2010年2月3日水曜日

【外交問題】 小沢一郎の中国観

単なる親中派にあらず 小沢一郎「中国観」の本音
2010年02月03日(Wed) 城山英巳
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/760

 民主党の小沢一郎幹事長が、自身の資金管理団体「陸山会」をめぐる土地取引事件で検察当局と攻防を展開、中国共産党・政府も注視している。小沢氏は2009年12月、民主党所属国会議員140人以上を含む総勢640人もの大訪中団を引き連れて北京で胡錦濤国家主席と会談。さらに来日する習近平国家副主席と天皇陛下との会見を望んだ中国の崔天凱駐日大使の要請を受け、「特例会見」実現に向けて官邸サイドに働き掛けるなど、今や中国が最も頼りにする「親中派」大物議員だ。それだけに日中関係も、検察捜査を受けた小沢氏の影響力次第という見方が強い。

本稿では中国が小沢氏をどう見ているのか、そして「親中派」と見られる小沢氏は、実際に中国をどう捉えているのかその本音を探りたい。

「鳩山ではなく小沢」

 「小沢さんの捜査次第で民主党もどうなるか分からないでしょう」。これは中国政府幹部の偽らざる率直な感想だ。中国紙も今回の捜査の行方や「小沢像」について一定の程度で報じている。

 「鳩山(由紀夫首相)がいなくても民主党政権はまだ存在できるが、小沢がいなければ民主党政権は恐らく持続は難しいだろう。理由は非常に簡単だ。小沢が『選挙の神様』であると誰もが認識しているからである」。こう報じたのは、国営新華社通信発行の『参考消息』(1月21日付)だ。

 「片や日本最強の反汚職検察機関、片や日本政界で最強権力を持つ政治家。この両雄決闘は一体、いずれに軍配が上がるのか、日本人を釘付けにしている」。こう紹介した『第一財経日報』(同18日付)は現在の「5大懸念」についてこう指摘する。

(1)検察機関は有力な証拠を発見できなかったらどう幕を引くのか
(2)小沢がもし逮捕されれば民主党はどうするか
(3)民主党が検察機関を報復するならば、この闘争はどこに向かうのか
(4)自民党はこの機に今夏の参院選で捲土重来を図れるか
(5)日本のような国家で、検察機関の「暴走」を抑える制度はあるのか

 1月26日付『法制日報』は、「小沢は、田中角栄(元首相)を師としており、東京地検が最も湧き立ったロッキード事件で田中は有罪となったが、小沢と東京地検の恩と仇はこの時から始まった」と解説する。

 多くの論調が、小沢について日本政界を牛耳る「大物」ととらえ、田中角栄と重ね合わせていることが特徴だ。小沢の「中国原点」は田中である。昨年末に訪中した際、小沢は記者団にこう漏らしている。「最初に中国を訪問したのは初当選した40年近く前だったかなあ。私の政治の師匠である田中先生の大英断によって日中国交正常化ができ上がったわけだが、その意味でことさら感慨深い」。

 胡錦濤指導部に対日政策を提言している中国の日本研究者は09年末、北京で筆者にこう解説した。「われわれは今や民主党と鳩山政権を分けて考えている」。民主党政権はある程度長期化するが、鳩山内閣は長続きしないとの見方だ。そしてこう付け加えた。「中国国内では小沢氏の株が上がっている」。

 「大訪中団」と「天皇特例会見」を受けて胡指導部は、小沢の絶大な権力と影響力を見せ付けられたからだ。

 筆者は『文藝春秋』2月号に「中国共産党『小沢抱き込み工作』」と題するリポートを寄稿したが、中国が小沢を見る上で興味深い視点を拙稿の中から紹介したい。

 「中国政府関係者も、鳩山内閣を支配する小沢一郎について、最高実力者として時の総書記の上に立った『鄧小平』になぞらえる」。

 「鳩山ではなく、やはり小沢だ」。指導部は、日中間で懸案が持ち上がった際、最高実力者・小沢を「窓口」にすれば、「政治主導」で解決を図れると見込み、対日工作を強めようとした。その矢先の「陸山会」をめぐる土地取引事件だった。

米長官に「危うい中国」説く

 米軍普天間飛行場移設問題をめぐり日米同盟への亀裂が深刻化する最中の「小沢大訪中団」に対し、オバマ米政権からは、極端な対中接近に警戒論が噴出した。「小沢は一貫して民主党における対中交流の核心人物」と断言する社会科学院日本研究所の高洪研究員は、共産党機関紙・人民日報系の国際問題紙『環球時報』(09年12月11日付)に対してこう冷静に分析している。

 「小沢は対中友好を主張しているが、同時に日本が『大国路線』を歩み、日本の利益を保護する戦略という点では非常に強硬的な政治家である。国家戦略上で『日本は中国とは切っても切り離せない』とはっきりと認識しているにすぎない」。

 確かに小沢は、中国高官を前にした時の親中的発言と、それ以外の場で語る独自の「中国論」では大きく内容が違うことに注意を払う必要があろう。

 例えば、民主党が政権を取る前の09年2月。小沢は同党代表として来日した中国の王家瑞共産党対外連絡部部長と会談した際、当然ながら「親中派」の顔を前面に出した。「中国もアメリカも、ともに大事な国であり、(日中間と日米間が同じ長さの)二等辺三角形であり、トライアングルであることはその通りだ。中国は隣の国だし、長い歴史もあり、文化的にも交流が深い。そういう意味でどっちが大切とか、そういうことではなく、中国に対する特別な親近感を持っているし、当然、両国のより良い関係を発展させたい」。

 しかし実はこの1週間前、クリントン米国務長官が来日した際、打って変わって同長官に厳しい「中国論」を展開しているのだ。

 「中国問題がより大きな問題だと思う。中国のこれからの状態を非常に心配している。鄧小平さんが文化大革命の失敗を償うために市場主義を取り入れたのは大きな成果だったが、それは両刃の剣で市場主義と共産主義は相容れない。必ずこの矛盾が表面化するだろう。従って日米にとって世界にとって最大の問題は『中国問題』だろう」。

 この頃、講演会ではもっと過激な「中国論」を披露している。「中国はバブルが崩壊して共産党の腐敗は極度に進行している。軍部も非常に強くなっている。そういう中国で今、景気後退で大量の失業者が出ており、各地でものすごい暴動が起きていると聞いている。抑えているけど、共産党政権というのはその基盤が揺らいでいると思っている。中国は非常に危ういと思う」。

 「危うい中国」が小沢の本音だろう。与党・自由党党首だった1999年、新しい日米防衛協力のための指針(ガイドライン)関連法案の「周辺事態の範囲」をめぐって「中国、台湾も入る」と発言して中国を激怒させたことがあった。もともと中国の小沢観は「米国重視」「台湾寄り」「タカ派」「改憲論者」だったが、小泉純一郎首相(当時)の靖国神社参拝問題を受けた06年、最大野党代表・小沢は中国と「反小泉」で思惑が一致、「共同戦線」を組むようになったのである。

 さらに興味を引くのは、小沢が「最大の問題は中国」という言い方ではなく、わざわざ「中国問題」と言っていることだ。近く世界第2の経済大国になる中国の台頭という世界情勢の変化を見て、米中が「G2」として連携を強化すれば、日本はつまみ出されるという危機感が対中接近につながっているという側面は確かにある。しかしそれだけではなく、中国が抱える内部矛盾、つまり腐敗、格差、暴動などに代表される「危うい中国」も見抜き、日本としてどう向き合うかを説いているのだ。

 ある日中関係者は「小沢氏は中国を好きか嫌いかの感情論ではなく、必要か必要ではないかの観点からとらえている」と解説する。

「脱亜入欧」からの脱却

 小沢がなぜ「中国問題」にこだわるのだろうか。ヒントとなる発言がある。

 「自民党を出て13年がたった。幕末にペリーが黒船で来航(1853年)してから明治維新(1868年)まで15年。私に残された時間はあと2年だ」。06年に訪中した小沢は、古くからの友人、李淑錚元共産党対外連絡部部長に漏らした。

 あと2年間で政権を奪取する決意を語ったものであり、3年後にその決意は実際に実るわけだが、小沢は09年9月の自民党から民主党への政権交代を、明治維新以来の大改革の時と位置付けている。

 「小沢氏は歴史的観点を持っている」との見方を示すのは「日本通」の中国人研究者だ。

 「明治時代以来、日本は『脱亜入欧』を強め、欧米の基準に合わせてきた。しかし近代以来、日本の問題というのは結局、隣の大国である中国とどう向き合うかという『中国問題』だった。現在、中国が台頭する中で、小沢氏は単に『米国重視』から『中国重視』に転換したのではなく、複雑化する『中国問題』がどれだけ重要かという近代以来のテーマに日本人としてどう取り組むべきか問題提起しているのではないか」。

 日本は近代以降、欧米、特に戦後は米国を通じて中国やアジアの問題に取り組んできた。対中政策は常に、米国の顔色をうかがいながら決めてきた。しかし小沢は今、「脱亜入欧」を脱却し、「米国は米国」「中国は中国」としてそれぞれ正面から取り組む必要性を訴えているのではないか、というのがこの研究者の視点である。これが日米中「二等辺三角形論」というわけだ。

 ここで近代以降の日中関係を振り返っておこう。ちょうど、1月31日に発表された『日中歴史共同研究報告書』で、日本側座長・北岡伸一東大教授による「近代日中関係の発端」と題する論文が掲載されているので一部を引用したい。

 「西洋の衝撃なしには、東アジアの変容はありえなかった」。

 『報告書』の「近現代史総論」は、「西欧との遭遇の重要性という一点については、(日中)双方は共通の認識に達している」と指摘。「西洋の衝撃」に関して「中国においてはアヘン戦争、日本においてはペリー来航と明治維新を始点にしている」と記した。

北岡氏は、「西洋の衝撃」に対して「中国は西洋が持ち込もうとした近代国家システムにうまく適応することができず、多くを失った。これに対して日本は、相対的にこの課題を大きな失敗なしに乗り切っていった」としているが、注で「一般的に言って、ある課題における成功の条件は、次の課題における失敗を引き起こすことが少なくない」と付け加えている。

 前述の中国人研究者は、「日本は近代以降、中国との付き合い方が分からず、失敗を重ねてきた」と解説する。まさに満州問題をはじめとする「中国問題」への対応の失敗が開戦と敗戦への道につながったと、この研究者は分析している。『報告書』では中国側研究者も、「脱亜入欧」が「対外拡張主義や武力至上論の道具になった」として、日本の近代対中政策の過程を否定的に見ている。

 「西洋の衝撃」の契機となったペリー来航・明治維新を、今回の政権交代と重ね合わせる小沢は、今まさに「光」と「陰」の両面において国際社会で存在感を高める中国の台頭を「中国の衝撃」ととらえ、近代以降の「脱亜入欧」の転換点として「中国問題」を正面から考える時期に来ていると考えているのではないか。

 小沢側近の民主党衆院議員は「今(民主党と中国共産党で)やっている交流は『政治主導』の戦略対話の土壌づくりだ」と言い切り、何でも言い合える関係づくりを目指していると強調したが、それが実現するかどうかは検察の捜査を受けた小沢の影響力如何に懸かっているのだ。

2010年2月1日月曜日

【縄密約沖】 米軍再編

2010年02月01日21時19分
政治

「非核三原則」守り抜く覚悟 「核の傘」偏重の冷戦構造を見直せ 


  「世界の指導者に、ぜひ広島・長崎を訪れ核兵器の悲惨さを心に刻んでほしい。日本には核開発の潜在能力があるのに、なぜ非核の道を歩んだか。日本は核の攻撃を受けた唯一の国家だ。我々は核軍拡の連鎖を断ち切る道を選んだ。唯一の被爆国として果たすべき道義的な責任と信じたからだ。近隣国家が核開発を進めるたびに『日本の核保有』を疑う声が出るが、それは、我々の強い意志を知らないがゆえの話だ。日本が非核三原則を堅持することを改めて誓う」――鳩山由紀夫首相は国連安全保障理事会(2009・9・24)で力強く表明した。「日本は核廃絶の先頭に立たねばならない」と全世界に向けて宣言した姿勢を高く評価するが、従来の核政策を見直し、具体策を実行する覚悟が求められている。

 一方、オバマ米大統領が「プラハ演説」(09・4・5)で、核兵器を使用した道義的責任を米大統領として初めて言及、「核のない世界」を目指す姿勢を鮮明にしたことは、核の脅威から地球を救う強烈なメッセージだった。さらに米大統領自らが国連安保理首脳会議を主催したことは初めてで、核問題に絞った論議を深め、「核兵器のない世界に向けた条件構築を決意、▽核不拡散防止条約(NPT)非加盟国に加盟を要求、▽核実験全面禁止条約(CTBT)の早期批准に向け、署名、批准を要請、▽兵器用核分裂性物質生産禁止条約(カットオフ条約)の交渉促進を要請」などの決議を全会一致で採択した意義は大きい。オバマ大統領は同会合で、特に北朝鮮・イランに対し「安保理決議の順守」を求めており、核軍縮→核廃絶へのウネリを感じさせる国際会議だった。

 米国のブッシュ共和党政権からオバマ民主党政権へのチェンジ、自民党長期政権終焉と鳩山民主党政権誕生が、世界平和の架け橋、牽引車役を果たす両輪になることを期待する声は強い。

 今年は「日米安全保障条約改定」50周年の節目。国際環境の急激な変化を見据えた日米安保再構築の動きが年初から高まっており、「安保条約」と「非核三原則」についての考察を試みたい。

▽踏みにじられた、安保条約「極東条項」

 1999年の日米防衛協力指針(新ガイドライン)関連法成立によって「日米安保条約」は著しく変質し、自衛隊の行動範囲が拡大、日米軍事一体化を強化する方向へ舵を切った。さらに2001年の「9・11テロ」以降の国際的緊張に呼応し、小泉純一郎政権がイラク・サマワへの陸上自衛隊派遣のほか、クウエートへ空自輸送機、インド洋には海自の給油艦派遣に踏み込んだことは、日本の安保・防衛政策の大転換。日米安保条約に規定された「極東条項」(第六条=基地の供与)や事前協議(交換公文)から逸脱しているだけでなく、憲法に違反する暴挙だった。2006年5月、日米安全保障委員会で決まった「在日米軍再編最終報告」は、米国のトランスフォーメーション(米軍再編)に基づく新戦略に〝同盟国〟日本を引き込み、共通の戦略目標の下に日米軍事協力を推進しようとの意図が明らかだ。

▽「非核政策」を訴え、発言権を強めよ

 冒頭に紹介した鳩山首相の「非核三原則堅持」の理念に共感するが、「核の傘」に依存している現実との矛盾・混乱をどう打開するか、その道筋を鮮明にすることこそ政策転換の試金石となる。

「オバマ政権が核不拡散の強化を打ち出した今、日本でも、これまでより核に頼らないアジアの安全保障の議論がしやすくなった。広島、長崎というシンボルを訴えるだけでなく、具体的な政策に移すチャンスだ。北朝鮮の核問題をめぐる六カ国協議で重要なことは、米露中など核保有国中心の交渉に、日本が割り込むことだった。日本政府は、核保有国でないと核問題の交渉ができないとあきらめているが、それは間違いだ。日本が核兵器の主導権をとったらいい。核保有国が主導する核軍縮交渉には必ず限界がある。自分が減らしたくないのに、相手に減らせとは言えないから。互いに減らし合っていくためには、非核保有国が軍縮交渉で発言権を強めることが必要だ。被爆体験を持つ国として主張することに対し、他国が、『きれいごとを言いやがって』とは簡単に文句が言えないはずだ」と、藤原帰一・東大教授の指摘(『毎日』09・7・29朝刊)は、「外交観念変える好機」と捉えた、示唆に富む論稿と言えよう。政権交代を予見したような問題提起を真剣に受け止め、新外交戦略に臨むべきで、その要諦は「非核三原則」堅持に他ならない。

▽「密約文書」を隠匿していた佐藤栄作首相

 昨年6月以降、元外務省高官らの「核持ち込み密約」証言が相次いでいたが、故佐藤栄作首相邸から昨年暮、「核密約」を証明する日米覚書が見つかったことに大きな衝撃を受けた。『読売』09・12・22夕刊特ダネで、沖縄返還交渉に当たった故佐藤首相の私邸に隠されていたことを、佐藤氏の次男・信二氏(元通産相)がマスコミ各社に明らかにした。

 「一九六九年十一月二十一日発表のニクソン米大統領と日本の佐藤首相による共同声明に関する議事録」と題した最高機密文書の実物が〝発掘〟されたのだ。有事の際沖縄への核再持ち込みを裏付ける文書であり、岡田克也外相の下で「密約」検証作業に当たっている有識者委員会(座長・北岡伸一東大教授)はもちろん、「密約」の事実が国民に大きな波紋を巻き起こしている。

 もう一つの密約といわれる「沖縄返還交渉・密約文書開示訴訟」(東京地裁12・1)で、交渉当事者だった吉野文六・元外務省アメリカ局長が「沖縄返還に伴う米軍基地復元補償費を日本側が肩代わりする密約があった」と証言しており、隠し続けてきた「密約」のベールが次々剥がされている。

 ここで警戒しなければならないことは、「非核三原則」の一つ『持ち込ませず』の虚構が暴かれたことを逆手にとって、「非核二原則」または「二・五原則」への〝現実的修正〟をたくらむ超保守勢力の動きだ。「密約証言」が急に飛び出してきた時代背景が気がかりだが、その防波堤として鳩山首相の国連総会での、「非核三原則堅持」表明の意義は大きく、尊重しなければならない。

▽「核の傘」でなく、核兵器の国際管理を

 第二の重要課題として、「非核三原則」と「米国の核の傘」に頼る二律背反の実態を打開するために外交政策転換が肝要だ。20年前のソ連邦崩壊後、東西冷戦構造が劇的に変化してきた国際環境を冷静に分析して「核の傘」にすがる外交を見直し、新たな針路構築を急がなければならない。

 「米国は日本の核兵器を懸念し、日米安全保障の取引で、日本に攻撃能力を発展させないことを含めたのである。米国が日本を守る姿勢を示すことは、第一義的には米国の国益のためである。…では、米国の核の傘の下で安全か。これも万全ではない。核戦略の中で、核の傘は実は極めて危うい存在である。米国が日本に核を提供することによって、米国の都市が攻撃を受ける可能性がある場合、米国の核の傘は、ほぼ機能しない。日本が完全な核の傘の下にいないことを前提に安全保障政策を考えねばならない」――外務省国際情報局長などを歴任した評論家、孫崎享氏の著書「日米同盟の正体」(講談社現代新書)が指摘した『核の傘論』のほんの一部を引用したが、これこそ国益を賭してせめぎ合う外交の実態であろう。それだけに、「非核三原則」を国是とする日本の〝立ち位置〟は極めて難しい現状だが、日本の国益のために軌道修正することに躊躇してはならない。

 「米同時多発テロを経て核兵器の存在の相対化が進んでいるように思う。オバマ大統領のプラハ演説では、多元化・相対化が強く意識された。『全廃論』への道義的責任と、核兵器が存在する限り核抑止を維持すること、さらに核テロの脅威に対する関心、核関連技術の防止という目標が、複合的に追求されている。従来の軍縮派と抑止派による議論だけではなくて、第三の派として、世界の核兵器及び核関連物質の管理をどうするかという新しい柱が、明確に立ち上がろうとしている。核テロ、ずさんな核管理や核流出といった問題だ。それがより意識されるのが、三月(2010年)の核安全保障サミットだと思う」という神保謙・慶大准教授の指摘(『朝日』(09・7・17)は、現在の核状況を的確に捉えた分析である。

 現段階で核問題解決の処方箋を、誰も書くことはできないが、「核兵器は地球を破滅させる」との認識を共有できる国際的な枠組づくりを目指すべきで、日本が世界に示す旗印は、「平和憲法九条」と「非核三原則」であることを再確認しておきたい。      


2010年01月01日15時19分

一方的、感情的な本土メディアの「普天間」報道 「日米合意」の問題点を検証せよ 


  日米安全保障条約改定から50年、沖縄米軍・普天間基地移設と米海兵隊8千人のグアム移転計画の行方が、2010新春早々の外交課題として急浮上してきた。昨年〝チェンジ〟を合言葉に誕生した、日米「民主党政権」の〝手綱さばき〟が注目されているが、年末の日米交渉では解決への糸口も見出せないまま越年、鳩山由紀夫政権の力量が問われる厳しい政治状況である。この問題は1996年(橋本龍太郎政権)以来、もめ続けてきた〝沖縄のトゲ〟とも言われる難題中の難題。政権発足から4カ月にも満たない鳩山政権が苦悩するのは当たり前で、「急いては事を仕損じる」…慎重に対処してほしいと願うばかりだ。

▽「世界一危険な海兵隊基地」を13年も放置

 本論に入る前に、鳩山民主党政権誕生の跡を振り返っておきたい。4カ月前の昨年8月30日に行なわれた第45回衆議院選挙は、自民党による「55体制」を瓦解させる歴史的選挙だった。民主党が308議席(公示前は115)で圧勝、自民党は119議席(300)と予想外の大敗北。国民の多くが〝驕れる自民党〟に愛想を尽かし、政治変革を切望した結果である。

 「敵失(自民の失政)に助けられただけ」と冷笑する向きもあるが、民主国家における「民意の重さ」を正面から受け止め、従来の政治姿勢を徹底的に検証し、平和で住みやすい社会の構築を目指す民主党の理念が支持されたと受け取るのは当然なこと。鳩山首相の所信表明演説(10・26)にも共感できる点が多く、要は大胆な政策を早期に国民に提示し、実行に移すことだ。新政権約4カ月の流れを見て、紆余曲折の混乱が見受けられるものの、果断な政策実行を期待しているのが、大多数の「民意」と考えられる。

 そもそも、普天間飛行場代替地として「辺野古(名護市)への移設」を決めたのは1969年だったが、地元との調整が難航して10年間放置されていた。その後、2006年の「米軍再編協議」によって辺野古沖への移設修正案で決着するかに見えたが、新たな難題が浮上したまま3年間もたなざらし状態。96年以来13年もの歳月が流れ、「世界一危険な普天間飛行場」の地元・宜野湾市民の恐怖はいまなお続いている。

 東西冷戦終結(1989年)から20年、国際情勢の変貌は著しい。徐々にではあるが、軍事優先の時代から脱皮し、軍縮へ向かうウネリが高まってきている。米軍再編と普天間問題もまた、時代の流れに沿って検証作業を推進し、「基地・沖縄」の負担軽減に全力を尽くすことこそ日米両政府の政治責任である。

 まず「在日米軍再編『最終報告書』」(06・5・1)の「兵力削減とグアムへの移転」の項に「約8000人の第3海兵機動部隊の要員と、その家族約9000人は、部隊の一体性を維持するような形で2014年までに沖縄からグアムに移転する。移転する部隊は、第3海兵機動展開部隊の指揮部隊、第3海兵師団司令部、第3海兵後方群司令部、第1海兵航空団司令部及び第12海兵連隊司令部を含む。……沖縄に残る米海兵隊の兵力は、司令部、陸上、航空、戦闘支援及び基地支援能力といった海兵空地任務部隊の要素から構成される」と明記されていることを確認しておく。

 米国側が国際環境の変化に即応するため、沖縄駐留米海兵隊の実戦部隊をグアムに移す新軍事再編計画にギアチェンジしたことは明らかだ。米軍側からすれば、軍事戦略上の変更に過ぎず、「沖縄基地を維持し続ける必要性が薄れた」と、ドライに判断した結果に違いない。

▽核心を衝いた「伊波・宜野湾市長文書」

 伊波洋一・宜野湾市長は11月26日、鳩山首相をはじめ与党国会議員に文書を提出して、基地撤去を訴えた。「普天間基地のグアム移転の可能性について」と題した克明な調査報告であり、実証的で実に優れた文書である。沖縄県紙を除いては、大多数の新聞が取り上げなかった(報じた新聞もベタ扱い)のは、メディア側の問題意識の欠如を物語るものだ。そこで、この文書が指摘していた一部をピックアップして、普天間移設のもつれた原因の一端を探ってみたい。

 伊波文書によると、グアム移転問題は05年10月の日米安保協議委員会(2プラス2)で提起され、翌06年5月の「再編実施のための日米ロードマップ」で合意したもので、概要は先に示した通りである。

 伊波市長はグアムなどの現地を見て回って「普天間基地撤去」を訴える傍ら、米公文書などをキメ細かく収集・分析に努めているだけに、説得力があり、実に参考になった。中でも「日米ロードマップ」が公表された直後の06年7月「米太平洋軍司令部は『グアム統合軍事開発計画』を策定し、同年9月にホームページに公開した。その中で『海兵隊航空部隊と伴に移転してくる最大67機の回転翼機と9機の特別作戦機CⅤ―22航空機用格納庫の建設、ヘリコプターのランプスペースと離着陸用パッドの建設』の記述。すなわち普天間飛行場の海兵隊ヘリ部隊はグアムに移転するとされた」と明記されていたことを初めて知った。

 「伊波文書」の末尾に衆院外務委員会(09・4・8)での証言も記録されている。「グアム調査(07・7)の際、グアム統合計画室とアンダーセン基地の二カ所の説明で、沖縄からの海兵隊のグアム移転は、米軍のアジアを含む軍事的抑止力の強化につながることも強調していました。……最新のものとしては08年9月15日に、下院軍事委に提出した、国防総省グアム軍事報告書があります」と具体的に証言し、「ロードマップでも、8千名の部隊は一体的にグアムに移転するとされていることから、私は、普天間基地の航空部隊は、KC130部隊関連を除いて、グアムに移転するものと考えてきました」と明快に述べている。

 米海兵隊司令官コンウェイ大将は上院軍事委(09・6・4)で「計画の要の一つである普天間代替施設は、完全な能力を備えた代替施設であるべきですが、沖縄では得られそうもありません。グアム移転は即応能力を備えて前方展開態勢を実現し、今後50年にわたって太平洋における米国の国益に貢献することになる」と明言したと、『週刊朝日』(09・12・11号)が報じていたが、米軍再編のシナリオを率直に示したものだ。

▽危機を増幅させる時代錯誤の新聞・テレビ

 以上、事実関係を考察した結果、「普天間基地の米海兵隊グアム移転」は米軍再編計画の一環と思えるが、「辺野古への移設ができなければ、日米同盟に重大な支障」と騒ぎ、世論を煽り過ぎた気がする。日米両政府の不手際が混乱を招いた主因だが、メディア側の過剰報道が危機を増幅させてしまった、と指摘せざるを得ない。

 13年間も問題を先送りしてきた日米両政府の責任は重大だ。前政権の〝負の遺産〟を引き継いだ鳩山、オバマ新政権が過去の取り決めを徹底検証し、手直しに努力することこそ、「日米同盟」深化につながる外交姿勢ではないか。ところが、沖縄県紙を除く本土の新聞・テレビは「伊波文書」どころか、十年余の交渉経過をきちんと総括せず、「辺野古移転を推進しないと、日米関係が悪化する」との大報道に走ったのは、さながら〝鳩山政権バッシング〟の様相だった。

 さらに、米紙の厳しい論調や知日派米国人のコメントに傾斜した報道も異常過ぎる。米国の一部の意見や国内保守派論客の見方を引用して「国益か、日米同盟か」と二者択一を迫り、「普天間問題にいらだつ米国…〝鳩山首相の先送り発言〟は無責任」など、一方的・感情的と思える報道は納得できない。

 前段で指摘したように、沖縄・米軍基地の今後について検討・見直し作業を日米両新政権が協議することは大事なはずなのに、目先の案件処理の不手際を追及するだけで、激動する国際情勢を分析して新聞社独自の主張を展開しないようでは、権力を監視するジャーナリズムの資格はなく、単なるリポーターと批判されても仕方あるまい。

 「冷戦思考と対米従属根性を引き摺ったままの日本の外交・防衛官僚は、米軍が削減・撤退すれば日米同盟が弱まるという時代錯誤の危機感に囚われて、むしろ『思いやり予算』や『辺野古に基地を作りますから』と言って、何とかして米軍を引き留めようとしている。…鳩山政権としては、あくまで海兵隊のグアムへの全面撤退を主張し、それが直ちに実現できない場合の『県外』もしくは『県内』移設の方策を見出すべきである」との指摘(高野孟ブログ09・12・4)に共感する。

 とにかく、鳩山政権は検証作業を急ぎ、対案を示して抜本的打開策を打ち出すべきである。

2010年1月28日木曜日

【政治資金規正法】 江田憲司の言い訳

 陸山会の不動産による政治資金の運用であるが、現実には散々「小沢一郎」ただ一人と言いながら、総務省分だけでも10名以上。地方の選挙管理委員会へ届けを出し、見なくしたものが約120名もいたと言う話のオチまで付いている。

近頃では、「政治資金で不動産を」などとはマスコミも言わなくなった。

政治資金で秘書の寮を建てたとして散々たたいていたのであるが、小沢氏は秘書数も多く中長期的に考えた場合、賃貸よりは購入をしたほうが政治資金を効率よく使える。

なによりも、賃貸であれば支払えば消えてなくなるが、土地であれば選挙の場合に担保で銀行からお金も借りやすい。

さて、江田憲司氏であるが、彼のブログには「この建物が、江田や家族、親族の私物になることは決してないように手当てをしました。」とある。有権者には本当か嘘かはまったく見えないしどのような手当てをしたのであろうか。

また「賃料も保証料(何百万円)もバカ高く、中長期的にみれば新築した方が安上がりという判断でした。」とも書かれているのだが、小沢氏の言い分とどこが違うのであろうか。

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 いやあ、えらい迷惑ですよ。例の小沢さんの不動産による政治資金の運用問題。10物件以上10億円以上の「運用」と、私の、たった一つしかない地元の事務所の建物が同一視されて、あれこれ言われる(まだ一部ブログの段階ですが)。

 この件では、どこに出てもどこを突つかれても一切問題はないと胸を張れるので、しっかり「説明責任」を果たしますよ! いいですか?

 くだんの物件は、先ほどもふれた私の地元の唯一の事務所(青葉台)。そこで現に私も秘書も日々働いている。支援者もひっきりなしに出入りしているし、多くのメディアの人も取材にくる。まさに江田の「政治資金管理団体」の事務所なのだから、そのお金でプレハブを建てるのは、献金の目的にも沿っているし、法的道義的にも当時、何ら問題はありませんでした。

 このプレハブは、選挙区変更に伴い、2003年に駐車場跡の土地を借りて新しく建てました(費用840万円・収支報告で公開済)。借りることも当然考えたのですが、地元青葉台商店街には適当な空き店舗がなく、賃料も保証料(何百万円)もバカ高く、中長期的にみれば新築した方が安上がりという判断でした。

 当時は(最近まで)無所属だったので、他の議員のように政党支部ももちろんなく(だから支部所有というわけにもいかず)、かといって、政治活動に使うのだから江田個人の「私有」というのもおかしい。「政治資金管理団体」の所有というのは、至極当然の処理だったわけです。

 それが、例の小沢問題の不動産問題発覚(07年)で、その後、法律で「政治資金管理団体」による不動産取得が禁止された。ただ、江田のような場合は、法的に継続所有が許されたわけです。(そりゃそうでしょう、許されなければせっかく建てたプレハブは壊さなければならないし、他に譲渡といっても誰にするんですか。政治家の事務所として現に政治活動に使っているんですよ)。

 ですから、当時も今も適法で何ら問題ないのですが、ただ、その時に、私も微塵も疑われたくなかったので、公私の峻別を対外的に明らかにするため、政治資金管理団体(憲政研究会)の規約で、解散する時は取り壊すか、第三者(江田本人や家族、親族を除く。)に譲渡することにして、この建物が、江田や家族、親族の私物になることは決してないように手当てをしました。

 昨年、「みんなの党」を結成し、私もはれて(?)政党支部を設置できるようになったため、そこにこの建物を譲渡することも一案とは思いますが(そうすれば私だけが政治資金管理団体所有ということで目立つということはなくなりますが)、現状で何ら問題のない案件でわざわざそういった操作をするのも、これまた、何か疑われてもいやだということで、今までどおりとしてきました。 

 私はこれまでの4回の選挙戦で、企業団体献金は一円も受け取らない、選挙の時にどの業界、どの労組の支援もうけないという立場を堅持してきました。自慢じゃありませんが、全国会議員で一番貧乏な政治家ですよ。それが、小沢さんのような何億円というカネを、しかも公共事業利権(ゼネコン)から集めて多くの不動産で運用している政治家と同一視されて批判される。極々一部の人からの意図的な批判だとは思いますが、政治家をやっていてつくづく悲しいことだと思います。

(参考)憲政研究会 規約 抜粋

(10 所有不動産)  本会を解散する時は、その所有する不動産は、取り壊すか、江田憲司氏以外の第三者(江田憲司氏の家族、親族を除く。)に譲渡しなければならない。

2010年1月27日水曜日

検察審査会に関して初めて言及をしている放送

刑事訴訟法第339条につぎのような条文がある。

2.起訴状に記載された事実が真実であつても、何らの罪となるべき事実を包含していないとき。公訴を棄却しなければならない。


『どうなる?政治とカネ"小沢一郎 VS 検察"最終戦争の舞台裏』(1)


『どうなる?政治とカネ"小沢一郎 VS 検察"最終戦争の舞台裏』(2)


『どうなる?政治とカネ"小沢一郎 VS 検察"最終戦争の舞台裏』(3)


『どうなる?政治とカネ"小沢一郎 VS 検察"最終戦争の舞台裏』(4)


『どうなる?政治とカネ"小沢一郎 VS 検察"最終戦争の舞台裏』(5)

2010年1月24日日曜日

【沖縄密約】 西山太吉の妻啓子「逆風満帆」

 記事だけを残し、ソースを残しておいていないというミス。西山太吉氏の記事は「逆風満帆」からであった事から、その関連であろうか?

日付けもこの記事を移転元が2010/1/24
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いつもなら声を荒らげ、睨みつけるように反論してくる夫が黙っている。啓子は身を縮めるような思いで待った。
いつもなら声を荒らげ、睨みつけるように反論してくる夫が黙っている。啓子は身を縮めるような思いで待った。

「あのね」

か細い声が聞こえた。拝むような表情の夫が続ける。
「ギャンブルしているときだけは、すべてを忘れられるんだ」

啓子は何も言えなかった。さよならと一言、口に出してしまえば終わるのに――。

「結局、決断できないのは私自身だったのね。私が放りだしたら、ひとりでは生きていけないだろう。私さえ我慢すれば、まわりに迷惑をかけずにすむ。そう思っていたけど、言い訳だったのかもしれない。だから、どんなにわがまま言っても大丈夫だろうって、主人から見透かされてしまうのね。ただ、心の底のどこかに、これではあまりにもかわいそうすぎるという気持ちがあったことも確かでした。このまま終わってほしくない、と」

別れを選択しなかったのではない。一緒にいることを選択したのでもない。どちらも選択できなかった。選択できないまま、日々に押し流されてきたというほうが近いのかもしれない。

九一年、夫が六十歳で青果会社を定年退職すると、マンションでのふたり暮らしはいっそう息苦しくなった。

競艇が開かれていない日はただ、部屋のなかにこもる。新聞社を辞めて以来、夫が目にするのは新聞とテレビのニュース番組ぐらい。このままでは、頭が錆びついてしまう。そう啓子は案じていた。

「パパ、本屋に行ってきて。一冊でもいいから本を買って勉強しないと、時代に遅れてしまいますよ」

啓子が小言のように繰り返しても聞き流す。

「本なんか読んでも役に立たない。現実に俺の身に起きたことを考えてみろ」

確かに、生半可な仕打ちではなかった。天職とも言える新聞記者の仕事をとりあげられ、郷里でやりたくもない仕事をして、政治の話ができるような相手も見当たらない。でも、と啓子は言い返す。

「でも、男でしょ。だったら撥ね返さないとだめじゃない。しっかりしてよ」

ためこんでいた本音をぶつけると、夫は激昂した。
「お前に何がわかるんだ。偉そうに」

ああ、かわいそうな人なんだ。事件がこの人を変えてしまったんだ。啓子はそう思いこむことで受け流してきた。それでいて、気になる本を見つけると、夫が手にとろうとしないことがわかっていても買ってきた。

やはり、立ち直ってほしかった。このまま死んでしまうのだけはもったいない。啓子はそう思っていた。夫としての西山太吉に翻弄されながら、新聞記者の西山太吉を忘れられずにいた。その再生をどこまでも信じようとしていたのは、ほかならぬ啓子だった。

啓子はタンスの引き出しに、真珠のブローチを仕舞っている。

かつて、夫が親しくしていた政治家の家を訪ねたとき、たまたま身内の結婚祝いを選ぶために呼ばれていた宝石商から買ったものだ。家に帰ってくると、小さな箱を背広のポケットから取り出して、「はい、これっ」と、ぶっきらぼうにそれだけ言って渡された。

「あれは結婚七年目でしたかね。きっと、宝石商の方から『よければ、奥様にも』とか勧められて、断りにくかったのか、ちょっと格好つけようとしたんじゃないでしょうか。あとにもさきにも主人から宝飾品なんてもらったことはありません。これがたったひとつの贈り物です」

十個の淡い桃色の珠は、かつて慌ただしいながらも穏やかだった日々があった証にも見える。それを、啓子はずっと持ち続けてきた。

奇跡は訪れた――明らかになった密約の存在

退職後、夫はボランティアで早朝のごみ拾いをはじめた。近所を約一時間かけて歩き、ポリ袋にごみを拾って入れる。社会とつながる、細い糸のようだった。それが日課となって九年近くすぎようとしていた二〇〇〇年五月二十九日、転機は突然、訪れた。

ごみ拾いから戻ってしばらくすると、電話が鳴った。啓子が取ると、相手は毎日新聞の記者を名乗った。なぜ、いまごろになって。いぶかりながら用件をたずねた。

「今朝の朝日新聞が密約を裏づける資料が出た、と一面で報じているんです。西山さんにコメントをいただきたいのですが」

あわてて夫に替わった。受話器を握り前屈みに話をする後ろ姿を見ながら、啓子は思った。

ああ、間に合ったんだわ。

電話を切ると、夫は玄関へ向かった。

「ちょっと新聞買ってくる」

飛び出すように出て行ったきり、なかなか帰ってこない。戻ってきたとき、手にした新聞はくしゃくしゃになっていた。

〈朝日新聞と琉球大の我部(がべ)政明教授は、沖縄返還(一九七二年五月)に至る日米両国政府の交渉の実態と最終結果を詳しく記録した米公文書のつづりを入手した。それによると、返還土地の原状回復補償費四百万ドルを日本政府が肩代わりする▽日本政府が物品・役務で負担する基地施設改善移転費六千五百万ドルなどの「秘密枠」をつくる――がいずれも極秘扱いの密約だったことが明らかになった〉

原状回復補償費四百万ドルをめぐる密約とは、かつて夫が問い、そのことによって罪を着せられた密約そのものだった。それを一面だけでなく、二、三面も見開きで報じていた。破格の扱いだった。

台所のテーブルに新聞を置くと、夫はつぶやくように言った。

「あんたの言ったとおりだったな」

口にしたのはそれだけだったが、啓子にはその意味がわかった。

「パパねえ、アメリカってでたらめなところのある国だけど、きっと公文書とかが出てくるわよ。密約があったことは、きっと証明されるから」

事件が起きた直後から、啓子はしきりにこう繰り返していたのだ。

予言したのではない。はたして公文書に記録されているのか。夫が生きているうちに出てくるのか。根拠も確信もなく、ただ祈るような思いで口にしていた。「いつか出てくるわよ」。そうとでも言わなければ、ほかにかける言葉が見つからなかった。

そのたびに夫は返事をしなかったが、確かに聞いていたようだ。淡い期待に望みをつないでも、実際に出てこなければ、ふたたび失意を重ねることになる。そう思って聞き流すふりをしていたのだろう。

「ああ、奇跡が起きたんだと思いました。主人はこのまま名誉を回復させることなく死んでいくものだとあきらめかけていましたから。長いこと、うれしいという気持ちを忘れていました。もう、味わうことはできないんだろうと思っていました。だから、こんな奇跡に遭遇できて、辛かったことも少しは間引かれたかしら」

事件が起き、夫が新聞記者を辞めてから二十六年。暗闇に閉ざされたような日々だった。しかし、その歳月はまた、一般に二十五年という米公文書の機密が解除されるまでに必要な時間でもあった。啓子もまた、密約によってもたらされた屈辱をともに生きていた。

朝日新聞には、沖縄返還交渉当時の責任者だった吉野文六・アメリカ局長のコメントが載っていた。

〈確かにサインは私のものだ。ただ、スナイダー公使とそのような話をした覚えはない。米側が議会に説明するためと頼まれてサインをしたのかも知れない。このような密約を交わしたことはなく、これに該当する文書は日本側にはないだろう〉

署名はみずからのものと認めながら、内容はまったく覚えていないという。何と奇妙な回答だろう。これに続き、外相の河野洋平は翌日、密約を否定。アメリカ政府による公式文書の内容を一蹴した。

〇二年にも、密約を裏づける米公文書は見つかった。

〈日本政府が神経をとがらせているのは、400万ドルという数字と、この問題に対する日米間の密約が公にならないようにすることだ〉

七二年六月、キッシンジャー大統領補佐官の来日を前にした米国家安全保障会議のブリーフィング・メモにそう記されていた。

日韓サッカーワールドカップの決勝が行われる二日前の六月二十八日、追われるように去った古巣の毎日新聞紙上に夫の談話が載った。

〈日米が行ったのは、密約どころか返還協定の偽造だ。外交、防衛に関する国家機密は行政、司法あらゆる組織を動員して押さえにかかる。国家のウソも私の倫理問題にすり替えられた。この文書で新しいのは、事件後に「密約」と認めていた点だ。日本政府はシラを切り通しているが、米国は追及されたら密約と認める構えだった。そこに民主主義の定着の違いを感じる〉

〇〇年に見つかった公文書が沖縄返還の交渉中に作成されたものだったのに対し、これは沖縄返還協定が結ばれた後、つまりは確定した事実として記録されていた。密約は完全に裏付けられた。

その秋、西山は東京・竹橋のかつての勤務先である毎日新聞本社ビルに足を踏み入れた。辞職して以来、初めてだった。あのころと変わらない正面玄関の扉を開け、先導されて地下へ降りた。毎日新聞労組が開いたシンポジウムに招かれていた。

〈情報はだれのものか〉

シンポジウムでは、ジャーナリストの筑紫哲也や上智大学教授の田島泰彦と並んで、マイクを握った。会場となった会議室に立ち見がでるほどの観衆がつめかけていた。

質疑応答に移ると、会場からいくつも手が挙がった。指名を受けて、五十代と思われる男性が立ち上がった。「西山さんは、裁判で国を追及することは考えていらっしゃらないのでしょうか」

確かに、政府が密約を認めることによってしか、名誉は回復されない。このまま沈黙を守っていては、国が密約を隠し、国民をだまして協定に嘘を書いた事実が消されてしまう。それに、自分が矢面に立たなければ、だれかが汚名を晴らしてくれるわけではない。

「いま、検討しているところです」

西山はそう答えたものの、実際には、あきらめに似た思いにとらわれていた。

事件から三十年以上がすぎ、いわゆる「時効」のようなものがあるのではないかと感じていた。そのうえ、当時の裁判で弁護団長を務め、その後、最高裁判事にまでなった弁護士の大野正男に相談をもちかけたものの、難色を示されていた。高齢で病と闘っているとも聞いたが、もっとも信頼を寄せる弁護士だっただけに、失意は大きかった。

大野の反応は、啓子にも意外だった。

この裁判は、西山というひとりの新聞記者の問題でなく、報道の自由や「知る権利」などの重要な問題を孕んでいる――。かつて、そう教えてくれたのは、ほかならぬ大野だった。

週刊誌の中吊りに「情通記者」などと大きく刷り込まれ、子どもが学校でいじめられている、と相談したときには、「大丈夫ですよ。息子さんには、お父さんとは別の人格がありますから」
という言葉に救われた。

夫が冒頭陳述をした第一回公判の日の夜には、わざわざ啓子にねぎらいの電話をくれた。確かな法廷戦術だけでなく、その人間性にも頼っていた。

夫はまたも、ひとりぼっちになっていた。

この人をちゃんと死なせなきゃ

だが、シンポジウムから八ヵ月後、一通の手紙が届く。質疑応答のとき、裁判に訴えるつもりはないかとたずねた男性からだった。

〈国と対等の立場で、闘いの場をもちませんか〉

手紙の主は、静岡の藤森克美(当時五十八歳)という弁護士だった。さらに一年あまりがすぎたころには、三通目の手紙が届いた。

〈だれも手を挙げる人がいなければ、挑戦したい気持ちがあります〉

沖縄返還後に作成され、密約が明記された米公文書がみつかった〇二年を起点とすると、国家賠償請求訴訟を起こせる期限の三年が迫るとして決断を求めるものだった。

「夫はひそかに名誉を回復する道筋を思い描きながらも、裁判になれば、あのときのように男女関係を蒸し返されるだろうという恐怖があったようです。それでも、このままでは、密約という国の嘘が消されてしまう。法廷で着せられた汚名は、法廷で雪ぐほかない。そのとき相談はありませんでしたが、そう考えるようになったのだと思います」
決断の理由を、啓子はのちに聞かされた。

「民主主義というより前に、コンチクショウだよ」

〇五年四月二十五日。弁護士の藤森は静岡から新幹線に乗り、東京・霞が関の東京地裁に出向いた。訴状には、ベトナム戦争をめぐる米国防総省の極秘文書を報じた新聞の発行差し止めを政府が求めた裁判で、米連邦最高裁が示した判決文を引いた。

〈政府の秘密は、政治の誤りを永続化させる〉

このとき、夫は東京へ行かなかった。提訴したにもかかわらず、記者会見で男女問題について聞かれるのをまだ恐れていた。

この朝、兵庫県尼崎市ではJR福知山線の列車が脱線してマンションに激突する事故が起きていた。死者は百七人。事故の影響で、提訴を取り上げた各紙の記事は社会面の片隅に小さく載っただけだった。

アメリカで公文書が相次いで見つかった後、夫は少しずつ変わってきた。突然、苛立ちをぶつけることが減り、癇癪を起こしても、はるかに穏やかになった。塊のようだった心が解けるように、感情が少しずつ表にでるようにもなっていた。

ある日、日課の散歩から戻った夫が突然、玄関で泣きだした。
「『ギョロ太』が死んだー」

子どものように泣きじゃくる姿に、啓子は驚いた。聞けば、自宅があるマンション近くの駐車場で猫の死体を見つけ、ちょうど姿が見えなくなっていた飼い猫だと思い込んだのだ。まもなく別の猫だとわかったが、夫がそこまで感情をあらわにしたことはなかった。おそらく、母親を亡くしたとき以来ではないだろうか。啓子は確かな変化を感じとった。

そしていつしか、別れようとの思いは胸の奥底に沈んでいった。

「最後まで面倒をみなければ。この人をちゃんと死なせなきゃ」

啓子はそう強く思うようになっていた。

〇七年五月、刷り上がったばかりの見本本が出版社から送られてきた。『沖縄密約??「情報犯罪」と日米同盟』(岩波新書)。夫が書いたものだ。印刷された紙の匂いをいとおしむように、夫は何度もページをめくっている。
パソコンは使えず、ワープロもない。筆圧の強いくせ字をノートに書きつける。ざら紙に原稿を書いていた新聞記者時代のように、そうやって原稿用紙のマス目を一つずつ埋めていった。裁判所に提出した意見陳述書を大幅に加筆・修正して、一冊にまとめた。

そのなかに、象徴的な言葉がある。
〈lump sum(一括払い)〉

個別の経費を積み上げるのではなく、一括でまとめて支払う方法を指す。米国務省が専門家に依頼して交渉プロセスをまとめた「沖縄返還――省庁間調整のケース・スタディ」という百十六ページに及ぶ公文書のなかで使われていた。日本が支払ったのは、総額三億二千万ドルという「つかみ金」だった。そこに、密約がもぐり込ませられた。

それはまた、このときちょうど交渉中だった在日米軍再編をめぐり、日本側の負担が「三兆円」とされたことと二重写しになった。

六九年に佐藤・ニクソン共同声明で沖縄返還が宣言される前に、日本側が支払う金額について大蔵省と米財務省が密かに合意していたこともわかった。公文書には、蔵相だった福田赳夫が漏らした日本政府の本音が記されている。

〈「沖縄を買い取った」との印象を与えたくない〉
そこから、密約は生まれた。

啓子は語りかけた。
「三十五年かかって、ようやくここまで来たわね」

夫が表舞台に戻ることは二度とないだろう、と長い間思ってきた。このまま朽ちるように終わるんだろう、とあきらめていた。一方で、そうした弱気を振り払うように、夫にはずっと、言い続けていた。

「本なんてすぐには書けないんだから、今から準備しといて」

「すべて、ここ(頭)に入っているから、いつでも書ける。大丈夫さ」

そううそぶきながら、原稿用紙になかなか向かおうとはしなかった。
「でも、死んだら頭のなかはあけられないのよ」

啓子が望んでいたとおり、裁判が注目を浴びはじめた〇六年の夏に、出版社から声がかかった。夫はようやく重い腰をあげる。年が明けると自室にこもり、三ヵ月で書き上げた。

できあがったばかりの本を前に、啓子は冗談のように投げかけた。

「パパ、何か私に言うことない?」
すぐに察したのだろう。夫は苦りきった顔で半身をそむけた。そんなこと僕に言わせるんか、と小声を漏らす。
「あり……」
そう言いかけたものの、後が続かない。啓子の視線を感じてか、プイッと横を向いて付け足した。
「がと」

それが、精一杯の表現だった。

「本を書かないと、あの人が死んだ後に何も残らない。あの人が新聞記者だった証というか、生きてきた意味がなくなってしまうんじゃないか、と。私が言うのもおかしいかもしれませんが、やっぱりあの人は優秀な記者だったのだと思います。六五年の日韓国交正常化交渉の取材のときは寝言で『線引き、線引き』って、うなされてたのを

覚えています。

その後も一面を飾るスクープをいくつも書きましたし、読売新聞の渡邉(恒雄)さんにも懇意にしていただいていました。沖縄返還をめぐる密約を報じたときも、返還協定の全文を朝日新聞に抜かれたので、なんとかしようと考えたところがあったんじゃないでしょうか。これは私の想像ですけど」
西山太吉という新聞記者は甦った。

啓子が生きてきた暗闇に、ようやく光の筋が差し込んできた。

「神様は耐えられないほどの試練は与えないといいますけど、私にはちょっと重すぎましたね。それにしても、よくこ

こまでこられたなあと自分でも思います。私は信仰をもっているわけではありませんが、思わず『神様』と口にしてしまいたくなるのです」

あれから37年――神様の贈り物

〇八年九月二日。
落胆と興奮が同時にやってきた。

西山が密約を認めない国を相手取り、謝罪と損害賠償を求めた裁判で、最高裁の決定が伝えられた。
〈上告棄却〉

夫は刑事裁判に続いて再び、敗れた。
一審、二審とも、提訴までに事件から二十年以上経過していることで、民事上の時効にあたる「除斥期間」が適用されるとして、密約の有無に立ち入らずに門前払いしていた。その判断を最高裁も追認したのだった。

その直後、ジャーナリストや作家ら六十三人が、沖縄返還をめぐって日米の政府が結んだ密約文書を公表するよう、外務省と財務省に対して情報公開請求の手続きをした。

すでにアメリカで公開された三通の公文書には、日米両政府の交渉責任者の署名がある。当然、日本側も同じ文書を保管しているはずである。これこそが、政府が否定し続けてきた密約の証になるはずだった。

錚々たる顔ぶれが揃う情報公開の請求人のなかに、澤地久枝の名前もあった。

東京・内幸町の日本プレスセンタービルで開かれた記者会見で、和服姿の澤地は静かに立ち上がると、マイクを手にした。

「私は、ひとりで戦いを続けてこられた西山さんに深い敬意を表す者のひとりです」

いきなりそう切り出した。席を二つはさんだ横で西山は正面を向いたまま、頬をすぼめたりふくらませたりしている。澤地の突然の告白ともいうべき言葉に深く心を動かされているのだろう。目をしばたたかせ、天井や中空へとせわしなく視線をさまよわせる。

「西山さんの事件が起きたのは一九七二年のことです。二〇〇〇年と二〇〇二年には密約を裏づける米公文書が見つかり、沖縄返還交渉の責任者だった外務省の元アメリカ局長も『密約はあった』と証言しています。


それでも認めない国家とは何でしょう。心の底から怒りを覚えます。こんな嘘さえ認められなくて、これで民主主義の国といえるのでしょうか。まるで徳川時代に戻ったようです」
澤地の張りのある声が響いた。

翌日、家に帰るなり「澤地が、澤地が――」と止まらない夫の話を聞いて、啓子は澤地もまたこの不条理を承服しないでいることを知った。あれ以来、事件と戦い続けてきたのは西山ひとりではなかったのだ。

「本当に長い間、孤独でしたからね。時とともに密約は忘れられ、主人はこのまま消えていくのではないかとむなしく思う時期が長くありました。それだけに、澤地さんがずっと思い続けてくださったことがうれしかったですね」

なにより、夫が喜んでいるのがわかった。それから数日間、何度も何度も記者会見の場面を語りつづけた。
しかし、その情報公開請求に対する回答期限直前の十月二日、外務省と財務省の答えが返ってきた。

〈文書不存在〉

わずか五文字で片づけられていた。

西山が罪に問われたのは、密約をほのめかす機密電信文によってだった。その密約がないというのであれば、西

山は「存在しない」文書によって裁かれたということになる。

翌月の十一月七日、情報公開の請求人代表だったジャーナリストの筑紫哲也ががんで亡くなった。七十三歳だった。

夫はそれより三つ上。いつまでも元気でいられる保証はない。最後の戦いは、時間との戦いでもあった。

〇九年春、外務省などが「不存在」とした処分の取り消しを求めて、澤地や西山らは提訴に踏み切った。

六月、第一回の口頭弁論が東京地裁七〇五号法廷で開かれた。冒頭、裁判長が被告である国側に説明を求めた。

「文書がないというのなら、なぜないのか。米公文書についてどう説明するのか。十分に納得のいく説明をしてください」

裁判の流れが決定づけられた。裁判長はさらに原告側にも注文をつけた。

「吉野文六さんに証人として出廷してもらうことはできますか」

元外務省アメリカ局長の吉野は、沖縄返還交渉にあたっていた日本側の最高責任者である。その名前に、啓子は特別な思いがあった。

七三年十二月、東京地裁七〇一号法廷。

当時の新聞が「(外務省機密漏洩)事件審理のハイライト」と位置づけた法廷で、吉野は検察側の証人として被告の西山と向き合った。そして、ことごとく密約の事実を否定した。機密電信文を掲げて追及された国会に続き、堂々と偽証を重ねたのだ。

「あのとき、西山から聞いたことが頭を離れないんです。吉野さんは法廷で、主人に目礼したというんです。わざわざ嘘をついて貶める相手にむかって挨拶するとは、どういうことなのか。そのことが強く印象に残っていました」吉野はずっと、沖縄密約のキーマンだった。

〇〇年と〇二年に密約を裏づける米公文書が見つかった際には、「B・Y」というイニシャルはみずからのものであるとしながら、密約の存在そのものは否定した。

ところが〇六年、北海道新聞の取材に対して一転、密約を認めた。その後、朝日新聞にも重大な証言をした。〇〇年に米公文書が見つかった際、外相だった河野洋平から密約を認めないよう口止めされていた、と明かしたのだ。

「取材を受けたら、従来通り(密約はないということ)でお願いします」

河野からの電話を受け、直接そう指示されたという。

政府は、このときの吉野証言を、密約はないとする根拠としてきた。しかし、その吉野が、河野から口止めされていたとして証言を覆した。密約を否定する根拠は失われた。

吉野を口止めした河野はかつて、逆の立場にあった。西山が国家公務員法違反に問われた刑事裁判の二審に弁護側証人として出廷し、「メディアの重要性」について証言している。自民党に籍を置きながら、堂々と「知る権利」擁護の弁論を展開してから三十年後、河野はみずからの信条を封印して、「密約はない」とする政府・外務省の代弁者となっていた。

啓子は不思議な気持ちにとらわれた。

「かつてあれほど嘘をつき続けた人が密約を認め、密約を暴いた主人を擁護していた人が、嘘をつくように指示するなんて」

その河野もこの夏、政界を退いた。

裁判長の要請に応じて、吉野は証人として法廷に立つことを了承した。秋には、吉野と西山が三十六年ぶりに再会する。しかも、同じ原告側に立つ。

平凡だが、事実は小説より奇なり、という言葉が浮かぶと、啓子はいう。

「人生の終わりが近づいたいま、思うんです。神様は見ていてくださった。最後の最後に、ちゃんと贈り物を用意してくださっていたのかな、と」

なんで一緒にいるのかしらね

枕が変わると眠れない。面倒くさいといっては風呂に入らない。電球が切れても取り替えず、贈り物をもらっても礼状ひとつ書かない。可愛がる二匹の飼い猫にも、エサはやるけどフンの始末はしない。手先が不器用で、自転車の鍵をうまく入れられない。そのうえ、気に入ったものしか身に着けない。かばんは茶色のビニール製ボストンバッグ。背広も上着は紺にグレーのシャツと決まっている。

口にするのは、もっぱら刺身。味にうるさいだけに、魚屋だけは、なじみの店まで自分で自転車を走らせる。酒は冷酒に限るというが、このごろは啓子の目を気にして、焼酎をすする。医者から数値をあげて注意されても、「俺は信じない」と取り合わない。

そんな夫がこのごろ、やさしくなったという。

「私もやはり、年をとってきたのか、昨年の夏に珍しく体調を崩したら、主人は自分から買い物に行くと言い出したんです。『あんた、きょうなんか買うもんない?』って。猫のエサの缶詰まで買ってきて」

啓子は今年一月、ストレスからくる大腸炎で事件以来初めて入院した。ちょうど、山崎豊子が「文藝春秋」に続けていた連載「運命の人」が終わったころだった。

啓子が入った六人部屋では、まわりの夫婦の会話がカーテン越しに聞こえてくる。

「君がいないと困るんだよ」
「早くよくなってくれ」
それなのに、夫は身の回りのものを持ってきても、ベッドに置いたらすぐに帰ってしまう。

「倉庫の掃除しなきゃいけないから」

穏やかになったとはいっても、昔気質の照れ性までなおるわけではない。

それでいて啓子の妹が電話を入れると、西山は本音を漏らした。
「(啓子がいないから)もう、だめなんだ。猫のうんちが臭くて大変なんだよ」

ただ、怒るときはいまだに、頭から湯気がでるのでは、と思うほど大声をあげる。
「あんまり大きな声を出すと、頭の血管が切れちゃうわよ」
そう言う啓子も、できるなら怒鳴り返したい。狭いマンションではなく、山の中の一軒屋ならできるのに。でも、それもまた言い訳かもしれない、と思いなおす。

「パパ、私のほうがずっとかわいそうだと思わない?」
そう投げかけても、夫は聞こえないふりをしているのか、返事はない。

「私が死んでから謝っても聞こえないのよ」

すると、決まって憎まれ口が返ってくる。
「あんたのほうが長生きするんだから」

いつだったか、母親からこう言われたことがある。
「あんたたち、あれね、案外と相性がいいのかしらね」

しかし、本当にそうなのか。私が荷物をまとめて引き揚げればあっけなく終わっただろう。でも、そうできなかった。


夫婦喧嘩をして一週間ぐらい口をきかないなんて聞くと、うらやましくなる。

「シンプルなんですよ、私。だから、なめられちゃうのよねえ、きっと。それが私の失敗だなって思います。それにしても、なぜ離婚しなかったのか。もうとっくにサヨナラしていていいはずなんですけどねー。うーん、好きというのとは違うのよ。でも、なんで一緒にいるのかしらね」

ちょっと考え込むような仕草をすると、啓子はおだやかな笑みを浮かべた。

「きっと、死ぬまでの宿題ね」

この春、夫の押入れから十着ほど背広を取り出した。いずれも三越などのオーダーメード。仕立ては崩れていないが、古い型のものばかりで、だれかに譲ることもできない。かといって、いつまでもタンスの肥やしにしておくわけにもいかない。

啓子は一着ずつ思い出をかみしめると、ゴミ袋に放り込んだ。その途中、思わず手が止まった。

深緑色の三つ揃いだった。

車の助手席に乗せて渋谷駅まで送り、雑踏に消えていった頼りなげな背中がよみがえる。それは、夫が逮捕されたときに着ていたものだった。瞬間、あふれだしそうになる思いを抑えて、言葉にかえた。

「パパ、これももう捨てちゃっていいわよね」
夫は短く「ああ」と答えた。  

2010年1月22日金曜日

【新聞時評】 新聞社が描く田中派と東京地検

 このブログは、自分の備忘録として、ココログに残していたものをBloggerに引越しをしたものであるが、各記事を移行をしながら読み返すと、各大手既存マスコミの偏った記事を目にする事が多かった。この記事は、公開をせずに下書きをしたものであるが、「田中角栄からつながる小沢一郎」という前提を崩していない。

おそらく、この前提を大手既存のマスコミは、小沢氏が議員を引退するまで言い続けることであろう。実に困った方々だとしか言いようがない。


嶌信彦のコラム

今日のニュース・明日の予測:[301]検察対田中派の長い長い闘い 小沢幹事長は最後の1人

 日本の政治は異様な様相を呈してきた。鳩山由紀夫首相、小沢一郎民主党幹事長の両トップが、政治資金規正法で地検特捜部から追及されると、小沢幹事長は戦う姿勢を見せている。時の政権の実質的な最高実力者と犯罪を追及する検察が正面切って闘いを宣言する国など、先進国では聞いた例がない。

 鳩山政権は、戦後初めてといってよい本格的な政権交代で誕生した内閣だ。自民党を軸とした戦後の保守政治のアカを洗い流し、日本の旧体質を改革、21世紀のグローバル社会や中国が台頭するアジアでどんな役割を担ってゆくか--そんなカジ取りを期待されていたはずだ。それが、2010年の国会の幕開けから、国民がさんざんウンザリしてきた“政治とカネ”の問題で衝突、たぶん予算審議そっちのけの政争になるのでは、「今年もまたダメか」とタメ息が出る思いだろう。

 検察の狙いは、やはり小沢幹事長の息の根を止めることではないだろうか。法律を熟知して、抜け穴をみつけ、政治資金を違法に集めたり使ったりすることは許さない、ここで最終的なケジメをつけよう、という意気込みがうかがえる。

 と同時に、田中角栄一門との“最終戦争”という感慨・執念もあるのではないか。今日的な政治とカネの問題は、田中金脈事件から始まっている。権力や政治的な力を利用して業者などから違法なカネを集め、このカネで派閥の力を拡大して日本の政治を支配するやり方だ。田中元首相はロッキード事件で逮捕されたが、その後も金丸信元自民党副総裁は佐川急便事件などで捕まった。次は竹下登元首相がリクルート事件に関与し、これが引き金となって首相の座を降りた。その後も日本歯科医師連合会の献金をめぐって、橋本龍太郎元首相、野中広務元官房長官らが関与したとされ、結局は村岡兼造元官房長官が在宅起訴されることで締めくくられた。この事件で橋本、野中氏らの影響力は急速に落ち込んだ。

 こうした田中人脈の中で唯一生き残ってきた実力者が小沢氏である。ちなみに鳩山首相も議員のスタートは自民党田中派だった。小沢氏は田中角栄、金丸信氏などが検察に引っ張られる過程をつぶさに見ており、特に田中ロッキード裁判は必ず傍聴して、検察がどんな手法・論理で政治家を追い詰めてきたかを熟知する。そしてその後の政治生活でその知恵を生かし、政治資金規正法に引っかからないようカネを集め、次々と新党を作り、新人議員を当選させて、ついに政権を実質的に動かす権力をつかんだ--と検察は見ているのではないか。検察としては、田中人脈の最後の大物の小沢氏を起訴することで、30年以上続いてきた田中一門との闘いを終結させようとしているように見える。たぶんこれは、東京地検特捜部の中心で働いてきた代々の先輩たちの無言の申し渡し事項だったと見てよいだろう。

 田中人脈から見れば、これは検察の横暴であり、権力の乱用と見える。特に小沢氏にとっては法の問題点をすべて知り、法令違反を犯さないよう細心の注意を払ってきたはずなのに、「なぜ違反と決めつけ、事情聴取を要請したり、元の部下などを逮捕するのか。検察の要求については弁護士を通じて回答し、資料も出してきた」という思いがあるに違いない。そして官僚や検察が、実質的に日本の政治を動かし得る現在の制度を改革するため、事務次官会議を廃止したり、官僚の国会答弁を原則禁止にしたりしている。また「法務省では法務次官を務めた人間が検事総長になるという制度も他の役所と比べおかしいのではないか」などと発言、法務・検察のシステムのあり方にまで首を突っ込む姿勢をみせていた。これも検察側にとっては気になったことだろう。

 こうしてみると「検察対小沢」の衝突は必然のコースであったようにも見える。ただ、検察はどこまで証拠を持ち、小沢氏を追い詰めているのか。裁判を考えると今から手持ち材料や捜査の筋を言うことはできない、というのが検察の言い分のようだが、メディアに次々と出てくる新事実の中に検察がリークして追い詰めているものも少なくないように思える。特に当初は小沢氏の資金のうち4億円の出所がはっきりしないとされ、メディアも巨額の4億円について、華々しく報道した。ところが、小沢氏が「カネの出所についてはすでに検察に通帳まで出してある」と主張し3億円以上は自分のお金を充てていると述べた途端、検察側は「まだ1億円の出所がはっきりしない」と4億から1億円強の行方に話が変わってきた。無論めまぐるしい資金の出し入れ、複雑な4億円をめぐる経緯についてまだ腑(ふ)に落ちない点も多い。それにしても4億から1億円に縮小しては随分と話が小さくなってしまい、4億円の数字はどんな意図でどこが流していたのか、と考え込んでしまう。国民からすると、悪銭にまみれた政治もゴメンだが、検察・警察の権力がギラつくのも薄気味悪い。検察もある程度の説明をしてもらいたいとも思う。

2010年1月22日

2010年1月18日月曜日

【検察問題】 東京新聞・小沢疑惑報道の読み方

 2010年1月13日に捜査が入り15日に石川議員が逮捕をされている。この13日の逮捕は、西松事件の第二回公判であった。

『小沢疑惑報道』の読み方
2010年1月18日

 小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる疑惑事件が元秘書らへの強制捜査に発展した。私は取材現場の事情は知らない。ただ、読者として多くの記事を読む限り、正直言って「これはいったい、なんだ」という感じも抱いてきた。

 なぜなら、当事者本人か捜査当局しか知り得ないような情報がしばしば盛り込まれているからだ。ときには当事者が捜査当局に供述したとされる内容が報じられたりしている。

 ということは、当事者が取材記者に話したか、あるいは当局が記者にリークしたのではないか。疑惑があるなら解明されねばならないのは当然である。現場で取材する記者の苦労は理解できるし、多としたい。

 だが、結果的に当局の情報操作に手を貸す結果になっているとしたら、それもまた見逃せないのだ。

 検察が公判請求し裁判になってからも、判決が報道された内容どころか起訴状の記載事実とさえ異なる場合はある。読み手としては、情報の出所にも注意を払わざるを得ない。

 民主党と鳩山内閣は一連の報道でダメージを受けた。その結果、支持率も落ちるだろう。この疑惑は間違いなく、本日から始まる通常国会で焦点になる。

 記事を書く側の一人として「本当に起きていることはなにか」という点に細心の注意を払って、今後の展開をウオッチしていきたい。 (長谷川幸洋)


石川議員逮捕、なぜこのタイミング? 最大の証拠隠滅「自殺」の恐れ…
2010.1.16 00:43
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100116/crm1001160046004-n1.htm

 深夜の電撃的な逮捕劇だった。東京地検特捜部はなぜ、15日に石川知裕容疑者らを逮捕したのか。その理由には最大の証拠隠滅といわれる「自殺」に加え、国会開会直前で、3月末に時効を控えているという時期の問題もあるとみられる。

 午後11時前に始まった逮捕発表会見で、佐久間達哉特捜部長は逮捕の理由について「石川容疑者らの供述は信用できない」「証拠隠滅の恐れがあった」と語った。報道陣から「自殺の恐れがあったからか」と問われると、佐久間部長は「あえて否定しない」とも話した。

 一方、国会議員には国会開会中の不逮捕特権があるため、捜査当局は会期中に議員を逮捕する場合、議員が所属する議院に逮捕許諾を求めなければならない。通常国会の開会が18日に迫る中、石川容疑者の逮捕許諾請求が与党多数の衆議院で拒否されることも懸念された。

 さらに、今回の容疑の時効は3月末。予算審議に影響を与えないためにも早期の逮捕が必要だったとみられる。石川容疑者らが起訴された時点で共犯者の時効は止まる。こうした理由も電撃逮捕につながったとされる。


特捜部執念の捜査 「国民を欺いている点で悪質」 
2010.1.16 00:28
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100116/crm1001160029003-n1.htm

 民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる政治資金規正法違反事件で、東京地検特捜部は15日夜、小沢氏の元秘書で会計事務担当だった衆院議員の石川知裕容疑者(36)らの逮捕に踏み切った。昨年3月の公設第1秘書の逮捕以来、小沢氏側の不透明な資金について、執念の捜査を続けてきた特捜部。捜査の経緯や狙いを追った。

批判をバネに

 特捜部が初めて小沢氏側の強制捜査に着手したのは西松建設の違法献金事件を立件した昨年3月。

 その際、民主党側だけでなく、身内の検察OBからも「衆院選が近い時期になぜ着手するのか」「表のカネだけで逮捕するのか」などの批判が渦巻いた。

 特捜部は“逆風”を受けながらも、その後もヤミ献金など小沢氏周辺の「裏のカネ」を探る捜査を継続。その過程で浮上したのが、小沢氏の資金管理団体「陸山会」が平成16年10月に購入した東京都世田谷区の土地をめぐる疑惑だった。

 昨年7月には、国発注の胆(い)沢(さわ)ダムの下請け工事を受注した水谷建設元幹部らから、土地購入と同時期に5千万円を石川容疑者に渡したとの供述を得て、ダム工事を受注した各社の裏献金が土地代金の原資になった疑いがあるとの見方を強めていった。

逮捕か在宅か

 購入原資の特定には当時、資金移動に直接関与していた石川容疑者の供述が焦点となり、昨年12月、特捜部は石川容疑者の任意聴取に踏み切った。

 しかし、石川容疑者は「小沢先生のたんす預金」「記載を忘れていた」などと虚偽ともとれる供述を続け、今月13日に陸山会などが一斉捜索を受けた後の3回目の聴取でも、その対応は変わらなかった。

 また、小沢事務所が土地代金の原資について、定期預金を担保にした融資で支払ったと虚偽の説明を報道機関に展開し、土地代金の原資を隠すための偽装工作が発覚。これに加え、小沢氏も5日の聴取要請を「忙しいから」などと無視し続けた。

 この事態に、任意での捜査を慎重に進めるべきだとする上級庁に対し、特捜部は石川容疑者らの逮捕を強く迫った。検察内部では石川容疑者らの刑事処分をめぐって判断が分かれた。

 だが、小沢氏の聴取拒否や石川容疑者の虚偽説明などが風向きを変えた。逮捕に慎重だった上級庁も「全容解明には石川容疑者らの逮捕が必要」と一致したのだ。ある検察幹部は「捜査に協力的ではない小沢氏側の対応で、検察内の雰囲気が変わった」と話す。

 陸山会の不動産問題では「隠し資産を所有している」との週刊誌記事をめぐって、小沢氏が出版社を訴えたが、20年6月の高裁判決で「前提事実の重要部分は事実」として1審に続いて小沢氏の請求が棄却されている。

 こうした経緯からも、ある幹部は「不動産問題がこれほど問題視されている中で、小沢氏側は一貫して融資で購入したと説明してきた。国民を欺き続けている点で悪質だ」としている。