2004年2月4日水曜日

【鈴木宗男】 北海道新聞

「北海道新聞の記事」は、当時の鈴木宗男氏を北海道新聞が如何なる立場から追い続けたものなのかは、自分にはわからない。しかし当時は「鈴木宗男は、悪である」という印象だけは非常に多くまた巧妙に伝えられたとしか思えない部分が沢山あった。今一度当時の北海道新聞の追求(記事)を読み直してみようと思った。

そもそも中川一郎氏の自殺により息子中川昭一氏が立候補し結果、中川昭一氏の後押しをしていたことから鈴木宗男氏への読売からのメディアバッシングが展開されている。当時、宗男氏は、中川一郎氏が世襲には否定的だった事を大儀とし、立候補をしている。

その後、三井環氏の検察の裏金を告発をした事件を隠蔽するように鈴木氏の事件が起きている。当時の新聞各紙の論調はすさまじいものがあったのだが、あえて北海道新聞の鈴木氏への疑惑連載記事を備忘録として残しておいたものである。

備忘録の引越しで当時の記事を読み直してみて、気がつくのは「検察の手口」が当時も現在(西松事件・陸山会事件・郵便不正事件)とほとんど同じ構図で取り調べられていることである。

鈴木宗男氏が現在被疑者とされ争っているのは、次の4件である。
*やまりん事件、*島田建設事件 *政治資金規正法違反 *モザンビーク事件

WIKIからこの事件を拾い上げてみる。
やまりん事件
1998年、製材会社やまりんは国有林無断伐採事件を起こした。林野庁は6月25日、国有林の公売などの入札参加資格を7カ月間停止する処分をした。行政処分後、やまりんの関連会社2社が樹木の公売7件を落札していたことが明らかになる。関連会社は処分の対象ではないが、林野庁は「道義的に問題がある」として、契約を辞退するよう説得する。2社ともこれを受け入れて辞退した。

やまりんの社長や関連会社の役員らは8月4日、内閣官房副長官だった鈴木宗男を訪ね、行政処分で受けた不利益を補うよう取り計らってほしいと依頼。鈴木は見返りとして500万円を受け取り、旧知の林野庁幹部に数回にわたり関連会社の落札開始の働きかけ及び随意契約による利益確保を働きかけていたとされる。

鈴木は、初当選時にお祝いの政治資金として400万円を正規の形で受け取ったのみである上、やまりんの不祥事の際に全て返還しており、残る100万円も検察側がでっち上げたであると主張している。

島田建設事件
1997年から1998年、網走港の防波堤工事や紋別港の浚渫工事など、島田建設が当時北海道開発庁長官であった鈴木に受注の便宜を頼んだ見返りにあわせて600万円を渡した事件。

鈴木は、工事の受注は指名競争入札で決まり、島田建設が落札したのであり、一切便宜は図っていないと主張している。

支援委員会不正支出事件
イスラエル関連の学会をめぐる外務省の事件。ロシア外交を展開していた鈴木宗男はイスラエルの学会はロシアと非常に繋がりの深かったことを日本の対ロシア外交で重要視し、そのためイスラエル関連の学会を巡って、外務省関連の国際機関「支援委員会」から支出が行われていた。

2000年1月にガブリエル・ゴロデツキー(テルアビブ大学教授)夫妻をイスラエルから日本に招待した時
2000年4月にテルアビブ大学主催国際学会「東と西の間のロシア」に7名の民間の学者と外務省から6人のメンバーを派遣した時
この2回の費用を外務省条約局が決済して「支援委員会」から計3300万円を違法に引き出して支払った疑惑が浮上した。

この事件で国際情報局分析第一課主任分析官だった佐藤優と元ロシア支援室課長補佐の外務官僚2人が背任罪で起訴され、有罪が確定した。

しかし、佐藤は、「支援委員会から支払をすることは通常手続きである外務事務次官決裁を受けており正当なものだった」との主張をしている。また、佐藤の上司だった当時の外務省欧亜局長東郷和彦は、「外務省が組織として実行しており、佐藤被告が罪に問われることはあり得ない」と証言している。そして、東郷は、佐藤が逮捕された時、外国にいたが、当時の野上義二外務事務次官(後に駐英大使)と電話で「こんなことが犯罪になるはずがない。何も問題はない」と話し、しかも、野上はこのことを記者会見で述べるとまで言ったと佐藤の著書には書かれている。

政治資金規正法違反事件
鈴木宗男の資金管理団体「21世紀政策研究会」における政治資金収支報告書が虚偽であり、政治資金規正法違反していた事件。

東京都南青山の鈴木宗男宅の費用約1億5000万円の内、約4分の1である3600万円が鈴木宗男の資金管理団体「21世紀政策研究会」の政治資金から自宅購入費に流用していた事件と資金管理団体「21世紀政策研究会」の1998年分を政治収支報告書から1億円の寄付収入を除外して1億円を裏金にした事件が発覚した。

この事件によって、鈴木宗男と秘書2人が起訴された。



序章 2002年6月24日掲載(北海道新聞)

「お、お、お」。顔色変えずに紙袋の現金を受け取った。

 一軒の家に、車から降りた紺の背広姿の男が駆け込んだ。2002年4月29日、十勝管内広尾町豊似。鈴木宗男だった。

 鈴木が秘書を務めた元農水相、中川一郎の実弟である故中川正男宅。2日前に正男の一周忌があったが、「静かに故人をしのびたい」として鈴木は出席を断られていた。突然、訪れた鈴木は仏壇の前で手を合わせた。

 その翌日、東京地検特捜部は鈴木の公設第一秘書宮野明を逮捕した。捜査の手が、鈴木にも迫ろうとしていた。秘密裏の来道だった。鈴木は町内の別の場所に住む正男の弟で71歳になる健三の家も訪ねた。「一郎先生にお参りしたかったんです」と鈴木は言った。


初当選翌日の1983年12月19日、広尾町にある中川一郎の墓前で当選の報告をする鈴木。衆院議員としての人生が始まった  正男と健三。一郎の自殺後、長男の中川昭一と「骨肉の争い」を展開した1983年の衆院選で、劣勢が伝えられる鈴木を支援し、初当選に結びつけた。だが、鈴木が選挙区を釧根にくら替えしてから関係は希薄になっていた。

 断られてもやって来た鈴木の真意を関係者は測りかねた。その当時の恩義に報いたいとの思いだったのだろうか。気持ちの整理だったのか。この時、すでに鈴木は「逮捕を覚悟していた」。

 1983年12月19日、鈴木はやはり広尾にいた。前日、投開票された衆院選での初当選を一郎の墓前で報告するために。

 旧北海道5区(釧路、根室、十勝、網走管内)での最初の総選挙。昭一が同情票を集め、破竹の勢いだったのに対し、鈴木は非難の集中砲火を浴びていた。「中川は鈴木が追いつめたから自殺した」
 鈴木の遊説の振り出しも広尾。人垣の中を握手して回る鈴木に「この人殺し!」と罵声(ばせい)を浴びせ、ほおをたたいた男がいた。空気が凍り付く。だが、鈴木は平然と、その人の右手を握りしめた。「鈴木宗男です。よろしくお願いします」

 35歳で初陣を飾った鈴木は新聞のインタビューでこう語っている。

 「3回当選するまでは地元優先、利益誘導と言われても思い切り現実路線で行きたいと思っています。地盤をがちっと固め、それから天下国家、北海道のことを言ってみたいと思っています」

 だが、選挙は苦しい戦いの連続だった。

 定数5の旧北海道5区で、初回は4位当選。2回目以降も4位、5位、4位と下位当選に甘んじた。道13区(釧路、根室管内)に国替えした5回目は北村直人=当時新進党=に敗れ、比例代表で復活当選。6回目は比例代表道ブロックのみで、出馬、当選した。

 「選挙が弱いから、当選を重ねても地元の面倒を見続けなければならなかった」。古くからの支持者は言う。

 鈴木がまだ中川の秘書だった1980年ごろ、東京・赤坂。車の中で、当時、建設会社の社員だった男性が紙袋を鈴木に差し出した。「お世話になりました。これは会社から」。「お、お、お」。鈴木は顔色一つ変えずに受け取った、とこの男性は証言する。紙袋には2000万円近い現金が入っていたという。

 男性は鈴木に「口利き」を依頼し、道内の自治体が発注する約6億円の事業を受注した。「謝礼は業界の常識。鈴木さんは若いうちにこれを覚え、金額や回数が増えるたびに態度が大きくなっていった」

 議員1期目のころ、省庁の局長クラスを呼びつけて「バカ野郎」と怒鳴る鈴木を、周囲がいさめた。だが、鈴木は「オレは若いからバカにされる。そうさせないためにやるんだ」。

 一方で、官僚に道東産の新巻きサケなどを盆暮れに送り続けた。「たいした額じゃないから、もらう方も気楽。これでおれの名前を覚えてもらえるし、『あれ、うまかったか?』と話ができるだろ」

 集金力に物を言わせ、実力者に取り入って、永田町の階段を駆け上がっていく。夜の会合の前にはスポーツジムへ。トレーニングの後、コップ一杯のタンパク質入り飲料を飲み干してマチに消えた。寝る前に200回の腕立て伏せを欠かさなかった。肉体を鍛えることで、どんな逆境にも打ち勝つ強靭(きょうじん)な精神力を築くことができる-。そんな信念がそこにあった。

 鈴木を「回り続けるコマ」にたとえた支持者がいる。「回るのをやめたとき、コマは倒れてしまう。ゼロから今の地位を築き上げた鈴木は、人一倍、必死に回り続けるしかなかった」

 落日は意外なほど早かった。疑惑の噴出、証人喚問、側近秘書の逮捕、そして自身も-。

 中川一郎が自ら命を絶ったのは初当選から19年後。くしくも、今年は鈴木の初当選からちょうど19年である。


 「ウチが世話になってる。頼む」

 元農水相、故中川一郎の元秘書は、1970年代後半、東京・永田町の衆院第一議員会館で見た光景を記憶している。

 中川の部屋だった720号室。道開発庁の職員が分厚い書類の束を抱えて入ってきた。港湾、道路など事業別になった開発予算の一覧表。中川は不在で、議員用のいすに腰掛けた公設第一秘書の鈴木宗男が次々とページをめくってゆく。

 「『この事業はこの業者、こっちはこの業者』。鈴木が振り分けて、印を付ける。割り付けだ。今でこそ業者同士の談合がどうのと言うが、当時は役所の人間が鈴木と談合していたんだ」


 中川事務所の関係者は「中川先生よりも鈴木のほうが偉い」と言い合った。地元から「口利き」の依頼で出てきた業者が、議員会館に中川がいても鈴木が不在だとその帰りを待つこともあった。「お礼は、議員分と鈴木の分の2つ用意していくのが、業者間の常識だったと言われていた」。元秘書はそう振り返る。

 当時、中川事務所には1日50-60件もの陳情があった。陳情者は1000人近くもいた。ほかに入学や就職の世話、中央省庁への働きかけ、公共事業の口利きの依頼もある。それらをさばく鈴木の手腕に周囲は驚嘆した。

 ある建設会社の元社員は1970年代後半、道内の一部事務組合が発注する公共事業を受注できるよう、鈴木に口利きを頼んだ。別の国会議員がバックに付いた業者との間で、せめぎ合いが数カ月に及んでいた。「分かった」。鈴木はすぐ受話器を取った。相手は組合を構成するある自治体の首長。「ウチが世話になってるんだ。頼む」

 「翌朝、受注が決まった。驚いたよ。事業費は約6億円。謝礼として鈴木に200万円を渡した。もちろん領収証は出ない。後から、会社の役員が1800万円を中川事務所に持参したと聞いた」

 中川事務所関係者によれば、口利きも、目の前で電話をかける手法も、中川のスタイルだった。

 「陳情の善悪はいいから、とにかくよく話を聞け。そして、すぐ対応しろ」。衆院議員となってから、鈴木は自分の秘書にそうたたき込んだ。

 「例えばマチに橋を造ってくれ、と頼まれても、全体状況を考えて難しければ、そう答えるのが普通だ。でも鈴木さんは違う」と、元支持者の1人は語る。「依頼者がどんなに困っているか真剣に聞いて、それにこたえることが彼の政治のすべて。彼には、“部分”がすべてなんだ」

 道東のある自治体の首長は「口利きは、右から左までやっていない政治家はない」と言いながら、こう続けた。

 「ただ、鈴木さんは無理したんでしょう。選挙が弱かったから。生き残るために、突出してしまった」

「分からないんです」 一転「バカ野郎」

 鈴木宗男が元農水相、中川一郎の私設秘書になったのは1969年。拓殖大政経学部政治学科4年の学生だった。中央省庁を走り回り、「分からないんです」と頭を下げて教えを請う実直な若者だった。

 ところが、2年目ごろから変ぼうする。同僚を怒鳴りつけるようになった。先輩秘書の1人は「怒るときは『バカ野郎! おまえ、この野郎』。先輩も、議員でもお構いなし。運転手や秘書はよく受話器で殴られた。自分も血を流したことがある」と明かす。

 9歳年上で、中川事務所の先輩格だった元衆院議員、上草義輝の関係者は「初めは『上草さん』と呼んでいたのが『上(うえ)さん』になり、ついには『うー』。議員になってからも『うー』だった」。若手の国会議員に「食事代を払ってこい」と財布を放り投げた、との証言もある。

 だが、中川の信厚く、金庫番として政治資金の管理を取り仕切った鈴木に、正面切って反発できる者はいなかった。

 秘書になるまで、それほどの激しさ、傲岸(ごうがん)さを周囲に見せてはいない。

 母校・足寄高で、硬式野球部の後輩を1、2度殴ったことがある。だが、同じ部だった同窓生は「当時の風潮を考えれば特別なことじゃない。鈴木が弱い人間に強く出ていたとか、そんなことは決してない」。拓大で親しかった学友も「講義をさぼらず、マジメで目立たない。一言、二言多かったが、今みたいな性格じゃなかった」と言う。

 ただ、内面の激しさを示す証言もある。

 拓大時代、燃えさかっていた学生運動に、鈴木は「学生の本分を外れている」と反発。左翼の学生運動つぶしのサークルに出入りしていた。「新左翼の学生活動家に待ち伏せされ、鉄パイプで殴り殺されるところだった」と、額から血を流して学生寮に逃げ込んできたこともある。

 秘書となってわずか2年後の1971年、中川の公設第一秘書となる。若くして得た信任が、内面にあった激しさに火を付けたのか。中川事務所の元関係者は「彼なりに懸命に考えて、この方法でいいんだと思い込んだのだろう。鈴木は秘書時代の13年間で変わった」とみる。

 かつて政界で、党人政治家のどう猛さが政治の表舞台を突き動かした。農家出身の中川も生産者米価をめぐる自民党の方針にかみつき、党総務会でコーラのびんをたたき割り、机をひっくり返したことがある。

 だが、おおらかな人柄が愛され、蛮行も大目に見られた中川に比べ、鈴木は敵をつくりすぎた。元支持者は言った。「時代も変わり、敵と見方を峻別(しゅんべつ)して、怒声で敵をたたきつぶす手法は限界に来ていた。でも、軌道修正できなかった。それが鈴木の宿命だった」

オレは1万人の名前を覚えている

 「おおお、父さん! 母さんの病気、治ったか」「息子の就職は決まったか」-。自民党総務局長(当時)の鈴木宗男が、マチで出会った町民に次々と声を掛ける。ホテル、飲み屋、そして街頭で。その数は、数十人に及んだ。名前はもちろん、一人ひとりのプロフィルまで、正確に言い当て、あいさつされた相手を感激させた。2000年10月、根室管内中標津町内。

 自ら推し進めた北方四島人道支援で、国後島に建設した発電施設。その完成式に向け、中標津空港から政府チャーター機で出発する前日の夕暮れ時だった。傍らには当時、外務省主任分析官だった側近の佐藤優(背任容疑で起訴)もいた。

 「オレは1万人の支援者の名前を覚えている。1万人が10人に声を掛けてくれたら10万人。当選できるだろう」。自信がみなぎっていた。


 記憶力は「驚異的だ」と陳情者を驚かせた。「『分かった、分かった』と話を途中でさえぎって、アドレス帳も見ずにダイヤルする。なのにかける相手も、内容も的確なんだ」(支持者の一人)。電話番号について「昔は1000件、今も500件以上は、覚えているな」と語っていた。

 ただ、秘書時代に鈴木が陳情を受けて即座にかけた電話番号を関係者が覚えていて、こっそり後からかけてみた。出たのは陳情とは無関係の相手だったという。「その場では『話し中だ』と言って電話を切り、周囲に『もう1本の番号を教えろ』と命じていた。記憶力をアピールするパフォーマンスの時もあった」

 道開発予算など政府予算案の個所付けなどの数字も内示前にいち早く聞き込み、支持者の前でそらんじて見せた。元首相、田中角栄や竹下登から盗み取った手法だった。

 「いつも後ろを振り向きながら歩いてたんだ」。秘書時代、郷里の十勝管内足寄町から上京した友人と一緒に入った食堂で、鈴木はそう語った。

 田舎育ちの目に、東京は巨大な迷路。だが、マチを駆けずり回り、隅々まで知り尽くさなくては務めは果たせない。帰り道を頭にたたき込もうと、車に乗っても前を向かなかった。「相当、努力したんだろうな」。友人は痛々しく感じた。

 「異能」ともいえる記憶力、そして体力。

 早朝の“マラソンもうで”が新年の恒例行事だった。帯広市内の自宅から十勝護国神社など五つの神社を回り、走行距離10キロ余り。ジャージー姿で厳寒の風を切り、疾走する鈴木に付いていくことのできる者は少なかった。東京でも、早朝ジョギングを欠かさなかった。

 「あんなにエネルギッシュに動き回っていて体は大丈夫なんですか」。周囲に問われて、秘書の二男、行二がこう漏らした。「今は大丈夫と思います。でも、議員をやめたら死ぬかもしれませんね」

涙浮かべ語った「馬一頭」の逸話

 1960年代前半、十勝管内足寄町大誉地(およち)。中学生の鈴木宗男がそこにいた。砂利道で自転車を押しながら、近所の顔なじみに得意げな笑顔を向けた。「中学で1番、貯金がたまったんだ」。開拓農家の自宅で搾った牛乳を、近所に配って回るのが通学前の日課だった。親からもらった、その駄賃をためた貯金額が1番になったと、無邪気に自慢してみせたのだった。

 当時、自転車を持っているのは比較的、余裕のある家だった。古くからの住民の1人は「むっちゃん(鈴木のこと)の家では住み込みの奉公人を2、3人使っていたし、小作人もいた。雑穀を入れておく蔵もあった。それほど貧しくはなかった」と語った。

 議員バッジを着けた鈴木が好んで語ったのが「馬一頭」の逸話だ。大学進学を希望した自分のために父が馬を売って、25万円を工面してくれた。そのおかげで、一度は閉ざされた大学への道が開けたという内容。後援会の会合などで、この当時の話を語り始めると、鈴木は感極まって目を真っ赤にすることも少なくなかった。

 足寄は1962年と1964年、続けざまに冷害に見舞われた。これで進学をあきらめた農家の子弟も少なくない。鈴木が足寄高を卒業した1966年、同じ学級の45人中、大学へ進んだのは鈴木を含めて10人前後だった。

 奇妙なことに、学生時代、そして秘書時代の鈴木と交流のあった人びとは「馬一頭の秘話」について「当時、聞いたことはない。選挙用の話じゃないか」と口をそろえる。

 拓殖大在学中の鈴木はワイシャツにセーターかカーディガンをまとい通学した。住まいは質素な四畳半だったが、アルバイトに精を出し、東南アジアへの研修旅行にも参加した。学生時代の下宿には秘書になってからも住み続け、25歳まで7年間暮らした。秘書になると、盆暮れに付け届けの包みが届くようになった。

 拓大で都会育ちの学友に「故郷はイモがおいしくて、きれいなところなんだろ」と問われ、「住んでみて初めて厳しさが分かる。本州の2倍も3倍も頑張らなくては生きていけないんだ」と真顔で語ったことがある。都会育ちに比べれば、厳しい少年時代を送ったのは間違いない。

 ただ、鈴木が「貧しかったころ」や「汗を流して働く美徳」を過剰なまでに語り始めるのは、衆院選に打って出てからのことだ。

 初出馬の1983年、道内では鈴木の師の元農水相、故中川一郎の長男昭一や元道知事、故町村金五の二男信孝も出馬した。2人とも東京育ちの東大卒。民主党代表の鳩山由紀夫も同様だ。

 エリート2世議員とは違う「貧農の出」「苦労人」。たたき上げ政治家のイメージに自らの存在意義を見いだしていく。

よし、明日からは泣きを入れるからな

 「昭和58年、最初に国会に出るべく、手を挙げた時を思い起こしながら…」。3月15日、離党会見。あふれる涙を白いハンカチでぬぐう鈴木宗男をテレビで見ながら、古くから鈴木を知る関係者は、ある言葉を思い出していた。

 故中川一郎の秘書時代、中川子飼いの国会議員が選挙に出るたび、鈴木は口癖のように言った。「おまえ、選挙が危ないっていうじゃないか。何で涙の一つも流せないんだ」「土下座して泣け」。突き放すような、強い口調だった。

 同じころ、鈴木は「何度生まれても中川先生の秘書になりたい」と言うのが口癖だった。忠誠心を示そうとしていたのだろうが、この関係者は思った。「こいつには照れというものが、ないのか。臆面(おくめん)もなく、よく平気で言えるな」

 その1983年(昭和58年)12月。冷たい雨にぬれ、鈴木はぬかるみに頭をすりつけて泣いていた。

 初出馬した衆院選の遊説中、帯広市内での一場面。ある会社の前で選挙カーを飛び降りて、ひざまずいた。泥まみれで次の場所に立つ。幾度となく鈴木は土下座し、涙で支持を訴えた。

 後年、この選挙戦に話が及ぶと鈴木は泣いた。古手の支持者は「演技じゃない。泣く瞬間は本気で感情を抑えられなくなる。ただ、彼はその瞬間を自分でつくり出すことができた」。

 パーティーで座席を見つけられない老人のために、壇上から駆け降りていすを用意する。どんなに多忙でも、法事に来て線香を上げてゆく。支持者の心を打つ行動には、激情と冷徹な計算が混然一体となっていた。

 政界入りのきっかけは拓殖大入学時、身元保証人を引き受けてくれた中川から「いつでも遊びに来なさい」と声を掛けられて、議員会館に出入りするうちに見込まれ、請われて秘書に-。鈴木はそう語り、劇的な出会いを強調した。求められれば、色紙に「人生出会い」としたためた。

 だが当時、中川の私設秘書だった古田修吾=東京在住=は「保証人の話など聞いたことがない。真っ赤なウソだと思う」と鈴木の話を否定する。古田によれば、鈴木は学生時代、東南アジアを訪れた。その旅行記の序文を中川に書いてほしいと議員会館に頼み込みに来た。約1カ月後に鈴木が再訪した際、中川が居合わせたのが最初の出会いだったという。

 「人生出会い」には脚色が含まれていたのか。

 中川もまた、よく泣く男だった。2人を知る関係者の1人は言う。「中川の人情は奥が深い。だが、鈴木のは単純。あいつは、どこででも泣けるんだ」

 議員バッジを着けてから、選挙戦の終盤で鈴木は周辺にこう漏らしたことがある。

 「よし、明日からは泣きを入れるからな」

自腹切らぬ飲み客に「オレは違う」

 1983年1月13日昼すぎ、東京・築地本願寺。縊死(いし)した元農水相、中川一郎の告別式が行われた。「病死」の発表が一転、自殺と分かった翌日だった。約5000人の弔問客の列が続く式場の受付に、秘書の鈴木宗男が一人、取り残されたように立っていた。

 「鈴木が参院選出馬を申し出て中川を悩ませた」「鈴木の強引な資金集めに苦悩した」。葬儀の後、縊死した原因について「鈴木主犯説」が強まっていった。

 鈴木は苦境に追い込まれてゆく。同年12月の衆院選について、出馬断念を迫る政界関係者からの「圧力」もあった。一郎の嫡男・昭一は十勝の経済界の主流が付き、正統な後継候補と位置づけられていた。鈴木は、傍流の道を歩むよりなかった。


 鈴木を選挙区で推したのは秘書時代から関係が深かった中小を中心とした土建業界、そして出身地の足寄など十勝郡部の人々だった。

 一郎も最初は地元で非主流の政治家だった。初出馬した1963年、十勝の保守本流は故本名武。本名の支持者を切り崩し、やがて本流となった。同じ道を、鈴木は歩き出したようにも見えた。

 「中川の金庫番」と言われた鈴木は、後発のハンディキャップを一郎の遺産で埋めた。「23あった中川後援会の貯金通帳は、すべて鈴木が押さえた。大阪の食肉業者の利権も引き継いだ」と、中川と親交のあった衆院議員は語る。

 傍流ゆえに、企業献金の多くは中小企業、特に土建業者から。鈴木が個別の入札にまで口出しするとされる理由は、ここにあるといわれる。

 赤じゅうたんを踏んだ後もいばらの道だった。最初はどの派閥にも入れてもらうことができず「政界の孤児」と揶揄(やゆ)された。

 「宿なしの野良犬を野放しにしておくわけには、いかんだろう」。1984年秋に自民党幹事長に就任した金丸信は周囲にこう語り、一匹おおかみだった浜田幸一とともに「番犬」として鈴木をそばに置くようになる。

 初めて派閥入りしたのは1993年。竹下派分裂で、選挙区で鈴木と争ってきた北村直人衆院議員が竹下派を脱藩、羽田派結成に駆け付けた。分裂で、最大派閥から第四派閥に転落した小渕(竹下)派は、「数は力」と鈴木を取り込んだ。

 鈴木は「外様は、しょせん外様」との小渕派内の陰口の中で独自に資金集めに奔走、若手の面倒を見ながら地歩を固めていかざるをえなかった。

 1980年代後半、銀座の高級クラブで、上等そうなスーツに身を包んだ一団をきつい目で見つめながら、言ったことがある。「あいつらは自分のカネで飲んでない。オレは違う」。傍流のプライドがにじんでいた。

「入れてくれたんだな」支持者に土下座

 1983年12月の衆院選で初当選直後、鈴木宗男は釧路管内鶴居村へ向かう車の中にいた。夜半、一軒の家の前で降り、扉をたたく。寝間着姿の年老いた男性が扉を開けた。

 「じいさん、入れてくれたんだな」

 「おめえ、よく分かったな」

 老人がそう言うと鈴木は感極まって土下座した。

 鶴居村は、その衆院選で鈴木と同じ旧北海道5区(釧路、根室、十勝、網走管内)から立候補した故北村義和の出身地。敵の牙城だった。鈴木陣営は最終盤まで鶴居の票を読めず、ゼロも覚悟した。だが、開票してみれば16あった。北村は鶴居で1240票を得ながら、次点に泣いた。


 「驚いた。何のつながりがあったのか。それで、票を入れてくれた人を全部特定しようと決めたんだ。考えていたら、以前会ったじいさんの顔が浮かんでなあ」。後日、鈴木は周囲に漏らした。「女房を寝取られても我慢できる。でも、票を取られるのだけは我慢できないんだ」

 「ホクレンを分割できないか」。5回目の当選を果たした1996年の衆院選後、農水省幹部に真顔でそう言い出したことがある。

 ホクレンは、この衆院選道13区(釧路、根室管内)で鈴木を退けて、当選した北村の長男直人=当時新進党、現自民党=の支持基盤。選挙前、鈴木がホクレンなど道内農業団体の幹部に支援を約束する念書を書かせた。それにもかかわらず、釧路地区農協組合長会は北村を推し、鈴木を激怒させていた。

 鈴木は重複立候補した比例代表で当選したが、しこりは消えなかった。巨大組織ホクレンを分割して、力を弱めようと思ったのか。同省幹部が「無理ですよ」と言って、その場は収まった。この幹部は「選挙のことが念頭にあったのだろうが、あまりにも唐突すぎて」と回想した。

 二世、三世や官僚OB議員にはまねのできないほど、鈴木はがむしゃらに票に執着した。それほど、選挙は弱かった。巨額の政治献金を集める力はあっても、小選挙区でトップを取る力はなかった。

 鈴木が学生時代から秘書になり、結婚するまで7年間住んでいた東京都板橋区中台の下宿。古びた電気炊飯器が、まだ残っていた。直径25センチ。2合炊き。スイッチは「入」「切」だけ。鈴木が下宿を出る際、「使ってください」と置いていった。

 風呂はなく、トイレも台所も共同。2階の片隅の四畳半が鈴木の部屋だった。ひっそりとした下宿の中で、炊飯器のアルミのふたは光沢を失い、くすんで見えた。

 票やカネに異常なまでに執着して勝ち取ってきた衆院議員の座。政治への道を踏みだしたこの下宿で、当時、どんな野心をたぎらせていたのか。

 「鈴木長官に頭を下げてくれ」

 1998年度政府予算案の本格編成を前にした1997年11月6日。東京・霞が関にある道開発庁で、同庁幹部は、空知管内奈井江町長の北良治にきまり悪そうな表情で切り出した。

 「北さん、悪いけど、鈴木(宗男開発庁)長官に頭を下げてくれないか」

 この幹部は直前に、同町内で建設予定の「北海ダム」の着工が1998年度予算に盛り込まれるとの見通しを北に告げたばかりだった。それを聞かなかったことにして、鈴木にあらためて陳情してほしいと求めたのである。

 「鈴木長官に邪魔される可能性がある。心配だ」それが懇願の理由だった。この年の9月に道開発庁長官に就任した鈴木は早くも庁内に、にらみを利かしていた。

 不承不承、長官がその時にいた議員会館へ向かった。鈴木は「よーし、分かった」と請け負うなり、北の眼前で農水省、道開発庁などに電話をかけまくった。「空知の北海ダムはマルだからなっ!」

 道開発庁に戻った北を、幹部らが立ち上がって出迎えた。「良かった、良かった」。笑顔で握手しながら喜ぶ姿を北は「これまでにも、どれだけ邪魔されてきたのか」と複雑な心境で見つめた。

 役人が鈴木を恐れれば恐れるほど、鈴木の虚像は膨れ上がっていった。

 「大臣が胆振の予算を半分に減らすと言っている。ああいう人だから陳情に来た方がいい」。同じ97年の暮れ、苫小牧市幹部らに同庁からたびたび電話が入った。

 当時、鈴木は「公共事業はいらないと言う鳩山由紀夫・民主党代表を当選させるところに付ける予算はない」と公言してはばからなかった。怒声を浴びると知っていても、苫小牧市長、鳥越忠行は再三、鈴木に陳情に行かざるを得なかった。予想通り、鈴木は鳥越を面罵(めんば)した。

 怒声で相手を従えていく「宗男流」。その舞台を、結果的に道開発庁の職員がおぜん立てしたことになる。どう喝に危機感を募らせた胆振管内の建設業者は鈴木の後援組織をつくり、選挙区でもない地域に献金企業が急増した。

 道央の自治体幹部は「官僚は本当に脅され、従っていただけなのか」と疑問を投げかける。

 公共事業削減の嵐の中、道開発庁は予算獲得に奔走したが、省庁再編で存続そのものが問われた。開発庁元幹部は「予算獲得だけが目的のような開発庁の存続に、熱を入れてくれる政治家はほかにいなかった」と打ち明ける。弱小省庁の同庁にとって、鈴木は最も頼りになる政治家であったのは、間違いない。

 「道開発予算の一括計上権の存続に尽力したお礼に、ある開発局幹部が業者に鈴木への献金を働きかけている」。1998年から1999年にかけて、道内建設業界に、こんなうわさが流れた。真偽について関係者は口を閉ざすが、道開発庁OBは、鈴木と同庁が「互いに利用し合う関係だった」と証言した。

砲撃音対策のさく「税金の無駄さ」

 陸上自衛隊矢臼別演習場に接する根室管内別海町上風連地区の酪農地帯。道路沿いに、真新しい牧さくが延々と続く。「砲撃音に驚いて暴走した牛が公道に出ないように」と同町が設置した。

 だが、砲撃音が「ドン」と空気を震わせても、牛は身じろぎもせず草をはんでいた。同地区の牧場主(44)が牧草刈り取りの手を休めて吐き捨てた。「牛が砲撃音に驚いて道路に出たことなんてない。税金の無駄遣いさ」

 牧さくは1997年、矢臼別で始まった在沖縄米海兵隊の実弾砲撃訓練を機に整備された。いち早く移転を受け入れた別海町長の佐野力三が、受け入れと引き換えに「住宅防音」「移転補償」とともに、防衛施設庁から引き出した騒音対策3点セットの1つだ。

 佐野によると、3点セットは当時の同庁長官、諸冨増夫との直談判で事業化が決まった。面会を取り次いだのは鈴木宗男。この前後、鈴木は別海を含む矢臼別の周辺3町長に、「地元の要望には責任をもって対処する」と米軍訓練の移転受け入れを強く迫っていた。

 牧さくの長さは、同町だけでも釧路-帯広間に匹敵する112キロ。木のくいを4段の鉄板でつなぐ簡易な構造だが、長さ100キロを超えると下手なハコモノより公共事業の波及効果がある。

 同町は1997年から5年間に総額16億円を発注、国が8割を補助した。地元建設業界は「特需」に沸き、発注リストには鈴木の献金業者がずらりと並んだ。

 しかし、同様に地元対策だったはずの「移転補償」は、酪農を基盤とする地域社会の崩壊に拍車を掛けた。

 1997年から2001年までの5年間に26戸が移転を申請。53億9000万円が支払われた。酪農家十数軒の同町上風連地区でも5軒が移転を決めた。多くは、ただ補償金をもらうだけで離農した。牧草地は「つぎはぎ状」になった。

 別海町には、かつてパイロットファームや新酪農村などの壮大な国家事業に夢を抱き、酪農の担い手が集まった。しかし、性急な機械化で借金は膨らむ一方。乳価も上がらず、離農が後を絶たない。

 「訓練受け入れでもうかったのは土建業者だけ。まじめに営農を続けたい酪農家には何の恩恵もなかった」。矢臼別周辺の農協幹部は、そう言い放った。

 1990年に4691人だった同町の農業者は2000年には4060人に減った。経営環境が厳しさを増す中、展望を欠いた農政、そしてもう一つの国策である米軍訓練移転が離農の引き金を引く結果を招いている。

 一方で建設業従事者は1991年に889人だったのが1999年には1011人と増加。公共事業への依存度は高まり、町はいつの間にか「カンフル剤」の事業を運んでくれる鈴木の強い影響下に入った。

 旧5区時代から鈴木と親交が深い佐野は、鈴木の逮捕・起訴を「大変な痛手だ。公共事業を持ってきてくれる人がいなくなった」と嘆いた。

「鈴木イニシアチブの確立だ」

 霞が関の道開発庁長官室で、鈴木宗男は大臣いすに身を沈めながら、満足そうに周囲に語った。

 「鈴木イニシアチブ(主導権)の確立だ」

 道開発庁長官に就任して9カ月余りの1998年6月下旬。同月30日付で、官僚のトップである事務次官をはじめ、開発庁の主要4幹部を総入れ替えしたうえ、道内11開建の全部長をすげ替える異例の大規模人事を固めたときだった。

 事務次官は2年が慣例だが、大蔵省出身の松川隆志を就任1年で退任させた。後任は鈴木と気脈を通じていたといわれた開発局長の新山惇。開発局長から事務次官に昇格するのは約6年ぶりで、霞が関の常識を覆す幹部人事だった。鈴木が苫小牧東部開発計画をめぐる松川の対応に不満を抱き、「長官の意のままに動く新山さんを引き上げた」との見方が庁内に広がった。

 開発局長への昇格ルートとされる開発局建設部長を「傍流」の開発土木研究所長へ、釧路開建部長を格下の網走開建部長へ転任させた。

 この人事の対象となった道東のある開建元幹部は当時、部長室に鈴木の地元秘書が足しげく出入りしたと証言する。「入札監視委員会があるので、露骨に入札をゆがめるのは無理。だが、特定の業者に配慮してほしいといった口利きはあったはずだ」

 開建部長は年2回、開建部長等会議で上京し、鈴木と顔を合わせる。地元秘書からも情報は伝わる。「言うことを聞かない人間を鈴木さんは分かっていたと思う。依頼を断れば人事で冷や飯を食わされる。職場にはそんな空気が充満していた」と元幹部は語る。

 1998年の大規模人事について当時の道開発庁幹部は「松川次官と鈴木長官の間にいろいろあったという人がいるが、憶測だ。実力があるのに、長官に近いから昇進したと言われるのはかわいそうだ」と鈴木の影響を否定してみせた。

 だが、実像であれ、虚像であれ、現場レベルまで「鈴木イニシアチブ」への恐怖が深く浸透していった。ある開建OBは「末端に至るまで恐怖政治が敷かれていた。『宗男ライン』の職員が近くにいる可能性があるから、口が裂けても長官の批判は言えなかった」と語った。

 「君も霞が関で順調にやってきたのだろうが、これからはどうなるか分からんわな」。長官在任中、自分に従わない職員を怒鳴りつけた後に、鈴木はこう付け加えるのを忘れなかった。いかに頑固な職員も、この一言でほとんど折れたという。

 大過なく過ごし、退職して天下る。そんな「道」を踏み外すことにおびえる役人心理を、鈴木は露骨に利用した。外務省でも駆使した役人操縦術だった。

 「鈴木と刺し違えようという気骨ある職員はいなかったのか」。そう問うと、開発局元幹部の1人は言った。「いないね」

 「釧根は政治家が必要」開発予算急伸

 鉛色の空にカモメが舞う釧路西港2号緑地。1998年5月に始まった第2期工事の着工記念碑があった。

 「国務大臣 北海道開発庁長官 鈴木宗男」。黒御影石に直筆の白い文字。5万トン級の大型貨物船も接岸できるよう、10年以上かけて、2つのふ頭を新設する事業着手を「手柄」として誇示するかのように鮮やかだった。

 「釧根は一番政治を必要としている」。着工3年前の1995年6月、釧路の官公庁のトップを前に鈴木は訴えた。同年度の釧路開建の開発予算は362億円(年度当初、以下同)で、帯広開建の半分強にすぎなかった。「1996年度は間違いなく400億円の大台に乗せて、420億円、430億円と伸ばしたい」

 小選挙区制の導入で釧根にくら替えすることが決まってから、3カ月後の発言だった。

 その言葉通り、翌1996年度の予算は407億円。以後、公共事業削減の流れにもかかわらず、釧路開建の開発予算だけは6年連続で前年を上回り、2001年度には522億円に達した。

 「公共事業をぶんどって来ることのできる貴重な剛腕」。あっせん収賄罪で起訴されてもなお、釧根の土建業界はもちろん、自治体の首長にさえそんな声が消えない。評価の裏付けは、この開発予算の伸びである。

 だが、この伸びの源泉は、本当に鈴木の力だけだったのか-。

 道開発庁の元幹部は「優先順位の似通った他の地域の事業を押しのけるのは政治の力。鈴木さんの力は否定できない」としながらも、こう続ける。「でも釧路の場合、開発予算が増えた主要因は空港と港湾の整備事業。どちらも長年の積み重ねの上の既定路線だった」

 複数の道開発庁・開発局元幹部によると、1996年度予算が膨らんだ要因は釧路空港の滑走路延長工事。だがこれは1995年度に着手し、1996年度の継続は既定の方針だった。釧路西港第2期工事も、漁業者への補償交渉が1996年3月に妥結したことが、着工への契機となった。

 そもそも、貨物需要が伸びながら設備能力が極端に不足していた西港は「予算配分の優先順位が全国でも高位。予算は増えこそすれ減る可能性はなかった」(同庁元幹部)。こうした情報を鈴木はいち早く手に入れ、巧妙に「利用したはずだ」-。複数の同庁幹部はそう口をそろえた。

 もちろん、鈴木が力を発揮した部分も少なくない。

 1998年12月21日。内閣官房副長官(当時)の鈴木は、釧根の市町村長ら50人を首相官邸に招いて胸を張った。「道路整備については私が予定を2年間前倒しにしておりますから」。1999年度開発予算の大蔵原案に、地域高規格道路など釧根での道路整備事業が要求通り盛り込まれたことの誇示だった。

 需要予測を前提に投資の必要性を予算当局に納得させなければならない港湾や空港に比べて、道路は、政治家が介入しやすい、という。

 「予算要求時にち密な計算はいらない。道路族の衆院議員がドンと机をたたいて決まることもある」(同庁の元幹部)

 1995年、鈴木が地元でこう言ったことがある。「これまでは地元の政治家がやるべきことをやってこなかった」。「虚像」を巧みに操り、「実像」以上に大きく見せながら、鈴木は釧根で票とカネをかき集めた。

「先生の視線の中に入っていた方が有利」

 2001年9月、釧路市内で1件の入札が行われた。釧路開建発注の釧路西港防波堤ブロック製作工事。参加したのは、地元の港湾土木業者8社。全社に共通点があった。

 どの企業も1995-2000年にかけて、鈴木宗男に政治献金をしていた。少ない社で総額168万円、多い社で同2400万円。入札は予定価格の99.02%で、毎年献金し、献金額が最も多い根室市の業者が1億2500万円で落札した。

 鈴木に献金している業者同士が落札を争う入札が、釧根で「日常の風景」となっている。98年度に始まった西港第2期工事も、2001年度までで入札参加業者の76%は献金業者。落札して受注した業者の80%も献金業者となっている。(共同企業体は構成員を1社ずつ計上)

 「選挙区で、たいていのところは私の後援会に入っていますよ。広く薄くですよ。北海道中そうじゃないですか」

 逮捕3日前の2002年6月16日、東京都内のホテルで北海道新聞と単独会見した鈴木は「後援企業に受注が集まっている」との問いに怒気で顔が真っ赤に染まった。

 「そういう見方が、間違っているんですよ!」

 だが、そう仕向けたのは、誰だったのか。

 鈴木が釧根にくら替えした1995年、釧路市内の建設業者は鈴木の資金管理団体から献金を求める封書を受け取った。「出さざるを得ない空気」と以後、毎年12万円を献金している。

 地元建設業協会の幹部から毎年、鈴木の新年交礼会のパーティー券数10万円分を購入するよう半強制的に求められている業者もいる。

 「鈴木先生は下請けにどこを使えと、元請けに注文することがあると聞いた。下請けに入るのを邪魔されたくないから、先生の『視線』の中に入っておいた方が有利と思った」。西港関連の工事で、大手の下請けに入った釧路管内の業者は、献金の理由をこう明かした。

 「邪魔されたくない」。ヤクザの用心棒代と同じ論理、と献金業者の多くが口をそろえた。

 業者など釧根からの鈴木への政治献金は、1995年は約2900万円だったが、2000年には約8600万円と約3倍に膨れ上がった。

 道央で土木・建築資材を扱う地場商社の社長は、「邪魔」されたことが昨年までに3度ある。土現発注のダム工事の資材納入で、工事を受注したゼネコンと土現の担当者から「鈴木先生が出てきて、先生が推す会社の名前が出ている」と断念を求められた。社長は「ゼネコン本社や土現に聞きに行っても『(そんな事実は)あるわけない』と突き放されるだけ」とあきらめた。

 この社長は鈴木事務所を「鈴木商会」と呼んだ。「実体のない会社だが、頼めば仕事を受けられる確率は高い。ただ、3-5%のマージン(裏金)を取られる。もうかるのは政治家と元請けの大手ゼネコン、商社だけさ」

労組さえも「背に腹は…」

 「合併すれば、必ず明るい未来があります!」。2002年1月22日、釧路市内で開かれた鈴木宗男の新年交礼会。釧路市と釧路管内釧路町の合併問題に触れて、鈴木は一段と声を強め、こぶしを突き上げた。

 「釧釧合併」問題は古くて新しい課題だ。だが、鈴木が特に熱心だったわけではない。それが、2001年11月の推進派市民団体の署名活動で盛り上がった機運をとらえ、一気に積極姿勢に転じた。側近の蝦名大也道議は「鈴木の政治力を最大限生かすには『大釧路』を築く必要があった」と解説してみせた。

 合併で「合併特例債」という新たな起債を使った財源調達も認められる。本年度一般、特別両会計合わせて1930億円もの起債残高(借金)を抱え、財源不足に悩む釧路市にも、新たな大型プロジェクト誘致の道が開ける。公共事業予算の獲得にらつ腕を振るう鈴木の出番がやってくる。

 「反鈴木」の釧路市議や周辺自治体の首長は、合併論議が鈴木主導で進むことに懸念を抱いた。だが、地元建設業界は署名活動に組織を挙げて協力した。ある業者は「仕事が増えるのなら一も二もなく合併に賛成」と本音を漏らした。

 北洋漁業の衰退、製紙産業の不振-。経済の地盤沈下が進む釧路で、反自民の旗頭だった労組さえも鈴木に急接近した。

 1997年3月、同市内の酒場で、太平洋炭鉱労組の幹部が鈴木と向かい合っていた。料理のメニューを手に「先生、お好みは何ですか」と尋ねた幹部に、傍らの秘書、宮野明がすかさず答えた。「そりゃあ票だろう」。鈴木は上機嫌で日本酒をぐいっと飲み干し、大きくうなずいた。

 三井三池鉱(福岡県)の閉山が迫り、太平洋炭砿も早期閉山説が流れた。労組の危機感は極限に達していた。鈴木も1996年10月の衆院選挙で当時新進党の北村直人に敗れ、立て直しが急務だった。「鈴木頼みは禁じ手だったが、背に腹は変えられなかった。彼は弱い立場の人間の攻めどころを知っていた」(同労組元幹部)

 1999年、同炭砿はアジアへの技術移転を柱に、一時は国の支援で存続の道筋ができた。元幹部は「超党派の政治力のおかげ」と振り返る。

 同年以降、鈴木が釧根で小選挙区から出馬する機会はなかったが、鈴木が露骨に求めた見返りの票についても「存続のためなら、用意する覚悟があった」と打ち明けた。

 その太平洋炭砿も展望が開けず、2002年1月に閉山。新会社が採炭を引き継いだが、規模縮小で1000人近くが職を失った。釧路市の人口は2002年3月末、35年ぶりに19万人を割り、減少に歯止めがかからない。繁栄する「中央」との格差への不満が、鈴木の政治力への期待感を高めさせた。

 だが、鈴木は釧路の将来像を明確に描いてみせたことはなかった。

 非政府組織(NGO)への圧力問題を機に、鈴木への逆風が強まり始めた2月8日、東京・永田町の自民党本部。同炭砿閉山後の地域対策を要請する地元陳情団に、鈴木は要請への答えもそこそこに、一連の疑惑についての弁明をまくし立て続けた。

 陳情団の1人は振り返る。「釧路が将来どう生き残っていくか。鈴木さんと、それを議論する機会はついになかった」

 「新たなムネオつくるしかないのかな」

 「青丸、赤丸って知ってるかい」。道央の土建会社の元社長はにやりと笑った。「(公共事業の)割り付け表の業者名の横に書き込んである印さ」。青丸は事故を起こしたか、天下った官庁OBの待遇が悪いため発注額を削る業者。赤丸は逆に、受注額を前年度から1割増やす業者。

 道内の開建や開発局の特定部局がつくる割り付け表には、4、5年前まで天下ったOBの有無や受け入れ予定が書き込まれていたと元社長は証言する。口利きをした政治家の名を書く欄もあった。それが空欄なら、OBの有無や処遇が受注額を左右する。

 だが、OB1人を抱えれば、年間1000万円以上掛かる。昇給もさせ、65歳まで在職時と同等の収入を保証するのが暗黙の了解事項だ。いやなら政治家に口利きを依頼するしかない。元社長も鈴木宗男に頼んだことがある。「鈴木さんが力をつけたのは、官庁の力が強すぎることと裏腹なんだ」。元社長は吐き捨てた。

 「政官業」の癒着構造にも、きしみが生じている。道央の建設業協会の役員を務める建設会社社長は「談合を仕切る力がなくなってきたから、政治家の口利きがひどくなってきた」と語る。

 2000年度の公共、民間合わせた道内建設投資(出来高)は3兆7300億円で、5年前の2割減だ。このうち民需の落ち込みを補ってきた公共事業も2兆3600億円と約15%減。中小まで足並みをそろえて「分け前」にあずかるのは難しい。

 加えて競争性の高い入札制度が導入され、官庁や業界団体主導の談合は成り立ちにくくなった。

 北大大学院教授の宮脇淳(行財政論)によれば、北海道は公共事業が手厚く予算配分されてきたが、その7、8割は元請けゼネコンなどを通じて本州に還流し、地元にはカネも競争力を付けるための技術も蓄積されなかったという。

 「公共事業の仕組みを根本的に変えない限り、道内の企業には体力がつかない。鈴木さん的な政治家が生まれる土壌が残り続けてしまう」と宮脇は語る。

 鈴木の逮捕後、釧根では開発予算の減少を心配する声が少なくない。釧根が地盤の自民党衆院議員北村直人は「これまでも鈴木さんだけの力ではなかった。私がしっかりやる」と言うが、鈴木に匹敵する強力な政治力を求める声は絶えない。

 地元建設業界は「嵐が過ぎ去るのをじっと待っている状態」(釧路市内の土建業者)だ。鈴木に献金を続けてきた釧路管内の土建会社の幹部は言った。「仕事がないから、政治にすがらざるを得ない現実は変わらない。新たなムネオをつくるしかないのかな」


 「場合によっては(所属する橋本派を)出てもいいんだ。他派閥からも引き抜いて30人から50人の新派閥をつくることができるんだ」。2001年4月の自民党総裁選を前に、党総務局長だった鈴木宗男が電話口でこう言い切ってみせた。相手は、鈴木が総額1000万円を超える政治資金を供与していた同派の若手衆院議員。

 同派の領袖、橋本龍太郎に不満を抱いていた鈴木は、総裁選で橋本ではなく、師と仰ぐ野中広務の擁立に奔走していた。



 野中が固辞して実現しなかったが、派閥を横断して議員の「面倒」を見てきた自信が、野中擁立のために橋本派分裂-新派閥結成さえいとわぬ、との言葉を吐かせた。

 鈴木が代表を務めた自民党支部や資金管理団体が1998-2000年の3年間、寄付金、陣中見舞いなどの名目で資金提供した国会議員、地方議員、首長は総勢 122人。額にして3億1400万円に上る。

 1998年には3000万円弱だったのが、99年には3.6倍に。2000年にはさらに8割近く増えた=グラフ参照=。

 2000年をみると資金提供を受けた衆院議員は51人もいた。道外選出だけでも42人と中堅派閥並み。鈴木から資金供与を受けた派閥横断の「ムネムネ会」のメンバーも含まれている。 提供額上位10人には、橋本派以外の議員が4人いた=表参照=。

鈴木議員からの提供額が多かった衆院議員上位10人
  選挙区 金額(万円) 派閥 当選回数
田中和徳 神奈川10区 1350 山崎
吉川貴盛 北海道2区 1200 橋本
大村秀章 愛知13区 1110 橋本
戸井田徹 兵庫11区=落選 1100 橋本
新藤義孝 埼玉2区 1050 橋本
西川公也 栃木2区 1050 江藤・亀井
木村隆秀 比例・東海 1000 橋本
松岡利勝 熊本3区 1000 江藤・亀井
河井克行 広島3区=落選 ・900 橋本
砂田圭佑 比例・近畿 ・810 高村

 もちろん、橋本派への貢献度も高かった。橋本が代表を務める「平成研究会」が2000年に開いたパーティー券を20万円以上購入した企業や個人、団体計53のうち26は、1995-2000年に鈴木に献金したことがある企業と個人。鈴木からの働きかけがあったとみる向きが強い。購入額も1754万円と、合計額3364万円の52%に達していた。

 道内の地方議員にも、まめにカネを配った。資金提供を受けた道議は1998年に8人だったが、統一地方選のあった99年には13人に増え、2000年も13人。1人当たりの提供額も1998年の50万円から99年は173万円に増えた。最多は鈴木の秘書だった道東の道議で市議時代を含めて総額2166万円を提供した。

 99年は選挙区の釧路管内阿寒、音別、浜中各町などの町議にも1人5万円または10万円の「陣中見舞い」を広く薄く配った。同年10月の釧路町議選では民主、共産、公明を除く保守系全候補12人に資金提供。「反鈴木」の町議も「金額がわずかだったので、ついつい受け取ってしまった」。

 2001年の自民党総裁選で、橋本は小泉純一郎に惨敗し、小泉政権が誕生した。その外相、田中真紀子との対立が、鈴木の命取りとなった。

 疑惑噴出で鈴木が自民党を離党した3月、「ムネムネ会」の若手をはじめ、鈴木から政治資金を受け取っていた道内選出の議員は、相次いで返金した。新派閥結成すら視野に入れていた同会は、あっけなく崩壊した。1


 鈴木宗男が1995-2000年の6年間で、資金管理団体と自ら支部長を務めた自民党支部を通じて集めた政治献金(パーティー券収入も含む)は、総額25億2870万円に上る。企業献金が63%、個人献金が18%で残りは政治団体から。献金企業は土木・建設業関連が圧倒的で、このほか、病院やホテル、食肉関連業者、保育園など多岐にわたる。

 献金の7割は道内から、3割は道外からだ=グラフ上=。5万円を超える献金をした企業、個人、政治団体を所在地別にみると、道外は39都府県。献金がなかったのは青森、福島、茨城、山口、島根、香川、佐賀の7県だけ。企業献金1件当たりの額も、延べ6960社の64%が12万円以下。月5000円、1万円といった小口献金の積み上げが集金力の源泉だ。

 道外からの献金を都府県別にみると、政治団体からの献金が多い東京都が1位で福井、富山、沖縄が続く=同下=。福井からは6年間で5353万円を集めた。人口83万人と全国で5番目に少ない県でなぜ、高い集金力を誇ったのか。

 福井では1970年代後半、地元選出の元建設相の死を受けて県経済界の若手が国政とのパイプを求め、元農水相の故中川一郎の後援会をつくった。鈴木は83年の中川の死後、地盤を引き継いだ。福井の支援者は「地元議員は面倒見の悪い人ばかり。鈴木さんは違った。いざというときほえてくれた」。

 同県内の零細土建業者は「献金額の伸びは沖縄開発庁長官を務めたことと関係がある」と打ち明ける。業者は鈴木が97年に同長官就任後、福井市内の大手土建会社から鈴木への献金を強制された。業者はこの大手の下請けだった。

 複数の地元業界関係者によると、この大手土建会社は沖縄に営業所を開いたが、公共工事への参入が難航。「下請けへの献金強制は、沖縄で仕事を獲得する狙いがあった」。98年の福井からの献金は前年の倍以上に膨らんだ。献金企業の4割近くはこの大手土建会社の下請けだった。

 道内では147市町村から6年間で18億円を集めた。献金額が1000万円以上の25市町のうち、伸びが最大だったのは苫小牧。95年は1社、12万円にすぎなかったが、2000年には27社・12人、963万円と80.3倍にもなった。地元選出の鳩山由紀夫・民主党代表への対抗心をむき出しに、地元土建業界に揺さぶりを掛けた結果だった。稚内(44.5倍)、恵庭(28.7倍)が続く。

 道開発庁長官時代の98年、後志管内からの献金が前年比で3.2倍、日高管内が2.6倍、胆振管内が2.0倍と増加した。全道の開発予算ににらみをきかせる長官の「威光」にひれ伏す形で、集金力は道央にまで拡大していく。



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 鈴木宗男への政治献金の額が、1995-2000年の6年間で実に2000万円近くも増えたマチがある。根室管内中標津町だ。95年は4社、2個人から計77万円だったのが、2000年は25社、29個人から計2064万円。増えた額は自治体別に見て、全国一だった=表=。

 小選挙区制の導入に伴い、鈴木が95年に十勝からくら替えした釧根からの献金も増えた。その中でも中標津が大きく増えた背景には、1つの大型公共工事が浮かび上がってくる。

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 献金額の伸び幅が大きい道内の市町村・・
(単位:円)
順位 市町村 1995年と2000年の献金額の差
根室管内中標津町 19,872,000・
苫小牧市 9,510,000
釧路市 9,090,754
根室管内別海町 7,990,000
根室市 6,348,000
稚内市 5,220,000
留萌市 4,738,635
釧路管内阿寒町 4,560,000
旭川市 4,150,000
10 伊達市 3,620,000
    ※いずれも1995-2000年に鈴木議員が支部長を務めた自民党支部と資金管理団体の政治資金収支報告書から集計
 釧根地域で初めての地域高規格道路「釧路中標津道路」。釧路市から根室管内標津町までの100キロのうち、同管内別海町の 「春別道路」(13キロ)部分の工事は97年度から始まった。

 道東の建設会社の社長は、工事開始前年の96年、土建業者を釧路市内のホテルに集めて、鈴木がこう言っ たと証言する。「釧根の公共工事 は、これ(釧路中標津道路)でこれから10年間は大丈夫ですから」

 同道路の完成までの総工費は約2000億円ともいわれる。1キロメートル当たり20億円。「他の議員が大風呂敷を広げても失笑を買うだけだが、鈴木さんの発言は必ず実がある。期待したよ」と社長は振り返った。

 期待とともに献金も膨らんでいく。97年の中標津町内からの献金は977万円で、前年の212万5000円の4.6倍。新たに献金を始めた企業39社の6割は土建業者とその関連業者だった。

 春別道路の着工から2000年度までの4年間で行われた工事の入札は26件。うち8件の工事を、同町内の4社が受注している(共同企業体での受注も含む)。4社から鈴木への献金は、役員らからの個人献金も含めて6年間で1124万円。同町内からの献金総額の21%を占める。

 隣の別海町でも同様の構図が見られる。別海をはじめ道東3町にまたがる陸上自衛隊矢臼別演習場では97年、米海兵隊の実弾射撃訓練が沖縄から移転した。地元の強い反対を押し切って、移転実現へ動いたのが鈴木だった。

 移転に伴い、防衛施設庁は同演習場の整備に着手。97-2000年度の4年間で計33件の工事の入札を行った。うち9件を別海町の6社が受注した。6社から鈴木への献金は役員からの個人献金も含めて1383万円に上り、同町からの献金総額の54%を占める。

 6社のうち5社が鈴木への献金を始めたのは、事業が始まった97年からだ。土建業者が渇望する大型の公共工事を「てこ」に、脈々とカネを吸い上げる構図が鮮明となる。


 公共工事の受注業者が地元選出の国会議員に献金するのは、鈴木宗男に限ったことではない。2001年度に釧路、帯広、網走開建から工事を受注した建設業者の60.1%がその前年の2000年、鈴木ら道東を地盤とする自民党の4衆院議員に政治献金している。

 鈴木と中川昭一(道11区)、武部勤(道12区)、北村直人(道13区)の政治資金管理団体と、それぞれが支部長を務めた自民党支部に2000年に献金した企業と、3開建が2001年度に発注した工事の落札業者を照合してみた。
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 ※いずれも敬称略
 ※受注は2001年度、献金は2000年の1年間  その結果、3開建から工事を受注した587社のうち、353社が4議員のいずれかに献金しており、献金総額は約2億800万円に上った。額は鈴木が最も多く、3開建の受注企業の3割に当たる175社から約9400万円を受けた。次いで武部、中川、北村の順=グラフ上=。

 選挙区内の開建の受注企業からの献金がひときわ目立つ。網走管内を選挙区とする武部には、網走開建の受注業者250社のうち41.6%に当たる104社が献金。十勝管内を選挙区とする中川にも帯広開建の受注業者の30.2%が献金し、釧路、根室両管内の北村にも釧路開建の受注業者の26.2%が献金していた=同下=。

 一方、2000年の総選挙で、比例代表道ブロックで当選した鈴木は、釧路開建の受注業者の37.2%から献金を受けたほか、帯広、網走両開建の受注業者の約3割からも献金を受けており、影響力は道東全域に及んでいた。

 北村、中川、武部に献金する傍ら、鈴木に献金する業者もおり、釧路開建では受注業者の9.3%、十勝開建では8.7%、網走開建では12.4%が「二また献金」していた。

 鈴木を除く3人にコメントを求めた。北村本人と武部、中川両事務所は、いずれも献金企業から依頼を受けて各開建に「口利き」したことはないと回答。受注企業からの献金については「何らかの規制はやむを得ない」(北村)「将来は個人献金だけにするのが好ましい」(武部事務所)「個人献金のみという方向も含めて検討すべきだ」


2004年2月3日火曜日

【皇室問題】 天皇陛下謁見(一ヶ月ルール)

  昨年末に「一ヶ月ルール」を民主党が無視をしたの破ったのと大騒ぎをしている。

しかし、その一ヶ月ルールの通達なるものの実物を見た一般の国民が目にする機会はないはずである。同時に、宮内庁からの通達が外務省へのものであれば余計、外には出る事はないはずだと考えられる。

ところが、某氏はその実物のコピーを持っているのである。

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平成7年3月13日

天皇皇后両陛下謁見願の取扱いについて

貴省から当庁に対する外国要人(離任する駐日大使を含む)の天皇皇后両陛下への謁見の正式願い出は、謁見希望日の真近に行われる場合が多々あり、そのこと自体好ましくないのみならず、御日程調整にも支障を来しています。ついては平成7年度から、外国要人の謁見願いについては、原則として謁見希望日の一か月以前に要請をされるよう願いたく在外公館など関係方面にもこの趣旨が徹底されるようおとり計らいください。



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平成16年2月3日(外務省小田野)←(宮内庁川島)

天皇皇后両陛下謁見願の取扱いについて(依頼)
標記について平成7年3月13日付け宮内庁式発題403号をもって外国要人(離任する駐日大使を含む)の天皇皇后両陛下への謁見の正式願い出は、原則として謁見希望日の一か月以前に要請願いたい旨(いわゆる「一か月ルール)を通知し、その後も暫(?)時貴省にお願いしてきたところです。

 しかるに当庁から再三の申し入れに拘わらず貴省から当庁に対する外国要人の謁見願い出は、今なおこのルールに則らないものが相次いでおり、当庁としては必要に応じ謁見実現にむけて努めているものの、意に反して謁見に応えできない事例があるばかりか、御日程全体に支障を来す事態が生じていることは、まことに遺憾であります。

 貴官におかれては、本件ルールの趣旨を再度確認を願うとともに、在外公館など関係方面にも改めてこの趣旨を然るべく周知徹底いただき、本件につき講じた措置について当方へ報告願います。

やむお得ず一か月ルールに抵触をする願い出条件については、儀典総括官から式武官(外事担当)へ可及的速やかに通報の上、その取り扱いにつき貴官の意見を添えた文書を持って打診願います。


宮内庁から外務省への通達が外へ出てくる事もどうかとは思うのだが、それよりも、

やむを得ず一か月ルールに抵触をする願い出条件については、儀典総括官から式武官(外事担当)へ可及的速やかに通報の上、その取り扱いにつき貴官の意見を添えた文書を持って打診願います。

この部分には、驚いた。はじめから特例の場合を想定をしていたのである。

2004年1月8日木曜日

「司法支配の密約」をスッパ抜く  国会の歴代法務委員長は公明党が独占

「司法支配の密約」をスッパ抜く  国会の歴代法務委員長は公明党が独占 http://www.weeklypost.com/jp/031226jp/news/news_6.html  

1) 「弁護士予備軍」への贈り物  本来なら余人には見ることができない珍しい光景を目のあたりにした。  
 場所は東京・八王子市にある創価大学のキャンパス。ほんの10日ほど前、冷たい雨が降る日の出来事だった。
                                                   創価大学は池田大作氏(創価学会名誉会長)の「新しき大文化建設の揺籃たれ」の号令の下で71年に創立され、現在、法学・経済・文学・教育・経営・工学の6学部、学生数約8000人を擁する総合大学である。学会員の子弟が多く、≪学会のエリート養成校≫ともいわれる。  武蔵野の台地を切り拓いた約82万平方メートルの広大なキャンパスには、正門を入ってほどなくギリシャ神殿風の『池田記念講堂』があり、敷地奥の高台に建つ地上80メートルの本部タワーには『SGI』(創価学会インターナショナル)の看板が掲げられている。月に何回も学会関係の催しが開かれ、全国から数千人が訪れることから、東京・信濃町の創価学会本部と並ぶ、学会の二大拠点の一つとして知られている。  さて、11月29日。同大学の『A―128教室』で法科大学院の入学説明会が開かれた。法科大学院とは、小泉改革の目玉の一つでもある司法制度改革で来年4月に開設されることが決まったロースクール、つまり弁護士養成機関である。創価大学も全国66校の一つとして開設が認可された。入学説明会には法学部の学生らしい在校生150人ほどが集まっていた。  教授陣のあいさつが一通り終わると、桐ヶ谷章・副学長が創立者である池田大作氏のメッセージと贈り物を携えて演壇に立った。こう切り出した。 「今日、この説明会があることを創立者に御報告したら、『雨が降って寒いから風邪をひかないように』という伝言をいただきました。創立者は法科大学院の認可がおりた時『おめでとう。ありがとう。関係者の方々によろしく』  ――と、たいへん喜ばれてこう詠まれました」  桐ヶ谷氏が句を披露した。 <勝ちにけり 栄えゆかなむ創価大>  池田氏が選挙前に学会員の士気を鼓舞したり、選挙勝利の喜びを表わす時などに短歌や俳句をつくることはよく知られているが、最近では健康不安説も流れ、動向は謎に包まれていた。創価大が文部科学省から法科大学院開設の認可を受けたのは11月21日であり、これが池田氏の直近の肉声と句ということになる。さらに面食らったのは池田氏の≪贈り物≫の中身だ。 「創立者から(説明会の参加者に)かっぱえびせんとパンの差し入れがあります」  桐ヶ谷氏は確かにそういった。“大作えびせん?”と半信半疑でいると、帰り際、参加者全員に、『かっぱえびせん』と『丸ごとソーセージパン』が1袋ずつ配られた。えびせんと司法試験の因果関係はよくわからないが、これを食べて合格してほしいという励ましのようなのだ。学生たちは感激した面持ちだった。  (2) 秘密指令・学会検事を全国に派遣せよ  法曹界に学会員を大量に送り込むことは、創価学会の政界進出と並ぶ池田氏の長年の悲願だったとされる。  それは創価学会の弾圧の歴史と深くかかわっている。  創価学会は1930年に初代会長・牧口常三郎氏によって設立された(当時は創価教育学会)。しかし、第2次大戦中、牧口氏は幹部20人とともに政府の国家神道による宗教統制に逆らったとして逮捕され、獄中で死亡した。戸田城聖・2代会長も治安維持法違反で逮捕されている。  創価学会の古参幹部がこう語った。 「数々の弾圧を受けてきた学会は、組織防衛のために公明党を結成して政界での勢力拡大をはかる一方で、弁護士や検事、裁判官にシンパをつくったり、学会員の子弟で優秀な学生に奨学金を出して大学に進ませ、司法試験を受けさせた。学会弁護団を強化する目的でした」  創価学会は当初、選挙によって政権を取り、『国立戒壇』をつくって一宗教を国教化するという王仏冥合思想を掲げていたが、『言論出版弾圧事件』を機に国民の批判が強まると、池田氏は70年に<政教分離>を宣言した。  “政権の夢”破れた学会はそれから一層、組織をあげて弁護士、検事、裁判官の育成に乗り出す。その養成機関の役割を果たしてきたのが、池田氏が政教分離宣言の翌年に設立した創価大学法学部に他ならない。  同大学は毎年、司法試験合格者ランクの上位20校に入り、これまでに108人の合格者を出して裁判官や、検事、弁護士を送り出してきた。 『法学委員会の新体制について』と題する学会内部文書がある。76年に作成されたもので、学会の司法支配の狙いが記された貴重な資料だ。当時、学会は学生部に『法学委員会』という部門をつくり、創価大学にとどまらず、他の大学に通う学会員を含めて、司法試験や国家公務員試験の受験を支援する態勢をとっていた。文書は組織の改革を提言した内容である。 <法学委員会は現在学生部に所属し、受験生の掌握・指導、合格者の輩出という点に重点を置いて活動している。しかしながら、(中略)総体革命において各分野にどのように切り込んでいくか(官僚機構等に対するくい込み、そのあり方)を検討していかなければならない段階に差しかかっている。さらに、学会の諸活動に関する戦略ブレーンの本格育成も重要な任務となっている>--。  文章には、76年当時の法曹界での勢力が、弁護士33人、検事18人、判事3人、司法修習生16人の合計70人とあり、「今後の展望」として、 <合格者の増員、今後5年間で現在の倍、10年間で現在の4倍にすること。検事は、5年後には各都道府県に1人、10年後には2人配置できる人数になる> --とも書かれている。  文章が出されてすでに27年が経ち、創価大学出身者だけでも108人の司法試験合格者が生まれている。全国の裁判所や検察はすでに学会ネットワークが広く張りめぐらされていると考えた方がいいのかもしれない。  (3) 「池田先生のために働こう」  司法試験に合格すると、法務省の司法研修所で1年半勉強し、判事や検事、弁護士への道に分かれる。  学会員は進路をどうやって選ぶのか。司法研修所の教官を勤めた法務省OBの証言には驚く。 「司法研修所に入った段階で出身高校や大学から、この生徒は学会員だろうというのは大体わかる。ある教え子が、研修期間を終えると、検事の道を進みたいと希望した。非常にまじめな生徒だったが、『君は学会員だろう。弁護士の方が活躍の場があるんじゃないか』と尋ねると、こんな答えが返ってきた。 『修習生の仲間と一緒に池田大作先生に食事に招かれて、その時、先生は一人一人の顔をじっと見つめ、“君は検事に向いている”“あなたは判事だ”と指導してくれました。私は先生の言葉に従いたい』  頑として弁護士にはならないと言い張った」  裁判官や検事には公正、公平さが要求されることはいうまでもない。その修習生は裁判官になったが、果たして、自分が手がける訴訟に学会の利害がからんだ時、信仰を取るのか、裁判官の良心を選ぶのか。  学会出身の弁護士にも話を聞くことができた。 「司法試験に合格するとすぐに学会から連絡が入り、池田名誉会長と食事をする機会を与えられたり、名誉会長の直筆署名入りの書籍を贈られます。それは学会員にとってたいへんな名誉で、池田先生のために働こうという気持ちになる。司法研修所に入ると、年に数回、学会本部を訪ね、学会の弁護士を統括する副会長の接待を受ける。印象に残っているのは、副会長の『今や学会には弁護士は掃いて捨てるほどいる。広宣流布に本気でない者はやめてもらって結構だ』という言葉です。みんな、逆に忠誠心をかきたてられる思いになります」  司法研修期間も学会は、裁判官や検事の卵たちに忠誠心を植えつける一種の“マインドコントロール”をしているのか。  立教大学法学部教授の井上治典氏が警鐘を鳴らす。 「創価学会員の裁判官、検事、弁護士は、正義のスタンダードが一般の司法関係者とかなり違うと思われる。池田大作氏や学会のためになることを最大の正義と考えて行動する可能性があるとしたら、法律家が持つべき中立性を保てるのかと疑問を抱く」  (4) 法務・検察・裁判所の予算を握る  国会でも公明党・学会の司法支配はさらに進んでいた。別表は戦後、新憲法制定後の歴代の参院法務委員長をリストアップしたものだ。  法務委員会は刑法や民法をはじめ法律改正全般にかかわり、法務省と検察庁、裁判所の予算を審議する。わかりやすくいえば、衆参の法務委員長が首を縦に振らなければ、法務省は法律一つ、予算一つも通せない。そうした司法行政に決定的な影響力を持つ参院法務委員長ポストを、過去38年間にわたって公明党が独占してきたことがわかる。  国会の各委員長は各党が議席数に応じて分け合う慣例がある。公明党は結党(64年)後最初の選挙だった65年の参院選で20議席に飛躍すると、当時、党副委員長だった和泉覚氏を念願の法務委員長に就任させた。以来、現在の山本保氏まで34代にわたってこのポストを手離していない。まさに異例、異常といえるが、公明党広報部は、 「わが党として参院法務委員長にこだわりを持っているわけではない」  ――と言い張る。それにしては長すぎる。  自民党幹部が明かす。 「公明党が法務委員長を押さえているのは、池田大作氏の国会喚問を阻止する、いわば“拒否権”発動をできるようにするためだ。他の党にとっては、国土交通委員長や農水委員長のように補助金や公共事業の配分に口を出せる利権ポストと違って、法務には魅力がなく、欲しがらない。だから、公明党がいつまでも独占できる」  利権がないというのは間違っている。小泉内閣が推進してきた司法制度の舞台となったのは衆参の法務委員会であり、法科大学院の設置は、小泉首相と公明党・学会、法務省が一体となって実現させたといっていい。創価大学で法学部の学生に池田氏の句が披露された1年前の11月28日、参院法務委員会で法科大学院を開設するための司法試験法改正案が可決されている。  創価大学が法科大学院開設の認可を受けることができたのも、法曹界に学会シンパを着々と増やしてきたのも、参院法務委員長ポストをがっちり握って法務・検察、裁判所ににらみを効かせてきたからではないのか。公明党にとって大きな政治利権を得るポストだろう。  公明党・学会は敵対する勢力や時の権力による圧迫から組織を守るために、法曹界に学会支持派を拡大した。国会も例外ではなく、公明党の指導者には、弁護士9人がズラリ並んでいる。そして公明党は今や連立与党として権力の側に立った。むしろ危惧すべきは、法曹コネクションに政治権力が加わって、学会批判を封じ込めるフリーメーソン化する危険性だ。そうでないというなら、学会は組織の情報開示と活動の透明性を示すべきだ。  小泉首相は、公明党とともに司法制度改革を進めることで学会の≪司法支配≫に手を貸した。

2003年9月27日土曜日

国連考察 古森


2003/07/28 産経新聞朝刊
【国連再考】(1)第1部(1)無効論 国民に強まる反発や不信
 
 「米国よ、国際連合から脱退せよ!」
 こんな文句を大書きしたプラカードを長身の男性が高く掲げ、左右に激しく振っていた。米国の首都ワシントンのポトマック河畔、かの有名なウォーターゲートのビル群の前、交通量の多い公園道路の交差点脇だった。六月下旬の土曜日午後のことである。
 「国連はアメリカの国のあり方とは異質の価値観を強引に押しつけてくる。平和を求めると称しながら、実は戦争の原因をつくっているのだ」
 地元の自動車整備士で六十四歳、ジョン・コリンズ氏と名乗る男性は、個人の意思での街頭アピールだといい、反国連論を熱っぽく語った。元海軍軍人の彼はブッシュ政権の対イラク戦争には反対だったが、国連にはもっと強い反感を抱くのだという。
 ニューヨークの国連本部から八十キロほどのコネティカット州ウェストポートという海岸の町の出来事も一般市民の国連への反発をみせつけた。人口二万五千ほどのこの町で長年、国連友好委員会を主宰し、毎年六月には国連本部の各国職員を町に招いていた民間の女性活動家ルース・コーエンさんが八十一歳で亡くなり、町の一部の人たちがちょうど完工した地元の橋に彼女の名をつけようと州議会に請願した。
 ところが町民の多数から激しい反対の声が出た。「そうした命名はコーエンさんの国連支持への顕彰となり、いまや反米の演台となった国連への礼賛ととられる」(町民のジュディス・スターさん)ため、絶対反対だというのだった。請願は宙に浮いてしまった。
 同じ六月、ニューヨーク市内に住む有名な映画スターのジェリー・ルイス氏がFOXテレビに出て、一気に語った。
 「国連をなくせば世界のトラブルはずっと減る。世界各国から代表がここにきて、外交特権をよいことに違法駐車をして、劇場でショーをみて、高級ホテルに住む。ボスニアで虐殺が起きても、インドとパキスタンが核爆弾を破裂させても、彼らはなにもしない」
 ルイス氏といえばコメディー俳優の長老だが、この日は真剣な語調で国連無用論を説くのだった。
 「国連の連中は自分の存在の正当化のためにトラブルを絶やさないようにする。いつも他人のカネを使うその活動というのはジョークだ。国連なんて不要だと、私は二十年前から思ってきた」
 米国でのこのたぐいの反国連の大衆感情は新しくはない。一九四五年に国連が正式に誕生した当初から米国内には孤立主義の志向やアメリカン・ウェー・オブ・ライフの保持とからんで国連への反発は存在してきた。国連の結成を最大に主導した国で国連への反発が最強だという錯綜(さくそう)した構図だった。
 だが歴代の米国政府は国連と共存してきた。大衆レベルでの反国連の情理を公式の政策にして、脱退や絶縁を宣言したこともない。その基本はいまも変わらない。イラク戦の過程で国連を徹底して批判してきたブッシュ政権も、イラクの復興や保安には国連の協力を求める姿勢までみせてきた。
 だがそれでもなにかが大きく変わったようだ。対テロ戦争からイラク攻撃にいたる世界のうねりは米国の対国連観の深奥を変質させてしまったようなのだ。米国内各地でみられる国連への反発や不信がこれまでになく激しく、広いのも、その例証としてみえる。
 マスコミでも「国連の不条理」として「国連はよい考えを悪く履行しているのではなく、悪い考えなのだ」(政治評論家ジョージ・ウィル氏)という主張が多くなった。「国連に戻るな」という題で「国連安保理の目的は独裁者ではなく米国を抑えることなのだ」(同チャールズ・クラウトハマー氏)というような意見も珍しくなくなった。
 国連をみる目が変わったというよりも、むしろ国連自体が従来の欠陥や偏向をかつてないほど明白にさらけ出した、という方が適切なようなのだ。こうした展開を映し出すように、米国の学界でも国連の実効性の終わりを率直に説く学説が発表されるようになった。
 ペンシルベニア州立大学の国際政治学者アレクサンダー・ジョフィ教授が七月に発表した「既知の世界の終わり」と題する論文もその一例だった。同論文は「二〇〇二年後半から二〇〇三年初めには国連を基盤とする国際社会のぞっとするような最終の崩壊が目撃された」と指摘し、以下のように結語していた。
 「国連はついにグローバルな統治の模範を実効的にも道義的にも提示しえないことを証明してしまったのだ」
(ワシントン 古森義久)
 

2003/07/29 産経新聞朝刊
【国連再考】(2)第1部(2)聖なる神殿 拉致事件で知る各国の独善
 
 国連への信奉という点ではわが日本は全世界でも最高位にランクされるだろう。現実主義者とされる小沢一郎氏のような政治家までが「国連警察軍」を常設し、自衛隊を提供する構想を説くことにも、戦後の日本の国連の理想への並はずれた期待があらわである。
 皮肉なことに日本と米国は同盟パートナー同士でありながら、こと国連への態度となると、全世界でも最も離れた両極端のコントラストを描く。国連に対し米国では年来、反発や不信がきわめて強い一方、日本では依存や信頼が異様なまでに強いのだ。
 日本のこの態度は敗戦の苦痛な体験や戦後の特殊な国家観などを原因とするのだろうが、国連を国家エゴのにごりのない澄んだ水のような公正な存在とみるところから出発してきた点では純粋だといえよう。
 国連を重視し、尊重する国はもちろん他にも多い。だがほとんどの場合、国連を自国の利益の追求手段とみなし、その範囲で国連の現実を利用するという姿勢が明白にうかがえる。ところが日本は国連自体を汚れた世俗の世界での聖なる神殿とみなし、理想の推進役とする美化の傾きが強いようなのだ。
 しかしそんな日本の背中をどしんとたたくように、この傾きを正す効果をもたらした最近の実例が拉致事件がらみの国連人権委員会での事態だった。
 国連人権委員会はこの四月、ジュネーブでの会議で北朝鮮の人権弾圧を非難する決議案を審議した。決議案は日本人拉致事件の解決をもうたっていた。欧州連合(EU)の提案だった。北朝鮮の人権弾圧はあまりに明白であり、日本人拉致も北朝鮮首脳が認めている。国連の人権委員会が人権擁護という普遍的な立場からその北朝鮮を非難することは自明にみえた。
 ところが委員会加盟の五十三カ国のうち賛成したのは半分ほどの二十八カ国にすぎなかった。中国、ロシア、ベトナム、キューバ、マレーシアなど十カ国が反対票を投じていた。インド、パキスタン、タイなど十四カ国が棄権し、韓国の代表は投票のためのボタンを押さず、欠席とみなされた。日本国民の胸を刺す自国民の過酷な拉致という非人道行為を非難することにさえ賛成しない国が多数、存在する現実は年来の日本の国連信仰とはあまりにかけ離れていた。
 「人権抑圧を非難する決議類にはとにかくすべて反対する国が多いという国連の現実を改めて知らされ、怒りを感じた。中国やリビア、ベトナム、キューバなど人権抑圧が統治の不可欠要件となっている独裁諸国がこの国連人権委員会を仕切っているわけだ」
 拉致家族を支援して、国連人権委員会へのアピールでも先頭に立った「救う会」の島田洋一副会長(福井県立大学教授)が国連への失望を語る。事実、中国の代表は今回の審議でも「北朝鮮がすでに多数の諸国と対話を始めた」とか「決議の採択は朝鮮半島の緊迫を高める」という理由をあげ、反対の演説をとうとうとぶっていた。
 「救う会」の島田氏らは二年前に国連人権委員会の強制的失踪(しっそう)作業部会に拉致事件の窮状(きゅうじょう)を申し立てたが、拒まれた。北朝鮮がなにも対応を示さないため、という理不尽な理由からだった。同じ人権委員会はその一方で九〇年代には日本の戦争中のいわゆる「慰安婦問題」を再三にわたって取り上げ、スリランカ代表が作成した「報告書」など極端に選別的なアプローチで日本を糾弾し続けているのだ。
 国連でのこの種の関係各国の政治的な駆け引きは日本側のODA(政府開発援助)依存外交をあざ笑うのかと思えるほどみごとに、日本の期待や願望を踏みにじり、裏切っている。
 国連人権委員会のいまの議長国はカダフィ大佐の独裁で悪名高いリビアである。自国内で人権を弾圧する国であればあるほど、この人権委員会に入り込み、内部から国連による自国への非難を阻む、という実態は周知となった。だからこの委員会では中国に関してチベットや新疆での少数民族の弾圧や気功集団「法輪功」、民主活動家の弾圧への非難の動きなど、芽のうちに摘まれてしまう。
 国連では人間の基本権利の擁護という最も普遍的かつ人道的であるはずの領域でも、日本国民の大多数が描く崇高なイメージとは対照的に、加盟各国の独善の政治思惑がぎらぎらと発光する。個々の国家の利益や計算の追求が生むなまぐさい空気が公正であるはずの論議の場をおおい尽くす。
 日本人拉致事件をめぐる国連人権委員会での日本の体験は国連のこんなしたたかな現実をいやというほど明示したのだった。
(ワシントン 古森義久)
 

2003/07/30 産経新聞朝刊
【国連再考】(3)第1部(3)歴史的な失態 ボスニアでの虐殺防げず
 
 「ヤスシ・アカシという人物は災禍だった。国連の歴史にも特筆される大災禍だった。アカシのためにボスニアでの平和維持活動(PKO)は歴史上でも最も効率の悪い軍事行動となってしまったのだ」
 ジーン・カークパトリック氏は「アカシ」という名を口にするとき、とくに力をこめ、表情を険しくした。同氏は一九八〇年代にレーガン政権の女性国連大使として活躍し、いまもブッシュ政権から国連人権委員会の米国首席代表に任じられた高名な国際政治学者である。
 同氏はワシントンの大手シンクタンクのAEIが六月中旬に催した集いで国連の平和維持活動について講演し、過去の失敗の最大例としてボスニア紛争への一九九四年からの国連の介入をあげ、その介入の責任者の明石康氏を糾弾するのだった。
 明石氏といえば、日本ではまさにミスター国連として名声が高かった。九二年のカンボジア和平での国連代表としての実績は国際的にも広く認められた。九四年には旧ユーゴスラビア国連特別代表としてボスニア・ヘルツェゴビナに送られたのだった。ボスニアでは文官ながら国連防護軍の最高権限を与えられた。
 ボスニア地域では軍事的に優位なセルビア人勢力がイスラム系のボスニア人住民に攻撃を続けた。九五年七月には国連が安全だとみなしたスレブレニツァ地区に集まったイスラム系住民のうち成人、少年あわせて男性八千人もがセルビア側に虐殺(ぎゃくさつ)された。悪名高い「民族浄化」だった。
 カークパトリック氏はこのときの国連の責任を八年が過ぎたいまも、ピンで刺すようにはっきりと明石氏に帰するのである。
 「国連の指揮下に入った北大西洋条約機構(NATO)軍がイスラム系住民の虐殺を図るセルビア勢力軍を空爆しようとしても、アカシの許可を得なければならなかった。だが彼は許可を出さないか、出しても五、六時間の空白を設けた末だったため、虐殺を阻めないことがほとんどだった。アカシは軍事作戦に関してはまったく未経験かつ無能力だった。スレブレニツァの大虐殺も近くにいたオランダ軍がその阻止のために必死でNATOの空爆を要請したのに、認められなかったのだ」
 明石氏としては国連平和維持活動の中立性や対話を重視しての判断であろう。しかも個人ではなく国連としての組織の対応だったはずだ。だが米国だけでなく欧州諸国のほとんどの関係者も、ボスニア紛争では明石氏を頂点とした国連組織の不適切な対応が「民族浄化」を広げ、平和維持には完全に失敗した、と総括するようなのである。
 とくにセルビア側の虐殺責任者が戦争犯罪裁判にかけられて当時の実情がわかればわかるほど、国連の「未必の故意」に近い無力ぶりが浮かんでくるのだ。明石氏に対してもカークパトリック氏とは政治的立場を異にする民主党リベラル派の国際政治学者ルース・ウェッジウッド氏までが「明石氏はカンボジアでは難民救済や民主的選挙実施にすばらしい成果をあげたが、セルビア軍のどのタンクを空爆して進撃を止めるべきか、というような軍事的判断にはまったく不向きだった」とミスキャストを強調する。
 明石氏個人の言動を含めてのボスニアでの国連組織の軌跡、とくにスレブレニツァの大虐殺との因果関係は米人記者デービッド・ローデ氏が九七年に出した「エンドゲーム」という書に詳しい。同書はこの大虐殺はもし明石氏や国連防護軍のフランス人のベルナール・ジャンビエール軍事司令官がNATOによる空爆をすぐ認めていれば、防げた、と断じている。
 いずれにしてもボスニア紛争での国連の平和維持活動はスレブレニツァの大虐殺により完全な失敗とみなされるにいたった。欧米諸国全体でもこの種の戦争や紛争はやはり国連を主役にしては和平を実現できない、という悲しい総括を生むことともなった。
 とくに米国はこの大虐殺を冷戦後の国連平和維持活動での歴史的な失態とみて、ときのクリントン政権も国連への新たな姿勢を打ち出すようになった。ボスニア紛争には米国は主権国家として調停に乗り出し、和平協定を成立させ、米軍部隊二万人を独自に現地へ投入することとなったのだ。
 こうした国連の歴史的な曲がり角で実は日本の代表が主役となっていたという事実はきわめて多様な示唆に富むといえよう。
(ワシントン 古森義久)
 

2003/07/31 産経新聞朝刊
【国連再考】(4)第1部(4)礼賛の裏側 日米同盟への反対の武器
 
 「日米安保条約も米軍基地も自衛隊も、すべて廃棄し、日本の安全の保障には中立的な諸国の部隊からなる国連警察軍の日本駐留を提案したい」
 「約二十六万に及ぶ日本の自衛隊を警察予備隊程度にまで大幅に縮小し、それを駐日国連警察軍の補助部隊として国連軍司令官の指揮下におき、一切の経費は日本国民が負担する」
 東大教授の坂本義和氏は一九五九年、こんな日本の防衛構想を発表した。東西冷戦の厳しい時代に日米安保に反対し、中立・非武装を説き、国連軍の日本常駐を求めたのだった。常駐軍隊を出す中立的な国としてはデンマーク、ユーゴスラビア、コロンビア、インドネシアなどをあげていた。
 この提案は日本が自国を守るのに自らは経費を出すだけで、国連に無期限で防衛のすべてを委ねるというのだから、革命的だった。
 日本社会党の書記長だった石橋政嗣氏も一九八〇年に発表した「非武装中立論」で日本の安全保障の国連への委任を主張していた。
 「(日本など)各国の安全保障はあげて国連の手に委ねることが最も望ましい。公正な国際紛争処理機関として国連に強力な警察機能を持たせるべきだ。国連は自らは非武装たることを宣言した日本国憲法にとっては本来、不可分の前提であるはずだ」
 一橋大学名誉教授の都留重人氏は九六年に刊行した「日米安保解消への道」という書で沖縄に国連本部を誘致することを提唱していた。
 「日米安保も米軍基地もない平和な沖縄をつくるための最適の具体的措置は国連本部を沖縄に誘致することだ。現在の沖縄こそが国連本部の所在地として、米軍基地も完全に撤去された『平和の拠点』となるにふさわしい」
 こうした表明はいずれも日本の防衛は日米同盟や自衛隊を排して、そのかわりに国連に依存すべきだ、という政策の提唱だった。日米同盟・自衛隊と国連とを二者択一とし、前者をなくして後者を採用すべきだという主張でもあった。
 主権国家の必須要件たる自衛という行為を最初からすべて国連に外注するというのは政策論としてはあまりにナイーブである。その主張を文字どおりに受け取れば、戦後の日本の果てしなき国連信仰だともいえよう。
 だがこの「信仰」は明らかにぎらりとした政治的主張とも一体になってきた。日本の安全保障政策で「国連」を強調することは多くの場合、「日米同盟・自衛隊」への反対を自動的に意味してきたからだ。日米同盟への反対の政治標語の一部として「国連」がよく使われてきた、といえよう。国連の効用さえあれば、日米同盟も自衛隊も必要ない、という主張が堂々と叫ばれてきたのである。
 だがそうした主張は日米同盟・自衛隊支持派からは辛辣(しんらつ)に批判される。拓殖大学教授の佐瀬昌盛氏が語る。
 「日本の安全保障や防衛を正面から考えたくない、取り組みたくないから国連を引き合いに出すというのは、国連にとっても日本国民にとっても不敬な話だ。他のどの国でもまず自国の安保を考えたうえで国連を考えている」
 「日本の安全保障は国連に」という趣旨の主張は「国連幻想」「国連神話」「国連信仰」といった言葉で表現される傾向によく帰されてきた。国連の現実を理解しない無知がその根源だとする見方だった。ところが物事はそれほど単純ではないとする指摘もある。杏林大学客員教授の田久保忠衛氏が評する。
 「日本の安全は対米同盟よりも国連のような多国間機構に頼るべきだと主張する側も、実際には国連が無力であることをよく知っているのだと思う。最初にまず日米同盟への反対という主張があり、その主張を効果的にするために国連を持ち出すのだ。国連の無力を知りながらも、日米同盟への反対の武器として利用するのだと思う」
 素朴にひびく国連礼賛の背後には実はどろどろした政治の思惑や狙いがひそんでいる、というわけだ。
 いずれにしても、国連はこのように日本の安全保障政策の基本とも複雑にからみあってきた。その政策論議では国連の演じる役割は大きかった。
 だが国連自体、発足からすでに五十八年を経ても、坂本義和氏が求めたような一国の防衛を丸ごと請け負う常駐警察軍や、その基盤となる集団安全保障は一向に機能していない。
(ワシントン 古森義久)
 

2003/08/01 産経新聞朝刊
【国連再考】(5)第1部(5)ソマリアの惨劇 平和の手 住民たちが拒む
 
 ソマリアの首都モガディシオでの国連平和維持活動にからむ戦闘がどれほどむごく、すさまじかったことか。米国映画「ブラックホーク・ダウン」の息をもつかせぬ戦闘シーンからも、その血なまぐささの一端はうかがわれる。この戦闘は国連のあり方に関して一つの歴史的な転機を画すことともなったのだった。
 一九九三年十月三日の日曜日午後、インド洋に面した海岸都市モガディシオの中心街、さんさんと注ぐ陽光の下、群衆のあふれる地域に米軍のヘリ部隊が飛来した。中型輸送用ヘリのブラックホーク機の編隊からデルタフォースやレンジャーという特殊部隊の兵士合計百人ほどがロープを使い、するすると降り立つ。
 米軍兵士たちは市場近くの三階建てビルを急襲し、部族軍閥アイディード将軍一派の最高幹部二人を捕らえて連れ去ることが任務だった。作戦は一時間で終わる予定だった。だが群衆の間から黒い影のようにわき出た武装ゲリラたちに激しい銃撃を受けた。ブラックホーク機八機のうち二機は対戦車用ロケット砲を撃ちこまれ、墜落した。
 米軍特殊部隊は攻撃目標のビル周辺で包囲され、猛攻撃をあびる。市街で激戦が起きれば、ふつう市民たちはクモの子を散らすように逃げるのだが、モガディシオでは逆に老若男女が戦闘地域に大群を成して集まってきた。アイディード将軍配下のゲリラたちはその群衆にまぎれて、米軍に攻撃をかける。混乱きわめる激戦が翌未明まで十五時間も続いたのだった。
 世界最強を誇るはずの米軍特殊部隊は十九人が戦死し、七十七人が重軽傷を負った。わずか数キロの地点にある米軍基地からの救援部隊も市街を埋めつくした群衆のために現地に到達できなかった。ソマリア側の被害もすごかった。死者は五百人以上、負傷が一千人以上と推定された。
 米軍兵士たちの死体は歓声をあげるソマリア市民たちにより街路を引きずり回された。その映像は米国内でも流され、強烈な反発と怒りを生んだ。とくに激しく叫ばれたのは自国の若者たちが自国と縁のないソマリアの「平和」のためになぜこんなふうに戦い、殺されるのか、という疑問だった。この米軍の軍事作戦はそもそも国連の平和の維持や執行の範囲内での活動だったからである。
 人口七百万のソマリアでは強権弾圧のバーレ政権が九一年に倒れたが、そのあとに権力を握ろうとしたモハメド暫定大統領派とアイディード将軍派が全土で内戦を繰り広げた。死傷者が激増し、国土は荒れ果て、大量の餓死が出た。
 九二年四月には国連安保理が人道支援と停戦実施の決議を通し、同年七月から翌九三年にかけて第一次、第二次にわたり三万人もの国連平和維持軍を送りこんだ。だがアイディード派は停戦の求めに応じず、国連のパキスタン部隊に攻撃をかけて、その将兵二十二人を殺した。このため国連側もアイディード派を軍事制圧する方針となった。
 米国は一時は二万五千もの部隊をソマリアに送り、内戦の平定を目指した。先代ブッシュ政権からクリントン政権への政策の継続だった。米軍は国連の多国籍部隊とはいちおう指揮権は別だとされていたが、国連の広い傘下には入っていた。その米軍が平和執行部隊として九三年十月、アイディード派の幹部二人の身柄拘束へと向かったのである。
 だがその結果は国連が平和のオリーブの枝を手渡そうとする相手側が住民ぐるみでロケット砲を撃ち放ってくるという手厳しい事態となった。米国のクリントン政権はソマリアからも国連の平和活動からも、やがて身を引いていく。米国のこのUターンには深刻な意味があった。
 冷戦の終わりで国連での米ソ対立が解消され、イラクのクウェート攻撃への国連を軸とする多国籍軍の反撃が成功し、国連の平和維持の効用が初めて生まれた、という期待が国際社会に広まっていた。ところがモガディシオでの事件は文字どおりその期待を血で流し去った。
 この事件を詳細に伝えた書「ブラックホーク・ダウン」の著者マーク・ボウデン氏が総括として当時の米国務省高官の所感を伝えていた。
 「住民がそもそも平和を欲しなかった。彼らが欲したのは勝利であり、パワーだった。ソマリアの経験は特定地域での悲惨な事態があくまで住民たちの責任で起きることを教えてくれた。憎悪と殺戮(さつりく)が続くのは住民たちがそれを求めるからだ」
(ワシントン 古森義久)
 

2003/08/02 産経新聞朝刊
【国連再考】(6)第1部(6)最大の目的 阻止されなかった民族抹殺
 
 国連の第一の目的はまず「国際の平和と安全を維持すること」である。国連憲章の第一条に明記されている。
 この最大の目的が現実にどこまで達成されているのかを測るときに、考察を欠かせないのは、ルワンダでの大虐殺だろう。大虐殺のなかでもジェノサイド(民族抹殺)と呼ばれる大規模な蛮行だった。一民族全体を徹底して滅ぼそうという大量殺戮(さつりく)の行為である。しかもナチのユダヤ民族抹殺などという体系的で機械的な殺人と異なり、個々の人間が山刀などを使い、憎しみと怒りをこめて別の人間を自分の手で殺していくという行動だった。
 国連が介入し、平和を保つための行動を始めながら、なおこうした大規模な殺戮を許してしまう、という実例なのである。国連の平和維持活動とルワンダの大虐殺とを並べて考えると、どうしても国連とは一体なんなのか、という根底からの疑問に襲われる。
 国際社会でルワンダという国について知る人は少ない。アフリカ東部の内陸に位置する人口六百万人ほどの小国である。タンザニアやコンゴに隣接し、面積は日本の二十分の一ほどという目立たない国だからだ。
 一九九四年四月六日以降の百日間にこのルワンダでなんと約八十万人もの住民が虐殺されたのである。全国民の七人に一人近くが殺されたことになる。国連はこの時点ですでにルワンダの平和や安全の維持のために介入していた。だが全土で公然と展開される残酷な大量殺人行為を阻むことはまったくなかった。
 ルワンダでは人口全体の八五%のフツ族代表が率いる政府に対し、残り一五%ほどのツチ族が九〇年はじめから「ルワンダ愛国戦線」というゲリラ組織を作って、戦いを挑んだ。九三年八月には両勢力が和平協定を結び、停戦監視のために「国連ルワンダ支援団」の各国将兵が送りこまれた。当初、フランスやベルギーなど諸国の軍人計二千五百人が駐屯した。
 ところが九四年はじめ、ルワンダ政府の首相府の警備にあたっていたベルギーの平和維持部隊計十人がツチ族系武装勢力に惨殺される。そのショックのため他の国連部隊がほとんど引き揚げ、残りはチュニジアとガーナの兵士合計数百人となった。その空白をぬうかのように起きたのが同年四月六日のルワンダのハビャリマナ大統領の専用機撃墜事件だった。
 フツ族の同大統領は殺され、ツチ族側の犯行とみたフツ族の政府軍や民兵はツチ族住民を無差別に殺し始めた。フツ族の一般住民までが加わり、少数民族のツチ族全体を抹殺するような勢いの大虐殺となった。しかもその方法が単に銃撃に留まらず、ナタやナイフ、牛刀、棍棒(こんぼう)など、ありとあらゆる野蛮な武器が使われていた。歴史上でも類例の少ない大規模かつ残虐な大虐殺が展開されたのである。
 ルワンダ上空を飛ぶ航空機から下を眺めた外国政府高官が眼下の川の光景をみて丸太を組んだイカダが並んで、流れていく、と一瞬、思った。だが丸太にみえるのは、みな虐殺されたらしい男女の死体だったという。
 このように目前で繰り広げられるジェノサイドに対して国連はなんの行動もとらなかった。当時の国連の直接の責任者は平和維持活動担当のコフィ・アナン事務次長(現事務総長)だった。
 超大国の米国も同様だった。クリントン大統領も、マドレーン・オルブライト国連大使も、行動を起こそうとはしなかった。
 ルワンダの大虐殺がソマリアでの国連の平和維持活動の延長として米軍を巻き込んだ惨劇のあと、わずか半年で起きたことも大きなブレーキとなっていた。米国政府としても国連活動への参加に反対する国内世論の高まりに留意せざるをえなくなった。国連側もソマリアでの被害にたじろぎ、部隊の派遣には慎重になっていた。
 全土が血の海となるような、こんなむごい殺人は阻止が可能ではなかったのか。予知はできなかったのか。国連も米国もなぜ連日、殺人が続くのに手をこまねいていたのか。
 五年ほどが過ぎた九九年十二月、ルワンダ大虐殺への国連の行動、非行動を分析した報告書が出た。当時のルワンダPKO軍司令官のカナダ人、ロメオ・ダレア将軍らが調査した結果による報告だった。報告はフツ族過激派が実は以前からひそかにツチ族大虐殺の計画を立て、推進し、国連側のアナン氏らもそれを知っていた、と結んでいた。
(ワシントン 古森義久)
 
2003/08/04 産経新聞朝刊
【国連再考】(7)第1部(7)イラク戦争 構造的欠陥を二重に実証
 
 「国連が自らの決議に沿ってイラクの武装解除を実行しないならば、米国がそれを実行する」
 米国のブッシュ大統領はこんな言明を繰り返した。三月下旬にイラクのフセイン政権への軍事攻撃を開始する前の意図の説明だった。「国連が行動をとらない」という点を強調し、代替策として米国が国家主権を発動しての行動をとらざるをえない、という宣言でもあった。
 平和を維持するための国際機構としての国連の失敗は、数え切れないほどの実例が指摘されてきた。個々のケースでの失態は多数、実証されてきたといえる。だが今回のイラク戦争ほど国連の単なる失敗ではなく、もっと広く深い構造的欠陥を露骨にみせつけた例はなかった。しかもイラクのフセイン政権と米国のブッシュ政権と、そのいずれもが同時に一八〇度も異なる見地からそれぞれ、国連の無力をさらけ出してみせる結果となったのだ。
 米国側はイラクを攻撃する理由について「フセイン政権は国連決議で課された義務を履行しなかった」として、国連の無力を前提に懲罰の決意を宣言して、実行に移した。コリン・パウエル国務長官が二月の国連安全保障理事会での演説で「イラクはすでにこれまで十二年間、国連決議十七件に重大な違反をしてきたと断じられた」と述べたとおりだった。
 クウェートを軍事占領し、米国主体の多国籍軍の攻撃を受けて完敗したイラクは十二年前の一九九一年四月、国連安保理の決議六八七号を受け入れる前提で停戦を認められた。事実上の降伏だった。その結果、核、化学、生物という大量破壊兵器や射程百五十キロ以上の弾道ミサイルをすべて破棄し、かつその確認のための国際査察を受け入れることを誓約した。その時点で少なくとも化学兵器の保有は確実だった。
 だが国連の認定でもイラクはこの決議を完全には守らず、国連の側は以後、当初の決議の趣旨を履行させるための追加の決議を次々に採択していく。しかしイラク側の対応はかえって硬化し、九八年には国際査察団をすべて国外に追い出してしまった。その状態は二〇〇二年秋ごろに米国が武力攻撃の意図を明白にし始めるまでそのまま続いたのだった。その長い年月、国連自体はイラクにあいつぐ決議を順守させるための強固な手段はとらなかった。
 米国側では国連のこうした側面をとらえてその機能自体が現実にとって「無意味」「無関係」と断じたわけである。
 だが視点を変えて、イラクの側、さらには米国のイラク攻撃に条件つきながら反対したフランスやドイツの側からみても、国連の無力はいやでも実証されたことになってしまう。
 米国はイギリスなど「有志連合」を結成し、国連の動向に最終的には背を向けて、イラク攻撃に踏み切った。国連は米国のこの行動を止められなかった。国連安保理の全体の意向を理由に米国に反対をぶつけたフランスやドイツにとっても、国連の機能はなきに等しかったこととなる。
 だから国連の無力は二重に印象づけられたのだった。
 米国側ではとくに国連安保理のメカニズムに対し改めて非難の矢を放つこととなった。「国際平和と安全の維持」のために国連のなかでも唯一、加盟国を拘束する権限を持つはずの安保理は常任理事国五カ国、非常任理事国十カ国から成る。
 イラク攻撃の是非が論じられたとき、非常任理事国にはアンゴラ、カメルーン、ギニアという諸国も含まれていた。国際社会から援助を得なければ機能できない貧困や内戦に悩まされ、国際動向との連環を説くことが難しい微小や孤立が特徴の諸国だった。米国側では「ギニアという国の意思で超大国の米国の国家主権の行使がなぜ左右されねばならないのか」というたぐいの議論が燃えあがった。
 国連では安保理常任理事国の拒否権保有を除いては、どの国もすべて平等に扱われる。だから米国の主張が人口六百万人のギニアの意向で抑えられるという現象もいくらでも起きうるのだった。
 事実、フランスは一九五八年まで自国の植民地だったギニアに外相を送り、ロビー工作を展開させるという構えをみせた。そんな動きは米国をまたいっそう国連拒否へと駆り立てた。
 国連の構造の古くて新しい欠陥や矛盾はこうしてイラク戦争を機に、いやというほどまた露呈されたのだった。
(ワシントン 古森義久)
 

2003/08/05 産経新聞朝刊
【国連再考】(8)第1部(8)石油交換プログラム 管理能力の欠落みせた腐敗
 
 湾岸戦争からイラク戦争へのうねりは期せずして国連の管理能力の欠落をもみせつけることとなった。国連が七年も管理してきたイラクの「石油食糧交換プログラム」が不正に運営され、巨額の資金が賄賂(わいろ)やキックバックとして消えたことを知りながら、国連自体はなにもしなかったことが明るみに出たからだった。
 一九九六年に始まったこのプログラムはイラクの石油を輸出し、そこから得た資金でイラク国民への食糧や医薬品など人道的な産品を輸入するという趣旨だった。九一年にクウェート占領の懲罰を受けたイラクは、国連決議が求めた大量破壊兵器の破棄などを履行せず、国連から経済制裁を受けた。制裁の最大の柱は世界第二の埋蔵量を誇る石油の輸出禁止だった。
 石油からの外貨収入がなくなり、イラクの経済の悪化に拍車がかかった。国民の飢餓や病気がひどくなった。国連はその対応策としてフセイン政権に石油を売った代金を食糧や医薬品に用途を限って使わせるという「石油食糧交換プログラム」を始めたのだった。米国が主唱した措置だった。
 だがこのプログラムは奇々怪々となり、本来の目的を大きく外れた。フセイン政権が崩壊までの七年間に石油を外国に売って得た代金の総額約六百四十億ドルのうち、二百六十億ドルはクウェート侵攻での被害者への補償などに回された。残りの三百八十億ドルが食糧などの人道輸入にあてられたはずだが、実際にイラクへの輸入が確認された分が二百四十五億ドルだった。差額の百四十億ドル近くの資金はどこかへ消えてしまったのだ。
 このプログラムは全体が国連安保理の下に特設されたイラク・プログラム局に管理された。同局は国連事務次長のベノン・セバン氏を局長とし、イラク国内でもイラク人三千人、外国人一千人をそれぞれ職員としていた。イラクの石油を国内のどの企業から調達し、外国のどの企業に売るか、はすべて同局が決めるとされていたが、実際にはフセイン政権の意向が大きかった。食糧や医薬品をどの国のどの企業から買うのかも、同様に決められた。
 国連のコフィ・アナン事務総長は昨年六月、「石油食糧交換プログラム」の「人道輸入」の範囲を広げ、文化やスポーツ関連の購入を認める措置をとった。その結果、モーターボート、高級乗用車、高級家具、テレビ局機材などが輸入されるようになった。イラク側は二千万ドルの五輪スタジアムの建設まで求めた。だがこれらをすべてまとめてもなお百四十億ドル近くが使途不明だった。
 いまではこの行方不明の資金のほとんどがフセイン政権による横領や賄賂、そしてキックバック、さらには違法の課徴金となっていたことが判明した。フセイン政権崩壊後、次から次へと当事者たちが証言するにいたったのだ。
 デービッド・ハウファウザー米国財務省法律顧問は五月の議会公聴会で激しく非難した。
 「この国連プログラムは露骨な悪質かつ厚顔な方法での汚職腐敗の典型例を示した。全世界が恥辱を覚えるほどのひどさだった」
 米国の企業が国内法の規制でイラクとの取引はまったくできなかったことも米側の怒りをあおっていた。
 さらに重大なのはこの国連プログラムがロシア、フランス、中国という特定の国の企業とほぼ独占的に深い関係を結んでいた点だった。まずイラク石油を売った資金はフランスのBNPパリバ銀行に国連が設けた預託口座に集中して預けられ、処理を任された。
 同プログラムの下でイラクと取引をした国の筆頭はロシアで総額八十億ドル近く、次はフランスで約四十億ドル、中国もヨルダン、アラブ首長国連邦と並んで三十億ドルという金額が明らかとなった。
 イラクの石油とこうした結びつきの強いフランス、ロシア、中国という諸国がいずれもフセイン政権への軍事行動に最後まで難色を示したことは示唆に富む。「米国がイラク攻撃を望むのは石油が原因」という説へのアンチテーゼの構図が浮かぶからだ。
 「石油食糧交換プログラム」の実務責任者でキプロス国籍の国連官僚のセバン氏はこの五月、ABCテレビに賄賂やキックバックがなぜ放置されたかを問われて、答えた。
 「だれもが不正を知っていた。だがなにかの措置を実際にとれる立場にいる人間はなにもしなかった。私には行動をとる力はなかった」
(ワシントン 古森義久)
 

2003/08/06 産経新聞朝刊
【国連再考】(9)第1部(9)常任理事国への壁 憲法と安保理活動の矛盾
 
 日本は国連に切ない恋心を寄せてきた。だが当の国連の素顔は日本が思い描いた魅惑の相手とはほど遠く、日本をいささかでも恋う思いもなかった。その意味では完全に片思いだった。この片思いのむなしさの卑近なほんの一例が東京の青山にそびえる国連大学なる施設だろう。
 日本にとって国連に入ること自体が悲願だった。独立を回復してすぐの一九五二年六月、国連への加盟を申しこんだが、ソ連の拒否権でついえた。その後、二度も申請したが、やはりソ連に拒まれた。やっと加盟を果たしたのは五六年十二月と、当初から四年半も後である。
 しかも国連憲章には日本を敵国とみなす条項があった。憲章は第二次大戦が終わる前にできたため、日本とドイツを「この憲章のいずれかの署名国の敵国であった国」として特殊扱いしていた。日独両国に対しては国際社会の現状維持に反する行動があるとみなせば、国連の統制を受けずに武力攻撃をしてもよい、という意味の規定だった。
 日本はこの敵国条項の削除を何度も求めた。同条項は文字だけで実質的な意味を失ったという解釈もあるが、日本にとって屈辱的な記述はなお変わっていない。
 なのに日本は国連に涙ぐましいほど依存しようとした。加盟直後から外交政策の柱に「国連中心主義」を掲げた。国連の経費負担でもどの国よりも前向きに貢献した。国連の活動の核心である安全保障理事会にも熱心に加わり、九〇年代前半までにすでに八回も非常任理事国となって、最多記録を作っていた。そして日本政府は九三年七月、安保理常任理事国となることへの意思を初めて公式に表示したのだった。
 しかし日本のこうした国連への姿勢には実は越え難い断層がひそんできた。とくに安保理への参加にその断層は巨大な矛盾となってつきまとう。この矛盾とは簡単にいえば、国連が最大目的とする世界の平和と安全を守るための集団的安全保障を日本は自国には禁じていることである。
 国連では侵略や戦争を各国が集団体制を組んで抑えにかかる。その抑える作業は最悪の場合、各国の軍隊が国連軍でも、多国籍軍でも、集団を組んでの軍事力行使となる。その軍隊を出す各国は自国領土が攻撃されているわけではない。
 ところが日本は憲法第九条の解釈により、集団的自衛権は保有はしていても、行使はできない、とする。自国の領土を個別に守る個別的自衛権以外にはいかなる場合でも軍事力を行使してはならない、というのだ。となれば、国連でも日本は他国とは異なり、集団での安全保障や平和維持の軍事行動には加われない。
 国連安保理は日本とは逆に集団での軍事行動を実施する母体である。とくに常任理事国はその中核となる。日本がその常任理事国となった場合、自分には禁じていることを他人にさせる、という立場になるわけだ。
 日本政府が常任理事国入りの意向を初めて公式に表明したとき、米国のクリントン政権は支持の構えをみせた。だが議会では反対の動きが起きた。上院で米国政府は日本の常任理事国入りは日本がふつうの軍事行動ができるようになるまで支持してはならない、という決議案があっというまに成立してしまったのだ。先頭に立ったのは知日派のウィリアム・ロス上院議員(共和党)だった。九三年七月末に上院全員一致で可決された同決議は次のようにアピールしていた。
 「日本は憲法の独自の解釈により国連安保理の活動の中心となる地域的安保体制や、軍事行動を伴う平和維持活動、平和執行活動へ参加できないという制約をみずからに課している」
 「日本が参加できないとする国際安保活動なしには国連の安保理は通常の機能を果たせない。日本は現状のままでは常任理事国の責任や義務を果たせない。その結果、日本は自国が参加不可能とわかっている国連の軍事行動を決定し、左右し、アメリカなど他の国のみの軍人の生命を危険にさらすことになる」
 要するに自分ができないことを他人に指示して、させる立場には立たせないぞ、という警告だった。自分ができるのにしたくないことを他人にさせるのは明らかに不公正であり、偽善だろう。集団的自衛権禁止と国連安保理活動との矛盾は国内でも真剣な論議のテーマとはなっていない。国連への片思いはこんな重大な課題への目をも曇らせてしまったようなのだ。
(ワシントン 古森義久)
 
2003/08/07 産経新聞朝刊
【国連再考】(10)第1部(10)国益との共存 国家主権への異なる姿勢
 
 国連の失態や欠陥をこれまで報告してきた。だがもちろん国連の存在自体を否定するわけでは決してない。国連が成しとげてきた着実な実績を無視するわけでもない。国連への反発や不信がすっかり高まった米国でも、その国連批判の先頭に立つ元国連大使のジーン・カークパトリック氏でさえ、国連非難の過剰を戒める。
 「米国が排しても嫌っても国連は今後も存在していくだろう。だからその存在自体をあまり非難しても意味がない。米国も国連の一部という状態が続いていくからだ。要は国連に対し米国の利益を守りながら、うまく機能させていくことだ」
 大切なのはなんといっても自国の利害、つまりは国益の優先、そのうえでの国連との共存ということなのだろう。
 全世界で話題となった書「歴史の終わり」で知られる国際政治・歴史学者フランシス・フクヤマ氏(現ジョンズホプキンス大学院教授)も国連の効用をすべて否定してしまうことへの反対を明言する。
 「国連は安全保障に関しては確かにその機能は疑問だが、その他の機能は重要であり、米国もその価値は認めてきた。開発途上国の国づくりに象徴される国連の技術的な専門能力は高く評価されるべきだろう」
 確かに国連はその目的として「平和と安全の維持」と並び、「経済的、社会的、文化的または人道的性質を有する国際問題を解決すること」をうたっている。貧しく恵まれない諸国への経済支援、虐げられた社会の不平等、不公正の是正、不幸な人々の人権の尊重や医療の救済など、いずれも国連が長年、主に常設・補助機関を通じて活動してきた分野である。緒方貞子氏が代表だった国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)はその象徴的な実例だろう。
 しかしそれでもなお国連が最大任務として掲げる「平和と安全の維持」となると、いまの米国での国連否定の激しさは注視せざるをえない。なにしろ国連を結成した最大の主導役も、国連の運営資金の最大額を負担するのも米国なのだ。その最大の担い役が担ってきた相手にすっかり愛想をつかしたような言動をみせるのだ。
 保守派の政治評論家ジョージ・ウィル氏は国連の存在自体をしりぞけるような主張を繰り返し述べている。
 「米国の保守主義の核心となる原則は国連を排することにより米国という国家の主権と行動の自由を保つことだ」
 反国連主義が米国の年来の保守主義と結びつき、イデオロギーとしても確立されたようなのである。
 フクヤマ氏はこの種のイデオロギーを少し離れた距離から解説する。
 「米国人の大多数は保守もリベラルも、人間集団に対し権力、権限を行使できる唯一の存在は民主的手順で選ばれた政府だけだと固く信じている。民主的選挙で生まれた政府に代表される主権国家こそが正当なパワーを有する機関であり、世界秩序も国際パワー政治もそうした主権国家に従属するという考え方だ。国連がその主権国家の正当なパワーを奪うという印象があれば、米国人は激しく反発することになる」
 世界秩序と国家主権というのは新世紀のこれからの国際社会でも最も重要で最も難しい課題であろう。フクヤマ氏はすでに現在でも米国の思考がグローバルにみて絶対ではないことを付言する。
 「この点では米国と欧州とでは世界をみる目が基本的に異なる。欧州は主権国家の衝突という二度の世界大戦での悲惨な体験のせいからか国家主権を薄め、一部を放棄する姿勢をみせる。欧州連合(EU)がその結果だといえる。だが米国は反対の立場をとる」
 フクヤマ氏はアジアでは欧州諸国のような民主主義など共通の基盤が少ないためにも国家主権の一部放棄は不可能だと述べながら、国連への自身の考えを率直に語った。
 「現実の世界では強制的パワー、つまり軍事力も、その行使も主権国家が独占している。その主権民族国家が予見しうる将来、なくなるという考えはナンセンスだ。だから民主主義の正当性を有する主権国家が国連のような多国間機関に自国の生死である安全保障を委ねることはできない。この点で冷戦の終結後、米国も含めて世界には大きな幻想が生まれていたようだ」
 国連をめぐるこの種の幻想とは一体、なんだったのか。第二部では国連の歴史をさかのぼり、そのへんに光を当ててみたい。
(ワシントン 古森義久)=第一部おわり
 

2003/09/08 産経新聞朝刊
【国連再考】(11)第2部(1)呼称 神話の起源は壮大な「誤訳」
 
 壮大なる誤訳とでも呼べようか。少なくとも本来の言葉を訳す側が理想への願望からねじ曲げた切ない曲解とはいえるだろう。日本語での「国際連合」という呼称と英語の「ユナイテッド・ネーションズ(United Nations)」という原名の間にはそんなギャップが存在するのである。
 国連の創設はそもそも第二次世界大戦中の一九四四年の夏から秋にかけてのダンバートンオークス会議で骨子が決められた。米国の首都ワシントン旧市街のジョージタウンの小高い一角にあるダンバートンオークス邸は三百万平方メートルもの広大な敷地に広がる閑静な邸宅と庭園である。
 第二次大戦でドイツ、イタリア、日本などの枢軸国と戦ってきた米国など連合国(ユナイテッド・ネーションズ)は四四年八月二十一日から十月七日まで、このダンバートンオークスで戦後の世界の安全と平和を守るための国際機構の設立を論じる会議を開いた。当初はドイツやイタリアと戦う米国、イギリス、ソ連の三国代表が顔をあわせ、後半は日本と戦う米国とイギリス、中華民国の三国代表が会談した。
 前と後でソ連と中華民国が入れ替わったのはソ連がまだ日本とは交戦状態にないからだった。戦争自体は欧州でもアジアでもなお激しく続いていた。だがソ連軍は東部戦線全面でドイツ軍を破り、米英軍もノルマンディーに上陸して、フランスを奪回し、太平洋の米軍はマリアナ沖海戦で日本海軍空母の大半を撃滅して、究極の勝利をすでに確実にしていた。
 枢軸と戦うこの米英ソ中などの諸国がいま日本で「国連」と訳される言葉と同じ「ユナイテッド・ネーションズ」と呼ばれていた。「連合した諸国」つまり「連合国」、具体的には枢軸国を敵とする諸国の軍事同盟だった。
 この軍事同盟を「ユナイテッド・ネーションズ」と最初に呼ぶことを提唱したのは日本軍のパールハーバー奇襲を受けてまもない米国のルーズベルト大統領だった。ホワイトハウスを訪れ、入浴中だったイギリスのチャーチル首相に相談し、同意を得たというのが定説である。同首相はイギリス詩人のバイロンがうたった「ユナイテッド・ネーションズが剣を抜けば」という一節を引用して賛意を表したという。その呼称は「連合国」としてすぐ四二年一月一日の大西洋憲章に盛られた。
 その二年半後のダンバートンオークス会議では戦後の国際機関もこの軍事同盟と同じ呼称にすることが決められた。その過程ではソ連は「世界連合」を、イギリスは「世界評議会」を、それぞれ新国際機関の名に提唱したという。だが結局は米国案の「ユナイテッド・ネーションズ」が採用された。戦時中の同盟を次元を高めて、機能を異にする発想だが、平時の新国際機関を基本的に軍事同盟の延長とみる姿勢があらわだった。
 このへんの歴史の事実は国連を「第二次大戦後の国際社会が新世界の平和維持のために創設した新国際機関」とみる日本の一般の認識とは、かなりかけ離れている。しかも奇妙なことに本来なら「連合国」と訳されるのが自然な名称が日本では「国際連合」と訳され、歴史の事実をさらにゆがめる効果を発揮しているのである。ちなみに中国語では国連は原名に忠実に「聯合国」と訳され、中国でも台湾でも公式呼称となっている。
 ダンバートンオークス会議の翌年の四五年六月、国連の創設を正式に決めたサンフランシスコ会議では国連憲章が五十カ国代表により署名された。憲章でも新機関の名称は「ユナイテッド・ネーションズ」と明確にうたわれていた。外務省条約局が中心となった日本語訳ではこの名称は「国連」とされるのだが、その訳では憲章の記述が一貫せず、前文と後文では同じ言葉が「連合国」と訳されている。
 こうした経緯をみると、国連は「連合国」あるいは「連合国機構」と訳すのがより正確だったといえよう。外務省の内部からも「わざわざ実体にもそぐわない『国際連合』という訳語をつくり」(元外務省国連局社会課長の色摩力夫著「国際連合という神話」)という指摘がある。
 ではなぜそんな訳語がつくられたのか。色摩氏は解説する。
 「戦後のわが国の社会にあり得べき違和感を懸念して、俗耳に入りやすい『政治的表現』を狙ったらしい。だがこれは賢明な判断ではなかった。『国連』という呼称がわれわれ日本人の途方もない『国連神話』を生み出す要因の一つとなったからだ」
 つまり国連という曲訳からは、この国際組織が実は第二次大戦の勝者が戦後の世界の秩序を保つために軍事同盟の延長としての共同統治を図るという戦略の産物だったという現実がうかがわれない、ということであろう。
(ワシントン 古森義久)
 

2003/09/09 産経新聞朝刊
【国連再考】(12)第2部(2)敵国条項 勝者が統治する戦後世界
 
 国連のゆりかごを編む場となったダンバートンオークス邸は日本の書籍類ではワシントン郊外とされるが、実際にはワシントン市内、ホワイトハウスからほんの三キロほどの首都の中心部に位置する。赤いレンガ塀に囲まれた美しい欧州スタイルの庭園と邸宅は米国外交官ロバート・ブリス夫妻によって築かれ、国連創設の会議が開かれた一九四四年にはハーバード大学の所有となっていた。
 厳密には「国際機関についてのワシントン懇話」と命名されたこの会議には米国、イギリス、ソ連、中華民国という連合国の四カ国代表が集まった。代表たちの当時の主張をたどると、日本にとってノドに刺さったトゲのような国連の敵国条項の存在もごく自然にみえてくる。
 国連はその憲章で連合国の敵だった枢軸側の日本やドイツを出発点から差別していた。国連憲章は第五三条と第一〇七条とで「敵国」という言葉と概念をはっきりうたっているのだ。
 第五三条では「敵国」という語は「第二次世界戦争中にこの憲章のいずれかの署名国の敵国であった国」と定義づけられる。そのうえで一般の侵略などに対する強制行動(軍事行動)は国連安全保障理事会の許可がなければとれないが、「敵国における侵略政策の再現」への軍事行動は例外だと規定する。
 つまり原加盟国は日本やドイツだけに対しては「侵略政策の再現」があるとみれば、自由に軍事行動をとってよい、というわけである。
 第一〇七条でも「第二次世界戦争中にこの憲章の署名国の敵であった国」が例外としてうたわれ、その敵国に対し国連一般加盟国が「戦争の結果」としてとった行動も憲章のどの規定でも無効とはされない、と明記されている。つまり敵国への軍事関連行動は国連一般の規定にまったくしばられない、というわけだ。
 この敵国条項は現状では明らかに日本などにとって不公正である。国連憲章第四条でも「加盟国の地位はすべての平和愛好国に開放される」と明記され、すべてのメンバーは平等であることがいまの国連の前提ともなっているからだ。
 だが国連の過去を国際連合ではなく連合国としての生い立ちにさかのぼり、五十九年前のダンバートンオークス会議での討議を追えば、敵国条項に関する矛盾も不公正もそれなりに説き明かされてはくる。
 米国代表のコーデル・ハル国務長官は同会議でも国連のあり方についてルーズベルト大統領の「四人の警察官」構想をいろいろな表現で説いていた。この構想は戦後の世界の平和や安全はあくまで第二次大戦の勝者たる米国、イギリス、ソ連、中華民国という四主要連合国が警察官のような力と機能によって保つ、という趣旨だった。
 ハル長官は語っていた。「四連合国が基本的な目的や利害を一致させ、永続的な相互理解を保たない限り、新国際機関の創設も紙の上の創造にすぎなくなる」
 連合国が一致して「ナチス・ドイツや帝国主義・日本のような侵略的国家が世界を悩ますことが二度とないという保証に基づく平和」の構築を目指し、他の諸国は非武装に近い状態におく、という狙いでもあった。
 イギリス代表のアレクサンダー・カドガン外務次官はチャーチル首相の「世界評議会」方式の戦後秩序維持を提唱した。この方式はイギリス、米国、ソ連の三国が戦争中の連合国としての軍事同盟を戦後も続け、全世界にわたって侵略を阻むことに責任を持つ、というシステムだった。
 そのためには全世界を欧州、太平洋、南北アメリカの三地域に分けて、英米ソがそれぞれの地域評議会を運営することがうたわれた。ここでもドイツや日本という敵国を完全かつ永遠に無力化することが前提だった。
 こうした連合国側の構想は戦争がなお続きながらも、勝利の展望が確実となった時点で勝者が戦後の世界をどう統治していくかを決めたシナリオだったといえよう。となると、勝者を苦しめ、傷つけた敗者はその戦後世界では徹底して骨抜きにされ、国連という新システムのなかでも、はるか低い地位に落とされる宿命となる。ダンバートンオークス会議が描くこのような構図では国連憲章の敵国条項というのも、ごく当然となってくるわけである。
 しかしその当時からでは世界の実情があまりに変わってしまったことこそ、いまの国連にとってのジレンマであろう。
(ワシントン 古森義久)
 

2003/09/10 産経新聞朝刊
【国連再考】(13)第2部(3)国際連盟の教訓
■制度上の失敗 反面教師に
 「『効果的な国際機関』という表現を明記するだけでも国内には疑惑や反対が渦巻いてしまう」
 国連の最大の推進者となる米国のルーズベルト大統領はイギリスのチャーチル首相に当初はそう告げて、国連ふう国際機関の設立意図の表明へのためらいを伝えていた。第二次大戦でドイツ軍の進撃が激しい一九四一年八月に米英首脳が発表した大西洋憲章の草案づくりでのやりとりだった。
 チャーチル首相が同憲章に将来の国際平和の保持のために「効果的な国際機関」の創設を明記することを求めたのに対し、ルーズベルト大統領は反対したのだった。その結果、憲章では単に「一般的な安全保障制度」の構築への期待を述べるのに留まった。
 ルーズベルト大統領に複雑なブレーキをかけていたのは、国際連盟の失敗だった。いや同大統領だけでなく、第二次世界大戦の終わりに戦後の新国際機構をつくろうとした連合国首脳たちはみな国際連盟の教訓を大きな影として意識していたといえる。
 第一次世界大戦の悲惨を繰り返さないという希求から一九二〇年に生まれた国際連盟を主唱したのはルーズベルト大統領と同じ米国、しかも同じ民主党のウッドロー・ウィルソン大統領だった。だが米国内では国際連盟への加盟に対し雨あられのような激しい反対が起きて、ウィルソン大統領は文字どおりそのために病に倒れ、政治生命を縮めてしまった。
 同大統領が「各国の政治的独立と領土保全を保証する国際機関」として提唱した国際連盟の創設は、第一次大戦の講和をまとめたベルサイユ条約の一部規約として実現した。一九二〇年一月、連合国と中立国あわせて四十五カ国が参加した。世界史でも初めての国際的な集団安全保障の試みではあった。
 だが肝心の米国では国内の猛反対をウィルソン大統領が抑えきれなかった。病弱の同大統領は医師の制止にもかかわらず、国内各地を回り、国際連盟加盟をアピールした。だが旅中に血栓症に倒れ、上院は加盟条約の批准を否決してしまった。米国内の一部の伝統的な孤立志向が反戦感情と結びつき、勢いを得た形だった。
 米国なしの国際連盟には当初、ドイツもソ連も入れなかった。フランスとイギリスが中心メンバーとなったものの、両国の利害は対立した。日本やイタリアも加わったが、英仏主体の国際連盟には冷淡だった。加盟国は一時は五十九カ国にも達したとはいえ、一九三〇年代には日本、ドイツ、イタリアが次々と脱退していった。国際連盟は三九年のドイツ軍のポーランド突入による第二次大戦の始まりにもまったく無力となった。
 国際連盟の失敗の理由は米国やソ連が不参加だったことのほかに、総会や理事会が大国も小国もまったく同等の全会一致を基本としたため、連盟全体としての意思が決められなかったことだとされた。決定も単なる「勧告」であり、紛争当事国にも加盟国にも拘束力を持たなかったことも、連盟の機能をすっかり弱めていた。
 このため一九四四年のダンバートンオークス会議からヤルタ会談での討議を経て、翌四五年四月に開くサンフランシスコ会議で正式に決まった国際連合のメカニズムは明らかに国際連盟の失敗からの教訓を反映させていた。
 まず第一には大国、小国まったく平等という連盟の基本に対し、国連は大国のパワーが世界の平和を左右する現実を認めて、安全保障理事会の常任理事国という形で米国、イギリス、ソ連、中国、フランスの戦勝連合五カ国に特権を供し、しかも拒否権という究極のカードを与えていた。
 その一方、第二には議事はすべて全会一致制という連盟の基本に対し、国連は総会では多数決制を採っていた。安保理の議事でも常任メンバーの拒否権行使の場合を除いては多数決となった。
 第三は平和や戦争に関する重要決定もしょせんは拘束力がないという連盟の基本に対し、国連は安保理の決定に拘束力を与えていた。国連はしかも独自の軍隊を有し、その拘束力の裏づけとして軍事力を実際に行使できることをも自らに認めていた。
 国連がこうして反面教師とした国際連盟は国連が正式にスタートした一九四五年十月二十四日の時点でもなお存続していた。正式に解散したのは翌四六年四月だった。だから国際連盟は国連の前身であって、前身ではないのである。
(ワシントン 古森義久)
 
2003/09/11 産経新聞朝刊
【国連再考】(14)第2部(4)拒否権 ソ連が権謀、遠謀で押す
 
 「とてもナイスで、ものわかりがよい人物」
 ダンバートンオークス会議のソ連首席代表のアンドレイ・グロムイコ駐米大使はイギリス首席代表のアレクサンダー・カドガン外務次官からこう評された。その後の長い東西冷戦時代にソ連外相として西側を揺さぶり、悩ませることになる人物の特徴描写にしては意外である。
 ソ連の国連創設への当時の取り組みは米英側が予想したよりはずっとスムーズで柔軟だった。だからこそグロムイコ代表の言動も「ナイス」と評されたのだろう。ただし同じ人物評でも崩壊した旧ソ連側に語らせると「ダンバートンオークス会議でのグロムイコはスターリンの理想的な走り使い少年だった」(ヘンリー・トロフィメンコ・ロシア科学アカデミー米国カナダ研究所首席アナリスト)となる。
 国連の主唱者のルーズベルト米国大統領はイギリスのチャーチル首相に国連ふうの国際機関が象徴する戦後の世界の体制について「各国が自ら望む政府を選ぶ自由」や「すべての人間が自由に生きる権利」を前提のように語っていた。
 同大統領が意味したのは枢軸と戦ってきた連合国同士であっても共産党独裁のソ連は異質の少数派となる民主主義の体制だった。ソ連側としては、だから国連づくりのプロセスでは米英側に対し山のような要求を突きつけ、自国の体制を守ろうとするだろうとも予測された。
 ところがダンバートンオークス会議ではグロムイコ代表はおどろくほどの協調性を示し、米英側の国連に関するほとんどの提案に柔順に同意した。ただし強引な主張が二点だけあった。
 第一は国連にはソ連は連邦本体だけでなく連邦を構成する計十五の共和国すべてを個別に加盟させるという案だった。ソ連が突然に出してきた提案に米英側は不意をつかれた。
 第二は拒否権だった。国連での重要な平和と安全の案件についてはすべて安保理の常任理事国の全会一致の賛成を不可欠にするという案である。安保理にはかる提案はみな常任理事国五カ国のうち一国でも反対すれば、排されるという拒否権システムだった。
 第一点については米英の反発にグロムイコ代表は当初から譲歩をちらつかせた。だが第二点の拒否権ではどんなことがあっても譲れないという態度を貫いた。「グロムイコは国連憲章への安保理全会一致の原則の採用のためにはライオンのように戦った」(トロフィメンコ氏)というのだ。
 米英側は当初、拒否権を制限することを主張した。安保理での案件の内容次第で全会一致を必要としないという案や、常任理事国のうち四カ国が賛成すれば、残り一国の拒否権は認めないという案、あるいは安保理にかかる紛争案件の当事者となる常任理事国は表決に加われないという案も、米英側から非公式に提起された。
 しかしソ連は微動だにしなかった。各共和国の加盟案ではウクライナ、ベラルーシ(白ロシア)両共和国とソ連邦本体の計三国の加盟という線で妥協したが、安保理常任理事国の拒否権についてはいささかも譲らなかった。米英側が折れて、国連憲章はこのソ連の要求どおりのシステムを認めた。
 実際にスタートした国連はこの拒否権こそが最大のカベとなって、空転を重ねていくのである。ソ連にとっては長い東西冷戦の間、この拒否権が自国の国際利害を守る強力な外交武器ともなった。
 ソ連はこうした戦後の新世界の秩序づくりを進めるにあたり、日本の敗北を当然の帰結とみていた。だが表面では日本との中立条約をあくまで守る構えをみせていた。ダンバートンオークス会議でも日本との非交戦を誇示するために、中華民国との同席を断固として避けてみせた。
 ところがソ連は実際には同会議の前年の四三年秋には米英両国に対し日本攻撃の決定を伝えていたのである。ドイツを破れば、すぐに対日参戦するという決定だった。しかし表面は日本との不可侵の誓約を保ちながら、その実は戦勝国としての戦後の国際統治の青写真を描く主役の一員となっていたのだった。
 こうしたソ連のしたたかな権謀とたくましい遠謀も国連創設の大ドラマの隠された重要部分だったのである。戦後に機能を始めた国連がその種の権謀や遠謀とからみあってこそ生まれたという現実は、日本側での国連認識とはあまりにかけ離れていたといえよう。
(ワシントン・古森義久)
 
2003/09/12 産経新聞朝刊
【国連再考】(15)第2部(5)中国とフランス 大国の戦略で「勝者」扱い
 
 国連はしょせん第二次世界大戦の勝者が戦後の国際秩序を統治するためのメカニズムとして意図されていた。その勝者は安全保障理事会の常任理事国として拒否権という特権を与えられた。米国、イギリス、ソ連、フランス、中国の五カ国である。この構成は国連誕生から五十八年後のいまもまったく変わらない。だが勝者の条件とはそもそもなんだったのか。
 広い意味ではドイツ、日本、イタリアという枢軸国と戦った連合国が勝者だった。だがもう少し踏み込んでみると、中国とフランスは厳密な意味では勝者ではなかった。なのに勝者の特権を与えられたところにも国連の深刻なひずみが存在するといえる。
 第二次大戦の実際の戦闘で自らも莫大(ばくだい)な犠牲を払い、枢軸側を破った勝者は、米英ソの三大国だった。だから枢軸側への要求や戦後への構想を決める最重要な会議では当時の中国政権である中華民国は除外された。テヘラン会議やヤルタ会談は米英ソ三大国の首脳だけで進められた。国連がらみの戦後秩序を論じるときにも当初はこの三大国だけの「三人の警察官」構想が主だったのである。
 ところが一九四三年十一月のテヘラン会議で米国のルーズベルト大統領が熱心に中国を連合国の主要メンバーに引きずりあげることを主張した。戦後への構想は「四人の警察官」となった。中国は人工的に大国の扱いを受けるようになったのだ。
 いまの中国の学者たちもこのへんの歴史の現実は率直に認めている。中国社会科学院の資中●元米国研究所長が述べる。
 「中国はいかなる基準でも三大国と対等なパートナーではなかった。実際には三大国によって新たな地位を決められたのだ。当初はチャーチルもスターリンも中国を二流のパワーとみなし、大国の地位を与えることには強く反対した」
 ルーズベルト大統領は中国の格上げは対日戦争での中国の士気を高めるだけでなく、戦後のアジアで中国を親米の強力な存在とし、ソ連の覇権や日本の再興を抑えるのに役立つ、と計算していた。アジアの国を大国扱いすることは戦後の世界での欧米支配の印象を薄めるという考慮もあった。
 しかしチャーチル首相は米国のこの動きを「中国の真の重要性をとてつもなく拡大する異様な格上げ」と批判した。スターリン首相も中国の戦争貢献の少なさを指摘し、さらに激しく反対した。だがルーズベルト大統領はソ連への軍事援助の削減までをほのめかして、反対を抑えていった。
 フランスは最初から最後まで「警察官」にさえ含まれていなかった。戦争ではドイツに敗れて降伏し、全土を制圧され、親ナチスのビシー政権を誕生させた。ドイツへの抵抗勢力としてはドゴール将軍がかろうじてイギリスで亡命政権ふうの「国民解放戦線」を旗あげした。だが米国もソ連もこの組織を政府としては認めず、フランスに冷淡だった。スターリン首相はテヘラン会議では「真のフランスはビシー政権であり、フランスは国として戦後は懲罰を受けるべきだ」とまでの侮蔑(ぶべつ)を述べていた。
 だがチャーチル首相が一貫してドゴール将軍下のフランスを擁護した。国連づくりのプロセスでも主要連合国並みの資格を与えることを主張した。米国もソ連もやがて同調していった。米英軍のフランス奪回後にパリにもどり、一九四四年九月に臨時政府を成立させたドゴール将軍に対しフランス国民が熱狂的支持をみせたことが大きかった。
 だがフランスは国連の安保理常任理事国の実質上の資格である第二次大戦の勝者ではないことは明白だったのである。中国も同様だといえよう。にもかかわらず両国とも国連では真の勝者たちの政治的、戦略的な意思によって勝者の特権を与えられたのだった。
 この点でも国連はスタート時から平和への希求という崇高な顔の裏に大国のパワー政治のぎらぎらした素顔を宿していたのである。
 中国とフランスが常任理事国に選ばれたプロセスは明らかにそうしたパワー政治が公正や平等、論理や規則という原則を押しのけた形跡をあらわにする。しかも当初の五常任理事国のうちソ連はいまや崩壊して、ロシアとなった。中国を代表した中華民国は国連を追われ、議席は中華人民共和国に移された。フランスを含まない「四人の警察官」のうち二人はすでに別人となってしまったのだ。
(ワシントン 古森義久)
2003/09/15 産経新聞朝刊
【国連再考】(16)第2部(6)真摯な決意 「平和の守護者」への期待
 
 国際連合の創設を正式に決める全連合国会議が一九四五年四月にサンフランシスコで開かれ、「戦後世界の平和と安全」への希求が語られたとき、日本では米軍の連日の爆撃で皇居や明治神宮までが焼かれ、「本土決戦」や「一億総玉砕」が叫ばれていた。
 サンフランシスコ会議が同年六月に国連憲章への五十カ国の調印を得て、国連を事実上、スタートさせたときも、日本は唯一の枢軸国として連合軍への血みどろの抗戦を試みていた。沖縄の日本軍が全滅したのは憲章調印のわずか四日前だった。
 国連の出発点でその国連をつくった連合国と戦争をしていたのは全世界でも日本一国だったのだ。平和のシンボルのような国連の誕生の後に、日本に対してはその国連を担ったソ連が攻撃をかけ、米国が原子爆弾を落とすという皮肉でもあった。
 この歴史のコントラストは改めて国連という組織の基本の性格を物語り、日本と国連との特殊な相関を照らし出している。
 だがサンフランシスコ市内のオペラハウスで開かれた同会議にかける当時の世界各国の期待は熱かった。二つの世界大戦での人類の惨劇と悲劇を決して繰り返さないために、世界各国が共同して平和と安全の維持にあたり、不戦を誓うという決意は真摯(しんし)だったといえる。
 同会議はそれまでの流れのとおり米国、イギリス、ソ連、中国という四大国が他の諸国を招待する形をとった。「四人の警察官」の基本は依然、貫かれていた。ただし主役の米国ではルーズベルト大統領が会議の開幕の十三日前に病死して、ハリー・トルーマン副大統領が継承した。会議が始まって二週間ほどでドイツが降伏し、国連づくりに勢いをつけた。
 国連憲章は国連の正式発足への手続きとしてフランスを含めた五大国と調印国の過半数がそれぞれ自国で条約として批准せねばならなかった。最も心配された米国でも上院は四五年七月、八十九対二の圧倒的多数で国連憲章の批准案を可決した。
 憲章が決めた国連のメカニズムでは国連自体が歴史上、初めての国際機関として独自の軍隊を持ち、平和の維持や執行にあてることになっていた。国連への加盟はすべての主権国家が大小を問わず、平等に、一国一票の権利を有することとなった。組織の運営は総会と安全保障理事会が主軸となることになった。
 だが総会はあくまで「勧告」の権限しかないのに対し、安保理事会は「執行」の権限を与えられ、しかも平和と安全に関する案件はすべて安保理が優先し、独占してまず扱う権利をも託された。そのうえに安保理では常任理事国五カ国それぞれが拒否権を有し、いかなる提案でも一国がノーといえば、葬り去られることとなっていた。平等であって、平等ではない国連の最大特徴がここにあった。
 しかしそれでも四五年十月二十四日、加盟国の半数以上の国連憲章批准が終わり、国連が正式に発足したとき、この新国際機関こそが以後の世界の平和を守る実効組織だとする高い期待が全世界に広まった。同年八月には日本もついに降伏し、長く苦しい世界大戦もやっと終幕を迎えていた。
 そうした世界情勢の背景の下、国連は戦後の新時代の輝く平和の守護者としてあがめられたのだった。国連の長い歴史をいま振り返るとき、こうした熱狂に包まれたスタート時こそ、最高の黄金時代だったといえるようだ。
 しかしきらきらした理想がどんよりとにごる現実にさえぎられるのに長い時間はかからなかった。国連独自の軍隊という壮大な歴史的実験は、着手さえできないことが判明したのだ。
 「国連軍」の構想は国連憲章の第四十二条から四十七条あたりまでの規定できわめて具体的に決められていた。国連の必要に応じて加盟各国が随時に出す平和維持軍とは異なり、国連指揮下の常設の平和と安全のための軍隊なのである。この国連軍は軍事参謀委員会により結成され、運営されることになっていた。軍事参謀委員会は安保理常任メンバーの五大国の参謀総長により構成される。五大国から空軍、陸軍、海軍それぞれどれほどの兵力と装備の部隊を募り、全体としてどんな国連軍を編成するかはこの委員会で決められることになっていた。
 だが国連の発足一年あまりで米国やソ連によるこの軍事参謀委員会の討議が破綻(はたん)してしまったのである。
(ワシントン 古森義久)
 
2003/09/17 産経新聞朝刊
【国連再考】(17)第2部(7)芝居の舞台 団結から対立の道具に
 
 「国連は芝居の舞台として機能するようになった」
 国連合同監察団の監察官だったフランス人国際政治学者のモーリス・ベルトラン氏は一九四五年十月に発足してから数年後の国連についてこう総括した。加盟各国は国連をただ相手への非難をぶちまける政治宣伝の場所とみなすようになった、という痛烈な批判だった。
 イギリスの国連代表団の高官だった国連の歴史研究家エバン・ルアード氏は自書「国連の歴史・一九四五-五五年」のなかで新たな門出したばかりの国連に対し、さらに手厳しい診断を下していた。
 「一九四五年から五五年までの国連は失敗に終わった。大多数の加盟国は国連を大国やその他の国が紛争を解決するための場所とはみなしていなかった。国連はむしろ公然と議論し、反対側を公的に非難し、決議案を示し、世論を一定方向へ扇動する場とみていた」
 だから国連は政治プロパガンダを演じる場所であり、その意味ではドラマの舞台というわけだった。四五年十月に正式に創設された国連は当初は加盟各国から間違いなく「平和の守護者」としてあがめられたのに、その後すぐに単なる「芝居の舞台」と冷笑されるようになってしまったのだ。
 その理由はごく簡単だった。米国とソ連と、二つの超大国とその両陣営の対立による東西冷戦が始まったからだった。国連はすでに述べたように第二次大戦で枢軸側と戦って勝った連合国、とくに米国、イギリス、ソ連の三大国が運営の主体だった。戦争が続く限り、連合国の団結は強かったが、終わってみると、その団結は意外なほど早くほぐれ、逆に対立へと変わっていったのだ。
 チャーチル首相は四五年二月のヤルタ会談ではスターリン首相と乾杯し、「戦争の火がソ連との間の過去の誤解を燃してしまった」と述べ、イギリスとソ連との過去のしがらみを捨てての和解や連帯を祝った。ところがその同じチャーチル首相が翌四六年三月には「鉄のカーテンが欧州大陸に降りた」と宣言し、ソ連の東欧支配を非難したのだ。
 連合国同士だったはずのソ連と米英両国の間はソ連が降ろした「鉄のカーテン」で仕切られ、対立が始まったわけである。国連では対立し始めた主要連合国が安全保障理事会の常任理事国としてみなオールマイティーの拒否権を持っていた。対立した当事者たちがみな個別に拒否権を持ち、自説を曲げないで、拒否権を使うとなれば、当然、組織全体が機能を果たさなくなってしまう。
 安保理への最初の提訴は四六年一月十九日にイランから出た。イラン領内北部のアゼルバイジャンにソ連軍が駐留しているのは内政干渉だから即時、引き揚げを、という訴えだった。ソ連側はイランの背後に米英側がいるとみた。
 ソ連もその二日後、報復するような形で、イギリス軍がギリシャの内政に干渉するのをやめよ、として、その引き揚げを求める訴えを安保理に出した。あっというまに国連は東西両陣営の激突の舞台となっていった。しかも双方が拒否権を持つから、国連の行動をとめるのも容易だった。国連は東西冷戦の外交闘争の手段となり、国連の平和・安全の維持の機能はまひしていったのである。
 ルアード氏が述べる。
 「国連は平和を模索する場というよりは戦場であり、互いを理解しあう場というよりは、互いをだますための場であり、和解よりは対立のための道具として認識されるようになった。一九四五年からの十年間、国連は冷戦の一手段にすぎなくなった。国連は東側諸国にとって自分の意見を世界に宣伝するための場だった。西側諸国にとって国連は多数票を獲得し、世界が自分たちの側についていることを示せる、という場となった」
 第二次大戦での同盟が東西冷戦での対立へと変わるにつれて、国連は世界の平和と安全の維持に関しては、すぐに無力な存在となっていったのである。国連憲章が壮大にうたった「集団安全保障」からはまったく離れた組織となっていったのだ。
 この間、世界では緊迫や紛争が相ついだ。
 シリア・レバノンからイギリス、フランス両国軍を撤退させるという案件、ギリシャ国内の共産ゲリラを掃討する案件、インドネシア独立戦争、パレスチナ戦争、カシミール紛争、ベルリン封鎖事件、ベトナム独立闘争と、世界の動乱は国連を傍観させる形で展開するのだった。
(ワシントン 古森義久)
 
2003/09/18 産経新聞朝刊
【国連再考】(18)第2部(8)朝鮮戦争 偶然が生んだ「真の国連軍」
 
 国連が本来、意図した機能を果たしたのはただの一回、単なる事故のような偶然からだった-。
 東西冷戦時代を通じての国連の無力が論じられた際によく聞かれた指摘である。このただ一回の例外が朝鮮戦争への国連の対応だとされるのだ。
 一九五〇年六月二十五日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の大部隊がなだれをうって、北緯三八度線を越え、大韓民国(韓国)領内への攻撃を開始した。
 朝鮮半島にはたまたま将来の統一を検討する「国連朝鮮委員会」という組織ができていた。この組織がすぐトリグブ・リー国連事務総長に北朝鮮の侵攻による全面戦争が起きつつあることを報告した。同時に二十五日のうちに国連安保理で米国の要請により「朝鮮での侵略行動による平和侵犯」を審議する緊急会議が開かれた。
 この会議でリー総長は「朝鮮半島の情勢は国際平和への重大な脅威であり、平和回復に必要な措置をとることは国連安保理の明白な責務だ」と言明した。米国代表が「北朝鮮による韓国への武力攻撃行動の即時停止と北朝鮮軍の三八度線以北への撤退を求める」という決議案を提出した。決議案は安保理で反対もなく可決された。
 同決議は「すべての国連加盟国に対しこの決議の実行のためのあらゆる支援を供することを要請する」ともうたっていた。この決議はそれ以前も以後も同様の紛争への対応が必ず両当事者への停戦呼びかけとなったのにくらべて、北朝鮮の武力攻撃の責任だけを明確に非難した点でまったく異例だった。
 だが現地ではソ連製T34戦車を先頭とする七個師団もの北朝鮮軍が不意をつかれた韓国軍を撃破して、首都ソウルに襲いかかっていた。国連朝鮮委員会は六月二十七日、「北朝鮮軍は国連安保理決議を守らず、韓国に対し周到に計画され、調整された全面侵略を実行している」と報告した。
 ちなみに朝鮮戦争が北朝鮮の全面攻撃で始まった経緯は国連がこう明確に報告していたにもかかわらず、その後、日本では左翼系の学者やマスコミは長年、「戦争は米韓側の挑発や侵略から始まった」という北朝鮮・中国側の主張をそのまま繰り返してきた。いまでも北朝鮮の攻撃を客観的な史実と認めず、「朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)」(共同通信社刊『世界年鑑』)というふうにあいまいにする向きも多い。
 国連安保理は同二十七日にまた会議を開き、加盟国が北朝鮮の侵略を阻むための武力行動をとるという決議を採択した。米国提出の同決議は「国連加盟国は北朝鮮の攻撃を撃退し、国際平和と安全を回復するための必要な支援を韓国に与える」ことをはっきり求めていた。反対したのはユーゴスラビア一国だった。
 この結果、初めて国連軍が北朝鮮と戦うこととなった。米軍が主体となり、艦砲射撃や空爆を開始した。海上封鎖も始まった。在日米軍の歩兵二個師団が急派された。イギリス、オーストラリア、ニュージーランドが部隊を投入した。翌五一年には国連軍への参加は計十六カ国となった。ただし国連軍の主体はあくまで米軍で、陸軍の五〇%、海軍の八六%、空軍の九三%をも占めていた。
 それでも国連としてのこの動きは画期的だった。「国連の歴史・一九四五-五五年」の著者エバン・ルアード氏がその意義を強調する。
 「国連が攻撃を受けた国の防衛のために加盟諸国に国連としての軍事行動をとることを求めたのは初めてだった。集団安全保障の原則が実施された古典的な実例だった」
 その意味では朝鮮戦争での国連軍は国連憲章第七章が規定する「平和の破壊」への国連自体としての軍事的措置に限りなく近かった。この第七章こそ国連が究極目標とした集団安全保障の構想をうたっていた。その後の国連の長い歴史でも、名目上にせよ、これほど集団安保の原則の実現に近づいた例はなかった。
 国連が当時、こうした行動をスムーズにとれた理由はただ一つ、ソ連が安保理に出ていないことだった。
 一九四九年十月に成立した中華人民共和国の周恩来首相は翌月、国連に中華民国の追放を求めた。ソ連がこの動きを全面的に支援して、安保理に中華民国追放案を出した。だが五〇年一月、六対三で否決された。その結果に抗議してソ連は以後の安保理の会議を一切、ボイコットしていたのだった。そんな偶然こそが最初で最後の真の国連軍を生んだのである。
(ワシントン 古森義久)

2003/09/19 産経新聞朝刊
【国連再考】(19)第2部(9)東西から南北へ 新興国加入で舞台錯綜
 
 国連の最初の十年間は「西側陣営の国連支配の時代」とも評された。国連の平和・安全の維持という主機能が東西冷戦での対立ですっかり抑えられたとはいえ、国連全体としての主導権は米国を中心とする西側諸国がしっかりと握っていたからだった。その最大の理由は単純な数字だった。
 国連が正式にスタートして二カ月の一九四五年末の時点では加盟国計五十一カ国のうち、ソ連が統括する東側陣営にはっきり色分けされるのはわずか六カ国だった。しかもソ連邦の二共和国を含めてもである。
 これに対し米国主導の西側陣営は西欧と北米にイギリス連邦諸国を加えた計十四カ国、さらに中南米諸国二十のうちの大多数、アジア諸国八のうちのほとんどを自陣寄りとしていた。四十ほどの国が西側支持だったのだ。
 一国一票という国連の全メンバー平等のシステム下ではこの数の差は大きかった。総会ではまずどんな案件でも西側の意見が圧倒的多数の声となり、国連総会としての決定を生んだ。
 安全保障理事会では常任理事国のソ連が拒否権を使うことができた。だから世界の平和と安全に関する重要案件は西側の思うようにはならなかった。とはいえ西側としては安保理でもソ連の「横暴な少数意見」を印象づけることができた。
 このため西側諸国は国連ではもっぱら自陣営の主張と敵陣営ヘの非難の表明を優先させ、妥協や譲歩で解決策をみいだすという努力をしなかった。国連が紛争解決の場にはなりにくい理由のひとつをつくっていた。
 国連合同監察団の監察官だったフランス人国際政治学者のモーリス・ベルトラン氏は述べる。
 「この期間、国連は交渉の場として機能することはできなかった。西側陣営は多数派であることを利用して自己の正当性を世界にアピールしようとした。ソ連はこれに対抗して、常に間違っていると非難される少数派が持つ唯一の武器である拒否権を行使した」
 だから国連自体が平和と安全の維持に果たす機能も権威も落ちていった。とはいえ圧倒的多数を誇る西側陣営にとって国連は、国際社会が自陣営の主張を支持しているのだと誇示できる政治宣伝の舞台となった。自己の正当性の根拠は表決での票数となる。多数パワーである。少数派からすれば「多数の独裁」だった。
 だが西側陣営にとってこの多数パワーに頼る国連対処法はやがてブーメランのように、向きをくるりと変えて、自らを襲ってくるようになる。国連での多数派の立場を失うこととなるからだった。
 一九五五年ごろから国連には第三世界の新興国が加わるようになった。国連憲章がうたう「人民の自決」に従い、脱植民地化が進み、新たな独立国家が生まれて、国連に入ってくる、という新プロセスの始まりだった。
 国連の加盟国は五五年には六十だったのが、六五年には百十九へと倍増した。新加盟国の大多数は元植民地だった。六五年末の時点では全加盟国の約三分の二にあたる七十六カ国が第三世界の諸国となった。この種の諸国は当然、反植民地主義の立場を鮮明にしていた。その結果、国連の質も変わっていった。
 新たに国連に加わった新興諸国は貧困で弱小だった。一国では外交上の発言力も極端に弱い。そうした諸国は国連への依存が高くなる。国連を使って大国に対抗するという傾向である。だから国連自体の権威や機能を強くすることに力を注ぐようになる。この傾向は国連の力を弱いままに抑えようとしてきた米国やソ連とは対照的だった。
 国連が扱う案件の質も異なってきた。新加盟国が国連に提訴する案件が脱植民地化にからむケースばかりだったからだ。西欧諸国の支配下にあったアフリカやアジアの植民地が独立する過程でぶつかる多様な障害や紛争が国連に持ちこまれるようになった。
 国連は東西対立にからむ案件を扱う舞台だったのが、こんどは南北問題を扱うことが圧倒的に多くなったのである。ただし東西問題もなお頻繁に起きており、それらが南北問題を複雑に錯綜(さくそう)させるようになった。
 旧植民地だった新興諸国は東西対立のイデオロギー的側面にはあまり関与しなかったが、宗主国への反発が西側陣営への反発につながる場合も少なくなかった。ソ連がこの傾向を利用して、第三世界に接近し、国連の力の構図は大きく変わっていった。
(ワシントン 古森義久)
 
2003/09/20 産経新聞朝刊
【国連再考】(20)第2部(10)金縛りの平和維持 常任理事国の紛争に無力
 
 ソ連のニキータ・フルシチョフ首相が国連総会の議場でクツを脱いで、振りかざし、テーブルにたたきつけたのは一九六〇年十月十三日だった。フィリピン代表が演説し、「ソ連は東欧をのみこみ、政治や市民の権利を奪ってしまった」と非難したときである。
 フルシチョフ首相はこの年の国連総会に出席するためにニューヨークに三週間も滞在した。同総会にはアイゼンハワー(米)、マクミラン(英)、ネール(インド)、ナセル(エジプト)、チトー(ユーゴスラビア)、スカルノ(インドネシア)、カストロ(キューバ)などという戦後世界を動かした巨頭たちが姿を現した。激動する国際政治のなかでよきにつけ、悪しきにつけ、国連への関心が高まった結果だった。
 とくにフルシチョフ首相にとって国連は、東側陣営の主張を訴えるパフォーマンスの格好の場となっていた。それまで国連では少数派として守勢に立ってきたソ連が、東側陣営にもときには友好を示す新興諸国の加盟で味方を増してきたからだった。
 同首相がこの総会で最も熱をこめたのは植民地主義の糾弾だった。新加盟の諸国はほとんどが西側先進諸国の旧植民地だったことが大きな理由だといえよう。首相は総会で自ら「植民地独立宣言」の採択を提案した。翌年末までにすべての植民地の独立を求めるという過激な内容を読み上げるとともに、米国やオーストラリアの「原住民抹殺」を非難したのだった。
 ソ連のこの提案は結局は否決され、アフリカ、アジア諸国が共同で出したやや穏健な「植民地独立宣言」がかわりに採択された。
 フルシチョフ首相の国連総会での言動は、旧植民地だった新興諸国の加盟があいつぎ、南北問題が新たな主要課題となっても、なお激しい東西対立が国連の単一有機体としての効用を決定的に弱めている現実を改めて印象づけた。この時期に国連の平和維持活動が本格的に始まったが、そこにも東西対立の影が濃かったのである。
 平和維持部隊は国連緊急軍という名称で一九五六年に初めて中東のシナイ半島での紛争に対応して組織された。その後、六〇年にはコンゴ紛争に対し、六二年にはニューギニアの西イリアン紛争に、六四年にはキプロス紛争に、それぞれ国連平和維持部隊が送られた。
 これら部隊の結成はある意味では国連が本来の目的から後退したことを証していた。憲章がうたうような国連が自ら侵略に対抗する「集団安全保障」でもなく、軍事衝突を実際に止める「平和の執行」でもなかったからだ。平和維持というのは当初から特定の地域内ですでに和平に同意した当事者たちの間の平和を保つ、という目的だけを目指していた。その点では警察行動に近かった。
 当時のダグ・ハマーショルド国連事務総長は平和維持活動の前提となる原則としてさらに、国連の部隊派遣には紛争当事者の同意を得ること、現地の内政には干渉しないこと、紛争当事者たちの勢力比を変えないこと、などを打ち出した。また国連部隊は実際の活動では武力は自衛のための最後の手段としてしか使わない、ことも決められた。
 この平和維持活動の第一期八年間の実績の総括は難しい。四件のいずれのケースも当面の目的は達され、平和維持軍の死者もコンゴで二百三十人が出るに留まった。だがいずれの紛争の根源もほとんど手つかずのままだった。そのうえになによりもこの同じ時期に起きた他の大きな侵略や紛争には国連は無力だったからだ。
 その最大例は五六年のソ連軍のハンガリー侵攻だといえる。非スターリン化、自由化を進めたハンガリーの国民は親ソ連の当局への反乱を起こし、共産圏離脱までを求めた。だが介入してきたソ連の大軍に鎮圧された。この間、ハンガリー国民代表は国連への訴えを続けたが、国連はソ連の拒否権で動けなかった。同様に国連は六一年の米国のキューバ侵攻支援に対しても、六五年の米国のドミニカ侵攻にも、無力だった。
 国連の安全保障理事会は紛争に常任理事国が正面から関与している場合や、常任理事国の緊密な同盟国が当事者の場合、平和維持活動でさえ機能が難しいというパターンがさらに形成されていったのである。一方、この種のブレーキがかからない個々の状況下では、平和維持活動はそれなりの成果をあげていった。
 しかし全体としては一九七〇年代を迎えてもなお国連は東西冷戦による金縛りからは脱せなかったのである。
(ワシントン 古森義久)
 
2003/09/22 産経新聞朝刊
【国連再考】(21)第3部(1)国連大学の怪 不明な存在意義、不備な運営
 
 日本国内で国連を感じさせる存在といえば、東京都渋谷区にそびえる国際連合大学であろう。青山通りに面したピラミッド型地上十四階の豪華なビルは人目を引くが、内部にある国連大学の実態について知る日本国民は少ない。
 国連大学というのは奇怪な機関である。大学であって、大学ではない。一般の意味の大学に不可欠な学生も教授もキャンパスも存在しないからだ。国連であって、国連でないとさえいえる。公式には国連総会の付属機関とされるが、国連は設立にも運営にも資金を出しておらず、財政の基盤は日本が独自に負担しているからだ。
 国連大学は「人類の存続、発展、福祉の緊急な世界的問題の研究と知識普及に携わる研究者たちの国際的共同体」と同大学の憲章で定義される。大学という呼称が連想させる高等教育とは無縁の単なる研究者の集まり、あるいは研究機関、研究発注機関だといえよう。
 だがその活動が実際に国連にどう寄与し、国際社会にどう貢献するのかには疑義が多い。その点では日本国民が国連大学を国連や国際社会に重ねて、高い期待を寄せるのは切ない誤解のようなのだ。
 国連大学自体の発表では、その活動は「平和と統治」とか「環境と開発」というテーマの研究を各国の学者に委託することや、開発途上国の研究者を招いて短期の研修会を催すことなどであり、目的は「国連と世界の学術社会のかけ橋」になることなのだという。
 だがこの「活動目的」の根本的な欠陥は、その種の研究がらみの活動はすでに国連本体の各機関が直接に、あるいは外部組織への委託の形で、とっくに実施していることである。あえて「大学」を設け、資金を投入してまで進める必然性が薄いのだ。
 国連大学のこの種の欠陥や問題点は国連自体が明確に認めている。国連合同監察団が一九九八年に発表した国連大学の調査報告書は次のような骨子を指摘していた。
 ▽国連大学の活動全体が国連社会に十分に利用されておらず、同大学のユニークな創設自体が国連内外の期待に応じていない。
 ▽国連大学は主要テーマとする途上国の「能力育成」研究などで国連開発計画(UNDP)、国連教育科学文化機関(ユネスコ)など国連の他の機関との調整が不足のため、同種の研究活動を重複させている。
 ▽国連大学の理事の人数は多すぎるし、構成が偏っており、全体の運営も人事、管理、予算、財政の各面でより透明で効率を高くし、経費を削減しなければならない。
 国連大学の運営については具体的な不正事件も暴露された。国連の会計検査委員会は九八年に公表した監査報告で、国連大学の開発途上国からのコンサルタントや専門家の採用に不備があるとして、二件の不正を明らかにした。
 二件とも国連大学から研究を委託され、前払いの代金が払われたのに、研究がなにも出てこなかった、というケースだった。うちの一件は代金二万五千ドルを受け取りながら六年間なにも提出せず、しかも国連大学側はそれを放置していたという。
 国連大学のこうした側面は米国のマスコミでも「責任に欠け、資金の大部分を組織自体の自己運営の官僚機構のために費やし、研究や研修にあまり残していない」(ワシントン・ポスト紙報道)と批判された。
 国連大学自体の内部監査が不足ということだろう。このだらしのない実態は青山通りにそびえる立派な高層ビルの「人間の安全保障と発展に学術面で寄与する国際連合大学」(同大学の宣伝パンフレットの記述)というイメージとはかけ離れている。
 だが内部の実態よりもずっと深刻なのは国連大学の存在自体の意義が国連合同監察団の調査によっても問われたことである。前述の調査報告書はタイトルでも国連大学の「適切さの強化」を求めていた。「適切さ」とはつまり国連大学の存在が国連にとって、ひいては国際社会にとって、はたして適切なのか、という意味である。同報告書が適切さの強化を求めることは現状では適切ではないという示唆だろう。
 その適切さはいうまでもなく国連大学の実際の活動の結果で決められる。だがこの点でも国連大学の人事部門などに七年間も勤務した米国人研究者のレスリー・シェンク氏は大胆な指摘をする。
 「私自身、国連大学が外部世界になにか明確なインパクトを与えたという兆候はなにひとつみたことがない。国連大学の研究発表などはほとんど実体のないはったりに過ぎない」
 国連大学が国連自体にとって本当に必要とされているのかどうか。この疑問は一九七〇年代にまでさかのぼって国連大学のスタートの経緯をみると、さらに大きくふくれあがる。
(ワシントン 古森義久)
 
2003/09/23 産経新聞朝刊
【国連再考】(22)第3部(2)丸抱えの招致 主要諸国は「ご勝手に」
 
 日本の官民がかつて国連大学を国内に開くことにどれほど熱意を示したか。その熱意に国連の他の諸国がどれほど冷淡に対したか。その記録をたどると、日本の国連にかける情念のようなひたむきさが改めて浮かびあがる。
 国連大学は一九六九年に当時のウ・タント国連事務総長により構想が提示された。「多数の国からの教授陣と若い男女の学生から成る」という教育機関としての大学の構想だった。ところが国連の主体となる先進諸国はみな反対だった。
 それら諸国は膨張を続ける国連機関の新設にまた経費を負担させられることへの不満に加え、国連と大学の組み合わせを奇異としていた。国連は単に各国の政治の協議の場に過ぎないから、特定の国や社会が長年の文化や価値観の粋を集めてつくる高等教育機関である大学を開くことには適さない、という思考だった。
 国連自体が政治的に動くことも多いから、その政治に大学を従属させたくない、という配慮もあったようだ。
 だが日本は熱狂的な対応をみせた。時の佐藤栄作首相を先頭に与野党も外務省もマスコミも、国連大学の日本への招致を求めた。日本が一途(いちず)に「国連中心外交」を唱える時期だった。国連大学構想は国連本体とユネスコ(国連教育科学文化機関)の共同のプロジェクトとなったものの、主要諸国はなお無視して、審議の対象とはならなかった。
 日本が施設や経費を提供すると申し出て、なお熱心に動き、やっと一九七三年に国連本会議は国連大学設置の決議案を審議し、可決した。だが米欧諸国もソ連をはじめとする東側諸国もみな棄権していた。国連大学の設立も運営も国連予算にはまったく頼らず、すべて自発的拠出金でまかなうと日本が提案していたため、自分たちが資金を出さなくてよいなら、勝手に、という態度だった。
 国連大学が単なる研究機関に留まるという案にまとまったことも多くの国の反対を抑える結果となった。だが主要国はどこも賛成はしなかったのである。
 日本は東京都心の時価二十億ドル以上の一等地を国連大学用地として無償提供するとともに一億ドルを寄付して国連大学基金とし、運営の資金とすることを決めた。なにからなにまで日本の丸抱えとなった。だからこそ国連大学は七五年にオープンしたのだった。外務省にあって国連局社会課長やチリ大使を歴任した色摩(しかま)力夫氏はこのへんの動きを酷評している。
 「『国連大学』とは名のみであり、事実上、日本が国連の名を借りてつくった訳のわからぬ学術機関となった。日本の横車に国際社会が根負けして設置を認めることになったのだ。無用の長物として国際社会の軽侮の的となる筋の悪い発想を崇高な文化事業であるかのように錯覚したといえる。当時、外務省事務当局には国際社会を見据えた真摯(しんし)な反対論もあった」
 国連大学自体の案内プロフィルでは、誘致の理由の一つとして、当時の日本の大学が大学紛争などのために「伝統的な習慣や制度に過度に拘束され、社会の構造的変化に十分に対応できていなかったことが指摘される」と述べている。日本の大学の体質改善のために国連大学をつくるという趣旨らしいが、この主張も国連がそもそもなんたるかを無視した主客転倒の議論としてひびく。
 発足以来二十八年の国連大学はいま、オランダ人のハンス・ファン・ヒンケル学長の下に東京の本部以外に世界各地十二カ所に専門分野ごとの国連大学研究所をおいているが、現地の大学などとのタイアップが多い。常勤職員は二百十一人、年間予算は約三千八百万ドルとされる。
 この予算もほとんどが日本の事実上の負担となる。二〇〇一年度でみると、国連大学の歳入は日本が当初に提供した基金から一千五百万ドル、日本の政府や民間からの寄付による拠出金が約九百万ドルと、全体の七割近くを占めた。
 国連大学が国連や国際社会にとってどんな寄与を果たすかという疑問はともかく、これだけ日本からの恒常的な出費が多いとなると、日本にとってどんな利益をもたらすのか、という議論も当然なされるべきだろう。
 国連大学はしかも一九六〇年代から七〇年代にかけての日本が願った大学ではなく、単なる一研究機関となったのだから、費用対効果は改めて厳しく計算されるべきである。
(ワシントン 古森義久)
 
2003/09/24 産経新聞朝刊
【国連再考】(23)第3部(3)運営負担の悲喜劇
■「慰安婦」で糾弾される日本
 「われわれは日本政府が北朝鮮を招待しなかったことを北朝鮮政府に対して謝罪し、また北朝鮮の人々との討論の機会を奪われた本会合の参加者に対しても謝罪し、北朝鮮が正当な参加者であることを明確にするために、本会合の報告でもこれら謝罪を明記することを要求する」
 今年一月、東京渋谷区の国連大学で開かれた「コミュニケーションの権利」集会の参加者たちは、こんな高圧的な謝罪の要求を読みあげた。同時期に東京で催された「世界社会情報サミット」東京会合に日本政府が北朝鮮代表を招かなかったことは不当だから、謝れ、というのだった。同サミットは国連総会の決議に基づく情報化討議のための地域会合とされる。
 日本政府に謝罪を要求したのは「コミュニケーションの権利」集会を主催した日本のNGO(非政府組織)の「JCANET」という団体だった。この集会は「世界社会情報サミット」の付随行事として五十人ほどの参加で開かれ、「日本国内の移住労働者や野宿者のコミュニケーション権利」などを論じ、全会一致で日本政府への謝罪要求を決めたのだという。
 国連大学での集まりから日本政府へのこうした攻撃の矢は長年、頻繁に放たれてきた。国連に直接、間接のかかわりのある団体が国連大学で集会を開き、日本政府の政策を真正面から糾弾する。しかも特定の政治傾向に基づく非難がほとんどとなる。国連大学を熱心に招き、運営の経費を毎年、負担する日本政府にとっては自分の足を銃で撃つような悲喜劇である。
 国連大学での日本政府糾弾の集会で典型的なのは一九九五年七月に開かれた日本軍の慰安婦問題追及のセミナーだった。主催は「国際法律家委員会」というNGOだが、国連人権委員会がスリランカのラディカ・クマラスワミ女史を特別報告者に任命し、日本の慰安婦問題を調査することを決めたのを受けてのセミナーだった。このセミナーでも慰安婦を「軍事的性奴隷」と呼び、日本政府の対応を激しく非難する声明が採択された。
 慰安婦問題では九六年一月に国連人権委員会がクマラスワミ報告を発表した。これまた日本政府の立場を不当だと非難し、虚偽が立証されている吉田清治発言を事実として全面的に採用する内容だった。国連人権委員会は現に進行中の北朝鮮による日本人拉致も、中国による少数民族弾圧も、イラクのフセイン政権による残虐行為も、一顧だにしないのに、日本の戦中の慰安婦問題は異様なほどの熱をこめて非難するのだった。
 国連大学はその後も、慰安婦問題に対して討論の会場を提供し、日本政府非難の集いを後援し、奇妙なほど深いかかわりを保っていく。今年七月にも国連大学の後援で「慰安婦問題と日韓関係」を論じるフォーラムが同大学会議場で開かれた。
 外交特権を与えられ、治外法権に等しい国連大学には豪華で広壮な国際会議場が二つある。同会議場は国連に関係なくても、「公共目的の団体の学術テーマ」に関する会議には一般利用されている。だから多様な政治的背景の団体に使われてはいるが、どうしても国連関連の団体が多くなる。国連関連団体の集会となると、すぐに「慰安婦」が出て、独特の偏りをみせることとなるのだ。
 国連大学のこうした伝統的な偏りは大学開設時から十三年間も副学長を務めた国際政治学者の武者小路公秀氏の政治傾向とも無関係ではないと指摘する向きがある。確かに武者小路氏は金日成主席のチュチェ思想の共鳴者として朝鮮総連の主催する行事には主要ゲスト扱いで長年、頻繁に出席し、年来の北朝鮮シンパとして知られてきた。
 二〇〇一年十一月に捜査当局が朝鮮総連を家宅捜索した際には、武者小路氏は槇枝元文元総評議長や清水澄子前社民党参議院議員という北朝鮮支援の活動家たちとともに「過剰捜査」だとして首相に抗議した。武者小路氏は国連大学在勤中は北朝鮮の朝鮮科学者協会や中国の社会科学院と日本の東大を結びつけるプロジェクトを推進した一方、日本政府の安全保障や外交の政策には一貫して反対を表明してきた。
 もちろん学者の政治的スタンスは自由だし、国連機関の幹部に日本の政策に賛成することを期待もできない。だが日本がなにもかも負担して運営する国連大学のこうした側面や軌跡をみると、その負担の理由がますますわからなくなる。
(ワシントン 古森義久)
 
2003/09/25 産経新聞朝刊
【国連再考】(24)第3部(4)米のユネスコ脱退 腐敗や欧米敵視を理由に
 
 国連の光と影、虚と実を劇的に示したのは一九八〇年代のユネスコ(国連教育科学文化機関)と米国のロナルド・レーガン政権の激突だろう。
 ユネスコは国連大学の母体でもあり、国連の専門機関の一つである。国連専門機関はユネスコはじめ国際労働機関(ILO)、国連食糧農業機関(FAO)、世界保健機関(WHO)など計二十近くを数える。
 国連には国際的な平和と安全を保つという目的についで、経済的、社会的、文化的、人道的な国際問題の解決のために国際協力をするという目的がある。そのために存在するのが国連経済社会理事会である。同理事会が国連本体とユネスコのような専門機関との連携にあたるのだ。
 そのユネスコが一九八〇年代に米国と深刻な対立を引き起こした。そのエピソードはいまも米国側で国連との関係のあり方を語るときによく言及される。
 ユネスコの活動目的は組織の名称どおり、教育、文化、科学を通じて各国民の協力を促進し、世界の平和と安全に貢献することだとされる。八〇年代当時は世界の計百六十一カ国が加わっていた。
 このユネスコの最高責任者である事務局長に一九七四年に選ばれたのがセネガル人の教員出身のアマドゥ・マハタル・ムボウ氏だった。頭の回転が速く、押しの強いムボウ氏はアフリカ人としては初の国連関連機関のトップとなった。そして独特のリーダーシップを発揮して、ユネスコを牛耳っていく。
 ムボウ事務局長は六年の任期を終え、八〇年には再選される。二期目になると、まずアフリカの政治的立場をことさら強調し、欧米諸国に反抗的な態度を露骨にとるようになった。とくに米国への敵視の姿勢が目立った。そして八〇年代はじめには「新世界情報秩序」という構想をユネスコのプロジェクトとして実施することを宣言していた。
 「新世界情報秩序」はそれまでの世界の情報が欧米諸国のマスコミに独占されてきたのを排し、第三世界が主役となり、情報・報道の国際秩序を再編するという構想だった。そのためには政府が記者を個別に審査して、記者資格を与えるか否かを決める、という案も入っていた。ムボウ氏のこうした反欧米の動きは、そのころユネスコのような国連関連機関では最大数を占めた旧植民地の第三世界新興諸国に支持されていた。
 ムボウ氏はユネスコの運営でも独裁者と呼ばれた。個人の威光を徹底させ、事務局員の雇用にも縁故を遠慮なく利用して登用し、経理にまでずかずかと介入するようになった。やがてパリの高級アパートの豪壮なペントハウスに住む生活様式のために、「ユネスコの資金を不当に私用にあてている」という非難をあびるようにもなった。
 そのムボウ氏の言動に米国のレーガン政権が激しく反発した。そのころの米国は国連でも国際社会でもソ連の脅威への対応に忙殺されていた。東西冷戦のそんな最中に中立に近いはずの第三世界が自陣営に敵対的な態度をとることにはユネスコの全経費の四分の一を一国だけで負担してきた米国として怒りを爆発させたようだった。
 一九八四年には米国議会も乗り出して、米国の会計検査院がユネスコの経理など監査することになる。ユネスコ側はその受け入れを認めたのだが、パリ市内のユネスコ本部ビルではその監査が始まる一週間前に突然、書類保管室で火事が起きて、書類の一部が焼けてしまった。パリの警察は放火と断定する。
 だが米側では監査を実施し、ユネスコには使途不明金が少なくとも一千四百万ドルあること、ムボウ事務局長が中心となりメキシコで開いた会議は書類上の経費は約五万五千ドルとされたが、実際には六十万ドルもの支出があったこと、全世界で仕事をするはずの職員三千三百人のうち七割もがパリ在住であること、などを明らかにした。
 米国政府はムボウ氏が腐敗や反欧米偏向を正す改革を一年以内に実行しなければ、ユネスコから脱退するという方針を決める。米国のユネスコ駐在大使のジーン・ジェラード女史がその旨を通告すると、ムボウ氏は「マダム、ミシシッピ州あたりのニグロと話をしている気にならないように」と、冷笑したという。
 米国は結局、八四年末にユネスコを脱退した。イギリスとシンガポールもあとに続いた。国連機関の特殊なあり方を示す出来事だった。
(ワシントン 古森義久)
 
2003/09/26 産経新聞朝刊
【国連再考】(25)第3部(5)付属機関 「死なず消えず」の特異体質
 
 「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」と述べたのはダグラス・マッカーサー元帥だったが、国連機関は「絶対に死なず、絶対に消えず」と評される。一度、創設された国連の付属機関や専門機関はいくらその当初の使命を達したとしても、廃止や閉鎖されることは絶対にないというのだ。
 こうした実例として米国関係者の間でよくあげられるのが「放射線の影響に関する国連科学委員会」(UNSCEAR)である。同委員会は一九五五年十二月に国連総会の決議により国連の付属機関として設立された。その目的は原子放射線の人体や環境に与える影響についての調査や報告とされていた。
 同委員会の創設にあたった元国連事務次長の米国人のロナルド・スパイアーズ氏は述懐する。
 「当時の考え方としてはごく小さな研究グループをつくり、特定の放射線の影響を調べて、報告書を一本まとめ、その後にすぐ解散する予定だった。当時は若いスタッフだった私がその三十四年後の八九年にこんどは事務次長として国連での仕事を再開してみると、このグループがまだ存続しているのに驚いた」
 「放射線の影響に関する国連科学委員会」は八九年の時点で確かに存在した。ウィーンに本部をおき、常勤のスタッフを抱え、毎年一度は計二十一カ国の科学者を集め、年次会議を開いていた。そしてその状況はいまもほとんど変わらない。
 スパイアーズ氏はいぶかる。
 「この委員会はいまも毎年、報告書を発表し、国連総会がそれを称賛する。だが関係者にその報告書の意味を問うと、だれもわからない、という対応だった。そもそもこの委員会がなにを目的としているかがわからないのだ」
 なるほど同委員会の活動目的とされる原子放射線の環境や人体への影響の調査となれば、同じウィーンにある国連関連機関の国際原子力機関(IAEA)に放射線研究部門があり、その機能を果たす。国連専門機関の世界保健機関(WHO)とユネスコのいずれにも原子力放射線の影響を調べる部門があるし、軍縮を担当する国連総会第一委員会も、総会がつくったチェルノブイリ事故国際協力機動班も、同様の機能を有する。
 だから「放射線の影響に関する国連科学委員会」が存在する必要はあえてなく、関係者たちがその委員会の目的がわからないと答えても、ふしぎではないこととなる。現実に同委員会をなくそうという提案も民間の国際放射線防護委員会(ICRP)などから出た経緯がある。
 同委員会の側はこれに反発し、二〇〇一年十二月には国連総会に同委員会を国連機関としてあくまで存続させるというを決議案を出し、可決させてしまった。かくて同委員会は目的も不明のまま、他の国連機関との機能を重複させながら、存在を無期限に続けることとなる。まさに「国連機関は絶対に死なず、絶対に消えず」なのである。
 国連にはユネスコのような専門機関とは別に、総会の決定で創設できる同委員会のような付属機関というのがある。国連誕生の後、各国の国連への期待が高かったとき、この付属機関はどんどん増えていった。そのなかでは一九四六年にできた国連児童基金(ユニセフ)、四九年にスタートした国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)、五一年からの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)などが代表的だった。
 総会での決定とは別に国連社会経済理事会も独自の下部機関をつぎつぎにつくり出していった。アジア、ヨーロッパ、中南米などごとの地域経済委員会、そして統計委員会、人口委員会、社会開発委員会など各種の機能委員会などがそのほんの一部だった。
 こうした国連機関の特異体質を国連を長年、研究したイギリス人ジャーナリストのローズマリー・ライター氏は自書「失われたユートピア=国連と世界秩序」で批判する。
 「国連の専門機関や付属機関の長は国連事務総長にも、あるいは出資する各国政府の指示にも、あえて従わず、独立した主権国家のような王国を独善的につくるようになった。これら機関は『分野ごとアプローチ』をとった。一定の限られた分野で少しでも新しい問題が起きてくれば、すぐにその分野での組織を拡大するという方式だった。その結果、各機関は他と活動を重複させながら膨張していった」
(ワシントン 古森義久)

2003/09/29 産経新聞朝刊
【国連再考】(26)第3部(6)空疎な機関 長年続く壮大な浪費と無駄
 
 国連の各機関は世界のその時代、その情勢に応じ、分野ごとに新設されてきた。時代が移り、情勢が変わっても、いったん設けられた機関はまず廃されない。廃されるにしても、機関の不要が明白となってから実際の廃止までに長い年月がかかる。どんな小さな機関の廃止にも国連総会の議決が必要であり、どんな機関でもそこにかかわる国家や官僚は既得権利の保持に必死となるからだ。
 一九七四年に国連経済社会理事会の常任専門家組織として設立された国連多国籍企業委員会も、壮大な浪費の典型だった。この委員会は多国籍企業の行動規範を作ることを目的とし、二十年近くもこの規範づくりに取り組みながら、結局なにも完成できなかった。外国投資を阻害し、時代の要請に逆行する試みとも評された。
 そもそも多国籍企業の国際的見地からの行動規範としては国連専門機関の国際労働機関(ILO)が七七年に宣言を出している。経済協力開発機構(OECD)も七六年に多国籍企業ガイドラインという規範を作成した。だからいまさらまた国連の別の機関が同じことをする必要は最初からなかったのだといえよう。
 だが国連多国籍企業委員会は延々と作業を続けた。発足から十八年の九二年になっても二年間で一千三百万ドルの国連経費を使っていた。その後すぐに国連機関にしては異例の廃止措置となったが、あまりに無駄な作業だったことがいやというほど印象づけられた。
 国連内部の自治機関として六三年に設置された国連訓練調査研究所というのもわけのわからない機関である。設立の目的は「訓練と調査を通じて、国際社会の平和と安全の維持および経済・社会開発の促進を目指す」とされる。各国の自発的拠出金で運営され、年間予算は一千万ドル、日本はずっと最大の拠出国となってきた。
 だが同研究所の活動内容には意味がないという批判が高まり、米国は八五年にはそれまでの隔年二百万ドルほどの拠出を一切、やめてしまった。同研究所はニューヨーク、ジュネーブ、ローマ、ナイロビなどにオフィスを構えたが、経費が集まらず、赤字が増えて、規模の縮小を迫られた。その結果、九〇年代にはニューヨーク・オフィスのビルを売りに出したものの、買い手が長いことみつからず苦労したという。
 日本の国連関連の書籍ではなお主要機関扱いされる信託統治理事会も、もう長年、空疎な存在となってきた。国連の信託統治とは独立する要件のまだ備わらない地域の統治を国連が当面、先進国に委ねる制度だが、当初は十一あった地域がつぎつぎに独立して九〇年には米国施政下の太平洋のパラオだけが残った。
 そんな状況でも信託統治理事会は二年間の予算約一千万ドル、職員五十六人を抱えていた。職員九人がパラオを訪れて、短期、滞在する費用だけで年間十二万ドルを計上していた。九四年十一月にはパラオも独立したのだが、信託統治理事会は廃止はされず、必要な場合に会議を開くという態勢を保っている。
 そもそも国連では国連機構は巨大であればあるほど好ましいとみなす第三世界の国々が多数派なのである。
 一九六四年に国連総会の常設機関としてつくられた国連貿易開発会議(UNCTAD)もそうした第三世界の要望の産物だった。「開発途上国の経済開発促進のための国際貿易の促進」を目的とし、二年間の予算九千万ドル、ジュネーブに本拠をおくが、実際の活動は国際弁論大会の域を出ないと酷評される。発足の理念が本来、先進国との対決だから、先進国からの批判は手厳しい。
 一九八七年に国連貿易開発会議に米国首席代表として出たデニス・グッドマン元国務次官補代理が断言する。
 「もしこのUNCTADが明日、消滅したとしても、その組織で直接、働く人たち以外には、どこのだれにも、なんの支障も違いもないだろう」
 事実、国連内部でもこの国連貿易開発会議を経済社会理事会や総会の第二委員会(経済)と第三委員会(人権)と統合する案が提起され、同開発会議自体の意義に疑問が投じられてきた。
 国連の意義不明な機関について報じたワシントン・ポストは「明日、消滅してもなんの支障もない」という国連機関として、同開発会議とともに、国連大学をリストアップしたことは日本側としても注視すべきであろう。
(ワシントン 古森義久)
 
2003/09/30 産経新聞朝刊
【国連再考】(27)第3部(7)自己存在の誇示 天文学的分量の印刷物
 
 新鮮なタマゴ、腐りかけたタマゴ、割れたタマゴ・・・多様な種類のタマゴを豪華なカラー写真で印刷したカタログふう刊行物はさすがにベテランの国連官僚たちをもあぜんとさせた。
 「タマゴ基準」と題された英文のこの報告書は一九九二年に国連の経済社会理事会のジュネーブに本拠をおく欧州経済委員会から発行され、国連のあり方に批判の目を向ける人たちの間では浪費のシンボルとして語りつがれてきた。
 鶏卵のさまざまな種類と状態の「基準」を養鶏農家だけでなく小売店や消費者にまで知らせるというこの報告書はツヤのある用紙に美しい多色刷のタマゴの写真を多数、載せた二十四ページの英文パンフレットだった。報告書というより案内書という感じのパンフレットは三千部も印刷され、国連関連の各国政府代表たちにまず配られたという。
 タマゴについて一般に知らせることは無意味ではないだろうが、国連機関が宣伝する「タマゴ基準」になんの法的根拠も拘束性もない以上、やはり浪費だったといえよう。
 当時の米国のトーマス・ピッカリング国連大使はショックを受けて、ジュネーブの国連当局に抗議の問いあわせを出した。
 「国連が外交官社会にきわめて限定的な価値しかないこの種の出版物を配布することで資源を浪費するとは、ぞっとさせられる。米国は国連に対しその種の特殊刊行物の出版を削減することを求めてきた。このタマゴの報告書の作成や出版にはどれほどの額の国連の経費をあてたのか、知らせてほしい」
 米国がこのような抗議を頻繁にするのは各国のなかでも最大額の国連分担金を払っているからでもあろう。第二期クリントン政権で国連大使を務めたリチャード・ホルブルック氏もこの九月にワシントンで開かれた国連に関する討論会で「国連本部の事務局は平和維持活動局には職員が四百二十五人しかいないのに広報局には八百人もいて、だれも読まない発表文や報告書を六カ国語でせっせと書いている」と批判していた。
 先任のピッカリング氏も国連のこの傾向は十分に知っていたとはいえ、国連がタマゴについて説明するためにだけ豪華なパンフレットを出すことにはびっくりしたのだろう。
 国連が天文学的な分量の印刷物を出し、しかもその内容が空疎な場合が多いことは広く指摘されている。国連研究で知られるイギリス人ジャーナリストのローズマリー・ライター氏が述べる。
 「国連各機関は自己の存続のために活動の報告書や説明書の類を最大限、生産する。活動自体よりも活動についての報告書を書くことの方がより重要な優先作業にさえなる。その結果はもっともらしく難解で冗長な文章の書類が洪水のようにあふれることとなる。だが各国の一般国民にとってその種の文書はなんの意味も持たない」
 国連機関にとって自己の存在を示すことが報告書類の発表となっているようだが、その作業が機関本来の活動よりも重要な目的になってしまうのは、おかしい、というのである。
 ピッカリング氏が国連大使だった当時、国連本部の二年分予算は総額が二十四億ドルで、そのうち一億ドルが広報、四億三千万ドルが会議業務だった。この二種類の経費が印刷物の作成や配布にあてられる。九一年までの二年間に国連の本部とジュネーブ、ウィーンの各機関が出した文書の合計が一億六千五百万件、二十一億ページ、印刷代だけで二億八千万ドルとなったともいう。
 国連の文書で最も作成価格が高くなるのは毎年の「国連年鑑」で、一冊が一千ページを超える。作成のペースが極端に遅く、いつも新刊となる年鑑は発行の時点より四年ほど前の年の記述になっている。他の年鑑はさらに時間のズレが広がり、「国連人権委員会年鑑」は九二年刊行の六百五十七ページの版がなんと、一九八三-八四年分の記述だった。
 ピッカリング大使からの「タマゴ基準」文書のコストに関する問いあわせには返事がなかった。ジュネーブの国連当局はそれどころか間もなく「タマゴ基準」の続編パンフレットを刊行した。続編には冷蔵タマゴや保存用タマゴの美しい写真が載り、本編と同様の基準の説明が記されていた。国連本部からちょうど「発表文書の量を抑制すること」を求める指示が流れた直後だったという。
(ワシントン 古森義久)
 
2003/10/01 産経新聞朝刊
【国連再考】(28)第3部(8)刊行物の「検閲」
■特定の国の批判は削除
 国連の各機関が出す報告や発表の文書は自己の活動の宣伝を第一義とするため、他者に対してはあたりさわりのない記述になることがまず常である。だがなにしろ刊行物の量が膨大だから、この暗黙の原則を破る内容も出かかり、思いがけない騒ぎを起こすこともある。
 そんな騒ぎの典型として記録されているのが国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)で一九八八年に起きた事件である。スイス出身の当時のジャン・ピエール・オッケ高等弁務官は同事務所が定期的に発行する雑誌「難民」の最新号約十四万部を破棄する措置をとった。
 同誌に当時の西ドイツ政府の難民や亡命者の受け入れ不足を批判するリポートが出ていることが理由だとされた。西ドイツはそのころ難民高等弁務官事務所への拠出金の主要な提供国だった。破棄はスポンサーの機嫌を損なってはならないという弁務官の政治配慮なのだろう。だが刊行してすぐの雑誌十四万部の破棄と刷り直しの作業のコストも安くはない。
 一九九五年に国連創設五十周年を記念して出版された「希望のビジョン」というタイトルの記念本をめぐる騒ぎはもっと複雑だった。国連はこの五十年史本の編集と刊行をイギリスのリージェンシー・プレス社に委託した。同社が発行したエリザベス女王の記念本の立派なできばえを国連側が評価しての委託だったという。
 同社は国連五十年史の各章の執筆者たち二十人ほどを主としてフリーのジャーナリストから独自に選んだ。書く記事の内容については同社と執筆者とが独立した権限を持つという理解だった。
 だが、いざ記事が書かれて、最終の編集段階となると、その内容が国連側の強い指示によって一方的に修正され、削除されてしまった。執筆者たちは抗議し、削除の措置が撤回されないことがわかると、うちの十五人が自分の名前を執筆者陣から消すことを求めた。
 「希望のビジョン」の編集長として執筆者たちを統括したイギリス人のジョナサン・パワー氏は「国連側は合計七十カ所も削除した」として「この措置は言論の自由を抑圧する検閲であり、知的浄化の行為だ」と非難した。パワー氏らが発表し、国連側も認める「検閲」の代表例は以下のようだった。
 ▽ダライ・ラマ十四世が九三年のウィーンでの国連の世界人権会議で演説を求めたが、禁止されたことを書き、世界人権宣言に関するダライ・ラマの発言を引用したところ、国連側からいずれも削られた。
 ▽国連人権委員会が人権侵害の疑いがあるとして特別調査報告者を任命した対象の国家としてイスラエル、チリ、エルサルバドル、イランなどの名を書いたところ、国連側から国名をいずれも削られた。
 ▽イラクと北朝鮮が核拡散防止条約に違反したことを書いたところ、国連側からその記述全体を削られた。
 ▽日本政府が世界保健機関(WHO)の事務局長選挙で自国候補の中島宏氏に当選させるため、票をカネで買ったという非難や、事務局長となった中島氏が同機関の運営にしくじったという批判があったことを書いたところ、国連側からいずれも削られた。
 国連のこうした動きに対しロンドンに本部をおき言論抑圧への抗議活動をする国際民間組織「第十九条」がパワー氏らを擁護する形で非難の声明を出した。
 「国連は世界人権宣言を順守して言論の抑圧を糾弾すべき立場なのに、自らが検閲官となり、情報を勝手に管理し、秘密と偏見の文化を広げるようになった」
 この民間組織は世界人権宣言のなかで言論の自由をうたう項目の第十九条から名称をとっていた。
 国連側はこうした抗議に対し、五十年史刊行の責任者の米国人ギリアン・ソレンセン事務次長が反論した。
 「国連の刊行物では個々の国の具体名をあげて批判はなるべくしないのが慣行であり、とくに創設五十周年のような記念の刊行物では特定の国を糾弾することは避けるべきだ。『希望のビジョン』の執筆者たちはみな雇われライターであり、雇った側の国連が最終原稿を自由に調整し、編集する権利がある」
 この説明にも一理はある。だが執筆者たちと衝突し、その名を撤回させてまでダライ・ラマの言動や国連人権委員会の動向という周知の事実の記述を削ることもバランスを欠くようにみえる。
(ワシントン 古森義久)
 
2003/10/02 産経新聞朝刊
【国連再考】(29)第3部(9UNHCR 人道的活動の裏に腐敗の温床
 
 数え切れないほどある国連の下部機関、関連機関でも国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は一般の共鳴を最も強く得る存在だろう。戦争や迫害、飢餓で母国を追われた恵まれぬ人たちを救うという人道的な活動は、幅広く感謝もされてきた。
 とくに日本では緒方貞子氏がトップの難民高等弁務官を二〇〇〇年末まで十年も務め、内外の高い評価を得てきただけに、この国連機関への敬意や親しみは深いといえる。過去の二回のノーベル平和賞受賞もこの機関をさらにヒューマニズムに光り輝く救世主のようにみせてきた。
 だが残念なことにこの難民高等弁務官事務所も、その歴史をたどると、他の国連機関同様に不正や無責任による醜聞が目立つのである。
 同事務所は一九五一年に国連総会の議決により発足した。最初は五年間だけの活動としたが、難民問題はいっこうなくならず、延長につぐ延長で組織も拡大した。いまでは本部をジュネーブにおき、世界百二十カ国合計二百七十七カ所に現地事務所を開いて、五千二百人の職員を抱える。これだけ寿命が長く、規模が大きくなると、必ず深刻なトラブルが起きるのが国連機関の宿命のようだ。
 難民高等弁務官事務所は二〇〇二年にはナイロビで職員が難民の移住の便宜と引き換えに賄賂(わいろ)を受け取っていた事件や、アフリカ西部三カ国で職員が難民女性への食料支援と引き換えにセックスを求めていた事件を自ら公表した。だがもっと深刻なのは、積年のトップの腐敗だった。
 まず一九七八年から高等弁務官となったデンマークのポウル・ハルトリング氏は自国の友人の旅行業者を登用して、同事務所の弁務官関連の旅行すべてを管理させ、次に調達部門の責任者とした。旅行や調達の奇妙な取り引きが続出し、やがてこの友人はジュネーブ本部事務所に出勤しなくても仕事をすべてこなせると宣言するようになった。
 ハルトリング氏のデンマークの他の友人はやはり同事務所の高官に抜擢(ばつてき)されたが、難民の教育基金関連の書類を偽造して、資金を不正に得たと非難され、辞任した。ハルトリング弁務官による自国の友人、知人の大量導入は同事務所では「デンマーク・マフィア」と称されるようになった。
 八六年に高等弁務官となったスイスのジャン・ピエール・オッケ氏も公金の使途に疑問があるとして追及を受けた。八九年に難民の教育基金のうち三十万ドル以上を不正に流用し、自分と夫人のファーストクラス便での観光旅行やその他の娯楽に使ったと非難された。非難したのはデンマーク政府や国連の高官たちだったから事態は重大だった。オッケ弁務官はこの非難のために八九年には辞任に追い込まれた。
 この種の不正は個人の特殊な行動パターンだけではなく、組織全体の特異体質を反映していた。縁故人事や不正会計がふつうに起き、しかもほとんどの場合、厳しく処罰されることがないため、腐敗の土壌は変わらないという体質だった。この体質は難民高等弁務官事務所で十七年間も不正に不正を重ねながら懲罰されることのなかった一職員の軌跡が明示している。
 ザイール人のシンガベル・ルキカ氏は一九七四年に同事務所のジュネーブ本部に採用され、八〇年代はじめにはアフリカ女性の売春組織を運営する伝説的な人物という定評となった。八三年にウガンダ現地事務所の責任者となったが、難民用の食糧や器材の横流しの疑いが浮かんだ。
 ジュネーブ本部は八六年に特別調査を始め、ルキカ氏が食糧四十万ドル、小麦二十四万ドルなど百万ドル近く相当の難民用物資を不正に流用していた、と中間発表した。
 だが当時のオッケ弁務官は「アフリカ・マフィア」からの圧力でルキカ氏を守り、特別調査を打ち切った。ルキカ氏はなんの罰もうけず、八九年にはアフリカ東部のジブチの現地事務所の代表となった。ここでも難民用の物資や器材が大量に行方不明になり始める。
 九一年はじめにはジュネーブ本部から送られた会計監査官がジブチでのルキカ氏の管理下で合計百万ドルもの不正を裏づけたが、同氏に対してとられたのは結局、単に辞任させるという措置だった。ルキカ氏はなんの懲罰も受けず、九一年十月に難民高等弁務官事務所を辞めてカナダのオタワに住み、長年の蓄財と国連のたっぷりした年金で“引退”生活を享受するようになったという。
(ワシントン 古森義久)
 
2003/10/03 産経新聞朝刊
【国連再考】(30)第3部(10)行財政諮問委の闇
28年在任の委員長、権限強大
 国連という存在は知れば知るほど、複雑怪奇にみえてくる。国連の各機関でも最大の権限をふるう組織の一つの「行財政問題諮問委員会」(ACABQ)の実態など外部の目にはまるでナゾとしか映らない。
 同委員会は一九四七年に国連総会の決議でつくられた。その任務はまず第一には二年間で総額二十七億ドルにものぼる国連通常予算の審査である。国連事務総長が作成し、総会に提出する予算案を審査し、評価を総会に報告するのだ。平和維持活動に関する予算も同時に審査する。
 任務の第二は国連全体の行政と財政に関する案件として各職員の昇進や給与の制度、ポスト新設を監査し、総会に助言することであり、第三は国連開発計画(UNDP)、難民高等弁務官事務所(UNHCR)、国連児童基金(ユニセフ)、国連大学、国連環境計画(UNEP)など、国連の常設・補助機関の予算についても総会に報告することである。
 だから国連全体でも権限の強大なことこのうえない委員会なのだ。予算でも給与、昇進でも、ここで阻まれれば、国連の機能全体が止まりかねない。
 国連全体の財務と総務をつかさどるようなこの委員会は十六人の委員で構成される。委員は総会の行政・予算を管轄する第五委員会の推薦により総会で選ばれて任命され、任期三年、ただし再選は認められる。
 だが最も奇異なのはこの行財政問題諮問委員会の委員長ポストがこれまでもうなんと二十八年間も同一の人物によって占められてきたことである。タンザニア人のコンラド・エムセリ氏が一九七五年に委員長となり、最初は一年ごと、八八年以降は三年ごとに再任を重ね、二〇〇〇年にもまたまた再選されて、委員長のイスに座っているのだ。
 国連の各機関すべてのなかでも最高責任者の地位を継続して保つ年月の長さでは、エムセリ氏はチャンピオンである。いや、いかなる国際機関でも、そのトップの座が二十八年も同じ人物で占められるという例はまずないだろう。
 現在六十五歳のエムセリ氏は二十五歳でタンザニア外務省の外交官となり、一九六〇年代後半から国連で働き、七一年に行財政問題諮問委員会の委員となった。そのまま委員を続け、七五年に三十七歳で委員長に就任した。エムセリ氏はアフリカ諸国の支援を得て、このパワフルな委員会でパワフルな地位を築いていったが、八〇年代には自分の特別秘書として登用したメリー・ブラウンという女性が実は内妻だということで醜聞となった。
 エムセリ氏は当初、年間二万五千ドルだった自分の給与を十四万ドル近くにまであげ、ブラウンさんの給与も秘書クラスでは最高の六万ドルにまで引きあげた。自分たちの給与を決めることまでこの委員会の権限に入っていた。カリブ海のバルバドス出身のブラウンさんはエムセリ氏との間に子供があり、同氏と同居すると伝えられた。
 国連の規則は職員が配偶者とともに働くことを禁じている。だがエムセリ氏はブラウンさんとの間にはあくまで正式の婚姻関係はないと述べるとともに、自分は国連の職員ではないため、その規則はあてはならないとも反論した。
 同委員会の審議の進め方も変則だった。ニューヨーク・タイムズがこの点を九五年六月に報じている。
 「行財政問題諮問委員会で決定がどう下されるのかは外部にはまったくわからない。エムセリ委員長は財政を正式に学んだ経歴は皆無であり、委員会の会合はすべて秘密にされるからだ。公共性の強い予算の審議を秘密にしなければならない理由はない」
 確かに国連の予算をどう使うか、組織をどう動かすか、という課題はそこに加わる各国の代表や資金を負担する各国民にわかる形で論じられてしかるべきだろう。まして同じ人物がその重要課題の決定を左右する地位に二十八年も留まることにも、一般が理解できる説明が必要だろう。こういう諸点をワシントン・ポストが九二年九月に取りあげ、エムセリ氏に不正はないにしてもあまりの長期留任はおかしい、と問題を提起した。その時点では十七年間の在任だった。
 だがエムセリ氏はその十一年後にもなお在任しており、その間の九六年には逆に米国代表が委員会からはずされた。アフリカ諸国の支援を得ての動きだった。国連の闇はまだまだ深いようなのである。
(ワシントン・古森義久)=第三部おわり