2007年4月17日火曜日

軍事戦略の原点

 米国海軍の元少将のJ・S・ワイリーによって1967年に出版された「The Military Strategy: A General Theory of Power Control」という本がある。 

その、J・S・ワイリーの”The Military Strategy: A General Theory of Power Control ”の日本語版(奥山真司訳)が”軍事戦略の原点”である。書籍そのものはハードカバーからソフトカバーへと変えられページ数も少々厚手の岩波文庫程度のものである。

”The Military Strategy: A General Theory of Power Control”と言う本そのものは、マイナーな本ではあるがJ・S・ワイリー元少将は、アメリカ海軍では天才とまで言われた人物である。この本自体は戦略学理論の入門書と紹介されているが、一般的な戦略書とは趣が異なり軍事のみならずビジネスおよび国家にも応用できる一般的な戦略理論を構築する際の総合な基礎として活用ができる書ともいえる。

”The Military Strategy: A General Theory of Power Control”そのものは、欧米の戦略学の分野では古典的名著として評価されている模様である。自分が手にした”軍事戦略の原点”は2007年の春先に日本で発売されたものである。

この本の中でのポイントは、「戦略」とは何であり「戦術」とはどう違うのかシンプルな議論から始まり、「累積戦略」と「順次戦略」という二つの戦略のパターンに関する解説をしている。戦略の分類として、陸上・海上・航空・毛沢東のゲリラ戦の4種に分類している。また、陸海空の戦略が異なるのは当然で、目的に合わせた統合運用について60年代にその必要性に目を付けている。

 また、戦略のアプローチとして、華々しい戦闘を続ける「順次戦略」と地味に敵戦力を削ぐ「累積的戦略」の2つを挙げ、この2つの適切な組み合わせが必要とする柔軟性は、まさにビジネスや国家に適用される汎用性を持つ戦略と言えよう。

ここで簡単に要約をすると、先ず今までの戦略を、「順次戦略」と「累積戦略」という2つのパターンに分類した上で、「陸上戦略理論」「海上戦略理論」「航空戦略理論」「ゲリラ戦理論」とに理論的に整理している。

「順次戦略」というのは、例えば、敵野戦軍を撃滅して敵の首都を占拠すれば敵国は降伏するであろうというように、敵を攻略するための諸段階がある程度明確で、それを順次こなしていくような戦略であると理解できる。これに対して「累積戦略」というのは、海軍による経済封鎖や空軍による工業地帯の爆撃のように、その効果が敵に対して累積的にジワリジワリと発揮される戦略であると理解できる。

少々わかり辛いと思うのでもう少し身近な例に例えると、「順次戦略」とは、言わば。一般小売店はじめとし企業の経営のようなもので、顧客数・売上げ・仕入れ・経費を、過去のデータを基に順次組み立てていくもので、これは目に見えるかたちである程度の予測が立つことを基に、次の戦略を練るというものである。

それに対して「累積戦略」は、それぞれに全く関連性の無い個別の戦いの積み重ねが、ある段階を境に一挙に効果を発揮するという戦略である。J・S・ワイリー元少将のこの本では「累積戦略」の例として、
第二次大戦中に米軍が行った日本の商船や補給船等への潜水艦による攻撃・撃沈を挙げている。

一部の戦略家を除き、米軍日本軍側も、この攻撃が戦争全体の結末にどの程度影響を与えたかは当初読みきれていなかったというのが事実ではないだろうか。しかし、太平洋のあちこちで日本の商船等の撃沈(兵站・補給路の寸断)を積み重ねていったことで、日本軍ばかりか日本全体が窮してしまったというのは紛れもない事実なのである。


 本書の中で、J・S・ワイリーは彼の総合理論の解説に先立ち、西洋の三つの戦略理論と、東洋の戦略家によって提唱されたやや新しい戦略理論を提示する。すなわちマハンやコーベットによってその基礎が築かれた「海洋戦略理論」、ドゥーエによって提示された「航空戦略理論」、クラウゼヴィッツの研究に遡る「陸上戦略理論」であり、そして毛沢東のゲリラ戦略「人民戦争論」である。これら四つが既存の戦略理論であるが、同時にこれらは彼らの思考様式の土台である。つまり水兵には水兵の戦略的思考様式があり、それは海洋戦略理論を土台にしたものであり、その理論が彼らの行動の指針となるのだ。

 パイロットにはパイロットの思考様式があり、兵士には兵士のそれがある。そしてワイリーによれば、彼らの理論はそれぞれ特定の状況においてはそれなりの妥当性があり、また現実との整合性を多少なりとも有するものである。

 だがまさにそのことによって、それぞれの理論の主唱者たちの間で意見の衝突が生じるのだという。なぜなら彼らは自分らの信奉する理論をそれぞれ「戦略の総合理論」であると考えており、「その戦略のパターンをどの戦争のどの状況にも適用できる」と考えているからだ。

だがその何れもが「総合理論」となり得ないことは筆者であるJ・S・ワイリー言を俟たずとも明らかであり、これらは「それぞれの分野に特化された特殊な理論であり、それぞれ特定の条件下でのみ有効で、各理論が暗黙のうちに想定している状況に現実が当てはまらなくなってくると、そのとたんに有効性を失ってしまうもの」なのである。そこでJ・S・ワイリーは、本書において改めて「戦略の総合理論」の構築の必要性を説き、同時にその提示を試みる。

 総合理論は「紛争の状況、時代、場所を選ばず、しかもあらゆる制限や限界の存在や、それが課せられてくる状況にもすべて適用できるものでなければならない」普遍的なものとされ、それぞれの特化した理論を越えそれらを統合することができるような「ある程度のレベルの高さを持っていることが必要」と考えられる。

J・S・ワイリーはある程度の普遍性を持った総合理論に近いものとしてリデルハートの「間接アプローチ」(*第一次世界大戦後、リデル・ハートによって提唱された間接アプローチ戦略(Indirect approach strategy)とは正面衝突を避け、間接的に相手を無力化・減衰させる戦略をいう)を紹介するが、それもそのコンセプトが一定の形を持たず不明瞭でいい加減な部分があり、よって限界があるとしている。

J・S・ワイリーはここに自らの総合理論を構築しようと試みるが、まずは理論の根底にあるという以下の四つの想定を見てみたい。

 第一の想定:戦争やトラブルは起こるものと考えていなければならない
 第二の想定:戦争や争い事はの目的は敵をコントロールすることにある
 第三の想定:戦争やトラブルおよび争い事は我々の計画通りに進むことはなく、予測不可能である
 第四の想定:戦争や争い事の結果を最終的に決定するのは戦場に銃を持って立つ兵士である

 ここでは第二、第四の想定のみに言及しておきたい。

 第二の想定は、戦争遂行の目的があくまで「敵の意志の屈服」にあることを我々に想起させるものであり、戦争の目的を「敵の破壊」という手段と混同する過ちから我々を遠ざけてくれるものだ。

コントロールとはすなわち敵の意志の屈服であり、それは心理的関係に基づいている。平時における軍事力の意義とは、潜在的敵国に対する心理的インパクトとして用いられる所謂「物理的暴力の脅し」であるが、その意義はおそらく戦時においても消滅しない。

モーゲンソーは、物理的暴力が現実に行使されると、二者の間の心理的関係に代わって物理的関係が生じ、従って軍事力と政治権力とは区別されなければならないとしたが、上の想定を考慮するならば、戦時においても最終的に勝敗を左右するのは心理的インパクトであると考えなければならない。

 第四の想定はランドパワーの優位を主張する筆者(J・S・ワイリー)の信条である。たとえ現代の戦争で他の手段が決定的な影響力を持ち、敵にどのような荒廃や破壊を与えたとしても、戦争の行く末を最終的に決定するのは現場にいる兵士、すなわち陸軍である。

この想定には、太平洋戦争において米軍が日本本土に上陸する前に勝利したように、反証となりそうな事実がある。だがこれに対して筆者(J・S・ワイリー)は、日本側が米軍の本土上陸の可能性を認識したことによって、つまり第二の想定と併せ、米軍のプレゼンスが日本側に心理的インパクトを与えたことによって、戦争の決着が着いたのだと説いている。重要なのは銃を持つ兵士が戦場に立つ(日本にとっては「上陸する」)ことが可能であると認識されるか否かである。

 さて、筆者は戦略の総合理論とはこのようなポイントを発展させたものでなければならないとして、以下三点を主張している。

①戦略家が実践時に目指さなければならない最大の目標は、自分の意図した度合いで敵をコントロールすること。
②これは、戦争のパターン(形態)を支配することによって達成される。
③この戦争のパターンの支配は、見方にとっては有利、そして敵にとっては不利になるようなところへ「重心」を動かすことによって実現される。

「パターン」や「重心」といった単語は曖昧な部分を含む事から厳密に定義することは困難であろう。翻訳者の奥山氏は本書を『孫子』の現代版かつ西洋版として絶賛しているのだが、西洋的発想というより東洋的発想に近いように思えてならない。

戦争や争い事は、基本的に次の状況が予測不可能であるが、予測が困難な状況においてできる限りそれを予測するにはどうしたら良いか。

答えは非常に単純明快で、その状況を支配すれば良いのだ。つまり、自国にとって有利な戦争のパターンを勝ち取り、それをコントロールすることに他ならない。目下の戦争のパターンが相手に有利なものであれば、それを自分にとって有利なパターンに変更しなければならない。

 そこでキーとなるのが戦争の「重心」という概念である。我々は戦争の「重心」(the center of gravity)を新たな状況、もしくは自ら好む状況へシフトさせることで、戦争を自らの好むパターンに変更しようと努力するのである。

おそらくあらゆる戦争(ビジネスや国家運営にもいえる)には「重心」があり、その場面・場所・行動の変化によって戦局(両者の有利・不利、あるいは均衡)が流動するのだ。従って双方の戦略家は「重心」はどこにあるのか、それは敵国が望む場所にあるのか、自国の望む場所にあるのかといった問題を考えなければならない。戦争における重心こそがすべての戦略家が獲得しようとしなければならない基本的な優位なのであり、この自国の望む位置へのシフトが、自国の望む戦争のパターンを導くのである。

ここで、気が付くのは戦争という一つの事例のみならず概念という曖昧な言葉を用いたことで孫子同様、戦争に限らない様々なジャンルに活用できると言うことになる。戦略とは、自分が優位に立てるフィールドに敵を引きずり込むこと(「重心」を動かすこと)で、敵を「コントロール」すること、と理解できる。敵野戦軍の撃滅は相手をコントロールするための一つの手段であり、目的ではないとするところに、孫子やリデル・ハートとの共通性が見出せる。