2006年9月26日火曜日

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世論調査
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【皇室問題】 昭和天皇(独白録)

『昭和天皇独白録』の史料的価値

1990年、元宮内省御用掛・寺崎英成の遺族のもとに、終戦直後に書かれた昭和天皇の「独白録」が残っていることが判明します。大きな反響を呼びました。ご記憶の方も多いでしょう。

当時、学生だった私は、基礎ゼミ担当のA先生(政治学の世界では非常に有名な方ですが)から、こんなことを聞かされました。

「独白録とか、回顧録というのは、史料として1級とはいえません。後から書かれたものだから、どうしても正確さに欠くし、無意識でも弁明が入ってしまう。1級品の史料とは、日記をおいてほかにはありません」

むろん、一流の教養人であった昭和天皇の日記が存在しないわけはありません。しかし、宮内庁は、それを公にする意向は、まったくないようです。

『昭和天皇独白録』はなぜ書かれたか
しかし、史料としてはあまり使えないものとしても、これがなぜ書かれたのか、そのことを知っておく必要は十分にあるでしょう。

アメリカは、「天皇制存続、昭和天皇の皇位も存続」という方針で日本占領を行おうとしていました。そのほうがやりやすいと考えたからです。

しかし、ソ連やイギリスなどは天皇の「戦争責任」追及を主張。これをアメリカはかわす必要がありました(→拙稿「日本国憲法は「押し付け」か?もご参照ください)。

そのため、GHQと寺崎が接触。そして『独白録』が書かれ、そしてそれは英訳され、GHQの「天皇無責任」の材料として使われました。こうして昭和天皇は訴追を免れ、天皇制は存続しました。

『独白録』には昭和天皇の率直な気持ち、発言が多く記録され、興味深いのですが、これが書かれた背景として、このようなことがあったことは見過ごせません。

そもそも「戦争責任」とは?
そして、今なお、昭和天皇の「戦争責任」を問う声は強く、また、それに反対する声も負けず、論争が続いているところです。

しかし、そもそも「戦争責任」とはいったい何なのか。開戦責任なのか、終戦をサボタージュした責任なのか。開戦=責任が発生するなら、ポーランド侵攻したドイツに対し宣戦布告した英仏にも責任が発生する、ともいえなくはありません。

「戦争責任」という言葉は、その意味じたいがあまり議論されないまま、昭和天皇の責任の有無のみが議論されているようなところがあるように思えてなりません。

アメリカにとっての「戦争責任」
しかし、日本を当時占領統治していたアメリカにとって、「戦争責任」の意味は明確でした。

つまり、「誰を処罰すれば、アメリカ人はじめ、連合国の多くが納得するか。その処罰の対象者が負うのが、『戦争責任』なのだ。」

もちろん、日本統治方針の前提として、天皇に戦争責任を負わせてはならない。いかに天皇の責任を回避し、他の者に責任を「かぶせる」かが大きな課題となったわけです。

こうして、アメリカによって東条英機や近衛文麿らが天皇に戦争を「そそのかした」という「伝説」が作られ、近衛は自殺、東条らは東京裁判で絞首刑に処せられたのでした。

近衛文麿の「戦争責任」観
さて、戦争責任という言葉は、何も戦後生まれたものではありません。

近衛文麿──開戦直前の日米交渉を途中で投げ出した首相ですが──は、1944年の段階で、後の首相となる東久邇宮稔彦王に、「『世界の憎まれ者』になっている東条英機に全責任を負わせるのがいい」と語っています。

近衛もまた、天皇への責任追及回避のため、「他の者に責任をかぶせる」ことを考えていたのでした。もっとも、自らが首相のとき、アメリカが猛反発し、日米関係悪化を決定的にした「フランス領インドシナ南部への進駐」を、陸軍にいわれるまま実行した「責任」は、自覚していないようですが。

とにかく、近衛は動き出します。1945年になると、昭和天皇に早期終戦を求め(「近衛上奏」)、ソ連を仲介とした終戦工作の責任者になります。

しかし一方で、彼は京都で岡田啓介(2・26事件の際の首相)、米内光政(元首相、当時海軍大臣)、ある寺院の門跡家と協議、「昭和天皇退位、裕仁法皇という称号で出家のうえ蟄居」という計画を図っていました。

近衛文麿と高松宮宣仁親王
そして原爆投下、ソ連参戦。八方ふさがりの中、昭和天皇の「聖断」によって終戦となりました。

当初、終戦の条件となる連合国によるポツダム宣言受諾について、政府は陸軍の主張を入れていくつかの条件をいれる、ということにしていました。

しかし、近衛は、昭和天皇の弟・高松宮宣仁親王と結び、「国体護持(天皇制維持)」だけを条件にすることを宮中と政府に迫りました。こうして日本はほぼ無条件での降伏、となったのです。

近衛と高松宮は東条らを頂点とする陸軍に批判的な態度をとっていました(反東条派には同情的)。このことが、後にひとつの「事件」の背景になっていきます。

明治天皇を目標にした昭和天皇
昭和天皇は、幼いころから聡明さを発揮したといい、それを示すエピソードには事欠きません。このことは、病弱だった大正天皇に対する不安を払拭する大きな材料でした。

昭和天皇は、その目標を、病弱な父ではなく、祖父・明治天皇におくことになります。明治天皇と昭和天皇は、若くして天皇になったという共通点もありました。

つまり、明治天皇は元服も済ませていない15歳で即位。昭和天皇の即位は25歳ですが、父大正天皇の病気によって、20歳で摂政として、実質的に国政の頂点にありました。余計に、明治天皇への思いは深かったことでしょう。

若くして即位し、近代日本を創り上げた明治「大帝」が、昭和天皇の目標であったことはいうまでもありません。

明治天皇になれなかった昭和天皇の運命
しかし、明治天皇と昭和天皇をとりまく環境は、あまりに違っていました。

明治天皇には、初期には大久保利通・木戸孝允・西郷隆盛・岩倉具視ら強力な政治家が、後期には政府に伊藤博文、軍部に山県有朋が君臨し、それぞれ明治天皇を支えていました。

明治天皇は、彼らに絶大な信任を与えることが、政治の安定と日本の成長につながることを、理解するようになりました。日清・日露の両戦争での勝利は政府と軍部が一丸となって戦った結果でした。

しかし、昭和天皇の周りには、そのようなブレーンはいませんでした。宮中も、政党も、軍部でさえも権力争いにまみれ、最後の元老・西園寺公望はあまりに年老いていました。

この勢力を一気にまとめることのできたのは、近衛文麿だけでした。しかし彼は優柔不断で、軽率なところもあり、そして何よりも、困難になると政権を投げ出すところがありました。昭和天皇は、そんな近衛にあまり信頼がおけなくなったようです。

昭和天皇は常に孤独に決断しなければなりませんでした。木戸幸一(最後の内大臣)のようによく補佐してくれる宮中の人物はいました。しかし、明治天皇においての伊藤・山県のように権力がありしかも大局観のある人物に出会うことは、できなかったのです。

近衛の「昭和天皇退位論」
さて、終戦で東久邇宮稔彦王が首相就任。近衛は副首相格として政権に返り咲きます。

東久邇宮政権は10月に崩壊しますが、近衛は活発でした。このころから、マスコミに「昭和天皇退位の可能性」が取りざたされるようになります。

そして近衛は、記者たちにその可能性を匂わせはじめます。AP通信のラッセル・ブラインズ記者には、「日本の皇室典範には退位の規定がない」と語りました。これは暗に、皇室典範の改正と天皇退位を示唆するものでした。

さらに近衛は「国民投票による天皇制維持」を模索もしていました。彼の構想の中では、当然、そのとき天皇となるべき人物は昭和天皇ではなく、11歳の皇太子明仁親王(現天皇陛下)であり、そして高松宮が摂政になる、という目論見であったのだと思われます。

近衛計画の挫折、そして近衛の死
しかし、GHQはこの動きを当然こころよく思っていません。特に、昭和天皇との会見を果たしてその人物性を見極め(たつもり)、そして昭和天皇の命令で占領政策が滞りなく進むさまをみた、最高司令官マッカーサーは、この動きを封じにかかります。

詳細は今もって不明なところも多いのですが、とにかく、12月、近衛に対する戦犯容疑での逮捕状発令。近衛は、薬物自殺します。

マッカーサーにとって、昭和天皇の存在は占領政策にとって(もちろん、アメリカにとって都合のいい政策ですが)欠かせない存在でした。マッカーサーには、近衛を「抹殺して」でも、昭和天皇を存置しておく必要があったのかもしれません。

しかし、「昭和天皇退位論」は、止まりませんでした。それは、予想もしないところから、火ぶたがあがったのでした。

止まらぬ「昭和天皇退位論」
1946年2月、枢密院(明治憲法下での天皇の最高諮問機関)で、昭和天皇の3人目の弟、三笠宮崇仁親王が、遠まわしに「天皇退位」を求めました。

『芦田均日記』(芦田はのちの首相)によると、そのとき昭和天皇の顔は青ざめ、神経質な態度をあらわにしたといいます。

また、東久邇宮も、前ページで出てきたAP通信のラッセル記者に対し、こちらはわりとストレートに、天皇退位の必然性について語り、そして、「それに多くの皇族が賛成している」と述べているのです。

思わぬ皇族からの「反乱」は、昭和天皇にひとつの決断を迫りました。

マッカーサー草案と昭和天皇
そのころ、天皇の権限をまったくなくした象徴天皇制を規定する新憲法案が、マッカーサーから示されていました。この内容には政党政治家たちも、宮中も、そして天皇も驚き、受け入れに躊躇します。

しかし、相次ぐ「天皇退位論」に、天皇は反応せざるをえませんでした。「象徴天皇制」を受け入れ、マッカーサーが望む自分の皇位続行に、応じることにしたのでした。これが「第2の聖断」と一部で言われているものです。

そして新憲法制定、施行。と、GHQは、「象徴天皇制のため」と、直系宮家を除く11宮家すべての皇籍離脱を勧告。これは、うがったみかたですが「天皇退位論」に対する報復だったのでしょうか。もっとも、先の東久邇宮は自ら皇籍離脱を申し出てはいたのですが。

※拙稿「旧皇族の成り立ちと現在」もご参照ください。

「三笠宮発言」と高松宮
さて、なぜ三笠宮は唐突に昭和天皇退位論を述べたのでしょう。詳細はわかりません。

しかし、三笠宮の兄で、昭和天皇の弟、高松宮の動きが影響していないとは、いえないでしょう。

高松宮は先にも述べたとおり「天皇退位論者」近衛との結びつきが強かった人でした。すでに終戦前、近衛とたびたび会い、「退位した際、高松宮が摂政につく」ことを、話し合っていたとも言われます。

そして終戦前から、このことが原因で天皇と高松宮の間には次第に大きな対立が生まれてきたようです。

それが、三笠宮発言にどのような影響を及ぼしたかはわかりません。しかし、宮中で孤独な昭和天皇と、割と自由に動きがとれる高松宮、三笠宮がどのように結んでいたか、想像できないことはありません。

ちなみに、1975年2月号の『文藝春秋』に、高松宮のインタビューが掲載、自らを「和平派」と語る高松宮の記事に昭和天皇は激怒したといいます。また、高松宮が「昭和天皇は戦争をとめることができた」という発言があったということも(高松宮の死後発覚)、問題になりました。

退位できなかった昭和天皇
しかしながら、昭和天皇は退位しようとまったく考えなかったわけではありません。むしろ、積極的に考え、その意向を示していた時期もありました。

敗戦直後、昭和天皇は退位を木戸内大臣にもらしています。木戸幸一日記の8月29日の項から一部引用します。

戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納める訳には行かないだろうかとの思し召しあり。聖慮の宏大なる誠に難有極みなるも、……その結果民主的国家組織(共和制)等の論を呼起すの虞(おそ)れもあり、是は充分慎重に相手方の出方も見て御考究遊るゝ要あるべしと奉答す。

その後、東京裁判終結時、そして占領終結時の2回、天皇は退位の意向を漏らしたといいます。しかし、ワシントンの意向で、それは実現しませんでした。昭和天皇の退位は、東京裁判の正当性を揺るがしかねない問題だったからです。

昭和天皇のその後
その後の昭和天皇の仕事は、「象徴天皇」としての天皇像を国の内外にアピールすることでした。そのため、積極的に日本だけでなく、海外にも訪問しました。

1975年、昭和天皇はアメリカを訪問、ディズニーランドでミッキーマウスとなかよく写真を撮っています。人々は「昭和天皇は無害で平和愛好者であり、戦争責任などない」というワシントンが創り上げた「神話」を「再確認」するものだった、のかもしれません。

「カゴの鳥だった私にとって、あの旅行(筆者注:皇太子時代のヨーロッパ訪問)ははじめて自由な生活ということを体験したものだった。あの体験は、その後の私に非常に役立っていると思う」

敗戦直後、昭和天皇はこのようなことを記者に話していますが、言ってみれば、あの旅行以外はすべて「カゴの鳥」だったのでしょう。そしてそれは戦後も続くことになります。

そして1989年、昭和天皇崩御。87年、激動の生涯だったことはだれも否定できません

2006年9月24日日曜日

【皇室問題】 昭和天皇(富田メモ)

「富田メモ」 A級戦犯靖国合祀と「天皇の心」 


 
私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが、
 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
 だから 私あれ以来参拝していない、それが私の心だ(原文のまま)

「A級戦犯靖国合祀 昭和天皇が不快感」「参拝中止『それが私の心だ』」――日本経済新聞7月20日朝刊は富田朝彦・元宮内庁長官(故人)の1988年4月28日付メモをスクープした。

 富田氏は、晩年の昭和天皇の言葉を最も身近で耳にしていた側近中の側近。信憑性の高い資料と即断できないにしても、「メモ」を慎重に精査して歴史的位置づけを考えることこそ緊要なのに、メモの真贋をめぐって憶測・中傷とおぼしき暴論が乱れ飛んでいる現状が気懸かりである。

 歴史学者それぞれの見解を各紙は報じているが、日経スクープの「富田メモ」と「日記」を事前に読み込んでいた学究二人の分析を紹介したうえで、関連する諸問題を考えたい。

 昭和史研究者の秦郁彦氏は「第一級の歴史資料であることはすぐに分かったが、この時期に公開することによる波及効果の大きさを思いやった」と前置きして、「論議の的となっている富田メモの靖国部分の全文についてだが、97年に故徳川義寛侍従長の『侍従長の遺言 昭和天皇との五十年』が刊行されて以来、他の関連証言もあって、天皇不参拝の理由がA級戦犯の合祀にあったことは、研究者の間では定説になっていた。

したがって、私は富田メモを読んでも格別の驚きはなく、『やはりそうだったか』との思いを深めると同時に『それが私の心だ』という昭和天皇発言の重みと言外に込められた哀切の情に打たれた」と、毎日7・28朝刊(『論点』)で指摘している。

 日経7・23朝刊は「富田メモ――意義と今後の検証」と題して半藤一利氏(作家)と御厨貴氏(東大教授)の対談を特集しているが、半藤氏は「松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使を合祀対象から除けば構わなかったのか」との問に、「A級戦犯全体だと思う。

合祀されたこと自体が天皇には不快だったととるべき」と語っている。そして半藤氏は「初めてメモを見せられたとき、感動したというとおかしいが、へーと思ったのが(メモの日付の)1988年。翌89年に亡くなる最後のぎりぎりのところまで戦争責任というか、戦争犠牲者に対する思いがずっと続いていたのかと。あの時代はほとんどの人が忘れていた。そのときに昭和天皇は一番に考えていた。要するに靖国問題の裏側にあるのは、戦争犠牲者に対する慰霊の思い。それが第一。第二に参拝しなくなったのはA級戦犯と合祀のためと思っていたのでやっぱり、と思った。富田メモを直接見て、『私の心だ』という部分に目がくぎ付けになった」と語っていた。

 真っ先に「メモ」を見た二人はともに昭和史に造詣の深い方だけに、視点の確かさを感じる。

 A級戦犯合祀発言をメモした日付は1988年4月28日。翌29日が87歳の天皇誕生日で、同日朝刊各紙に記者会見が掲載された。昭和天皇は約7カ月後の89年1月7日に崩御されており、この会見(88・4・25)が最後となった。

 この時の会見で「陛下が即位(昭和3年11月に即位式)されてから60年目に当たります。この間一番大きな出来事は先の大戦だったと思います。改めて大戦についてのお考えを」との質問に対し、昭和天皇は「なんと言っても大戦のことが一番いやな思い出であります。戦後国民があい協力して平和のために努めてくれたことを嬉しく思っています。今後も国民がそのことを忘れずに平和を守ってくれることを期待しています」と答えている。

 次いで「日本が戦争への道を進んでしまった最大の原因は何だったとお考えでしょうか」との質問には、「そのことは、人の、人物の批判とかそういうものが加わりますから、今、ここで述べることは避けたいと思っています」と答えただけだった。

 毎日、朝日の社会面を読むと、昭和天皇が先の大戦の話に触れた際、「昭和天皇の左目に光るものが見えた」と記していた。

 この会見が25日で、富田長官に昭和天皇が〝本音〟を語ったのが28日だったことからみて、昭和天皇が記者会見で語れなかった〝胸のつかえ〟を富田長官に漏らしたと、推察できる。

 「国家の命令で出征し、命を落とした兵士たちの慰霊に、戦争を命じた指導者を交ぜてしまったら、天皇が痛感する戦争への反省も、日本の再出発もうやむやになる。そんな所に参拝はできない。そう考えたのならわかりやすい。許せなかったのはA級戦犯というよりも、その合祀だった」(朝日7・31朝刊『風孝計』)という指摘は、「富田メモ」の真意を素直に汲み取っていると思う。

▽戦犯合祀を独断専行した松平永芳宮司

 本稿を書くに当たって、多くの資料に目を通したが、靖国・戦犯合祀問題をこじらせた最大の原因は、A級戦犯14人の合祀を独断専行した松平永芳・元宮司(故人)にあったと考えられる。

 この点につき保坂正康氏(作家)は、松平氏が退職後に講演した内容に関する記述で、「私が宮司に就任したのは昭和53年7月で、10月には、年に一度の合祀祭がある。合祀するときは、昔は上奏してご裁可をいただいたのですが、今でも慣習によって上奏簿を御所へもっていく。そういう書類をつくる関係があるので、9月の少し前でしたが、『まだ間にあうか』と係に聞いたところ、大丈夫だという。それならと千数百柱をお祀りした中に、思いきって十四柱をお入れしたわけです(「誰が御霊を汚したのか 『靖国』奉仕十四年の無念」平成4年12月号)」という発言を示し、戦犯合祀を確信的に実行した松平氏の行為を明らかにしている=月刊現代06・9号。

 疑う余地のない事実と言えるわけで、前任宮司(筑波藤麿氏)が抑えていた〝戦犯合祀〟を、松平氏は就任早々、〝もぐり込ませる形〟で強行したのだ。この暴挙を後で聞かされた昭和天皇が不快感どころではない〝怒り〟を持たれたことは想像に難くない。これらの史実に基づいて「富田メモ」を解読すれば、その資料価値の高いことが分かる。

 冷静に受け止めるべき「富田メモ」なのに、この報道が流れるや、「分祀派」の主張が声高になり、逆に「靖国擁護派」は〝陰謀〟〝ねつ造〟と応酬、常軌を逸した非難合戦になってしまった。

 「日中正常化を切望する財界関係者の策略」との噂まで流れたことには驚く。ポスト小泉の本命、安倍晋三官房長官の著書「美しい国へ」の発売日に特ダネをぶつけた〝陰謀説〟もデマ情報だった。さらに「安倍長官が四月に靖国参拝をしていた」との情報が官邸筋からリークされたのも奇々怪々。また、麻生太郎外相が「靖国神社は宗教法人格を自主的に返上し、財団法人などに移行。最終的には特殊法人『国立追悼施設靖国社』(仮称)とする」との私案を発表するなど、自民党総裁選がらみの様相を濃くしてきた。

 「富田メモを政治利用するな」「政教分離原則を守れ」と建前を主張するものの、自分たちの都合のいいように〝政治利用〟しているのが実態ではないか。

 「プレスウオッチ」の埒外ではあるが、週刊新潮8・10号の「富田メモは『世紀の大誤報』か」と題する一方的、センセーショナルな特集に週刊誌ジャーナリズムの荒廃を感じたことを書きとどめておきたい。明確な論証を示さないで「ここへ来て侍従長だった徳川義寛氏の発言だったとの見方が噴出している」との記述は、富田メモ全否定の文脈である。

 特に中西輝政・京大教授が同誌で「このメモは報道のタイミングからいっても政治利用されていることは明らかです。つまり政治性の強いこのメモの検証過程を明らかにしないなら、日経新聞の大誤報というより、意図的誤報という可能性さえ出てくるのではないでしょうか」との断定的決め付けは、学者とは思えぬ〝政治的暴言〟ではないだろうか。

 「このメモで過剰に騒ぐべきではない。天皇の発言がどうであれ、首相の靖国参拝は政教分離にも反するし、個人の意図とは別として、結果的に侵略戦争を美化するということを示してしまう。国民は首相参拝を認めるべきではない」という小森陽一・東大教授の警告(東京8・4『こちら特報部』)を胸にたたみ、「富田メモ」が投げかけた問題点の徹底検証と分析こそ急務である。

2006年9月1日金曜日

【小泉政権】 失われた5年

確信はないが、植草一秀氏の記事だと思われる。

「失われた5年-小泉政権・負の総決算(1)」

 2月20日、私は民主党前衆議院議員小泉俊明氏(http://www.koizumi.gr.jp/)のセミナーに出席して講演した。演題は「失われた5年-小泉政権・負の総決算」だった。小泉政権が発足したのが2001年4月26日、まもなく丸5年の時間が経過する。この5年を厳正に再評価しなければならない。

 この『直言』で詳細に検証してゆきたいが、まずは概観しておくことにしよう。小泉政権が掲げた「改革」政策の正体は依然としてはっきりしない。何をやるのかと聞かれて、「改革をやる」との回答以外に具体的な話を聞いたことがない。「改革」という日本語の「イメージ」がプラスのイメージだから、「何か良いことをするに違いない」との印象が生じてきただけに過ぎない。

 経済政策で小泉政権が推進したのは「緊縮財政」と「企業の破たん推進」だった。「国債は絶対に30兆円以上発行しない」、「退出すべき企業は市場から退出させる」方針が「改革」政策の経済政策面での具体的内容であったと思われる。

小泉政権が「改革」政策の表看板を掲げると同時に株価は暴落を始めた。小泉首相が所信表明演説を行った2001年5月7日を起点に株価が暴落していった。日経平均株価は1万4529円だった。ついに9月12日、日経平均株価は1万円を割り込んだ。だが、小泉政権は「テロがあり、株価が暴落した」と責任をテロに転嫁した。だが、現実にはテロの前に株価は暴落していた。

 年末にかけてマイカル、青木建設の破たんが相次いだ。そして、嵐はダイエーに波及しかけた。ここで政策は一変した。政府は金融機関に働きかけ、4000億円を超える支援策をまとめたのだ。「退出しそうな企業は救済」に、政策スタンスは大転換した。さらに政府は、5兆円規模の補正予算を編成し、国債発行額は実体上33兆円に達した。「国債は絶対に30兆円以上出さない」公約はあっさり破棄された。

 2002年、株価が1万2000円近辺に回復すると、政策は元に戻った。竹中氏は2002年7月のNHK日曜討論で、筆者の「補正予算が必ず必要になる」の発言に対し、「補正予算など愚の骨頂」と発言した。9月に内閣改造があり、竹中氏は金融相を兼務。銀行についても、「退出すべきは退出」を強調していった。

 2003年4月、日経平均株価は7,607円に暴落。日本経済は金融恐慌に半歩足を踏み入れた。りそな銀行を「破たん処理」していれば、間違いなく金融恐慌に突入していた。土壇場で小泉政権は、「改革」政策を完全放棄した。預金保険法102条第1項1号措置という、法の抜け穴を活用し、「退出しそうな銀行を税金で救済」することを決定したのだ。

 税金で銀行が救済されるなら恐慌は起こりようがない。恐慌を織り込みつつあった株価は猛反発する。外資系ファンドが情報を最も早く入手したと見られる。外資系ファンドが莫大な利益を得た。株価が上昇したところに、米国経済拡大、中国経済拡大、国内のデジタル家電ブームが重なり、景気が回復基調に乗った。2003年なかば以降の景気回復は、小泉政権の政策の成果ではない。小泉政権が「改革」政策を全面放棄した結果生じたものである。

 2002年度、小泉政権は竹中氏が「愚の骨頂」と発言した5兆円補正予算を編成した。小泉政権の「改革」政策の破たんは明白である。民主党は自民党の政策失敗を的確に追及しなければならない。2003年、小泉政権の「改革」政策全面放棄を容認する際に、内閣総辞職を求めるべきであった。的確な追及をしていれば、小泉政権はこの時点で終焉していたはずだ。だが、民主党の追及はまったく見当違いの方向に向かった。

 2006年、「ホリエモン」、「耐震偽装」、「BSE」、「防衛施設庁汚職」で小泉政権の弱体化に拍車がかかり始めた。この局面で、民主党がメール問題でもたついていたのではお話にならない。前原代表は国民的見地に立った戦略的対応を示すべきである。この問題に早期に決着を付け、2007年参院選に向けての体制を整えることを重視すれば、前原氏が代表の座を辞し、挙党一致で臨める新代表を選出することが望ましい。地位への執着は、公益よりも私益優先の表れと受け取られてしまうだろう。民主党の迷走がこの国の状況を一段と救いがたいものにしてしまうことを重視すべきである。

失われた5年-小泉政権・負の総決算(2)」

 4月26日、小泉政権は政権発足から5年の時間を経過した。佐藤内閣、吉田内閣に次いで歴代第3位の長期政権になった。政権が長期化した最大の要因は内閣支持率が高かったことだ。政権発足時に多くの国民は「何かが変わるかも知れない」との素朴な期待を持った。政権発足時の内閣支持率は記録的に高かった。

 筆者は小泉政権が発足する1年ほど前に、小泉氏と中川秀直氏に対して1時間半ほどのレクチャーをしたことがあった。経済政策運営についての説明をするための会合だった。筆者と小泉氏、中川氏のほかには会合を企画した大手新聞社幹部の2名だけが出席した、5名限りのミーティングだった。

 筆者は均衡のとれた安定的な経済成長路線を確保することが当面の最大の政策課題であり、財政収支改善は中期的に取り組むべきであることを主張した。しかし、小泉氏は筆者の説明の途中に割って入り、自説をとうとうと述べて筆者の説明をさえぎった。結局、1時間半の会合であったが、筆者は説明を完遂することを断念した。

 小泉氏が主張した政策手法は「緊縮財政運営こそすべてに優先されるべき」とのものであった。当時の日本経済の水面下には巨大な不良債権問題が横たわっていた。この現実を重視せずに、緊縮財政路線を突き進めば、経済悪化、株価急落、金融不安増大、税収減少、財政赤字拡大の「魔の悪循環」のスパイラルに呑み込まれることは目に見えていた。

 筆者は、近い将来に小泉氏が首相に就任することがあれば、日本経済は最悪の事態を迎えることになるだろうことを確信した。筆者は小泉政権が発足した2001年4月の時点から警鐘を鳴らし続けた。小泉首相は5月7日に所信表明演説を行った。日経平均株価は3月中旬以降上昇していた。株価上昇は当時自民党政調会長であった亀井静香氏が中心になってまとめた『緊急経済対策』決定を背景としたものだった。

 5月7日の所信表明演説を境に小泉首相は『緊急経済対策』の実行に反対する姿勢を強めていった。『緊急経済対策』では株式買取機構の創設が提言されたが、小泉首相は否定的な考えを明らかにした。日経平均株価は5月7日を境に暴落していった。政権発足からちょうど2年後の2003年4月28日に、日経平均株価が7607円のバブル崩壊後最安値を記録するまで、株価は一貫して暴落していったのである。

 2001年春に小泉政権が発足した際、多くの権力迎合エコノミストたちは「改革期待で株価は上昇する」と予測していた。だが、筆者はそう考えなかった。1年前に確認した小泉首相の政策スタンスが現実に実行されてゆくなら、日本経済は非常に危険な、最悪の場合、金融恐慌に突入するほどの悪化を示してゆくに違いないことを想定し、政権発足当初から小泉政権の政策スタンスに対する反対論を唱え続けた。

 小泉政権が発足する直前の3月中旬、筆者は小沢一郎氏が主宰する自由党幹部の朝食勉強会に講師として出席した。当『直言』で健筆を振るわれている平野貞夫氏も毎回出席されていた研究会だった。研究会には筆者も参加していたが、ほかに竹中平蔵氏も出席していた。

 その日の研究会のテーマは1年前の小泉氏との研究会と同一だった。日本経済を立て直すにはどのような政策手法が望ましいのかというものだった。筆者は経済、財政、金融の三重苦に直面している日本経済を立て直すには、経済の健全な回復誘導を優先することが必要であることを丁寧に説明した。

 米国経済は1990年から1992年にかけて、同様の三重苦の状況に直面した。米国政策当局は1992年なかばに、「経済回復優先」の政策スタンスを鮮明に提示した。FRBが市場の想定を超える大胆な金利引下げ策を実行し、これを契機にまず株価が上昇し、後追いする形で経済の改善軌道が実現していった。

 米国財政赤字は1992年をピークに改善を示していったが、1995年までの財政収支改善は景気回復による部分が赤字縮小の7割を占めた。1995年から1998年にかけての財政収支改善は構造改革による部分が7割となった。つまり、まず経済改善を優先し、景気に不安がなくなった時点で財政構造に大胆にメスを入れたのだ。
 米国の不良債権問題も深刻だったが、株価上昇、経済改善が始動して初めて不良債権問題は縮小に転じていった。米国経済は、経済、財政、金融の三重苦を「経済改善優先の政策スタンス」を明確に掲げることによって克服していったのである。

 筆者はこのことを丁寧に説明した。多くの出席者は筆者の見解にうなずいていた。藤井裕久氏は、その後のテレビ討論などで米国財政収支改善のメカニズムについて説明する際、常に筆者が示した数値をもとに説明されていた。

 このなかで、筆者の見解に真正面から異を唱えたのが竹中氏だった。竹中氏は不良債権そのものを直接処理してゆかなければ景気回復は生じないと主張した。筆者は、不良債権の処理が企業の破たん処理推進を意味するならば、その政策手法は危険極まりないものであると反論した。論争が生じるのは健全なことである。論争のなかから見解の相違を生み出している要素を発見し、その部分に綿密な検討を加えることにより、より正しいと考えられる政策手法が生み出される可能性があるからだ。

 この研究会の前夜と当日にテレビ東京が「ワールドビジネスサテライト」で緊急特集を放映した。研究会の前夜は自民党の亀井静香氏などが出演した。コメンテーターは本来、竹中氏であったが亀井氏の要請もあり、筆者が出演した。研究会当日の夜は自民党の石原伸晃氏、塩崎恭久氏、河野太郎氏が出演したと記憶している。コメンテーターでは筆者との入れ替わりで竹中氏が出演した。

 番組の冒頭、竹中氏が口火を切った。「不良債権問題と経済悪化の問題が存在するが、世の中には経済改善を優先しなければ不良債権問題の解決は難しいと主張する見解を唱える者がいるが、この考え方は完全に間違いであるということを確認するところから今日の討論を始めたい」。

 竹中氏は何を考えたのであろうか。筆者の主張と自論のいずれが正しいのかを、現実の日本経済を実験素材として確認する、「決闘」の申し入れをしたつもりだったのだろうか。筆者はたまたまこの番組を見ていたのだが、竹中氏の冒頭の発言にはいささか驚愕した。

 2001年から2003年までの日本経済の軌跡を丹念に追跡するなら、竹中氏の主張が間違っていたことは明白である。「退出すべき企業は市場から退出させる」。これが、金融問題処理優先政策の基本テーゼである。退出させる企業には「大銀行」も含むとされたために、株式市場はパニックに陥った。2003年春、日本経済は金融恐慌に半歩足を踏み入れた。小泉政権の命運は尽きかけた。

 この究極の局面で小泉政権は、政策路線を全面放棄した。「退出すべきを退出」ではなく、「退出しそうな銀行を税金で救済」に政策スタンスを文字通り180度転じた。小泉・竹中経済政策の完全敗北の瞬間だった。
 
 ぎりぎりの局面での政策路線放棄の前例は2001年末にすでに存在した。小泉政権の政策により株価は暴落し、大手企業の破たんが相次いだ。マイカルが破たんし、青木建設が破たんした。小泉首相が青木建設破たんのニュースに対して歓迎のメッセージを発表して市場はパニックに陥った。市場の関心はダイエーに集中した。小泉政権はこの局面で、突如、ダイエー救済に転じたのだ。

 2002年半ば以降、小泉政権は再び「近視眼的緊縮財政路線」に政策スタンスを戻した。その結果、株価は順当に再暴落を始動させた。経済深刻化に伴い、支持率も急落し始めたが、そこに突然、9月17日の北朝鮮訪問が実施されたのである。国民の関心は経済・金融から拉致問題に一気にシフトした。小泉政権は支持率を見事に回復したのである。

 2003年以降の日本経済改善は、小泉政権が政策スタンスを全面転換したことによって生じたものである。経済は最悪の状況に落ち込んだために、改善傾向を持続した。だが、もともと見る必要のない悪夢だった。小泉政権が日本経済を撃墜したためにどれだけの人々が犠牲になっただろうか。失業、倒産、自殺の惨禍は戦後日本経済のなかで最悪のものだった。

 この現実をしっかりと踏まえた小泉政権の総括が行われなければならない。

「失われた5年-小泉政権・負の総決算(3)-」

 2003年4月28日、日経平均株価は7607円で引けた。バブル崩壊後の最安値を記録した。日本経済は金融恐慌に半歩足を踏み入れていた。転換点は5月17日だった。土曜日の朝刊に「りそな銀行救済」のニュースが報道された。この日、私は毎週土曜朝8時から生放送されていた読売テレビ番組「ウェークアップ」に出演した。

 りそな銀行に対して公的資金が投入される対応が報じられたことについて、私は「りそな銀行の財務状況によっては、破綻処理になる。破綻となれば株式市場では株価が大きく下落することになる。政府は救済と言っているが、これまでの政策方針と整合性を持たない。これまでの政策方針が維持されるなら破綻処理が取られるわけで、予断を許さない」とコメントした。

 番組中に金融庁から電話が入った。りそな銀行は政府が責任をもって救済するので、破綻させない。このことを番組ではっきりと言明してもらいたい、との要請があったとのことだ。司会をしていた落語家の文珍氏が、番組最後で補足説明した。「金融庁の説明ではりそな銀行は破綻させずに間違いなく救済するので、冷静な対応を求めたい」

 あの時点での対応としては、救済しかなかった。「救済」でない対応は「金融恐慌」の選択を意味したからだ。自己責任原則を貫いて金融恐慌を甘受するか、金融恐慌を回避するために自己責任原則を犠牲にするか。政府は「究極の選択」を迫られたのである。問題は「究極の選択」を迫られる状況にまで日本経済を追い込んでしまったことにある。この状況にいたれば、「自己責任原則」を放棄して銀行救済を実行せざるを得ない。

 「責任ある当事者には適正な責任を求める」。これが「改革」方針であったはずだ。この部分については私も完全に同じ考えを持っていた。異なったのは、これと組み合わせるマクロ経済政策にあった。「自己責任原則」を貫き、責任ある当事者に適正な責任を求めるにはマクロ経済の安定化が不可欠である。

 適切なマクロ経済政策運営により経済全体の安定を確保しつつ、個別の金融問題処理については「自己責任原則」を貫徹させる。これが問題処理に関する私の一貫した主張だった。鍋を冷やしてそのなかに手を入れて介入するのでなく、鍋の中に手を入れて自己責任原則をないがしろにすること避けるために鍋全体を温めてやるべきと主張したのだ。

 小泉政権は政権の延命のために結局、「自己責任原則放棄」を選択した。「退出すべき企業は退出」の「改革」方針を貫けば、金融恐慌が発生する。その場合、小泉政権は崩壊を免れなかった。超緊縮財政が景気悪化、資産価格暴落を引き起こし、株式市場全体が崩落の危機に直面し、結局、最終局面で「自己責任原則放棄」の選択をせざるを得なくなったのである。

 「金融危機対応」の名分の下に、りそな銀行を公的資金で救済する。小泉政権の「改革」政策の完全放棄だが、説明を偽装して乗り切ることが画策された。活用されたのは預金保険法102条だ。1項に金融危機対応の規定がある。預金保険法には「抜け穴規定」が用意されていた。

 第3号措置は金融機関の自己資本がマイナスに陥った場合に適用される措置で、破綻処理である。株価がゼロになることで株主責任が厳しく問われる措置だ。これに対して、第1号措置は金融機関の自己資本が規制を満たしてはいないがプラスを維持する場合に適用される。金融機関に公的資金が注入されて金融機関は救済される。この第1号措置こそ「抜け穴規定」だった。

 小泉政権は、政権発足以来、緊縮財政と企業の破綻処理推進を経済政策の二本柱として位置づけていた。景気の急激な悪化、株価、地価の暴落、企業の破綻が進行した。戦後最悪の企業倒産、失業、自殺が発生した。金融市場は金融恐慌を真剣に心配した。小泉政権が最後までこの政策方針を貫いたなら日本経済は金融恐慌に陥っていたはずである。

 ところが最後の最後で小泉政権は方針を全面転換した。大銀行は公的資金で救済されることになった。大銀行の破綻が公的資金投入で回避されるなら、金融恐慌は発生しない。株価は金融恐慌のリスクを織り込む形で暴落していたが、金融恐慌のリスクが消失するなら、その分は急反発する。

 不良債権問題は日本だけでなく、多くの国が苦闘してきた課題だった。不良債権問題処理の難しさは、相反する二つの要請を同時に満たすことを求められる点にある。自己責任原則の貫徹と金融システムの安定性確保の二つを同時に満たさねばならない。問題のある当事者を救済してしまえば、金融システムの安定は確保できる。しかし、「モラル・ハザード」と呼ばれる問題を生んでしまう。

 バブルが発生する局面で、バブルの最終処理がどうであったかは決定的に重要な影響を与える。「リスクを追求する行動が最終的に失敗するときに救済される」と予想するなら、リスクを追求する行動は助長される。逆に、「最終的に失敗の責任は厳格に当事者に帰着される」との教訓が強く染み渡れば、安易なリスクテイクの行動は抑制される。

 中長期の視点で、自己責任原則を貫徹させることは極めて重要なのだ。破綻の危機に直面した当事者を安易に救済すべきでないのは、このような理由による。自己責任原則を貫徹させず、金融システムの安定性確保だけを政策目的とするなら、不良債権問題処理にはまったく困難を伴わない。ただ金融危機には公的資金による銀行救済を実行することを宣言しておけばよい。誰にでもできる。

 小泉政権は最後の最後で、金融問題処理で最も重要な根本原則のひとつである「自己責任原則」を放棄した。これは小泉政権が採用した政策の必然的な帰結だった。この帰結が明白であったからこそ、私は緊縮財政と破綻処理推進の政策組み合わせに強く反対したのである。

 この対応を用いるのなら、日本経済を破滅的に悪化させる必要もなかった。金融危機には公的資金で銀行を守る方針を、当初から示しておけばよかった。私は不良債権問題処理にあたっては、「モラル・ハザード」を引き起こさぬために、個別処理は既存のルールに則った運営を進めるべきと主張した。金融システムの安定性確保は、マクロの経済政策を活用した経済の安定化によるべきだと述べてきた。

 金融恐慌への突入もありうるとする政策スタンスを原因として、景気悪化、株価暴落、企業倒産、失業、自殺の多大な犠牲が広がった。多数の国民が犠牲になったが、その責任の大半は彼ら自身にはない。経済悪化、資産価格暴落誘導の政府の政策が事態悪化の主因である。膨大な国民が政府の誤った経済政策の犠牲者になっていった。

 多くの中小零細企業、個人が犠牲になった。一方で、最後の最後に大銀行が救済された。見落とせないのは、資産価格が暴落し、金融恐慌を恐れて資産の買い入れに向かう国内勢力が消滅したときに、ひたすら資産取得に向かった勢力が存在したことだ。外資系ファンドである。彼らが独自の判断で日本の実物資産取得に向かったのだったら、彼らの慧眼は賞賛されるべきだろう。だが、実情は違う。彼らは日本の政権と連携していた可能性が非常に高いのである。

 日本の不良債権問題処理の闇に光を当てるときに、どうしても避けて通れない論点が3つ存在する。金融行政と外国資本との連携、りそな銀行が標的とされた理由、りそな銀行処理に際しての繰延税金資産の取扱いの3つである。次回はこの3点に焦点を当てる。

「失われた5年-小泉政権・負の総決算(5)」

 2003年5月17日にりそな銀行実質国有化方針が示された。小泉政権の政策方針が180度切り替わった瞬間である。「大銀行といえども破綻させないというわけではない」との米国ニューヨークタイムズ誌への竹中平蔵金融相のコメントが株価暴落を推進していた。小泉政権は「退出すべき企業を市場から退出させる」ことを経済政策運営の基礎にすえた。同時に「絶対に国債は30兆円以上発行しない」の言葉の下に超緊縮の財政政策運営を推進した。

 私は小泉政権がこの方針で政策を運営していくならば、日本経済は最悪の状況に陥ると確信していた。小泉政権が発足した時点からこの見解を示し続けた。小泉純一郎首相も竹中氏も私の存在と発言を非常にうとましく思っていたようである。私が所属する会社や私が出演していたテレビ局にさまざまな圧力がかけられた。それでも私は信念を曲げるわけにはいかないと考えて発言を続けた。

 2003年の春、来るべきものが到来した。大銀行破綻が現実の問題として浮上したのだ。大銀行破綻を容認するなら、日本経済は間違いなく金融恐慌に突入したはずだ。企業は連鎖倒産の嵐に巻き込まれただろう。金融恐慌が発生しなければ生き残れても、金融恐慌が発生するなら破たんしてしまうと考えられる企業が多数存在した。こうした企業の株主は、株価が売り込まれすぎていることを百も承知の上で、その企業の株式を投げ売りせざるを得なかった。その結果として日経平均株価7607円が記録されたのである。

ところが、金融法制には巧妙な抜け穴が用意されていた。預金保険法102条第1項第1号措置である。金融危機を宣言しながら、金融機関を破綻させずに金融機関に破綻前資本注入を実施できる規定である。最終的に鍵を握ったのが「繰り延べ税金資産」と呼ばれる会計費目であった。

 竹中氏と近く、この問題に造詣が深いといわれた木村剛氏は、5月14日付のインターネット上のコラムで、明らかにりそな銀行と読み取れる銀行の繰り延べ税金資産計上問題について、「1年を上回る計上は絶対に認められない。1年以上の計上を認める監査法人があるとすれば、その監査法人を破綻させるべきだ」と述べていた。ちなみにこのコラムのタイトルは「破たんする監査法人はどこか」であった。

 5月17日の政府案では、繰り延べ税金資産の計上が3年認められた。5年計上であれば、りそな銀行は自己資本比率規制をクリアしていた。1年計上の場合は自己資本比率がマイナスとなり、りそな銀行は破綻処理されなければならなかった。3年計上となると、ちょうど中間値で金融危機認定されるが、破綻とならない。
 法の抜け穴を活用するために人為的に決定された数値である可能性が濃厚である。木村氏が主張していた0年または1年計上では、りそな銀行は破綻だった。日本経済は間違いなく金融恐慌に突入したと考えられる。そうなれば、小泉政権は完全に消滅していたはずだ。

 りそな銀行の繰り延べ税金資産計上が3年認められたことについて、竹中金融相は「決定は監査法人の判断によるもので、政府といえども介入できない」ことを繰り返し訴えていたが、このような局面で監査法人が政府、当局とまったく連絡を取らずに独断で決定を下すことは考えられない。当時の監査法人関係者から細かな経緯を聞きだす必要もあるだろう。

 当時の公認会計士協会会長は奥山章雄氏だった。彼は竹中金融相と密に連絡を取っていたと考えられる。日本公認会計士協会、新日本監査法人、朝日監査法人、繰り延べ税金資産、りそな銀行、金融庁、竹中金融相、木村剛氏を結びつける「点と線」を綿密に洗い直して、真相を明らかにする必要がある。前回も指摘したが、木村剛氏は最終処理が繰り延べ税金資産3年計上であったにもかかわらず、最終処理案をまったく批判しなかった。その真意も明らかにされるべきだろう。

 政策責任者が「大銀行も破綻させるかもしれない」と発言すれば、株価は暴落する。だが、最終決定権を有する責任者が、銀行救済を決定すれば当然のことながら株価は猛反発する。大銀行破綻をちらつかせて株価を暴落させて、最後の局面で法の抜け穴を活用して銀行救済を実行する。銀行救済後には株価が猛反発する。このようなシナリオが練られていたとしても不思議ではない。

 2002年9月30日の内閣改造で竹中経財相が金融相を兼務することになった。この人事を強く要請したのは米国であるとの見解をとる政治専門家が多い。真偽は確認できないが、この竹中氏が10月初旬に米国ニューヨークタイムズ誌のインタビューで先述したように「大銀行が大きすぎてつぶせないとは考えない」とコメントしたのである。

 竹中氏は米国政策当局と密にコンタクトをとりつつ、日本の金融問題処理に対応していったと考えられるが、そのなかで先述したようなシナリオが描かれた可能性が高い。「大銀行も破綻」と言っておきながら最後は大銀行を税金で救済する。株価は猛反発に転じる。この経緯は容易に想定できる。

 この政策の最大の問題は、金融処理における「モラルハザード」を引き起こすことである。小泉政権は現実に最悪の不良債権問題処理の歴史を作ってしまった。

 前回述べたように、上述したストーリーが現実に展開されたとなると、国家ぐるみの「風説の流布」、「株価操縦」、「インサイダー取引」の疑いが生じてくるのだ。徹底的な再検証が必要である。

 もうひとつ忘れてならないエピソードがある。それは、竹中氏が2003年2月7日の閣議後の閣僚懇談会、および記者会見で株価指数連動型投信について、「絶対儲かる」、「私も買う」と発言したことだ。この発言の裏側で、りそな処理が動いてゆく。日本公認会計士協会は繰り延べ税金資産計上に関するガイドラインを定めていった。そして5月にりそな銀行「実質国有化」案が報じられ、結局、法の抜け穴規定を活用した銀行救済が実行され、株価が反発していったのだ。竹中氏の「絶対儲かる」発言とその後の金融処理策との関係も解明される必要があるだろう。

 小泉政権の経済政策は完全失敗に終わった。2003年5月、日本経済は危うく金融恐慌に突入するところだった。最悪の事態を回避できたのは、不良債権問題処理における第一の鉄則である「自己責任原則の貫徹」を放棄し、税金による銀行救済を実行したからにほかならない。

 そして、「国債を絶対に30兆円以上出さない」公約は、2001年度、2002年度のいずれも、実質5兆円補正予算編成というかたちで挫折した。2001年度は国債発行30兆円の公約を見かけの上だけ守った形にするために、国債整理基金からの繰り入れという一種の粉飾処理が施されたが、実質的には国債が5兆円増発されたことと同じ補正予算が編成された。最近話題になる「粉飾」の元祖がここにあったと言っても過言ではない。小泉政権が当初示した経済政策運営の路線は完全に失敗に終わったのである。

 それでは、他の改革はどうだったか。「道路公団」、「国と地方の関係にかかわる三位一体の改革」、「郵政民営化」の3つが小泉政権の目玉商品だろう。道路公団の形は変わるが、実態はほとんど変わらない。民営化されれば、国民の監視の目は著しく届きにくくなる。国と地方のお金のやり取りは少し変わるが、中央がすべてにおいて決定権を有し、地方が中央の下請けである現在の関係はまったく変わっていない。

 郵政民営化は米国の要求どおりに新しい仕組みが決められた。改悪になる可能性が大きい。中山間地の特定郵便局はいずれ消滅することになるだろう。銀行界にとっては邪魔者が消えたわけで歓迎であろうが、国民に利益と幸福をもたらす保証はどこにもない。
 小泉政権の時代に着実に進展したことがひとつある。それが「弱者切り捨て」だ。障害者自立支援法は、聞こえはよいが内容は障害者支援削減法である。高齢者の医療費自己負担額が激増している。今後、生活保護も圧縮される方針が伝えられている。義務教育の経費削減も強行されようとしている。

 一方で、小泉政権はとうとう最後まで「天下り」を死守した。私は小泉政権が発足した時点から、この問題を最重要問題だと位置づけてきた。「改革」は必要だし「痛み」も必要ならば耐えなければならないだろう。だが、小泉政権が本当に改革を進めようというなら、「隗より始めよ」ならぬ「官より始めよ」で、「天下り廃止」を示すべきである。小泉政権が「天下り廃止」を本格的に推進するなら、私は小泉改革を全面的に支援すると言い続けてきた。

 だが、結局小泉政権は最後の最後まで「天下り」を死守した。ここに、小泉改革の本質が示されている。官僚利権は温存し、経済的、政治的弱者を情け容赦なく切り捨てるのが「小泉改革」なのである。国民は目を覚ましてこの本質を見つめるべきだ。

 外交は「対米隷属」に終始した。アジア諸国との関係悪化などお構いなしである。イラク戦争もその正当性に重大な疑問が投げかけられているが、世界一の強国米国に隷属しておけば安心との、自国の尊厳も独立も重視しない姿勢が貫かれた。

 そして、政治手法は民主主義と相容れない独裁的手法が際立った。司法への介入、メディアのコントロールも露骨に展開されたように思う。経済政策の失敗、改革の目玉商品の内容の貧困さ、容赦ない弱者切り捨て、対米隷属の外交、独裁的傾向が顕著な政治手法。この5つが小泉政権5年間の総括である。

 小泉政権が終焉するこの機会に、広く一般に小泉政権5年間を総括する論議を広げていく必要がある。だが、それを権力迎合の大手メディアに委ねることはできない。彼らは政権にコントロールされ、政権に迎合する存在だからだ。草の根から、筋の通った芯のある論議を深めてゆく必要がある。

「失われた5年-小泉政権・負の総決算(6)」

 本コラムの執筆に大きなブランクが生じてしまいお詫び申し上げます。執筆を再開し、従来よりも高頻度で執筆してまいりますのでなにとぞご高覧賜りますようお願い申し上げます。

 小泉政権の5年半の期間に日本経済は最悪の状況に陥った。日経平均株価は7600円に暴落し、金融恐慌が目前にまで迫った。その後、日経平均株価は17000円台まで上昇し、日本経済も緩やかな改善を続けているから、小泉政権に対する国民の評価はさほど悪くない。

「改革」で膿を出し尽くし、日本経済を再浮上させたなどという、見当違いの説明を聞いて思わず納得してしまう国民も多数存在しているようだ。だが、事実はまるで違う。小泉政権が提示した経済政策は文字通り日本経済を破綻寸前に追い込んだのだ。2003年5月に日本経済が破綻せず再浮上したのは、小泉政権が当初示していた政策を全面撤回して、正反対の政策を実行したからにほかならない。

 この点については、本コラムで詳細に論じてきた。小泉政権は日本経済を破綻寸前にまで追い込んだのだが、そのことによって二つの副産物が生まれた。ひとつは多くの国民が本来直面せずに済んだはずの苦しみに巻き込まれたことだ。失業、倒産、自殺の悲劇がどれほどの国民に襲いかかったことか。彼らの苦しみは小泉政権の政策失敗によってもたらされたものである。「人災」と言って差し支えない。

 もうひとつは、外国資本が日本の優良資産を破格の安値で大量取得できたことだ。バブル崩壊の後遺症により、本邦企業、銀行は資本力を失い、安値の実物資産を取得することは不可能な状況に追い込まれた。その状況下で、豊富な資本力を備えた外国資本が日本買占めに向かった。小泉政権は「対日直接投資倍増計画」などに鮮明に示されるように、外国資本による日本買占めを全面支援してきた。

 小泉政権が2003年に金融処理における「自己責任原則」を放棄して税金による銀行救済に踏み切ったのは、米国の指導によった可能性が高い。米国の政権につながる金融勢力は、日本政府が金融恐慌をあおり、株価暴落を誘導しながら最終局面で銀行救済に踏み切ることを指導し、日本の優良資産を破格の値段で大量取得することに成功したものと思われる。

 この9月に小泉政権は終焉し、安倍政権が発足する見込みである。安倍政権は小泉政権を継承するとしているが、小泉政権とは明確に一線を画し、是々非々の姿勢で政策を運営してもらいたい。

 経済政策運営で小泉政権は「緊縮財政運営」を基本に置いた。財政赤字の拡大を回避するために、緊縮財政の路線を鮮明に提示した。小泉首相は「いまの痛みに耐えてより良い明日を」と絶叫した。緊縮財政で経済は悪化する。しかし、財政再建のためにはそれもやむなし。これが小泉政権の基本スタンスだった。

 公約どおり日本経済は激しく悪化した。しかし、それで財政赤字は縮小しただろうか。2001年度当初予算で28.3兆円だった財政赤字は2003年度に35.3兆円に急増した。国税収入は2000年度の50.7兆円から2003年度には43.3兆円に激減した。

 私は財政健全化のためには経済の回復が不可欠と主張し続けた。経済が回復すれば税収が増加する。経済成長による税収確保が財政健全化の王道であると主張し続けた。これに対して小泉政権は「経済が回復しても税収は増加しない。財政健全化には緊縮財政しかない」と真っ向から反論した。

 2003年夏以降、株価反発を背景に日本経済の改善が始動した。果たして経済回復に連動して税収が増加し始めた。2005年度決算での国税収入は49兆円を突破した。景気回復により国税収入はわずか2年間に約6兆円も急増したのだ。財政健全化には経済の回復こそ特効薬であることが事実によって立証されつつある。
 最近になって筆者の主張を小泉政権幹部が使用するようになった。竹中氏も従来の同氏の主張とは正反対であるにもかかわらず、「経済成長による税収増加により消費税増税を圧縮できる」と主張し始めている。正論への転向は歓迎するが、過去の不明についてはひと言添えるべきだろう。

 安倍晋三氏はもとより「経済成長の重要性」についてのしっかりとした認識を有していた。私は安倍氏との私的な勉強会を重ねていたが、小泉首相と異なり、経済政策運営については柔軟な発想を保持していた。

 2006年度の国税収入は50兆円を突破すると思われる。そうなると2006年度の財政赤字は25兆円に急減する。増税をしないのに、景気回復だけで財政収支は大幅に改善し始めているのだ。このことにより、大型増税の必要性が大幅に後退している。

 日本経済はバブル崩壊後、1996年と2000年の二度、本格浮上しかけた。浮上しかかった日本経済が撃沈された理由は政策逆噴射にあった。’97、’98年の橋本政権の政策逆噴射、2000、2001年度の森、小泉政権の政策逆噴射が日本経済を撃墜した。いま日本経済はバブル崩壊後、三度目の浮上のチャンスに直面している。三度目の逆噴射があるとすれば、過去二回同様の近視眼的な緊縮財政の発想に基づく消費税大増税の決定と考えられた。

 そうしたリスクは存在したが、折りしも景気回復による税収の増加という現実が経済成長による財政健全化誘導の考え方の正しさを誰の目にも明らかにし始めた。このことが、経済成長重視の経済政策の主張が広がりを持ち始めた背景でもある。安倍氏が政権発足のスタート台に立つタイミングでこの考え方をベースに置くことができたのは幸いであるし、望ましいことである。

 安倍政権発足に際してもっとも注目されることは、経済政策運営の要のポジションにどのような人物を配置するかである。小渕政権は堺屋太一氏を起用して成功を収めた。小泉政権は竹中氏を起用し、日本経済は最悪の状況に陥った。その後に巧妙に政策の大転換を実行して小泉政権は危機を回避したが、人材起用の巧拙が政権の命運を左右する。安倍政権がどのような布陣を敷くのかに強い関心が注がれる。

 なお、小泉政権の総決算については、日本ビデオニュース株式会社(代表取締役神保哲生氏)が主宰しているインターネット・ニュースサイト『ビデオニュースドットコムマル激トーク・オン・ディマンド第283回(2006年09月01日)』(9月1日収録)のトーク番組に筆者が出演し、現在、動画配信されているのでぜひご高覧賜りたい。

2006年7月23日日曜日

【メモ】 黒田清

大谷昭宏の兄貴分であった黒田清氏は、2000年7月23日、膵臓癌のため死去をしている。これに伴い黒田ジャーナルは解散し、大谷は独立して「大谷昭宏事務所」を設立した。なお、他紙が数段抜きの訃報を掲載した(顔写真入りで掲載した新聞もあった)のに対し、読売に掲載された訃報は一段のベタ記事であった。これは、読売の渡邉恒雄と意が異ったからであり、結果黒田は読売を退社をしている。

 一貫して反戦、反権力を訴え、読売新聞大阪社会部長時代には「黒田軍団」の異名を取った大阪社会部を率いて大阪府警警官汚職事件などをスクープした。1987年(昭和62年)に退社後に事務所「黒田ジャーナル」を創設、草の根ジャーナリストとしてミニコミ紙「窓友新聞」を発行した。絶筆となった7月号のコラムでは、出血と輸血を繰り返す病状について「たくさんの血をありがとう」と。



黒田清
「(p.298~ 批判ができない新聞)日本のメディアは(中略)本来は現実批判がもとにあったと思うんですが、気がついたら、批判できないようになっている。

非常に大きいのは、政治についての批判がぎりぎりのところでできなくなったことです。不幸なことに高度成長で日本の新聞社は読者も増える、ページ数も増えるなど、いろいろなことで社屋を大きくしなければならなくなって、特に東京で社屋の土地が無かったから、自民党に頼んで国有地を安く売ってもらった。

読売、朝日、毎日、産経、みんなそうです。とても大きな借りを作ってしまった。だから新聞記者が一生懸命何かを書こうと思っても、中枢のところで握手をしていますから、突破できない。もう一つは、日本の新聞社の経営は、自己資金が少ない。

たとえば朝日や読売にしても、資本金は一億か一億五千万、いま増資して三億とか五億とか、せいぜいその程度でしょう。そして銀行は、新聞社と手を結んでおいたらいいということで、ずっと貸していた。

この10年ほどで、その借入金が一桁か二桁、また増えたわけです。これはご存知のようにコンピュータシステムをとりいれたからです。そうなると金融機関に対するチェックは非常に甘くなりますね。だから、そのあと、土地問題、不動産問題、銀行の不正融資と、表に出ているのは知れたもので、さらにひどいことが金融機関をめぐってはやられていますよ。けれども、新聞はさわっていませんね」

(p.303)「はずかしいけれど、そう言われてもしかたないと思いますよ。特に私は読売新聞にいましたから。読売新聞の幹部がどういう考えで新聞をつくっているかというのは、社内に発表される社内報で知っていますから。それに私自身が辞める前は編集局次長で首脳会議に何年か出席していたわけですからね。

その時に驚いたのは、新聞記者、ジャーナリスト、マスコミの役割は--あの人たちにはジャーナリストもマスコミもみんな一緒です--政府が行政を行うのをサポートすることだ、と言われたことです。私は三十年以上政府権力をチェックするという考えだったんですけれど、最後の数年は、サポートするんだとトップは考えて紙面を作るようになっていた」

「無事」に帰国したイラクでの人質3人を心なき言葉が迎えた。・・・・・批判も自由だ。でも「現場」に行こうとした意思そのものを根本から否定するかのような発言は、1945年以前の 国家総動員法の時代への回帰だ。

政府が繰り返している勧告に従わなれば犯罪者なのか。関西空港や羽田空港での3人の様子は国家機関に保護された「囚われ人」であった。・・・・・3人が政府の保護下になってからの憔悴しきった表情からは、自由意思までもその管理下になったようにさえ見えてしまう。

イラクで人質になった5人はこれまで、インターネットのホームページなどに多くの意見や情報を掲載してきた。・・・帰国の際の飛行機での"隔離"などは、それは「解放」と同時に見えざる手によって「幽閉」されたようにも見える。・・・・・私人の思想や行為を「公」あるいは国家の意思が押しつぶしていくサマを、傍観していいはずがない。・・・・・(・・・・・は省略部分)

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 親交あった大谷昭宏氏が悼む 黒田さんとは記者とデスクとして出会ってから30年の付き合いになりますが、物の見方や目のつけどころをたたき込まれました。大所高所から物事を見るのではなく、地をはいずり回りながら取材するのがジャーナリスト、そしてもぐらたたきではありませんが、たたかれたらまたどこかで飛び出せばいいと。根っからの社会部記者で、そこから数々のスクープが生まれてきたのではないでしょうか。
 先輩デスクに教わった話だそうですが、自転車の部品を減らして軽量化するとしたら、タイヤやブレーキではなく、ベルが真っ先になくされる対象になるはず。ベルは従業員何人で、どんなふうに作っているのかを知るのが大事だ。合理化される場合、世の中、そういうところから切られていくのだから、タイヤではなく、ベルのようなものに目をつけていかなければだめだ、と。こんな話を後輩記者に伝えることが、黒田さんなりの記者の育て方だったと思います。

 読売を辞めようかと言っていた1987年(昭和62年)の年賀状に「どういうこっちゃから、こういうこっちゃへ」と書かれてあったのが、今も印象に残っています。どういうこっちゃと疑問を持ったら、こういうこっちゃと、私たちで答えを出していこうという意味だったと思います。

 5月の連休明け、1時間半くらい話をしましたが、その時も最初から最後まで仕事の話題でした。私が「黒田さんは何度生まれ変わっても新聞記者でしょうね」と言うと、うれしそうにしていたのが忘れられません。(談)

 TBS「ニュース23」筑紫哲也キャスター 最後にお会いしたのは今年4月。病室で「今回は長期戦を覚悟しなくては」と話され、体調もよさそうに拝見したのですが……。私の番組に何度も出演していただき、阪神大震災直後の神戸からリポートしていただいたことが印象に残っています。あの腰を落とした庶民の視線で取材される姿勢は、ジャーナリストが本来持ち続けるべきもので、メディアの原型というべきもの。「かわら版精神」の見本のような方でした。

 辻元清美衆院議員 黒田さんは大阪の良心というべき方だった。学生時代、当時はピースボートの活動がまだ認められていなかったが、黒田さんは熱心に話を聞いてくれてすぐに協力を申し出てくださった。私にとっては恩人。人権や平和、環境に鋭く切り込んでいく大阪文化の発信者でもあった。それだけに、亡くなったのは非常に残念です。

 元「サンデー毎日」編集長の牧太郎氏 黒田氏は一貫して“庶民の美学”を追求したジャーナリストだったと思う。この点では“権力の美学”を追い求めた渡辺恒雄氏(読売新聞社長)とぶつかるのは当然だった。核の問題にしても、差別の問題にしても、常に弱者の立場にたっていた。東京に出てきたときは、新宿にある警察担当記者が集まる飲み屋によく顔を出しており、年齢を重ねても、サツ回りの心を忘れないようにしていたのだろう。これからまだまだ活躍できたのに残念だ。

2006年7月15日土曜日

【沖縄密約】 西山太吉氏「逆風満帆」

「逆風満帆」  2006年7月15日

元毎日新聞記者 西山太吉
■沖縄返還の真実問う

 パソコンは使えない。ワープロもない。筆圧の強いくせ字をノートに書きつける。かつて、ざら紙に原稿を書いていたときのように。

 元毎日新聞記者の西山太吉(74)は7月初め、裁判所に提出する意見陳述書の草稿づくりに取りかかった。

 「これが私にとってのジャーナリズムっちゃ」

 沖縄返還をめぐる密約を否定し続けてきた国を相手取り、昨年春、謝罪と損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。裁判はいま、終盤を迎えつつある。

 陳述書は、国家によって着せられた汚名を自らの手でそそぐ最後の機会になるかもしれない。

 北九州市にある自宅には、機密指定が解かれた米公文書など史料があふれている。

 たとえば、米国務省が専門家に交渉プロセスをまとめさせた「沖縄返還――省庁間調整のケース・スタディー」。116ページに及ぶ英文のなかで、西山はひとつの言葉に目をとめた。

 〈lump sum(一括払い)〉

 個別の経費を積み上げるのではなく、まとめていくらとすることを意味していた。

 「つかみ金だから、密約をもぐり込ませられたんだ」

 この春、在日米軍再編をめぐって突然、日本側の負担が「3兆円」とされたことと二重写しになった。

 文書からは、69年秋に佐藤・ニクソン共同声明で沖縄返還を宣言する前に、大蔵省と米財務省が日本の支払額について裏で合意していたことが読み取れた。福田赳夫蔵相が漏らした日本政府の本音も記されていた。

 〈「沖縄を買い取った」との印象を与えたくない〉

 そこに密約が生まれた。

 思いやり予算の原型となる施設移転費(6500万ドル)など五つの財政合意がひそかに交わされていた。

 かつて西山が問いかけた、土地の原状回復補償費400万ドルを日本が肩代わりするという密約は、氷山の一角にすぎなかった。

 いまだに解けない基地問題の原点となる沖縄返還協定。そのからくりが浮かび上がってきた。

 「面白いやろっ。俺(おれ)はいまだにブンヤなんよ」

■「情を通じて」で一転

 昨年暮れ、北海道新聞の記者から電話を受けた。

 「じつは、吉野さんが認めたんですよ。『400万ドルは日本側が払った』と」

 吉野文六・元外務省アメリカ局長。交渉にあたった当時の最高責任者は一貫して密約を否定してきた。

 ニュースですよね、と記者から問われ、胸のうちで吐き捨てた。「これがニュースでなければ、いったいどんなニュースがあるのか」。それでも、人生を狂わせた男の突然の告白を簡単に信じることはできなかった。

 72年3月、衆院予算委員会。社会党(当時)の横路孝弘議員は外務省の秘密電信文を手に政府を追及した。

 そこには、密約を示唆する言葉が書かれていた。

 〈APPEARANCE(見せかけ)〉

 電信文を入手したのは西山だった。疑惑を指摘する記事を書いたが、政府は取り合わない。返還が約1カ月半後に迫るなか、横路に託した。

 「国民に真実を知らせる最後の手段だ、と。記者としてギリギリの決断だった」

 しかし、国会で答弁に立った吉野は否定した。

 「協定以外には、何ら密約もなければ約束もない」

 まもなく電信文の漏出元が判明し、西山は外務省の女性事務官とともに国家公務員法違反の疑いで逮捕された。

 佐藤栄作首相は日記にこうつづっている。

 〈この節の綱紀弛緩(し・かん)はゆるせぬ。引きしめるのが我等(われ・ら)の仕事か〉

 11日後、検察が起訴状で使った言葉が流れを変えた。

 「情を通じて」

 妻子ある新聞記者と夫のいる事務官。ともに40歳をすぎた大人の関係だった。国民の「知る権利」への弾圧だとする報道は、男女スキャンダル一色に染まった。

 密約を暴いたはずの西山は一転、批判の矢面に立つ。闇に閉ざされた日々の始まりだった。

■死の影、競艇、ネオン街

 「国会や裁判で『記憶にない』『忘れた』と繰り返していたから、本当に忘れてしまったんです」

 今年2月、密約を初めて認めた外務省元アメリカ局長の吉野文六(87)の言葉を新聞で目にした。

 西山太吉(74)はうなった。怒りよりも、妙な納得があった。もちろん、そのために暗転した日々を忘れることはできない。

 逮捕後、自宅を引き払い、賃貸アパートなどを転々とした。報道陣が待ち受けるため、昼間は外出できない。夜が更けるのを待って散歩に出かけた。

 ある日、気がつくと薬局に足が向いていた。睡眠薬を探していた。ただ楽になりたかった。歩きながら、でも、と問いかけるもうひとりの自分がいた。

 「このまま死んだら、自分を否定し、敗北を認めることになる。権力を喜ばせるだけじゃないか」

 結局、薬を口にすることはなかった。

 裁判では、女性事務官の証言に一切反論しない方針を立てた。取材源を守れなかった以上、やむをない。それでも一審は無罪。女性事務官は有罪だった。

 西山は会社を辞め、ペンを折る。「ほかに責任のとりようがなかった」。43歳の働き盛りだった。

 台湾からの輸入で稼ぎ、「九州のバナナ王」と呼ばれた父が商売でつまずき、株に手を出して転落したのも40代半ばだった。

 「やっぱり血は争えんのかねえ」

 そんな軽口をたたく余裕は当時はなかった。

 妻子を東京に残し、北九州の実家に戻った。まもなく母親が死去。ひとりになった。

 空っぽになった胸の内を埋めるように、庭一面にチューリップを植えた。欠かさず水をやると、鮮やかな花が咲いた。植物は裏切らなかった。

 父が興し、親族が継いだ青果会社に食いぶちを得て、営業の責任者として全国の産地を回った。それまで、だれかに頭を下げることを知らなかった。

 慶応大学では全塾自治委員長。同大学院の修士論文では、ベトナムの革命指導者ホーチミンを取り上げた。新聞記者は、幼い頃からのあこがれだった。

 毎日新聞の政治部では自民党と外務省を担当した。日韓交渉をはじめ、米原潜の日本への初寄港など特ダネを飛ばした。官房長官だった大平正芳らに食い込み、読売新聞の渡辺恒雄とは毎週のように酒を飲んだ。

 それも遠い記憶となった。

 逮捕から6年後の78年、二審で逆転した有罪の判決が最高裁で確定した。

 取材手法に問われるべき点があったとしても、国民を欺いて密約を結んだ罪の重さとは比べものにならない。なぜ、日本政府の責任がまったく問われないのか。

 西山は競艇場に通いつめた。群衆に紛れ、水しぶきを上げて競り合うボートを眺めた。震えるような特ダネ競争にはもう戻れない。夜はネオン街をさまよった。

 「ただ呼吸してるだけ。生きる屍(しかばね)のようだった」

■退社26年、公文書に光

 逮捕前年の71年。ベトナム戦争をめぐる米国防総省の内部文書を掲載した米紙をめぐる裁判で、米連邦最高裁判所は、新聞の発行差し止めを求めた政府を退けていた。

 〈報道は国民に奉仕するものであり、国家に尽くすものではない〉

 あらためて言論の自由の価値が認められた。

 しかし、それは海の向こうのできごとだった。

 60歳で会社を退くと、やるべきことが見あたらない。ポリ袋を手に、自宅周辺のゴミを1時間ほどかけて拾って歩いた。毎朝の清掃が日課になった。誰かのために役立っているという「ちっちゃな存在理由」の確認。切れかけた糸でかろうじて社会とつながっていた。

 定年退職から9年。転機は突然、訪れた。

 00年5月29日、清掃を終えて自宅に戻ると、しばらくして電話が鳴った。毎日新聞の記者からだった。古巣との接触は最高裁で有罪が決まって以来、初めてだった。

 「きょうの朝日にやられました」

 400万ドルの土地原状回復補償費を日本側が肩代わりしたことを裏付ける米公文書が見つかった、と1面で報じているという。西山はあわてて新聞販売所に走った。

 新聞記者を辞めて26年がすぎようとしていた。

■妻が信じた「その日」

 妻(71)の言葉はずっと、聞き流していた。

 「いつか、あなたが正しかったと裏付けるものがアメリカから出てくるわよ」

 逮捕直後から、その日はきっと来る、と妻は予言のように繰り返した。

 望みが砕かれれば、失意を重ねることになる。西山太吉(74)は耳を貸さなかった。

 00年5月29日。

 朝日新聞朝刊が報じた米公文書は、琉球大教授の我部政明が米国立公文書館から入手した。陸軍省参謀部軍事史課による「琉球諸島の民政史」ファイル。外交とは直接関係のない資料に、密約を裏付ける記述はあった。

 逮捕から28年。それは、秘密指定が解除され、米公文書が公開されるために必要な年月でもあった。

 「あんたが言った通りだったな」

 妻の前で、西山はぼそっとつぶやいた。息子たちが大学を卒業した後、北九州で再び一緒に暮らしていた。

 外へ出ると、行きかう人々の顔が目に入った。まるで、目の前を覆っていた膜に穴が開いたようだった。

 「笑みを浮かべたり、楽しそうに話していたり。それまで他人の表情なんて気にしたことはなかった」

 長い間、自分の殻のなかに逃げ込んでいた。

 しかし翌日、河野洋平外相が「密約はない」と否定。米政府の発表と同義であるはずの公文書を一蹴(いっしゅう)した。

 河野は75年、二審で弁護側証人に立ち、メディアの役割の重要性を訴えていた。それでも、個人の信条が立場を超えることはなかった。

 記事が出てまもなく、取材の申し込みがジャーナリストの本多勝一からあった。西山は事件後、初めて沈黙を破った。週刊誌に載ったインタビュー記事は思いがけない反響を呼んだ。

 直後に、山崎と名乗る女性から電話が入った。同姓の元同僚だと思い込み、最近何しとるんや、とたずねた。

 「私は作家の山崎豊子よ。『大地の子』や『沈まぬ太陽』を読んでないの」

 「読んじゃおらんよ」

 実際、事件後に小説を手にすることはなかった。自分の身に起きたことの重さと比べれば、どれも薄っぺらく、きれいごとにすぎないように思えてならなかった。

 「あなたの人権は絶対に守りますから」

 連載にしたいという山崎の申し出を電話口で了承した。

 いつしか、人に会うことへの抵抗も薄れていった。

 ある日、東京へ向かった。飛行機嫌いのため、新幹線で5時間。大手町の読売新聞本社に、同グループ会長の渡辺恒雄を訪ねた。

 渡辺は一審で弁護側証人として法廷に立ち、自著のなかで西山記者の活躍にも触れている。盟友だった。

 山崎による連載を知った渡辺は、主人公はだれか、とたずねた。

 「もちろん、俺(おれ)さ」

 会長室での歓談は2時間を超えた。

■古巣で政府批判再び

 02年6月。興味もない日韓W杯が連日、ブラウン管に流れていた。ある晩、米ワシントン在勤のTBS記者からファクスが送られてきた。沖縄返還後に作成された米公文書だった。

 〈日本政府が神経をとがらせているのは400万ドルという数字と、この問題に関する日米間の密約が公にならないようにすることだ〉

 決定的な証拠だった。

 吐きだされてくる感熱紙を眺めながら、西山は思った。ああ、アメリカからもファクスは届くのか。

 W杯決勝の2日前。この公文書について報じた毎日新聞に西山の談話が載った。

 「日米が行ったのは、密約どころか返還協定の偽造だ」

 追われるように去った古巣の紙上で政府を批判した。

 その年の暮れ、毎日新聞労組主催のシンポジウムに招かれた。質疑応答で、聴衆のひとりから問いかけられた。

 「裁判で国を追及することは考えていらっしゃらないのでしょうか」

 確かに、政府が密約を認めることによってしか、名誉は回復されない。

 「いま、検討中です」

 実際は違った。事件から30年近くがすぎ、「時効」のようなものがあるのではないかと、あきらめにも似た思いにとらわれていた。

 8カ月後、西山のもとに手紙が届いた。シンポジウムで質問した男性からだった。

 〈国と対等の立場で、闘いの場を持ちませんか〉

 男性は弁護士だった。

■「コンチクショウだよ」

 その朝、空は澄んでいた。

 05年4月25日。静岡市の弁護士、藤森克美(61)は新幹線に乗り、東京・霞が関の東京地裁に出向いた。

 沖縄密約をめぐる事件が起きたのは、弁護士1年目を終えたころだった。記者の逮捕と問題のすり替え。密約そのものは問われなかった。

 「国家がこんな恐ろしいことを実際にするのか、と驚きました」

 00年の米公文書報道で、その思いがよみがえった。

 訴状には、ベトナム戦争をめぐる極秘文書を報じた米紙をめぐる裁判で、米連邦最高裁が示した判決文を引いた。

 〈政府の秘密は政治の誤りを永続化させる〉

 兵庫では、死者107人を出したJR宝塚線の脱線事故が起きていた。

 西山太吉(74)は地元の北九州にいた。裁判所でメディアにさらされたくなかった。

 「都合がいいときに、都合のいいところだけ報じる」

 起訴後、男女スキャンダルに染まった報道に裏切られたとの思いは深い。

 それだけに、提訴に踏み切るまで迷い抜いた。

 裁判に訴えれば、男女関係を蒸し返されるのは避けられない。でも、このままでは密約という、国が国民をだまして協定に嘘(うそ)を書いた事実が消されてしまう。

 西山は、かつての裁判で弁護人をつとめた大野正男にも相談した。

 返ってきた手紙の文面は冷ややかだった。00年に米公文書が出たときも反応は薄かった。まして、02年の文書については存在さえ知らないようだった。

 04年12月、藤森から3通目の手紙が届いた。

 〈だれも手を挙げる人がいなければ、挑戦したい気持ちがあります〉

 密約を明記した米公文書が発見された02年を基点とすると、民事訴訟の訴えを起こせる期限の3年が迫っていた。決断を迫るものだった。

 確かに、自分が表に出なければ、だれかが汚名を晴らしてくれるわけではない。なにより、西山を動かしたのは単純な思いだった。

 「民主主義より前に、コンチクショウだよ」

 男女問題という時限爆弾を抱えているため牙をむけるわけがない。否定を続ける政府から、そう見下されているようで許せなかった。

 当時から、尊大ともとられかねない言動が誤解や反発を招いてきた。でも、そうするしかできなかった。そうしなければ崩れてしまいそうだった。虚勢を張ることで自分を支えてきた。

 しかし、そのかたくなさが抵抗のバネになった、と言うこともできる。

 「負の遺産を引きずり、生き恥をさらしたとしても、(政府と)刺し違える」

 有罪確定から27年。揺れ続けた天秤(てんびん)は止まった。

■民主主義みせかけか

 いまも、妻(71)にはよく当たる。

 「おい、あの資料どこだ」

 3分と待てずに、声を荒らげる。講演会に呼ばれても、うまく笑顔をつくることができない。それでも以前と比べれば、ずっと穏やかになったという。

 ある日、自宅近くの駐車場で猫の死体を見つけた。姿が見えなくなっていた飼い猫だと思いこみ、戻ってくるなり玄関で号泣した。

 「『ギョロ太』が死んだ」

 実際は別の猫だった。

 いらだち以外の感情を表に出すようになったのは、米公文書が発見された以降のことだという。不思議なことに最近、白髪に黒いものがまじるようにもなった。

 〈問題は実質ではなくAPPEARANCEである〉

 沖縄返還にともなう土地の原状回復補償費は日本が負担し、アメリカが支払ったようにみせかけておけばいい。西山が手に入れた外務省の秘密電信文には、米政府高官の本音が記されていた。

 事件の発端となった言葉はまた、沖縄返還の本質を象徴するものでもあった。

 密約を裏づける米公文書に加え、交渉当事者が証言したにもかかわらず、政府は根拠なく否定を重ね、メディアは追及しきれていない。結局、日本はみせかけの民主主義しか手に入れられなかったのではないか。

 「ブンヤがしっかりしなきゃ、だめなんだ」

 密約が認められなければ、西山もまた「みせかけ」だったという後半生から抜け出すことはできない。

 8月29日に開かれる口頭弁論を前に、意見陳述書の草稿を書き上げた。原稿用紙で45枚になった。

敬称略(おわり)

(諸永裕司) 撮影(溝越賢)

 〈にしやま・たきち〉 1931年、山口県生まれ。56年、慶大大学院卒業後、毎日新聞社入社。外務省の女性事務官から入手した秘密電信文が発端になった沖縄密約事件により74年に退職。その後、北九州市の青果会社に勤め、91年に定年退職した。

西山太吉国賠訴訟


2006年6月13日火曜日

【北朝鮮】 北朝鮮とゼネコン 

「帝国の遺産」~日本のゼネコンと北朝鮮を結ぶもの
正論2006年6月号寄稿記事の初稿
(Vladimir)


 ゼネコン(総合建設業者)をめぐる報道がかまびすしい。防衛施設庁主導の官製ゼネコン談合をめぐる東京地検特捜部の捜査が進む中、前技術審議官・生沢守容疑者が逮捕された。また全国の防衛施設局で官製談合が行われていた可能性があるとして、特捜部は捜査範囲を拡大するとともに、ゼネコン側も刑事処分する方針を固めている。

 ゼネコンといえば談合、利権という文脈で語られがちだが、北朝鮮との関係でも同様である。

「北朝鮮ゼネコン利権」をわれわれに決定的に印象づけたのは、第2回日朝実務者協議が開かれた直後である一昨年(04年)10月21日、産経新聞が報じたニュースだった。
ゼネコン大手の大成建設など十社が、インフラ(社会基盤)視察などのため訪朝を計画していた、というのである。同紙は訪朝団が19日に出国したものの、北朝鮮に対する国内世論の硬化などを理由にほとんどの企業が急遽、計画を中止し、一部の企業だけが平壌入りした可能性を報じた。

 このとき実際に訪朝を計画していたのは大林組、鴻池組、五洋建設、清水建設、大成建設、東亜建設工業、西松建設、間組、フジタ、前田建設工業の十社。このうち鴻池組、東亜建設工業、西松建設の三社が訪朝を強行していた。

 この訪朝計画は、実際には朝鮮総聯の「招待」によるものであったことも後に報じられたのは記憶に新しい。

 世論は一斉に「日朝国交回復後の利権漁り」とゼネコンを非難した。
「売国奴」と非難する声さえあった。
北朝鮮側が横田めぐみさんの死亡時期を訂正し、さらに入院先の病院のカルテ問題が取りざたされていた時期である。
拉致問題の未解決や核の脅威を尻目に利権漁りを計画するとは、目先の利益しか考えない売国的行為、というわけである。


●「利権」という幻影を補強する「後継者問題」
 日本のゼネコンが朝鮮総聯を介して北朝鮮に招待された……。ゼネコンがこれに応じるのは、多くの日本人が非難するように「ニンジンの如く目先にぶら下げられた利権を目当てに」してのことなのだろうか。

 金丸訪朝団に囁かれた「川砂」は、確かに利権といえた。だが今日に至ってもなお、北朝鮮には日本のゼネコンが得られる利権がふんだんにある、という見解を元にした意見には、正直言って疑問を抱かざるを得ない。

 利権とは「業者が政治家や役人らと結びつき、公的機関の財政・経済活動に便乗して手に入れる、巨額の利益を伴う権利」(大辞林第二版)を意味する。

 ゼネコンが目的とするものが、ODAをつうじた北朝鮮における巨額の利益活動であることに異論はない。北にODAを投じても「受け皿」となる企業など存在しない。

当然、ODA資金を受けて北朝鮮で活動するのは日本企業となる。つまり日本政府による北朝鮮支援とは、日本政府発注の公共事業に等しいとはいえないまでも、同様の性格をもつ。ゼネコンが得る利潤とは、日本国民の血税から捻出されることは言うまでもない。

 だがそれは、果たして「利権」と呼ぶにしかるべき、継続的な権利なのだろうか。日朝間で国交が回復し、それを契機として日本のゼネコンが北朝鮮で活動し利益を得るとしても、それが継続的な経済活動を保証する「権利」であるとは限らない。どちらかといえば一発仕事に近いものであり、権利という言葉が自然と含む「継続性」は、むしろ希薄とさえ筆者は思う。

 北朝鮮の現状について「崩壊間近だ」とする予測は後を絶たない。経済改革以降、中国資本の介入等によって多少は持ち直しの傾向を認める向きはあるにせよ、そもそも「崩壊の可能性」をめぐって年がら年中、あれこれ取りざたされる国なのである。北朝鮮の政策そのものも、金正日の意向ひとつで豹変する可能性を常に有している。

 崩壊か暴走か。そんな国を相手に「向こう10年、20年の権利」などを期待することが果たして現実的なのか。

 北が自らの「危なっかしさ」を幾ばくかでも払拭し、「ほら、わが国には利権がありますよ。国交を結ぶ価値も、資本を投資する価値もありますよ」と演出するには、なにより北朝鮮の現体制が今後も継続されていく、という幻影を作り出さねばならない。そのためのツールとしてここ数年多用されているのが、「三代目は金正哲か正雲か、はたまた金正男か」という、後継者問題だ。

 この後継者問題の噂には、つねにつきまとうおかしな期待がある。つまり「三代目となるのは開明的な人物だろう」という、わけのわからない予測である。正哲がスイス・ベルン留学時代に記した文集に残された「平和を祈念する言葉」や、金正男がグローバルな視野を持つ国際派、という報道がこの期待を後押しする。北朝鮮内部から持ち出された機密文書と称する、作者不明の怪しげな紙が一枚登場しては、「後継者は正哲に決定」などと国際社会に「情報漏洩」する。

 本国は何一つ公式に発表しないまま、世界中のメディアがつねに後継者問題に関心をむけるようにすること……これはまぎれもなく北朝鮮の情報工作であろうと筆者は思うのだが、日本のマスメディアは知ってか知らずか、この問題を大きく取り上げては「北朝鮮の現体制は継続し、開放政策はより進むであろう」と印象づけるのに一役買っている。

 早い話、「後継者問題」を報じ論じることそのものが、利敵行為なのである。


●利権漁りなら、もう遅すぎる?

 北朝鮮の地には、当然ながら「利権の温床」はある。
 たとえば地下資源。04年9月、サンデーテレグラフ紙は衝撃的なニュースを報じた。

 イギリスにある小さなアイルランド系石油会社アミネックス(Aminex) 社が、北朝鮮との石油および天然ガス採掘権契約を締結した、というのである。同紙によればこの締結はすでに6月30日になされており、アミネックス社は今後20年間、北朝鮮内の石油および天然ガス採掘を技術的に支援し、新しい油井の産出物に対して使用権収入を得ることで北朝鮮政府と合意したという。サンデーテレグラフ紙による報道の翌日、同社の株価は急騰(前日比36%高)した。

 さらに翌05年1月、同社のブライアン・ホール最高経営者(CEO)はロイター通信へのインタビューに対し、朝鮮で採掘できる石油埋蔵量を40億~50億バレルと推定しながら、こう力説した。

「数億バレルではなく数十億バレル。北朝鮮は途方もない石油国家だ……」。

 北朝鮮の石油埋蔵量に関して発表された信頼に足る資料はない。だが一部の地質学者たちは、中国の勃海湾油井が平壌の地下にまで延びている可能性があると信じており、中国の官営メディアは勃海湾に660億バレルの石油が埋蔵されているかもしれない、と報道した経緯もある。また、ある親北朝鮮ニュース・ウェブサイトによれば、北朝鮮は最高100億トン(730億バレル)の高品質石油が埋蔵されている、と主張している。

 また、最軽量金属であるマグネシウムも北朝鮮には豊富に存在する。70年代までは、世界のマグネサイト埋蔵量の大半は朝鮮半島北部に集中して確認されていた。その膨大なマグネシウム資源は、終戦を境にいまもなお、ほとんど手つかずのまま残されている。

 日本統治時代、朝鮮半島には六つのマグネシウム工場が稼働していた(日窒マグネシウム興南工場、朝鮮軽金属鎮南浦工場、三菱マグネシウム工業鎮南浦工場、朝鮮神鋼新義州工場、朝日軽金属岐陽工場、三井油脂工業三陟工場)。このうち三井の三陟工場を除く五つの工場は、現在の北朝鮮地域に存在していた。だがこれら日本企業は現在、北朝鮮のマグネシウムに手を出すことができずにいる。
 だが、かわりに登場しつつあるのがドイツだ。一昨年8月、ドイツ自由民主党に属するシンクタンク、フリードリヒ・ナウマン財団が北朝鮮外務省と欧州委員会(EU執行機関)と共同で、平壌にて5日間に渡り大規模なワークショップを開催。ドイツが誇るべき、事実上唯一の産業である自動車産業が、軽量化による低燃費を目指し北朝鮮のマグネシウム利権を掌中にすべく、平壌政府に積極的なアプローチを行っている節がある。

 北に接近するのはドイツばかりではない。欧州の北朝鮮への急速な接近は2000年以降に顕著となった。まず同年1月には、先進7カ国(G7)の中で初めてイタリアが国交を結んだ。そして9月に、北朝鮮がそれまで国交のないEU九カ国と欧州委員会に国交樹立を呼びかける書簡を出すと、一ヶ月後にはイギリスが、そして翌01年には2月にスペイン、3月にドイツが北朝鮮と国交を樹立している。04年にはアイルランドが北と国交を正常化。現在ではフランス以外の欧州連合(EU)の加盟国すべてが北朝鮮と国交を結び、さまざまな経済活動の拠点を平壌に据えつつある。

 北を「悪の枢軸」「チンピラ国家」と非難するアメリカでさえ、核兵器開発放棄のみを交換条件として北との国交樹立を打診していたのだ。02年10月にアメリカが提示した包括支援案には、国交樹立、火力発電所の建設、経済制裁の解除、アジア開発銀行への加盟支援など、国家建設から国際社会への復帰までが提案されている。


●北がゼネコンに期待するのは、日本にしかできない「補修事業」
 北の地にある「利権の温床」は、日本のみならず他国にとっても同様に魅力的であることはいうまでもない。そして「利権漁り」であれば、国交のない「ならず者国家」に対し、海を渡り非公式に打診しつつ虎視眈々と狙う日本より、地政学的には中国、民族的同一性の点からは韓国の方がはるかに有利なポジションにいる。両国とも、猛然と行動を進めている。また先述の通りヨーロッパ諸国も、すでに北の地に触手を伸ばしはじめて久しい。北朝鮮を「利権漁りの場」とするには、日本は出遅れすぎている。

 だが、北は朝鮮総聯を介して日本のゼネコンを招待した。それは日本にしか頼めない事業があるから、にほかならない。

 日本の建設業者が戦前、朝鮮半島北部に造ったものを見れば、北朝鮮と現在のゼネコンとを結ぶ深いつながりが時空を超えて浮上する。

 日本が朝鮮半島北部に遺してきた「帝国の遺産」である。ダム、発電所、東洋一の化学コンビナート……これら「遺産」は現在もそのほとんどが北朝鮮で稼働しているのだが、問題は、補修がまったくと言っていいほどなされていないことにある。

 コンクリート構造一つをとっても、構造耐久年数をとうに過ぎている。ダムに及んでは、堆積土砂の排出がまったく行われていないのだ。

 本文を記すにあたり、筆者は戦前の日本が朝鮮半島に造り上げてきた建造物の一つ一つを調べてみた。建設工法の画期的な実験、技術者たちの情熱と夢……。戦前の朝鮮には、いうなればNHKが報じない、もう一つの「プロジェクトX」となるべきエピソードが豊富にあった。大日本帝国が北の地に作り上げて遺してきたものは、われわれ日本人の本質が今も昔も「ものづくり」にあることを、まざまざと見せてくれる。と同時に、昨今の耐震設計偽装問題に見られるような、匠の精神を軽視する風潮、あるいは喪失しつつある現状に、日本人の正体性(アイデンティティ)の根幹が揺らいでいることを、大きな嘆息とともに感じざるを得ない。

 紙幅の都合上「帝国の遺産」のすべてを紹介することはできないが、以下に代表的な発電所工事を紹介しつつ、現在の日本とのつながりを見てみたい。

 筆者個人の考えを申し上げれば、日本のゼネコンが北朝鮮の地で利益活動を行うことには危機感を覚える。だがそれは「利権漁りはけしからん」という次元のものではない。最も大きな懸念は、「帝国の遺産」がいま何に使われているのか、ゼネコン側はきちんと把握しているのだろうか、という問題だ。


●赴戦江発電所~電力を欲した男と、電力を産み出そうとした男たちの邂逅

 地図を睨みながら、計算に熱中する二人の男がいた。手元に広げられていたのは、陸軍省陸地測量部が出版した、5万分の1の朝鮮全土地図。彼らはそれをつぶさに眺めては山岳と平地の高低差を計算し、日本本土では考えられないほどの大水力地帯がいくつもあることに気づいた。

 山岳地帯が多い朝鮮北部には急流が多かった。その代わり耕作には不向きで、火田民……定住せずに山林を焼き払い自給自足に近い生活を送る一種の焼き畑農業が、古来よりこの地の伝統だった。朝鮮半島北部とは、一言でいえば不毛の地であった。

 二人が目を付けたのは咸鏡南道の赴戦高原の一帯だった。赴戦高原は標高約1500メートルの赴戦嶺を境に南側へと、ほとんど絶壁のように急降下している。その先には平地の新興郡が続き、やがて日本海へ達していた。

 いっぽう北側には朝鮮の屋根といわれる蓋馬高原が拡がっており、鴨緑江の支流の一つである赴戦江がこの高原から赴戦高原へと流れ込んでいた。ならば、もし赴戦高原に貯水池を造り、その水を赴戦嶺へ誘導し南側に落としてやればどうなるか。水は一気に赴戦嶺南側の低地に、その膨大な位置エネルギーを間断なく叩きつけることになる。

「このエネルギーをうまく利用すれば、すごい発電所ができるかもしれない……」。水力ダムを利用した高落差発電、というアイディアに、彼らは夢中になった。ひとりは50をとうに過ぎ、もう一人は30代半ばだったが、ちょうど国造りをテーマにした現代のコンピューターゲームに興じるかのように、二人は寝食を忘れて具体的な設計に熱中した。

 年上の男、森田一雄は勤め先の早川電力を退職したばかり。朝鮮にでも行ってみたら、と知人に勧められた彼は根っからの技術者だった。どうせいくなら水力地点でも調べてみようと、土木コンサルタント事務所を開いてまもない久保田豊に相談したのである。

 のちに久保田は長津江、虚川江、後述する水豊ダムなど発電所のすべてを手がけ、戦後は日本有数の建設コンサルタント企業である日本工営(株)を設立し、同社会長として没することとなるのだが、このときはまだ若く優秀な土木技術者であった。

 北朝鮮開発の嚆矢であり、東洋一の化学コンビナートを支える「電源」となった赴戦江発電所は、北の山岳地帯に夢をはせた二人の男の、いわばプライベート・プランとして始まったのである。

 机上の計算を確認すべく森田は朝鮮の地を訪れ、理想的な堰堤の位置を定めた。そして帰国後すぐに朝鮮行きを勧めた知人、副島道正とともに「朝鮮水力会社」の原案を作成。総督府から許可を得た。
 だが、もともとがプライベートな計画だったのだ。資金のあてがあったわけでもない。膨大な電力を必要とするどこかの会社が、このプランのスポンサーになってくれないだろうか……。森田と久保田の脳裏には、ある人物の名がひらめいた。森田の東京帝大時代の同級生で、日本窒素肥料(日窒)を経営する野口遵(したがう)だった。

 野口は自分が買った「特許」を持てあましていた……。第一次大戦後の特需景気が日窒に莫大な利益をもたらした、そんな頃である。ヨーロッパへの旅にでた野口は、ふとしたことからイタリアのテルニーで、ある化学者と出逢った。カザレー博士である。

 博士が実験していたのは「空中窒素固定法」というアンモニア合成の、工業化の方法だった。野口は当時で100万円の巨費を投じて、カザレー式アンモニア合成法の特許および施設権一切と機械類を買った。日窒が生産する、硫安の製造コストを半分に抑えるためだった。

 この特許を元に日窒は延岡と水俣に合成工場を設立。だが難点があった。電力不足である。化学工業はとてつもない電力を消費するのだ。せっかく巨費を投じて買った特許を生かし、海外の廉価な硫安に対抗するためには、あと最低でも10万KWの電力が必要だった……。


●興南肥料連合企業所の「正体」は殺人ガス兵器工場
 野口は森田・久保田の「夢物語」にすぐに賛同した。彼らの計画が実現すれば安価な大電力を朝鮮で産み出す。その電力を利用して、水俣工場の十倍規模の、国内では想像もできない大規模な化学コンビナートを造ることができる。

 こうして大正15年1月、日窒100%出資で朝鮮水力会社が誕生し、昭和4年には晴れて「赴戦江発電所」が完工した。

 着工から2年後の昭和2年、野口は咸鏡南道に「朝鮮窒素肥料」を設立、日本海岸側の興南に大規模な重化学コンビナートを建設した。日本のTVA(テネシー渓谷開発公社)と呼ぶべき、この「赴戦江発電所」プラス「朝鮮窒素肥料興南工場」は大成功を収めたのである。三菱系の肥料会社似すぎなかった日窒は、新興財閥「日窒コンツェルン」へと成長した。

 当時、世界情勢はブロック経済の流行を迎えていた。日本もまた満州、支那とともにブロックを作ろうとしていた。「日満支ブロック」の要衝として、朝鮮北部(当時は日本植民地)における野口らの成功に日本政府は直ちに注目。朝鮮北部東海岸工業地帯の建設はやがて国策として花開いた。野口らのプライベート・プランはいわば、その先鞭を付けたのである。

 日窒コンツェルンは戦後に崩壊。だがその遺産はチッソ(株)、積水ハウス(株)、旭化成工業(株)をはじめ朝鮮奨学会、野口研究所として、いまも息づいている。

 森田・久保田らの「赴戦高原に貯水池を」とのアイディアから生まれたのが、現在の北朝鮮にある、20.3平方キロメートルの人工湖「赴戦湖」である。この水を利用した「赴戦江発電所」の施工業者は間組、西松組(現・西松建設)、長門組、松本組の四社。

 昨年(05年)2月25日、北朝鮮の朝鮮中央放送は電力工業総局の金サンド副局長のインタビューを報じた。金副局長は「各地の発電所で電力生産が好調だ」と述べ、赴戦江発電所もまた生産計画を超過達成し、各地の水力発電所の総発電容量が昨年同時期より31万Kwも多かった、と伝えた。「帝国による朝鮮開発のパイオニア」だった赴戦江発電所は、現在でも稼働しているのである。

 赴戦江発電所は1955年にいちど、チェコの技術援助による機械設備補修を行っている。このときの補修では発電所全体を一箇所から制御できる遠隔制御方式が導入されてはいるものの、その後現在まで大規模的な施設保守や拡張事業が行われた形跡はない。昭和4年の完工から77年、チェコによる機械設備補修から51年を経過したこの発電所がどれほど老朽化しているのかは想像にあまりある。同発電所を設計段階から知り尽くした、日本のゼネコンでなければできない「事業」が一つ、ここにあるのだ。

 ところで戦前の赴戦江発電所が生産した電力は、すべて朝鮮窒素肥料興南工場が消費した。もともとそのために作られた発電所であり、両者は不可分と言っていいほどの関係にある。

 その朝鮮窒素肥料興南工場は現在、北朝鮮の代表的な化学肥料生産基地である「興南肥料連合企業所」として稼働している……ことになっている。だが興南肥料連合企業所が、実は「第二経済委員会第五機械工業局」の所属にあることを知れば、北朝鮮がこの「帝国の遺産」を、恐るべき目的に使用しているかがわかる。

 北朝鮮の経済は三つに大別される。「第一経済」は民間経済、「第二経済」は軍事経済、「第三経済」は金正日ロイヤルファミリーの経済である。ちなみに北朝鮮で困窮しているのは「第一経済」のみ。「第二経済」は破綻とは無縁だ……というのは、ある公安関係者の言である。朝鮮総聯幹部から直接聞いたという、北の軍事経済が破綻しない理由は至ってシンプルだ。その気にさえなれば、米ドルを無尽蔵に刷ることができるからである。

 第二経済委員会は北朝鮮で最強の影響力を有する経済組織だ。この委員会は国防関係の装備および技術計画、資金の配分、生産や供給について包括的責任を負い、また弾道ミサイル等の海外販売をも担当している。

 この委員会は第一~第七機械工業局、および第二自然科学院、対外経済総局、第二経済委員会資材商社などを擁しているのだが、興南肥料連合企業所が属する「第五機械工業局」はおもに化学兵器や生物兵器の開発・生産を指揮している。第二自然科学院咸興分院などで研究された神経麻痺性の毒ガスや生物兵器を生産するのが、この第五機械工業局の傘下工場の役割だ。これら化学兵器のうち興南肥料連合企業所が担当しているのは、おもに催涙性、窒息性の化学兵器。つまり赴戦江発電所は現在、殺人ガス兵器の一大生産工場に電力を供給しているのである。

 ちなみに「第五機械工業局」が管轄する工場は確認されているだけでも25箇所あるのだが、工場名からはその実態が想像できないものも多い。「2・8ビナロン工場日用分工場」(糜爛性、窒息性、催涙性、神経性の化学兵器生産)、「175号工場」(核開発用実験器具を生産)、「南興青年化学連合企業所」(血液毒を利用した化学兵器を生産)など……。

 日本のゼネコンは、このような事実をきちんと把握しているのだろうか。不用意に訪朝し、かつて自社が手がけた工場や発電所を補修する行為が、テロ支援行為として国際的な指弾を受ける危険性は十分にあるのだ。


●水豊発電所を連想させる「新年共同社説」
 平安北道の鴨緑江には、日本はおろか世界の土木工事史上にも燦然と輝く「帝国の遺産」がある。いまでこそ中国の三峡ダムにその座を奪われてしまったものの、水豊発電所は完成当時、世界一の堰堤であった。

 虚川江発電所建設と同時に昭和12年から着工されたこの大工事は、間組、西松組、松本組三社の施工により、わずか4年半で竣工した(朝鮮側ダムと発電所工事は間組、満州側ダムは西松組、鉄道・道路工事は間、西松、松本の三社)。

 そして野口遵は赴戦江発電所以来、長津江、虚川江、鴨緑江と次々に大電力開発を手がけ、「電力王」の名声をほしいままにした。

 水豊発電所工事は内務省の「特命」であった。当時、朝鮮半島における道路や港湾などの「内務省土木」、ダムや水利工事、土地整理などの「農商務省土木」、そして要塞や軍港などの「軍事土木」建設は、その多くが随意契約の特命工事として行われた。

 赴戦江発電所とは異なり、水豊発電所は有効落差が100メートルしかない低落差発電所だが、堰堤として築造された水豊湖は総貯水量116億トン、有効貯水量76億トン、貯水池の面積298.16平方キロメートルと豊富な水量を誇った。

 水豊湖の水源となる鴨緑江は朝鮮と満州を隔てている。そのためこの発電所の工事は朝鮮電気株式会社傘下の「朝鮮鴨緑江水力発電株式会社」と、満州国政府出資による「満州鴨緑江水力発電株式会社」の共同事業(社長以下役員は両社共通)となり、生産された電力は満州側と朝鮮側とで折半した。

 世紀の大工事の詳細な工程は割愛するが、水豊発電所の堰堤工事において見られる、ちょっとした記録に触れておく。金日成部隊の襲撃への準備である。

 水豊発電所着工の数ヶ月前、すなわち昭和12年6月5日、東北抗日連軍第1路軍第6師団は鴨緑江国境の町普天堡を一時占領した。師団長は金日成であったため、この部隊を「金日成部隊」と呼ばれる。

 鴨緑江以北の朝鮮民族居住地を西間島と呼ぶ。間島協約により日本は中国の間島領有を認め、この地域は日本の統治下ではなくなった。ここが日本の韓国併合後、朝鮮系の抗日パルチザンにとって絶好の根拠地となった。株式会社間組が89年に編纂した「間組100年史」には、水豊発電所のダムを建設する主任以上の技術者は、ゲリラの急襲から身を守るため拳銃で武装しつつ工事に臨む者もいた、と記されている。原節子が主演した古い映画「望楼の決死隊」を髣髴とさせるエピソードだが、水豊発電所が日本統治下の朝鮮と満州にそれぞれ送電するために建設されていたこと、またこの工事で多数の朝鮮・中国人労働者が犠牲になり、貯水池の敷地買収でも7万人もが立ち退かねばならなかったことを考えれば、パルチザン・ゲリラの急襲を恐れたのは当然であろう。水豊発電所はまさに「日帝」の象徴に他ならないのである。

「日帝」のアイコンとして忌み嫌うべき水豊発電所は、しかし現在でも北朝鮮で稼働している。終戦後の47年8月、ソ連は水豊発電所の六基の発電機から、シーメンス製を含む二基を撤去し本国に持ち帰った。「ドイツ製品信仰」を有するソ連にとって、シーメンス製発電機は垂涎の的だったからだ。やがて朝鮮戦争を迎えると、発電所設備の70%が破壊された。

 58年にはソ連が自国製発電機を持ち込み水豊発電所の復旧工事が完了。発電容量は建設当時の目標値だった70万キロワットに達した。60年には朝中鴨緑江水力発電会社が設立され、以後は同社が共同管理している。

 日帝の象徴を、朝中が共同で管理している、というわけである。だが水豊発電所で補修されたのはあくまでも発電機だ。

 今年の2月、朝鮮総聯系新聞社である朝鮮新報は「水豊発電所は毎日の計画より数千Kwの電力を増産している」「発電設備を直し、水1トンあたりの電力生産量を30%増やし、ダムの規模に即した発電機と水車の効率を上げている」と報じ、その健在ぶりを誇示した。

 だが、堰堤(ダム)の部分の補修はされていない。朝鮮戦争による爆撃でもびくともしなかった堰堤の部分は、いまも「帝国の遺産」そのままなのである。

 その堰堤も、もうコンクリートの耐久年数をとうに過ぎている。さらにダムに共通する問題として土砂の堆積があるのだが、水豊ダムが土砂を排出した記録はないという。土砂堆積が著しく進めば貯水池容量が大きく減少することは言うまでもない。

 北朝鮮研究の重鎮・玉城素氏は、
「水豊ダムのみならず、日本統治時代のダムはどんどん埋まっています。北朝鮮はダムに対するアフターケアをまったくやっていないのです。それが電力危機の一つの大きな原因となっています」と、その深刻さを指摘する。

 北朝鮮と中国が共同管理する「帝国の遺産」水豊ダムはいま、切実に補修を必要としている……。この歴然たる事実から、ある連想が筆者の脳裏をよぎる。

 毎年、正月を迎えると北朝鮮は「新年共同社説」(「労働新聞」、「朝鮮人民軍」、「青年前衛」三紙の共同社説)を発表するのだが、2006年の同社説には、こんな一節がある。

<今年、われわれは偉大な領袖金日成同志による「トゥ・ドゥ(打倒帝国主義同盟)」結成80周年を迎えることになる。「トゥ・ドゥ」結成80周年は、チュチェ思想の旗のもとに百戦百勝の歴史と伝統を創出した金日成同志の不滅の業績を輝かし、革命の首脳部のまわりにかたく団結して社会主義偉業をあくまで完成せんとする、わが軍隊と人民の信念と意志を示す意義深い契機となる>(筆者註:「トゥドゥ」は「打帝」の意。「打倒」の略ではない)。

「打倒帝国主義同盟」は少年時代の金日成が満州で結成した革命組織、といわれている。だが、いくら金日成が「百戦百勝の鋼鉄の霊将」であるとはいえ、当時は14歳の少年である。そんな子どもがリーダーを務める革命組織とは、はっきりいえば「ゲリラごっこに毛が生えたような」集団だったはずだ。

 朝鮮労働党創建60周年や6・15共同宣言発表五周年などイベントに事欠かなかった昨年と較べ、今年がいくら政治的行事の空白の年であるとはいえ、子どもが作った「なんちゃってゲリラ」の結成80周年を、北がわざわざ新年共同社説で触れる理由は何だろう。

 筆者はこれが、明らかに中国を意識したものであると考える。北朝鮮という国家の「正統性」は、満州における金日成の革命組織に端を発している……すなわち「悪の権化」である満州国と戦ったのが金日成である、という国家の正統性を高らかに掲げることで、中国との精神的紐帯を浮き彫りにする意図があるのでは、と思われてならない。ここ数年、中国が行ってきた「東北工程」(高句麗を「中国辺境の古代政権」と位置づける研究プロジェクト)に対する反発よりも、「ともに満州国を敵とし抗日という歴史を持つ」ことを強調することで、中国との精神的紐帯を顕示しなければならない局面に、いま北朝鮮は立っていることを窺わせる。早い話、北朝鮮は朝鮮民族の歴史にケチを付けられてもなお、「われわれはともに満州を敵とし打ち克った仲間じゃないですか」と、暗に中国の経済力に媚びているのでは……と思えてしまう。

 それほどまでに中国の経済的影響は、北朝鮮にとって欠くべからざるものになった、ということである。日本ゼネコンが利権を求めて入り込む余地などないどころか、「満州国」を俎上に乗せることで日本と韓国の保守勢力に対し、あるメッセージを送っているのでは、とさえ思えてくるのだ。

 韓国最大の保守政党であるハンナラ党。党首・朴槿恵の父、朴正煕は日本の陸軍士官学校を卒業し、終戦時は満州国陸軍中尉だった。日本の自民党幹事長である安倍晋三の祖父・岸信介は満州国産業部次長として辣腕をふるった。麻生太郎の母方の祖父・吉田茂は満州の中心に位置し当時の対支・対露政策の最重要地域であった奉天の総領事を勤めた……と、「補修を要する水豊ダム」から、満州ゆかりの政治家の後裔が現在の日韓保守勢力の中心にいることを思い浮かべるのは、いささか牽強付会であろうか。

「満州」をテーマとして今年、われわれは主に日本の保守勢力を攻撃目標としてロック・オンした。だから後押ししてほしい……というメッセージを中国に発している、と受け取るのは考えすぎであろうか。

 その背後にあるはずの、北朝鮮の日本に対する「本音」を、筆者がここで代弁してみよう。

<閔姫が殺されたとき、朝鮮には武力がなかった。いま、われわれは再び植民地にされないための確固たる武力を持たねばならない。そのための補償を、日本がやれ。われわれの意に沿う形、先軍政治に叶う形で「帝国の遺産」を再構築せよ>