰安婦を集めている事実にあからさまにふれてはいないが、一連の警察報告を前において読めば、「現地ニ於ケル実情」なるものが陸軍の慰安所設置をさしているのは言わずとも明らかであろう。 その「実情」に鑑みて、「醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航」を「必要已ムヲ得ザルモノ」として認めたこの警保局長通牒は、それまでの警察の方針を放擲して、慰安婦の募集と渡航を容認し、それを合法化する措置を警察がとったことを示す文書にほかならない。先ほど言及した高知県警察の禁止指令のごとき、地方警察の取締および防止措置をキャンセルし、軍の慰安所政策への全面的協力を各府県に命じる措置だったのである。同様に、史料1の外務次官通牒「不良分子ノ渡支ニ関スル件」(1937年8月31日付)が規定していた渡航制限方針を変更し、それを緩和する措置でもあった45)。 と同時に、警保局は慰安婦の募集と渡航の容認・合法化にあたって、「帝国ノ威信ヲ毀ケ皇軍ノ名誉ヲ害フ」ことのなきよう、「銃後国民特ニ出征兵士遺家族ニ好マシカラザル影響ヲ与フル」おそれのなきよう、また「婦女売買ニ関スル国際条約ノ趣旨ニモ悖ルコト無キ」よう、募集活動の適正化と統制を並行して実施するよう指令を下した。ここで好ましからざるものとして念頭に置かれていたのが、大内のそれであることは言うまでもない。通牒が国際条約にふれているのは、大内の所持していた契約条件の年齢条項を意識してのことと推察されるからである。 要するにこの通牒のねらいは、慰安婦の募集と渡航を容認・合法化し、あわせて募集活動に対する規制をおこなうことにあり、7項目にわたる準拠基準が定められた。第1~5項は「醜業ヲ目的トシテ渡航セントスル婦女」に渡航許可を与えるため、前記外務次官通牒に定める身分証明書を警察が発行する際の遵守事項を定めたものである。具体的には、現在内地において売春に従事している満21才以上の女性で性病に罹患していない者が華北、華中方面に渡航する場合に限りこれを黙認し、その際、契約期間が終われば必ず帰国することを約束させ、かつ身分証明証の発給申請は本人自ら警察署に出頭して行い、同一戸籍内の最近尊族親または戸主の同意書を示すこと、さらに発給にあたっては稼業契約その他の事項を調査し、婦女売買又は略取誘拐等の事実がないことを確認してから、身分証明を付与すること、とされている。当時の刑法、国際条約、公娼規則に照らしてぎりぎり合法的な線を守ろうとすれば、だいたいこのあたりに落ち着くのである。 もっとも、この遵守事項がきちんと守られたかどうかは、また別問題である。なぜなら、この通牒が発令されて2ヶ月ばかり後に北海道の旭川警察署が、「醜業ヲ目的トシテ」中国に渡航する満21才未満の芸妓に身分証明書を発給した事実が知られているからである46)。(補注1) 第6、7項は募集業者に対する規制であり、「醜業ヲ目的トシテ渡航セントスル婦女」の募集周旋にあたって「軍ノ諒解又ハ之ト連絡アルガ如キ言辞其ノ他軍ニ影響ヲ及ボスガ如キ言辞ヲ弄スル者ハ総テ厳重ニ之ヲ取締ルコト」、「広告宣伝ヲナシ又ハ事実ヲ虚偽若ハ誇大ニ伝フルガ如キハ総テ厳重ニ之ヲ取締ルコト」、「募集周旋等ニ従事スル者ニ付テハ厳重ナル調査ヲ行ヒ正規ノ許可又ハ在外公館ノ発行スル証明書等ヲ有セズ身許ノ確実ナラザル者ニハ之ヲ認メザルコト」の三点が定められた。 つまり、慰安婦の募集周旋において業者が軍との関係を公言ないし宣伝することを禁じたのである。通牒が取締の対象としたのは、業者の違法な募集活動ではなくて、業者が真実を告げること、言い換えれば、軍が慰安所を設置し、慰安婦を募集していると宣伝し、知らしめること、そのことであった。慰安婦の募集は密かに行われなければならず、軍との関係はふれてはいけないとされたのである47)。 この通牒は、一方において慰安婦の募集と渡航を容認しながら、軍すなわち国家と慰安所の関係についてはそれを隠蔽することを業者に義務づけた。この公認と隠蔽のダブル・スタンダードが警保局の方針であり、日本政府の方針であった。なぜなら、自らが「醜業」と呼んではばからないことがらに軍=国家が直接手を染めるのは、いかに軍事上の必要からとはいえ、軍=国家の体面にかかわる「恥ずかしい」ことであり、大っぴらにできないことだったからだ。このような隠蔽方針がとられたために、軍=国家と慰安所の関係は今にいたっても曖昧化されたままであり、それを示す公的な資料が見つかりにくいというより、そもそものはじめから少ないのは、かかる方針によるところ大と言えるであろう。その意味では、慰安所と軍=国家の関係に目をつむり、できるかぎり否認せんとする自由主義史観派の精神構造は、この通牒に看取される当時の軍と政府の立場を、ほぼそのまま受け継ぐものと言ってよい。 副官通牒はこのような内務省警保局の方針を移牒された陸軍省が48)、警察の憂慮を出先軍司令部に伝えると共に、警察が打ち出した募集業者の規制方針、すなわち慰安所と軍=国家の関係の隠蔽化方針を、慰安婦募集の責任者ともいうべき軍司令部に周知徹底させるため発出した指示文書であり、軍の依頼を受けた業者は必ず最寄りの警察・憲兵隊と連絡を密にとった上で募集活動を行えとするところに、この通牒の眼目があるのであり、それによって業者の活動を警察の規制下におこうとしたのである49)。であるがゆえに、この通牒を「強制連行を業者がすることを禁じた文書」などとするのは、文書の性格を見誤った、誤りも甚だしい解釈と言わざるをえない。 おわりに 1937年末から翌年2月までにとられた一連の軍・警察の措置により、国家と性の関係に一つの転換が生じた。軍が軍隊における性欲処理施設を制度化したことにより、政府自らが「醜業」とよんで憚らなかった、公序良俗に反し、人道にもとる行為に直接手を染めることになったからである。公娼制度のもと、国家は売春を公認してはいたが、それは建て前としては、あくまでも陋習になずむ無知なる人民を哀れんでのことであり、売春は道徳的に恥ずべき行為=「醜業」であり、娼婦は「醜業婦」にすぎなかった。国家にとってはその営業を容認するかわりに、風紀を乱さぬよう厳重な規制をほどこし、そこから税金を取り立てるべき生業だったのである。 しかし、中国との戦争が本格化するや、その関係は一変する。いまや出征将兵の性欲処理労働に従事する女性が軍紀と衛生の維持のため必須の存在と目され、性的労働力は広義の軍要員(あるいは当時の軍の意識に即して言えば「軍需品」と言った方がよいかも知れない)となり、それを軍に供給する売春業者はいまや軍の御用商人となったのである。国家が民間で行われている性産業・風俗営業を公認し、これを警察的に規制することと、国家自らが、政府構成員のために性欲処理施設を設置し、それを業者に委託経営させることとは、国家と性産業との関係においてまったく別の事柄なのである。 そう考えるならば、同じように軍の兵站で働き、軍の必要とするサービスを供給する女性労働力であった点において、従軍看護婦と従軍慰安婦との間には、その従事する職務の内容に差はあれ、本質的な差異を見いだすことはできない。慰安婦もまたその性的労働によって国家に「奉仕」した/させられたのであった。 一連の措置により、慰安婦の募集と渡航が合法化されたことは、性的労働力が軍需動員の対象となり、戦時動員がはじまったことを意味している。それはまた性的サービスを目的とする風俗産業の軍需産業化にほかならず、内地・植民地から戦地・占領地へ向けて風俗産業の移出とそれに伴う多数の性的労働力=女性の流出と移動を生みだした。慰安婦は戦時体制が必然的に生みだした国家と性の関係変容を象徴する存在であり、戦時における女性の総動員の先駆けともいうべき存在となった。彼女たちにつづき、人間の再生産にかかわる家庭婦人が「生めよ殖やせ」の戦時総動員政策のもとで、銃後の母・出征兵士の妻として、兵力・労働力の再生産と消費抑制の大任を負わされ、未婚女性は、あるいは軍需工場での労働力として、あるいは看護婦から慰安婦にいたるさまざまな形態の軍要員として動員されたのであった。 しかし、ひとしく戦時総動員と言っても、そこには「民族とジェンダーに応じた「役割分担」」50)が厳然と存在し、内地日本人男性のみを対象とした徴兵(あるいは軍需工場の熟練工)を頂点に、各労働力の間には截然たる階層区分が存在していた。労務動員により炭坑や鉱山で肉体労働に従事した朝鮮人・中国人労働者のために事業場慰安所が設立されたことを思うと51)、この戦時総動員のヒエラルヒーの最低下層におかれていたのが、慰安所で性的労働に従事した女性、なかんずく植民地・占領地出身の女性であったのはまちがいない。彼女たちは戦時総動員体制下の大日本帝国を文字どおりその最底辺において支えたのである。 このような戦時総動員のヒエラルキーが形づくられた要因はさまざまであるが、慰安婦に関して言えば、軍・警察の一連措置が内包していたダブル・スタンダードの持つ役割にふれないわけにはいかない。すでに述べたように、軍・警察は慰安所を軍隊の軍紀と衛生の保持のため必須の装置とみなし、慰安婦の募集と渡航を公認したが、同時に軍・国家がこの道徳的に「恥ずべき行為」に自ら手を染めている事実については、これをできるかぎり隠蔽する方針をとった。軍の威信を維持し、出征兵士の家族の動揺を防止するために、すなわち戦時総動員体制を維持するために、慰安所と軍・国家の関係や、慰安婦が戦争遂行上においてはたしている重要な役割は、公的にはふれてはいけないこと、あってはならないこととされたのである。 国家と性の関係は現実に大きく転換したが、売春=性的労働を「公序良俗」に反する行為、道徳的に「恥ずべき行為」であるとする意識、さらに慰安婦を「醜業婦」と見なす意識はそのまま保持され続け、そこに生じた乖離が上記のような隠蔽政策を生み出すにいたった。慰安婦は軍・国家から性的「奉仕」を要求されると同時に、その関係を軍・国家によってたえず否認され続ける女性達であった。このこと自体が、すでに象徴的な意味においてレイプといってよいだろう。従軍慰安婦が、同様に軍の兵站で将兵にサービスをおこなう職務に従事しながら、従軍看護婦とは異なる位置づけを与えられ、見えてはならない存在として戦時総動員ヒエラルキーの最底辺に置かれたのは、このような論理と政策の結果とも言えよう。慰安所の現実がそこで働かされた多くの女性、なかんずく植民地・占領地の女性にとって性奴隷制度にほかならなかったのは、このような位置づけと、それをもたらした軍・警察の方針によるところが大きいのである。 補論:陸軍慰安所は酒保の附属施設 軍慰安所とは将兵の性欲を処理させるために軍が設置した兵站付属施設であったことはすでに述べた。このことを裏付けてくれる、陸軍の規程を偶然に発見したので、紹介しておきたい。それは1937年9月29日制定の陸達第48号「野戦酒保規程改正」という陸軍大臣が制定した軍の内部規則である52)。その名の示すとおり、戦時の野戦軍に設けられる酒保(物品販売所)についての規程である。添付の改定理由書によると、日露戦争中の1904年に制定された「野戦酒保規程」が日中戦争の開始とともに、古くなったので改正したとある。改正案の第1条は次のとおりであった。 第一条 野戦酒保ハ戦地又ハ事変地ニ於テ軍人軍属其ノ他特ニ従軍ヲ許サレタル者ニ必要ナル日用品飲食物等ヲ正確且廉価ニ販売スルヲ目的トス    野戦酒保ニ於テ前項ノ外必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得 ここに「慰安施設」とあるのに注目してほしい。改正規程では、酒保において物品を販売することができるだけでなく、軍人軍属のための「慰安施設」を付属させることが可能になったのである。改正以前の野戦酒保規程の第一条は、以下のとおり。 第一条 野戦酒保ハ戦地ニ於テ軍人軍属ニ必要ノ需用ヲ正確且廉価ニ販売スルヲ目的トス ここには「慰安施設」についての但書きはない。第一条改正の目的が、酒保に「慰安施設」を設けることを可能にする点にあったことは、改正規程に添付されている「野戦酒保規程改正説明書」(経理局衣糧課作成で昭和12年9月15日の日付をもつ)で、次のように説明されていることから明らかである。 「改正理由 野戦酒保利用者ノ範囲ヲ明瞭ナラシメ且対陣間ニ於テ慰安施設ヲ為シ得ルコトモ認ムルヲ要スルニ依ル」 このことから、1937年12月の時点での、陸軍組織編制上の軍慰安所の法的位置づけは、この「野戦酒保規程」第一条に定めるところの「野戦酒保に付設された慰安施設」であったと、ほぼ断定できる。酒保そのものは、明治時代から軍隊内務書に規定されているれっきとした軍の組織である。野戦酒保も同様で、陸軍大臣の定めた軍制令規によって規定されている軍の後方施設である。してみれば、当然それに付設される「慰安施設」も軍の後方施設の一種にほかならない。もちろん、改定野戦酒保規程では「慰安施設」とあるだけで、軍慰安所のような性欲処理施設を直接にはさしていない。しかし、中国の占領地で軍慰安所が軍の手によって設置された時、当事者はそれを「慰安施設」と見なしていたことが、別の史料で確認できる。本稿のはじめのところで紹介した、上海派遣軍司令部の参謀達の日記がそれである。念のために再掲する。 上海派遣軍参謀長飯沼守少将の陣中日記(『南京戦史資料集I』) 「慰安施設の件方面軍より書類来り、実施を取計ふ」(1937年12月11日) 「迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す」(1937年12月19日) 同参謀副長上村利通陸軍大佐の陣中日記(『南京戦史資料集II』) 「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」(1937年12月28日)  これらの記述から、この時上海派遣軍に設置された「慰安施設」は「女郎屋」であり、「南京慰安所」と呼ばれたことがわかる。逆に言えば、上海派遣軍の飯沼参謀長は、「女郎屋」である「南京慰安所」を軍の「慰安施設」と見なしていたことを、上記の史料は示している。 飯沼参謀長が日記に書き留めた「慰安施設」が改定野戦酒保規程第1条の「慰安施設」をさすものであることは、軍隊という組織のありかたからして、まちがいのないことである。つまり、上海派遣軍の軍慰安所は改定野戦酒保規程第1条の定めるところにしたがって設置されたのである。 そう考えると、秦郁彦『慰安婦と戦場の性』で紹介されている第101聯隊(上海派遣軍第101師団)の一兵士の陣中日記(荻島静夫陣中日記田中常雄編『追憶の視線』下、1989年、102頁)中の以下の記述の意味が、よりよく納得されるであろう。 1月8日「夜隊長より慰安所開設の話を聞く。喜ぶ者多し」 1月13日「今日、急に酒保係を命ぜられ、酒保へ行く。戦地軍隊は面白い所だ。女給ばかり居る酒保だからな。未だ売る物は一品ばかりだ。○○を買う者がどっとおし寄せて午後より夜遅くまで多忙だ」(秦、p.72) この聯隊でも、慰安所が「野戦酒保付設慰安施設」として設置されたので、酒保係を命じられた兵士が慰安所の当番兵となり、慰安所を「女給ばかり居る酒保」と呼んだのである。 また秦前掲書81頁には、「第110師団関係資料」を根拠に、「慰安所、女については大隊長以上において申請許可を受けたる後、設置」というルールがあったことが紹介されているが、これも改定野戦酒保規程第3条の以下の規定を考慮すると、納得がいく。 第三条 野戦酒保ハ所要ニ応ジ高等司令部、聯隊、大隊、病院及編制定員五百名以上ノ部隊ニ之ヲ設置ス  前項以外ノ部隊ニ在リテハ最寄部隊ノ野戦酒保ヨリ酒保品ノ供給ヲ受クルヲ本則トス 但シ必要アルトキハ所管長官ノ認可ヲ受ケ当該部隊ニ野戦酒保ヲ設置スルコトヲ得 (略) 野戦酒保ハ之ヲ設置シタル部隊長之ヲ管理ス(略) この規程では、大隊以上に野戦酒保を設置できる権限が与えられている。ということは、大隊長以上には野戦酒保の付設慰安施設についてもその設置権限があるということを意味する。また、大隊よりも小さな部隊がどうしても野戦酒保(及び慰安所)を必要とするときは、所管長官(軍司令官、師団長、兵站監、及び之に準ずる兵団の長)に申請してその認可を得なければいけないとあるので、この規定から(慰安所は)「大隊長以上において申請許可を受けたる後、設置」ということになったのだと思われる。さらに「野戦酒保ハ之ヲ設置シタル部隊長之ヲ管理ス」とあることから、酒保付設慰安施設である軍慰安所についても、酒保と同様に、その管理者は設置者である当該部隊の長であったと結論できる。 他にも野戦酒保規程第6条には次のような条文がある。 第六条 野戦酒保ノ経営ハ自弁ニ依ルモノトス但シ已ム得ザル場合(一部ノ飲食物等ノ販売ヲ除ク)ハ所管長官ノ認可ヲ受ケ請負ニ依ルコトヲ得 平時ノ衛戍地ヨリ伴行スル酒保請負人ハ軍属トシテ取扱ヒ一定ノ服装ヲ為サシムルモノトス但シ其ノ人員ハ歩兵、野砲兵及山砲兵聯隊ニ在リテハ三名以内、其ノ他ノ部隊ニ在リテハ二名以内トス この規定から、直営でない軍慰安所において慰安所を経営していた売春業者は軍の「請負商人」であったこと、また当該部隊の長の判断により、それらの請負業者を軍属にすることができたこともわかる。ただし、この改定野戦酒保規程では軍属にできる請負商人には定員の枠が設定されているので、実際にどれほどの業者が軍属になったのかはまた別問題である。さらに第13条には「軍属タル酒保請負人ニハ必要ニ応ジ糧食ヲ官給シ又被服ノ一部ヲ貸与スルコトヲ得」とあり、この条項の運用次第では、慰安所の業者が軍から貸与された制服を着用することになっても別に不思議ではない。彼らが直接朝鮮や台湾で女性を集めたとすると、制服を着用しているので、軍人と見なされる可能性は高い。 以上まとめると、日中戦争期につくられた陸軍の慰安所は、軍の兵站施設である野戦酒保の付属慰安施設であったのであり、その経営を受託された慰安所業者は軍の請負商人であり、可能であれば、軍属の身分を与えられ、制服の着用が許されたのだと考えられる。 追記(2005年6月12日記、2007年3月21日) 2005年6月11日に古書店で、『初級作戦給養百題』というタイトルの図書を入手した。これは、陸軍の経理学校の教官が経理将校の教育のために執筆した演習教材集である。 編者は清水一郎陸軍主計少佐。発行所は陸軍主計団記事発行部で、同部刊行の『陸軍主計団記事』第三七八号附録として刊行された。表紙の右肩に「日本将校ノ外閲覧ヲ禁ス」と書されている。なお、『陸軍主計団記事』は靖国偕行文庫には全巻揃っているそうである。 奥付がないので、『初級作戦給養百題』の刊行日付は不明だが、序文に「二六〇一年ノ正月之ヲ発意シ漸ク斯クノ如ク纏メ上ケタリ」とあるので(p.1)、昭和16年すなわち1941年に刊行されたものと推測される。 この書物の第一章総説には、師団規模の部隊が作戦する際に、経理将校が担当しなければいけない作戦給養業務(「作戦経理勤務」)の内容が一五項目にわたって列挙されているが、その一五番目「其他」の項には、以下の小目が含まれる(強調は永井、以下同じ)。  1 酒保ノ開設  2 慰安所ノ設置、慰問団ノ招致、演芸会ノ開催  3 恤兵品ノ補給及分配  4 商人ノ監視                          (p.14) このことから、1941年の時点で、「慰安所ノ設置」は、「酒保ノ開設」と並んで経理将校が行わなければいけない「作戦給養業務」のひとつであったことがわかる。これもまた、私が本文で指摘した、「軍慰安所とは、将兵の性欲を処理させるために軍が設置した兵站付属施設」との主張を裏付けてくれる、軍の内部資料の一つであるわけである。 さらに、この『初級作戦給養百題』には、以下のような状況のもとで、師団経理部の一員として、「次期作戦準備ノ為ノ経理勤務要領」の「考案ヲ附記スヘシ」という問題が収録されている(p.367)。  一、十月中旬師団ハ概ネ初期ノ目的ヲ達シM平地ヲ領有ス  二、茲ニ於テ師団ハ一部ヲ以テABCDニ位置セシメ主力ヲ以テM市及其周辺ニ駐止シ次期作戦ヲ準備セントス つまり、この問題は、師団規模の部隊が戦闘を終え、所定の場所を占領したまま駐屯体制に入り、次の作戦に向けて準備をする場合に、師団経理部がとるべき措置を起案せよと、問うているのである。この演習問題に対しては、総説に示された「経理勤務要領」に基づく模範解答が掲載されているが、それには以下のような措置が含まれているのである。  十一 其他  1 酒保ノ開設  2 出入商人ノ監視  3 慰安所ノ設置  4 恤兵品ノ補給及分配                  (p.371) 1937年9月に野戦酒保の附属慰安施設として陸軍の編成のうちに姿をあらわした軍慰安所は、その4年後の1941年には、給養を担当する経理将校のマニュアル中に、師団規模の部隊が占領地で駐屯体制に入った場合には、必ず設置しなければいけない施設として、酒保と肩をならべて記されるまでの存在となっていたのである。 このような状況となれば、後方業務遂行のためにも、経理将校は慰安所の業務についてそれなりの知識を有していなければ、その職責を果たせないことになるが、その要請に応じるため、経理将校の養成課程においてそれに関する教育が行なわれていたことを示す元経理将校の貴重な証言がある。 証言者は、戦後フジサンケイグループの総帥となる鹿内信隆だが、一九三八年に札幌の歩兵第二五聯隊に入営した鹿内は、幹部候補生の試験に合格し、予備の経理将校になるため、陸軍経理学校に入校した。さらに陸軍会計監督官となる教育を受け一九四一年に卒業した。 鹿内は、元日経連会長櫻田武との対談の中で、その経理学校で「慰安所の開設」について次のような教育を受けたという。 鹿内 (略)それから、これなんかも軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地へ行きますとピー屋が…。  櫻田 そう、慰安所の開設。  鹿内 そうなんです。そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの、〝持ち時間〟 が、将校は何分、下士官は何分……といったことまで決めなければいけない(笑) 。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。 (櫻田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史』上巻(サンケイ出版、一九八三年)四〇~四一頁。) もちろん「ピー屋設置要綱」は隠語であって、正しくは「慰安所設置要綱」であったにちがいない。 鹿内の証言は、一九四一年には陸軍経理学校で経理将校およびその候補生に対して慰安所設置業務についての教育が行なわれ、そのためのマニュアルができていたことを明らかにしてくれている。 と同時に、当時の日本陸軍では慰安所といえば、もっぱら将兵向けの性欲処理施設を指していたことをも示している。慰安所が軍の後方施設であったことを如実に物語る証言といえよう。 注 1) 上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』(青土社、1998年)。 2) 吉見義明編集・解説『従軍慰安婦資料集』(大月書店、1992年)105-106。 3) 吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書、1995年)35。 4) 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言 第3巻』(小学館、1997年)165。 5) 小林よしのり「「人権真理教に毒される日本のマスコミ」西尾幹二・小林よしのり・藤岡信勝・高橋史朗『歴史教科書との15年戦争』(PHP研究所、1997年)77。 6) 藤岡信勝「歴史教科書の犯罪」前掲『歴史教科書との15年戦争』58。 7) 秦郁彦「歪められた私の論理」『文藝春秋』1996年5月号。 8) 上杉聡『脱ゴーマニズム宣言』(東方出版、1997年)77。 9) 吉川春子 『従軍慰安婦-新資料による国会論戦-』(あゆみ出版、1997年)。 10) 八木絹「旧内務省資料でわかった「従軍慰安婦」の実態」『赤旗評論特集版』1997年2月3日。 11) 和田春樹「政府発表文書にみる「慰安所」と「慰安婦」-『政府調査「従軍慰安婦関係」資料集成』を読む」女性のためのアジア平和国民基金「慰安婦」関係資料委員会編『「慰安婦」問題調査報告・1999』女性のためのアジア平和国民基金、1999年。 12) この間の経緯については、『赤旗』1996年12月20日に詳しい。 13) 前掲『資料集成』第1巻、36-38。 14) 前掲吉見編『従軍慰安婦資料集成』28-30、吉見義明・林博史編前掲書、第2章、第4章。 15) 南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集Ⅰ』(偕行社、1993年)。 16) 同編『南京戦史資料集Ⅱ』(偕行社、1993年)。 17) 同上。なお、湖州の慰安所については、第十軍法務部長であった小川関治郎の陣中日記の1937年12月21日条にも「尚当会報ニテ聞ク 湖州ニハ兵ノ慰安設備モ出来開設当時非常ノ繁盛ヲ為スト 支那女十数人ナルガ漸次増加セント憲兵ニテ準備ニ忙シト」との記述が見られる(小川関治郎『ある軍法務官の日記』みすず書房、2000年、124)。 18) 前掲吉見編『従軍慰安婦資料集成』175。 19) 同上、195。 20) 高崎隆治編『軍医官の戦場報告意見集』(不二出版、1990年)115、120。 21) 麻生徹男軍医少尉「花柳病ノ積極的予防法」1939年6月26日、高崎編、前掲書、55。 22) 前掲藤永論文、169。なお、藤永は麻生徹男『上海から上海へ』(石風社、1993年)に依拠している。 23) 1937年12月に陸軍と総領事館との間に結ばれた風俗警察権の分界協定は、上海・南京戦が終了し、日本軍の駐屯と占領地支配の長期化が明確になった1938年春になって、一部修正の上、再確認された。その年3月には上海で、4月16日に南京総領事館で陸海外三省関係者の協議会が開催きれ、占領地の警察権に関する協定を結んでいる(前掲吉見編『従軍慰安婦資料集』178-182)。  なお、一般公娼施設と軍慰安所との間で明確に警察の管轄区分がなされていた点で、軍事警察が占領地の風俗営業取締を全般的に担当していた日露戦争中の満州軍政や第1次大戦期の青島占領とも性格を異にすることも付け加えておく。 24) 前掲『資料集成』第1巻、3、7。前掲吉見編『従軍慰安婦資料集成』96、97。 25) 前掲『資料集成』第1巻、28、31。 26) 同上、35、36。 27) 同上、45。 28) 同上、105-109。この手書きメモは欄外に「内務省」と印刷されている事務用箋に記されており、内容からみて、1938年1月の慰安婦第1回送出のあとに、本省側が兵庫県警に事情を聴取した際に作られたメモと思われる。なお、山下内務大臣秘書官とあるのは山下知彦。海軍大将山下源太郎の養嗣子で、男爵・海軍大佐。36年3月に予備役となり、末次信正の内務大臣就任とともにその秘書官に起用されていた。 29) 前掲『資料集成』第1巻、32。 30) 同上、43。 31) 同上、11-13。 32) 同上、23-24。 33) 同上、48-49。 34) 同上、16、43。 35) 同上、19-21。 36) 契約書には「一、上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於テ酌婦稼業ヲ為スコト 一、賞与金(給料のこと-永井)ハ揚高ノ一割トス(但シ半額ヲ貯蓄スルコト)」と記されている。同上、14。 37) 同上、25。 38) 同上、54。 39) 同上、19。 40) 同上、24。 41) 同上、49。 42) 同上、26。 43) この通牒は、警保局警務課(課長町村金五)において1938年2月18日付けで起案され、富田健治警保局長、羽生雅則内務次官、末次信正内務大臣の決裁を受けて、2月23日付で各地方長官に通達された。外事課と防犯課とがこれに連帯している。同上、55。 44) 同上、69-70。 45) 警保局長通牒が外務次官通牒に定める渡航制限の緩和措置であったことは、この通牒が出された後に、粟屋大分県知事と外務省の吉沢清次郎アメリカ局長との間で以下のようなやりとりがなされたことからもわかる。まず粟屋知事は、外務省の既存の指令にしたがえば、山東方面への初渡航者には警察の身分証明書を発行すべきでないと解されるが、同方面の「皇軍慰安所ノ酌婦等募集ヲナス旨ノ在支公館又ハ軍部ノ証明ヲ有スル者ノ募集セル酌婦等ニ対シテハ身分証明書下付相成差支無キヤ」とアメリカ局宛に照会を行い、それに対して吉沢局長は、内務省発警第5号「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル依命通牒」にしたがって「渡支支障ナキ者ナル限リ身分証明書ヲ発給セラレ差支無之」と回答したのであった。すなわち警保局長通牒にしたがい、慰安婦の渡航を認めてよいと指示したのであった。同上、117-120。 46) 在山海関副領事発外務大臣宛機密第二一三号(1938年5月12日付)前掲吉見編『従軍慰安婦資料集』111。 補注1(2012年1月12日追記)  内務省警保局長通牒が定めている渡航許可の基準は、実質的には空文化されていたと考えられる。なぜならば、現実に慰安所に送られた例を検討すると、基準が守られていたとはとても思えないからである。以下にみるように、秦前掲書(三八二~三八三頁)に紹介されている元兵士の証言がその証拠となる。これらは氷山の一角であったと考えてよいであろう。 そのひとつ、華南南寧憲兵隊の元憲兵曹長の回想によれば、一九四〇年夏、中国華南の南寧を占領した直後に、その兵士は、陸軍慰安所北江郷という名の軍慰安所を毎日巡察していたという。その慰安所の経営者は、十数人の若い朝鮮人慰安婦を抱えていたが、地主の息子で小作人の娘たちを連れてやって来たとのことであった。朝鮮を出るときは、契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂とのことだったが、若い女の子に売春を強いることに経営者の朝鮮人も深く責任を感じているようだったという。 この慰安所の経営者が女性を騙したのか、それとも経営者自身が他の誰かに騙されたのか、この証言だけでは曖昧だが、連れてこられた女性は明らかに就労詐欺の被害者である。内務省警保局長通牒の趣旨からすればあってはならないことがらである。 一九三二年の上海事変の際には「設置計画中の海軍指定慰安所で働かせるため、長崎地方の女性一五名を事情を隠し、女給・女中を雇うかのように騙して長崎から乗船させ(誘拐)、上海に上陸させた(移送)」事件がおこり、被疑者は起訴されたが、長崎控訴院は刑法旧第二二六条第一項の国外誘拐罪と同条第二項国外移送罪が成立するものとして有罪を宣告し、大審院もこれを支持した(大審院判決が出されたのは一九三七年三月)(戸塚悦郎「確認された日本軍性奴隷募集の犯罪性」、『法学セミナー』一九九七年一〇月号)。 この判例からすれば、南寧の陸軍慰安所の女性も国外誘拐罪、国外移送罪の被害者にまちがいないが、その被害事実がわかっておりながら、慰安所の取り締まりを担当していたこの憲兵曹長は、女性を帰国させずにそのまま放置し、何らの救済措置もとっていない。また、騙した犯人の追及も行なっていない。この憲兵曹長は、慰安所の経営者および慰安婦に同情を寄せていたことから、自身もそこで行なわれていることがよいことではないのを承知していたと思われる。良心的な兵士だったと思われるが、犯罪行為の摘発という憲兵として当然なすべきことを行なわず、しかもそのことに対してとくに後ろめたい気持ちを抱くこともしていない。これはこの憲兵が悪徳憲兵だったからではなくて、軍慰安所が軍にとって不可欠な施設であるために、たとえ違法な方法で慰安婦の募集が行なわれていたとしても、軍事上の必要のためにはやむをえないと考える姿勢、言いかえれば「見て見ぬふりをする」体制がすでに陸軍内にできあがっていたからだと思われる。 この例は朝鮮での募集なので、内務省警保局長通牒は植民地には適用されなかったから例として不適当との解釈もあるかもしれない。そこで日本内地の例を秦同書からあげておく。ただし、刑法旧第二二六条は朝鮮・台湾にも適用されるので、右の例の女性が犯罪事件の被害者であることはそれによって何ら変化を受けるわけではない。  第二の例は、山東の済南に駐屯していた第五九師団の元伍長の証言である。一九四一年のある日、国防婦人会の「大陸慰問団」という日本人女性二〇〇人がやってきた。彼女たちは部隊の炊事の手伝いなどをするつもりだったのが、皇軍相手の売春婦にさせられてしまった。将校クラブにも、九州の女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた。この例も、話が事実なら、同様に国外誘拐罪、国外移送罪の被害者である。内務省警保局長通牒の基準が厳格に守られていたのであれば、こういう例は未然に防止されたはずである。しかしながら、未然に防止されるどころか、事後においても被害者が救済されたり、犯罪事件が告発された形跡がない。女性を送り出す地域の警察も、送られてきた側で軍慰安所を管理していた軍も、いずれもこのような犯罪行為に何ら手を打っていないのである。軍慰安所の維持のためにはやむをえない必要悪だとして、組織的に「見て見ぬふり」をしなければ、とうていこのようことはおこりえないはずである。一九三七年末から一九三八年初めにかけて軍慰安所が軍の後方組織として認知されたことにより、事実上刑法旧第二二六条はザル法と化す道が開かれたのだといってよい。それは警保局長通牒が空文化したことを意味する。 なおこれに関連していえば、「軍慰安所で性的労働に従事する女性を、その本人の意志に反して、就労詐欺や誘拐、脅迫、拉致・略取などの方法を用いて集めること、およびそのようにして集めた女性を、本人の意志に反して、軍慰安所で性的労働に従事させること」をもって「慰安婦の強制連行」と定義してよいのであれば、たとえ軍が直接に手を下したり、命令を出したりしなかったとしても、右にあげた例のように、組織的に「見て見ぬふり」をしていた場合、すなわち軍から慰安所の経営を委託された民間業者やそれに依頼された募集業者が詐欺や誘拐によって女性を軍慰安所に連れてきて働かせ、しかも軍慰安所の管理者である軍がそれを摘発せずに、事情を知ってなおそのまま働かせたような場合には、日本軍が強制連行を行なったといわれても、それはしかたがないであろう。 47) 副官通牒や警保局長通牒をもって「強制連行」の事実があったことを示す史料だとする上杉聡の見解に私は同意できないが、しかし「業者の背後に軍部があることを「ことさら言うな」と公文書が記している」と考える点では、同意見である。 48) 内務省警保局長通牒は各地方長官だけでなく、拓務省管理局長(棟居俊一)、陸軍省軍務局長(町尻量基)、外務省条約局長(三谷隆信)、同アメリカ局長(吉沢清次郎)にも参考のため移牒されている。アメリカ局に移牒されたのは旅券事務が同局の管轄だったからである。前掲『資料集成』第1巻、67。 49) 1938年11月の第21軍向け慰安婦の「調達」と移送は、全面的な警察の規制と支援のもとで、秘密裡に行われた。これは政府・内務省の方針の本質をよく示すものである。同上、p.77-100。 注49への追記(2012年1月12日)  1938年11月の第21軍向け慰安婦の「調達」と移送については、次のふたつの警察資料が有名である。 1.内務省警保局警務課長「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件伺」(1938年11月4日付) 2.内務省警保局長発大阪・京都・兵庫・福岡・山口各府県知事宛「南支方面渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(1938年11月8日付)(『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』第1巻) この文書によると、同年11月4日に第二一軍参謀の久門有文陸軍少佐と陸軍省徴募課長の小松光彦陸軍大佐とが警保局を訪問し、「南支派遣軍の慰安所設置の為必要に付、醜業を目的とする婦女四百名(はじめ「千名」とあり、のち抹消)を渡航せしむる様(はじめ「蔭に送付方」とあり、のち抹消)配意ありたし」との申し出を行なった。 久門少佐が警保局長に出した名刺が残されているが、その裏面には「娘子軍約五百名広東ニ御派遣方御斡旋願上候」と記されている。第二一軍と陸軍省は警察の元締めである警保局長に慰安所で働く女性の募集と渡航について斡旋を依頼したのである。 ここで留意すべきは、この行動が、第二一軍が例の「副官通牒」の指示に忠実であったことを示している点である。「副官通牒」が求める「将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於イテ統制シ(中略)其実地ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニシ次テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度」にしたがって、第二一軍は久門少佐を警保局に派遣したのである。斡旋依頼を受けた警保局は、大阪、京都、兵庫、福岡、山口の各府県に対して、女性を集めて中国に送るよう極秘の指令を発したのであった。 さらに補足しておくと、第二一軍軍医部長であった松村桓軍医少将は一九三九年四月一五日に陸軍省医務局で「性病予防のために兵一〇〇人につき一名の割合で慰安隊を輸入す。一四〇〇-一六〇〇名」と報告している(波多野澄雄「防衛庁防衛研究所所蔵《衛生・医事》関係資料の調査概要」前掲『「慰安婦」問題調査報告・一九九九』三五頁)。第二一軍は少なくとも一四〇〇名名の慰安婦を抱えていたのであった。 50) 駒込武「帝国史研究の射程」『日本史研究会』452、2000年、228。 51) 前掲『共同研究日本軍慰安婦』第5章、142-144。 52) この規程は、アジア歴史資料センターで公開されており、レファレンスコードは、C01001469500、表題は「野戦酒保規程改正に関する件」(大日記甲輯昭和12年)。

2005年11月21日月曜日

【日米外交】 佐藤総理大臣とニクソン大統領との共同声明 1969年11月21日

佐藤総理大臣とニクソン大統領との共同声明 1969年11月21日

[文書名] 佐藤栄作総理大臣とリチャード・M・ニクソン大統領との間の共同声明
[場所] ワシントンDC
[年月日] 1969年11月21日
[出典] わが外交の近況(外交青書)第14号,399‐403頁.
[備考] 
[全文]
1.佐藤総理大臣とニクソン大統領は、11月19日、20日および21日にワシントンにおいて会談し、現在の国際情勢および日米両国が共通の関心を有する諸問題に関し意見を交換した。

2.総理大臣と大統領は、各種の分野における両国間の緊密な協力関係が日米両国にもたらしてきた利益の大なることを認め、両国が、ともに民主主義と自由の原則を指針として、世界の平和と繁栄の不断の探求のため、とくに国際緊張の緩和のため、両国の成果ある協力を維持強化していくことを明らかにした。大統領は、アジアに対する大統領自身および米国政府の深い関心を披瀝し、この地域の平和と繁栄のため日米両国があい協力して貢献すべきであるとの信念を述べた。総理大臣は、日本はアジアの平和と繁栄のため今後も積極的に貢献する考えであることを述べた。

3.総理大臣と大統領は、現下の国際情勢、特に極東における事態の発展について隔意なく意見を交換した。大統領は、この地域の安定のため域内諸国にその自主的努力を期待する旨を強調したが、同時に米国は域内における防衛条約上の義務は必ず守り、もつて極東における国際の平和と安全の維持に引き続き貢献するものであることを確言した。総理大臣は、米国の決意を多とし、大統領が言及した義務を米国が十分に果たしうる態勢にあることが極東の平和と安全にとつて重要であることを強調した。総理大臣は、さらに、現在の情勢の下においては、米軍の極東における存在がこの地域の安定の大きなささえとなつているという認識を述べた。

4.総理大臣と大統領は、特に、朝鮮半島に依然として緊張状態が存在することに注目した。総理大臣は、朝鮮半島の平和維持のための国際連合の努力を高く評価し、韓国の安全は日本自身の安全にとつて緊要であると述べた。総理大臣と大統領は、中共がその対外関係においてより協調的かつ建設的な態度をとるよう期待する点において双方一致していることを認めた。大統領は、米国の中華民国に対する条約上の義務に言及し、米国はこれを遵守するものであると述べた。総理大臣は、台湾地域における平和と安全の維持も日本の安全にとつてきわめて重要な要素であると述べた。大統領は、ヴィエトナム問題の平和的かつ正当な解決のための米国の誠意ある努力を説明した。総理大臣と大統領は、ヴィエトナム戦争が沖繩の施政権が日本に返還されるまでに終結していることを強く希望する旨を明らかにした。これに関連して、両者は、万一ヴィエトナムにおける平和が沖繩返還予定時に至るも実現していない場合には、両国政府は、南ヴィエトナム人民が外部からの干渉を受けずにその政治的将来を決定する機会を確保するための米国の努力に影響を及ぼすことなく沖繩の返還が実現されるように、そのときの情勢に照らして十分協議することに意見の一致をみた。総理大臣は、日本としてはインドシナ地域の安定のため果たしうる役割を探求している旨を述べた。

5.総理大臣と大統領は、極東情勢の現状および見通しにかんがみ、日米安保条約が日本を含む極東の平和と安全の維持のため果たしている役割をともに高く評価し、相互信頼と国際情勢に対する共通の認識の基礎に立つて安保条約を堅持するとの両国政府の意図を明らかにした。両者は、また、両国政府が日本を含む極東の平和と安全に影響を及ぼす事項および安保条約の実施に関し緊密な相互の接触を維持すべきことに意見の一致をみた。

6.総理大臣は、日米友好関係の基礎に立つて沖繩の施政権を日本に返還し、沖繩を正常な姿に復するようにとの日本本土および沖繩の日本国民の強い願望にこたえるべき時期が到来したとの見解を説いた。大統領は、総理大臣の見解に対する理解を示した。総理大臣と大統領は、また、現在のような極東情勢の下において、沖繩にある米軍が重要な役割を果たしていることを認めた。討議の結果、両者は、日米両国共通の安全保障上の利益は、沖繩の施政権を日本に返還するための取決めにおいて満たしうることに意見が一致した。よつて、両者は、日本を含む極東の安全をそこなうことなく沖繩の日本への早期復帰を達成するための具体的な取決めに関し、両国政府が直ちに協議に入ることに合意した。さらに、両者は、立法府の必要な支持をえて前記の具体的取決めが締結されることを条件に1972年中に沖繩の復帰を達成するよう、この協議を促進すべきことに合意した。これに関連して、総理大臣は、復帰後は沖繩の局地防衛の責務は日本自体の防衛のための努力の一環として徐徐にこれを負うとの日本政府の意図を明らかにした。また、総理大臣と大統領は、米国が、沖繩において両国共通の安全保障上必要な軍事上の施設および区域を日米安保条約に基づいて保持することにつき意見が一致した。

7.総理大臣と大統領は、施政権返還にあたつては、日米安保条約およびこれに関する諸取決めが変更なしに沖繩に適用されることに意見の一致をみた。これに関連して、総理大臣は、日本の安全は極東における国際の平和と安全なくしては十分に維持することができないものであり、したがつて極東の諸国の安全は日本の重大な関心事であるとの日本政府の認識を明らかにした。総理大臣は、日本政府のかかる認識に照らせば、前記のような態様による沖繩の施政権返還は、日本を含む極東の諸国の防衛のために米国が負つている国際義務の効果的遂行の妨げとなるようなものではないとの見解を表明した。大統領は、総理大臣の見解と同意見である旨を述べた。

8.総理大臣は、核兵器に対する日本国民の特殊な感情およびこれを背景とする日本政府の政策について詳細に説明した。これに対し、大統領は、深い理解を示し、日米安保条約の事前協議制度に関する米国政府の立場を害することなく、沖繩の返還を、右の日本政府の政策に背馳しないよう実施する旨を総理大臣に確約した。
9.総理大臣と大統領は、沖繩の施政権の日本への移転に関連して両国間において解決されるべき諸般の財政及び経済上の問題(沖繩における米国企業の利益に関する問題も含む。)があることに留意して、その解決についての具体的な話合いをすみやかに開始することに意見の一致をみた。

10.総理大臣と大統領は、沖繩の復帰に伴う諸問題の複雑性を認め、両国政府が、相互に合意さるべき返還取決めに従って施政権が円滑に日本政府に移転されるようにするために必要な諸措置につき緊密な協議を行ない、協力すべきことに意見の一致をみた。両者は、東京にある日米協議委員会がこの準備作業に対する全般的責任を負うべきことに合意した。総理大臣と大統領は、琉球政府に対する必要な助力を含む施政権の移転の準備に関する諸措置についての現地における協議および調整のため、現存の琉球列島高等弁務官に対する諮問委員会に代えて、沖繩に準備委員会を設置することとした。準備委員会は、大使級の日本政府代表および琉球列島高等弁務官から成り、琉球政府行政主席が委員会の顧問となろう。同委員会は、日米協議委員会を通じて両国政府に対し報告および勧告を行なうものとする。

11.総理大臣と大統領は、沖繩の施政権の日本への返還は、第二次大戦から生じた日米間の主要な懸案の最後のものであり、その双方にとり満足な解決は、友好と相互信頼に基づく日米関係をいつそう固めるゆえんであり、極東の平和と安全のために貢献するところも大なるべきことを確信する旨披瀝した。

12.経済問題の討議において、総理大臣と大統領は、両国間の経済関係の著しい発展に注目した。両者は、また、両国が世界経済において指導的地位を占めていることに伴い、特に貿易および国際収支の大幅な不均衡の現状に照らしても、国際貿易および国際通貨の制度の維持と強化についてそれぞれ重要な責任を負つていることを認めた。これに関連して、大統領は、米国におけるインフレーションを抑制する決意を強調した。また、大統領は、より自由な貿易を促進するとの原則を米国が堅持すべきことを改めて明らかにした。総理大臣は、日本の貿易および資本についての制限の縮小をすみやかに進めるとの日本政府の意図を示した。具体的には、総理大臣は、広い範囲の品目につき日本の残存輸入数量制限を1971年末までに廃止し、また、残余の品目の自由化を促進するよう最大限の努力を行なうとの日本政府の意図を表明した。総理大臣は、日本政府としては、貿易自由化の実施を従来よりいつそう促進するよう、一定の期間を置きつつその自由化計画の見直しを行なつていく考えである旨付言した。総理大臣と大統領は、このような両国のそれぞれの方策が日米関係全般の基礎をいつそう強固にするであろうということに意見の一致をみた。

13.総理大臣と大統領は、発展途上の諸国の経済上の必要と取り組むことが国際の平和と安定の促進にとつて緊要であることに意見の一致をみた。総理大臣は、日本政府としては、日本経済の成長に応じて、そのアジアに対する援助計画の拡大と改善を図る意向であると述べた。大統領は、この総理大臣の発言を歓迎し、米国としても、アジアの経済開発に引き続き寄与するものであることを確認した。総理大臣と大統領は、ヴィエトナム戦後におけるヴィエトナムその他の東南アジアの地域の復興を大規模に進める必要があることを認めた。総理大臣は、このため相当な寄与を行なうとの日本政府の意図を述べた。

14.総理大臣は、大統領に対し、アポロ12号が月面到着に成功したことについて祝意を述べるとともに、宇宙飛行士たちが無事地球に帰還するよう祈念を表明した。総理大臣と大統領は、宇宙の探査が科学の分野における平和目的の諸事業についての協力関係をすべての国の間において拡大する広範な機会をもたらすものであることに意見の一致をみた。これに関連して、総理大臣は、日米両国が本年夏に宇宙協力に関する取決めを結んだことを喜びとする旨述べた。総理大臣と大統領は、この特別な計画の実施が両国にとつて重要なものであることに意見の一致をみた。

15.総理大臣と大統領は、軍備管理の促進と軍備拡大競争の抑制の見通しについて討議した。大統領は、最近ヘルシンキにおいて緒についたソヴィエト連邦との戦略兵器の制限に関する討議を開始することについての米国政府の努力の概要を述べた。総理大臣は、日本政府がこの討議の成功を強く希望する旨述べた。総理大臣は、厳重かつ効果的な国際的管理の下における全面的かつ完全な軍縮を達成するよう、効果的な軍縮措置を実現することについて日本が有している強い伝統的な関心を指摘した

[Title] Joint Statement of Japanese Prime Minister Eisaku Sato and U.S. President Richard Nixon
[Place] Washington
[Date] November 21, 1969
[Source] Public Papers of the Presidents: Richard Nixon, 1969, pp. 953-957, A Documentary History of U.S.-Japanese Relations, 1945-1997, pp.789-793.
[Notes]
[Full text]
1 . President Nixon and Prime Minister Sato met in Washington on November 19, 20 and 21, 1969 to exchange views on the present inter-national situation and on other matters of mutual interest to the United States and Japan.
2. The President and the Prime Minister recognized that both the United States and Japan have greatly benefited from their close association in a variety of fields, and they declared that guided by their common principles of democracy and liberty, the two countries would maintain and strengthen their fruitful cooperation in the continuing search for world peace and prosperity and in particular for the relaxation of inter-national tensions. The President expressed his and his government's deep interest in Asia and stated his belief that the United States and Japan should cooperate in contributing to the peace and prosperity of the region. The Prime Minister stated that Japan would make further active contributions to the peace and prosperity of Asia.
3. The President and the Prime Minister exchanged frank views on the current international situation, with particular attention to developments in the Far East. The President, while emphasizing that the countries in the area were expected to make their own efforts for the stability of the area, gave assurance that the United States would continue to contribute to the maintenance of international peace and security in the Far East by honoring its defense treaty obligations in the area. The Prime Minister, appreciating the determination of the United States, stressed that it was important for the peace and security of the Far East that the United States should be in a position to carry out fully its obligations referred to by the President. He further expressed his recognition that, in the light of the present situation, the presence of United States forces in the Far East constituted a mainstay for the stability of the area.
4. The President and the Prime Minister specifically noted the continuing tension over the Korean peninsula. The Prime Minister deeply appreciated the peacekeeping efforts of the United Nations in the area and stated that the security of the Republic of Korea was essential to Japan's own security. The President and the Prime Minister shared the hope that Communist China would adopt a more cooperative and constructive attitude in its external relations. The President referred to the treaty obligations of his country to the Republic of China which the United States would uphold. The Prime Minister said that the maintenance of peace and security in the Taiwan area was also a most important factor for the security of Japan. The President described the earnest efforts made by the United States for a peaceful and just settlement of the Viet-Nam problem. The President and the Prime Minister expressed the strong hope that the war in Viet-Nam would be concluded before the return of the administrative rights over Okinawa to Japan. In this connection, they agreed that, should peace in Viet-Nam not have been realized by the time reversion of Okinawa is scheduled to take place, the two governments would-fully consult with each other in the light of the situation at that time so that reversion would be accomplished without affecting the United States efforts to assure the South Vietnamese people the opportunity to determine their own political future without outside interference. The Prime Minister stated that Japan was exploring what role she could play in bringing about stability in the Indo-China area.
5. In light of the current situation and the prospects in the Far East, the President and the Prime Minister agreed that they highly valued the role played by the Treaty of Mutual Cooperation and Security in maintaining the peace and security of the Far East including Japan, and they affirmed the intention of the two governments firmly to maintain the Treaty on the basis of mutual trust and common evaluation of the international situation. They further agreed that the two governments should maintain close contact with each other on matters affecting the peace and security of the Far East including Japan, and on the implementation of the Treaty of Mutual Cooperation and Security.
6. The Prime Minister emphasized his view that the time had come to respond to the strong desire of the people of Japan, of both the mainland and Okinawa, to have the administrative rights over Okinawa returned to Japan on the basis of the friendly relations between the United States and Japan and thereby to restore Okinawa to its normal status. The President expressed appreciation of the Prime Minister's view. The President and the Prime Minister also recognized the vital role played by United States forces in Okinawa in the present situation in the Far East. As a result of their discussion, it was agreed that the mutual security interests of the United States and Japan could be accommodated within arrangements for the return of the administrative rights over Okinawa to Japan. They therefore agreed that the two governments would immediately enter into consultations regarding specific arrangements for accomplishing the early reversion of Okinawa without detriment to the security of the Far East including Japan. They further agreed to expedite the consultations with a view to accomplishing the reversion during 1972 subject to the conclusion of these specific arrangements with the necessary legislative support. In this connection, the Prime Minister made clear the intention of his government, following reversion, to assume gradually the responsibility for the immediate defense of Okinawa as part of Japan's defense efforts for her own territories. The President and the Prime Minister agreed also that the United States would retain under the terms of the Treaty of Mutual Cooperation and Security such military facilities and areas in Okinawa as required in the mutual security of both countries.
7. The President and the Prime Minister agreed that, upon return of the administrative rights, the Treaty of Mutual Cooperation and Security and its related arrangements would apply to Okinawa without modification thereof. In this connection, the Prime Minister affirmed the recognition of his government that the security of Japan could not be adequately maintained without international peace and security in the Far East and, therefore, the security of countries in the Far East was a matter of serious concern for Japan. The Prime Minister was of the view that, in the light of such recognition on the part of the Japanese Government, the return of the administrative rights over Okinawa in the manner agreed above should not hinder the effective discharge of the international obligations assumed by the United States for the defense of countries in the Far East including Japan.
The President replied that he shared the Prime Minister's view.
8. The Prime Minister described in detail the particular sentiment of the Japanese people against nuclear weapons and the policy of the Japanese Government reflecting such sentiment. The President expressed his deep understanding and assured the Prime Minister that, without prejudice to the position of the United States Government with respect to the prior consultation system under the Treaty of Mutual Cooperation and Security, the reversion of Okinawa would be carried out in a manner consistent with the policy of the Japanese Government as described by the Prime Minister.
9. The President and the Prime Minister took note of the fact that there would be a number of financial and economic problems, including those concerning United States business interests in Okinawa, to be solved between the two countries in connection with the transfer of the administrative rights over Okinawa to Japan and agreed that detailed discussions relative to their solution would be initiated promptly.
10. The President and the Prime Minister, recognizing the complexity of the problems involved in the reversion of Okinawa, agreed that the two governments should consult closely and cooperate on the measures necessary to assure a smooth transfer of administrative rights to the Japanese Government in accordance with reversion arrangements to be agreed to by both governments. They agreed that the United States-Japan Consultative Committee in Tokyo should undertake overall responsibility for this preparatory work. The President and the Prime Minister decided to establish in Okinawa a Preparatory Commission in place of the existing Advisory Cornmittee to the High Commissioner of the Ryukyu Islands for the purpose of consulting and coordinating locally on measures relating to preparation for the transfer of administrative rights, including necessary assistance to the Government of the Ryukyu Islands. The Preparatory Commission will be composed of a represen-tative of the Japanese Government with ambassadorial rank and the High Commissioner of the Ryukyu Islands, with the Chief Executive of the Government of the Ryukyu Islands acting as adviser to the Cornmission. The Commission will report and make recommendations to the two governments through the United States-Japan Consultative Committee.
11. The President and the Prime Minister expressed their conviction that a mutually satisfactory solution of the question of the return of the administrative rights over Okinawa to Japan, which is the last of the major issues between the two countries arising from the Second World War, would further strengthen United States-Japan relations, which are based on friendship and mutual trust and would make a major contribution to the peace and security of the Far East.
12. In their discussion of economic matters, the President and the Prime Minister noted the marked growth in economic relations between the two countries. They also acknowledged that the leading positions which their countries occupy in the world economy impose important responsibilities on each for the maintenance and strengthening of the international trade and monetary system, especially in the light of the current large imbalances in trade and payments. In this regard, the President stressed his determination to bring inflation in the United States under control. He also reaffirmed the commitment of the United States to the principle of promoting freer trade. The Prime Minister indicated the intention of the Japanese Government to accelerate rapidly the reduction of Japan's trade and capital restrictions. Specifically, he stated the intention of the Japanese Government to remove Japan's residual import quota restrictions over a broad range of products by the end of 1971, and to make maximum efforts to accelerate the liberalization of the remaining items. He added that the Japanese Government intends to make periodic reviews of its liberalization program with a view to implementing trade liberalization at a more accelerated pace than hitherto. The President and the Prime Minister agreed that their respective actions would further solidify the foundation of overall United States-Japan relations.
13. The President and the Prime Minister agreed that attention to the economic needs of the developing countries was essential to the development of international peace and stability. The Prime Minister stated the intention of the Japanese Government to expand and improve its aid programs in Asia commensurate with the economic growth of Japan. The President welcomed this statement and confirmed that the United States would continue to contribute to the economic development of Asia. The President and the Prime Minister recognized that there would be major requirements for the post-war rehabilitation of Viet-Nam and elsewhere in Southeast Asia. The Prime Minister stated the intention of the Japanese Government to make a substantial contribution to this end. 14. The Prime Minister congratulated the President on the successful moon landing of Apollo XII, and expressed the hope for a safe journey back to earth for the astronauts. The President and the Prime Minister agreed that the exploration of space offers great opportunities for expanding cooperation in peaceful scientific projects among all nations. In this connection, the Prime Minister noted with pleasure that the United States and Japan last summer had concluded an agreement on space cooperation. The President and the Prime Minister agreed that implementation of this unique program is of importance to both countries.
15. The President and the Prime Minister dis-cussed prospects for the promotion of arms control and the slowing down of the arms race. The President outlined his government's efforts to initiate the strategic arms limitations talks with the Soviet Union that have recently started in Helsinki. The Prime Minister expressed his government's strong hope for the success of these talks. The Prime Minister pointed out his country's strong and traditional interest in effective disarmament measures with a view to achieving general and complete disarmament under strict and effective international control.

2005年11月17日木曜日

【メモ】 暴力団と極道者

 関西にある、大手極道組織には確かに、在日の方もいるのは事実ではある。しかし、今は、隠居をしている元極道者(元組長・会長)の言葉を借りると、確かに「思想闘争」へ向かった連中もいた。しかし、在日の人間は、極道を続けるしかなかった。のかも・・・・。言葉を閉じたのが印象的であった。

ところが、関東の暴力団の枝別れをし街宣右翼に転向をした人間も多いと聞く。さて、どこで手を結んでいるのであろうか。

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20051117#1132163221

1;「日本青年社」は住吉会系小林組を母体とする。

 1-1;136-参-地方行政委員会暴力団員…-2号 平成08年06月06日 http://kokkai.ndl.go.jp/

○有働正治君 警察の方にお尋ねします。

 【日本青年社の最高顧問西口茂男】なる人物は、【住吉会】とはどういうかかわりがありますか。

○説明員(植松信一君) お尋ねの件につきましては、【日本青年社最高顧問西口茂男と住吉会会長の西口茂男については同一人物】と見ております。

96-衆-法務委員会-30号 昭和57年08月19日

○林(百)委員 それから、三月十五日に、【日本青年社】と称する暴力団が五名ほど共産党の本部の勤務員に襲いかかってきて、鉄棒をふるって五名の負傷者まで出している。この【日本青年社】というのは、私の方で調べた範囲では、暴力団の【住吉連合会】系の小林会という会の会長である【小林楠男】という男が、これが小林会の会長でもあり、日本青年社の会長でもある。ここの社員の中村衛というのが仲間四、五人を連れて共産党の本部へ襲いかかってきている。これはテレビでもちゃんと撮って、証拠も残っているわけですけれども、この日本青年社というのは、暴力団住吉連合会系の小林会の会長の小林楠男というのは同時に日本青年社の会長もしており、暴力団の結社であるということは警察庁では認められておるのですか。それで取り調べをしていますか。

 1-2;150-衆-内閣委員会-2号 平成12年10月26日

○松本(善)委員 

 私が伺いたいのは、【住吉会】の最高幹部、【日本青年社】の最高幹部は【住吉会】の最高幹部にもついている、指定暴力団、そうなんですよ。尖閣諸島に上陸をして灯台だとか神社を建てる、政府も遺憾のやり方だ。これはもう日本外交にとっては重大な問題ですよ、こんなやり方をするのは。それで、そのビデオを日本青年社から贈られて、それに対して礼状を出して、それで機関紙の上で七月にでかでかと掲載されて、それで、これは私は本会議で聞いたら、あなたは儀礼的なつき合いだと。あなたはこういう指定暴力団と儀礼的なつき合いをして、官房長官、いいと思っているんですか。森内閣は指定暴力団と儀礼的なつき合いをする内閣ですか。伺います。

 1-3;第2号 平成12年11月1日(水曜日)

○不破哲三君 右翼団体の幹部に政治家としての致命的な弱点を[中川秀直は〕握られたということを言っているわけです。

 この日本青年社というのは、政府公安調査庁が提供した資料によりますと、暴力団住吉会小林会を母体とする典型的な暴力団系右翼団体だと、そう規定をされています。つまり、指定暴力団の中でも悪質度において重点対象団体にされている住吉会の系統だと言われている。

 この日本青年社の幹部が、一九九六年十月に、当時、科学技術庁長官であった中川〔秀直〕氏に内容証明郵便で六項目の質問を送っています。

2;「日本青年社」は「救う会」に参加している。

 2-1;『フラッシュ』 2004年8月17・24日合併号

 現在、新潟には「救う会」か2つあるという異常事態が続いている。〔略〕その中心人物として小島氏が名指しするのが幹事の一人である【水野孝吉】氏だ。水野氏は【民族派団体「日本青年社」】の現役幹部である。

 2-2;

http://www.seinensya.org/undo/kitatyosen/rati.htm

平成12年8月20日(日)

 日本青年社総本部時局対策局(局長・水野孝吉)は「北朝鮮に拉致された日本人を救出する関東協議会」とともに8月20日、東京・銀座でデモをし、北朝鮮の日本人拉致問題の早期解決を訴えた。

 このデモは、同月22日から東京で開催される「日朝国交正常化交渉」に向けて行なわれ、「北朝鮮よ拉致した日本人を返せ!」と書いた横断幕を先頭に「救出する会」関係者を含む250有余名のメンバーが「横田めぐみさんを返せ」「拉致棚上げ反対」と書いたプラカードを持ち参加、東京銀座から日比谷公園までデモ行進した。

 なお横田めぐみさんの両親、横田滋さんと早紀江さんもデモに参加、平沢勝栄衆議院委員、土谷たかゆき都議会議員他、議員連盟の人たちが激励の挨拶を行った。

3;「住吉会」は北朝鮮・金正男と繋がっている。

 3-1;溝口敦「北朝鮮がつくり『ヤクザ』が売る覚醒剤、その密売ルートの全貌」『北朝鮮利権の真相』(別冊宝島)

http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/40c44a80c2a4e0103ca3?aid=&bibid=02329086&volno=0000

〔120pから引用〕

 金正日総書記の長男・金正男にしろ、メンバー数で全国二位の広域暴力団、住吉会系の組と親交していると警察は見ている。〔略〕

 金正男は〔略〕2000年10月と12月には「パン・シオン」という中国人名で日本に密入国し、神奈川県下のビジネスホテルで総連幹部らと接触したという。【住吉会系の中堅幹部がその場に同席】した可能性も指摘されている。

日本の地下経済と北朝鮮との間で取引されるブツとしては、第一に覚醒剤があげられる。

〔121pから引用〕

 我々〔暴力団〕の世界では、シャブ(覚醒剤)の輸入・卸を本業としているような組が道具(拳銃)も世話している。〔略〕警察もこのことはよく知っていて、シャブの密売で捕まえても『道具を出せばシャブのほうは大目に見る』と取引を持ちかけてくる。

〔133pから引用〕

 現在は住吉会、稲川会、松葉会など、関東系の暴力団が〔覚醒剤を〕仕切り、全国に流している。〔略〕

 北朝鮮と日本の地下組織〔暴力団〕とは主に覚醒剤というブツを通して強固につながる。

4;森派の中川秀直は、「日本青年社」に覚醒剤使用疑惑で脅迫され、国会で問題になった。

中川秀直が「右翼」とつきあいがあるかどうかが質疑答弁の中心で、覚醒剤使用疑惑のほうはあまり追及されなかった。また、報道ではなぜか「日本青年社」「滑川裕二」などの名前は伏せられていた。

 4-1;中川秀直官房長官の薬物疑惑

http://www.rondan.co.jp/html/news/0009/000927.html (平成12年9月27日)

 中川秀直官房長官の不倫スキャンダルに絡み、ある民族団体幹部が、科学技術庁長官在職当時の同長官にあてた内容証明のコピーが、夕刊紙に掲載されたが、これは、不倫スキャンダルが発覚する前から永田町界隈に流れていたものだ。ここに当時、これを手にしたマスコミ関係者が触れることができなかった事実がある。それは、薬物疑惑。

 ことの真偽については判断がつかないがこの内容証明の全文を載せる。

 (縦書き原文を横書きにしており「実名」以外は原文のままです。)

━━━━━━━━━━━━━━━ * * * ━━━━━━━━━━━━━━━

前略

 中川先生におかれましては、益々御健勝の事と拝察し、お喜び申上げます。私くし事で誠に恐縮とは思いますが一筆啓上させて頂きます。私は、貴殿とは広島県の呉市で何度か食事をし、選挙も票の売収までして協力したことは、承知している事と思います。 しかし、そういう私に対して、一度ならず二度までも侮辱されたのでは見過ごす訳にはいきません。 よって、平成八年十月十八日までに以下の件について回答願います。

 (1) 中川秀直先生と、「M・T」こと「O・N」(昭・四四・七・二八生)が月々一五〇万円の手当てで、赤坂パークビルヂング二四一二号室で関係していた事。

 (2) (1)件で私がマスコミを行かせたという事。

 (3) 北朝鮮に、日本政府の要人として出発する当日の朝まで彼女を追い掛け回し、彼女の携帯電話に何度も電話をし、又朝六時~七時まで彼女と会っていて、当日朝七時の全日空ホテルの集合に遅れた事。

 (4) 彼女が覚醒剤中毒であるのを知っていながらなんの処置もせず、あまつさえ貴殿も一緒に覚醒剤をうち、赤坂パークビルヂングの物置部屋に覚醒剤を隠し持っていた事。

 (5) 赤坂パークビルヂング二四一二号室のベットの横にあった膨大なファイルは、立場を利用した恐喝の資料である事。

 (6) 彼女がアークタワーズ一四〇八号を借りるにあたって、私を保証人にさせ、その部屋に出入りしていた事。

 以上の件について事実かどうか返答ねがいます。 なき場合は事実として受け取りますので、ご了承下さい。

平成八年十月十四日

千代田区霞が関二 - 二 - 一                            早々

中川秀直先生  

科学技術庁長官

 4-2; 中川官房長官、「右翼〔日本青年社〕と会食」写真誌に 国会で面識否定--野党は辞任要求へ

 中川秀直官房長官の女性スキャンダルに関連し、同長官が右翼団体〔日本青年社〕幹部〔滑川裕二〕とされる人物と会食している写真が、18日発売の写真週刊誌「フォーカス」に掲載されることが17日、分かった。中川長官は国会で、この幹部〔滑川裕二〕との関係について「面識はない」と否定している。野党側は国会答弁がウソだった可能性があることを重視しており、中川長官の辞任を要求する方針だ。 掲載されるのは、右翼団体〔日本青年社〕幹部という人物〔滑川裕二〕とテーブルを挟んで向かい合って座っている写真で、撮影時期は不明という。〔略〕

http://www.mainichi.co.jp/eye/feature/article/nakagawa/200010/18-1.html

[毎日新聞〔2001年〕10月18日]

4-3;第150回国会 内閣委員会 第2号

平成十二年十月二十六日(木曜日)

○長妻委員 〔略〕あなた〔中川秀直〕とその愛人だったと言われている女性との電話での会話、これが テープにあります。読ませてもらいますと、あなたが「ともかく、なにか、覚醒剤で警察も動いているよ、多少」、女性が「私、でも、やってないです。だから来ても、全然関係ないです、私」、そして中川さん、あなたが「警視庁の保安課が動いているから。覚醒剤が確かにあるよ。本当に……」、女性が「エッ、どう言うことですか」、中川さんが「いや、君の関係を内偵しとるちゅうんだよ」、女性が「そうですか。エッ、それはどこの情報ですか?」、あなたが「それは警察情報だよ」、女性が「それは先生が調べた情報ですか」、中川さん、あなたが「そう、私の方の情報だ」、女性が「私、でも絶対そういうことないですから」、こういうような話が、あなた、されているわけですよ。

5;北朝鮮問題がこじれだしたのは、中川秀直が「日本青年社」から脅迫された頃。

森首相の拉致問題発言 中川秀直・官房長官の会見

 森喜朗首相の拉致問題発言に関する23日の中川秀直官房長官の記者会見要旨は次の通り。

◆20日の私の記者会見では、すべて首相自身が発言したかのような前提で話したが、確認した結果、事実は「第三国に拉致された方々がいたことにしたらいい」との発言は、首相自身の発言ではない。首相は、あくまで過去のエピソードとして、3年前の与党3党の訪朝団員であった中山(正暉前建設相)先生が個人的な考えとして述べられたものを(ブレア英首相に)紹介した。

今の首相の考え、政府の方針を言ったものではない。〔略〕

[毎日新聞〔2000年〕10月24日] http://www.mainichi.co.jp/eye/feature/article/nakagawa/200010/24-1.html

6;住吉会は、北朝鮮と覚醒剤密輸を行なっている。

  http://www.nikkei.co.jp/sp2/nt17/20021206AS1GI00J606122002.html

(〔2002年〕12/6)奄美沖で引き揚げの工作船、覚せい剤密輸に関与か

 鹿児島県・奄美大島沖で引き揚げた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の工作船は、1998年に東シナ海で日本の暴力団と覚せい剤の洋上取引をした船と同一とみられることが6日、海上保安庁などの調査で分かった。扇千景国土交通相が同日の閣議後会見で明らかにした。

 同庁などによると1998年8月、住吉会系暴力団の組長らが、日本漁船を使って北朝鮮籍の船と東シナ海上で接触し、覚せい剤計300キログラムを密輸入しようとした。暴力団側は覚せい剤を受け取ったものの、海上保安庁などの追跡に気づいて高知県沖で海に投棄したという。

7;「日本青年社」と自民党は深く繋がっている。

102-衆-予算委員会第二分科会-2号 昭和60年03月08日

 【住吉連合会】の副会長で右翼団体の【日本青年社】の会長である小林某が開きました昨年五月の会合に、【岸元首相】や【田中角榮元首相】などの花束が並んでおりまして、これも国民の目から見たらいかにも異なものであります。さらに、八〇年十月に出されておりますが、右翼暴力団である青思会の雑誌「青年思想」という、この青思会の雑誌には、【中曽根】総理、当時は総理じゃありませんけれども、青思会議長の高橋という人物と一緒に写真を写して、それがその雑誌に載せられているわけです。

8;「暴対法によって暴力団が力を失った」という俗説があるが、暴対法以後、三大暴力団(山口組、 稲川会、住吉会)はむしろ他の暴力団を併合し、勢力を伸ばしている。

8-1;

http://jbbs.livedoor.com/bbs/read.cgi/study/1274/1073730886/10-13

http://jbbs.livedoor.com/bbs/read.cgi/study/1274/1073730886/r21

カプラン&デュプロ『ヤクザが消滅しない理由。』不空社、2003年

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4900138762/qid=1073811971/sr=1-7/ref=sr_1_2_7/250-5109701-4238622

によると、(342p-345p)

 A;91年施行された暴対法により、暴力団組織が多数「解散」した、数千人の組員が離脱した、という報告を、警察は吹聴した。新聞には医者が刺青を取り除いた話、切断された小指の代わりにつま先を移植したという記事が掲載された。

 B;暴力団から「離脱」した者は「準構成員」となり、「正規」構成員より多くの犯罪にかかわるようになった。

 C;暴対法を乗り切るための法的金融的手段を提供した大手犯罪組織は、それ以前より強化された。

山口組・稲川会・住吉会は、全ヤクザの45%から65%へと正規組員のシェアを拡大した。

 D;山口組は組員へ『新しい法律のくぐり方』というマニュアルを発行し、116の提携暴力団に会社を設立せよと指示をファクスした。山口組本部は株式会社山輝となり、不動産・ゴルフ場経営・美術品を扱った。

稲川会本部は稲川興業となり、大野組はカルチャーセンター・結婚式場・葬儀場・老人ホーム・建設業・不動産の株式会社となった。また、多くの暴力団が「右派政党」として登録し直し、ある暴力団は宗教団体

the Church of Peace and Morals を引継ぎ、親分を司祭に据えた。

 E;暴対法は、ヤクザを海外・とくにアジアへ進出させる刺激となった。

暴力団は警察との協力を休止する宣言をした。

 8-2;暴力団員が8年連続増加 3団体で7割超す

 全国の暴力団の組員と準構成員の総数が昨年末現在、8万5800人となったことが21日、警察庁のまとめで分かった。前年同期比500人増で8年連続で増加した。

 警察庁によると、組員は前年より800人増えて4万4400人、準構成員は300人減って4万1400人。主要な指定暴力団3団体の人数は、山口組3万8100人、稲川会9600人、住吉会1万2500人。前年比で計1400人増えたが、このうち山口組が1200人を占めた。総数に占める3団体の割合は85年には24・8%だったのが、89年には43・2%に、93年には64・5%と寡占化が進み、昨年は70・2%と初めて7割を超えた。組員と準構成員の総数は1990年代初めは9万人を超えていたが、92年の暴力団対策法施行に伴い、95年には7万9000人台まで減少、その後再び増加している。(共同通信)[1月21日18時18分更新]

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040121-00000160-kyodo-soci

 8-3;全国の暴力団8万5800人…山口組は関東で勢力拡大

 全国の暴力団組員や準構成員の人数は昨年末現在、8万5800人に上り、前年同期に比べ500人増えたことが、警察庁のまとめでわかった。組員らの総数は8年連続で増えているが、中でも関西を拠点とする山口組が関東を中心に1200人も増加、勢力の拡大が目立っている。

 警察庁によると、組員は前年より800人増えた4万4400人。1995年以降、増加傾向にあった準構成員は300人減り、4万1400人だった。

 このうち、暴力団対策法に基づく指定暴力団が9割を超え、山口組、稲川会、住吉会の3団体では、1400人増の6万200人となった。全体の70・2%にあたり、61・7%だった92年の暴対法施行以前に比べ、寡占化が進んでいる。

 稲川会(9600人)や住吉会(1万2500人)がほぼ横ばいだったのに対し、山口組は3万8100人と1200人も増えた。特に、関東では組員だけで200人増加し、関東での勢力を2800人に拡大。

栃木県で対立抗争を起こすなど、関西に本拠地を置く山口組の関東進出が活発化している。

警察庁では「資金獲得の活動をやりやすくするため、住吉会や稲川会以外の小さな組が、山口組の勢力をあてにしてくら替えする動きが目立つ」としている。(読売新聞)[1月21日20時32分更新]

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040121-00000014-yom-soci


2005年9月28日水曜日

【マスメデイア】 電通研究

 この記事のソースは不明。

電通の研究part.1

メディアの支配者

世間に禁忌は数あれど、「電通」ほどマスコミが避けて通るものは稀有なのではないでしょうか。この電通タブーの特徴は、普段はかなり危ない話を取り上げる週刊誌でも、殆ど記事にしないことです。

そのため、電通は、誰しも「名前は聞いたことがある」大企業にもかかわらず、その実態を知るものは極めて少数となっています。

しかしながら、電通タブーをかいくぐって、世間でまことしやかに語られる噂があります、それは「電通がマスコミに対して決定的支配力を持ち、政府と結託して世論操作に邁進している」というものです。そんな噂はどこまで事実なのでしょうか。まっとうに考えれば、広告代理店がテレビやクライアントを上回る力を持つというのは俄かに信じ難いものがあります。

そこで、電通の本社に目を移してみましょう。電通の本社は、開発目覚しい新橋・汐留地区の中核に位置する48階建の複合超高層ビル、カレッタ汐留にあります。電通ビルの通称で呼ばれるこのビルは鋭利なシルエットで広く知られている、汐留地区の新たなシンボルです。電通は同ビルの地下5階から地上45階までをオフィスとして利用しており、その他の部分は商業施設が入居しています。

電通ビルは高さで向かいの日本テレビタワーを圧倒しており、汐留地区全体でも汐留タワーに続いて2番目の高さです。広告代理店ビルが広告主やマスコミのビルより巨大であるという事実が、電通の力を物語っています。

どうやら「電通タブー」には幾許かの真実が含まれているのではないかということを強く感じさせる風景です。端的に言えば、「そこまで儲かるのか」という疑問です。

そこで本ブログでは、東京の中心・汐留に電通ビルという「富の象徴」を打ち立てた電通の資金力・支配力の源泉と、「電通タブー」の真偽を解明して行こうと思います

国家総動員体制

電通の前進となる日本広告及び電報通信社は、いずれも1901年に創業されました。両社は日清戦争に記者として従軍した経験から、日本における本格的な通信社の必要を感じていた光永星郎によって設立された姉妹会社で、日本広告が広告部門、電報通信社がニュース部門です。

電報通信社は1906年に日本電報通信社として再編された後、1907年に日本広告と合併しました。社名は変わらず日本電報通信社です。

当時広告業は新興産業であり、日本電報通信社は明治末までに業界最大の企業として確固たる足場を築きました。とはいえ、当時は広告代理店・通信社ともに各地に乱立しており、日本電報通信社はそれらの中の一大企業に過ぎませんでした。

例えば、1890年創業の萬年社や、1885年創業の博報堂は電通よりも歴史が古く、昔から新聞広告を幅広く手がけていました。

そして、もちろんそれらのなかには日本電報通信社と肩を並べる規模のものも存在していました。1926年に国際通信社と東方通信社が合併して設立された日本新聞聯合社は、当時日本電報通信社と並ぶ二大通信社と呼ばれていたのです。

しかし、この状況は満州事変後大きく変化することになります。ナチスドイツ流の産業統制である一業一社体制がもてはやされ、国家総動員の名の下で国内産業への統制が強化されて行きました。

情報という重要な産業を扱う通信社・広告代理店業は真っ先に再編の対象になりました。戦争継続には報道管制と世論操作が不可欠だからです。

日本新聞聯合社と日本電報通信社は統合再編を強いられました。具体的には、1936年に両社の通信部門は日本新聞聯合社に移管した上で社名を同盟通信社に変更する一方で、両社の広告代理店部門は日本電報通信社に移管されたのです。この再編こそが、戦後の電通の支配力を生んだ端緒となりました。

さらに太平洋戦争中にも、更なる零細通信社・代理店の強制的な再編が行われ、これによりニュース=同盟通信社、広告=日本電報通信社という独占体制が完成しました。同時期、新聞も「一県一紙運動」で整理統合が進められた。今日に至るメディアの寡占化の始まりである。

日本の情報収集の特徴として政府情報機関と記者の連携の強さがあります。

このことは戦時中の大陸でも遺憾なく発揮され、同盟通信は南方の通信機器の独占使用や対外謀略放送の任務を軍部から託され、事実上軍部の国策の手足となって大本営発表を流し続けていました。

一方で、日本電報通信社は日本電報通信社で、広告のノウハウを生かして占領地で特務機関まがいの活動を行っていたとされ、軍部と密接な動きを見せていました。

大陸で特務機関を組織していた大物としては、真っ先にフィクサー児玉誉士夫が思い出されますが、日本電報通信社・後の電通は戦時中、会社自体がフィクサー児玉と同じ事をしていたわけです。

1945年、太平洋戦争は日本の敗戦に終わります。

それでは、独占企業+フィクサーとしての同盟通信・電報通信社の支配力は、戦後どうなったのでしょうか。

電通の研究part.2

財閥解体

戦後、同盟通信と日本電報通信社は対照的な運命を辿りました。

同盟通信は、GHQに戦時中の対外放送や独占的ニュース配信を嫌気され、占領下では厳しい検閲を受けました。更に、同時期には大手新聞三社による同盟潰しの策略もあり、結局同盟通信は、1945年10月末をもって「社団法人共同通信社」と「株式会社時事通信社」に分社化されました。

旧同盟通信の事業のうち、共同通信社が新聞紙への新聞通信事業、時事通信社が一般読者への時事通信・出版事業を承継する一方、同盟の系列会社だった、通信社史刊行会・同盟通信社印刷所・同盟技術研究所・財団法人同盟育成会などは各々独立企業として同盟の傘下を離れました。

このように、同盟通信は実質的に財閥解体の憂き目に遭いました。

一方で、日本電報通信社は戦前の準特務機関としての性格を生かし、政府・GHQに食い込むことに成功します。1947年に社長が公職追放に遭い、新社長に「鬼十則」で有名な吉田秀雄が就任すると、この動きはさらに加速しました。

吉田は満州や上海から引き上げてきた、旧軍人・満鉄関係者を電通に大量に採用します。彼らは広告のノウハウを持っていたわけではなく、電通で実質的にフィクサーとしての活動を行っていました。大陸人脈や政財界との近さ、そしてCIAとの関係など、彼らはミニ児玉・ミニ笹川の集団だったと表現しても過言ではないでしょう。

電通が時として、名高い「満鉄調査部」の後身と呼ばれるのはこのような背景に基づいているのです。

この社長吉田秀雄は、戦後の「大電通」を確立させた功労者です。電通の「フィクサー化」だけに留まらず、アメリカ式広告法の導入などの、電通近代化を推し進めました。

更に電通は1951年に放送を開始した商業ラジオや、1953年に本放送が始まったテレビ放送にもいち早く着目しました。当時誰しも懐疑的だったラジオ・テレビ広告の事業開拓を行い、社長の吉田自らも免許申請を行うなど、多くのラジオ局・テレビ局の設立に関与したのです。実際、吉田は幾つかの放送局では取締役に就任しました。その中でもTBSは吉田の関与が深く、現在でも民放の中で最も電通と親密だと言われています。

結局、ラジオ・テレビ化の流れにいち早く対応できた電通、そして少し遅れて進出した博報堂が、戦後広告業界の1・2位として固定し続けることになりました。50年代始めは、現代の広告代理店業界地図の枠組みが出来上がった時期といえるでしょう。

二人の吉田

52年10月の総選挙で自由党・吉田茂首相は電通にキャンペーンを依頼。このことが発端となり、電通と吉田茂、ひいては電通と自民党の関係が深まります。これによりもともと旧軍が中心だった電通の人脈は政党政治家にも拡大し、電通は反共・安保擁護のための保守体制に組み込まれることになりました。

さらに吉田茂を介した政界浸透や、電通で採用していた旧軍人・満鉄関係者の公職追放解除に伴う政府要職復帰、コネ採用による有力者の子弟の取り込みなどにより、電通人脈は更に強力に日本中に張り巡らされました。

こうした社長吉田秀雄の人脈戦略は大きな成功を収め、電通は総理府の宣伝予算をほぼ独占することに成功します。そのことは、電通に政府のフロント企業としての性格を与えました。

電通・吉田秀雄の、日本政府・CIAとの関係は、読売新聞・正力松太郎に似ているといえるでしょう。
とは言っても、この時期は東西冷戦の下で安保闘争に見られるように、国内世論は保守・革新で激しく割れていました。

少なくとも50~60年代に関しては、電通が政府関係の宣伝を受注しているからと言って、「政府・電通の世論支配」とは程遠い状況にあったといえるでしょう。また程遠かったからこそ、政府は電通を必要としたともいえます。 

ところで、敗戦により解体された財閥は、朝鮮戦争以降の「逆コース」の中で、企業集団として徐々に復活していました。

財閥解体は1947年の第五次指定を最後として終了する一方で、1954年には三菱商事、1959年に三井物産、1952年には住友銀行が再建されるなど、一度は解体したはずの財閥系企業が続々と社名を元に戻し始めたのです。戦前の財閥は持ち株会社を核としていたのに対し、戦後の企業集団は銀行・商社を核とした融資関係とグループ内の株式持合いを基本としていました。

旧同盟通信・日本電報通信社もこの動きの例外ではなく、電通・共同通信・時事通信はお互いの株式を持ち合い、事実上のグループ再結成に動きました。

これにより電通グループは通信社事業と広告企業を束ね、再び寡占状態に復帰します。

戦争に負けてもしぶとく生き延び、かえって前よりも力を増した電通。しかし、その巨大化に伴い、社会には再び独占の弊害が生じ始めるのです。

電通の研究part.3

電通の横暴

1955年、森永乳業の粉ミルクに砒素が混入する事件が発生しました。世に言う砒素ミルク事件です。

砒素混入の原因は、牛乳を粉末化する際に安定剤として使っていた二リン酸ソーダに砒素が混ざっていたことにあり、この事件による死亡者は138人、被害者は1万人以上を数えました。

電通はクライアントだった森永を守るため報道統制を行い、後にそれが明るみに出ます。この事件において、電通は世論の激しい非難を浴びました。

なぜ電通がメディアの報道を統制できたのでしょうか。

それは、51年に新聞用紙割当統制が解除された結果、新聞紙の自由競争時代に入り、新聞社・雑誌社間の広告獲得競争が厳しくなったことに関連しています。逆説的ですが、競争が激しくなった結果として多くのメディアは電通の存在に依存し、自力での広告獲得能力を失ってしまったのです。

電通の支配力は当然雑誌にも及んでおり、現在でも電通の批判記事を出せるのは「週間金曜日」「bubka」など電通の広告に依存しない独立系の雑誌だけである。

これはどういうことかというと、電通は広告主の「宣伝」「媒体探し」「広報対策」を引き受ける一方、マスメディア側の「広告集め」「広告主対策」なども一手に引き受けていたため、そういった広告業のノウハウ・情報が一元的に電通に集まってしまったのです。そのため、新聞社の中には、朝日新聞のように電通と資本関係を結んで緊密な関係になるものまでありました。

こうなった原因は、ひとえに電通があまりにガリバーになりすぎたことにあります。さらに、関連会社の共同通信・時事通信が新聞記事のネタ元になる通信記事を配信しており、広告だけでなくニュースにおいても寡占状態にあることがこれを後押ししました。

その上、メディアは本格的なテレビ時代を迎え、徐々に放送内容への介入が当たり前のことになって行きます。1965年には大正製薬が風邪薬ショック死事件を起こし、電通がまたもや報道管制に動いたことが明らかになりましたが、今度は大きな問題にはなりませんでした。

結局のところ、これはテレビ時代に独特の現象だと思います。最近ではNHK-朝日事件(これは誤報のようですが)やオウム真理教-TBS事件、古くは田秀夫事件など、諸勢力による放送介入は枚挙に暇がありません。

活字メディアに比べて圧倒的訴求力と寡占力を持つテレビ・メディアは管制・介入の必要性が高いということなのでしょう。

このように、報道介入はテレビの普及とともに政治・企業・宗教団体などにより幅広く行われるようになったので、とりわけ電通に特有のことではありません。

世間では往々にして電通の報道介入を「世論操作」と呼んでいますが、それはあくまで「メディア対応」の一環の普通の企業活動とも言え、その評価は難しいところです。

国策ビジネス

1964年、電通は東京五輪の広告主の協賛活動の支援を行い、国策イベントたるオリンピックに深く関与しました。電通はこの経験によってスポーツビジネスの可能性を開拓。80年のロスオリンピック以降、五輪そのものが商業化したことと併せて、スポーツビジネスを確立させました。

1997年の冬季オリンピックでも、電通は逮捕された西武の堤・元会長とともに長野五輪誘致に奔走したのは記憶に新しいところです。

ここで電通が諸権利を有するスポーツ大会の一部を見てみましょう。 (参考1) この図表を見る限り、電通はオリンピック、ワールドカップ、アジア大会、世界陸上、世界水泳など、テレビ放映している主だったスポーツ大会はほとんどカバーしています。

ソ連がスポーツに力を入れていたり、ヒトラーがベルリンオリンピックを開催したことからわかるように、スポーツは高度に政治的なイベントです。スポーツ大会への関与は電通と政府の関係をますます強固にしました。

とりわけ、電通が2002年のワールドカップに参加したことは、電通と韓国キャンペーンの開始の端緒として注目に値するところです。

一方で、電通は博覧会という新たなイベントにも関与を深めました。1970年大阪万博を皮切りに、電通は沖縄海洋博覧会・つくば科学万博・大阪花博に参画。直近では愛知万博も電通が取り仕切りました。

愛知万博(愛・地球博)は一応成功裏に終わったことになっていますが、この成功の背景には「電通」と「トヨタ」の二大企業のタッグがありました。

ご存知のように報道管制力を持つ電通と、巨額の広告費を持ち批判はクライアントタブーであるトヨタ自動車が組めば、マスコミは完全に黙ります。実際、期間中には万博への批判的意見は完全に鳴りを潜めていました。

EXPO 2005 愛・地球博

こうした、大規模イベント開催は電通の新たなビジネスの柱となりました。大規模イベントはほぼ例外なく、国・地方自治体・民間企業力をあわせての開催です。電通の国策色はますます強まっていきました。

そんななか、電通は1973年についに取扱高世界一を達成し、1975年には取扱高が3000億円を突破。高度成長の風を受け、電通は名実ともに巨大資本としてマスコミ界に君臨したのです。

ところで、話は少し戻って1970年。東京オリンピック・大阪万博を終えた日本に一人の天才政治家が現れました。この男の首相就任によって、日本のマスコミのあり方は大きく変容することになります。

電通の研究part.4

帰ってください、記者の諸君 「僕は国民に直接話したい。新聞になると、文字になると違うからね。僕は残念ながら、そこで新聞を、さっきも言った様に、偏向的な新聞は嫌い、大嫌いなんだ。だから直接、国民に話したいんだ。テレビを大事にする。そういう意味でね、直接話をしたい。これ、ダメじゃない。やり直そうよ。帰ってください。記者の諸君。」

現職首相の「記者は出て行け」発言に、並みいる新聞記者は席を立ち、後にはテレビカメラとクルーだけが残りました。

これは1972年6月、佐藤栄作首相の引退記者会見の様子です。

佐藤は7年8カ月に渡った長期政権に終止符を打ち、首相の座を降りました。佐藤栄作はその長期政権ゆえにマスコミからの批判も絶えず、その在任中はマスコミとの軋轢が絶えませんでした。佐藤の恨みは、こうして辞任の記者会見で爆発することになったのです。

この頃、多くの新聞は反政府的な論調をとり、リベラルを謳っていました。そのため、時として新聞は自民党の政治家と骨肉の争いを繰り広げました。佐藤栄作が新聞を嫌った理由はこの点に尽きます。

一方で、テレビは電波法を盾とした政治介入や、免許制の特性などにより、良くも悪くも権力と緊密な関係にありました。もちろん、テレビもはじめから政治権力に従順だったわけではありません。1960年代、ベトナムや学生運動などのテレビ報道を巡って田秀夫事件・TBS事件など様々な事件が生じ、テレビ-政治のいざこざの末にテレビが一歩引いた形になったのです。

このテレビ統制の裏で暗躍したのは、佐藤内閣で大蔵大臣・通産大臣を務めた田中角栄でした。マスコミ統制の必要さを天性の政治センスで感じていた角栄は、マスコミに対してアメとムチによる懐柔策をとり続けていたのです。

田中角栄は1972年に佐藤の後を受け首相の座に着くと、懸案であった活字メディアの懐柔に乗り出します。有名な「軽井沢事件」や、新聞-テレビ局の資本ねじれの整理などを行い、角栄は新聞を含めたマスコミをアメとムチでがんじがらめにして行きました。

角栄のメディア懐柔策には、マスコミのクライアント・タブーの弱点に着目した広告出稿戦略も含まれていました。

電通はこのことに目を付け、1972年に第九連絡局を立ち上げ、政府関連の広報予算獲得に奔走します。電通の主目的は「B層」を可能な限り増やすというのが基本戦略です。


もともと国策企業としての政府との距離の近さもあり、電通は総理府・自民党の広報予算の多くを獲得すること成功しました。中でも、とりわけ自民党の広報予算は電通が独占的に受注することになります。
いわゆる「政府広報」などの御用広告のこと。他に、1971年設立の公共広告機構(AC)も政府関連。

この時期までには、電通は自民党の選挙運動も請け負うようになりました。電通はますます権力との癒着を深めて行ったのです。

麻生の時も「オタク層」や「オタク予備軍」をこの「B層」に加え、麻生自民党に投票させるという基本戦略は変わりません。ただ「いかにも劇場選挙」というしらじらしい方法ではもはや効果がないのは明らかなので、今度は「ジワジワ」と麻生のプラスイメージの映像を流す、という戦略に入ります。

なぜ電通、そして今回の筋書きを書いている黒幕がこんなに手のこんだことをするのか。一体なぜここまでして自民党に勝たせようとするのか。

実は電通も今回の黒幕も今度の選挙は民主党に勝たれては絶対に困る事情があるのです。その最大の理由は民主党代表の小沢一郎という人物の存在です。

この小沢一郎、かの田中角栄の秘蔵っ子として有名ですが、田中角栄が自分のノウハウを全て教え込んだ政治家でもあります。実はこの田中角栄はメデイアのコントロールの達人でした。

更に自民党が広告出稿により電通を抑えたことは、政府のメディア戦略上大きな意義がありました。これにより新聞を抑えただけでなく、記者クラブ制度では押さえが利かなかった雑誌・週刊誌メディアへも政府が間接的に影響力を行使できるようになったのです。

マスコミいまだ死なず

田中角栄の絶頂期、マスコミは角栄を「平民宰相」として称賛していました。これはまさに角栄流のメディアコントロールの成果といえるでしょう。しかし、力で抑えた権力は崩れるのも早いものです。

1974年、文芸春秋11月号に乗った二本の記事が瞬時に田中政権を打ち倒しました。一本は立花隆「田中角栄研究~その金脈と人脈」、もう一本が児玉隆也「淋しき越山会の女王―もう一つの田中角栄論」です。

この記事が口火となり、抑えていたはずのマスコミは、角栄に対して火を噴きました。角栄の金脈問題に世論の批判が集中。1974年10月26日には田中内閣が退陣に追い込まれます。

この一件は、マスコミの性質を端的に表しています。マスコミは普段は権力による支配・介入を受け入れても、いざ報道の口火が切られればタブーは氷解し、雪崩式の報道を行うのです。

マスコミのこの性質を理解しないと電通問題の理解は難しいでしょう。普段マスコミは、クライアント・電通のタッグによる不祥事隠しや、自民党・電通のタッグによるプロパガンダを甘受しているかも知れませんが、必ずしも彼らに従順なわけではないのです。

更に、角栄式メディア支配は彼に属人的な性質も強く、田中角栄失脚後は政府のメディア支配力が急低下しました。

もちろん、官庁ソースに頼るマスコミの報道姿勢は大問題ですし、クライアントタブーの強固さを物語る事例には事欠きませんが、これをもって「日本マスコミは政府・電通の支配下にある」と断ずるのも早計だと考えられます。

そもそも自民党内や与野党間、はては省庁間の政争もそれぞれに新聞がついて複雑な背景の下、報道がなされています。大元になる「政府」自体が一枚岩でない以上、自ずとメディアコントロールにも限界があるというものです。

例えば、テレ朝報道局長の発言が問題になった椿事件を取り上げてみましょう。この事件は時に「言論介入事件」と指摘されていますが、事の真相はもっと単純です。椿氏の発言がリークされたのは自民擁護派=産経・読売、細川政権派=朝日の路線対立が表面化した結果であり、要するにただの権力闘争なのです。

電通・自民党のマスコミ支配力。それは「あるようでない」「ないようである」という複雑な性質を持っています。

電通の研究part.5

第二の国策企業

東急エージェンシーという会社があります。設立は1961年。後発企業ながら、現在広告代理店業界4位の地位を保っています。東急エージェンシーは、東急グループ総帥五島昇の肝煎りで設立された経緯があり、膨大なグループ企業の仕事を引き受けて急速に発展したのです。

この東急グループ、そして東急エージェンシーこそが、80年代日本の立役者の一人でした。

80年代当時、日本には「六大企業集団」と呼ばれる準財閥がありました。六大とは通常、三井・三菱・住友・芙蓉・一勧・三和の6つを指します。

六大企業集団概観

(1980年代時点)

集団名 銀行 商社 主要企業
三菱 三菱銀行 三菱商事 三菱重工
三井 三井銀行 三井物産 東芝
住友 住友銀行 住友商事 NEC
芙蓉 富士銀行 丸紅 安田火災
一勧 第一勧銀 伊藤忠 古川電工
三和 三和銀行 日商岩井 積水ハウス

当時東急グループはライバル西武と共に第七の企業集団を目指して躍進を続けていました。更に総帥五島昇は日本商工会議所会頭まで務め、東急グループの財界での地位も確固たるものになりました。東急グループ初代総帥五島慶太は、乗っ取りを辞さないその強引な経営姿勢を「強盗慶太」と揶揄されていた。一方で、五島昇はそういった手法を嫌った。

東急グループの隆盛の要因は、総帥五島昇と当時の首相中曽根康弘の個人的コネクションにありました。二人は東京帝国大学の同級生で、中曽根政権時代、多くの政治関連案件が東急グループに持ち込まれたのです。中曽根内閣の目玉の一つだった「建国記念の日を祝う式典」への首相出席でも、五島昇は建国記念の日を祝う会会長として中曽根を助けました。

更に中曽根は行財政改革推進アピールの依頼先として東急エージェンシーを選び、様々な活動を行わせました。その中には官製圧力団体・デモによる改革推進の訴えかけや、出版活動による世論誘導も含まれていました。例えば、東急エージェンシーは御用評論家である竹村健一に「改訂版・前川レポートの正しい読み方」なる本を自社から出版させたりしています。

それでは東急エージェンシーの躍進の前で電通は何をしていたのでしょうか。

実は東急エージェンシーはさほど電通の脅威にはなりませんでした。その理由は、東急エージェンシーの業務範囲にあります。東急エージェンシーの売り上げの半分はSP(販売促進)関連であり、電通が主力としている四媒体(テレビ・ラジオ・新聞・雑誌)の広告には必ずしも積極的ではなかったのです。

また、電通が連絡局を介して官僚から仕事を取るのに対して、東急エージェンシーは首脳間のやり取りに負うところが大きい受注の構造でした。そのため1987年に中曽根が首相を退き、89年に五島昇が死去すると東急エージェンシーは再び政治宣伝の一線を退くことになるのです。

ちなみに現在では、中曽根は電通の顧問に納まっています。

少し古いデーターだが03年度の広告宣伝費上位をいくつか並べます。

1.トヨタ自動車(949億円)
2.松下電器産業(667億円)
3.本田技研工業(592億円)
4.花王(588億円)
5.KDDI(550億円)
6.日産自動車(430億円)
7.サントリー(333億円)
8.アサヒビール(312億円)
9.ベネッセコーポレーション(307億円)
10.高島屋(302億円)
11.スズキ(301億円)
12.キリンビール(300億円)
13.イトーヨーカ堂(298億円)
14.シャープ(293億円)
15.キャノン(292億円)
16.イオン(289億円)
17.富士重工業(271億円)
18.マツダ(235億円)
19.三越(229億円)
20.セブンイレブンジャパン(228億円)

※ 三菱自動車が02年度は約400億円で7位だったが、03年度には100位にも入っていないとのこと。


広告代理店は、これら企業から企画費、制作費、報酬などを受け取る。そしてメディアに広告料金を払う一方で、取引手数料として報酬を受ける。(電通社員の平均年収は、40歳で1300万円強)

03年、ホンダ、日本マクドナルドという企業が、博報堂・ADKなどの複数社の扱いから、事実上、電通の一手扱いになった。ホンダを電通にとられた博報堂では「ホンダチーム」が解体された。また、04年には、セブンイレブン・ジャパンが、東急エージェンシーから電通に移った。


さて、電通の“天皇”が成田豊という人物。1993年から社長・会長を歴任し、電通の株式上場、新社屋建設などを成し遂げ、02年まで電通の代表取締役会長を務めたのち、現在は電通グループの会長と電通の最高顧問を務めている。成田はTBSの役員でもある。

下記の図は、2009年の媒体別の売上である

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ガリバーの肖像

電通第9代社長、成田豊は通称「電通の天皇」として知られています。成田は1993年から電通の社長・会長・最高顧問を歴任した辣腕経営者で、2001年に電通上場を果たし、汐留に新社屋を建設するなど現在の電通の一段の隆盛に一役買っています。

情報化・ソフト化に対応し、成田は電通の総合的なマーケティングコミュニケーション化を推進しました。これは端的に言うと、CMだけに依存しない広告代理店作りであり、その先進性は高く評価されています。

一方で、成田時代の電通では色々な問題が吹き出ました。

有名なところでは、99年の噂の真相にも掲載された暴力団との関係です。内容は電通の孫会社が暴力団と共同でイベント会社を設立したというもので、設立に当たって電通幹部の関与があったことが囁かれました。また、山口組との関係が取りざたされるバーニングプロダクションも電通がバックにあると指摘されています。

さらに、社内では麻薬・レイプ・過労死などの問題が定期的に持ち上がり、その体質が一部に問題視されるなどしています。

しかし、電通のメディア支配力は近年さらに強化されているのでこうした問題はあまり語られることはありません。というのも、90年代には電通のメディア支配力の源泉は前述の広告斡旋だけでなく、視聴率も含まれるようになったからです。


90年前後に確立した視聴率至上主義の番組構成は、電通の意向があったと言われています。視聴率調査会社ビデオリサーチは電通の子会社なので、電通は視聴率を掌握することにより間接的に番組操作が可能になるのです。これにより、電通のメディア支配は一段と強化されました。

こうして民間商業言論ベースでは、電通は完璧に近い支配体制を敷いたので、平時には電通の不利なニュースが喧伝されることはほとんどなくなりました。

「コネ入社」で有名な電通社員には、経済界・政界・マスコミ・文化人・皇族など各界の幹部・著名人・重鎮の子息がズラリと並ぶようだ。

例えば、サラ金広告解禁に当たって、水面下で電通の武富士への助力があったことなどはほとんど報道されていないことが象徴的でしょう。


86年4月にテレビ東京が踏み切ったのをきっかけに、各放送局が自粛していた消費者金融の広告・放送が解禁された。最後まで自粛していたTBSも2001年から流している。新聞でも、最後まで抵抗していた朝日新聞が結局は解禁した(このときの電通側の人物が成田豊)。

消費者金融の最大手である「武富士」の年間広告費は、02年度が151億円もある。この大半を電通が取り扱っている。電通の“天皇”成田と、武富士の創業者である“天皇”武井保雄は、一緒にゴルフをする仲である。
ここ数年は、テレビを観ていてコマーシャルになると、消費者金融のコマーシャルが溢れているが、その背景には電通がいるという「当たり前」のことを読み取って欲しい。


武富士は、武井会長が盗聴で 有罪確定となる前から、1部のマスコミに「盗聴疑惑」で叩かれたが、電通は「武富士報道潰し」に動いていた。03年初めころ武井に頼まれた成田は、4月に電通から数人を武富士に送ったという。

しかし、03年12月2日に武井が逮捕されたことによって、武富士のCM放送中止が相次ぎ、在京の民放各局は同日2日、広告代理店などの要請で、同社CMの放送を当面取りやめる方針を相次いで決め、同日以降のCMを差し替えた。武富士側も、世間を騒がせたとして、しばらくの間、新聞広告やテレビCMを自粛すると発表した。

最近になってどうやらこの武富士のCM自粛も解禁され、再び放送されることがすでに社内では決定しているらしい。で、これを許したのが、奥田が会長を務める日本経団連という構図みたいだ。武富士が使う莫大な広告費を扱うのが電通なのだから、ここに電通の影が私には見える。

ジャーナリスト宅盗聴事件に端を発する一連の事件。警視庁の幹部が武富士から商品券を受け取っていたとの疑惑が報道されたが、立ち消えになった。武富士は電通の有力クライアント。

これも警察庁の意向あってこそです。電通が国策プロパガンダの片棒を担いでいることは間違いありませんが、その力は巷で噂されるほど絶対的なものではないのかもしれません。


さて、04年8月20日、東京の築地本願寺で田原総一郎の妻の通夜が営まれていた。ここには小泉首相をはじめとする政財界の有名人、「サンデープロジェクト」の出演者などがかけつけていた。もちろん“電通の天皇”成田豊の姿もあった。しかし成田の場合は、この葬儀を仕切る「葬儀委員長」として築地本願寺にいたのであった。つまりこれは、田原総一郎と成田豊は親密な関係であるということなんだろう。

田原は次のように言っている。

「成田さんには僕が頼んだ。なぜかというと、顔が広いから。まさか政治家に頼むわけにはいかないし、いろいろな人が来た時に、彼ならみんな知っているだろうし、あいさつができる人がいいと思って頼んだ。ただし電通で来たのは成田さんだけ。具体的に仕切ったのはテレビ朝日のスタッフだった」


テレ朝といえば「ニュースステーション」が思い浮かぶが、この番組のスポンサー獲得も、全面的に電通が行なっているようだ。

あらゆる番組で、電通がスポンサーを獲得・手当てし、視聴率の分析を行ない、スポットCMを売り、基本構想をつくるという図である。

各局の広告収入における、電通の占有率を見ると、TBS、テレビ朝日、日本テレビ、テレビ東京、フジテレビという順番になっている。各キー局単体の売上高に占める割合は、TBS・日本テレビ・テレビ朝日は40%を上回り、フジテレビでも33.4%になるという。この収益構造からして、民放テレビは実質的に電通の支配下にある、と。博報堂ですら、電通の半分から3分の1にすぎないらしい。

電通の研究part.6

ヨン様と金大中
いよいよ最終回を迎えた電通の研究。今回は最近の電通の動きを見たうえで、日本における電通の意義についてまとめてみます。

最近の電通というと、忘れてはならないのが例の「韓流ブーム」騒動です。

あらかじめ述べておくと、現在の日本では誰かの意図で韓国寄りの報道が行われているということ間違いないでしょう。というのは、2002年のワールドカップ韓国-イタリア戦の判定の件や、2003年の玄界灘海難事故の報道をみても明瞭なように、昨今の日本マスコミでは対韓報道に腰が引けていることは観測的な経験からほぼ確実だからです。

されども、これは即「売国」「言論統制」「電通の陰謀」を意味するものではありません。

左派の論者が再三指摘しているように対アメリカ報道とりわけイラク戦争に関しては、日本のマスコミもかなり遠慮した報道をしていました。外交関係に配慮した言論規制は珍しくもなんともないのです。

つまり、ここで問題の核となるのは、事実の存否やその是非ではなく、「誰が」「なぜ」仕組んでいるのかということです。果たして電通は本当の仕掛け人なのでしょうか。

そこで、対韓報道規制の経緯と現状を検証してみます。

歴史的に対韓報道規制の淵源は、右翼にありました。かつて児玉誉士夫や瀬島龍三らがODA利権に食い込んでいたことや、自民党保守派が、統一教会・韓国軍事政権と緊密であることにより日本韓国の政界では特殊な癒着関係が長年続いていたからです。

現在では左派=韓国寄り、右派=嫌韓という構造ができていますが、もともとは左派=北朝鮮支持、右派=韓国支持という構造があったことを理解する必要があるでしょう。

よって、日本の政界保守層の中には親韓の基盤が元々存在するのです。

その上で、98年の小渕-金大中会談による関係改善が国策としての親韓政策を後押ししました。このときに、日本政府は韓国から反日政策放棄・大衆文化開放を引き出すことに成功しています。

この成功の背景の一つには、アジア通貨危機による韓国の窮状がありました。しかし実はもう一点、両政府は、韓国が日本の大衆文化を開放することと、日本が親韓政策をとることの間で妥協をなしたという説もあります。

思えば、国内で韓国寄りの報道が過熱したのはこのころだったと思われます。ある程度信憑性がある話なのではないでしょうか。

電通は、2002年に日韓共催のワールドカップを仕切り、2005年の日韓友情年にむけてメディアミックス的戦略によって「韓流ブーム」を盛り上げるなどしました。日韓友情年の副委員長が電通の成田豊であることからもこれを窺い知ることができます。ちなみに委員長は平山郁夫画伯。日韓友情年の実務担当は外務省である。平山氏は外務省の御用画伯であり、平山氏の絵は外務省の至る所で飾ってある。


以上の経緯を見ると、この話は始めの日韓政府間の合意ありきで、電通はただのアピールの下請けに過ぎないことがわかります。その証拠に、一般に電通の支配力が及ばないとされるNHKでも「韓流ブーム」は強調されていました。冬のソナタを最初に放送したのが象徴的です。

市場の失敗
少なくとも、電通はいままで本ブログで取り上げてきた新興宗教・ヤクザ・右翼のようにそれ自体がひとつの政治的スタンスを持って能動的に政治に影響を与える存在ではありません。

ゲッペルスが近代的なプロパガンダの有用性に着目して幾十年。先進国では政治に代理店が絡むのは当たり前のことです。電通が政治宣伝にかかわること自体が問題なのではないのです。

他の報道介入・不祥事もみ消しの件にも言えることですが、電通は別に陰謀を持ってなにやら怪しいことをしているのではなく、代理店としてまっとうな対応をしているだけです。たとえば、代理店間の広告獲得競争は意外なほどフェアーである。コンペ方式が主流で、小さな代理店でも広告獲得が可能。電通の独占は実力の色彩も強い。


ところが、寡占市場における過度の支配力によって結果としていろいろ社会問題が惹起されていると考えるのが公平でしょう。実際、2004年の電通の連結売上高は1兆9104億円に達しています。

電通問題とは、電通が「大きすぎて宣伝が効きすぎてしまう」ことが本質なのでしょう。

田中角栄の秘蔵っこだった小沢一郎が政治と電通の癒着、絡み方は当然ながら熟知しておりおそらく小泉政権の劇場選挙のカラクリも当然見抜いているでしょう。しかもタウンミーテイングやその他のメデイア戦略にはかなり不透明な金の流れがあり、民主党が政権をとればそこにメスが入れられるのはまず間違いありません。となると、電通や黒幕の数々の陰謀も明らかにされ、逮捕者も出る可能性があります。そうなればいかに電通といえども抑える術ががありません。また電通が数々の陰謀に深く関った動かぬ証拠が明らかになると、いかに電通といえども多くのスポンサーが離れることも予想され、そうなると今まで押さえつけられたマスコミはその刃を自分たちに向ける可能性すらあります。

まあ、そこまで行かなくとも最低でもここ十年くらい裏で行われていたことが全て水泡に帰す可能性が高いといえます。これは今回の陰謀を推進している人間にとっては絶対に避けなければならないシナリオです。

今の日本の政治やメデイア、マスコミの膿を出すことをできるのは今日本の政治の世界では小沢一郎しかいないのも事実です。

そのため今回、電通や黒幕は場合によっては非常手段に打って出る可能性も排除できません。実は今までの陰謀の動きには単に政治家やメデイアだけではなく、いわゆる暴力団のような裏社会やアメリカCIAの影がちらついています。特にCIAは間違いなく電通からみの陰謀にかなり深く関っているのはまず間違いないです。しかし残念ながらどういう風に関り方をしているか、どこに証拠を挙げられるかというと、残念ながら私にはそれを見つける力がありません。

しかし私が恐怖を感じているのは電通も今回の黒幕も場合によっては小沢一郎抹殺というテロの手段も排除しない、と思えるからです。(現実に2009年の西松事件から、世田谷の土地問題と連日、小沢バッシングが続いている)


なにやら灰色の結論ですが、この電通はあくまで捉え方次第の相対性を持つ多面的な企業だということを示しています。

では現実に、電通の力とはなんなのでしょう。

電通は、日本の全テレビ・コマーシャルの三分の一の直接責任者であり、ゴールデンタイムのスポンサーの割り振りに関して実質的に独占的決定権をもつ。約120の映像プロダクション、400以上のグラフィック・アート・スタジオがその傘下にある。午後7時~11時の時間帯の番組にコマーシャルを出したい広告主は、電通を通すしかない。スポンサーの選定と放送番組の内容の大部分を電通が握っているからだ。

日本では、扱い高が即、政治力になるので、電通はこうした役割〔事実上の編成局〕を演じられるのである。


電通が、これほど無敵の存在になれたのはその人脈のおかげである。同社の社員採用方針でつねに目指してきたのは、テレビ界や出版界のトップ・クラスの管理者や幹部役員、および特別な広告主、プロの黒幕などの息子たちや近親者からなる人材プールを維持拡充することであった。〔略〕彼らを指して、大きなスポンサーと良好な関係を保つための「人質」だとは、電通のある役員がたとえ話に言ったことばである。<略>



 電通のもう一つの機能は、官僚および自民党のPR活動をしたり、《世論調査》を通して国民の《伝統的な価値》を支えることである。電通は、総理府及び自民党が必要な情報を収集し、偏った意見調査を通して《世論》を作り上げる手伝いをする。自民党の選挙キャンペーンというもっとも手のこんだ部門は、電通が引き受けている。原子力発電所の安全性の宣伝や、さまざまな省庁の企画に関する宣伝なども扱っている。1970年代後半に、一連の野党系市長や知事を退陣させる政治的策動をとりまとめ、政治的に重大な地方消費者運動や反公害運動に対抗する反キャンペーンを展開したのも、電通である。

 このような官庁および自民党のための仕事は、主に電通の《第九連絡局》でおこなわれ、ここには、建設省、運輸省、農水省、郵政省、文部省、大蔵省、総理府の各省を担当する別々の課がある。公式には民営化されたが実際には以前とほとんど変わっていないNTTやJRなどの公共企業も、この局が扱っている。この第九連絡局は、総理府の広報予算の三分の一以上、他の省庁の同四〇パーセントを吸収する〔原注3〕。また、自民党の広報宣伝予算についても、電通が独占に近い形で自由に使っている。



つまり何をいいたいかというと、この国のマスメデイアは実質的に完全に「電通」一社に殆どコントロールされているといっても過言ではないのです。そしてテレビの視聴率も落ち込んでいる現在、報道内容に対する介入は明らかに以前より強くなっております。

このことによっても日本のマスメデイアがいかに裏からコントロールされ、権力やスポンサーにとって「都合の悪い」報道をするのが難しい状況であるかがわかります。

私がこの電通の第九営業局によるメデイア、マスコミ操作と政界、官僚によって国民に対する恐ろしい陰謀が計画され、現在も進行中である、と述べたのは決して作り話ではないことがこれによっておわかりいただけたでしょうか?

よってマスメデイアの流す情報、映像を鵜呑みにすることほど危険なことはないのです。特に最近はネットを初め情報過多社会といわれます。そういう時代だからこそメデイアに対するリテラシーを身につけることはこれからの社会で生きる上でも、そして今裏で糸を引いて陰謀をめぐらそうという人間のワナにはまらないためにも絶対に必要なことだと考えます。

そのためには次のことを心がけることが必要です。自戒を込めて書きますが

1.まずマスメデイアの情報、映像は「作られたもの」であるということを忘れないこと。伝えられていることは必ずしも真実であるとは限らないことを肝に銘じること

2.報道されている内容が、どれだけ正確な報道なのか自分で調べるクセをつけること。(今は検索エンジンという便利なものがありますから)

3.マスメデイアが明らかに煽ろうとしている報道に対しては極力冷静に対応すること。煽れば煽るほど無視するくらいのつもりでいい。

もしかしたら見落としている点もあるかもしれませんが、この3つを普段から心がけることによって彼らのワナにははまりにくくなると同時に、権力を握っている人間がもっとも嫌がることでもあるのです。私は日本社会におけるメデイアリテラシーの早急な確立を声を大にしていいたいです。今ほどそれが必要とされている時代はありません。今回影で陰謀を計画している人間の計画を失敗させるためにも


03年、日本テレビのプロデューサーが、“視聴率買収事件”をひき起こした。これは視聴率調査会社のビデオリサーチの調査対象世帯に対し、指定した番組を視聴するよう依頼し、視聴率を工作したという「事件」である。現在のテレビ放送は、この視聴率至上主義という信用しがたい数字によって大きく左右されている。視聴率が高ければCMが高く売れることから、業績に大きく係わることになる決定的な数字のようである。

このような重要な数字を独占して調査しているのがビデオリサーチなのだが、「独占」と書いたように、ここにはライバル会社が存在しない。そして最も重要なのが、ビデオリサーチは電通の関連会社であり、電通が同社の株を34%所有する大株主ということだろう。電通の子会社ビデオリサーチは、「全国新聞総合調査」までやっているらしい(社長が電通顧問を務めた竹内毅)。

2005年8月15日月曜日

【毛沢東】 矛盾論・実践論

認識と実践の関係——知と行の関係


事物の矛盾の法則、すなわち対立面の統一の法則は、唯物弁証法のもっとも根本的な法則である。レーニンは言っている。「本来の意味においては、弁証法は、対象の本質そのものにおける矛盾の研究である。」[1] レーニンは、常にこの法則を弁証法の本質と呼び、また弁証法の核心[2] とも呼んでいる。したがって、この法則を研究するには、どうしても広い範囲にわたり、多くの哲学問題に触れないわけにはいかない。われわれがこれらの問題のすべてをはっきりさせれば、唯物弁証法を根本から理解したことになる。これらの問題とは、二つの世界観、矛盾の普遍性、矛盾の特殊性、主要な矛盾と矛盾の主要な側面、矛盾の諸側面の同一性と闘争性、矛盾における敵対の地位である。

 ソ連の哲学界では、この数年間、デボーリン[3] 学派の観念論が批判されてきた。このことは、われわれの非常に大きな興味を呼んでいる。デボーリンの観念論は、中国共産党内にも非常に悪い影響をおよぼしており、わが党内の教条主義思想は、この学派の作風と関係がないとはいえない。したがって、われわれの現在の哲学研究活動は、教条主義思想の一掃を主な目標にしなければならない。

一 二つの世界観


 人類の認識史には、宇宙の発展法則についてこれまで二つの見解が存在しててきた。一つは形而上学的、他の一つは弁証法的な見解であって、それらは相互に対立する二つの世界観を形成している。レーニンは言っている。二つの基本的な(あるいは二つの可能な? あるいは歴史上に見られる二つの?)発展(進化)観は、次のとおりである。すなわち、減少および増大としての、反復としての発展と、対立面の統一(統一物が相互に排斥しあう二つの対立面に分かれることと、それらが相互に関連すること)としての発展である。」[4]  レーニンが言っているのはつまり、この二つの異なった世界観のことである。

(1)形而上学の世界観

 形而上学は、玄学とも呼ばれている。この思想は、中国でもヨーロッパでも、歴史上、非常に長いあいだ、観念論的な世界観に属し、人びとの思想のなかで支配的な地位を占めていた。ヨーロッパでは、ブルジョアジーの初期における唯物論も形而上学的であった。ヨーロッパの多くの国の社会経済の状況が資本主義の高度に発逹した段階にまですすみ、生産力、階級闘争および科学が、いずれも歴史上かつて見たことのない水準にまで発展し、工業プロレタリアートが歴史を発展させるもっとも偉大な原動力になったことによって生まれたのが、マルクス主義の唯物弁証法的世界観である。そこで、ブルジョアジーのあいだには、公然たる、極端に露骨な、反動的観念論のほかに、また俗流進化論があらわれて、唯物弁証法に対抗するようになった。

 形而上学の、あるいは俗流進化論の世界観というものは、世界を孤立的な、静止的な、一面的な観点で見るものである。この世界観は、世界のすべての事物、すべての事物の形態と種類を、永遠にそれぞれ孤立した、永遠に変化することのないものとみなしている。変化があるとしても、それはただ量の増減と場所の変動にすぎない。しかも、その増減と変動の原因は、事物の内部にではなくて、事物の外部にある、すなわち外力によって動かされるものだとしている。形而上学者は、世界のさまざまな異なった事物と事物の特性は、それらが存在しはじめたときから、そうなっている、その後の変化は量の上での拡大または縮小にすぎない、としている。彼らは、一つの事物は永遠に同じような事物としてくりかえして発生するだけで異なった別の事物に変化することはできない、と考えている。

 形而上学者から見れば、資本主義の搾取、資本主義の競走、資本主義社会の個人主義思想などは、古代の奴隷社会でも、さらに原始社会でさえ、見いだすことができるし、しかも、永遠に変わることなく存在しつづけるものだということになる。社会発展の原因について、彼らはそれを社会外の地理、気候などの条件によって説明する。彼らは唯物弁証法が主張するところの、事物は内部矛盾によって発展が引きおこされるという学説を否定して、単純に、事物の外部に発展の原因を求める。したがって、彼らには事物の質の多様性を説明することができないし、ある質が他の質に変化する現象を説明することができない。こうした思想は、ヨーロッパでは一七世紀と一八世紀に機械的唯物論となり、一九世紀末から二〇世紀のはじめには、俗流進化論となった。中国には「天は不変であり、道もまた不変である」[5] といった形而上学の思想があり、それが腐敗した封建的支配階級から長いあいだ支持されてきた。この百年らいは、ヨーロッパの機械的唯物論や俗流進化論が持ちこまれて、これがブルジョアジーから支持されている。

(2)唯物弁証法の世界観

 形而上学の世界観とは反対に、唯物弁証法の世界観は、事物の発展を事物の内部から、またある事物の他の事物に対する関係から研究するよう主張する。すなわち事物の発展を事物の内部的な、必然的な自己運動とみなし、また一つひとつの事物の運動は、すべてその周囲の他の事物と相互に連係し、影響しあっているものと見る。事物の発展の根本原因は、事物の外部にあるのではなくて、事物の内部にあり、事物の内部の矛盾性にある。どのような事物の内部にもこうした矛盾性があり、それによって事物の運動と発展がおこされる。事物の内部のこの矛盾性は、事物の発展の根本原因であり、ある事物と他の事物が相互に連係し、影響しあうことは、事物の発展の第二義的な原因である。このように、唯物弁証法は、形而上学の機械的唯物論や俗流進化論の、外因論または受動論に、力づよく反対してきた。たんなる外部的原因は、事物の機械的運動、すなわち範囲の大小、量の増減をおこすことができるだけで、事物はなぜその性質が千差万別であり、また、それがなぜ相互に変化しあうかを説明することができないのはあきらかである。事実は、たとえ外力によって動かされる機械的運動でも、やはり事物の内部の矛盾性をつうじなければならない。植物や動物の単純な成長、その量的な発展も、主としてその内部の矛盾によって引きおこされる。

 同様に、社会の発展は、主として、外因によるのではなく、内因によるのである。ほとんど同じような地理的、気候的条件のもとにある多くの国ぐにでも、その発展の相違性と不均等性は非常に大きい。同じ一つの国について見ても、地理や気候に変化がない状況のもとで、社会には大きな変化が見られる。帝国主義のロシアは社会主義のソ連に変わり、封建的な鎖国日本は帝国主義の日本に変わったが、これらの国の地理や気候には何の変化もない。長いあいだ封建制度によって支配されてきた中国には、この百年らい、大きな変化がおこり、いまも、自由解放の新中国にむかって変化しつつあるが、中国の地理や気候には何の変化もない。地球全体および地球の各部分について見れば、地理や気候も変化はしているが、その変化は、社会の変化にくらべると、ごくわずかなもので、前者は、何万年かを単位として変化があらわれるが、後者は、何千年、何百年、何十年、ときには何年あるいは何ヵ月(革命の時期には)のあいだにさえ変化があらわれるのである。

 唯物弁証法の観点によれば、自然界の変化は、主として自然界の内部矛盾の発展によるものである。社会の変化は、主として社会の内部矛盾の発展、すなわち、生産力と生産関係との矛盾、諸階級のあいだの矛盾、新しいものと古いものとのあいだの矛盾によるものであり、これらの矛盾の発展によって、社会の前進がうながされ、新旧社会の交代がうながされる。では、唯物弁証法は外部的な原因を排除するものだろうか。排除はしない。唯物弁証法は、外因を変化の条件、内因を変化の根拠とし、外因は内因をつうじて作用するものと考える。鶏の卵は、適当な温度を与えられると、ひよこに変化するが、石ころに温度を加えてもひよこにはならないのは、両者の根拠がちがうからである。

 各国人民のあいだの相互影響はつねに存在する。資本主義時代、とくに帝国主義とプロレタリア革命の時代には、各国のあいだの政治的、経済的、文化的な相互影響と相互衝撃はきわめて大きい。十月社会主義革命は、ロシアの歴史に新紀元をひらいたばかりでなく、世界の歴史にも新紀元をひらき、世界各国の内部の変化にまで影響を及ぼし、同様に、しかもとくに深刻に中国の内部の変化に影響を及ぼした。しかし、このような変化は、各国の内部および中国内部そのものの持つ法則性を通じておこった。二つの軍隊が戦って、一方が勝ち、他方が負けた場合、勝つのも負けるのも、みな内因によって決まる。勝った方は、強いからか、あるいはその指揮にまちがいがなかったからであり、負けた方は、弱いか、あるいはその指揮にまちがいがあったからで、外因が内因を通じて作用したのである。一九二七年に、中国の大ブルジョアジーがプロレタリアートを打ちまかしたのは、中国プロレタリアート内部の(中国共産党内部の)日和見主義を通じて作用をおこしたからである。われわれがこの日和見主義を清算すると、中国革命はあらたに発展した。その後、中国革命はまた敵からひどい打撃を受けたが、それは、われわれの党内に冒険主義が発生したからである。われわれがこの冒険主義を清算したとき、われわれの事業はまたあらたに発展した。こうしたことから見て、ある政党が革命を勝利にみちびくには、自己の政治路線の正しさと組織の強さに依存しなけれしばならないのである。

 弁証法的な世界観は、中国でも、ヨーロッパでも、古代にすでに生まれていた。しかし、古代の弁証法は、自然発生的な、素朴な性質をおびていて、当時の社会的、歴史的条件からして、完備した理論をもつことができず、したがって、宇宙を完全に説明することもできなかったので、やがて、形而上学にとって代わられてしまった。一八世紀の末から一九世紀のはじめにかけてのドイツの有名な学者へーゲルは、弁証法に対して重要な貢献をしたが、彼の弁証法は観念論的弁証法であった。プロレタリア運動の偉大なな活動家であったマルクスとエンゲルスが、人類の認識史の積極的な成果を総合し、とくにへーゲルの弁証法の合理的な部分を批判的にとりいれて、弁証法的唯物論と史的唯物論という偉大な理論を創造するに至って、人類の認識史には空前の大革命がおこった。その後、レーニンとスターリンによって、この偉大な理論はさらに発展させられた。この理論がひとたび中国に伝わると、中国の思想界に非常に大きな変化を引きおこした。

 この弁証法的世界観が主として教えていることは、さまざまな事物の矛盾の運動を観察し、分析することに熟達すると同時に、その分析にもとづいて矛盾の解決方法を指し示すことである。したがって、事物の矛盾という法則を具体的に理解することは、われわれにとって非常に重要なことである。

二 矛盾の普遍性


 叙述の便宜上、わたしここで、矛盾の普遍性について先に述べ、それから矛盾の特殊性について述べることにする。それは、マルクス主義の偉大な創始者とその継承者マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンが、唯物弁証法の世界観を発見し、すでに唯物弁証法を人類の歴史の分析や自然界の歴史の分析など多くの面に応用し、また社会の変革や自然界の変革(たとえばソ連におけるように)など多くの面に応用して、きわめて偉大な成功をおさめており、矛盾の普遍性はすでに多くの人によって認められているので、この問題は簡単に述べるだけではっきりさせることができるからである。しかし、矛盾の特殊性の問題については、多くの同志たち、とくに教条主義者たちは、まだ分かっていない。彼らは矛盾の普遍性が矛盾の特殊性の中にやどっていることを理解していない。彼らはまた、当面する具体的な事物の矛盾の特殊性を研究することが、革命の実践の発展をわれわれが導いていく上で、どれほど重要な意義を持っているかということも、理解していない。したがって、矛盾の特殊性の問題は、とくに力をいれて研究し、また十分紙面をさいて説明しなければならない。こうした理由から、事物の矛盾の法則を分析する場合、われわれは、まず矛盾の普遍性の問題を分析し、そのあとで、矛盾の特殊性の問題について力をいれて分析し、最後に再び矛盾の普遍性の問題に立ちかえることにする。

 矛盾の普遍性、または絶対性という問題には、二つの面の意味がある。その一つは、矛盾があらゆる事物の発展の過程に存在するということであり、他の一つは、どの事物の発展の過程にも、始めから終わりまで、矛盾の運動が存在するということである。

(1)矛盾の普遍性の第一の意味

 エンゲルスは「運動そのものが矛盾である」[6]と言っている。レーニンが対立面の統一の法則に対して下した定義によると、「自然界(精神と社会の両者を含めて)のすべての現象と過程における矛盾した、排斥しあう、対立した諸傾向を認めること(発見すること)」[7] である。こうした見解は正しいだろうか。正しい。すべての事物の中に含まれている矛盾した側面の相互依存と相互闘争とは、すべての事物の生命を決定し、すべての事物の発展を推進する。どのような事物も矛盾を含まないものはなく、矛盾がなければ世界はない。

 矛盾は、単純な運動形態(たとえば機械的運動)の基礎であり、なおさら複雑な運動形態の基礎である。

 エンゲルスは、矛盾の普遍性について、次のように説明している。「すでに単純な機械的な場所の移動でさえも、矛盾を自己のうちに含んでいるとすれば、物質のより高度な運動の諸形態、とくに、有機的生命とその発展とはなおさらそうである。……生命とは、なによりもまず、ある生物がおのおのの瞬間にそれ自身でありながら、しかも、ある他のものである、という点にある。したがって生命も同様に、諸物体と諸過程そのもののなかに存在する、たえず自己を樹立し、かつ自己を解決する矛盾である。そして、矛盾が止めば、ただちに生命もまた止むのであって、死が到来する。同様に、思考の領域でも、われわれがどのように諸矛盾を避けることができないかということ、たとえば、人間の内部の制限されていない認識能力と、外部においては局限された、しかも認識上でも局限された各人におけるこの認識能力の実際のありかたとのあいだの矛盾が、われわれにとっては、少なくとも実際には限りのない世代の連続のうちで、無限の進行のなかで、どのように自己を解決してゆくものかということは、われわれのすでに見てきたところである。」「高等数学は、……矛盾をその主な基礎の一つにしている。」「初等数学でさえも、矛盾にみちている。……」[8]

 レーニンもまた矛盾の普遍性を次のように説明している。「数学では、十と一、微分と積分。力学では作用と反作用。物理学では、陽電気と陰電気。化学では、原子の化合と分解。社会科学では、階級闘争。」[9]

 戦争における攻撃と防御、前進と後退、勝利と敗北は、みな矛盾した現象である。一方がなくなれば、他方も存在しなくなる。双方は闘いあってはいるが、また結びついて、戦争の全体を形づくり、戦争の発展をうながし、戦争の問題を解決する。

 人間の持っている概念の一つひとつの差異は、すべて、客観的矛盾の反映と見なければならない。客観的矛盾が、主観的な思想に反映して、概念の矛盾の運動を形づくり、思想の発展をうながし、人びとの思想問題をたえず解決していくのである。

 党内における異なった思想の対立と闘争は、つねに発生するものである。それは社会の階級的矛盾および新しい事物と古い事物との矛盾が、党内に反映したものである。もし、党内に矛盾と、矛盾を解決するための思想闘争がなくなれば、党の生命も止まってしまう。

 以上から見て、単純な運動形態であろうと、複雑な運動形態であろうと、また客観的現象であろうと、思想現象であろうと、矛盾が普遍的に存在し、矛盾がすべての過程に存在している点は、すでにあきらかになった。だが、どの過程のはじめの段階にも、矛盾は存在するだろうか。どの事物の発展以過程にも、始めから終わりまで、矛盾の運動があるだろうか。

(2)矛盾の普遍性の第二の意味

 ソ連の哲学界で、デボーリン学派を批判した論文によると、デボーリン学派は次のような見解をもっていることがわかる。すなわち、彼らは、矛盾は過程の始めからあらわれるのではなくて、その過程が一定の段階にまで発展したときに、はじめてあらわれるのだ、と考えている。もしそうだとすると、そのときまでは、過程の発展は、内部的な原因によるのではなくて、外部的な原因によることになる。このように、デボーリンは、形而上学的な外因論と機械論にもどってしまった。そして、このような見解をもって、具体的な問題を分析し、彼らはソ連の条件のもとでは、富農と一般農民のあいだには差異があるだけで、矛盾は存在しないとして、ブハーリンの意見[10] に完全に賛成したのである。フランス革命の分析にあたっても、彼らは、革命前の労働者、農民、ブルジョアジーからなる第三身分のなかには、差異があるだけで、矛盾はないと考えた。デボーリン学派のこうした見解は、反マルクス主義的なものである。彼らは、世界の一つひとつの差異にはもう矛盾が含まれており、その差異とは矛盾であることを知らなかった。労働者と資本家は、この二つの階級が生まれたそのときから、相互に矛盾していたが、ただそれが激化していなかったにすぎない。労働者と農民のあいだには、ソ連の社会的条件のもとでも、やはり差異はあり、彼らのその差異は矛盾であるが、それは労資間の矛盾とは違っており、階級闘争の形態をとらず、敵対となるほど激化しないだけのことである。彼らは、社会主義建設の過程で強固な同盟を形成するとともに、社会主義から共産主義への発展過程で、しだいにこの矛盾を解決してゆくのである。これは、矛盾があるかないかの問題ではなくて、矛盾の差異性の問題である。矛盾は普遍的な、絶対的なものであり、事物の発展のすべての過程に存在し、また、すべての過程を始めから終わりまで貫いている。

 新しい過程の発生とはなにか。それは、古い統一とその統一を構成する対立的要素とが、新しい統一とその統一を構成する対立的要素に席をゆずり、そこで、新しい過程が古い過程にとって代わって発生することである。古い過程が終わって、新しい過程が発生する。新しい過程はまた、新しい矛盾を含んでいて、それ自身の矛盾の発展史がはじまる。

 事物の発展過程の始めから終わりまでの矛盾の運動について、マルクスが『資本論』の中で模範的な分析をしていることを、レーニンは指摘している。これは、どのような事物の発展過程を研究するにも、応用しなければならない方法である。レーニン自身もそれを正しく応用し、彼の全著作のなかでそれを貫きとおしている。

「マルクスの『資本論』では、まず最初に、ブルジョア社会(商品社会)のもっとも単純な、もっとも普通な、もっとも根本的な、もっとも大量に見られる、もっとも日常的な、何億回となく出くわす関係、すなわち商品交換が分析されている。その分析は、このもっとも単純な現象のうちに(ブルジョア社会のこの「細胞」のうちに)現代社会のすべての矛盾(あるいはすべての矛盾の胚芽)をあばきだす。それから先の叙述は、これらの矛盾の発展とこの社会の個々の部分の総和における発展とを、始めから終わりまで(成長と運動の両者を)、われわれに示している。」

 レーニンはこう述べたあとで、つづいて次のように言っている。「このような仕方が……弁証法一般の叙述(および研究)の方法も、このようでなけれぱならない。」」[11]

 中国共産党員は、中国革命の歴史と現状を正しく分析し、革命の将来を正しく予測するには、かならずこの方法を身につけなければならない。

三 矛盾の特殊性


 矛盾はあらゆる事物の発展の過程に存在しており、矛盾は一つひとつの事物の発展過程の始めから終わりまでを貫いていること、これが矛盾の普遍性と絶対性であること、これらについては、すでに前に述べた。これから矛盾の特殊性と相対性について述べよう。

(1)矛盾の特殊性が質を規定

 この問題は、いくつかの状況を通じて研究しなけれぱならない。まずはじめに、物質のさまざまな運動形態のなかの矛盾は、いずれも特殊性を持っていることである。人間が物質を認識するのは、物質の運動形態を認識することであって、それは、世界には運動する物質のほかになにものもなく、物質の運動はかならず一定の形態をとるからである。物質の一つひとつの運動形態については、それとその他のさまぎまな運動形態との共通点に注意しなけれぱならない。しかし、とくに重要なことで、われわれが事物を認識する基礎となるものは、その特殊な点に注意しなければならないこと、つまり、それとその他の運動形態との質的な区別に注意しなければならないことである。事物を区別するには、この点を注意するより以外にない。いかなる運動形態も、その内部には、それ自身の特殊な矛盾を含んでいる。この特殊な矛盾が、ある事物を他の事物から区別する特殊な本質を構成している。これが、世界のさまざまな事物の千差万別であることの内在的な原因であり、あるいは、根拠とも言われるものである。

 自然界には、たくさんの運動形態が存在しており、機械的運動、音、光、熱、電流、分解、化合など、みなそれである。これらの物質のあらゆる運動形態は、みな相互に依存しあい、また本質的に相互に区別しあっている。物質のそれぞれの運動形態がもっている特殊な本質は、それ白身の特殊な矛盾によって規定される。このような状況は、自然界のなかに存在しているばかりでなく、社会現象および思想現象のなかにも、同じように存在している。一つひとつの社会形態と思想形態は、みなその特殊な矛盾と特殊な本質を持っている。科学研究の区分は、科学の対象が持っている特殊な矛盾性にもとづいている。したがって、ある現象の領域に特有なある矛盾についての研究が、その部門の科学の対象を構成する。たとえぱ、数学における正数と負数、力学における作用と反作用、物理学における陰電気と陽電気、化学における分解と化合、社会科学における生産力と生産関係、階級と階級との相互闘争、軍事学における攻撃と防御、哲学における観念論と唯物論、形而上学的見方と弁証法的見方など、みな特殊な矛盾と特殊な本質を持っているため、異なった科学研究の対象を構成しているのである。

 もちろん、矛盾の普遍性を認識しなければ、事物が運動し発展する普遍的な原因、または普遍的な根拠を発見するすべもなくなる。しかし、矛盾の特殊性を研究しなければ、ある事物が他の事物と異なる特殊な本質を確定するすべもなく、事物が運動し発展する特殊な原因、あるいは特殊な根拠を発見するすべもなく、事物を識別したり、科学研究の領域を区分したりするすべもない。

(2)個別性と一般性の循環

 人類の認識運動の順序について言うと、それはつねに、個別の、また特殊の事物の認識から、しだいに一般的な事物の認識へと拡大してゆくものである。人びとは、どうしても、まず、多くの異った事物の特殊な本質を認識してからでなければ、さらに一歩進めて、概括作業をし、さまぎまな事物の共通の本質を認識することができないのである。すでにこの共通の本質を認識したならば、この共通の認識を手びきとして、引きつづき、まだ研究されたことがないか、あるいはまだ深くは研究されていない、さまざまな具体的な事物に対する研究を進め、その特殊な本質をさがしだす。そうしてはじめて、この共通の本質の認識をひからびた、硬直したものにさせないように、この共通の本質の認識を補足し、豊富にし、発展させることができる。これは認識の二つの過程であって、一つは特殊から一般へ、他の一つは、一般から特殊へ進む。人類の認識は、常にこのように循環し、行ききしながら進むのであって、その一循環ごとに(厳格に科学的方法に従うかぎり)人類の認識を一歩高め、たえず深めてゆくことができる。この問題におけるわが教条主義者たちの誤りは、すなわち、一方では、矛盾の普遍性を十分認識し、さまざまな事物の共通の本質を十分に認識するには、矛盾の特殊性を研究し、それぞれの事物の特殊な本質を認識しなければならないということが分かっていないこと、他方では、われわれが事物の共通の本質を認識したあとでも、まだ深く研究されていないか、あるいは新しくあらわれてきた具体的な事物について、引きつづき研究しなければならないということが分かっていないことにある。わが教条主義者たちはなまけものである。彼らは具体的な事物について、骨のおれる研究活動はいっさい拒み、真理一般が何のよりどころもなくあらわれてくるものとみなして、それをとらえどころのない純抽象的な公式にしてしまい、人類が真理を認識する正常な順序を完全に否定し、しかもそれを転倒するのである。彼らはまた人類の認識の二つの過程の相互の結びつき──特殊から一般へ、そして一般から特殊へと進むことが分からず、マルクス主義の認識論がまったく分からないのである。

 物質の一つひとつの大きな体系をなす運動形態がもつ特殊な矛盾性と、それによって規定される本質を研究しなければならないばかりでなく、物質の一つひとつの運動形態の、長い発展の途上での一つひとつの過程の特殊な矛盾、およびその本質をも研究しなけれぱならない。あらゆる運動形態の、実在的で憶測でない一つひとつの発展過程は、すべて質を異にしている。われわれの研究活動は、この点に力をいれ、またこの点からはじめなければならない。

(3)矛盾の質に応じた解決方法

 質の異なる矛盾は、質の異なる方法でしか解決できない。たとえば、プロレタリアートとブルジョアジーとの矛盾は、社会主義革命の方法によって解決され、人民大衆と封建制度との矛盾は、民主主義革命の方法によって解決され、植民地と帝国主義との矛盾は、民族革命戦争の方法によって解決され、社会主義社会における労働者階級と農民階級との矛盾は、農業の集団化と農業の機械化の方法によって解決され、共産党内の矛盾は、批判と自己批判の方法によって解決され、社会と自然との矛盾は、生産力を発展させる方法によって解決される。過程が変化し、古い過程と古い矛盾がなくなり、新しい過程と新しい矛盾が生まれれば、矛盾を解決する方法もまた、それによって違ってくる。ロシアの二月革命と十月革命とでは、それが解決した矛盾およびその矛盾の解決に用いられた方法が根本的に異なっていた。異なる方法によって異なる矛盾を解決すること、これはマルクス・レーニン主義者の厳格に守らなければならない原則である。教条主義者は、この原則を守らず、さまざまな革命の状況のちがいを理解せず、したがって、異なる方法によって異なる矛盾を解決しなければならないということも理解しないで、動かすことのできないものとひとりぎめしているある公式を千篇一律に至るところに、むりやり当てはめるにすぎない。これでは、革命を失敗させるか、あるいは、もともとうまくいくことをめちゃくちゃにするだけである。事物の発展過程にある矛盾がその全体の上で、また相互の結びつきの上で持っている特殊性をあばきだすには、つまり、事物の発展過程の本質をあばきだすには、過程にある矛盾の、それぞれの側面の特殊性をあばきださなければならない。そうしなければ、過程の本質はあばきだせない。この点もまた、われわれが研究活動をするにあたって十分注意しなけれぱならないことである。

 大きな事物は、その発展過程に多くの矛盾を含んでいる。たとえば、中国のブルジョア民主主義革命の過程には、中国社会の被抑圧諸階級と帝国主義との矛盾があり、人民大衆と封建制度との矛盾があり、プロレタリアートとブルジョアジーとの矛盾があり、農民および都市小ブルジョアジーとブルジョアジーとの矛盾があり、それぞれの反動的支配者集団のあいだの矛盾があるなど、その状況は非常に複雑である。これらの矛盾は、それぞれに特殊性があって、これを一律に見てはならないばかりでなく、一つひとつの矛盾の二つの側面も、それぞれ特徴をもっているので、これも一律に見てはならない。われわれ中国革命にたずさわるものは、それぞれの矛盾の全体の上で、すなわち矛盾の相互の結びつきの上で、その特殊性を理解しなければならない。そればかりか、その全体を理解するためには矛盾のそれぞれの側面から研究していかなけれぱならない。矛盾のそれぞれの側面を理解するということは、その一つひとつの側面がどのような特定の地位を占めており、それぞれがどのような具体的な形態で相手がたと相互に依存しながら相互に矛盾する関係をもつか、相互に依存しながら相互に矛盾する中で、そして、また依存が破れたのちに、どのような具体的な方法で、相手がたと闘争するかを理解することである。これらの問題を研究することは、きわめて重要である。レーニンが、マルクス主義の真髄と、マルクス主義の生きた魂は、具体的状況に対する具体的分析にある[12]、と言っているのはつまりこの意味である。わが教条主義者たちは、レーニンの指示にそむいて、どんな事物についても頭をつかって具体的に分析したことは一度もなく、文章を書いたり、演説をしたりすると、いつも内容のからっぽな、紋切り型の言葉をならべるだけで、わが党内に、非常にわるい作風をつくりだした。

(4)主観性・一面性の排除

 問題を研究するには、主観性、一面性および表面性をおびることは、禁物である。主観性とは、問題を客観的に見ることを知らないこと、つまり、唯物論的観点から問題を見ることを知らないことを言うのである。この点については、わたしはすでに『実践論』の中で述べた。一面性とは、問題を全面的に見ることを知らないことを言う。たとえぱ、中国について分かるだけで、日本の方は分からない、共産党について分かるだけで、国民党の方は分からない、プロレタリアートについて分かるだけで、ブルジョアジーの方は分からない、農民について分かるだけで、地主の方は分からない、順調な状況について分かるだけで、困難な状況の方は分からない、過去について分かるだけで、将来の方は分からない、個体について分かるだけで、全体の方は分からない、欠点について分かるだけで、成果の方は分からない、原告について分かるだけで、被告の方は分からない、革命の秘密活動について分かるだけで、革命の公然活動の方は分からない、といったことなどである。一口に言うと、矛盾の各側面の特徴が分からないのである。こうしたことが、問題を一面的に見るということである。あるいは、局部だけを見て全体を見ない、木だけを見て、森を見ないともいえる。これでは、矛盾を解決する方法を見いだすことはできず、革命の任務を達成することはできず、受け持った活動を立派にやりとげることはできず、党内の思想闘争を正しく発展させることはできない。

 孫子は軍事を論じて、「彼を知り、己を知れば、百戦するも危うからず」[13] と言っている。彼が言っているのは、戦争する双方のことである。唐代の人、魏徴は「兼(あわ)せ聴けぱ明るく、偏り信ずれば暗い」[14] と言っているが、やはり一面性の誤りであることが分かっていたのである。ところが、わが同志の中には、問題を見る場合、とかく一面性をおびる者があるが、こういう人はしばしば痛い目にあう。『水滸伝』では、宋江が三度祝家荘を攻撃する[15] が、最初の二回は状況も分からず、やり方もまちがったので敗北する。そののち、やり方をかえ、状況の調査からはじめたので、迷路にも明るくなり、李家荘、扈家荘、祝家荘の同盟も切りくずし、また敵の陣営内に、外国の物語にでてくる木馬の計[16] に似た方法で伏兵を入りこませたので、三回目には勝利した。『水滸伝』には、唯物弁証法の事例がたくさんあるが、この三度の祝家荘の攻撃は、そのなかでも、もっともよい例の一つといえる。

 レーニンは言っている。「対象をほんとうに知るためには、そのすべての側面、すべての連関と『媒介』を把握し、研究しなければならない。われわれは、けっして完全にはそこまで達することがないであろう。だが、全面性を要求することは、われわれを誤りや硬直に陥らないよう用心させてくれる。」[17] われわれは、この言葉を銘記しなければならない。表面性とは、矛盾の全体も、矛盾のそれぞれの側面の特徴も見ず、事物に深く入って矛盾の特徴をこまかく研究することの必要を否定し、ただ遠くからながめて、矛盾のちょっとした姿を大ざっぱに見ただけで、すぐ矛盾の解決(問題にこたえ、紛争を解決し、仕事を処理し、戦争を指揮する)にとりかかろうとすることである。こんなやり方では、まちがいをしでかさないはずがない。中国の教条主義的な同志や経験主義的な同志が誤りをおかしたのは、事物を見る方法が主観的であり、一面的であり、表面的であったからである。一面性、表面性も主観性である。なぜなら、すべての客観的事物は、もともと相互に連係した、内部法則を持ったものであるのに、この状況をありのままに反映せず、ただ一面的に、あるいは表面的にそれらを見るだけ、つまり事物が相互に連係していることを認識せず、事物の内部法則を認識しないからであって、このような方法は主観主義的である。

(5)発展の段階性

 われわれは、事物発展の全過程にある矛盾運動の特徴を、その相互の結びつきにおいて、またそれぞれの側面の状況において注意しなければならないばかりでなく、過程発展のそれぞれの段階にも特徴があるので、それにも注意しなければならない。事物の発展過程にある根本的矛盾、およびこの根本的矛盾によって規定される過程の本質は、その過程が完了するときでなければ消滅しない。しかし、事物の発展する長い過程のなかのそれぞれの発展段階は、その状況がしばしば相互に区別される。これは事物の発展過程にある根本的矛盾の性質と過程の本質には変化がなくても、長い過程でのそれぞれの発展段階で、根本的矛盾がしだいに激化する形式をとるからである。しかも、根本的矛盾によって規定されるか、あるいは影響される大小さまざまな多くの矛盾のうち、一部のものは激化し、一部のものは一時的にあるいは局部的に解決されたり、緩和したりし、さらに一部のものは発生するので、過程に段階性があらわれるのである。事物の発展過程のなかの段階性に注意しないものがあるとしたら、そういう人には事物の矛盾を適切に処理することはできない。

 たとえば、自由競争時代の資本主義は発展して帝国主義となるが、このときにも、プロレタリアートとブルジョアジーという根本的に矛盾する二つの階級の性質およびこの社会の資本主義的本質は変化していない。だが、二つの階級の矛盾が激化し、独占資本と非独占資本とのあいだの矛盾が発生し、植民地所有国と植民地との矛盾が激化し、資本主義諸国間の矛盾、すなわち発展の不均等状態によって引きおこされた各国間の矛盾がとくに鋭くあらわれてきたので、資本主義の特殊な段階、すなわち帝国主義の段階が形成されたのである。レーニン主義が帝国主義とプロレタリア革命時代のマルクス主義となったのは、レーニンとスターリンが、これらの矛盾を正しく解明するとともに、これらの矛盾を解決するためのプロレタリア革命の理論と戦術を正しくつくりだしたからである。

 辛亥革命からはじまった中国のブルジョア民主主義革命の過程の状況について見ても、いくつかの特殊な段階がある。とくに、ブルジョアジーが指導した時期の革命とプロレタリアートが指導する時期の革命とは、大きな違いのある二つの歴史的段階として区別される。すなわち、プロレタリアートの指導によって、革命の様相が根本的に変わり、階級関係の新しい配置換え、農民革命の大きな盛り上がり、反帝国主義、反封建主義革命の徹底性、民主主義革命から社会主義革命への転化の可能性などがでてきた。これらすべては、ブルジョアジーが革命を指導していた時期には、あらわれることのできなかったものである。過程全体を貫く根本的矛盾の性質、すなわち、過程の反帝反封建的民主主義革命という性質(その反面は半植民地的、半封建的な性質)には、変化がないにもかかわらず、この長い時間の中では、辛亥革命の失敗と北洋軍閥の支配、第一次民族統一戦線の樹立と一九二四年から一九二七年の革命、統一戦線の分裂とブルジョアジーの反革命への転移、新しい軍閥戦争、土地革命戦争、第二次民族統一戦線の樹立と抗日戦争などの大きなできごとを経過し、この二十余年のあいだに、いくつかの発展段階を経過した。それらの段階には、一部の矛盾の激化(たとえば土地革命戦争と日本帝国主義の東北四省への侵略)、一部の矛盾の部分的、あるいは一時的な解決(たとえば、北洋軍閥が消滅させられたこととか、われわれが地主の土地を没収したこととか)、一部の矛盾のあらたな発生(たとえば、新しい軍閥のあいだのあらそいとか、南方の各地の革命根拠地が失われたのち、地主が再び土地を取り返したこととか)などの特殊な状況が含まれている。

(6)各段階における矛盾の各側面

 事物の発展過程の、それぞれの発展段階にある矛盾の特殊性を研究するには、その結びつきにおいて、またその全体において見なけれぱならないばかりでなく、それぞれの段階における矛盾のそれぞれの側面からも、それを見なければならない。

 国民党と共産党の両党に例をとろう。国民党の側は、第一次統一戦線の時期には、連ソ、連共、労農援助という孫中山の三大政策を実行したので、それは革命的で、生気にあふれ、諸階級の民主主義革命の同盟体であった。一九二七年以後、国民党は、これと正反対の側に変わり、地主と大ブルジョアジーの反動的集団になった。一九三六年十二月の西安事変以後は、また、内戦を停止し共産党と連合してともに日本帝国主義に反対する側に転じはじめた。これが、国民党の三つの段階での特徴である。これらの特徴が形成されたのには、もちろんさまざまな原因がある。中国共産党の側についていえば、第一次統一戦線の時期には幼年の党であったが、一九二四年から一九二七年の革命を勇敢に指導した。しかし、革命の性質、任務、方法についての認識の面では、その幼稚さをあらわしたので、この革命の後期に発生した陳独秀主義が作用をおこし、この革命を失敗させてしまった。一九二七年以後、中国共産党はまた、土地革命戦争を勇敢に指導し、革命の軍隊と革命の根拠地をつくりあげたが、冒険主義のあやまりをおかしたために、軍隊と根拠地に大きな損失をこうむらせた。一九三五年以後は、ふたたび、冒険主義のあやまりをけ是正して、新しい抗日統一戦線を指導するようになり、この偉大な闘争はいま発展しつつある。この段階では、共産党は二回の革命の試練をへて、豊富な経験を持った党となっている。これらが、三つの段階における中国共産党の特徴である。これらの特徴が形成されたのにもさまざまな原因がある。これらの特徴を研究しなければ、それぞれの発展段階での国共両党の特殊な相互関係、すなわち統一戦線の樹立、統一戦線の分裂および統一戦線の再樹立を理解することはできない。そして、両党のさまざまな特徴を研究するために、より根本的なことは、この両党の階級的基礎、およびそれによってそれぞれの時期に形成された、両党とその他の方面とのあいだの矛盾した対立を研究しなければならないことである。

 たとえば、国民党は共産党と一回目に連合した時期には、それは一方では、外国帝国主義とのあいだに矛盾があったので、帝国主義には反対したが、他方では、国内の人民人衆とのあいだに矛盾があったので、口先では勤労人民に多くの利益を与えると約束しながら、実際には、ごくわずかの利益しか与えなかったか、あるいは全然なにも与えなかった。そして、反共戦争を進めた時期には、帝国主義、封建主義と協力して人民大衆に反対し、人民大衆が革命のなかで闘いとったすべての利益をいっさいがっさい奪いとり、人民大衆とのあいだの矛盾を激化させた。現在の抗日の時期には、国民党は、日本帝国主義とのあいだに矛盾があるので、一方では、共産党と連合しようとしていながら、同時に共産党や国内の人民大衆に対しては、闘争と圧迫をゆるめていない。ところが共産党は、どのような時期にも、つねに人民大衆といっしょになって、帝国主義と封建主義に反対してきた。だが、現在の抗日の時期には、国民党が抗日することを表明しているので、国民党および国内の封建勢力に対して、緩和した政策をとっている。これらの状況から、両党の連合、あるいは両党の闘争が形成されたのであるが、たとえ、両党が連合している時期でも、連合もし、闘争もするという複雑な状況が存在するのである。もし、われわれが矛盾のこれらの側面の特徴を研究しないならば、この両党がそれぞれその他の方面とのあいだに持っている関係を理解できないばかりか、両党のあいだの相互の関係も理解できない。

 こうした点から見て、どのような矛盾の特性を研究するにも、つまり物質のそれぞれの運動形態が持つ矛盾、それぞれの運動形態がそれぞれの発展過程でもつ矛盾、それぞれの発展過程でもつ矛盾のそれぞれの側面、それぞれの発展過程がそれぞれの発展段階でもつ矛盾、およびそれぞれの発展段階の矛盾のそれぞれの側面など、これらすべての矛盾の特性を研究するには、主観的任意性をおびてはならず、それらに対して、具体的な分析をしなければならない。具体的な分析を離れては、どのような矛盾の特性も認識できない。われわれはつねに、具体的事物について具体的分析をせよというレーニンの言葉を銘記しておかなければならない。

(7)特殊性と普遍性の結びつき

 このような具体的分析については、マルクス、エンゲルスが最初にわれわれに立派な手本を示してくれた。マルクス、エンゲルスは、事物の矛盾の法則を社会の歴史的過程の研究に応用したとき、生産力と生産関係とのあいだの矛盾を見いだし、搾取階級と被搾取階級とのあいだの矛盾およびこれらの矛盾によって生まれる経済的土台と政治、思想などの上部構造とのあいだの矛盾、およびこれらの矛盾が、それぞれ異なった階級社会で、どのように不可避的に、それぞれ異なった社会革命を引きおこすかを見いだした。

 マルクスは、この法則を資本主義社会の経済構造の研究に応用したとき、この社会の基本的矛盾が生産の社会性と所有の私的性格のあいだの矛盾であることを見いだした。この矛盾はそれぞれの企業における生産の組織性と、社会全体における生産の無組織性とのあいだの矛盾としてあらわれる。この矛盾の階級なあらわれがブルジョアジーとプロレタリアートのあいだの矛盾である。

 事物の範囲はきわめて広く、その発展は無限であるから、ある場合には普遍性であったものが、他の場合には特殊性に変わる。それとは逆に、ある場合には特殊性であったものが、他の場合には普遍性に変わる。資本主義制度に含まれる生産の社会化と生産手段の私的所有制との矛盾は、資本主義の存在し発展しているすべての国に共通しているものであり、資本主義にとっていえば、矛盾の普遍性である。しかし、資本主義のこの矛盾は、階級杜会一般が一定の歴史的段階に発展したときのものであって、階級社会一般での生産力と生産関係との矛盾からいえば矛盾の特殊性である。しかし、マルクスが資本主義社会のこれらすべての矛盾の特殊性を解剖したことによって、同時に、階級社会一般における生産力と生産関係との矛盾の普遍性は、より深刻に、より十分に、より完全に、明白にされたのである。

 特殊な事物は普遍的な事物と結びついていることから、また、一つひとつの事物の内部には矛盾の特殊性が含まれているばかりでなく、矛盾の普遍性も含まれ、普遍性は特殊性のなかに存在していることから、われわれが一定の事物を研究する場合には、この二つの側面、およびその相互の結びつきを発見し、ある事物の内部にある特殊性と普遍性の二つの側面、およびその相互の結びつきを発見し、ある事物とそれ以外の多くの事物との相互の結びつきを発見しなけれぱならない。スターリンはその名著『レーニン主義の基礎』の中で、レーニン主義の歴史的根源を説明するにあたって、レーニン主義の生まれてきた国際的環境を分析し、帝国主義という条件のもとで、すでに極点にまで発展した資本主義の諸矛盾、およびこれらの諸矛盾によってプロレタリア革命が直接的実践の課題になり、資本主義に直接突撃を加えるよい条件がつくりだされたことを分析している。そればかりでなく、彼はさらに、どうしてロシアがレーニン主義の発祥地になったかを分析し、どうして当時の帝政ロシアが帝国主義のあらゆる矛盾の集中点となり、またロシアのプロレタリアートが世界の革命的プロレタリアートの前衛となることができたかの原因を分析した。このように、スターリンは帝国主義の矛盾の普遍性を分析して、レーニン主義が帝国主義とプロレタリア革命の時代のマルクス主義であることを解明し、また帝政ロシアの帝国主義がこの一般的な矛盾の中で持っていた特殊性を分析して、ロシアがプロレタリア革命の理論と戦術の誕生地となったこと、そして、この特殊性のなかに矛盾の普遍性が含まれていることを解明している。スターリンのこの分析は、われわれに、矛盾の特殊性と普遍性、およびそれらの相互の結びつきを認識する手本を示している。

 マルクスとエンゲルス、同じくレーニンとスターリンは、弁証法を客観的現象の研究に応用する場合、主観的任意性をいささかもおびてはならず、かならず客観的な実際の運動に含まれている具体的な条件から出発して、これらの現象のなかの具体的な矛盾、矛盾のそれぞれの側面の具体的な地位および矛盾の具体的な相互関係を見いださなければならないことを、いつも教えている。わが教条主義者たちには、このような研究態度がないので、なに一つ正しいところのないものになってしまった。われわれは教条主義者の失敗をいましめとして、このような研究態度を身につけなければならない。これ以外にはどのような研究方法もないのである。

 矛盾の普遍性と矛盾の特殊性との関係は、矛盾の共通性と個別性との関係である。共通性とは、矛盾があらゆる過程に存在するとともに、あらゆる過程を始めから終わりまで貫いていることであり、矛盾とは、運動であり、事物であり、過程であり、思想でもある。事物の矛盾を否定することは、すべてを否定することである。これは共通の道理であって、古今東西を通じて例外はない。したがって、それは共通性であり、絶対性である。しかしながら、この共通性はあらゆる個別性のなかに含まれており、個別性がなければ、共通性はない。あらゆる個別性を取りさったら、そこにどんな共通性が残るだろうか。矛盾はそれぞれ特殊であるから、個別性が生まれるのである。すべての個別性は条件的、一時的に存在するものであり、したがって相対的である。

 この共通性と個別性、絶対と相対との道理は、事物の矛盾の問題の真髄であって、これを理解しないことは、弁証法を捨てたにひとしい。

四 主要な矛盾と矛盾の主要な側面


 矛盾の特殊性という問題の中には、とくにとりあげて分析する必要のある状況がまだ二つある。主要な矛盾と矛盾の主要な側面がそれである。

(1)主要な矛盾

 複雑な事物の発展過程には、多くの矛盾が存在しているが、そのなかでは、かならずその一つが主要な矛盾であり、その存在と発展によって、その他の矛盾の存在と発展が規定され、あるいは影響される。たとえば、資本主義社会では、プロレタリアートとブルジョアジーという二つの矛盾する力が主要な矛盾をなし、それ以外の矛盾する力、たとえば、残存する封建階級とブルジョアジーとの矛盾、小ブルジョア農民とブルジョアジーとの矛盾、プロレタリアートと小ブルジョア農民との矛盾、非独占ブルジョアジーと独占ブルジョアジーとの矛盾、ブルジョア民主主義とブルジョア・ファシズムとの矛盾、資本主義国相互間の矛盾、帝国主義と植民地との矛盾、およびその他の矛盾はいずれも、この主要な矛盾する力によって規定され、影響される。

 中国のような半植民地国では、その主要な矛盾と、主要でない矛盾との関係が、複雑な状況を呈している。

 帝国主義がこのような国に侵略戦争をおこなっているときには、このような国の内部の各階級は、一部の売国分子をのぞいて、すべてが、一時的に団結して、帝国主義に反対する民族戦争を進めることができる。そのときには、帝国主義とこのような国とのあいだの矛盾が主要な矛盾となり、このような国の内部の各階級のあいだのあらゆる矛盾(封建制度と人民大衆とのあいだのこの主要な矛盾をも含めて)は、いずれも一時的に副次的な、また従属的な地位にさがる。中国の一八四〇年のアヘン戦争、一八九四年の清日戦争、一九〇〇年の義和団戦争および現在進められている中日戦争には、いずれもこのような状況が見られる。

 しかし、別の状況のもとでは、矛盾の地位に変化がおきる。帝国主義が戦争によって圧迫するのではなくて、政治、経済、文化など比較的温和な形式をとって圧迫する場合には、半植民地国の支配階級は、帝国主義に投降し、両者は同盟をむすんで、いっしょになって人民大衆を圧迫するようになる。こうした場合、人民大衆は国内戦争の形式をとって、帝国主義と封建階級の同盟に反対することがよくあるし、帝国主義は直接行動をとらないで、間接的な方式で、半植民地国の反動派の人民大衆への圧迫を援助することがよくあるので、内部矛盾はとくに鋭くあらわれる。中国の辛亥革命戦争、一九二四年から一九二七年の革命戦争、一九二七年以後十年にわたる土地革命戦争には、いずれもこのような状況が見られる。さらに、たとえば中国の軍閥戦争のような、半植民地国のそれぞれの反動支配者集団のあいだの内戦もまた、こうしたものである。

 国内革命戦争が発展して、帝国主義とその手先である国内反動派の存在を根本からおびやかすようになると、帝国主義はしばしば上述の方法以外の方法をとって、その支配を維持しようと企て、革命陣営の内部を分裂させたり、あるいは直接軍隊を派遣して国内反動派を援助したりする。この場合、外国帝国主義と国内反動派とは、まったく公然と一方の極にたち、人民人衆は他方の極にたち、主要な矛盾を形成して、その他の矛盾の発展状態を規定するか、あるいはそれに影響を与える。十月革命後、資本主義各国がロシアの反動派を助けたのは、武力干渉の例である。一九二七年の蒋介石の裏切りは、革命陣営を分裂させた例である。

 しかし、いずれにしても、過程発展のそれぞれの段階で、指導的な作用をおこすのは、一つの主要な矛盾だけであるということには、すこしも疑いをいれない。

 こうしたことから分かるように、どのような過程にも、もし多くの矛盾が存在しているとすれば、その中の一つはかならず主要なものであって、指導的な、決定的な作用をおこし、その他は、副次的、従属的地位におかれる。したがって、どのような過程を研究するにも、それが二つ以上の矛盾の存在する複雑な過程であるならば、全力をあげてその主要な矛層を見いださなければならない。その主要な矛盾をつかめば、すべての問題はたやすく解決できる。これは、マルクスの資本主義社会についての研究がわれわれに教えている方法である。また、レーニンとスターリンは帝国主義と資本主義の全般的危機を研究する際にも、ソ連の経済を研究する際にも、この方法を教えている。ところが、何十何万という学問家や行動家は、この方法が理解できないために、五里霧中におちいり、核心が見つからず、したがって矛盾を解決する方法も見つけられない。

 過程の中のすべての矛盾を均等にあつかってはならず、それらを主要なものと副次的なものとの二つの種類にわけ、主要な矛盾をつかむことに重点をおかなければならないことは、先に述べたとおりである。だが、さまざまな矛盾のなかで、主要なものであろうと、あるいは副次的なものであろうと、矛盾する二つの側面は、また均等に扱ってよいだろうか。やはりいけない。どんな矛盾であろうと、矛盾の諸側面は、その発展が不均衡である。ある場合には、双方の力が匹敵しているかのように見えるが、それは一時的な相対的な状態にすぎず、基本的な状態は不均衡である。矛盾する二つの側面のうち、かならずその一方が主要な側面で、他方が副次的な側面である。主要な側面とは、矛盾の中で主導的な作用をおこす側面のことである。事物の性質は、主として支配的地位を占める矛盾の主要な側面によって規定される。

(2)矛盾の主要な側面

 しかし、このような状況は固定したものではなく、矛盾の主要な側面と主要でない側面とは、たがいに転化しあうし、事物の性質もそれにつれて変化する。矛盾の発展する一定の過程、あるいは一定の段階では、主要な側面がAの側にあり、主要でない側面がBの側にある。ところが、別の発展段階あるいは別の発展過程に移ると、その位置は入れ替わる。これは、事物の発展の中で矛盾の両側面の闘争している力の増減する度合いによって決定される。

 われわれは「新陳代謝」という言葉をよく目にする。新陳代謝は宇宙における普遍的な、永遠にさからうことのできない法則である。ある事物が、事物自身の性質と条件によって、異なった飛躍の形式を通じて、他の事物に転化するのが新陳代謝の過程である。どのような事物の内部にも、新旧両側面の矛盾があって、一連の曲折した闘争が形づくられている。闘争の結果、新しい側面は小から大に変わり、支配的なものに上昇し、古い側面は大から小に変わり、しだいに滅亡していくものになってしまう。新しい側面が、古い側面に対して支配的地位を得ると、古い事物の性質はすぐ新しい事物の性質に変わる。このことからわかるように、事物の性質は主として支配的な地位を占めている矛盾の主要な側面によって規定される。支配的な地位を占めている矛盾の主要な側面が変化すれば、事物の性質もそれにつれて変化する。

 資本主義社会では、資本主義が古い封建主義社会の時代におかれていた従属的な地位から、すでに支配的な地位を占める力に転化しているので、社会の性質もまた、封建主義的なものから資本主義的なものに変わっている。新しい、資本主義社会の時代には、封建的勢力は元の支配的な地位にあった勢力から、従属的な勢力に転化し、そして一歩一歩消滅してゆく。たとえば、イギリス、フランスなどの諸国ではそうであった。生産力の発展にともなって、ブルジョアジーは新しい、進歩的な役割を果たした階級から、古い、反動的な役割を果たす階級に転化し、最後にはプロレタリアートに打ち倒されて、私有の生産手段を収奪され、権力を失った階級に転化して、この階級もまた、一歩一歩消滅してゆくのである。プロレタリアートは人数の上ではブルジョアジーよりはるかに多く、しかも、ブルジョアジーと同時に生長しながら、ブルジョアジーに支配されていたが、それは一つの新しい勢力であって、ブルジョアジーに従属していた初期の地位から、しだいに強大になって、独立した、歴史上主導的な役割を果たす階級となり、最後には権力を奪いとって、支配階級になる。このときには、社会の性質は、古い資本主義の社会から、新しい社会主義の社会に転化する。これはソ連がすでに通ってきた道であり、他のすべての国もかならず通る道である。

 中国の状況について言うならば、帝国主義は、中国を半植民地にするという矛盾の主要な地位にたって、中国人民を圧迫しており、中国は独立国から半植民地に変わっている。だが、ものごとはかならず変化する。双方が闘っている情勢の中で、プロレタリアートの指導のもとに生長してきた中国人民の力は、かならず中国を半植民地から独立国に変え、帝国主義は打ち倒され、古い中国はかならず新しい中国に変わる。古い中国が新しい中国に変わるということの中には、さらに国内の古い封建勢力と新しい人民勢力とのあいだの状況の変化ということが含まれている。古い封建的地主階級は、打ち倒され、支配者から被支配者に変わり、この階級も一歩一歩消滅していく。そして人民はプロレタリアートの指導のもとで、被支配者から支配者に変わる。このときには中国の社会の性質に変化がおこり、古い半植民地・半封建的な社会は新しい民主的な社会に変わる。

 このような相互転化は、過去にも経験がある。中国を三百年近く支配してきた清朝帝国は、辛亥革命の時期に打ち倒され、そして、孫中山の指導していた革命同盟会が、一度は勝利をおさめた。一九二四年から一九二七年にかけての革命戦争では、共産党と国民党との連合による南方革命勢力が弱小な力から強大なものに変わって、北伐の勝利を闘いとり、そして、一時権勢をほこった北洋軍閥は打ち倒された。一九二七年、共産党の指導する人民の力は、国民党反動勢力から打撃を受けて非常に小さくなったが、自己の内部の日和見主義を一掃することによって、再びしだいに強大になった。共産党の指導する革命根拠地の中では、農民は被支配者から支配者に転化し、地主は正反対の転化をした。世界では、いつもこのように、新しいものが古いものにとって代わっており、新陳代謝、除旧布新、推陳出新ということがおこなわれている。

 革命闘争においては、困難な条件の方が順調な条件より大きいときがあり、そのようなときには、困難が矛順の主要な側面で、順調が副次的な側面である。ところが、革命党員は、その努力によって、困難を一歩一歩克服し、順調な新しい局面を切りひらくことができ、困難な局面を順調な局面におきかえることができる。一九二七年の中国革命失敗後の状況や、長征中の中国赤軍の状況などはみなそうである。現在の中日戦争でも、中国はまた困難な地位におかれているが、われわれはこのような状況をあらため、中日双方の状況に根本的な変化を起こさせることができる。以上とは反対に、もし革命党員が誤りをおかせば、順調も困難に転化される。一九二四年から一九二七年の革命の勝利は矢敗に変わってしまった。一九二七年以後南方各省で発展していた革命の根拠地も一九三四年になると、みな失敗してしまった。

 学問を研究する場合、知らない状態から知る状態へ進むまでの矛盾もまたそうである。われわれがマルクス主義を研究しはじめたときは、われわれのマルクス主義に対する無知、あるいは知識の乏しい状況とマルクス主義の知識とのあいだは、相互に矛盾している。しかし、学習への努力によって、無知は有知に転化し、知識のとぼしい状態は、知識の豊富な状態に転化し、マルクス主義に対する盲目的状態はマルクス主義を自由に運用できる状態に変えることができる。

 一部の矛盾はそうではないと考えている人がいる。たとえば、生産力と生産関係との矛盾では、生産力が主要なものであり、理論と実践との矛盾では実践が主要なものであり、経済的土台と上部構造との矛盾では、経済的土台が主要なものであって、それらの地位は、相互に転化しあうものではないと考えている。これは弁証法的唯物論の見解ではなくて、機械的唯物論の見解である。たしかに、生産力、実践、経済的土台は、一般的には主要な決定的な作用をするものとしてあらわれるのであって、この点を認めない者は唯物論者ではない。しかし、生産関係、理論、上部構造といったこれらの側面も、一定の条件のもとでは、逆に、主要な決定的な作用をするものとしてあらわれるのであって、この点もまた認めなければならない。生産関係が変わらなければ、生産力は発展できないという場合、生産関係を変えることが、主要な、決定的な作用をおこす。レーニンが言ったように「革命の理論がなければ、革命の運動もありえない」[18] という場合には、革命の理論の創造と提唱とが主要な、決定的な作用をおこすのである。

 ある一つの事がら(どんな事がらでも同じであるが)をはじめるとき、まだその方針、方法、計画あるいは政策が立てられていない場合には、方針、方法、計画あるいは政策を確定することが、主要な決定的なものとなる。政治や文化などの上部構造が経済的土台の発展をさまたげている場合には、政治や文化での革新が主要な決定的なものとなる。われわれのこういう言い方は唯物論に反しているだろうか。反してはいない。なぜなら、われわれは、全体的な歴史の発展の中では、物質的なものが精神的なものを決定し、社会的存在が社会的意識を決定することを認めるが、同時にまた、精神的なものの反作用、社会的意識の社会的存在に対する反作用、上部構造の経済的土台に対する反作用を認めるし、また認めなければならないからである。このことは唯物論にそむくことではなく、これこそ機械的唯物論におちいらずに、弁証法的唯物論を堅持するものである。

 矛盾の特殊性の問題を研究するにあたって、もし、過程における主要な矛盾と主要でない矛盾、および矛盾の主要な側面と主要でない側面という、二つのことを研究しないならば、つまり、矛盾のこの二つの状況の差異性を研究しないならば、抽象的な研究におちいり、矛盾の状況を具体的に理解することはできず、したがってまた、矛盾を解決する正しい方法を見いだすこともできない。矛盾のこの二つの状況の差異性あるいは特殊性というのは、矛盾する力の不均衡性である。世界には絶対的に均等に発展するものはなく、われわれは均等論あるいは均衡論に反対しなければならない。同時に、矛盾のこうした具体的な状態、および発展過程における矛盾の主要な側面と主要でない側面との変化こそ、新しい事物が古い事物にとって代わる力をあらわしている。矛盾のさまざまな不均衡な状況についての研究、主要な矛盾と主要でない矛盾、矛盾の主要な側面と主要でない側面についての研究は、革命政党が、政治上軍事上の戦略戦術方針を正しく決定する重要な方法の一つであって、すべての共産党貝が心を注がなければならないところである。

五 矛盾の諸側面の同一性と闘争性


 矛盾の普遍性と特殊性の問題を理解したならば、われわれはさらに進んで、矛盾の諸側面の同一性と闘争性の問題を研究しなければならない。同一性、統一性、一致性、相互浸透、相互貫通、相互依頼(あるいは依存)、相互連結、あるいは相互協力などといったこれらの異なった言葉は、すべて同じ意味であって、次の二つのことを言っている。第一は、事物の発展過程にある一つひとつの矛盾のもつ二つの側面は、それぞれ自己と対立する側面を自己の存在の前提としており、双方が一つの統一体のうちに共存しているということ、第二は、矛盾する二つの側面は、一定の条件によって、それぞれ反対の側面に転化していくということである。これらが同一性と言われるものである。

(1)矛盾の諸側面の同一性

 レーニンは言っている。「弁証法とは、対立面がどのようにして同一であることができ、どのようにして同一であるのか(どのようにして同一となるのか)──それらは、どんな条件のもとで、同一であり、たがいに転化しあうのか──人間の頭脳はなぜこれらの対立面を、死んだ、凝固したものと見るべきではなく、生きた、条件的な、可動的な、相互に転化しあうものとして見なければならないのか、ということについての学説である。」[19]

 レーニンのこの言葉は、どういう意味だろうか。

 あらゆる過程の中で、矛盾しているそれぞれの側面は、もともと、相互に、排斥し、闘争し、対立している。世界のあらゆる事物の過程および人びとの思想には、すべてこのように矛盾性をおびた側面が含まれており、それには一つの例外もない。単純な過程には一対の矛盾しかないが、複雑な過程には、一対以上の矛盾がある。各対の矛盾のあいだも、また相互に矛盾をなしている。このようにして、客観世界のあらゆる事物や人びとの思想が組み立てられ、またそれらに運動をおこさせている。

 こういえば、まったくの不同一、まったくの不統一でしかないのを、どうしてまた同一あるいは統一と言うのか。

 矛盾しているそれぞれの側面は、孤立しては存在できないものである。もし、矛盾の一つの側面に、それと対をなす矛盾の側面がなかったら、それ白身も存在の条件を失ってしまう。あらゆる矛盾する事物、あるいは人びとの心のなかの矛盾している概念のうち、いずれか一つの側面だけが独立して存在することができるかどうかを考えて見るがよい。生がなければ、死はあらわれず、死がなければ、生もあらわれない。上がなければ、下というものはなく、下がなければ、上というものもない。災禍がなければ、幸福というものはなく、幸福がなければ、災禍というものもない。順調がなければ、困難というものはなく、困難がなければ、順調というものもない。地主がなければ、小作人はなく、小作人がなければ、地主もない。ブルジョアジーがなければ、プロレタリアートはなく、プロレタリアートがなければ、ブルジョアジーもない。帝国主義による民族抑圧がなければ、植民地や半植民地はなく、植民地や半植民地がなければ、帝国主義による民族抑圧もない。あらゆる対立的な要素は、すべてこのようで、一定の条件によって、一方では相互に対立しながら、他方ではまた相互に連結しあい、貫通しあい、浸透しあい、依頼しあっている。このような性質が同一性と呼ばれるものである。すべての矛盾している側面は、一定の条件によって、不同一性をそなえているので、矛盾と呼ばれる。しかし、また同一性をそなえているので、相互連結している。レーニンが弁証法とは「対立面がどのようにして同一であることができるか」を研究することだと言っているのは、つまりこのことを言ったのである。どのようにしてそれができるか。たがいに存在の条件をなしているからである。これが同一性の第一の意義である。

 しかしながら、矛盾する双方がたがいに存在の条件となり、双方のあいだに同一性があり、したがって一つの統一体の中に共存することができると言っただけで、十分だろうか。まだ、十分ではない。事がらは矛盾する双方が、相互に依存しあうことで終わるのではなく、いっそう重要なことは、矛盾している事物が相互に転化しあうことにある。つまり、事物の内部の矛屑する両側面は、一定の条件によって、それぞれ自己と反対の側面へ転化してゆき、自己と対立する側面のおかれていた地位へ転化してゆくのである。これが矛盾の同一性の第二の意義である。

 どうしてここにも同一性があるのか。見たまえ、被支配者であったプロレクタリアートは、革命を通じて支配者に転化し、もと支配者であったブルジョアジーは転化して被支配者になり、相手方が元、占めていた地位に転化してゆく。ソ連ではすでにそうなっているし、全世界もそうなろうとしている。もしそのあいだに、一定の条件のもとでのつながりと同一性がなかったら、どうしてこのような変化がおこりえようか。

 国民党は、近代の中国歴史のある段階では、ある種の積極的な役割を果たしたことがあったが、その固有の階級性と帝国主義からの誘惑(これらが条件である)によって一九二七年以後、反革命に転化した。しかし、中国と日本との矛盾が鋭くなったことと、共産党の統一戦線政策(これらが条件である)によって、抗日にやむなく賛成している。矛盾するものが、一方から他方に変わっていくのは、そのあいだに、一定の同一性が含まれているからである。

 われわれの実行した土地革命は、土地を持っていた地主階級が土地を失った階級に転化し、土地を失っていた農民が、逆に、土地を手に入れて小所有者に転化する過程であったし、これからもそうなる。持つことと持たないこと、得ることと失うことのあいだは、一定の条件によって、相互に連結し、両者は同一性を持っている。農民の私有制は、社会主義という条件のもとでは、さらに社会主義的農業の公有制に転化する。ソ連ではすでにそのようにしたし、全世界も将来はそのようにするにちがいない。私有財産と公有財産のあいだには、ここからむこうに通ずる橋があり、哲学ではこれを同一性と言い、あるいは相互転化、相互浸透とも言っている。

 プロレタリアー卜独裁あるいは人民の独裁を強化することは、まさに、こういう独裁を解消し、どのような国家制度も消滅させた、より高い段階に達するための条件を準備することである。共産党を結成し、それを発展させることは、まさに、共産党およびすべての政党制度を消滅させる条件を準備することである。共産党の指導する革命軍を創設して、革命戦争を進めることは、まさに、戦争を永遠に消滅させる条件を準備することである。これら多くのたがいに反するものは、同時にたがいに成り立たせあっているものである。

 周知のように、戦争と平和は相互に転化するものである。戦争は平和に転化する。たとえば、第一次世界大戦は戦後の平和に転化し、中国の内戦もいまは止んで、国内の平和があらわれている。また平和は戦争に転化する。たとえば、一九二七年の国共合作は戦争に転化したし、現在の世界平和の局面にも、第二次世界大戦へ転化する可能性がある。どうしてそうなのか。階級社会では、戦争と平和というこの矛盾している事物が、一定の条件のもとで同一性をそなえているからである。

 矛盾しているすべてのものは、相互に連係しており、一定の条件のもとで一つの統一体のなかに共存しているばかりでなく、一定の条件のもとでは、相互に転化すること、これが矛盾の同一性のもつ意義のすべてである。レーニンが「どのようにして同一であるのか(どのようにして同一となるのか)──それらはどんな条件のもとで、同一であり、たがいに転化しあうのか」と言っているのは、つまりこの意味である。

 「人間の頭脳はなぜ、これらの対立面を、死んだ、凝固したものと見るべきではなく、生きた、条件的な、可動的な、相互に転化しあうものとして見なければならないのか。」 それは客観的事物が、もともとそうなっているからである。客観的事物のなかの矛盾している諸側面の統一、あるいは同一性というものは、もともと死んだものでも、凝固したものでもなくて、生きた、条件的な、可動的な、一時的な、相対的なものであり、すべての矛盾は、一定の条件によって、自己と反対の側面に転化するものである。このような状況が、人間の思想に反映してマルクス主義の唯物弁証法的世界観となった。現在の、また歴史上の反動的な支配階級および彼らに奉仕する形而上学だけが、対立した事物を、生きた、条件的な、可動的な、転化しあうものとして見ずに、死んだ、凝固したものとして見、しかも、彼らの支配をつづけるという目的を達するために、このような誤った見方を、至るところで宣伝し、人民大衆をまどわしている。共産党員の任務は、反動派や形而上学の誤った思想を暴露し、事物本来の弁証法を宣伝し、事物の転化をうながし、革命の目的を達することにある。

 一定の条件のもとでの矛盾の同一性とは、つまり、われわれの言う矛盾が、現実的な矛盾、具体的な矛盾であり、しかも、矛盾の相互転化も現実的、具体的であるということである。神話のなかの多くの変化、たとえば『山海経』の中の「夸父[こほ]が太陽を追いかけた」はなし[20] とか、『淮南子』の中の「笄[げい=羽に廾]が九つの太陽を射た」はなし[21] とか、『西遊記』の中で言われている孫悟空の七十二変化[22] とか、また、『聊斎志異』[23] の中にでてくる多くの亡霊やきつねが人に化ける話など、こういう神話のなかでいわれている矛盾の相互変化は、現実の無数の複雑な矛盾の相互変化が、人びとに引きおこさせた一種の幼稚な、想像的な、主観的幻想の変化であって、具体的矛盾があらわした具体的変化ではない。マルクスは言っている。「すべての神話は、想像のなかで、かつ想像を通じて、自然諸力を克服し支配し形象化する。したがって、それらは、自然諸力が実際に人に支配されていくにつれて消失する。」[24] このような神話の中の(さらに童話の中の)千変万化の物語は、人間が自然力を征服することなどを想像しているので、人びとをよろこばせることができるし、しかも、もっともよい神話は「永遠の魅力」[25] (マルクス)さえ持っているが、神話は、一定の条件のもとでの具体的矛盾にもとづいて構成されたものではないから、現実の科学的な反映ではない。つまり、神話あるいは童話のなかの矛盾を構成する諸側面は、具体的な同一性ではなく、幻想された同一性にすぎない。現実の変化の同一性を科学的に反映したもの、それがマルクス主義の弁証法である。

 なぜ、鶏の卵はひよこに転化できるのに、石ころは、ひよこに転化できないのか。なぜ戦争と平和は同一性を持っているのに、戦争と、石ころは、同一性を持っていないのか。なぜ人間は人間を生むだけで、ほかのものを生むことができないのか。それはほかでもなく、矛盾の同一性は、一定の必要な条件のもとで存在するからである。一定の必要な条件がなければ、どのような同一性もありえない。

 なぜ、ロシアでは一九一七年二月のブルジョア民主主義革命が、同年十月のプロレタリア社会主義革命に直接つながっていたのに、フランスのブルジョア革命は社会主義革命に直接つながることがなく、一八七一年のパリ・コミューン[26] は失敗に終わったのか。またなぜ、モンゴルや中央アジアの遊牧制度が、社会主義と直接つながったのか。なぜ、中国の革命は、西洋諸国の通った古い歴史的な道を通る必要がなく、ブルジョア独裁の時期を経る必要がなく、資本主義の前途を避けることができ、社会主義に直接つながることができるのか。ほかでもなく、これらはすべてそのときの具体的な条件によるのである。一定の必要な条件がそなわっていれば、事物発展の過程には、一定の矛盾が生まれ、しかも、この、あるいはこれらの矛盾は、相互に依存し、相互に転化するのであって、それがないとしたら、すべては不可能である。

(2)矛盾の諸側面の闘争性

 同一性の問題は以上のとおりである。では闘争性とはなにか。同一性と闘争性との関係はどのようなものだろうか。

 レーニンは言っている。「対立面の統一(一致、同一、均衡)は条件的、一時的、経過的、相対的である。相互に排斥しあう対立面の闘争は、発展、運動が絶対的であるように、絶対的である。」[27]

 レーニンのこの言葉は、どういう意昧だろうか。

 すべての過程には始めがあり終わりがある。すべての過程は、自己の対立物に転化する。すべての過程の恒常性は相対的であるが、ある過程が他の過程に転化するという変動性は絶対的である。

 どのような事物の運動も、みな二つの状態、すなわち相対的に静止している状態と著しく変動している状態をとる。二つの状態の運動は、いずれも、事物の内部に含まれる二つの矛盾する要素の相互の闘争によつて引きおこされる。事物の運動が第一の状態にあるときは、それは量的変化があるだけで、質的変化はないので、あたかも静止しているような様相を呈する。事物の運動が第二の状態にあるときは、それはすでに、第一の状態での量的変化がある最高点に達して、統一物の分解を引きおこし、質的な変化を発生させたので、著しく変化した様相を呈するのである。われわれが日常生活において見る統一、団結、連合、調和、均勢、対峙、膠着、静止、恒常、平衡、凝集、吸引などはすべて事物が量的変化の状態にあるときに呈する様相である。そして、統一物が分解し、団結、連合、調和、均勢、対峙、膠着、静止、平衡、凝集、吸引などといった状態が破壊されて、反対の状態に変わるのは、みな事物が質的変化の状態にあるときで、一つの過程から他の過程に移行する変化の中で呈する様相である。事物はどうしても、第一の状態から第二の状態にたえず転化するし、矛盾の闘争は、この二つの状態の中に存在するとともに、第二の状態をへて、矛盾の解決に達するものである。したがって、対立面の統一は、条件的な、一時的な、相対的なものであるが、対立面が相互に排除しあう闘争は絶対的であるというのである。

 われわれは先に、たがいに反する二つのもののあいだには、同一性があり、したがって、二つのものは一つの統一体の中に共存することができるし、さらに、相互に転化することができると言ったが、これは条件性のことで、つまり一定の条件のもとでは矛盾するものは統一することができ、さらに、相互に転化することができるし、この一定の条件がなければ、矛盾となることもできないし、共存することもできず、転化することもできないということである。一定の条件によって矛盾の同一性が構成されるので、同一性は条件的であり、相対的であるというのである。さらに、矛盾の闘争は、過程の始めから終わりまでを貫いていると同時に、一つの過程を他の過程に転化させるものであり、矛盾の闘争は存在しないところがないので、矛盾の闘争性は無条件的であり、絶対的であるというのである。

 条件的な、相対的な同一性と、無条件的な、絶対的な闘争性とが結合して、あらゆる事物の矛盾の運動を構成する。

 われわれ中国人がつねに言う「たがいに反しながら、たがいに成りたたせあう」[28] とは、たがいに反するものが同一性を持っているという意味である。この言葉は、形而上学とは反対の、弁証法的なものである。「たがいに反する」とは、矛盾する二つの側面が相互に排斥し、あるいは相互に闘争することを言う。「たがいに成りたたせあう」とは、矛盾する二つの側而が、一定の条件のもとで、相互に連結して同一性を獲得することを言う。闘争性は同一性のなかにやどっており、闘争性がなければ、同一性はない。

 同一性のなかには闘争性が存在し、特殊性のなかには普遍性が存在し、個別性のなかには共通性が存在している。レーニンの言葉を借りて言えば「相対的なもののなかに絶対的なものがある」[29] のである。

六 矛盾における敵対の地位


 矛盾の闘争性という問題には、敵対とはなにかという問題が含まれている。われわれの答えは、敵対とは、矛盾の闘争の唯一の形態ではなく、矛盾の闘争の一つの形態にすぎない。

 人類の歴史には階級的な敵対が存在する。これは矛盾の闘争の特殊なあらわれである。搾取階級と被搾取階級のあいだの矛盾について言うと、奴隷社会でも、封建社会でも、資本主義社会でも、相互に矛盾する二つの階級は、長期にわたって一つの社会のなかで並存し、相互に闘争しているが、二つの階級の矛盾が一定の段階にまで発展すると、はじめて双方は外部的な敵対の形態をとり、革命に発展する。階級社会では、平和から戦争への転化も、やはりこうである。

 爆弾がまだ爆発しないうちは、矛盾物が一定の条件によって一つの統一体のなかで共存しているときである。新しい条件(発火)があらわれると、はじめて爆発をおこす。自然界で最後に外部的な衡突の形態をとって、古い矛盾を解決し、新しい事物をうみだす現象にはすべてこれと似た状況がある。

 このような状況を認識することは、きわめて重要である。それはわれわれに、階級社会では、革命と革命戦争が不可避であり、それなしには、杜会発展の飛躍を達成することもできなければ、反動的支配階級を打ち倒して人民に権力をにぎらせることもできないことを理解させるものである。共産党員は、反動派の言っている、社会革命は不必要だとか不可能だとかいう欺瞞的な宣伝を暴露し、マルクス・レーニン主義の社会革命の理論を堅持して、社会革命はぜひ必要であるばかりでなく、まったく可能であり、全人類の歴史とソ連の勝利がその科学的な真理を証明していることを人民に理解させなければならない。

 だが、われわれは、先に述べた公式をすべての事物の上にむりやりに当てはめてはならず、矛盾のさまざまな闘争の状況について具体的に研究しなければならない。矛盾と闘争とは普遍的であり、絶対的であるが、矛盾を解決する方法、すなわち、闘争の形態は矛盾の性質のちがいによって異なる。一部の矛盾は公然たる敵対性をもつが、一部の矛盾はそうではない。事物の具体的発展にもとづいて、一部の矛盾は、もともと非敵対性であったものから敵対性のものに発展し、また、一部の矛盾は、もともと敵対性であったものから非敵対性のものに発展する。

 前に述べたように、共産党内の正しい思想と誤った思想との矛盾は、階級が存在しているときには、階級的矛盾の党内への反映である。この矛盾は、はじめのうちとか、あるいは、個々の問題では、すぐに敵対性のものとしてあらわれるとはかぎらない。だが、階級闘争が発展するにつれて、この矛盾も敵対性のものに発展する可能性がある。ソ連共産党の歴史は、われわれに、レーニンやスターリンの正しい思想とトロツキーやブハーリンなどの誤った思想との矛盾が、はじめのころは、まだ敵対的な形態をとってあらわれなかったが、のちには、敵対的なものに発展したことを教えている。中国共産党の歴史にも、このようなことがあった。わが党内の多くの同志の正しい思想と陳独秀、張国壽[とう=壽の下に点4つ]らの誤った思想との矛盾は、はじめのころは、やはり、敵対的な形態となってあらわれなかったが、のちには、敵対的なものに発展した。現在わが党内の正しい思想と誤った思想との矛盾は、敵対的な形態となってあらわれてはいず、もし、誤りをおかした同志が自分の誤りを改めることができるならば、それは敵対性のものにまで発展することはない。したがって、党は一方では誤った思想に対し、厳格な闘争を進めなければならないが、他方では、また誤りをおかした同志に自覚する機会を十分与えるようにしなければならない。このような場合に、ゆきすぎの闘争は明らかに不適当である。しかし、誤りをおかした人がその誤りを固執し、さらにそれを拡大させるならば、この矛盾は、敵対性のものにまで発展する可能性がある。

 経済面での都市と農村との矛盾は、資本主義社会においては(そこではブルジョアジーの支配する都市が農村を残酷に収奪している)、また中国の国民党支配地区においては(そこでは外国の帝国主義と自国の買弁的大ブルジョアジーの支配している都市が農村をきわめて横暴に収奪している)、その矛盾がきわめて敵対的である。だが、社会主義国では、またわれわれの革命根拠地ては、このような敵対的矛盾が非敵対的矛盾に変わっており、共産主義の社会になったときにはこのような矛盾は消滅する。

 レーニンは言っている。「敵対と矛盾とは、まったく異なったものである。社会主義のもとでは、前者は消失するが、後者は存続する。」[30]  これはつまり、敵対とは矛盾の闘争のあらゆる形態ではなく、その一つの形態にすぎないから、この公式をところかまわず当てはめてはならないということである。

七 結論


 ここで、われわれは次のように総括することができる。事物の矛盾の法則、すなわち対立面の統一の法則は、自然および社会の根本法則であり、したがって、思考の根本法則でもある。それは形而上学の世界観とは正反対のものである。それは人類の認識史における一大革命である。弁証法的唯物論の観点から見ると、矛盾は客観的事物および主観的思考のすべての過程に存在しており、すべての過程の始めから終わりまでを貫いている。これが矛盾の普遍性と絶対性である。矛盾している事物およびその一つひとつの側面はそれぞれ特徴をもっている。これが矛盾の特殊性と相対性である。矛盾している事物は、一定の条件によって、同一性を持っており、したがって、一つの統一体のなかに共存することができるし、また相互に反対の側面に転化してゆくことができる。これもまた矛盾の特殊性と相対性である。しかし、矛盾の闘争は絶えることがなく、それらが共存しているときでも、あるいは相互に転化しているときでも、闘争が存在しており、とくに相互転化のときには、闘争がいっそうはっきりとあらわれる。これもまた矛盾の普遍性と絶対性である。われわれが、矛盾の特殊性と相対性を研究する場合には、矛盾および矛盾の側面の主要なものと主要でないものとの区別に注意しなければならず、矛盾の普遍性と闘争性を研究する場合には、矛盾のさまざまな異なった闘争形態の区別に注意しなければならない。そうしなければ、誤りをおかすであろう。もし、われわれが研究をつうじて、上に述べた諸要点をほんとうに理解するならば、われわれは、マルクス・レーニン主義の基本原則にそむき、われわれの革命事業にとって不利なあの教条主義思想を打ち敗ることができるし、また経験をもっている同志たちに、その経験を整理させ、それに原則性をもたせて、経験主義の誤りをくりかえさせないようにすることもできる。これらのことはわれわれが、矛盾の法則の研究から得た簡単な結論である。

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《原注》

 この哲学論文は、毛沢東同志が「実践論」についで、それと同じ目的のために、つまり党内に存在するゆゆしい教条主義思想を克服するために書いたもので、かつて延安の抗日軍事政治大学で講演したことがある。本選集におさめるにあたって、著者は部分的な補足、削除、訂正を加えた。

[1] ヘーゲルの『哲学史講義』第一巻の「エレア学派」に対するレーニンの短評から引用。レーニンの『へーゲルの著書「哲学史講義」の摘要』(一九一五年著)に見られる。
[2] レーニンの『弁証法の問題について』(一九一五年著)には、「統一物が二つに分かれること、そして、そのの矛盾したそれぞれの部分を認識することは、弁証法の本質である」とある。またへーゲルの著書『論理学』第三巻第三編「理念」に対するレーニンの短評には「弁証法は簡単には対立面の統一の学説と規定することができる。これによって弁証法の核心はつかまれるであろうが、しかしこれは説明と展開とを要する」とある。レーニンの『へーゲルの著書「論理学」の摘要』(一九一四年九月から十二月にかけての著)を参照。
[3] デボーリンは、ソ連の哲学者で、ソ連科学アカデミー会員である。一九三〇年、ソ連の哲学界では、デボーリン学派に対する批判をおこし、理論が実践からかけはなれ、哲学か政治からかけはなれるなどの、デボーリン学派のおかした観念論的誤りを指摘した。
[4] レーニンの『弁証法の問題について』から引用。
[5] 『前漢書ー董仲舒伝』に見られる。董仲舒(西紀前二世紀の人)は、漢代における孔子学派の有名な代表的人物で、漢の武帝に対して「道の大もとは天より出で、天は不変であり、道もまた不変である」と述べた。
[6] エンゲルスの『反デューリング論』(一八七七年から一八七八年にかけて発表)第一編第十二節「弁証法。量と質」から引用。
[7] レーニンの『弁証法の問題について』に見られる。
[8] エンゲルスの『反デューリング論』第一編第十二節「弁証法。量と質」から引用。
[9] レーニンの『弁証法の問題について』から引用。
[10] ブハーリン(一八八八〜一九三八年)は、もともとロシアの革命運動の中で、レーニン主義に反対した一分派のかしらであり、のちに国家反逆集団に加わったため、一九三八年、ソ連最高裁判所の判決により死刑に処せられた。毛沢東同志が、ここで批判しているのは、ブハーリンが長期にわたって固執した誤った意見である。その誤った意見とは、階級矛盾をおおいかくし、階級闘争を階級協調に変えてしまったことである。一九二八年から一九二九年にかけて、ソ連が農業集団化を全面的に実行しようとしていたとき、ブハーリンはこの誤った意見をいっそう露骨に持ちだして、富農と貧農、中農とのあいだの階級的矛盾を極力おおいかくし、富農に対する断固たる闘争に反対すると同時に、労働者階級は富農と同盟を結ぶことができるとか、富農は「社会主義への平和的成長」ができるとかいったでたらめな考え方をした。
[11] レーニンの『弁証法の問題について』から引用。
[12] レーニンの論文『共産主義』(一九二〇年六月十二日著)に見られる。
[13] 『孫子---謀攻編』に見られる。
[14] 魏徴(西紀五八〇〜六四三年)は唐代初期の政治家であり歴史家であった。本文に引用されている言葉は『資治通鑑』巻一九二に見られる。
[15] 『水滸伝』は、北宋末期の農民戦争を描いた小説で、宋江はその小説における農民武装組織の主要な指導者である。祝家荘はその農民武装組織の根拠地梁山泊の付近にあり、この荘の支配者祝朝奉は大極悪地主であった。
[16] 木馬の計は、ギリシア神話にある有名な物語である。伝説によれば、古代ギリシア人がトロイ城を攻めたが、長いあいだ落とせなかった。のちに、彼らは撤退すると見せかけて、城外の営舎に大きな木馬をのこし、その腹のなかにつわものたちをひそませた。トロイ人は、これが敵の計略とは知らず、木馬を戦利品として城内にもちこんだ。夜がふけると、つわものたちは木馬から出てきて、トロイ人がすっかり油断しているすきに乗じて、城外の軍隊と呼応し、たちまちトロイ城を奪いとった。
[17] レーニンの『ふたたび、労働組合について、現在の情勢について、トロツキーとブハーリンの誤りについて』(一九二一年一月著)から引用。
[18] レーニンの『なにをなすべきか?』(一九〇一年秋〜一九〇二年二月著)第一章第四節に見られる。
[19] へーゲルの『論理学』第一巻第一編「規定性(質)」に対するレーニンの短評から引用。レーニンの『へーゲルの著書「論理学」の摘要』に見られる。
[20] 『山海経』は、中国の秦、漢以前の著作である。夸父とは『山海経─海外北経』にでてくる神人である。それによれば「夸父が太陽と駆けくらべをした。太陽がしずみ、のどがかわくあまり、黄河と渭水の水を飲んだ。黄河と渭水では足りなかったので、北の大沢に行って飲もうとしたが、ゆきつかないうちに、途中でのどかかわききって死んでしまった。その杖のすてられたところが森林とれなった」とある。
[21] 〔要約〕中国古代の伝説にある弓の名人の英雄で、尭の時代に、十個の太陽が一時に出て、作物をこがし草を枯らして飢饉が起きたので、そのうち九個を射て民を救った。
[22] 『西遊記』は一六世紀に書かれた中国の神話小説である。孫悟空はその中にでてくる主人公の神猿で、七十二変化の法術を身につけ、さまざまな鳥、けもの、虫、魚、草、木、器物、人間などに、思うままに化けることができた。
[23] 『聊斎志異』は、清朝の人蒲松齢(一六四〇-一七一五年)が書いた短編小説集で、大部分が、神や仙人や狐や幽霊の物語である。
[24] マルクスの経済学手稿(一八五七年から一八五八年にかけての著)の「序説」から引用。
[25] マルクスの経済学手稿の「序説」から引用。
[26] パリ・コンミューンは、世界史上最初のプロレタリアートの権力組織である。一八七一年一三月十八日、フランスのプロレタリアートはパリで蜂起し、権力を奪いとった。三月二十八日には、選挙によって生まれた、プロレタリアートの指導するパリ・コミューンが成立した。パリ・コミューンはプロレタリア革命がブルジョアジーの国家機関を粉砕した最初の試みであり、プロレタリアートの権力が、打ち砕かれたブルジョアジーの権力にとってかわった偉大な創意であった。当時、フランスのプロレタリアートはまだ未熟であったので、広範な農民同盟軍との団結に注意しなかったし、反革命に対しては寛大にすぎ、いちはやく断固たる軍事進攻をおこなわなかった。このため、反革命勢力は四散した兵力をかき集めるゆとりを持ち、勢いを盛り返して、蜂起した大衆にきちがいじみた大虐殺を加えることができた。五月二十八日、パリ・コンミューンは失敗をつげた。
[27] レーニンの『弁証法の問題について』から引用。
[28] この言葉は、漢代の歴史家班固(西紀二二〜九二年)があらわした『前漢書』巻三十「芸文志」に見られ、原文は次のとおりである。「諸子十家のうち、見るべきものは九家のみである。これらはみな、王道が衰え、諸侯が武力であらそい、時の君主たちがそれぞれ異なる好みをもっていたときにおこった。こうして九家の術がむらがりおこり、思い思いの主張をもち、自分がよいと思うものをかかげ、それをもって遊説し、諸侯に取りいった。彼らの言うところは異なってはいるが、たとえてみれば水と火のように、たがいに滅しあいながらも、たがいに生じさせあい、仁は義と、敬は和と、みなたがいに反しながらも、たがいに成りたたせあった。」
[29] レーニンの『弁証法の問題について』に見られる。
[30] レーニンの『ブハーリンの著「過渡期の経済」への評論」(一九二〇年五月著)から引用。


(1)実践が真理の基準

 マルクス以前の唯物論は、人間の社会的性質から離れ、人間の歴史的発展から離れて、認識の問題を考察した。したがって、社会的実践に対する認識の依存関係、すなわち生産および階級闘争に対する認識の依存関係を理解できなかった。

 まず第一に、マルクス主義者は、人類の生産活動がもっとも基本的な実践活動で、その他のすべての活動を決定するものであると考える。人間の認識は、主として物質の生産活動に依存して、しだいに自然界の現象、自然界の性質、自然界の法則性、人間と自然界との関係を理解するようになる。しかも、生産活動をつうじて、人と人との一定の相互関係をも、さまざまな程度で、しだいに認識するようになる。これらの知識は、生産活動を離れては何ひとつ得られない。階級のない社会では、人類の物質生活の問題を解決するために、それぞれの人が社会の一員として、社会の他の成員と協力し、一定の生産関係を結んで、生産活動に従事する。また、さまざま階級社会では、人類の物質生活の問題を解決するために、各階級の社会の成員が、さまざまの異なった様式で一定の生産関係をむすんで、生産活動に従事する。これが人間の認識の発展する基本的な源泉である。

 人間の社会的実践は、生産活動という一つの形態に限られるものではなく、そのほかにも、階級闘争、政治生活、科学・芸術活動など多くの形態がある。要するに、社会の実際生活のすべての領域には社会的人間が参加しているのである。したがって、人間の認識は、物質生活のほかに、政治生活、文化生活(物質生活と密接につながっている)からも、人と人とのいろいろな関係をさまざまな程度で知るようになる。そのうちでも、とくにさまざまな形態の階級闘争は、人間の認識の発展に深い影響をあたえる。階級社会では、だれでも一定の階級的地位において生活しており、どんな思想でも階級の烙印の押されていないものはない。

 マルクス主義者は、人類社会の生産活動は、低い段階から高い段階へと一歩一歩発展してゆく、したがって、人間の認識もまた、自然界に対してであれ、杜会に対してであれ、やはり低い段階から高い段階へ、すなわち浅いところから深いところへ、一面から多面へと一歩一歩発展してゆくものと考える。歴史上長いあいだ、人びとは社会の歴史について、ただ一面的な理解しかできなかった。それは、一方では搾取階級の偏見がつねに社会の歴史をゆがめていたことと、他方では、生産規模が小さかったために、人びとの視野が限られていたことによる。巨大な生産力——大工業にともなって、近代プロレタリアートが出現したときになってはじめて、人びとは、社会の歴史的発展に対して全面的歴史的に理解することができるようになり、社会についての認識を科学に変えた。これがマルクス主義の科学である。

 マルクス主義者は、人びとの社会的実践だけが、外界に対する人びとの認識の真理性をはかる基準であると考える。実際の状況は次のようである。社会的実践の過程において(物質生産の過程、階級闘争の過程、科学実験の過程において)、人びとが頭のなかで予想していた結果に到達した場合にだけ、その認識は実証される。人びとが仕事に成功しようと思うなら、つまり予想した結果を得ようとするなら、自分の思想を客観的外界の法則性に合致させなければならない。合致させなければ、実践において失敗するにちがいない。失敗したあとで、失敗から教訓をくみとり、自分の思想を外界の法則性に合致するように改めると、失敗を成功に変えることができる。「失敗は成功のもと」とか、「一度つまずけば、それだけ利口になる」とか言われるのは、この道理を言っているのである。弁証法的唯物論の認識論は、実践を第一の地位に引きあげ、人間の認識は実践からいささかでもはなれることができないと考えて、実践の重要性を否定し、認識を実践から切り離すすべての誤った理論をしりぞける。

 レーニンは次のように言っている。「実践は(理論的)認識よりも高い。なぜなら、実践は単に普遍性という長所をもつだけでなく、直接的な現実性という長所をももっているからである。」[1]  マルクス主義の哲学、つまり弁証法的唯物論にはもっとも顕著な時徴が二つある。一つはその階級性で、弁証法的唯物論はプロレタリアートに奉仕するものであることを公然と言明していること、もう一つはその実践性で、実践に対する理論の依存関係、すなわち理論の基礎は実践であり、理論はまた転じて実践に奉仕するものであることを強調していることである。認識あるいは理論が真理であるかどうかの判定は、主観的にどう感じるかによってきまるのではなく、客観的に社会的実践の結果がどうであるかによってきまるのである。真理の基準となりうるものは、社会的実践だけである。実践の観点は、弁証法的唯物論の認識論の第一の、そして基本的な観点である[2]。

(2)現象から本質への認識の発展

 だが、人間の認識は、いったいどのようにして実践から生まれ、また実践に奉仕するのか。これは認識の発展過程を見れば分かることである。

 もともと人間は、実践過程において、はじめのうちは、過程のなかのそれぞれの事物の現象の面だけを見、それぞれの事物の一面だけを見、それぞれの事物のあいだの外部的つながりだけを見るにすぎない。たとえば、よその人たちが視察のために延安にやってきたとする。最初の一両日は、延安の地形、街路、家屋などをながめたり、多くの人に会ったり、宴会や交歓会や大衆集会に出席したり、いろいろな話を聞いたり、さまざまな文献を読んだりする。これらは事物の現象であり、事物のそれぞれの一面であり、また、これらの事物の外部的なつながりである。これを認識の感性的段階、すなわち感覚と印象の段階という。つまり延安のこれらの個々の事物が、視察団の諸氏の感覚器官に作用して、彼らの感覚を引きおこし、彼らの頭脳に多くの印象と、それらの印象のあいだの大まかな外部的なつながりを生じさせたのであって、これが認識の第一の段階である。この段階では、人びとは、まだ深い概念をつくりあげることも、論理にあった(すなわちロジカルな)結論を下すこともできない。

 社会的実践の継続は、実践のなかで感覚と印象を引きおこしたことを人びとに何回となくくりかえさせる。すると、人びとの頭脳のなかで、認識過程における質的激変(すなわち飛躍)がおこり、概念が生れる。概念というものは、もはや事物の現象でもなく、事物のそれぞれの一面でもなく、それらの外部的なつながりでもなくて、事物の本質、事物の全体、事物の内部的なつながりをとらえたものである。概念と感覚とは、単に量的にちがっているぱかりでなく、質的にもちがっている。このような順序を踏んで進み、判断と推理の方法を使っていけば、論理にあった結論を生みだすことができる。『三国演義』に「ちょっと眉根をよせれば、名案がうかぶ」と言われているのも、またわれわれが日常「ちょっと考えさせてくれ」といったりするのも、つまりは、人間が頭脳のなかで、概念をつかって判断や推理をする作業をいっているのである。これが認識の第二の段階である。

 よそからきた視察団の諸氏が、いろいろの材料を集めて、さらに「ちょっと考え」ていくと、「共産党の抗日民族統一戦線政策は徹底しており、誠意があり、ほんものである」という判断を下すことができる。こうした判断を下したのちに、もし彼らの団結救国もほんものであるならば、彼らは一歩を進めて「抗日民族統一戦線は成功する」という結論を下すことができるようになる。この概念、判断および推理の段階は、ある事物に対する人びとの認識過程全体のなかでは、より重要な段階で、つまり理性的認識の段階である。

 認識の真の任務は、感覚をつうじて思考に逹っすること、一歩一歩客観的事物の内部矛盾、その法則性、一つの過程と他の過程とのあいだの内部的つながりを理解するに至ること、つまり論理的認識に逹っすることにある。くりかえして言えば、論理的認識が感性的認識と異なるのは、感性的認識が事物の一面的なもの、現象的なもの、外部的なつながりのものに属するのに対して、論理的認識は、大きく一歩を進めて、事物の全体的なもの、本質的なもの、内部的なつながりのものにまで逹っし、周囲の世界の内在的矛盾をあばきだすところまでいき、したがって、周囲の世界の発展を、周囲の世界の全体において、そのすべての側面の内部的なつながりにおいて、把握することができるからである。

 実践にもとづいて、浅いところから深いところへ進むという認識の発展過程についての弁証法的唯物論の理論を、マルクス主義以前にはこのように解決したものが一人もなかった。マルクス主義の唯物論が、はじめてこの問題を正しく解決し、認識の深化する運動を唯物論的に、しかも弁証法的に指摘し、社会的な人間が彼らの生産と階級闘争の複雑な、つねにくりかえす実践のなかで、感性的認識から論理的認識へと推移していく運動を指摘した。レーニンは言っている。「物質という抽象、自然法則という抽象、価値という抽象など、一言でいえば、すべての科学的な(正しい、まじめな、でたらめでない)抽象は、自然をより深く、より正確に、より完全に反映する。」[3]  マルクス・レーニン主義は次のように認める。認識過程における二つの段階の特質は、低い段階では認識が感性的なものとしてあらわれ、高い段階では認識が論理的なものとしてあらわれるが、いずれの段階も統一的な認識過程のなかでの段階である。感性と理性という二つのものは、性質は異なっているが、相互に切り離されるものではなく、実践の基礎の上で統一されているのである。

 われわれの実践は次のことを証明している。感覚されたものでも、それがすぐには理解できないこと、理解したものだけがより深く感覚されるということである。感覚は現象の問題を解決するだけであって、本質の問題を解決するのは理論である。これらの問題の解決においては、少しでも実践から離れることはできない。だれでも、事物を認識しようとすれば、その事物と接触すること、つまりその事物の環境のなかで生活すること(実践すること)よりほかには、解決の方法がない。封建社会のなかにいて、資本主義社会の法則を前もって認識することはできない。なぜなら、資本主義はまだあらわれていず、まだその実践がないからである。マルクス主義は資本主義社会の産物でしかありえない。マルクスが資本主義の自由競争時代に前もって帝国主義時代のいくつかの特殊な法則を具体的に認識することができなかったのは、帝国主義という資本主義の最後の段階がまだやってこず、そのような実践がまだなかったからであって、この任務を担い得たものは、ほかならぬ、レーニンとスターリンである。マルクス、エンゲルス、レーニン、スクーリンがその理論をつくりあげることのできたのは、彼らが天才であったという条件のほかに、主としてみずから当時の階級闘争と科学実験という実践に参加したからであり、後者の条件がなければ、どんな天才でも成功できるものではない。「秀才は家の中にいても、天下のことは何でも知っている」というこの言葉は、技術の発達していなかった昔では、たんなる空言にすぎなかった。技術の発達した現代では、この言葉を実現することもできるが、真に身をもって知っている者は世の中で実践している人たちであって、こうした人がその実践のなかで「知」を得、それが文字と技術による伝達をつうじて「秀才」に伝わり、そこで秀才が間接に「天下のことを知る」ことができるのである。

(3)直接的経験と間接的経験

 ある事物、もしくはあるいくつかの事物を直接に認識しようとするには、その事物の現象に触れることができるように、現実を変革し、ある事物を変革する実践的闘争にみずから参加する以外になく、また、その事物の本質をあばきだし、それらを理解することができるように、現実を変革する実践的闘争にみずから参加する以外にない。これはどんな人でも実際に歩んでいる認識の道すじであって、ただ一部の人が故意にそれをゆがめて反対のことを言っているにすぎない。世の中でいちばんこっけいなのは、「もの知り屋」たちが、聞きかじりの生半可な知識をもって、「天下第一」だと自称していることであるが、これこそ身のほどを知らないことのよいあらわれである。

 知識の問題は科学の問題で、いささかの虚偽も傲慢さもあってはならない。決定的に必要なのは、まさにその反対のこと——誠実さと謙虚な態度である。知識を得たいならば、現実を変革する実践に参加しなければならない。梨の味を知りたければ、自分でそれを食べてみること、すなわち梨を変革しなければならない。原子の構造と性質を知りたければ、物理学や化学の実験によって、原子の状態を変革しなければならない。革命の理論と方法を知りたければ、革命に参加しなければならない。すべての真の知識は直接的経験をその源としている。

 しかし、人間は何もかも直接に経験できるものではない。事実、多くの知識は間接に経験されたもので、昔や外国のことについてのすべての知識がそれである。それらの知識は、昔の人びとや外国の人びとにとっては直接に経験したもので、もし昔の人や外国の人が直接に経験した際、それがレーニンの指摘した条件、つまり「科学的な抽象」に合致しており、客観的な事物を科学的に反映していたならば、それらの知識は信頼できるものであるが、そうでないものは信頼できないものである。だから、一人の人間の知識は、直接に経験したものと、間接に経験したものとの二つの部分以外にはない。しかも、自分にとっては間接に経験したものが、他の人にとっては直接に経験したものである。したがって、知識全体について言うと、どんな知識でも直接的経験から切り離せるものはない。

 いかなる知識の源泉も、客観的な外界に対する人間の肉体的感覚器官の感覚にある。この感覚を否定し、直接的経験を否定し、現実を変革する実践にみずから参加することを否定する者は、唯物論者ではない。「もの知り屋」がこっけいなわけは、ここにある。中国には、「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」ということわざがある。この言葉は、人びとの実践にとっても真理であるし、認識論にとっても真理である。実践を離れた認識というものはありえない。

(4)認識運動の具体例

 現実を変革する実践にもとづいて生れた弁証法的唯物論の認識運動——認識の次第に深化する運動を理解するために、さらにいくつかの具体的な例をあげよう。

 資本主義社会に対するプロレタリアートの認識は、その実践の初期——機械の破壊や自然発生的闘争の時期には、まだ感性的認識の段階にとどまっていて、資本主義のそれぞれの現象の一面、およびその外部的なつながりを認識したにすぎなかった。当時、彼らは、まだいわゆる「即自的階級」であった。しかし、彼らの実践の第二の時期——意識的、組織的な経済闘争および政治闘争の時期になると、実践によって、また長期にわたる闘争の経験、これらのさまざまな経験をマルクスとエンゲルスが科学的な方法で総括し、マルクス主義の理論をつくりだして、プロレタリアートを教育したことによって、プロレタリアートは資本主義社会の本質を理解し、社会階級間の搾取関係を理解し、プロレタリアートの歴史的任務を理解するようになった。この時、彼らは「対自的階級」に変わったのである。

 帝国主義に対する中国人民の認識もまたこのとおりである。第一段階は、表面的な感性的な認識の段階であり、それは太平天国運動や義和団運動などの漠然とした排外主義闘争にあらわれている。第二段階で、はじめて理性的な認識の段階に進み、帝国主義の内部と外部のさまぎまな矛盾を見ぬくとともに、帝国主義が中国の買弁階級および封建階級と結んで、中国の人民大衆を抑圧し搾取している本質を見ぬいたのであって、このような認識は、一九一九年の五・四運動[4] 前後になってやっと生れはじめたのである。

 われわれはさらに戦争について見てみよう。戦争の指導者たちが、もし戦争に経験のない人びとであるならば、ある具体的な戦争(たとえば、われわれの過去十年にわたる土地革命戦争)の奥深い指導法則について、はじめの段階では理解していない。はじめの段階では、彼らは身をもって多くの戦いの経験をつむだけで、しかも何度となく負けいくさをやる。しかし、これらの経験(勝利の経験、とくに敗北の経験)によって、戦争全体をつらぬいている内部的なもの、すなわちその具体的な戦争の法則性が理解でき、戦略と戦術が分かるようになり、したがって確信をもって戦争を指導できるようになる。この時に、もし経験のない者に替えて戦争を指導させることになると、その正しい法則を会得するまでには、また何回かの負けいくさをやらなければ(経験をつまなければ)ならない。

 われわれは、一部の同志が活動の任務を引きうけるのにしりごみするとき、自信がないという言葉を口にするのをよく聞く。どうして自信がないのか。それは、彼がその活動の内容と環境について法則的な理解をしていないからであって、つまり今までにそういう活動に接したことがないか、あるいは接することが少なかったので、そういう活動の法則性については知りようもなかったからである。活動の状況と環境をくわしく分析してやると、彼は前よりわりあい自信がついたように感じて、進んでその活動をやろうというようになる。もしその人がその活動にある期間たずさわって、活動の経験をつんだなら、そしてまた、彼が問題を主観的、一面的、表面的に見るのでなく、状況について謙虚に探究する人であるなら、彼はその活動をどのように進めるべきかについての結論を自分で引きだすことができ、活動に対する勇気も大いに高まるであろう。問題を主観的、一面的、表面的に見る人に限って、どこへいっても周囲の状況をかえりみず、事がらの全体(事がらの歴史と現状の全体)を見ようとせず、事がらの本質(事がらの性質およびこの事がらとその他の事がらとの内部的なつながり)には触れようともしないで、ひとりよがりに命令を下すのであって、こういう人間がつまづかないはずはない。

(5)感性的認識から理性的認識へ

 以上のことから見て、認識の過程は、第一歩が外界の事がらに触れはじめることで、これが感覚の段階である。第二歩が感覚された材料を総合して、それを整理し改造することで、これが概念、判断および推埋の段階である。感覚された材料にもとづいて正しい概念と論理をつくりだすには、その材科が十分豊富で(断片的な不完全なものでなく)、実際に合って(錯覚ではなくて)いなければならない。

 ここでとくに指摘しておかなければならない重要な点が二つある。第一の点は、前にものべているが、ここでくりかえして言えば、つまり理性的認識は、感性的認識に依存するという問題である。もし、理性的認識が感性的認識からでなくても得られると考える人があれば、それは観念論者である。哲学史上には「合理論」と言われる学派があって、理性の実在性だけを認めて、経験の実在性を認めず、理性だけが信頼できて、感覚的な経験は信頼できないと考えているが、この一派の誤りは、事実を転倒しているところにある。理性的なものが信頼できるのは、まさにそれが感性に由来するからで、そうでなければ、理性的なものは源のない流れ、根のない木となり、主観的に生みだされた、信頼できないものにすぎなくなる。認識過程の順序からいえば、感覚的経験が最初のもので、われわれが認識過程における社会的実践の意義を強調するのは、人間の認識を発生させはじめ、客観的外界から感覚的経験を得させはじめることのできるものは、社会的実践よりほかにないからである。目をとじ耳をふさいで、客観的外界とまったく絶縁している人には、認識などありえない。認識は経験にはじまる——これが認識論の唯物論である。

 第二の点は、認識は深化させていくべきであり、認識の感性的段階は理性的段階に発展させていくべきである——これが認識論の弁証法である[5] 。 認識は低い感性的段階にとどまっていてもよいと考え、感性的認識だけが信頼できるもので、理性的認識は信頼できないものだと考える人があれば、それは歴史上の「経験論」の誤りをくりかえしたことになる。この理論の誤りは、感覚的材料は、客観的外界の一部の真実性を反映したものにはちがいないが(わたしはここでは、経験をいわゆる内省的体験としてしか考えない観念論的経験論については述べない)、それらは、一面的な表面的なものにすぎず、このような反映は不完全で、事物の本質を反映したものではない、ということを知らない点にある。完全に事物の全体を反映し、事物の本質を反映し、事物の内部的法則性を反映するためには、感覚された豊富な材料に、思考のはたらきをつうじて、滓をすてて粋をとり、偽をすてて真を残し、このことからあのことへ、表面から内面へ進む改造と製作の作業を加えて、概念および理論の体系をつくりあげなければならないし、感性的認識から理性的認識へ躍進しなければならない。改造されたこのような認識は、より空虚な、より信頼できない認識になるのではなく、反対に、もしそれが認識過程で、実践という基礎にもとづいて科学的に改造されたものでありさえすれば、まさにレーニンが言っているように、より深く、より正しく、より完全に客観的事物を反映したものである。俗流の事務主義者はそうではない。彼らは経験を尊重して理論を軽視するので、客観的過程の全体を見わたすことができず、明確な方針をもたず、遠大な見通しがなく、ちょっとした成功やわずかばかりの見識で得意になる。このような人間が革命を指導したなら、革命は壁に打ちあたるところまで引きずられていくにちがいない。

 理性的認識は感性的認識に依存し、感性的認識は理性的認識にまで発展きせるべきである。これが弁証法的唯物論の認識論である。哲学における「合理論」と「経験論」は、いずれも認識の歴史的性質や弁証法的性質を理解することができず、それぞれ一面の真理をもってはいるが(これは唯物的な理性論と経験論について言うのであって、観念的な理性論と経験論について言うのではない)、認識論の全体から言えば、どちらも誤りである。感性から理性に進む弁証法的唯物論の認識運動は、小きな認識過程(たとえばある事物、あるいはある活動についての認識)においてもそのとおりであり、大きな認識過程(たとえばある社会、あるいはある革命についての認識)においてもそのとおりである。

(6)認識は実践に戻る

 しかし、認識運動はここで終わるのではない。弁証法的唯物論の認識運動を、もし理性的認識のところでとどめるならば、まだ問題の半分に触れたにすぎない。しかも、マルクス主義の哲学から言えば、それは非常に重要だとはいえない半分に触れたにすぎない。マルクス主義の哲学が非常に重要だと考えている問題は、客観世界の法則性が分かることによって、世界を説明できるという点にあるのではなく、この客観的法則性に対する認識を使って、能動的に世界を改造する点にある。マルクス主義から見れば、理論は重要であり、その重要性は「革命の理論がなければ、革命の運動もありえない」[6] というレーニンの言葉に十分あらわされている。しかし、マルクス主義が理論を重視するのは、まさにそれが行動を指導できることからであり、またその点だけからである。たとえ、正しい理論があっても、ただそれについておしゃべりするだけで、たな上げしてしまって、実行しないならば、その理論がどんなによくても、なんら意義はない。認識は実践にはじまり、実践をつうじて理論的認識に逹っすると、ふたたび実践にもどらなければならない。認識の能動的作用は、たんに感性的認識から理性的認識への能動的飛躍にあらわれるだけではなく、もっと重要なことは、理性的認識から革命の実践へという飛躍にもあらわれなければならないことである。世界の法則性についての認識をつかんだならば、それをふたたび世界を改造する実践に持ち帰る、つまり、ふたたび生産の実践、革命的な階級闘争と民族闘争の実践、および科学実験の実践に使わなければならない。これが理論を検証し、理論を発展させる過程であり、全認識過程の継続である。

 理論的なものが客観的真理性に合致するかどうかの問題は、前にのべた感性から理性への認識運動のなかでは、まだ完全には解決されていないし、また完全に解決できるものでもない。この問題を完全に解決するには、理性的認識をふたたび社会的実践のなかに持ち帰り、理論を実践に応用して、それが予想した目的を達成できるかどうかを見るほかはない。多くの自然科学の理論が真理だと言われるのは、自然科学者たちがそれらの学説をつくりだした時だけでなく、さらにその後の科学的実践によってそれが実証された時である。マルクス・レーニン主義が真理だと言われるのも、やはりマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンなどが、これらの学説を科学的につくりあげた時だけでなく、さらにその後の革命的な階級闘争と民族闘争の実践によってそれが実証されたときである。弁証法的唯物論が普遍的真理であるのは、いかなる人を通じての実践も、その範囲からでることができないからである。人類の認識の歴史は、次のことをわれわれに教えている。多くの理論は真理性において不完全なもので、その不完全さは、実践の検証をつうじて正されること、多くの理論は誤っており、その誤りは実践の検証をつうじて正されることである。実践は真理の基準であるとか、「生活、実践の観点は認識論の第一の、そして基本的な観点でなければならない」[7] とか言われる理由はここにある。

 スターリンが次のように言っているのは正しい。「理論は、革命の実践と結びつかなければ対象のない理論となる。同様に実践は、革命の理論を指針としなければ、盲目的な実践となる。」[8] ここまでくると、認識運動は完成したと言えるであろうか。われわれの答えは、完成したが、まだ完成していないというものである。社会の人びとが、ある発展段階のなかの、ある客観的過程を変革する実践(それが、ある自然界の過程を変革する実践であろうと、あるいはある社会の過程を変革する実践であろうと)に身を投じ、客観的過程の反映と主観的能動性の作用によって、その認識を感性的なものから理性的なものへと推移させ、その客観的過程の法則性にほぼ合った思想、理論、計画あるいは成案がつくられたならば、さらに、この思想、理論、計画、あるいは成案をその同じ客観的過程の実践に応用してみて、もし予想した目的を実現することができたならば、つまりあらかじめ持っていた思想・理論・計画・成案を、その同じ過程の実践のなかで事実にするか、あるいはだいたいにおいて事実にしたならぱ、この具体的な過程についての認識運動は完成したことになる。たとえば、自然を変革する過程では、ある工事計画が実現され、ある科学上の仮説が実証され、ある器物がつくりあげられ、ある農作物が採りいれられ、また社会を変革する過程では、あるストライキが勝利し、ある戦争が勝利し、ある教育計画が実現したことは、いずれも予想した目的を実現したものといえる。

 しかし、一般的に言って、自然を変革する実践においても、社会を変革する実践においても、人びとがあらかじめ持っていた思想、理論、計画、成案が、何らの変更もなしに実現されることはきわめて少ない。これは、現実の変革にたずさわる人びとが、たえず多くの制約を受けていることによるものであって、単に科学的条件および技術的条件の制約をたえず受けているだけでなく、客観的過程の発展とそのあらわれる度合いの制約(客観的過程の側面および本質がまだ十分に露呈していない)をも受けていることによるのである。このような状況のもとでは、前もって予想できなかった事情を実践の中で見いだしたことによって、思想、理論、計画、成案が部分的に改められることがよくあるし、全面的に改められることもある。つまり、あらかじめ持っていた思想、理論、計画、成案が部分的にか、あるいは全面的に実際と一致しなかったり、部分的にかあるいは全面的に誤っていたりすることは、どちらもあることである。多くの場合、何回も失敗をくりかえしてはじめて誤った認識を改めることができ、客観的過程の法則性に合致させることができ、したがって主観的なものを客観的なものに変えることができる。つまり、実践のなかで予想した結果を得ることができるのである。しかし、いずれにしても、ここまでくると、ある発展段階におけるある客観的過程についての人びとの認識運動は、完成したといえる。

(7)過程の推移への適応

 しかし、過程の推移という点からいえば、人びとの認識運動は完成していないのである。どのような過程も、それが自然界のものであろうと、社会的のものであろうと、すべて内部の矛盾と闘争によ,て、先へ先へと推移し発展するものであって、人びとの認識運動も、またそれにつれて推移し発展すべきである。社会運動について言えば、革命の真の指導者は、自分の思想、理論、計画、成案に誤りがあった場合には、前に述べたように、それを改めることに上手でなければならないばかりでなく、ある客観的過程が一つの発展段階から他の発展段階に推移、転化した時には、自分をはじめ、革命に参加するすべての人びとを主観的認識の上でも、それにつれて推移、転化させることに上手でなければならない。すなわち新しい状況の変化に適応するように、新しい革命の任務と新しい活動の成案を提起しなければならない。革命の時期の情勢の変化はきわめて急速である。もし革命党員の認識がそれに応じて急速に変化することができなければ、革命を勝利に導くことはでできない。

 しかし、思想が実際より立ちおくれることはよくある。これは人間の認識が多くの社会的条件によって制約されているからである。われわれは革命陣営内の頑迷分子に反対する。かれらの思想は変化した客観的状況にしたがって前進することができず、歴史の上では右翼日和見主義としてあらわれる。これらの人びとには矛盾の闘争がすでに客観的過程を前へ推し進めたことが見ぬけず、彼らの認識は、依然として古い段階に立ちどまっているのである。すべての頑迷派の思想はこのような特徴を持っている。彼らの思想は社会的実践から遊離しており、彼らは社会という車の前に立ってその導き手になることができず、ただ車のうしろについて、車が速く進みすぎると愚痴をこぼし、車をうしろに引っぱって、逆もどりさせようとすることしか知らない。

 われわれはまた極左空論主義にも反対する。彼らの思想は客観的過程の一定の発展段階を飛びこえており、彼らのうちのあるものは幻想を真理だとみなし、またあるものは将来にしか実現の可能性のない理想を、現在の時期にむりやりに実現しようとし、当面の大多数の人びとの実践から遊離し、当面の現実性から遊離して、行動のうえでは冒険主義としてあらわれる。観念論と機械的唯物論、日和見主義と冒険主義は、いずれも主観と客観との分裂、認識と実践との分離を特徴としている。科学的な社会的実践を特徴とするマルクス・レーニン主義の認識論は、これらの誤った思想に断固として反対しないではおれない。マルクス主義者は、宇宙の絶対的な、総体的な発展過程のなかで、それぞれの具体的な過程の発展はすべて相対的なものであるから、絶対的真理の大きな流れのなかでは、それぞれ一定の発展段階にある具体的な過程についての人びとの認識には相対的真理性しかないものと考える。無数の相対的真理の総和が絶対的真理である[9]。

 客観的過程の発展は矛盾と闘争にみちた発展であり、人間の認識運動の発展もまた矛盾と闘争にみちた発展である。客観的世界のあらゆる弁証法的な運動は、遅かれ早かれみな人聞の認識に反映されうるものである。社会的実践における発生、発展、消滅の過程は無限につづき、人間の認識の発生、発展、消滅の過程もまた無限につづく。一定の思想、理論、計画、成案にもとづいて、客観的現実の変単にとりくむ実践が、一回一回と前進すれば、客観的現実についての人びとの認識もそれにともなって、一回一回と深化してゆく。客観的現実世界の変化する運動は、永遠に完結することがなく、実践のなかでの真理に対する人間の認識も永遠に完結することがない。マルクス・レーニン主義は、真埋に終点をおくものではなく、実践のなかでたえず真理を認識する道を切りひらいていくのである。

(8)結論

 われわれの結論は、主観と客観、理論と実践、知と行との具体的な歴史的な統一であり、具体的な歴史から遊離した、あらゆる「左」の、あるいは右の誤った思想に反対することである。社会が今のような時代にまで発展してくると、世界を正しく認識し、改造する責務は、すでに歴史的にプレタリアートとその政党の肩にかかっている。このような、科学的認識にもとづいて定められた世界改造の実践過程は、世界においても、中国においても、すでに一つの歴史的な時期——有史以来かつてなかった重大な時期にきている。それは、世界と中国の暗黒面を全面的にくつがえして、これまでになかったような光明の世界に変えることである。

 プロレタリアートと革命的人民の世界改造の闘争には、次のような任務の実現がふくまれている。すなわち、客観的世界を改造し、また自己の主観的世界をも改造する——自己の認識能力を改造し、主観的世界と客観的世界との関係を改造することである。地球上の一部では、すでにこのような改造がおこなわれている。それがソ連でめる。ソ連の人民は、今もなおこのような改造の過程を推し進めている。中国人民も世界の人民も、すべてこのような改造の過程をいま経過しているか、あるいは将来経過するであろう。改造される客観的世界というもののなかには、改造に反対するあらゆる人びとがふくまれており、彼らが改遣きれるには、強制の段階を経なければならず、そののちにはじめて自覚的段階に進むことができるのである。全人類がすべて自覚的に自己を改造し、世界を改造する時がくれば、それは世界的な共産主義の時代である。

 実践をつうじて真理を発見し、さらに実践をつうじて真理を実証し、真理を発展させる。感性的認識から能動的に理性的認識に発展し、さらに理性的認識によって能動的に革命的実践を指導し、主観的世界と客観的世界を改造する。実践、認識、再実践、再認識というこの形式が循環往復して無限にくりかえされ、その一循環ごとに、実践と認識の内容はより一段と高い段階に進んでいく。これが弁証法的唯物論の認識論の全体であり、これが弁証法的唯物論の知と行の統一観である。

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《原注》

 わが党内では、かつて、一部の教条主義的な同志が、長いあいだ申国革命の経験の受け入れを拒否し、「マルクス主義は教条ではなく行動への指針である」という真理を否定して、ただマルクス主義文献のなかの片言隻句をうのみにし、それで人びとをおどかしていた。また、一部の経験主義的な同志は、長いあいだ自分の断片的な経験にしがみついて、革命の実践にとっての理論の重要性を理解せず、革命の全局面が見えなかったので、活動には骨を折ったが、盲目的であった。この二種類の同志たちの誤った思想、とくに教条主義の思想は、一九三一年から一九三四年にかけて、中国革命にきわめて大きな損失をあたえたのに、教条主義者は、マルクス主義の衣をまとって、多くの同志たちをまどわせていた。毛沢東同志の『実践論』は、マルクス主義的認識論の観点から、党内の教条主義と経験主義、特に教条主義の主観主義の誤りを暴露するために書いたものである。その重点が実践を軽視する教条主義という主観主義の暴露にあったので、『実践論』という題名がつけられた。毛沢東同志は、かつてこの論文の観点について、延安の抗日軍事政治大学で講演したことがある。


[1] へーゲルの著書『論理学」第三巻第三編の「理念」に対するレーニンの短評から引用。レーニンの『へーゲルの著書「論理学」の摘要』(一九一四年九月から十二月にかけて書かれたもの)に見られる。
[2] マルクスの『フォイエルバッハにかんするテーゼ』(一八四五年春著)とレーニンの『唯物論と経験批判論』(一九〇八年下半期著)第二章第六節を参照。
[3] へーゲルの著書『論理学』第三巻「主観的論理学あるいは概念論」に対するレーニンの短評から引用。レーニンの『へーゲルの著書「論理学」の摘要』にみられる。
[4] 五・四運動とは、一九一九年五月四日にぼっ発した、帝国主義反対、封建主義反対の革命運動をさす。一九一九年の上半期、第一次世界大戦の戦勝国イギリス、フランス、アメリカ、日本、イタリアなどの帝国主義諸国は、パリで贓品[ぞうひん]山分け会議をひらき、日本に中国の山東省におけるドイツの諸特権を接収管理させることを決定した。五月四日、北京の学生が、まずさいしょに集会とデモ行進をおこなって、断固として反対を表明した。北洋軍閥政府は、これに弾圧を加え、三十人あまりの学生を逮捕した。北京の学生は、ストライキでこれに抗議し、各地の学生もさかんにこれに呼応した。六月三日から、北洋軍閥政府は、またも、北京でいっそう大規模な逮捕をおこない、二日間で約千人の学生を逮捕した。六月三日の事件は、全国人民のいっそう大きな憤激をまきおこした。六月五日から、上海とその他の多くの地方の労働者が、相次いでストライキをおこない、商人も、相次いで閉店ストをおこなった。それまで主として知識層が参加していたこの愛国運動は、こうして急速にプロレタリアート、小ブルジョアジーとブルジョアジーを含む全国的規模の愛国運動に発展した。愛国運動の展開につれて、「五・四」以前におこった、封建主義に反対し科学と民主主義を提唱する新文化運動も、マルクス・レーニン主義の宣伝を主流とする、壮大な規模をもつ革命的文化運動に発展した。五・四運動については、本選集第二巻の「五・四運動」と「新民主主義論」第十三節を参照。
[5] レーニンがヘーゲルの著書『論理学』第三巻第三編の「理念」に対する短評のなかで、「理解するためには、経験の上から理解し研究しはじめ、経験から一般へとのぼっていかなければならない」といっている個所を参照。レーニンの『へーゲルの著書「論理学」の摘要』に見られる。
[6] レーニンの『なにをなすべきか?』(一九〇一年の秋から一九〇二年二月にかけて書かれたもの)第一章第四節から引用。
[7] レーニンの『唯物論と経験批判論』第二章第六節に見られる。
[8]スターリンの『レーニン主義の基礎』(一九二四年四月から五月にかけて発表されたもの)第三の部分から引用。
[9] レーニンの『唯物論と経験批判論』第二章第五節を参照。