2007年だと記憶をしているのだが、朝日新聞の「逆風満帆」に掲載された吉野文六氏のインタビュー。
「逆風満帆」
■沖縄返還密約を証言
新聞は英字紙を含めて3紙。米誌「ニューズウィーク」「ニューヨーカー」にも目を通す。週2回の囲碁と月2回のゴルフ。壁にかけたカレンダーは震えるような文字で埋まっている。
「このところ、メディアの人たちがひっきりなしに訪ねてくるからねえ」
35年前、沖縄返還交渉にあたった元外務省アメリカ局長の吉野文六(88)は、ぼやくように口元をゆるめた。
横浜市内にある自宅には新聞記者だけでなく、大宅壮一ノンフィクション賞作家の佐藤優も通ってくる。
米寿を迎えて、なお忙しいのには理由がある。
昨冬、沖縄返還で日米間に密約があった、と証言した。協定には、米軍が使用していた土地の原状回復補償費400万ドルを米側が支払うと記されているものの、実際は日本側が肩代わりしていた――。かつて外務省機密漏洩(ろうえい)事件と呼ばれた事件の焦点だった。
すでに00年と02年に発掘された米公文書で裏づけられている。しかし日本政府は一貫して否定してきた。その密約を、交渉の最高責任者として初めて認めたのだ。
北海道新聞のスクープを追いかけるように、メディアが一斉に押し寄せた。
「密約、密約っていうけどね、外交交渉はみんな密約なんですよ」
駐ドイツ大使などを歴任し、勲一等瑞宝章も受けた元外務省高官の突然の告白。だが、政府は根拠を示すことなく打ち消した。
「まあ、オフィシャルには認められないでしょうなあ」
吉野には怒りどころか力みさえない。明かせない秘密を嘘(うそ)で塗りつぶすのは、かつての自分の姿でもあった。
■「嘘」を重ねた35年前
沖縄返還の調印式が1カ月半後に迫っていた。
72年3月27日。衆院予算委員会で、当時、社会党議員の横路孝弘が、外務省の秘密電信文のコピーを読み上げた。
〈米側は財源の心配までしてもらって多としている〉
〈問題は実質ではなくAPEARANCE(見せかけ)である〉
これは素人の作文じゃない。いや、本物だ。吉野は動揺を隠して答弁に立った。
「その文書を一応見せていただきまして、調べまして、あしたお答えいたします」
吉野はすぐに自民党の議院運営委員長に相談した。
「君はほんとうに世間知らずだね。外務省の電報なんぞは前からこんなに来ているんだよ」
書類を積み上げるしぐさで笑われた。
とはいえ、これが本物となれば、密約はないとしてきた佐藤内閣は揺らぎ、沖縄返還も覆りかねない。
別室で、社会党議員と文書を突き合わせた。コピーは確かに本物の写しだ。見ると、決裁欄には審議官より上の人のサインがなかった。
直後に、審議官付きの女性事務官が漏洩を認めた。毎日新聞政治部記者の西山太吉(75)に秘密電信文を渡し、それが社会党へ流れたのだ。2人は国家公務員法違反の疑いで逮捕された。
〈情を通じ〉
検察が起訴状にそう書き込むと、報道は一転、男女スキャンダルに染まった。
「あれで、助かった」
吉野は検察の事情聴取に、交渉中のことは一切機密だから国会でも否定すると言い、法廷でも偽証を重ねた。
「とにかく私の仕事は、沖縄返還協定を国会で批准させること。それがすべてでした。だから、あとは野となれ――というような心境でね」
一方、西山は新聞社をやめ、78年に最高裁で有罪が確定する。ペンは奪われ、密約は葬られた。
それから四半世紀。05年春、西山は密約を否定しつづける政府を相手取り、謝罪と損害賠償を求めて提訴した。国と刺し違える覚悟だった。
9カ月後、敵であるはずの吉野が突然、口を開いた。
「べつに彼の裁判を後押ししようとか、申し訳ないという気持ちがあったわけではないんです」
何に動かされたのか。吉野は今も言葉にしない。ただ、全てをうちあける直前に、61年連れ添った妻を亡くしていた。
■認知症の妻亡くして
06年、正月明けの朝だった。妻の呼吸がうなるような音に変わった。
「ゴーーゴーー」
元外務省アメリカ局長の吉野文六(88)はベッドに歩み寄った。妻は介護する夫も見分けがつかない。認知症になって7年、ほどなく荒い息が途絶えた。86歳だった。
11日後、北海道新聞の記者が訪ねてきた。
妻のいない居間で、沖縄返還をめぐる米公文書を示された。1行ずつ確かめるように活字を追うと、末尾に手書きの文字があった。
〈B.Y〉
35年前、自分が書いたサインだった。直後に、吉野は真相を語り始めた。
それなのに、こう言う。
「私が話したのは妻の死とは関係ありません」
前年に元毎日新聞記者の西山太吉(75)が起こした裁判の影響でもない、と。
理由を語らない代わりとでもいうように、吉野はある冊子を取り出した。
〈吉野文六 オーラルヒストリー〉。政策研究大学院大学が立ち上げた、歴史学者による聞き取り調査プロジェクト。99年に語った言葉が記されていた。
〈うまくごまかして「交渉内容だから話せません」とか何とか言っていればいいんだけどね〉
〈「そんなことは一切ありません」と言って否定したわけですから、相当国会に対しては嘘(うそ)を言った〉
吉野は妻の死より7年も前に証言していたのだ。公表が前提ではなく、歴史を記録するためにと請われて応じたという。
確かに、吉野は「歴史の目撃者」だった。
外務省に入った翌41年、語学研修のためにドイツへ渡った。まもなく独ソ戦争が始まり、ユダヤ人排斥を目の当たりにする。
目抜き通りでは商店が打ち壊され、服には「黄色い星」を縫いつけさせられ、いつしか強制連行の噂(うわさ)が流れた。でも、集団虐殺を知ったのは戦後になってからだった。
ハイデルベルクやミュンヘンを回る3年間の研修後、ベルリンの日本大使館に勤めた。最初に覚えたのが暗号解読と電信文の扱いだった。
45年5月、首都陥落。大使館にソ連兵が押し寄せ、機関銃を突きつけられた。
「女はいるか」
「いや、いるはずがない」
実際は、地下壕(ちかごう)にタイピストのユダヤ人女性2人を匿(かくま)っていた。入り口は絨毯(じゅうたん)で覆い隠してある。ソ連兵は乱暴に館内を見回ると、酒や万年筆を奪って去っていった。
その後、吉野はドイツから脱出する。着のみ着のまま、モスクワ経由で鉄道に揺られた。4人用コンパートメントに9人詰め込まれ、黒パンで飢えをしのいだ。旧満州(中国東北部)へ向かう途中、ヒトラーの自殺を知った。
■敗戦前、焦土に帰国
帰国は8月1日。ハルビン発の直行便で羽田空港に降り立った。空が広い。一面が茶と黒の焼け野原だった。
吉野には会いたい人がいた。シドニー生まれで英語を操る、貿易商の娘。大学時代に参加した日米学生会議で知り合い、上野の美術館に何度か行った。ドイツからは手紙も書かなかったが、横浜の家に直行した。
「結婚しよう」
5年ぶりの再会で告げた。
2人は吉野の故郷・長野で式をあげた。外交官になれと言ってくれた弁護士の父は、5カ月前に亡くなっていた。
数日前、広島と長崎に原爆が落とされた。式を終えると、吉野は役場に出向いた。
「帰ってきました。私を兵隊にとってください」
東大在学中に外務省に入ったため「徴兵延期」になっていた。高校の同級生は多くが戦場に散った。自分だけ逃げるわけにはいかない。
ドイツでは連日の空襲をくぐり抜け、大使館に1トン爆弾が落ちたこともある。
「そのときは、そのとき」
不思議とそう思うようになっていた。
だが、役場の職員は手続きをしない。まもなく玉音放送が流れた。
敗戦の翌年、条約局法規課に配属された。最初の仕事は翻訳だった。
〈subject to MacArthur〉
連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で、マッカーサー元帥と天皇の関係をどう訳すべきか。議論を重ねた。
新憲法の公布より1カ月早く、長女が生まれた。
「夜明けを迎えた日本にも朝が来るように」
祈るような思いで、朝子と名づけた。
■「ニンジャがいる」
振り返れば、あれが分かれ道だった。
戦後まもなく、外務省条約局法規課にいた吉野文六(88)は、商工省から改組される通産省(現経済産業省
)へ出向したい、と申し出た。
「外務省を出たら、事務次官にはなれないぞ」
上司から反対された。
でも、これからは貿易だ。面白い仕事がしたい。出世は二の次だった。
通産省で3年働き、外務省では経済畑を歩む。日本の高度経済成長とともに、表舞台がめぐってきた。
68年、ワシントンの駐米大使から電話を受けた。
「ぜひ、君にきてもらいたいんだが」
駐米公使として3度目のアメリカ赴任。当時としては珍しく、かならず家族を連れて行った。
「でも、ワシントンは嫌いでね。刺激的だけど仕事漬けになっちゃうから」
仕事だけに塗りつぶされまい。その感覚が、晩年に古巣を裏切る形での告白につながったのだろうか。
当時のアメリカは揺れていた。キング牧師暗殺、ベトナム反戦運動、そして翌年、ニクソン政権が誕生する。
吉野は、繊維製品の輸出自主規制を求める米側との間で日米繊維交渉を担った。折衝には、大統領補佐官
のH・キッシンジャーも同席した。
「ブン、うまくやってくれよ。ニクソンが『早くまとめろ』と言ってるんだ」
吉野が外務省派遣で米ハーバード大に留学したときの教官はニヤリと笑った。
とはいえ交渉はこじれた。
70年12月、吉野は通産省繊維局の了解をえて米側と合意にこぎつけるものの、翌日、官邸に覆された。それ
が2度続いた。何かおかしい。米国務次官補がささやいた。
「ニンジャがいるらしい」
首相の佐藤栄作は米大統領との間でひそかに対米輸出規制に合意し、密使を動かしていた。その裏交渉の相手がキッシンジャーだった。そうわかるのは後のことだ。
繊維問題が片づけば、沖縄返還交渉での切り札がなくなる。だから、官邸は合意を引き延ばしている――。
「糸(繊維)と(沖)縄の取引」との噂(うわさ)が広まり、交渉は暗礁に乗り上げた。
■蚊帳の外に置かれた
翌71年、吉野は東京へ呼び戻された。繊維交渉に代わり、大詰めの沖縄返還交渉を担当する。
「アメリカ局長の仕事は、協定を国会で批准させること。『落ち穂拾い』ですよ」
ところが、その前に小さな棘(とげ)が残っていた。
沖縄返還に伴う費用として、米側に計3億2000万ドルを支払うという大蔵省(現財務省)案を示された。
「我々の知らんところで決められても知らんよ」
突き返したが、覆らない。
米軍用地の原状回復補償費400万ドルの問題が最後まで残った。
米側はベトナム戦争の戦費負担に苦しみ、これ以上1ドルの支出も議会が認めない。
日本側は沖縄をカネで買ったとの印象を与えたくない。
調印の8日前、米側が秘策を持ち出してきた。
「19世紀末の信託基金法という法律があるんです」
400万ドルは日本が支払い、米国はそれを基金として、沖縄の地権者に補償する。ただし、協定には「米国が自発的に支払う」と記す。そうすれば日本の肩代わりは表ざたにならず、米政府も議会への説明が成り立つ――。
こうして、日米間のねじれを解消する密約が編み出されたのだった。
米公文書によれば、佐藤・ニクソンが沖縄返還を発表する69年秋までに、日本の大蔵省と米財務省が財政支出について合意していた。この時点で、返還の枠組みは決まっていたのだ。外務省は蚊帳の外に置かれていた。
沖縄返還20周年にあたる92年、関係者が沖縄に招かれた。那覇へ向かう機内で、吉野は北米1課長だった千葉一夫の席に歩み寄った。
「国会での答弁はあれでよかったかなあ」
どこかで気になっていた。漏洩(ろうえい)した秘密電信文を起案し、交渉の実務を担った部下から、答えらしい答えは返ってこなかった。04年、千葉は鬼籍に入った。
外務省退官後、吉野は勲一等瑞宝章を受けた。功績のなかで、もっとも大きな仕事は沖縄返還だった。しかし、苦い記憶しか残っていない。
「結局、佐藤(栄作)さんが、きれいごとをやろうとしすぎたんです」
■再び真相のみこんだ
新緑の朝、吉野文六(88)は郵便物の封を切った。なかに一冊の本がある。
〈あの「事件」から35年 いま、全貌(ぜんぼう)が白日の下に!〉
帯の文句が目に入った。元毎日新聞記者の西山太吉(75)が書いた「沖縄密約――情報犯罪と日米同盟」。
5月末の発売翌日、岩波書店の編集者から送られてきた。
ページをめくると、沖縄返還をめぐる財政取り決めの虚構があぶりだされ、変質する日米軍事同盟にも触れられていた。
すべてに同意したわけではなかったが、戦略なき外交への危機感に通じる思いがあった。吉野はペンを取った。
〈西山さんが書かれているとおりだと思います〉
文面を編集者から伝え聞くと、西山は言った。
「書いて、よかった」
かつて、ふたりは一度だけ食事をしたことがある。神田あたりの天ぷら屋だった。
71年秋、西山が外務省から自民党の担当に変わる直前、吉野が送別の席を設けたのだ。異例のことだった。
「政治家におもねらずにネタをとる。デキる記者という印象でしたね」
再び顔を合わせたのは翌年12月、場所は東京地裁701号法廷だった。
吉野は検察側証人として、被告席に座る西山の前に進み出た。当時の新聞が「(外務省機密漏洩(ろうえい)事件審理のハイライト」と位置づけた場面で、淡々と偽証を重ねた。
78年、最高裁で西山の有罪が確定する。
駐独大使だった吉野は、その知らせを聞いた覚えがない。西山の名前を思い出すのは22年後のことだ。
00年5月、外務大臣の河野洋平から電話が入った。懐かしい声だった。外務省を退いた一時期、若き総理候補だった河野を囲む会に顔を出していたことがある。
沖縄返還をめぐる密約を裏づける米公文書が見つかった、と近く朝日新聞が報じる。その前にコメントを求めてくるという。
「これまでどおり(密約を否定する)ということで、お願いします」
河野はかつて、自民党所属ながら弁護側証人としてメディアの重要性を訴えていた。外務大臣となり一転、真実を語るなという。
吉野は前年、非公式ながら学者の聞き取り調査に密約を認めていた。しかし、逆らわずに真相をのみこんだ。
密約否定の要請について、衆院議長の河野は「記憶にない」という。
02年には、別の米公文書が発見された。外務大臣の川口順子は00年の吉野発言を持ち出して、密約はないと押し通した。
■「西山さんは偉大だ」
ところが4年後、吉野は突然、発言を覆した。
「あのときは、河野さんから口止めされたんです」
400万ドルの密約につづく新証言。政府が唯一のよりどころとしてきた密約否定の根拠が失われた。
堰(せき)を切って真実を語りはじめたように見えるものの、特別な理由があるわけではないという。
「400万ドルなんて、沖縄返還全体からすれば小さな話でしょ」
とはいえ、その400万ドルをめぐる嘘(うそ)により、西山が記者人生を絶たれたのは確かだ。
「裁いたのは私ではなく、裁判官ですから」
後ろめたさはない。だから西山が起こした裁判を後押ししようとの思いもなかった。
ただ、と吉野はいう。
「西山さんは偉大だと思いますよ」
みずからを欺いた国に嘘を認めさせようという執念。歴史をありのままに記録させようという正義感。それによって自分の存在を認めさせたいという欲――。
「そのすべてを含めて、ひとり素手で国と戦っているんですから」
政府が嘘をついて密約を結んだという本質がすり替えられたという意味で、西山は「沖縄密約事件」と呼ぶ。
一方、吉野にとってはいまも、「外務省機密漏洩事件」にすぎない。
立ち位置は異なるものの、それでも重なる言葉がある。
「沖縄返還は美化されて伝えられてきた。でも内実は違った。そのゆがみがいまも沖縄に燻(くすぶ)っているんです」
あの701号法廷から35年、ふたりが直接顔を合わせたことはない。
「会うと(メディアが)騒がしくなるからねぇ。落ち着いたら、いつかね」
吉野の目元に皺(しわ)が寄った。
(諸永裕司)
〈よしの・ぶんろく〉 1918年、長野県生まれ。40年、外務省入省。47年、東大卒。71年、アメリカ局長とし
て沖縄返還交渉を担う。その後、駐独大使などを経て82年に退官。90年、勲一等。06年、「沖縄返還で密約あり」と証言した。