2006年9月26日火曜日

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世論調査
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【皇室問題】 昭和天皇(独白録)

『昭和天皇独白録』の史料的価値

1990年、元宮内省御用掛・寺崎英成の遺族のもとに、終戦直後に書かれた昭和天皇の「独白録」が残っていることが判明します。大きな反響を呼びました。ご記憶の方も多いでしょう。

当時、学生だった私は、基礎ゼミ担当のA先生(政治学の世界では非常に有名な方ですが)から、こんなことを聞かされました。

「独白録とか、回顧録というのは、史料として1級とはいえません。後から書かれたものだから、どうしても正確さに欠くし、無意識でも弁明が入ってしまう。1級品の史料とは、日記をおいてほかにはありません」

むろん、一流の教養人であった昭和天皇の日記が存在しないわけはありません。しかし、宮内庁は、それを公にする意向は、まったくないようです。

『昭和天皇独白録』はなぜ書かれたか
しかし、史料としてはあまり使えないものとしても、これがなぜ書かれたのか、そのことを知っておく必要は十分にあるでしょう。

アメリカは、「天皇制存続、昭和天皇の皇位も存続」という方針で日本占領を行おうとしていました。そのほうがやりやすいと考えたからです。

しかし、ソ連やイギリスなどは天皇の「戦争責任」追及を主張。これをアメリカはかわす必要がありました(→拙稿「日本国憲法は「押し付け」か?もご参照ください)。

そのため、GHQと寺崎が接触。そして『独白録』が書かれ、そしてそれは英訳され、GHQの「天皇無責任」の材料として使われました。こうして昭和天皇は訴追を免れ、天皇制は存続しました。

『独白録』には昭和天皇の率直な気持ち、発言が多く記録され、興味深いのですが、これが書かれた背景として、このようなことがあったことは見過ごせません。

そもそも「戦争責任」とは?
そして、今なお、昭和天皇の「戦争責任」を問う声は強く、また、それに反対する声も負けず、論争が続いているところです。

しかし、そもそも「戦争責任」とはいったい何なのか。開戦責任なのか、終戦をサボタージュした責任なのか。開戦=責任が発生するなら、ポーランド侵攻したドイツに対し宣戦布告した英仏にも責任が発生する、ともいえなくはありません。

「戦争責任」という言葉は、その意味じたいがあまり議論されないまま、昭和天皇の責任の有無のみが議論されているようなところがあるように思えてなりません。

アメリカにとっての「戦争責任」
しかし、日本を当時占領統治していたアメリカにとって、「戦争責任」の意味は明確でした。

つまり、「誰を処罰すれば、アメリカ人はじめ、連合国の多くが納得するか。その処罰の対象者が負うのが、『戦争責任』なのだ。」

もちろん、日本統治方針の前提として、天皇に戦争責任を負わせてはならない。いかに天皇の責任を回避し、他の者に責任を「かぶせる」かが大きな課題となったわけです。

こうして、アメリカによって東条英機や近衛文麿らが天皇に戦争を「そそのかした」という「伝説」が作られ、近衛は自殺、東条らは東京裁判で絞首刑に処せられたのでした。

近衛文麿の「戦争責任」観
さて、戦争責任という言葉は、何も戦後生まれたものではありません。

近衛文麿──開戦直前の日米交渉を途中で投げ出した首相ですが──は、1944年の段階で、後の首相となる東久邇宮稔彦王に、「『世界の憎まれ者』になっている東条英機に全責任を負わせるのがいい」と語っています。

近衛もまた、天皇への責任追及回避のため、「他の者に責任をかぶせる」ことを考えていたのでした。もっとも、自らが首相のとき、アメリカが猛反発し、日米関係悪化を決定的にした「フランス領インドシナ南部への進駐」を、陸軍にいわれるまま実行した「責任」は、自覚していないようですが。

とにかく、近衛は動き出します。1945年になると、昭和天皇に早期終戦を求め(「近衛上奏」)、ソ連を仲介とした終戦工作の責任者になります。

しかし一方で、彼は京都で岡田啓介(2・26事件の際の首相)、米内光政(元首相、当時海軍大臣)、ある寺院の門跡家と協議、「昭和天皇退位、裕仁法皇という称号で出家のうえ蟄居」という計画を図っていました。

近衛文麿と高松宮宣仁親王
そして原爆投下、ソ連参戦。八方ふさがりの中、昭和天皇の「聖断」によって終戦となりました。

当初、終戦の条件となる連合国によるポツダム宣言受諾について、政府は陸軍の主張を入れていくつかの条件をいれる、ということにしていました。

しかし、近衛は、昭和天皇の弟・高松宮宣仁親王と結び、「国体護持(天皇制維持)」だけを条件にすることを宮中と政府に迫りました。こうして日本はほぼ無条件での降伏、となったのです。

近衛と高松宮は東条らを頂点とする陸軍に批判的な態度をとっていました(反東条派には同情的)。このことが、後にひとつの「事件」の背景になっていきます。

明治天皇を目標にした昭和天皇
昭和天皇は、幼いころから聡明さを発揮したといい、それを示すエピソードには事欠きません。このことは、病弱だった大正天皇に対する不安を払拭する大きな材料でした。

昭和天皇は、その目標を、病弱な父ではなく、祖父・明治天皇におくことになります。明治天皇と昭和天皇は、若くして天皇になったという共通点もありました。

つまり、明治天皇は元服も済ませていない15歳で即位。昭和天皇の即位は25歳ですが、父大正天皇の病気によって、20歳で摂政として、実質的に国政の頂点にありました。余計に、明治天皇への思いは深かったことでしょう。

若くして即位し、近代日本を創り上げた明治「大帝」が、昭和天皇の目標であったことはいうまでもありません。

明治天皇になれなかった昭和天皇の運命
しかし、明治天皇と昭和天皇をとりまく環境は、あまりに違っていました。

明治天皇には、初期には大久保利通・木戸孝允・西郷隆盛・岩倉具視ら強力な政治家が、後期には政府に伊藤博文、軍部に山県有朋が君臨し、それぞれ明治天皇を支えていました。

明治天皇は、彼らに絶大な信任を与えることが、政治の安定と日本の成長につながることを、理解するようになりました。日清・日露の両戦争での勝利は政府と軍部が一丸となって戦った結果でした。

しかし、昭和天皇の周りには、そのようなブレーンはいませんでした。宮中も、政党も、軍部でさえも権力争いにまみれ、最後の元老・西園寺公望はあまりに年老いていました。

この勢力を一気にまとめることのできたのは、近衛文麿だけでした。しかし彼は優柔不断で、軽率なところもあり、そして何よりも、困難になると政権を投げ出すところがありました。昭和天皇は、そんな近衛にあまり信頼がおけなくなったようです。

昭和天皇は常に孤独に決断しなければなりませんでした。木戸幸一(最後の内大臣)のようによく補佐してくれる宮中の人物はいました。しかし、明治天皇においての伊藤・山県のように権力がありしかも大局観のある人物に出会うことは、できなかったのです。

近衛の「昭和天皇退位論」
さて、終戦で東久邇宮稔彦王が首相就任。近衛は副首相格として政権に返り咲きます。

東久邇宮政権は10月に崩壊しますが、近衛は活発でした。このころから、マスコミに「昭和天皇退位の可能性」が取りざたされるようになります。

そして近衛は、記者たちにその可能性を匂わせはじめます。AP通信のラッセル・ブラインズ記者には、「日本の皇室典範には退位の規定がない」と語りました。これは暗に、皇室典範の改正と天皇退位を示唆するものでした。

さらに近衛は「国民投票による天皇制維持」を模索もしていました。彼の構想の中では、当然、そのとき天皇となるべき人物は昭和天皇ではなく、11歳の皇太子明仁親王(現天皇陛下)であり、そして高松宮が摂政になる、という目論見であったのだと思われます。

近衛計画の挫折、そして近衛の死
しかし、GHQはこの動きを当然こころよく思っていません。特に、昭和天皇との会見を果たしてその人物性を見極め(たつもり)、そして昭和天皇の命令で占領政策が滞りなく進むさまをみた、最高司令官マッカーサーは、この動きを封じにかかります。

詳細は今もって不明なところも多いのですが、とにかく、12月、近衛に対する戦犯容疑での逮捕状発令。近衛は、薬物自殺します。

マッカーサーにとって、昭和天皇の存在は占領政策にとって(もちろん、アメリカにとって都合のいい政策ですが)欠かせない存在でした。マッカーサーには、近衛を「抹殺して」でも、昭和天皇を存置しておく必要があったのかもしれません。

しかし、「昭和天皇退位論」は、止まりませんでした。それは、予想もしないところから、火ぶたがあがったのでした。

止まらぬ「昭和天皇退位論」
1946年2月、枢密院(明治憲法下での天皇の最高諮問機関)で、昭和天皇の3人目の弟、三笠宮崇仁親王が、遠まわしに「天皇退位」を求めました。

『芦田均日記』(芦田はのちの首相)によると、そのとき昭和天皇の顔は青ざめ、神経質な態度をあらわにしたといいます。

また、東久邇宮も、前ページで出てきたAP通信のラッセル記者に対し、こちらはわりとストレートに、天皇退位の必然性について語り、そして、「それに多くの皇族が賛成している」と述べているのです。

思わぬ皇族からの「反乱」は、昭和天皇にひとつの決断を迫りました。

マッカーサー草案と昭和天皇
そのころ、天皇の権限をまったくなくした象徴天皇制を規定する新憲法案が、マッカーサーから示されていました。この内容には政党政治家たちも、宮中も、そして天皇も驚き、受け入れに躊躇します。

しかし、相次ぐ「天皇退位論」に、天皇は反応せざるをえませんでした。「象徴天皇制」を受け入れ、マッカーサーが望む自分の皇位続行に、応じることにしたのでした。これが「第2の聖断」と一部で言われているものです。

そして新憲法制定、施行。と、GHQは、「象徴天皇制のため」と、直系宮家を除く11宮家すべての皇籍離脱を勧告。これは、うがったみかたですが「天皇退位論」に対する報復だったのでしょうか。もっとも、先の東久邇宮は自ら皇籍離脱を申し出てはいたのですが。

※拙稿「旧皇族の成り立ちと現在」もご参照ください。

「三笠宮発言」と高松宮
さて、なぜ三笠宮は唐突に昭和天皇退位論を述べたのでしょう。詳細はわかりません。

しかし、三笠宮の兄で、昭和天皇の弟、高松宮の動きが影響していないとは、いえないでしょう。

高松宮は先にも述べたとおり「天皇退位論者」近衛との結びつきが強かった人でした。すでに終戦前、近衛とたびたび会い、「退位した際、高松宮が摂政につく」ことを、話し合っていたとも言われます。

そして終戦前から、このことが原因で天皇と高松宮の間には次第に大きな対立が生まれてきたようです。

それが、三笠宮発言にどのような影響を及ぼしたかはわかりません。しかし、宮中で孤独な昭和天皇と、割と自由に動きがとれる高松宮、三笠宮がどのように結んでいたか、想像できないことはありません。

ちなみに、1975年2月号の『文藝春秋』に、高松宮のインタビューが掲載、自らを「和平派」と語る高松宮の記事に昭和天皇は激怒したといいます。また、高松宮が「昭和天皇は戦争をとめることができた」という発言があったということも(高松宮の死後発覚)、問題になりました。

退位できなかった昭和天皇
しかしながら、昭和天皇は退位しようとまったく考えなかったわけではありません。むしろ、積極的に考え、その意向を示していた時期もありました。

敗戦直後、昭和天皇は退位を木戸内大臣にもらしています。木戸幸一日記の8月29日の項から一部引用します。

戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納める訳には行かないだろうかとの思し召しあり。聖慮の宏大なる誠に難有極みなるも、……その結果民主的国家組織(共和制)等の論を呼起すの虞(おそ)れもあり、是は充分慎重に相手方の出方も見て御考究遊るゝ要あるべしと奉答す。

その後、東京裁判終結時、そして占領終結時の2回、天皇は退位の意向を漏らしたといいます。しかし、ワシントンの意向で、それは実現しませんでした。昭和天皇の退位は、東京裁判の正当性を揺るがしかねない問題だったからです。

昭和天皇のその後
その後の昭和天皇の仕事は、「象徴天皇」としての天皇像を国の内外にアピールすることでした。そのため、積極的に日本だけでなく、海外にも訪問しました。

1975年、昭和天皇はアメリカを訪問、ディズニーランドでミッキーマウスとなかよく写真を撮っています。人々は「昭和天皇は無害で平和愛好者であり、戦争責任などない」というワシントンが創り上げた「神話」を「再確認」するものだった、のかもしれません。

「カゴの鳥だった私にとって、あの旅行(筆者注:皇太子時代のヨーロッパ訪問)ははじめて自由な生活ということを体験したものだった。あの体験は、その後の私に非常に役立っていると思う」

敗戦直後、昭和天皇はこのようなことを記者に話していますが、言ってみれば、あの旅行以外はすべて「カゴの鳥」だったのでしょう。そしてそれは戦後も続くことになります。

そして1989年、昭和天皇崩御。87年、激動の生涯だったことはだれも否定できません

2006年9月24日日曜日

【皇室問題】 昭和天皇(富田メモ)

「富田メモ」 A級戦犯靖国合祀と「天皇の心」 


 
私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが、
 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
 だから 私あれ以来参拝していない、それが私の心だ(原文のまま)

「A級戦犯靖国合祀 昭和天皇が不快感」「参拝中止『それが私の心だ』」――日本経済新聞7月20日朝刊は富田朝彦・元宮内庁長官(故人)の1988年4月28日付メモをスクープした。

 富田氏は、晩年の昭和天皇の言葉を最も身近で耳にしていた側近中の側近。信憑性の高い資料と即断できないにしても、「メモ」を慎重に精査して歴史的位置づけを考えることこそ緊要なのに、メモの真贋をめぐって憶測・中傷とおぼしき暴論が乱れ飛んでいる現状が気懸かりである。

 歴史学者それぞれの見解を各紙は報じているが、日経スクープの「富田メモ」と「日記」を事前に読み込んでいた学究二人の分析を紹介したうえで、関連する諸問題を考えたい。

 昭和史研究者の秦郁彦氏は「第一級の歴史資料であることはすぐに分かったが、この時期に公開することによる波及効果の大きさを思いやった」と前置きして、「論議の的となっている富田メモの靖国部分の全文についてだが、97年に故徳川義寛侍従長の『侍従長の遺言 昭和天皇との五十年』が刊行されて以来、他の関連証言もあって、天皇不参拝の理由がA級戦犯の合祀にあったことは、研究者の間では定説になっていた。

したがって、私は富田メモを読んでも格別の驚きはなく、『やはりそうだったか』との思いを深めると同時に『それが私の心だ』という昭和天皇発言の重みと言外に込められた哀切の情に打たれた」と、毎日7・28朝刊(『論点』)で指摘している。

 日経7・23朝刊は「富田メモ――意義と今後の検証」と題して半藤一利氏(作家)と御厨貴氏(東大教授)の対談を特集しているが、半藤氏は「松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使を合祀対象から除けば構わなかったのか」との問に、「A級戦犯全体だと思う。

合祀されたこと自体が天皇には不快だったととるべき」と語っている。そして半藤氏は「初めてメモを見せられたとき、感動したというとおかしいが、へーと思ったのが(メモの日付の)1988年。翌89年に亡くなる最後のぎりぎりのところまで戦争責任というか、戦争犠牲者に対する思いがずっと続いていたのかと。あの時代はほとんどの人が忘れていた。そのときに昭和天皇は一番に考えていた。要するに靖国問題の裏側にあるのは、戦争犠牲者に対する慰霊の思い。それが第一。第二に参拝しなくなったのはA級戦犯と合祀のためと思っていたのでやっぱり、と思った。富田メモを直接見て、『私の心だ』という部分に目がくぎ付けになった」と語っていた。

 真っ先に「メモ」を見た二人はともに昭和史に造詣の深い方だけに、視点の確かさを感じる。

 A級戦犯合祀発言をメモした日付は1988年4月28日。翌29日が87歳の天皇誕生日で、同日朝刊各紙に記者会見が掲載された。昭和天皇は約7カ月後の89年1月7日に崩御されており、この会見(88・4・25)が最後となった。

 この時の会見で「陛下が即位(昭和3年11月に即位式)されてから60年目に当たります。この間一番大きな出来事は先の大戦だったと思います。改めて大戦についてのお考えを」との質問に対し、昭和天皇は「なんと言っても大戦のことが一番いやな思い出であります。戦後国民があい協力して平和のために努めてくれたことを嬉しく思っています。今後も国民がそのことを忘れずに平和を守ってくれることを期待しています」と答えている。

 次いで「日本が戦争への道を進んでしまった最大の原因は何だったとお考えでしょうか」との質問には、「そのことは、人の、人物の批判とかそういうものが加わりますから、今、ここで述べることは避けたいと思っています」と答えただけだった。

 毎日、朝日の社会面を読むと、昭和天皇が先の大戦の話に触れた際、「昭和天皇の左目に光るものが見えた」と記していた。

 この会見が25日で、富田長官に昭和天皇が〝本音〟を語ったのが28日だったことからみて、昭和天皇が記者会見で語れなかった〝胸のつかえ〟を富田長官に漏らしたと、推察できる。

 「国家の命令で出征し、命を落とした兵士たちの慰霊に、戦争を命じた指導者を交ぜてしまったら、天皇が痛感する戦争への反省も、日本の再出発もうやむやになる。そんな所に参拝はできない。そう考えたのならわかりやすい。許せなかったのはA級戦犯というよりも、その合祀だった」(朝日7・31朝刊『風孝計』)という指摘は、「富田メモ」の真意を素直に汲み取っていると思う。

▽戦犯合祀を独断専行した松平永芳宮司

 本稿を書くに当たって、多くの資料に目を通したが、靖国・戦犯合祀問題をこじらせた最大の原因は、A級戦犯14人の合祀を独断専行した松平永芳・元宮司(故人)にあったと考えられる。

 この点につき保坂正康氏(作家)は、松平氏が退職後に講演した内容に関する記述で、「私が宮司に就任したのは昭和53年7月で、10月には、年に一度の合祀祭がある。合祀するときは、昔は上奏してご裁可をいただいたのですが、今でも慣習によって上奏簿を御所へもっていく。そういう書類をつくる関係があるので、9月の少し前でしたが、『まだ間にあうか』と係に聞いたところ、大丈夫だという。それならと千数百柱をお祀りした中に、思いきって十四柱をお入れしたわけです(「誰が御霊を汚したのか 『靖国』奉仕十四年の無念」平成4年12月号)」という発言を示し、戦犯合祀を確信的に実行した松平氏の行為を明らかにしている=月刊現代06・9号。

 疑う余地のない事実と言えるわけで、前任宮司(筑波藤麿氏)が抑えていた〝戦犯合祀〟を、松平氏は就任早々、〝もぐり込ませる形〟で強行したのだ。この暴挙を後で聞かされた昭和天皇が不快感どころではない〝怒り〟を持たれたことは想像に難くない。これらの史実に基づいて「富田メモ」を解読すれば、その資料価値の高いことが分かる。

 冷静に受け止めるべき「富田メモ」なのに、この報道が流れるや、「分祀派」の主張が声高になり、逆に「靖国擁護派」は〝陰謀〟〝ねつ造〟と応酬、常軌を逸した非難合戦になってしまった。

 「日中正常化を切望する財界関係者の策略」との噂まで流れたことには驚く。ポスト小泉の本命、安倍晋三官房長官の著書「美しい国へ」の発売日に特ダネをぶつけた〝陰謀説〟もデマ情報だった。さらに「安倍長官が四月に靖国参拝をしていた」との情報が官邸筋からリークされたのも奇々怪々。また、麻生太郎外相が「靖国神社は宗教法人格を自主的に返上し、財団法人などに移行。最終的には特殊法人『国立追悼施設靖国社』(仮称)とする」との私案を発表するなど、自民党総裁選がらみの様相を濃くしてきた。

 「富田メモを政治利用するな」「政教分離原則を守れ」と建前を主張するものの、自分たちの都合のいいように〝政治利用〟しているのが実態ではないか。

 「プレスウオッチ」の埒外ではあるが、週刊新潮8・10号の「富田メモは『世紀の大誤報』か」と題する一方的、センセーショナルな特集に週刊誌ジャーナリズムの荒廃を感じたことを書きとどめておきたい。明確な論証を示さないで「ここへ来て侍従長だった徳川義寛氏の発言だったとの見方が噴出している」との記述は、富田メモ全否定の文脈である。

 特に中西輝政・京大教授が同誌で「このメモは報道のタイミングからいっても政治利用されていることは明らかです。つまり政治性の強いこのメモの検証過程を明らかにしないなら、日経新聞の大誤報というより、意図的誤報という可能性さえ出てくるのではないでしょうか」との断定的決め付けは、学者とは思えぬ〝政治的暴言〟ではないだろうか。

 「このメモで過剰に騒ぐべきではない。天皇の発言がどうであれ、首相の靖国参拝は政教分離にも反するし、個人の意図とは別として、結果的に侵略戦争を美化するということを示してしまう。国民は首相参拝を認めるべきではない」という小森陽一・東大教授の警告(東京8・4『こちら特報部』)を胸にたたみ、「富田メモ」が投げかけた問題点の徹底検証と分析こそ急務である。

2006年9月1日金曜日

【小泉政権】 失われた5年

確信はないが、植草一秀氏の記事だと思われる。

「失われた5年-小泉政権・負の総決算(1)」

 2月20日、私は民主党前衆議院議員小泉俊明氏(http://www.koizumi.gr.jp/)のセミナーに出席して講演した。演題は「失われた5年-小泉政権・負の総決算」だった。小泉政権が発足したのが2001年4月26日、まもなく丸5年の時間が経過する。この5年を厳正に再評価しなければならない。

 この『直言』で詳細に検証してゆきたいが、まずは概観しておくことにしよう。小泉政権が掲げた「改革」政策の正体は依然としてはっきりしない。何をやるのかと聞かれて、「改革をやる」との回答以外に具体的な話を聞いたことがない。「改革」という日本語の「イメージ」がプラスのイメージだから、「何か良いことをするに違いない」との印象が生じてきただけに過ぎない。

 経済政策で小泉政権が推進したのは「緊縮財政」と「企業の破たん推進」だった。「国債は絶対に30兆円以上発行しない」、「退出すべき企業は市場から退出させる」方針が「改革」政策の経済政策面での具体的内容であったと思われる。

小泉政権が「改革」政策の表看板を掲げると同時に株価は暴落を始めた。小泉首相が所信表明演説を行った2001年5月7日を起点に株価が暴落していった。日経平均株価は1万4529円だった。ついに9月12日、日経平均株価は1万円を割り込んだ。だが、小泉政権は「テロがあり、株価が暴落した」と責任をテロに転嫁した。だが、現実にはテロの前に株価は暴落していた。

 年末にかけてマイカル、青木建設の破たんが相次いだ。そして、嵐はダイエーに波及しかけた。ここで政策は一変した。政府は金融機関に働きかけ、4000億円を超える支援策をまとめたのだ。「退出しそうな企業は救済」に、政策スタンスは大転換した。さらに政府は、5兆円規模の補正予算を編成し、国債発行額は実体上33兆円に達した。「国債は絶対に30兆円以上出さない」公約はあっさり破棄された。

 2002年、株価が1万2000円近辺に回復すると、政策は元に戻った。竹中氏は2002年7月のNHK日曜討論で、筆者の「補正予算が必ず必要になる」の発言に対し、「補正予算など愚の骨頂」と発言した。9月に内閣改造があり、竹中氏は金融相を兼務。銀行についても、「退出すべきは退出」を強調していった。

 2003年4月、日経平均株価は7,607円に暴落。日本経済は金融恐慌に半歩足を踏み入れた。りそな銀行を「破たん処理」していれば、間違いなく金融恐慌に突入していた。土壇場で小泉政権は、「改革」政策を完全放棄した。預金保険法102条第1項1号措置という、法の抜け穴を活用し、「退出しそうな銀行を税金で救済」することを決定したのだ。

 税金で銀行が救済されるなら恐慌は起こりようがない。恐慌を織り込みつつあった株価は猛反発する。外資系ファンドが情報を最も早く入手したと見られる。外資系ファンドが莫大な利益を得た。株価が上昇したところに、米国経済拡大、中国経済拡大、国内のデジタル家電ブームが重なり、景気が回復基調に乗った。2003年なかば以降の景気回復は、小泉政権の政策の成果ではない。小泉政権が「改革」政策を全面放棄した結果生じたものである。

 2002年度、小泉政権は竹中氏が「愚の骨頂」と発言した5兆円補正予算を編成した。小泉政権の「改革」政策の破たんは明白である。民主党は自民党の政策失敗を的確に追及しなければならない。2003年、小泉政権の「改革」政策全面放棄を容認する際に、内閣総辞職を求めるべきであった。的確な追及をしていれば、小泉政権はこの時点で終焉していたはずだ。だが、民主党の追及はまったく見当違いの方向に向かった。

 2006年、「ホリエモン」、「耐震偽装」、「BSE」、「防衛施設庁汚職」で小泉政権の弱体化に拍車がかかり始めた。この局面で、民主党がメール問題でもたついていたのではお話にならない。前原代表は国民的見地に立った戦略的対応を示すべきである。この問題に早期に決着を付け、2007年参院選に向けての体制を整えることを重視すれば、前原氏が代表の座を辞し、挙党一致で臨める新代表を選出することが望ましい。地位への執着は、公益よりも私益優先の表れと受け取られてしまうだろう。民主党の迷走がこの国の状況を一段と救いがたいものにしてしまうことを重視すべきである。

失われた5年-小泉政権・負の総決算(2)」

 4月26日、小泉政権は政権発足から5年の時間を経過した。佐藤内閣、吉田内閣に次いで歴代第3位の長期政権になった。政権が長期化した最大の要因は内閣支持率が高かったことだ。政権発足時に多くの国民は「何かが変わるかも知れない」との素朴な期待を持った。政権発足時の内閣支持率は記録的に高かった。

 筆者は小泉政権が発足する1年ほど前に、小泉氏と中川秀直氏に対して1時間半ほどのレクチャーをしたことがあった。経済政策運営についての説明をするための会合だった。筆者と小泉氏、中川氏のほかには会合を企画した大手新聞社幹部の2名だけが出席した、5名限りのミーティングだった。

 筆者は均衡のとれた安定的な経済成長路線を確保することが当面の最大の政策課題であり、財政収支改善は中期的に取り組むべきであることを主張した。しかし、小泉氏は筆者の説明の途中に割って入り、自説をとうとうと述べて筆者の説明をさえぎった。結局、1時間半の会合であったが、筆者は説明を完遂することを断念した。

 小泉氏が主張した政策手法は「緊縮財政運営こそすべてに優先されるべき」とのものであった。当時の日本経済の水面下には巨大な不良債権問題が横たわっていた。この現実を重視せずに、緊縮財政路線を突き進めば、経済悪化、株価急落、金融不安増大、税収減少、財政赤字拡大の「魔の悪循環」のスパイラルに呑み込まれることは目に見えていた。

 筆者は、近い将来に小泉氏が首相に就任することがあれば、日本経済は最悪の事態を迎えることになるだろうことを確信した。筆者は小泉政権が発足した2001年4月の時点から警鐘を鳴らし続けた。小泉首相は5月7日に所信表明演説を行った。日経平均株価は3月中旬以降上昇していた。株価上昇は当時自民党政調会長であった亀井静香氏が中心になってまとめた『緊急経済対策』決定を背景としたものだった。

 5月7日の所信表明演説を境に小泉首相は『緊急経済対策』の実行に反対する姿勢を強めていった。『緊急経済対策』では株式買取機構の創設が提言されたが、小泉首相は否定的な考えを明らかにした。日経平均株価は5月7日を境に暴落していった。政権発足からちょうど2年後の2003年4月28日に、日経平均株価が7607円のバブル崩壊後最安値を記録するまで、株価は一貫して暴落していったのである。

 2001年春に小泉政権が発足した際、多くの権力迎合エコノミストたちは「改革期待で株価は上昇する」と予測していた。だが、筆者はそう考えなかった。1年前に確認した小泉首相の政策スタンスが現実に実行されてゆくなら、日本経済は非常に危険な、最悪の場合、金融恐慌に突入するほどの悪化を示してゆくに違いないことを想定し、政権発足当初から小泉政権の政策スタンスに対する反対論を唱え続けた。

 小泉政権が発足する直前の3月中旬、筆者は小沢一郎氏が主宰する自由党幹部の朝食勉強会に講師として出席した。当『直言』で健筆を振るわれている平野貞夫氏も毎回出席されていた研究会だった。研究会には筆者も参加していたが、ほかに竹中平蔵氏も出席していた。

 その日の研究会のテーマは1年前の小泉氏との研究会と同一だった。日本経済を立て直すにはどのような政策手法が望ましいのかというものだった。筆者は経済、財政、金融の三重苦に直面している日本経済を立て直すには、経済の健全な回復誘導を優先することが必要であることを丁寧に説明した。

 米国経済は1990年から1992年にかけて、同様の三重苦の状況に直面した。米国政策当局は1992年なかばに、「経済回復優先」の政策スタンスを鮮明に提示した。FRBが市場の想定を超える大胆な金利引下げ策を実行し、これを契機にまず株価が上昇し、後追いする形で経済の改善軌道が実現していった。

 米国財政赤字は1992年をピークに改善を示していったが、1995年までの財政収支改善は景気回復による部分が赤字縮小の7割を占めた。1995年から1998年にかけての財政収支改善は構造改革による部分が7割となった。つまり、まず経済改善を優先し、景気に不安がなくなった時点で財政構造に大胆にメスを入れたのだ。
 米国の不良債権問題も深刻だったが、株価上昇、経済改善が始動して初めて不良債権問題は縮小に転じていった。米国経済は、経済、財政、金融の三重苦を「経済改善優先の政策スタンス」を明確に掲げることによって克服していったのである。

 筆者はこのことを丁寧に説明した。多くの出席者は筆者の見解にうなずいていた。藤井裕久氏は、その後のテレビ討論などで米国財政収支改善のメカニズムについて説明する際、常に筆者が示した数値をもとに説明されていた。

 このなかで、筆者の見解に真正面から異を唱えたのが竹中氏だった。竹中氏は不良債権そのものを直接処理してゆかなければ景気回復は生じないと主張した。筆者は、不良債権の処理が企業の破たん処理推進を意味するならば、その政策手法は危険極まりないものであると反論した。論争が生じるのは健全なことである。論争のなかから見解の相違を生み出している要素を発見し、その部分に綿密な検討を加えることにより、より正しいと考えられる政策手法が生み出される可能性があるからだ。

 この研究会の前夜と当日にテレビ東京が「ワールドビジネスサテライト」で緊急特集を放映した。研究会の前夜は自民党の亀井静香氏などが出演した。コメンテーターは本来、竹中氏であったが亀井氏の要請もあり、筆者が出演した。研究会当日の夜は自民党の石原伸晃氏、塩崎恭久氏、河野太郎氏が出演したと記憶している。コメンテーターでは筆者との入れ替わりで竹中氏が出演した。

 番組の冒頭、竹中氏が口火を切った。「不良債権問題と経済悪化の問題が存在するが、世の中には経済改善を優先しなければ不良債権問題の解決は難しいと主張する見解を唱える者がいるが、この考え方は完全に間違いであるということを確認するところから今日の討論を始めたい」。

 竹中氏は何を考えたのであろうか。筆者の主張と自論のいずれが正しいのかを、現実の日本経済を実験素材として確認する、「決闘」の申し入れをしたつもりだったのだろうか。筆者はたまたまこの番組を見ていたのだが、竹中氏の冒頭の発言にはいささか驚愕した。

 2001年から2003年までの日本経済の軌跡を丹念に追跡するなら、竹中氏の主張が間違っていたことは明白である。「退出すべき企業は市場から退出させる」。これが、金融問題処理優先政策の基本テーゼである。退出させる企業には「大銀行」も含むとされたために、株式市場はパニックに陥った。2003年春、日本経済は金融恐慌に半歩足を踏み入れた。小泉政権の命運は尽きかけた。

 この究極の局面で小泉政権は、政策路線を全面放棄した。「退出すべきを退出」ではなく、「退出しそうな銀行を税金で救済」に政策スタンスを文字通り180度転じた。小泉・竹中経済政策の完全敗北の瞬間だった。
 
 ぎりぎりの局面での政策路線放棄の前例は2001年末にすでに存在した。小泉政権の政策により株価は暴落し、大手企業の破たんが相次いだ。マイカルが破たんし、青木建設が破たんした。小泉首相が青木建設破たんのニュースに対して歓迎のメッセージを発表して市場はパニックに陥った。市場の関心はダイエーに集中した。小泉政権はこの局面で、突如、ダイエー救済に転じたのだ。

 2002年半ば以降、小泉政権は再び「近視眼的緊縮財政路線」に政策スタンスを戻した。その結果、株価は順当に再暴落を始動させた。経済深刻化に伴い、支持率も急落し始めたが、そこに突然、9月17日の北朝鮮訪問が実施されたのである。国民の関心は経済・金融から拉致問題に一気にシフトした。小泉政権は支持率を見事に回復したのである。

 2003年以降の日本経済改善は、小泉政権が政策スタンスを全面転換したことによって生じたものである。経済は最悪の状況に落ち込んだために、改善傾向を持続した。だが、もともと見る必要のない悪夢だった。小泉政権が日本経済を撃墜したためにどれだけの人々が犠牲になっただろうか。失業、倒産、自殺の惨禍は戦後日本経済のなかで最悪のものだった。

 この現実をしっかりと踏まえた小泉政権の総括が行われなければならない。

「失われた5年-小泉政権・負の総決算(3)-」

 2003年4月28日、日経平均株価は7607円で引けた。バブル崩壊後の最安値を記録した。日本経済は金融恐慌に半歩足を踏み入れていた。転換点は5月17日だった。土曜日の朝刊に「りそな銀行救済」のニュースが報道された。この日、私は毎週土曜朝8時から生放送されていた読売テレビ番組「ウェークアップ」に出演した。

 りそな銀行に対して公的資金が投入される対応が報じられたことについて、私は「りそな銀行の財務状況によっては、破綻処理になる。破綻となれば株式市場では株価が大きく下落することになる。政府は救済と言っているが、これまでの政策方針と整合性を持たない。これまでの政策方針が維持されるなら破綻処理が取られるわけで、予断を許さない」とコメントした。

 番組中に金融庁から電話が入った。りそな銀行は政府が責任をもって救済するので、破綻させない。このことを番組ではっきりと言明してもらいたい、との要請があったとのことだ。司会をしていた落語家の文珍氏が、番組最後で補足説明した。「金融庁の説明ではりそな銀行は破綻させずに間違いなく救済するので、冷静な対応を求めたい」

 あの時点での対応としては、救済しかなかった。「救済」でない対応は「金融恐慌」の選択を意味したからだ。自己責任原則を貫いて金融恐慌を甘受するか、金融恐慌を回避するために自己責任原則を犠牲にするか。政府は「究極の選択」を迫られたのである。問題は「究極の選択」を迫られる状況にまで日本経済を追い込んでしまったことにある。この状況にいたれば、「自己責任原則」を放棄して銀行救済を実行せざるを得ない。

 「責任ある当事者には適正な責任を求める」。これが「改革」方針であったはずだ。この部分については私も完全に同じ考えを持っていた。異なったのは、これと組み合わせるマクロ経済政策にあった。「自己責任原則」を貫き、責任ある当事者に適正な責任を求めるにはマクロ経済の安定化が不可欠である。

 適切なマクロ経済政策運営により経済全体の安定を確保しつつ、個別の金融問題処理については「自己責任原則」を貫徹させる。これが問題処理に関する私の一貫した主張だった。鍋を冷やしてそのなかに手を入れて介入するのでなく、鍋の中に手を入れて自己責任原則をないがしろにすること避けるために鍋全体を温めてやるべきと主張したのだ。

 小泉政権は政権の延命のために結局、「自己責任原則放棄」を選択した。「退出すべき企業は退出」の「改革」方針を貫けば、金融恐慌が発生する。その場合、小泉政権は崩壊を免れなかった。超緊縮財政が景気悪化、資産価格暴落を引き起こし、株式市場全体が崩落の危機に直面し、結局、最終局面で「自己責任原則放棄」の選択をせざるを得なくなったのである。

 「金融危機対応」の名分の下に、りそな銀行を公的資金で救済する。小泉政権の「改革」政策の完全放棄だが、説明を偽装して乗り切ることが画策された。活用されたのは預金保険法102条だ。1項に金融危機対応の規定がある。預金保険法には「抜け穴規定」が用意されていた。

 第3号措置は金融機関の自己資本がマイナスに陥った場合に適用される措置で、破綻処理である。株価がゼロになることで株主責任が厳しく問われる措置だ。これに対して、第1号措置は金融機関の自己資本が規制を満たしてはいないがプラスを維持する場合に適用される。金融機関に公的資金が注入されて金融機関は救済される。この第1号措置こそ「抜け穴規定」だった。

 小泉政権は、政権発足以来、緊縮財政と企業の破綻処理推進を経済政策の二本柱として位置づけていた。景気の急激な悪化、株価、地価の暴落、企業の破綻が進行した。戦後最悪の企業倒産、失業、自殺が発生した。金融市場は金融恐慌を真剣に心配した。小泉政権が最後までこの政策方針を貫いたなら日本経済は金融恐慌に陥っていたはずである。

 ところが最後の最後で小泉政権は方針を全面転換した。大銀行は公的資金で救済されることになった。大銀行の破綻が公的資金投入で回避されるなら、金融恐慌は発生しない。株価は金融恐慌のリスクを織り込む形で暴落していたが、金融恐慌のリスクが消失するなら、その分は急反発する。

 不良債権問題は日本だけでなく、多くの国が苦闘してきた課題だった。不良債権問題処理の難しさは、相反する二つの要請を同時に満たすことを求められる点にある。自己責任原則の貫徹と金融システムの安定性確保の二つを同時に満たさねばならない。問題のある当事者を救済してしまえば、金融システムの安定は確保できる。しかし、「モラル・ハザード」と呼ばれる問題を生んでしまう。

 バブルが発生する局面で、バブルの最終処理がどうであったかは決定的に重要な影響を与える。「リスクを追求する行動が最終的に失敗するときに救済される」と予想するなら、リスクを追求する行動は助長される。逆に、「最終的に失敗の責任は厳格に当事者に帰着される」との教訓が強く染み渡れば、安易なリスクテイクの行動は抑制される。

 中長期の視点で、自己責任原則を貫徹させることは極めて重要なのだ。破綻の危機に直面した当事者を安易に救済すべきでないのは、このような理由による。自己責任原則を貫徹させず、金融システムの安定性確保だけを政策目的とするなら、不良債権問題処理にはまったく困難を伴わない。ただ金融危機には公的資金による銀行救済を実行することを宣言しておけばよい。誰にでもできる。

 小泉政権は最後の最後で、金融問題処理で最も重要な根本原則のひとつである「自己責任原則」を放棄した。これは小泉政権が採用した政策の必然的な帰結だった。この帰結が明白であったからこそ、私は緊縮財政と破綻処理推進の政策組み合わせに強く反対したのである。

 この対応を用いるのなら、日本経済を破滅的に悪化させる必要もなかった。金融危機には公的資金で銀行を守る方針を、当初から示しておけばよかった。私は不良債権問題処理にあたっては、「モラル・ハザード」を引き起こさぬために、個別処理は既存のルールに則った運営を進めるべきと主張した。金融システムの安定性確保は、マクロの経済政策を活用した経済の安定化によるべきだと述べてきた。

 金融恐慌への突入もありうるとする政策スタンスを原因として、景気悪化、株価暴落、企業倒産、失業、自殺の多大な犠牲が広がった。多数の国民が犠牲になったが、その責任の大半は彼ら自身にはない。経済悪化、資産価格暴落誘導の政府の政策が事態悪化の主因である。膨大な国民が政府の誤った経済政策の犠牲者になっていった。

 多くの中小零細企業、個人が犠牲になった。一方で、最後の最後に大銀行が救済された。見落とせないのは、資産価格が暴落し、金融恐慌を恐れて資産の買い入れに向かう国内勢力が消滅したときに、ひたすら資産取得に向かった勢力が存在したことだ。外資系ファンドである。彼らが独自の判断で日本の実物資産取得に向かったのだったら、彼らの慧眼は賞賛されるべきだろう。だが、実情は違う。彼らは日本の政権と連携していた可能性が非常に高いのである。

 日本の不良債権問題処理の闇に光を当てるときに、どうしても避けて通れない論点が3つ存在する。金融行政と外国資本との連携、りそな銀行が標的とされた理由、りそな銀行処理に際しての繰延税金資産の取扱いの3つである。次回はこの3点に焦点を当てる。

「失われた5年-小泉政権・負の総決算(5)」

 2003年5月17日にりそな銀行実質国有化方針が示された。小泉政権の政策方針が180度切り替わった瞬間である。「大銀行といえども破綻させないというわけではない」との米国ニューヨークタイムズ誌への竹中平蔵金融相のコメントが株価暴落を推進していた。小泉政権は「退出すべき企業を市場から退出させる」ことを経済政策運営の基礎にすえた。同時に「絶対に国債は30兆円以上発行しない」の言葉の下に超緊縮の財政政策運営を推進した。

 私は小泉政権がこの方針で政策を運営していくならば、日本経済は最悪の状況に陥ると確信していた。小泉政権が発足した時点からこの見解を示し続けた。小泉純一郎首相も竹中氏も私の存在と発言を非常にうとましく思っていたようである。私が所属する会社や私が出演していたテレビ局にさまざまな圧力がかけられた。それでも私は信念を曲げるわけにはいかないと考えて発言を続けた。

 2003年の春、来るべきものが到来した。大銀行破綻が現実の問題として浮上したのだ。大銀行破綻を容認するなら、日本経済は間違いなく金融恐慌に突入したはずだ。企業は連鎖倒産の嵐に巻き込まれただろう。金融恐慌が発生しなければ生き残れても、金融恐慌が発生するなら破たんしてしまうと考えられる企業が多数存在した。こうした企業の株主は、株価が売り込まれすぎていることを百も承知の上で、その企業の株式を投げ売りせざるを得なかった。その結果として日経平均株価7607円が記録されたのである。

ところが、金融法制には巧妙な抜け穴が用意されていた。預金保険法102条第1項第1号措置である。金融危機を宣言しながら、金融機関を破綻させずに金融機関に破綻前資本注入を実施できる規定である。最終的に鍵を握ったのが「繰り延べ税金資産」と呼ばれる会計費目であった。

 竹中氏と近く、この問題に造詣が深いといわれた木村剛氏は、5月14日付のインターネット上のコラムで、明らかにりそな銀行と読み取れる銀行の繰り延べ税金資産計上問題について、「1年を上回る計上は絶対に認められない。1年以上の計上を認める監査法人があるとすれば、その監査法人を破綻させるべきだ」と述べていた。ちなみにこのコラムのタイトルは「破たんする監査法人はどこか」であった。

 5月17日の政府案では、繰り延べ税金資産の計上が3年認められた。5年計上であれば、りそな銀行は自己資本比率規制をクリアしていた。1年計上の場合は自己資本比率がマイナスとなり、りそな銀行は破綻処理されなければならなかった。3年計上となると、ちょうど中間値で金融危機認定されるが、破綻とならない。
 法の抜け穴を活用するために人為的に決定された数値である可能性が濃厚である。木村氏が主張していた0年または1年計上では、りそな銀行は破綻だった。日本経済は間違いなく金融恐慌に突入したと考えられる。そうなれば、小泉政権は完全に消滅していたはずだ。

 りそな銀行の繰り延べ税金資産計上が3年認められたことについて、竹中金融相は「決定は監査法人の判断によるもので、政府といえども介入できない」ことを繰り返し訴えていたが、このような局面で監査法人が政府、当局とまったく連絡を取らずに独断で決定を下すことは考えられない。当時の監査法人関係者から細かな経緯を聞きだす必要もあるだろう。

 当時の公認会計士協会会長は奥山章雄氏だった。彼は竹中金融相と密に連絡を取っていたと考えられる。日本公認会計士協会、新日本監査法人、朝日監査法人、繰り延べ税金資産、りそな銀行、金融庁、竹中金融相、木村剛氏を結びつける「点と線」を綿密に洗い直して、真相を明らかにする必要がある。前回も指摘したが、木村剛氏は最終処理が繰り延べ税金資産3年計上であったにもかかわらず、最終処理案をまったく批判しなかった。その真意も明らかにされるべきだろう。

 政策責任者が「大銀行も破綻させるかもしれない」と発言すれば、株価は暴落する。だが、最終決定権を有する責任者が、銀行救済を決定すれば当然のことながら株価は猛反発する。大銀行破綻をちらつかせて株価を暴落させて、最後の局面で法の抜け穴を活用して銀行救済を実行する。銀行救済後には株価が猛反発する。このようなシナリオが練られていたとしても不思議ではない。

 2002年9月30日の内閣改造で竹中経財相が金融相を兼務することになった。この人事を強く要請したのは米国であるとの見解をとる政治専門家が多い。真偽は確認できないが、この竹中氏が10月初旬に米国ニューヨークタイムズ誌のインタビューで先述したように「大銀行が大きすぎてつぶせないとは考えない」とコメントしたのである。

 竹中氏は米国政策当局と密にコンタクトをとりつつ、日本の金融問題処理に対応していったと考えられるが、そのなかで先述したようなシナリオが描かれた可能性が高い。「大銀行も破綻」と言っておきながら最後は大銀行を税金で救済する。株価は猛反発に転じる。この経緯は容易に想定できる。

 この政策の最大の問題は、金融処理における「モラルハザード」を引き起こすことである。小泉政権は現実に最悪の不良債権問題処理の歴史を作ってしまった。

 前回述べたように、上述したストーリーが現実に展開されたとなると、国家ぐるみの「風説の流布」、「株価操縦」、「インサイダー取引」の疑いが生じてくるのだ。徹底的な再検証が必要である。

 もうひとつ忘れてならないエピソードがある。それは、竹中氏が2003年2月7日の閣議後の閣僚懇談会、および記者会見で株価指数連動型投信について、「絶対儲かる」、「私も買う」と発言したことだ。この発言の裏側で、りそな処理が動いてゆく。日本公認会計士協会は繰り延べ税金資産計上に関するガイドラインを定めていった。そして5月にりそな銀行「実質国有化」案が報じられ、結局、法の抜け穴規定を活用した銀行救済が実行され、株価が反発していったのだ。竹中氏の「絶対儲かる」発言とその後の金融処理策との関係も解明される必要があるだろう。

 小泉政権の経済政策は完全失敗に終わった。2003年5月、日本経済は危うく金融恐慌に突入するところだった。最悪の事態を回避できたのは、不良債権問題処理における第一の鉄則である「自己責任原則の貫徹」を放棄し、税金による銀行救済を実行したからにほかならない。

 そして、「国債を絶対に30兆円以上出さない」公約は、2001年度、2002年度のいずれも、実質5兆円補正予算編成というかたちで挫折した。2001年度は国債発行30兆円の公約を見かけの上だけ守った形にするために、国債整理基金からの繰り入れという一種の粉飾処理が施されたが、実質的には国債が5兆円増発されたことと同じ補正予算が編成された。最近話題になる「粉飾」の元祖がここにあったと言っても過言ではない。小泉政権が当初示した経済政策運営の路線は完全に失敗に終わったのである。

 それでは、他の改革はどうだったか。「道路公団」、「国と地方の関係にかかわる三位一体の改革」、「郵政民営化」の3つが小泉政権の目玉商品だろう。道路公団の形は変わるが、実態はほとんど変わらない。民営化されれば、国民の監視の目は著しく届きにくくなる。国と地方のお金のやり取りは少し変わるが、中央がすべてにおいて決定権を有し、地方が中央の下請けである現在の関係はまったく変わっていない。

 郵政民営化は米国の要求どおりに新しい仕組みが決められた。改悪になる可能性が大きい。中山間地の特定郵便局はいずれ消滅することになるだろう。銀行界にとっては邪魔者が消えたわけで歓迎であろうが、国民に利益と幸福をもたらす保証はどこにもない。
 小泉政権の時代に着実に進展したことがひとつある。それが「弱者切り捨て」だ。障害者自立支援法は、聞こえはよいが内容は障害者支援削減法である。高齢者の医療費自己負担額が激増している。今後、生活保護も圧縮される方針が伝えられている。義務教育の経費削減も強行されようとしている。

 一方で、小泉政権はとうとう最後まで「天下り」を死守した。私は小泉政権が発足した時点から、この問題を最重要問題だと位置づけてきた。「改革」は必要だし「痛み」も必要ならば耐えなければならないだろう。だが、小泉政権が本当に改革を進めようというなら、「隗より始めよ」ならぬ「官より始めよ」で、「天下り廃止」を示すべきである。小泉政権が「天下り廃止」を本格的に推進するなら、私は小泉改革を全面的に支援すると言い続けてきた。

 だが、結局小泉政権は最後の最後まで「天下り」を死守した。ここに、小泉改革の本質が示されている。官僚利権は温存し、経済的、政治的弱者を情け容赦なく切り捨てるのが「小泉改革」なのである。国民は目を覚ましてこの本質を見つめるべきだ。

 外交は「対米隷属」に終始した。アジア諸国との関係悪化などお構いなしである。イラク戦争もその正当性に重大な疑問が投げかけられているが、世界一の強国米国に隷属しておけば安心との、自国の尊厳も独立も重視しない姿勢が貫かれた。

 そして、政治手法は民主主義と相容れない独裁的手法が際立った。司法への介入、メディアのコントロールも露骨に展開されたように思う。経済政策の失敗、改革の目玉商品の内容の貧困さ、容赦ない弱者切り捨て、対米隷属の外交、独裁的傾向が顕著な政治手法。この5つが小泉政権5年間の総括である。

 小泉政権が終焉するこの機会に、広く一般に小泉政権5年間を総括する論議を広げていく必要がある。だが、それを権力迎合の大手メディアに委ねることはできない。彼らは政権にコントロールされ、政権に迎合する存在だからだ。草の根から、筋の通った芯のある論議を深めてゆく必要がある。

「失われた5年-小泉政権・負の総決算(6)」

 本コラムの執筆に大きなブランクが生じてしまいお詫び申し上げます。執筆を再開し、従来よりも高頻度で執筆してまいりますのでなにとぞご高覧賜りますようお願い申し上げます。

 小泉政権の5年半の期間に日本経済は最悪の状況に陥った。日経平均株価は7600円に暴落し、金融恐慌が目前にまで迫った。その後、日経平均株価は17000円台まで上昇し、日本経済も緩やかな改善を続けているから、小泉政権に対する国民の評価はさほど悪くない。

「改革」で膿を出し尽くし、日本経済を再浮上させたなどという、見当違いの説明を聞いて思わず納得してしまう国民も多数存在しているようだ。だが、事実はまるで違う。小泉政権が提示した経済政策は文字通り日本経済を破綻寸前に追い込んだのだ。2003年5月に日本経済が破綻せず再浮上したのは、小泉政権が当初示していた政策を全面撤回して、正反対の政策を実行したからにほかならない。

 この点については、本コラムで詳細に論じてきた。小泉政権は日本経済を破綻寸前にまで追い込んだのだが、そのことによって二つの副産物が生まれた。ひとつは多くの国民が本来直面せずに済んだはずの苦しみに巻き込まれたことだ。失業、倒産、自殺の悲劇がどれほどの国民に襲いかかったことか。彼らの苦しみは小泉政権の政策失敗によってもたらされたものである。「人災」と言って差し支えない。

 もうひとつは、外国資本が日本の優良資産を破格の安値で大量取得できたことだ。バブル崩壊の後遺症により、本邦企業、銀行は資本力を失い、安値の実物資産を取得することは不可能な状況に追い込まれた。その状況下で、豊富な資本力を備えた外国資本が日本買占めに向かった。小泉政権は「対日直接投資倍増計画」などに鮮明に示されるように、外国資本による日本買占めを全面支援してきた。

 小泉政権が2003年に金融処理における「自己責任原則」を放棄して税金による銀行救済に踏み切ったのは、米国の指導によった可能性が高い。米国の政権につながる金融勢力は、日本政府が金融恐慌をあおり、株価暴落を誘導しながら最終局面で銀行救済に踏み切ることを指導し、日本の優良資産を破格の値段で大量取得することに成功したものと思われる。

 この9月に小泉政権は終焉し、安倍政権が発足する見込みである。安倍政権は小泉政権を継承するとしているが、小泉政権とは明確に一線を画し、是々非々の姿勢で政策を運営してもらいたい。

 経済政策運営で小泉政権は「緊縮財政運営」を基本に置いた。財政赤字の拡大を回避するために、緊縮財政の路線を鮮明に提示した。小泉首相は「いまの痛みに耐えてより良い明日を」と絶叫した。緊縮財政で経済は悪化する。しかし、財政再建のためにはそれもやむなし。これが小泉政権の基本スタンスだった。

 公約どおり日本経済は激しく悪化した。しかし、それで財政赤字は縮小しただろうか。2001年度当初予算で28.3兆円だった財政赤字は2003年度に35.3兆円に急増した。国税収入は2000年度の50.7兆円から2003年度には43.3兆円に激減した。

 私は財政健全化のためには経済の回復が不可欠と主張し続けた。経済が回復すれば税収が増加する。経済成長による税収確保が財政健全化の王道であると主張し続けた。これに対して小泉政権は「経済が回復しても税収は増加しない。財政健全化には緊縮財政しかない」と真っ向から反論した。

 2003年夏以降、株価反発を背景に日本経済の改善が始動した。果たして経済回復に連動して税収が増加し始めた。2005年度決算での国税収入は49兆円を突破した。景気回復により国税収入はわずか2年間に約6兆円も急増したのだ。財政健全化には経済の回復こそ特効薬であることが事実によって立証されつつある。
 最近になって筆者の主張を小泉政権幹部が使用するようになった。竹中氏も従来の同氏の主張とは正反対であるにもかかわらず、「経済成長による税収増加により消費税増税を圧縮できる」と主張し始めている。正論への転向は歓迎するが、過去の不明についてはひと言添えるべきだろう。

 安倍晋三氏はもとより「経済成長の重要性」についてのしっかりとした認識を有していた。私は安倍氏との私的な勉強会を重ねていたが、小泉首相と異なり、経済政策運営については柔軟な発想を保持していた。

 2006年度の国税収入は50兆円を突破すると思われる。そうなると2006年度の財政赤字は25兆円に急減する。増税をしないのに、景気回復だけで財政収支は大幅に改善し始めているのだ。このことにより、大型増税の必要性が大幅に後退している。

 日本経済はバブル崩壊後、1996年と2000年の二度、本格浮上しかけた。浮上しかかった日本経済が撃沈された理由は政策逆噴射にあった。’97、’98年の橋本政権の政策逆噴射、2000、2001年度の森、小泉政権の政策逆噴射が日本経済を撃墜した。いま日本経済はバブル崩壊後、三度目の浮上のチャンスに直面している。三度目の逆噴射があるとすれば、過去二回同様の近視眼的な緊縮財政の発想に基づく消費税大増税の決定と考えられた。

 そうしたリスクは存在したが、折りしも景気回復による税収の増加という現実が経済成長による財政健全化誘導の考え方の正しさを誰の目にも明らかにし始めた。このことが、経済成長重視の経済政策の主張が広がりを持ち始めた背景でもある。安倍氏が政権発足のスタート台に立つタイミングでこの考え方をベースに置くことができたのは幸いであるし、望ましいことである。

 安倍政権発足に際してもっとも注目されることは、経済政策運営の要のポジションにどのような人物を配置するかである。小渕政権は堺屋太一氏を起用して成功を収めた。小泉政権は竹中氏を起用し、日本経済は最悪の状況に陥った。その後に巧妙に政策の大転換を実行して小泉政権は危機を回避したが、人材起用の巧拙が政権の命運を左右する。安倍政権がどのような布陣を敷くのかに強い関心が注がれる。

 なお、小泉政権の総決算については、日本ビデオニュース株式会社(代表取締役神保哲生氏)が主宰しているインターネット・ニュースサイト『ビデオニュースドットコムマル激トーク・オン・ディマンド第283回(2006年09月01日)』(9月1日収録)のトーク番組に筆者が出演し、現在、動画配信されているのでぜひご高覧賜りたい。