認識と実践の関係——知と行の関係
事物の矛盾の法則、すなわち対立面の統一の法則は、唯物弁証法のもっとも根本的な法則である。レーニンは言っている。「本来の意味においては、弁証法は、対象の本質そのものにおける矛盾の研究である。」[1] レーニンは、常にこの法則を弁証法の本質と呼び、また弁証法の核心[2] とも呼んでいる。したがって、この法則を研究するには、どうしても広い範囲にわたり、多くの哲学問題に触れないわけにはいかない。われわれがこれらの問題のすべてをはっきりさせれば、唯物弁証法を根本から理解したことになる。これらの問題とは、二つの世界観、矛盾の普遍性、矛盾の特殊性、主要な矛盾と矛盾の主要な側面、矛盾の諸側面の同一性と闘争性、矛盾における敵対の地位である。
ソ連の哲学界では、この数年間、デボーリン[3] 学派の観念論が批判されてきた。このことは、われわれの非常に大きな興味を呼んでいる。デボーリンの観念論は、中国共産党内にも非常に悪い影響をおよぼしており、わが党内の教条主義思想は、この学派の作風と関係がないとはいえない。したがって、われわれの現在の哲学研究活動は、教条主義思想の一掃を主な目標にしなければならない。
一 二つの世界観
人類の認識史には、宇宙の発展法則についてこれまで二つの見解が存在しててきた。一つは形而上学的、他の一つは弁証法的な見解であって、それらは相互に対立する二つの世界観を形成している。レーニンは言っている。二つの基本的な(あるいは二つの可能な? あるいは歴史上に見られる二つの?)発展(進化)観は、次のとおりである。すなわち、減少および増大としての、反復としての発展と、対立面の統一(統一物が相互に排斥しあう二つの対立面に分かれることと、それらが相互に関連すること)としての発展である。」[4] レーニンが言っているのはつまり、この二つの異なった世界観のことである。
(1)形而上学の世界観
形而上学は、玄学とも呼ばれている。この思想は、中国でもヨーロッパでも、歴史上、非常に長いあいだ、観念論的な世界観に属し、人びとの思想のなかで支配的な地位を占めていた。ヨーロッパでは、ブルジョアジーの初期における唯物論も形而上学的であった。ヨーロッパの多くの国の社会経済の状況が資本主義の高度に発逹した段階にまですすみ、生産力、階級闘争および科学が、いずれも歴史上かつて見たことのない水準にまで発展し、工業プロレタリアートが歴史を発展させるもっとも偉大な原動力になったことによって生まれたのが、マルクス主義の唯物弁証法的世界観である。そこで、ブルジョアジーのあいだには、公然たる、極端に露骨な、反動的観念論のほかに、また俗流進化論があらわれて、唯物弁証法に対抗するようになった。
形而上学の、あるいは俗流進化論の世界観というものは、世界を孤立的な、静止的な、一面的な観点で見るものである。この世界観は、世界のすべての事物、すべての事物の形態と種類を、永遠にそれぞれ孤立した、永遠に変化することのないものとみなしている。変化があるとしても、それはただ量の増減と場所の変動にすぎない。しかも、その増減と変動の原因は、事物の内部にではなくて、事物の外部にある、すなわち外力によって動かされるものだとしている。形而上学者は、世界のさまざまな異なった事物と事物の特性は、それらが存在しはじめたときから、そうなっている、その後の変化は量の上での拡大または縮小にすぎない、としている。彼らは、一つの事物は永遠に同じような事物としてくりかえして発生するだけで異なった別の事物に変化することはできない、と考えている。
形而上学者から見れば、資本主義の搾取、資本主義の競走、資本主義社会の個人主義思想などは、古代の奴隷社会でも、さらに原始社会でさえ、見いだすことができるし、しかも、永遠に変わることなく存在しつづけるものだということになる。社会発展の原因について、彼らはそれを社会外の地理、気候などの条件によって説明する。彼らは唯物弁証法が主張するところの、事物は内部矛盾によって発展が引きおこされるという学説を否定して、単純に、事物の外部に発展の原因を求める。したがって、彼らには事物の質の多様性を説明することができないし、ある質が他の質に変化する現象を説明することができない。こうした思想は、ヨーロッパでは一七世紀と一八世紀に機械的唯物論となり、一九世紀末から二〇世紀のはじめには、俗流進化論となった。中国には「天は不変であり、道もまた不変である」[5] といった形而上学の思想があり、それが腐敗した封建的支配階級から長いあいだ支持されてきた。この百年らいは、ヨーロッパの機械的唯物論や俗流進化論が持ちこまれて、これがブルジョアジーから支持されている。
(2)唯物弁証法の世界観
形而上学の世界観とは反対に、唯物弁証法の世界観は、事物の発展を事物の内部から、またある事物の他の事物に対する関係から研究するよう主張する。すなわち事物の発展を事物の内部的な、必然的な自己運動とみなし、また一つひとつの事物の運動は、すべてその周囲の他の事物と相互に連係し、影響しあっているものと見る。事物の発展の根本原因は、事物の外部にあるのではなくて、事物の内部にあり、事物の内部の矛盾性にある。どのような事物の内部にもこうした矛盾性があり、それによって事物の運動と発展がおこされる。事物の内部のこの矛盾性は、事物の発展の根本原因であり、ある事物と他の事物が相互に連係し、影響しあうことは、事物の発展の第二義的な原因である。このように、唯物弁証法は、形而上学の機械的唯物論や俗流進化論の、外因論または受動論に、力づよく反対してきた。たんなる外部的原因は、事物の機械的運動、すなわち範囲の大小、量の増減をおこすことができるだけで、事物はなぜその性質が千差万別であり、また、それがなぜ相互に変化しあうかを説明することができないのはあきらかである。事実は、たとえ外力によって動かされる機械的運動でも、やはり事物の内部の矛盾性をつうじなければならない。植物や動物の単純な成長、その量的な発展も、主としてその内部の矛盾によって引きおこされる。
同様に、社会の発展は、主として、外因によるのではなく、内因によるのである。ほとんど同じような地理的、気候的条件のもとにある多くの国ぐにでも、その発展の相違性と不均等性は非常に大きい。同じ一つの国について見ても、地理や気候に変化がない状況のもとで、社会には大きな変化が見られる。帝国主義のロシアは社会主義のソ連に変わり、封建的な鎖国日本は帝国主義の日本に変わったが、これらの国の地理や気候には何の変化もない。長いあいだ封建制度によって支配されてきた中国には、この百年らい、大きな変化がおこり、いまも、自由解放の新中国にむかって変化しつつあるが、中国の地理や気候には何の変化もない。地球全体および地球の各部分について見れば、地理や気候も変化はしているが、その変化は、社会の変化にくらべると、ごくわずかなもので、前者は、何万年かを単位として変化があらわれるが、後者は、何千年、何百年、何十年、ときには何年あるいは何ヵ月(革命の時期には)のあいだにさえ変化があらわれるのである。
唯物弁証法の観点によれば、自然界の変化は、主として自然界の内部矛盾の発展によるものである。社会の変化は、主として社会の内部矛盾の発展、すなわち、生産力と生産関係との矛盾、諸階級のあいだの矛盾、新しいものと古いものとのあいだの矛盾によるものであり、これらの矛盾の発展によって、社会の前進がうながされ、新旧社会の交代がうながされる。では、唯物弁証法は外部的な原因を排除するものだろうか。排除はしない。唯物弁証法は、外因を変化の条件、内因を変化の根拠とし、外因は内因をつうじて作用するものと考える。鶏の卵は、適当な温度を与えられると、ひよこに変化するが、石ころに温度を加えてもひよこにはならないのは、両者の根拠がちがうからである。
各国人民のあいだの相互影響はつねに存在する。資本主義時代、とくに帝国主義とプロレタリア革命の時代には、各国のあいだの政治的、経済的、文化的な相互影響と相互衝撃はきわめて大きい。十月社会主義革命は、ロシアの歴史に新紀元をひらいたばかりでなく、世界の歴史にも新紀元をひらき、世界各国の内部の変化にまで影響を及ぼし、同様に、しかもとくに深刻に中国の内部の変化に影響を及ぼした。しかし、このような変化は、各国の内部および中国内部そのものの持つ法則性を通じておこった。二つの軍隊が戦って、一方が勝ち、他方が負けた場合、勝つのも負けるのも、みな内因によって決まる。勝った方は、強いからか、あるいはその指揮にまちがいがなかったからであり、負けた方は、弱いか、あるいはその指揮にまちがいがあったからで、外因が内因を通じて作用したのである。一九二七年に、中国の大ブルジョアジーがプロレタリアートを打ちまかしたのは、中国プロレタリアート内部の(中国共産党内部の)日和見主義を通じて作用をおこしたからである。われわれがこの日和見主義を清算すると、中国革命はあらたに発展した。その後、中国革命はまた敵からひどい打撃を受けたが、それは、われわれの党内に冒険主義が発生したからである。われわれがこの冒険主義を清算したとき、われわれの事業はまたあらたに発展した。こうしたことから見て、ある政党が革命を勝利にみちびくには、自己の政治路線の正しさと組織の強さに依存しなけれしばならないのである。
弁証法的な世界観は、中国でも、ヨーロッパでも、古代にすでに生まれていた。しかし、古代の弁証法は、自然発生的な、素朴な性質をおびていて、当時の社会的、歴史的条件からして、完備した理論をもつことができず、したがって、宇宙を完全に説明することもできなかったので、やがて、形而上学にとって代わられてしまった。一八世紀の末から一九世紀のはじめにかけてのドイツの有名な学者へーゲルは、弁証法に対して重要な貢献をしたが、彼の弁証法は観念論的弁証法であった。プロレタリア運動の偉大なな活動家であったマルクスとエンゲルスが、人類の認識史の積極的な成果を総合し、とくにへーゲルの弁証法の合理的な部分を批判的にとりいれて、弁証法的唯物論と史的唯物論という偉大な理論を創造するに至って、人類の認識史には空前の大革命がおこった。その後、レーニンとスターリンによって、この偉大な理論はさらに発展させられた。この理論がひとたび中国に伝わると、中国の思想界に非常に大きな変化を引きおこした。
この弁証法的世界観が主として教えていることは、さまざまな事物の矛盾の運動を観察し、分析することに熟達すると同時に、その分析にもとづいて矛盾の解決方法を指し示すことである。したがって、事物の矛盾という法則を具体的に理解することは、われわれにとって非常に重要なことである。
二 矛盾の普遍性
叙述の便宜上、わたしここで、矛盾の普遍性について先に述べ、それから矛盾の特殊性について述べることにする。それは、マルクス主義の偉大な創始者とその継承者マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンが、唯物弁証法の世界観を発見し、すでに唯物弁証法を人類の歴史の分析や自然界の歴史の分析など多くの面に応用し、また社会の変革や自然界の変革(たとえばソ連におけるように)など多くの面に応用して、きわめて偉大な成功をおさめており、矛盾の普遍性はすでに多くの人によって認められているので、この問題は簡単に述べるだけではっきりさせることができるからである。しかし、矛盾の特殊性の問題については、多くの同志たち、とくに教条主義者たちは、まだ分かっていない。彼らは矛盾の普遍性が矛盾の特殊性の中にやどっていることを理解していない。彼らはまた、当面する具体的な事物の矛盾の特殊性を研究することが、革命の実践の発展をわれわれが導いていく上で、どれほど重要な意義を持っているかということも、理解していない。したがって、矛盾の特殊性の問題は、とくに力をいれて研究し、また十分紙面をさいて説明しなければならない。こうした理由から、事物の矛盾の法則を分析する場合、われわれは、まず矛盾の普遍性の問題を分析し、そのあとで、矛盾の特殊性の問題について力をいれて分析し、最後に再び矛盾の普遍性の問題に立ちかえることにする。
矛盾の普遍性、または絶対性という問題には、二つの面の意味がある。その一つは、矛盾があらゆる事物の発展の過程に存在するということであり、他の一つは、どの事物の発展の過程にも、始めから終わりまで、矛盾の運動が存在するということである。
(1)矛盾の普遍性の第一の意味
エンゲルスは「運動そのものが矛盾である」[6]と言っている。レーニンが対立面の統一の法則に対して下した定義によると、「自然界(精神と社会の両者を含めて)のすべての現象と過程における矛盾した、排斥しあう、対立した諸傾向を認めること(発見すること)」[7] である。こうした見解は正しいだろうか。正しい。すべての事物の中に含まれている矛盾した側面の相互依存と相互闘争とは、すべての事物の生命を決定し、すべての事物の発展を推進する。どのような事物も矛盾を含まないものはなく、矛盾がなければ世界はない。
矛盾は、単純な運動形態(たとえば機械的運動)の基礎であり、なおさら複雑な運動形態の基礎である。
エンゲルスは、矛盾の普遍性について、次のように説明している。「すでに単純な機械的な場所の移動でさえも、矛盾を自己のうちに含んでいるとすれば、物質のより高度な運動の諸形態、とくに、有機的生命とその発展とはなおさらそうである。……生命とは、なによりもまず、ある生物がおのおのの瞬間にそれ自身でありながら、しかも、ある他のものである、という点にある。したがって生命も同様に、諸物体と諸過程そのもののなかに存在する、たえず自己を樹立し、かつ自己を解決する矛盾である。そして、矛盾が止めば、ただちに生命もまた止むのであって、死が到来する。同様に、思考の領域でも、われわれがどのように諸矛盾を避けることができないかということ、たとえば、人間の内部の制限されていない認識能力と、外部においては局限された、しかも認識上でも局限された各人におけるこの認識能力の実際のありかたとのあいだの矛盾が、われわれにとっては、少なくとも実際には限りのない世代の連続のうちで、無限の進行のなかで、どのように自己を解決してゆくものかということは、われわれのすでに見てきたところである。」「高等数学は、……矛盾をその主な基礎の一つにしている。」「初等数学でさえも、矛盾にみちている。……」[8]
レーニンもまた矛盾の普遍性を次のように説明している。「数学では、十と一、微分と積分。力学では作用と反作用。物理学では、陽電気と陰電気。化学では、原子の化合と分解。社会科学では、階級闘争。」[9]
戦争における攻撃と防御、前進と後退、勝利と敗北は、みな矛盾した現象である。一方がなくなれば、他方も存在しなくなる。双方は闘いあってはいるが、また結びついて、戦争の全体を形づくり、戦争の発展をうながし、戦争の問題を解決する。
人間の持っている概念の一つひとつの差異は、すべて、客観的矛盾の反映と見なければならない。客観的矛盾が、主観的な思想に反映して、概念の矛盾の運動を形づくり、思想の発展をうながし、人びとの思想問題をたえず解決していくのである。
党内における異なった思想の対立と闘争は、つねに発生するものである。それは社会の階級的矛盾および新しい事物と古い事物との矛盾が、党内に反映したものである。もし、党内に矛盾と、矛盾を解決するための思想闘争がなくなれば、党の生命も止まってしまう。
以上から見て、単純な運動形態であろうと、複雑な運動形態であろうと、また客観的現象であろうと、思想現象であろうと、矛盾が普遍的に存在し、矛盾がすべての過程に存在している点は、すでにあきらかになった。だが、どの過程のはじめの段階にも、矛盾は存在するだろうか。どの事物の発展以過程にも、始めから終わりまで、矛盾の運動があるだろうか。
(2)矛盾の普遍性の第二の意味
ソ連の哲学界で、デボーリン学派を批判した論文によると、デボーリン学派は次のような見解をもっていることがわかる。すなわち、彼らは、矛盾は過程の始めからあらわれるのではなくて、その過程が一定の段階にまで発展したときに、はじめてあらわれるのだ、と考えている。もしそうだとすると、そのときまでは、過程の発展は、内部的な原因によるのではなくて、外部的な原因によることになる。このように、デボーリンは、形而上学的な外因論と機械論にもどってしまった。そして、このような見解をもって、具体的な問題を分析し、彼らはソ連の条件のもとでは、富農と一般農民のあいだには差異があるだけで、矛盾は存在しないとして、ブハーリンの意見[10] に完全に賛成したのである。フランス革命の分析にあたっても、彼らは、革命前の労働者、農民、ブルジョアジーからなる第三身分のなかには、差異があるだけで、矛盾はないと考えた。デボーリン学派のこうした見解は、反マルクス主義的なものである。彼らは、世界の一つひとつの差異にはもう矛盾が含まれており、その差異とは矛盾であることを知らなかった。労働者と資本家は、この二つの階級が生まれたそのときから、相互に矛盾していたが、ただそれが激化していなかったにすぎない。労働者と農民のあいだには、ソ連の社会的条件のもとでも、やはり差異はあり、彼らのその差異は矛盾であるが、それは労資間の矛盾とは違っており、階級闘争の形態をとらず、敵対となるほど激化しないだけのことである。彼らは、社会主義建設の過程で強固な同盟を形成するとともに、社会主義から共産主義への発展過程で、しだいにこの矛盾を解決してゆくのである。これは、矛盾があるかないかの問題ではなくて、矛盾の差異性の問題である。矛盾は普遍的な、絶対的なものであり、事物の発展のすべての過程に存在し、また、すべての過程を始めから終わりまで貫いている。
新しい過程の発生とはなにか。それは、古い統一とその統一を構成する対立的要素とが、新しい統一とその統一を構成する対立的要素に席をゆずり、そこで、新しい過程が古い過程にとって代わって発生することである。古い過程が終わって、新しい過程が発生する。新しい過程はまた、新しい矛盾を含んでいて、それ自身の矛盾の発展史がはじまる。
事物の発展過程の始めから終わりまでの矛盾の運動について、マルクスが『資本論』の中で模範的な分析をしていることを、レーニンは指摘している。これは、どのような事物の発展過程を研究するにも、応用しなければならない方法である。レーニン自身もそれを正しく応用し、彼の全著作のなかでそれを貫きとおしている。
「マルクスの『資本論』では、まず最初に、ブルジョア社会(商品社会)のもっとも単純な、もっとも普通な、もっとも根本的な、もっとも大量に見られる、もっとも日常的な、何億回となく出くわす関係、すなわち商品交換が分析されている。その分析は、このもっとも単純な現象のうちに(ブルジョア社会のこの「細胞」のうちに)現代社会のすべての矛盾(あるいはすべての矛盾の胚芽)をあばきだす。それから先の叙述は、これらの矛盾の発展とこの社会の個々の部分の総和における発展とを、始めから終わりまで(成長と運動の両者を)、われわれに示している。」
レーニンはこう述べたあとで、つづいて次のように言っている。「このような仕方が……弁証法一般の叙述(および研究)の方法も、このようでなけれぱならない。」」[11]
中国共産党員は、中国革命の歴史と現状を正しく分析し、革命の将来を正しく予測するには、かならずこの方法を身につけなければならない。
三 矛盾の特殊性
矛盾はあらゆる事物の発展の過程に存在しており、矛盾は一つひとつの事物の発展過程の始めから終わりまでを貫いていること、これが矛盾の普遍性と絶対性であること、これらについては、すでに前に述べた。これから矛盾の特殊性と相対性について述べよう。
(1)矛盾の特殊性が質を規定
この問題は、いくつかの状況を通じて研究しなけれぱならない。まずはじめに、物質のさまざまな運動形態のなかの矛盾は、いずれも特殊性を持っていることである。人間が物質を認識するのは、物質の運動形態を認識することであって、それは、世界には運動する物質のほかになにものもなく、物質の運動はかならず一定の形態をとるからである。物質の一つひとつの運動形態については、それとその他のさまぎまな運動形態との共通点に注意しなけれぱならない。しかし、とくに重要なことで、われわれが事物を認識する基礎となるものは、その特殊な点に注意しなければならないこと、つまり、それとその他の運動形態との質的な区別に注意しなければならないことである。事物を区別するには、この点を注意するより以外にない。いかなる運動形態も、その内部には、それ自身の特殊な矛盾を含んでいる。この特殊な矛盾が、ある事物を他の事物から区別する特殊な本質を構成している。これが、世界のさまざまな事物の千差万別であることの内在的な原因であり、あるいは、根拠とも言われるものである。
自然界には、たくさんの運動形態が存在しており、機械的運動、音、光、熱、電流、分解、化合など、みなそれである。これらの物質のあらゆる運動形態は、みな相互に依存しあい、また本質的に相互に区別しあっている。物質のそれぞれの運動形態がもっている特殊な本質は、それ白身の特殊な矛盾によって規定される。このような状況は、自然界のなかに存在しているばかりでなく、社会現象および思想現象のなかにも、同じように存在している。一つひとつの社会形態と思想形態は、みなその特殊な矛盾と特殊な本質を持っている。科学研究の区分は、科学の対象が持っている特殊な矛盾性にもとづいている。したがって、ある現象の領域に特有なある矛盾についての研究が、その部門の科学の対象を構成する。たとえぱ、数学における正数と負数、力学における作用と反作用、物理学における陰電気と陽電気、化学における分解と化合、社会科学における生産力と生産関係、階級と階級との相互闘争、軍事学における攻撃と防御、哲学における観念論と唯物論、形而上学的見方と弁証法的見方など、みな特殊な矛盾と特殊な本質を持っているため、異なった科学研究の対象を構成しているのである。
もちろん、矛盾の普遍性を認識しなければ、事物が運動し発展する普遍的な原因、または普遍的な根拠を発見するすべもなくなる。しかし、矛盾の特殊性を研究しなければ、ある事物が他の事物と異なる特殊な本質を確定するすべもなく、事物が運動し発展する特殊な原因、あるいは特殊な根拠を発見するすべもなく、事物を識別したり、科学研究の領域を区分したりするすべもない。
(2)個別性と一般性の循環
人類の認識運動の順序について言うと、それはつねに、個別の、また特殊の事物の認識から、しだいに一般的な事物の認識へと拡大してゆくものである。人びとは、どうしても、まず、多くの異った事物の特殊な本質を認識してからでなければ、さらに一歩進めて、概括作業をし、さまぎまな事物の共通の本質を認識することができないのである。すでにこの共通の本質を認識したならば、この共通の認識を手びきとして、引きつづき、まだ研究されたことがないか、あるいはまだ深くは研究されていない、さまざまな具体的な事物に対する研究を進め、その特殊な本質をさがしだす。そうしてはじめて、この共通の本質の認識をひからびた、硬直したものにさせないように、この共通の本質の認識を補足し、豊富にし、発展させることができる。これは認識の二つの過程であって、一つは特殊から一般へ、他の一つは、一般から特殊へ進む。人類の認識は、常にこのように循環し、行ききしながら進むのであって、その一循環ごとに(厳格に科学的方法に従うかぎり)人類の認識を一歩高め、たえず深めてゆくことができる。この問題におけるわが教条主義者たちの誤りは、すなわち、一方では、矛盾の普遍性を十分認識し、さまざまな事物の共通の本質を十分に認識するには、矛盾の特殊性を研究し、それぞれの事物の特殊な本質を認識しなければならないということが分かっていないこと、他方では、われわれが事物の共通の本質を認識したあとでも、まだ深く研究されていないか、あるいは新しくあらわれてきた具体的な事物について、引きつづき研究しなければならないということが分かっていないことにある。わが教条主義者たちはなまけものである。彼らは具体的な事物について、骨のおれる研究活動はいっさい拒み、真理一般が何のよりどころもなくあらわれてくるものとみなして、それをとらえどころのない純抽象的な公式にしてしまい、人類が真理を認識する正常な順序を完全に否定し、しかもそれを転倒するのである。彼らはまた人類の認識の二つの過程の相互の結びつき──特殊から一般へ、そして一般から特殊へと進むことが分からず、マルクス主義の認識論がまったく分からないのである。
物質の一つひとつの大きな体系をなす運動形態がもつ特殊な矛盾性と、それによって規定される本質を研究しなければならないばかりでなく、物質の一つひとつの運動形態の、長い発展の途上での一つひとつの過程の特殊な矛盾、およびその本質をも研究しなけれぱならない。あらゆる運動形態の、実在的で憶測でない一つひとつの発展過程は、すべて質を異にしている。われわれの研究活動は、この点に力をいれ、またこの点からはじめなければならない。
(3)矛盾の質に応じた解決方法
質の異なる矛盾は、質の異なる方法でしか解決できない。たとえば、プロレタリアートとブルジョアジーとの矛盾は、社会主義革命の方法によって解決され、人民大衆と封建制度との矛盾は、民主主義革命の方法によって解決され、植民地と帝国主義との矛盾は、民族革命戦争の方法によって解決され、社会主義社会における労働者階級と農民階級との矛盾は、農業の集団化と農業の機械化の方法によって解決され、共産党内の矛盾は、批判と自己批判の方法によって解決され、社会と自然との矛盾は、生産力を発展させる方法によって解決される。過程が変化し、古い過程と古い矛盾がなくなり、新しい過程と新しい矛盾が生まれれば、矛盾を解決する方法もまた、それによって違ってくる。ロシアの二月革命と十月革命とでは、それが解決した矛盾およびその矛盾の解決に用いられた方法が根本的に異なっていた。異なる方法によって異なる矛盾を解決すること、これはマルクス・レーニン主義者の厳格に守らなければならない原則である。教条主義者は、この原則を守らず、さまざまな革命の状況のちがいを理解せず、したがって、異なる方法によって異なる矛盾を解決しなければならないということも理解しないで、動かすことのできないものとひとりぎめしているある公式を千篇一律に至るところに、むりやり当てはめるにすぎない。これでは、革命を失敗させるか、あるいは、もともとうまくいくことをめちゃくちゃにするだけである。事物の発展過程にある矛盾がその全体の上で、また相互の結びつきの上で持っている特殊性をあばきだすには、つまり、事物の発展過程の本質をあばきだすには、過程にある矛盾の、それぞれの側面の特殊性をあばきださなければならない。そうしなければ、過程の本質はあばきだせない。この点もまた、われわれが研究活動をするにあたって十分注意しなけれぱならないことである。
大きな事物は、その発展過程に多くの矛盾を含んでいる。たとえば、中国のブルジョア民主主義革命の過程には、中国社会の被抑圧諸階級と帝国主義との矛盾があり、人民大衆と封建制度との矛盾があり、プロレタリアートとブルジョアジーとの矛盾があり、農民および都市小ブルジョアジーとブルジョアジーとの矛盾があり、それぞれの反動的支配者集団のあいだの矛盾があるなど、その状況は非常に複雑である。これらの矛盾は、それぞれに特殊性があって、これを一律に見てはならないばかりでなく、一つひとつの矛盾の二つの側面も、それぞれ特徴をもっているので、これも一律に見てはならない。われわれ中国革命にたずさわるものは、それぞれの矛盾の全体の上で、すなわち矛盾の相互の結びつきの上で、その特殊性を理解しなければならない。そればかりか、その全体を理解するためには矛盾のそれぞれの側面から研究していかなけれぱならない。矛盾のそれぞれの側面を理解するということは、その一つひとつの側面がどのような特定の地位を占めており、それぞれがどのような具体的な形態で相手がたと相互に依存しながら相互に矛盾する関係をもつか、相互に依存しながら相互に矛盾する中で、そして、また依存が破れたのちに、どのような具体的な方法で、相手がたと闘争するかを理解することである。これらの問題を研究することは、きわめて重要である。レーニンが、マルクス主義の真髄と、マルクス主義の生きた魂は、具体的状況に対する具体的分析にある[12]、と言っているのはつまりこの意味である。わが教条主義者たちは、レーニンの指示にそむいて、どんな事物についても頭をつかって具体的に分析したことは一度もなく、文章を書いたり、演説をしたりすると、いつも内容のからっぽな、紋切り型の言葉をならべるだけで、わが党内に、非常にわるい作風をつくりだした。
(4)主観性・一面性の排除
問題を研究するには、主観性、一面性および表面性をおびることは、禁物である。主観性とは、問題を客観的に見ることを知らないこと、つまり、唯物論的観点から問題を見ることを知らないことを言うのである。この点については、わたしはすでに『実践論』の中で述べた。一面性とは、問題を全面的に見ることを知らないことを言う。たとえぱ、中国について分かるだけで、日本の方は分からない、共産党について分かるだけで、国民党の方は分からない、プロレタリアートについて分かるだけで、ブルジョアジーの方は分からない、農民について分かるだけで、地主の方は分からない、順調な状況について分かるだけで、困難な状況の方は分からない、過去について分かるだけで、将来の方は分からない、個体について分かるだけで、全体の方は分からない、欠点について分かるだけで、成果の方は分からない、原告について分かるだけで、被告の方は分からない、革命の秘密活動について分かるだけで、革命の公然活動の方は分からない、といったことなどである。一口に言うと、矛盾の各側面の特徴が分からないのである。こうしたことが、問題を一面的に見るということである。あるいは、局部だけを見て全体を見ない、木だけを見て、森を見ないともいえる。これでは、矛盾を解決する方法を見いだすことはできず、革命の任務を達成することはできず、受け持った活動を立派にやりとげることはできず、党内の思想闘争を正しく発展させることはできない。
孫子は軍事を論じて、「彼を知り、己を知れば、百戦するも危うからず」[13] と言っている。彼が言っているのは、戦争する双方のことである。唐代の人、魏徴は「兼(あわ)せ聴けぱ明るく、偏り信ずれば暗い」[14] と言っているが、やはり一面性の誤りであることが分かっていたのである。ところが、わが同志の中には、問題を見る場合、とかく一面性をおびる者があるが、こういう人はしばしば痛い目にあう。『水滸伝』では、宋江が三度祝家荘を攻撃する[15] が、最初の二回は状況も分からず、やり方もまちがったので敗北する。そののち、やり方をかえ、状況の調査からはじめたので、迷路にも明るくなり、李家荘、扈家荘、祝家荘の同盟も切りくずし、また敵の陣営内に、外国の物語にでてくる木馬の計[16] に似た方法で伏兵を入りこませたので、三回目には勝利した。『水滸伝』には、唯物弁証法の事例がたくさんあるが、この三度の祝家荘の攻撃は、そのなかでも、もっともよい例の一つといえる。
レーニンは言っている。「対象をほんとうに知るためには、そのすべての側面、すべての連関と『媒介』を把握し、研究しなければならない。われわれは、けっして完全にはそこまで達することがないであろう。だが、全面性を要求することは、われわれを誤りや硬直に陥らないよう用心させてくれる。」[17] われわれは、この言葉を銘記しなければならない。表面性とは、矛盾の全体も、矛盾のそれぞれの側面の特徴も見ず、事物に深く入って矛盾の特徴をこまかく研究することの必要を否定し、ただ遠くからながめて、矛盾のちょっとした姿を大ざっぱに見ただけで、すぐ矛盾の解決(問題にこたえ、紛争を解決し、仕事を処理し、戦争を指揮する)にとりかかろうとすることである。こんなやり方では、まちがいをしでかさないはずがない。中国の教条主義的な同志や経験主義的な同志が誤りをおかしたのは、事物を見る方法が主観的であり、一面的であり、表面的であったからである。一面性、表面性も主観性である。なぜなら、すべての客観的事物は、もともと相互に連係した、内部法則を持ったものであるのに、この状況をありのままに反映せず、ただ一面的に、あるいは表面的にそれらを見るだけ、つまり事物が相互に連係していることを認識せず、事物の内部法則を認識しないからであって、このような方法は主観主義的である。
(5)発展の段階性
われわれは、事物発展の全過程にある矛盾運動の特徴を、その相互の結びつきにおいて、またそれぞれの側面の状況において注意しなければならないばかりでなく、過程発展のそれぞれの段階にも特徴があるので、それにも注意しなければならない。事物の発展過程にある根本的矛盾、およびこの根本的矛盾によって規定される過程の本質は、その過程が完了するときでなければ消滅しない。しかし、事物の発展する長い過程のなかのそれぞれの発展段階は、その状況がしばしば相互に区別される。これは事物の発展過程にある根本的矛盾の性質と過程の本質には変化がなくても、長い過程でのそれぞれの発展段階で、根本的矛盾がしだいに激化する形式をとるからである。しかも、根本的矛盾によって規定されるか、あるいは影響される大小さまざまな多くの矛盾のうち、一部のものは激化し、一部のものは一時的にあるいは局部的に解決されたり、緩和したりし、さらに一部のものは発生するので、過程に段階性があらわれるのである。事物の発展過程のなかの段階性に注意しないものがあるとしたら、そういう人には事物の矛盾を適切に処理することはできない。
たとえば、自由競争時代の資本主義は発展して帝国主義となるが、このときにも、プロレタリアートとブルジョアジーという根本的に矛盾する二つの階級の性質およびこの社会の資本主義的本質は変化していない。だが、二つの階級の矛盾が激化し、独占資本と非独占資本とのあいだの矛盾が発生し、植民地所有国と植民地との矛盾が激化し、資本主義諸国間の矛盾、すなわち発展の不均等状態によって引きおこされた各国間の矛盾がとくに鋭くあらわれてきたので、資本主義の特殊な段階、すなわち帝国主義の段階が形成されたのである。レーニン主義が帝国主義とプロレタリア革命時代のマルクス主義となったのは、レーニンとスターリンが、これらの矛盾を正しく解明するとともに、これらの矛盾を解決するためのプロレタリア革命の理論と戦術を正しくつくりだしたからである。
辛亥革命からはじまった中国のブルジョア民主主義革命の過程の状況について見ても、いくつかの特殊な段階がある。とくに、ブルジョアジーが指導した時期の革命とプロレタリアートが指導する時期の革命とは、大きな違いのある二つの歴史的段階として区別される。すなわち、プロレタリアートの指導によって、革命の様相が根本的に変わり、階級関係の新しい配置換え、農民革命の大きな盛り上がり、反帝国主義、反封建主義革命の徹底性、民主主義革命から社会主義革命への転化の可能性などがでてきた。これらすべては、ブルジョアジーが革命を指導していた時期には、あらわれることのできなかったものである。過程全体を貫く根本的矛盾の性質、すなわち、過程の反帝反封建的民主主義革命という性質(その反面は半植民地的、半封建的な性質)には、変化がないにもかかわらず、この長い時間の中では、辛亥革命の失敗と北洋軍閥の支配、第一次民族統一戦線の樹立と一九二四年から一九二七年の革命、統一戦線の分裂とブルジョアジーの反革命への転移、新しい軍閥戦争、土地革命戦争、第二次民族統一戦線の樹立と抗日戦争などの大きなできごとを経過し、この二十余年のあいだに、いくつかの発展段階を経過した。それらの段階には、一部の矛盾の激化(たとえば土地革命戦争と日本帝国主義の東北四省への侵略)、一部の矛盾の部分的、あるいは一時的な解決(たとえば、北洋軍閥が消滅させられたこととか、われわれが地主の土地を没収したこととか)、一部の矛盾のあらたな発生(たとえば、新しい軍閥のあいだのあらそいとか、南方の各地の革命根拠地が失われたのち、地主が再び土地を取り返したこととか)などの特殊な状況が含まれている。
(6)各段階における矛盾の各側面
事物の発展過程の、それぞれの発展段階にある矛盾の特殊性を研究するには、その結びつきにおいて、またその全体において見なけれぱならないばかりでなく、それぞれの段階における矛盾のそれぞれの側面からも、それを見なければならない。
国民党と共産党の両党に例をとろう。国民党の側は、第一次統一戦線の時期には、連ソ、連共、労農援助という孫中山の三大政策を実行したので、それは革命的で、生気にあふれ、諸階級の民主主義革命の同盟体であった。一九二七年以後、国民党は、これと正反対の側に変わり、地主と大ブルジョアジーの反動的集団になった。一九三六年十二月の西安事変以後は、また、内戦を停止し共産党と連合してともに日本帝国主義に反対する側に転じはじめた。これが、国民党の三つの段階での特徴である。これらの特徴が形成されたのには、もちろんさまざまな原因がある。中国共産党の側についていえば、第一次統一戦線の時期には幼年の党であったが、一九二四年から一九二七年の革命を勇敢に指導した。しかし、革命の性質、任務、方法についての認識の面では、その幼稚さをあらわしたので、この革命の後期に発生した陳独秀主義が作用をおこし、この革命を失敗させてしまった。一九二七年以後、中国共産党はまた、土地革命戦争を勇敢に指導し、革命の軍隊と革命の根拠地をつくりあげたが、冒険主義のあやまりをおかしたために、軍隊と根拠地に大きな損失をこうむらせた。一九三五年以後は、ふたたび、冒険主義のあやまりをけ是正して、新しい抗日統一戦線を指導するようになり、この偉大な闘争はいま発展しつつある。この段階では、共産党は二回の革命の試練をへて、豊富な経験を持った党となっている。これらが、三つの段階における中国共産党の特徴である。これらの特徴が形成されたのにもさまざまな原因がある。これらの特徴を研究しなければ、それぞれの発展段階での国共両党の特殊な相互関係、すなわち統一戦線の樹立、統一戦線の分裂および統一戦線の再樹立を理解することはできない。そして、両党のさまざまな特徴を研究するために、より根本的なことは、この両党の階級的基礎、およびそれによってそれぞれの時期に形成された、両党とその他の方面とのあいだの矛盾した対立を研究しなければならないことである。
たとえば、国民党は共産党と一回目に連合した時期には、それは一方では、外国帝国主義とのあいだに矛盾があったので、帝国主義には反対したが、他方では、国内の人民人衆とのあいだに矛盾があったので、口先では勤労人民に多くの利益を与えると約束しながら、実際には、ごくわずかの利益しか与えなかったか、あるいは全然なにも与えなかった。そして、反共戦争を進めた時期には、帝国主義、封建主義と協力して人民大衆に反対し、人民大衆が革命のなかで闘いとったすべての利益をいっさいがっさい奪いとり、人民大衆とのあいだの矛盾を激化させた。現在の抗日の時期には、国民党は、日本帝国主義とのあいだに矛盾があるので、一方では、共産党と連合しようとしていながら、同時に共産党や国内の人民大衆に対しては、闘争と圧迫をゆるめていない。ところが共産党は、どのような時期にも、つねに人民大衆といっしょになって、帝国主義と封建主義に反対してきた。だが、現在の抗日の時期には、国民党が抗日することを表明しているので、国民党および国内の封建勢力に対して、緩和した政策をとっている。これらの状況から、両党の連合、あるいは両党の闘争が形成されたのであるが、たとえ、両党が連合している時期でも、連合もし、闘争もするという複雑な状況が存在するのである。もし、われわれが矛盾のこれらの側面の特徴を研究しないならば、この両党がそれぞれその他の方面とのあいだに持っている関係を理解できないばかりか、両党のあいだの相互の関係も理解できない。
こうした点から見て、どのような矛盾の特性を研究するにも、つまり物質のそれぞれの運動形態が持つ矛盾、それぞれの運動形態がそれぞれの発展過程でもつ矛盾、それぞれの発展過程でもつ矛盾のそれぞれの側面、それぞれの発展過程がそれぞれの発展段階でもつ矛盾、およびそれぞれの発展段階の矛盾のそれぞれの側面など、これらすべての矛盾の特性を研究するには、主観的任意性をおびてはならず、それらに対して、具体的な分析をしなければならない。具体的な分析を離れては、どのような矛盾の特性も認識できない。われわれはつねに、具体的事物について具体的分析をせよというレーニンの言葉を銘記しておかなければならない。
(7)特殊性と普遍性の結びつき
このような具体的分析については、マルクス、エンゲルスが最初にわれわれに立派な手本を示してくれた。マルクス、エンゲルスは、事物の矛盾の法則を社会の歴史的過程の研究に応用したとき、生産力と生産関係とのあいだの矛盾を見いだし、搾取階級と被搾取階級とのあいだの矛盾およびこれらの矛盾によって生まれる経済的土台と政治、思想などの上部構造とのあいだの矛盾、およびこれらの矛盾が、それぞれ異なった階級社会で、どのように不可避的に、それぞれ異なった社会革命を引きおこすかを見いだした。
マルクスは、この法則を資本主義社会の経済構造の研究に応用したとき、この社会の基本的矛盾が生産の社会性と所有の私的性格のあいだの矛盾であることを見いだした。この矛盾はそれぞれの企業における生産の組織性と、社会全体における生産の無組織性とのあいだの矛盾としてあらわれる。この矛盾の階級なあらわれがブルジョアジーとプロレタリアートのあいだの矛盾である。
事物の範囲はきわめて広く、その発展は無限であるから、ある場合には普遍性であったものが、他の場合には特殊性に変わる。それとは逆に、ある場合には特殊性であったものが、他の場合には普遍性に変わる。資本主義制度に含まれる生産の社会化と生産手段の私的所有制との矛盾は、資本主義の存在し発展しているすべての国に共通しているものであり、資本主義にとっていえば、矛盾の普遍性である。しかし、資本主義のこの矛盾は、階級杜会一般が一定の歴史的段階に発展したときのものであって、階級社会一般での生産力と生産関係との矛盾からいえば矛盾の特殊性である。しかし、マルクスが資本主義社会のこれらすべての矛盾の特殊性を解剖したことによって、同時に、階級社会一般における生産力と生産関係との矛盾の普遍性は、より深刻に、より十分に、より完全に、明白にされたのである。
特殊な事物は普遍的な事物と結びついていることから、また、一つひとつの事物の内部には矛盾の特殊性が含まれているばかりでなく、矛盾の普遍性も含まれ、普遍性は特殊性のなかに存在していることから、われわれが一定の事物を研究する場合には、この二つの側面、およびその相互の結びつきを発見し、ある事物の内部にある特殊性と普遍性の二つの側面、およびその相互の結びつきを発見し、ある事物とそれ以外の多くの事物との相互の結びつきを発見しなけれぱならない。スターリンはその名著『レーニン主義の基礎』の中で、レーニン主義の歴史的根源を説明するにあたって、レーニン主義の生まれてきた国際的環境を分析し、帝国主義という条件のもとで、すでに極点にまで発展した資本主義の諸矛盾、およびこれらの諸矛盾によってプロレタリア革命が直接的実践の課題になり、資本主義に直接突撃を加えるよい条件がつくりだされたことを分析している。そればかりでなく、彼はさらに、どうしてロシアがレーニン主義の発祥地になったかを分析し、どうして当時の帝政ロシアが帝国主義のあらゆる矛盾の集中点となり、またロシアのプロレタリアートが世界の革命的プロレタリアートの前衛となることができたかの原因を分析した。このように、スターリンは帝国主義の矛盾の普遍性を分析して、レーニン主義が帝国主義とプロレタリア革命の時代のマルクス主義であることを解明し、また帝政ロシアの帝国主義がこの一般的な矛盾の中で持っていた特殊性を分析して、ロシアがプロレタリア革命の理論と戦術の誕生地となったこと、そして、この特殊性のなかに矛盾の普遍性が含まれていることを解明している。スターリンのこの分析は、われわれに、矛盾の特殊性と普遍性、およびそれらの相互の結びつきを認識する手本を示している。
マルクスとエンゲルス、同じくレーニンとスターリンは、弁証法を客観的現象の研究に応用する場合、主観的任意性をいささかもおびてはならず、かならず客観的な実際の運動に含まれている具体的な条件から出発して、これらの現象のなかの具体的な矛盾、矛盾のそれぞれの側面の具体的な地位および矛盾の具体的な相互関係を見いださなければならないことを、いつも教えている。わが教条主義者たちには、このような研究態度がないので、なに一つ正しいところのないものになってしまった。われわれは教条主義者の失敗をいましめとして、このような研究態度を身につけなければならない。これ以外にはどのような研究方法もないのである。
矛盾の普遍性と矛盾の特殊性との関係は、矛盾の共通性と個別性との関係である。共通性とは、矛盾があらゆる過程に存在するとともに、あらゆる過程を始めから終わりまで貫いていることであり、矛盾とは、運動であり、事物であり、過程であり、思想でもある。事物の矛盾を否定することは、すべてを否定することである。これは共通の道理であって、古今東西を通じて例外はない。したがって、それは共通性であり、絶対性である。しかしながら、この共通性はあらゆる個別性のなかに含まれており、個別性がなければ、共通性はない。あらゆる個別性を取りさったら、そこにどんな共通性が残るだろうか。矛盾はそれぞれ特殊であるから、個別性が生まれるのである。すべての個別性は条件的、一時的に存在するものであり、したがって相対的である。
この共通性と個別性、絶対と相対との道理は、事物の矛盾の問題の真髄であって、これを理解しないことは、弁証法を捨てたにひとしい。
四 主要な矛盾と矛盾の主要な側面
矛盾の特殊性という問題の中には、とくにとりあげて分析する必要のある状況がまだ二つある。主要な矛盾と矛盾の主要な側面がそれである。
(1)主要な矛盾
複雑な事物の発展過程には、多くの矛盾が存在しているが、そのなかでは、かならずその一つが主要な矛盾であり、その存在と発展によって、その他の矛盾の存在と発展が規定され、あるいは影響される。たとえば、資本主義社会では、プロレタリアートとブルジョアジーという二つの矛盾する力が主要な矛盾をなし、それ以外の矛盾する力、たとえば、残存する封建階級とブルジョアジーとの矛盾、小ブルジョア農民とブルジョアジーとの矛盾、プロレタリアートと小ブルジョア農民との矛盾、非独占ブルジョアジーと独占ブルジョアジーとの矛盾、ブルジョア民主主義とブルジョア・ファシズムとの矛盾、資本主義国相互間の矛盾、帝国主義と植民地との矛盾、およびその他の矛盾はいずれも、この主要な矛盾する力によって規定され、影響される。
中国のような半植民地国では、その主要な矛盾と、主要でない矛盾との関係が、複雑な状況を呈している。
帝国主義がこのような国に侵略戦争をおこなっているときには、このような国の内部の各階級は、一部の売国分子をのぞいて、すべてが、一時的に団結して、帝国主義に反対する民族戦争を進めることができる。そのときには、帝国主義とこのような国とのあいだの矛盾が主要な矛盾となり、このような国の内部の各階級のあいだのあらゆる矛盾(封建制度と人民大衆とのあいだのこの主要な矛盾をも含めて)は、いずれも一時的に副次的な、また従属的な地位にさがる。中国の一八四〇年のアヘン戦争、一八九四年の清日戦争、一九〇〇年の義和団戦争および現在進められている中日戦争には、いずれもこのような状況が見られる。
しかし、別の状況のもとでは、矛盾の地位に変化がおきる。帝国主義が戦争によって圧迫するのではなくて、政治、経済、文化など比較的温和な形式をとって圧迫する場合には、半植民地国の支配階級は、帝国主義に投降し、両者は同盟をむすんで、いっしょになって人民大衆を圧迫するようになる。こうした場合、人民大衆は国内戦争の形式をとって、帝国主義と封建階級の同盟に反対することがよくあるし、帝国主義は直接行動をとらないで、間接的な方式で、半植民地国の反動派の人民大衆への圧迫を援助することがよくあるので、内部矛盾はとくに鋭くあらわれる。中国の辛亥革命戦争、一九二四年から一九二七年の革命戦争、一九二七年以後十年にわたる土地革命戦争には、いずれもこのような状況が見られる。さらに、たとえば中国の軍閥戦争のような、半植民地国のそれぞれの反動支配者集団のあいだの内戦もまた、こうしたものである。
国内革命戦争が発展して、帝国主義とその手先である国内反動派の存在を根本からおびやかすようになると、帝国主義はしばしば上述の方法以外の方法をとって、その支配を維持しようと企て、革命陣営の内部を分裂させたり、あるいは直接軍隊を派遣して国内反動派を援助したりする。この場合、外国帝国主義と国内反動派とは、まったく公然と一方の極にたち、人民人衆は他方の極にたち、主要な矛盾を形成して、その他の矛盾の発展状態を規定するか、あるいはそれに影響を与える。十月革命後、資本主義各国がロシアの反動派を助けたのは、武力干渉の例である。一九二七年の蒋介石の裏切りは、革命陣営を分裂させた例である。
しかし、いずれにしても、過程発展のそれぞれの段階で、指導的な作用をおこすのは、一つの主要な矛盾だけであるということには、すこしも疑いをいれない。
こうしたことから分かるように、どのような過程にも、もし多くの矛盾が存在しているとすれば、その中の一つはかならず主要なものであって、指導的な、決定的な作用をおこし、その他は、副次的、従属的地位におかれる。したがって、どのような過程を研究するにも、それが二つ以上の矛盾の存在する複雑な過程であるならば、全力をあげてその主要な矛層を見いださなければならない。その主要な矛盾をつかめば、すべての問題はたやすく解決できる。これは、マルクスの資本主義社会についての研究がわれわれに教えている方法である。また、レーニンとスターリンは帝国主義と資本主義の全般的危機を研究する際にも、ソ連の経済を研究する際にも、この方法を教えている。ところが、何十何万という学問家や行動家は、この方法が理解できないために、五里霧中におちいり、核心が見つからず、したがって矛盾を解決する方法も見つけられない。
過程の中のすべての矛盾を均等にあつかってはならず、それらを主要なものと副次的なものとの二つの種類にわけ、主要な矛盾をつかむことに重点をおかなければならないことは、先に述べたとおりである。だが、さまざまな矛盾のなかで、主要なものであろうと、あるいは副次的なものであろうと、矛盾する二つの側面は、また均等に扱ってよいだろうか。やはりいけない。どんな矛盾であろうと、矛盾の諸側面は、その発展が不均衡である。ある場合には、双方の力が匹敵しているかのように見えるが、それは一時的な相対的な状態にすぎず、基本的な状態は不均衡である。矛盾する二つの側面のうち、かならずその一方が主要な側面で、他方が副次的な側面である。主要な側面とは、矛盾の中で主導的な作用をおこす側面のことである。事物の性質は、主として支配的地位を占める矛盾の主要な側面によって規定される。
(2)矛盾の主要な側面
しかし、このような状況は固定したものではなく、矛盾の主要な側面と主要でない側面とは、たがいに転化しあうし、事物の性質もそれにつれて変化する。矛盾の発展する一定の過程、あるいは一定の段階では、主要な側面がAの側にあり、主要でない側面がBの側にある。ところが、別の発展段階あるいは別の発展過程に移ると、その位置は入れ替わる。これは、事物の発展の中で矛盾の両側面の闘争している力の増減する度合いによって決定される。
われわれは「新陳代謝」という言葉をよく目にする。新陳代謝は宇宙における普遍的な、永遠にさからうことのできない法則である。ある事物が、事物自身の性質と条件によって、異なった飛躍の形式を通じて、他の事物に転化するのが新陳代謝の過程である。どのような事物の内部にも、新旧両側面の矛盾があって、一連の曲折した闘争が形づくられている。闘争の結果、新しい側面は小から大に変わり、支配的なものに上昇し、古い側面は大から小に変わり、しだいに滅亡していくものになってしまう。新しい側面が、古い側面に対して支配的地位を得ると、古い事物の性質はすぐ新しい事物の性質に変わる。このことからわかるように、事物の性質は主として支配的な地位を占めている矛盾の主要な側面によって規定される。支配的な地位を占めている矛盾の主要な側面が変化すれば、事物の性質もそれにつれて変化する。
資本主義社会では、資本主義が古い封建主義社会の時代におかれていた従属的な地位から、すでに支配的な地位を占める力に転化しているので、社会の性質もまた、封建主義的なものから資本主義的なものに変わっている。新しい、資本主義社会の時代には、封建的勢力は元の支配的な地位にあった勢力から、従属的な勢力に転化し、そして一歩一歩消滅してゆく。たとえば、イギリス、フランスなどの諸国ではそうであった。生産力の発展にともなって、ブルジョアジーは新しい、進歩的な役割を果たした階級から、古い、反動的な役割を果たす階級に転化し、最後にはプロレタリアートに打ち倒されて、私有の生産手段を収奪され、権力を失った階級に転化して、この階級もまた、一歩一歩消滅してゆくのである。プロレタリアートは人数の上ではブルジョアジーよりはるかに多く、しかも、ブルジョアジーと同時に生長しながら、ブルジョアジーに支配されていたが、それは一つの新しい勢力であって、ブルジョアジーに従属していた初期の地位から、しだいに強大になって、独立した、歴史上主導的な役割を果たす階級となり、最後には権力を奪いとって、支配階級になる。このときには、社会の性質は、古い資本主義の社会から、新しい社会主義の社会に転化する。これはソ連がすでに通ってきた道であり、他のすべての国もかならず通る道である。
中国の状況について言うならば、帝国主義は、中国を半植民地にするという矛盾の主要な地位にたって、中国人民を圧迫しており、中国は独立国から半植民地に変わっている。だが、ものごとはかならず変化する。双方が闘っている情勢の中で、プロレタリアートの指導のもとに生長してきた中国人民の力は、かならず中国を半植民地から独立国に変え、帝国主義は打ち倒され、古い中国はかならず新しい中国に変わる。古い中国が新しい中国に変わるということの中には、さらに国内の古い封建勢力と新しい人民勢力とのあいだの状況の変化ということが含まれている。古い封建的地主階級は、打ち倒され、支配者から被支配者に変わり、この階級も一歩一歩消滅していく。そして人民はプロレタリアートの指導のもとで、被支配者から支配者に変わる。このときには中国の社会の性質に変化がおこり、古い半植民地・半封建的な社会は新しい民主的な社会に変わる。
このような相互転化は、過去にも経験がある。中国を三百年近く支配してきた清朝帝国は、辛亥革命の時期に打ち倒され、そして、孫中山の指導していた革命同盟会が、一度は勝利をおさめた。一九二四年から一九二七年にかけての革命戦争では、共産党と国民党との連合による南方革命勢力が弱小な力から強大なものに変わって、北伐の勝利を闘いとり、そして、一時権勢をほこった北洋軍閥は打ち倒された。一九二七年、共産党の指導する人民の力は、国民党反動勢力から打撃を受けて非常に小さくなったが、自己の内部の日和見主義を一掃することによって、再びしだいに強大になった。共産党の指導する革命根拠地の中では、農民は被支配者から支配者に転化し、地主は正反対の転化をした。世界では、いつもこのように、新しいものが古いものにとって代わっており、新陳代謝、除旧布新、推陳出新ということがおこなわれている。
革命闘争においては、困難な条件の方が順調な条件より大きいときがあり、そのようなときには、困難が矛順の主要な側面で、順調が副次的な側面である。ところが、革命党員は、その努力によって、困難を一歩一歩克服し、順調な新しい局面を切りひらくことができ、困難な局面を順調な局面におきかえることができる。一九二七年の中国革命失敗後の状況や、長征中の中国赤軍の状況などはみなそうである。現在の中日戦争でも、中国はまた困難な地位におかれているが、われわれはこのような状況をあらため、中日双方の状況に根本的な変化を起こさせることができる。以上とは反対に、もし革命党員が誤りをおかせば、順調も困難に転化される。一九二四年から一九二七年の革命の勝利は矢敗に変わってしまった。一九二七年以後南方各省で発展していた革命の根拠地も一九三四年になると、みな失敗してしまった。
学問を研究する場合、知らない状態から知る状態へ進むまでの矛盾もまたそうである。われわれがマルクス主義を研究しはじめたときは、われわれのマルクス主義に対する無知、あるいは知識の乏しい状況とマルクス主義の知識とのあいだは、相互に矛盾している。しかし、学習への努力によって、無知は有知に転化し、知識のとぼしい状態は、知識の豊富な状態に転化し、マルクス主義に対する盲目的状態はマルクス主義を自由に運用できる状態に変えることができる。
一部の矛盾はそうではないと考えている人がいる。たとえば、生産力と生産関係との矛盾では、生産力が主要なものであり、理論と実践との矛盾では実践が主要なものであり、経済的土台と上部構造との矛盾では、経済的土台が主要なものであって、それらの地位は、相互に転化しあうものではないと考えている。これは弁証法的唯物論の見解ではなくて、機械的唯物論の見解である。たしかに、生産力、実践、経済的土台は、一般的には主要な決定的な作用をするものとしてあらわれるのであって、この点を認めない者は唯物論者ではない。しかし、生産関係、理論、上部構造といったこれらの側面も、一定の条件のもとでは、逆に、主要な決定的な作用をするものとしてあらわれるのであって、この点もまた認めなければならない。生産関係が変わらなければ、生産力は発展できないという場合、生産関係を変えることが、主要な、決定的な作用をおこす。レーニンが言ったように「革命の理論がなければ、革命の運動もありえない」[18] という場合には、革命の理論の創造と提唱とが主要な、決定的な作用をおこすのである。
ある一つの事がら(どんな事がらでも同じであるが)をはじめるとき、まだその方針、方法、計画あるいは政策が立てられていない場合には、方針、方法、計画あるいは政策を確定することが、主要な決定的なものとなる。政治や文化などの上部構造が経済的土台の発展をさまたげている場合には、政治や文化での革新が主要な決定的なものとなる。われわれのこういう言い方は唯物論に反しているだろうか。反してはいない。なぜなら、われわれは、全体的な歴史の発展の中では、物質的なものが精神的なものを決定し、社会的存在が社会的意識を決定することを認めるが、同時にまた、精神的なものの反作用、社会的意識の社会的存在に対する反作用、上部構造の経済的土台に対する反作用を認めるし、また認めなければならないからである。このことは唯物論にそむくことではなく、これこそ機械的唯物論におちいらずに、弁証法的唯物論を堅持するものである。
矛盾の特殊性の問題を研究するにあたって、もし、過程における主要な矛盾と主要でない矛盾、および矛盾の主要な側面と主要でない側面という、二つのことを研究しないならば、つまり、矛盾のこの二つの状況の差異性を研究しないならば、抽象的な研究におちいり、矛盾の状況を具体的に理解することはできず、したがってまた、矛盾を解決する正しい方法を見いだすこともできない。矛盾のこの二つの状況の差異性あるいは特殊性というのは、矛盾する力の不均衡性である。世界には絶対的に均等に発展するものはなく、われわれは均等論あるいは均衡論に反対しなければならない。同時に、矛盾のこうした具体的な状態、および発展過程における矛盾の主要な側面と主要でない側面との変化こそ、新しい事物が古い事物にとって代わる力をあらわしている。矛盾のさまざまな不均衡な状況についての研究、主要な矛盾と主要でない矛盾、矛盾の主要な側面と主要でない側面についての研究は、革命政党が、政治上軍事上の戦略戦術方針を正しく決定する重要な方法の一つであって、すべての共産党貝が心を注がなければならないところである。
五 矛盾の諸側面の同一性と闘争性
矛盾の普遍性と特殊性の問題を理解したならば、われわれはさらに進んで、矛盾の諸側面の同一性と闘争性の問題を研究しなければならない。同一性、統一性、一致性、相互浸透、相互貫通、相互依頼(あるいは依存)、相互連結、あるいは相互協力などといったこれらの異なった言葉は、すべて同じ意味であって、次の二つのことを言っている。第一は、事物の発展過程にある一つひとつの矛盾のもつ二つの側面は、それぞれ自己と対立する側面を自己の存在の前提としており、双方が一つの統一体のうちに共存しているということ、第二は、矛盾する二つの側面は、一定の条件によって、それぞれ反対の側面に転化していくということである。これらが同一性と言われるものである。
(1)矛盾の諸側面の同一性
レーニンは言っている。「弁証法とは、対立面がどのようにして同一であることができ、どのようにして同一であるのか(どのようにして同一となるのか)──それらは、どんな条件のもとで、同一であり、たがいに転化しあうのか──人間の頭脳はなぜこれらの対立面を、死んだ、凝固したものと見るべきではなく、生きた、条件的な、可動的な、相互に転化しあうものとして見なければならないのか、ということについての学説である。」[19]
レーニンのこの言葉は、どういう意味だろうか。
あらゆる過程の中で、矛盾しているそれぞれの側面は、もともと、相互に、排斥し、闘争し、対立している。世界のあらゆる事物の過程および人びとの思想には、すべてこのように矛盾性をおびた側面が含まれており、それには一つの例外もない。単純な過程には一対の矛盾しかないが、複雑な過程には、一対以上の矛盾がある。各対の矛盾のあいだも、また相互に矛盾をなしている。このようにして、客観世界のあらゆる事物や人びとの思想が組み立てられ、またそれらに運動をおこさせている。
こういえば、まったくの不同一、まったくの不統一でしかないのを、どうしてまた同一あるいは統一と言うのか。
矛盾しているそれぞれの側面は、孤立しては存在できないものである。もし、矛盾の一つの側面に、それと対をなす矛盾の側面がなかったら、それ白身も存在の条件を失ってしまう。あらゆる矛盾する事物、あるいは人びとの心のなかの矛盾している概念のうち、いずれか一つの側面だけが独立して存在することができるかどうかを考えて見るがよい。生がなければ、死はあらわれず、死がなければ、生もあらわれない。上がなければ、下というものはなく、下がなければ、上というものもない。災禍がなければ、幸福というものはなく、幸福がなければ、災禍というものもない。順調がなければ、困難というものはなく、困難がなければ、順調というものもない。地主がなければ、小作人はなく、小作人がなければ、地主もない。ブルジョアジーがなければ、プロレタリアートはなく、プロレタリアートがなければ、ブルジョアジーもない。帝国主義による民族抑圧がなければ、植民地や半植民地はなく、植民地や半植民地がなければ、帝国主義による民族抑圧もない。あらゆる対立的な要素は、すべてこのようで、一定の条件によって、一方では相互に対立しながら、他方ではまた相互に連結しあい、貫通しあい、浸透しあい、依頼しあっている。このような性質が同一性と呼ばれるものである。すべての矛盾している側面は、一定の条件によって、不同一性をそなえているので、矛盾と呼ばれる。しかし、また同一性をそなえているので、相互連結している。レーニンが弁証法とは「対立面がどのようにして同一であることができるか」を研究することだと言っているのは、つまりこのことを言ったのである。どのようにしてそれができるか。たがいに存在の条件をなしているからである。これが同一性の第一の意義である。
しかしながら、矛盾する双方がたがいに存在の条件となり、双方のあいだに同一性があり、したがって一つの統一体の中に共存することができると言っただけで、十分だろうか。まだ、十分ではない。事がらは矛盾する双方が、相互に依存しあうことで終わるのではなく、いっそう重要なことは、矛盾している事物が相互に転化しあうことにある。つまり、事物の内部の矛屑する両側面は、一定の条件によって、それぞれ自己と反対の側面へ転化してゆき、自己と対立する側面のおかれていた地位へ転化してゆくのである。これが矛盾の同一性の第二の意義である。
どうしてここにも同一性があるのか。見たまえ、被支配者であったプロレクタリアートは、革命を通じて支配者に転化し、もと支配者であったブルジョアジーは転化して被支配者になり、相手方が元、占めていた地位に転化してゆく。ソ連ではすでにそうなっているし、全世界もそうなろうとしている。もしそのあいだに、一定の条件のもとでのつながりと同一性がなかったら、どうしてこのような変化がおこりえようか。
国民党は、近代の中国歴史のある段階では、ある種の積極的な役割を果たしたことがあったが、その固有の階級性と帝国主義からの誘惑(これらが条件である)によって一九二七年以後、反革命に転化した。しかし、中国と日本との矛盾が鋭くなったことと、共産党の統一戦線政策(これらが条件である)によって、抗日にやむなく賛成している。矛盾するものが、一方から他方に変わっていくのは、そのあいだに、一定の同一性が含まれているからである。
われわれの実行した土地革命は、土地を持っていた地主階級が土地を失った階級に転化し、土地を失っていた農民が、逆に、土地を手に入れて小所有者に転化する過程であったし、これからもそうなる。持つことと持たないこと、得ることと失うことのあいだは、一定の条件によって、相互に連結し、両者は同一性を持っている。農民の私有制は、社会主義という条件のもとでは、さらに社会主義的農業の公有制に転化する。ソ連ではすでにそのようにしたし、全世界も将来はそのようにするにちがいない。私有財産と公有財産のあいだには、ここからむこうに通ずる橋があり、哲学ではこれを同一性と言い、あるいは相互転化、相互浸透とも言っている。
プロレタリアー卜独裁あるいは人民の独裁を強化することは、まさに、こういう独裁を解消し、どのような国家制度も消滅させた、より高い段階に達するための条件を準備することである。共産党を結成し、それを発展させることは、まさに、共産党およびすべての政党制度を消滅させる条件を準備することである。共産党の指導する革命軍を創設して、革命戦争を進めることは、まさに、戦争を永遠に消滅させる条件を準備することである。これら多くのたがいに反するものは、同時にたがいに成り立たせあっているものである。
周知のように、戦争と平和は相互に転化するものである。戦争は平和に転化する。たとえば、第一次世界大戦は戦後の平和に転化し、中国の内戦もいまは止んで、国内の平和があらわれている。また平和は戦争に転化する。たとえば、一九二七年の国共合作は戦争に転化したし、現在の世界平和の局面にも、第二次世界大戦へ転化する可能性がある。どうしてそうなのか。階級社会では、戦争と平和というこの矛盾している事物が、一定の条件のもとで同一性をそなえているからである。
矛盾しているすべてのものは、相互に連係しており、一定の条件のもとで一つの統一体のなかに共存しているばかりでなく、一定の条件のもとでは、相互に転化すること、これが矛盾の同一性のもつ意義のすべてである。レーニンが「どのようにして同一であるのか(どのようにして同一となるのか)──それらはどんな条件のもとで、同一であり、たがいに転化しあうのか」と言っているのは、つまりこの意味である。
「人間の頭脳はなぜ、これらの対立面を、死んだ、凝固したものと見るべきではなく、生きた、条件的な、可動的な、相互に転化しあうものとして見なければならないのか。」 それは客観的事物が、もともとそうなっているからである。客観的事物のなかの矛盾している諸側面の統一、あるいは同一性というものは、もともと死んだものでも、凝固したものでもなくて、生きた、条件的な、可動的な、一時的な、相対的なものであり、すべての矛盾は、一定の条件によって、自己と反対の側面に転化するものである。このような状況が、人間の思想に反映してマルクス主義の唯物弁証法的世界観となった。現在の、また歴史上の反動的な支配階級および彼らに奉仕する形而上学だけが、対立した事物を、生きた、条件的な、可動的な、転化しあうものとして見ずに、死んだ、凝固したものとして見、しかも、彼らの支配をつづけるという目的を達するために、このような誤った見方を、至るところで宣伝し、人民大衆をまどわしている。共産党員の任務は、反動派や形而上学の誤った思想を暴露し、事物本来の弁証法を宣伝し、事物の転化をうながし、革命の目的を達することにある。
一定の条件のもとでの矛盾の同一性とは、つまり、われわれの言う矛盾が、現実的な矛盾、具体的な矛盾であり、しかも、矛盾の相互転化も現実的、具体的であるということである。神話のなかの多くの変化、たとえば『山海経』の中の「夸父[こほ]が太陽を追いかけた」はなし[20] とか、『淮南子』の中の「笄[げい=羽に廾]が九つの太陽を射た」はなし[21] とか、『西遊記』の中で言われている孫悟空の七十二変化[22] とか、また、『聊斎志異』[23] の中にでてくる多くの亡霊やきつねが人に化ける話など、こういう神話のなかでいわれている矛盾の相互変化は、現実の無数の複雑な矛盾の相互変化が、人びとに引きおこさせた一種の幼稚な、想像的な、主観的幻想の変化であって、具体的矛盾があらわした具体的変化ではない。マルクスは言っている。「すべての神話は、想像のなかで、かつ想像を通じて、自然諸力を克服し支配し形象化する。したがって、それらは、自然諸力が実際に人に支配されていくにつれて消失する。」[24] このような神話の中の(さらに童話の中の)千変万化の物語は、人間が自然力を征服することなどを想像しているので、人びとをよろこばせることができるし、しかも、もっともよい神話は「永遠の魅力」[25] (マルクス)さえ持っているが、神話は、一定の条件のもとでの具体的矛盾にもとづいて構成されたものではないから、現実の科学的な反映ではない。つまり、神話あるいは童話のなかの矛盾を構成する諸側面は、具体的な同一性ではなく、幻想された同一性にすぎない。現実の変化の同一性を科学的に反映したもの、それがマルクス主義の弁証法である。
なぜ、鶏の卵はひよこに転化できるのに、石ころは、ひよこに転化できないのか。なぜ戦争と平和は同一性を持っているのに、戦争と、石ころは、同一性を持っていないのか。なぜ人間は人間を生むだけで、ほかのものを生むことができないのか。それはほかでもなく、矛盾の同一性は、一定の必要な条件のもとで存在するからである。一定の必要な条件がなければ、どのような同一性もありえない。
なぜ、ロシアでは一九一七年二月のブルジョア民主主義革命が、同年十月のプロレタリア社会主義革命に直接つながっていたのに、フランスのブルジョア革命は社会主義革命に直接つながることがなく、一八七一年のパリ・コミューン[26] は失敗に終わったのか。またなぜ、モンゴルや中央アジアの遊牧制度が、社会主義と直接つながったのか。なぜ、中国の革命は、西洋諸国の通った古い歴史的な道を通る必要がなく、ブルジョア独裁の時期を経る必要がなく、資本主義の前途を避けることができ、社会主義に直接つながることができるのか。ほかでもなく、これらはすべてそのときの具体的な条件によるのである。一定の必要な条件がそなわっていれば、事物発展の過程には、一定の矛盾が生まれ、しかも、この、あるいはこれらの矛盾は、相互に依存し、相互に転化するのであって、それがないとしたら、すべては不可能である。
(2)矛盾の諸側面の闘争性
同一性の問題は以上のとおりである。では闘争性とはなにか。同一性と闘争性との関係はどのようなものだろうか。
レーニンは言っている。「対立面の統一(一致、同一、均衡)は条件的、一時的、経過的、相対的である。相互に排斥しあう対立面の闘争は、発展、運動が絶対的であるように、絶対的である。」[27]
レーニンのこの言葉は、どういう意昧だろうか。
すべての過程には始めがあり終わりがある。すべての過程は、自己の対立物に転化する。すべての過程の恒常性は相対的であるが、ある過程が他の過程に転化するという変動性は絶対的である。
どのような事物の運動も、みな二つの状態、すなわち相対的に静止している状態と著しく変動している状態をとる。二つの状態の運動は、いずれも、事物の内部に含まれる二つの矛盾する要素の相互の闘争によつて引きおこされる。事物の運動が第一の状態にあるときは、それは量的変化があるだけで、質的変化はないので、あたかも静止しているような様相を呈する。事物の運動が第二の状態にあるときは、それはすでに、第一の状態での量的変化がある最高点に達して、統一物の分解を引きおこし、質的な変化を発生させたので、著しく変化した様相を呈するのである。われわれが日常生活において見る統一、団結、連合、調和、均勢、対峙、膠着、静止、恒常、平衡、凝集、吸引などはすべて事物が量的変化の状態にあるときに呈する様相である。そして、統一物が分解し、団結、連合、調和、均勢、対峙、膠着、静止、平衡、凝集、吸引などといった状態が破壊されて、反対の状態に変わるのは、みな事物が質的変化の状態にあるときで、一つの過程から他の過程に移行する変化の中で呈する様相である。事物はどうしても、第一の状態から第二の状態にたえず転化するし、矛盾の闘争は、この二つの状態の中に存在するとともに、第二の状態をへて、矛盾の解決に達するものである。したがって、対立面の統一は、条件的な、一時的な、相対的なものであるが、対立面が相互に排除しあう闘争は絶対的であるというのである。
われわれは先に、たがいに反する二つのもののあいだには、同一性があり、したがって、二つのものは一つの統一体の中に共存することができるし、さらに、相互に転化することができると言ったが、これは条件性のことで、つまり一定の条件のもとでは矛盾するものは統一することができ、さらに、相互に転化することができるし、この一定の条件がなければ、矛盾となることもできないし、共存することもできず、転化することもできないということである。一定の条件によって矛盾の同一性が構成されるので、同一性は条件的であり、相対的であるというのである。さらに、矛盾の闘争は、過程の始めから終わりまでを貫いていると同時に、一つの過程を他の過程に転化させるものであり、矛盾の闘争は存在しないところがないので、矛盾の闘争性は無条件的であり、絶対的であるというのである。
条件的な、相対的な同一性と、無条件的な、絶対的な闘争性とが結合して、あらゆる事物の矛盾の運動を構成する。
われわれ中国人がつねに言う「たがいに反しながら、たがいに成りたたせあう」[28] とは、たがいに反するものが同一性を持っているという意味である。この言葉は、形而上学とは反対の、弁証法的なものである。「たがいに反する」とは、矛盾する二つの側面が相互に排斥し、あるいは相互に闘争することを言う。「たがいに成りたたせあう」とは、矛盾する二つの側而が、一定の条件のもとで、相互に連結して同一性を獲得することを言う。闘争性は同一性のなかにやどっており、闘争性がなければ、同一性はない。
同一性のなかには闘争性が存在し、特殊性のなかには普遍性が存在し、個別性のなかには共通性が存在している。レーニンの言葉を借りて言えば「相対的なもののなかに絶対的なものがある」[29] のである。
六 矛盾における敵対の地位
矛盾の闘争性という問題には、敵対とはなにかという問題が含まれている。われわれの答えは、敵対とは、矛盾の闘争の唯一の形態ではなく、矛盾の闘争の一つの形態にすぎない。
人類の歴史には階級的な敵対が存在する。これは矛盾の闘争の特殊なあらわれである。搾取階級と被搾取階級のあいだの矛盾について言うと、奴隷社会でも、封建社会でも、資本主義社会でも、相互に矛盾する二つの階級は、長期にわたって一つの社会のなかで並存し、相互に闘争しているが、二つの階級の矛盾が一定の段階にまで発展すると、はじめて双方は外部的な敵対の形態をとり、革命に発展する。階級社会では、平和から戦争への転化も、やはりこうである。
爆弾がまだ爆発しないうちは、矛盾物が一定の条件によって一つの統一体のなかで共存しているときである。新しい条件(発火)があらわれると、はじめて爆発をおこす。自然界で最後に外部的な衡突の形態をとって、古い矛盾を解決し、新しい事物をうみだす現象にはすべてこれと似た状況がある。
このような状況を認識することは、きわめて重要である。それはわれわれに、階級社会では、革命と革命戦争が不可避であり、それなしには、杜会発展の飛躍を達成することもできなければ、反動的支配階級を打ち倒して人民に権力をにぎらせることもできないことを理解させるものである。共産党員は、反動派の言っている、社会革命は不必要だとか不可能だとかいう欺瞞的な宣伝を暴露し、マルクス・レーニン主義の社会革命の理論を堅持して、社会革命はぜひ必要であるばかりでなく、まったく可能であり、全人類の歴史とソ連の勝利がその科学的な真理を証明していることを人民に理解させなければならない。
だが、われわれは、先に述べた公式をすべての事物の上にむりやりに当てはめてはならず、矛盾のさまざまな闘争の状況について具体的に研究しなければならない。矛盾と闘争とは普遍的であり、絶対的であるが、矛盾を解決する方法、すなわち、闘争の形態は矛盾の性質のちがいによって異なる。一部の矛盾は公然たる敵対性をもつが、一部の矛盾はそうではない。事物の具体的発展にもとづいて、一部の矛盾は、もともと非敵対性であったものから敵対性のものに発展し、また、一部の矛盾は、もともと敵対性であったものから非敵対性のものに発展する。
前に述べたように、共産党内の正しい思想と誤った思想との矛盾は、階級が存在しているときには、階級的矛盾の党内への反映である。この矛盾は、はじめのうちとか、あるいは、個々の問題では、すぐに敵対性のものとしてあらわれるとはかぎらない。だが、階級闘争が発展するにつれて、この矛盾も敵対性のものに発展する可能性がある。ソ連共産党の歴史は、われわれに、レーニンやスターリンの正しい思想とトロツキーやブハーリンなどの誤った思想との矛盾が、はじめのころは、まだ敵対的な形態をとってあらわれなかったが、のちには、敵対的なものに発展したことを教えている。中国共産党の歴史にも、このようなことがあった。わが党内の多くの同志の正しい思想と陳独秀、張国壽[とう=壽の下に点4つ]らの誤った思想との矛盾は、はじめのころは、やはり、敵対的な形態となってあらわれなかったが、のちには、敵対的なものに発展した。現在わが党内の正しい思想と誤った思想との矛盾は、敵対的な形態となってあらわれてはいず、もし、誤りをおかした同志が自分の誤りを改めることができるならば、それは敵対性のものにまで発展することはない。したがって、党は一方では誤った思想に対し、厳格な闘争を進めなければならないが、他方では、また誤りをおかした同志に自覚する機会を十分与えるようにしなければならない。このような場合に、ゆきすぎの闘争は明らかに不適当である。しかし、誤りをおかした人がその誤りを固執し、さらにそれを拡大させるならば、この矛盾は、敵対性のものにまで発展する可能性がある。
経済面での都市と農村との矛盾は、資本主義社会においては(そこではブルジョアジーの支配する都市が農村を残酷に収奪している)、また中国の国民党支配地区においては(そこでは外国の帝国主義と自国の買弁的大ブルジョアジーの支配している都市が農村をきわめて横暴に収奪している)、その矛盾がきわめて敵対的である。だが、社会主義国では、またわれわれの革命根拠地ては、このような敵対的矛盾が非敵対的矛盾に変わっており、共産主義の社会になったときにはこのような矛盾は消滅する。
レーニンは言っている。「敵対と矛盾とは、まったく異なったものである。社会主義のもとでは、前者は消失するが、後者は存続する。」[30] これはつまり、敵対とは矛盾の闘争のあらゆる形態ではなく、その一つの形態にすぎないから、この公式をところかまわず当てはめてはならないということである。
七 結論
ここで、われわれは次のように総括することができる。事物の矛盾の法則、すなわち対立面の統一の法則は、自然および社会の根本法則であり、したがって、思考の根本法則でもある。それは形而上学の世界観とは正反対のものである。それは人類の認識史における一大革命である。弁証法的唯物論の観点から見ると、矛盾は客観的事物および主観的思考のすべての過程に存在しており、すべての過程の始めから終わりまでを貫いている。これが矛盾の普遍性と絶対性である。矛盾している事物およびその一つひとつの側面はそれぞれ特徴をもっている。これが矛盾の特殊性と相対性である。矛盾している事物は、一定の条件によって、同一性を持っており、したがって、一つの統一体のなかに共存することができるし、また相互に反対の側面に転化してゆくことができる。これもまた矛盾の特殊性と相対性である。しかし、矛盾の闘争は絶えることがなく、それらが共存しているときでも、あるいは相互に転化しているときでも、闘争が存在しており、とくに相互転化のときには、闘争がいっそうはっきりとあらわれる。これもまた矛盾の普遍性と絶対性である。われわれが、矛盾の特殊性と相対性を研究する場合には、矛盾および矛盾の側面の主要なものと主要でないものとの区別に注意しなければならず、矛盾の普遍性と闘争性を研究する場合には、矛盾のさまざまな異なった闘争形態の区別に注意しなければならない。そうしなければ、誤りをおかすであろう。もし、われわれが研究をつうじて、上に述べた諸要点をほんとうに理解するならば、われわれは、マルクス・レーニン主義の基本原則にそむき、われわれの革命事業にとって不利なあの教条主義思想を打ち敗ることができるし、また経験をもっている同志たちに、その経験を整理させ、それに原則性をもたせて、経験主義の誤りをくりかえさせないようにすることもできる。これらのことはわれわれが、矛盾の法則の研究から得た簡単な結論である。
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《原注》
この哲学論文は、毛沢東同志が「実践論」についで、それと同じ目的のために、つまり党内に存在するゆゆしい教条主義思想を克服するために書いたもので、かつて延安の抗日軍事政治大学で講演したことがある。本選集におさめるにあたって、著者は部分的な補足、削除、訂正を加えた。
[1] ヘーゲルの『哲学史講義』第一巻の「エレア学派」に対するレーニンの短評から引用。レーニンの『へーゲルの著書「哲学史講義」の摘要』(一九一五年著)に見られる。
[2] レーニンの『弁証法の問題について』(一九一五年著)には、「統一物が二つに分かれること、そして、そのの矛盾したそれぞれの部分を認識することは、弁証法の本質である」とある。またへーゲルの著書『論理学』第三巻第三編「理念」に対するレーニンの短評には「弁証法は簡単には対立面の統一の学説と規定することができる。これによって弁証法の核心はつかまれるであろうが、しかしこれは説明と展開とを要する」とある。レーニンの『へーゲルの著書「論理学」の摘要』(一九一四年九月から十二月にかけての著)を参照。
[3] デボーリンは、ソ連の哲学者で、ソ連科学アカデミー会員である。一九三〇年、ソ連の哲学界では、デボーリン学派に対する批判をおこし、理論が実践からかけはなれ、哲学か政治からかけはなれるなどの、デボーリン学派のおかした観念論的誤りを指摘した。
[4] レーニンの『弁証法の問題について』から引用。
[5] 『前漢書ー董仲舒伝』に見られる。董仲舒(西紀前二世紀の人)は、漢代における孔子学派の有名な代表的人物で、漢の武帝に対して「道の大もとは天より出で、天は不変であり、道もまた不変である」と述べた。
[6] エンゲルスの『反デューリング論』(一八七七年から一八七八年にかけて発表)第一編第十二節「弁証法。量と質」から引用。
[7] レーニンの『弁証法の問題について』に見られる。
[8] エンゲルスの『反デューリング論』第一編第十二節「弁証法。量と質」から引用。
[9] レーニンの『弁証法の問題について』から引用。
[10] ブハーリン(一八八八〜一九三八年)は、もともとロシアの革命運動の中で、レーニン主義に反対した一分派のかしらであり、のちに国家反逆集団に加わったため、一九三八年、ソ連最高裁判所の判決により死刑に処せられた。毛沢東同志が、ここで批判しているのは、ブハーリンが長期にわたって固執した誤った意見である。その誤った意見とは、階級矛盾をおおいかくし、階級闘争を階級協調に変えてしまったことである。一九二八年から一九二九年にかけて、ソ連が農業集団化を全面的に実行しようとしていたとき、ブハーリンはこの誤った意見をいっそう露骨に持ちだして、富農と貧農、中農とのあいだの階級的矛盾を極力おおいかくし、富農に対する断固たる闘争に反対すると同時に、労働者階級は富農と同盟を結ぶことができるとか、富農は「社会主義への平和的成長」ができるとかいったでたらめな考え方をした。
[11] レーニンの『弁証法の問題について』から引用。
[12] レーニンの論文『共産主義』(一九二〇年六月十二日著)に見られる。
[13] 『孫子---謀攻編』に見られる。
[14] 魏徴(西紀五八〇〜六四三年)は唐代初期の政治家であり歴史家であった。本文に引用されている言葉は『資治通鑑』巻一九二に見られる。
[15] 『水滸伝』は、北宋末期の農民戦争を描いた小説で、宋江はその小説における農民武装組織の主要な指導者である。祝家荘はその農民武装組織の根拠地梁山泊の付近にあり、この荘の支配者祝朝奉は大極悪地主であった。
[16] 木馬の計は、ギリシア神話にある有名な物語である。伝説によれば、古代ギリシア人がトロイ城を攻めたが、長いあいだ落とせなかった。のちに、彼らは撤退すると見せかけて、城外の営舎に大きな木馬をのこし、その腹のなかにつわものたちをひそませた。トロイ人は、これが敵の計略とは知らず、木馬を戦利品として城内にもちこんだ。夜がふけると、つわものたちは木馬から出てきて、トロイ人がすっかり油断しているすきに乗じて、城外の軍隊と呼応し、たちまちトロイ城を奪いとった。
[17] レーニンの『ふたたび、労働組合について、現在の情勢について、トロツキーとブハーリンの誤りについて』(一九二一年一月著)から引用。
[18] レーニンの『なにをなすべきか?』(一九〇一年秋〜一九〇二年二月著)第一章第四節に見られる。
[19] へーゲルの『論理学』第一巻第一編「規定性(質)」に対するレーニンの短評から引用。レーニンの『へーゲルの著書「論理学」の摘要』に見られる。
[20] 『山海経』は、中国の秦、漢以前の著作である。夸父とは『山海経─海外北経』にでてくる神人である。それによれば「夸父が太陽と駆けくらべをした。太陽がしずみ、のどがかわくあまり、黄河と渭水の水を飲んだ。黄河と渭水では足りなかったので、北の大沢に行って飲もうとしたが、ゆきつかないうちに、途中でのどかかわききって死んでしまった。その杖のすてられたところが森林とれなった」とある。
[21] 〔要約〕中国古代の伝説にある弓の名人の英雄で、尭の時代に、十個の太陽が一時に出て、作物をこがし草を枯らして飢饉が起きたので、そのうち九個を射て民を救った。
[22] 『西遊記』は一六世紀に書かれた中国の神話小説である。孫悟空はその中にでてくる主人公の神猿で、七十二変化の法術を身につけ、さまざまな鳥、けもの、虫、魚、草、木、器物、人間などに、思うままに化けることができた。
[23] 『聊斎志異』は、清朝の人蒲松齢(一六四〇-一七一五年)が書いた短編小説集で、大部分が、神や仙人や狐や幽霊の物語である。
[24] マルクスの経済学手稿(一八五七年から一八五八年にかけての著)の「序説」から引用。
[25] マルクスの経済学手稿の「序説」から引用。
[26] パリ・コンミューンは、世界史上最初のプロレタリアートの権力組織である。一八七一年一三月十八日、フランスのプロレタリアートはパリで蜂起し、権力を奪いとった。三月二十八日には、選挙によって生まれた、プロレタリアートの指導するパリ・コミューンが成立した。パリ・コミューンはプロレタリア革命がブルジョアジーの国家機関を粉砕した最初の試みであり、プロレタリアートの権力が、打ち砕かれたブルジョアジーの権力にとってかわった偉大な創意であった。当時、フランスのプロレタリアートはまだ未熟であったので、広範な農民同盟軍との団結に注意しなかったし、反革命に対しては寛大にすぎ、いちはやく断固たる軍事進攻をおこなわなかった。このため、反革命勢力は四散した兵力をかき集めるゆとりを持ち、勢いを盛り返して、蜂起した大衆にきちがいじみた大虐殺を加えることができた。五月二十八日、パリ・コンミューンは失敗をつげた。
[27] レーニンの『弁証法の問題について』から引用。
[28] この言葉は、漢代の歴史家班固(西紀二二〜九二年)があらわした『前漢書』巻三十「芸文志」に見られ、原文は次のとおりである。「諸子十家のうち、見るべきものは九家のみである。これらはみな、王道が衰え、諸侯が武力であらそい、時の君主たちがそれぞれ異なる好みをもっていたときにおこった。こうして九家の術がむらがりおこり、思い思いの主張をもち、自分がよいと思うものをかかげ、それをもって遊説し、諸侯に取りいった。彼らの言うところは異なってはいるが、たとえてみれば水と火のように、たがいに滅しあいながらも、たがいに生じさせあい、仁は義と、敬は和と、みなたがいに反しながらも、たがいに成りたたせあった。」
[29] レーニンの『弁証法の問題について』に見られる。
[30] レーニンの『ブハーリンの著「過渡期の経済」への評論」(一九二〇年五月著)から引用。
(1)実践が真理の基準
マルクス以前の唯物論は、人間の社会的性質から離れ、人間の歴史的発展から離れて、認識の問題を考察した。したがって、社会的実践に対する認識の依存関係、すなわち生産および階級闘争に対する認識の依存関係を理解できなかった。
まず第一に、マルクス主義者は、人類の生産活動がもっとも基本的な実践活動で、その他のすべての活動を決定するものであると考える。人間の認識は、主として物質の生産活動に依存して、しだいに自然界の現象、自然界の性質、自然界の法則性、人間と自然界との関係を理解するようになる。しかも、生産活動をつうじて、人と人との一定の相互関係をも、さまざまな程度で、しだいに認識するようになる。これらの知識は、生産活動を離れては何ひとつ得られない。階級のない社会では、人類の物質生活の問題を解決するために、それぞれの人が社会の一員として、社会の他の成員と協力し、一定の生産関係を結んで、生産活動に従事する。また、さまざま階級社会では、人類の物質生活の問題を解決するために、各階級の社会の成員が、さまざまの異なった様式で一定の生産関係をむすんで、生産活動に従事する。これが人間の認識の発展する基本的な源泉である。
人間の社会的実践は、生産活動という一つの形態に限られるものではなく、そのほかにも、階級闘争、政治生活、科学・芸術活動など多くの形態がある。要するに、社会の実際生活のすべての領域には社会的人間が参加しているのである。したがって、人間の認識は、物質生活のほかに、政治生活、文化生活(物質生活と密接につながっている)からも、人と人とのいろいろな関係をさまざまな程度で知るようになる。そのうちでも、とくにさまざまな形態の階級闘争は、人間の認識の発展に深い影響をあたえる。階級社会では、だれでも一定の階級的地位において生活しており、どんな思想でも階級の烙印の押されていないものはない。
マルクス主義者は、人類社会の生産活動は、低い段階から高い段階へと一歩一歩発展してゆく、したがって、人間の認識もまた、自然界に対してであれ、杜会に対してであれ、やはり低い段階から高い段階へ、すなわち浅いところから深いところへ、一面から多面へと一歩一歩発展してゆくものと考える。歴史上長いあいだ、人びとは社会の歴史について、ただ一面的な理解しかできなかった。それは、一方では搾取階級の偏見がつねに社会の歴史をゆがめていたことと、他方では、生産規模が小さかったために、人びとの視野が限られていたことによる。巨大な生産力——大工業にともなって、近代プロレタリアートが出現したときになってはじめて、人びとは、社会の歴史的発展に対して全面的歴史的に理解することができるようになり、社会についての認識を科学に変えた。これがマルクス主義の科学である。
マルクス主義者は、人びとの社会的実践だけが、外界に対する人びとの認識の真理性をはかる基準であると考える。実際の状況は次のようである。社会的実践の過程において(物質生産の過程、階級闘争の過程、科学実験の過程において)、人びとが頭のなかで予想していた結果に到達した場合にだけ、その認識は実証される。人びとが仕事に成功しようと思うなら、つまり予想した結果を得ようとするなら、自分の思想を客観的外界の法則性に合致させなければならない。合致させなければ、実践において失敗するにちがいない。失敗したあとで、失敗から教訓をくみとり、自分の思想を外界の法則性に合致するように改めると、失敗を成功に変えることができる。「失敗は成功のもと」とか、「一度つまずけば、それだけ利口になる」とか言われるのは、この道理を言っているのである。弁証法的唯物論の認識論は、実践を第一の地位に引きあげ、人間の認識は実践からいささかでもはなれることができないと考えて、実践の重要性を否定し、認識を実践から切り離すすべての誤った理論をしりぞける。
レーニンは次のように言っている。「実践は(理論的)認識よりも高い。なぜなら、実践は単に普遍性という長所をもつだけでなく、直接的な現実性という長所をももっているからである。」[1] マルクス主義の哲学、つまり弁証法的唯物論にはもっとも顕著な時徴が二つある。一つはその階級性で、弁証法的唯物論はプロレタリアートに奉仕するものであることを公然と言明していること、もう一つはその実践性で、実践に対する理論の依存関係、すなわち理論の基礎は実践であり、理論はまた転じて実践に奉仕するものであることを強調していることである。認識あるいは理論が真理であるかどうかの判定は、主観的にどう感じるかによってきまるのではなく、客観的に社会的実践の結果がどうであるかによってきまるのである。真理の基準となりうるものは、社会的実践だけである。実践の観点は、弁証法的唯物論の認識論の第一の、そして基本的な観点である[2]。
(2)現象から本質への認識の発展
だが、人間の認識は、いったいどのようにして実践から生まれ、また実践に奉仕するのか。これは認識の発展過程を見れば分かることである。
もともと人間は、実践過程において、はじめのうちは、過程のなかのそれぞれの事物の現象の面だけを見、それぞれの事物の一面だけを見、それぞれの事物のあいだの外部的つながりだけを見るにすぎない。たとえば、よその人たちが視察のために延安にやってきたとする。最初の一両日は、延安の地形、街路、家屋などをながめたり、多くの人に会ったり、宴会や交歓会や大衆集会に出席したり、いろいろな話を聞いたり、さまざまな文献を読んだりする。これらは事物の現象であり、事物のそれぞれの一面であり、また、これらの事物の外部的なつながりである。これを認識の感性的段階、すなわち感覚と印象の段階という。つまり延安のこれらの個々の事物が、視察団の諸氏の感覚器官に作用して、彼らの感覚を引きおこし、彼らの頭脳に多くの印象と、それらの印象のあいだの大まかな外部的なつながりを生じさせたのであって、これが認識の第一の段階である。この段階では、人びとは、まだ深い概念をつくりあげることも、論理にあった(すなわちロジカルな)結論を下すこともできない。
社会的実践の継続は、実践のなかで感覚と印象を引きおこしたことを人びとに何回となくくりかえさせる。すると、人びとの頭脳のなかで、認識過程における質的激変(すなわち飛躍)がおこり、概念が生れる。概念というものは、もはや事物の現象でもなく、事物のそれぞれの一面でもなく、それらの外部的なつながりでもなくて、事物の本質、事物の全体、事物の内部的なつながりをとらえたものである。概念と感覚とは、単に量的にちがっているぱかりでなく、質的にもちがっている。このような順序を踏んで進み、判断と推理の方法を使っていけば、論理にあった結論を生みだすことができる。『三国演義』に「ちょっと眉根をよせれば、名案がうかぶ」と言われているのも、またわれわれが日常「ちょっと考えさせてくれ」といったりするのも、つまりは、人間が頭脳のなかで、概念をつかって判断や推理をする作業をいっているのである。これが認識の第二の段階である。
よそからきた視察団の諸氏が、いろいろの材料を集めて、さらに「ちょっと考え」ていくと、「共産党の抗日民族統一戦線政策は徹底しており、誠意があり、ほんものである」という判断を下すことができる。こうした判断を下したのちに、もし彼らの団結救国もほんものであるならば、彼らは一歩を進めて「抗日民族統一戦線は成功する」という結論を下すことができるようになる。この概念、判断および推理の段階は、ある事物に対する人びとの認識過程全体のなかでは、より重要な段階で、つまり理性的認識の段階である。
認識の真の任務は、感覚をつうじて思考に逹っすること、一歩一歩客観的事物の内部矛盾、その法則性、一つの過程と他の過程とのあいだの内部的つながりを理解するに至ること、つまり論理的認識に逹っすることにある。くりかえして言えば、論理的認識が感性的認識と異なるのは、感性的認識が事物の一面的なもの、現象的なもの、外部的なつながりのものに属するのに対して、論理的認識は、大きく一歩を進めて、事物の全体的なもの、本質的なもの、内部的なつながりのものにまで逹っし、周囲の世界の内在的矛盾をあばきだすところまでいき、したがって、周囲の世界の発展を、周囲の世界の全体において、そのすべての側面の内部的なつながりにおいて、把握することができるからである。
実践にもとづいて、浅いところから深いところへ進むという認識の発展過程についての弁証法的唯物論の理論を、マルクス主義以前にはこのように解決したものが一人もなかった。マルクス主義の唯物論が、はじめてこの問題を正しく解決し、認識の深化する運動を唯物論的に、しかも弁証法的に指摘し、社会的な人間が彼らの生産と階級闘争の複雑な、つねにくりかえす実践のなかで、感性的認識から論理的認識へと推移していく運動を指摘した。レーニンは言っている。「物質という抽象、自然法則という抽象、価値という抽象など、一言でいえば、すべての科学的な(正しい、まじめな、でたらめでない)抽象は、自然をより深く、より正確に、より完全に反映する。」[3] マルクス・レーニン主義は次のように認める。認識過程における二つの段階の特質は、低い段階では認識が感性的なものとしてあらわれ、高い段階では認識が論理的なものとしてあらわれるが、いずれの段階も統一的な認識過程のなかでの段階である。感性と理性という二つのものは、性質は異なっているが、相互に切り離されるものではなく、実践の基礎の上で統一されているのである。
われわれの実践は次のことを証明している。感覚されたものでも、それがすぐには理解できないこと、理解したものだけがより深く感覚されるということである。感覚は現象の問題を解決するだけであって、本質の問題を解決するのは理論である。これらの問題の解決においては、少しでも実践から離れることはできない。だれでも、事物を認識しようとすれば、その事物と接触すること、つまりその事物の環境のなかで生活すること(実践すること)よりほかには、解決の方法がない。封建社会のなかにいて、資本主義社会の法則を前もって認識することはできない。なぜなら、資本主義はまだあらわれていず、まだその実践がないからである。マルクス主義は資本主義社会の産物でしかありえない。マルクスが資本主義の自由競争時代に前もって帝国主義時代のいくつかの特殊な法則を具体的に認識することができなかったのは、帝国主義という資本主義の最後の段階がまだやってこず、そのような実践がまだなかったからであって、この任務を担い得たものは、ほかならぬ、レーニンとスターリンである。マルクス、エンゲルス、レーニン、スクーリンがその理論をつくりあげることのできたのは、彼らが天才であったという条件のほかに、主としてみずから当時の階級闘争と科学実験という実践に参加したからであり、後者の条件がなければ、どんな天才でも成功できるものではない。「秀才は家の中にいても、天下のことは何でも知っている」というこの言葉は、技術の発達していなかった昔では、たんなる空言にすぎなかった。技術の発達した現代では、この言葉を実現することもできるが、真に身をもって知っている者は世の中で実践している人たちであって、こうした人がその実践のなかで「知」を得、それが文字と技術による伝達をつうじて「秀才」に伝わり、そこで秀才が間接に「天下のことを知る」ことができるのである。
(3)直接的経験と間接的経験
ある事物、もしくはあるいくつかの事物を直接に認識しようとするには、その事物の現象に触れることができるように、現実を変革し、ある事物を変革する実践的闘争にみずから参加する以外になく、また、その事物の本質をあばきだし、それらを理解することができるように、現実を変革する実践的闘争にみずから参加する以外にない。これはどんな人でも実際に歩んでいる認識の道すじであって、ただ一部の人が故意にそれをゆがめて反対のことを言っているにすぎない。世の中でいちばんこっけいなのは、「もの知り屋」たちが、聞きかじりの生半可な知識をもって、「天下第一」だと自称していることであるが、これこそ身のほどを知らないことのよいあらわれである。
知識の問題は科学の問題で、いささかの虚偽も傲慢さもあってはならない。決定的に必要なのは、まさにその反対のこと——誠実さと謙虚な態度である。知識を得たいならば、現実を変革する実践に参加しなければならない。梨の味を知りたければ、自分でそれを食べてみること、すなわち梨を変革しなければならない。原子の構造と性質を知りたければ、物理学や化学の実験によって、原子の状態を変革しなければならない。革命の理論と方法を知りたければ、革命に参加しなければならない。すべての真の知識は直接的経験をその源としている。
しかし、人間は何もかも直接に経験できるものではない。事実、多くの知識は間接に経験されたもので、昔や外国のことについてのすべての知識がそれである。それらの知識は、昔の人びとや外国の人びとにとっては直接に経験したもので、もし昔の人や外国の人が直接に経験した際、それがレーニンの指摘した条件、つまり「科学的な抽象」に合致しており、客観的な事物を科学的に反映していたならば、それらの知識は信頼できるものであるが、そうでないものは信頼できないものである。だから、一人の人間の知識は、直接に経験したものと、間接に経験したものとの二つの部分以外にはない。しかも、自分にとっては間接に経験したものが、他の人にとっては直接に経験したものである。したがって、知識全体について言うと、どんな知識でも直接的経験から切り離せるものはない。
いかなる知識の源泉も、客観的な外界に対する人間の肉体的感覚器官の感覚にある。この感覚を否定し、直接的経験を否定し、現実を変革する実践にみずから参加することを否定する者は、唯物論者ではない。「もの知り屋」がこっけいなわけは、ここにある。中国には、「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」ということわざがある。この言葉は、人びとの実践にとっても真理であるし、認識論にとっても真理である。実践を離れた認識というものはありえない。
(4)認識運動の具体例
現実を変革する実践にもとづいて生れた弁証法的唯物論の認識運動——認識の次第に深化する運動を理解するために、さらにいくつかの具体的な例をあげよう。
資本主義社会に対するプロレタリアートの認識は、その実践の初期——機械の破壊や自然発生的闘争の時期には、まだ感性的認識の段階にとどまっていて、資本主義のそれぞれの現象の一面、およびその外部的なつながりを認識したにすぎなかった。当時、彼らは、まだいわゆる「即自的階級」であった。しかし、彼らの実践の第二の時期——意識的、組織的な経済闘争および政治闘争の時期になると、実践によって、また長期にわたる闘争の経験、これらのさまざまな経験をマルクスとエンゲルスが科学的な方法で総括し、マルクス主義の理論をつくりだして、プロレタリアートを教育したことによって、プロレタリアートは資本主義社会の本質を理解し、社会階級間の搾取関係を理解し、プロレタリアートの歴史的任務を理解するようになった。この時、彼らは「対自的階級」に変わったのである。
帝国主義に対する中国人民の認識もまたこのとおりである。第一段階は、表面的な感性的な認識の段階であり、それは太平天国運動や義和団運動などの漠然とした排外主義闘争にあらわれている。第二段階で、はじめて理性的な認識の段階に進み、帝国主義の内部と外部のさまぎまな矛盾を見ぬくとともに、帝国主義が中国の買弁階級および封建階級と結んで、中国の人民大衆を抑圧し搾取している本質を見ぬいたのであって、このような認識は、一九一九年の五・四運動[4] 前後になってやっと生れはじめたのである。
われわれはさらに戦争について見てみよう。戦争の指導者たちが、もし戦争に経験のない人びとであるならば、ある具体的な戦争(たとえば、われわれの過去十年にわたる土地革命戦争)の奥深い指導法則について、はじめの段階では理解していない。はじめの段階では、彼らは身をもって多くの戦いの経験をつむだけで、しかも何度となく負けいくさをやる。しかし、これらの経験(勝利の経験、とくに敗北の経験)によって、戦争全体をつらぬいている内部的なもの、すなわちその具体的な戦争の法則性が理解でき、戦略と戦術が分かるようになり、したがって確信をもって戦争を指導できるようになる。この時に、もし経験のない者に替えて戦争を指導させることになると、その正しい法則を会得するまでには、また何回かの負けいくさをやらなければ(経験をつまなければ)ならない。
われわれは、一部の同志が活動の任務を引きうけるのにしりごみするとき、自信がないという言葉を口にするのをよく聞く。どうして自信がないのか。それは、彼がその活動の内容と環境について法則的な理解をしていないからであって、つまり今までにそういう活動に接したことがないか、あるいは接することが少なかったので、そういう活動の法則性については知りようもなかったからである。活動の状況と環境をくわしく分析してやると、彼は前よりわりあい自信がついたように感じて、進んでその活動をやろうというようになる。もしその人がその活動にある期間たずさわって、活動の経験をつんだなら、そしてまた、彼が問題を主観的、一面的、表面的に見るのでなく、状況について謙虚に探究する人であるなら、彼はその活動をどのように進めるべきかについての結論を自分で引きだすことができ、活動に対する勇気も大いに高まるであろう。問題を主観的、一面的、表面的に見る人に限って、どこへいっても周囲の状況をかえりみず、事がらの全体(事がらの歴史と現状の全体)を見ようとせず、事がらの本質(事がらの性質およびこの事がらとその他の事がらとの内部的なつながり)には触れようともしないで、ひとりよがりに命令を下すのであって、こういう人間がつまづかないはずはない。
(5)感性的認識から理性的認識へ
以上のことから見て、認識の過程は、第一歩が外界の事がらに触れはじめることで、これが感覚の段階である。第二歩が感覚された材料を総合して、それを整理し改造することで、これが概念、判断および推埋の段階である。感覚された材料にもとづいて正しい概念と論理をつくりだすには、その材科が十分豊富で(断片的な不完全なものでなく)、実際に合って(錯覚ではなくて)いなければならない。
ここでとくに指摘しておかなければならない重要な点が二つある。第一の点は、前にものべているが、ここでくりかえして言えば、つまり理性的認識は、感性的認識に依存するという問題である。もし、理性的認識が感性的認識からでなくても得られると考える人があれば、それは観念論者である。哲学史上には「合理論」と言われる学派があって、理性の実在性だけを認めて、経験の実在性を認めず、理性だけが信頼できて、感覚的な経験は信頼できないと考えているが、この一派の誤りは、事実を転倒しているところにある。理性的なものが信頼できるのは、まさにそれが感性に由来するからで、そうでなければ、理性的なものは源のない流れ、根のない木となり、主観的に生みだされた、信頼できないものにすぎなくなる。認識過程の順序からいえば、感覚的経験が最初のもので、われわれが認識過程における社会的実践の意義を強調するのは、人間の認識を発生させはじめ、客観的外界から感覚的経験を得させはじめることのできるものは、社会的実践よりほかにないからである。目をとじ耳をふさいで、客観的外界とまったく絶縁している人には、認識などありえない。認識は経験にはじまる——これが認識論の唯物論である。
第二の点は、認識は深化させていくべきであり、認識の感性的段階は理性的段階に発展させていくべきである——これが認識論の弁証法である[5] 。 認識は低い感性的段階にとどまっていてもよいと考え、感性的認識だけが信頼できるもので、理性的認識は信頼できないものだと考える人があれば、それは歴史上の「経験論」の誤りをくりかえしたことになる。この理論の誤りは、感覚的材料は、客観的外界の一部の真実性を反映したものにはちがいないが(わたしはここでは、経験をいわゆる内省的体験としてしか考えない観念論的経験論については述べない)、それらは、一面的な表面的なものにすぎず、このような反映は不完全で、事物の本質を反映したものではない、ということを知らない点にある。完全に事物の全体を反映し、事物の本質を反映し、事物の内部的法則性を反映するためには、感覚された豊富な材料に、思考のはたらきをつうじて、滓をすてて粋をとり、偽をすてて真を残し、このことからあのことへ、表面から内面へ進む改造と製作の作業を加えて、概念および理論の体系をつくりあげなければならないし、感性的認識から理性的認識へ躍進しなければならない。改造されたこのような認識は、より空虚な、より信頼できない認識になるのではなく、反対に、もしそれが認識過程で、実践という基礎にもとづいて科学的に改造されたものでありさえすれば、まさにレーニンが言っているように、より深く、より正しく、より完全に客観的事物を反映したものである。俗流の事務主義者はそうではない。彼らは経験を尊重して理論を軽視するので、客観的過程の全体を見わたすことができず、明確な方針をもたず、遠大な見通しがなく、ちょっとした成功やわずかばかりの見識で得意になる。このような人間が革命を指導したなら、革命は壁に打ちあたるところまで引きずられていくにちがいない。
理性的認識は感性的認識に依存し、感性的認識は理性的認識にまで発展きせるべきである。これが弁証法的唯物論の認識論である。哲学における「合理論」と「経験論」は、いずれも認識の歴史的性質や弁証法的性質を理解することができず、それぞれ一面の真理をもってはいるが(これは唯物的な理性論と経験論について言うのであって、観念的な理性論と経験論について言うのではない)、認識論の全体から言えば、どちらも誤りである。感性から理性に進む弁証法的唯物論の認識運動は、小きな認識過程(たとえばある事物、あるいはある活動についての認識)においてもそのとおりであり、大きな認識過程(たとえばある社会、あるいはある革命についての認識)においてもそのとおりである。
(6)認識は実践に戻る
しかし、認識運動はここで終わるのではない。弁証法的唯物論の認識運動を、もし理性的認識のところでとどめるならば、まだ問題の半分に触れたにすぎない。しかも、マルクス主義の哲学から言えば、それは非常に重要だとはいえない半分に触れたにすぎない。マルクス主義の哲学が非常に重要だと考えている問題は、客観世界の法則性が分かることによって、世界を説明できるという点にあるのではなく、この客観的法則性に対する認識を使って、能動的に世界を改造する点にある。マルクス主義から見れば、理論は重要であり、その重要性は「革命の理論がなければ、革命の運動もありえない」[6] というレーニンの言葉に十分あらわされている。しかし、マルクス主義が理論を重視するのは、まさにそれが行動を指導できることからであり、またその点だけからである。たとえ、正しい理論があっても、ただそれについておしゃべりするだけで、たな上げしてしまって、実行しないならば、その理論がどんなによくても、なんら意義はない。認識は実践にはじまり、実践をつうじて理論的認識に逹っすると、ふたたび実践にもどらなければならない。認識の能動的作用は、たんに感性的認識から理性的認識への能動的飛躍にあらわれるだけではなく、もっと重要なことは、理性的認識から革命の実践へという飛躍にもあらわれなければならないことである。世界の法則性についての認識をつかんだならば、それをふたたび世界を改造する実践に持ち帰る、つまり、ふたたび生産の実践、革命的な階級闘争と民族闘争の実践、および科学実験の実践に使わなければならない。これが理論を検証し、理論を発展させる過程であり、全認識過程の継続である。
理論的なものが客観的真理性に合致するかどうかの問題は、前にのべた感性から理性への認識運動のなかでは、まだ完全には解決されていないし、また完全に解決できるものでもない。この問題を完全に解決するには、理性的認識をふたたび社会的実践のなかに持ち帰り、理論を実践に応用して、それが予想した目的を達成できるかどうかを見るほかはない。多くの自然科学の理論が真理だと言われるのは、自然科学者たちがそれらの学説をつくりだした時だけでなく、さらにその後の科学的実践によってそれが実証された時である。マルクス・レーニン主義が真理だと言われるのも、やはりマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンなどが、これらの学説を科学的につくりあげた時だけでなく、さらにその後の革命的な階級闘争と民族闘争の実践によってそれが実証されたときである。弁証法的唯物論が普遍的真理であるのは、いかなる人を通じての実践も、その範囲からでることができないからである。人類の認識の歴史は、次のことをわれわれに教えている。多くの理論は真理性において不完全なもので、その不完全さは、実践の検証をつうじて正されること、多くの理論は誤っており、その誤りは実践の検証をつうじて正されることである。実践は真理の基準であるとか、「生活、実践の観点は認識論の第一の、そして基本的な観点でなければならない」[7] とか言われる理由はここにある。
スターリンが次のように言っているのは正しい。「理論は、革命の実践と結びつかなければ対象のない理論となる。同様に実践は、革命の理論を指針としなければ、盲目的な実践となる。」[8] ここまでくると、認識運動は完成したと言えるであろうか。われわれの答えは、完成したが、まだ完成していないというものである。社会の人びとが、ある発展段階のなかの、ある客観的過程を変革する実践(それが、ある自然界の過程を変革する実践であろうと、あるいはある社会の過程を変革する実践であろうと)に身を投じ、客観的過程の反映と主観的能動性の作用によって、その認識を感性的なものから理性的なものへと推移させ、その客観的過程の法則性にほぼ合った思想、理論、計画あるいは成案がつくられたならば、さらに、この思想、理論、計画、あるいは成案をその同じ客観的過程の実践に応用してみて、もし予想した目的を実現することができたならば、つまりあらかじめ持っていた思想・理論・計画・成案を、その同じ過程の実践のなかで事実にするか、あるいはだいたいにおいて事実にしたならぱ、この具体的な過程についての認識運動は完成したことになる。たとえば、自然を変革する過程では、ある工事計画が実現され、ある科学上の仮説が実証され、ある器物がつくりあげられ、ある農作物が採りいれられ、また社会を変革する過程では、あるストライキが勝利し、ある戦争が勝利し、ある教育計画が実現したことは、いずれも予想した目的を実現したものといえる。
しかし、一般的に言って、自然を変革する実践においても、社会を変革する実践においても、人びとがあらかじめ持っていた思想、理論、計画、成案が、何らの変更もなしに実現されることはきわめて少ない。これは、現実の変革にたずさわる人びとが、たえず多くの制約を受けていることによるものであって、単に科学的条件および技術的条件の制約をたえず受けているだけでなく、客観的過程の発展とそのあらわれる度合いの制約(客観的過程の側面および本質がまだ十分に露呈していない)をも受けていることによるのである。このような状況のもとでは、前もって予想できなかった事情を実践の中で見いだしたことによって、思想、理論、計画、成案が部分的に改められることがよくあるし、全面的に改められることもある。つまり、あらかじめ持っていた思想、理論、計画、成案が部分的にか、あるいは全面的に実際と一致しなかったり、部分的にかあるいは全面的に誤っていたりすることは、どちらもあることである。多くの場合、何回も失敗をくりかえしてはじめて誤った認識を改めることができ、客観的過程の法則性に合致させることができ、したがって主観的なものを客観的なものに変えることができる。つまり、実践のなかで予想した結果を得ることができるのである。しかし、いずれにしても、ここまでくると、ある発展段階におけるある客観的過程についての人びとの認識運動は、完成したといえる。
(7)過程の推移への適応
しかし、過程の推移という点からいえば、人びとの認識運動は完成していないのである。どのような過程も、それが自然界のものであろうと、社会的のものであろうと、すべて内部の矛盾と闘争によ,て、先へ先へと推移し発展するものであって、人びとの認識運動も、またそれにつれて推移し発展すべきである。社会運動について言えば、革命の真の指導者は、自分の思想、理論、計画、成案に誤りがあった場合には、前に述べたように、それを改めることに上手でなければならないばかりでなく、ある客観的過程が一つの発展段階から他の発展段階に推移、転化した時には、自分をはじめ、革命に参加するすべての人びとを主観的認識の上でも、それにつれて推移、転化させることに上手でなければならない。すなわち新しい状況の変化に適応するように、新しい革命の任務と新しい活動の成案を提起しなければならない。革命の時期の情勢の変化はきわめて急速である。もし革命党員の認識がそれに応じて急速に変化することができなければ、革命を勝利に導くことはでできない。
しかし、思想が実際より立ちおくれることはよくある。これは人間の認識が多くの社会的条件によって制約されているからである。われわれは革命陣営内の頑迷分子に反対する。かれらの思想は変化した客観的状況にしたがって前進することができず、歴史の上では右翼日和見主義としてあらわれる。これらの人びとには矛盾の闘争がすでに客観的過程を前へ推し進めたことが見ぬけず、彼らの認識は、依然として古い段階に立ちどまっているのである。すべての頑迷派の思想はこのような特徴を持っている。彼らの思想は社会的実践から遊離しており、彼らは社会という車の前に立ってその導き手になることができず、ただ車のうしろについて、車が速く進みすぎると愚痴をこぼし、車をうしろに引っぱって、逆もどりさせようとすることしか知らない。
われわれはまた極左空論主義にも反対する。彼らの思想は客観的過程の一定の発展段階を飛びこえており、彼らのうちのあるものは幻想を真理だとみなし、またあるものは将来にしか実現の可能性のない理想を、現在の時期にむりやりに実現しようとし、当面の大多数の人びとの実践から遊離し、当面の現実性から遊離して、行動のうえでは冒険主義としてあらわれる。観念論と機械的唯物論、日和見主義と冒険主義は、いずれも主観と客観との分裂、認識と実践との分離を特徴としている。科学的な社会的実践を特徴とするマルクス・レーニン主義の認識論は、これらの誤った思想に断固として反対しないではおれない。マルクス主義者は、宇宙の絶対的な、総体的な発展過程のなかで、それぞれの具体的な過程の発展はすべて相対的なものであるから、絶対的真理の大きな流れのなかでは、それぞれ一定の発展段階にある具体的な過程についての人びとの認識には相対的真理性しかないものと考える。無数の相対的真理の総和が絶対的真理である[9]。
客観的過程の発展は矛盾と闘争にみちた発展であり、人間の認識運動の発展もまた矛盾と闘争にみちた発展である。客観的世界のあらゆる弁証法的な運動は、遅かれ早かれみな人聞の認識に反映されうるものである。社会的実践における発生、発展、消滅の過程は無限につづき、人間の認識の発生、発展、消滅の過程もまた無限につづく。一定の思想、理論、計画、成案にもとづいて、客観的現実の変単にとりくむ実践が、一回一回と前進すれば、客観的現実についての人びとの認識もそれにともなって、一回一回と深化してゆく。客観的現実世界の変化する運動は、永遠に完結することがなく、実践のなかでの真理に対する人間の認識も永遠に完結することがない。マルクス・レーニン主義は、真埋に終点をおくものではなく、実践のなかでたえず真理を認識する道を切りひらいていくのである。
(8)結論
われわれの結論は、主観と客観、理論と実践、知と行との具体的な歴史的な統一であり、具体的な歴史から遊離した、あらゆる「左」の、あるいは右の誤った思想に反対することである。社会が今のような時代にまで発展してくると、世界を正しく認識し、改造する責務は、すでに歴史的にプレタリアートとその政党の肩にかかっている。このような、科学的認識にもとづいて定められた世界改造の実践過程は、世界においても、中国においても、すでに一つの歴史的な時期——有史以来かつてなかった重大な時期にきている。それは、世界と中国の暗黒面を全面的にくつがえして、これまでになかったような光明の世界に変えることである。
プロレタリアートと革命的人民の世界改造の闘争には、次のような任務の実現がふくまれている。すなわち、客観的世界を改造し、また自己の主観的世界をも改造する——自己の認識能力を改造し、主観的世界と客観的世界との関係を改造することである。地球上の一部では、すでにこのような改造がおこなわれている。それがソ連でめる。ソ連の人民は、今もなおこのような改造の過程を推し進めている。中国人民も世界の人民も、すべてこのような改造の過程をいま経過しているか、あるいは将来経過するであろう。改造される客観的世界というもののなかには、改造に反対するあらゆる人びとがふくまれており、彼らが改遣きれるには、強制の段階を経なければならず、そののちにはじめて自覚的段階に進むことができるのである。全人類がすべて自覚的に自己を改造し、世界を改造する時がくれば、それは世界的な共産主義の時代である。
実践をつうじて真理を発見し、さらに実践をつうじて真理を実証し、真理を発展させる。感性的認識から能動的に理性的認識に発展し、さらに理性的認識によって能動的に革命的実践を指導し、主観的世界と客観的世界を改造する。実践、認識、再実践、再認識というこの形式が循環往復して無限にくりかえされ、その一循環ごとに、実践と認識の内容はより一段と高い段階に進んでいく。これが弁証法的唯物論の認識論の全体であり、これが弁証法的唯物論の知と行の統一観である。
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《原注》
わが党内では、かつて、一部の教条主義的な同志が、長いあいだ申国革命の経験の受け入れを拒否し、「マルクス主義は教条ではなく行動への指針である」という真理を否定して、ただマルクス主義文献のなかの片言隻句をうのみにし、それで人びとをおどかしていた。また、一部の経験主義的な同志は、長いあいだ自分の断片的な経験にしがみついて、革命の実践にとっての理論の重要性を理解せず、革命の全局面が見えなかったので、活動には骨を折ったが、盲目的であった。この二種類の同志たちの誤った思想、とくに教条主義の思想は、一九三一年から一九三四年にかけて、中国革命にきわめて大きな損失をあたえたのに、教条主義者は、マルクス主義の衣をまとって、多くの同志たちをまどわせていた。毛沢東同志の『実践論』は、マルクス主義的認識論の観点から、党内の教条主義と経験主義、特に教条主義の主観主義の誤りを暴露するために書いたものである。その重点が実践を軽視する教条主義という主観主義の暴露にあったので、『実践論』という題名がつけられた。毛沢東同志は、かつてこの論文の観点について、延安の抗日軍事政治大学で講演したことがある。
[1] へーゲルの著書『論理学」第三巻第三編の「理念」に対するレーニンの短評から引用。レーニンの『へーゲルの著書「論理学」の摘要』(一九一四年九月から十二月にかけて書かれたもの)に見られる。
[2] マルクスの『フォイエルバッハにかんするテーゼ』(一八四五年春著)とレーニンの『唯物論と経験批判論』(一九〇八年下半期著)第二章第六節を参照。
[3] へーゲルの著書『論理学』第三巻「主観的論理学あるいは概念論」に対するレーニンの短評から引用。レーニンの『へーゲルの著書「論理学」の摘要』にみられる。
[4] 五・四運動とは、一九一九年五月四日にぼっ発した、帝国主義反対、封建主義反対の革命運動をさす。一九一九年の上半期、第一次世界大戦の戦勝国イギリス、フランス、アメリカ、日本、イタリアなどの帝国主義諸国は、パリで贓品[ぞうひん]山分け会議をひらき、日本に中国の山東省におけるドイツの諸特権を接収管理させることを決定した。五月四日、北京の学生が、まずさいしょに集会とデモ行進をおこなって、断固として反対を表明した。北洋軍閥政府は、これに弾圧を加え、三十人あまりの学生を逮捕した。北京の学生は、ストライキでこれに抗議し、各地の学生もさかんにこれに呼応した。六月三日から、北洋軍閥政府は、またも、北京でいっそう大規模な逮捕をおこない、二日間で約千人の学生を逮捕した。六月三日の事件は、全国人民のいっそう大きな憤激をまきおこした。六月五日から、上海とその他の多くの地方の労働者が、相次いでストライキをおこない、商人も、相次いで閉店ストをおこなった。それまで主として知識層が参加していたこの愛国運動は、こうして急速にプロレタリアート、小ブルジョアジーとブルジョアジーを含む全国的規模の愛国運動に発展した。愛国運動の展開につれて、「五・四」以前におこった、封建主義に反対し科学と民主主義を提唱する新文化運動も、マルクス・レーニン主義の宣伝を主流とする、壮大な規模をもつ革命的文化運動に発展した。五・四運動については、本選集第二巻の「五・四運動」と「新民主主義論」第十三節を参照。
[5] レーニンがヘーゲルの著書『論理学』第三巻第三編の「理念」に対する短評のなかで、「理解するためには、経験の上から理解し研究しはじめ、経験から一般へとのぼっていかなければならない」といっている個所を参照。レーニンの『へーゲルの著書「論理学」の摘要』に見られる。
[6] レーニンの『なにをなすべきか?』(一九〇一年の秋から一九〇二年二月にかけて書かれたもの)第一章第四節から引用。
[7] レーニンの『唯物論と経験批判論』第二章第六節に見られる。
[8]スターリンの『レーニン主義の基礎』(一九二四年四月から五月にかけて発表されたもの)第三の部分から引用。
[9] レーニンの『唯物論と経験批判論』第二章第五節を参照。