2003/07/28 産経新聞朝刊
【国連再考】(1)第1部(1)無効論 国民に強まる反発や不信
「米国よ、国際連合から脱退せよ!」
こんな文句を大書きしたプラカードを長身の男性が高く掲げ、左右に激しく振っていた。米国の首都ワシントンのポトマック河畔、かの有名なウォーターゲートのビル群の前、交通量の多い公園道路の交差点脇だった。六月下旬の土曜日午後のことである。
「国連はアメリカの国のあり方とは異質の価値観を強引に押しつけてくる。平和を求めると称しながら、実は戦争の原因をつくっているのだ」
地元の自動車整備士で六十四歳、ジョン・コリンズ氏と名乗る男性は、個人の意思での街頭アピールだといい、反国連論を熱っぽく語った。元海軍軍人の彼はブッシュ政権の対イラク戦争には反対だったが、国連にはもっと強い反感を抱くのだという。
ニューヨークの国連本部から八十キロほどのコネティカット州ウェストポートという海岸の町の出来事も一般市民の国連への反発をみせつけた。人口二万五千ほどのこの町で長年、国連友好委員会を主宰し、毎年六月には国連本部の各国職員を町に招いていた民間の女性活動家ルース・コーエンさんが八十一歳で亡くなり、町の一部の人たちがちょうど完工した地元の橋に彼女の名をつけようと州議会に請願した。
ところが町民の多数から激しい反対の声が出た。「そうした命名はコーエンさんの国連支持への顕彰となり、いまや反米の演台となった国連への礼賛ととられる」(町民のジュディス・スターさん)ため、絶対反対だというのだった。請願は宙に浮いてしまった。
同じ六月、ニューヨーク市内に住む有名な映画スターのジェリー・ルイス氏がFOXテレビに出て、一気に語った。
「国連をなくせば世界のトラブルはずっと減る。世界各国から代表がここにきて、外交特権をよいことに違法駐車をして、劇場でショーをみて、高級ホテルに住む。ボスニアで虐殺が起きても、インドとパキスタンが核爆弾を破裂させても、彼らはなにもしない」
ルイス氏といえばコメディー俳優の長老だが、この日は真剣な語調で国連無用論を説くのだった。
「国連の連中は自分の存在の正当化のためにトラブルを絶やさないようにする。いつも他人のカネを使うその活動というのはジョークだ。国連なんて不要だと、私は二十年前から思ってきた」
米国でのこのたぐいの反国連の大衆感情は新しくはない。一九四五年に国連が正式に誕生した当初から米国内には孤立主義の志向やアメリカン・ウェー・オブ・ライフの保持とからんで国連への反発は存在してきた。国連の結成を最大に主導した国で国連への反発が最強だという錯綜(さくそう)した構図だった。
だが歴代の米国政府は国連と共存してきた。大衆レベルでの反国連の情理を公式の政策にして、脱退や絶縁を宣言したこともない。その基本はいまも変わらない。イラク戦の過程で国連を徹底して批判してきたブッシュ政権も、イラクの復興や保安には国連の協力を求める姿勢までみせてきた。
だがそれでもなにかが大きく変わったようだ。対テロ戦争からイラク攻撃にいたる世界のうねりは米国の対国連観の深奥を変質させてしまったようなのだ。米国内各地でみられる国連への反発や不信がこれまでになく激しく、広いのも、その例証としてみえる。
マスコミでも「国連の不条理」として「国連はよい考えを悪く履行しているのではなく、悪い考えなのだ」(政治評論家ジョージ・ウィル氏)という主張が多くなった。「国連に戻るな」という題で「国連安保理の目的は独裁者ではなく米国を抑えることなのだ」(同チャールズ・クラウトハマー氏)というような意見も珍しくなくなった。
国連をみる目が変わったというよりも、むしろ国連自体が従来の欠陥や偏向をかつてないほど明白にさらけ出した、という方が適切なようなのだ。こうした展開を映し出すように、米国の学界でも国連の実効性の終わりを率直に説く学説が発表されるようになった。
ペンシルベニア州立大学の国際政治学者アレクサンダー・ジョフィ教授が七月に発表した「既知の世界の終わり」と題する論文もその一例だった。同論文は「二〇〇二年後半から二〇〇三年初めには国連を基盤とする国際社会のぞっとするような最終の崩壊が目撃された」と指摘し、以下のように結語していた。
「国連はついにグローバルな統治の模範を実効的にも道義的にも提示しえないことを証明してしまったのだ」
(ワシントン 古森義久)
2003/07/29 産経新聞朝刊
【国連再考】(2)第1部(2)聖なる神殿 拉致事件で知る各国の独善
国連への信奉という点ではわが日本は全世界でも最高位にランクされるだろう。現実主義者とされる小沢一郎氏のような政治家までが「国連警察軍」を常設し、自衛隊を提供する構想を説くことにも、戦後の日本の国連の理想への並はずれた期待があらわである。
皮肉なことに日本と米国は同盟パートナー同士でありながら、こと国連への態度となると、全世界でも最も離れた両極端のコントラストを描く。国連に対し米国では年来、反発や不信がきわめて強い一方、日本では依存や信頼が異様なまでに強いのだ。
日本のこの態度は敗戦の苦痛な体験や戦後の特殊な国家観などを原因とするのだろうが、国連を国家エゴのにごりのない澄んだ水のような公正な存在とみるところから出発してきた点では純粋だといえよう。
国連を重視し、尊重する国はもちろん他にも多い。だがほとんどの場合、国連を自国の利益の追求手段とみなし、その範囲で国連の現実を利用するという姿勢が明白にうかがえる。ところが日本は国連自体を汚れた世俗の世界での聖なる神殿とみなし、理想の推進役とする美化の傾きが強いようなのだ。
しかしそんな日本の背中をどしんとたたくように、この傾きを正す効果をもたらした最近の実例が拉致事件がらみの国連人権委員会での事態だった。
国連人権委員会はこの四月、ジュネーブでの会議で北朝鮮の人権弾圧を非難する決議案を審議した。決議案は日本人拉致事件の解決をもうたっていた。欧州連合(EU)の提案だった。北朝鮮の人権弾圧はあまりに明白であり、日本人拉致も北朝鮮首脳が認めている。国連の人権委員会が人権擁護という普遍的な立場からその北朝鮮を非難することは自明にみえた。
ところが委員会加盟の五十三カ国のうち賛成したのは半分ほどの二十八カ国にすぎなかった。中国、ロシア、ベトナム、キューバ、マレーシアなど十カ国が反対票を投じていた。インド、パキスタン、タイなど十四カ国が棄権し、韓国の代表は投票のためのボタンを押さず、欠席とみなされた。日本国民の胸を刺す自国民の過酷な拉致という非人道行為を非難することにさえ賛成しない国が多数、存在する現実は年来の日本の国連信仰とはあまりにかけ離れていた。
「人権抑圧を非難する決議類にはとにかくすべて反対する国が多いという国連の現実を改めて知らされ、怒りを感じた。中国やリビア、ベトナム、キューバなど人権抑圧が統治の不可欠要件となっている独裁諸国がこの国連人権委員会を仕切っているわけだ」
拉致家族を支援して、国連人権委員会へのアピールでも先頭に立った「救う会」の島田洋一副会長(福井県立大学教授)が国連への失望を語る。事実、中国の代表は今回の審議でも「北朝鮮がすでに多数の諸国と対話を始めた」とか「決議の採択は朝鮮半島の緊迫を高める」という理由をあげ、反対の演説をとうとうとぶっていた。
「救う会」の島田氏らは二年前に国連人権委員会の強制的失踪(しっそう)作業部会に拉致事件の窮状(きゅうじょう)を申し立てたが、拒まれた。北朝鮮がなにも対応を示さないため、という理不尽な理由からだった。同じ人権委員会はその一方で九〇年代には日本の戦争中のいわゆる「慰安婦問題」を再三にわたって取り上げ、スリランカ代表が作成した「報告書」など極端に選別的なアプローチで日本を糾弾し続けているのだ。
国連でのこの種の関係各国の政治的な駆け引きは日本側のODA(政府開発援助)依存外交をあざ笑うのかと思えるほどみごとに、日本の期待や願望を踏みにじり、裏切っている。
国連人権委員会のいまの議長国はカダフィ大佐の独裁で悪名高いリビアである。自国内で人権を弾圧する国であればあるほど、この人権委員会に入り込み、内部から国連による自国への非難を阻む、という実態は周知となった。だからこの委員会では中国に関してチベットや新疆での少数民族の弾圧や気功集団「法輪功」、民主活動家の弾圧への非難の動きなど、芽のうちに摘まれてしまう。
国連では人間の基本権利の擁護という最も普遍的かつ人道的であるはずの領域でも、日本国民の大多数が描く崇高なイメージとは対照的に、加盟各国の独善の政治思惑がぎらぎらと発光する。個々の国家の利益や計算の追求が生むなまぐさい空気が公正であるはずの論議の場をおおい尽くす。
日本人拉致事件をめぐる国連人権委員会での日本の体験は国連のこんなしたたかな現実をいやというほど明示したのだった。
(ワシントン 古森義久)
2003/07/30 産経新聞朝刊
【国連再考】(3)第1部(3)歴史的な失態 ボスニアでの虐殺防げず
「ヤスシ・アカシという人物は災禍だった。国連の歴史にも特筆される大災禍だった。アカシのためにボスニアでの平和維持活動(PKO)は歴史上でも最も効率の悪い軍事行動となってしまったのだ」
ジーン・カークパトリック氏は「アカシ」という名を口にするとき、とくに力をこめ、表情を険しくした。同氏は一九八〇年代にレーガン政権の女性国連大使として活躍し、いまもブッシュ政権から国連人権委員会の米国首席代表に任じられた高名な国際政治学者である。
同氏はワシントンの大手シンクタンクのAEIが六月中旬に催した集いで国連の平和維持活動について講演し、過去の失敗の最大例としてボスニア紛争への一九九四年からの国連の介入をあげ、その介入の責任者の明石康氏を糾弾するのだった。
明石氏といえば、日本ではまさにミスター国連として名声が高かった。九二年のカンボジア和平での国連代表としての実績は国際的にも広く認められた。九四年には旧ユーゴスラビア国連特別代表としてボスニア・ヘルツェゴビナに送られたのだった。ボスニアでは文官ながら国連防護軍の最高権限を与えられた。
ボスニア地域では軍事的に優位なセルビア人勢力がイスラム系のボスニア人住民に攻撃を続けた。九五年七月には国連が安全だとみなしたスレブレニツァ地区に集まったイスラム系住民のうち成人、少年あわせて男性八千人もがセルビア側に虐殺(ぎゃくさつ)された。悪名高い「民族浄化」だった。
カークパトリック氏はこのときの国連の責任を八年が過ぎたいまも、ピンで刺すようにはっきりと明石氏に帰するのである。
「国連の指揮下に入った北大西洋条約機構(NATO)軍がイスラム系住民の虐殺を図るセルビア勢力軍を空爆しようとしても、アカシの許可を得なければならなかった。だが彼は許可を出さないか、出しても五、六時間の空白を設けた末だったため、虐殺を阻めないことがほとんどだった。アカシは軍事作戦に関してはまったく未経験かつ無能力だった。スレブレニツァの大虐殺も近くにいたオランダ軍がその阻止のために必死でNATOの空爆を要請したのに、認められなかったのだ」
明石氏としては国連平和維持活動の中立性や対話を重視しての判断であろう。しかも個人ではなく国連としての組織の対応だったはずだ。だが米国だけでなく欧州諸国のほとんどの関係者も、ボスニア紛争では明石氏を頂点とした国連組織の不適切な対応が「民族浄化」を広げ、平和維持には完全に失敗した、と総括するようなのである。
とくにセルビア側の虐殺責任者が戦争犯罪裁判にかけられて当時の実情がわかればわかるほど、国連の「未必の故意」に近い無力ぶりが浮かんでくるのだ。明石氏に対してもカークパトリック氏とは政治的立場を異にする民主党リベラル派の国際政治学者ルース・ウェッジウッド氏までが「明石氏はカンボジアでは難民救済や民主的選挙実施にすばらしい成果をあげたが、セルビア軍のどのタンクを空爆して進撃を止めるべきか、というような軍事的判断にはまったく不向きだった」とミスキャストを強調する。
明石氏個人の言動を含めてのボスニアでの国連組織の軌跡、とくにスレブレニツァの大虐殺との因果関係は米人記者デービッド・ローデ氏が九七年に出した「エンドゲーム」という書に詳しい。同書はこの大虐殺はもし明石氏や国連防護軍のフランス人のベルナール・ジャンビエール軍事司令官がNATOによる空爆をすぐ認めていれば、防げた、と断じている。
いずれにしてもボスニア紛争での国連の平和維持活動はスレブレニツァの大虐殺により完全な失敗とみなされるにいたった。欧米諸国全体でもこの種の戦争や紛争はやはり国連を主役にしては和平を実現できない、という悲しい総括を生むことともなった。
とくに米国はこの大虐殺を冷戦後の国連平和維持活動での歴史的な失態とみて、ときのクリントン政権も国連への新たな姿勢を打ち出すようになった。ボスニア紛争には米国は主権国家として調停に乗り出し、和平協定を成立させ、米軍部隊二万人を独自に現地へ投入することとなったのだ。
こうした国連の歴史的な曲がり角で実は日本の代表が主役となっていたという事実はきわめて多様な示唆に富むといえよう。
(ワシントン 古森義久)
2003/07/31 産経新聞朝刊
【国連再考】(4)第1部(4)礼賛の裏側 日米同盟への反対の武器
「日米安保条約も米軍基地も自衛隊も、すべて廃棄し、日本の安全の保障には中立的な諸国の部隊からなる国連警察軍の日本駐留を提案したい」
「約二十六万に及ぶ日本の自衛隊を警察予備隊程度にまで大幅に縮小し、それを駐日国連警察軍の補助部隊として国連軍司令官の指揮下におき、一切の経費は日本国民が負担する」
東大教授の坂本義和氏は一九五九年、こんな日本の防衛構想を発表した。東西冷戦の厳しい時代に日米安保に反対し、中立・非武装を説き、国連軍の日本常駐を求めたのだった。常駐軍隊を出す中立的な国としてはデンマーク、ユーゴスラビア、コロンビア、インドネシアなどをあげていた。
この提案は日本が自国を守るのに自らは経費を出すだけで、国連に無期限で防衛のすべてを委ねるというのだから、革命的だった。
日本社会党の書記長だった石橋政嗣氏も一九八〇年に発表した「非武装中立論」で日本の安全保障の国連への委任を主張していた。
「(日本など)各国の安全保障はあげて国連の手に委ねることが最も望ましい。公正な国際紛争処理機関として国連に強力な警察機能を持たせるべきだ。国連は自らは非武装たることを宣言した日本国憲法にとっては本来、不可分の前提であるはずだ」
一橋大学名誉教授の都留重人氏は九六年に刊行した「日米安保解消への道」という書で沖縄に国連本部を誘致することを提唱していた。
「日米安保も米軍基地もない平和な沖縄をつくるための最適の具体的措置は国連本部を沖縄に誘致することだ。現在の沖縄こそが国連本部の所在地として、米軍基地も完全に撤去された『平和の拠点』となるにふさわしい」
こうした表明はいずれも日本の防衛は日米同盟や自衛隊を排して、そのかわりに国連に依存すべきだ、という政策の提唱だった。日米同盟・自衛隊と国連とを二者択一とし、前者をなくして後者を採用すべきだという主張でもあった。
主権国家の必須要件たる自衛という行為を最初からすべて国連に外注するというのは政策論としてはあまりにナイーブである。その主張を文字どおりに受け取れば、戦後の日本の果てしなき国連信仰だともいえよう。
だがこの「信仰」は明らかにぎらりとした政治的主張とも一体になってきた。日本の安全保障政策で「国連」を強調することは多くの場合、「日米同盟・自衛隊」への反対を自動的に意味してきたからだ。日米同盟への反対の政治標語の一部として「国連」がよく使われてきた、といえよう。国連の効用さえあれば、日米同盟も自衛隊も必要ない、という主張が堂々と叫ばれてきたのである。
だがそうした主張は日米同盟・自衛隊支持派からは辛辣(しんらつ)に批判される。拓殖大学教授の佐瀬昌盛氏が語る。
「日本の安全保障や防衛を正面から考えたくない、取り組みたくないから国連を引き合いに出すというのは、国連にとっても日本国民にとっても不敬な話だ。他のどの国でもまず自国の安保を考えたうえで国連を考えている」
「日本の安全保障は国連に」という趣旨の主張は「国連幻想」「国連神話」「国連信仰」といった言葉で表現される傾向によく帰されてきた。国連の現実を理解しない無知がその根源だとする見方だった。ところが物事はそれほど単純ではないとする指摘もある。杏林大学客員教授の田久保忠衛氏が評する。
「日本の安全は対米同盟よりも国連のような多国間機構に頼るべきだと主張する側も、実際には国連が無力であることをよく知っているのだと思う。最初にまず日米同盟への反対という主張があり、その主張を効果的にするために国連を持ち出すのだ。国連の無力を知りながらも、日米同盟への反対の武器として利用するのだと思う」
素朴にひびく国連礼賛の背後には実はどろどろした政治の思惑や狙いがひそんでいる、というわけだ。
いずれにしても、国連はこのように日本の安全保障政策の基本とも複雑にからみあってきた。その政策論議では国連の演じる役割は大きかった。
だが国連自体、発足からすでに五十八年を経ても、坂本義和氏が求めたような一国の防衛を丸ごと請け負う常駐警察軍や、その基盤となる集団安全保障は一向に機能していない。
(ワシントン 古森義久)
2003/08/01 産経新聞朝刊
【国連再考】(5)第1部(5)ソマリアの惨劇 平和の手 住民たちが拒む
ソマリアの首都モガディシオでの国連平和維持活動にからむ戦闘がどれほどむごく、すさまじかったことか。米国映画「ブラックホーク・ダウン」の息をもつかせぬ戦闘シーンからも、その血なまぐささの一端はうかがわれる。この戦闘は国連のあり方に関して一つの歴史的な転機を画すことともなったのだった。
一九九三年十月三日の日曜日午後、インド洋に面した海岸都市モガディシオの中心街、さんさんと注ぐ陽光の下、群衆のあふれる地域に米軍のヘリ部隊が飛来した。中型輸送用ヘリのブラックホーク機の編隊からデルタフォースやレンジャーという特殊部隊の兵士合計百人ほどがロープを使い、するすると降り立つ。
米軍兵士たちは市場近くの三階建てビルを急襲し、部族軍閥アイディード将軍一派の最高幹部二人を捕らえて連れ去ることが任務だった。作戦は一時間で終わる予定だった。だが群衆の間から黒い影のようにわき出た武装ゲリラたちに激しい銃撃を受けた。ブラックホーク機八機のうち二機は対戦車用ロケット砲を撃ちこまれ、墜落した。
米軍特殊部隊は攻撃目標のビル周辺で包囲され、猛攻撃をあびる。市街で激戦が起きれば、ふつう市民たちはクモの子を散らすように逃げるのだが、モガディシオでは逆に老若男女が戦闘地域に大群を成して集まってきた。アイディード将軍配下のゲリラたちはその群衆にまぎれて、米軍に攻撃をかける。混乱きわめる激戦が翌未明まで十五時間も続いたのだった。
世界最強を誇るはずの米軍特殊部隊は十九人が戦死し、七十七人が重軽傷を負った。わずか数キロの地点にある米軍基地からの救援部隊も市街を埋めつくした群衆のために現地に到達できなかった。ソマリア側の被害もすごかった。死者は五百人以上、負傷が一千人以上と推定された。
米軍兵士たちの死体は歓声をあげるソマリア市民たちにより街路を引きずり回された。その映像は米国内でも流され、強烈な反発と怒りを生んだ。とくに激しく叫ばれたのは自国の若者たちが自国と縁のないソマリアの「平和」のためになぜこんなふうに戦い、殺されるのか、という疑問だった。この米軍の軍事作戦はそもそも国連の平和の維持や執行の範囲内での活動だったからである。
人口七百万のソマリアでは強権弾圧のバーレ政権が九一年に倒れたが、そのあとに権力を握ろうとしたモハメド暫定大統領派とアイディード将軍派が全土で内戦を繰り広げた。死傷者が激増し、国土は荒れ果て、大量の餓死が出た。
九二年四月には国連安保理が人道支援と停戦実施の決議を通し、同年七月から翌九三年にかけて第一次、第二次にわたり三万人もの国連平和維持軍を送りこんだ。だがアイディード派は停戦の求めに応じず、国連のパキスタン部隊に攻撃をかけて、その将兵二十二人を殺した。このため国連側もアイディード派を軍事制圧する方針となった。
米国は一時は二万五千もの部隊をソマリアに送り、内戦の平定を目指した。先代ブッシュ政権からクリントン政権への政策の継続だった。米軍は国連の多国籍部隊とはいちおう指揮権は別だとされていたが、国連の広い傘下には入っていた。その米軍が平和執行部隊として九三年十月、アイディード派の幹部二人の身柄拘束へと向かったのである。
だがその結果は国連が平和のオリーブの枝を手渡そうとする相手側が住民ぐるみでロケット砲を撃ち放ってくるという手厳しい事態となった。米国のクリントン政権はソマリアからも国連の平和活動からも、やがて身を引いていく。米国のこのUターンには深刻な意味があった。
冷戦の終わりで国連での米ソ対立が解消され、イラクのクウェート攻撃への国連を軸とする多国籍軍の反撃が成功し、国連の平和維持の効用が初めて生まれた、という期待が国際社会に広まっていた。ところがモガディシオでの事件は文字どおりその期待を血で流し去った。
この事件を詳細に伝えた書「ブラックホーク・ダウン」の著者マーク・ボウデン氏が総括として当時の米国務省高官の所感を伝えていた。
「住民がそもそも平和を欲しなかった。彼らが欲したのは勝利であり、パワーだった。ソマリアの経験は特定地域での悲惨な事態があくまで住民たちの責任で起きることを教えてくれた。憎悪と殺戮(さつりく)が続くのは住民たちがそれを求めるからだ」
(ワシントン 古森義久)
2003/08/02 産経新聞朝刊
【国連再考】(6)第1部(6)最大の目的 阻止されなかった民族抹殺
国連の第一の目的はまず「国際の平和と安全を維持すること」である。国連憲章の第一条に明記されている。
この最大の目的が現実にどこまで達成されているのかを測るときに、考察を欠かせないのは、ルワンダでの大虐殺だろう。大虐殺のなかでもジェノサイド(民族抹殺)と呼ばれる大規模な蛮行だった。一民族全体を徹底して滅ぼそうという大量殺戮(さつりく)の行為である。しかもナチのユダヤ民族抹殺などという体系的で機械的な殺人と異なり、個々の人間が山刀などを使い、憎しみと怒りをこめて別の人間を自分の手で殺していくという行動だった。
国連が介入し、平和を保つための行動を始めながら、なおこうした大規模な殺戮を許してしまう、という実例なのである。国連の平和維持活動とルワンダの大虐殺とを並べて考えると、どうしても国連とは一体なんなのか、という根底からの疑問に襲われる。
国際社会でルワンダという国について知る人は少ない。アフリカ東部の内陸に位置する人口六百万人ほどの小国である。タンザニアやコンゴに隣接し、面積は日本の二十分の一ほどという目立たない国だからだ。
一九九四年四月六日以降の百日間にこのルワンダでなんと約八十万人もの住民が虐殺されたのである。全国民の七人に一人近くが殺されたことになる。国連はこの時点ですでにルワンダの平和や安全の維持のために介入していた。だが全土で公然と展開される残酷な大量殺人行為を阻むことはまったくなかった。
ルワンダでは人口全体の八五%のフツ族代表が率いる政府に対し、残り一五%ほどのツチ族が九〇年はじめから「ルワンダ愛国戦線」というゲリラ組織を作って、戦いを挑んだ。九三年八月には両勢力が和平協定を結び、停戦監視のために「国連ルワンダ支援団」の各国将兵が送りこまれた。当初、フランスやベルギーなど諸国の軍人計二千五百人が駐屯した。
ところが九四年はじめ、ルワンダ政府の首相府の警備にあたっていたベルギーの平和維持部隊計十人がツチ族系武装勢力に惨殺される。そのショックのため他の国連部隊がほとんど引き揚げ、残りはチュニジアとガーナの兵士合計数百人となった。その空白をぬうかのように起きたのが同年四月六日のルワンダのハビャリマナ大統領の専用機撃墜事件だった。
フツ族の同大統領は殺され、ツチ族側の犯行とみたフツ族の政府軍や民兵はツチ族住民を無差別に殺し始めた。フツ族の一般住民までが加わり、少数民族のツチ族全体を抹殺するような勢いの大虐殺となった。しかもその方法が単に銃撃に留まらず、ナタやナイフ、牛刀、棍棒(こんぼう)など、ありとあらゆる野蛮な武器が使われていた。歴史上でも類例の少ない大規模かつ残虐な大虐殺が展開されたのである。
ルワンダ上空を飛ぶ航空機から下を眺めた外国政府高官が眼下の川の光景をみて丸太を組んだイカダが並んで、流れていく、と一瞬、思った。だが丸太にみえるのは、みな虐殺されたらしい男女の死体だったという。
このように目前で繰り広げられるジェノサイドに対して国連はなんの行動もとらなかった。当時の国連の直接の責任者は平和維持活動担当のコフィ・アナン事務次長(現事務総長)だった。
超大国の米国も同様だった。クリントン大統領も、マドレーン・オルブライト国連大使も、行動を起こそうとはしなかった。
ルワンダの大虐殺がソマリアでの国連の平和維持活動の延長として米軍を巻き込んだ惨劇のあと、わずか半年で起きたことも大きなブレーキとなっていた。米国政府としても国連活動への参加に反対する国内世論の高まりに留意せざるをえなくなった。国連側もソマリアでの被害にたじろぎ、部隊の派遣には慎重になっていた。
全土が血の海となるような、こんなむごい殺人は阻止が可能ではなかったのか。予知はできなかったのか。国連も米国もなぜ連日、殺人が続くのに手をこまねいていたのか。
五年ほどが過ぎた九九年十二月、ルワンダ大虐殺への国連の行動、非行動を分析した報告書が出た。当時のルワンダPKO軍司令官のカナダ人、ロメオ・ダレア将軍らが調査した結果による報告だった。報告はフツ族過激派が実は以前からひそかにツチ族大虐殺の計画を立て、推進し、国連側のアナン氏らもそれを知っていた、と結んでいた。
(ワシントン 古森義久)
2003/08/04 産経新聞朝刊
【国連再考】(7)第1部(7)イラク戦争 構造的欠陥を二重に実証
「国連が自らの決議に沿ってイラクの武装解除を実行しないならば、米国がそれを実行する」
米国のブッシュ大統領はこんな言明を繰り返した。三月下旬にイラクのフセイン政権への軍事攻撃を開始する前の意図の説明だった。「国連が行動をとらない」という点を強調し、代替策として米国が国家主権を発動しての行動をとらざるをえない、という宣言でもあった。
平和を維持するための国際機構としての国連の失敗は、数え切れないほどの実例が指摘されてきた。個々のケースでの失態は多数、実証されてきたといえる。だが今回のイラク戦争ほど国連の単なる失敗ではなく、もっと広く深い構造的欠陥を露骨にみせつけた例はなかった。しかもイラクのフセイン政権と米国のブッシュ政権と、そのいずれもが同時に一八〇度も異なる見地からそれぞれ、国連の無力をさらけ出してみせる結果となったのだ。
米国側はイラクを攻撃する理由について「フセイン政権は国連決議で課された義務を履行しなかった」として、国連の無力を前提に懲罰の決意を宣言して、実行に移した。コリン・パウエル国務長官が二月の国連安全保障理事会での演説で「イラクはすでにこれまで十二年間、国連決議十七件に重大な違反をしてきたと断じられた」と述べたとおりだった。
クウェートを軍事占領し、米国主体の多国籍軍の攻撃を受けて完敗したイラクは十二年前の一九九一年四月、国連安保理の決議六八七号を受け入れる前提で停戦を認められた。事実上の降伏だった。その結果、核、化学、生物という大量破壊兵器や射程百五十キロ以上の弾道ミサイルをすべて破棄し、かつその確認のための国際査察を受け入れることを誓約した。その時点で少なくとも化学兵器の保有は確実だった。
だが国連の認定でもイラクはこの決議を完全には守らず、国連の側は以後、当初の決議の趣旨を履行させるための追加の決議を次々に採択していく。しかしイラク側の対応はかえって硬化し、九八年には国際査察団をすべて国外に追い出してしまった。その状態は二〇〇二年秋ごろに米国が武力攻撃の意図を明白にし始めるまでそのまま続いたのだった。その長い年月、国連自体はイラクにあいつぐ決議を順守させるための強固な手段はとらなかった。
米国側では国連のこうした側面をとらえてその機能自体が現実にとって「無意味」「無関係」と断じたわけである。
だが視点を変えて、イラクの側、さらには米国のイラク攻撃に条件つきながら反対したフランスやドイツの側からみても、国連の無力はいやでも実証されたことになってしまう。
米国はイギリスなど「有志連合」を結成し、国連の動向に最終的には背を向けて、イラク攻撃に踏み切った。国連は米国のこの行動を止められなかった。国連安保理の全体の意向を理由に米国に反対をぶつけたフランスやドイツにとっても、国連の機能はなきに等しかったこととなる。
だから国連の無力は二重に印象づけられたのだった。
米国側ではとくに国連安保理のメカニズムに対し改めて非難の矢を放つこととなった。「国際平和と安全の維持」のために国連のなかでも唯一、加盟国を拘束する権限を持つはずの安保理は常任理事国五カ国、非常任理事国十カ国から成る。
イラク攻撃の是非が論じられたとき、非常任理事国にはアンゴラ、カメルーン、ギニアという諸国も含まれていた。国際社会から援助を得なければ機能できない貧困や内戦に悩まされ、国際動向との連環を説くことが難しい微小や孤立が特徴の諸国だった。米国側では「ギニアという国の意思で超大国の米国の国家主権の行使がなぜ左右されねばならないのか」というたぐいの議論が燃えあがった。
国連では安保理常任理事国の拒否権保有を除いては、どの国もすべて平等に扱われる。だから米国の主張が人口六百万人のギニアの意向で抑えられるという現象もいくらでも起きうるのだった。
事実、フランスは一九五八年まで自国の植民地だったギニアに外相を送り、ロビー工作を展開させるという構えをみせた。そんな動きは米国をまたいっそう国連拒否へと駆り立てた。
国連の構造の古くて新しい欠陥や矛盾はこうしてイラク戦争を機に、いやというほどまた露呈されたのだった。
(ワシントン 古森義久)
2003/08/05 産経新聞朝刊
【国連再考】(8)第1部(8)石油交換プログラム 管理能力の欠落みせた腐敗
湾岸戦争からイラク戦争へのうねりは期せずして国連の管理能力の欠落をもみせつけることとなった。国連が七年も管理してきたイラクの「石油食糧交換プログラム」が不正に運営され、巨額の資金が賄賂(わいろ)やキックバックとして消えたことを知りながら、国連自体はなにもしなかったことが明るみに出たからだった。
一九九六年に始まったこのプログラムはイラクの石油を輸出し、そこから得た資金でイラク国民への食糧や医薬品など人道的な産品を輸入するという趣旨だった。九一年にクウェート占領の懲罰を受けたイラクは、国連決議が求めた大量破壊兵器の破棄などを履行せず、国連から経済制裁を受けた。制裁の最大の柱は世界第二の埋蔵量を誇る石油の輸出禁止だった。
石油からの外貨収入がなくなり、イラクの経済の悪化に拍車がかかった。国民の飢餓や病気がひどくなった。国連はその対応策としてフセイン政権に石油を売った代金を食糧や医薬品に用途を限って使わせるという「石油食糧交換プログラム」を始めたのだった。米国が主唱した措置だった。
だがこのプログラムは奇々怪々となり、本来の目的を大きく外れた。フセイン政権が崩壊までの七年間に石油を外国に売って得た代金の総額約六百四十億ドルのうち、二百六十億ドルはクウェート侵攻での被害者への補償などに回された。残りの三百八十億ドルが食糧などの人道輸入にあてられたはずだが、実際にイラクへの輸入が確認された分が二百四十五億ドルだった。差額の百四十億ドル近くの資金はどこかへ消えてしまったのだ。
このプログラムは全体が国連安保理の下に特設されたイラク・プログラム局に管理された。同局は国連事務次長のベノン・セバン氏を局長とし、イラク国内でもイラク人三千人、外国人一千人をそれぞれ職員としていた。イラクの石油を国内のどの企業から調達し、外国のどの企業に売るか、はすべて同局が決めるとされていたが、実際にはフセイン政権の意向が大きかった。食糧や医薬品をどの国のどの企業から買うのかも、同様に決められた。
国連のコフィ・アナン事務総長は昨年六月、「石油食糧交換プログラム」の「人道輸入」の範囲を広げ、文化やスポーツ関連の購入を認める措置をとった。その結果、モーターボート、高級乗用車、高級家具、テレビ局機材などが輸入されるようになった。イラク側は二千万ドルの五輪スタジアムの建設まで求めた。だがこれらをすべてまとめてもなお百四十億ドル近くが使途不明だった。
いまではこの行方不明の資金のほとんどがフセイン政権による横領や賄賂、そしてキックバック、さらには違法の課徴金となっていたことが判明した。フセイン政権崩壊後、次から次へと当事者たちが証言するにいたったのだ。
デービッド・ハウファウザー米国財務省法律顧問は五月の議会公聴会で激しく非難した。
「この国連プログラムは露骨な悪質かつ厚顔な方法での汚職腐敗の典型例を示した。全世界が恥辱を覚えるほどのひどさだった」
米国の企業が国内法の規制でイラクとの取引はまったくできなかったことも米側の怒りをあおっていた。
さらに重大なのはこの国連プログラムがロシア、フランス、中国という特定の国の企業とほぼ独占的に深い関係を結んでいた点だった。まずイラク石油を売った資金はフランスのBNPパリバ銀行に国連が設けた預託口座に集中して預けられ、処理を任された。
同プログラムの下でイラクと取引をした国の筆頭はロシアで総額八十億ドル近く、次はフランスで約四十億ドル、中国もヨルダン、アラブ首長国連邦と並んで三十億ドルという金額が明らかとなった。
イラクの石油とこうした結びつきの強いフランス、ロシア、中国という諸国がいずれもフセイン政権への軍事行動に最後まで難色を示したことは示唆に富む。「米国がイラク攻撃を望むのは石油が原因」という説へのアンチテーゼの構図が浮かぶからだ。
「石油食糧交換プログラム」の実務責任者でキプロス国籍の国連官僚のセバン氏はこの五月、ABCテレビに賄賂やキックバックがなぜ放置されたかを問われて、答えた。
「だれもが不正を知っていた。だがなにかの措置を実際にとれる立場にいる人間はなにもしなかった。私には行動をとる力はなかった」
(ワシントン 古森義久)
2003/08/06 産経新聞朝刊
【国連再考】(9)第1部(9)常任理事国への壁 憲法と安保理活動の矛盾
日本は国連に切ない恋心を寄せてきた。だが当の国連の素顔は日本が思い描いた魅惑の相手とはほど遠く、日本をいささかでも恋う思いもなかった。その意味では完全に片思いだった。この片思いのむなしさの卑近なほんの一例が東京の青山にそびえる国連大学なる施設だろう。
日本にとって国連に入ること自体が悲願だった。独立を回復してすぐの一九五二年六月、国連への加盟を申しこんだが、ソ連の拒否権でついえた。その後、二度も申請したが、やはりソ連に拒まれた。やっと加盟を果たしたのは五六年十二月と、当初から四年半も後である。
しかも国連憲章には日本を敵国とみなす条項があった。憲章は第二次大戦が終わる前にできたため、日本とドイツを「この憲章のいずれかの署名国の敵国であった国」として特殊扱いしていた。日独両国に対しては国際社会の現状維持に反する行動があるとみなせば、国連の統制を受けずに武力攻撃をしてもよい、という意味の規定だった。
日本はこの敵国条項の削除を何度も求めた。同条項は文字だけで実質的な意味を失ったという解釈もあるが、日本にとって屈辱的な記述はなお変わっていない。
なのに日本は国連に涙ぐましいほど依存しようとした。加盟直後から外交政策の柱に「国連中心主義」を掲げた。国連の経費負担でもどの国よりも前向きに貢献した。国連の活動の核心である安全保障理事会にも熱心に加わり、九〇年代前半までにすでに八回も非常任理事国となって、最多記録を作っていた。そして日本政府は九三年七月、安保理常任理事国となることへの意思を初めて公式に表示したのだった。
しかし日本のこうした国連への姿勢には実は越え難い断層がひそんできた。とくに安保理への参加にその断層は巨大な矛盾となってつきまとう。この矛盾とは簡単にいえば、国連が最大目的とする世界の平和と安全を守るための集団的安全保障を日本は自国には禁じていることである。
国連では侵略や戦争を各国が集団体制を組んで抑えにかかる。その抑える作業は最悪の場合、各国の軍隊が国連軍でも、多国籍軍でも、集団を組んでの軍事力行使となる。その軍隊を出す各国は自国領土が攻撃されているわけではない。
ところが日本は憲法第九条の解釈により、集団的自衛権は保有はしていても、行使はできない、とする。自国の領土を個別に守る個別的自衛権以外にはいかなる場合でも軍事力を行使してはならない、というのだ。となれば、国連でも日本は他国とは異なり、集団での安全保障や平和維持の軍事行動には加われない。
国連安保理は日本とは逆に集団での軍事行動を実施する母体である。とくに常任理事国はその中核となる。日本がその常任理事国となった場合、自分には禁じていることを他人にさせる、という立場になるわけだ。
日本政府が常任理事国入りの意向を初めて公式に表明したとき、米国のクリントン政権は支持の構えをみせた。だが議会では反対の動きが起きた。上院で米国政府は日本の常任理事国入りは日本がふつうの軍事行動ができるようになるまで支持してはならない、という決議案があっというまに成立してしまったのだ。先頭に立ったのは知日派のウィリアム・ロス上院議員(共和党)だった。九三年七月末に上院全員一致で可決された同決議は次のようにアピールしていた。
「日本は憲法の独自の解釈により国連安保理の活動の中心となる地域的安保体制や、軍事行動を伴う平和維持活動、平和執行活動へ参加できないという制約をみずからに課している」
「日本が参加できないとする国際安保活動なしには国連の安保理は通常の機能を果たせない。日本は現状のままでは常任理事国の責任や義務を果たせない。その結果、日本は自国が参加不可能とわかっている国連の軍事行動を決定し、左右し、アメリカなど他の国のみの軍人の生命を危険にさらすことになる」
要するに自分ができないことを他人に指示して、させる立場には立たせないぞ、という警告だった。自分ができるのにしたくないことを他人にさせるのは明らかに不公正であり、偽善だろう。集団的自衛権禁止と国連安保理活動との矛盾は国内でも真剣な論議のテーマとはなっていない。国連への片思いはこんな重大な課題への目をも曇らせてしまったようなのだ。
(ワシントン 古森義久)
2003/08/07 産経新聞朝刊
【国連再考】(10)第1部(10)国益との共存 国家主権への異なる姿勢
国連の失態や欠陥をこれまで報告してきた。だがもちろん国連の存在自体を否定するわけでは決してない。国連が成しとげてきた着実な実績を無視するわけでもない。国連への反発や不信がすっかり高まった米国でも、その国連批判の先頭に立つ元国連大使のジーン・カークパトリック氏でさえ、国連非難の過剰を戒める。
「米国が排しても嫌っても国連は今後も存在していくだろう。だからその存在自体をあまり非難しても意味がない。米国も国連の一部という状態が続いていくからだ。要は国連に対し米国の利益を守りながら、うまく機能させていくことだ」
大切なのはなんといっても自国の利害、つまりは国益の優先、そのうえでの国連との共存ということなのだろう。
全世界で話題となった書「歴史の終わり」で知られる国際政治・歴史学者フランシス・フクヤマ氏(現ジョンズホプキンス大学院教授)も国連の効用をすべて否定してしまうことへの反対を明言する。
「国連は安全保障に関しては確かにその機能は疑問だが、その他の機能は重要であり、米国もその価値は認めてきた。開発途上国の国づくりに象徴される国連の技術的な専門能力は高く評価されるべきだろう」
確かに国連はその目的として「平和と安全の維持」と並び、「経済的、社会的、文化的または人道的性質を有する国際問題を解決すること」をうたっている。貧しく恵まれない諸国への経済支援、虐げられた社会の不平等、不公正の是正、不幸な人々の人権の尊重や医療の救済など、いずれも国連が長年、主に常設・補助機関を通じて活動してきた分野である。緒方貞子氏が代表だった国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)はその象徴的な実例だろう。
しかしそれでもなお国連が最大任務として掲げる「平和と安全の維持」となると、いまの米国での国連否定の激しさは注視せざるをえない。なにしろ国連を結成した最大の主導役も、国連の運営資金の最大額を負担するのも米国なのだ。その最大の担い役が担ってきた相手にすっかり愛想をつかしたような言動をみせるのだ。
保守派の政治評論家ジョージ・ウィル氏は国連の存在自体をしりぞけるような主張を繰り返し述べている。
「米国の保守主義の核心となる原則は国連を排することにより米国という国家の主権と行動の自由を保つことだ」
反国連主義が米国の年来の保守主義と結びつき、イデオロギーとしても確立されたようなのである。
フクヤマ氏はこの種のイデオロギーを少し離れた距離から解説する。
「米国人の大多数は保守もリベラルも、人間集団に対し権力、権限を行使できる唯一の存在は民主的手順で選ばれた政府だけだと固く信じている。民主的選挙で生まれた政府に代表される主権国家こそが正当なパワーを有する機関であり、世界秩序も国際パワー政治もそうした主権国家に従属するという考え方だ。国連がその主権国家の正当なパワーを奪うという印象があれば、米国人は激しく反発することになる」
世界秩序と国家主権というのは新世紀のこれからの国際社会でも最も重要で最も難しい課題であろう。フクヤマ氏はすでに現在でも米国の思考がグローバルにみて絶対ではないことを付言する。
「この点では米国と欧州とでは世界をみる目が基本的に異なる。欧州は主権国家の衝突という二度の世界大戦での悲惨な体験のせいからか国家主権を薄め、一部を放棄する姿勢をみせる。欧州連合(EU)がその結果だといえる。だが米国は反対の立場をとる」
フクヤマ氏はアジアでは欧州諸国のような民主主義など共通の基盤が少ないためにも国家主権の一部放棄は不可能だと述べながら、国連への自身の考えを率直に語った。
「現実の世界では強制的パワー、つまり軍事力も、その行使も主権国家が独占している。その主権民族国家が予見しうる将来、なくなるという考えはナンセンスだ。だから民主主義の正当性を有する主権国家が国連のような多国間機関に自国の生死である安全保障を委ねることはできない。この点で冷戦の終結後、米国も含めて世界には大きな幻想が生まれていたようだ」
国連をめぐるこの種の幻想とは一体、なんだったのか。第二部では国連の歴史をさかのぼり、そのへんに光を当ててみたい。
(ワシントン 古森義久)=第一部おわり
2003/09/08 産経新聞朝刊
【国連再考】(11)第2部(1)呼称 神話の起源は壮大な「誤訳」
壮大なる誤訳とでも呼べようか。少なくとも本来の言葉を訳す側が理想への願望からねじ曲げた切ない曲解とはいえるだろう。日本語での「国際連合」という呼称と英語の「ユナイテッド・ネーションズ(United Nations)」という原名の間にはそんなギャップが存在するのである。
国連の創設はそもそも第二次世界大戦中の一九四四年の夏から秋にかけてのダンバートンオークス会議で骨子が決められた。米国の首都ワシントン旧市街のジョージタウンの小高い一角にあるダンバートンオークス邸は三百万平方メートルもの広大な敷地に広がる閑静な邸宅と庭園である。
第二次大戦でドイツ、イタリア、日本などの枢軸国と戦ってきた米国など連合国(ユナイテッド・ネーションズ)は四四年八月二十一日から十月七日まで、このダンバートンオークスで戦後の世界の安全と平和を守るための国際機構の設立を論じる会議を開いた。当初はドイツやイタリアと戦う米国、イギリス、ソ連の三国代表が顔をあわせ、後半は日本と戦う米国とイギリス、中華民国の三国代表が会談した。
前と後でソ連と中華民国が入れ替わったのはソ連がまだ日本とは交戦状態にないからだった。戦争自体は欧州でもアジアでもなお激しく続いていた。だがソ連軍は東部戦線全面でドイツ軍を破り、米英軍もノルマンディーに上陸して、フランスを奪回し、太平洋の米軍はマリアナ沖海戦で日本海軍空母の大半を撃滅して、究極の勝利をすでに確実にしていた。
枢軸と戦うこの米英ソ中などの諸国がいま日本で「国連」と訳される言葉と同じ「ユナイテッド・ネーションズ」と呼ばれていた。「連合した諸国」つまり「連合国」、具体的には枢軸国を敵とする諸国の軍事同盟だった。
この軍事同盟を「ユナイテッド・ネーションズ」と最初に呼ぶことを提唱したのは日本軍のパールハーバー奇襲を受けてまもない米国のルーズベルト大統領だった。ホワイトハウスを訪れ、入浴中だったイギリスのチャーチル首相に相談し、同意を得たというのが定説である。同首相はイギリス詩人のバイロンがうたった「ユナイテッド・ネーションズが剣を抜けば」という一節を引用して賛意を表したという。その呼称は「連合国」としてすぐ四二年一月一日の大西洋憲章に盛られた。
その二年半後のダンバートンオークス会議では戦後の国際機関もこの軍事同盟と同じ呼称にすることが決められた。その過程ではソ連は「世界連合」を、イギリスは「世界評議会」を、それぞれ新国際機関の名に提唱したという。だが結局は米国案の「ユナイテッド・ネーションズ」が採用された。戦時中の同盟を次元を高めて、機能を異にする発想だが、平時の新国際機関を基本的に軍事同盟の延長とみる姿勢があらわだった。
このへんの歴史の事実は国連を「第二次大戦後の国際社会が新世界の平和維持のために創設した新国際機関」とみる日本の一般の認識とは、かなりかけ離れている。しかも奇妙なことに本来なら「連合国」と訳されるのが自然な名称が日本では「国際連合」と訳され、歴史の事実をさらにゆがめる効果を発揮しているのである。ちなみに中国語では国連は原名に忠実に「聯合国」と訳され、中国でも台湾でも公式呼称となっている。
ダンバートンオークス会議の翌年の四五年六月、国連の創設を正式に決めたサンフランシスコ会議では国連憲章が五十カ国代表により署名された。憲章でも新機関の名称は「ユナイテッド・ネーションズ」と明確にうたわれていた。外務省条約局が中心となった日本語訳ではこの名称は「国連」とされるのだが、その訳では憲章の記述が一貫せず、前文と後文では同じ言葉が「連合国」と訳されている。
こうした経緯をみると、国連は「連合国」あるいは「連合国機構」と訳すのがより正確だったといえよう。外務省の内部からも「わざわざ実体にもそぐわない『国際連合』という訳語をつくり」(元外務省国連局社会課長の色摩力夫著「国際連合という神話」)という指摘がある。
ではなぜそんな訳語がつくられたのか。色摩氏は解説する。
「戦後のわが国の社会にあり得べき違和感を懸念して、俗耳に入りやすい『政治的表現』を狙ったらしい。だがこれは賢明な判断ではなかった。『国連』という呼称がわれわれ日本人の途方もない『国連神話』を生み出す要因の一つとなったからだ」
つまり国連という曲訳からは、この国際組織が実は第二次大戦の勝者が戦後の世界の秩序を保つために軍事同盟の延長としての共同統治を図るという戦略の産物だったという現実がうかがわれない、ということであろう。
(ワシントン 古森義久)
2003/09/09 産経新聞朝刊
【国連再考】(12)第2部(2)敵国条項 勝者が統治する戦後世界
国連のゆりかごを編む場となったダンバートンオークス邸は日本の書籍類ではワシントン郊外とされるが、実際にはワシントン市内、ホワイトハウスからほんの三キロほどの首都の中心部に位置する。赤いレンガ塀に囲まれた美しい欧州スタイルの庭園と邸宅は米国外交官ロバート・ブリス夫妻によって築かれ、国連創設の会議が開かれた一九四四年にはハーバード大学の所有となっていた。
厳密には「国際機関についてのワシントン懇話」と命名されたこの会議には米国、イギリス、ソ連、中華民国という連合国の四カ国代表が集まった。代表たちの当時の主張をたどると、日本にとってノドに刺さったトゲのような国連の敵国条項の存在もごく自然にみえてくる。
国連はその憲章で連合国の敵だった枢軸側の日本やドイツを出発点から差別していた。国連憲章は第五三条と第一〇七条とで「敵国」という言葉と概念をはっきりうたっているのだ。
第五三条では「敵国」という語は「第二次世界戦争中にこの憲章のいずれかの署名国の敵国であった国」と定義づけられる。そのうえで一般の侵略などに対する強制行動(軍事行動)は国連安全保障理事会の許可がなければとれないが、「敵国における侵略政策の再現」への軍事行動は例外だと規定する。
つまり原加盟国は日本やドイツだけに対しては「侵略政策の再現」があるとみれば、自由に軍事行動をとってよい、というわけである。
第一〇七条でも「第二次世界戦争中にこの憲章の署名国の敵であった国」が例外としてうたわれ、その敵国に対し国連一般加盟国が「戦争の結果」としてとった行動も憲章のどの規定でも無効とはされない、と明記されている。つまり敵国への軍事関連行動は国連一般の規定にまったくしばられない、というわけだ。
この敵国条項は現状では明らかに日本などにとって不公正である。国連憲章第四条でも「加盟国の地位はすべての平和愛好国に開放される」と明記され、すべてのメンバーは平等であることがいまの国連の前提ともなっているからだ。
だが国連の過去を国際連合ではなく連合国としての生い立ちにさかのぼり、五十九年前のダンバートンオークス会議での討議を追えば、敵国条項に関する矛盾も不公正もそれなりに説き明かされてはくる。
米国代表のコーデル・ハル国務長官は同会議でも国連のあり方についてルーズベルト大統領の「四人の警察官」構想をいろいろな表現で説いていた。この構想は戦後の世界の平和や安全はあくまで第二次大戦の勝者たる米国、イギリス、ソ連、中華民国という四主要連合国が警察官のような力と機能によって保つ、という趣旨だった。
ハル長官は語っていた。「四連合国が基本的な目的や利害を一致させ、永続的な相互理解を保たない限り、新国際機関の創設も紙の上の創造にすぎなくなる」
連合国が一致して「ナチス・ドイツや帝国主義・日本のような侵略的国家が世界を悩ますことが二度とないという保証に基づく平和」の構築を目指し、他の諸国は非武装に近い状態におく、という狙いでもあった。
イギリス代表のアレクサンダー・カドガン外務次官はチャーチル首相の「世界評議会」方式の戦後秩序維持を提唱した。この方式はイギリス、米国、ソ連の三国が戦争中の連合国としての軍事同盟を戦後も続け、全世界にわたって侵略を阻むことに責任を持つ、というシステムだった。
そのためには全世界を欧州、太平洋、南北アメリカの三地域に分けて、英米ソがそれぞれの地域評議会を運営することがうたわれた。ここでもドイツや日本という敵国を完全かつ永遠に無力化することが前提だった。
こうした連合国側の構想は戦争がなお続きながらも、勝利の展望が確実となった時点で勝者が戦後の世界をどう統治していくかを決めたシナリオだったといえよう。となると、勝者を苦しめ、傷つけた敗者はその戦後世界では徹底して骨抜きにされ、国連という新システムのなかでも、はるか低い地位に落とされる宿命となる。ダンバートンオークス会議が描くこのような構図では国連憲章の敵国条項というのも、ごく当然となってくるわけである。
しかしその当時からでは世界の実情があまりに変わってしまったことこそ、いまの国連にとってのジレンマであろう。
(ワシントン 古森義久)
2003/09/10 産経新聞朝刊
【国連再考】(13)第2部(3)国際連盟の教訓
■制度上の失敗 反面教師に
「『効果的な国際機関』という表現を明記するだけでも国内には疑惑や反対が渦巻いてしまう」
国連の最大の推進者となる米国のルーズベルト大統領はイギリスのチャーチル首相に当初はそう告げて、国連ふう国際機関の設立意図の表明へのためらいを伝えていた。第二次大戦でドイツ軍の進撃が激しい一九四一年八月に米英首脳が発表した大西洋憲章の草案づくりでのやりとりだった。
チャーチル首相が同憲章に将来の国際平和の保持のために「効果的な国際機関」の創設を明記することを求めたのに対し、ルーズベルト大統領は反対したのだった。その結果、憲章では単に「一般的な安全保障制度」の構築への期待を述べるのに留まった。
ルーズベルト大統領に複雑なブレーキをかけていたのは、国際連盟の失敗だった。いや同大統領だけでなく、第二次世界大戦の終わりに戦後の新国際機構をつくろうとした連合国首脳たちはみな国際連盟の教訓を大きな影として意識していたといえる。
第一次世界大戦の悲惨を繰り返さないという希求から一九二〇年に生まれた国際連盟を主唱したのはルーズベルト大統領と同じ米国、しかも同じ民主党のウッドロー・ウィルソン大統領だった。だが米国内では国際連盟への加盟に対し雨あられのような激しい反対が起きて、ウィルソン大統領は文字どおりそのために病に倒れ、政治生命を縮めてしまった。
同大統領が「各国の政治的独立と領土保全を保証する国際機関」として提唱した国際連盟の創設は、第一次大戦の講和をまとめたベルサイユ条約の一部規約として実現した。一九二〇年一月、連合国と中立国あわせて四十五カ国が参加した。世界史でも初めての国際的な集団安全保障の試みではあった。
だが肝心の米国では国内の猛反対をウィルソン大統領が抑えきれなかった。病弱の同大統領は医師の制止にもかかわらず、国内各地を回り、国際連盟加盟をアピールした。だが旅中に血栓症に倒れ、上院は加盟条約の批准を否決してしまった。米国内の一部の伝統的な孤立志向が反戦感情と結びつき、勢いを得た形だった。
米国なしの国際連盟には当初、ドイツもソ連も入れなかった。フランスとイギリスが中心メンバーとなったものの、両国の利害は対立した。日本やイタリアも加わったが、英仏主体の国際連盟には冷淡だった。加盟国は一時は五十九カ国にも達したとはいえ、一九三〇年代には日本、ドイツ、イタリアが次々と脱退していった。国際連盟は三九年のドイツ軍のポーランド突入による第二次大戦の始まりにもまったく無力となった。
国際連盟の失敗の理由は米国やソ連が不参加だったことのほかに、総会や理事会が大国も小国もまったく同等の全会一致を基本としたため、連盟全体としての意思が決められなかったことだとされた。決定も単なる「勧告」であり、紛争当事国にも加盟国にも拘束力を持たなかったことも、連盟の機能をすっかり弱めていた。
このため一九四四年のダンバートンオークス会議からヤルタ会談での討議を経て、翌四五年四月に開くサンフランシスコ会議で正式に決まった国際連合のメカニズムは明らかに国際連盟の失敗からの教訓を反映させていた。
まず第一には大国、小国まったく平等という連盟の基本に対し、国連は大国のパワーが世界の平和を左右する現実を認めて、安全保障理事会の常任理事国という形で米国、イギリス、ソ連、中国、フランスの戦勝連合五カ国に特権を供し、しかも拒否権という究極のカードを与えていた。
その一方、第二には議事はすべて全会一致制という連盟の基本に対し、国連は総会では多数決制を採っていた。安保理の議事でも常任メンバーの拒否権行使の場合を除いては多数決となった。
第三は平和や戦争に関する重要決定もしょせんは拘束力がないという連盟の基本に対し、国連は安保理の決定に拘束力を与えていた。国連はしかも独自の軍隊を有し、その拘束力の裏づけとして軍事力を実際に行使できることをも自らに認めていた。
国連がこうして反面教師とした国際連盟は国連が正式にスタートした一九四五年十月二十四日の時点でもなお存続していた。正式に解散したのは翌四六年四月だった。だから国際連盟は国連の前身であって、前身ではないのである。
(ワシントン 古森義久)
2003/09/11 産経新聞朝刊
【国連再考】(14)第2部(4)拒否権 ソ連が権謀、遠謀で押す
「とてもナイスで、ものわかりがよい人物」
ダンバートンオークス会議のソ連首席代表のアンドレイ・グロムイコ駐米大使はイギリス首席代表のアレクサンダー・カドガン外務次官からこう評された。その後の長い東西冷戦時代にソ連外相として西側を揺さぶり、悩ませることになる人物の特徴描写にしては意外である。
ソ連の国連創設への当時の取り組みは米英側が予想したよりはずっとスムーズで柔軟だった。だからこそグロムイコ代表の言動も「ナイス」と評されたのだろう。ただし同じ人物評でも崩壊した旧ソ連側に語らせると「ダンバートンオークス会議でのグロムイコはスターリンの理想的な走り使い少年だった」(ヘンリー・トロフィメンコ・ロシア科学アカデミー米国カナダ研究所首席アナリスト)となる。
国連の主唱者のルーズベルト米国大統領はイギリスのチャーチル首相に国連ふうの国際機関が象徴する戦後の世界の体制について「各国が自ら望む政府を選ぶ自由」や「すべての人間が自由に生きる権利」を前提のように語っていた。
同大統領が意味したのは枢軸と戦ってきた連合国同士であっても共産党独裁のソ連は異質の少数派となる民主主義の体制だった。ソ連側としては、だから国連づくりのプロセスでは米英側に対し山のような要求を突きつけ、自国の体制を守ろうとするだろうとも予測された。
ところがダンバートンオークス会議ではグロムイコ代表はおどろくほどの協調性を示し、米英側の国連に関するほとんどの提案に柔順に同意した。ただし強引な主張が二点だけあった。
第一は国連にはソ連は連邦本体だけでなく連邦を構成する計十五の共和国すべてを個別に加盟させるという案だった。ソ連が突然に出してきた提案に米英側は不意をつかれた。
第二は拒否権だった。国連での重要な平和と安全の案件についてはすべて安保理の常任理事国の全会一致の賛成を不可欠にするという案である。安保理にはかる提案はみな常任理事国五カ国のうち一国でも反対すれば、排されるという拒否権システムだった。
第一点については米英の反発にグロムイコ代表は当初から譲歩をちらつかせた。だが第二点の拒否権ではどんなことがあっても譲れないという態度を貫いた。「グロムイコは国連憲章への安保理全会一致の原則の採用のためにはライオンのように戦った」(トロフィメンコ氏)というのだ。
米英側は当初、拒否権を制限することを主張した。安保理での案件の内容次第で全会一致を必要としないという案や、常任理事国のうち四カ国が賛成すれば、残り一国の拒否権は認めないという案、あるいは安保理にかかる紛争案件の当事者となる常任理事国は表決に加われないという案も、米英側から非公式に提起された。
しかしソ連は微動だにしなかった。各共和国の加盟案ではウクライナ、ベラルーシ(白ロシア)両共和国とソ連邦本体の計三国の加盟という線で妥協したが、安保理常任理事国の拒否権についてはいささかも譲らなかった。米英側が折れて、国連憲章はこのソ連の要求どおりのシステムを認めた。
実際にスタートした国連はこの拒否権こそが最大のカベとなって、空転を重ねていくのである。ソ連にとっては長い東西冷戦の間、この拒否権が自国の国際利害を守る強力な外交武器ともなった。
ソ連はこうした戦後の新世界の秩序づくりを進めるにあたり、日本の敗北を当然の帰結とみていた。だが表面では日本との中立条約をあくまで守る構えをみせていた。ダンバートンオークス会議でも日本との非交戦を誇示するために、中華民国との同席を断固として避けてみせた。
ところがソ連は実際には同会議の前年の四三年秋には米英両国に対し日本攻撃の決定を伝えていたのである。ドイツを破れば、すぐに対日参戦するという決定だった。しかし表面は日本との不可侵の誓約を保ちながら、その実は戦勝国としての戦後の国際統治の青写真を描く主役の一員となっていたのだった。
こうしたソ連のしたたかな権謀とたくましい遠謀も国連創設の大ドラマの隠された重要部分だったのである。戦後に機能を始めた国連がその種の権謀や遠謀とからみあってこそ生まれたという現実は、日本側での国連認識とはあまりにかけ離れていたといえよう。
(ワシントン・古森義久)
2003/09/12 産経新聞朝刊
【国連再考】(15)第2部(5)中国とフランス 大国の戦略で「勝者」扱い
国連はしょせん第二次世界大戦の勝者が戦後の国際秩序を統治するためのメカニズムとして意図されていた。その勝者は安全保障理事会の常任理事国として拒否権という特権を与えられた。米国、イギリス、ソ連、フランス、中国の五カ国である。この構成は国連誕生から五十八年後のいまもまったく変わらない。だが勝者の条件とはそもそもなんだったのか。
広い意味ではドイツ、日本、イタリアという枢軸国と戦った連合国が勝者だった。だがもう少し踏み込んでみると、中国とフランスは厳密な意味では勝者ではなかった。なのに勝者の特権を与えられたところにも国連の深刻なひずみが存在するといえる。
第二次大戦の実際の戦闘で自らも莫大(ばくだい)な犠牲を払い、枢軸側を破った勝者は、米英ソの三大国だった。だから枢軸側への要求や戦後への構想を決める最重要な会議では当時の中国政権である中華民国は除外された。テヘラン会議やヤルタ会談は米英ソ三大国の首脳だけで進められた。国連がらみの戦後秩序を論じるときにも当初はこの三大国だけの「三人の警察官」構想が主だったのである。
ところが一九四三年十一月のテヘラン会議で米国のルーズベルト大統領が熱心に中国を連合国の主要メンバーに引きずりあげることを主張した。戦後への構想は「四人の警察官」となった。中国は人工的に大国の扱いを受けるようになったのだ。
いまの中国の学者たちもこのへんの歴史の現実は率直に認めている。中国社会科学院の資中●元米国研究所長が述べる。
「中国はいかなる基準でも三大国と対等なパートナーではなかった。実際には三大国によって新たな地位を決められたのだ。当初はチャーチルもスターリンも中国を二流のパワーとみなし、大国の地位を与えることには強く反対した」
ルーズベルト大統領は中国の格上げは対日戦争での中国の士気を高めるだけでなく、戦後のアジアで中国を親米の強力な存在とし、ソ連の覇権や日本の再興を抑えるのに役立つ、と計算していた。アジアの国を大国扱いすることは戦後の世界での欧米支配の印象を薄めるという考慮もあった。
しかしチャーチル首相は米国のこの動きを「中国の真の重要性をとてつもなく拡大する異様な格上げ」と批判した。スターリン首相も中国の戦争貢献の少なさを指摘し、さらに激しく反対した。だがルーズベルト大統領はソ連への軍事援助の削減までをほのめかして、反対を抑えていった。
フランスは最初から最後まで「警察官」にさえ含まれていなかった。戦争ではドイツに敗れて降伏し、全土を制圧され、親ナチスのビシー政権を誕生させた。ドイツへの抵抗勢力としてはドゴール将軍がかろうじてイギリスで亡命政権ふうの「国民解放戦線」を旗あげした。だが米国もソ連もこの組織を政府としては認めず、フランスに冷淡だった。スターリン首相はテヘラン会議では「真のフランスはビシー政権であり、フランスは国として戦後は懲罰を受けるべきだ」とまでの侮蔑(ぶべつ)を述べていた。
だがチャーチル首相が一貫してドゴール将軍下のフランスを擁護した。国連づくりのプロセスでも主要連合国並みの資格を与えることを主張した。米国もソ連もやがて同調していった。米英軍のフランス奪回後にパリにもどり、一九四四年九月に臨時政府を成立させたドゴール将軍に対しフランス国民が熱狂的支持をみせたことが大きかった。
だがフランスは国連の安保理常任理事国の実質上の資格である第二次大戦の勝者ではないことは明白だったのである。中国も同様だといえよう。にもかかわらず両国とも国連では真の勝者たちの政治的、戦略的な意思によって勝者の特権を与えられたのだった。
この点でも国連はスタート時から平和への希求という崇高な顔の裏に大国のパワー政治のぎらぎらした素顔を宿していたのである。
中国とフランスが常任理事国に選ばれたプロセスは明らかにそうしたパワー政治が公正や平等、論理や規則という原則を押しのけた形跡をあらわにする。しかも当初の五常任理事国のうちソ連はいまや崩壊して、ロシアとなった。中国を代表した中華民国は国連を追われ、議席は中華人民共和国に移された。フランスを含まない「四人の警察官」のうち二人はすでに別人となってしまったのだ。
(ワシントン 古森義久)
2003/09/15 産経新聞朝刊
【国連再考】(16)第2部(6)真摯な決意 「平和の守護者」への期待
国際連合の創設を正式に決める全連合国会議が一九四五年四月にサンフランシスコで開かれ、「戦後世界の平和と安全」への希求が語られたとき、日本では米軍の連日の爆撃で皇居や明治神宮までが焼かれ、「本土決戦」や「一億総玉砕」が叫ばれていた。
サンフランシスコ会議が同年六月に国連憲章への五十カ国の調印を得て、国連を事実上、スタートさせたときも、日本は唯一の枢軸国として連合軍への血みどろの抗戦を試みていた。沖縄の日本軍が全滅したのは憲章調印のわずか四日前だった。
国連の出発点でその国連をつくった連合国と戦争をしていたのは全世界でも日本一国だったのだ。平和のシンボルのような国連の誕生の後に、日本に対してはその国連を担ったソ連が攻撃をかけ、米国が原子爆弾を落とすという皮肉でもあった。
この歴史のコントラストは改めて国連という組織の基本の性格を物語り、日本と国連との特殊な相関を照らし出している。
だがサンフランシスコ市内のオペラハウスで開かれた同会議にかける当時の世界各国の期待は熱かった。二つの世界大戦での人類の惨劇と悲劇を決して繰り返さないために、世界各国が共同して平和と安全の維持にあたり、不戦を誓うという決意は真摯(しんし)だったといえる。
同会議はそれまでの流れのとおり米国、イギリス、ソ連、中国という四大国が他の諸国を招待する形をとった。「四人の警察官」の基本は依然、貫かれていた。ただし主役の米国ではルーズベルト大統領が会議の開幕の十三日前に病死して、ハリー・トルーマン副大統領が継承した。会議が始まって二週間ほどでドイツが降伏し、国連づくりに勢いをつけた。
国連憲章は国連の正式発足への手続きとしてフランスを含めた五大国と調印国の過半数がそれぞれ自国で条約として批准せねばならなかった。最も心配された米国でも上院は四五年七月、八十九対二の圧倒的多数で国連憲章の批准案を可決した。
憲章が決めた国連のメカニズムでは国連自体が歴史上、初めての国際機関として独自の軍隊を持ち、平和の維持や執行にあてることになっていた。国連への加盟はすべての主権国家が大小を問わず、平等に、一国一票の権利を有することとなった。組織の運営は総会と安全保障理事会が主軸となることになった。
だが総会はあくまで「勧告」の権限しかないのに対し、安保理事会は「執行」の権限を与えられ、しかも平和と安全に関する案件はすべて安保理が優先し、独占してまず扱う権利をも託された。そのうえに安保理では常任理事国五カ国それぞれが拒否権を有し、いかなる提案でも一国がノーといえば、葬り去られることとなっていた。平等であって、平等ではない国連の最大特徴がここにあった。
しかしそれでも四五年十月二十四日、加盟国の半数以上の国連憲章批准が終わり、国連が正式に発足したとき、この新国際機関こそが以後の世界の平和を守る実効組織だとする高い期待が全世界に広まった。同年八月には日本もついに降伏し、長く苦しい世界大戦もやっと終幕を迎えていた。
そうした世界情勢の背景の下、国連は戦後の新時代の輝く平和の守護者としてあがめられたのだった。国連の長い歴史をいま振り返るとき、こうした熱狂に包まれたスタート時こそ、最高の黄金時代だったといえるようだ。
しかしきらきらした理想がどんよりとにごる現実にさえぎられるのに長い時間はかからなかった。国連独自の軍隊という壮大な歴史的実験は、着手さえできないことが判明したのだ。
「国連軍」の構想は国連憲章の第四十二条から四十七条あたりまでの規定できわめて具体的に決められていた。国連の必要に応じて加盟各国が随時に出す平和維持軍とは異なり、国連指揮下の常設の平和と安全のための軍隊なのである。この国連軍は軍事参謀委員会により結成され、運営されることになっていた。軍事参謀委員会は安保理常任メンバーの五大国の参謀総長により構成される。五大国から空軍、陸軍、海軍それぞれどれほどの兵力と装備の部隊を募り、全体としてどんな国連軍を編成するかはこの委員会で決められることになっていた。
だが国連の発足一年あまりで米国やソ連によるこの軍事参謀委員会の討議が破綻(はたん)してしまったのである。
(ワシントン 古森義久)
2003/09/17 産経新聞朝刊
【国連再考】(17)第2部(7)芝居の舞台 団結から対立の道具に
「国連は芝居の舞台として機能するようになった」
国連合同監察団の監察官だったフランス人国際政治学者のモーリス・ベルトラン氏は一九四五年十月に発足してから数年後の国連についてこう総括した。加盟各国は国連をただ相手への非難をぶちまける政治宣伝の場所とみなすようになった、という痛烈な批判だった。
イギリスの国連代表団の高官だった国連の歴史研究家エバン・ルアード氏は自書「国連の歴史・一九四五-五五年」のなかで新たな門出したばかりの国連に対し、さらに手厳しい診断を下していた。
「一九四五年から五五年までの国連は失敗に終わった。大多数の加盟国は国連を大国やその他の国が紛争を解決するための場所とはみなしていなかった。国連はむしろ公然と議論し、反対側を公的に非難し、決議案を示し、世論を一定方向へ扇動する場とみていた」
だから国連は政治プロパガンダを演じる場所であり、その意味ではドラマの舞台というわけだった。四五年十月に正式に創設された国連は当初は加盟各国から間違いなく「平和の守護者」としてあがめられたのに、その後すぐに単なる「芝居の舞台」と冷笑されるようになってしまったのだ。
その理由はごく簡単だった。米国とソ連と、二つの超大国とその両陣営の対立による東西冷戦が始まったからだった。国連はすでに述べたように第二次大戦で枢軸側と戦って勝った連合国、とくに米国、イギリス、ソ連の三大国が運営の主体だった。戦争が続く限り、連合国の団結は強かったが、終わってみると、その団結は意外なほど早くほぐれ、逆に対立へと変わっていったのだ。
チャーチル首相は四五年二月のヤルタ会談ではスターリン首相と乾杯し、「戦争の火がソ連との間の過去の誤解を燃してしまった」と述べ、イギリスとソ連との過去のしがらみを捨てての和解や連帯を祝った。ところがその同じチャーチル首相が翌四六年三月には「鉄のカーテンが欧州大陸に降りた」と宣言し、ソ連の東欧支配を非難したのだ。
連合国同士だったはずのソ連と米英両国の間はソ連が降ろした「鉄のカーテン」で仕切られ、対立が始まったわけである。国連では対立し始めた主要連合国が安全保障理事会の常任理事国としてみなオールマイティーの拒否権を持っていた。対立した当事者たちがみな個別に拒否権を持ち、自説を曲げないで、拒否権を使うとなれば、当然、組織全体が機能を果たさなくなってしまう。
安保理への最初の提訴は四六年一月十九日にイランから出た。イラン領内北部のアゼルバイジャンにソ連軍が駐留しているのは内政干渉だから即時、引き揚げを、という訴えだった。ソ連側はイランの背後に米英側がいるとみた。
ソ連もその二日後、報復するような形で、イギリス軍がギリシャの内政に干渉するのをやめよ、として、その引き揚げを求める訴えを安保理に出した。あっというまに国連は東西両陣営の激突の舞台となっていった。しかも双方が拒否権を持つから、国連の行動をとめるのも容易だった。国連は東西冷戦の外交闘争の手段となり、国連の平和・安全の維持の機能はまひしていったのである。
ルアード氏が述べる。
「国連は平和を模索する場というよりは戦場であり、互いを理解しあう場というよりは、互いをだますための場であり、和解よりは対立のための道具として認識されるようになった。一九四五年からの十年間、国連は冷戦の一手段にすぎなくなった。国連は東側諸国にとって自分の意見を世界に宣伝するための場だった。西側諸国にとって国連は多数票を獲得し、世界が自分たちの側についていることを示せる、という場となった」
第二次大戦での同盟が東西冷戦での対立へと変わるにつれて、国連は世界の平和と安全の維持に関しては、すぐに無力な存在となっていったのである。国連憲章が壮大にうたった「集団安全保障」からはまったく離れた組織となっていったのだ。
この間、世界では緊迫や紛争が相ついだ。
シリア・レバノンからイギリス、フランス両国軍を撤退させるという案件、ギリシャ国内の共産ゲリラを掃討する案件、インドネシア独立戦争、パレスチナ戦争、カシミール紛争、ベルリン封鎖事件、ベトナム独立闘争と、世界の動乱は国連を傍観させる形で展開するのだった。
(ワシントン 古森義久)
2003/09/18 産経新聞朝刊
【国連再考】(18)第2部(8)朝鮮戦争 偶然が生んだ「真の国連軍」
国連が本来、意図した機能を果たしたのはただの一回、単なる事故のような偶然からだった-。
東西冷戦時代を通じての国連の無力が論じられた際によく聞かれた指摘である。このただ一回の例外が朝鮮戦争への国連の対応だとされるのだ。
一九五〇年六月二十五日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の大部隊がなだれをうって、北緯三八度線を越え、大韓民国(韓国)領内への攻撃を開始した。
朝鮮半島にはたまたま将来の統一を検討する「国連朝鮮委員会」という組織ができていた。この組織がすぐトリグブ・リー国連事務総長に北朝鮮の侵攻による全面戦争が起きつつあることを報告した。同時に二十五日のうちに国連安保理で米国の要請により「朝鮮での侵略行動による平和侵犯」を審議する緊急会議が開かれた。
この会議でリー総長は「朝鮮半島の情勢は国際平和への重大な脅威であり、平和回復に必要な措置をとることは国連安保理の明白な責務だ」と言明した。米国代表が「北朝鮮による韓国への武力攻撃行動の即時停止と北朝鮮軍の三八度線以北への撤退を求める」という決議案を提出した。決議案は安保理で反対もなく可決された。
同決議は「すべての国連加盟国に対しこの決議の実行のためのあらゆる支援を供することを要請する」ともうたっていた。この決議はそれ以前も以後も同様の紛争への対応が必ず両当事者への停戦呼びかけとなったのにくらべて、北朝鮮の武力攻撃の責任だけを明確に非難した点でまったく異例だった。
だが現地ではソ連製T34戦車を先頭とする七個師団もの北朝鮮軍が不意をつかれた韓国軍を撃破して、首都ソウルに襲いかかっていた。国連朝鮮委員会は六月二十七日、「北朝鮮軍は国連安保理決議を守らず、韓国に対し周到に計画され、調整された全面侵略を実行している」と報告した。
ちなみに朝鮮戦争が北朝鮮の全面攻撃で始まった経緯は国連がこう明確に報告していたにもかかわらず、その後、日本では左翼系の学者やマスコミは長年、「戦争は米韓側の挑発や侵略から始まった」という北朝鮮・中国側の主張をそのまま繰り返してきた。いまでも北朝鮮の攻撃を客観的な史実と認めず、「朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)」(共同通信社刊『世界年鑑』)というふうにあいまいにする向きも多い。
国連安保理は同二十七日にまた会議を開き、加盟国が北朝鮮の侵略を阻むための武力行動をとるという決議を採択した。米国提出の同決議は「国連加盟国は北朝鮮の攻撃を撃退し、国際平和と安全を回復するための必要な支援を韓国に与える」ことをはっきり求めていた。反対したのはユーゴスラビア一国だった。
この結果、初めて国連軍が北朝鮮と戦うこととなった。米軍が主体となり、艦砲射撃や空爆を開始した。海上封鎖も始まった。在日米軍の歩兵二個師団が急派された。イギリス、オーストラリア、ニュージーランドが部隊を投入した。翌五一年には国連軍への参加は計十六カ国となった。ただし国連軍の主体はあくまで米軍で、陸軍の五〇%、海軍の八六%、空軍の九三%をも占めていた。
それでも国連としてのこの動きは画期的だった。「国連の歴史・一九四五-五五年」の著者エバン・ルアード氏がその意義を強調する。
「国連が攻撃を受けた国の防衛のために加盟諸国に国連としての軍事行動をとることを求めたのは初めてだった。集団安全保障の原則が実施された古典的な実例だった」
その意味では朝鮮戦争での国連軍は国連憲章第七章が規定する「平和の破壊」への国連自体としての軍事的措置に限りなく近かった。この第七章こそ国連が究極目標とした集団安全保障の構想をうたっていた。その後の国連の長い歴史でも、名目上にせよ、これほど集団安保の原則の実現に近づいた例はなかった。
国連が当時、こうした行動をスムーズにとれた理由はただ一つ、ソ連が安保理に出ていないことだった。
一九四九年十月に成立した中華人民共和国の周恩来首相は翌月、国連に中華民国の追放を求めた。ソ連がこの動きを全面的に支援して、安保理に中華民国追放案を出した。だが五〇年一月、六対三で否決された。その結果に抗議してソ連は以後の安保理の会議を一切、ボイコットしていたのだった。そんな偶然こそが最初で最後の真の国連軍を生んだのである。
(ワシントン 古森義久)
2003/09/19 産経新聞朝刊
【国連再考】(19)第2部(9)東西から南北へ 新興国加入で舞台錯綜
国連の最初の十年間は「西側陣営の国連支配の時代」とも評された。国連の平和・安全の維持という主機能が東西冷戦での対立ですっかり抑えられたとはいえ、国連全体としての主導権は米国を中心とする西側諸国がしっかりと握っていたからだった。その最大の理由は単純な数字だった。
国連が正式にスタートして二カ月の一九四五年末の時点では加盟国計五十一カ国のうち、ソ連が統括する東側陣営にはっきり色分けされるのはわずか六カ国だった。しかもソ連邦の二共和国を含めてもである。
これに対し米国主導の西側陣営は西欧と北米にイギリス連邦諸国を加えた計十四カ国、さらに中南米諸国二十のうちの大多数、アジア諸国八のうちのほとんどを自陣寄りとしていた。四十ほどの国が西側支持だったのだ。
一国一票という国連の全メンバー平等のシステム下ではこの数の差は大きかった。総会ではまずどんな案件でも西側の意見が圧倒的多数の声となり、国連総会としての決定を生んだ。
安全保障理事会では常任理事国のソ連が拒否権を使うことができた。だから世界の平和と安全に関する重要案件は西側の思うようにはならなかった。とはいえ西側としては安保理でもソ連の「横暴な少数意見」を印象づけることができた。
このため西側諸国は国連ではもっぱら自陣営の主張と敵陣営ヘの非難の表明を優先させ、妥協や譲歩で解決策をみいだすという努力をしなかった。国連が紛争解決の場にはなりにくい理由のひとつをつくっていた。
国連合同監察団の監察官だったフランス人国際政治学者のモーリス・ベルトラン氏は述べる。
「この期間、国連は交渉の場として機能することはできなかった。西側陣営は多数派であることを利用して自己の正当性を世界にアピールしようとした。ソ連はこれに対抗して、常に間違っていると非難される少数派が持つ唯一の武器である拒否権を行使した」
だから国連自体が平和と安全の維持に果たす機能も権威も落ちていった。とはいえ圧倒的多数を誇る西側陣営にとって国連は、国際社会が自陣営の主張を支持しているのだと誇示できる政治宣伝の舞台となった。自己の正当性の根拠は表決での票数となる。多数パワーである。少数派からすれば「多数の独裁」だった。
だが西側陣営にとってこの多数パワーに頼る国連対処法はやがてブーメランのように、向きをくるりと変えて、自らを襲ってくるようになる。国連での多数派の立場を失うこととなるからだった。
一九五五年ごろから国連には第三世界の新興国が加わるようになった。国連憲章がうたう「人民の自決」に従い、脱植民地化が進み、新たな独立国家が生まれて、国連に入ってくる、という新プロセスの始まりだった。
国連の加盟国は五五年には六十だったのが、六五年には百十九へと倍増した。新加盟国の大多数は元植民地だった。六五年末の時点では全加盟国の約三分の二にあたる七十六カ国が第三世界の諸国となった。この種の諸国は当然、反植民地主義の立場を鮮明にしていた。その結果、国連の質も変わっていった。
新たに国連に加わった新興諸国は貧困で弱小だった。一国では外交上の発言力も極端に弱い。そうした諸国は国連への依存が高くなる。国連を使って大国に対抗するという傾向である。だから国連自体の権威や機能を強くすることに力を注ぐようになる。この傾向は国連の力を弱いままに抑えようとしてきた米国やソ連とは対照的だった。
国連が扱う案件の質も異なってきた。新加盟国が国連に提訴する案件が脱植民地化にからむケースばかりだったからだ。西欧諸国の支配下にあったアフリカやアジアの植民地が独立する過程でぶつかる多様な障害や紛争が国連に持ちこまれるようになった。
国連は東西対立にからむ案件を扱う舞台だったのが、こんどは南北問題を扱うことが圧倒的に多くなったのである。ただし東西問題もなお頻繁に起きており、それらが南北問題を複雑に錯綜(さくそう)させるようになった。
旧植民地だった新興諸国は東西対立のイデオロギー的側面にはあまり関与しなかったが、宗主国への反発が西側陣営への反発につながる場合も少なくなかった。ソ連がこの傾向を利用して、第三世界に接近し、国連の力の構図は大きく変わっていった。
(ワシントン 古森義久)
2003/09/20 産経新聞朝刊
【国連再考】(20)第2部(10)金縛りの平和維持 常任理事国の紛争に無力
ソ連のニキータ・フルシチョフ首相が国連総会の議場でクツを脱いで、振りかざし、テーブルにたたきつけたのは一九六〇年十月十三日だった。フィリピン代表が演説し、「ソ連は東欧をのみこみ、政治や市民の権利を奪ってしまった」と非難したときである。
フルシチョフ首相はこの年の国連総会に出席するためにニューヨークに三週間も滞在した。同総会にはアイゼンハワー(米)、マクミラン(英)、ネール(インド)、ナセル(エジプト)、チトー(ユーゴスラビア)、スカルノ(インドネシア)、カストロ(キューバ)などという戦後世界を動かした巨頭たちが姿を現した。激動する国際政治のなかでよきにつけ、悪しきにつけ、国連への関心が高まった結果だった。
とくにフルシチョフ首相にとって国連は、東側陣営の主張を訴えるパフォーマンスの格好の場となっていた。それまで国連では少数派として守勢に立ってきたソ連が、東側陣営にもときには友好を示す新興諸国の加盟で味方を増してきたからだった。
同首相がこの総会で最も熱をこめたのは植民地主義の糾弾だった。新加盟の諸国はほとんどが西側先進諸国の旧植民地だったことが大きな理由だといえよう。首相は総会で自ら「植民地独立宣言」の採択を提案した。翌年末までにすべての植民地の独立を求めるという過激な内容を読み上げるとともに、米国やオーストラリアの「原住民抹殺」を非難したのだった。
ソ連のこの提案は結局は否決され、アフリカ、アジア諸国が共同で出したやや穏健な「植民地独立宣言」がかわりに採択された。
フルシチョフ首相の国連総会での言動は、旧植民地だった新興諸国の加盟があいつぎ、南北問題が新たな主要課題となっても、なお激しい東西対立が国連の単一有機体としての効用を決定的に弱めている現実を改めて印象づけた。この時期に国連の平和維持活動が本格的に始まったが、そこにも東西対立の影が濃かったのである。
平和維持部隊は国連緊急軍という名称で一九五六年に初めて中東のシナイ半島での紛争に対応して組織された。その後、六〇年にはコンゴ紛争に対し、六二年にはニューギニアの西イリアン紛争に、六四年にはキプロス紛争に、それぞれ国連平和維持部隊が送られた。
これら部隊の結成はある意味では国連が本来の目的から後退したことを証していた。憲章がうたうような国連が自ら侵略に対抗する「集団安全保障」でもなく、軍事衝突を実際に止める「平和の執行」でもなかったからだ。平和維持というのは当初から特定の地域内ですでに和平に同意した当事者たちの間の平和を保つ、という目的だけを目指していた。その点では警察行動に近かった。
当時のダグ・ハマーショルド国連事務総長は平和維持活動の前提となる原則としてさらに、国連の部隊派遣には紛争当事者の同意を得ること、現地の内政には干渉しないこと、紛争当事者たちの勢力比を変えないこと、などを打ち出した。また国連部隊は実際の活動では武力は自衛のための最後の手段としてしか使わない、ことも決められた。
この平和維持活動の第一期八年間の実績の総括は難しい。四件のいずれのケースも当面の目的は達され、平和維持軍の死者もコンゴで二百三十人が出るに留まった。だがいずれの紛争の根源もほとんど手つかずのままだった。そのうえになによりもこの同じ時期に起きた他の大きな侵略や紛争には国連は無力だったからだ。
その最大例は五六年のソ連軍のハンガリー侵攻だといえる。非スターリン化、自由化を進めたハンガリーの国民は親ソ連の当局への反乱を起こし、共産圏離脱までを求めた。だが介入してきたソ連の大軍に鎮圧された。この間、ハンガリー国民代表は国連への訴えを続けたが、国連はソ連の拒否権で動けなかった。同様に国連は六一年の米国のキューバ侵攻支援に対しても、六五年の米国のドミニカ侵攻にも、無力だった。
国連の安全保障理事会は紛争に常任理事国が正面から関与している場合や、常任理事国の緊密な同盟国が当事者の場合、平和維持活動でさえ機能が難しいというパターンがさらに形成されていったのである。一方、この種のブレーキがかからない個々の状況下では、平和維持活動はそれなりの成果をあげていった。
しかし全体としては一九七〇年代を迎えてもなお国連は東西冷戦による金縛りからは脱せなかったのである。
(ワシントン 古森義久)
2003/09/22 産経新聞朝刊
【国連再考】(21)第3部(1)国連大学の怪 不明な存在意義、不備な運営
日本国内で国連を感じさせる存在といえば、東京都渋谷区にそびえる国際連合大学であろう。青山通りに面したピラミッド型地上十四階の豪華なビルは人目を引くが、内部にある国連大学の実態について知る日本国民は少ない。
国連大学というのは奇怪な機関である。大学であって、大学ではない。一般の意味の大学に不可欠な学生も教授もキャンパスも存在しないからだ。国連であって、国連でないとさえいえる。公式には国連総会の付属機関とされるが、国連は設立にも運営にも資金を出しておらず、財政の基盤は日本が独自に負担しているからだ。
国連大学は「人類の存続、発展、福祉の緊急な世界的問題の研究と知識普及に携わる研究者たちの国際的共同体」と同大学の憲章で定義される。大学という呼称が連想させる高等教育とは無縁の単なる研究者の集まり、あるいは研究機関、研究発注機関だといえよう。
だがその活動が実際に国連にどう寄与し、国際社会にどう貢献するのかには疑義が多い。その点では日本国民が国連大学を国連や国際社会に重ねて、高い期待を寄せるのは切ない誤解のようなのだ。
国連大学自体の発表では、その活動は「平和と統治」とか「環境と開発」というテーマの研究を各国の学者に委託することや、開発途上国の研究者を招いて短期の研修会を催すことなどであり、目的は「国連と世界の学術社会のかけ橋」になることなのだという。
だがこの「活動目的」の根本的な欠陥は、その種の研究がらみの活動はすでに国連本体の各機関が直接に、あるいは外部組織への委託の形で、とっくに実施していることである。あえて「大学」を設け、資金を投入してまで進める必然性が薄いのだ。
国連大学のこの種の欠陥や問題点は国連自体が明確に認めている。国連合同監察団が一九九八年に発表した国連大学の調査報告書は次のような骨子を指摘していた。
▽国連大学の活動全体が国連社会に十分に利用されておらず、同大学のユニークな創設自体が国連内外の期待に応じていない。
▽国連大学は主要テーマとする途上国の「能力育成」研究などで国連開発計画(UNDP)、国連教育科学文化機関(ユネスコ)など国連の他の機関との調整が不足のため、同種の研究活動を重複させている。
▽国連大学の理事の人数は多すぎるし、構成が偏っており、全体の運営も人事、管理、予算、財政の各面でより透明で効率を高くし、経費を削減しなければならない。
国連大学の運営については具体的な不正事件も暴露された。国連の会計検査委員会は九八年に公表した監査報告で、国連大学の開発途上国からのコンサルタントや専門家の採用に不備があるとして、二件の不正を明らかにした。
二件とも国連大学から研究を委託され、前払いの代金が払われたのに、研究がなにも出てこなかった、というケースだった。うちの一件は代金二万五千ドルを受け取りながら六年間なにも提出せず、しかも国連大学側はそれを放置していたという。
国連大学のこうした側面は米国のマスコミでも「責任に欠け、資金の大部分を組織自体の自己運営の官僚機構のために費やし、研究や研修にあまり残していない」(ワシントン・ポスト紙報道)と批判された。
国連大学自体の内部監査が不足ということだろう。このだらしのない実態は青山通りにそびえる立派な高層ビルの「人間の安全保障と発展に学術面で寄与する国際連合大学」(同大学の宣伝パンフレットの記述)というイメージとはかけ離れている。
だが内部の実態よりもずっと深刻なのは国連大学の存在自体の意義が国連合同監察団の調査によっても問われたことである。前述の調査報告書はタイトルでも国連大学の「適切さの強化」を求めていた。「適切さ」とはつまり国連大学の存在が国連にとって、ひいては国際社会にとって、はたして適切なのか、という意味である。同報告書が適切さの強化を求めることは現状では適切ではないという示唆だろう。
その適切さはいうまでもなく国連大学の実際の活動の結果で決められる。だがこの点でも国連大学の人事部門などに七年間も勤務した米国人研究者のレスリー・シェンク氏は大胆な指摘をする。
「私自身、国連大学が外部世界になにか明確なインパクトを与えたという兆候はなにひとつみたことがない。国連大学の研究発表などはほとんど実体のないはったりに過ぎない」
国連大学が国連自体にとって本当に必要とされているのかどうか。この疑問は一九七〇年代にまでさかのぼって国連大学のスタートの経緯をみると、さらに大きくふくれあがる。
(ワシントン 古森義久)
2003/09/23 産経新聞朝刊
【国連再考】(22)第3部(2)丸抱えの招致 主要諸国は「ご勝手に」
日本の官民がかつて国連大学を国内に開くことにどれほど熱意を示したか。その熱意に国連の他の諸国がどれほど冷淡に対したか。その記録をたどると、日本の国連にかける情念のようなひたむきさが改めて浮かびあがる。
国連大学は一九六九年に当時のウ・タント国連事務総長により構想が提示された。「多数の国からの教授陣と若い男女の学生から成る」という教育機関としての大学の構想だった。ところが国連の主体となる先進諸国はみな反対だった。
それら諸国は膨張を続ける国連機関の新設にまた経費を負担させられることへの不満に加え、国連と大学の組み合わせを奇異としていた。国連は単に各国の政治の協議の場に過ぎないから、特定の国や社会が長年の文化や価値観の粋を集めてつくる高等教育機関である大学を開くことには適さない、という思考だった。
国連自体が政治的に動くことも多いから、その政治に大学を従属させたくない、という配慮もあったようだ。
だが日本は熱狂的な対応をみせた。時の佐藤栄作首相を先頭に与野党も外務省もマスコミも、国連大学の日本への招致を求めた。日本が一途(いちず)に「国連中心外交」を唱える時期だった。国連大学構想は国連本体とユネスコ(国連教育科学文化機関)の共同のプロジェクトとなったものの、主要諸国はなお無視して、審議の対象とはならなかった。
日本が施設や経費を提供すると申し出て、なお熱心に動き、やっと一九七三年に国連本会議は国連大学設置の決議案を審議し、可決した。だが米欧諸国もソ連をはじめとする東側諸国もみな棄権していた。国連大学の設立も運営も国連予算にはまったく頼らず、すべて自発的拠出金でまかなうと日本が提案していたため、自分たちが資金を出さなくてよいなら、勝手に、という態度だった。
国連大学が単なる研究機関に留まるという案にまとまったことも多くの国の反対を抑える結果となった。だが主要国はどこも賛成はしなかったのである。
日本は東京都心の時価二十億ドル以上の一等地を国連大学用地として無償提供するとともに一億ドルを寄付して国連大学基金とし、運営の資金とすることを決めた。なにからなにまで日本の丸抱えとなった。だからこそ国連大学は七五年にオープンしたのだった。外務省にあって国連局社会課長やチリ大使を歴任した色摩(しかま)力夫氏はこのへんの動きを酷評している。
「『国連大学』とは名のみであり、事実上、日本が国連の名を借りてつくった訳のわからぬ学術機関となった。日本の横車に国際社会が根負けして設置を認めることになったのだ。無用の長物として国際社会の軽侮の的となる筋の悪い発想を崇高な文化事業であるかのように錯覚したといえる。当時、外務省事務当局には国際社会を見据えた真摯(しんし)な反対論もあった」
国連大学自体の案内プロフィルでは、誘致の理由の一つとして、当時の日本の大学が大学紛争などのために「伝統的な習慣や制度に過度に拘束され、社会の構造的変化に十分に対応できていなかったことが指摘される」と述べている。日本の大学の体質改善のために国連大学をつくるという趣旨らしいが、この主張も国連がそもそもなんたるかを無視した主客転倒の議論としてひびく。
発足以来二十八年の国連大学はいま、オランダ人のハンス・ファン・ヒンケル学長の下に東京の本部以外に世界各地十二カ所に専門分野ごとの国連大学研究所をおいているが、現地の大学などとのタイアップが多い。常勤職員は二百十一人、年間予算は約三千八百万ドルとされる。
この予算もほとんどが日本の事実上の負担となる。二〇〇一年度でみると、国連大学の歳入は日本が当初に提供した基金から一千五百万ドル、日本の政府や民間からの寄付による拠出金が約九百万ドルと、全体の七割近くを占めた。
国連大学が国連や国際社会にとってどんな寄与を果たすかという疑問はともかく、これだけ日本からの恒常的な出費が多いとなると、日本にとってどんな利益をもたらすのか、という議論も当然なされるべきだろう。
国連大学はしかも一九六〇年代から七〇年代にかけての日本が願った大学ではなく、単なる一研究機関となったのだから、費用対効果は改めて厳しく計算されるべきである。
(ワシントン 古森義久)
2003/09/24 産経新聞朝刊
【国連再考】(23)第3部(3)運営負担の悲喜劇
■「慰安婦」で糾弾される日本
「われわれは日本政府が北朝鮮を招待しなかったことを北朝鮮政府に対して謝罪し、また北朝鮮の人々との討論の機会を奪われた本会合の参加者に対しても謝罪し、北朝鮮が正当な参加者であることを明確にするために、本会合の報告でもこれら謝罪を明記することを要求する」
今年一月、東京渋谷区の国連大学で開かれた「コミュニケーションの権利」集会の参加者たちは、こんな高圧的な謝罪の要求を読みあげた。同時期に東京で催された「世界社会情報サミット」東京会合に日本政府が北朝鮮代表を招かなかったことは不当だから、謝れ、というのだった。同サミットは国連総会の決議に基づく情報化討議のための地域会合とされる。
日本政府に謝罪を要求したのは「コミュニケーションの権利」集会を主催した日本のNGO(非政府組織)の「JCA-NET」という団体だった。この集会は「世界社会情報サミット」の付随行事として五十人ほどの参加で開かれ、「日本国内の移住労働者や野宿者のコミュニケーション権利」などを論じ、全会一致で日本政府への謝罪要求を決めたのだという。
国連大学での集まりから日本政府へのこうした攻撃の矢は長年、頻繁に放たれてきた。国連に直接、間接のかかわりのある団体が国連大学で集会を開き、日本政府の政策を真正面から糾弾する。しかも特定の政治傾向に基づく非難がほとんどとなる。国連大学を熱心に招き、運営の経費を毎年、負担する日本政府にとっては自分の足を銃で撃つような悲喜劇である。
国連大学での日本政府糾弾の集会で典型的なのは一九九五年七月に開かれた日本軍の慰安婦問題追及のセミナーだった。主催は「国際法律家委員会」というNGOだが、国連人権委員会がスリランカのラディカ・クマラスワミ女史を特別報告者に任命し、日本の慰安婦問題を調査することを決めたのを受けてのセミナーだった。このセミナーでも慰安婦を「軍事的性奴隷」と呼び、日本政府の対応を激しく非難する声明が採択された。
慰安婦問題では九六年一月に国連人権委員会がクマラスワミ報告を発表した。これまた日本政府の立場を不当だと非難し、虚偽が立証されている吉田清治発言を事実として全面的に採用する内容だった。国連人権委員会は現に進行中の北朝鮮による日本人拉致も、中国による少数民族弾圧も、イラクのフセイン政権による残虐行為も、一顧だにしないのに、日本の戦中の慰安婦問題は異様なほどの熱をこめて非難するのだった。
国連大学はその後も、慰安婦問題に対して討論の会場を提供し、日本政府非難の集いを後援し、奇妙なほど深いかかわりを保っていく。今年七月にも国連大学の後援で「慰安婦問題と日韓関係」を論じるフォーラムが同大学会議場で開かれた。
外交特権を与えられ、治外法権に等しい国連大学には豪華で広壮な国際会議場が二つある。同会議場は国連に関係なくても、「公共目的の団体の学術テーマ」に関する会議には一般利用されている。だから多様な政治的背景の団体に使われてはいるが、どうしても国連関連の団体が多くなる。国連関連団体の集会となると、すぐに「慰安婦」が出て、独特の偏りをみせることとなるのだ。
国連大学のこうした伝統的な偏りは大学開設時から十三年間も副学長を務めた国際政治学者の武者小路公秀氏の政治傾向とも無関係ではないと指摘する向きがある。確かに武者小路氏は金日成主席のチュチェ思想の共鳴者として朝鮮総連の主催する行事には主要ゲスト扱いで長年、頻繁に出席し、年来の北朝鮮シンパとして知られてきた。
二〇〇一年十一月に捜査当局が朝鮮総連を家宅捜索した際には、武者小路氏は槇枝元文元総評議長や清水澄子前社民党参議院議員という北朝鮮支援の活動家たちとともに「過剰捜査」だとして首相に抗議した。武者小路氏は国連大学在勤中は北朝鮮の朝鮮科学者協会や中国の社会科学院と日本の東大を結びつけるプロジェクトを推進した一方、日本政府の安全保障や外交の政策には一貫して反対を表明してきた。
もちろん学者の政治的スタンスは自由だし、国連機関の幹部に日本の政策に賛成することを期待もできない。だが日本がなにもかも負担して運営する国連大学のこうした側面や軌跡をみると、その負担の理由がますますわからなくなる。
(ワシントン 古森義久)
2003/09/25 産経新聞朝刊
【国連再考】(24)第3部(4)米のユネスコ脱退 腐敗や欧米敵視を理由に
国連の光と影、虚と実を劇的に示したのは一九八〇年代のユネスコ(国連教育科学文化機関)と米国のロナルド・レーガン政権の激突だろう。
ユネスコは国連大学の母体でもあり、国連の専門機関の一つである。国連専門機関はユネスコはじめ国際労働機関(ILO)、国連食糧農業機関(FAO)、世界保健機関(WHO)など計二十近くを数える。
国連には国際的な平和と安全を保つという目的についで、経済的、社会的、文化的、人道的な国際問題の解決のために国際協力をするという目的がある。そのために存在するのが国連経済社会理事会である。同理事会が国連本体とユネスコのような専門機関との連携にあたるのだ。
そのユネスコが一九八〇年代に米国と深刻な対立を引き起こした。そのエピソードはいまも米国側で国連との関係のあり方を語るときによく言及される。
ユネスコの活動目的は組織の名称どおり、教育、文化、科学を通じて各国民の協力を促進し、世界の平和と安全に貢献することだとされる。八〇年代当時は世界の計百六十一カ国が加わっていた。
このユネスコの最高責任者である事務局長に一九七四年に選ばれたのがセネガル人の教員出身のアマドゥ・マハタル・ムボウ氏だった。頭の回転が速く、押しの強いムボウ氏はアフリカ人としては初の国連関連機関のトップとなった。そして独特のリーダーシップを発揮して、ユネスコを牛耳っていく。
ムボウ事務局長は六年の任期を終え、八〇年には再選される。二期目になると、まずアフリカの政治的立場をことさら強調し、欧米諸国に反抗的な態度を露骨にとるようになった。とくに米国への敵視の姿勢が目立った。そして八〇年代はじめには「新世界情報秩序」という構想をユネスコのプロジェクトとして実施することを宣言していた。
「新世界情報秩序」はそれまでの世界の情報が欧米諸国のマスコミに独占されてきたのを排し、第三世界が主役となり、情報・報道の国際秩序を再編するという構想だった。そのためには政府が記者を個別に審査して、記者資格を与えるか否かを決める、という案も入っていた。ムボウ氏のこうした反欧米の動きは、そのころユネスコのような国連関連機関では最大数を占めた旧植民地の第三世界新興諸国に支持されていた。
ムボウ氏はユネスコの運営でも独裁者と呼ばれた。個人の威光を徹底させ、事務局員の雇用にも縁故を遠慮なく利用して登用し、経理にまでずかずかと介入するようになった。やがてパリの高級アパートの豪壮なペントハウスに住む生活様式のために、「ユネスコの資金を不当に私用にあてている」という非難をあびるようにもなった。
そのムボウ氏の言動に米国のレーガン政権が激しく反発した。そのころの米国は国連でも国際社会でもソ連の脅威への対応に忙殺されていた。東西冷戦のそんな最中に中立に近いはずの第三世界が自陣営に敵対的な態度をとることにはユネスコの全経費の四分の一を一国だけで負担してきた米国として怒りを爆発させたようだった。
一九八四年には米国議会も乗り出して、米国の会計検査院がユネスコの経理など監査することになる。ユネスコ側はその受け入れを認めたのだが、パリ市内のユネスコ本部ビルではその監査が始まる一週間前に突然、書類保管室で火事が起きて、書類の一部が焼けてしまった。パリの警察は放火と断定する。
だが米側では監査を実施し、ユネスコには使途不明金が少なくとも一千四百万ドルあること、ムボウ事務局長が中心となりメキシコで開いた会議は書類上の経費は約五万五千ドルとされたが、実際には六十万ドルもの支出があったこと、全世界で仕事をするはずの職員三千三百人のうち七割もがパリ在住であること、などを明らかにした。
米国政府はムボウ氏が腐敗や反欧米偏向を正す改革を一年以内に実行しなければ、ユネスコから脱退するという方針を決める。米国のユネスコ駐在大使のジーン・ジェラード女史がその旨を通告すると、ムボウ氏は「マダム、ミシシッピ州あたりのニグロと話をしている気にならないように」と、冷笑したという。
米国は結局、八四年末にユネスコを脱退した。イギリスとシンガポールもあとに続いた。国連機関の特殊なあり方を示す出来事だった。
(ワシントン 古森義久)
2003/09/26 産経新聞朝刊
【国連再考】(25)第3部(5)付属機関 「死なず消えず」の特異体質
「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」と述べたのはダグラス・マッカーサー元帥だったが、国連機関は「絶対に死なず、絶対に消えず」と評される。一度、創設された国連の付属機関や専門機関はいくらその当初の使命を達したとしても、廃止や閉鎖されることは絶対にないというのだ。
こうした実例として米国関係者の間でよくあげられるのが「放射線の影響に関する国連科学委員会」(UNSCEAR)である。同委員会は一九五五年十二月に国連総会の決議により国連の付属機関として設立された。その目的は原子放射線の人体や環境に与える影響についての調査や報告とされていた。
同委員会の創設にあたった元国連事務次長の米国人のロナルド・スパイアーズ氏は述懐する。
「当時の考え方としてはごく小さな研究グループをつくり、特定の放射線の影響を調べて、報告書を一本まとめ、その後にすぐ解散する予定だった。当時は若いスタッフだった私がその三十四年後の八九年にこんどは事務次長として国連での仕事を再開してみると、このグループがまだ存続しているのに驚いた」
「放射線の影響に関する国連科学委員会」は八九年の時点で確かに存在した。ウィーンに本部をおき、常勤のスタッフを抱え、毎年一度は計二十一カ国の科学者を集め、年次会議を開いていた。そしてその状況はいまもほとんど変わらない。
スパイアーズ氏はいぶかる。
「この委員会はいまも毎年、報告書を発表し、国連総会がそれを称賛する。だが関係者にその報告書の意味を問うと、だれもわからない、という対応だった。そもそもこの委員会がなにを目的としているかがわからないのだ」
なるほど同委員会の活動目的とされる原子放射線の環境や人体への影響の調査となれば、同じウィーンにある国連関連機関の国際原子力機関(IAEA)に放射線研究部門があり、その機能を果たす。国連専門機関の世界保健機関(WHO)とユネスコのいずれにも原子力放射線の影響を調べる部門があるし、軍縮を担当する国連総会第一委員会も、総会がつくったチェルノブイリ事故国際協力機動班も、同様の機能を有する。
だから「放射線の影響に関する国連科学委員会」が存在する必要はあえてなく、関係者たちがその委員会の目的がわからないと答えても、ふしぎではないこととなる。現実に同委員会をなくそうという提案も民間の国際放射線防護委員会(ICRP)などから出た経緯がある。
同委員会の側はこれに反発し、二〇〇一年十二月には国連総会に同委員会を国連機関としてあくまで存続させるというを決議案を出し、可決させてしまった。かくて同委員会は目的も不明のまま、他の国連機関との機能を重複させながら、存在を無期限に続けることとなる。まさに「国連機関は絶対に死なず、絶対に消えず」なのである。
国連にはユネスコのような専門機関とは別に、総会の決定で創設できる同委員会のような付属機関というのがある。国連誕生の後、各国の国連への期待が高かったとき、この付属機関はどんどん増えていった。そのなかでは一九四六年にできた国連児童基金(ユニセフ)、四九年にスタートした国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)、五一年からの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)などが代表的だった。
総会での決定とは別に国連社会経済理事会も独自の下部機関をつぎつぎにつくり出していった。アジア、ヨーロッパ、中南米などごとの地域経済委員会、そして統計委員会、人口委員会、社会開発委員会など各種の機能委員会などがそのほんの一部だった。
こうした国連機関の特異体質を国連を長年、研究したイギリス人ジャーナリストのローズマリー・ライター氏は自書「失われたユートピア=国連と世界秩序」で批判する。
「国連の専門機関や付属機関の長は国連事務総長にも、あるいは出資する各国政府の指示にも、あえて従わず、独立した主権国家のような王国を独善的につくるようになった。これら機関は『分野ごとアプローチ』をとった。一定の限られた分野で少しでも新しい問題が起きてくれば、すぐにその分野での組織を拡大するという方式だった。その結果、各機関は他と活動を重複させながら膨張していった」
(ワシントン 古森義久)
2003/09/29 産経新聞朝刊
【国連再考】(26)第3部(6)空疎な機関 長年続く壮大な浪費と無駄
国連の各機関は世界のその時代、その情勢に応じ、分野ごとに新設されてきた。時代が移り、情勢が変わっても、いったん設けられた機関はまず廃されない。廃されるにしても、機関の不要が明白となってから実際の廃止までに長い年月がかかる。どんな小さな機関の廃止にも国連総会の議決が必要であり、どんな機関でもそこにかかわる国家や官僚は既得権利の保持に必死となるからだ。
一九七四年に国連経済社会理事会の常任専門家組織として設立された国連多国籍企業委員会も、壮大な浪費の典型だった。この委員会は多国籍企業の行動規範を作ることを目的とし、二十年近くもこの規範づくりに取り組みながら、結局なにも完成できなかった。外国投資を阻害し、時代の要請に逆行する試みとも評された。
そもそも多国籍企業の国際的見地からの行動規範としては国連専門機関の国際労働機関(ILO)が七七年に宣言を出している。経済協力開発機構(OECD)も七六年に多国籍企業ガイドラインという規範を作成した。だからいまさらまた国連の別の機関が同じことをする必要は最初からなかったのだといえよう。
だが国連多国籍企業委員会は延々と作業を続けた。発足から十八年の九二年になっても二年間で一千三百万ドルの国連経費を使っていた。その後すぐに国連機関にしては異例の廃止措置となったが、あまりに無駄な作業だったことがいやというほど印象づけられた。
国連内部の自治機関として六三年に設置された国連訓練調査研究所というのもわけのわからない機関である。設立の目的は「訓練と調査を通じて、国際社会の平和と安全の維持および経済・社会開発の促進を目指す」とされる。各国の自発的拠出金で運営され、年間予算は一千万ドル、日本はずっと最大の拠出国となってきた。
だが同研究所の活動内容には意味がないという批判が高まり、米国は八五年にはそれまでの隔年二百万ドルほどの拠出を一切、やめてしまった。同研究所はニューヨーク、ジュネーブ、ローマ、ナイロビなどにオフィスを構えたが、経費が集まらず、赤字が増えて、規模の縮小を迫られた。その結果、九〇年代にはニューヨーク・オフィスのビルを売りに出したものの、買い手が長いことみつからず苦労したという。
日本の国連関連の書籍ではなお主要機関扱いされる信託統治理事会も、もう長年、空疎な存在となってきた。国連の信託統治とは独立する要件のまだ備わらない地域の統治を国連が当面、先進国に委ねる制度だが、当初は十一あった地域がつぎつぎに独立して九〇年には米国施政下の太平洋のパラオだけが残った。
そんな状況でも信託統治理事会は二年間の予算約一千万ドル、職員五十六人を抱えていた。職員九人がパラオを訪れて、短期、滞在する費用だけで年間十二万ドルを計上していた。九四年十一月にはパラオも独立したのだが、信託統治理事会は廃止はされず、必要な場合に会議を開くという態勢を保っている。
そもそも国連では国連機構は巨大であればあるほど好ましいとみなす第三世界の国々が多数派なのである。
一九六四年に国連総会の常設機関としてつくられた国連貿易開発会議(UNCTAD)もそうした第三世界の要望の産物だった。「開発途上国の経済開発促進のための国際貿易の促進」を目的とし、二年間の予算九千万ドル、ジュネーブに本拠をおくが、実際の活動は国際弁論大会の域を出ないと酷評される。発足の理念が本来、先進国との対決だから、先進国からの批判は手厳しい。
一九八七年に国連貿易開発会議に米国首席代表として出たデニス・グッドマン元国務次官補代理が断言する。
「もしこのUNCTADが明日、消滅したとしても、その組織で直接、働く人たち以外には、どこのだれにも、なんの支障も違いもないだろう」
事実、国連内部でもこの国連貿易開発会議を経済社会理事会や総会の第二委員会(経済)と第三委員会(人権)と統合する案が提起され、同開発会議自体の意義に疑問が投じられてきた。
国連の意義不明な機関について報じたワシントン・ポストは「明日、消滅してもなんの支障もない」という国連機関として、同開発会議とともに、国連大学をリストアップしたことは日本側としても注視すべきであろう。
(ワシントン 古森義久)
2003/09/30 産経新聞朝刊
【国連再考】(27)第3部(7)自己存在の誇示 天文学的分量の印刷物
新鮮なタマゴ、腐りかけたタマゴ、割れたタマゴ・・・多様な種類のタマゴを豪華なカラー写真で印刷したカタログふう刊行物はさすがにベテランの国連官僚たちをもあぜんとさせた。
「タマゴ基準」と題された英文のこの報告書は一九九二年に国連の経済社会理事会のジュネーブに本拠をおく欧州経済委員会から発行され、国連のあり方に批判の目を向ける人たちの間では浪費のシンボルとして語りつがれてきた。
鶏卵のさまざまな種類と状態の「基準」を養鶏農家だけでなく小売店や消費者にまで知らせるというこの報告書はツヤのある用紙に美しい多色刷のタマゴの写真を多数、載せた二十四ページの英文パンフレットだった。報告書というより案内書という感じのパンフレットは三千部も印刷され、国連関連の各国政府代表たちにまず配られたという。
タマゴについて一般に知らせることは無意味ではないだろうが、国連機関が宣伝する「タマゴ基準」になんの法的根拠も拘束性もない以上、やはり浪費だったといえよう。
当時の米国のトーマス・ピッカリング国連大使はショックを受けて、ジュネーブの国連当局に抗議の問いあわせを出した。
「国連が外交官社会にきわめて限定的な価値しかないこの種の出版物を配布することで資源を浪費するとは、ぞっとさせられる。米国は国連に対しその種の特殊刊行物の出版を削減することを求めてきた。このタマゴの報告書の作成や出版にはどれほどの額の国連の経費をあてたのか、知らせてほしい」
米国がこのような抗議を頻繁にするのは各国のなかでも最大額の国連分担金を払っているからでもあろう。第二期クリントン政権で国連大使を務めたリチャード・ホルブルック氏もこの九月にワシントンで開かれた国連に関する討論会で「国連本部の事務局は平和維持活動局には職員が四百二十五人しかいないのに広報局には八百人もいて、だれも読まない発表文や報告書を六カ国語でせっせと書いている」と批判していた。
先任のピッカリング氏も国連のこの傾向は十分に知っていたとはいえ、国連がタマゴについて説明するためにだけ豪華なパンフレットを出すことにはびっくりしたのだろう。
国連が天文学的な分量の印刷物を出し、しかもその内容が空疎な場合が多いことは広く指摘されている。国連研究で知られるイギリス人ジャーナリストのローズマリー・ライター氏が述べる。
「国連各機関は自己の存続のために活動の報告書や説明書の類を最大限、生産する。活動自体よりも活動についての報告書を書くことの方がより重要な優先作業にさえなる。その結果はもっともらしく難解で冗長な文章の書類が洪水のようにあふれることとなる。だが各国の一般国民にとってその種の文書はなんの意味も持たない」
国連機関にとって自己の存在を示すことが報告書類の発表となっているようだが、その作業が機関本来の活動よりも重要な目的になってしまうのは、おかしい、というのである。
ピッカリング氏が国連大使だった当時、国連本部の二年分予算は総額が二十四億ドルで、そのうち一億ドルが広報、四億三千万ドルが会議業務だった。この二種類の経費が印刷物の作成や配布にあてられる。九一年までの二年間に国連の本部とジュネーブ、ウィーンの各機関が出した文書の合計が一億六千五百万件、二十一億ページ、印刷代だけで二億八千万ドルとなったともいう。
国連の文書で最も作成価格が高くなるのは毎年の「国連年鑑」で、一冊が一千ページを超える。作成のペースが極端に遅く、いつも新刊となる年鑑は発行の時点より四年ほど前の年の記述になっている。他の年鑑はさらに時間のズレが広がり、「国連人権委員会年鑑」は九二年刊行の六百五十七ページの版がなんと、一九八三-八四年分の記述だった。
ピッカリング大使からの「タマゴ基準」文書のコストに関する問いあわせには返事がなかった。ジュネーブの国連当局はそれどころか間もなく「タマゴ基準」の続編パンフレットを刊行した。続編には冷蔵タマゴや保存用タマゴの美しい写真が載り、本編と同様の基準の説明が記されていた。国連本部からちょうど「発表文書の量を抑制すること」を求める指示が流れた直後だったという。
(ワシントン 古森義久)
2003/10/01 産経新聞朝刊
【国連再考】(28)第3部(8)刊行物の「検閲」
■特定の国の批判は削除
国連の各機関が出す報告や発表の文書は自己の活動の宣伝を第一義とするため、他者に対してはあたりさわりのない記述になることがまず常である。だがなにしろ刊行物の量が膨大だから、この暗黙の原則を破る内容も出かかり、思いがけない騒ぎを起こすこともある。
そんな騒ぎの典型として記録されているのが国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)で一九八八年に起きた事件である。スイス出身の当時のジャン・ピエール・オッケ高等弁務官は同事務所が定期的に発行する雑誌「難民」の最新号約十四万部を破棄する措置をとった。
同誌に当時の西ドイツ政府の難民や亡命者の受け入れ不足を批判するリポートが出ていることが理由だとされた。西ドイツはそのころ難民高等弁務官事務所への拠出金の主要な提供国だった。破棄はスポンサーの機嫌を損なってはならないという弁務官の政治配慮なのだろう。だが刊行してすぐの雑誌十四万部の破棄と刷り直しの作業のコストも安くはない。
一九九五年に国連創設五十周年を記念して出版された「希望のビジョン」というタイトルの記念本をめぐる騒ぎはもっと複雑だった。国連はこの五十年史本の編集と刊行をイギリスのリージェンシー・プレス社に委託した。同社が発行したエリザベス女王の記念本の立派なできばえを国連側が評価しての委託だったという。
同社は国連五十年史の各章の執筆者たち二十人ほどを主としてフリーのジャーナリストから独自に選んだ。書く記事の内容については同社と執筆者とが独立した権限を持つという理解だった。
だが、いざ記事が書かれて、最終の編集段階となると、その内容が国連側の強い指示によって一方的に修正され、削除されてしまった。執筆者たちは抗議し、削除の措置が撤回されないことがわかると、うちの十五人が自分の名前を執筆者陣から消すことを求めた。
「希望のビジョン」の編集長として執筆者たちを統括したイギリス人のジョナサン・パワー氏は「国連側は合計七十カ所も削除した」として「この措置は言論の自由を抑圧する検閲であり、知的浄化の行為だ」と非難した。パワー氏らが発表し、国連側も認める「検閲」の代表例は以下のようだった。
▽ダライ・ラマ十四世が九三年のウィーンでの国連の世界人権会議で演説を求めたが、禁止されたことを書き、世界人権宣言に関するダライ・ラマの発言を引用したところ、国連側からいずれも削られた。
▽国連人権委員会が人権侵害の疑いがあるとして特別調査報告者を任命した対象の国家としてイスラエル、チリ、エルサルバドル、イランなどの名を書いたところ、国連側から国名をいずれも削られた。
▽イラクと北朝鮮が核拡散防止条約に違反したことを書いたところ、国連側からその記述全体を削られた。
▽日本政府が世界保健機関(WHO)の事務局長選挙で自国候補の中島宏氏に当選させるため、票をカネで買ったという非難や、事務局長となった中島氏が同機関の運営にしくじったという批判があったことを書いたところ、国連側からいずれも削られた。
国連のこうした動きに対しロンドンに本部をおき言論抑圧への抗議活動をする国際民間組織「第十九条」がパワー氏らを擁護する形で非難の声明を出した。
「国連は世界人権宣言を順守して言論の抑圧を糾弾すべき立場なのに、自らが検閲官となり、情報を勝手に管理し、秘密と偏見の文化を広げるようになった」
この民間組織は世界人権宣言のなかで言論の自由をうたう項目の第十九条から名称をとっていた。
国連側はこうした抗議に対し、五十年史刊行の責任者の米国人ギリアン・ソレンセン事務次長が反論した。
「国連の刊行物では個々の国の具体名をあげて批判はなるべくしないのが慣行であり、とくに創設五十周年のような記念の刊行物では特定の国を糾弾することは避けるべきだ。『希望のビジョン』の執筆者たちはみな雇われライターであり、雇った側の国連が最終原稿を自由に調整し、編集する権利がある」
この説明にも一理はある。だが執筆者たちと衝突し、その名を撤回させてまでダライ・ラマの言動や国連人権委員会の動向という周知の事実の記述を削ることもバランスを欠くようにみえる。
(ワシントン 古森義久)
2003/10/02 産経新聞朝刊
【国連再考】(29)第3部(9)UNHCR 人道的活動の裏に腐敗の温床
数え切れないほどある国連の下部機関、関連機関でも国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は一般の共鳴を最も強く得る存在だろう。戦争や迫害、飢餓で母国を追われた恵まれぬ人たちを救うという人道的な活動は、幅広く感謝もされてきた。
とくに日本では緒方貞子氏がトップの難民高等弁務官を二〇〇〇年末まで十年も務め、内外の高い評価を得てきただけに、この国連機関への敬意や親しみは深いといえる。過去の二回のノーベル平和賞受賞もこの機関をさらにヒューマニズムに光り輝く救世主のようにみせてきた。
だが残念なことにこの難民高等弁務官事務所も、その歴史をたどると、他の国連機関同様に不正や無責任による醜聞が目立つのである。
同事務所は一九五一年に国連総会の議決により発足した。最初は五年間だけの活動としたが、難民問題はいっこうなくならず、延長につぐ延長で組織も拡大した。いまでは本部をジュネーブにおき、世界百二十カ国合計二百七十七カ所に現地事務所を開いて、五千二百人の職員を抱える。これだけ寿命が長く、規模が大きくなると、必ず深刻なトラブルが起きるのが国連機関の宿命のようだ。
難民高等弁務官事務所は二〇〇二年にはナイロビで職員が難民の移住の便宜と引き換えに賄賂(わいろ)を受け取っていた事件や、アフリカ西部三カ国で職員が難民女性への食料支援と引き換えにセックスを求めていた事件を自ら公表した。だがもっと深刻なのは、積年のトップの腐敗だった。
まず一九七八年から高等弁務官となったデンマークのポウル・ハルトリング氏は自国の友人の旅行業者を登用して、同事務所の弁務官関連の旅行すべてを管理させ、次に調達部門の責任者とした。旅行や調達の奇妙な取り引きが続出し、やがてこの友人はジュネーブ本部事務所に出勤しなくても仕事をすべてこなせると宣言するようになった。
ハルトリング氏のデンマークの他の友人はやはり同事務所の高官に抜擢(ばつてき)されたが、難民の教育基金関連の書類を偽造して、資金を不正に得たと非難され、辞任した。ハルトリング弁務官による自国の友人、知人の大量導入は同事務所では「デンマーク・マフィア」と称されるようになった。
八六年に高等弁務官となったスイスのジャン・ピエール・オッケ氏も公金の使途に疑問があるとして追及を受けた。八九年に難民の教育基金のうち三十万ドル以上を不正に流用し、自分と夫人のファーストクラス便での観光旅行やその他の娯楽に使ったと非難された。非難したのはデンマーク政府や国連の高官たちだったから事態は重大だった。オッケ弁務官はこの非難のために八九年には辞任に追い込まれた。
この種の不正は個人の特殊な行動パターンだけではなく、組織全体の特異体質を反映していた。縁故人事や不正会計がふつうに起き、しかもほとんどの場合、厳しく処罰されることがないため、腐敗の土壌は変わらないという体質だった。この体質は難民高等弁務官事務所で十七年間も不正に不正を重ねながら懲罰されることのなかった一職員の軌跡が明示している。
ザイール人のシンガベル・ルキカ氏は一九七四年に同事務所のジュネーブ本部に採用され、八〇年代はじめにはアフリカ女性の売春組織を運営する伝説的な人物という定評となった。八三年にウガンダ現地事務所の責任者となったが、難民用の食糧や器材の横流しの疑いが浮かんだ。
ジュネーブ本部は八六年に特別調査を始め、ルキカ氏が食糧四十万ドル、小麦二十四万ドルなど百万ドル近く相当の難民用物資を不正に流用していた、と中間発表した。
だが当時のオッケ弁務官は「アフリカ・マフィア」からの圧力でルキカ氏を守り、特別調査を打ち切った。ルキカ氏はなんの罰もうけず、八九年にはアフリカ東部のジブチの現地事務所の代表となった。ここでも難民用の物資や器材が大量に行方不明になり始める。
九一年はじめにはジュネーブ本部から送られた会計監査官がジブチでのルキカ氏の管理下で合計百万ドルもの不正を裏づけたが、同氏に対してとられたのは結局、単に辞任させるという措置だった。ルキカ氏はなんの懲罰も受けず、九一年十月に難民高等弁務官事務所を辞めてカナダのオタワに住み、長年の蓄財と国連のたっぷりした年金で“引退”生活を享受するようになったという。
(ワシントン 古森義久)
2003/10/03 産経新聞朝刊
【国連再考】(30)第3部(10)行財政諮問委の闇
■28年在任の委員長、権限強大
国連という存在は知れば知るほど、複雑怪奇にみえてくる。国連の各機関でも最大の権限をふるう組織の一つの「行財政問題諮問委員会」(ACABQ)の実態など外部の目にはまるでナゾとしか映らない。
同委員会は一九四七年に国連総会の決議でつくられた。その任務はまず第一には二年間で総額二十七億ドルにものぼる国連通常予算の審査である。国連事務総長が作成し、総会に提出する予算案を審査し、評価を総会に報告するのだ。平和維持活動に関する予算も同時に審査する。
任務の第二は国連全体の行政と財政に関する案件として各職員の昇進や給与の制度、ポスト新設を監査し、総会に助言することであり、第三は国連開発計画(UNDP)、難民高等弁務官事務所(UNHCR)、国連児童基金(ユニセフ)、国連大学、国連環境計画(UNEP)など、国連の常設・補助機関の予算についても総会に報告することである。
だから国連全体でも権限の強大なことこのうえない委員会なのだ。予算でも給与、昇進でも、ここで阻まれれば、国連の機能全体が止まりかねない。
国連全体の財務と総務をつかさどるようなこの委員会は十六人の委員で構成される。委員は総会の行政・予算を管轄する第五委員会の推薦により総会で選ばれて任命され、任期三年、ただし再選は認められる。
だが最も奇異なのはこの行財政問題諮問委員会の委員長ポストがこれまでもうなんと二十八年間も同一の人物によって占められてきたことである。タンザニア人のコンラド・エムセリ氏が一九七五年に委員長となり、最初は一年ごと、八八年以降は三年ごとに再任を重ね、二〇〇〇年にもまたまた再選されて、委員長のイスに座っているのだ。
国連の各機関すべてのなかでも最高責任者の地位を継続して保つ年月の長さでは、エムセリ氏はチャンピオンである。いや、いかなる国際機関でも、そのトップの座が二十八年も同じ人物で占められるという例はまずないだろう。
現在六十五歳のエムセリ氏は二十五歳でタンザニア外務省の外交官となり、一九六〇年代後半から国連で働き、七一年に行財政問題諮問委員会の委員となった。そのまま委員を続け、七五年に三十七歳で委員長に就任した。エムセリ氏はアフリカ諸国の支援を得て、このパワフルな委員会でパワフルな地位を築いていったが、八〇年代には自分の特別秘書として登用したメリー・ブラウンという女性が実は内妻だということで醜聞となった。
エムセリ氏は当初、年間二万五千ドルだった自分の給与を十四万ドル近くにまであげ、ブラウンさんの給与も秘書クラスでは最高の六万ドルにまで引きあげた。自分たちの給与を決めることまでこの委員会の権限に入っていた。カリブ海のバルバドス出身のブラウンさんはエムセリ氏との間に子供があり、同氏と同居すると伝えられた。
国連の規則は職員が配偶者とともに働くことを禁じている。だがエムセリ氏はブラウンさんとの間にはあくまで正式の婚姻関係はないと述べるとともに、自分は国連の職員ではないため、その規則はあてはならないとも反論した。
同委員会の審議の進め方も変則だった。ニューヨーク・タイムズがこの点を九五年六月に報じている。
「行財政問題諮問委員会で決定がどう下されるのかは外部にはまったくわからない。エムセリ委員長は財政を正式に学んだ経歴は皆無であり、委員会の会合はすべて秘密にされるからだ。公共性の強い予算の審議を秘密にしなければならない理由はない」
確かに国連の予算をどう使うか、組織をどう動かすか、という課題はそこに加わる各国の代表や資金を負担する各国民にわかる形で論じられてしかるべきだろう。まして同じ人物がその重要課題の決定を左右する地位に二十八年も留まることにも、一般が理解できる説明が必要だろう。こういう諸点をワシントン・ポストが九二年九月に取りあげ、エムセリ氏に不正はないにしてもあまりの長期留任はおかしい、と問題を提起した。その時点では十七年間の在任だった。
だがエムセリ氏はその十一年後にもなお在任しており、その間の九六年には逆に米国代表が委員会からはずされた。アフリカ諸国の支援を得ての動きだった。国連の闇はまだまだ深いようなのである。
(ワシントン・古森義久)=第三部おわり