2004年3月31日水曜日

【ミニ論文】 飯尾潤

財政過程における日本官僚制の二つの顔
http://www.rieti.go.jp/jp/publications/dp/04j007.pdf


本稿は、飯尾潤が独立行政法人経済産業研究所ファカルティ・フェローとして、2003年1月から参加した、財政構造改革プロジェクトの成果の一部である。本稿を作成するに当たっては、青木昌彦所長、鶴光太郎上席研究員を始め、プロジェクトの参加者の方々から多くの有益なコメントを頂いた。もちろん本稿の内容や意見は、筆者個人に属し、経済産業研究所の公式見解を示すものではない。

要旨

 日本の議院内閣制は、官僚制を主体として構成される「官僚内閣制」とでも呼ぶべき公式政府組織と、それを補完する政治家による「与党」との並立を特徴とするが、財政規律の維持は前者の組織過程のよって果たされていたので、民主制の定着とともに官僚の政権主体としての正統性が失われると、財政規律も失われることになった。

 この状況で財政再建を遂行するためには、単なる行政組織の変革だけではなく、超党派的な合意をもとに、安定した財政再建の政治的意志を確立することが必要である。そのうえで、財政運営システムも、目的指向型のものに変更することが求められるが、その際には、分散処理によって各省庁に権限が移行する側面だけではなく、それを統制する仕組みを内在化させて、割拠性の深刻化を防ぐ工夫が必要である。

 それは日本の官僚制における社会的利益の代弁者としての顔を押さえて、国益を追求する自律性ある集団としての顔を協調することが、先の超党派合意を担保する上でも必要だからである。


(1)問題意識
 日本の財政が危機にあるという認識は一般的であるようにも見えるが、その改革に取り組む危機感の高揚は感じられない。それどころか長期金利が急上昇するという状況が見られないため、財政赤字が差し迫った問題であるという印象が薄まっている。そこで財政再建論者にも焦りがあり、「やるべきことは決まっているから、後は実行あるのみである」という意見を聞くこともある。しかし大筋において、支出を減らし、収入を増やすしか手段がないのは当然であるが、どういう手段・手順でそれを実現するのかという点についての合意があるとは見えない。

 その点で財政改革における手段や手順の問題は、もっと真剣に議論されるべきテーマである。

 実のところ小泉純一郎内閣の「構造改革」政策で、最も一貫しているのは、財政再建への取り組みである。森喜朗内閣時代から少しずつ始まっていた歳出削減の動きは、小泉首相の高支持率によって、方針として確立した。その点で、財政赤字が拡大し続けるという状況に対しては、一定の対策がとられている。

 ところが財政は、政府活動の一部分をなす特殊な領域にとどまるものではなく、政府活動全体を統御する戦略的な領域である。その点であらゆる政策や改革が財政と関わりを持ってくる。

 財政赤字を削減するにしても、その削減方法が広く政策のあり方に影響を及ぼすとともに、ある程度改革が進行すれば、財政の構造的な問題に手をつけざるを得ないのである。

 そうした財政構造改革において必要とされる改革方策については、鶴論文に譲るとして、ここで考えたいのは、そうした改革に必要とされる政府のあり方、あるいは関係諸アクターの役割分担である。

 一般にこうした問題を比較政治学的に考えるときには、まず大統領制であるか議院内閣制であるかといった大きな制度的な違いを手がかりに考えることが多い。また逆に同様の事態に立ち至った時に、違った反応が見られる

ことを手がかりに、制度や歴史的経緯の影響を探るということも行われてきた。ただ当面の目的である日本の財政改革を考えるためには、そうした一般的な法則性とでもいうべき知見は、それ自体としては、きわめて限られた実践的意味しか持たない。

たとえば1980年代の状況を思い返せば、大統領制をとるアメリカでは立法権と行政権の調整に手間取って、財政再建が難しいのに対し、議院内閣制をとるイギリスや日本では、政治的意思統一が行いやすく、財政再建が進んでいるといった議論が可能であった。

しかしその後の歴史的展開において、日本が議院内閣制を維持したままで財政赤字を拡大し、アメリカが大統領制を維持したまま、財政再建を進めたことによって、こうした単純な議論は難しいことが、目に見える形で示された。

そこで、問題をより微視的に検討するために、議院内閣制をとる諸国の比較を行うと、たとえば大蔵大臣の権限の強弱が財政規律の維持と関係しているという結論が導き出される。しかし先に見たような1980年代と、1990年代の日本の財政について、財政担当大臣の権限の変化を考えることは難しい。もちろん連立内閣の問題を取り上げることはできるが、短い例外を除き、ほぼ一貫して自由民主党が圧倒的な議席数を持って連立の中核にあったことを考えると、その影響を過大評価するわけにはいかない。

このように一般的に制度の枠組みを考え、財政再建の道筋を考えるのにも一定の意味があるとしても、より具体的な文脈で問題を考えることが不可欠である。その点で、気になるのは、財政構造改革における「官僚神話」とでもいうべき考え方である。これはさまざまなニュアンスを持って現れるが、単純化すれば「選挙に頼らざるを得ない政治家には、人気を考えて財政再建などできないのであって、選挙がない時をねらって官僚が財政再建を成し遂げなくてはならない」といった考え方である。

確かにあとで検討するように、最近の日本の歴史を検討すると、政治家の影響力が増大したとみられる状況の下で、財政赤字が拡大した経験があるので、こうした考え方にも根拠がないわけではないが、事態はそれほど単純ではない。しかも逆に、たとえば退職後の処遇を考えて特殊法人などを乱立させ、歳出をふくらませるとか、関係の深い利益団体や業界を保護するために、補助金などの支出を守って歳出削減に抵抗するという官僚イメージも一般的である。

 さらに政治家と官僚との関係が入り乱れており、截然とそれを分けてしまえないという問題もあって、問題はいっそう複雑になる。

そこで本論では、日本の政府構造における官僚あるいは官僚制の役割に焦点を当て、それを通じて財政構造改革に必要とされる制度改革の要素をみてゆきたい。もちろんそれは財政構造改革における政治家あるいは政党の役割を逆照射することにもつながるから、記述は自然にその両者の関係の再定義へと発展してゆくことが予想される。その前提として、議院内閣制を基軸とする日本の政府構造のあり方と、財政構造に関わる政治・行政の最近50年ほどの歴史的な回顧を行って、問題の具体的なあり方について整理しておきたい。

(2)「日本型議院内閣制」と財政規律
 日本の政府構造は一般に「議院内閣制」をとっているとされ、このことは憲法上も明確であるように見える。しかしながら制度の外観を離れて、日常の政権運営の実態に目をやると、議院内閣制の想定するものとは異質な慣行が目につく。たとえば議院内閣制で政権運営の中枢を担うはずの閣議が空洞化していること、あるいは首相が総選挙と関係なく交代すること、また各大臣が1年程度の短い在任期間で次々と交代する慣行、さらに内閣とは別に「与党」政策審議機関が存立し、そこが法案の事前審査を行っていることなどである。その点で、日本の議院内閣制は、ある独特の性質を持っていることを前提としなければ、制度の作動についての理解を得ることができない「日本型議院内閣制」とわざわざ括弧を付けて、小見出しとしたゆえ(1)。んである。

 議院内閣制は、行政権の存立基盤を議会の信任におく政治制度であり、少なくとも消極的な意味で議会の信任を得た政党が、行政府の執政権を握る体制である。このとき正統性の基盤は、有権者が議員を選出し、議員が多数派形成という形で、首相を選出し、さらに首相が国務大臣を選任し、大臣が官僚の任命権者となるという、選任の連鎖によっている(2)。つまり官僚の正統性は大臣により、大臣の正統性は首相により、首相の正統性は国会(衆議院)により、国会(衆議院)の正統性は国民(有権者)によって与えられる。

 ところが日本の内閣制において、こうした連鎖はきちんと認識されているであろうか。
最も問題となるのは、大臣が首相に正統性の根拠を持つ点である。特に日本国憲法においては、任命のみならず罷免についても首相に自由裁量権が与えられているので、文字通り大臣は首相の代理人となる制度構成となっている。つまり議院内閣制を支える論理的な要は、首相に民意に基づく権威と任命権がいったん集約されるところにある。

 しかし日本の現実においては、各大臣は特に政策面で各省庁の代理人として振る舞うことが多い。そして各大臣の役割規定が、各省庁の代理人であるという行動様式が形成される。そのあり方を「議院内閣制」とあえて対比すれば、「官僚内閣制」ということになろう。つまり内(3)閣は議院内閣制が想定するような、首相の選任によっていったん集約された民意を基軸に一体化されたチームではなく、個別の存立基盤を持つ各省庁官僚の代理人の合議機関だという意味である。

 こうした「官僚内閣制」は、戦前の内閣制をある意味で引き継いでおり、その点で無意識のうちに、議会に対して「超然的」性格を持っている。もっとも民主制が定着した現代日本において、それだけで政府が正統性を持つことはできず、議院内閣制が持つ民主的側面を機能的に代替する機関が必要となる。それが政府と区別された意味での「与党」である。

 議院内閣制をとる諸国において、政権に参加する政党という意味で「政権党」(governmentparty)という意味の言葉は存在する。また議会において「多数党」「少数党」といった言葉が使われることもある。これに対して「与党」という言葉には、日本独自の意味合いが含まれる。

 「与党」には、まさに「与る(あずかる)」というニュアンスがあり、政権の主体ではないが、政権に関わる政党であるという意味が含まれるように思われる。「政府・与党連絡会議」なる会議の存在は、まさに政府である内閣とは別に、連絡しなければならない実態を備えた「与党」が厳然と存在することを示している。

 このことは一方で、政権を担当する政党(すなわち与党)が「政権党」と呼ばれるほどの主体性を内閣の運用においては果たしていないことを、他方では、その存在を無視して政権が運営できるほど無意味な存在ではないことを示している。

 議院内閣制の理念型においては、選挙によって勝利し、政権を担当する政権党は、選挙における公約実現のために、行政組織を使って、新規立法を準備し、それを成立させたり、あるいは日常行政業務の変更・改善を企てる。しかしながら「官僚内閣制」の下では、官僚制に独自の基盤があるために、この理念型がそのまま妥当しない。しかし選挙によって多数を得た政党の権威は高いので、「政府」に対抗する形で「与党」政策審議機関という独自の組織を発達させたと考えられるのである。

問題は、そうした「政府・与党二元体制」が、政府構造を二重化させて、政策過程を複雑化させること、大臣などの職にない一般の与党議員が、各省庁の官僚組織と、それぞれ関係を取り結ぶことを要請する点である「官僚内閣制」は現代において、それ自体としての存立基盤を持たないために、「与党」との関係を維持することが不可欠となる。つまり「官僚内閣制」内部においては立法は完結せず、国会の多数派を握る「与党」の手を借りなければ法律ができない。そこで「与党」の主役は与党国会議員であるが、彼らへ政府組織から調整のために多数の官僚が接触する。

そして自民党など与党の了承のない法案が閣議決定・国会提出がなされないことから、与党側の官僚内閣制に対する優位を示しながら、他方で、基本的な法案準備の主導権は各省庁側が握っているという高度に融合した政官関係が成立する。

そこで現れるのは族議員である。
族議員とは特定の領域の政策決定に際して、一定の影響力を持つ議員であり、実質的には各省庁から関係の議員としての扱いを受け、事前の説明を受けることのできる議員である。こうした族議員現象が一般化すると、大臣などとの公式の指揮命令関係とは別に、省庁官僚が日常的に与党の族議員を中心として接触することが必要になる。

そして法案の準備過程で、その内容について説明することはもちろん、関係の政策分野における予算獲得の際の応援を依頼するなど、省庁側から政治家に接触することが日常化している。
そうしたなかで、族議員を中心とする政治家の機嫌を損ねず、積極的な協力関係を取り付けることのできる官僚が優秀な官僚とされるようになる。いわゆる「調整型官僚」の台頭である。((4))

逆に政治家の側でも、族議員に分類されれば、自動的に官僚側からの情報提供が期待できるだけではなく、陳情処理などでも有利な取り扱いを受けることになる。さらにお互いの貸し借り関係のなかで、族議員となった政治家と官僚が、一定の利益共同体的な関係を取り結ぶようになる。

そこで通常の議院内閣制の予定するような頂上における政官関係の成立ではなく、裾野の部分における低位の政官関係が発生する。そうすると政治家側の関心が、具体的な政策の細部にある場合には、政治家の影響が行政執行にまで及んでいくことになる。その意味で「政府・与党二元体制」のもとでは、省庁の割拠性は整理されるよりも、増幅させられる傾向が強くなる。

さらに、こうした体制においては、政府における当面の活動目的が明確化されないという問題がある。つまり総選挙によって、マニフェストなりプログラムなりを掲げて勝利した政党が、政権党として内閣を組織し、その実現のために政府を運営するということが起こりにくい点である。先に見たように官僚内閣制は、省庁割拠性を強く反映するから、政府全体の方針を立てることが難しい。

それに対応する「与党」の側も、自由民主党に典型的にみられるように議員の寄せ集めの性格が強いために、統一的な政権運営目的を明確化することが難しい。しかも下位のところで政官関係が融合しているためにこうした

傾向は助長される。財政に関係づけると、政策の優先順位をつけるのが難しいということは、全体として歳出に方向付けを行うことが難しいことを意味し、日常運営的には漸変的な予算編成を予定せざるを得なくなるということになる。

先政府規模が大きくなり複雑化していることもあり、進諸国の多くでは漸変的な特徴を強く持った予算編成が行われることが多く、日本も例外ではないのであるが、日本でその傾向が強くなるのは、先に述べたような政府構造による。

このように分散化された政府システムを統合するための様式が、総合調整という仕組みであり、省庁の自律性を前提としながら、全体として辻褄が合うようにする仕組みである。そしてその代表例が予算編成過程であるといえる。そこで各省庁が積み上げ式に要求する予算額を、(5)対面式の査定によって査定側の財務省(大蔵省)が、積み上げ式に認めるなかで、金額を調整する仕組みがとられる。これは支出官庁側に、予算に関する第一次的な情報があることを前提に、挙証責任を要求側に負わせれば、予算の妥当性が確保されるという論理になっている。これを逆に考えれば、要求のないものに予算をつけることはほとんど不可能であり、また個別の積み上げ式交渉によるために、はじめに全体像を示してそれに併せて予算編成を行うことがきわめて難しい仕組みである。

 ある意味では、全体の予算のバランスとか、優先順位をつけることはしない方式になっている。

しかしながら、このプロセスが存在するために、ともかくも組織過程として、政策がいったん予算というフィルターを通って、一律に制御される仕組みにはなっている。近年、補正予算が多用されたのも、本予算においてはきわめて堅い仕組みで、予算額をどちらかといえば一律に査定するために、必要な事業に対知る柔軟な支出を補正予算で計上する必要があると同時に、全体としての歳出には何らかの枠をはめたいという試みであったといえる。

これに対して経済財政諮問会議の活性化によって、「骨太の方針」など予算全体の方向性を決める動きが出てくると、小泉内閣が歳出抑制方針をとっていることもあり、補正予算を活用するのではなく、目玉政策を本予算に盛り込むという動きが出てきたのであり、こうした動きは、裏側から、積み上げ式予算の性格を映し出している。

つまり積み上げ式予算編成は、内容についての吟味をある程度放棄した形で、形式的に統制する仕組みであり、それゆえ形式的に堅い統制をとることが、財政過程全体の統制という観点から要請されるのである。その結果、形式的に適切に処理されていれば、その時点で支出の適切性が確保される形となり、事後的な予算の吟味の要請も少なくなる。

こうした予算編成過程は、社会諸利益からの予算要望や、それを代弁する政治家の要求を、各省庁の要求という形に統御して噴出させ、それを予算編成過程という組織的調整過程に投げ入れることで、一定の形式を与え、全体としての帳尻を合わせる仕組みとなっている。それゆえ、査定官庁の権限が弱まると、こうした過程は政府の分散的な性格をそのまま反映して弛緩し、財政規律も弱くなる傾向が顕著になる。

ここで注目されるのは、歳出予算編成過程と同時に行われる、毎年度の税制改革過程である。

税制においては、歳出の査定と違って、要求官庁と査定官庁が相対でやり合うだけでは編成過程は終了しない。それは税制が、その言葉が示すように、制度の改正となるからであって、金額の多寡だけを決着するのではなく、それを制度全体の整合性に照らして通用する形に変換する作業が必要だからである。

そこで税制調査会という組織が、政府にも自民党内にもおかれ、後にみるようにある時期からもっぱら自民党税制調査会(党税調)が最終的な税制改正の姿を決めるという方式が定着した。党税調においては長年にわたって税制に関係した税制通の数名の議員が、税調の「インナー」と呼ばれる小グループを形成して、そこで一挙に事柄を決定する仕組みとなっていた。そこでは過去の税制改正のいきさつの記憶をもとに、長期多角決済的に、細かな制度の調整が毎年繰り返される。その結果として税制はますます複雑化するのであるが、その中身に精通するのは党税調の幹部だけということになれば、要求を抑える舞台装置としてはかなり完成度の高いものとなり、その結果として、毎年一応の決着をつけることができる仕組みとなったのである。

その点で税制改正作業は、日本の制作過程としては例外的に、集権的な決定が可能な場となっていたが、当事者の権力の源泉の一つが、複雑な制度に精通していることであるため、税制の簡素化・単純化といった改革課題をこなすことは難しい仕組みにもなっていた。
さらに、こうした税制改革過程は、総額についての調整は行われるものの、歳出予算編成過程と平行して独立して行われるために、財政全体の姿を確認することが難しくした。

(3)日本政治における財政過程の歴史的背景
前節で説明した「官僚内閣制」と、「政府・与党二元体制」を軸とする政府構造は、五五年体制と呼ばれる政党システムを背景として成立した。このシステムは、選挙による政権交代の可能性がほとんどないことを前提として成立している。すなわち自民党が政権を担当し、他の政党は野党として政権獲得をあきらめ、野党の多党化が進行し、ますます自民党の優位が高まるというメカニズムである。

実のところ五五年体制成立以前の政治状況は流動的であったが、そのなかで政党政治家の活動が活発化すると、財政に関して放漫化の傾向が見られた。最近の研究が指摘するように、((6))大蔵省の「官房系官僚」による「調査の政治」という枠組みのなかで、予算編成過程をはじめとして、政策決定過程を制度化する動きが現れた。そして自民党の政務調査会をはじめとする政策審議機関が整備されるとともに、予算編成過程などを官僚制の組織的枠内で整序する装置が整備されて、政府・与党二元体制が成立するとともに、それに規律を与える仕組みが形成された。また流動状況における「調査の政治」は、次第に「審議会政治」という形をとるようになり、「官僚内閣制」内部における政策転換の手段となってゆく。

政党システムの上で、政権交代が現実化しなかったのは、野党の側にある種の硬直性が生じたことが大きな要因となった。冷戦のもとで西欧の政党政治も左右対立を軸として展開したが、政権交代が常態化した主要国では、いずれも左翼政党が社会民主化することによって、資本主義の枠内での福祉国家建設を目指す政権を樹立した。ところが日本の場合には、日本社会党が「護憲平和」という。アピール力はあるが実現可能性の点では国内冷戦状況を長引かせる効果のある政策を掲げたために、社民的転換が遅れ、政権につく機会を失っていった。

その反面で、むしろ自民党が早い段階で幅広い支持基盤を作り上げ、包括政党化することによって政権維持を確実にしてゆく。つまり一九六〇年代の日本においては、戦後の急速な経済成長によって、階級的対立というよりは都市と農村との格差をめぐるものとなった。そこで逆説的ながら政権の座にある自民党が農村あるいは農林水産業への所得補填を視野に入れた政策を開発してゆくことで、日本的な形の社会民主的政策を推進して基盤を固めるようになったのである。具体的な政策としては、インフラ整備をすれば過疎が防げ、均衡ある国土発展が期待できるという建前のもとで、公共事業が農村地帯において全面的に展開され、時を経るに従って、公共事業事態の雇用創出効果が期待される状況を生みだし、「土建国家ニッポン」と呼ばれる体制へと発展してゆくのである。

この過程は政治的組織の観点からは、自民党議員が、戦前から連続して維持してきた「地盤」つまり、地方の有力者による有権者の集約体制から脱皮して、独自の後援会組織を発達させて有権者の組織化をはかる動きとして展開した。その代表例が田中角栄による越山会の形成と、後にそのモデルを議員集団に広げる媒体としての田中派の拡大である。

反面、一九六〇年代末になると自民党の組織活動の遅れた都市部においては、経済成長から取り残された層を、共産党および公明党(あるいは創価学会)が競って組織化し、まだ一定の勢力を保っていた社会党とが結びつく形で、革新自治体がつぎつぎに誕生する。しかし革新自治体の成立は首長公選制に依存し、議会での勢力拡張につながらず、石油危機後のスタグフレーションにおいて革新首長が財政運営を誤ると、相次いでその責任を追及される形で、革新自治体は減少した。

しかも自民党は、一九七〇年代にいたって「福祉元年」という言葉に表されるように、社会保障体制の整備を進めることによって、日本型の福祉国家体制を構築して、野党の存立基盤を脅かす。つまり自民党は、農村に対しては公共事業によって所得の再配分を行い、都市に対しては、給付の拡大を先行させる形で、社会民主的政策を展開していったのである。

こうした動きによって、従来の大蔵省の財政運営の基本原則であった「均衡財政主義」は歳入欠陥によって、やむを得ず公債発行に追い込まれた既に一九六五年にくずれていた。その後社会基盤整備のために、次第に建設公債が増大するとともに、一九六七年の大蔵省による「財政硬直化打開キャンペーン」も成功せず、均衡財政主義は全面的に放棄された。((7))

そして石油危機をきっかけとして、財政出動の要求が高まると、税収が落ち込む状況で、1975年には財政特例法が制定され、2兆2900億円の赤字国債の発行が始まり、以降は赤字財政が恒例化してゆくことになる。

国際的にも「日独機関車論」などがとられて、貿易黒字をため込む日本が、財政出動によって内需拡大を行い、世界経済を支えるべきだという論がうたわれて、赤字財政を擁護する力になった。またこれを可能にする仕組みとして、日本の金融業界が閉鎖的であるとともに、大蔵省の庇護を受ける立場から、国債引き受けに協力的であったことも関係している。((8))

日本型社民政策は、個別政策の累積によるものであったから、制度欠陥を個別事情に応じて修正する作業を必要とした。そこで自民党の議員は後援会組織をもとに、関係省庁への「陳情」を行うことで、有権者の政策的欲求に応えるシステムを形成した。もとより野党は福祉国家化に賛成であるから、ここに与野党を通じての総社民化あるいは、政党間の福祉国家的合意が成立することになった。それゆえ、一九七〇年代中盤以降は、国会においても表面的な対立の裏で、実質的に与野党の協力体制が成立して、与野党の棲み分けが進むとともに、形式化した安全保障における対立を除けば、政党間の政策的競争の空洞化が進行した。

しかしこうした動きは、欧米の新保守主義化とは違った動きであった。同時期の欧米においては、石油危機への対応に苦慮したあげく、一九八〇年代には「小さな政府」を目指す政策潮流が、かつての福祉国家的合意に置き換わっていった。たとえばイギリスのサッチャー政権は、民営化による企業の株式や、公営住宅の売却によって住宅を労働者にも保有させる「大衆資本主義」の展開によって、労働者の伝統的な団結の基盤を掘り崩していった。

そこで一九九〇年代になって社会民主党が政権に返り咲く頃には、社民政権であっても、経済政策においては新保守主義的な「小さな政府」を前提とするようになっていた。その結果、先進各国は景気対策として財政を出動させない、あるいは行政の民営化であるNPM(新公共経営)を推進するといった共通点を持つに至った。

ところが日本では、石油危機後の経済回復が早く、出来たばかりの福祉国家の危機も軽かったので、そうした全面的な政策転換は遅れた。むしろ自民党政権は、新保守主義的な政策を、財界人などを動員した第二臨調(土光臨調)の権威を使う形で実現しようとした。このことは有権者を説得し、政治的組織化の方法を自ら変える形で、改革を行うということを放棄したことを意味する。

五五年体制において官僚制は、自民党の政策体系の不在の反射的効果として、個別政治家の政策要求を組織過程で制御することで、政策的整合性を確保してきた。その具体的装置が、各省庁内外における綿密な相議(あいぎ)体制であり、大蔵省による予算および税制査定であり、内閣法制局による法案審査であった。政治家は全面的に官僚の政策的体系化に依存しているので、地元の要求が実現しないときは、ある時期まで「大蔵省が認めてくれなくて」といった言い訳が通用した。

ところが政治家による利益要求の伝達システムが成長してくると、民主的な正統性基盤を持たない官僚は、次第に政治家の要求を断ることが難しくなってゆく。まさに「族議員の王国」が誕生したのであり、それは先に述べた七〇年代後半の政党政治における総社民化の時期と重なっている。

そのなかで官僚の類型としても、政治家に右顧左眄せずに自らの信念を貫く「国士的官僚」が影を潜め、政治家の要求と従来からの政策体系(言い換えれば各省庁の集団的考え方)との調整をはかる「調整型官僚」が幅を利かすようになる。そこでは政官の融合がいっそう進むとともに、官僚の自律性がおかされる場面が多くなり、個別の政治家と官僚の関係における上下が明確化するので、ミクロ的に見れば「政高官低」現象が見られるということになった。

そのことを象徴するのが、大蔵省が予算の査定権限の一部を族議員の代理人たる要求型の各省庁に委譲する「ゼロ・シーリング方式」(何を減らし、何を増やすかは、要求官庁による選択を前提にしていた)の開始であった。
赤字国債発行の責任者であった大平正芳は、首相になると財政健全化に意欲を燃やすようになり、ヨーロッパで広がっていた付加価値税を参考にしながら、一般消費税の導入を目指すようになる。ところが1979年の総選挙では、解散に打って出たものの議席を減らし、このこ(9)とが原因となって自民党内の抗争が激化し、その結果としての1980年の総選挙中に、大平首相が死去することで、こうした新税導入による財政健全化の動きはいったん頓挫することになった。

このころ政党システムの点では、自民党が優位を保つ構図が、ますます定着した。つまり野党を支持しなくても、野党の掲げるような政策は実現するために、わざわざ野党を支持するという動機が成立しにくい状況ができたのである。それが一九八六年の総選挙における中曽根内閣の勝利と「柔らかい保守主義の勝利」の背景である。ところがそうした中曽根政権下においても、「売上税」と呼ばれる日本型付加価値税の導入は、中曽根首相の戦略ミスと、広がりを見せる反対運動に呼応した党内反乱によって失敗に終わる。

こうした状況を前提として、財政再建に取り組もうとしたのが、竹下登首相による1989年から90年にかけての消費税導入である。平時に新税を導入することに成功したのは比較政治的にも数少ないことであり、その手腕は高く評価されるべきである。しかしその竹下内閣がリクルート事件によって、きわめて低い内閣支持率を経験し、退陣を余儀なくされた。リクルート事件は、事件内容としては繰り返された政界スキャンダルの一つにすぎないが、それが特筆されるのは、有権者の怒りがたいへん大きく、しかも長続きしたことである。

リクルート事件は、政財官界の指導者がインナー・サークルで不当な利益を得ているという印象を広く与えたが、その発覚が新税の導入時期に重なったため、負担を求める政治家に反発が集中したのである。そして竹下首相が消費税導入に成功したのも、まさに反対する利益集団一つ一つに代替処置を施して反対を弱め、与野党の政治家をさまざまな手段で見方に引き込む卓越した根回し術によるものであり、その閉ざされた政策形成システムが有権者の批判を感覚的に喚起することになったのである。

それに対して、一部の政治家が「政治改革」を掲げて行動を起こし、有権者も巻き込んだ運動を展開した。しかし事態の深刻さは、政治家や有権者の想像を超えるものであり、単に選挙制度を変更しただけでは、事態の一挙転換は引き起こせなかった。中選挙区制度が、与野党の棲み分け・なれ合いを促進し、政党間の政策競争を阻害していることは明らかであったから、選挙制度改革は必要条件ではあったが、十分条件ではなかったのである。

それにしても、折からの冷戦終結は与野党の垣根を引き下げ、大規模な政界再編の動きをもたらすことになった。冷戦が終わってしまえば、体制の維持のために自民党に投票するというインセンティブが働かなくなり、新党が出来れば、そこへ票が流れるという現象も容易に生じたのである。

そして当事者にとっても予想外に早く、1993年には自民党の分裂、総選挙における新党ブームと、細川護煕非自民連立内閣の発足という激動が生じた。しかしこうした政界再編はまさに「永田町の政界」再編にとどまり、有権者を巻き込んだ有権者再編にはならなかった。

いわゆる改革派が政権を確保することを急いで、既存の政党勢力の組み替えによって新党を結成し、有権者と政党との関係の見直しに踏み込まなかったことも原因であるし、有権者の側も容易に新勢力が形成されるのを見て、他人任せの態度を改めなかった。しかしこうした状況では、首尾一貫した新政治勢力はつくることが出来ず、旧来型の政治に不満な有権者は、無党派層とならざるを得なかったのである。

村山富市内閣の成立によって、早期の政権復帰を遂げた自民党は、他党との連立で政権維持を図りながら、自らの勢力の温存を至上目的とするようになる。そうした連立政権の継続は、もともと分散的であった政策決定過程をいっそう分散化させ、政策体系や財政規律を弛緩させる効果を持った。また勢力維持のために、関係団体の要求に敏感にならざるを得なかった政権では、予算要求を厳しく切ることが難しくなり、政権交代の可能性によって、特に大蔵省官僚と自民党との関係が微妙になると、従来の安定的な政官関係が崩れ、「政治主導」の名のもとに、族議員政治の拡大が進行していった。

しかし1990年代前半の選挙制度改革を中心とする政治改革は何の効果も持たなかったわけではなく、たとえば自民党と新進党の政権をめぐる争いが演じられた1996年総選挙に勝利した橋本龍太郎内閣が、大規模な行政改革とともに、財政構造改革法による財政再建に乗り出したのは、小選挙区制が、政策的競合関係と、首相(党総裁)への権力集中をある程度もたらした効果であったとみられる。こうした試みは政策運営のまずさ(柔軟性のない、硬直的な再建方策)や、党内基盤の脆弱性によって実質的には1年程度しか永続せず、改革は道半ばで放棄される結果に終わる。

しかし2001年に小泉純一郎内閣が予想外の経緯を経て成立し、高い人気を博するようになると、再び政界は改革の時代を迎えた。補正予算の編成をおこわず、歳出削減方針を何度も確認するなど、ともかくも財政赤字の拡大を食い止める最小限の手は打たれ始めた。

また中央省庁再編によって創設されながら休眠状態であった経済財政諮問会議が一挙に活性化し、中身はともかく「骨太の方針」という形で予算編成の大きな方向性を示すことを始めたことなど、積み上げ式予算編成体制にも変革の兆しが見え始めた。そして閣僚の派閥推薦慣行の廃止や、定期的な内閣改造による閣僚の総入れ替え停止など、人気のある首相のもと政府・与党二元体制にも修正が加えられ、一元化の試みがなされるようになった。

さらに2003年の総選挙においては、政権公約(マニフェスト)の必要性が訴えられ、主要各政党が実現可能性を考慮しながら、具体的な選挙公約を策定したほか、その検証体制を整備しつつあるのは、「目的なき政府」の改革の試みである。

(4)財政再建への政治的意志の確立と恒久官僚制
このような経緯を前提に財政構造改革のために必要な改革は、大きく分けて二つの領域に分けることができる。

一つは財政再建を目指す政治的意志を確立し、それを安定化させる方策である。もう一つは具体的に財政再建を進めるためには、日常の財政運営方式を改革することである。

まず前者の課題についてみておこう。財政再建に関しては、とかく再建テクニックに関心が集まりがちであるが、テクニックだけで長期にわたる再建過程を乗り切ることはできない。それどころか橋本内閣における、財政構造改革法にみられるように、財政再建への関係者の意欲に疑いがあるために、骨抜きにならないようにと、硬直的な緊縮策を規定してしまうと、急な景気の落ち込みなどに柔軟な対応ができず、結果として枠組み自体が崩壊することが起こる。

こうした事態を避けるためには、財政再建が必要であるという意識が長期間にわたって継続する仕組みを考えるべきである。もっとも、この課題が難しいからこそ、さまざまな代替案が生まれるのであるが、論理的に突き詰めれば解答は存在する。

もし財政破綻が絶対的な意味での失敗であり、なんとしても避けなければならない事態であるとすると、政治的競争への全ての参加者が、そうした意識を共有することによって、弱い意味での財政再建への意欲が保持される。逆に言えば、財政再建自体については、政争の対象としないことが求められる。

一方の政治勢力が財政再建を掲げ、他方がその不必要性を掲げるようなことでは、事態を安定的に処理することはできない。たとえ多くの人々が財政再建の必要性を認めていたとしても、ほかの政策に関する判断によって、財政再建の必要性を認めない勢力に政権を担当させることがあり得るからである。

あるいは不況の到来などによって、ある勢力が積極財政を唱えて、人気を博した場合に、ほかの勢力が財政再建プランに拘束されるのは、競争上不利な場合が容易に想像でき、財政再建プラン放棄は、簡単に起こってしまうように思われる。その点で、少なくとも中長期的には、財政再建が必要であることを、ゲームのルールとすることが望ましい。

つまり財政再建プランの枠組みに関しては、超党派的な合意を作り、そうした合意をいわば憲法的規範として、長期にわたって継続させることが必要となる。かつては金本位制の採用や、財政均衡主義が当然視されることによって、財政に規律を与えることがなされていたが、それに変わる財政規律回復のための規範を超党派的に合意するのである。

もちろん、そうした合意があるから、予算や財政に関する政党間対立がなくなるわけでもないし、そうすべきでもない。財政再建で問題になるのは、基本的には財政の総額レベルにおける規律の確保なのであって、個別費目の配分などについてまで堅い合意をする必要はない。そこで、中長期的な財政再建プランを前提として、その中で予算配分の優先順位を政党が付け、それをもとに有権者の審判を仰ぐという形になるのが望ましい。

そうした時に、前提となるのは、こうした超党派合意がエリート間に確固として維持され続けることである。

政治の基本的な役割が、トレードオフの存在する事案についての決断であったり、それぞれ相当の根拠のある選択肢のなかから一つの結論を民意による選択というフィクションを用いて選び出すことにあるとするならば、こうした超党派合意を行うところまでは政治的決断であるにしても、そうした合意の維持を生きた政治の力学に任せる必要はない。

むしろこうした課題は、「政治的中立性」が確保された勢力が、その擁護に当たるというのが望ましいであろう。その点で、恒久官僚制には、財政再建プランの枠組みに関する超党派合意の保持者としての役割が期待されてもよい。

そうした点で、本論のはじめで紹介した「官僚神話」には、一定の根拠があるといえよう。ただ問題は、官僚だけでこの課題を処理することはできないのであり、主要政党間の超党派合意という行為があって、初めて官僚によるその合意の確保・維持という行為の政党制が生まれることである。

(5)財政システムの合理化と社会利益代表としての官僚制
このように財政再建についての超党派的合意が存在することは、中長期的な財政再建過程にとって必要であると考えられるが、それだけでは財政再建は難しい。それは「総論賛成、各論反対」という事態が生じたときに、総論を各論に落とし込む仕組みがなければ、いつまでたっても財政規律は確保されず、いわば「かけ声倒れ」の事態に陥るからである。

その点で、先に見たような社会的利益の代表者としての省庁のあり方に一定の変更が加えられなくてはならない

。そうでなければ、総論では財政再建に賛成しても、自らが関係する歳出の削減や、減税措置の廃止などといった課題に、各省庁および関連族議員が抵抗し続ける事態となって、改革の推進が難しくなるからである。

この問題の古典的な解決策は、先に挙げたような官僚内閣制的な分散過程を改め、議院内閣制の標準モデルを用いて、内閣あるいは首相への権限の集中化を行うことである。あるいは、内閣全体の役割分担からすれば

、財務大臣への権限の集中化でもよいだろう。そうした集中化によって、総論としての財政再建課題を具体化するのが、予算編成過程であるという予算編成過程の意味転換が起これば、事態はずいぶん改善するはずである

関連して、もう一つ必要な改革は、各省庁が関係する利益集団あるいは業界からのある程度の自立性を確保することであり、議院内閣制的な集中化と同時に、関係する族議員からの隔離という課題であろう。言い換えれば大臣の指揮命令系統を明確化して、外部からのノイズを遮断するということになり、政府・与党二元体制を内閣レベルでの高い位置で一元化することになる。

こうして集中化によって、省庁割拠性が打破されることが望ましいとしても問題は、そこで終わらない。それは集中化をするとしても、個別の予算あるいは政策課題に関する情報は要求官庁側に圧倒的にあるわけで、権限の集中化はこの問題を解決しないからである。

それどころか新公共経営(NPM)的な発想による財政制度改革は、鶴論文を始め他の論文でもしばしば取り上げられているように、むしろ政府内分権化によって、予算項目をまとめて、個別の形式統制をやめ、各執行単位に大きな裁量を付与する方向にある。こうした動きは、ここで提案した議院内閣制的集中化といかなる関係にあるのであろうか。

問題を明確化するために結論を単純化すれば、予算統制の対象を変更することにより、権限集中と、分散処理が両立するということになる。すなわち予算を目的別に編成し、そうした目的の達成に必要な費用をまとめて予算に計上し、その内部における費目配分は執行責任を負う単位(省庁など)の裁量にゆだねるとともに、目的達成度を厳しくチェックすることにすれば、予算費目の具体的な配分を分散しながら、予算の目標管理については統制が行き届くということが理論的に考えられるからである。

このようなシステムのもとでは、各省庁は自己の権限内部においては財政に関する行動の自由度を増すことになるが、財政の形式統制のもとでは、あまり重視されなかった目的達成度に関する評価を受けることになるため、目的においては政府全体の方針に関する統制を強く受けるようになる。

財政担当部局に関していえば、財務省主計局のような組織は、積み上げ式予算折衝といった作業から解放されるとともに、逆に政府の目的を具体的な数値目標に置き換え、それに必要な予算を推定し、さらに目標達成度のチェックを行うといった役割を果たす必要が出てくる。さらにその上には、内閣全体の方針をまとめる機関が別に必要になり、予算編成方針に関していえば、そうした機能を内閣府におくのか、イギリス風に財務省を首相の官庁というような形で構成して、財務省内におくのかという選択肢はあるものの、そうした機能を果たす組織が必要だという点では変わりがない。((10))

このようにみてくると、財政改革においては、官僚制の二つの顔、すなわち国益の担い手として社会からの自律性を協調する顔と、所轄に関わる社会的諸利益の代弁者としての顔を使い分けてきた官僚制の特質をよく見極める必要があることがわかる。

ある意味では、肥大化しすぎた社会利益代表の顔を、少し国益の担い手としての顔に引き寄せることが必要なのであって、その意味で、NPM 的な分散処理を特徴とするシステムを導入する場合には、現状の分散的な権力状況に夜規律の喪失を加速しないような方策を十分にとる必要があるといえよう。さらに、財政再建に関する超党派合意のところで述べたように、恒久的官僚制の役割の一つに、そうした中長期的な規範の維持という役割があることを認識し、そうした官僚制の機能を強化する方策がとられることが望ましいといえよう。


____________________________________________________________

(1)こうした議院内閣制の論理構造については、飯尾潤「日本における二つの政府と政官関係」『レヴァイアサン』

34 号(2004 年春)7-19 頁(近刊)
(2) こうした連鎖の意味を追求したものとしてKaare Strøm, Delegation and accountability

inparliamentary democracies, European Journal of Political Research, 37-3,2000
(3)この用語を用いて問題提起を行ったのは、松下圭一「国会イメージの転換を」『世界』一九七
七年二月号。
(4)佐竹五六『体験的官僚論』有斐閣、1998 年の用語法による。
(5) 日本の予算編成過程の古典的な姿については、ジョン・C.キャンベル( 小島昭, 佐藤和義訳)
『予算ぶんどり: 日本型予算政治の研究』サイマル出版会, 1984 年
(6)牧原出『内閣政治と「大蔵省支配」』中央公論新社、2003 年。
(7)山口二郎『大蔵官僚支配の終焉』岩波書店、1987 年。
(8)真渕勝『大蔵省統制の政治経済学』中央公論社、1994 年。
(9)消費税導入に至る過程と、そこにおける政治力学および官僚制の役割については、加藤淳子『税
制改革と官僚制』東京大学出版会、1997年。
(10)問題は、実のところ多くの省庁の行政事務の、実際の執行を地方自治体にゆだねている現状
から、問題はここで述べたような中央政府内の関係再編だけではすまない。とりあえず指摘でき
るのは、権限と責任関係が明確になるこうした改革を行う上で、現在まで続いている融合的な中
央-地方関係が大きな障害になることである。

2004年3月19日金曜日

【自由党】 民主党(横路氏)との安全褒章に関しての合意文書

小沢一郎氏と横路孝弘氏の間での安全保障などについて合意

イラクへの自衛隊派遣など、政府の勝手な解釈で自衛隊の行動についての歯止めが完全になくなってきています。また、憲法改正への動きも政界の中で加速され、日米同盟を中心に集団的自衛権の行使を実現しようという主張が増えるなど、日本は「保安官(アメリカ)の助手」になろうとしています。

 国連憲章2条4項は、日本国憲法9条と全く同じ精神です。この理想に向かって進むために、私と小沢さんは、憲法9条は守っていこう、同時に国連の平和秩序維持のためには国連協力の組織(名称は国連待機軍でも平和維持協力隊でもいいのですが)を作って協力し、自衛隊は国土防衛に徹して海外へは出さないことなどを合意しました。

2004.3.19
日本の安全保障、国際協力の基本原則

 冷戦の時代は終焉したとはいえ、世界各地においては紛争が頻発している。世界の安全保障と国際協力について確固たる基本原則を改めて定め、確認しておくことは時代の要請でもあり、また、喫緊の課題でもある。
 私共は、我が国の安全保障及び国際協力について、この間慎重かつ精力的に検討を続けてきたが、ここに次の通りの基本原則で一致したので公表する。

< 現 状 認 識 >

1.いまのままでは自衛隊は米国について世界の果てまでも行ってしまう危険性が高い。政府自民党による無原則な自衛隊の派遣に歯止めをかけなければいけない。

2.世界秩序を維持できる機能を有する機関は国連しかない。日本も国連のこの警察的機能に積極的に貢献する。

3.憲法の範囲内で国際貢献するために、専守防衛の自衛隊とは別の国際貢献部隊を作る。

4.現在国連はその機能を充分果たしていない。日本は国連の組織、機能を拡充、強化するようあらゆる機会に国際社会に働きかける。


< 基 本 原 則 >

1.自衛隊は憲法9条に基づき専守防衛に徹し、国権の発動による武力行使はしないことを日本の永遠の国是とする。一方においては、日本国憲法の理念に基づき国際紛争の予防をはじめ、紛争の解決、平和の回復・創造等国際協力に全力を挙げて取り組んでいく。

2.国際社会の平和と安全の維持は国連を中心に行う。それを実現するために、日本は国連のあらゆる活動に積極的に参加する。

3.国連の平和活動への参加を円滑に実施するために、専守防衛の自衛隊とは別に、国際協力を専らとする常設の組織として「国連待機部隊(仮称)」を創設する。待機部隊の要員は自衛隊・警察・消防・医療機関等から確保する。また、特に必要があるときは自衛隊からの出向を求める。

4.将来、国連が自ら指揮する「国連軍」を創設するときは、我が国は率先してその一部として国連待機部隊を提供し、紛争の解決や平和の回復のため全面的に協力する。

5.国連軍が創設されるまでの間は、国連の安全保障理事会もしくは総会において決議が行われた場合には、国際社会の紛争の解決や平和と安全を維持、回復するために、国連憲章7章のもとで強制措置を伴う国連主導の多国籍軍に待機部隊をもって参加する。ただし、参加の有無、形態、規模等については、国内及び国際の情勢を勘案して我が国が主体的に判断する。

6.安保理常任理事国の拒否権行使等により安保理が機能しない場合は、国連総会において決議を実現するために、日本が率先して国際社会の意思統一に努力する。

以 上

  2004年3月19日

2004年3月18日木曜日

【自民党政治】 国会運営とマスメディア

 日本」では、マスメディアに対する信頼度が高いようである。しかし、世界的にみたら、それが異常な事のようである。なぜなら、新聞社もテレビ放送会社も企業なのである。企業であれば当然、利益優先の部分があるのが当然と考えるべきであろうか。



宮脇磊介「騙されやすい日本人」より
新潮文庫, 2003.3.1 発行、ISBN 4-10-116421-5
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4101164215

#(主張の全体的方向性には、ある種の危惧を感じたが、政府の中枢近くにいた著者による、現代日本の構造的問題の全貌についての貴重な証言になっている。以下、国会運営とマスメディアに関する部分だけ紹介。)

p23 「国民の目を永田町の実態から隔離してきたカベは、いわゆる55年体制下において限りなく有効に機能してきた。それは、与党自民党の中での密室政治にとどまらず、与野党間の密室談合によって作られたシナリオに沿った国会運営をもたらすことで、その真骨頂を発揮する。

これがいわゆる国対型国会運営、「国対政治」といわれるものである。そして、政治記者はシナリオ通り国会対策委員会のいわゆるウラ国対で党利党略の調整の結果まとめたシナリオを尊重して、そのシナリオにあった記事作り、紙面構成をしてきた。

・・・自民党は国会対策上、重要法案を最終的に会期内に可決するために、いかにも野党の立場を尊重して五分五分の与野党対決をしているかのようなシナリオを、野党と談合の上で作る。国対委員長が、そのシナリオライターであった。政治記者は、そのシナリオを作成する経緯がわかっていても、紙面で暴露するようなことはしない。むしろ、時にはシナリオ作りに加担することさえあったといわれる。このシナリオには、必ず、「審議拒否」が重要な意味を有する。つまり、白熱シナリオのクライマックスである。

・・・野党は審議に復帰し、法案成立のタイムリミットにぎりぎりで間に合う。
・・・与野党談合、政治記者黙認の共同作業が生んだお決りの展開が繰り返されていく。」
#(国立大学法人法案の審議では、与野党間は談合はなかったと信じたいが、参議院文教科学委員会の最後2回の審議では、民主党議員の質疑内容と態度に、その疑念を抱かせるものがあった。)

p186「 行政とジャーナリズムのとの癒着の最大の場は、つとにその弊害が指摘されている記者クラブ制であろう。記者クラブは、政・官・業いずれとの間にも存在するが、政治家と番記者との関係に次いで癒着度が高いのは、官庁記者クラブであるといわれる。長年の記者クラブと行政官庁との間の歴史の中で、次第に記者の独自取材や調査報道の力が削がれ、行政官庁のいわゆる「発表もの」に依存するようになってしまった。「新聞の官報化」は、かねてから指摘されているところである。」

p192 「癒着によりジャーナリズムが書かないこと、ジャーナリズムの腐敗である。マスメディア自身も国民も「癒着は腐敗である」との厳しい見方で臨まないと、マスメディアのモラルハザードが進行する。日本のマスメディアの場合には、ニュースソースとの関係において、意識的・理性的に選択されたポリシーとしてのオープンな協力関係と、こうした癒着とがはっきり区別して意識されていないために、緊張感が欠けて腐敗を生んでいるのであろう。」

p194 「私が内閣広報官の仕事をしている間に自分自身で感得した言葉に、"毒をまわす"という語がある。・・・「魂を奪う」とか「肝を抜く」という言葉は承知していた。「毒をまわす」とは、丁寧に言えば「ご理解いただき、ご協力を賜る」ということである。
・・・毒をまわす手法は、
・・・システムとしても形成されている。
・・・その最も有効なシステムが「叙勲」をエサに魂を奪い虜にすることである。
そのシステムの典型は、政・官が特に役所を窓口として、政・官においてこれから実現しようとする政策に対して批判勢力になりかねないマスメディアの関係者・評論家・学者や財界人などを懐柔するための段階的システムである。・・・新聞関係では、特定の新聞社の社長が新聞協会の会長を順に務めるとになっているが、会長経験者には、勲章、それも勲一等瑞宝章が授与されるとが慣行として定着しつつある。新聞人にあっては、叙勲を辞退した人がどれだけいるであろうか。・・・」

国立大学独立行政法人化問題週報 NO118 目次
Weekly Reports  No.118 2003.7.21
http://ac-net.org/wr/wr-118.html
総目次:http://ac-net.org/wr/all.html
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[0] 内容紹介

 [0-1] 与野党の談合が推測された国対政治
  [0-2] 最大の功労者はマスメディア。
 [0-3] 諸問題の基盤をなす構造的問題の解決が大学復興の近道
 [0-4] 国公私立大学通信の転載

[1] 7/9 12:30 am 国立大学法人法案に対する議員別投票結果
http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/vote/156/156-0709-v001.htm

[2] 宮脇磊介「騙されやすい日本人」
新潮文庫, 2003.3.1 発行、ISBN 4-10-116421-5
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4101164215
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[0] 内容紹介

[0-1] 与野党の談合が推測された国対政治

国立大学法人法が7月9日に参議院本会議で可決されました[1]。

この週報は、国立大学の独立行政法人化政策の問題性を大学内外に理解してもらうことを主目的として2000年3月に発刊を始めたものでしたが、最後の段階では、当事者である国立大学関係者自身の意見表明などの行動を喚起する方に時間をとられ、大学外のみなさまに訴える余裕がなく、残念でした。

前号を発行した6月16日以降、参議院文教科学委員会での審議が紛糾し、会期末の6月18日までには成立せず、国立大学法人法案等は廃案または継続審議となるべきものでした。しかし、会期延長の中で、実質的な審議がないまま、委員長の職権による強行採決が行なわれ、可決されました。本会議では賛成131反対101で、与党議員の中でも棄権が9名あるというきわどい結果でした。しか
も、23項目もの付帯決議がなされ、国会自身が「欠陥法案」であるという註釈付きの可決となりました。

百年の一度の大改革にたいしても、数を頼む与党の無責任で粗雑な政権担姿勢が、国会対策委員会による議事運営[2]に現れていたと感じましたが、最終的には、野党の一部の「談合」的姿勢にも、失望は禁じえませんでした。


[0-2] 最大の功労者はマスメディア。

旧文部省が1999年に国立大学を独立行政法人化する方針に転換したときから、国立大学全体が独立行政法人化を既定事実として法人化対策に終始しようとしていたことに、当事者意識の希薄さに編集人は驚きました。また、独立行政法人化で大学の自主性が増すという政府見解を執拗に報道しながら、その問題点は一切報道しようとしないメディアの偏向に驚きましたーー国立学校設置法・国立大学特別会計法・教育公務員特例法などの法によって運営的・財務的な独立性がかなり保障されている国立大学制度を廃止し、政府の強い管理下に大学を置く、という点を一切報道しようとしなかったのです。

これらのことに危惧を頂き、主に大学関係者に対し、慣れない広報活動を行ってきましたが、焼け石に水のようでした。マスメディアにより毎日数千万人にばらまかれる偏った情報の効果を、週に一回、千数百人に配布するメールマガジンの情報で打ち消すことなど、できようがはずはありません。(その点で、4月以降に野村さんが中心となって行われた4回にわたる意見広告は多大な効果がありました。)

国立大学法人法可決の最大の「功労者」はマスメディアです。その功の中心にいた「文教族記者」の一部が、教員あるいは理事として国立大学法人に「天下る」ことは必至でしょう[2]。


[0-3] 諸問題の基盤をなす構造的問題の解決が大学復興の近道

今後は、国立大学法人制度の「白紙」の部分を文部科学省と国立大学協会が協力して埋めていくのでしょう。しかし、国立大学協会が政府の言いなりの存在であることが、この4年間の行状により、そしてなにより、法案公表から可決までの4ヶ月間の沈黙により、白日の下に曝されましたので、政府が国会の委任を受けて思いのままに国立大学法人制度を作っていくことを妨げるものはもはや何もないでしょう。

長期的に種々の弊害の発生が予期されている国立大学法人制度への移行が断行されたのと同じような問題は、種々の分野で起きています。問題の解決を阻む諸政策が一部の人たちの利益のために実現されることを可能にする構造が存在することの方が、ここの問題より深刻ですが、特に、情報支配に伴う重い責任への自覚がマスメディア界全体に欠如していることが深刻な問題です。

マスメディアによる情報支配を無効化するための技術的契機はすでに準備されていますが、ここでも問題となるのは情報の「信頼性」や「質」です。これを組織的に確保するためには、大学関係者の多岐わたる取組みが必要となります。そのような活動を通して、荒廃した日本の復興が可能となる土壌が形成されていけば、大学の存在意義は明確となり、場当たり的な大学政策の連発で疲弊し荒廃が進んでいる日本の大学界全体の復興は、おのずとなされることでしょうーー夢物語のようですが、そういった社会全体の行く末とリンクした長期的なビジョンを大学界内外で多くの人が共有しなければ、大学の復興などありえないと思います。


[0-4] 国公私立大学通信の転載

今後は「国公私立大学通信」を配信させて頂くことにします。これは、「国立大学独立行政法人化の諸問題」サイトのウェブログの見出しとリンクを紹介するものです。(編集人)


行政を代弁して憚らない記者達
朝日新聞2003年7月21日 社会部 長谷川 玲 記者
「自立に向け意識改革をーー法人化される国立大学」
報道機関から政府広報紙への大手紙の退化を証明する歴史的記事といえるだろう。大学関 係に長く携わっていて文科省とも知己の多い「族記者」の一人なのであろうか、 毎日新聞2003年6月23日付の横井信洋記者のエセー「国立大学教員よ甘えるな」と同じ趣旨の内容であることにも驚きを覚える。どこまで政府の肩を持てば気が済むのであろうか。大手紙(読売・朝日・毎日)のみが示す余りに偏った記事は、安く土地を譲ってもらった政府への負い目 を証明してしまっていると言えるのではないか。なお、都立大学の長谷川宏氏が長文の公開質問状を長谷川玲記者に送っている。



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