2009年1月13日火曜日

【国内マスメディア】 新聞崩壊

記者クラブという「鎖国」制度 世界の笑いものだ
(連載「新聞崩壊」第1回/フリージャーナリストの上杉隆さんに聞く)
2008/12/30

日本の新聞社が一大危機を迎えている。広告激減に部数落ち込み。そして、なにより読者からの信頼が揺らいでいる。新聞は崩壊してしまうのか。連続インタビューで「新聞が抱える問題点」を様々な角度から浮き彫りにする。第1回は、「談合体質」が問題視され、世界でも珍しい「記者クラブ」について取り上げる。「ジャーナリズム崩壊」などの著書があり、ニューヨークタイムズ東京支局取材記者などを経て、現在フリーのジャーナリストである上杉隆さんに話を聞いた。

首相会見に記者クラブがNOを出す

日本では珍しくない「記者会見で権力側に事前に質問を渡す記者」は「世界では例がありません」と話す上杉隆さん。「そうしたことが読者に少しずつばれて来ている」
――記者クラブによる「厚い壁」を感じたときは、どんなときですか。

上杉 取材対象へのアクセス権を記者クラブという特殊な組織が独占していることが、そもそも問題なのです。

私は国会議員の秘書としてニュースを出す側の立場として記者クラブの内側にいたこともあり、また、質問権のない海外メディアというオブザーバーの記者としても、そして現在のフリーランスとして、クラブのまったく外側から、というようにさまざまな立場から多くの事例を見てきました。

小渕恵三首相時代のエピソードが印象に残っています。当時、NYタイムズの東京支局は、小渕首相へのインタビューを考えていました。議員秘書時代のつてを通じ申し込むと、小渕首相からOKの返事がありました。事務所側から、内閣記者会(記者クラブ)への告知を求められ、単に首相動静用の日程連絡というつもりで知らせました。すると、記者クラブからは「単独インタビューは認められない」という答えが返ってきました。

当然、支局長は怒りました。仮に首相側が拒否したというなら記事は書ける。単に「首相はインタビューを拒否した」と書けば良い。しかし、首相はOKしたが、政府機関でも何でもない記者クラブという組織が拒否したのでインタビューはできなかった、と説明しても、ニューヨークの読者は誰も理解できない。アメリカをはじめ世界各国には記者クラブなどないのですから。

――日本の記者クラブを外国メディアの記者はどう見ていますか。

上杉 世界の笑いものです。以前は韓国にも同種の記者クラブがありましたが、既になくなりました。私が調べた限りでは、記者クラブに近い制度があるのは、日本とアフリカのガボンだけです。アジアも南米も、もちろんそんな制度はなく、日本にきた記者たちは驚いています。

――どんな点に驚くのでしょうか。

上杉 例えば、政治家取材のときのメモ合わせ。政治家が何を話したかを各社が確認し合う行為です。こんなことを海外メディアでやれば即クビです。当然盗用の疑いを持たれますし、仮に、偶然でも似た記事が出ることがあれば、必死にそれが偶然であることを証明しようとします。ところが日本では、他社と同じような記事が出ていると安心する、というまったく逆のマインドが罷り通っています。

しかし、記者クラブ内だけで情報を独占し、横並びの記事を出すという今のやり方は、もう限界に来ています。ひとつにはインターネットの影響があると思います。以前は、政治家から聞いたそこそこの情報を1週間ぐらい置いて、いろいろ加味して記事として出す、ということも可能でした。しかし、今では国会議員自身がブログやHPで、早ければ瞬時にドンドン詳しい話を書いてしまう。官邸の中に入った議員の情報は1次情報ですから、当然詳しい。すると新聞記者がその情報をもとに記事をすぐに書いたとしても翌朝新聞が届くころには、ネット読者はもうその話を知っている、という事態になっています。
――芸能界でも、芸能人本人が最初にブログで発表してしまうため、芸能関係記者も困っているようです。

上杉 そうですね。国政だけでなく、いろんな所で同じようなことが起こっていると思います。

――記者クラブ側の言い分はどうなのでしょうか。加盟したいと言っても、一定の常駐時間を要求される例もあるようですね。様々な案件の中から実際にどの話で記者会見を設定するのか、といった調整をクラブがやっているのに、そこに外部の人間が入るのは「フリーライド」ただ乗りではないか、という不満もあるようです。

上杉 政治記者の究極の仕事は権力の監視です。だが、役所などの中にいて、「ただ見ている」だけでは監視とは言いませんし、何の意味もありません。権力を監視するということは、役所内クラブに何時間いるか、ということとは関係ありません。また、様々な案件への対応という点は、日本の新聞社が、本来通信社がやるワイヤーサービスと、新聞社がやるべき評論・分析、調査報道の仕事とを分けずに全部やっていることから発生している問題です。

発生したことを単にストレートニュースとして報じるのは、海外では通信社の仕事です。閣僚クラスへのぶら下がりなんかもそうです。APやロイターなどに任せています。そしてNYタイムズやワシントン・ポスト、ル・モンドなどの新聞社は、ジャーナリズムとしての記事などに力を注ぎます。この役割分担は、世界の新聞がやっていることです。

日本の全国紙の幹部と、新聞社と通信社の役割分担について話したことがあります。彼らは、共同(通信)や時事(通信)は信用できないと言います。では、自社に通信社の子会社を設立した上で、記者の大部分を移したらどうか。通信記者はより安い給料で雇えるし、新聞社としては人件費の面で身軽にもなる、新聞社本来の仕事に集中できる。こう提案すると、いいアイデアだ、秘策中の秘策だね、と驚くので、「いえ、通信社と新聞社の分業システムは、全世界でやってる話です」と答えたんですが。全国紙の記者は大雑把にいって今の10分の一の1社300人もいれば十分でしょう。

――いいアイデアだと思っているのに、全国紙はなぜ踏み切れないのでしょうか。

上杉 そんなことは無理だ、できない、と彼らは言います。しかし、現在の状況はすでにできる、できない、を議論している段階ではなく、やるか、やらないのか、になっているのです。まだなんとかなる、と勘違いしているのは、日本の新聞社では、編集・記者出身者が経営陣に加わるというゆがんだシステムが影響していると思います。いわば経営の素人が会社を経営している訳ですから。アメリカでは編集と経営は分離されています。優秀な記者が経営に携わろうと思ったら、MBA(経営学修士)を取るなどして会社に入りなおさなくてはなりません。経営と編集は別の職業なのです。
民主党はすでに記者会見を非クラブ加盟社外にも開放

――記者クラブ制の改革の面でも、経営サイドが熱心に取り組んでいるようには見えませんね。

上杉 先ほども触れた通り、日本の新聞社の経営者は記者出身です。彼らは記者クラブにどっぷりつかった上で、それなりに活躍をしてきました。クラブにもいろいろありますが、ライバル会社同士なのに仲良しというのも珍しくありません。すると、彼らにとっては、自分の成功体験・人生と記者クラブが重なってくるのでしょう。クラブを否定することは、自分たちの人生を否定することにつながる、という感覚なんでしょうね。

――記者クラブ制に問題があるのでは、ということは以前から漠然とは言われていました。著書の中で今回、具体的に問題点や現状を指摘されました。クラブの内側の人たちからの反応はありましたか。

上杉 若い記者の人たちから大きな反響がありました。自分もクラブ制度に疑問を感じていると。OBの人たちからは、「オレたちの頃よりひどくなってるな」という感想が寄せられました。昔はメモ合わせなんてしてなかったそうです。こちらから言わせれば同じ穴の狢なのですが。なによりも一定の年齢より上の現役の人たちは「上杉、許せない」と言っているようです。直接の抗議はないのですが、私の記事や著書に対し不満を持っている人は相当数いるな、と実感しています。逆に、政治家や官僚からは「よく書いてくれた」という反応が多いです。思うところがあるのでしょう、「あいつら、やっぱりおかしいだろ」と言いたかったようです。

――以前、首相の会見を記者クラブ主催ではなく、官邸主催にしたらどうか、と官邸側に持ちかけたことがあるそうですね。

上杉 官邸主催の話は、うまくいきませんでした。しかし、実は民主党は、岡田克也幹事長時代から記者会見をクラブ加盟社以外にも開放しています。それまで国会内控え室でやっていた会見を、党本部でするようになったのです。雑誌記者やフリーも入ることができます。ところが、私の知る限り新聞はこのことを1行も報じていません。長野県や鎌倉市でクラブが開放されたときは大騒ぎしたのにもかかわらずです。民主党番記者でも知らない人が多く、私が教えるとびっくりしていました。もちろん民主党職員でも知らない人がいたくらいです。

一度開いたものを閉じると相当な批判があります。よって、民主党は、もう閉じられないのです。総選挙の情勢はまったく分かりませんが、仮に民主党が政権を取った場合、民主党が記者会見をクラブ会員だけに限定する、今の記者クラブシステムと同じでやる、というのは難しいと思います。問題は、権力側から記者クラブ開放を実現されてしまう形になることです。そんなことになる前に、自分たちの力で自らクラブ開放をすべきではないか、と言ってるんですが。

――内閣記者会の反応はどうですか。

上杉 無視ですね。問題が存在してないことになってますから。

――今後、記者クラブはどうなっていくと予想しますか。

上杉 約150年前の日本は鎖国状態でした。地政学的に可能だったわけですが、交通手段の発達により、結局、日本は鎖国体制の放棄をせざるを得なくなりました。他業種が世界標準という荒波にもまれる中、これまで日本のメディアは日本語というバリアに守られてきました。だがそうした日本語という障壁による鎖国システムも限界に来たようです。ネット上の翻訳ソフトの発展には目覚しいものがあり、すべて正確、という訳にはいきませんが、「大体の意味は分かる」というレベルには達していて、情報によってはそれで十分だ、という場合もあります。

また、米大統領選のときオバマ候補へ世界中から寄付が集まった背景の一つには、SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)のフェイスブックの活用がありましたが、これは英語だけでなく、アラビア語や韓国語などほとんど全ての国の言葉で変換して参加できるような仕組みになっています。

こうした現実をみていると、記者クラブが存続する可能性はどんどん狭まっています。日本語というバリアが崩壊に向かっていると感じています。そのときになって外資メディアが乗り込んできて、仕方なく記者クラブを開放するよりも、自ら変わる方が生き残る可能性が高いと思います。新聞社が経営的にやっていけなくなる、という危機が到来する中、記者クラブだけが残っても意味はないですからね。実際にどこか1社が倒れて、というショック療法で記者クラブ制度が崩れていく、というのは十分考えられます。

メモ:記者クラブ制度
1890年、帝国議会の取材を求める記者たちが「議会出入り記者団」を結成したのが始まりとされる。官庁や警察、地方自治体など各地に存在し、日本新聞協会加盟の新聞社やテレビ局が加盟している。記者会見などを主催し、加盟社以外の会見への出席は拒否するなどしている。日本新聞協会の「編集委員会の見解」によると、記者クラブは、公的機関などを継続的に取材するジャーナリストたちによって構成される「取材・報道のための自主的な組織」だ。さらに「情報開示に消極的な公的機関に対して、記者クラブという形で結集して公開を迫ってきた歴史がある」と振り返っている。「『開かれた存在』であるべき」「外国報道機関に対しても開かれており」などともうたっている。これに対し、上杉隆さんは、著書「ジャーナリズム崩壊」の中で、「ほとんどブラックジョークと見紛うほどである」と批判している。

上杉隆さん プロフィール
うえすぎ たかし 1968年、福岡県生まれ。NHK報道局やニューヨークタイムズ東京支局の取材記者を務める。鳩山邦夫衆院議員の公設秘書も経験。現在フリーのジャーナリストとして主に政治分野を取材している。著書にベストセラーとなった「官邸崩壊」や「ジャーナリズム崩壊」などがある。

北京の私服警官だらけの光景 新聞はどこまで伝えきれたのか
(連載「新聞崩壊」第2回/佐野眞一さんに新聞記者再生法を聞く)
2008/12/31

新聞の危機は経営面だけではない。インターネット上には、マスコミを揶揄する「マスゴミ」という表記があふれる。「おまえたちはゴミ」という掛詞なのだが、そこには記者たちへの不信感がにじみ出ている。相手の話を正しく聞き、意図を読み、そして伝える……。そんな「力」を記者たちが取り戻し、信頼を得るにはどうしたらいいのか。「新聞記者再生法」について、「カリスマ」などの著書があるノンフィクション作家の佐野眞一さんに聞いた。

記者は偉そうに見える、と読者から反発

「調査報道もさえない。いい印象は残っていない。ずいぶん昔の(朝日新聞の)『木村王国の崩壊』はよかったけど」と話す佐野眞一さん
――新聞が、経営的にも読者からの信頼という側面でも危機を迎えています。新聞記者の評判が悪くなったのはなぜだと思いますか。

佐野 例えばテレビでよく見かける、麻生首相の周りに金魚のウンコみたいに張り付いている若い番記者たち。一番悪いのは、どうも彼らは偉そうに見える。偉そうになってしまったのが、そこはかとなく伝わってくる。映像を見ている人からすれば、波風の立たない片言隻句を集めてるだけなのに、なんであんな態度なのか。そんな反発があると思いますよ。
永田町の噂話から一歩踏み出して、衆院解散の時期をつかんだとして、そんなに偉いことじゃない。ほどなく分かることだし、それをちょっと早く報じたからと言って、読者にしてみれば「あっそう」といった程度のことだろう。
――しかも、今回新聞は「10月解散」とかずいぶん解散時期を間違えて報道しましたね。いろいろと言い分はあるのでしょうが。

佐野 振り回されたんでしょうね。普段から特定の政治家に影響されちゃって、過剰な信頼を寄せている。そうした程度の情報なんだろうな、と読者には分かっちゃう。
――個々人の記者が偉そうにしている訳ではないのでしょうが、そう見えてしまうということですね。

佐野 そう、そう見えてしまう。記者たちが言葉を失ってしまうような厳しい局面の中で何をどう伝えるか、という訓練をしていないことが関係しているのではないか。切った張ったの事件や火事、災害の現場で、例えば子どもを亡くした母親を前にすると、記者は言葉を失うだろう。しかし、それを伝えるために苦労して編み出して言葉にする、そんな訓練をしっかり積んでいなければいけないと思う。記者教育の原点です。
――全国紙では、地方である期間警察を担当させています。

佐野 ルーティンとして取りあえず地方で何年かやってこい、という程度なのではないでしょうか。事件事故を担当しさえすればいい、という訳ではなく、言葉を失う、という状況に真っ正面から向き合うかどうか、なんです。そんなこと記者が一生懸命やっても評価は高くない、というのも問題点です。社会部が政治部より偉い、とかそういうことを言いたい訳ではない。訓練しておかないと、いざという時にゴリッと現実をえぐり出してそれを咀嚼することができないのです。
――ご自分の実体験の中で感じた新聞記者への不満はありますか。

佐野 例えば、単行本になった「東電OL殺人事件」は1997年に起きました。昼はエリートOLだが夜は売春をしていた39歳の渡辺泰子という女性が、渋谷ホテル街の一角で殺害された。ネパール人が逮捕され、1審は無罪、控訴審は逆転有罪無期懲役の判決が出た。上告は棄却され、再審請求中だ。新聞報道は事件発生後、ほどなく弱気になった。被害者名が匿名になり、詳報もなくなった。会社名も出なくなった新聞もあった。
実名か匿名かは難しい問題です。しかし、便宜的になんとなく面倒だから、といった安易な理由で1人の人間を「W」とかの記号にしていいのか。私は悩みながら実名で書いた。そうした悩む力がないと書く力は育たない。新聞は悩むことを避けてはいないか、と感じた。私は冤罪事件と見ているが、新聞は高裁判決以降の動きを十分に伝えていない。再審請求の話をいろいろ調べた上できちんと扱ったところは皆無に等しい。
何を聞くか何を見るか、の感度が衰えている
――新聞記者を「再生」し、読者の信頼を取り戻すには具体的にどうしたらいいのでしょうか。

佐野 新聞記者の使命とは何かを改めて考え直すべきだ。テレビやネットがどんどん速報する中、論評の力を磨く必要がある。それには常に歴史観を意識し、企画力をつけていかなければならない。今度出した本「目と耳と足を鍛える技術―初心者からプロまで役立つノンフィクション入門」(ちくまプリマー新書)では、読む力の大切さを訴えています。文字を読むだけでなく、人の気持ちや危険を読まなければならない。人の言っていることを正しく聞き取り理解して、それを伝える―これができれば少々の困難は乗り越えることができるのです。
もっとも、読む力は普通の人にとっても大事なことで、根源的な身体能力の一部だと思う。新聞記者たちにとっては、読む力は一層大事なはずなのに、衰えてしまっている。北京五輪の開会式取材でも感じたが、何を聞くか何を見るか、の感度は、常に訓練してないと磨かれない。具体的方策、というのはなかなか難しい。読む力、歴史観を常に意識して訓練すること、そして会社がそうした努力と結果をきちんと評価することが必要だと思う。
――論評力と歴史観の関係をもう少し詳しく教えて下さい。

佐野 例えば、「カリスマ」で書いた中内功(正しくは右のつくりは「刀」)さんのダイエーが2004年、産業再生機構に入れられてとどめを刺された。これを当時の新聞は拡大路線のつけがきた、とか誰でも言える近視眼的な論評しかできなかった。そう単純ではないと思います。米国の力がどこか背後で働いた、戦後経済史上最大のドラマとも言うべき動きで、まさに「歴史が動いた」瞬間だった。フィリピンでの戦争体験をもつ中内さんにとっては2度目の「敗戦」でもあった。こうした歴史観を持っていないと論評力がつくはずがない。
――先ほど話に出た北京五輪の開会式で感じられたことは。

佐野 拍手の音をちゃんと聞き分けた報道は見受けられなかったように思う。演出がすばらしい、とかそんな程度だった。すごい拍手だったのはタイペイ(台湾)のときだった。やっとオレたちの偉さが分かったか、という訳だろう。パキスタンの時も大きかった。パキスタンが中国の「敵」インドと敵対しているからで、敵の敵は味方だという心情だろう。逆に胡錦涛(国家主席)への拍手はブッシュのときより弱かった。これは人気がないな、と感じた。こうした耳の感度を持ちうるかどうかも大切だ。雑然としたさまざまな音の中でどこを聞くか、という問題です。
――どこを聞くか、ということはどこを見るかにも通じますね。

佐野 そうです。聞く感度、見る感度、これをもってないと目の前の光景を見ているようで見てないことになる。北京の私服警官だらけの光景を、制約はあったろうが、新聞はどこまで伝えきれただろうか。
佐野眞一さん プロフィール
さの しんいち 1947年、東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経てノンフィクション作家に。1997年、「旅する巨人」で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。著書に「巨怪伝」「だれが『本』を殺すのか」「甘粕正彦 乱心の曠野」「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史」など。

「変態記事」以降も毎日新聞の「ネット憎し」変わっていない
(連載「新聞崩壊」第3回/ITジャーナリスト・佐々木俊尚さんに聞く)
2009/1/ 1

毎日新聞が自社の英文サイトに「変態記事」を掲載していた、いわゆる「WaiWai事件」では、ネットユーザーが広告主に抗議の電話をする「電凸(でんとつ)」と呼ばれる行動が相次ぎ、同社の経営に大きな影響を与えた。事件後も、同社はWikipediaの記載内容を誤って報じるなど、「ネットに対する姿勢に変化がみられない」との声も根強い。「WaiWai事件」とは何だったのか。この事件を通じて見える新聞社とネットとの関係を、同社OBのITジャーナリスト、佐々木俊尚さんに聞いた。

――今回のWaiWai事件を考える時の論点はいくつかあると思いますが、その一つが、広告を狙い撃ちした「電凸」です。「電凸」を実行したのはいったい誰なのでしょうか。

佐々木 「毎日新聞のクライアントが誰か」というのは、紙面を見ればすぐに分かりますし、実際、200社以上に抗議の電話が入ったようです。「誰かが抗議ビラをつくってPDFにしてアップロードする」といったことが組織的に行われたのは、おそらく日本では初めてのことではないでしょうか。何故あそこまで大きくなったのか、びっくりしています。
「ネット世論」は、明らかに「普通の世論」とオーバーラップ

「ネット世論と一般世論はオーバーラップする」と語る佐々木俊尚さん
――影響力は、実際のところどのくらいあったのでしょう。

佐々木 毎日のウェブの広告は、ほぼ全滅しました。ただ、「毎日.jp」に出稿されている単体の広告が1つずつストップした訳ではありません。「毎日.jp」は、基本的にはヤフーの(広告配信サービスの)アドネットワークに取り込まれていて、ヤフーに対してスポンサー側から「毎日はアドネットワークから外してくれ」という要請があったようです。毎日新聞はヤフーの大事な提携パートナーですし、新聞業界では一番緊密な関係にある。ヤフー側も、かなり悩んだようです。なおかつ、1社だけ外すというのは前代未聞です。結局「クライアントの要求には応えないといけない」ということで、「毎日.jp」への広告は一斉削除、ということになりました。
――「広告ゼロ」の期間、結構長かったですね。2、3か月ぐらいでしょうか。

佐々木 6月終わりから始まって、8月いっぱいぐらいでしょうか。ウェブだけではなくて、本体の紙の方にも影響が出ました。ウェブの広告では、「被害額は年間で数億」というレベルですが、「毎日への広告は止めてもいいんだ」という傾向が広がってしまったのが大きい。すでにナショナルクライアントからすると、「もう出したくない」という思いが強くありました。朝日などと比べて、広告効果も見込めない。そういう状況で、WaiWai事件は「これ幸い」ということで、出稿をやめる格好の口実になった面があります。
――では、何故「電凸」が起きたのでしょう。その原動力はなんでしょう。「書き込みしているのは、ほんの一部の層」という指摘する声もありますし、「あんなものは大したことない」という評論家もいます。

佐々木 様々な論点が錯綜しているように思います。「『荒らしは無視してもいい』というブログを書くときのガイドラインが誤って普及して『ネットからの抗議行動も無視していい』と誤解されてしまったことに加え、インターネットに世論なんか存在しないと思われてしまっていることがあるでしょうね。「ネットなんてフリーターや引きこもりがやってるものだ」ぐらいの認識しかない。そこが決定的に間違っています。
すでに2ちゃんねるの平均年齢は30~40代。2ちゃんねるがスタートしたのが99年なので、当時の利用者が30ならば、もう40代近い。当然、彼らがみな引きこもりということはあり得なくて、2ちゃんねる上で「世論」として見られるのは、おそらく「まっとうな会社員で、技術系の人」というイメージです。具体的には、「IT系企業で係長やっている30代」といった人が中心なのではないでしょうか。そう考えると、「ネット世論」は、明らかに「普通の世論」とオーバーラップしてくる。そう思いたがらない人も多いですが…。
20~30代の若手記者までネットの悪口を言っている
――今回の「電凸」も、数から言っても「一部の人でやっている」というのは考えづらいですよね。

佐々木 WaiWai事件について、2ちゃんねるにはスレッドが230ぐらい立ちました。書き込みにして23万ぐらい。「一部の人が書いている」というのは、根拠がなさ過ぎる。ミクシィにも波及しているし、ブログにも広がっている。その読者も含めると、相当な数にのぼります。大手メディアではほとんど報道はされませんでしたが、インターネットを頻繁に利用する人は、大半が知っています。WaiWai事件を「毎日新聞低俗記事事件」と書いたら「そうじゃない」と怒られたこともありました。「あれは日本女性に対する侮辱であって、単なる低俗な記事を書いたということではない」、と。この事件は、本当に多くの人の怒りを呼んだんです。
――「『電凸』は威力業務妨害だ」といった指摘もありますね。

佐々木 そもそも、それを「威力業務妨害」だと発想するのが理解不能ですよ。だって、消費者運動の一種じゃないですか。実際に物を壊すとかであれば、威力業務妨害ですが、「電話をして抗議する」というのは、1970年代から消費者運動として行われてきたことです。
――2ちゃんねるの利用者層とは逆に、新聞の読者層についてはいかがですか。

佐々木 新聞の側が、読者の年齢層を上げてしまっています。元々、新聞では「標準家庭」という言葉が以前は使われていて、これは40歳ぐらいで専業主婦の妻と子供二人のいるサラリーマン家庭をイメージしたものです。そういう人たち向けに新聞を作っていたわけですね。ところが、若い人が新聞を読まなくなって、90年代ごろから読者の高齢化に付き添うようにして、新聞の中身も老化してしまうようになった。
その結果、中心読者層が60-70歳代になっていて、知らない内に、書く側も、それに合わせてしまっている。私は47歳ですが、(自分が毎日新聞に在籍していた時の)同期の記者に会うと、「何でそんなに老けた考えしてんの?」と、ビックリすることが多い。みんな「世の中が悪くなった」とか言いたがる。自分が理解できないモノは全部ダメなものだと考えてしまっていて、「ネットが悪い」「いまの若者はだめだ」と言いたがる。そんなもの、単なる老人史観でしかありません。
――新聞社の人は、「2ちゃん・ネット=悪いやつ」というイメージを持っているんでしょうね。

佐々木 新聞業界の人からは、「ビジネスとしてはインターネットとつきあっていかなければならないのはわかっているが、生理的にはどうしても受け入れられない」という考えが伝わってきます。
――毎日新聞は、特にその傾向が強いと思いますか?

佐々木 不思議なのは、ネットをよくわかっていない50代の記者が「ネットはけしからん」というのならともかく、20~30代の若手記者までネットの悪口を言っていることです。WaiWai事件以降、様々な地域面のコラムでネットの悪口が書かれるようになって、明らかに社内に「空気」ができているのだと思います。どう見ても、明らかに若い記者が書いている。毎日新聞は「ネット憎し」の空気で埋まってしまっている。
「うちの会社で起きたら、震え上がりますよ」
――毎日新聞側からすれば「不当に攻撃された」と思っているということですね。一方で、ネット側の毎日新聞に対するとらえ方は変わったでしょか?

佐々木 WaiWai事件が起こったという事実から受ける印象は変わらないんですが、問題は対応の仕方です。例えばお詫びの文章のなかに、「法的措置をとる」と強面で書いてあったり、PJニュースや個人のブロガーにひどい対応をして、そのことを(各メディアに)暴露されたりとか。今回のWikipediaの誤報の件でも、訳の分からないお詫びが紙面に出て、書かれた本人がWikipediaのノートで「毎日の記者から、こんなひどいこと言われた」と暴露している。こんなことがあると、ネットの人間は「毎日は、心底我々を憎んでいるんだな」と思ってしまう。一番びっくりするのは、これまで同様なことが起きているのに、また同じ誤りを繰り返すこと。WaiWaiの時にPJニュースとJ-CASTに(対応のずさんさを)書かれて分かっているはずなのに、それが全ての記者にいきわたっていない。毎日新聞はガバナンスが不足している会社なので、そういったことが末端まで行き渡っていないのかも知れない。
――毎日新聞以外の他の新聞社も、「電凸」を恐れているのでしょうか。

佐々木 みんな「うちの会社で起きたら、震え上がりますよ」といいます。だから自社の紙面ではWaiWai事件を大きく報道しなかった。報道したら、自分のところに降りかかると思っています。
――現場の記者は、WaiWai事件をどう受け止めていますか。

佐々木 私がつきあっている30代の記者はメディア担当が多いので、リテラシーの高い人ばかり。彼ら(毎日新聞の記者)からは「毎日新聞はつらい。上に何を言っても理解されない」という声も聞こえます。
――具体的には、どんなところが「理解されない」のでしょう。

佐々木 例えば、双方向性を理解していないこと。言論がフラット化していることを理解していない。「ブログは素人が書いているもの」ぐらいにしか思っていない。1990年代まではインターネットもしょせんはマス媒体をウェブ化しただけで、言論のフラット化なんて起きなかった。だからそのころまでは彼らもネットをある程度は理解していたと思うのですが、2000年代に入ってブログの登場などソーシャルメディアが台頭してくると、言論は瞬く間にフラット化された。しかしこのようなソーシャルでフラットな世界というのは、その場に身を置いている人間ではないと皮膚感覚として理解できないんです。新聞社との人間とブログの人間は、違う言語空間に生きています。ほとんどの新聞社の人間はブログなんて見ていなくて、彼らにとって、ネットとは「アサヒコム」なんです。
トップダウンでやれるところじゃないとダメ
――新聞とネットの距離感はいかがでしょうか。何らかの形で折り合いをつけないといけないと思いますが…。

佐々木 米国でも、オンラインで成功しているのはウォール・ストリート・ジャーナルぐらいですが、一般紙というよりは専門紙です。ニューヨーク・タイムズも減収で、日本の新聞社がこれからどういう方向に進めばいいのかというお手本となるべき新聞社が存在しない。国内に目を転じると、産経新聞のiza!は素晴らしいソーシャルメディアで、現場が「自分の記事が得体の知れないブロガーの記事と並列されるのが許せない」と、猛反対だったなか、社長の鶴の一声で開発が決まったものです。でも現状では新聞社の収益下落を救えるほどのパワーはない。ソーシャルメディアは儲からないんですね。あれが儲かれば、みんなが見習って、日本のメディアがソーシャルメディア化していくんでしょうけれど…。
――産経新聞のネットの取り組みはすごいですよね。

佐々木 ウェブ・ファースト(紙よりも先にウェブに記事が載る)ですし、会見全文を載せたり、裁判のライブ中継があったり…。一度掲載された記事が消えないのも魅力ですね。
――裁判のような長い記事でも、比較的読まれているそうです。

佐々木 その対極を行くのが、(記事読み比べサイトの)「あらたにす」。「サマリーだけウェブに載せて、本文は新聞で」という発想ですが、逆ですよね。ウェブの方が容量は多いんだから。
――今後、新聞社のネットに対する考え方は変わると思いますか?

佐々木 何らかのターニングポイントが来るのではないでしょうか。いまだに「インターネット世論は世論ではない」と思いたがっていますが、インターネット世論が世論だと言わざるを得ない局面が来る。そうなると、韓国みたいな状況がやってくる。一時はネット世論が権力を握るというところまでいったわけですから。ただ、韓国は行き過ぎて、ネット世論が肥大化してしまい、ネットの世論がリアルの世論と直結してしまった。その結果、「ネットで誹謗中傷を書かれて自殺」みたいなケースが頻発しました。さすがに日本のインターネットはそこまでの状況は作り出さないと思いますが、しかしどのような将来が待ち受けているのかは、まだわからないですね。
――毎日新聞にも、何らかの変化が起こる可能性はありますか。

佐々木 トップダウンでやれるところじゃないとダメだと思いますね。古い大きな組織なので、無理でしょう。山本七平の名著「『空気』の研究」じゃないですけど、社内を「空気」が支配しちゃっている。没落のスピードが速すぎて間に合わない(苦笑)心配もありますね。
佐々木俊尚さん プロフィール
ささき・としなお 1961年、兵庫県生まれ。フリージャーナリスト。愛知県立岡崎高校卒、早稲田大政経学部政治学科中退。1988年、毎日新聞社入社。岐阜支局、中部報道部(名古屋)を経て、東京本社社会部。警視庁捜査一課、遊軍などを担当し、殺人や誘拐、海外テロ、オウム真理教事件などの取材に当たる。1999年にアスキーに移籍し、月刊アスキー編集部デスク。2003年に退職。著書に「ウェブ国産力」、「ネット未来地図 ポスト・グーグル時代 20の論点」など。


新聞の20%以上は配達されない 「押し紙」という新聞社の「暗部」
(連載「新聞崩壊」第4回/フリージャーナリスト・黒薮哲哉さんに聞く)

読売1000万部、朝日800万部、毎日400万部……巨大部数を誇る全国紙。それだけ影響力が大きい「証」でもある。しかし、その部数に「暗部」を指摘する声もある。「押し紙」と呼ばれる配達されない新聞だ。全体の2割以上はある、というのが関係者の見方だ。ただ、新聞社側はその存在を認めていない。この問題に詳しいフリージャーナリストの黒薮哲哉さんに話を聞いた。
悲鳴を上げる販売店が増え始めたのはここ5~6年
――押し紙問題(*メモ参照)は、最初はどういうきっかけでいつごろ始まったのでしょうか。
黒薮 はっきりしませんが、かなり昔から続いています。ただ、初期のころは新聞の部数が伸びていたときで、新聞社がノルマとして多めの新聞を搬入しても景品をつければ読者を増やすことは難しくなかった。だから販売店にとってそれほど大きな負担ではなかったようです。
――それが販売店にとって迷惑なものへとその性格が変わったのはいつごろからですか。
黒薮 これもかなり以前からですが、本当にひどくなって悲鳴を上げる販売店が増え始めたのはここ5~6年でしょうか。
――そもそも販売店は、なぜ押し紙を断らないのでしょうか。実際には読者から集めることができない押し紙分の「新聞代」を負担して新聞社に納めないといけない訳で、損をするのではないですか。
黒薮 まず、新聞に折り込むチラシの収入があります。チラシの搬入枚数は、販売店が扱う新聞の総部数に準じるので、押し紙で部数を増やせばチラシの枚数も増える仕組みになっています。ですから押し紙が多ければ多いほど、チラシの収入も増えます。さらに新聞社が販売店へ補助金を支給します。つまりチラシの水増し収入と、押し紙で生じる損害を相殺するカラクリがあるのです。しかし、最近はチラシ収入が激減しています。補助金の全体像は正直つかめていませんが、少なくとも増えてはいないようです。当然、販売店は押し紙の損害を相殺できなくなってきました。それにもかかわらず新聞社と販売店の力関係は、販売店が圧倒的に弱者です。押し紙を断れないのです。それで不満の声を上げる販売店主たちが出始めた、というのが現状です。
――なぜチラシ収入が減ったのですか。
黒薮 複数の要素があります。各戸の郵便受けに直接チラシを入れるポスティング業者の登場も要因のひとつです。フリーペーパーやインターネット広告にチラシの役割を奪われた部分もあります。また、広告主の意識の変化も挙げられます。押し紙の存在が知られるようになり、新聞に折り込んでチラシを配っても本当にそんなに多数の読者の手元に届いているのか疑っている広告主もいます。また、広告による宣伝効果にも疑問を持ち始めているようです。ある不動産業者を取材すると、以前は2色刷りの新聞チラシで相当の効果があったが、近年は7色刷りの手の込んだチラシを配っても反応がない、と嘆いていました。勿論、最近では景気の影響もあります。
――実際にどの程度が押し紙なのでしょうか。
黒薮 全国的なデータはありません。個別の販売店を取材してきた私の推測では、おおむね3~4割は押し紙だとにらんでいます。もっとも地方紙は別です。地方紙の場合、押し紙をしてでも大部数にみせかけ、広告の媒体価値を競い合う必要性は全国紙に比べて薄いようです。
書類の上では押し紙はないことになっている
――4割というのはちょっと多すぎる気もしますが、具体例はありますか。
黒薮 新聞社も販売店名も分かっています。例えば九州地区のある全国紙の販売店では、07年秋に総部数2010部となっているところ、本当に読者に配っていたのは1013部でした。押し紙が997部、5割弱という計算になります。大阪では押し紙が7割という店もありました。首都圏の少ないところでも2割はあるかな、というのが実感です。必要な予備紙を計算に入れても実態は大して変わりません。
――新聞の部数は、日本ABC協会(新聞雑誌部数公査機構)が発表していますが、信頼性がある数字だと見られています。押し紙は見抜けないのでしょうか。
黒薮 ABCの数字は基本的に販売店へ搬入している部数であって、実際に配達されている数字ははっきりしません。協会の役員には各新聞社関係者がずらりと顔をそろえています。広告主側の役員もいる訳ですが、あえて押し紙に抗議して新聞社とことを構えたくはないでしょう。新聞社を相手にするのは大変です。たとえば私は、押し紙問題を取材する過程で、読売新聞西部本社サイドから2件の訴訟を起こされました。押し紙問題が表沙汰になることに相当な危機感を抱いたのだろう、と私は感じています。また、新聞社の関係者でも販売局以外の人は、押し紙の実態はよく知らないのかなという気もします。
――新聞社側は、押し紙の存在を認めているのでしょうか。
黒薮 認めていません。違法行為なので認めるわけにはいかないのでしょう。実際、販売店側が作る書類の上では押し紙はないことになっています。新聞社から、拡販しろというプレッシャーが強く、新聞拡販のノルマが達成できなければ、「怠け者」と見られてつぶされかねません。そんな状況で、自ら「実配部数」欄に押し紙を含んだ数を書き入れて、営業成績をよく見せるケースがあるのです。しかし、新聞社側からすれば、販売店が勝手にウソの数字を書き込み、信頼関係を裏切られたと主張することも可能なのです。
――そうした実態が垣間見える裁判があったそうですね。
黒薮 福岡県・筑後地区のケースです。裁判自体は、読売新聞側から解任された販売店主が地位保全を求めた訴訟です。07年12月、最高裁が読売の上告受理申し立てを退けるかたちで判決が確定したのですが、解任理由とされたのは、先ほど説明した「ウソの実配部数報告」でした。しかし、裁判の中で、「ウソの報告」をするまでに店主を追い込んだ新聞社側の体質が優越的地位の濫用にあたると指摘され、販売店の改廃は認められませんでした。
――今後どうなるでしょうか。
黒薮 チラシの減少も深刻ですが、そもそも読者も減っています。50代以上はともかく、それ以下の世代は本当に新聞を取らなくなっています。読売1000万部云々と言われ始めて10年以上たっていますが、ネットの急速な浸透で、実感として読者はここ最近相当減っているはずなのに、いまだに公表部数については、以前とほとんど同じ数字のまま。ということは、押し紙が増えていると推測できます。販売店側はもうそれを吸収できないのです。現在のような販売システムは、早晩崩壊すると予測しています。
――新聞社はどういう対策を取るのでしょうか。
黒薮 個人経営の販売店ではなく、新聞社側の資本も入った販売会社を増やしているようです。販売会社は、ある意味新聞社と一体の組織なので、押し紙に伴う金の流れも融通が利くようです。
――自主廃業する販売店は増えていますか。
黒薮 増えています。しかし、この業界は意外と縦社会というか、だれそれさんに以前世話になったので顔をつぶせないとか、外部の人間が考えるほど簡単にやめることができる訳ではなさそうです。とはいえ、経営不振のある新聞社では、普通の説得工作では追いつかないほど辞めたがっている店が出ています。このため、押し紙を減らす動きも出ているようです。閉店されてしまうと、後のなり手がいないからです。
<メモ:押し紙問題>
新聞社が、個人経営などの新聞販売店に対し、実際に読者に配達している部数より多くの新聞を「押しつけている」とされる問題。配達時に新聞が濡れたときなどに備える必要な「予備紙」(注文部数の2%まで)数を大きく上回っていると見られている。新聞社にとっては、部数が多いことは紙面広告を取る際に有利に働くことが背景にあると指摘されている。独占禁止法で禁じられている行為だ。
例えばこういう仕組みだ。新聞社がある販売店に1000部を搬入する。しかし、その販売店が本当に配っている新聞は800部だとする。するとその差の200部の大半が「押し紙」ということになる。対外的には、「この地区でうちの新聞は1000部も読まれています」と主張するという訳だ。新聞社側はその存在を認めていない。
黒薮哲哉さん プロフィール
くろやぶ てつや 1958年、兵庫県生まれ。フリージャーナリスト。1992年、「説教ゲーム」(改題:「バイクに乗ったコロンブス」)でノンフィクション朝日ジャーナル大賞「旅・異文化」テーマ賞を受賞。著書に「新聞ジャーナリズムの『正義』を問う」「新聞があぶない」「崩壊する新聞」など。


米国の新聞は決断した 「紙が減ってもウェブ中心でやる」
(連載「新聞崩壊」第5回/アルファブロガー・田中善一郎さんに聞く)
2009/1/ 3

販売も広告も先行き下り坂。ネット戦略に生き残りをかけるしかない。日本の新聞社はそう考えているように見える。ところが、先行している米国の様子を見ると、新聞社のウェブサイトは苦戦している。出稿される広告も減少に転じた。米国のメディア事情をアルファブロガーの田中善一郎さんに聞いた。

――米国と日本の新聞社のサイトはどこが違うのでしょう。

田中 まず英語圏なので、最初からグローバルな展開を視野に入れられる強みがあります。だから、ユニークユーザー数も多い。内容面で言うと、ニューヨーク・タイムズは、紙面に掲載されている記事のほとんどがウェブにも掲載されている。ネットに先に配信する「ウェブ・ファースト」も徹底しています。ネットのコンテンツは速報性もあるし、行数に制約がないし、時には映像も付く。記事一つ一つに厚みがあります。各記事から、関連する外部サイトの記事へのリンクが張られ、開放化に向かっているのも大きな特徴です。

トピックス記事のようなストックコンテンツも充実してきています。ニューヨーク・タイムズでは、約1万種のトピックス記事が随時更新されており、非常によくできています。Wikipediaのような事典ですが、信頼できる内容だし、最新ニュースも組み込まれています。同サイトのニュース記事内に出てくるキーワードには、関連するトピックス記事がリンク付けされています。
ソーシャルメディア化が進んでいることが特徴

「米国の新聞社ウェブサイトはソーシャルメディア化が進んでいる」と話す田中善一郎さん
――そのほかに特徴は?

田中 ソーシャルメディア化が進んでいること。例えばRSS。カテゴリー分けが非常に細かい。たいていの新聞社サイトでは200種ぐらいのRSSフィードを配信しています。ニッチなトピックスでもRSSフィードになっているし。複数の新聞社サイトを対象に特定分野の情報をRSSリーダーで収集する場合、効率よく行えます。特に、仕事に関する専門分野の情報収集環境が、日本とは全然違います。

サイトの基本設計に関しては、3~4年前まで日本の新聞社と大差なくて、紙の焼き直しに過ぎませんでしたが、急に状況がかわってきました。「まずはトップページに来てもらう」というやり方が行き詰まってきたからです。検索エンジンの進歩とRSSフィードの普及で、「まずは1面から読む」という紙媒体的な情報提供だけではユーザーが満足しなくなってきたのです。記事1本1本が検索対象になってきました。web2.0的な流れが生まれてきて、ユーザーの情報接触が「パッケージされたコンテンツを読む」から「読みたい記事だけを読む」というように変化が出てきています。
――ソーシャルメディア、特に、ブログとの関係についてはいかがでしょうか。

田中 ニューヨーク・タイムズでは、ブログの中で記事が話題になるような仕掛け作りを進めてきました。過去に遡ってすべての記事に固有のURLを与え、いつまでもリンク切れが起こらないようになっています。過去20年間の記事を含めて昔の記事までが無料で読めるため、ブロガーは安心してニュース記事を引用してリンクを張るようになってきました。
――新聞社サイト内で提供されているブログについてはいかがでしょう。

田中 いわゆる「記者ブログ」でも、日本と米国とでは様子が全然違います。日本では多くが、単にコラムをブログという形で掲載しているに過ぎませんが、米国ではブロガーとなる記者がブログの世界にうまく入り込んでいます。一般の記事に比べて、規制の少ない自由な視点でブログ記事を書いており、外部ブログとやり取りをしながら、一緒により良い記事を作り上げていこうとしています。つまりコンテンツをマッシュアップしていくプロセスが見られるのがおもしろいですね。さらに最近では、外部の有力ブログとライセンス契約を結び、外部ブログ記事を新聞社サイトでも掲載し始めています。
米国では3-4年前から新聞広告が急に落ち込む
――こうした試みで、確かに情報の価値が上昇しました。問題は、その結果「儲かるか」です。

田中 紙媒体では儲からないという結論を下し、儲かるかわからないネット媒体にシフトしているのが現状です。そこで米国の新聞社がどう変化してきたかを振り返る必要があります。実は、1970年ぐらいから読者の減少が始まっています。米国の人口が2億から3億に増えているにもかかわらずです。つまり、「新聞を読む人の割合」が、劇的に減った。それでも、指導者層の新聞に対する信頼は揺らがなかった。「信用できるニュースがいつでも得られる」メディアとしては、当時は新聞しかなかったからです。そのため、部数が落ち込んでも、新聞広告費が70年から2000年までの30年間で6倍以上も伸びたんです。「広告は上向きだったので、危機感を持つのが遅れた」と言う面があります。

ところが、ブログなどのソーシャルメディアが普及しだした3~4年前から、新聞広告が急に落ち込み始めました。この頃が転換期だと思います。06年~07年にかけて、広告は大幅に落ち込んだ。世間一般の景気がいい時でしたので、新聞社も「これはまずい」と受け止めた。みんなが「新聞が消える」と言い出したのはこの頃です。部数と広告が減少する負のスパイラルが加速化し、止まりそうもない、というのが現状です。これに金融危機が加わって、まさに踏んだり蹴ったりの状態です。
――ウェブと紙媒体の住み分けはできるのでしょうか。

田中 今までと逆に、紙はウェブの補完となっていくでしょう。頭が痛いのは、ウェブを充実させると、紙媒体の販売収入が減ってしまうこと。ニューヨーク・タイムズが、最も典型的な例でしょう。それでも、「紙を減らしてでも、ウェブをやるべき」という決断をした。収益性が悪くても、やらざるを得ない。
――日本の新聞社は、まさにその入り口にさしかかっていると言えそうですね。

田中 さらに米国の新聞社にとって具合が悪いのが、収入の7~8割を広告に依存していることです。それが年率で15%ぐらい落ち込んでいる。特にクラシファイド広告(求人広告など)の落ち込みがひどくて、ニューヨーク・タイムズでもこの1年で3割近く落ち込んでいる。これらの広告はネットに流出してしまったので、紙媒体に戻って来ることは絶対にありません。ネット広告がV字回復し,ネット事業が新聞社のけん引車になるまで、米新聞社の何社が持ちこたえられるかどうか。淘汰は避けられないでしょう。
中高年層には「現状のコンテンツの方が安心」
――日本の状況を見たときに、日本の新聞社サイトは、どういう風に変わるべきだと思いますか。

田中 一部の新聞社を除いてほとんどは、本気でネット事業に突っ走っているとは思えません。皮肉に聞こえるかもしれませんが、中高年向きの現状のサイトは合理性がある。少子高齢化で増えている中高年層では、「編集者の価値観でつくられた現状のコンテンツの方が安心」という声が主流でしょう。さらに何だかんだ言っても、売り上げは紙媒体の方がネットよりもはるかに多い。コンテンツをつくるのも営業をするのも、ネットの方が手間暇かかって大変なのです。紙と違ってネットでは、24時間対応しなければなりませんし。今の新聞社の人的リソースからすれば、ネット中心の事業展開はしばらく難しいでしょう。

やっぱり、ネットはやりたい人がやるべきです。紙媒体がダメになりそうだから、しかたなくネット媒体をやらされるでは成功しないはずです。意欲的にネット媒体に転身したいという若い人が増えてくればいいのですが。外部の血を導入するのも必要では。オンラインメディアに長けたネットベンチャーを買収するくらいでないとうまくいかないかもしれません。
――そうなると、中長期的にはジリ貧なのでは。

田中 確かにそうですが、「新聞が危ない」のではなくて「紙媒体が危ない」ということでしょう。新聞が提供してきたニュース記事のニーズがなくなっているのではない。何だかんだ言っても、いずれ紙媒体の時代は終わって、ネットが中心になっていきます。「質が高くて信用できるニュースメディアは新聞」と主張する人もいますが、「それが紙でないといけない」理由はどこにもありません。米国では、著名な記者がブロガーに続々と転身しています。多くの優秀な記者がネットメディアにはり付いていけば、ニュースペーパーは消えてもペーパーでない新聞が生き続けるのでは。
田中善一郎さん プロフィール
たなか・ぜんいちろう 1945年、兵庫県生まれ。68年、大阪大学工学部卒業。同年、コンピュータメーカーに入社し、情報通信システムの開発に従事。74年、日経マグロウヒル社(現・日経BP)に入社、「日経エレクトロニクス」記者を経て、「日経バイト」編集長、「日経コミュニケーション」編集長などを歴任。2006年4月、同社を退社。インターネット業界動向をピックアップし伝えるブログとして「メディア・パブ」を執筆中。


新聞を法律で守る必要あるのか 「再販制」という反消費者制度
(連載「新聞崩壊」第6回/鶴田俊正名誉教授に聞く)
2009/1/ 4

読書週間が始まった2008年10月27日、河村建夫・官房長官は記者会見で、新聞の再販制度について触れ、「制度維持することが文字・活字文化を維持することにつながる」と語った。新聞を「自由な競争」から守るという再販制度。新聞は特別に守る必要があるのだろうか。公正取引委員会の「再販問題を検討するための政府規制等と競争政策に関する研究会」座長も務めた、鶴田俊正・専修大名誉教授(産業組織論)に話を聞いた。

オウム真理教の教祖の理論と「同一視」される

「大学や高校で教えている私の家族もニュースはネットで十分と新聞は読んでいません」と話す鶴田名誉教授。教授自身はネット・ケータイでも情報を収集するが、「紙の新聞」も毎日読んでいるそうだ
――新聞の再販制度の問題点を簡単に解説して下さい。

鶴田 再販行為の基本的な問題点は、価格を拘束することによって、流通業の競争を制限し、小売業の営業の自由を奪い、消費者利益に反することにあります。一方、新聞業界は「再販制を廃止すると、価格競争が激しくなる。過疎地では新聞の値段が割高になって、消費者に迷惑をかける」「取材経費が圧縮されて紙面の質が低下し、民主主義の基盤が維持できなくなる」といった理屈を持ち出し、制度の維持を主張してきました。
――最近はどんな動きがあるのでしょうか。

鶴田 1990年代に入り、競争を進める流れが出てきました。化粧品や医薬品など指定再販と呼ばれていたものは90年代中に再販ができなくなりました。新聞についても、私が座長を務めた公正取引委員会の研究会などで議論されました。結局、公取委は2001年3月、「競争政策の観点から再販制度は廃止すべき」だが、まだ「国民的合意が形成されるに至っていない」として、「当面存続することが相当」という見解を発表しました。その後、再販制の弾力的運用云々が議論に挙がっています。しかし、基本的には01年のときから事態は変わっていません。私個人は当時も今も、新聞の再販制は撤廃すべきだと考えています。
――以前国会で、読売新聞の当時社長だった渡辺恒雄さんから、名指しで批判されたそうですね。

鶴田 1996年6月の規制緩和に関する衆院の特別委員会に参考人として出席した渡辺さんが、私を含め3人の学者の名前を挙げ「新聞なんかつぶしてやりたいと思っている、3人のイデオローグがいる」と言われました。私たちの議論を「大々的に報じない」のは、「オウム真理教の教祖の理論を長々と書かないのと同じ」なんていう表現もありました。
しかし、私の記憶では上のようなやりとりを新聞はどこも報じなかった。私たち学者の議論に反対するのは勿論自由です。しかし、日頃は他業種の競争政策に関しては「価格を決めるのは市場や消費者」などと規制緩和を社説などで主張しながら、自分たちのこととなると「社会の公器だから」などと特別扱いを求め、反対意見も公平に扱おうとしない。こんな姿勢には当時から疑問を感じていました。
私たちは、独自性がある新聞なら、再販制をなくしても破壊的価格競争にはならないと訴えていました。「新聞をつぶしたい」なんてとんでもない。新聞が消費者ニーズに敏感になり、その上でがんばってほしいと思っていたのです。
――渡辺さんは、なぜあそこまで強く再販廃止に反対したのでしょうか。

鶴田 新聞の営業政策の根幹を揺るがす、と感じたのでしょう。自分たちの新聞だけを売る、つまり専売店に部数増を強く求め、大部数を維持し、それによって広告の価値をあげていくビジネスモデルですね。そして部数増のため、(販売)拡張団による強引な勧誘や景品配りをする。新聞の中身や価格で競争していないのです。まあ、拡張団の活動は現在では以前のように強引ではないようですが。いずれにせよ、そういう形で築いてきたものが崩れていくと心配されて大反対したのでしょう。
――かなり前の話ですが、「ある学者が新聞とトイレットペーパーは商品として同じだと言い放って新聞を貶めた」という趣旨の新聞記事も出ました。

鶴田 ひどい話です。本来は、新聞側が自分たちの主張する「新聞の公共性」についてきちんと定義付けできていなかったのが問題の本質だったのです。それなのに、東大の三輪芳朗教授の言葉尻を捉え、新聞はゆがめて報じたのです。私は議事録を読んでいます。
1995年に開催した公取の小委員会で、新聞の「特別扱い」が必要な理由などについて意見が交わされました。ある新聞社の販売局長が「新聞は公共性・公益性が高い」と表現したので、三輪教授は公共性・公益性とは何かと質問したのです。すると新聞協会関係者が「誰に対しても、どこに住んでいても確実に、しかも同じように安く手に入るという仕組みは新聞にとって大事だ」と説明しました。別の新聞社関係者は「一般大衆ほとんどの人が使う有益な商品」と答えました。
これに対し三輪教授は、公共性というものが「あらゆる人に行き渡らなければならない」のだとしたら、「例えばトイレットペーパー」も「そうだろう」と指摘したのです。要するに、新聞社側が行った公共性の説明は「(定義として)十分ではないだろう」と言っただけなのです。
――自民党と新聞業界の結びつきが再販制存廃の議論に影響した、ということはあるでしょうか。

鶴田 あると思います。公取委員長人事で自民党有力者と懇意な人が選ばれてから、再販廃止に向けたそれまでの議論の流れが変わったな、と感じたこともあります。
再販制で守られたことが現在の苦境を招く皮肉
――新聞社は、ネット上で無料ニュースを相当な分量配信しています。紙では全国均一価格にこだわる姿勢とは矛盾しているのではないでしょうか。

鶴田 そうですね。新聞の長期購読者が割引などのメリットを受けられない一方、ネットではただや極めて安い料金で見ている人がいる。紙の新聞は読まず、ネットでニュースを見ただけで済ませる人が、若い人たちだけでなく私の周囲でも本当に増えています。特色ある新聞作りをこれまでに進めていれば、紙の優位性はもっとあったはずだと考えています。
――では、再販制の廃止が認められ、各紙が競争的に独自性ある紙面作りを進めていれば、ここまで新聞も苦しくならなかった?

鶴田 そうだと思います。新聞を守るために再販制を守ったつもりなのでしょうが、皮肉なことにその再販制に守られた中で新聞はここまで苦境に陥ってしまいました。再販制をたてに独自性を十分に発揮する競争から逃げてしまったからではないでしょうか。
――外国では新聞と再販制の関係はどうなっているのでしょうか。アメリカはありませんがなぜないのでしょう。

鶴田 最新状況は知りませんが、以前調べたときは、OECD(経済開発協力機構)加盟の中では、日本とドイツだけでした。ほかの国で新聞の再販制がないのは、必要がないからですよ。新聞もほかの商品と同じように売買される、というだけの話です。
――公取の01年の結論では「当面」とありました。新聞の再販制度は、近頃あまり話題になりませんが、決着はもう「存続」でついてしまったのでしょうか。

鶴田 まだ決着はついていないと考えています。新聞の特別扱いはおかしい、という考え方は底流として根強くあります。いずれまた公取は問題にせざるを得ない、と見ています。しかし、新聞社とコトを構えるのは相当エネルギーがいることなので、よほど公取のトップに腹の座った人がつかない限り、難しいかもしれません。
<メモ:再販制度と新聞>
再販売価格維持制度。製造業者(新聞社)が小売業者(新聞販売店)と定価販売の契約を結ぶことができる。独占禁止法で原則的に禁じられているが、1953年の独禁法改正で新聞や書籍など著作物は例外的に認められ、現在に至っている(法定再販)。新聞の場合、特殊指定(定価割引の原則禁止など)と合わせ、全国どこでも同じ料金という現在の状態が可能になっている。

鶴田俊正名誉教授 プロフィール
つるた としまさ 1934年、東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学院経済学研究科修士課程修了。1988年から2001年まで、公正取引委員会の「政府規制等と競争政策に関する研究会」で座長を務める。その間、「再販問題を検討するための政府規制等と競争政策に関する研究会」の座長にも就任し、公取委への提言をまとめた。現在、専修大名誉教授(経済政策、産業組織論)。社団法人「消費者関連専門家会議」(ACAP)会長。


人件費削るのは安易な方法 経営者はもっとビジョン示せ
(連載「新聞崩壊」第7回/新聞労連・一倉基益副委員長に聞く)
2009/1/ 5

広告収入の落ち込みで経営悪化が目立つ新聞業界。アメリカではすでに、米トリビューン社の破産申請やニューヨーク・タイムズの記者リストラなどの動きが出ている。働いている記者や社員たちの危機意識はどれくらいあるのか。日本新聞労働組合連合(新聞労連)の一倉基益・副委員長に聞いた。

「新しいビジネスモデル」イコール「ネット」ではない

「難しくて簡単に答えを出せない問題が多い」と話す一倉基益副委員長
――2008年の年末一時金(ボーナス)交渉の状況はどうですか。

一倉 08年はマイナスです。大幅ダウンを強いられています。07年もほとんどマイナスでしたが、幅はそうでもありませんでした。
――全国紙と地方紙との差、はあるのでしょうか。

一倉 日経さんだけは何とか…という感じですが、一般的には同じような状況です。
――大幅ダウンの理由は、やはり経営が厳しい、悪いということなのでしょうか。

一倉 新聞産業そのものが、我々が使っている言葉ではありませんが、衰退している、と周りの人は言っています。そう言われてしまう状況ということだと思います。
――その理由を聞かせてください。

一倉 部数の伸び悩み、広告の落ち込み、用紙代の高騰、この3つです。
――大変な状況ですね。新聞社の中にいる人たちは、危機感を持っているのでしょうか。

一倉 我々だけでなく、経営陣の方が(危機感を)持っているし、一般組合員も感じています。体力的には内部留保はある企業が多いのですが、ここ数年は人件費の削減が続いています。

 社員たちは、厳しい状況だということを数字上は理解していますが、どうすればいいかの答えを持っている訳ではありません。特に若い世代は漠然とした不安を持っています。一方で40―50代の中には、「自分たちがいる間は大丈夫だろう」という根拠のない安心感をもっている人たちもいます。しかし多少の差こそあれ、みな共通して、今の給与体系を将来維持できないのではないか、という危機感は持っています。
――そうした厳しい状況に対し、組合ではどう対処しようとしているのですか。

一倉 会社側が「危機だ」と言っている理由もそれなりにわかります。しかし、人件費を削るという安易な方法に手をつけるのは、良くないと主張しています。5年から10年先の経営ビジョンを示すべきだ。財務諸表を公開していくべきだ。こんなことも言っています。新聞社は上場していないので公開の義務がない、というところが多いのですが、財務諸表を分析し、本当に会社に体力がないのかを分析し、反論すべきは反論する、という立場ですね。そのために専門家に分析を頼んでいます。
――日本経済全体が厳しい状況を迎えています。そうした中、会社側へ労組から経営改革の提案をする、というのは難しいのではないですか。

一倉 組合本来の仕事ではないのですが、組合内部にそうした要望があったので、新聞社の新たなビジネスモデルを研究する産業政策研究会という組織を新聞労連内に07年に立ち上げました。しかし、まだ経営の現状をまとめた中間報告をした段階で、具体的にはまだ話せません。09年7月にはまとめたいと考えています。とはいえ、我々は経営者ではありません。雇用を守りながら、という中で答えは出しづらいところがあるのも事実です。報告書として完成品を示せるかどうかはまだ分かりません。
――アメリカでは、ロサンゼルス・タイムズ紙などを傘下に持つ米メディア大手トリビューンが破産申請をしたり、ニューヨーク・タイムズが記者をリストラしたり、テレビを含めリストラの嵐が吹き荒れています。日本も同じ状況になるのでは。

一倉 日本でも十分(同じような事態が)考えられると思います。広告の落ち込みは2007年より08年が大きく、09年はさらに落ちるのは分かりきっています。しかし、いたずらに状況に踊らされることなく、一つ一つできることをしていくしかありません。我々も新しいビジネスモデルについて研究をしていますが、本来の組合の仕事は経営ビジョンを示すことではなく雇用を守ることです。
――ただ、紙からインターネットへの移行を模索する動きが以前からありますがうまくいっていないようです。どう受け止めていますか。

一倉 新聞社の「新しいビジネスモデル」イコール「ネット」ではありません。課金システムを考えてもニュース配信だけでは産業として成り立たないでしょう。大手は過去の記事をアーカイブして有料化していますが、限界があるでしょう。ネットには手をつけない、ということも選択肢として検討すべきだと思っています。確かに、中四国、近畿、九州の地方紙12の社が共同で「釣りタイムズ」という有料携帯サイトを立ち上げ、これが課金システムを使って成功している、といった例はあります。しかし、全国一律でこうすれば、というものはなかなか見つかりません。
新聞社の給料水準について善し悪しは議論してない
――今のままいくと、雇用を守るか賃下げを飲むか、という話になるのでしょうか。

一倉 どう受け止めるかはこれからの議論だと思います。雇用といっても正規、非正規問題も存在しています。新聞業界でも約14%は非正規ですから。非正規の人たちを正社員化すべきだ、という運動方針案を掲げていますが、では人件費がふくらむのをどうするのかという議論も必要になってきます。
――そこは労組としては苦しいところではないですか。正規と非正規を一緒にする場合、リストラ・賃下げが条件ということになりかねません。

一倉 何を選択するのか、ですね。(正社員の)賃下げを容認する、という議論に行き着いた場合は、全体で受け止められるかどうかが問われます。しかし、議論はまだしていません。
――頭の片隅に置きながら、という段階?

一倉 そういうことですね。今は、非正規の人たちについて、きちんと法律に基づいた待遇を会社に求めていきます。
――ところで、テレビや新聞社の給料は高いのではないか、という批判が高まっています。

一倉 外部の人が言うのは自由です。テレビを含めて報道という使命の下に働いてきてこの水準が得られたという背景があります。産業構造として維持できなくなったという場合はともかく、周りから言われたから下げる、ということにはならないと思います。
――確かに報道に携わる人の給料は、不正への誘惑に負けないためにも高くあるべきだ、という議論もあります。高い必要があると考えていますか。

一倉 他産業と比べ高いことは認識していますが、その善し悪しは議論してないし、議論する必要があるかどうかも分かりません。
一倉基益さん プロフィール
いちくら もとえき 1962年生まれ。85年に上毛新聞社入社、広告局に配属。2007年10月から日本新聞労働組合連合(新聞労連)副委員長。新聞労連内の産業政策研究会の担当役員でもある。新聞労連は、全国紙やブロック紙、地方・地域紙、専門・業界紙などの労働組合86組合、約2万5500人が加盟している。労働条件の改善・向上への取り組みだけでなく、取材・報道のあり方を検証する新聞研究活動なども行っている。


「紙」にしがみつくほうが日本の新聞長生きできる
(連載「新聞崩壊」第8回/評論家・歌田明弘さんに聞く)
2009/1/ 6

危機を迎えつつある新聞業界は、「ネット化」に向けて突き進むべきか、それとも、もうしばらくは紙媒体に踏みとどまるべきなのか。「インターネットは未来を変えるか?」などの著書があり、ネットと既存メディアとの関係についての考察を続けている評論家の歌田明弘さんに、インターネットが新聞経営に与えた影響と、今後の見通しについて聞いた。

――いつ頃から、「ネットは新聞経営に影響を与える」という印象を持ち始めたのですか。

歌田 ネットで無料でニュースが読めるようになった時点で、どうなるのかなと思いましたね。ニューヨーク・タイムズは、「ウェブ・メディアの登場をほうっておけば、アメリカの新聞収入の屋台骨のクラシファイド広告(求人などの小広告)が奪われる」というレポートをコンサルタント会社から受けとったことをきっかけにサイトを立ち上げた。なぜやらないといけないかについての経営的な理由がはっきりしていた。日本の新聞社は、なぜネットメディアなのかということが、経営的にはあまりはっきりしていなかったのではないでしょうか。
新聞社の危機はネットメディアの現状と表裏

新聞社のネット事業展開の可能性について語る歌田明弘さん
――「新聞離れ」が指摘されますが、新聞の読者が「ネットに移った」のでしょうか。それとも、単に「読まなくなった」のでしょうか。

歌田 私は出版社出身ですが、毎月4000円の出版物を買ってもらうのは至難の業です。新聞を購読しているのは当たり前みたいな感覚があったときにはあまり考えずにとってもらえたかもしれませんが、90年代以降、家計がどんどん苦しくなり、支出を見直す必要が出てきて、しかもネットでニュースを手に入れるという代替手段があったとなれば、苦しくなるのは当然です。

いまは苦しいのは新聞社だけではないので、新聞業界以外の人間にとっては「ネットの登場で苦しい業種がもうひとつ出てきた」ぐらいのことともいえるわけですが、新聞社がなくなることが社会にとってどういう意味を持つかが重要ですね。

新聞社が倒産しても、同じような機能をネットメディアが担うのであれば、社会のダメージはそれほどないともいえるわけです。しかし、少なくとも日本では、さしあたりそう簡単に移行が成立しないのではないかと思います。
――新聞の評価すべき役割を挙げるとすれば、どのようなことですか。

歌田 やはり、社会に緊張感をもたらしているところでしょう。大上段に言えば、「権力の監視」ということになるわけですが、いろいろな軋轢が生じるにもかかわらず、それを社会的な使命だと思って追及し、正確さも損なわないようにするというのはかなりたいへんなことです。あらためてそういうと「そうかな」と思う人もいるかもしれませんが、新聞社以外の人はじつはあまりよくわかっていない。そこがそもそも問題といえば問題です。

新聞社のほうは、当然そうしたことは理解されているはずだと思っているのかもしれませんが、そうではない。

「ブログもジャーナリズム」といった議論がよくされていますが、ジャーナリズムのひとつだと思ってブログを書いている人もいるでしょうけど、そう言われると戸惑う人も多いでしょう。アメリカの場合は、ブログが物書きのデビューのための装置として機能しているところがあると思いますが、日本はあまりそうなっていない。無償の行為であれば、リスクを負うことまで求めるわけにもいかない。「私のブログはジャーナリズムだ」というのは自由ですが、そうであれと要求するのは要求しすぎ、というところもあります。

また会社組織であっても、ネットメディアは経営基盤が弱いところも多いので、取材などにお金をかけたり人手を割いたりすることもできず、多くのリスクを負って記事を書くこともしにくい。新聞社の危機というのはネットメディアの現状の問題と表裏になっているのだと思います。
――元ライブドア社長の堀江貴文さんは、「自分でメディアを立ち上げる」と宣言したことがあります。ネット上で、新聞社や通信社に代わるような動きが出てくると思いますか。

歌田 ネットでやろうと思ったら、お金儲け以外のモチベーションも必要でしょう。堀江氏の場合は、「ちょっと一泡吹かせてやろう」みたいな山っ気があったから自分でニュースをやろうと思ったのかもしれませんが、ただ儲けたいだけなら、新聞社みたいなことをネットでやるよりもほかのことを選ぶのではないでしょうか。

もちろん、かつて経営的な問題はともかく新聞を発行し始めた人たちがいたように、やる人が出てこないというわけではないでしょうが。
紙を全部やめてネット移行すると、10分の1以下の収入になる
――新聞社は、紙媒体からネットにすべてを切り替えてしまうと、収入が大きく減ってしまいますね。

歌田 そうですね。現状では、日経以外はデジタル部門の収入は全体の1%あるかないかのようですから、紙を直ちに全部やめてネットに移行すると、おそらく10分の1以下の収入になってしまうでしょう。無料でアクセスする人が増えても広告価値はそんなには上がらないので、購読料を失えば、ダメージはきわめて大きい。
――かなり読まれていたとしても、お金は沢山取れない。

歌田 アクセス数だけで広告料が決まるとなると、苦しいでしょう。

ただ、行動ターゲティング広告とか、無料にしても登録制を導入するなどして読者プロフィールがわかれば、新聞社サイトの利用者は比較的高収入の人が多いようですから、購買力のある人がアクセスしているということで広告料を高く設定することも可能になってくるかもしれません。

ウォール・ストリート・ジャーナルのサイトの記事は有料のものが多いですが、有料でもアクセスしてくれる読者がたくさんいるということで、広告料金を高く設定できている。完全無料化してしまえば、広告料金を引き下げなければならないようなことも起こってくるようです。
――それは、「ウォール・ストリート・ジャーナルが経済紙だから」という、特殊要因があるようにも思えます。

歌田 経済や、サブカル、音楽といった分野や特定の世代・層に特化するなど工夫が必要でしょう。一般のニュースを扱うだけでは、厳しいでしょうね。
――朝日・読売・毎日のような大手でも、なかなか利益を生むのは難しそうですね。

歌田 おっしゃる通りです。そう考えると、経営的には、大手の新聞社が安易にネットに全面移行するなどというのは考え物で、発想としては後ろ向きでジリ貧かもしれませんが、紙媒体にしがみつくほうが結局は長く生き延びられるのかもしれません。

ネットメディアは広告依存度が高く、そういう意味で不安定な要素が大きい。アクセス数を増やすためにきれいごとばかりを言っているわけにはいかないという側面もある。だから、経営的な意味だけでなく、質を保つという意味でも、購読料を捨てないことがさしあたり最大のリスク管理かもしれません。

ネットに全面移行するなどというのは、新聞社にとってだけでなく、社会にとってもプラスではないでしょう。そうはいっても、経営的に苦しくなってくれば、広告などいろいろな面でいずれにしても質の劣化が起こってくる可能性は大きいわけですが。
――紙でできる限り粘って、ネット以外の、他のやり方を模索する?

歌田 いまさらネットを無視するわけにはいかないでしょうけれど、少なくとも大きな新聞社は、まだまだコスト削減の余地がじつはあるのではないかと思います。米国に比べれば購読もされ、韓国などとは比べものにならないぐらい日本の新聞は信頼されてもいるという恵まれた環境があるので、コスト削減できれば生き延びられる余地は大きいはずです。
もっとも、自分たちが決めたルールが多くて、手を縛っているところもあるのではないかと思います。それでコスト削減ができないとなると、やはり危機は免れられないことになります。

例えば、通信社の配信でカバーできるところはして、それでカバーできないところに集中するというやり方もあるでしょう。ただ、大手の新聞社は、まさに通信社のような仕事をする方向にいよいよ向かう可能性もあります。他メディアも含めた多くのサイトにニュースを配信する。新聞の購読者がいよいよ少なくなり、広告以外の収入源を求めるならば、ニュース配信会社になるというのもひとつの選択肢です。多メディア状況が出現しているわけですから、自社媒体だけに固執する必要はないし、実際のところそれは無理でしょう。
歌田明弘さん プロフィール
うただ・あきひろ 1958年生まれ。評論家。東京大学文学部卒業。青土社「現代思想」編集部、「ユリイカ」編集長をへて、93年よりフリーランス。アメリカ議会図書館の資料の編集などをする一方、メディアや科学技術をテーマにした執筆を中心に活躍。著書に「ネットはテレビをどう呑みこむのか?」「科学大国アメリカは原爆投下によって生まれた」など。「週刊アスキー」にコラムを連載中。


新聞記者は会社官僚制の中で埋没 だから新しいニーズを掬えない
(連載「新聞崩壊」第9回/新聞研究者・林香里さんに聞く)
2009/1/ 7

日本の新聞記者は担当部署が2、3年で変わり、専門記者が育たないとよく言われる。その一方で、「地域の問題など身近な話題もカバーしきれていない」という批判も根強い。ロイター通信で記者経験がある東京大学大学院・情報学環准教授の林香里さんに、望ましい「新聞記者像」について聞いた。

――林さんは、新聞社が「身近な話題を取り上げること」の重要性を強調しています。

林 800万とか1000万部を発行するマンモス全国紙は、組織化されていないニーズを掬(すく)いきれていません。しかし、社会が複雑化、細分化している現代では、組織や制度からこぼれ落ちてしまう部分が多く、その部分にこそ多くの問題が生じているように思います。生活世界における子育てや介護学校の中の問題なども、実際そういうところが多いように思います
もう何十年も政党政治は形骸化していて、労働組合もダメだ、となると、だれが社会のさまざまなニーズを掬い上げるか。そこにはメディアの役割があると思うのですが、現実はなかなかそううまくいかない。むしろ、マスメディアは、何か大きな事件が起きると、ワーッといっせいにその方向に流れていってしまう。「マイノリティの問題を探し出す」とかなんとか言っているどころじゃないのが現実みたいですね。
多くの記者は、「認められないネタは、やらない方がいい」

「おもしろいジャーナリズムを目指すなら、小さくなって、とんがって出直すという選択肢もあるのではないか」と語る東京大学大学院・情報学環准教授の林香里さん
――新聞は、掬いきれていないことが多い、ということですね?

林 新聞で取り上げられると、「新聞が取り上げてくれた!」と喜ぶ当事者はまだまだ多いわけですが、裏をかえせば、普段は目を向けてもらえていない、光の当たっていない問題が多いということです。困難な難病治療、複雑な家庭事情、不公正な労働条件、先の見えない介護労働などなど。たくさんありますよね。新聞については、投書欄もバイアスがかかっている感じがするし。結局、一般読者は新聞に自分たちの存在を認知してもらいにくいことにフラストレーションがたまっている。新聞は規模が大きすぎて、どこか「新聞メタボ」で市民生活に鈍感な状態におちいっているのではないでしょうか。
――新聞は政治・経済に偏りがちで、その狭間を拾うのは不得手。何故そういうことが起こるのでしょうか。

林 トヨタのニュースであれば「トヨタを取材する」正当性(大義名分)の元に取材ができるし、麻生内閣も「支持率が落ちた」となれば、それだけで正当性ができて、すぐに取材ができる。記者クラブもある。ですが、まったく新しいニーズというのは、会社の中では「何故それが大事か」を、まず説明しないといけない。新聞社自体が大きな官僚機構ですから。そうなると、初動にすごいエネルギーが必要になります。多くの記者は、「認められないネタは、やらない方がいい」と、危ない橋を渡らなくなってしまう。外から見ていると、そういう悪循環のシステムができあがってしまったように思えますね。記者一人一人の責任や能力の問題というよりは、記者が巨大システムの中で埋没してしまって自分の意志をもてなくなっている。みんな忙しくて、目先のことに囚われてしまっている。いまはある意味で日本全体がそんな状態かもしれません。でも、記者という仕事は、必ず心のどこかに「余白」を残しておかないと、他人の痛みを感じ取ることができないのではないでしょうか。記者が会社員と違うのは、そういう種類の感受性を要求される仕事だということもあると思います。
――「新しいニーズ」のひとつが、インターネットだと思うのですが、新聞社の中では「ネットは悪の巣窟」のように思われているらしい。

林 本当にイヤだと思うのは、ネットに対する固定的偏見です。ネットにも変なのはありますけど、それを言うなら「マスメディアにも変なのあるでしょ?」って思います。沢山の人が「ネットの弊害が…」みたいなことを言ってきますが、私はそういう単純な図式は絶対に認めたくない。ネットを排除したり、媒体に序列をつけたりすることは、マスメディア側にも百害あって一利なし、です。
――記者が専門性を持つべきだという議論についてはどう思いますか。

林 どの世界にも最低限の知識やスキルは必要ですが、新聞社の場合、ジェネラリストが多すぎるのではないでしょうか。記者さんと仲良くなって「一緒に問題考えようよ」って思っても、2-3年経つとすぐに異動してしまう。もちろん、定期的にローテーションする人がいてもいいとは思うんですけど、情報を扱う企業としては、専門性にも配慮した方がいいですよね。「いまの時代、どんな読み物にもしっかりとした専門性がないと、なんかつまんないですよね。
わかりやすい意味づけをしないといけないという強迫観念
――ロイター通信に3年おられました。英国と日本の記者は違いますか。

林 英米の記者は最後までペンを持っています。日本みたいに一定の年齢になると販売や企画に回されるなんていうことはほとんどありません。書く人は、最後まで書いている。また、生涯ずっと1社にとどまる人は、ほとんどいません。数年したらステップアップのために別の会社に移るのが普通です。担当分野を変えずに、会社を替えるのです。記者は、自分の得意分野で業績をあげ、それをベースに会社を移っていきます。
――地方紙の記者を経て、ニューヨーク・タイムズなどの大手紙に就職する、というケースもありますね。

林 私の知人に、ロイター→ビジネスウィーク→ニューズウィークというキャリアを辿った人もいます。新聞記者は、週刊誌記者ともインターチェンジブル(交流可能)なんです。
――新聞記者自身も迷っています。

林 良心的な人ほど迷っているでしょう。それはやはり、彼・彼女たちが、マスメディアの巨大システムと自分の個人的良心や信条との摩擦を感じているからでしょう。社内では、新しくチャレンジをしようとする士気が低くなっているようだし、また、そういう取り組みを評価するシステムもない。しかし、長期的にはそれを作っていかないと元気な若い人が来なくなる恐れがあります。
――(新聞読み比べサイト)「あらたにす」の新聞案内人をなさっていますね。朝日・読売・日経を読み比べてみて、内容に差はあるものですか?

林 「あたらにす」を見ると、日経は事件報道については落ち着いた報道をしていることに気づきます。事件・事故を、距離を置いて観察している。「経済」という専門性が、そうした冷静さを正当化できるのでしょう。しかし、朝日・読売は、「一般紙」だから、なにか事件・事故が起きると突き放して見ることが出来ず、つい現場で警察と一体となって報道合戦に参加してしまっている。そして、いつも事件に何かわかりやすい意味づけをしないといけないという強迫観念をもっているようです。もちろん、いい意味で意味づけをしてくれればいいのですが、どうもそういう例が少ない。例えば、最近起きたインドのテロ事件では、亡くなった1人の日本人の周辺の話題ばっかり。実際は非常に多くの人が亡くなっているはずなのに、残りの人のことはまったく報じず、一人だけに徹底的にこだわる。これっていったい何なの?!って思いますね。さまざまな現象について、もうちょっと距離をもって報道しようとする姿勢があってもいいのではないでしょうか。プロとして要求されるニュースの選択や価値判断、ぜんぜんされていませんね。思考停止のナショナリズムとセンセーショナリズムが目立ちます。
――新聞はこれからどうしたらいいでしょうか。何かいいアイデアはありますか。

林 ありません。でも、全国紙は部数が1000万とか800万。押し紙があるとはいえ、多すぎますよね。これではどうしても大衆迎合になってしまうのではないでしょうか。近年、全国紙自身が「新聞は変われるか」という問いを立てているようですが、しかしたいていその解には「規模の縮小」という選択肢は入っていません。全国紙は、部数はこのままで、でも変わらなくちゃ、と考えているけれども、ちょっとそれは虫がよすぎるのではないかと思います。いっそ小さくなって、とんがって、出直すっていう選択もあるのではないでしょうか。おもしろいジャーナリズムを考えるなら、そのぐらいの踏ん切りがないとダメなのかもしれません。そうして、日本各地の地方紙も、全国紙のライバルとしてしっかりと自信を取り戻して、いま以上に丁寧に地方や地域からの発信力を強化していってほしいと思います。
林香里さん プロフィール
はやし・かおり ジャーナリズム研究者 東京大学大学院・情報学環准教授。ロイター通信東京支局記者、東京大学社会情報研究所助手、独バンベルク大客員研究員を経て現職。専門はジャーナリズム・マスメディア研究。朝日、読売、日経3社共同の新聞読みくらべウェブサイト「あらたにす」で「新聞案内人」を務める。著書に『マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心』「『冬ソナ』にハマった私たち」など。


ビジネスモデルが崩壊 身を削ぐような合理化が始まる
(連載「新聞崩壊」第10回/ジャーナリスト・河内孝さんに聞く)
2009/1/ 8

「新聞業界の危機」を「外野」から指摘する声は多いが、業界内部からの声が目立つことは多くない。そんな中、毎日新聞社OBの河内孝さんが自身の著書「新聞社-破綻したビジネスモデル」で業界の内情を暴露し、注目を集めている。社長室長や中部本社代表、常務取締役(営業・総合メディア担当)などを歴任し、新聞社経営の表と裏を知り尽くしているとも言っていい河内さんに、新聞業界のビジネスモデルや、生き残りのための方策について聞いた。

「部数がすべてを解決する」は一面真実だった

河内さんは「印刷・販売工程を各社で共通化すべき」と話す
――ここ数年でこそ、新聞は「衰退している」という言われ方をしますが、かつては「儲かる商売」だと言われてきました。何故儲かったのでしょうか。

河内 まず、国際的に見て、日本の新聞業界の特徴は、人口に比べて発行総部数が非常に多いことです。およそ5000万部と言われていますが、他の先進国に比べると大変な新聞大国です。英国も新聞大国と言われましたが、部数は1700万部しかありません。人口が倍近いアメリカとほぼ同じですからね。

一方、新聞社の数は日本では100前後なのに対して、米国は1400。国際的に見ると、日本の新聞社は、1社あたりの発行部数が非常に多い。これは、経営としてはすばらしいことで米国の大学教授の中には、「米国の新聞業界も、日本のように寡占化しないと生き残れない」と言う人もいます。ただ、この寡占化構造は、自発的に作り上げられたものではありません。日本でも、1930年代までは、1500~1600ぐらいの新聞社があったんです。それが、戦争遂行のための総動員体制になって「1県1紙政策」が強制され、様々な新聞が合併させられた結果、昭和18(1943)年には56まで減らされてしまった。これは国家統制という面では困りますが、経営の合理化という点で、良いこともあったんです。過当競争がなくなり、ある意味で、安定した。

戦争が終わっても、寡占化された経営構造は残った。その後の高度経済成長もあって、寡占化しながらマーケットが広がっていった。ある意味、理想的な経営環境だったんですね。そういう意味で、新聞は「儲かる商売」だったんです。
――具体的には、どのような「もうかる仕組み」があったのでしょうか。

河内 新聞社には「部数がすべてを解決する」という言葉もありましたが、これは一面の真実を表しています。高度成長期は、販売店が仮に実際の部数が1000部であったとして、発行本社の方で1200部(200部余計に)送っても、拡張努力でお客さんを増やせた。だから、「押し紙」ではなかった。部数が増えれば、広告単価も上がって、どんどん儲かるような仕組みが出来ていった。

全国販売店2万1000店で、1兆8000億円の売り上げ、そのうち半分近くを販売管理費に使っている。普通の商売だったら成立しませんよ。それでも何とかなっていたのは、広告売り上げが右肩上がりだったからです。広告代理店からの要請を断るのが大変、そういう夢のような時代があったんです。
――では、その「夢のような時代」は、いつ頃曲がり角を迎えたのでしょうか。

河内 転機は、バブル崩壊の頃ですね。現実には、高度成長が終わった80年代に兆候が見えてきたように思います。広告が、90年代から急落したんです。バブルのピーク時に比べると、半分ぐらいにまで落ち込んでいる。不景気が原因であれば、景気が回復すれば広告も戻るはずなのですが、現実にはそうではない。

地域でシェアが高い新聞の多くが、広告収入で前年割れの状態が続いています。これは、広告主が「新聞から他媒体に引っ越しちゃった」という現象です。「広告を出したいが、出せない」という訳ではない。

さらに言うと、2年ほど前に、日経の広告収入が読売に迫るぐらいの勢いで伸びてきたんです。そうなると広告営業上、「300万部と1000万部の違いは何なのか」という話になってきます。つまり、「部数、シェアー=広告単価」という黄金律が消滅してしまったんです。
――それでは、販売収入が落ち込んでいる理由は何でしょうか。

河内 やはり、「新聞離れ」でしょうね。若い人は新聞を読まないし、お年寄りは読んでも購読していない。図書館や公民館なんかで読んでいるんですね。

この原因は、携帯電話の普及にあるのではないかと思います。今、何だかんだ言って、携帯代金は、1世帯あたり2万円はかかるでしょう。その反面、「家庭で情報収集のためにいくら使いますか」という問いには、「2万円以下」という答えが圧倒的に多い。そうなると、減らされる対象は、月4000円の新聞とNHKにならざるを得ない。世帯別の購読率が下がって、販売収入に響いています。一般家庭だけでみると、購読率は50%を切っている、というデータもあります。
――では、こうした状況に対する有効な手立てはあるのでしょうか。

河内 米国の地方に行くと、プリンティング・デポ(printing depo、小規模印刷所)というものがあって、各社が共同で印刷機を使っています。「各社が出来るだけ遅くニュースを入れようとして、印刷機の取り合いが起こるのではないか」という人もいますが、速報性については、「テレビを見てもらえばいい」という考え方です。

日本でも同様の動きが起こっていて、販売激戦区の千葉県で、「朝日新聞を読売新聞の工場で印刷する」みたいなことが行われつつある。昔では考えられなかったことです。

私は、「出版社になりなさい」と言っているんです。一度校了すれば、印刷会社が印刷して、別の会社が流通を担当する。ところが、新聞社は原料を買ってくるところから売るまで、全部やっている。「部数至上主義」時代は上手くいっていたのですが、今後は紙の共同購入まで行くのではないかと思います。さらに、新聞社ごとに配達ルートがあるのがおかしいんです。これを共通化すれば、数百億円単位で合理化できるのではないでしょうか。もっとも共同販売にしますと、押し紙はできませんから販売部数は相当減りますよ。
新聞社のビジネスモデルは凋落している百貨店と同じ
――傘下に持っているテレビ局が支えてくれるから大丈夫、という考え方もありますね。テレビ局との関係についてはいかがでしょうか。

河内 確かに2年くらい前までは、「新聞に比べれば、テレビ局は持ちこたえられるだろう」という考え方もあった。ただ、テレビも広告費の落ち込みが激しくて、赤字に転落するキー局も出てきました。新聞とテレビで「老老介護」をしても仕方がありませんよね。テレビ局ではプロパー社員も高齢化しているし、ナショナリズムもあるから今後、新聞が支配してゆくのは難しくなるのではないでしょうか。

ただ、ある地域の新聞社には100人、系列のテレビ局には50人の記者がいるとして、「ビデオジャーナリスト」といった職業も一般化していることですし、仕事を共通化するという合理化策としては、あり得るのではないでしょうか。
――ネットとの関わりについてはいかがでしょうか。各社とも苦戦しているようですが、収益源にする方法はありますか。

河内 新聞社が大挙してネットに押しかけても、ポータルサイト、ヤフー、グーグルといったプラットフォームに儲けられるだけですよ。ストレートニュースのように、いったん消費者に無料にしたものは、後から「お金くれ」と言っても無理です。そこで、新聞社にしかない情報を発信する有料の専門サイトを作れば良いのではないでしょうか。ロング・テールの考え方です。

例えば、農水省のクラブには大量の資料が配布されて、10以上の業界紙でも、その内容を全部は紹介し切れていない。ネットならば、業界紙よりも詳しい情報を発信できるはずです。「じゃがいも新聞」「まぐろ新聞」とか。細かい、ニッチな情報を掲載するサイトをつくって有料で読んでもらえるようにすれば、可能性はあるのではないでしょうか。「お金を払ってもらえるコンテンツ」は、存在するはずです。

新聞社は、凋落しているデパートのビジネスモデル。「すべてがそこにある」ということは「読みたいものが何もない」になりかねない。オール・イン・ワンの新聞の使命は終わったことを認識して、金になるニッチな細かい情報を配信するような形で出直すべきです。
――最後に、各社の取り組みをどう見ていますか。

河内 朝日は半期ベースで100億円の営業赤字(連結)を計上しました。社内の緊張感は大変なもので、「社内の引き締めのためにやったのか」と邪推するほどです。ただ内部留保が2000億円ある朝日だから赤字が出しやすかった、という面はあると思います。

毎日・産経も、08年9月中間期には、それぞれ26億円、11億円(いずれも単体ベース)の営業赤字を計上しています。

特に毎日新聞について言えば、08年6月に社長が交代したばかりで、「交代時には思い切ったことがしやすい」ということがあります。これを機会に、ウミを出し切りたい、という思いもあるのではないでしょうか。

朝日は、今回の赤字計上で、読売、日経との(かつては「ANY」とも呼ばれた)業務連携に弾みがつくのではないでしょうか。具体的には、「原料の共同購入・印刷工程、販売流通の共有化」が進むでしょう。「身を削ぐような合理化」で、3社合わせれば、1000億円台の経費削減ができるはずです。

朝日は、出版本部を別会社にしたのはえらいですよね。私は、毎日のメディア局を別会社にしようと考えていたのですが、中々上手くいかなかった。別会社になると、競争に放り込まれるので、必死になりますよね。動きが速くなるし、思い切った決断もできます。

新聞という仕事は「印刷工場を持っていて、販売店を持っていないとダメだ」ということではありません。新聞社の本分は「的確にニュースを取材し、意味づけをして送る」ということに尽きるのであって、別に「(活版印刷を発明したとされる)グーテンベルグと心中しないといけない」とは思いません。

問題は、上が持っている危機感を、社全体で共有していないこと。若い人は、構造不況業種と思っているから「危機慣れ」している。なかなか「自分の問題として」経営問題を考えようとしませんね。
<メモ:止まらない広告・販売収入の落ち込み>
日本ABC協会の調査によると、07年4月の段階では811万部あった朝日新聞の部数は08年4月には6万部減少して805万部。毎日新聞は400万部が10万部も落ち込み、390万部になり、ついに「400万部割れ」となった。読売・日経・産経の3社は、ほぼ横ばいだ。
一方、07年の新聞広告費(電通調べ)は9462億円で、06年に比べて5.2%落ち込んでいる。マス4媒体(新聞、雑誌、テレビ、ラジオ)の広告費は3兆5699億円で、前年比2.6%減にとどまっており、新聞広告の落ち込みの大きさがうかがえる。
このような経営環境の悪化を受けて、朝日・毎日・産経の3社が、08年9月中間期(08年4月~9月)の決算で、連結・単体ベースともに営業赤字を計上している。

河内孝さんプロフィール
かわち・たかし ジャーナリスト。1944年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。毎日新聞政治部、ワシントン支局、外信部長、社長室長、常務取締役などを経て2006年に退社。現在、(株)Office Kawachi代表、国際福祉事業団、全国老人福祉施設協議会理事。著述活動の傍ら慶應義塾大学メディアコミュニケーション研究所、東京福祉大学で講師を務める。

ネットで有名になり、新聞が売れる そんな好循環が中国では可能だ
(連載「新聞崩壊」第11回/中国メディア研究者 ミン大洪さんに聞く)
2009/1/ 9

新聞の発行部数が1日あたり1億を超える中国では、共産党幹部を読者とする人民日報などの政府機関紙に、読者離れが起きている。一方、その傘下にあるタブロイド紙は、百花繚乱の状況を呈し、全盛期を迎えている。中国の新聞の現状と未来をメディア研究者のミン大洪さんに聞いた。

政府機関紙は発行部数がどんどん減っている

「政府の管理はきちんとしています」と話すミンさん
――例年のことですが、年末に共産党機関紙の人民日報、国務院機関紙の経済日報は、拡販に力を入れました。それでも、あまり効果が出ていないようですね。

ミン 赤字で印刷した機関紙購読勧誘書が、地方自治体から数多く出されてました。省レベル、市レベル、さらに市の下にある県レベルからも出されています。機関紙を購読せよ、と命令するようなものですが、従う人は少ないようです。
中国では日本のABCのような、新聞発行部数を厳格に調べる機関はありません。自称の発行部数だけです。しかもそれは、新聞社の最高の機密とされています。新聞社の広告収入と直接関連するからでしょう。ただ、自称の発行部数でも、政府機関紙の発行部数は減り、あまり数字を公表しなくなりました。状況は厳しいはずです。
――政府機関紙以外の新聞の方が人気があるわけですね。

ミン 中国では1日に1億部以上の新聞が販売されています。世界中どこにもない規模です。新聞スタンドで自由に売買している新聞は、改革開放政策の中で出てきました。市民の注目を集め、あっという間に政府機関紙の市場を奪ってしまったのです。中国では「経営性の新聞」と呼んでいます。
若い読者は共産党の幹部、政府官僚を対象とする人民日報、経済日報にはほとんど興味はありません。
――政府機関紙はどうしようとしているのですか。

ミン 年末に、国務院の新聞出版署(局)で会議が開かれました。「経営性の新聞」と「公益性の新聞」(政府機関紙など)を分けて議論しました。政府機関紙はおそらく宣伝メディアとしてずっと必要であり、「公益性の新聞」と名前を変えて、残されていくだろうと思います。政府系新聞の発行部数の増加はあまり期待できないが、その傘下にある「経営性の新聞」が伸びれば何とかなるでしょう。
――つまり、人民日報の経営が成り立たなくても、傘下の環球時報がどんどん稼ぐ。それで安泰なわけですね。

ミン 中国には政府機関紙を中心に、85の新聞グループがあります。人民日報の下には若者に人気のある環球時報があります。同じ機関紙である光明日報の下にも、北京市民が愛読している新京報があります。これは、文化、芸能といった情報も盛り込んだ庶民的な新聞です。このように、機関紙の傘下のこれらのタブロイド紙は発行部数も多く、広告も入っていて、いずれも稼ぎ頭です。そのせいで、機関紙自体の経営も安泰です。
新聞のコンテンツは即刻ポータルに掲載される
――就職、火事の情報、伝染病の流行、盗難、俳優の私生活など、政府機関紙ではほとんど報道しない内容、市民の生活にかかわりのあるニュース、面白いニュースを流しています。しかし、一線を超えて、政府の見解と違う記事が出かねません。

ミン 政府の管理はきちんとしています。「経営性の新聞」でも、政府の見解と違う記事を作ってしまったら、それは政府機関紙の経営者、さらにその傘下の経営性新聞の経営者は責任を取らされると思います。
――「経営性の新聞」の経営は今後も安泰でしょうか。

ミン それは保障できません。競争は激しくなっているし、不動産や自動車産業にかげりが出たので、2008年の下半期から状況は一変しました。とりわけ広告について今年はどうなるか、あまり明るい展望は望めません。
――中国の多くの若者は、インターネットに熱中しています。

ミン シナネット(sina net)、ソーホーネット(Soho net)など中国では巨大なポータルサイトが発達しています。新聞で公表したコンテンツは即刻そこに掲載されます。いつでもどこでも読めます。一つのポータルサイトがあれば、なんでもそこから情報を引き出せます。
――外国では記事を全部ネットに掲載されると、新聞が売れなくなるという現象が起きています。

ミン 中国では状況は少々違います。若い読者はまずインターネットでニュースを読みます。自分の好きな記事を検索して読みます。その一方で、彼らはスタンドで新聞を買い、地下鉄でも自宅で読みます。インターネットに記事を掲載してしまうと、新聞が売れない、という現象はないのです。将来はわかりませんが。
新規創刊する新聞は、インターネットからも情報を発信しています。インターネットによって有名になり、今度は新聞の方がどんどん売れる、という好循環ができています。
――ネットに書き込みもする人がずいぶん多いですね。

ミン 昔、「大字報」(壁新聞)でしたが、今はインターネットの書き込みです。自由に発言しています。
――ただし、取材ができるポータルサイトは少ないですが。

ミン それで新聞は助かっている。ポータルサイトは掲載された記事をアップしていくだけです。新聞への依存度が高まっている、といってもおかしくありません。
ミン大洪さん プロフィール
Min Da-hong 1946年生まれ、中国社会科学院新聞研究所教授、中国インターネットメディア協会長。1981年から中国社会科学院新聞とコミュニケーション研究所に勤務、80年代にはコミュニケーション技術の、90年代からはインターネットの研究をした。インターネットおよびデジタルメディア研究室部長。
主な著作は、『数字伝媒概要』(デジタルメディア概要 2003年、復旦大学出版社)、『互聯網対社会政治影響研究』(インターネットが社会政治に対する影響の研究 2004年、国家社科基金項目)など多数。

再販、記者クラブ問題 新聞協会「当事者ではない」
(連載「新聞崩壊」第12回/新聞協会・新聞社の見解)
2009/1/13

連載の最後に当たり、2008年末から始まった連載の中で取り上げられた問題点について、「当事者」の新聞社や新聞協会はどう考えているのか聞いた。J-CASTニュースの取材に対する回答をまとめた。

「各クラブが自主的に運営している」
記者クラブと押し紙、再販制の問題については、社団法人「日本新聞協会」(会長、北村正任・毎日新聞会長)に取材した。同協会は、全国の新聞社や通信社、放送局140社が会員となっている。阿部裕行・総務部長と國府(こうの)一郎・編集制作部部長、富田恵・経営業務部部長らが交代しながら答えた。

まず協会の基本的な立場を「経営者団体でもなく、いわば倫理団体として発足した。ここで何かを決定する組織ではない」と説明した。

最初にJ-CASTニュース側は記者クラブ問題について質問した。記者クラブに関しては、協会の「編集委員会の見解」が公表されている。2002年にまとめられ、その後06年に一部改定されている。「見解」では、「取材・報道のための自主的な組織」などと記者クラブを位置付けている。また、「記者クラブは『開かれた存在』であるべき」「報道活動に長く携わり一定の実績を有するジャーナリストにも、門戸は開かれるべき」などとうたっている。

協会側は記者クラブについて、次のような説明をした。協会が示した「見解」は強制的なものではなく、全国にある各記者クラブが「見解に沿って」自主的に運営している。基本的にはクラブごとにルールをつくっている。クラブは、会員かオブザーバーかの違いはあるが「海外の方を含めて開放している」。勿論条件はあり、報道という公共的な目的を持ち、クラブ運営に支障がないことが必要だ。クラブ運営に支障がない、とは「取材活動を阻害しないこと」だ。記者クラブの数がいくつあるのか、合計何人が加盟しているのかは、許認可制ではないこともあり把握していない。ほとんどの記者会見には、記者クラブ加盟社以外の参加も認めているようだ。

以上の説明からすると、記者クラブとは、A省庁記者クラブやB県警記者クラブといったクラブごとに自主的な判断をする独立した組織ということのようだ。新聞協会も口出しできないし、ある1つの新聞社が決定権をもっているものでも勿論ない訳で、いわば治外法権的な組織といった所だろうか。また、オブザーバー参加とは多くの場合、会見に出ても質問する権利はないことを意味する。同協会が「見解」の中でもうたっている記者クラブが「『開かれた存在』であり続ける」という主張に対しては、元ニューヨークタイムズ東京支局取材記者で現在フリージャーナリストの上杉隆さんは、実態との乖離を指摘し、「ほとんどブラックジョークと見紛うほどである」と批判している。

「活字離れで国民のリテラシー低下が問題化」
次は押し紙問題について質問した。押し紙とは、新聞社が新聞販売店に対し、実際に読者に配られている部数より多い新聞を強制的に納入している、とされる行為だ。部数が多い方が広告価値が高い、という背景がある。その存在を指摘する声は少なくないが、独占禁止法で禁じられている行為でもあり、新聞社側は存在を認めていない。同協会は、次のような立場を明らかにした。

押し紙については、独占禁止法で禁じられ、公正取引委員会の告示で規定されている。独占禁止法を扱っているのは公正取引委員会で、「従って、新聞協会が取り扱える事項では毛頭ありません」。押し紙問題は、新聞協会が扱う事項ではない。「ノーコメントではなく、コメントできる立場ではない」

要するに、協会は当事者ではないので公正取引委員会に聞くべきでは、ということのようだ。そこでJ-CASTニュースは公正取引委員会に取材した。取引企画課によると、押し紙があった事実を認定して、押し紙をやめなさいという審決が1度出ている。1998年に北國新聞(石川県)に対して出された。ほかの新聞社はどうなのだろうか。「押し紙の事実に関して具体的な情報提供があれば、当然検討する」。実際に具体的な情報提供が現在あるのかどうかは、「具体的な案件は答えられない」としている。そして、一般論として、押し紙のような「優越的地位の濫用」事案は、被害者側(押し紙問題でいえば販売店)が、(新聞社からの)「報復を恐れて情報提供をしにくい状況はあるのではないか」との見方も示した。

最後は、再販制度について。再販制がなくなると新聞の価格競争が激しくなり、民主主義の基盤が揺らぐ、と新聞業界は制度維持を主張している。一方、制度を廃止し他業種と同じように自由に競争した方が消費者の利益になる、とする経済学者らの指摘がある。同協会は、再販制度と特殊指定を合わせ、広報資料を紹介しながらこの問題に対する見方を次のように示した。

公共性という点では新聞もトイレットペーパーも同じであると、一部の経済学者から指摘があった。しかし、新聞は民主主義の維持・発展と深くかかわる商品という点が他の商品と異なる。今のように同じ新聞はどこにいても同じ価格で提供できることが、民主主義社会の健全な発展を支える基盤となっている。新聞は、国民の「知る権利」に応える極めて公共性の高い商品性がある。制度がなくなり定価の割引が始まると、過疎地や高層住宅への配達に上乗せ料金が課されたり、配達そのものを拒否されたりしてしまうこともあり得る。そうした事態になれば言論の多様性確保の観点からも問題で、ゆえに再販制度と特殊指定は必要である。また、「活字離れによって国民のリテラシーが低下しているということが半ば社会問題化して」きている中、国も文字・活字文化振興法を定めた。こうした流れに逆行するような再販制・特殊指定廃止には反対だ。廃止を主張する立場からは「競争がない」と主張されるが、同じA新聞ならどこでも同じ価格ということであって、例えばA新聞とB新聞とは激しい競争をしている。現在の制度のもと、全国で5紙以上の新聞が読めるという多様性が確保されていることは正当に評価されていい。94%の新聞は戸別配達され、9割以上の人が戸別配達を支持している。紙の優位性が支持されている。

協会側の説明からは、同じ新聞なら全国どこでも同じ価格ということへのこだわりが垣間見える。再販制・特殊指定がなくなれば、都心部の人は今よりも安く新聞を買うことができるかもしれないが、過疎地などで値上げや配達拒否の動きが出て民主主義の基盤が揺らぎかねないので今の制度が必要だ、ということのようだ。しかし、各新聞社はインターネットで無料で多くの記事を配信している。「同じ価格」へこだわる姿勢と矛盾はないのだろうか。

この疑問に対して、協会側は、各新聞社がインターネットにどう対応するかは、各社の経営判断であり、紙の新聞を前提とした再販制度とは、リンクしないとの考えを示した。また、J-CASTニュース側は「例えば、東京で読む朝日新聞と大阪で読む朝日新聞、九州で読む朝日新聞は、掲載されている記事が全く同じという訳ではない」「特に1面と社会面では、例えば九州では載っているが、東京では1行も載っていないことも、その逆もある」と指摘した。その上で、東京の朝日新聞も九州の朝日新聞も「同じ新聞なら同じ価格」という文脈の中では、「同じ新聞」なのかと質問した。これに対し、協会側は「それは同じ新聞だろう」と説明した。

「見通しは公表しておりません」「回答を控えさせていただきたい」
また、J-CASTニュースは大手新聞社4社にも、今後の経営についての見通しを聞いてみた。具体的には(1)販売・広告収入は、どのように推移すると予測しているか。下落する場合、その対策はどうするのか(2)ネット事業で、どのようにして収益をあげるつもりなのか(3)新規事業を立ち上げて収益源にする予定はあるのか(4)仮に、これらの施策が不調に終わった場合、人員をリストラする予定はあるのか(5)中長期的に見た場合の事業の継続可能性はどうか、の5点について、質問状を送付した。

各社の回答は、経営の見通しについて公表を拒む姿勢を浮き彫りにするものだった。

例えば朝日新聞社は、質問項目別に回答を寄せたが、その内容はというと、(1)(2)については「見通しは公表しておりません」(3)は「様々な可能性について検討しております」(4)は「仮定の話については回答できません」(5)は「中長期的に見て事業の継続は可能だと考えております」と、事実上の「ゼロ回答」。

毎日新聞社は、

「当社は株式を上場しておりませんので、毎年6月の株主総会で株主に報告している事業報告以外に経営情報は公表しておりません」と、非上場であることを理由に、今後の見通しを明らかにしなかった。その上で、今後の取り組みについては「経済状況が厳しい中、当社は『論争のある』『分かりやすい』『役に立つ』をブランドの柱に、生活者の視点に立ち、読者に信頼される新聞を目指すとともに、デジタルメディア、出版、事業、放送、不動産部門などを含めたグループ経営の充実に力を入れていきます」
とのみコメント。具体的な内容については明らかにしなかった。

残りの2社は、

「質問内容が、公表していない事柄についての項目ばかりなので、今回については回答を控えさせていただきたい」(読売新聞社)

「今の時点でお答えできることはございません」(日経新聞社)
として、質問に回答すらしなかった。

2008年12月22日月曜日

【外交文書公開】 沖縄返還&核持込

<外交文書>米「核」寄港の容認を示唆 65年に佐藤首相
12月22日0時0分配信 毎日新聞
 
65年1月に佐藤栄作首相がマクナマラ米国防長官(肩書は当時)との会談で、核を搭載した米艦船の寄港を容認したと受け取れる発言をしていたことが、22日付で外務省が公開する外交文書で判明した。核の持ち込み問題で日米間に「密約」があったことをうかがわせる史料が、日本側にも残されていた。

 同月、首相として初めて訪米した佐藤首相は、13日にマクナマラ氏と45分間会談した。会談要旨によると、首相は中国が前年に行った核実験に触れ、「戦争になればアメリカが直ちに核による報復を行うことを期待している。(略)洋上のもの(核)ならば直ちに発動できるのではないかと思う」と述べた。マクナマラ氏は「洋上のものについてはなんら技術的な問題はない」と答えた。

 ただ佐藤首相は、日本の核兵器所有や使用には「あくまで反対である」と述べ、核兵器の日本の陸上基地への持ち込みは「発言に気をつけていただきたい」と否定的に語った。

 日米間の核問題に詳しい我部政明・琉球大教授(国際政治学)は、有事には日本近海での米軍の核搭載艦船の迅速な行動を佐藤首相が望んだと解釈できる、と指摘。これらの艦船が補給などで日本に寄港することになり、「首相は、核搭載艦船が事前協議の対象外として寄港することを前提に話したとみられる」と分析する。

 また会談でマクナマラ氏は、「日本がその防衛産業のなしうるような軍事的援助をアジアの諸国に与えることはできないであろうか」と、日本の武器輸出の可能性を質問。首相は、日本が生産していた宇宙開発用ロケットに言及して「必要があれば軍用にも使うことができる」と述べた。

 首相は「中共の核爆発の性質については昨夜(CIAから)説明を聞いた」とも発言。米中央情報局(CIA)が首相に中国の核実験の実態を説明していたことも判明した。首相がCIAに「ソ連、中共の地上設備」の衛星写真を示されたことは首相自ら日記などで記していたが、その一端が具体的に分かった。我部教授は「日本の情報収集力のなさを知る米国側は、国際情勢での首相の独断的な理解や不用意な発言をなくすため、CIAの情報を与えていた」と解説する。

 99年に公開された米側史料では、日米両国は60年の安保条約改定の前に、核兵器を搭載した米軍艦船の日本寄港などは、条約の付属文書で定める事前協議の対象としないと、秘密裏に合意していたことが判明している。

 佐藤首相は74年、非核三原則の提唱などが評価され、ノーベル平和賞を受賞した。

 ▽鈴木量博・外務省日米安全保障条約課長の話 日米間に「核密約」はない。佐藤首相の発言は、戦時において、洋上からの米の核抑止力の提供に一般的な期待を表明したものだと考えている。【鈴木英生】



【外交文書公開】核武装を「カード」にした佐藤首相の瀬戸際政策
2008.12.22 00:52 産経新聞

今回明らかになった外交文書は、佐藤栄作首相が「瀬戸際政策」を貫ける、わが国では希有(けう)な政治指導者であったことを、あらためて印象付けた。

 この瀬戸際政策の背景にあるのは、マクナマラ国防長官との会談3カ月前に成功した中国の核実験だが、これを機に米側に生じた「日本の核武装」への疑念を、佐藤氏は外交の切り札に利用した。佐藤氏が核武装を否定(私的には肯定)してもなお、米側は疑念を解かない。だからこそ、佐藤氏は、マクナマラ国防長官との会談前日のジョンソン大統領との会談で「核の傘」の保証を要請し、大統領に応じさせた。

 そして佐藤氏は、マクナマラ氏との会談で、たとえ通常兵器であっても、中国の日本に対する軍事行動には、「日本」ではなく、米国の核兵器で即時報復する方針を求めた。これは米側の懸念を逆手に取ったものだ。米戦略が明言されれば、これを中国側に認識させ、中国の侵攻を抑止することができるという計算が背景にある。

 実は、後の沖縄返還(1972年)に至る過程でも、佐藤氏は「核武装」を利用した。「核抜き・本土並み返還」を国民に約束する一方、米軍が沖縄を撤退すれば日本が核武装する雰囲気を醸成した。その結果、米軍基地・艦艇への「核持ち込み」と「核武装」は取引され、67年に佐藤氏が公表した「非核三原則」へとつながっていく。65年の段階で、マクナマラ氏に核持ち込み黙認を示唆したことは、その伏線であったといえよう。 

 「非核三原則」は、核兵器の「製造・保有・持ち込み」の禁止であった。その一つ「持ち込み」は積極的に黙認してきた。「非核」に加えて専守防衛という制約下では、他に国を守りようがないからだ。

 一方で「製造・保有」は佐藤内閣時代、関係組織で極秘裏に検討しており「はったり」ではなかったが故に、米国の譲歩を引き出すことに成功した。

 佐藤氏は「核武装論者」に限りなく近い「核の傘論者」であったのだ。

 核を「議論せず」を加えた「非核四原則」で、国は守れないことの歴史的証明である。(野口裕之)



【外交文書公開】戦時は中国に即時「核報復を」 佐藤首相が昭和40年に発言 マクナマラ米国防長官と会談時
2008.12.22 00:06 産経新聞

佐藤栄作首相が1965(昭和40)年1月、首相として初訪米した際のマクナマラ国防長官との会談で、中国と戦争になった場合には「米国が直ちに核による報復を行うことを期待している」と、先制使用も含めた核による即時報復を要請していたことが、22日付で外務省が公開した外交文書で明らかになった。


「瀬戸際政策」貫く 稀有な存在だった佐藤首相

 首相は「洋上のもの(核)ならば直ちに発動できるのではないか」と、核の持ち込み黙認とも受け取れる発言もしていた。首相が前日のジョンソン大統領との首脳会談で「核の傘」の保証を求めていたことはすでに明らかになっているが、先制核使用まで念頭に置いていたことが新たに分かった。

 マクナマラ長官との会談は、首相の宿泊先のブレアハウス(迎賓館)で行われた。首相は、日本は核開発能力を持つが核兵器製造の考えがないことを強調。米側に核の持ち込みに慎重な発言を求めたが、「戦争になれば話は別」と、米国が直ちに核で報復することへの期待を表明した。さらに洋上の艦船にある核兵器なら即時使用できるのではないかとの認識を付け加えた。


【外交文書公開】マクナマラ米国防長官とのやりとりの要旨
2008.12.22 00:30 産経新聞

佐藤栄作首相とマクナマラ米国防長官の主なやりとりは次の通り。

 長官 中国の核爆発(核実験)の性格が問題で、今後2、3年でいかに発展するかは注目に値する。問題は日本が核兵器の開発をやるかやらないかだ。

 首相 日本は核兵器の所有あるいは使用についてあくまで反対だ。技術的には核爆弾をつくれないことはないが、フランスのドゴール大統領のような考え方(独自の核兵器開発)は採らない。陸上への核兵器持ち込みについては発言に気を付けてほしい。もちろん、戦争になれば話は別で、米国が直ちに核による報復を行うことを期待している。その際、陸上に核兵器用施設を造ることは簡単ではないかもしれないが、洋上のものならば直ちに発動できるのではないかと思う。

 長官 洋上のものについてはなんら技術的な問題はない。日本の政治的な空気も漸次変わるのではないか。

 首相 日本が核兵器を持たないことは確固不動の政策だ。防衛産業育成の問題があり、差し支えないものは日本でつくりたい。


【外交文書公開】対中政策で仏に仲介要請 ニクソン訪中前に日本政府
2008.12.22 00:38 産経新聞

22日付で外務省が公表した外交文書で、1972(昭和47)年2月のニクソン米大統領訪中の直前に開かれた同年1月の日仏協議で、福田赳夫外相は大統領訪中後の明確な対中政策を示さない米国への苦言とも受け取れる発言をする一方、フランスに日中間の国交正常化の仲介を要請していたことが分かった。

 福田氏は中国をめぐる日米の「アプローチの違い」を強調。日本の頭越しに大統領訪中を準備した米政府への複雑な思いや、米中接近に焦りフランスを引き込もうとした様子がうかがえる。

 72年1月17、18両日の日仏協議で、福田氏はシューマン外相に対して、同月上旬に米国で開かれた日米首脳会談で米側がニクソン大統領の訪中について「訪問すること自体に意義がある」と説明したことを紹介。同時に「日本は日中国交正常化という明確な目標を持ち、そのために政府間の接触を行うことを考えている」と述べ「(米国と)アプローチの方法は異なる」と繰り返した。

外交文書:日本漁船拿捕「補償はバナナで」 中華民国打診
毎日新聞 22日
 
1954年に中華民国が日本に対し、拿捕(だほ)した日本漁船の補償金をバナナで支払う打診をしていたことが、22日付で公開された外交文書で明らかになった。「バナナ補償」は実現しなかったものの、当時の日本でバナナは高級品。打診を受けた議論は文書では判明しなかったが、心が動いていた可能性もありそうだ。

 日本政府は当時、台湾に逃れた中華民国政府を中国を代表する合法政府として承認していた。

 第二次世界大戦後、日本の船は連合国軍総司令部(GHQ)の「マッカーサーライン」によって活動領域が制限されており、47年11月~49年8月に東シナ海で中華民国に2隻が撃沈され、30隻が拿捕された。その後、日本政府は漁船の水揚げに相当する額の補償を求めていた。

 外交文書によると、こうした中、54年2月に中華民国側から一つの打診があった。

 「32隻のうち2隻の返還が決まったとの話がある。補償額は1隻当たり15万台湾ドル相当のバナナ。市場で買い付けたバナナを日本に送り、売上金をもって補償とする」。在日大使館から入った連絡はこういう内容だった。

 日本が求めた補償額が2隻で7600万円だったのに対し、当時の15万台湾ドルは360万円で、かなりの差があった。ただ、当時の日本でのバナナ1箱(45キロ)の市場価格は約2万5000円、輸入価格は約2700円。15万台湾ドルで購入できる60トンを売れば約3330万円となる計算だった。

 外務省は、バナナ補償不発の後、何らかの決着が図られたとみているが、記録は残っていないという。【篠原成行】

2008年12月18日木曜日

【遊びメモ】 安曇族

 時空の彼方に没し去ってしまった安曇野の古代風景・・・・峻厳な北アルプス山麓で営まれた「みすずかるまほろば安曇湖伝説」・・・・舟の民族、安曇族が辿った遙かなる安曇桃源郷への旅路・・・・そしてやがてくる舟の民族と馬の民族の激闘、「八面大王伝説」・・・・安曇と出雲に引かれた「点と線」・・・・飛鳥と安曇をつなぐ「時空のトンネル」・・・信濃善光寺と諏訪大社に秘められた「謎の真相」とは・・・・etc.
 「直観的場面構築手法」をもって大胆に描写する安曇野の古代史仮説

穂高神社境内に立つ安曇比羅夫の像
安曇比羅夫(阿部比羅夫)
 大将軍大錦中阿曇連比羅夫は、天智元年(662年)天智天皇の命を受け、船師170艘を率いて百済の王子豊璋を百済に護送、救援し王位に即かす。天智2年、新羅・唐の連合軍と戦うも白村江(朝鮮半島の錦江)で破れ、8月申戌27日戦死する。 9月27日の例祭(御船祭)の起因であり、阿曇氏の英雄として若宮社に祀られ、英智の神と称えられている。 伝統芸術である穂高人形飾物は、阿曇比羅夫と一族の勇姿を形どったものに始まると伝えられる。 (境内石碑より)

(一)舟の文化

 筆者は技術研究所を経営しているのであるが、県外の顧客に会社の住所にある安曇という文字を告げるのにいつも苦労する。「あづみ」がなぜに「安曇」になるのかが漢字文化に慣れている日本人をもってしても「ピン」とこないのである。

 安曇野の古代風景を語るには、まず日本民族成立の風景を描写しなければならない。日本文化の根源には「舟の文化」と「馬の文化」のふたつがあると言われる。舟の文化は南方系民族の文化であり、馬の文化は北方系民族の文化である。

 縄文の原住民が狩猟採集生活をする日本に稲作文明を携え南方から舟に乗ってやって来た人々がいる。日本人は「しゃがむ」という習性をもっている。田んぼのあぜ道で隣人と話すにしゃがみ、最近では夜更けの街の歩道で若者がしゃがむ。このしゃがむという習性は西欧や中国にはないものであり、特にインドシナ半島のタイやベトナムの人々に多く見られる。遺伝的視点で考えれば日本にたどり着いた南方系、舟の民族とはこのインドシナのタイやベトナムの人々であったかと思われる。

 この地方は古代より「タオイズム」の精神が伝わってきた風土をもつ。タオイズムはその地で「ヒンズー教」を、中国に伝わり「道教」を、その道教から「密教」を創始することにつながる。タオイズムとは陰陽の2気によって宇宙が構成されているという思想であり、その宇宙は「太極」と呼ばれる。
 ヒンズー教の男女交合神は現代感覚で見れば何と淫靡な像と言うことになるかもしれないがこのタオイズムで見れば、それこそが宇宙の姿なのである。密教の一教典である理趣経は奈良東大寺において毎日あげられるお経であり、この理趣経が男女の交合を述べた内容であることを知る人はあまりいない。

 このタオイズムの精神から考えられる人間像とは争いを好まず平々凡々のんびりと生きる自然人の姿である。住み着いた稲作文明を基とする南方系民族のこの穏やかな文化は「舟の文化」と呼ばれる。

 また話は脇道にそれるが密教を日本で創始した空海こと弘法大師は四国讃岐の人であり、幼名を「真魚(まお)」と言った。空海という名前もそうであるが彼の周りには「海のイメージ」が色濃く漂っている。青年僧空海が道を求めての山野彷徨の途上、奈良橿原にある久米寺で密教の一教典に巡り合う。瞬間に彼は仏法の神髄は密教にありとすべてを悟達したと言われている。後に中国唐の都、長安におもむき当時の密教座主、恵果に対面した彼は即座に伝法灌頂を授けられている。恵果はこの伝法を待っていたかのごとく、その後まもなくして静かに黄泉に旅立った。この時をもって密教の法灯は中国から日本に渡ったのである。
 これらの経過から素直に考えられることは空海自身がインドシナから密教の源流タオイズムの精神を背負って日本に渡ってきた舟の民族の末裔ではなかったかという推理である。
 また讃岐にある金比羅宮は日本では珍しく舟を祀った宮寺である。舟の民族は気候温暖な瀬戸内の讃岐に多く住み着いたということであろうか。

(二)馬の文化

 こうして穏やかに暮らしていた人々にもやがて転機が訪れる。「馬の文化」の到来である。

 馬の文化は北方系民族、つまり中国大陸の北部アルタイ民族に源を発する騎馬民族であろう。この北方系民族は南方系民族と異なり好戦的で気が荒い。これは温暖と寒冷の両者の気候の異なりがこの人格形成に多大に影響したものと考えられる。

 この騎馬民族が朝鮮半島を南下し日本に渡って来た。そしてそこに暮らす穏やかな南方系、舟の民族を圧迫する。この民族紛争の勝敗は明らかであり、好戦的で気が荒い北方系、馬の民族が勝利をおさめる。

 この間のくだりを語るものが日本神話に遺る「国譲りの話」なのではないかと私は考えている。また出雲の国に遺るさまざまな神話はその痕跡であろう。出雲の沖合いにある隠岐島で最後をとげた「大国主尊(おおくにぬしのみこと)」こそ舟の民族の族長であったのではないか。この尊に漂う徳性を備えた穏健でゆったりとした人格こそタオイズムから発生する南方系、舟の民族の特徴である。

 国の主権者はこの時をもって馬の民族に移り、その後この国には「馬の文化」が展開する。神話時代以後、日本史に史実として登場する大和朝廷とはこの北方系、馬の民族の末裔が樹立した政権である。現在の天皇家はこの血筋をくむものであるとされる。

 しかしこのふたつの異質の文化が極東の島国で出会い融合したことは歴史的に大きな意味をもった。日本民族の優秀さはこの文化の二面性の融合にこそある。

 日本人は温厚と過激の両面をもつ。切腹や神風特攻隊のような過激な行動は世界にも例がない。また広島、長崎に原爆を落とされても米国を強く恨むようなことをしない穏健さも兼ね備えている。
 また緻密さといいかげんさの両面をもつ。日本の工業製品の品質は世界一の緻密さから生まれ、日本の政治外交姿勢はまことにファジーそのものである。

 文明的に立ち遅れていた極東の島国が明治維新以来の近代化をまれにみる短期間で成し遂げ、GNP世界第2位になるほどに発展したことは歴史的奇跡であると言われる。この原因もまたこの南方系「舟の文化」と北方系「馬の文化」の融合にあったとすることができよう。

 日本人の顔もこのふたつの民族の顔が併存する。つまり「狸顔」と「狐顔」である。前者は南方系、後者は北方系である。この○と△の顔かたちでおおよその人格が確定する。それは狸と狐に代表される性格の違いであり、遙か時空の彼方にあった南方系と北方系の民族の血の異なりである。
 日本を訪れる南方系のベトナムやタイの人々の顔や北方系の韓国の人々の顔を眺める時、我々とのあまりの類似性に驚くのは私だけではあるまい。それは日本民族が背負った遠い過去の記憶の断象である。

 また日本人の宗教観も異質である。仏教あり、神教あり、キリスト教あり、道教あり、儒教あり等々。これらの宗教のすべてを許容する人間性はこれまた世界に例を見ない。この人間性もこのふたつの文化の融合によるところ大であろう。

(三)文字の表象

 日本の古代風景の説明はこのくらいにして、いよいよ安曇野の古代風景を描写してみよう。

 先年亡くなった歴史作家、司馬遼太郎氏によれば「安曇」とは海洋民族の一氏族であると言う。この海洋民族こそ南方系、舟の民族であり、この氏族が内陸に移り住み地名として痕跡を遺したのである。これと同様な地名として伊豆の「熱海」、東海の「渥美」をあげており、ともに舟の民族の足跡を地名として遺している。私はこれに「奄美」も入るであろうと考えている。九州と沖縄の間にある奄美諸島の奄美である。この島に伝わる風習や儀式の多くにインドシナ文化の特徴であるタオイズムが漂う。

 私は文字は時空の窓であると考えている。漢字は万物事象の形から創られた象形文字であり、文字自身が意味を顕わす「表意文字」である。かたや西欧の文字は「表音文字」と呼ばれ、音を顕わす文字でしかない。
 漢字は現代人が忘れ去ってしまった幾つかの過去時空の物語を動物の化石や文明の遺跡と同じようにその文字の中に遺している。難しく言えば時空が文字の中に「表象」しているのである。

 文字を眺めているとその文字という窓から過去時空の風景がかいま見えてくる。つまり、現代の日本人がピンとこない「安曇」という文字には安曇野が辿った過去時空が表象しているのである。

 日本文化の中核を成す漢字文化はこの意味で貴重な文化遺産である。

 安曇野の人々の祖先は舟の文化を背負いインドシナ→奄美→渥美→熱海→安曇と遙かな歴史を旅をしてきた性格穏やかな南方系民族である。

 安曇野のほぼ中央に位置する穂高神社では舟が祀られていると聞いた。この島に渡った原因でもある舟を祀るのに何ら疑問はなく、これもまた安曇人が南方系、舟の民族であることの痕跡であろう。

 安曇野には漢字よりも古い日本最古の文字「アヒル文字」が刻まれた遺石があることをかって何かの本で読んだことがある。私は未だその遺石を目にしてはいないがおそらくその文字形は現在のタイ語などに表象されるヒゲ状の文字に似かよっているのではないかと想像している。

 またタイやベトナムなどインドシナ半島の現代語の中に「あまみ、あつみ、あたみ、あづみ」などの言葉の音を捜してみるのも面白いと思う。その音の言葉が何を意味するのかにも興味がある。多忙な日常にかまけてこれらを探求する機会がいまだにもてない。いつかゆっくりと考えてみたいものである。

 司馬遼太郎氏は渥美、熱海などの海岸線に住み着いた舟の民族が内陸に移り住み安曇に至ったとしているが私には釈然としない疑問が残る。
 「海こそふるさと」というその思いを捨ててまで海の無い内陸の安曇野に移り住むことにはそれなりの大きな動機がなければならない。

 私はその動機を出雲の沖合いにある隠岐島で最後をとげた南方系、舟の民族の族長「大国主尊」の物語の中に見る。



 穏やかな南方系、舟の民族が気の荒い北方系、馬の民族に滅ぼされた経緯が大国主尊の「国譲りの話」であることは述べた。私は安曇人こそこの大国主尊につき従っていた舟の民族ではなかったかと考えている。

 馬の民族に追われた彼らは北陸路を辿り、糸魚川から姫川を遡り、仁科三湖周辺に住み着く。しかし追っての執念はすさまじくやがてはそこも危うくなる。彼らはさらに南下し、ついには安曇野に至ったのではなかったか。

 稲作は舟の民族が日本にもたらした最も偉大な文明であり、安曇野に至った彼らは葦原の荒野を見事な稲作田園にしあげたことであろう。そして今もなお我々が見る安曇野は日本でも有数な米作地帯である。

 しかし、そこにもやがて気の荒い馬の民族が襲ってくる。おそらく激しい戦いが幾度か繰り返されたことであろう。日本の古代神話「八岐大蛇(やまたのおろち)」伝説は有名であるが、この伝説はおそらく舟の民族と馬の民族が出雲で戦った状況を伝えているのではないかと思う。同様に安曇野には「八面大王(はちめんだいおう)」伝説がある。この類似性はいったい何を意味するのか。

 安曇野でも同様な戦いがあった証拠ではないのか。「八岐大蛇」伝説ではヒノ川の上流にいたという頭部が八つに分かれた大蛇をスサノウ尊が退治したとなっており、「八面大王」伝説では有明山の麓、宮城にいた八面大王を坂上田村麻呂が退治したとなっている。この鬼のような名前を付された大蛇や大王こそ舟の民族の族長の象徴であろう。温厚な舟の民族の中にも徹底抗戦する気概に溢れた大将もいたのであろう。

 歴史は後の権力者に有利に記述されるのであり、自分たちに正当性をもたせるように表現されるのは歴史の必然である。ゆえに征服者である馬の民族であるスサノウ尊や坂上田村麻呂が英雄となり、被征服者である舟の民族が八岐大蛇や八面大王になるのは当然である。歴史の真相は時の権力者によって常に隠蔽される宿命をおびているのである。

 おそらく出雲であった戦いと安曇であった戦いの構図は同じものであり、これらの戦いの物語が混合し、このように類似した伝説が後の世に遺されたのではなかったか。

 ともあれ、安曇野は渥美や熱海に住み着いた舟の民族が移り住んだのではなく、出雲から追われた舟の民族がようようにして辿り着いた場所とした方が話の筋がよく通る。

 また「出雲」と「安曇」の文字に象出した「雲」の表象相似は私に強い直観を促す。仁科三湖の「仁科」とはアイヌ語であり、「雲のごとし」という意味をもつ。

 また、「いずも、あづみ」という音もかなり近いものが感じられる。「あまみ、あつみ、あたみ」は清音で構成され、「いずも、あづみ」は濁音で構成されている。この音の異なりこそが両南方系、舟の民族が辿った歴史の異なりを表象しているように見えるのである。

 私はこれらの直観から「出雲は安曇」であるとの大胆な仮説を立ててみたい。それはまさにかすかに遺された安曇野の「点と線」の痕跡である。

(五)出雲と安曇

 出雲と安曇の表象相似の直観はさまざまなことを語る。

 かって梅原猛氏の法隆寺論「隠された十字架」をさかのぼる30年程前に読んだ。梅原氏は法隆寺は聖徳太子の遺徳を讃え建立された寺などではなく、太子一族をおそった非業な運命(太子の皇子である山背大兄王とその一族の斑鳩宮での虐殺事件、下手人は蘇我入鹿であるが裏で策謀したのは大化改新で活躍した藤原鎌足とされる)に対する太子一族の恨みの怨霊を封じ込める寺であることを隠蔽された歴史から解明し従来の通説を覆した。

 梅原氏がそれを直観したのは法隆寺で行われる「聖霊会」の祭事であった。法隆寺内陣、講堂の前で催される聖霊会は装束をまとった太子の聖霊が長い白髪を振り乱し狂ったように舞う。これを見学した梅原氏はこれは「聖霊」などの姿ではなく恨みにもだえ狂う「怨霊」の姿であることを瞬間に理解したのである。

 その後、法隆寺をつぶさに調査した梅原氏はそれを裏付ける幾多の証拠を見出し、この直観の正当性を確信するに至る。
 一般に神社仏閣の門は奇数間で造られるが、なぜか法隆寺は偶数間で造られている。偶数間で門を造ると門の中央に柱がきてしまい入出を拒絶するような構造になってしまう。梅原氏は怨霊が外界に出ることを許さない意図がこの門の構造に顕現していると言う。またこの偶数間の社寺の例を他に捜すと島根出雲大社であると述べている。出雲大社とはまさに恨みをのんで出雲沖、隠岐島で最後をとげた南方系、舟の民族の族長「大国主尊」を祀った神社である。

 表向きは聖徳太子や大国主尊の遺徳を奉るように見せて裏ではその怨霊封じ込めを画策するなど誰によって為されたのか。

 それは彼らを滅ぼし大和朝廷を樹立した北方系、馬の民族の権力者以外にいない。太子一族虐殺の策謀者である藤原鎌足は姓は中臣、神事を司る官職から出発した人であり若い頃は中国の革命の書を読み耽っていたと言われている。性格その他からして祖先は馬の民族であったと考えられる。
 日本古代史を確定したとされる「古事記」、「日本書紀」は鎌足の子、その後の藤原氏繁栄の礎を築いた藤原不比等の意向によって編纂されたものであるとされる。この時をもって、それまでの多くの古代史の真実は時空の闇に消え去ってしまった。ゆえに我々はその隠蔽された出雲神話や八面大王伝説の記述から真実を探し出さなくてはならなくなってしまったのである。

 倉田兼雄氏の「有明山史」によれば隠岐島で最後をとげた大国主尊の御子、建御名方命は反骨の士であり馬の民族に何としても屈服せず諏訪大社に流罪になったとしている。穂高神社はその御子の「見張り所」であり、穂高の「穂」は槍の穂先の意、「高」は高見するの意である。穂高とは槍を持ち見張るという意味になる。

 私にはこの反骨の御子と八面大王の顔がなぜか重なって見える。そして諏訪大社で催される死をも畏れぬ勇壮な御柱祭があたかも法隆寺で催される聖霊会での太子怨霊の恨みの舞のごとく、非業の最後を遂げた大国主尊一族の怨霊、荒ぶる魂の七年に一度の狂乱乱舞の様に見えてくる。


(六)みすずかるまほろば

 この稿を稲作文明をもたらした弥生初期の「舟の文化」の風景から書き始めた。それ以前にあった風景とは日本原住民が営んでいた一万二千年に渡る「縄文の文化」の風景である。

 その風景に映る安曇は安曇野と呼ばれる平野ではなく、北は大町から南は塩尻にいたる広大な淡水湖、「安曇湖」が横たわる風景である。

 高い山々に囲まれ、遠く鳥獣の鳴き声が響き、満々と紺青色の清水を貯えた静寂な湖の風景はまさに桃源郷と呼ぶにふさわしいものであったにちがいない。縄文人はこの安曇湖の湖畔に定住し、この湖と山の豊饒な自然の恵みの中で安定した狩猟採集社会を営んでいたことが想像される。

 松本の「蟻ヶ崎」、明科の「押野崎」等は安曇湖に突き出た岬の意味であり現代まで遺された文字の表象である。また安曇松本平の山麓には縄文期の遺跡や古年代の古墳が多く散在する。
 大正時代にはこれらの遺跡や古墳が鳥居龍蔵博士により調査され、前出の八面大王の岩屋と言われている宮城の石窟はドルメン式古墳と称すべきものであり、日本全国においても他に容易に見ることが出来ないものであるとされた。
 また穂高の山麓は養蚕の元祖である「天蚕」が始められた地域でも知られている。

 縄文の文化は「ディオニュソス的原始性」、その後に渡って来た舟の文化は「タオイズム的自然性」である。この両者の文化を考えれば両民族は違和感なく融和したことであろう。融和した穏やかな社会は人間の生活にとって理想に近いものではなかったか。

 しかし、その社会はそれほど長くは続かない。好戦的で性格が激しい馬の文化の到来である。両民族の平和な営みは破壊され馬の民族の強力な軍事力に従属を余儀なくされる。また馬の民族はそれに留まらず「蝦夷退治」と称して日本武尊や坂上田村麻呂を将軍とし東北地方まで追討の軍を派遣したのである。

 現在、日本列島の最北の地、北海道の片隅に居住するアイヌ民族はその追討を逃れた縄文と舟の民族の末裔であろう。アイヌ民族のもつディオニュソス的原始性とタオイズム的自然性はかっての両民族が遺した香しい遺伝子である。ちなみにアイヌという言葉は「人間」を意味する。

 司馬遼太郎氏は縄文集落「三内丸山遺跡」をもち、今でも「マタギ」が生活する下北と津軽の両半島で陸奥湾を囲む青森の地を日本民族の「ふるさと」であるとし、「北のまほろば」と呼んだ。

 だが私は日本列島中央に位置し峻厳な山々で外敵から守られ豊饒な自然に恵まれた安曇湖周辺に営まれた社会こそ日本民族の「ふるさと」であったと考える。その桃源郷を私は「みすずかるまほろば」と呼びたい。

 安曇湖が蟻ヶ崎により囲まれた内灘は現在の松本市街地であろう。その内灘の奥、背後に美ヶ原をひかえた「美須々ヶ丘」の地は息をのむような景勝地ではなかったか。私は信濃のまくら言葉「みすずかる」とはこの美須々から採った「美須々かる」をあてたい。

 もっともここまでくれば安曇古代史仮説と題するよりも安曇古代史「幻視」、あるいは安曇古代史「瞑想」と題したほうがよさそうではあるが。

(七)安曇古代ロマン

 技術の研究は常に大胆な仮説を立てるところから出発する。まず直観力により認識の飛躍を起こさなければ無から有を生むことはできない。この飛躍は奇想天外なものであってはならず常に発生した現象を過不足無く、かつ妥当性をもって説明できるものでなくてはならない。

 この稿は私の技術研究手法「直観的場面構築」をもって、今や安曇野の時空に隠蔽されてしまった過去の時空、言うなれば安曇野の「点と線」を推理してみたものである。

 直観的場面構築とは意識の大海の中に埋没していたさまざまな認識の断片がある時、集合組成し、ある場面(シーン)が構築される「意識メカニズム」のことである。私はこの手法を技術開発に応用し現在国内外200件以上の特許権の成立をみた。

 このメカニズムが作動するためには多くの認識断片を意識の大海に「蓄える」こと、その断片認識を一体的に合成させる「きっかけ」のふたつが要点である。
 前者に必要なことは多くのことを「見聞き、読み、感じる」努力であり、後者に必要なことは熟成の時を気長に「待つ」持続力である。

 ここで構築された「直観的歴史場面」は信州真田の里で育った私が青春期を大阪、奈良で過ごし、今ここ安曇野の地に至ったことによる。
 吉野、飛鳥、斑鳩、西の京、平城京奈良、奈良坂を越え平安京京都と彷徨した時期に蓄えられた認識断片と安曇野に至ったきっかけの僥倖が作用したものに他ならない。

 その結果として顕れた「安曇古代史場面」はまさに日本民族のふるさと「みずずかるまほろば」の桃源郷の風景であった。

 しかしながら前述したごとく、これらは「仮説」であり仮説は長い地道な努力で実証されなければならないのである。

 前出の倉田氏の「有明山史」によれば出雲は安曇から出発し、出雲神話は安曇神話を基とし、有明山は昔、「戸放山」と呼ばれ、天の岩戸の伝説は有明山が舞台であるとし、現在の戸隠山や姨捨の有明山は戦国期にかの地に移しかえられたものであり、創作された過去であるとする。
 その多くの証拠書類、遺物、遺品は悲しいかな明治維新によって為された「廃仏毀釈運動」により方々に散逸してしまっている。

 そして今、西暦二千年の安曇野はかってこの地にあったであろう縄文人の「まほろばの世界」や舟の民族と馬の民族の「激しい戦いの世界」の痕跡をすっかり時空の闇に没し去り「なにくわぬ顔」で横たわっている。
 また生活する我々といえば日々なる「頭のハエ」を追うのに忙しく、その地を北に南にと走り回っている。

 安曇古代史仮説は「歴史ロマン」でありロマンは我々の時空を限りなく広げ大いなる夢を抱かせてくれる。

 多忙な我々ではあるがたまには悠久な歴史ロマンに思いを馳せるのも一興であろう。この拙稿がその一興に幾ばくかの手助けになれば筆者として望外の幸甚である。

 そして、いつかどこかでこの安曇人が辿ったであろう悠久な物語をしっかりと書いてみたいという気が今している。 (了)

(上)それぞれの歴史ロマン

 「安曇古代史仮説」(安曇野の点と線)の掲載に対し、数多くの皆様方から多大な共感が寄せられました。紙面をお借りして深く感謝申しあげます。

 郷土の古代史研究家の皆様からのご助言、ご指摘をはじめ、多くの読者からの応答に接し、筆者として望外の幸甚に浴した次第です。皆様からのご厚志に対し幾分かのお礼にと願い、安曇古代史仮説後記として、その後のこもごもについてお話したいと思います。

 研究家の皆様からのご意見としては、広大な安曇湖を安曇野に出現させるためには山清路の水位を数十メートルあげなければならず、筆者が言うような安曇湖は存在しなかったという地勢学的見地からのご指摘、「信州のアイヌコタン」の著者、百瀬信夫氏から寄せられた「古代語研究」の視点から探求された安曇湖説、氏の長年にわたる古代史研究文献の数々からは筆者として多くの啓発を受けました。

 一般読者からのご意見の多くを紙面上割愛しなければなりませんが、ともに七年に一度の善光寺御開帳と諏訪大社御柱祭の類似性、御開帳で建てられる一本の「回向柱」と御柱祭で社を囲むように建てられる四本の「御柱」から、馬の民族による諏訪大社に施された舟の民族に対する怨霊封じ込め結界の構図をご指摘され「ハッと」させられましたし、松本の人々が馬刺を食べるのは舟の民族の末裔だからか・・?、韓国クラブへ行く人はタイクラブへは行かず、タイクラブへ行く人は韓国クラブへは行かない理由は舟の民族と馬の民族の遺伝子の違いか・・?等の質問には「ウーン」と唸ってしまいました。

 これらのご意見のすべてが、郷土安曇野を愛する思いから生まれたそれぞれの歴史ロマンであり、かってあったであろう古代安曇歴史空間の扉を開く貴重なキーワードであると思います。安曇古代史仮説の拙稿が、今後展開されるさらなる研究や論議の「きっかけ」となったならば筆者としてこれ以上の喜びはありません。

 今まさに日本のみならず世界を取巻く社会情勢は混迷を深め、未来社会の前途に暗雲が立ちこめている観があります。

 戦後日本は貧困の中から立ち上がり、馬車馬のごとく物質的豊かさを求め、その達成に向けて脇目もふらずに邁進してきたのですが、この幸せの青い鳥を求めて世界中をさまよった旅の果てに見たものとはいったい何であったのでしょうか・・。それはニューヨークの世界貿易センタービルが瓦礫と化した荒涼たる風景であり、日本政治経済のどうしようもない荒廃の風景ではなかったか・・。

 今、人々は疲れ果て、その彷徨の旅から故郷に帰ろうとしているように筆者には見えます。かってこの旅の出発点にあったであろう、大和民族の底流に流れていた貧しくはあっても熱き情感に満ち、臥薪嘗胆の矜持に裏打ちされた誇り高き人格に彩られていた社会への帰郷です。

 おそらく、安曇古代史仮説に寄せられた共感とはこの荒廃した物質世界からまほろばの世界に向けての望郷であり、回帰への願いに他なりません。その共感の多くが年輩者からのものであったことが、それをよく物語っているように思います。

 いつも言われることではありますが、幸せの青い鳥は我が家の窓辺に憩い、さえずっているのです。

(中)飛鳥と信濃の点と線

 今、筆者にはふたつの印象的な場面が脳裏に映っている。

 ひとつは青雲の志を胸に郷関を後にし、大阪での勉学生活を始めた頃に訪れた奈良国立博物館での風景である。押しボタンによりパネル表示された寺院に創建年代順に赤い豆電球が点灯する装置があった。最初のボタンで日本列島にふたつの点灯が表示された。ひとつは摂津難波の四天王寺、他のひとつは我が信濃の善光寺である。善光寺が奈良に点在する幾多の古寺より古いとは想像だにしないことであり、驚きとともに、郷関を出た直後の思いと重なり、大いに誇りを感じた記憶がある。薄暗い館内で点灯していた、ふたつの赤い豆電球の場面は今も鮮やかに目に残っている。

 もうひとつの印象的場面は八面大王の岩屋と言われている宮城の石窟を訪れた時に蘇った記憶であり、奈良飛鳥の地にある有名な「石舞台」と呼ばれる蘇我馬子の石室古墳の風景である。ともに横穴式石室、規模は石舞台の方が数倍大きいが、天井に大きな一枚岩を置いた構造は同じであり、筆者に奇妙な類似性感覚を与えた。

 蘇我馬子とは名前の通り、馬の民族であり、飛鳥古代王朝における蘇我氏の権力を確立した大王である。その馬子の子が蝦夷、蝦夷の子が大化改新で中大兄皇子(後の天智天皇)によって誅殺された蘇我入鹿である。馬子は天皇ではないにしろ、大王と呼ぶにふさわしい権力者であり、日本史における「蘇我物部の戦い」が彼の名を有名にしている。

 この戦いは大和の古豪族であり、自らも天神の子として神を擁護していた物部氏と渡来系の新興豪族であり、当時伝来した仏教を擁護する蘇我氏との勢力争いを背景とした「神仏宗教戦争」であった。

 筆者は法隆寺の近く、大和川が巻くように流れる王寺の高台に3年間ほど住んでいたが、蘇我馬子と物部守屋はこの付近の大和川を挟んで対峙した。その戦役では蘇我軍の中に若き日の厩戸皇子(後の聖徳太子)も従軍している。
 聖徳太子は蘇我系の皇子であり、その戦いの後、推古天皇の摂政として大臣馬子とともに仏教を基とした大和民族統治システムを創立することになる因縁がここから始まったと言ってもよい。その戦場からほど近い、斑鳩の地に斑鳩宮(後の法隆寺)を建立した遠因もここに感じる。

 そして、その戦いの戦局が不利になった時、「もしこの戦いに勝たせて頂いたなら、四天王を祀る寺塔を建てましょう」と誓願され、その後、戦局が有利に転じ勝利したことにより、前述の四天王寺が建立されたとされる。

 一方、破れた物部一族の弓削氏からは、後に弓削道鏡が輩出してくる。弓削道鏡とは、咲き匂う奈良の都と称された平城京隆盛を極めた頃、孝謙天皇に呪術でとり入り、自らが天皇になろうとした極悪人として歴史に刻まれた僧侶である。孝謙天皇とは東大寺大仏を建立した聖武天皇と光明皇后の娘として生まれた女帝である。呪術的加持祈祷は舟の民族特有のアミニズム的風習であり、物部氏が舟の民族の末裔であることを深く印象づける。

 仏教は馬の民族が、稲作は舟の民族が日本に伝えた最大の文化遺産であろう。

 極論すれば、このふたつの文化遺産からその後の日本人の生活文化や精神文化のほとんどすべてを読み解くことも可能であろう。
 また古代飛鳥王朝において、蘇我氏を馬の民族の代表とするならば、物部氏は逆に舟の民族の代表であり、飛鳥の地で行われた蘇我物部の戦いとは安曇の地で行われた戦いと同じ構図であったといえよう。

(下)特別の意味をもった地

 「扶桑略記」の仏教渡来の記述によれば、信濃善光寺の草創の年次は明らかにしえないが、欽明天皇の代に百済国の聖明王が献じた一尺五寸の阿弥陀仏像と一尺の観音・勢至像が善光寺如来であるといい、この像を推古天皇の代に秦巨勢大夫(はたのこせのたいふ)に命じ、信濃国に送ったと記している。
 さらに同書は「善光寺本縁起」を引用して、欽明天皇の代に、百済国より摂津難波に漂着した阿弥陀三尊仏が、推古天皇の代に信濃国、水内郡に移ったとしている。

 また「伊呂波字類抄」には、推古天皇の代に信濃国、麻績村へ如来が移され、さらに皇極天皇の代に、水内に移り善光寺が創建されたと述べている。

 これらの記述は、いずれも伝説的であって、その是非をにわかに定めることはできないが、境内から出土した瓦は白鳳期のものであり、その創立は七世紀後半と推定されている。

 また善光寺信仰の勧進教化の説話には善光寺如来と聖徳太子との間で消息の往返がなされ、冥界からの救済を説く善光寺信仰と、四天王寺の西門で極楽往生を願う念仏信仰とを結びつけ、善光寺如来と聖徳太子が共同で念仏者を往生させるという話が遺されている。

 これらの経緯からは仏教伝来草創期における摂津四天王寺と信濃善光寺に引かれた点と線がかいま見える。

 さらに八面大王の石窟がある宮城の地を地元の人は「みやしろ」と訓読みするが、音読みすると「きゅうじょう」となる。古来、きゅうじょう(宮城)とは唯一、天子が起居する館の呼称である。であれば、何故にこの地を宮城と呼び、大王、蘇我馬子と八面大王の石室古墳が同じ構造であったのか。

 推古帝、聖徳太子、蘇我馬子が創立した古代飛鳥王朝と古代安曇の地に引かれた点と線の痕跡をここに見る。

 安曇古代史仮説では出雲と安曇に引かれた点と線をたどり、安曇の地にあった馬の民族と舟の民族の戦いを描いた。しかし、どうやらその裏には飛鳥の地でくり広げられた馬の民族と舟の民族の戦いであった蘇我物部の神仏戦争や、摂津四天王寺と信濃善光寺にまつわる仏教伝来の点と線が複雑に入り組んでいるようである。

 いずれにしても、みすずかるまほろば信濃安曇の地とは大和国家成立にとって、特別の意味をもった地であったことに疑いはないようである。
 しかしながら歴史の闇は未だ多くの謎を秘めてこの地を深く覆っている。今後の研究が待たれるところである。

 最後に松本市の74歳、K子さんからのお便りをご紹介し、この稿を結ぶこととします。

・・・・母が南安曇の生まれでしたので嫁にきてからも「安曇はいいよ」と言葉のはしはしに云っておりました「松本の土とはちがうよ、石ころもないしネ」と畑の石をひろい「土地の人情があったかいよ」とも。今、(十年くらい)私はよく有明の温泉へ行くのですが、その間の景観がずい分変ってきました、こんなふうにもう数年変っていったらどうなるでしょう、私は眉間にしわがよってしまいます・・・・

 安曇野に生きた母と娘との「とある日の情景」、その母の思いを背負って今を生きるK子さんの心情はかってあったであろう「安曇湖桃源郷の風景」を筆者にかいま見せてくれてあまりあります。ありがとうございました。

2008年12月17日水曜日

【危険な話】 馬毛島(米軍基地候補地)

 この馬毛島を基地へ転用・転売という話は、かなり前からあるのだが、非常に怪しい紳士たちが、そのたびに蠢く。

 1999年末、隣接する種子島に使用済み核燃料中間貯蔵施設を誘致する動きがあるという情報が伝わって以来、屋久島の南北二つの町(上屋久町&屋久町)ではそれぞれ住民有志が集まり、対策を探ってきました。

 中間貯蔵施設とは、各原発のプールに保管している使用済み核燃料が満杯に近づいているにもかかわらず、受け入れ予定の青森県六ヶ所村・再処理工場の建設が滞り、再処理後のプルトニウムを使った高速増殖炉計画も「もんじゅ」事故でストップしているための苦肉の策で、1999年6月成立の「原子炉等規制法」改正により使用済み燃料を原発敷地外に持ち出して一時保管できると決めたもの。政府は2000年度中に全国2か所の立地点を確定し、2006年着工、2010年完成・使用開始をめざしています。

 そのうち種子島で誘致話が持ち上がったのはもっとも早く、1999年春に一部住民への働きかけがはじまって、夏以降、漁業関係者を中心に東京電力・福島第一原発へ「備蓄燃料見学会」と称した無料ツアーが波状的に行われ、1999年末までに合計約400人が参加したと言われます。東京観光などを含む招待旅行の費用4000万円あまりは、東京在住の種子島出身者が地域浮揚のために負担したことになっていますが、金の出所や裏で糸を引くと噂される某代議士などについて不明な点がたくさんあります。

 しかし、立地の鍵となる漁業者をターゲットにした招待ツアーといい、不況下に似つかわしくない多額の金の動きといい、本格的な立地工作の兆しと考えられます。また、電力業界紙『電力時事通信』11月1日付け記事も、「鹿児島県の離島(無人島)」と名指しして候補地の筆頭に挙げています。

 「無人島」は西之表市の沖合に浮かぶ馬毛島(まげしま)で、80年代はじめに住民が離島して現在はニホンジカの貴重な亜種マゲシカが繁殖しています。かつて石油備蓄基地や核燃料サイクル基地が誘致されようとした複雑な歴史をもつこの島は、近年、土地の98%を所有する立石建設(本社東京・住友系)が目論む採石事業と、西之表市と鹿児島県が誘致をめざす日本版スペースシャトルHOPEの着陸場計画とがバッティングしていましたが、そこへ降って湧いたように中間貯蔵施設の立地話が割り込んできた格好です。いまのところ、枕崎出身の立石社長は核燃施設に土地を売る気はないと明言しており、近々採石事業に対する鹿児島県の許可がおりる予定です。しかし、バックがJCOと同じ住友らしいこと、計画に採石場らしからぬ1000mの飛行場が含まれていることなどから、中間貯蔵へのダミー事業になりかねないと危惧する声もあります。

 もう一か所誘致が取り沙汰されるのは東海岸の増田(中種子町)で、候補地に挙がった共用林地権者の中には歓迎の声もあり、音頭を取る地元建設会社が馬毛島との誘致合戦をしかけている気配です。

 こうした状況のもと、計画を憂慮する種子・屋久両島の住民有志は、まず多くの人たちに中間貯蔵と日本の原子力事情について知ってもらおうと、2月2日(種子島)と3日(屋久島)の両日にわたり、慶応大学の藤田祐幸助教授を招いた講演会を企画・開催しました。このかん、西之表市では1月23日に元市長や新旧市議多数を含む「核施設をつくらせない市民の会」が発足しました。

 講演会は種子島で400人、屋久島で300人を集める大成功でした。二つの町の実行委員会が共催した屋久島では、両町役場の後援のほか、屋久町漁協、屋久島観光協会、屋久町商工会、屋久町青年団、屋久町職員組合という幅広い協賛を取りつけ、会場の安房総合センターへ二つの町の送迎バスが走るユニークなものになりました。漁師の大漁旗に囲まれた会場は熱心な島民で埋まり、藤田先生が「18年にわたり上関原発立地を阻止してきた山口県・祝島漁協の海の男たちの熱い想いがここに受け継がれたようだ!」と感激するほどでした。

 講演会の成功を受けて、両町では3月議会で中間貯蔵施設への反対決議をし、関係各方面へ建設反対の意見書を提出する取り組みに移りました。上屋久町では2月26日に「核施設はいらない島民の会・上屋久町」が発足する予定です。ここからは主に私たち屋久町の動きを報告します。

 その前に、もう少し中間貯蔵施設について――
 使用済み核燃料といっても、燃えるウランの3分の1は残っていて、そのうえ核分裂反応で生成したプルトニウムなど20種類以上の高レベル放射性物質が含まれ、薪ならまだくすぶっている状態。放射能の強さは、遮蔽物なしに近づけば即死するほどです。弱い核反応が続くため冷やさなければならず、冷却に失敗したり燃料棒どうしを近づけすぎたりすると臨界事故が起こります。冷却方法としては、原発内の保管プールのように水で冷やす湿式と、ガスで冷やす乾式があり、種子島からの見学ツアーが福島第一原発に行ったのは、国内ではまだ珍しい乾式貯蔵の実験施設があるからです。乾式施設は、フランスやイギリスから高レベル放射性廃棄物を運んだ金属製キャスクに似た巨大な鋼鉄容器です。

 種子島に中間貯蔵施設ができたとすると、西日本の各原発から年間500トン、合計5000トンの使用済み核燃料が専用船で運び込まれます。5000トンの使用済み燃料の中には、広島の原爆から放出された量の15万倍以上の放射性物質(死の灰)が含まれます。これを、計画では数十年保管することになっていますが、もし日本の原子力利用がうまくいけば、2095年すぎまで、出入りはあってもつねに5000トンが保管されるため、実質的な貯蔵期間は100年近くになります。かたや、内外の多くの専門家が認めるとおり日本の原子力計画が予定どおり進まない場合は、そのまま高レベル核廃棄物の最終処分地になる可能性も否定できません。

 危険性としては、予想外の事故や故障で放射能が漏れ出さないか、核ジャックに狙われたり、天災や戦争で施設が壊れたりしないか、核燃料の輸送中に船の事故が起こらないかなど、施設周辺と輸送ルートでの環境汚染や住民の被曝が心配です。また、この施設の運営は国や電力会社ではなく、倉庫業者のような民間にもまかせられることになったため、長期間の責任や管理能力が、JCO事故で明るみに出たとおり採算や効率の犠牲になりやすい危険性も考えられます。万一、なし崩しで最終処分地になってしまったら、プルトニウムの半減期2万4000年(放射能が無害といえるレベルになるにはその10倍)という人類史的な長い時間にわたって正しく管理できるかどうか――自信をもってYESと答えられる人はいないでしょう。

 こんな核施設ができたら、種子島現地はもとより、一衣帯水の屋久島でも住民生活と産業(漁業・農業・観光 etc.)はあらゆる面で重大な影響を受けます。使用済み核燃料の取り扱いはきわめて難しい問題ですが、原則的になるべく動かさず、回収できない地下などに埋めず、衆人環視のもとに置いておくべきだと言われます。何が起こっても人目につかないうえ、台風や津波などの被害を受けやすい離島(とくに無人島)は、本来最悪の選択なのです。それなのに、全国に先がけて種子島に誘致の動きが起こったのはなぜでしょうか。ここで海に流れ出した汚染は、黒潮本流に乗って日本列島の沿岸に広がります。

 私たちは、一つの生態系に根ざして生きる人間としてごく自然な気持ちから(これを「地域エゴ」などと呼ぶのは不都合なものを押しつける側の理屈でしょう)、種子・屋久地域に暮らしや生命と両立しない核施設をつくらせたくないと思います。しかし同時に、ほかのどこにもつくらせてはならないと思います。末期症状を呈したプルトニウム利用計画という国策のツケを、原発の電気を使ったこともない僻地の住民に押しつけることなど、もう許される時代ではありません。お金や非民主的な上意に屈して中間貯蔵施設を引き受ける市町村がなければ、原発の増設や延命は不可能になります。核廃棄物が手に負えないとしたら、まず日夜それを生産する原子力発電を縮小・廃止しなければなりません。そのうえで、すでに抱え込んでしまった放射性廃棄物という膨大な負の遺産をどうしたらいいか、衆智を尽くして考えるべきなのです。

 《核廃棄物の中間貯蔵施設をつくらせない市町村議員・住民連絡会》屋久町事務局は、こうした想いを込めて2000年2月14日に発足しました。藤田祐幸講演会の企画・開催を通じて私たちが見聞きしてきたかぎり、圧倒的大多数の屋久島民は中間貯蔵施設を絶対につくらせたくないと願っており、この願いは自治体を構成する住民・議会・行政を通じて共有されています。ですから会の名称に、議員と住民が手をたずさえてこの問題に取り組む決意を表明し、同時に今後誘致問題が起こってくるであろうすべての市町村の心ある議員や住民とも連携・協力していく意思を示しました。

 当面の課題として、2月28日を第一次集約日に、「種子島の核施設誘致に反対する屋久町民署名」をはじめました。とくに、共通の海を仕事の場とする漁師たちが危機感をつのらせています。2月29日には署名や講演会でのアンケート結果を添えて、前述のとおり3月町議会に反対決議と関係各方面への反対意見書送付を求める陳情を提出します。またそれと並行して、種子・屋久両島1市4町の議員・住民との情報交換や連帯を図る努力をしていくつもりです。観光客へのアンケート調査、ポスター、小冊子、ホームページ、ネット上の反対投票、国際キャンペーンなど、種子島での情勢をにらみながら内外にこの問題を知らせる創意工夫も凝らしていきたいと思います。

 会の名称からもわかるとおり、従来型の硬い運動体ではなく、参加者一人ひとりの本音と自由意志を尊重する柔軟なネットワーク組織です。島外からの応援やアイデアも大歓迎です。また、自分の地域や周辺自治体で中間貯蔵施設誘致の動きがあったら、ぜひ知らせてください。私たちが手探りで集めた情報や資料があります。このプレス/ネットリリースは引用・転載自由です。

事務局連絡先:Tel/Fax: 09974-8-2861(羽生)
Tel/Fax: 09974-7-2898(星川)
Email: stariver@ruby.ocn.ne.jp



熊毛地区への使用済み核燃料中間貯蔵施設誘致に反対する決議および意見書の提出を求める陳情書

屋久町議会議長殿

平成12年2月29日
核廃棄物の中間貯蔵施設をつくらせない市町村議員住民連絡会・屋久町事務局

陳情趣旨

 昨年来、隣の種子島で原子力発電所から出る使用済み核燃料中間貯蔵施設の誘致が取り沙汰されています。当初、半信半疑だった新聞報道も、本格的取材とともにさまざまな事実を掘り出しつつあります。私たちが2月3日の藤田祐幸講演会実行委員会と、それに続く「核廃棄物の中間貯蔵施設をつくらせない市町村議員住民連絡会」の活動の中で学び、独自に調査してきたところでも、同施設の種子島誘致は“噂”の域をはるかに超えた現実味を帯びています。

もしこの計画が実現して、年間500トン、合計5000トンとも言われる大量の高レベル放射性物質が西日本各地の原発から日常的に種子島へ輸送され、先の見えない長期間にわたって保管されることになれば、熊毛地域のあらゆる産業と住民生活を脅かします。また万一放射能が漏れ出したり、臨界事故が起こったりした場合、種子・屋久両島は子々孫々におよぶ壊滅的打撃を受ける可能性があります(詳しくは添付資料参照のこと)。
 私たちはこれらの危険と悪影響を強く危惧し、「種子島の核施設誘致に反対する屋久町民署名」第1次集約(2月15日~28日)    人分を添えて、屋久町議会に次のような決議と、別紙により関係行政庁へ意見書の提出を求めます。


「非核宣言を掲げる屋久町議会は、恵み豊かな自然と住民の暮らしを末永く守っていくため、事故が起これば大きな影響があり、また事故がなくても半永久的な管理を必要とする使用済み核燃料を、熊毛地区に持ち込み貯蔵するすべての計画に、現在も将来にわたっても断固反対します。」


意見書

わが屋久町議会はこのたび、隣接の種子島に昨年来誘致が取り沙汰されている使用済み核燃料中間貯蔵施設(平成11年6月成立の原子炉等規制法改正第4章の2に定められたもの)に対して、町民多数の反対署名ならびに陳情を受け次のように決議しました。

「非核宣言を掲げる屋久町議会は、恵み豊かな自然と住民の暮らしを末永く守っていくため、事故が起これば大きな影響があり、また事故がなくても半永久的な管理を必要とする使用済み核燃料を、熊毛地区に持ち込み貯蔵するすべての計画に、現在も将来にわたっても断固反対します。」

 同施設の立地については、いまのところ鹿児島県にも候補地とされる二つの自治体にも公式な打診等ないと聞いていますが、水面下の動きは1年あまり前からあり、種子・屋久両島の住民のあいだに不安や懸念が広がっているのは確かです。屋久町議会は、本町の住民生活と産業を脅かすのみならず、国立公園および世界自然遺産の価値を著しく損なう恐れのある核施設立地が現実化した場合には断固その計画に反対し、鹿児島県知事、立地自治体の首長ならびに漁業組合長には計画への不同意を、関係行政庁には計画の見直しを求める所存です。

 電力安定供給の立場から、現在まで原子力発電が一定の役割を果たしてきたことは認めます。しかし、ここへ来て高速増殖炉原型炉「もんじゅ」のナトリウム火災事故(平成7年12月)から東海再処理工場アスファルト固化施設火災事故(平成9年3月)を経て、東海村JCO臨界事故(平成11年9月)にいたる経緯を見つめ、また先端技術の粋を集めたはずのH2ロケットとM5ロケットが県下で相次ぎ打ち上げに失敗した事実を直視するならば、安全神話の崩れた日本の原子力政策が大きな転機にさしかかっていることは明らかです。そうした原子力政策の行き詰まりから来る使用済み核燃料中間貯蔵によって、放射能の危険と汚染が、原子力発電の直接の恩恵など受けたこともない離島や遠隔地へ広がることには疑問を呈さざるをえません。

 議会での反対決議を求めた町民の陳情母体が「使用済み核燃料の中間貯蔵施設をつくらせない市町村議員住民連絡会」となっているように、本町の住民も議員も、ただ種子島への立地がなければ事足れりとは考えません。これまで縁の薄かった核廃棄物問題について、国民全体を巻き込んだ広範な議論に加わり、最善の解決法を探る一翼を積極的に担いたいと思います。21世紀の地域振興とエネルギー政策を見据える立脚点として、種子島・屋久島を含む熊毛地区はけっして的外れな場所ではないのですから。

 以上、屋久町民の付託を受けた議会として、種子島への中間貯蔵施設立地にあらかじめ断固反対の意思を表明するものです。


 意見書提出先

 使用済み核燃料中間貯蔵所轄
 1. 内閣総理大臣
 2. 通商産業省大臣

 国立公園・世界遺産所轄
 3. 外務大臣
 4. 環境庁長官
 5. 林野庁長官
 6. 文化庁長官

以上


種子島ネットワーキング報告 (2000.2.19現地調査)

1. 立地話の信憑性
●Y代議士からの働きかけ
1999年1月2日、船祝いの席で浜脇氏(種子島漁協組合長・中種子町議)が「馬毛島への核施設立地話があり、県知事も知っている」と発言。同席した西之表市議会議長と議員3名が驚いて、新年早々全員協議会召集。13日に市長と助役が確認のため県知事に面会。知事は「浜脇と面識はあるが、馬毛島は宇宙往還機の予定地であり、話したのは採石事業のこと」と回答。

3月、祝迫(いわさこ)鹿児島県議、野口西之表市議、徳永中種子町議が浜脇氏と面会、浜脇氏は「Y代議士から千載一遇のチャンスだと勧められた」と言明。現在、Y代議士も浜脇氏も表向きは関与を否定し、「共産党のデマ」と非難。

◎現鹿児島県知事の須賀氏は、98年に総合エネルギー調査会原子力部会で中間貯蔵問題を議論した委員の一人。前々知事の金丸氏は回顧録で、現在六ヶ所村にある核燃基地を馬毛島に誘致しようとしたが敗れたと語る。浜脇氏は有力なY氏支持者。

●電力業界誌『電力時事通信』99年11月1日付記事
中間貯蔵施設候補として「鹿児島県の離島(無人島)」を名指しし、「九州電力を中心に立地の可能性について検討に入る」と報道。

●東京電力・福島第一原発への「備蓄燃料見学会」
招待旅行はこれまで全国各地の例から原発など核施設立地の第一段階で、すでに参加した400人近い島民の費用は4000万円以上。ツアーは近く再開される模様。西之表市長と助役は1月に公費で福島原発と六ヶ所村を視察、近日中に議会特別委員会も視察予定。

★このほか、九電の非公式説明会、地元に出回る科学技術庁の交付金試算、建設業の組織的な誘致活動など数多くの状況証拠から、種子島では信憑性を疑う人は少ない。

2. 種子島での反対運動
●西之表市(候補地馬毛島)市議20名のうち17名が誘致に反対を表明。住民サイドでは1月に「核施設をつくらせない市民の会」発足、現職議員17名のほか元市長や元市議16名など多数参加。これと別に、社民系・平和センターでも反対運動を立ち上げ。3月から統一署名運動をはじめて6月議会で反対決議の予定。

●中種子町(候補地増田)町議17人のうち12人が誘致に反対で、2月中に幅広い住民を巻き込んだ組織を立ち上げ予定。農業委員会、区長会、青年団、校長会など、地域に密着した反対意思の結集を行ない、6月議会で反対決議の運び。候補地である増田共有林の地権者のあいだで、立地歓迎の意向は終息気味か。

★いずれも議員・住民の反対合意を広く浸透させることにより、議会での決議に実効性をもたせ、市長・町長に立地拒否を表明させやすくする、現地にふさわしい手堅い戦略。近いうちに南種子町でも反対運動発足の動きがあり、それを受けて種子島全体の連絡会をつくる予定。屋久島で一足早く3月議会で反対決議がなされることは、種子島の運動にとって大きな励みになるとのこと。

3. 馬毛島の開発状況
 反対運動の浸透は心強いが、そのいっぽう馬毛島で立石建設による採石事業が着工しそうなことは気になる。
●立石建設の裏は住友
 立石建設の現地法人である馬毛島開発は、全国にゴルフ場や霊園を展開する太平洋クラブが大株主。同クラブは住友系で、歴代国会議員が多数加盟。JCO事故でわかるとおり、住友と原子力産業とのかかわりは深い。

●立石建設の採石事業に近く県の認可
 2年前、種子島漁協に否決された事業内容を変更し、首都圏などからの建設残土を持ち込まず、採石した石も島外に持ち出さない不可解な計画で申請中。県は採石事業として不備がなければ許可することになっており、再度漁協の議決にかけられる見込み。馬毛島ではすでに重機が動き出しているとの報告も。

●民有地問題
 立石建設は島の98%以上を取得済みだが、残る地権者の一部と係争中。3月にも和解決着の見込みで、土地は立石側に渡る公算が強い。あとは、5つの浦に漁協名義の土地が少しずつと、名士一族の所有地若干、そして小中学校跡の市有地(4~5000坪)がある。西之表市は立石に学校跡地を売らないと決議済み。市関係者は、万一中間貯蔵施設立地が現実化しても、この土地が歯止めになると考えている。しかし・・・

●276億をどう取り戻す?
 立石建設≒太平洋クラブは馬毛島の土地取得にこれまで276億円という巨額の金を使った(裁判証言)。申請中の計画では、“持ち出さない採石事業”(?!)と羊の放牧(過去に島民が失敗)を行うとされるが、276億の資金を回収できるとは思えない。

 いっぽう、浜脇漁協長が「馬毛島でやる事業にかかる金」として県漁連に語った。 試算700億は、中間貯蔵施設の概算予算と符合する。今日、276億もの資金を注ぎ込んでペイするのは核関連事業ぐらいか?
(注:馬毛島には県と西之表市が日本版スペースシャトル発着場を誘致しようとしてきたが、発射場は位置的に有利な赤道クリスマス島が最有力視され、馬毛島誘致は現実味が薄れた。ただし西之表市は、中間貯蔵施設立地の歯止めとして宇宙往還機誘致の旗をおろさない意向。科学技術庁と県と市の表向きの合意でも、馬毛島はいぜんとして往還機基地候補であり、立石建設も往還機基地立地が確定すれば土地を売却すると約束している。)

★総合的に見て馬毛島が最有力候補と思われ、1000mの空港を含む立石建設の採石事業計画が、使用済み核燃料中間貯蔵施設の予備工事となる可能性は見逃せない。

4. 推進派の動き
 ●建設業者
 平成11年度末(3月いっぱい)が誘致に名乗りを挙げる締め切りと言われ、その条件と見られる2400人(人口の1割?)分の署名集めを行っている模様。3月はじめには、2~3000人規模の誘致促進集会を開く予定。現在、全国で10数か所の自治体が誘致に名乗りを挙げており、Y代議士の関与否定発言や、種子・屋久両島における反対運動の強さなどと併せ、このままでは立地話が立ち消えになりかねないとのあせりがあると考えられる。
●種子島漁協・組合長改選
 誘致の旗振り役である浜脇氏が5月の改選で再選されるかどうかが鍵。


続・種子島ネットワーキング報告(2000年2月22~23日)

2月22日 ㈱馬毛島開発・種子島事務所

「相談役」で実質的な所長と思われる後庵(ごあん)氏と、「所長代理」の徳浦氏が対応。「これまでだれも直接話を聞きにきてくれなかった」と喜んだ様子で、かなり突っ込んだ話をしてくれた。以下、額面どおり受け取るか否かは別として、馬毛島開発・種子島事務所の主張を要約する。

●後庵氏は校長を3期勤めた教育者で、立石社長は水産高校(枕崎市)の教え子。
●浜脇漁協長の誘致話浮上初期の言動
―1998年末、漁協理事会で中間貯蔵関係のカラー刷りパンフレットをまわし、25億の交付金がおりると説明。そのさい参事には席をはずさせ、理事たちには口止めする。
―1999年正月、船祝の席でみずから公言。漁協理事らは、「自分で口外するなと言っておいてなんだ」と鼻白む。(この場に西之表市議会関係者が数人いて、後日、全員協議会が召集され、市長・助役が事実関係を確認に県庁へ出向いたのは前回の報告どおり。)
―1月4日、浜脇漁協長、後庵氏と会い、「交付金は30億、馬毛島開発は(中間貯蔵の)倉庫業で2000億の仕事になるから協力しろ」と語る。
―2月、原幸一氏(のち見学ツアーに出資したとされる若狭会代表)リムジンで立石社長を訪れ、「エネルギーとゴミは国家事業だから」と、右翼の影をちらつかせながら土地の売却を促す。そのさい「全国に16か所候補地がある」と語った。原氏は昭和30年、九州電力勤務の父親の転勤で南種子町・広田へ。後庵氏が教師をしていた学校に転入。
―3月19日、立石社長、須賀鹿児島県知事と面会。知事は「中間貯蔵の計画推進しない」と約束。
●このかん、種子島漁協は馬毛島開発の採石事業計画に一貫して不同意。浜脇漁協長は、水路開設のための岩礁破砕に対する補償条件を漁協組合員に伝えないなどして妨害工作を続ける。(馬毛島開発の事業を断念させ、中間貯蔵計画に土地を売却させる目的か?)
●6月、馬毛島開発の事業に対する漁協承認問題で、浜脇組合長がアンケート調査を実施。そのうち第2問は「国・県が馬毛島を買い取り事業を行うこと」への賛否を問うもので、漁師たちはこれを県と西之表市が誘致運動していた宇宙往還機基地と解釈し、大多数が賛意を記した。のちに浜脇氏は、この結果をもって「漁業者は中間貯蔵に合意済み」と県に説明。6月25日、馬毛島開発はこの設問に抗議。
●7月8日、西之表市議会全員協議会で立石社長が「核燃施設に土地を売却しない」と約束。
●7月末、福島原発への見学ツアー開始。最初は建設業者、次はその夫人、中小事業主と広がり、9月ぐらいから漁協組合員、漁協婦人会、船主会なども参加。ツアー途中の食事会で若狭会事務局長(原幸一氏?)は参加者に、「2年前、馬毛島の購入を(立石社長に)頼んだが断られた。増田(中種子町)も検討しているが、敷地と海とのあいだに道路(県道)があるので難しい。理想は(種子島北端の)国頭(くにがみ)のゴルフ場予定地。全国に候補地が16か所ある。どうしても種子島ということではないが、地元から要望があれば立地できる」などと説明した。
●馬毛島の買い取りにさいして立石社長が住友銀行に支払った金額は5億円で、裁判証言での276億円ではない。
●採石事業は馬毛島の40分の1ぐらいの面積で数十年間は続けられるため、宇宙往還機の発着場ができる場合にも採石跡地が差し障ることはない。馬毛島の地質は砂岩で、コンクリート骨材か崩して砂として売る。1立米(?)あたり10円の利益があれば十分で、堅実に息長く経営したい。石材を運び出したあとには首都圏からの建設残土を持ち込んで覆土する予定。

 このほか、原発見学ツアーを運営し資金提供したという若狭会・原幸一氏の上部組織についても言及があり、現在主要メディアが調査中。その中には自民党K代議士の名も挙がっており、キーパーソンらしき代議士秘書経験者S氏の名前は、原子力資料情報室が掴んでいたものと合致。「馬毛島開発も浜脇漁協長による中間貯蔵施設誘致の動きで大変な迷惑をこうむっている」という後庵氏らの主張が、まったくの作り話ではないことをうかがわせる。ただし、住友の影が濃い立石建設/馬毛島開発の採石事業が途中で中間貯蔵施設に化けないかどうか、確証は得られていない。
 いっぽう、26日の上屋久町「核施設はいらない島民の会」に出席した西之表市「核施設をつくらせない市民の会」副会長・日高氏は、「馬毛島開発が近く閉鎖される」という噂を紹介(出席した当事務局・羽生町議の談)。


2月23日 馬毛島開発との電話によるやりとり

 翌日、馬毛島開発・後庵氏から事務局・星川宅へ電話(出張中のため夫人が応対)、
「推進派がまた動き出しています。止まっていたツアーがはじまり、こんどは西之表の一般主婦を対象にした女性ツアーのようで、27日(日)に出発するそうです」とのこと。こんな情報を伝えてくるのを不思議に感じたものの、「昨日は主人がお話をうかったようですが、まだ帰宅しておりませんので内容を聞いていません。重なるところがあるかとは思いますが、私の疑問とする点について少しお聞かせ願えませんか」と話しかける。

――立石社長が離島としては超破格の276億円で馬毛島を取得したと伝え聞きましたが、本当でしょうか。

後庵(以下G)
 そんなことはないのです。立石社長は5億円(種子島の反対運動関係者からは15億という情報が入っている)で購入した。276億というのは昔の石油備蓄基地誘致で平和相互銀行(のちに住友に吸収。住友はJCOと同じ原子力関係の系列)が志布志湾のほうと競ったときに使った金の額で、そういう話が流布することが困るんです。どこから伝わってきたんですか?

――それはお話しできません。5億円で購入して本当に採石事業をはじめるのですか?

G 前々からすぐにはじめたかったが、(中間貯蔵施設誘致)推進派の浜脇(種子島)漁協長がわれわれの建設に関するさまざまな説明を漁協の中に流さずにストップさせ、邪魔をしているのでことが進まずに本当に困っている。会社としては日一日と高額の金利がかかるわけで、この状態は非常に大変なことなんです。

――採石の開発予定に飛行場があるのはなぜですか?

G それは立石社長が枕崎の出身で友人がたくさんおり、枕崎から直接馬毛島に来れるよう、飛行場建設を予定しているんです(枕崎には地方空港がある)。

――馬毛島は長年、京都大学などがマゲシカの生態調査を進めていて、自然淘汰された群れの生態は世界の中でも珍しく、ほかにも植生や鳥、爬虫類などの研究にも着手しており貴重な島なので、研究者はもちろん私たちもなんとかこのまま「馬毛鹿サンクチュアリ(生態保護区)」として残し、子どもたちの勉強の場にもできないものかという願いをもっています。この件について立石社長にナショナル・トラスト化の可能性を問い合わせてみたいと思いますので、連絡先を教えてもらえませんか?

G いやいや、いまはそういう話を社長にしたくないし、できる状態ではない。トラストについては私もロンドンにいたし、いま娘がロンドンにおり、あちらの公園などいまあるところはトラスト運動の結果だということはよく知っています。社長も私も水産系の人間なんで、そのへんのことはよくわかっていますよ。その件についてはかならず時期を見て社長に話をしますが、いまはとにかくとてもその話をできるときでない。会社として金利に追われて大変なときですから。(南日本新聞は以前、若狭会の原氏の取材をしたとき同時に立石社長にも取材を申し入れたが、断られたという。)

――そのように金利で大変ということは、たとえば核施設推進の側から売ってほしいという話はないのですか? 新聞では立石社長が脅迫されているというお話も出ていましたが……。

G 去年、社長のところへ種子島出身の原という男がリムジンで乗りつけて売れと言ってきたことは聞いているが、そのほかにはないと思う。馬毛島については表土が薄く痩せたところで、前にも羊を飼ったことがあるようだが、ひどいダニが湧いてだめになったし、いまだって鹿もようやく生きてるんで、なんでもかんでも食べてツワなんか見当たらなくなっている状態だから……(裁判記録の中では立石氏が採石計画に付随して羊を飼う牧場を経営すると証言)。もう家内に「会社をやめなさい」とゆうべも言われた。直接だれも聞いてこないのに、悪い噂だけが取り沙汰されて迷惑して困っている。この女性ツアーの話もゆうべ家内が聞いてきたんですよ。

後庵氏は立石氏の恩師で、馬毛島開発の種子島事務所所長にあたる立場だが、より具体的な動きはあまりフォローしていないような印象だった。[聞き取り:星川加代子]

2月24日、宇宙往還機(HOPE)実験機の着陸場がクリスマス島に決定したとの発表を受けて、西之表市と鹿児島県、および熊毛地区協議会(1市4町の首長と県議で構成)は引き続き馬毛島に実用機の着陸場を誘致することを確認。これには、中間貯蔵施設誘致に対する間接的歯止めの意味もあると見られる。中種子町の「核施設をつくらせない町民の会」は3月3日に結成予定。



 在日米軍再編に絡み、政府は米軍厚木基地の空母艦載機離着陸訓練場として西之表市の馬毛島を候補地の一つとして検討している。同島は現在、ほぼ全域を馬毛島開発(本社・東京)が所有。昨年から空港建設の設計測量のための伐採を進めている。今後の構想などを同社の立石勲社長(73)に聞いた。
(種子島支局・三島盛義)


空港計画も推進

 -訓練場候補地の打診はあったのか。
 「政府からの打診はなく、報道陣に取材され知った。われわれも情報を聞きたいぐらいだ」
 -候補地として名前が挙がったが地権者としてどう考えるか。
 「一つの地域浮揚策としてあってもいい。県など地元から要請があれば、ビジネスチャンスととらえ前向きに検討したい。厚木基地を見に行ったが、周囲は住宅地で騒音も少ない。馬毛島と西之表市は13キロ離れており問題はない」
 -島は国に売却するのか。
 「馬毛島は15年かかって買った場所。土地は売らない。PFI(民間資金活用による社会資本整備)でやる」
 -貨物専用飛行場の建設計画はどうなるのか。
 「欧米から中国、インド向けの貨物仕分け空港を考えていた。しかし、既に上海に貨物空港ができ、チャンスを逃してしまった」
 -空港建設計画は中止するのか。
 「用途は別にして空港はつくる。(グループ主企業の)立石建設では出雲、新潟、羽田で空港建設の実績やノウハウがある。滑走路は南北方向4000メートル幅60メートル、東西方向2100メートル幅45メートルの2本。総工費は500-600億円」
 -具体的な建設計画は。
 「馬毛島に従業員が22人いる。2階建ての従業員宿舎を4月には完成させ、6月には6階建ての事務所ビルを建てる。学校用地も確保している。測量を行うための伐採は71ヘクタールが終了。今後90ヘクタールの伐採と測量を1年かけて行う」
 -馬毛島にはマゲジカなど希少動物もいるが。
 「シカにも生きる権利があり共生を考えていく。西海岸の約66ヘクタールを公園として残す計画だ」

 たていし・いさお氏  1933年、枕崎市出身。52年鹿児島水産高卒後、マグロ遠洋漁船に乗り組む。2級建築士資格などを取得後、58年に立石建設(東京)を設立。馬毛島開発社長。


日米両政府が在日米軍再編最終報告に2006年に合意して、5月1日で3年を迎える。馬毛島(西之表市)が候補地となった米空母艦載機の訓練施設の選定や、海上自衛隊鹿屋航空基地(鹿屋市)での空中給油機訓練計画で、目に見える動きはない。しかし、鹿屋基地で08年11月に初の日米共同訓練があり、県内各地で米軍機の往来が目撃されるなど、米軍との“垣根”は低くなりつつある。
(米軍再編取材班)

「本当に米軍は来るのか」。西之表市の無職男性は悩んでいる。男性は市内に土地・建物を所有。その物件をIターン希望者が購入したいと伝えてきた。
 西之表市の沖12キロにある馬毛島は、米軍機訓練施設の候補地。このことを知ったIターン希望者は突然、「米軍施設ができて、飛行機の騒音があるところに移住したくない」と言い出した。景気が悪い中、まとまった現金収入を期待していた男性だが、契約はまとまらなかった。
■ □ ■
 最終報告は、米空母艦載機が現在の厚木基地(神奈川県)から岩国基地(山口県)へ移駐するのに伴い、「恒常的な離発着訓練施設を09年7月、またはその後のできるだけ早い時期に選定する」とした。訓練はタッチ・アンド・ゴーと呼ばれ、着陸と同時に急上昇する飛行を繰り返す。
 日米合意後、馬毛島が訓練候補地の一つに浮上。07年12月には、馬毛島のほとんどを所有する民間会社・馬毛島開発が西之表市議会の特別委員会で「夜間離発着訓練を誘致する」と明かし、一気に注目を集めた。
 いまだ政府の公式見解はないが、今年3月30日、ジェームズ・ケリー在日米海軍司令官(神奈川県横須賀市)が司令部での会見で艦載機移駐に言及。「日本政府と協議し、岩国基地周辺の空海域に訓練スペースを見つけることについて、非常にうまく進んでいる」と発言したため、訓練地が岩国周辺で決まるのではないか、との憶測を呼んだ。
 これを受け、西之表市議会は4月3日に馬毛島対策特別委員会を緊急開催。情報収集に当たったが、米軍の真意は分からなかった。
 防衛省は取材に対し「司令官は岩国の現在の訓練空域について述べただけ。艦載機移駐による新たな訓練地は日米で調整中」とし、「岩国案」を否定。同司令官は既に退任し、両政府に翻弄される西之表市の姿が浮き彫りとなった。
■ □ ■
 防衛省は、現在離発着訓練が行われている硫黄島(東京都小笠原村、滑走路3000メートル)と同規模施設を建設できる場所を選定中。これまで馬毛島を含め、全国で350カ所を候補地とした。しかし、米軍から具体的な訓練計画が示されず、絞り込みは進まないという。
 最終報告の「今年7月」という期限が迫るが、衆院選の時期も絡み、同省は「選挙の争点になるのは避けたい。日米協議を踏まえ、状況を見て対応したい」と慎重姿勢を崩さない。選定日時があいまいになっているのも「訓練場所の決定は難しいとの認識が日米双方にあるため」と説明、協議が難航する可能性を示唆する。

 昨年11月、鹿屋市の海上自衛隊鹿屋航空基地を初めて使い、日米共同訓練が行われた。鹿屋基地には米海軍のP3Cと支援要員ら約55人が滞在。大きな混乱もなく、7日間の日程を終えた。多くの鹿屋市民にとって、このときが初めて米軍を間近に感じたときだったといえる。
 同市の飲食店主は「最初は米兵が来るのは怖かった。『米軍お断り』の店もあった」と話す。しかし、トラブルはなく、売り上げも上がったため、イメージが変わったという。「常駐しないのなら受け入れていい。商店街は潤うし、国の補助金も出る」と期待する。
 一方、別の飲食店主は「今回は階級が高く教養もあった」と指摘する。全国で相次ぐ米兵の犯罪を踏まえ、「鹿屋に来る隊員がどのような人か想像できない。市民の安全が保証されないと飲み屋街の客足は遠のく」と慎重姿勢。米軍をめぐり、市民の見方は割れたままだ。
■ □ ■

 最終報告で、沖縄県の普天間飛行場から岩国基地(山口県)に移駐し、鹿屋基地とグアムで訓練すると明記された給油機部隊。日米合意から3年たつが、「訓練回数や離発着回数など、具体的内容が米側から示されない」のを理由に、国から説明はない。鹿屋市も「騒音などの影響や基地の使用根拠について質問しているが、具体的な回答はない。詳細な説明があった段階で、地元への影響を検証し、鹿屋・大隅地域の総意を集約したい」とする。
 ただ、水面下では動きがあるようだ。政府関係者によると、普天間の給油機部隊が昨年、大幅に入れ替わり、「鹿屋を視察したい」と申し入れてきた。しかし、日本側が昨年11月の日米共同訓練を考慮し、地元を刺激するのを避けるため、視察を延期するよう求めたことがあったという。
 来年2月に任期満了を迎える鹿屋市長の選挙も、地元説明の時期に影響しているようだ。防衛省は「選挙に影響がないよう、タイミングを見計らっている。来年4月以降の早い時期に具体的な説明ができれば」としており、市長選が終わるのを待って本格協議に入る構えだ。

■ □ ■
 そんな中、県内各地では米軍機の往来が頻繁に目撃されている。2006年には給油機の同型機とみられる航空機が相次いで目撃され、今年4月には日置市上空を飛行する米空軍嘉手納基地(沖縄県)所属の特殊作戦機が確認された。県民には「米軍再編への地ならしでは」という見方も多い。
 また、昨年11月の鹿屋基地を拠点とした日米共同訓練は、潜水艦への対処が主目的だった。まったく同じ日程で、南西諸島周辺では米原子力空母ジョージ・ワシントンと海上自衛隊が対潜水艦訓練を実施した。

 この2つの訓練が連動しているかは不明だが、鹿屋の周辺で自衛隊と米軍の一体化が進んでいるのは間違いなさそうだ。

2008年12月16日火曜日

【新聞記事】 NYT(ズビグネフ・ブレジンスキー)

ズビグネフ・ブレジンスキー(Zbigniew Kazimierz Brzeziński, 1928年3月28日 - )は、ポーランド出身の政治学者

カーター政権時の国家安全保障担当大統領補佐官でオバマ政権の事実上の最高顧問で、戦略家として知られている。そのズビグネフ・ブレジンスキーは、ハト派の多い民主党のアドバイザーであるが、タカ派で有名である。共和党のヘンリー・キッシンジャーとの交流が知られている。

その彼が、2008年にNYTに寄稿をしたものである。

The global political awakening
By Zbigniew Brzezinski
Published: Tuesday, December 16, 2008
http://www.nytimes.com/2008/12/16/opinion/16iht-YEbrzezinski.1.18730411.html?pagewanted=1

A new president is assuming office in the midst of a widespread crisis of confidence in America's capacity to exercise effective leadership in world affairs. That may be a stark thought, but it is a fact.

Though U.S. leadership has been essential to global stability and development, the cumulative effects of national self indulgence, financial irresponsibility, an unnecessary war and ethical transgressions have discredited that leadership. Making matters worse is the global economic crisis.

The resulting challenge is compounded by issues such as climate, health and social inequality - issues that are becoming more contentious because they have surfaced in the context of what I call "the global political awakening."

For the first time in history almost all of humanity is politically activated, politically conscious and politically interactive. Global activism is generating a surge in the quest for cultural respect and economic opportunity in a world scarred by memories of colonial or imperial domination.

This pertains to yet another fundamental change: The 500-year global domination by the Atlantic powers is coming to an end, with the new pre-eminence of China and Japan. Waiting in the wings are India and perhaps a recovered Russia, though the latter is very insecure about its place in the world.

In this dynamically changing world, the crisis of American leadership could become the crisis of global stability. Yet in the foreseeable future no state or combination of states can replace the linchpin role America plays in the international system. Without a U.S. recovery, there will be no global recovery. The only alternative to a constructive American role is global chaos.

It follows that the monumental task facing the new president is to regain U.S. global legitimacy by spearheading a collective effort for a more inclusive system of global management. Four strategically pregnant words define the essence of the needed response: unify, enlarge, engage and pacify.

To unify pertains to the effort to re-establish a shared sense of purpose between America and Europe. To that end, informal but frequent top-level consultations are badly needed, even though we are all aware that there that there is no such thing yet as a politically unified Europe. The only practical solution is to cultivate a more deliberate dialogue among the United States and the three European countries that have a global orientation: Britain, France and Germany.

For many years, Europeans have complained they are excluded from decision-making, yet they are perfectly willing to let the United States assume the burdens of implementation. Differences over Afghanistan are but the latest example of that dilemma. It is to be hoped that the new U.S. president will make a deliberate effort to revitalize the U.S.-European dialogue.

To enlarge entails a deliberate effort to nurture a wider coalition committed to the principle of interdependence and prepared to play a significant role in promoting more effective global management. It is evident, for example, that the G-8 has outlived its function. Accordingly, some formula for regular consultations ranging in composition from G-14 to G-16 should be devised to bring together countries with geopolitical significance as well as economic weight.

To engage means the cultivation of top officials through informal talks among key powers, specifically the U.S., the European Triad, China, Japan, Russia and possibly India. A regular personal dialogue, for example, between the U.S. president and the Chinese leader would be especially beneficial to the development of a shared sense of responsibility between the only superpower and the most likely next global power. Without China, many of the problems we face collectively cannot be laid to rest.

Admittedly, China is economically nationalist, but it is also a fundamentally cautious power. It was Deng Xiaoping who best articulated how China defines its international approach: "Observe calmly; secure our position; cope with affairs calmly; hide our capacities and bide our time; be good at maintaining a low profile; and never claim leadership."

This underlines a significant distinction with Russia. Like Beijing, Moscow wishes to revise international patterns, but it tends to be impatient, frustrated and sometimes even threatening. Nonetheless, it is in the interest of the United States and of Europe to engage Russia. In so doing, America should seek agreements that enhance global stability, promote nuclear weapons reduction and deal with such regional problems as Iran.

America and Europe will have to find a way of reaffirming their commitment to the integrity of Ukraine and Georgia while conveying to Russia that their interest in these two states relates to the gradual construction of a larger democratic Europe and is not designed to threaten Russia itself.

To pacify requires a deliberate U.S. effort to avoid becoming bogged down in the vast area ranging from Suez to India. Urgent decisions need to be made, with Europe's help, on several potentially interactive issues.

The Israeli-Palestinian peace process needs to be a priority. The new president should state on the record that a peaceful accommodation between the two parties must: first, involve a demilitarized Palestinian state, perhaps with a NATO presence to enhance Israel's sense of security; second, the territorial settlement has to be based on the 1967 lines with equitable exchanges permitting Israel to incorporate the more heavily urbanized settlements on the fringes of the '67 lines; third, both parties have to accept the fact that Palestinian refugees cannot return to what is now Israel, though they should be provided with some compensation and assistance for settling preferably in the independent Palestinian state; and last, the Israelis will have to accept the fact that a durable peace will require the genuine sharing of Jerusalem as the capital of two states.

The United States will also have to undertake seriously reciprocal negotiations with Iran. That means abandoning the current U.S. posture that Tehran make a one-sided concession as a precondition to talks.

Finally, America's strategy regarding Afghanistan and Pakistan needs a basic reassessment. The emphasis should be shifted from military engagement to a more subtle effort to seek a decentralized political accommodation with those portions of the Taliban who are prepared to negotiate. A mutual accommodation should involve Taliban willingness to eliminate any Al Qaeda presence in return for Western military disengagement from the pertinent territory. The process should be accompanied by intensified reconstruction.

Let me conclude on a parochial note: Unfortunately, the American public is woefully undereducated about the wider world. Barack Obama will have to strive to make Americans understand the novel dimensions of global realities. Without sounding overly partisan, I believe that he has unique intellectual and rhetorical gifts for doing just that.

So let me end my remarks by asserting simply, "Yes, we can."

Zbigniew Brzezinski, President Jimmy Carter's national security adviser, is trustee and counsellor at the Center for Strategic and International Studies (CSIS). This article is based on his 2008 John Whitehead lecture at Chatham House, London. The complete text will be published in the January issue of International Affairs (London).