沖縄核密約、合意関与の若泉氏が極秘文書残す
2010年3月3日3時16分
沖縄返還交渉の際、当時の佐藤栄作首相の「密使」として、有事の際の沖縄への核兵器再持ち込みを容認する日米の秘密合意(密約)に関与した故・若泉敬氏=元京都産業大教授=が残した資料の中に、外務省の公電など複数の極秘文書が残されていたことがわかった。「核抜き」返還を定めた日米首脳の共同声明文案も含まれており、秘密交渉のさなかに政府中枢から受け取ったとみられる。若泉氏は生前、「密約」だけでなく共同声明の作成協議にも水面下で関与したことを告白していた。文書はその証言の信用性を裏付けるとみられる。
明らかになった文書は現物やコピー百数十枚。1994年に刊行された若泉氏の著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(文芸春秋)の編集者だった東眞史(あずま・まふみ)さん(67)が保管していた。
佐藤首相と当時のニクソン米大統領は69年11月に首脳会談を開き、現地時間の同月21日に沖縄返還に合意する共同声明を発表した。資料の中には、交渉段階の同年8~10月に日本政府が作成した声明案文のコピーが含まれ、「極秘 無期限」の印判があった。連番が「1号」と記されたものもあり、佐藤首相に渡されたものと見られる。
若泉氏は同書の中で、首相から共同声明について秘密裏の協議を頼まれ、手書きの声明案3案を渡されたと記述。これを基に作成・英訳した5案を相手方のキッシンジャー米大統領補佐官に示し、首脳会談では中間的な案で合意に至るように段取りを打ち合わせたと記していた。資料には若泉氏がキッシンジャー氏との交渉の際に提示した英訳の5草案もあり、著書の説明と遺品の資料は符合する。
また、沖縄返還交渉の「ヤマ場」といわれた69年9月の愛知外相とロジャーズ国務長官の会談の際、在米日本大使館から外務省に送られた複数の極秘公電も保管されていた。現地時間同月12日の会談内容を伝える公電は、「特秘 大至急」とある。日本側の提案に対し、国務長官が「わらいながらエルサレムの将来とオキナワの核兵器は自分としていつも回避する話題であると発言」したと記し、手の内を見せない米側との交渉の厳しさを伝える内容になっていた。
佐藤首相とニクソン大統領は首脳会談の際、共同声明とは別に、有事の際に沖縄へ核兵器を再び持ち込むことを容認する秘密の合意議事録を交わしているが、その合意議事録の草案も含まれていた。
東さんによると、文書は若泉氏が執筆の資料に使い、その後に東さんが事実関係の確認や校正に使うため預かっていたという。「若泉氏には『廃棄してもいい。扱いは任せる』と言われた。『密約』に対する評価は様々だが、その証しとして明らかにした」と話している。(川端俊一)
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〈共同声明と秘密合意〉 共同声明の第8項は、沖縄返還を「事前協議制度に関する米国政府の立場を害することなく」「日本政府の政策に背馳(はいち)しないよう実施する」と規定。沖縄に配備されていた核を日本復帰時に撤去する方針を示す一方、有事の際には核を再び沖縄に持ち込める道を残したとみられている。
一方、合意議事録は、有事の際に米国から事前協議があれば日本は核再持ち込みを容認する内容となっている。
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■「共同声明」の核兵器取り扱いに関する条項の手書き案文(若泉氏の資料から)
(第一案)
総理大臣は、核兵器に対する日本国民の特殊な感情及びこれを背景とする日本政府の政策について詳細に説明した。これに対し、大統領は、深い理解を示し、沖縄の核兵器は返還までには撤去される旨を確約した。
(第二案)
………………これに対し、大統領は、深い理解を示し、沖縄の返還に当たっては、日米安保条約の事前協議制度に関するその立場を害することなく、右の日本政府の政策に背馳しないよう処置する旨を確約した。
(第三案)
………………これに対し、大統領は、深い理解を示すとともに、米国政府の右に関する政策を述べ、米国政府としては、日米安保条約の事前協議制度に関するその立場を害することなく、かつ、日本政府の政策に背馳することなきよう沖縄の返還をはかることを確約した。
佐藤―ニクソンの合意議事録の日本文全文(佐藤私邸で発見されたもの)は以下の通りである。
一九六九年十一月二十一日発表のニクソン米合衆国大統領と佐藤日本国総理大臣との間の共同声明についての合意議事録
米合衆国大統領
われわれが共同声明で述べたとおり、米国政府の意図は、実際に沖縄の施政権が日本に返還されるときまでに、沖縄からすべての核兵器を撤去することである。そして、それ以降は、共同声明で述べたとおり、日米安全保障条約と関連する諸取決めが沖縄に適用される。しかしながら、日本を含む極東諸国のため米国が負っている国際的義務を効果的に遂行するために、米国政府は、極めて重大な緊急事態が生じた際、日本政府との事前協議(A)を経て、核兵器の沖縄への再持ち込みと、沖縄を通過させる権利を必要とするであろう。米国政府は、その場合に好意的な回答を期待する(B)。
米国政府は、沖縄に現存する核兵器貯蔵地である、嘉手納、那覇、辺野古、並びにナイキ・ハーキュリーズ基地を、何時でも使用できる状態に維持しておき、極めて重大な緊急事態が生じた時には活用できるように求める。
日本国総理大臣
日本政府は、大統領が述べた前記の極めて重大な緊急事態の際の米国政府の諸要件を理解して、かかる事前協議が行われた場合には、遅滞なくそれらの要件を満たすであろう。
大統領と総理大臣は、この合意議事録を二通作成し、一通ずつ大統領官邸と総理大臣官邸にのみ保管し、かつ、米合衆国大統領と日本国総理大臣との間でのみ最高の機密のうち取り扱うべきものとする、ということで合意した。
一九六九年十一月十九日
ワシントンDCにて
リチャード・ニクソン
佐藤栄作
核密約決定的裏付け、文書に有識者委強い関心http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091223-OYT1T00010.htm沖縄返還交渉をめぐり、当時の佐藤栄作首相とニクソン米大統領が交わした有事の際の沖縄への核持ち込みの密約を裏付ける決定的文書が22日に見つかったことで、密約を一貫して否定してきた政府は、その存在を認めざるをえなくなった。密約に関する分析を進める外務省の有識者委員会も強い関心を示している。専門家の間ではこれまで、この文書は佐藤氏によって処分された可能性が高いとされてきた。米国でも見つかっておらず、佐藤氏の密使として米側と秘密交渉を行ったとされる若泉敬・元京都産業大教授(故人)の著書などからその存在がうかがえるだけだった。若泉氏が著書で指摘した通り、文書には佐藤、ニクソン両首脳がフルネームで署名していた。日米の密約に詳しい信夫(しのぶ)隆司・日大教授(日米外交史)は「リチャード・ニクソンの『d』の字体が独特で、間違いなく本物の署名だ」と指摘する。外務省の内部調査では、沖縄への核持ち込みに関する密約を示す文書は確認されていない。有識者委の関係者は「佐藤氏の遺族が持っていたのだから、密約があった可能性は高い」と指摘。別の関係者は「知らんぷりはできない」と述べ、佐藤氏の遺族からの聞き取りなどに意欲を示した。今後の日米安保体制への影響について、専門家の間では、大きな影響はないとの見方が大勢だ。佐藤氏が文書を自宅で保管し、後の首相に引き継がれていなかった可能性が高いためだ。外務省幹部の一人は「引き継がれていない以上、効力はない」と言い切る。沖縄の密約に詳しい我部政明・琉球大教授は「今日的な意味はあまりない。米国の現在の戦略は、朝鮮半島での緊急事態の度合いなどに応じて核持ち込みの是非を判断するということではないか」と指摘する。密約の存在を認めた場合、「持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則との整合性が問われることになる。米軍の核抑止力を維持する観点から、核を搭載する航空機の立ち寄りは可能とする「非核2・5原則」への変更を求める声が高まることも予想される。(2009年12月23日10時00分 読売新聞)核密約文書、佐藤元首相邸に…初の存在確認http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091222-OYT1T00775.htm沖縄返還交渉を巡り、当時の佐藤栄作首相とニクソン米大統領の間で交わされたとされる有事の際の核持ち込みに関する「密約」文書を佐藤氏の遺族が保管していたことが22日、明らかになった。密約の存在を裏付ける決定的な証拠が発見されたことになる。外務省はこれまで文書の存在を否定してきた。日米間の密約の存否の検証を行っている外務省の有識者委員会の判断にも大きな影響を与えるのは必至だ。佐藤家で発見されたのは、ワシントンで行われた日米首脳会談で極秘に交わされた「合意議事録」の実物。読売新聞社が入手した「合意議事録」の写し(英文2枚)は、1969年11月19日付で、上下に「トップ・シークレット(極秘)」とある。文末には佐藤、ニクソン両首脳の署名がある。文書では、米側が「日本を含む極東諸国防衛のため、重大な緊急事態が生じた際は、日本と事前協議を行ったうえで、核兵器を沖縄に再び持ち込むこと、及び沖縄を通過する権利が認められることを必要とする。米国政府は好意的回答を期待する」とし、有事の際の沖縄への核持ち込みを両首脳が合意したことが記録されている。日本側は「そうした事前協議があれば、遅滞なくその要求に応える」と明記されている。また、「米国政府は重大な緊急事態に備え、沖縄に現存する核兵器の貯蔵地、すなわち嘉手納、那覇、辺野古、及びナイキ・ハーキュリーズ基地をいつでも使用できる状態に維持しておく必要がある」と記している。文書は2通作成され、1通は日本の首相官邸、もう1通は米国のホワイトハウスで保管するとしてある。佐藤氏は首相退陣後、自宅の書斎に私蔵していた。佐藤氏が75年に死去した際、東京・代沢の自宅にあった遺品を遺族が整理していたところ、書斎机の引き出しから見つかった。机は首相在任時、首相公邸に置かれ、退任後は、自宅に持ち運ばれた。関係者によると、元首相は生前、文書の存在について寛子夫人(故人)も含めて家族に漏らしたことはなかった。佐藤元首相の二男の佐藤信二元通産相は「(元首相は)外遊の際はアタッシェケースに書類を入れて持ち歩いていた。69年の訪米の際も、帰国してその文書をアタッシェケースから書斎机に移したのだと思う」と証言する。密約の存在は、返還交渉で密使を務めたとされる若泉敬・京都産業大教授(故人)が1994年に著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(文芸春秋刊)で暴露した。(2009年12月22日16時01分 読売新聞)沖縄核密約文書が存在 佐藤元首相の遺族が保管2009.12.23 01:22http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091223/plc0912230123001-n1.htm沖縄返還交渉中の昭和44年、当時の佐藤栄作首相がニクソン米大統領と交わした有事の際の沖縄への核持ち込みに関する密約文書を佐藤氏の遺族が保管していたことが22日、判明した。佐藤氏の次男、佐藤信二元運輸相が明らかにした。信二氏によると、文書は同年11月の日米首脳会談で極秘で交わされた「合意議事録」。沖縄返還にあたっては核兵器撤去と日米安全保障条約の適用を意味する「核抜き・本土並み」が条件とされていたが議事録では、日本や極東の有事の際には米側は「日本と事前協議を行った上で、核兵器を沖縄に再び持ち込むことと、沖縄を通過する権利が認められることが必要だ」と要請。日本側は「事前協議が行われた場合、遅滞なくこれらの必要を満たす」と応じた上で「ホワイトハウスと首相官邸のみで保管し、最大の注意をはらい極秘に取り扱う」と確認している。
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