2009年7月23日木曜日

【西松事件】 政治資金規正法

元国会議員であり弁護士の見方

政治資金規正法違反は,贈収賄と違って形式犯であり,その違反による強制捜査(逮捕)は従来1億円が基準であった。しかし,3日の逮捕は,わずかにその額2,100万円(+100万円)。

 西松建設は,政党(及び政治資金団体)にしか寄附ができないとする制限(21条1項)に違反し,ダミーの政治団体を使って寄附をし,一社当たりに認められる年間寄附上限額(資本金50億円以上の会社であれば年3000万円)を超えた(21条の3)。

 小沢側はその事情を知りながら,寄附を受けた(22条の2)。これは「1年以下の禁錮又は50万円以下の罰金」(26条)という軽罪だから,法的構成としては,正しい事項を報告しなかった12条違反として,25条の「5年以下の禁錮又は100万円以下の罰金」としているのであろう。ちなみに前者の時効は3年,後者は5年である。
 
 さて,以下は誰もが思う疑問である。
① これで終わりではないはず。とっかかりの別件逮捕にすぎず,真の狙いは実質犯(刑 法の贈収賄か,あっせん利得処罰法違反)にあるはずだ。
② しかしなぜ今,総選挙が取りざたされるこの時期にやるのだ。検察は政治的に中立で なければならないはずだ。
③ 同じことを自民党議員もやっている。やるのであれば自民党側も同じように調べるべ きだ。

 その答えとして,以下,私の読みを述べる。
 特捜部は西松建設の社長らを昨年末,外国為替法違反で逮捕,起訴をした。外為法も政治資金規正法違反同様形式犯であり,またもともと特捜部の狙いは,言うまでもなく政治家にある。そこにこそ彼らのレゾンデートル(存在意義)があるからだ。彼らは押収物件及び関係者の供述から,西松建設から政界に流れたとされる巨額の裏金の行方をくまなく洗っていた。昨年の防衛省汚職も結局次官で止まり,狙った政治家には行き着かなかったから,よけいのことだ。必死で捜査をしてきたが,結局のところめぼしいものが出ないまま,3月の声を聞く。

 3月末は人事異動期である。22日間の逮捕・勾留期間を見据えると,3月初めはまさにタイムリミットだ。贈収賄ではなし,おまけに額も極めて低いが,野党党首となれば話題性は充分だ。なので,ぱっとしないながらも逮捕に踏み切った。事案自体の些少さに加え,時期を考えて,反対論は検察内部にも相当あったはずだが,功名心に駆られ,血気にはやる一線を上は止められなかった──。

 野党議員は公務員だが,与党大臣などとは違い,職務権限がない。収賄としては「あっせん収賄」しか成り立たないが,これでやるのであれば,職務権限のある「あっせんされた公務員」側も調べておかねば無理である。
 あっせん利得処罰法違反は,国・公共団体の契約(少なくとも半分の出資)であることと「不正なこと」をさせたという要件が必要だ。またこちらもやるとすれば,口利きをされた人側を調べておかねば無理である。つまるところ私は(おおよその期待に反して?)これ以上の別件は出ないであろうと踏んでいる。もちろん出るのであればそれに越したことはない。検察が無茶をやっているのではなければ,安心である。

 さて,ここで根源的な問題に戻る。──「特捜部はこれで良いのか」

 警察の強制権限は,公訴権を独占する検察によってチェックされる。だが,検察にはチェック機関がない。もちろん裁判所は無罪を言い渡せるが,逮捕された人,捜索を受けた会社は強制捜査そのものによって事実上抹殺されてしまう。
「巨悪は眠らせない」──これが特捜検察のキャッチフレーズだ。

 だが,巨悪がないのであればそれに越したことはない。わざわざ無理やり掘り起こして,人を逮捕までして捜査をするのが,社会をよくするためでもなく,ただ自分たちの存在意義のためであるとしたならば,これほど本末転倒な,恐ろしい話はない。

 権力ある者は当然ながら,それを抑制的に使わなければならないのである。良き政治家を自分たちの代表として選び,それによって社会を良くするべき責務を負っているのは国民であり,国民が選挙によって選ぶことのない検察官に本来その機能はないはずだ。検察官に社会の自浄作用を期待するとすれば,それはそもそもが誤った民主主義だということに,国民は気付かなければならない。

 特捜部に匹敵する機関は,世界中どこにもない。韓国に特捜部はあるが,これは政府の指令によって強制捜査をするという,中立性を欠いたものである。今回漆間官房副長官の発言が問題になっているように,大統領府の意を酌んで有力野党の捜査をするというのが典型例だ。あるいは現政府が前の政府高官を捜査するというのは,誰が見ても後進国の在り方である。

 特捜部は予算を獲得し,人も増やしている。そのために,何か話題性のある事件をやらなければならないという,組織存亡のための捜査になっている気がしてならない。もとより,昔とは違い,今は「綺麗な」贈収賄などあまりないはずだ。

 特捜部は今のままの常設機関ではなく,規模を縮小して,脱税事件に特化してよいのではないか。何かあったときだけ特別に応援を取って捜査をしたらよいのである。時代も変わった。国民は,自ら選ばない検察官を頼みとするのではなく,自らの手で選良を選ぶことで政治を良くし,社会を良くすることに勤めるべきではないだろうか。

 自らの手で選んだ政治家が汚れているのであればそれは自らの責任であり,また次の選挙で良き政治家に変えるべきなのである。民主主義は,寝ていても誰かが与えてくれるものではなく,「自らの血と汗で勝ち取るものだ」という,欧米では当然の考え方が,自ら民主主義を勝ち取った国ではないこの国には欠如していると思われてならない。
 今回の逮捕劇はいろいろなことを考えさせてくれる。
調べを受けて自殺された方もおられる。

 小沢さんの秘書は3月24日当然のように起訴され,また私が予測したとおり,余罪は何もなかった。大山鳴動して鼠一匹。これを機会に検察のあり方そのものが見直さればいいと思う。マスコミも世論も迎合することなく,きちんとした意見を述べてほしいものである。

 草薙君の事件報道もひどかった。公然わいせつ罪は最高で懲役6ヶ月の軽罪である。同じ「わいせつ」でも,強制わいせつ罪とは違うのだ。こちらには被害者もいて,法定刑の最高刑は懲役10年だ。それを何を勘違いしたのか,法律を知らないのもいいところ,「最低の人間」だと公然に述べた某法相は「侮辱罪」にあたると思われる(こちらも軽罪だが)。そもそも草薙君は酩酊していて(だからこの種犯罪に至ったわけだが)責任能力に問題があった。それを有名税というのか,極悪犯人のように報道したメディアの見識が問われる。
 いつも思うことだが,凶悪犯罪は,その人を殺すだけではなく,その人に親しく連なった人をも同時に殺すのだ。彼らは生きている限り事件に囚われ,死ぬまで忘れることはできない。それは,犯人が更生を期待され,社会に戻っていけるのとまったく対照的な姿であり,だからこそ犯罪は憎まれなければならない。

 安倍さんもそうだったが,小沢さんも辞め時を間違えた。辞めるのであればもっと前に辞めるべきだったが,後継者選びは予想通りの出来レースだった。世襲ではない岡田さんにやらせれば民主は選挙に勝てただろうに。インフルエンザ騒ぎはすごいが,本当にそんなにひどい症状のものなのか,よく分からない。相変わらずメディアが乗って騒ぎを拡大させている感じを持つのは私だけではないだろう。

 福岡市職員による飲酒運転,幼児3人ひき逃げ事故の判決。
 一審は危険運転致死傷罪の適用を否定して,懲役7年。検察控訴に対し,二審は適用して懲役20年。上告審は二審を支持すると予想する。一般予防の観点から重くてもいいのだが,その構成要件に当てはまるかはまらないかの事実認定でここまで極端に刑が違うとなると,法的安定性を欠くことを危惧している。


  自民党の迷走が止まらない。まさに目を覆うばかりの体たらくだ。
 「いい時にやめましたよねえ」と会う人毎に言われるのだが,5年前にやめたとき,近い将来まさかこんなことが起きようとは想像も出来なかった。まさに「事実は小説よりも奇なり」。ふざけすぎた漫画のような感がある。

 辞めて翌年(2005年)の郵政解散で,反対派は公認を外され,静香先生などが離党した。小選挙区制の特徴を生かして党は「刺客」をばんばんと擁立(中選挙区制であれば派閥主導だからこんな芸当はできない),メディアは小泉劇場と仮し,83名もの小泉チルドレンが一挙に当選,自民党は歴史的圧勝をして衆院の自公勢力は3分の2を超えた。

 翌年,人気の安倍さんが首相になったがバンソウコウ大臣など閣僚辞任が相次ぎ,その翌夏の参院選は大惨敗,参院での与野党が逆転した。筋としてはその時に辞任するしかなかったのに,9月,所信表明を行った後に「小沢さんが話し合いに応じてくれなかった」とか何とか訳の分からない理由を述べて,辞任。

 その総括もないまま,自民党は首相に意欲満々な麻生さんを排して福田さんを選んだが,福田さんも翌年9月にはまた投げだし。今度こそ「人気者」の麻生さんを選び,解散をかけて総選挙に打って出るはずだったのが,せず。そのあとの度重なる迷走(まいそう?)は周知のとおりである。漢字が読めないのはもちろん,筋を通せない,決断力がないといった,リーダーとしての根本的な資質が欠如していることが明らかになった(そもそも国民の代表者である国会議員としての資質も欠いているというべきである)。

 さはさりながら,そうした人を選んだのは自民党である。国民ではない。

 麻生さんの不平不満を発信してどうだというのか。自分は選んでいない,自分は(麻生さんと違って?)上等な人間だというのか。ああそうですねと人が納得してくれると考えているとしたら,笑止千万だ。そもそも内閣不信任案を否決しておいて,麻生降ろしなど,ありえない。大体が総選挙を経ずに看板を3度も4度も取り替えること自体国民を愚弄している。人はすべからく筋を通すことが肝要であり,それなくして信頼は得られない。一連の出来事を通して見えてくるのはみな自分のことだけを考えているということだ。本来国民のことを考えるのが国会議員であるはずなのに。

 振り返って,このどたばた劇は小泉さんの時から発している。「自民党をぶっ壊す」と小泉さんは宣言していた。郵便局や医師会など従来強固だった自民党の組織が離れていったことで,自民党は無党派層を狙わなければならなくなった。つまり首相=人気者であることが必要になったのだ。人気を出すためにメディアを活用する。これはタレントの世界であり,もともと地道に政策を考え,実行する政治家の資質とは異なるものであった。

 今回つい馬脚を現した東国原知事。以前から思っていたが,なぜこの程度の人間をメディアは取り上げ,持ち上げるのか。メディアが一挙手一投足を競って追うから,本人も自分が大物であるかと勘違いをする。キャパシティの狭い者ほど容易に勘違いをするのだ。メディアの罪も大きい。

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