2005年7月19日火曜日

【国益論】 真の国益論議

 不覚にもどこの雑誌からなのか、またはweb上のサイトなのかメモをしていない記事である。そのために公開はしないでいたのであるが、備忘録を引越しをしたことで公開をしようと思う。記事は、鈴木善幸氏の亡くなられた年と翌年に書かれたもののようなので、2005年7月19日(鈴木氏が亡くなられてから1年後)とした。


日本のための真の国益論議を


魚本公博


 「北朝鮮のことを考えれば、米国のイラク戦争を支持することは日本の国益だ」。ブッシュによるイラク戦争を前にこれを支持するかどうかが問われたとき、日本政府がこう言ったことを契機に「国益」という言葉がよく使われるようになった。

 彼ら政府筋のいう「国益」とは、「米国を支持し、それについて行くのが日本の国益」「米一極支配の下で生きていくのが日本の国益」というものであり、それはアメリカ帝国の属国として生きていくことを説く「属国国益論」「従属国益論」とでも呼ぶべきものである。

 そんな生き方が本当に日本の国益になるのだろうか。しかし、このことを真剣に考え論じる動きは見えない。そればかりか、「従属国益論」の是非を論じることのないまま、「国益」を言うのはナショナリズムだとして、ナショナリズム一般への批判が行われてきた。

 戦前、「国益」の名の下で他国への侵略と戦争が行われ、「国益」のために、国民が「滅私奉公」することが強要された。「国益」は「ナショナリズム」と結びついており、当時それらは、戦争とファッショの代名詞であった。今、「国益」が言われ「ナショナリズム」が煽られているのも、イラクに出兵し参戦しているという状況と無関係ではあるまい。
 しかし、今日の戦争とファッショは、米国がその一極支配を維持強化するための戦争に日本を動員し、日本政府がそれを日本の利益であるとして、それに従う中で進められている。そうであるなら、批判すべきはナショナリズム一般ではなく、対米従属の「国益論」であり、それと結びついた「対米従属ナショナリズム」とでも言うべきエセ「ナショナリズム」であろう。

 元来、国益という言葉は、米国に従属・追随するような政策に反対して、「日本の国益を考えよう」というように使われてきたし、そのように使われるべきものである。ナショナリズムもまたしかりである。

 日本が米国への従属を強め、その軍事戦略の手先のようになって戦争とファッショの道を突き進むことを「国益」とする「従属国益論」がまことしやかに説かれている現状で、何が本当に日本の利益になるのか、真の国益はどういうものでなければならないかを考え論議することが切実に問われている。


一、なぜ今、「国益」が言われるようになったのか


 米軍の圧倒的武力によってイラクのフセイン政権が崩壊し、ブッシュが「戦闘終結宣言」を出した頃、中央公論(二〇〇三年七月号)は、「あなたにとって『国益』とは何か」という特集をやったが、この特集文字の横には次のような文言が付けられていた。「日本では、『国益』という言葉がタブーとされ意識されない時代が長く続いた・・・」と。  タブーとされた「国益」が今使われるようになったのはなぜか、その「国益」とはどういうものなのか。

「国益」がタブーだったとは?
 「国益」という言葉がタブーだったというのは、戦後日本のあり方に関連していると思う。戦後日本は、米軍の占領によって始まった。当時、極少数の例外を除き日本の支配層は誰もが草木もなびくように米国にすりよっていった。そして米軍の占領が終り、日本は「独立」した一九五一年の「サンフランシスコ講和条約」締結と同じ日に、日米安保条約を結んだ。

 日米安保条約によって、米軍がそのまま駐留するということは、法的には占領状態を解除されたとはいえ、実質、軍事支配が継続し、米軍武力を背景とした米国による日本の統制、操縦が行われてきたことを意味する。
 この対米従属体制の下では、日本の支配層や政府が、日本の独自性、自主性を主張して日本の国益を云々することは、言いたくても言えないことだった。

 そのことを示す例の一つが「田中角栄つぶし」であろう。一九七二年に登場した田中内閣は「自主資源外交」を掲げ、「自主的」な政策を実行していった。「自主資源外交」は、当時、第一次石油ショックが起き、米国石油メジャーにあまりに依存していることへの反省から石油供給源を多様化しようというものであった。これが米国の激怒を買った。田中首相の訪インドネシア時にジャカルタで起きた「反日暴動」もCIAが仕組んだものと言われており、「ロッキード事件」もそのためのものであった。田中派の系統を引く橋本内閣、小渕内閣のころまで、米国の政治家が日本に来て、政府要人に会うと、「あれ(ロッキード事件)は、やりすぎだった。すまなかった」と言っていたそうだ。

 今年七月、鈴木善幸元首相が亡くなったが、その死亡記事に、鈴木が八一年に訪米した際、「日米同盟に軍事的な意味は含まない」と発言したことが紹介されていた。この発言は米国を怒らせた。ロッキード事件後も派閥を拡大して「キングメーカー」となっていた田中角栄を親米派の岸信介が御殿場に呼び「アメリカは鈴木をよく思ってないよ」と伝えて退陣させるのである。そして、鈴木のあとをついだ中曽根首相が「不沈空母」発言をして、いっそう対米従属に踏み込んだことは周知の通りである。

 また、一九九〇年に日朝国交回復を目指して訪朝した金丸信に対して、米国が偵察衛星で撮影した寧辺の核施設の写真を見せて「これでもやるのか」とすごみ、その後、金丸への発砲事件が起き、最終的に佐川急便事件で、その政治生命が絶たれた例などもある。

 日本の利益、国益のため、米国の意に逆らうことをやれば、にらまれ権力の座から引きずりおろされ政治生命をなくしてしまう。日本の政治家の中では、それは常識である。

 そしてグローバリズム。
 九〇年代に入って盛んに言われるようになった米国発のグローバリズムは「地球は狭くなった、もう国とか民族という狭い枠で考えるときではない」としながら、「今や国益とか国民の利益など考えるべきときではない。これからは地球的視野に立って地球益、人類益を考えるべきだ」などと国益を否定する。

 グローバリズムの下では、国益などと言うのは、時代遅れの古めかしいものとされた。中央公論の特集で長谷川三千子埼玉大学教授が「そもそも『国益を考える』という発想それ自体が現在の日本では、おそろしいほど希薄になってしまっている」と指摘しているのも、こうした事情を物語っている。

「国益」は「従属国益論」として解禁された
 このような「国益」が今になって使われるようになったのはなぜだろうか。
 それは、ブッシュ政権が「国益」という言葉をしきりに使うようになったことと無関係ではあるまい。このことと関連して、ライス現国務長官が二〇〇〇年の大統領選挙に際して執筆した「国益に基づく国際主義を模索せよ」という文書がある。それは、「我々の国際主義は、幻想にすぎない国際社会の利益ではなく、アメリカの国益という確固たる基盤から導き出されるものでなければならない」としてクリントンの外交政策からの転換を主張している。

 こうして、ブッシュ政権が発足した二〇〇一年二月に京都議定書の批准問題で「米国の国益にあわない」として、これを拒否したのを皮切りに、その年の6月ジュネーブで開かれた生物兵器規制についての国際会議でも、米国は「国益」を持ち出して、生物兵器規制を拒否している。そして「米国の国益を守るため」だとして、アフガン戦争やイラク戦争を始めた。

 米国が言うようになったから日本も言う。グローバリズムとか市場原理という言葉もそうだが、いろいろな政治概念が米国で発信されるや日本でも使われるようになるというパターンをみれば、「国益」も米国が言うようになったから使うようになったのだと言うことができる。

 しかし、ここで考えなければならないのは、米国のいう国益と日本がいう国益は、どういう関係になっているのかということである。

 これについて、マックス・ブーツ(米外交問題評議会主任研究員)という人が朝日新聞(二〇〇三年九月三日)のインタビュー記事で次のように言っている。彼はネオコン論客の一人として「米国は帝国である」と公言しながら、「近い将来に米国の地位を脅かす国はない。多極世界をつくるという夢などを見ていないで、この一極支配の世界でいかに生きていくか建設的に考える方が米国だけではなく他国にとっても利益になる」と明言している。
 米国は帝国であり、その一極支配の下で生きていくことが各国の国益であるとの見解、それは、あたかもローマ帝国とその属国・属州の関係のように、アメリカ帝国の属国・属州として生きていけということである。
 実際、日本の「国益論」は、そういうものである。

 中央公論の特集の内容を見ても、それは明かである。「今こそ国益論議を」という題目で編集された対談(評論家の宮崎哲弥氏と同志社大学助教授の村田晃嗣氏)には、「アメリカと日本の利害が一致しているのであれば、アメリカと同じ行動をとったとしても、我が国の国益には反しないわけですよね。行動のパターンから自立とか従属とか考えるのは、賢明ではないと思います」(村田氏)などという発言が見られる。

 また、各界の人士から求めた国益に関する意見では、「日本人は、現在の世界秩序の安定が米国の力なくしては維持できないという厳然たる事実をも念頭に置く必要がある。戦後半世紀以上にわたり、米国を中心とする世界秩序の最大の受益者であり続けてきた日本にとって、この秩序が打撃を受ける事態になれば、国益上大きな損失となる」(神谷万丈防衛大学助教授)などとある。

 そして極めつけは、作曲家の三枝成彰氏の「アメリカの優秀な『家来』をめざせと」という意見である。彼は、イラク戦争での圧倒的な米国の武力を目にして「・・つまり、私たちが問われているのはアメリカの前に、他の国は果たして主権国家たりうるのかという現実である。・・・力の象徴たる軍事力が意味をなさないとしたら、主権国家たることはむつかしい。今後、我々はどのような形で自らの主権を主張していくのか。私は、経済、文化、科学に特化し、アメリカが必要とする優秀な『子分』になるしかないと思う。それが日本の国益にかなう道である。もはや対等な関係は無理だ」と言っている。

 「米一極支配の世界でいかに生きていくかを考えることが、他国にとっても利益になる」という米国の主張に従い、日本の御用論客は、「利益が一致するなら、それが日本の国益ではないか」「米一極支配秩序が打撃を受ければ日本の国益も損失を受ける」「日本が主権国家たるのは難しいのだから、米国が必要とする優秀な子分になるしかない」と言っているのである。

「従属国益論」に論拠はあるか
 では、これらの従属国益論者が米国に追随するのが国益だとする論拠はどういうものだろうか。
 「アメリカの優秀な『家来』をめざせと」と主張する三枝氏の場合、その論拠は、「先日イラクに行ってきた。そこで想像を上回るアメリカの軍事力のすさまじさを見せつけられた。・・・いまや、なまじっかな軍事力を持ったとしても、アメリカの巨大な力の前では何の意味ももたない」ということである。

 民族派論客として名のある福田和也氏も同じような見解を述べている。彼は、ネオコンの論客の一人であるロバート・ケーガンの著書「強さと弱さ」について「・・・今後の世界は、今までの協調的な世界モデルではなくて、リヴァイアサンとしてのアメリカ、おそるべき怪物としてのアメリカが、その恐怖によって世界を統治するという構造になってくることを現実として認めなさいということだ」と要約しながら、アメリカは神話上の怪物リヴァイアサンになったのだから抵抗しても無駄なのだと言っている。

 要するに彼らは、イラク戦争で見せ付けられた米国の圧倒的な軍事力をもって、米国に歯向かうことなどできない、それに従うしかないと言うのである。

 イラク戦争では「恐怖と衝撃」戦略ということが言われ、テレビでも意図的に「恐怖」が流された。「米国は怪物になったのだ」「もう米国に抵抗などできない」などというのは、まさに彼ら自身が「恐怖」に打ちのめされ、思考停止してしまっているということではないだろうか。思考が止まってしまった人の語る「従属国益論」にどれほどの論拠があると言えるのか。

 では、村田晃嗣氏が言う「アメリカと日本の利害が一致しているのであれば、アメリカと同じ行動をとったとしても、我が国の国益には反しないわけですよね。行動のパターンから自立とか従属とか考えるのは、賢明ではないと思います」というのはどうだろうか。

 確かに、個々の問題について、「これは米国と一緒にやる、これは反対する」ということは間違いではないだろう。しかし今問題になっているのは、何から何まで米国に追随するということだ。そうなれば、ここで問われなければならない「自立とか従属」は、単なる行動のパターンの問題ではなく、国際政治における、日本のあり方、立場の問題としてあるということである。結局、彼は、自主や従属を「行動のパターン」に矮小化することによって、対米従属・追随を正当化しているだけなのである。

 神谷万丈防衛大学助教授の場合はどうだろうか。彼の論理は、「米一極支配が『厳然たる事実』」だということと、「(日本は)戦後半世紀以上にわたり、米国を中心とする世界秩序の最大の受益者であり続けてきた」などと過去の「事実」をもって補完するという「論理」である。

 はたして、「米一極支配は『厳然たる事実』」と現状を追認することが「対米従属国益論」の論拠になるのだろうか。彼ら自身がよく使う言い方でいえば、この厳しい国際政治の中で、それでは、あまりに人がよいと言わねばならない。

 以上、「従属国益論」には根拠と言えるものがまるでない。それは、彼らが頭から、米国には逆らえない、米国に従うべきだと考える恐米崇米論者だからだろう。そして、考えねばならないことは、その米一極支配が将来ともに揺るがないものなのかということである。ブーツ氏が「多極化などという夢などみていないで」ということは、裏を返せば米一極支配に対する多極化の動きを米国も懸念しているということだろう。それにもかかわらず、「強大な米国には歯向かえない」「日本と米国は利害が一致する」「米一極支配は厳然たる事実」などと、恐米崇米丸出しで思考停止しているような頭では、厳しい国際環境の中、日本の国益など守ることなど到底できないのではないだろうか。


二、「従属国益論」は日本のためなのか?


 崇米、恐米の政治家や御用学者たちは、思考停止したような頭で「現実主義」という現状追認のご託宣を並べている。そうであるなら、ここで本当に「従属国益論」が日本のためになるのか、対米従属日本の現状と将来を見てみようではないか。

第二の敗戦、日本の敗北・米国の勝利
 九〇年代、日本は「失われた一〇年」を余儀なくされ、それは「第二の敗戦」と言われた。

 八〇年代に米国を脅かすまでに経済成長した日本に対し、米国では「日本異質論」が言われるようになった。それは、「日本株式会社」と言われる政財官一体となった仕組みや「日本型経営」と呼ばれる共同体原理を活かした企業運営など、日本の強さは市場原理主義から見ればきわめて異質であり、それではまともな競争はできないとして、日本は市場原理に基づく社会構造に変革されなくてはならないというものであった。

 こうして九〇年代に入って「日米構造協議」が行われ、日本は米国の要求に従って自身を「改造」していくようになった。  政治では、「小さな政府」というスローガンの下、省庁再編が行われ、大蔵省は財務と金融を分割され経済に対する統一的な指導が破壊された。通産省によるこれまで国家的な産業育成保護の政策もできなくなった。そして福祉部門が縮小された反面、軍事部門は肥大化した。

 経済では、バブル崩壊によって生じた「不良債権」をもって、「構造改革」が促進された。米系「格付け会社」の恣意的な評価によって、多くの銀行や企業が破産させられた。そればかりか、「金融ビッグバン」(株式市場での外資の完全な自由容認)、「会計ビッグバン」(米国式の時価決算方式の導入。これによって株価が決算を左右するようになる)、「株主主体の企業統治」(企業活動の目的を株主を儲けさせるものとする)などの導入によって、日本経済に米系巨大金融資本が深く食い込むようになった。すでに日本の金融グループにも欧米資金が二五%も入り込み、東京上場企業上位一〇〇社にも二五~三五%も入り込んでいる。この過程では、雇用形態が改変され、膨大なフリーター層が形成されるようになった。そして、産業の空洞化や地域経済の疲弊化も進んだ。また企業内部では成果主義、能力主義が導入された。

 こうした構造変化は、社会を二極化し多くの国民の生活苦を増大させたばかりか、社会全般に弱肉強食の競争原理が幅をきかせるようになり、家族、地域、職場などの共同的な関係を破壊し、多くの人々に「居場所がない」という不安と喪失感をもたらすようにし、犯罪の増加、ストレスの増加、自殺の増大などを生むようになっている。
 まさにそれは、第二次大戦での物的被害の対国富率一四%に迫る国富の11・3%に相当する八〇〇兆円というバブルの崩壊にともなう損失と相まって「第二の敗戦」そのものである。しかし、敗戦の敗戦たるゆえんは、米国がこうした結果をもたらすように久しい以前から対日戦略を立て、それによって日本を「敗戦」に追い込んだというところにあるだろう。

 戦後日本は、廃墟の中から復活し、世界第二の経済大国に発展した。しかし、それは、西側陣営のショーウインドーとして、あるいは米国の対アジア戦略の後方基地として日本を育成することが米国の利益に合ったからである。朝鮮戦争、ベトナム戦争でも「日本がなければ不可能であった」と米国に言わしめるほどの貢献をし、冷戦の勝利でも日本が果たした役割は大きい。まさに日本は米国にとって「戦後最大の傑作品」であった。

 そして、この「成功神話」の下、第二の敗戦の種は撒かれていた。すなわち八五年の金融自由化と翌八六年のプラザ合意がそれである。外資金融の日本での活動の自由と為替の協調介入によって、日本は金融政策における自主権を失い、米国よりも常に数%低い金利を設定させられ、これによって日本が貿易で稼いだ資産の多くは米国債購入に使われ、日本のカネが米国に還流するような体系が作られた。

 世界最大の借金国米国を日本が支える、その構造は、「アジアの時代」と言われ、中国の台頭が言われる中でも本質的に変わっていない。すでに日本を抜いて米国への最大の輸出国になった中国であるが、それは「新三角貿易」と言われるように、その多く(五割から六割と言われる)が外資によるものであり、その相当部分は日本資本のものである。こうして、日本はアジア、中国で稼いだカネを米国に還流させ続けている。それは昨年末からのドル安に対して、日本が米国債を4兆円も買い入れドルを買い支えたことにも現れている。

 第二の敗戦、それは仕組まれた敗戦であり、将来とも続くものであるというところに、その深刻な意味がある。そして、「従属国益論」は、それを容認して徹頭徹尾、米国の利益に服務することを勧誘し促し恫喝するものなのだ。

「従属国益論」がもたらす日本の将来
 「米一極支配の下で生きるのが日本の生き方」というのが、それほど問題にされず、「従属国益論」への反発がないのは、それで何とかなるという考え方が強いためだろう。そうであれば、「従属国益」の道をこのまま進めばどうなるかを見ていく必要がある。

 「従属国益論」がもたらすもの、それは第一にアメリカの戦争の手先、傭兵化である。
 この間、日本では、周辺事態法、有事法制、イラク特措法などが連続的に成立した。それらはすべて、米国の戦争に協力、参戦するためのものである。

 その米国は今、「米軍再編(トランスフォーメーション)」を進めており、その一環として、西太平洋から中東までを担当する米陸軍第一軍団の司令部を座間に置き、「第三海兵師団の一部を陸上自衛隊矢臼別演習場に」「航空自衛隊航空総体司令部(府中)、第二輸送航空隊(狭山)などを米軍横田基地に」移動させるという打診をしてきている。また、グアムの第一三空軍司令部を横田の第五空軍司令部に統合する案や座間に移動した米第一軍団司令部を陸軍だけでなく空軍、海軍、海兵隊をも含む4軍を統括する統合司令部に昇格させる案なども示している。

 一方、「対外的に説明できないことを話しあうので存在しないことになっている」(関係者)などの秘密のベールに包まれたDPRI(防衛政策再検討イニシアチブ)が昨年ひそかに立ち上げられ運用されており、自衛隊と米軍の一体化がさまざまな分野で進んでいる。そして、集団的自衛権を行使できるようにする改憲の動き・・・。

 このままでは、日本は完全に米国の属国として、自国領土にアメリカ帝国軍隊の司令部を駐留させ、その指揮に従って傭兵として動く、そのような国になってしまうだろう。

 第二に、アジアと対決するようになる。
 昨年一〇月、インドネシアのバリ島で開催されたASEAN首脳会議で「ASEAN憲章Ⅱ」が採択され、二〇二〇年までに「東アジア経済圏」を作ることが合意され、これに中国、インドが合流し、人口三〇億を擁す「東アジア共同体構想」として進んでいる。この動きは、米一極支配に反対し、東アジア諸国の協力関係を強めながら、米国に依存しない経済圏、共同体を形成しようという離米自主、多極化の動きである。

 米国はこの動きを警戒している。そして日本は、米国の意図を知っているがゆえに、動きはにぶい。

 米国の意図は、各国の自主権を否定した世界単一の自由貿易市場に東アジア経済圏も組み入れることである。米国は、WTOを使って世界自由貿易市場を作ろうとしているが、これはシアトル、カンクンとことごとく失敗している。そこで米国は、WTOの活用を追及すると共に、地域ごとの「自由貿易圏」や二国間の「自由貿易協定」をつくり、これを世界的な「自由貿易圏」に拡大しようとしている。

 米国の狙う「自由貿易圏」と世界各国、アジア諸国が進めようとしている「経済圏構想」の根本的な違いは、各国の自主権を認めるかどうかである。それゆえASEAN諸国は非同盟運動の出発点となった自主の原則で貫かれるバンドン精神を反映した東南アジア友好協力条約の締結を加盟表明国に求め、これを一つの試金石にしている。
 日本はこれにあいまいな態度をとり続けている。この9月、かつて、東アジア経済圏構想(EAEA)を提唱したマハティール元マレーシア首相が「日本、米式から脱却を」という日経新聞への寄稿文で「私が知っているかぎり私がEAECを提唱したときベーカー氏(当時国務長官)は日本へEAECを支持しないよう要請した」と言っていたが、日本が東アジア共同体構想に腰の引けた態度をとり続けているのも、その背後に米国がいることは間違いない。

 米国は日本を繰って、東アジア経済圏構想が離米自主、多極化の方向に進まないようにしているが、最後に頼るのは軍事力である。米国が反テロの21世紀型戦争をアジアを舞台にして行っているのもそのためであろうし、それは今後、朝鮮半島や中国などをめぐり、露骨な軍事対決、戦争へと発展する可能性がある。その結末がどのような惨事を招来するか、想像に難くない。

 第三に、こういう中で日本は、ますます対米融合し、日本という国、社会が解体、溶解していく。

 北朝鮮批判で名をあげたジャーナリストの麻生幾氏が自衛隊のイラク派遣の「基本計画」が閣議決定されたとき(〇三年一一月)、「対米追随」批判は無責任だと言いながら、「日本は今、安全保障だけでなく治安、経済、情報といった国が成り立つ上で必要なあらゆるものを、想像を絶するほど米国に依存している。それは日本の『運命』であるという現実を知るべきだ」と言っていたが、その実態は、日本が国として民族として日本ではなくなるような米国と融合したアメリッポンになっていっているということである。

 先にあげた米軍再編が示すものは、米国にとって日本は、もはや自国領土と同じだということであり、自衛隊を傭兵にするということである。そして、まさに、対米従属を「国益」と考える者たちは、そうした米国の考え方を「ありがたく」受け入れている。

 軍事がそうであれば、政治も経済も社会のすべてが、対米融合し米国の一部になっていく。

 政治は、米国式二大政党政治になり、米一極支配に反対する勢力などなくなってしまうだろう。政治家はみな骨がなく、ただ米国に気に入られようとする者ばかりになっていっている。

 経済では、とりわけ経済の血液である金融分野での融合が徹底的に進むだろう。すでに35%も外資が入り込んでいたUFJが「破産」したが、みずほグループなども「破産」が噂されている。それどころか、三菱東京グループさえも米国シティグループが狙っているという噂もある。

 その過程は、日本が食い物にされる過程である。産業再生機構に移されたダイエーについては、そのサポート企業として米国の投資会社コロニー・キャピタルやウォルマートが手を上げている。この九月に金融庁が営業停止処分をしたシティバンクの横暴ぶりは「彼らの意識は進駐軍と同じだ」(金融庁幹部)と言われるほどである。不祥事の続く三菱自動車では、筆頭株主の再生ファンド、フェニックスがJPモルガンと組んで「インサイダー取引」まがいの手法で大もうけしているという(エコノミスト10月12日号)。まさに「再生ファンド」という美名の下での「ハゲタカファンド」ぶり。そして、最後の総仕上げとしての郵政民営化。郵政がもつ三〇〇兆円もの資金やそれを運用する五〇〇兆円ものカネを狙っているのも、米系金融である。

 日本は食い物にされ、政治経済的にアメリッポン化しながら、国家として解体されていっている。国家の解体は、家族、地域、職場など社会末端までのあらゆる集団の破壊を促進する。こうして、人々の共同体的関係が崩壊する中で、倫理もさらに破壊され、犯罪もさらに増加するだろう。

 「従属国益論」とは、日本がアメリッポンになり、米一極支配維持のために米国の戦略の手先になり、米国を背に負ってアジアに干渉し収奪し軍事的に対決していくのを促進するものでしかない。それは、米国にとって「戦後最高傑作」であった日本をさらに徹底的に米国のために利用しつくす米国の国益のためのものでしかない。


三、ナショナリズム一般への批判の登場とその誤り


 米国の利益のために日本が犠牲になることを説く「従属国益論」。批判されるべきは、この「従属国益論」である。しかし、この間おこなわれてきたのは、「従属国益論」批判ではなく、国益一般、ナショナリズム一般に対する批判であった。

「従属国益論」批判ならぬナショナリズム一般への批判の登場

 「従属国益論」が登場したころ、ナショナリズムに関する本が多く出版された。姜尚中氏の「ナショナリズムの克服」や小熊英一氏の「<民主>と<愛国>」などは話題を呼んだ。それらは、すべてが「国益」をもって論じているわけではないが、政府あげて「国益」が唱えられるようになった状況を背景にしていることは確かだろう。

 そのことを、香山リカさんは、福田和也氏との対談集「愛国問答」の中で、次のように指摘している。「(イラク戦争でアメリカ支持を迫られた日本で)『国益を考えれば当然の決定だ』とアメリカ支持を肯定したマスコミや識者も少なくなかった。またアメリカ追従を批判する人たちの中からも再び『アメリカの庇護から自立するためにも軍備すべきだ』という声があがった。つまり、『ぷちなしょ』の執筆時点ではまだ流行現象や印象論のレベルでしかなかった国家主義、ナショナリズムが、その後、急速に社会全体の『現実問題』になったのだ」と。

 確かに、政府までが国益を言うようになり、それによって日本が戦争に参加するという決定的な問題もすんなり通ってしまった。また、それまで反米ナショナリズム的言辞をはいてきた人たちが、イラク戦争を契機に「従属国益」を言うようになり、香山さんが、ナショナリズムの台頭として危険視してきた「新しい教科書をつくる会」もイラク戦争を契機に米国を批判することは利敵行為になると言いながら、「米国を支持するのが日本の国益になる」と主張するようになった。そして、こうした人たちの中から「日本自立論」を主張する人も出てきた。

 こうした状況を「ナショナリズムの台頭」として危険視し憂慮する声が高まったのである。その中には、「ナショナリズムは善いものでも本質的に閉鎖的な、そして排他的な傾向を示さずにいない。開かれたより広い寛容性を示す方向へ展開していくかどうか常に疑問である」(青木保・政策研究大学院大教授)とか、新左翼のある党派が「日本帝国主義独自の欲求を暴露しようとせず、ブッシュに無理やり追随させられているかのように描き出す論も根本的に間違っている。この根底にもナショナリズムと被害者意識が横たわっている」などと言うようにナショナリズムそのものを敵視するものもある。

 姜尚中氏の場合は、日本のナショナリズムが「国体」ナショナリズムであることを歴史的に考察し、それがグローバル化の時代にあって再構築を余儀なくされているとしながら、「しかしたとえそれが新しい「国体」の再創造に成功したにしても、その『パラサイト性』はより深まらざるをえず、それは反転してアジア諸国と摩擦や対立を深めていくことになるのではないか」(「ナショナリズム」)と鋭く指摘している。しかし、日本人が「国体」の呪縛から抜け出るために北東アジア人意識をもつのがよいと説いているのはどうだろうか。小熊英一氏の「<民主>と<愛国>」は、戦後の日本で、<民主>と<愛国>がどのように唱えられてきたかを綿密にたどった労作であるが、最後の結語部分は、「在日」のナショナリズムを参考にしながら「・・・既存の『民族』という言葉は、政府や領土と一体になった集団を指している。しかしだからといって、それとは別種の『民族主義』が生まれるのは『まちがって』いるのだろうか」と問いながら、「既存の『民族』概念に拘束されたものではないナショナリズム」を考えている。

 姜氏や小熊氏の主張は、賛同できるところも多い。しかし、その結論として、日本のナショナリズムを超えたものを提示しているのは、やはり、ナショナリズム批判の一種だと言えると思う。

国益を論じることは誤りなのか
 香山さんが「ぷちなしょ」を著した頃は、まだナショナリズムに対して冷静かつ幾分共感的な面もあったように思う。しかし、「従属国益論」が出されるや、驚愕したかのように、「危険なナショナリズムの台頭」というスタンスを強くしたことは、「従属国益論」の狡猾さを物語っている。

 すなわち、「従属国益論」者は、対米従属を説きながら、表に掲げるのは「国益」という言葉である。そのことによって、彼らは、自らの恐米・崇米の正体を隠し、自らをナショナリストのように打ち出している。この表に掲げられた「国益」という言葉にまどわされ、国益を言うのはナショナリズムだとして、「従属国益」を批判することなくナショナリズム批判に向かうのは、「従属国益論」者の思う壺であり、それは国民大衆の意識にも合わなくなってくると思う。

 イラク特措法が成立し自衛隊派遣が開始された頃、一般庶民の中から、「政府は国益、国益というが、それは政府の私益ではないのか」という声があがった。これは、国益に関する論議として、きわめて正当でまともな論理ではないかと思う。  今年行われた参院選挙において、民主党がイラクからの自衛隊撤退を言ったことに対して、小泉首相は、「そんなことで政権を取れると思っているのでしょうかね」と発言しているが、そこにあるのは、「米国に歯向えばわが身が危ない」という処身でしかなく、自衛隊派遣が「国益」ならぬ「私益」であることを端的に物語っている。

 「国益などと言うが私益ではないか」、この言葉をもう一歩踏み込んで考えれば、そこには、「本当に『国益』なのであれば支持する」というのがあると思う。それが一般国民の素朴な感情であり、国の利益、日本の利益、日本のためにと言われれば、人はそれを支持するものである。

 社会的存在である人間は、家族、職場、地域などさまざまな単位で共同的な関係を結んで生きていく。そのもっとも大きく強固で基本的な社会生活単位が国である。国の利益とその下部にある各種共同体、それに属する成員の利益は密接に結びついている。国が平和で繁栄すれば、人々の生活も平和で繁栄するものとなり、国が戦争をし貧しくなれば、人々の生活もそれに規定されるようになる。だから人々が国の利益について考えるようになるのは当然であり切実である。

 人間は自分のことだけであれば我慢することもできる。しかし自分の仲間のことであれば我慢することはできない。まさに国益とは、個々人の問題だけではなく、自分が属する身近な共同体や仲間、同胞の問題だからこそ切実に考え、私益かどうかを鋭く見分けようとするし、皆の利益、国民全体、国全体の利益である本当の国益であれば、それに従おうとするのである。

 人々は、決して国益を論じること自体に反対しているわけではない。それが国民、同胞の利益のためのものなのかを考え、そうした本当の国益とはどういうものかの答えを求めているのだ。それなのに、それを論じることなくナショナリズム一般を批判するのは方向を間違っていると言わざるをえない。

ナショナリズム一般を批判することの危険性
 今、ナショナリズム一般を批判するのは危険である。それは、「従属国益論」を批判することができなくするからだ。

 ナショナリズムを批判する人たちは、「国益」を論じること自体が悪しきナショナリズムだと考えている。そうなれば、国益の内容について分析し、何をもって国益と言っているのかなど考えなくなる。こうして、「従属国益論」がどういうものかを考察することさえしなくなる。実際、ナショナリズム一般を批判する人たちは、「従属国益論」者が何をもって国益と言っているのかなど分析をしようともしないし、本当の国益はどういうものであるべきなのかを考えることもしない。

 こうして「従属国益論」は、誰からも批判されることなく野放しにされている。そして「国益だから米国の戦争を支持すべきだ」「日本は米一極支配の下で生きていくべきだ」「日本は対米融合し米国の属州になった方がいいのだ」というような言説に多くの人が「受け入れる」ことを放置している。

 ナショナリズム一般を批判することは、国益を考えさせないようにし、従属国益論を野放しにする極めて危険な作用をしている。

 ナショナリズム一般を批判する危険性はまた、それが主権を否定し、主権国家、国民国家を否定する方向に進むことである。

 ナショナリズムを批判する人たちは往々にして国家を否定する。現在の国家が支配階級の国家であるとか、今の国家は反動的だからと見るところまでは正しい。しかし、そういう国家であればこそ、それを人民大衆の国家にするとか、反動的ではなく民主的で平和な国家にするということが問われなければならないのではないだろうか。それを問うことなく、国家そのものを否定すれば、結局、主権の否定になり、それは米国の狙い通りになってしまう。

 元来、米国発のグローバリズムは、国とか民族とかにこだわる時代ではない」としながら他国の主権を否定する。米国は、こうして米国スタンダードの市場原理を各国に認めさせて金融操作で世界を収奪する体系をつくり、気に入らない国があれば軍事介入して米一極支配の実現を追求してきた。

 ブッシュの反テロ戦争は、それをより露骨で暴力的な形で実現しようというものであって、それもグローバリズムの一種であり、その本質は他国の主権を否定し蹂躙するものであるということをこの際はっきりと認識すべきである。

 そうであれば、ナショナリズムを批判することで主権を否定することは、まったく米国の意図に沿うことになるのは明らかだろう。

 民族の運命決定権である国の主権を失えば、奴隷の境遇に陥るしかないのは、歴史が証明する厳然たる事実である。かつて帝国主義の植民地支配に呻吟した第三世界諸国が、今、米一極支配に反対し離米多極化を進めるのもそのためであり、ASEAN諸国が「東アジア共同体構想」に参加表明する国に、自主の原則で貫かれるバンドン精神を反映した「東南アジア友好協力条約」(TAC)の締結を要求しているのもそのためである。

 主権否定の国益論は、真の国益たるをえないし、国益を真に守ることはできない。主権を否定し放棄して国益などいくら言ってみても、無駄である。経済主権、外交主権、などなどすべて主権に関する問題である。ナショナリズムも主権なくして真のナショナリズムはありえない。


四、「日本のため」を基準に真の国益論争を!


 「従属国益論」という珍妙な論理、こうした代物を政府が打ち出してきたということは、「国益」という言葉がもつ効用を利用して、日本を本格的に戦争する国にするためである。しかし、その珍妙さとは、「無理を承知で」打ち出してきたところから出ており、「従属国益論」の本質的な弱点を示すものだと言えるだろう。

 そうであれば、この弱点を突いて、一体何が真の国益なのかという論争を起こしていくことが問われているのではないだろうか。こうした論争の中で真の国益は何かが明らかになり、日本はどういう国にならなければならないのかという道筋も見えてくると思う。

今、国益論議を行うべきである
 戦前も国益をもって、侵略戦争やファッショが行われたが、それは本当の国益ではなかった。だが、侵略や戦争・ファッショが本当に日本の国益に合っているかどうかをめぐる論議は行われなかった。そのために国益をもって侵略しファッショを行うことを多くの国民が「支持」するようになってしまった。その愚を犯してはならないと思う。

 今、日本の軍国化は非常に早い速度で露骨に行われている。すでにイラク派兵し、米軍再編で米第一軍団司令部を日本に置き、改憲までが行われようとしているのは、まさに、「国益」をもって有無を言わさず、これを支持させる状況に来ているということだろう。

 こうした状況に対して、戦争とファッショに対する反対の論調は行われている。しかし、「国益」をもって、これに反対するものはない。日本を反テロ戦争に本格的に参戦する国にしようとする勢力が、それが「国益」であるという論理を打ち出してきているのに、それを避けていれば、彼らの「従属国益」というわけのわからない論を放置するだけである。その結果、「国益」という言葉が対米追随主義者のものとなって大手を振ってまかり通るようになる。こうなってしまえば、「国益」を言う方がナショナリストになり、国益という全体の利益を説く高い次元を占め、ナショナリズム的感情をもつ国民を引き付けるようになる。 今、そういう危険な状況にあると思う。

 それゆえ、国益論議は避けてはならないし、必ず起こしていかなければならない。

 「従属国益」などという珍妙な論理を持ち出さざるをえないのは、彼らの弱点である。
 ある新聞の質問コーナーで、「政治家たちは、最近ことあるごとに『国益』ってお題目のように口にするけど、何が国益で何が国益でないか新聞読んでもさっぱり分からない」という子供の質問に、回答者のおすぎさんが「私もわからないのよ。福田康夫(当時の官房長官)は『非常に複雑なことで一言では言えない』と言ってるけど」と答えていた。

 何がいったい複雑だというのか。それは、「従属国益」というものが、米国に追随しその利益に服務しながら、それを「国益」だと言い張る、言葉としても論理としても成り立たない、説明不能な複雑怪奇なものであるという告白だろう。それは、「従属国益論」の決定的で本質的な弱点である。そこを突いて、どしどし国益論議を行っていくべきではないだろうか。

「日本のため」「日本にとって」を基準に
 国益といったとき、その言葉自体に不快感を示す人もいる。また、その内容についても、経済的利益だけを考えたり、それを含めた国力のようなものを考えたり、あるいは政治的利益ということを考えたり、そのとらえかたもさまざまである。こういう中で、国益論議を行っていくとき、それが日本のためになるのかどうか、日本にとってどうなのか、ということを基準に考えていくのがよいと思う。

 米一極支配を揺るがせない「現実」として、それに合う日本の生きかたを考えるのではなく、そうした現状に対して、どこまでも「日本のため」を唯一の基準に、これにどう対応すれば日本のためになるのかというように考えていくべきである。アジアとの関係でも同じである。アジアは力があるからこれについていけばいいというような非主体的な考え方ではなく、アジアの時代とはどういうことか、アジア諸国は日本に何をもとめているのか、そうしたことを踏まえ、その上で「日本にとって」どうすれば一番よいのかを基準にあらゆる方策を立てていかなければならない。

 日本のためというのは、独善的に日本の利益だけを考えるということではない。
 「日本のため」と「世界のため」「アジアのため」は、対立するものではない。「日本のため」になってこそ、「世界のため」「アジアのため」に貢献することもできる。

 石原慎太郎氏らは、それを対立させる。彼は、朝鮮や中国などアジアを敵視することによって米国を頼り対米従属を容認するようになっている。アジアと敵対することは、アジアへの侵略戦争につながっていく。反テロ戦争がアジアを舞台に行われている中で、その危険性は高い。戦前の歴史を見ても、それは日本の破滅をもたらすのであり、日本のためにはならないことは明確である。

 「日本のため」というとき、今日、それぞれの地域や分野で行われている運動を日本のあり方に結びつけて考えるということも重要だと思う。

 地域再生の運動。あるいは家族やさまざまな単位で共同的関係を回復させようという動きがある。それはグローバリズムと市場原理によってズタズタにされた共同的関係を新たに作り出そうという動きである。これを、その小さな単位、関係にとどめておくことはできない。実際、日本というわれわれのひとつの大きな基本的な共同体との関係でこれらの共同体的関係を考えていかなければ、本当に共同的関係を築くことはできないだろう。地域再生運動に取り組む北海道ニセコの逢坂町長も「地域では限界があり、国家としてやることがある」と言っている。
 日本のためというとき、主権問題を考えざるをえない。

 主権は、その国、国民がどう生きていくかを決める運命決定権である。日本の主権を大事に考え、これを守ると同時に他国の主権も尊重する。日本がアジア諸国との関係で独善に陥らずよい関係をもつためにも、結局、主権の擁護、尊重が決定的である。それはまた、国民のためになる政治・政策を考えていく上でも決定的である。改憲問題も教育、年金、福祉、医療など問題、地域再生なども、そうした基準から考えていくことが問われている。

「日本を大切に思い愛する気持ち」に依拠した大論争を
 国益を考え、論議していく上で重要なもの、それは、自分の国である日本を大切に思い愛する気持ち、日本の運命を真剣に考え心配する気持ちがいかに強いかである。

 「従属国益論」者には、それがない。「政府は国益というがそれは政府の私益ではないか」という鋭い指摘も首相をはじめとする政府の要人や政治家たちから本当に日本を愛し、その運命を心配する、そうした気持ちが伝わってこないからだと思う。それは、「従属国益」論者に共通する。「米国はリバイアサン(怪物)なのだ、盾突いても無駄」「米国は圧倒的に強い、従うしかない」「無責任なことを言うな、米国に従うのは日本の運命なのだ」というような言葉のどこに、日本への愛情を感じることができ、そのどこに日本の運命を心配する気持ちを感じることができるというのだろうか。

 何が日本のためになるかを考え、議論し論争する上で重要なことは、仲間や皆のことを考えそのために尽くそうという心であり、日本というわれわれの祖国、われわれの共同体を愛し、その運命を真剣に考え、何とかそれを少しでもよくしていこうという心である。

 そして重要なことは、そうした気持ちは、誰もが皆もっているということである。

 よく右翼の人たちが憂国を言う。日本の現状を嘆き悲しみ悲憤慷慨する彼らに特徴的なのは、自分はこんなに日本のことを思っているのに民衆は何も考えていないという独りよがりの考え方である。だから彼らは一人一党になるし、大衆を見下し、極端な行動をとり、テロ行為に走ったりする。

 そうであってはならないと思う。人間であれば誰でも互いに愛し助け合う共同的な人間関係を求めるし、誰もが「世のため人のため」生きたいと考えるものである。グローバリズムが蔓延し市場原理が社会の隅々まで覆うようになっても、人々は仲間を求め、新たな家族、地域、職場での共同的関係を模索している。

 誰もが、日本を愛し大切に考えている。それを信じ、その心に訴えて、積極的、進攻的、かつ大胆にスケール大きく国益論争を展開すれば、そこに多くの国民を引き付けることができ、その国民的な大論争の中で大衆自身が納得する大衆自身の国益論を打ち立て、米国の言いなりになってアジアに敵対するような日本ではなく、真に自主的で愛ある国としての日本の進路も明らかになっていくと思う。

NOを忘れた石原さん、アジア蔑視との連関


赤木志郎


石原慎太郎氏の「自主的」ナショナリズム
 石原慎太郎氏はかつて「『NO』と言える日本」をいう本を世に出し、注目を浴びたことがあった。「なぜ、日本はアメリカにYESばかりいってNOといえないのか」「何でもハイハイという国や人間は尊敬されやしませんよ」と、日本が尊敬され重視されるためには「NO」を言える国にならなければならないということを主張した。戦後一貫して対米一辺倒のわが国で政権党である自民党側から「NOとい言える日本」と発言したのだから、国民に一定の衝撃を与え人気を博したのもうなずける。その本は100万部を越えるベストセラーになったほどであった。

 その後も、「宣戦布告『NO』と言える日本経済」「国家意志のある円」を著しており、雑誌などで「アメリカのバブル崩壊は早晩訪れる。だから今こそ対米従属を脱し、モノ作りを前面に押し出して独自の戦略を打ち立てろ」(「諸君」)など主張したりしてきた。東京都知事になってからもこの種の「自主的な」発言をおこなっており、石原慎太郎氏にたいする根強い人気の源になっていると言える。石原氏が最初に都知事選に名乗り出た公約の一つに「米軍基地の見直し」があった。これまで革新系の知事すら手をつけることができなかった米軍基地問題を取り上げたのだからその大胆さに驚いた人も多かったと思う。そして、都市銀行にたいし外形課税を実施したり、都の銀行を設立するなどで、石原知事を中小零細企業家や庶民の味方だと都民の多くが「思いこんだ」のも無理がないものであった。

しかし、目立つアジア蔑視の言動
 だが実際には、石原知事がアメリカにたいし「NO」ということはほとんどなかった。むしろ、目立つのはアジア諸国を蔑視する言動である。それは、ちょっと他の人には見られないものである。

 とくに中国に対する蔑視と敵意はひどいものである。中国を植民地時代と同じく「支那」呼ばわりしているのは石原氏くらいであろう。新宿歌舞伎町での中国人同士の殺人事件にたいし「こうした民族的DNAを表示するような犯罪」(二〇〇一年五月サンケイ新聞)とあたかも中国人が先天的に残虐な民族かのように言い、災害訓練と関連して「不法入国した三国人、外国人の凶悪な犯罪が繰り返されており、大きな災害が起こったら騒擾事件さえ予想される」と自衛隊に向かって治安維持を呼びかけている(二〇〇〇年陸上自衛隊練馬駐屯地創設記念式典)。こうした発言を繰り返す石原知事は、北京市との姉妹都市関係も事実上、凍結させ、新宿・歌舞伎町で不法在留中国人の取り締まりを大々的におこなったりしている。

 また、尖閣列島をめぐる紛争では中国の「覇権主義」を非難し「尖閣列島、あの島を失うまい」と島に乗り込んだりし、二〇〇四年の中国人の魚釣島上陸事件では厳罰と武力による取締りを主張している。

 アジア諸国にたいする蔑視と敵意はとりわけ朝鮮民主主義人民共和国に向かって頂点に達している。二〇〇〇年九・一一ニューヨーク同時テロの後、石原氏は「日本が今、自前でまずなすべきことは日本海と東シナ海の防衛です。日本にとって一番近くのテロ国家は北朝鮮なのだから。必要な装備にしても、たとえば海対海や海対空のミサイルを積んだ高速艇なんかすぐ作って配備できる。これで北朝鮮の工作船や、領海侵犯して海底の資源探査をやっている中国の調査船をきちんと捕捉する。…場合によっては撃沈する」(「諸君」二〇〇一年十一月号「今こそ『日の丸』を立てる秋」)と述べている。

 二〇〇二年九月の日朝首脳会談直後には、「これ以上、私たちの同胞を危機にさらしてはいけない。北朝鮮は暴力化している。みなさんの崇高な使命を場合によっては果たしてもらいたい」(陸上自衛隊練馬駐屯地の創立記念式典)、「私が総理だったら、北朝鮮と戦争してでも(拉致された人々を)取り戻す」(「ニューズウィーク」)などと、朝鮮に対する敵意をむき出しにしている。

 このような石原慎太郎氏と同じように中国、朝鮮にたいし蔑視と敵意を露わにしているいわゆる自称「ナショリスト」がいる。西尾幹二(電気通信大学名誉教授)、古森義久(元毎日新聞駐米特派員、ジャーナリスト)、岡崎久彦(元外交官、博報堂顧問)、田久保忠衛(杏林大学客員教授)などである。彼らの言動は、中国との関係では日本政府にたいし「卑屈外交」「贖罪外交」「叩頭外交」と罵り、「そんな旨いか『支那饅頭』が!」「北京『赤毛布ツアー』「汝ら、奸賊の徒なるや!」「銭こそがすべて中国」「総額9兆円の『援交金交』白書」と、朝鮮民主主義人民共和国にたいしては「北の恫喝は演出、微笑は地獄の一里塚」「日本からの当然の制裁を」など、「けばけばしく勇ましい」扇動的な言動が特徴的である。

 「南京虐殺は作り話」「慰安婦は戦争当時どこでもあった当たり前のこと」「毒ガス兵器遺棄はソ連軍の処理問題」などに端的に表れているように、その内容と言えば、わざわざ取り上げて検討に値するものではないはないと思う。ことごとく中傷と歪曲、悪意に満ちたものであり、知性と人間性、良心を感じさせないからである。

 こうした「論客」たちが「諸君」「正論」さらには「中央公論」「文芸春秋」などで、毎月のようにあたかも国を憂えるかのように「大言」を吐いている。多くの「雑誌」さらにはテレビ、単行本などで中国、朝鮮民主主義人民共和国にたいする蔑視と悪意が流されれば、それはわが国の世論形成に一定の影響を与えずにはおかない。

なぜ、アジア蔑視、敵対なのか?
 中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国にたいし敵意を露わにするのは、「北京の政府、共産主義が嫌いなんです」(二〇〇〇年九月都議会)からだと石原氏は言う。では、共産主義政権でなくてどんな政権、どんな国であれば良いのか。

 「韓国、台湾、シンガポールなど経済がうまくいっている国々は戦前に日本が統治したことがあるところばかりです。確かに悪いことをしたことも認めて反省しなければいけないけれど、いい影響を残してきたことも否定できないと思うのです」「日本の『植民地』は朝鮮半島と台湾ですが、台湾以上に朝鮮半島を支配するにあたっては、日本は周辺の大国である英米などの了承を得るといった合理的な手続きを踏んでいます。・・・白人のアジア諸国に対する人権蹂躙の歴史はほとんど不問に付されているのに、日本だけが帝国主義というあの時代の歴史的必然の中での、より人間的にふるまった行為が未だに糾弾されている」(「諸君」二〇〇三年七月号)

 石原氏は、幾度も日本の植民地支配が「(英米よりも)より人間的だった」「合理的手続きを踏んだ」と正当化しているが、植民地にされた朝鮮、台湾の人々が日本の植民地支配を「人間的で」「合理的に手続きを踏んだ」ものだと言ったことがあるだろうか。石原氏がこのような言動を繰り返すのは、単に過去の侵略、自主性のじゅうりんについての反省の観点がまったくないというだけでなく、今日、石原氏にとってアジア諸国が「植民地」にすべき劣等な国でしかないということである。アジア諸国は日本に従え、もっと言えば従属国になれということである。

 それはイラクへの派兵問題でも端的に示されている。石原氏は天然痘テロのシミュレーション訓練の時の記者会見で、「日本がイラクの再建に手を貸すのは当然。平和目的で行った自衛隊がもし攻撃されたら、堂々と反撃して敵を殲滅すればいい。日本軍というのは強いんだから」と述べている。かつて「東洋の平和」を掲げて侵略に抵抗するアジア諸国人民を殺戮していった日本帝国軍隊の思考回路となんら変わりはない。

 東洋の覇者にならんとするとき、他のアジア諸国は日本にひれ伏す国でなければならない。石原氏のアジア諸国への蔑視と敵視は、まさに「覇者」にならんとする思い上がった傲慢さから出ている。石原氏の父は旧山下汽船(戦後、商船三井に併合)の支店長だったが、山下汽船の創業者山下亀三郎氏は日露戦争、第一次世界大戦でのし上がり、太平洋戦争時期には東条英機、小磯国昭政権のもとで内閣顧問を勤めたことから、山下汽船は典型的な戦争で肥え太った会社である。その「恩恵」を受けて戦中、戦後の混乱期を何不自由なく育ったのが石原氏である。まさに日本が軍国日本として強大でアジアに版図を拡大していけば自分も生きていけるという侵略思想を抱いたと言える。

 小林よしのり氏との対談で、石原氏は「ぼくなんか、自分が死んじゃったら、日本国家は消滅すると思っているもの(笑)。それはつまり、僕の体内の内に日本があるという一体感です」と述べている。愛国は、国と民族を上位におき、国と民族があってこそ自分がある、だから国と民族を愛しそのために尽くすという思想である。石原氏の場合、それがまったく転倒している。自分あっての国家である。だから、その国家がアジア諸国を支配していけば良いという子供じみた「夢想」にたえず駆られるのであろう。「アメリカの州兵にならい、陸軍は練馬、海軍はお台場、空軍は横田を基地とする「都兵」を持つべきだ」と半ば冗談、半ば真面目に記者団に語っているのも、東京都が石原氏の「夢想」を実現する地方政権だと思っているからであろう。

アメリカを「親分」として仰ぐ醜い手先に
 いくら石原氏がアジア諸国を日本の思いどおりになる植民地や従属国にしたくても、今日のアジアはかつて植民地であったアジアではないことは明白である。中国、朝鮮民主主義人民共和国だけでなくインドネシア、マレーシア、タイなどアジア諸国のほとんどが国家主権、民族自主権を国と民族の生命としてとらえ、内政干渉と軍事的脅威、経済的侵略に反対している。それだけでなく、日を追うに従ってアジア諸国の力は成長していっており、日本の影響力、支配力そのものが弱化し、孤立を深めていっているのが現実である。とりわけ、中国はアジアの大国として日本を圧倒しはじめている。朝鮮民主主義人民共和国もアメリカと対決して一歩も譲らない徹底した自主の国である。

 「日本はこのままだと主体性を喪失して何人だがわからなくなる。中国に吸収されてチベットみたいになるかもしれない」「(中国を)分裂させなきゃいけないんだよ。少しでもその作用に日本は手を貸してやるべきだし、分裂後のイニシアチヴもとらなければならない」と中国に対する恐怖と敵意を露わにしている。

 九・一一同時テロの前日、石原氏はアメリカ・ワシントンのハドソン研究所で「今こそアメリカの友へ」という講演で、世界で「帝国」を志向しているのは唯一中国だけだと言いながら、中国の「脅威」に対処しなければならないと述べている。講演会参加者の「今、日本はアメリカに『NO』と言えると思いますか」と言う質問にたいし、金融などでアメリカに手玉にとられたのは日本が悪く勉強しないからであり、日本人はもっと勉強し努力すべきだと言い、「NO」と言えないことを明らかにしている。また、「北朝鮮のミサイル」「中国のミサイル」の脅威にたいしミサイル防衛システムを作るべきだと主張し、アメリカとの協力体制ではあくまで「日本のために日本の意思でアメリカに発動させる」と述べている。石原氏が繰り返し主張しているのは、自前でミサイルを積載した高速艇を日本海、東シナ海に配備し、「北朝鮮工作船」「中国調査船」を補足、ときには撃沈すべきであり、もしそれが火種になって紛争になればアメリカに援助を依頼するということである。つまり、あくまでアメリカの力を背景にアメリカを親分として仰ぎ、「北朝鮮」「中国」と対決していくということである。その狙いは、「テロ国家北朝鮮の抹殺」であり、「帝国中国の分裂」である。

 中国、朝鮮民主主義人民共和国は、アジア諸国の多極化、自主化の潮流を代表しており、日本だけでは手が負えないから、アメリカを親分としその手下、手先にすすんでなるというのが、石原氏の考え方である。それは言うまでもなく、アメリカの世界一極支配体制にすすんで組み込まれていくことを意味している。アメリカの世界一極支配のためのアジアにおけるもっとも強力な先兵、手先になるということである。

 「手先」は手先でしかない。石原氏がいくら「日本のために、日本の意思で」と言ったとしても、「アメリカのためにアメリカの意思で日本が動いていく」ということにしかならない。その典型がアメリカのイラク侵略戦争と自衛隊派兵への全面的な支持、自衛隊の武力使用の主張である。

 いまや日本政府はアメリカが主導する多国籍軍に参加しようとしている。アメリカに「忠実な傭兵軍」となり、イラク、アフガニスタンなど世界各地に侵略のための傭兵軍隊を送ろうとしている。まさに石原氏のアメリカを頭にいただきアジアにおける「覇権野望」の妄想をいっそう膨らませていっている。

 アジア諸国への蔑視と敵視は、いくら「愛国ぶったり」、「威勢のいいこと」を言っていても、日本だけでアジア諸国を圧倒する力がないもとでアメリカに屈従していくことにしかならない。中国が「分裂」したり朝鮮が崩壊するのではなく、ますます強国になっている。他のアジア諸国も民族自主をいっそう強めていっている。このままアジアを蔑視、敵視していけば、日本の孤立を深めるだけでなく、ますますアメリカの「手先」に利用されるだけになる。それが日本の尊厳を傷つけ破滅の道に進むことになるのは明白である。

 スタンドプレーが好きで「強者となり弱者を支配下におくことを望む」軍国主義者の正体を隠さない「大衆扇動者」である石原氏は、アメリカにとってもっとも使いやすい「玉」「バッター」であることは間違いない。国民的俳優石原裕次郎の兄で芥川賞受賞作家である石原慎太郎氏の知名度も申し分がない。文壇デビュー当時に作家美川きよ氏は「繰り人形にならないで」という痛烈な批判を与えたことがあり、昨年、斉藤貴男氏も著書「空疎な小皇帝」にて同じ言葉で締め括っている。

 首都の知事を務めながら、「災害訓練」の名を借りた自衛隊による大規模な「治安訓練」を実施したり、警察庁幹部を副知事に任命したり、「日の丸」掲揚に従わなかった教員を大量処分したり、ファッショ化においてでも突出している。女性を「ババァが生きているのは悪しき弊害だ」と発言して恥じることも知らない。

 石原氏はたとえ「繰り人形」だとしても、アジア諸国を蔑視、敵視し、日本のファッショ化、軍国化をおしすすめたその言動から、その相応の「対価」を受ける運命から免れることはできないだろう。

 言うまでもなく日本は歴史、文化、地理などあらゆる面でアジアの一員であり、日本を愛することとアジアを愛することは一体である。実際、政治、経済、文化などあらゆる分野でますますアジア諸国と密接な関係になっており、アジアと離れて生きていくことはできない。圧倒的多数の日本人民大衆は、アジアを愛しアジア諸国との親善友好関係の発展を願っており、アジア諸国を押しのけて自分がアジア諸国の上に君臨する「大日本帝国」になることなど望んでいない。そして、アジア諸国の自主性を尊重し、同じアジアの一員として対等の立場で友好と互恵をはかっていくならば、アジアの発展の中で日本の自主と平和、繁栄を実現していくことができるであろう。
 アジアを愛し、その一員としてアジア諸国との友好関係を発展させていくことこそが、真に日本を愛すること、愛国であると思う。

「個と公」の対立を超えた新しい愛国を


小川 淳


愛国と「大東亜戦争肯定論」
 敗戦から半世紀以上が過ぎた。教育の崩壊、企業による不正行為、凶悪な少年犯罪が著しく増加している。これを「公」なき「個」の蔓延によるものだとして、新たな「愛国心」を柱にした「教育改革」論議や、中曽根、石原慎太郎ら右派勢力の愛国論がさかんに台頭してきている。

 その中でも若者の支持を集めているのが、「ゴーマニズム宣言」「戦争論」などの漫画で硬派な論旨を展開している小林よしのりの愛国論だ。

 戦後民主主義社会批判、あるいは反米思想というその内容においても、確かにこれまでの右翼思想とは一味違っている。

 「家族はバラバラ、離婚率も上昇、主婦売春、援助交際という名でごまかす少女売春。中学生はナイフで刺しまくり・・・」。

 「平和だ。あちこちがただれてくるような平和さだ。今の日本に祖国のために死ねる者などいない。自分の命だけが大事」。

 「公」なき「個」中心の「退廃した戦後日本」を、彼はこのように描く。
 「個」の世界に埋没したこの「戦後社会」との対比の中で、特攻隊や祖父の生き方など、「公」のためにあえて「個」を捨てた「戦中」の若者の生き方を一つの理想として描く。「戦中」の若者の生き方を一つの理想として描くためには、「公」である大東亜戦争そのものが肯定されなければならない。こうして「戦争論」の大部分は「大東亜戦争肯定論」に費やされていく。

 旧右翼とは一線を画しているように見える彼の反米・愛国思想も、最後には旧右翼と同じように戦争肯定へと行き着く。これは小林に限らず、「ニュー・ライト」を唱える石原慎太郎しかり、「新しい教科書をつくる会」しかりである。

愛国は右翼の専売特許ではない
 愛国を掲げて戦争に駆り出された悲惨な体験からか、愛国といえば軍国主義というイメージを持つ日本人が圧倒的だ。事実、「愛国」を主張する論議のほとんどが「大東亜戦争肯定論」であるのは、そうした大衆的イメージに根拠があることを示している。日本において愛国という言葉にはつねにこの軍国主義的な暗いイメージ、なにかファナテイックなイデオロギーであるかのような印象がつきまとっている。

 これまで愛国はつねに、反米とか忠君愛国とかの特殊なイデオロギーと結び付けて語られてきた。何らかの政治的主張を声高に叫ぶことが愛国であるかのようにも見られている。

 しかし、文字通り、自分の国を愛する心、それが愛国心である。たとえ愛国という言葉に歴史の負の遺産が塗り込められているとしても、自分の国を愛する心そのものを否定することにはならない。

 政治的な主義・主張にまでなっていなくても、また、一つの理論として体系化されていなくても、心の中では誰でも国の発展を思い、少しでも日本がよくなることを願っている。それが人間であり、そのように国を愛する素朴な思想感情が愛国心だろう。
 愛国心はなにも右翼や軍国主義者の専売特許ではない。どんな人にも愛国心はある。黙々と働いて黙って税金を納めるふつうの労働者も愛国者なら、日本を守ろうと自衛隊に志願する若者も愛国者だ。さらには科学者、教育者、公務員など無数の愛国者でこの国は成り立っている。国民大衆の国を思うこの思想感情こそが、日本を成り立たせている土台であり、基礎であると言うことができると思う。

 愛国と平和は矛盾するとよく言われる。しかし、軍国主義と最も鋭く対決してきたもの、それこそ日本の平和を希求する広範な人々の愛国心だったのではなかろうか。過去の苦い体験から愛国という言葉は使わなくとも、日本人の心の底にあるのは明らかに日本への愛であり、平和を願う心もそこから生まれてきていると言える。

 日本人の日本への愛が強烈だったからこそ、戦後の日本はまがりなりにも戦争には直接荷担せず、核大国にもならずに済んだ。経済成長もしてきた。このふつうの人々の祖国愛をぬきに戦後史は語れない。

 ところで、その「愛国」が今また、軍国主義的になってしまっているのはなぜだろうか。そこにはこれまで「愛国」を唱えてきた人々に責任がある。すなわち彼らは愛国の名のもとに戦争とファシズムをやり、愛国を唱えながら戦争とファシズムを美化し擁護した。先にみた小林よしのりの場合も同じことだ。では、小林よしのりの愛国心が戦争とファシズムに結びつくのはなぜだろうか。

「愛国」が軍国主義になる秘密
 小林の漫画を見ると、彼の持つ人間観がよく表れているように思える。彼の漫画の特異さは、人間描写の汚さ、どぎつさだ。ここが彼の「売り」でもある。

 人間とは汚いもの、どぎついものだというのは、漫画の「売り」でもあるが、単純に「売り」だけでもない。小林の持つ人間観をズバリ表現したものであり、この人間観が彼の「愛国」のもっとも重要な核となっているのではないか。

 小林の「愛国」がなぜ、戦争・ファシズム擁護になるのか、その秘密も、突き詰めて行けば、この人間観にあるように思えるからだ。

 一言でいって、「戦争論」の根底にあるのは、人間そのものへの蔑視であり、不信である。その人間観は次のような文によく表れているように思う。

 「暴力行為も残虐行為に向かうエロスも人間の本能につねに潜んでいる。少年犯罪も理性がはがれ落ちて人間の本来性があらわになっただけにすぎない」。

 「エゴイズムや私欲をいくら足しても『公』にならない」。
 これらの言葉は、小林が人間の本来性を「暴力」や「エロス」に見ていることを示すと同時に、人間とは結局、私欲の塊にすぎないという、かれの人間観をもっとも明瞭に示した言葉でもある。

 そして、「制限、束縛のない自由など存在しない。個は制限と束縛の中で完成」される、この暴力やエロス、私欲を超えるためには「公」がなければならない、というのが、彼の「個と公」論の結論だ。

 「個は制限と束縛のなかで完成される」、この言葉に象徴されるように、もし人間が本来的にエゴイステイクな存在であれば、制限と束縛(公)が必要となるのは当然だろう。「ふつうの人」の圧倒的多数が「エゴだけの人」となれば、上から強制的に「公」を押しつけるしか私欲に墜ちた日本を救う道はなくなる。

 そしてこのエロスや暴力という人間の本能が「公」と結びついて「評価」され、「気高い自己犠牲」として「顕出する場」が彼のいう「戦争」にほかならない。

 従って、人間のエゴ(本能)を最も丸出しにする戦争は、人間を最も輝かせる一つの設定となり、特攻隊や祖父の戦争体験に、小林が人間の「最高の美」を見るのもそのためだ。

 人間は本来的に利己的存在である。小林の戦後民主主義批判や大東亜戦争肯定論、「個」と「公」論の根底には、この根強い人間不信の人間観が色濃く流れている。

 現在の日本人がいかにも下劣で汚らしく描かれ、それに比べて、「人々が公に尽くしていた時代」として戦争や特攻隊が美化されるのは、この人間観から生まれたものだ。

 小林の「愛国」に一番感じるのは、人間をきわめて汚く見る、この人間愛の希薄さだ。もっと言えば、彼は人間を憎悪しているのではなかろうかとさえ思えてくる。かれが「個を超えた公」として「国家」や「戦争」を至上に置くのも、この人間観に立脚するなら、ある意味で当然なのかも知れない。

「公と個」の対立から統一へ
 そもそも小林の言うように「公」と「個」は対立するものなのだろうか。
 戦後の日本において、戦前の国家主義、滅私奉公に反発するあまり、「公よりも個」という「私」を絶対化する傾向を免れ得ず、それゆえ、個人主義に走り「エゴ化する日本人」という精神的荒廃を招いたという彼の指摘は正しい。

 だからといって、小林のいうように「個よりも公」、「公」という「制限と束縛」の中でしか「気高い自己犠牲」は存在しないとするならば、それはもはや「個」なき戦前の「滅私奉公」となんら変わりがない。

 確かにこれまでは「個と公」は対立するものというのがこれまでの「滅私奉公」論であり、「公よりも個」か「個よりも公」かのどちらかの選択でしかなかった。しかし、「個と公」が対立すればどうなるのか。

 「個よりも公」とは、国家による「制限と束縛」「滅私奉公」の世界であり、それは戦前的なファシズムを生み出すしかない。

 一方、「公よりも個」が、社会とか他者とか一切関係のないエゴイズム万能、自己中心の醜悪な社会につながっていくのは、今の社会が現実に示していることではなかろうか。

 西欧で言う「公」とは、コモン、すなわち「共」、ともに生きる人々が一緒に分有する空間という意味だという。そんな小難しい語源を知らなくても、日本人は昔から、それを「世間」と言ったり、「世の中」と言ってきた。「世間様に顔向けできないようなことをするな」とか、「世のため人のためになれ」とか。そして、人間が「世のため人のために」という要求を持つのは、国とか地域とかの社会的集団をなして生きる人間固有の特性からくるものだ。

 「個と公」の対立と克服を考える上で興味深いのは、この不毛な対立を超えた新しい「個と公」の統一が生まれてきていることだ。

 その一つの動きは、これまでの村落とは異質の新しい共同体の形成が各地域で生まれつつあることである。有力者や資産家でもないごく普通の人々が立ち上がり、地域のビジョンを描き、その実現にともに知恵を絞り汗をかく。上意下達や序列、強制でもない、自分の意思で集まり、カネのためでなく人、地域のために生きる、そこに価値観を持つ人々が生まれている。

 そこでは「個と公」が見事に統一されている。個人の生きがい、働く喜び、ひいては気高い自己犠牲も、「公と個」が一つになったときに生まれるということである。自己中心から脱却し、個人がいきいきと輝くのは、「個と公」が一致、統一された場なのである。それは小林の言うような「滅私奉公」の世界でもなく、「自己中心」の世界でもない、強いて言えば「活私奉公」の世界である。

 そして「個と公」の統一が可能なのは、 一人一人の心の中に「公」があるからだろう。人間は個性をもった独立した個人でありながらも同時に、私たちは日本国民であり、県民、市町村民であるというように、何らかの共同体の一員でもある。

 「公」という概念は、自分が属する共同体、その一員なのだという自覚なしには生まれない。その自覚が深まるかどうかは、自分の帰属する共同体が「自分のもの」として感じられるかどうか、言い替えれば、どれだけその社会集団、共同体を愛するかどうかに懸かっている。

 この共同体への愛は、小林の言うように上から押しつけたり、制限と束縛の中で生まれるものではない。むしろそれを殺してきたものこそ、小林が賞賛する軍国主義や戦争ではなかったか。

 自分の町や村という「公」は身近で見えやすいが、国という「公」は見えにくいものだ。地域を自分たちの手で築こうという地域再生運動は全国各地に広がっているが、「国つくり」の運動はまだはっきりとは見えない。しかし、現在の町や村つくりの運動には、大きな国つくりのためにもまず小さな「町や村」から変えようという遠大な志が脈打っている。

 これが源流となり、「国つくり」という一つの巨大な流れに合流するとき、日本は本当に変わるのではなかろうか。それが一つの流れになるかどうかは、私たち日本人の祖国への愛の深さに懸かっている。

 この市井の人々の心の中にある、この日本への愛を信じることができるかどうか。ここに「個と公」の不毛な対立を超えた新しい愛国の可能性があり、「滅私奉公」的愛国か、真の愛国かの分水嶺があるのではなかろうか。

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田原総一郎、岡本行夫/対談 「『外交』とは何か、『国益』とは何か」

ジャーナリスト田原総一郎と元内閣総理大臣補佐官、岡本行夫の対談本「『外交』とは何か、『国益』とは何か」(朝日新聞社 2005年発行)から憲法問題をテーマにした対談

憲法の拡大解釈はもう限界か?

田原
・・・・・つまり、憲法の拡大解釈、拡大解釈でやってきて、もうわかりやすい説明すらできない。拡大解釈では無理という限界まで、きているのではないか。具体的にいえば、集団的自衛権まで踏み込むのか。あるいは現在の憲法やその解釈を、あくまで守り抜いたほうがいいのか、岡本さん、どうです?

岡本
僕は、枠組みや概念だけで物事を引っ張っていこうとしても、うまくいかないのではないかと思う。つまり、仮に集団的自衛権を認めたり憲法を改正したりしても、だから憲法のもとではオーケーだという話ではないと思います。イラクへの自衛隊派遣問題でも、世論は「憲法違反だから」反対なのではなくて、「日本人は危ないところへは行くべきではないから」反対なんです。その議論をまだ乗り越えていない。

田原
つまり、集団的自衛権の解釈は現在のままでいいし、日本国憲法も現在のままでいい?

岡本
守らなければならない、いくつかのことがある。まず、絶対に日本から戦争を仕掛けない。戦争をしてもよいのは、やられたときの自衛行動としてだけ。僕は、その規定でよいと思います。それから、核兵器は必要ないでしょう。日本は核兵器を持つべきではないと、僕は思います。

田原
すると、現在の憲法には、文句はない?

岡本
いや、あります。基本的に日本国憲法には、本来は考え直さなければならない部分があると思う。憲法は前文で、「日本国民は・・・・・平和を愛する諸国民の公正と審議に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と、こう書いてある。

田原
世界の国ぐには平和を愛しており、戦争など決して始めないということがすべての大前提ですね。だから第九条につながる。

岡本
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」安全と生存を図る。私たちの安全と命を、平和を愛する諸国民に預けちゃう。その前段には、日本の反省が書いてある。「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」とね。そのこと自体はいいんだけど、戦前の政府だけが世界の悪者で戦争を引き起こした。だから日本人はダメだ。その日本人さえ悪いことをしなければ、世界はみんな平和を愛する公正で信義を重んじるから、うまくいくという論旨になっている。

田原
戦争は起こらないし、日本が攻撃されることもないと。

岡本
そう。だから、日本の世界に対する最大の貢献は、悪いわれわれ日本人が武器を一切持たないことだと、そういうことですから。それが、いかに国際社会の現実と乖離しているかという話ですね。戦後の歴史を振り返れば一目瞭然、日本の周囲のほとんどの国が、他国に出兵しているんだから、平和を愛する諸国民とは限らないでしょう。

田原
北朝鮮も韓国に出た。中国もベトナムに出た。ソ連(現ロシア)もアフガニスタンに出た。侵略だか進出だか知らないが、兵を出したということは事実。日本の防衛予算がGNP比1パーセント超えるか超えないかという議論をしているとき、これらの国ははるかに膨大な割合のカネを軍事予算に当てていた。あんまり平和を愛してない。

岡本
その彼らの構成と信頼に全面的に依拠しろといっても、そりゃ難しい。

田原
だから、現行憲法のそういう部分はよくない。だったら、そこは変えようという話が出てきてもいいでしょう?

岡本
だから、理念としては当然変えるべきですよ。しかし、僕はちょっとずるいのかもしれないけれども、それは今すぐやる必要はないんじゃないかと思っている。というのは僕は、先が見えちゃう気がするんです。侃々諤々の議論の中で、全精力をそのために使い果たしちゃう。そしてそれは、たぶん失敗に終わるのではないか、そうなれば失うものはとても大きい。だったら、ほかにやらなければならないことが山ほどあるんだから、そちらを一生懸命やったほうがいい。理念的には憲法改正はありだと思うけれども、戦術論から見てまだ憲法改正はやらなくてもいいんじゃないかと思っています。

何とも煮え切らない人物です。ただこの時点では、まだ国民投票法は成立していなかったという時代の制約も考慮に入れてあげる必要があります。やはり国民投票法を成立させた安倍総理の功績は大であり、だからこそ9条護憲派に徹底的に中傷されたのです。

戦争を知る時代が、憲法を改正すべきだ

田原
だけど岡本さんね。自衛隊は軍隊で自衛のための戦争はできるということは、ほとんどの国民が認めている。しかし、自衛隊による国際貢献という概念は憲法の中にはないから、湾岸戦争以降、政府はごまかしごまかしやってきた。特別措置法とか、非戦闘地域とかいってね。この種のごまかしを続けていくのは、もう無理じゃないか。そういう政府のやり方は、憲法を相当ボロぞうきんにしていると思う。これ以上ボロボロにしていいのかなと思うんです。

岡本
さっきもいったように憲法は、基本的な前提からして問題部分がある。しかし今の段階で憲法をいじり始めると、5~6年ぐらい安全保障体制の議論がすべて棚上げにされてしまうのではないかという気がするんです。憲法改正論議のゆくえを見定めるまでは、と全停止してしまうことを僕は恐れますね。だから、まだ手を着けなくてもいいと。

田原
僕は逆だな。岡本さん、今いくつですか?

岡本
戦争が終わった1945年生まれですから、2003年11月で58歳になりました。

田原
じゃあ、まだ若いか。僕はね、憲法を改正するならば、戦争を知っている世代がいるうちに改正すべきだと思っています。つまり、戦前の明治憲法のどこが悪くて、なぜあんなことになってしまったのかと、知っている世代がいる間に改正しないとダメだ。それを知らない、岡本さんよりもっと若い世代になれば、どうせ憲法改正をするだろうから、それはむしろ危険だと思っている。僕なんかは、自分たちの世代の責任として、憲法改正だけはきちんとしておかないといけないかなと、いま、思い始めている。

岡本
なるほど、その気持ちはわかる。これまでの憲法改正論者が一刻も早く改正せよというのとは、違うんですね?

田原
違う違う。僕はずっと護憲でしたよ。湾岸戦争のときまでは、確実に護憲です。そのあたりから考えはじめて、9・11をへてアフガン、イラクと来て、これは僕らの世代、戦争を知っている世代がいくているうちにか続けなければいけないんじゃないかなと思うようになった。戦争を知っている世代は大きく二つに分かれるでしょう。一つは、あくまで護憲。もうひとつは、戦争を知っている世代が責任を持って変えるべきだという憲法改正。

岡本
僕は、憲法改正の前にやることがたくさんあるという立場ですが、その立場にたつことで問題を先延ばしにしていると批判されれば、その批判は受けないといけない。

岡本氏もようやく理解していただいたようではありますが、、結局、田原氏も岡本氏も、若い世代を信用しきれないという理由で、自分たちが健在な時に改正しようというのです。

これは結局、「日本人に任せておけないから」という理由で、憲法草案を作って日本に押し付けたGHQと発想が同じです。

自分たちはGHQ憲法を受け入れた。自分たちが未熟だから。だからこんどは自分たちこそが、未熟な戦後世代のために改正してあげよう、というのですが、それは少々傲慢ではないでしょうか。

これまで散々改正に反対してきた分際で。周囲の若い世代に改正賛成派が増えてきたら、「よーし自分が改正してあげよう。君たちは心配だから」というのは悪ふざけです。

しかしどんなかたちでも改正に賛成するのであれば、よし、としておきましょう。

だが、これまで9条護憲派であった老人たちのことなど若者は最初から信用していないことは理解していただきたいものです。

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