2011年1月10日月曜日

検察審査会の一番大きな問題点

 この備忘録を書いている2011年1月10日にデモが行われている。デモの趣旨は”国民の生活が第一!”というものであった。

しかし、デモの様子をUstで見る限りでは”小沢一郎を守ろう”というものであった。



デモのことは日を改めて備忘録にまとめようと思う。その前にどうしても今小沢氏を貶めようとしているとも取れる検察審査会のあり方についてまとめておこうと思う。

ちょうど自分が東北へ引っ越そうと準備を始めていた時分の平成22年7月3日の朝日新聞朝刊17面「オピニオン 耕論」に元裁判官・秋山賢三氏と元検察官・高井康行氏の両氏が寄稿をしている。まずは両名の記事を残そうと思う。

◆審査会は冤罪を防ぐために――秋山賢三(あきやま・けんぞう)さん 元裁判官

 私は、司法手続きに司法が参加すること自体は、大変意義のあることだと思いますが、それは市民の英知を活用して、無実の人を処罰しないため、つまり、冤罪を生まないためにこそ行われるべきだと思います。

 その意味で、刑事法のプロである検察官が有罪にできないと判断し不起訴処分にした事件を強制的に起訴する権限を、くじ引きで選ばれた、法律知識のない市民に簡単に与える現行制度には反対です。

 日本では、起訴された被告の99.9%が有罪になるという実態があり、社会は「起訴=有罪」と受け止める傾向が強いのです。公務員は起訴されると休職となり、給料は4割カットされるし、民間会社員は起訴されると解雇されるケースも多い。物心両面の負担は言うまでもありません。

 だからこそ、起訴の判断は慎重さが求められるのです。まして、検察審査会に持ち込まれる告訴・告発事件の場合、容疑者とされる人が容疑事実を否認しているケースがほとんどですから、起訴の判断にはより一層の慎重さが求められます。

 検察という組織は、有罪にできると判断すれば必ず起訴します。その検察官が起訴しない事件について一般市民に起訴できる権限を与えるわけですから、冤罪を生む危険性が大きくなったと思います。

 理由は
<1>審査員が一般に法律に詳しくない
<2>限られた審査時間の中ですべての証拠を精査できるかどうか疑問
<3>事前にメディア報道を見聞きして、予断と偏見を持って審議に臨む可能性が高い
<4>被害者感情に短絡的に同調する可能性が高い、などです。

 例えば、明石歩道橋事故のような大規模事故の場合、業務上過失致死罪の適用が問題になります。こうした過失犯では、結果を予見できたか、回避できたかどうかが有罪・無罪の判断を分けますが、長年積み重ねられた多くの判例を知らなければ、正しい判断はできません。

 実際過去には、検察審査会が不起訴相当の議決を出したため、再捜査して起訴したものの、結果的に無罪判決が確定した事件は「甲山(かぶとやま)事件」「岡山遊技場放火事件」など、数多くあるのです。

 検察審査会の議決には強制力のない時代ですらそうだったのですから、議決に強制力が付与された現在の制度の下では、冤罪が生まれる可能性はかなり高まると思います。

 こうした危険性を回避するため、検察審査会の議決に強制力を付与する条件として、以下のことを提案したい。

 <1>「起訴相当」の議決をするためには、現在11人の委員中8人以上の賛成でいいとされているが、これを全員一致の賛成が必要とする<2>現行法では「起訴相当」の議決2回で強制起訴となっているが、これを3回(または4回)とする<3>捜査資料の公開を徹底する、という三つです。

 検察官は起訴の権限を独占し、しかも起訴するかどうかに関して大きな裁量権を認められており、それに対する市民からの監視とチェック機能は必要です。しかし、検察審査会のように、検察官が起訴しない事件を起訴させる方向に市民が関与するのではなく、検察官が起訴すべきでない事件を起訴させないためのチェック機能こそ市民に求められていると思います。 (聞き手・山口英二)

ほぼ同様の内容なのだが東京新聞10月6日朝刊にも 秋山賢三氏が検察審査会制度に対する意見を寄稿をしている。

『冤罪避ける仕組みを』
 法律のプロである検察官が確実には有罪にできないと判断した不起訴処分について、くじ引きで選ばれた法律知識のない市民に容疑者を強制的に起訴する権限を与えた検察審査会制度には反対だ。

 検察官による起訴は、人権を侵害する行為。起訴されれば、公務員なら休職、民間企業なら解雇されるなど社会的制裁を受け、裁判が長期化すれば負担も大きい。日本では「起訴イコール有罪」と受け止められる傾向も強く、検察官は法と証拠に基づき、慎重に検討している。

 小沢氏の場合もそうだが、検察審査会が審査する事件の多くは容疑者が否認しており、起訴もより慎重な判断が必要となる。こうした事件で、市民に起訴権限を与えることは、冤罪を生む可能性を高くする。

 裁判となる以上、過去の判例を踏まえなければならないが、法律の素人である審査員には限界がある。また、審査時間は限られており、すべての証拠を精査できない。報道が審査に予断と偏見を与えるかもしれず、被害者の感情に同調する可能性も見逃せない。

 「裁判で黒白をつける」とする発想は危険。過去、検察審査会の不起訴不当議決を受けて検察が起訴し、無罪が確定した事件は、「甲山事件」など少なからずあることを、忘れるべきではない。

 強制起訴を維持するのなら、①「起訴相当」議決には審査全員一致の賛成を必要とする②現行では、二度の「起訴相当」で強制起訴となるが、議決を三回か四回必要とする③非公開の審査過程の透明化-など、冤罪回避のために条件を厳しくすべきだ。

 司法への市民参加は大変意義があるが、市民の英知は冤罪を生まないために活用されるべきだ。市民が起訴の権限を持つよりも、検察官による起訴を監視し、チェックする機能こそが必要だ。
ここで秋山賢三氏が書かれている法律の素人である審査員には限界がある。この言葉と同様の言葉を実は小沢氏もテレビ朝日の番組の中で話をしていて、新聞の記事にもなっている。
結果、検察審査会の審査対象のあり方について考えを述べることは、「検察審査会への圧力として作用することは明らかである」との新聞・テレビ等の既存の大手マスコミに集中砲火を浴びている。

論点は明確で”証拠不十分での不起訴は検察審査会の対象から除外すべき”というのが小沢氏の発言(考え)である。これに対しマスコミは検察審査会への圧力だと言い出したのである。

東京新聞平成22年9月3日(夕刊)
 
小沢氏は、検察審査会について「強制力を持った捜査当局が不起訴と言ったことについて、いわば素人が良い、悪いと言う今の仕組みが果たしていいのか、という議論は出てくる」と指摘した。」


しかし、秋山賢三氏の論旨からも小沢氏の考えが不当なものであるとはどうしても思えない。そればかりか秋山弁護士は、市民に起訴権限を与えることは、冤罪を生む可能性を高くする。とさえ言っているのである。

秋山賢三弁護士は、「検察審査会のように、検察官が起訴しない事件を起訴させる方向に市民が関与するのではなく、検察官が起訴すべきでない事件を起訴させないためのチェック機能こそ市民に求められている」との考えで、不当な不起訴か否かを是正する検察審査会自体に否定的な見解と取れる。つまり、法律知識のない素人の市民が、安易に強制起訴ができるようになった現行検察審査会法は妥当でないとしているのである。

また仮に検察審査会を肯定したとしても、「刑事法のプロである検察官が有罪にできないと判断し不起訴処分にした事件を強制的に起訴する権限を、くじ引きで選ばれた、法律知識のない市民に簡単に与える現行制度には反対」と批判的な意見ととれる。

要するに、「法律知識のない素人の市民が、安易に強制起訴ができるようになった現行検察審査会法は妥当でない」との考えは、検察審査会の権限を限定するべきとする点で、小沢氏の見解と共通しているのである。

しかし朝日新聞は、このオピニオンの記事が出た翌日(4日)に小沢氏の発言に対して、”「不見識だ」驚く法曹界”という見出しの記事を書いているのである。不見識なのはどちらで驚いたのはどちらであろうか。

冤罪事件問題に取り組む秋山賢三氏のYouTobeです。


次は元検察官であり司法制度改革推進本部で裁判員制度・刑事検討会の委員を務めた高井康行弁護士の考えである。高井氏はテレビ等でもよく見かけるのでご存知な方も多いと思う。

◆嫌疑不十分は対象から外せ――高井康行(たかい・やすゆき)さん 元検察官

 私は今回の制度改正を議論した裁判員制度・刑事検討会に委員として参加しました。その中で、私は同じ検察の不起訴処分でも、嫌疑不十分と起訴猶予は分けて考えるべきだと主張しました。

 起訴猶予は証拠もあって有罪は間違いないものの、被害者との示談が成立しているなどの様々な事情を考慮して起訴しないと検察官が判断したものです。だから、「市民感情に照らして、不起訴処分は社会正義に反する」と審査員が判断して起訴相当と議決することは間違いないでしょう。

 しかし、嫌疑不十分は捜査と証拠評価の専門家である検察官が、有罪とするだけの証拠がないとしたものです。検察審査会が「市民目線で見れば証拠はある」「有罪の疑いがある以上、国民の前で有罪か無罪か明らかにすべきだ」として起訴するようになれば、社会的反響の大きい事件は、たとえ有罪の確証が薄くてもどんどん起訴され、裁判でようやく無罪になるということになりかねません。

 民主党の小沢一郎前幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地取引事件などは、このような懸念が当たっていると感じます。この事件は、東京地検が嫌疑不十分と判断したのに対し、検察審査会が起訴相当と議決しましたが、地検は再び不起訴としました。審査会が今度も起訴相当の議決をすると、強制起訴されます。起訴は本来、人権を侵害する行為ですから、証拠の有無は慎重に判断されねばなりません。安易に起訴されるようになると、とんでもない人権侵害につながりかねません。

 制度改正以前の検察審査会の議決は強制力を持ちませんでしたが、実はそれなりに機能していました。最高裁の統計によると、1948年の制度開始以後、審査会が起訴相当、不起訴相当と議決した事件のうち、約20%が起訴されています。

 審査会から起訴相当、不起訴相当の議決が出ることを、担当した検察官は嫌がるものです。戻ってきた事件は、先輩もしくは上司が再捜査する。再び不起訴とする場合には、私の在任中は高検の検事長決裁まで受けなければならず、それなりに重い負担になっていました。そのため不起訴にする場合には被害者に対し丁寧に説明し、説得し、納得してもらいました。ある意味、事件処理に民意を反映してきたし、そうした作業が国民の検察官に対する信頼を築いてきたと言えるでしょう。

 今回の制度改正は、検察官にどんな影響を与えるでしょうか。ある検察官は、強制起訴されて裁判で有罪になったらみっともないから、これまでなら不起訴にする事件でも起訴してしまえ、と考えるかもしれません。また、ある検察官は「処分に不満があるなら、審査会へ行ってください」と、被害者への丁寧な説明をしないまま不起訴にするかもしれません。このようなことになったら逆効果です。

 起訴されれば、物心ともに大きな負担がかかり、社会的な制裁も受ける。だから、検察官は捜査を重ね、証拠を吟味し、有罪の確証を得た上で起訴してきた。それが検察官の職業倫理でもあります。今後も抑制的に、正しく公訴権が運用されるのか。私は、不適切な方向に振れていくのではないかと懸念しています。 (聞き手・秋山惣一郎)

司法制度改革推進本部の裁判員制度・刑事検討会では、起訴猶予と嫌疑不十分を分けて考える必要性が指摘されたようである。

検察が「証拠があるが起訴しない」と判断した起訴猶予の場合、国民目線で起訴すべきかどうかを考え直す意味はある。しかし、嫌疑不十分は証拠の有無の問題。法律家が「証拠はない」と判断したのに、国民目線で見たら「証拠はある」というのはおかしい。と高井康行弁護士は言っているのである。

平成22年4月28日の朝日新聞に高井弁護士は次のような記事を書いている。
小沢氏を共犯者に問う直接的な証拠は、石川知裕衆院議員と池田光智元秘書の供述しかないが、議決書を読んでも、2人の供述内容がどの程度の具体性を持つのかわからないので、証拠価値の判断ができない。

 仮に小沢氏が強制的に起訴されることになれば、政治的な意味も大きい。検察審査会は「これなら、検察審査会が起訴すべきだと判断するのも仕方がない」とわかるような具体的な説明をする必要があるのではないか。」

検察官が「証拠」がないと判断して不起訴にしたのにも関わらず、「市民目線で見れば証拠はある」と証拠を作り出してしまうことは、「証拠裁判主義」から極端に言えば「感情裁判・思い込み裁判」にハードルを下げたということで裁判そのもののが変質したということになる。怖い話である。

名城大学コンプライアンス研究センター長 郷原 信郎氏
2010.10.05第102回定例記者レク

 昨日、東京第5検察審査会で小沢氏に対する政治資金規制法違反事件についての2回目の起訴相当議決が出たわけですが、この議決にはいろいろな面で重大な問題があると思います。

 まず第1に、形式論、手続き面の問題です。私は、この事件については、第1回の起訴相当議決についても起訴相当とすべき被疑事実のことがきちんと報じられていない、そこをしっかり認識しなければいけないということをずっと言ってきました。要するに、不動産の取得時期と代金の支払いの時期についての虚偽記入が第1回目の起訴相当議決で起訴相当とされただけであって、この事件の検察の操作の過程でいろいろ報道され、問題にされていた小沢氏からの4億円の現金の収入のこと、収入面の問題は、まったくこの議決の対象になっていないということをずっと強調していたわけです。

 それで、昨日、議決書を最初に見た段階で、最初、被疑事実の要旨のところだけを見て、同じ被疑事実だったので、同じような内容についてもう1回起訴相当議決が出たのだと早合点してしまいましたが、今朝になってよく見てみると、起訴すべき事実については、別紙犯罪事実というのが付いていて、この犯罪事実の中身は、被疑事実の要旨と違います。

 被疑事実の要旨は検察が2回目の不起訴処分を行った際に対象とした事実だと思いますが、それは、先ほど言ったような不動産の取得時期と、代金の支払時期の問題だけなのに、起訴すべきであるとこの議決で言っている別紙犯罪事実では、収入のことも含めて書かれています。ですから、小沢氏からの現金4億円が提供されたという、不動産の取得代金の原資となった収入のことも含めて虚偽記入の犯罪事実としてここで書かれています。

これをどう見るかですが、私の基本的な理解は、検察審査会の起訴強制という制度はあくまで検察の不起訴処分の不当性を審査するために設けられた制度で、かつては、検察審査会が不起訴不当だと言っても、起訴相当だとっても、もう1回検察が不起訴だと言ってしまえば終わりだったんですが、それを検察限りでは終わらせないで、検察が不起訴と
した事実について、検察審査会が起訴相当だという判断を2回目の判断を議決で出したときには、その事実を強制起訴の対象にするという制度だと私は理解してきました。そういう観点からすると、もともとの告発、審査申立の対象になっているわけでその事実が、不動産の取得時期と代金の支払い時期の問題だけが問題にされ、第1回の起訴相当議決では、その範囲について起訴相当という判断が行われ、その事実についての不起訴処分が行われているだけなのに、その範囲を超えた、そこを逸脱した事実を起訴相当とするというのは検察審査会の起訴強制手続きの趣旨からしても明らかにおかしいと思います。

そこの部分は、検察官の公訴権の独占の例外として認められた、検察審査会で1回まず起訴相当議決が出て、そして、検察官がさらに不起訴にして、それでさらに検察審査会が2回目の起訴相当議決を出したときに強制起訴という手続きがとられるという趣旨からいっておかしいということになると思います。ですから私は、今回のような検察審査会の起訴相当議決による強制起訴はできないのではないかと考えています。

ただ問題は、それが検察審査会法による強制起訴の制度の趣旨から言っておかしい、こういうことは認められるべきではないと言っても、それでは、実際に不起訴の対象となった事実を逸脱した事実について起訴相当という判断が現に行われてしまった今回のような場合にどうなるのかということですが、そこは非常に難しい問題です。そもそも外形的に見て、事実の範囲が違っていて、逸脱している議決というのは外形的に適法な起訴議決の要件を満たさない、だから、それに基づいて強制起訴はできないんだと考えるとすると、裁判所から指定された指定弁護人が、起訴相当議決では強制起訴ができないということで、強制起訴手続を取らないという判断をして、検察審査会で、改めて有効な議決をしてもらうことにする、ということになるのではないかと思います。

ただ、そこの点、検察審査会法の解釈として、そういったことを行う判断権が指定弁護士に与えられているのかどうか。もうちょっとそこの点を慎重に検討する必要がありますが、基本的には指定弁護士も要件を満たさない強制起訴手続を行わせるのはおかしいわけですから、明文にはなくても、そういう判断権があると考える余地もあるのではないか思います。 そしてもし、仮にそういう判断を経て指定弁護士がそれでも起訴する、強制起訴手続を取ったときにどうなるか。あるいはその手続を取ろうとするのに対して、何らかのそれをさせないという法的な措置が可能なのかどうかということですが、これは具体的な規定がありませんし、指定弁護士の職務の性格をどういうものと考えるかによっても違ってきます。少なくとも、そういった場面での被疑者側のアクションとして、指定弁護士に対して、この検察審査会の議決によって強制起訴手続が行われるべきではないという要請を行うというアクション自体は可能ではないか。ただそれを、裁判所に判断してもらうような、例えば仮処分とか、それを差し止めるという手続が可能かどうかというと、これは、指定弁護士の職務が検察官と同じような職務の性格だとすると、検察官が不当な起訴をしようとしているのに対して、それを差し止めるという仮処分ができないのと同じよう
に、ちょっと難しいのかなという感じもします。

そうなると、指定代理人の起訴による強制起訴という手続きが行われて、裁判所の手に渡ったときに、裁判所に対して、この強制起訴手続は違法なものであり、無効なものであるということで直ちに公訴棄却の判決を行うように求める。もともとそもそも要件が満たされていないから、この起訴手続による公訴は無効にすべきだと。取り消されるべきであって、棄却されるべきなんだという主張を裁判所に対して行うということになるのかなという気がします。

いずれにしても、検察審査会の手続き、こういったところに関して非常に具体的に手続きがきちんと整備されていない。こういう議決の射程というか、議決できる被疑事実の範囲の問題については、今回の件については明らかに逸脱していると私は思いますが、とは言っても、ちょっとした日時の違いとか、ちょっとした金額がずれるという程度の違いが許されないのか、検察官が不起訴にした事実と完全に厳密に同じじゃないといけないのかというと、ちょっとそれもあまりに硬直的過ぎる気もするので、そのあたりをどう考えていったらいいのかは結構難しい問題だという気がします。

そのあたりの考え方について、一罪であれば一罪の範囲内であれば、公訴事実の同一性の範囲であればどういうふうにでも拡張していいという考え方に立ってもあり得るかもしれません。ひょっとすると、今回の検察審査会の議決が行われたのかも知れません。収入の問題も、支出の問題も、不動産の取得時期の問題も、結局、1つの政治資金収支報告書の記載の問題だから、一罪、1つの犯罪であることは違いないから、だから、起訴の対象にできるという見解に立つとすると、1つの収支報告書でカバーされる犯罪事実の範囲は無限に広がっていきます。

例えば、水谷建設の5000万円だって、もし陸山会あての寄付だということを水谷元会長が言っていたとしたら、その犯罪事実も公訴事実の同一性の範囲内ということになるので、検察審査会が、水谷建設の裏献金も認められる判断したときには、偽記入だ、不記載だ、ということで起訴相当議決ができることになってしまいます。2回目の起訴相当の事実の中に、突然のその事実、起訴相当議決を行うことも可能になり、それだけで強制起訴されるということもあり得るということになってしまいます。それがいかに不当かは明らかだと思います。そういう面でも、手続規定はもっときちんと整備されなければいけないのかなという気がします。

公訴権を検察官が独占していることの例外として、この強制起訴という手続きを認めるのであれば、その実態要件としての犯罪告発事実、審査申立事実とどういう関係でなければいけないのか。その途中で事実関係が変わってきた場合どこまでの変更であれば許されるのかというところが全然実務的にきちんと固まっていないところに、大きな問題があるような気がします。それが手続面、形式面の問題です。

次に中身の問題です。昨日、ツイッターとか、ラジオのインタビューなどでもお話ししたし、今朝のある局のテレビのインタビューでも簡単に触れましたが、私は、この起訴相当議決で前提にしている政治資金規正法の解釈論がまずおかしいと思います。以前から言っているように、政治資金収支報告書の記載の正確性について責任を負っているのが会計責任者です。ですから、基本的には会計責任者が正確に正しく収支報告書に記載すべきところを虚偽の記入をしたというところが一次的な虚偽記入罪の守備範囲だと思います。そこに、会計責任者以外の者がかかわって、それが共犯だと言うとすると、それはやはり何らかの積極的な関与、指示とか、働きかけとか、そういうことがなければならないというのが少なくともこれまで刑事の実務で前提とされてきたところだろうと思います。

検察の2回にわたる不起訴処分というのはその政治資金規正法の解釈を前提にしていますから、議決書で書かれているような報告をしたとか、了承を求めたとかいう程度の断片的な供述では到底、会計者以外の、とりわけこの場合、政治団体の代表の共謀というのは認定できない、というのが刑事司法の実務だったのです。ところが、今回の議決ではそこのところが前提とされていない。報告とか了承というのが抽象的に何か調書の内容になっていれば、その抽象的な供述が信用できれば、直ちに共謀が認められるかのような言い方になっています。これは、政治資金規正法の罰則の解釈としておかしいのではないかと思います。

次に供述の信用性についてですが、この間の村木判決のことを聞きかじりして書いたのかと思われるような書き方が行われています。ずいぶん昔のことだから具体的、迫真的な供述がなされている方がむしろ作為性を感じ、違和感を覚えることになるというのは、訳の分からない理屈です。一般的な証拠の信用性評価を完全に無視しているという感じがします。市民の感覚、素人の感覚と言っても、常識ある人はこんな見方はしないと思います。

迫真性があって具体的だから信用できるというこれまでの裁判所の検察官調書に対する信用性の判断には問題があると、私も思います。村木さんの無罪判決でも具体性とか迫真性というのは後から作ることができる、というふうに言っていますが、それがどういうことかと言うと、具体性があって迫真性があるからと言って、それで直ちに供述が信用できるということにはならないということです。具体的で迫真性がある供述でも信用できない場合があるということを言っているわけです。

それを逆に、昔のことだから具体的、迫真的であるとかえって信用できない。逆に言うと、具体性も迫真性も何もなくて、ふわふわっと書いてある供述の方が信用できるというのは、まったく論理があべこべです。めちゃくちゃだと思います。市民とか素人だということであれば、供述の信用性についても、基本的な考え方をきちんと補助弁護士が説明し常識にかなった認定をしてもらうようにすべきじゃないかと思います。結果がものすごく重大な政治的な影響を持つわけですから、それだけに、こういうピントはずれの判断が書かれているのは問題です。ということで、この議決の実態的な判断、供述の信用性等についての判断、共謀が認められるかどうかについての判断は、まったく私はおかしいと思いますし、こういう判断によって有罪の可能性があるとか高いとか言っているのはおよそ理由になっていないと思います。

ただ、最後のまとめの中で書いてあることの中の「国民は裁判所によって本当に無罪なのか、それとも有罪なのかを判断してもらう権利があるという考え方に基づくものである」という部分は、は、検審の議決の受け止め方、議決の効果を社会がどう受け止めるかということについては、ある意味では正しい考え方だと思います。

検審の起訴相当議決というのは、検察官の処分には納得できない、それだけで終わらせるべきではないという趣旨での議決です。これは何も、検察審査会の人たちが有罪だという決め付けをということではない。検察官の処分だけで終わらせるべきではない。裁判所に判断を求める権利があるという趣旨です。そこのところはこの議決の趣旨を正しく理解しておくべきではないかと思います。ということで、私は、この議決に対しては非常に大きな問題がある、重大な問題が多々あると言わざるを得ないわけですが、もう昨日から、この議決の結論、起訴相当という結論を受けて世の中がまた大きく動いているわけです。政治的にも社会的にも重大な影響が生じているわけです。先ほど言った、議決書の最後のところを、これはあくまで裁判所に最後に最終的な判断を求めている趣旨に過ぎないと言っている部分を重く受け止めて、現時点ではこういう議決が出たから、だから政治的に責任を取るべきだとか、議員辞職すべきだとか、党として除名すべきだというような、およそ検察審査会制度の趣旨にも、議決の趣旨にも合わないようなことを言うべきではないと思いますし、そういうことを言って
いる人は、見識が、あるいは法的なセンスが疑われると思います。

一昨日というか、昨日のお昼くらいまでは、炎上している検察の方のことでいっぱいいっぱいだったわけですが、今度はまたこの問題で検察審査会の方からいろいろな火が燃え広がって、ますます訳の分からないことになっているわけです。この議決が9月14日、まだ大阪地検の問題が表面化する前だというところには非常に大きな意味があると思います。ああいう問題を起こした検察だという認識がないまま、村木さんに対する無罪判決は出てはいたけれども、一応、検察が収集した証拠、検察が立証に使おうとする証拠は正しいもので、間違っても不正な改ざんなどが行われたり、供述をねじ曲げるようなことが行われたりしないという前提で、検察審査会の判断、議決が行われているとすると、その後、大阪地検の問題が表面化したことで前提がまったく違ったものになってしまっているわけです。

議決書が公表されるまでの20日の間にあまりに大きく検察をめぐって世の中が動いたものですから、まったく過去の検察に対する評価を前提とした判断のように見ざるを得ないというところに、非常に大きな問題があると思います。こういった判断が、大きな政治的な影響を生じさせていく一方、検察を炎上させている火がどう燃え広がっていくのか。

*第1回の起訴相当議決についても起訴相当とすべき被疑事実のことがきちんと報じられていないのがおかしい。

*検察審査会の起訴強制手続きの趣旨からしても明らかにおかしい。

*基本的には指定弁護士も要件を満たさない強制起訴手続を行わせるのはおかしい。

*途中で事実関係が変わってきた場合どこまでの変更であれば許されるのかというところが全然実務的にきちんと固まっていないところに、大きな問題がある。

*政治資金規正法の解釈論がまずおかしい。

*抽象的な供述が信用できれば、直ちに共謀が認められるかのような言い方になっていて政治資金規正法の罰則の解釈としておかしい。

*市民の感覚、素人の感覚と言っても、常識ある人はこんな見方はしないと思います。

*昔のことだから具体的、迫真的であるとかえって信用できない。具体性も迫真性も何もなくて、ふわふわっと書いてある供述の方が信用できるというのは、まったく論理があべこべでめちゃくちゃ。

郷原氏も疑問を呈する部分が多すぎてあきれ返るような検察審査会の二度目の議決のようなのだが、当初からマスコミがこのような議決がなされ作文が書かれることを知っていたような報道内容であった。

証券取引等監視委・佐渡委員長
asahi.com 法と経済のジャーナル(2010年8月11日)

検察の不調の原因は? 検察は法執行機関の要として構造的、組織的な犯罪摘発のコーディネーターになるべき

■検察審査会と検察捜査

 ――さて、検察審査会の問題です。明石歩道橋事故、JR西日本福知山線事故で相次いで検察審査会の強制起訴が発動されました。小沢事件でも1回目の起訴議決があった。検審の強制起訴は、裁判員裁判と同じ「司法への国民参加」の思想で導入されました。しかし、いざ導入してみたらその破壊力はすさまじい。JR事故では、歴代3社長が刑事被告人になりましたが、従来の検察の訴追の判断基準ではあり得なかったことです。小沢事件でも1回目の起訴相当が出ただけで政界に激震が走った。インパクトは裁判員裁判の比ではない。制度改革にかかわった多くの人たちにとっても、想定外だったのではないでしょうか

 「JR西日本の事故では、検審の前に、神戸地検が、事故の8年前に安全担当部長だった山崎正夫社長(当時)を業務上過失致死傷罪で起訴した。歴代社長はその共犯に問われた。8年間、列車は毎日走り続けていて事故は起きなかった。その間、危険を認識しながら放置していたといえるのだろうか。事故の直接の原因は運転手の重大な過失であることが明白だから、検察としても公訴の維持は相当の困難が予想されるね」


 ――あの事件は、2008年暮れまで最高検では間違いなく消極意見が有力でした。現場の神戸地検を管轄する大阪高検が「あれだけの大事故なのに誰も刑事責任を問わないのは理不尽だ」と訴追に積極的で、最高検を説得して強制捜査に踏み切り山崎氏を訴追した。検察部内では非公式ではあるが、いまだに「あれは無理な起訴だったのではないか」との声がある。検審の強制起訴の前提になった山崎事件でさえそういう状況ですから、検審起訴事件の方も、検事役の弁護士さんは公判維持に苦労するのではないでしょうか。

 「裁判員制度も検察審査会の強制起訴も、部分、部分でその改革の方向は間違っていない。しかし、刑事司法全体で見ると、おかしな方向に向かっている。従来の刑事司法の根幹部分を壊しているように思う。そのつけは大きいよ」

 「検察が不起訴にする。その処分に国民の不満がたまる。不満は検察審査会に向かう。検審が起訴議決し、指定弁護士が公判維持する。そういうケースが増えてくると検察審査会は検察にとって代わってどんどん大きな存在になるかもしれない。それだからといって、検察が起訴・不起訴の判断基準を変えるわけにはいかないだろう」

 「ただ、起訴猶予の運用は、これまでに比べ確実に硬直化するだろうね。公訴権の運用が二分されるような事態だ。いずれにしても、強制起訴された事件にどのような判決が出るのか、見ものだ。その時、方向が決まる」


 ――小沢事件は、検審の審査員11人全員が起訴に票を投じたと一部で報道されました。事実なら、検察に対し「政治的判断で不起訴にした」との疑いを突きつけた形です。反対に、村木事件は、起訴してはいけないものを起訴した疑いが指摘されている。検察に対する国民の不信が高まると、不起訴に対する審査だけでなく、いっそ起訴判断そのものに、国民に参加してもらった方がいいのではないか、という話になりかねない。米国の大陪審のようなシステムですね。しかし、大陪審のルーツの英国では、大陪審ではうまくないというので1940年代に廃止され、米国でも採用する州が減っているらしい。歴史的にみると成功した制度とはいえないという意見もあります。

 「どういうものになるかは別にして、検察はどんどん公判専従的になっていく。ただ、政治腐敗や経済秩序にかかわるような大事件は常に起きるから、特捜検察的な機能を備えた捜査機関は必要だ。特別な目的の捜査機関をつくろうということになるのではないか。そういう形で特捜がやってきたものを補完することになる。検事出身者としては、そうなる前に捜査部門の人材拡充を図り、国民の期待に応える特捜検察を維持し、さらに飛躍してもらいたい」


 ――特別目的の捜査機関というと、政官界やマフィアの組織的な不正を摘発する米・FBIのタスクフォース・チームのようなイメージですか。

 「スキームの作り方はいろいろあるだろう。いずれにしろ、検察がいまのような構造にはまり込むと、これまでやってきた特捜機能は果たせないことは間違いないのではないか」
読み解くと、市民の意思(目線)を尊重しようという改革の目的そのものは妥当であり必要だが、検察審査会の強制起訴などの法改正によって、刑事司法の根幹部分が壊れた(る)との考えであろうか。高井弁護士同様「証拠裁判主義」から極端に言えば「感情裁判・思い込み裁判」の方向へ進んでしまっている事への危惧なのだろう。

おそらく、「証拠裁判主義」から「感情裁判・思い込み裁判」へこれが今回の検察審査会議決の一番大きな問題点ということになる。

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