2006年3月30日木曜日

【民主党】 偽メール事件の戦犯たち(前原)

引越しでネット環境が変わることから、ブログの引越しをはじめ資料も移し変える羽目になったのだが、おかげであえて、過去の記事を読み直しながら、いろいろなことにあえて気がつく。

特に、鳩山政権が崩壊し菅政権に移行をし、オリジナル民主党なるもののメンバーがクロースアップされるたびにメール事件当時の姿とダブル。

メール事件当時の民主党代表は前原であった。党首討論という、議会での発言は非常に重いし、本来であれば、議員辞職のみならず政界からさえも去らねばならないほどの出来事である。に関わらず堂々と菅政権で国土交通省で大臣を勤め、平野官房長官との関係から沖縄担当として、基地賛成派の地方議員と会い、官房機密費から反対派の切り崩しを図るという動きまでしているという。

メール事件では、最終的には永田議員が辞職をし、前原が代表を辞任という形で収まるのであるが、永田議員は後に見捨てられ自殺を図ることになる。下の記事は、メモとして誰かにブログからの転載であろうと思うのだが、記載をし忘れたことから、公開はしてはいなかった。現在でも不明であるが、時系列で読み解くために利用をさせていただく。

メール問題で民主党は、一度間違いなく倒産をしたのであって、その民主党を立て直したのは小沢一郎であることは間違いない。その小沢一郎を排除しようとするのは、非常に奇異な行動に写る。

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 党首討論は午後3時に始まって45分間の持ち時間があったが、ライブドア問題について前原誠司が質問を始めたのは3時35分からで、わずか10分間の質疑応答であり、民主党側からは何の新しい証拠提示や疑惑を確証づける情報の提出はなかった。

「お楽しみに」と嘯いて期待を持たせておきながら、実際の内容はまさに拍子抜けの茶番劇であり、国民を愚弄して余りある前原誠司と民主党の態度だったと言える。党首討論を通じて堀江メール問題は一歩も前に進まない平行線で終わり、メールの真偽も、カネの出入りの実否も、事実解明に寄与する材料は何も出て来なかった。追い詰められた民主党が起死回生の一手を打って来るだろうと思って見守っていた国民の期待は裏切られ、民主党に対する国民一般の不信感と失望感はほとんど決定的なものになってしまった。堀江メール問題については、結局のところ、2/16の初日に小泉首相が言った「ガセネタ」で事実上の決着が着き、疑惑追及の展開はこれ以上なく、民主党内の責任問題になっていくだろう。

それ以外に考えられない。前原誠司は党代表を辞任すべきである。永田寿康は議員を辞職すべきだ。国民と国会に対して謝罪して責任をとれ。永田寿康の行為は、国権の最高機関である国会を侮蔑し、神聖な権威を冒涜する最悪の愚挙である。懲罰動議の前に民主党自らが永田寿康を除名して議員辞職させなければならない。そうでなければ野党第一党としての国民からの支持と信頼を回復できないだろう。

2/17予算委質問で小泉首相の前で立ち往生して泣きを入れた永田寿康を見て唖然としたが、この小僧はあまりに国会と国民をバカにしている。神聖な国会を「テレビタックル」のスタジオと同じだと勘違いして振る舞い、国会議員をテレビに出演して視聴者を笑わす政治タレントだと錯覚している。国会を芸能界の一部だと思っている。そういう勘違いをしている人間は一刻も早く議事堂から追放し、たけし軍団か吉本新喜劇に就職してもらえばよいのだ。民主党の三十代から四十代前半の若手議員には、この類の政治芸能人化した軽薄な小僧が多すぎる。

今回、民主党が自民党に要求している国政調査権の発動が認められれば、偽造された資料や情報を根拠に、一般民間人の預金口座が国家権力の手で調べられて暴かれてよいということになる。例えば、村上世彰が菅直人の愛人である広告会社の女の口座に(秘密の政治献金の目的で)三千万円振り込めと部下に指示したというメールを誰かが捏造して、自民党の国会議員がそのメールを根拠に国政調査権を発動して女の銀行口座を調べろと言ったら、民主党は尤もだと言って応じるのか。

例えば、木村剛が鳩山由紀夫の愛人の銀座のホステスの口座に三千万円振り込めと指示したというメールのコピーが、怪しげなフリージャーナリストを経由して出てきたとき、国政調査権の発動でホステスの口座を調べろという自民党の要求に、民主党は唯々諾々と応じるのか。そんな要求に応じるわけがないだろう。あり得ない。ガセはガセだ。堀江貴文から武部勤に数千万円の賄賂が渡った疑獄事件も重要だが、それ以上に永田寿康が行なった偽造メール事件は重大だ。

単なる失策で見逃すことはできない。メールが偽物であることは、フリージャーナリストが何誌かの編集部に持ち込んで、そこで真偽を疑われて掲載を拒否された時点で明らかだった。週刊誌でさえガセだと怪しんだメールを、国会質問の証拠材料として使えるはずがない。

平沢勝栄の言うとおり、メールは実体としては単なる怪文書に過ぎない。週刊誌であれば、それは根拠のない中傷だとして名誉毀損で訴えられて損害賠償請求される。国会議員には不逮捕特権と免責特権があり、院内での発言は罪を問われない。だからこそ議員の国会での発言というものは責任が重いのだし、重くなければならないのだ。民主党の国会議員は、前原誠司と執行部の姿勢を支持して銀行口座の話に矛先を向けるのではなく、事を曖昧に済ませるのではなく、何故このような偽メールが国会質問の道具としてオーソライズされたのか、自らの手で真相解明して、国民の前に明らかにして贖罪すべきだ。無責任なフリージャーナリストの顔を民主党の手で世間に曝す必要がある。

普通に国会審議を続けていれば、三点セットなり四点セットで、民主党には順風満帆の国会論戦だった。堀江貴文の逮捕以来、小泉内閣の支持率は順調に低下してくれていたのである。我々は、馬渕澄夫が耐震偽装問題から安晋会の疑惑に切り込むタイミングを待望していたのであり、ポスト小泉を叩き潰して再び政局の激動を迎えるのを待っていた。前原誠司が今度の偽メール事件を惹き起こしたのには何か裏があるのではないか。

国会は、この大事な時期に騒動で膠着して一週間の時間を潰した。そして与党の立場を再び優位にして、予算案の審議採決の日程を与党のペースに引き戻してしまった。安晋会疑惑で鳴りをひそめていた安倍晋三が、着実に「復権」を果たして表に出始めている。深読みだが、安倍晋三と前原誠司が示し合わせて偽メール事件を仕掛けたのではないか。ライブドア事件から攻めても投資事業組合問題から安晋会に疑惑が及んだ。耐震強度偽装事件から攻めても、当然ながら安晋会疑惑に流れ込んだ。今国会は安晋会疑惑追及国会になってしかるべきだった。

安倍晋三と前原誠司は仲がいい。、偽メール事件の本質は民主党内の権力闘争と党分裂、改憲へ向けての政界再編という展開に向かうはずだった。

前原誠司が卑劣な逃げ切りを図っている。民主党の国会議員は何があっても前原誠司の居直りと責任逃れを許すべきではない。前原誠司と執行部のやっていることは、自分の過失責任をゴマカして、権力で強引に中央突破を図ろうとするものだ。逃げ切れないと悟った永田寿康は、昨深夜中に議員辞職の意向を固め、本日(2/23)の午前に記者会見の準備まで整えたのに、前原誠司が強引にそれをキャンセルさせた。

永田寿康のためではない。自分のためだ。自分の保身のために永田寿康に辞職会見を撤回させたのである。あの顔が性格を隠さず示しているように、前原誠司はどこまでも卑劣で佞悪な男だ。他人の事を何も考えていない。この判断と行為が将来の民主党にどのような影響を及ぼすかを全く考えていない。動機は自分のその場の権力保持だけだ。永田寿康は失敗をしたが、ここで辞職会見をきちんと開いて、偽メールに迂闊に手を出した軽率を反省して素直に国民に詫びれば、若いのだから出直しはきく。

だが、このまま辞職会見を開かず、国会にも出て来ずに雲隠れを続ければ、支持者からは完全に見放されて、最終的に自身の政治生命を失ってしまう。タイミングが大事だ。いずれは必ず辞職か離党に追い込まれる。そして中途半端に離党身分のまま国会の中を歩いていたら、周囲から軽蔑と嘲笑を受けて、それこそ羞恥と不面目で身の置き場がないだろう。自分を政治家として生かすためには議員を一度辞めねばならない。それが正しい選択だ。

永田寿康が頼り従うべきは国民の意思であり、前原誠司の指示ではない。前原誠司は永田寿康の政治家としての将来などには何の関心も配慮も払っていないのであり、自分の事しか考えていない。他人や党や有権者のことは眼中に一切ない。辞職発表を中止させたのは、永田寿康にとっては言わば罠であり、本当は永田寿康はそれを見抜かないといけないのだ。辞職を先延ばしする行為は自分の政治生命にとって結果的に損失だという判断が下せないといけない。

メールの真偽の問題は重要である。疎かにできない。四点セットの疑惑も大事だが、偽メール問題はそれ以上に重大で、ここには国会の権威と野党の信用という根本的な問題がかかっている。福岡政行が「戦後憲政史上最悪の汚点」という大袈裟な表現をしていたけれど、この問題は議会政治の根幹に関わる。

今回の民主党執行部の国会軽侮の妄挙愚行は甚だしい。国会と国民を舐めきっている。この問題に始末をつけなければ、民主党は今後の国会で政府を追及することが不可能になる。国会での野党の政府追及を国民が信用しなくなる。例えば、今後の耐震偽装問題で、馬渕澄夫がどれほど驚くような爆弾証拠を出して政府与党を追及しても、「またガセかよ」の一言で終わらされる事態になる。説得力と緊張感を失う。つまり、国会質問というのは、その追及が追及として意味を持って政治を動かせるのは、野党が質問攻勢する背後に国民の支援と注目があるからなのであり、それが失われれば、何の威力も持ち得ないのだ。

そこには前提があり、すなわち権力を現実に行使する与党は、諸々の利害が錯綜する浮世の埃悪に屡々手を染めつつ行政の匙加減を司るが、それを監視する立場の野党は、行政責任がなく、純粋に正義と公正の実現を追求して政権を糾すべく立ち臨むことができる。そういう原理的な前提がある。その延長に政権交代がある。だから野党は不断に正しくなくてはならない。そうでなければ、前提が失われれば、野党の政府追及には意味がなくなる。例えば、詐欺罪で何度も捕まった人間が「この商品はいいですよ」と口上を言えば、どれほど商品が本当によくても、お客はその商品を絶対に信用しない。つまりこれは国民の信用を失うということである。野党が国民の信用を失うということは国会が信用を失うことを意味する。野党と国会が国民にとって無意味なものになれば、民主主義の国家制度は実質的に不要なものになる。永田寿康と野田佳彦と前原誠司がやったことは、意味としてはそういう「国会無意味化」の行為だった。

四点セットの疑惑追及も大事だが、その前に、それを追及する主体を再整備する必要がある。前原誠司を代表として据え置いたままで馬渕澄夫の耐震偽装問題追及の国会質問は聞きたくない。信用できないからだ。必ず前原誠司と野田佳彦が政権と妥協する駆け引きをして、馬渕澄夫の質問を邪魔するに決まっているからだ。前原誠司は四点セットで自民党を追及して追い詰めようなどと心の中では露ほども思っていない。今度の騒動は四点セット追及を自ら妨害する悪質な利敵謀略行為だった。一部に民主党の現体制を擁護して小泉政権批判に集中するように言う声があるが、それは間違っている。現在の前原体制の民主党を支持しても、小泉政権を追及する力には決してならない。前原誠司を党代表の座から引き摺り下ろして、真に野党指導者に相応しい人間を党首に据えなければ、どれほど有利な武器材料が揃っても民主党は自民党を攻め倒すことはできない。国民の正しい選択としては、民主党の主体性を甦生回復させることだ。

平沢勝栄が暴露して(2/24)、メールは例のフリーライターがライブドア社員にカネを払って捏造させたものだという疑惑が明るみに出た。この話は納得できるものだ。一方の河村たかしは、メールは堀江貴文の指示で堀江貴文の部下が発信したものだと未だに吠え続けているが、平沢勝栄の説明の方がはるかに説得力がある。メールはライブドア社内で作成されたものに違いない。メールが堀江貴文本人によるものでないことは、この一週間の各マスコミの検証作業で明らかになっていた。偽メール事件は、今後さらに二つの問題に集中して関心を高めてゆくだろう。一つの焦点はフリーライターで、この男と永田寿康との具体的な交友関係、この男とライブドアとの関係について検証が及んで行くことが予想される。もう一つの焦点は民主党執行部の責任問題である。民主党は具体的な疑惑の証拠を出す出すと言いながら何も出さず、結局のところ、時間稼ぎをして問題を曖昧に揉み消そうと企んで立ち回っている。

しかし新事実が出て来て、民主党の立場はどんどん弱くなるだろう。五輪が終われば、民放各局のワイドショーはこのネタに集中して番組を作らざるを得ない。疑惑の渦中のフリーライター西澤孝については、今週号の週刊新潮が詳しい記事を書いていて、その正体について衝撃の事実が満載されている。情報はすでにネットの中に溢れていて、今さら仮名で取り扱う必要もないと思われるが、一言で言って業界ゴロのガセネタ屋であり、過去に問題記事を連発して何誌かの雑誌社では出入り禁止にされている。32歳の若い年齢ながら、すでに二回の持ち込み記事で名誉毀損の裁判を惹き起こし、敗訴して損害賠償支払と謝罪文掲載の判決を受けている。経歴詐称ぶりも甚だしい。フリーライターとは言いながら、業界では詐話師同然の要注意人物だった。この西澤孝が新しく出版社を立ち上げて、今年の3月に創刊を予定していた雑誌が「DUMONT」で、その新刊号の表紙を永田寿康が飾る予定になっていた。

永田寿康はいつごろどこで西澤孝と知り合ったのだろうか。永田寿康が雲隠れ前の先週フジテレビのインタビューに答えた映像を見ると、メールの信憑性を確信する第一の根拠として、この情報を持ち込んだ記者(西澤孝)が信頼できる人物である点を強調し、単なる記者ではなくて自分の親しい友人だと断言していた。しかし報道では西澤孝はガセネタ屋の詐話師である。二人の間に何があったのか。テレビ朝日のスパモニでは、西澤孝に直接取材して事情を聴いていた(声だけだったが)が、永田寿康とは特に深い関係はなく、またライブドアとも一切関わりがないと答えていた。テレビの取材ではライブドアとの関係を否定した西澤孝だが、平沢勝栄の暴露では、西澤孝自身がメールの内容を案出して、関係のあるライブドア社員に現物を書かせている。話が矛盾する。民主党の説明でも、内部告発したライブドア社員が西澤孝にメールを持ち込んだという話だから、西澤孝本人が全くLDと関係がないということはあり得ない。

つまり、西澤孝はスパモニのインタビューで嘘を言っていることになる。メールを持ち込んだフリーライターについては情報が出た。これから来週にかけて、その先のライブドア社員の正体にまで暴露の範囲が及ぶだろう。平沢勝栄がテレビで情報を漏らす前に抜けばスクープになる。平沢勝栄が人物を特定しているのは確実で、西澤孝とLD社員の間の具体的な関係や渡ったカネの金額も掴んでいるはずだ。雑誌が抜かなければ、ワイドショーで平沢勝栄が徐々に漏らして行くだろう。偽メール事件についての真相解明は、現在のところ、テレビでも雑誌でもなく平沢勝栄が主導権を握っている。永田寿康と西澤孝とLD社員の三者間の事情は我々が最も知りたいポイントでもある。17日だったと思うが、テレビの前で前原誠司が、自分も記者(西澤孝)に直接面会して話を聞き、記者が信用できる人間でメールが本物であることを確信したと発言していた。それを見たとき少し驚いたが、確かに前原誠司はそう言っていた。

永田寿康以外に西澤孝と会ったことがある民主党の人間は、前原誠司だけか、前原誠司と野田佳彦のニ人だけだ。今回のメール質問は民主党にとっては極秘作戦で、この三人以外の人間は事前に関知していないし、事後の現在も情報を知らされていない。西澤孝と永田寿康の二人は、今度の国会質問を新刊誌「DUMONT」の創刊を記念する祝賀行事にするつもりだったのだろうか。普通の人間の感覚からすれば、ここで西澤孝から永田寿康と前原誠司にカネが流れていたのではないかという推測になるのだが、プロフィールを一瞥するかぎり、年齢的にもさほど資産を持っているようには見えない。前原誠司と永田寿康と西澤孝の三人に何があったかが知りたい。そこに何かがあったかどうかは不明だが、何かがあったのではないかと一度は考えてみなければならないほど、今回の偽メール事件はお粗末なのだ。可能性として、偽メールは単に持ち込まれたものではなく、メールの捏造を永田寿康自身が最初から知っていた可能性もある。

偽メール事件がますます混沌として魑魅魍魎な様相を呈してきた。今朝になって突然、メールの受信者と発信者が同じ「フリーライター」だという話になった。東京新聞が一面トップでこの件を報じていて、朝の各局ワイドショーも河村たかしの談話で民主党の調査によってこの「事実」が判明したと言っている。さらに今朝発売された週刊現代(3/11号)でも、編集部が黒塗りされる前のメールを入手したとして、送受信アドレスが同じであったことを報じている。奇妙な感じだ。この情報を否定する材料はないのだが、何で急に今日になって出てきたのだろう。ワイドショーの報道では、要するにフリー記者の向こうに情報源のライブドア社員がいたという話は嘘で、さも情報源があるようにフリー記者が見せかけた自作自演の一人芝居であり、それに永田寿康が巧く嵌められた結果だという説明をしていた。だが同時に、それとは少し矛盾する感じの話も出ていて、送受信アドレスの欄を黒く塗り潰したのは永田寿康自身だったという情報である。

混迷していて何が真実なのか分からない。この疑惑のフリーライター(西澤孝)が表に出て証言しないかぎり真相解明は一歩も前に進まず、それまでは平沢勝栄の暴露を信用して導きの糸にするしかない。民主党から出てくる情報というのは全く信用できない。私は「メールの送受信アドレスが同じ」という情報は現時点では信用していない。今朝のワイドショーの河村たかし談話では、メールの送受信アドレスが同じでフリー記者のものだという事実が判明したのは、四、五日前のことだという。それなら何故そのことを今まで発表しなかったのか。胡散臭い。この「事実」そのものが、民主党による辻褄合わせの捏造ではないのか。記憶では、2/19の「バンキシャ」でメールの検証報道があり、メールソフトの専門家なる人物が登場して黒塗りの下のユードラのバージョン情報を暴いたのだが(堀江貴文が使っていない古いバージョン)、その中ではメールの送信元と受信先のアドレスが一致するなどという話は出ていなかった。

コピー入手したメール文書からユードラのバージョン情報を読み取れる程度に黒塗りの下の文字を判読できるのであれば、メールアドレスも十分に判読できていたはずだ。なぜ「バンキシャ」はその大事な事実を放送しなかったのか。同じく昨日(2/26)の「バンキシャ」では、黒塗りの下の名前を明かして、上の部分が「山崎」、下の部分が「北川」である検証情報が公表された。だが、昨夕の放送でも送受信アドレス一致の情報は番組の中では出なかった。おかしいではないか。何か嘘がある。何かが隠されている。急に解禁されたように本日の朝になって「送受信アドレスが同じ」、すなわちフリー記者の自作自演という「事実説明」にさせられている。フリー記者の自作自演説を補強するかのように民主党筋から流されている情報が、「永田寿康が『ネタ元に騙された』と言っている」という情報で、何やら永田寿康を「被害者」に仕立てて見せるような演出である。これも怪しい。ここまで情報が錯綜した場合は、自分で推理を組み立てるしかない。

私は永田寿康とフリー記者(西澤孝)は共謀共犯関係だと考えている。メールの捏造は二人で企てたものだ。そしてフリー記者(仲介者)の向こう側にいるライブドア関係者(情報源)というのは必ず存在するはずだ。平沢勝栄は先週のテレビ番組で、仲介者と情報源との間にはドロドロした関係があり、カネのやり取りがあると明確に指摘していた。今度の民主党の証言(と東京新聞と週刊現代の報道)は、情報源の存在を否定するものであり、これは何かと言うと、要するに民主党はライブドア社内に存在するはずの内部告発者を隠そうとしているのではないか。つまり党を挙げて、この堀江貴文から武部勤の二男に賄賂が贈られたという疑惑を自ら否定しようとしているのである。フリー記者の功名目的の自作自演のデマだったというところに「事実」を落着させようとしている。永田寿康はフリー記者に騙された軽薄なお調子者だったという「事実」で済まそうとしている。それで世間を納得させようとしてる。本当はそうではないはずだ。

フリー記者に武部勤の二男と堀江貴文との間のカネのやり取りの噂を漏らしたLD内部の人間がいるはずだ。情報源と仲介者の関係があるはずだ。そして噂を聞いたフリー記者が話を永田寿康に持ち込み、その噂話を元に二人で相談して捏造メールを作った(カネを払って情報源の人間に作らせた)はずなのだ。そしてその捏造メールを週刊文春と週刊ポストにフリー記者が持ち込み、メールの信憑性を疑われて掲載を拒否され、そのために記事にならないまま国会質問に至ったというのが真相なのではないか。私はそのように推理する。本当は永田寿康は国会質問の前に週刊誌で事件にしておきたかったのだ。疑惑追及の環境を事前に作っておきたかったのだ。だから、この偽メール事件の首謀者はフリー記者個人ではなく、永田寿康とフリー記者の二人である。永田寿康は騙されたのではない。それは民主党が最近になって意図的にマスコミを使って事実化しようとしている作り話だ。嘘だ。要するに民主党は武部勤の件の追及は撤回したのである。

偽メール事件の真相を掴んでいる自民党と取引して、事件の真相暴露を控えてもらう代わりに武部勤と堀江貴文との間の贈収賄の問題も闇に葬ろうとしているのである。民主党と自民党との間でWinWinのバーター取引が成立したのだ。それが「送受信アドレスが同じ」の「落着」(=幕引き)の裏側である。自民と民主が手打ちした以上、平沢勝栄の情報も信用できない。今後は暴露情報ではなく操作情報になる。それと、今日(2/27)昼のTBSの番組に出演した河村たかしは、件のメールの黒塗りされていない現物について、紙ではなくPC上で目撃したと証言していた。この証言は重要である。民主党関係者のPCのユードラ(旧バージョン)の上にそのメールが乗っていたと言っているのである。この話は誰が聞いてもおかしいだろう。民主党関係者がメールの偽物を作ったか、メールの作成者が民主党関係者あてにメールを送ったかでないと、河村たかしの証言のような事態はあり得ない。この証言は、まず、メールが本物であると言っている民主党の主張を根底から突き崩す。そして次に世論操作用のメールの贋作が民主党内部で作られているのではないかという推測に及ぶ。

表面上の態度は殊勝に取り繕ってみせていたが、会見の言葉を聴き取り、表情を確かめれば、この男が心の中では露ほども反省していないことは明らかな、不愉快で苛立たしい謝罪会見劇だった。苛立ちを覚えさせられたのは、永田寿康の無反省な会見内容以上に、会場に集まった頭の悪い記者たちの無意味な時間潰しの質問群で、肝心な偽メール事件の真相解明に繋がる質問や追及を何一つ発することなく、むざむざと永田寿康に「謝罪会見」の既成事実を作ってやって、民主党の窮地脱出に協力してやっていた。事前に民主党から記者たちに働きかけがあったのだろうが、まさにシャンシャン会見。マスコミの国会記者というのは、どうしてこれほど緊張感がないのだろうか。まず、メールの送信元アドレスの問題について、記者たちは追及できず、永田寿康に巧妙に逃げ切られた。最初に仲介者から永田寿康の前にメールのコピーが渡されたとき、送信元アドレスが黒塗りにされていたのかどうか、永田寿康の口から確認をさせる質問は最後まで出なかった。

これまでの民主党側の説明では、一転二転しながらも、現在のところは、永田寿康が最初に受け取った時点で黒く塗り潰されていたことになっている。だが、それでは、発信者が不明なメールを根拠に、何も確認しないまま、それを堀江貴文発信のメールだと言って国会で武部勤を糾弾していたわけで、ここに重大な問題が発生することになる。この点は今日の朝日新聞の記事にもあるとおりで、記者会見では当然この問題に質疑が集中して、永田寿康が追及されるものだと思っていた。ところが記者たちの質問は腫物を恐る恐る撫でるようなもので、疑惑を正面から質して真実を明らかにしようとしたものは何も無かった。現在のところは、デフォルトでは最初から黒塗りだったという話になっている。だが、2/19の「バンキシャ」の中でも出ていたが、永田寿康はさも送信元アドレスを見たかの如く、「堀江氏は何種類ものメールアドレスを使い分けているから」と言っている。今日の会見では、メールのボディを見て堀江発のメールだと信じたという話に収めていた。

黒塗り問題については依然として疑惑が残る。仲介者に騙された格好に取り繕った永田寿康と民主党だが、果たしてそれで最後まで押し通すことができるだろうか。私は、永田寿康と仲介者が共謀してメールを捏造したという疑念を未だに払拭していない。メール捏造を隠蔽するために民主党が「送受信アドレス同一人物」という(仲介者に責任を被せる)架空話を作っているのではないかと疑っている。これが一点。それと、永田寿康がメールの信憑性を(送信アドレス黒塗りでありながら)確信した理由について、今日も永田寿康は仲介者との親密な関係や信頼できる人物である点を強調していたが、この人物についてはすでに記者たちは多くの情報を得ていて、週刊誌が書いたとおり、出版業界でこれまで数々のトラブルを起こしてきた要注意人物であることを知っているはずだ。なぜそんな人物が持ち込んだメールを永田寿康は簡単に信用したのか。どうしてそのことを永田寿康に向かって正面から質問しないのか。それこそが国民が永田寿康に聞きたいことなのだ。

LD関係者とされる情報源の存在についても、結局のところ、永田寿康にはぐらかされて存在するかどうかさえ明らかにならなかった。会場にいる新聞記者の知識や関心が一般のテレビ視聴者以下のレベルで、何の独自取材もしておらず、何の独自情報も得ていないのである。大事な記者会見だったが、偽メール事件の真相解明に向けての十分な追及はなされなかった。幕を引くにはあまりに多くの不可解な疑惑が残っている。今後は仲介者に焦点が向けられて、週刊新潮の次のスクープを狙う雑誌が出てくるだろう。仲介者は裏に隠れ続けることは不可能だ。それでも仲介者が釈明に出て来ないのであれば、武部勤と二男は永田寿康とフリー記者を名誉毀損で刑事告訴してもらいたい。そうではないと偽メール事件の真相が何も明らかにされない。永田寿康は現在でもメールの中身について事実無根と思っていないと言っているのだから、刑事告訴する理由は十分にある。国会とマスコミが真相解明できないのであれば、検察と裁判所に頼る以外にない。

今日も河村たかしがテレビに出演して、メールをPCの画面で見たという証言を繰り返していた。昨日の続きだが、これはやはり奇妙ではないか。民主党関係者のPC上でどうやってメールの現物を再現できるのか。PCの上に同じ旧バージョンのユードラを走らせることはできる。だが、仲介者のメールアカウントを持っていない民主党関係者が、どのようにしてユードラの画面の発信元欄に仲介者のアドレスを表示させることができるのだろう。メールを使うためには取得したアカウントでメールサーバに一度ログインしなければならない。河村たかしの説明では、受信先と発信元が同一アドレス名であるユードラのメールが民主党関係者のPC上で表示されていたと言うのだから、そういう環境を現実に再現するためには、仲介者のアカウントのパスワードを民主党関係者が盗み出してメールサーバにログインするしかない。それはあり得ない。状況を強引に解釈して想像を巡らすならば、すなわちそのPCは永田寿康のPCで、永田寿康が自らユードラを操作して偽メールを捏造していたという具合になる。

軽率な永田寿康が仲介者に騙されていたという話は、私には俄には信じられない。それは嘘ではないのか。

河村たかしに代わって火消し役のテレビ担当になった民主党役員室長の細野豪志は、口先では「真相解明が国民に対する民主党の責任履行」と言いながら、 事実を隠したまま一向に明らかにしようとしていない。この男は嘘を言っている。党を守るために巧妙に辻褄合わせを言っている。細野豪志が真実を隠して言えないのは、それを言えば前原誠司の立場が窮地に追い詰められるからだろう。細野豪志は前原誠司と一心同体の代弁者である。現時点で言えば、永田寿康と前原誠司と西澤孝の三人が微妙な駆け引きを演じている。三者とも後ろめたい暗部を持っていて、すなわち他の二者の弱みを握っていて、同時に弱みを握られているために他の二者を非難できず、他の二者の虚偽を暴露告発できない。三者が互いに庇い牽制して真相を隠している。驚くべきは西澤孝の側の強気で、仲介者であることすら全面否定していて、弁護士を立てて強力に自己防衛を貫徹している。民主党(前原誠司)はマスコミを使って西澤孝を一方的に悪者にし、永田寿康をマインドコントロールに犯された不具者に仕立てて、自己を「詐欺」の被害者のように演出して正当化している。

粗暴な名古屋弁の詭弁を振り回してその場をゴマカし、党の防衛に醜く立ち回っていた河村たかしは、ようやくその役目から解放され、執行部とは若干距離を置いた立場でモノを言えるようになって、例の「送受信アドレスが同一人物」のメールについて目撃証言を漏らすようになった。私が二日前から取り上げている問題だが、鳥越俊太郎はなぜスタジオで「河村さん、それはどこで見ましたか」と訊かなかったのだろう。河村たかしは事実を喋る用意はしていた。われわれが知りたい情報というのは具体的な事実なのであって、解釈や評価や憶測の類ではない。情報を持っている者に話を聴くときは、常に直截的に5W1Hにフォーカスしなくてはいけない。「送受信アドレスが同一」の「事実」は、先週末に民主党執行部が用意して、一昨日から公に流し始めた情報である。これは story であって truth ではない。ズバリ言えば、役員室長の細野豪志が作った「説明情報」である。すなわち、細野豪志が西澤孝に密かに接触依頼して、西澤孝がオリジナルメールのボディをコピーペーストして自分で自分に送ったメールを一本作り、それを細野豪志に転送したのだろう。

党執行部と西澤孝も裏で手を握っている。民主党が西澤孝の名前を表に出せないのはそのためだ。弱みを握られているからであり、事件の発端から幕引きに入った現在まで、執行部と西澤孝はずっと水面下で連携を取り合っていて、どういう収拾と世間説明にするか共同で策を謀議しているはずだ。今回の顛末は決して永田寿康個人の暴走と蹉跌の結果ではない。最初から最後まで前原誠司とその一味が偽メール事件の全体に絡んでいる。私は確かに17日のニュースで、前原誠司が「自分も記者と会って信用できる話だと確信した」という内容のコメントを語った映像を見た記憶がある。前原誠司がその場で嘘を言ったのかも知れないし、私の記憶違いかも知れないが、これが事実である可能性も否定できないと私は考えている。つまり偽メールは前原誠司と永田寿康とフリー記者の三人で共謀して作ったのではないのか。その時期は2月初旬。堀江貴文が武部勤にカネを渡した疑惑について他にも傍証を持っていたのだろうし、まさか16日の夜に小泉首相からガセネタ発言が飛び出るとも思わず、検察からメール不在の証言が出るとも思わなかったのだろう。

16日の夜に自民党から西澤孝に圧力がかかって、二の矢の証拠提出が封じられた可能性もある。何れにしても、偽メールは西澤孝による単独の「詐欺」事件ではなくて、民主党の人間が最初から捏造に関わっていた疑いが濃厚だ。民主党が一方的な被害者だと言うのなら、なぜ真相をありのまま開示公表することができないのか。ネットの一部には原口一博に声援を送っている反小泉の者もいるが、原口一博もこの偽メール事件の部外者の存在ではない。原口一博は2月1日に西澤孝と思われるフリー記者に永田寿康と一緒に会っている。前原誠司の側近の一人であり、永田寿康とは国対仲間だったから一緒に会ったのだろう。原口一博自身が、そのとき西澤孝が二人に説明したライブドア関連の裏情報の信憑性に太鼓判を押している。西澤孝の記者としての取材力と分析力に舌を巻いて高く評価しているのだ。民主党の説明では、この後の2月6日にメールが持ち込まれるのだが、もし2月1日の面談の後で原口一博が西澤孝の経歴について少しでも調べ、人物評の情報を取っていたなら、今度の偽メール事件は未然に防がれていたと言えるだろう。

原口一博がフリー記者を信用したから永田寿康もフリー記者の情報を疑わなかった。原口一博の責任もきわめて重い。もし前原誠司が今度の質問を永田寿康ではなく原口一博に担当させていたら、今頃は原口一博が病院に入院して謝罪会見をしていなくてはならなくなっていた。民主党の若い議員たちが、いかに真面目に情報を精査していないかの証左である。民主党の若手議員、特に前原誠司の周辺でチャラチャラしている松下政経塾出身議員というのは、ただテレビに出演して顔を売って、芸能人の真似をしてカッコをつけて、ギャラを稼いで威張ることしか頭にないのだ。国の政治を本気で変えようとか、国民の生活を守ろうとか、社会の正義を実現しようとか、そんな事は欠片ほども思っていない。「テレビタックル」のスタジオも国会も区別のつかない卑俗な芸能人コンプレックスのタレント議員集団。民主党はまるで政治タレントを抱える芸能プロダクションであり、たけし軍団の永田町支店だ。お笑い芸人が一般人には許されない破廉恥や狂態が許されるように、永田寿康も自分は政治芸能人だからテレビスタジオ(国会)で何を言っても許されると思ったのだろう。

自民党は永田寿康と西澤孝と佐藤晶の三人を国会で証人喚問すべきだ。民主党が偽メール事件の真相をここまで隠し続ける以上、国民が真実を知る手っ取り早い方法はそれしかない。自民党は偽メール事件を解明すべく国政調査権の発動を要求して民主党に承諾せしめよ。

今日発売の週刊文春と週刊新潮でようやく西澤孝の実名が記事の中に出た。週刊新潮には本人の写真も掲載されている。見るからに格闘技系の風貌で、記者とかジャーナリストの言葉が一般に連想させる容姿とは遠くかけ離れている。率直なところ、「ガセ記事常習犯」の前科もさもありなんの印象を受ける。週刊新潮の五ページの記事は基調として創価学会陰謀論で偽メール事件を推断するものだが、全体として意図的で眉唾的な佞報の性格を免れない。ただ重要な情報が提供されていて、西澤孝の防波堤となってきた弁護士(山下幸夫)が創価大卒の筋金入りの創価学会員だったという指摘である。永田寿康が二度にわたって国会で創価学会と公明党を中傷攻撃して懲罰動議に付された経緯を考えれば、この情報は意外で怪訝だが、どうやら西澤孝と創価学会とは直接には何の関係もなく、何か関係があるとすれば、佐藤晶の方がこの弁護士の選定に関わっていたのではないかと推測される。

佐藤晶と創価学会との関係を印象づける情報は、週刊文春の記事の冒頭にも出ていて、そこで西澤孝本人が文春記者の取材に答えて、「Xが創価学会ということは最近知りました」と言っている。Xというのは「Dumont」の編集長であり西澤孝の相棒である佐藤晶のことである。西澤孝は遂に実名が公表されたが、佐藤晶は現時点ではまだ実名が伏せられている。両誌の記事を読んでも、西澤孝がその場の思いつきと勢いで風呂敷を膨らませてゆく山師的な怪人物である印象を受けるが、週刊文春の記事を読むと、当の西澤孝自身が今回の偽メール事件を創価学会陰謀説で脚色して説明しようとしているかの如く見える。さらに週刊文春の記事で窺えることは、偽メール事件の「仲介者」である西澤孝と佐藤晶の二人の関係、弁護士も加えた三人の関係が少し微妙になってきていて、これまでのような弁護士が表で報道陣をブロックして水も漏らさぬ一枚岩の完黙体制に軋みが生じ始めていることである。

むしろ西澤孝本人が、この機を捉えて積極的に騒動の表舞台に身を乗り出そうとしているように見える。この元フリー記者は、もう一人の相棒だった永田寿康以上に目立ちたがり屋で喋りたがり屋だ。週刊文春の記事の末尾に、西澤孝と弁護士が取材への証言をめぐって二人で齟齬と確執を演じ合う件(くだり)があり、文春記者がその状況を記事にして伝えている。詳しくは記事を読んでいただきたいが、つまりここから何が分かるかと言うと、西澤孝が佐藤晶と弁護士と袂を分って、単独で行動に出ようとしている気配が感じられるのだ。32歳の若い西澤孝は、今度の事件を逆に利用して、これを契機に有名人の仲間入りをして、憧れのテレビ世界に自分を近づける誘惑に動かされているのではないか。週刊文春のインタビュー現場での西澤孝を想像すると、相当にノリのよい躁(ハイテンション)で、あの「サンデージャポン」で無分別に咆哮喚叫する出演者たちの姿を彷彿させる。西澤孝はテレビに出るのではないか。

各局ワイドショーは出演させたくてたまらないだろう。高い視聴率が取れる玉だ。西澤孝にはぜひテレビに出て、当事者として偽メール事件を証言してもらいたい。永田寿康との関係や民主党との関係を洗いざらい白状してもらいたい。西澤孝の性格から予想すれば、どれほどガードを固めても必ず本音は洩れ出るに違いない。民主党の嘘がそこで暴露される。これまでの辻褄合わせが破綻して「事実説明」の積み木が崩れる。釈明担当の細野豪志がスタジオで顔面蒼白になる場面が見られるだろう。週刊文春の記事は六ページのボリュームで中身もそれなりに濃い。原口一博が永田寿康と一緒に西澤孝に会った日について、最初に面談したのが2月1日ではなく1月26日だったという新事実も紹介されている(P.32参照)。これまで原口一博は2月1日に初めて記者と会ったと言っていたが、週刊文春の記事が事実なら、原口一博はテレビで嘘を言っていたことになる。細かい点だが、要注意の問題と思われる。

さて、昨日のサンスポが重大なスクープを報じていて、それによると、永田寿康が28日の謝罪会見でメールの内容の信憑性や送金疑惑に含みを残した点について、実はこの会見内容が予め民主党執行部によって指示されたものであった疑惑が浮上した。これは事実であればきわめて重大な問題だ。現在は、民主党執行部は偽メールだと認めて謝罪したのに永田寿康が往生際悪く居直っているという事態(既成事実)になっている。だからこそ懲罰動議による厳罰処分必至という情勢になっているのだが、サンスポの記事によれば、実はそれは執行部からの指示であり、謝罪会見の時点で永田寿康の釈明と(その後に発表予定の)執行部の見解との間に齟齬はなく、両者一致したものだったというのである。サンスポの記事では執行部が世論の反発を懸念して急に態度変更したという話にしているが、実際は恐らくそうではなく、簡単に言えば、永田寿康が前原誠司に騙されたのである。最初から前原誠司が仕組んだ奸計なのだ。

永田寿康にそれ(疑惑がなお残っていると信じて調査の作業を続ける旨)を言わせて、世論と与党の非難の矛先が永田寿康一人に集中するように仕向け、民主党執行部は永田寿康を捨て石にして火事場を潜り抜けようと謀ったのだ。永田寿康の謝罪会見と前原誠司の釈明会見の間はわずかに四時間ほどしかなく、しかもその時間は党内の会議で埋められていて、執行部が永田寿康の謝罪会見に対する世論の動向を判読するのは時間が短すぎる。そして前原誠司は、28日の夜遅くの代表会見の場で、昼間の永田寿康の会見での発言内容に対して、「一点だけ、党の認識と異にする部分がある」と言っていて、永田寿康と民主党の間で事件への見解が違う点を明確に指摘していた。もし仮に、この「認識を異にして(いる)」という(永田批判の)発言が、予め永田寿康にあのように送金疑惑を含み残す釈明を党としてさせた後でそれを覆して行われたものであるなら、その詐術の悪質さは犯罪的としか言いようがない。前原誠司の姑息で陰険な自己保身の責任回避手法。唖然とする。永田寿康は騙されて嵌められたのである。

拝啓、お忙しいところ恐縮ですが、偽メール事件に関して若干ご質問をさせていただきます。細野議員の昨日(3/2「ワイド・スクランブル」)のお話では、調査チームによる検証結果を一週間後に発表すると言っておられましたが、本日(3/3「スーパーモ-ニング」)のお話では、その日程が二週間後に発表と変わっていて、何やら検証結果公表の納期が意図的に巧妙に先延ばしされつつある印象を受けます。一般に日本の企業や組織では、不祥事が起きた後の対処として、問題の原因究明と再発防止策を検討すると言って「調査委員会」を作り、一時的に世間の非難の矛先をかわし、時間の経過とともに世の中の関心が薄れるのを待ってうやむやにする傾向が強く見られます。現状を見るかぎり、今回の民主党の「調査チーム」もその危険性がきわめて高く、われわれ国民は民主党の言うところの「調査」や「検証結果」の言葉を信用することができません。2/22の党首討論の前日に前原代表から聞いた「まあ楽しみにしといて下さい」の言葉の響きと同じです。


われわれ国民は、弁解用に辻褄合わせで構築した story を聞きたいのではなく、ありのままの truth を5W1Hの情報形式で簡潔に聴きたいのです。立ち入った解釈や分析は不要です。現時点で細野議員が承知している生の事実をそのまま開示いただければ結構です。まず第一の質問ですが、偽メールは誰が作成したものですか。野田前国対委員長の当初の証言では、メールの送受信欄を黒く塗り潰したのは永田議員だと指摘されていましたが、謝罪会見を前にした2/27にはそれが否定され、送受信欄は最初から黒く塗り潰されていたことになりました。と同時に、メールの送受信欄には同じアドレスが記入されていたという衝撃の調査結果が民主党から発表され、世間を驚かせました。送受信アドレスが同一人物という調査結果は具体的にどのような検証作業によって齎されたものですか。お答え下さい。マスキング(黒塗り)された用紙表面の印字トナーを処理して下の文字を透視識別したのでしょうか。それともそれとは別の方法を用いたのでしょうか。

この点に関して、河村議員は奇妙な証言を生放送のテレビ番組の中で繰り返していて、すなわち、2/27の四、五日前にPCの画面の中でメールの現物を目撃して、そこでメールの送受信アドレスが同一であった「事実」を確認したと言っています。河村議員はそのPCをどこで見たのかを言わず、テレビのキャスターも誰も訊かず、隣で同席している細野議員も河村証言を具体的に補足しようとせず、いつまで経ってもこの「事実」が曖昧なまま放置され、われわれ視聴者は苛々させられますが、この河村議員の証言は真実なのでしょうか。それとも出鱈目なものなのでしょうか。きわめて重要な問題ですのでお答え下さい。河村議員はその(PC画面内の)メール確認の証言をした際、ヘッダ部分の最下部にあるべき「subject : 大至急」が無かったと二度三度にわたって言っています。本日(3/3)、「スーパーモーニング」で橋下弁護士が指摘したとおり、subject の項目と中身が表示されないメールは基本的に存在しません。当然です。河村議員は何を見たのでしょうか。

現時点で常識的に考えれば、河村議員が言っている「メール」は、ワープロソフトで擬似的にユードラのメールを模造した文書である可能性が高いということになりますが、一体どうなのでしょう。河村議員の証言に対して、横に居ながら細野議員はそれを訂正する様子がありません。態度として河村議員の証言を肯定しているわけですが、実はこの件は河村議員個人で責任が完結するものではないのです。と言うのは、他ならぬ細野議員ご自身が問題のメールの「送受信アドレス一致」の件を確言しているのであり、これは民主党執行部の公式見解として固められた「事実」だからです。すなわち、もしも仮に細野議員が河村議員が見たものと同じものを見て、そのメールを根拠に「送受信アドレス一致」を言っているのであれば、橋下弁護士の指摘を持ち出すまでもなく、この公式発表には重大な疑念が含まれることは言うまでもありません。民主党は「送受信アドレス一致」を(後で)証明するためにワープロで物証を偽造しようとしたのではないかという疑念にストレートに繋がります。

この疑念を払拭するために、まず河村議員がPCの画面上で見たメールとは何かを言う必要があります。そして細野議員が確言している「送受信アドレス一致」の根拠を正しく説明しなくてはなりません。細野議員は何を見て「送受信アドレス一致」を確認したのですか。紙ですか、それともPCの画面ですか。この質問に答えるために議員に必要な時間は一分で十分なはずです。すぐにご返答を下さい。また、細野議員は党の公式見解としてメールの発信日時は間違いないものだとも証言しています(2/27)。その証言の根拠を簡単に説明して下さい。つまりこのメールは誰かが昨年8月26日に発信者が自分宛てに送信(受信)したものだということになりますが、本当にその事実認識でオーソライズしてよいのでしょうか。メールを作成した人間がそれを受発信した期日を2005年8月26日であると最終的に断定してよいのですか。普通に考えれば、この断定はおかしな話で、メールが偽物(誰かによる捏造)であるのなら、作成された日時が昨年の8月26日まで遡るのは不自然です。

第二の質問は仲介者に関してですが、細野議員はなぜ件の仲介者に接触しようとしないのですか。テレビでもそういう質問が出演者から細野議員に向かって飛ぶ機会がありますが、議員が答える前に番組キャスターが遮って話題を変えてしまいます。この点も非常に苛々しますが、ブログでなら正面から回答をいただけそうなので、ぜひ率直にお答え下さい。諸説が飛び交っていますが、2/1に原口議員および永田議員と面談したのは西澤孝氏でよろしいのでしょうか。2/1に仲介者として議員会館に来たのは佐藤晶氏であるという説もあります。clarify をお願いします。週刊文春では最初の仲介者と民主党との面談の時期を1/26としていますが、この報道は誤りでしょうか。細野議員のブログ記事(3/2)によれば、細野議員ご自身とデュモンマーケティング関係者とは何の関係もないというお話ですが、それではお尋ねしますが、前原代表と佐藤晶氏とはこれまで面識や接触は一度もないのでしょうか。「政策空間」誌上の佐藤晶氏の論文を読むと、関連するテーマで前原代表の持論を想起させる部分もあり、お尋ねをしてみました。

以上です。

下記に質問事項を簡単に箇条書きしました。党中枢で情報収集し、事件のシューティングを担当されてきた細野議員であれば、全て一発で即答できる単純な質問だと思いますので、どうそ明快な回答をお願いします。回答方法は、メールでも結構ですし、トラックバックでも結構です。3/6の午後12時までにご回答をお願いします。国民代表としての議員の誠実なご対応を心より期待申し上げます。
                                                         敬具 
  1.メール

    ① 送受信アドレス一致を確認した根拠は? 紙での確認か?     

    ② 河村議員が目撃したPC画面上のメールとは何か? 誰のPCか?
       同じものを細野議員も確認したのか? ワープロの偽造の可能性は?

    ③ メールの発信日時(05/8/26)が真正なものだと判断した根拠は? 

    ④ 当該メールは誰が作成したのか? 仲介者か、情報源か?     

  2.仲介者

    ① なぜ仲介者に接触しないのか?(謝罪会見からすでに三日経過)
       テレビに出演する時間的余裕があれば仲介者とコンタクトするべき

    ② 情報を持ち込んだ仲介者は西澤孝氏なのか、佐藤晶氏なのか?
       1/26に最初の面会という記事(週刊文春)があるが、これは誤報か? 

    ③ 前原代表と佐藤晶氏とは一度も接触も面識もないのか?     

質問書の締切時間(3/6 12pm)までにリマインダを二回TBしたが、細野豪志からメールでも何も返事は来なかった。細野豪志と民主党がテレビで繰り返し言っているところの、「事実の検証で国民への責任を果たす」という常套句が、口先だけでの嘘であることが証明された。質問した内容は特にあらためて調査を必要としないものばかりで、細野豪志が即答できるものばかりである。あれだけ「国民の前で事実を検証して信頼回復をしなければいけない」と公共の電波を使って繰り返し釈明しながら、国民からの質問を堂々と無視して憚らない居直りぶりに唖然とする。細野豪志はまだ34歳の若僧だが、政治家というのは34歳でもこれだけ面の皮がぶ厚くなれるものだろうか。厚顔無恥という言葉は前原誠司と細野豪志のためにあるようなものだ。細野豪志は前原誠司と十年間つきあってきたと言っていたが、一年に五ミリずつ顔面の皮膚細胞を増殖堆積して行ったに違いない。次は口が曲がる。今度は一年に五ミリずつ口角が湾曲するだろう。細野豪志は毎朝鏡で口をチェックした方がいい。

多忙な細野豪志が、ブログにTB送信された記事を見てなかった可能性もあるので、主権者である国民の義務として、懲りずに何度もリマインダを送信し続けることにする。そのうち民主党の「検証委員会」のアリバイ報告が出るだろうが、スリカエやゴマカシを許さないためにも、私の発した質問書は有意味な備忘録として機能するはずだ。偽メール事件の一部始終を経過を追って正確に検証すれば、前原誠司の責任問題になるのは必至で、それも単に代表辞任では済まず、隠蔽工作に加担した細野豪志も含めて議員辞職にまで及ぶ可能性すら十分ある。偽メール事件については、玄葉光一郎も含めて当の民主党議員でさえ真相をよく把握していない。「調査委員会」の中で初めて疑惑を抱く人間が何人か出る。前原誠司と細野豪志がどれだけ口封じに成功するかどうかだが、真実がこれから党内に滲み出る事態も予測され、その意味では偽メール事件は民主党の中で終わっていない。早い話、河村たかしが前原誠司を見限って事の真相を暴露すれば、それで一巻の終わりではないか。

もう一つの可能性は、いわゆる問題の「仲介者」が口を開くことで、特に動向が注目されるのは西澤孝以上に相棒の佐藤晶の存在である。テレビ報道によれば、西澤孝は京橋のデュモンマーケティングのオフィスを引き払い、さらに湾岸にある高級マンションからも転居したと伝えられている。怪人物である西澤孝の正体も知りたいが、マスコミには佐藤晶に対する追跡調査もお願いしたい。一見してキャラクターのタイプが異なる佐藤晶と西澤孝の二人がコンビを組むに至った事情は何だろう。恐らくそこには民主党が深く影を落としているはずだ。雑誌「Dumont」創刊事業に民主党が深く関与していて、それが偽メール事件を惹き起こす背景になっている。永田寿康が「仲介者」に対して無条件の全幅の信頼を示したのは、単なる個人的な交遊関係以上に、「仲介者」と党との密接な関係があったからではないのか。その後の悪質な隠蔽工作も含めた偽メール事件全体に関わった民主党の議員として、私が注目するのは野田佳彦以外に原口一博と河村たかしの二人で、この二人は真実を知っている。

民主党(細野豪志と原口一博)の説明では、2/1に最初に仲介者が議員会館に来て、永田寿康が仲介者を紹介するように二人で原口一博の部屋を訪ね、そこで仲介者が詳細なライブドア事件の裏情報を原口一博に説明したことになっている。だが週刊文春(3/2発売)の記事では、最初に仲介者が永田寿康と原口一博の部屋を訪ねたのは1/26で、2/1は二度目の訪問である。そして2/6頃に仲介者から永田寿康に偽メールが持ち込まれたことになっている。民主党がこれまで説明しているシナリオでは、2/1が仲介者との最初の接触で、2/6に偽メールの持ち込みだが、この説明は疑わしい。私は嘘(作り話)だと思っている。偽メールは、現物はともかく、話としてはもっと早い段階で、1/26か2/1には民主党関係者に持ち込まれていたはずだ。そう推理する理由は二つある。一つは、国会で爆弾質問するのが2/16であり、このタイミングは最初から既定のものであり、その前に、予め騒動を大きくするために、永田寿康と民主党はメール問題を週刊誌に載せるべく仕掛けていたと考えられるからだ。

偽メール事件が起きた当初にテレビで岸井成格が証言していたが、自分もこのメールが週刊誌に持ち込まれたという話を聞いたことがあり、週刊誌の編集部がメールの信憑性を疑って掲載をボツにしたという業界話を聞いていたと言っていた。私は明瞭に記憶しているが、岸井成格の証言では、岸井成格がその話を聞いたのが2/16の爆弾質問の十日ほど前だったということだった。つまり2/6頃の段階で、すでに数誌の週刊誌には西澤孝から偽メールが持ち込まれていなければならないのだ。民主党(細野豪志)が、偽メールが永田寿康のところに持ち込まれた期日を2/6頃としたのは、恐らくこの岸井成格証言を考慮した上で、この証言に抵触しないように情報工作したものだろうと私は見る。本当はもっと話は早かったはずだ。恐らく、1/26には堀江貴文から武部勤の二男にカネが送金された「事実」とその「証拠」については話がされて、すでに原口一博と永田寿康の知るところになっていたはずであり、続く2/1の相談の段階で、メールの現物が西澤孝から示されたはずなのだ。国対戦略が始まっていたはずだ。

そこから西澤孝による週刊誌売り込み作戦が始まる。そう日程を組み立てると整合がつく。つまり2/1の仲介者と原口一博と永田寿康の議員会館での会議は、単なるライブドア問題の裏情報のタレコミなどではなく、メール暴露を中核に据えたところの、武部勤告発のための国対戦略の戦略会議だったと考えることができる。そこで謀議をして、先に週刊誌を回って火を点けるお膳立てを策したのだ。結局のところ週刊誌作戦は失敗に終わり、言わば「裸」のまま強引に2/16の爆弾質問に突入する。二つ目の理由は、第一の理由とも関連するが、仲介者が民主党と懇意の元記者であり、その元記者が民主党の国対戦略に協力するべく議員会館に来るときは、どうでもいいLD裏情報などではなく、ズバリあのメールの現物を持ち込むか、(送金の)証拠の文書があるぞという情報を持ち込むだろうと思われるからだ。民主党(細野豪志)の今までの説明では、2/1の原口一博の部屋での三人の会談においては、まだメールの現物はおろか話すら出ていないことになっている。メールが持ち込まれるのは2/6になってからだ。

しかしこれは違う。そんなはずはない。1/26に仲介者が議員会館に来た時点で、話題の中心は「送金問題」であったはずで、LD内部関係者から噂を聞いていた仲介者がその情報を原口一博に説明し、何か物証を確保できないものかと三人で鳩首協議していたに違いない。偽メールの謀計がそのとき誰かによって発案されたとまでは言わないが、少なくとも時系列としては、最初に1/26に「送金問題」が話され、2/1に「メール」が持ち込まれているはずだ。週刊誌で暴露すれば、それに続いて次々とLDや武部二男の関係者から新事実が飛び出てくるだろうと計算したのだろう。だから、偽メールが物理的に作成されたのは、私の推理では1/26から2/1の間ということになる。それは恐らく平沢勝栄が証言しているとおりで、西澤孝が元LDファイナンス社員の「情報源」に要請し、元社員が女の子に捏造させたものだろう。その「情報源」から平沢勝栄のところに情報と偽メールのコピーが漏れ渡った。その時期は2/6から2/16である。恐くなったのだろう。情報源の実体が未だに表に出ないのは、情報提供を受けた平沢勝栄と自民党が保護しているからだ。

新聞各紙によれば、自民党国対委員長の細田博之は懲罰委員会での永田寿康へ懲罰審査について、民主党の検証チームの調査結果が出るのを待って結論を出す意向を示している。これはなかなか巧妙な国対戦術だ。早期決着を図ろうとした民主党に対して、フリー記者(仲介者)の国会招致を要求してはねつけている。やり方が巧い。偽メール事件を人質に取ってこれから先の国会運営を完全に与党のペースで固める戦略だ。民主党は手も足も出ない。フリー記者を証人喚問でもされたら前原体制が崩壊する。招致はいつでも要求できるし、国民は与党による西澤孝の招致を圧倒的に支持する。民主党にそれを拒絶できる理由も余力もない。細野豪志の公約では検証チームの報告は3/3の二週間後の3/17に出される。と言うことは、3/17までは国会は完全に与党が仕切り、民主党議員は人形になる。民主党の中は検証作業に関心が集中して国会審議どころではないだろう。検証作業そのものが、ある種の権力闘争の舞台になる。次を狙っている玄葉光一郎は出鱈目な報告を国民の前に出すわけにはいかない。

細田博之の作戦は実のところ理に適ったもので、検証結果の何如によっては永田寿康の辞職の事態も十分にあり得る。お手盛り調査報告に終われば国民が納得しない。もう一回検証をやり直せという話になるし、本当に西澤孝を招致して証人喚問せよという声になるだろう。これから一週間の間に何か特別に大きな事件や騒動が起きないかぎり、民主党に逃げ場はなく、結果報告のデューがプレッシャーになって党内の政治力学を動揺させてゆく。渡部恒三の登板で一旦は表面を取り繕ったが、この程度の応急措置は検証作業の中ですぐに破綻してもおかしくない。民主党の国会議員は開店休業だが、検証チームの構成員はここが最大の勝負どころである。で、引き続きブログの事件推理に注目をいただきたい。まず、永田寿康および党の国対から仲介者にカネが渡ったかどうかの問題だが、平沢勝栄はカネが流れたはずだと主張しているが、私はカネは渡っていないと見ている。正確に言えば未だ渡っていないのであり、本当は渡すはずだったのだが、偽メール事件が紛糾してそれどころではなくなったのだ。

西澤孝は言わば時代劇の捕物帖に出てくる下っ引きであり、デュモンマーケティングは民主党の国対事業の下請企業だった。民主党国対の手足となって末端捜査を担当する情報機関だったのである。下請だから当然ながらカネのやり取りはある。だが今回は国対事業戦略(武部勤撃墜作戦)が事前に失敗したためにカネを支払う暇もなかった。というのが本当のところで、永田寿康の会見の席での堂々たる金銭授受否定発言の真相に違いない。西澤孝からLD関係者の情報源にはカネが渡ったはずだが(平沢証言)、永田寿康と民主国対がそれを経理補填するまでには至らなかった。さて、ここからが推理の重要なところだが、情報源(LD関係者)に対して億単位の巨額を出して偽メール現物を買収したのは、永田寿康ではなく平沢勝栄と自民党である。官邸の金庫から官房機密費の現金の束を運んだのだろう。買収したのは偽メールのコピーだけではなく、LD関係者そのものをそっくり買収して身柄を手に入れたのである。その「買収契約」の日時は2/16の夜。これがまさにあの2/16の小泉首相のガセネタ発言の裏なのだ。

情報源を突き止め、情報源の身柄を民主党から奪い取るべく周到に手を打った上で、エースのカードを切った(ガセネタ発言)のである。小泉首相は喧嘩(タイマン)に滅法強い。ここでもまた博徒の勝負強さが如何なく発揮された。野田佳彦が証言していたが、途中から仲介者が情報源と全く連絡が取れなくなったと言っていた。これは情報源が民主党を裏切って平沢勝栄に身柄を預けたからである。2/16の午後、小泉首相と武部勤は官邸の一室に三時間籠もって、永田寿康が暴露した「堀江メール」の検証と対策を協議している。協議後に記者団の前に出てきた武部勤の表情は顔面蒼白だった。後にみのもんたをして「武部さんの人のよさが出てるよね」と言わしめた映像事実である。堀江貴文と武部二男の黒い関係は恐らくあったのだ。武部勤はそれを承知していたのであり、幹事長辞任の申し出も含めて、その場で全てを小泉首相に打ち明けたに違いない。で、官邸と自民党の情報網をフルに稼動したところ、西澤孝がメールを週刊誌に持ち込んだ事実が出て、そこから情報源(LD関係者)を割り出したのだろう。

私は2/16の夜には買収交渉が成立したと見ている。三時間の協議の後、小泉首相の判断で「ガセネタ」反撃作戦が意思決定され、即座に記者団の前でガセネタ発言がかまされる。その夜のうちに平沢勝栄の密使が情報源とコンタクトして現金と交換に身柄を押さえたのだろう。だから、2/16の夜に仲介者経由で永田寿康の手元に届く予定だった「二の矢」が届かず、未然に封じられた。丸腰にされた永田寿康は2/17の予算委で何も言えず、小泉首相の前で泣き言を言って立ち往生するほかなかった。全面降伏。永田寿康は驚いたに違いない。小菅の堀江貴文からのメール否定発言は想定の範囲内だったとしても、小泉首相のガセネタ発言と、さらに地検特捜部のメール不在発言の二つは衝撃だっただろう。この二つは全くの想定外で、二の矢も届かず、2/16の夜のうちに永田寿康は完全に武装解除された。国民の前で赤恥を曝して敗残するのみとなった。勝負はあっと言う間に決着した。まさかガセネタ発言が飛び出て来るとは思わなかったのだ。自民党中枢は混乱に陥って、小泉首相も前後不覚で狼狽すると確信していたのだ。

平沢勝栄は民主党からカネが動いたと言っているが、平沢勝栄も人が悪い。カネを動かしたのは自民党の方であろう。カネを動かして勝負に勝った。一瞬の勝負で不意に襲ってきた敵を撃滅した。仮に仲介者が国会で証人喚問されても、情報源(LD関係者)がなぜ途中で裏切ったかは証拠がないから分からない。小泉首相は単に運がいいのではない。喧嘩に強いのだ。ガセネタ発言はあの時点では半分はハッタリである。裏目に出て負けに転ぶ可能性もあった。大見得を切って勝負に出たのだ。エースのカードを叩き切って一瞬の居合の勝負に出たのだ。情報源(LD関係者)が自民党の買収工作に乗らず、民主党(西澤孝)の側にとどまる決断をしていれば、小泉首相の博打は敗れていた。メールが平沢勝栄の手に渡ることはなかった。二の矢が飛び、武部勤の首が離れていた。結果がこうして出た以上、武部二男はシロである。嫌疑をかけられる証拠は何もない。ただ、われわれ国民が覚えておいてよいことは、この騒動のあいだ武部二男は一度も表に顔を出さず、最初は訴訟を起こすとさえ言ってなかったことである。

今日(3/10)になって渡部恒三から「永田寿康は議員辞職すべきだ」という話が出た。観測気球だが、予想どおりの動きである。昨日、自公が幹事長・国対委員長会談を開いて「永田寿康は自発的に議員辞職せよ」という認識で一致したという報があったが、この報道はNHKの7時のニュースで丁寧に放送された。与党のメッセージが示されている。懲罰の要求内容は「登院停止」で決定しているのだが、民主党の検証チームに揺さぶりをかけて、3/17までに永田寿康を議員辞職させろと迫っているのだ。つまり、3/17に国民を納得させられない出鱈目な検証結果を出したら、間髪を置かずに西澤孝を国会招致するぞと脅しているのである。議員辞職要求は本気だ。3/17の報告次第で再び偽メール政局になる。渡部恒三のこの動きにはもう一つの理由があって、それは党内事情、すなわち検証チームのデッドロックと権力闘争状況である。3/17のデッドラインは避けられない。だが、偽メール事件の真相を隠さずありのまま出すわけにはいかない。出せば代表辞任では済まなくなる。検証結果をどう発表するかは悩ましい問題で、西澤喚問は絶対に避けねばならず、収拾の落としどころは永田寿康の議員辞職以外にない。

この渡部恒三の観測気球は、検証チーム座長の玄葉光一郎の意を受けたものだろう。代表選前倒しは前原誠司に潰されたが、検証チームの中が紛糾して再び渡部恒三が勢いを取り戻したのである。日曜日の「サンデープロジェクト」がこの問題を大きく取り上げれば、来週の永田町界隈の動きはそれに影響されて「永田辞職」が焦点になる。永田寿康が議員辞職となれば、当然、責任問題が波及して前原誠司も代表辞任せざるを得ない立場になる。野田佳彦と永田寿康だけに責任を押しつけて済むのかという話になる。執行部と周囲は、できれば永田寿康だけに議員辞職させて、前原誠司は代表留任のままで手を打とうと立ち回るだろう。永田寿康を巧く辞職させられれば西澤孝招致の最悪の事態は避けられる。適当な辻褄合わせの検証報告でも何とか逃げられる。永田寿康に議員辞職を飲ませて、さらに真相の口チャックを得るためには、本人にカネを握らせる以外にない。最低でも五億か。本当は、永田寿康は全てを喋って潔く議員辞職すればよいのだが、2/23の辞職会見キャンセルと病院入りの騒動で機会を逸した。前原誠司と同じく「生き恥を曝す」処世を選んだわけだが、その選択の失敗のツケは実に大きい。

BIGLOBEニュースのサイトの中に偽メール問題での前原代表の責任を問うたアンケート調査のページがあり、現時点で下図のとおりの結果となっている。ブログの読者でまだ投票を済まされてない方は、ぜひとも清き一票をお願いしたい。投票者のリモホが保存されていて、投票は一回だけしかできない仕組みになっている。このアンケート調査で注目すべき点が二点ある。一点は有効票数が2403票で、偽メール事件関連で前原誠司の責任を尋ねた各種媒体調査の中で恐らくこの調査のサンプル数が最大のものであり、したがって世論の反映として数字の信頼性が高いという点である。二点目に、このBIGLOBEの投票は偽メール事件が起きた直後から始まり、集計と開票が続けられていて、現在まで三週間ほど時間をかけて調査が進められている点がある。これまで読売新聞やJNNでも調査結果が報道されてきたが、それらはどれも短期(二日間)の調査であって、すなわち瞬間的な世論(感情)の反映である。BIGLOBEの場合は調査に時間幅があるために、言わば時々の感情的な評価が均される結果となっていて、そのため読売新聞やJNNと比較して数値結果に世論の全体的な安定性が担保されていると言える。

私は実はこの集計を毎日観察していたのだが、当初は「代表を退くべき」よりも「関係者に謝罪すべき」の票の方が多かった。また両者の間にはずいぶん差の開きがあって、それは当時のマスコミの調査や論調と同じ傾向だったが、私はグラフを見てがっかりした記憶がある。ところが、2/22の党首討論の後から両者の票差が詰まって接戦になり、そして2/26の「サンデープロジェクト」の放送の後で「代表を退くべき」が逆転して第一位になった。その後はそのまま徐々に差を広げている。ブログを注目して読んでいる民主党の国会議員や関係者もいるだろうから、その事実を承知しておいていただきたい。「サンデープロジェクト」で見せた前原誠司の倣岸な態度の影響は大きかった。あれから偽メール事件は永田問題ではなく前原問題になったと言ってもいいだろう。党首討論翌日の2/23の朝だったと思うが、代表の責任問題について記者から質問された前原誠司は、「代表に責任があると言っているのはマスコミだけで、国民からは代表を辞めろという声は上がっていない」と嘯いていた。確かにその時点では前原誠司の強弁も多少の説得力はあったが、現在は違う。国民世論はこのとおり前原誠司に代表を辞めろと言っている。

この世論調査の秀逸なところは、クロスで集計を出しているところであり、その点で大いに注目すべき中身がある。集計画面のスクロールバーを下にドラッグして支持政党別のクロス集計に着目していただきたい。面白い結果が出ている。すなわち、自民党支持者においては「代表を退くべき」よりも「関係者に謝罪すべき」の方が多く、民主党支持者においては逆に「関係者に謝罪すべき」よりも「代表を退くべき」の方が圧倒的に多いのである。当然と言えば当然だが、民主党支持者の方が事件についての危機感が甚だしく、党の信頼回復のためには代表辞任しかないと深刻に判断している。自民党支持者が「代表を退くべき」に投票しないのは、言うまでもなく、前原誠司を代表に温存させた方が自民党の支配にとって都合がいいからである。前原誠司を支えようとしているわけだ。民主党関係者はこのクロス集計を凝視していただきたい。この民主党支持者こそ、前回の衆院選で民主党に投票した人々である。さて、政党支持別のクロス集計はもっと面白い結果を示していて、それは社民党と共産党の支持者が偽メール事件における前原誠司の責任問題に対してどう回答したかという問題だが、この点については稿を別にして詳しく論じたい。

ライブドア事件や偽メール事件への論評は「もううんざりだ」とか「飽きた」とか言っている政治音痴のバカ左翼がいる。こういう連中の愚昧と倒錯が前原執行部を支え、小泉政権を支えているのである。

偽メール政局が燻っている。3/14の産経新聞の記事では、民主党メール問題検証チームの座長の玄葉光一郎の発言として、調査結果の発表の時期が「今月いっぱいか、来月にずれ込むかもしれない」と報じられている。カギカッコで閉じた形式で玄場光一郎の発言を紹介したということは、玄場光一郎が産経新聞の記者の前で実際にそう語ったことを意味するし、その言葉を記事にさせて、民主党の検証チームの発表を遅らせる旨の観測気球を上げて、世論の反応を様子見しようとしている意図が窺い知れる。これは私の予想どおりであり、検証チームの作業がデッドロックに乗り上げた状況を暗示しているが、しかしそういう記事を書かせて、検証結果発表の遅延を既成事実化しようとする民主党の姑息な情報工作を、われわれ国民は簡単に見逃すわけにはいかないだろう。細野豪志は3/2の「ワイドスクランブル」のスタジオで、二週間後に検証結果を発表すると公言している。

細野豪志本人もブログでその事実を認めている。検証結果は約束どおり今週末の3/17には発表してもらわなくてはならない。そうでなければ、民主党は国民の前でまた嘘を言ったことになる。「しっかり事実を検証して信頼回復」と言っていた言葉が嘘になる。玄葉光一郎も真相を知って愕然としたのだろう。ありのままを公表すれば民主党が潰れる。いま焦点は永田寿康の議員辞職で、昨日は前原誠司までが永田寿康に議員辞職を迫る発言をした。卑劣な男だ。2/23に永田寿康が議員辞職しようとしたとき、無理やり辞職会見を潰して永田寿康を病院に監禁し、「辞職の必要は全くない」と言っていた前原誠司のこの変わりよう。自分の代表の地位を守るためにはここまで何でもするのか。現時点で自民党と民主党の幹部間の思惑は完全に一致していて、落としどころは今週中の永田寿康の議員辞職である。永田寿康に掴ませるカネは自民党の方が用立てている可能性もある。

少し奇妙に見えるのは、民主党が言い出したフリー記者証人喚問容認発言で、これは少し裏を読む必要があるだろう。西澤孝に国会に出て来られて全てを喋られたらいちばん困るのは前原誠司のはずで、だからこそ、これまで仲介者の名前も出さずに隠し続けてきたわけだが、ここに来て証人喚問を容認するというのは、自民党と前原誠司と西澤孝の間で何らかの「芝居」の台本が一本出来上がったからなのだろうか。何れにしても、検証チームの結果発表をズルズルと先送りしたままで、しかも懲罰委員会の結論が単に三十日間の登院停止でお咎めなしでは国民が納得するわけがなく、そこで何か国民を納得させる「イベント」が必要になって、西澤孝に国会で何か喋らせるということだろう。無論、西澤孝の病院入りという「芝居」のやり方もあるわけで、国民の憎悪を西澤孝と永田寿康の二人に集中させて、言い訳の体面をつけた格好の前原誠司がのうのうと生き延びるという作戦はある。

が、果たしてそううまくいくか。前原誠司と民主党が真相をうやむやにして隠そうとすればするほど、国民は偽メール事件の真実を知りたがるわけで、この問題への関心の圧力がそれほど急速に低下するとは思わない。この件に関連して、馬渕澄夫のブログに面白い記事が載っていて、3月8日の日記だが、2/27の週のある夜に馬渕澄夫が野田佳彦を連れ出して神楽坂のバーで酒を飲みながら偽メール事件について話を聞く場面が登場する。記事では具体的なことは何も書いておらず、ただ野田佳彦が「「イヤー、いろいろあったけど、墓場まで持ってくしかねぇなー。」と言ったと書き、そして馬渕澄夫が「私などが知らないことが本当にいろいろあるのだろう」と書いて終わっているのだが、私はこれは嘘だと思う。野田佳彦は馬渕澄夫に全て真相を話したのだろう。野田佳彦というのは、嘘つきのワルばかりが揃った民主党の中では他人に嘘をつくのが下手な正直者のところがある。

2/26の「サンデープロジェクト」でも、田原総一朗が突っ込んで聴き出せば、弱気になって少し真相を漏らしそうな気配はあった。野田佳彦が神楽坂のバーで「墓場まで持ってくしかねぇなー」と言ったのは事実だろう。だが、その墓場まで持っていく話の中身を馬淵澄夫は野田佳彦から実際に聴き出したはずだ。記事では表面上は何も聞かなかったことにしているが、それは一般読者向けの「公開情報」であり、実はこのブログ記事は意味があって、俺は野田佳彦から偽メール事件の真相を全部聴いたぞという「事実」を民主党の執行部や議員たちに伝えているのだ。政治的なシグナルなのである。俺は真実を知っているぞという立場宣言であり、聴きに来たら教えてやってもいいぞという政治的暗号でもある。野田佳彦は馬渕澄夫から呼び出しの電話がかかってきたとき、当然、この誘いは偽メール事件の情報収集だろうと分かったはずだし、それに応じて出掛けたということは、情報提供に応じたということである。

神楽坂で会談を持った日付は記されてないが、2/27には野田佳彦は国対委員長を辞任していて、その直後ということになるだろう。「墓場まで持っていくしかない」とまで野田佳彦に言わせているのだから、コトは単純な話ではないのだ。沈黙を守り続けなければ党が潰れるほどの重大事件だという意味が含まれている。だから偽メール事件は、単に西澤孝がガセネタを週刊誌に売り損なって、それを民主党に売ってカネを儲けたというような簡単な話ではない。カネが動機ではない。西澤孝が事件の起点でもない。メール捏造は永田寿康自身が最初から関与している。西澤孝が週刊誌に売り込んだのは、永田寿康や原口一博と議員会館で国対戦略会議を開いて、ライブドア事件に絡めて武部勤追及の「企画」を相談した後だ。武部追及の大きなプロジェクトの一環としてメールを週刊誌に持ち込んだのだ。カネ目当てではない。それは平沢勝栄の作り話だ。偽メールは偶発的なものではなく計画的なものである。

そこには前原誠司も何がしか絡んでいる。偽メールの計画性と前原誠司の関与、それこそが野田佳彦の言う「墓場まで持っていく」秘密である。

本日(3/15)のテレビ朝日「スーパーモーニング」によれば、民主党はメール問題検証チーム座長玄葉光一郎の名前で番組からの質問状に対して文書で回答し、「二週間程度としていた検証結果の報告を、今月中の取り纏めを目指して作業中」と納期の変更を正式に通告した。昨日の産経新聞の記事は単なる観測気球ではなかったわけで、細野豪志と民主党は国民に重大な嘘をついたことになる。玄葉光一郎は検証チームの結果発表時期を遅らせた理由について、外部の専門家(地検特捜部出身の弁護士)を検証チームに参加させて「仲介者」の調査を担当させたためだと弁解しているが、それは全くの嘘である。番組が西澤孝の弁護士から直接に聞き出した証言によれば、民主党の調査チームからの接触は、検証チームの民主党議員からも、検証チームの代理人からも、これまでも一度もないということだった。要するに「検証チーム」は名前だけ立ち上げたものの、実際の検証作業は二週間の間、何もやってなかったのだ。

民主党はまた嘘八百を言って国民を騙した。役員室長の細野豪志のブログの3/8の記事でも、「28日の記者会見で、幹事長が二週間という期間を設定していますので、急ピッチの作業となっています」と言っている。検証チームが設置されたのは3月1日だった。細野豪志は3/2のテレビ番組でも、3/3のテレビ番組でも、二週間で検証結果を国民の前に報告すると明言していたのだが、この前言撤回について細野豪志自身は何も説明していない。これは政治家として重大な公約違反そのものだろう。国民に対して約束した自分の言葉に責任をとる義務はないのか。細野豪志は自身のHPの中で、「私は、国民に対して最大限の説明責任を果たす努力をしてきましたし、今後も続けていきます」と言っている。が、この言葉は真っ赤な嘘であるとしか考えられない。34歳で真っ赤な嘘が平気でつける人間でないと日本では政治家にはなれないということか。今朝の番組のスタジオには細野豪志の姿はなかった。都合が悪かったのだろう。

細野豪志の代わりに、今度は末松義規が釈明要員として出演していた。生放送のスタジオで話をゴマカシ、スリカエて、適当にその場凌ぎをして逃げる民主党の三流詭弁屋たち。鳥越俊太郎も含めてスタジオの常連が民主党に甘く、追及が異常に手ぬるく、まるで民主党に弁解の機会を与えてやっているような映像が続いて、見ていて不愉快でストレスが溜まる。末松義規もその辺の事情をよく心得ているのか、表情には最初から緊張感の欠片もなく、むしろテレビに出て選挙民に顔を売る絶好の機会を得たかのように、余裕で顔を綻ばせていた。テレビに出演できるのが嬉しくてたまらないのだ。検証チームに手を挙げて入ったのは、河村たかしと細野豪志を見習って、ワイドショーで偽メール事件の釈明要員をして顔と名前を売るためだったのだろうか。検証チームは二週間で二回の会合を開いただけで、しかも二回目の会合で単に外部の専門家を入れる話を決めたのみで、実質的な検証作業は何もやっていない。形だけの方便の飾りだ。

3/6の「ニュース23」で岸井成格が「民主党の国会議員に危機感が全然感じられない」と言っていたが、この点は同感で、同感であると同時に、岸井成格と同様、非常に不審で異様な光景に感じる。危機感が感じられる民主党関係者は、3/4に全国幹事長会議に出席していた地方の幹部だけだ。国政選挙の日程が直近になく、参院選挙も来年で、9月の代表選までは適当に時間を潰しておけばいいだろうと誰もが安易に思っている。幹部も若い議員もそう思っていて、誰も前原誠司の過誤の責任を追及しようとしない。内部に責任追及してくる人間(反対派)がいないことを承知しているから、前原誠司は代表の椅子にふんぞり返ったまま、平気で口角の湾曲整形に日々精を出すことができる。このままでは党が潰れるかもしれないとか、解党するかもしれないなどと言うけれど、実際のところはこの党はもう事実上潰れている。これほど執行部体制が腐食しているのに、内部の人間が誰も党を立て直そうと動かないという現実は異常である。

菅直人も小沢一郎も何も言わない。権力闘争を控えての「待機」だと言えば理由づけにはなるが、民主党の幹部として偽メール事件に対して国民の前で政治家の責任を果たす必要はないのか。偽メール事件の政治をあまりに甘く見すぎているのではないのか。それとも民主党ブランドの信頼回復は無理だと判断して、新党結成の準備に水面下で動いているのか。偽メール事件によって、国民の多くは、国政に責任を持てる政党は自民党だけだという判断を強く固めた。岸井成格や田勢康弘に言われなくても、十分にその認識を確かなものにした。この事件は昨年9月の選挙結果、すなわち国民の選択を「間違いなかったものだった」と確信させるものであり、「自民党の勝ち過ぎだったかもしれない」という警戒や懸念の意識を払拭させるものである。日本の政治のレベルの低さをイヤと言うほど見せつけられて、政治に対する期待や希望をさらに失い、増税など負担増を行政がアドミニする政治の成り行きに文句を言わず黙って従う精神を培養するだろう。

偽メール事件が日本の民主主義にとってどれほど重大で深刻な問題かを理解できた人間は少なかった。一ヶ月間にわたって「うんざりだ」を言い続けたバカ左翼の政治的不感症のみが目立った。私から見て、今度の事件の本質を正確に見抜いて、「憲政史上最悪の不祥事だ」と言葉を発したのは福岡政行だけだった。左翼学者はワイドショーのネタ扱いで遊び半分に聞き流していた。21世紀の日本の大政翼賛会は、こうして、やむを得ぬものとして、必要悪の政治として国民から支持を受ける事実上の(いずれは形式も含めて)支配体制となる。野党の主体性を作り直す必要性が分からないバカ左翼は、その政治的リアリズムの挑戦の場に踏み込んで行けない人間は、結局のところ、大政翼賛会作りを助長する無能者としての存在意義しかないのだ。

偽メール事件の政局が、様々な関係者の思惑を交錯させながら続いている。焦点は基本的に永田寿康の議員辞職で、本当は自民と民主は今週中に永田寿康に辞職させようとしたのだが、永田寿康が抵抗して応じなかったために新しい手を打たざるを得なかった。3/22の国会弁明というのは永田寿康を辞職に追い詰めるための「政治行事」であり、目的は弁明後の永田寿康をテレビに徹底的に叩かせるところにある。これまで「登院停止」で動いていた懲罰委員会の結論を「除名」の厳罰に変えるための状況作りの政治である。3/22の後、国民世論は「除名やむなし」に変わるはずで、3/25-26の週末に妥当な懲罰の程度を問うアンケート調査が行われるだろう。それでも永田寿康が辞職しなかった場合は、仲介者の証人喚問の場を作って、仲介者に「偽メール事件は永田寿康の自作自演だった」と証言させる。そこまで行けば懲罰委員会は永田寿康を除名処分にすることができる。が、仲介者の証人喚問まで行けば、同時に前原誠司も代表辞任が必至となる。逃げ場がなくなる。

永田寿康も除名よりは辞職を選ぶだろう。カネも掴める。永田寿康を辞職から守れる防波堤や特効薬は何もなく、現時点で議員辞職は半ば決まったも同然だ。今後の焦点は前原誠司の辞任に向かう。偽メールの捏造に関わったのは永田寿康だけではないはずで、前原誠司も何らか関与していたはずだ。2/11にメールをテレビ局で初めて見たというのは嘘(作り話)だろう。永田寿康が真実を全てバラせば、前原誠司は代表辞任では済まなくなる事態になる。渡部恒三が「起き上がらない起き上がり小法師」を前原誠司に手渡してテレビに撮らせたのは絶妙の政治で、要するに「永田寿康が議員辞職したらお前も代表辞任しろよ」というメッセージである。老獪な味のある政治だった。「生き恥を曝す」のが前原誠司の政治手法だから、前原誠司も最後の最後まで抵抗するだろうが、渡部恒三の強いところは前原誠司以上に自民党との太いパイプを持っていることで、国対委と懲罰委は渡部恒三が自由自在にドライブできる。外堀が埋められ、国会運営に関して前原誠司は実権を失った。

4月の補選前に渡部恒三暫定代表の芽もある。党内でも筒井信隆がようやく国民が納得できる正論を吐くようになり、前原誠司の代表辞任が現実味を帯びてきた。偽メール事件の真相を追及し続ければ、必ず前原誠司を代表辞任へ追い込めるし、また民主党は一刻も早く前原誠司を辞めさせて、政策的にも国会運営でも本来の野党に戻らなくてはいけない。「もううんざりだ」を言い続けて結果的に前原誠司を庇護してきたバカ左翼は、今後の民主党の動きをよく見ていればいい。バカ左翼に教えてやるならば、バカ左翼が偽メール事件の追及を「うんざりだ」と言い続けて、国民の関心を偽メール事件から逸らして、結果的に政治救済してやろうとしていた前原民主党というのは、実はバカ左翼が一番嫌いな小泉政権の一部である。前原民主党は新自由主義革命の最前衛だ。前原誠司の民主党は小泉政権の新自由主義改革路線と右翼国家主義外交を支援するための翼賛野党である。一枚岩の新自由主義ブロックだ。したがって前原体制の打倒はまさに小泉政権の一角を崩すことに等しい。

どうしてバカ左翼はこんな簡単な政治的事実が理解できないのか。議席一桁の泡沫左翼政党が国会で言っていることをブログでコピペしていれば小泉政権を倒せるのか。党利党略しか眼中にない異端イデオロギー政党のスローガンをブログで連呼していれば新自由主義の政策を転換できるのか。無力な市民がブログで政治を変えようと言うのなら、効果的なピンポイントを捉えて、リアルに政治を変えられるリアルな力と動きを作り出す以外に無いんじゃないのか。前原民主党は昨年の総選挙がもたらせた新自由主義革命の副産物であり、反小泉と反新自由主義の立場にとって真正の敵である。この国会は本当は安晋会問題で安倍晋三の首を獲ってポスト小泉の芽を潰す国会だった。民主党が追及の矛先を武部勤に振り向けたのは、武部勤を安倍晋三の身代わりにして生首を捥ぎ獲ろうと画策したからだろう。安晋会疑惑から国会と国民の関心を逸らそうとした本当の狙いがあったはずだ。次の総理である安倍晋三に恩を売ろうとしたはずだ。武部勤ならポスト小泉に何の影響もない。

その意味では、この偽メール事件の政局というのは、安倍晋三と小泉首相との暗闘の性格も一部に確かに持っていた。武部勤の首が飛べば小泉首相のレイムダック化は完全なものになり、ポスト小泉の安倍晋三が前原誠司の支援を得て3月以降の政局を自在に仕切って操縦することができた。今国会最大の難関である教育基本法改正で公明党を排除して、安倍自民党と前原民主党で手を組んで可決成立させることも容易にできた。レイムダック化を防ぐため、小泉首相は2/16の夕刻、一瞬の決断で「ガセネタ発言」をかまして喧嘩(タイマン)の大博打に出たのだ。自分の首を賭けて武部勤の首を守ったのである。その時点で前原誠司と永田寿康の陰謀は潰えた。われわれは安倍晋三の首は獲り損ねたが、その代替物として前原誠司の首を獲らねばならない。前原体制を倒し、民主党を本来の野党に戻さなければならない。菅直人であれ、岡田克也であれ、代表が代わって本来の野党の姿を取り戻せば、再び今国会会期中に安晋会疑惑を取り上げて、安倍晋三を追及できる可能性もあるだろう。

ようやく永田寿康の口から西澤孝の名前が出て、偽メール事件は次の段階に一歩進むことができるようになった。しかし、それにしても本当に時間を無駄に浪費してダラダラとやっている。時間稼ぎを際限なく続けて問題をうやむやの裡に揉み潰したい民主党と、国会審議の主導権と4月の衆院補選での優勢を確保する道具として利用したい自民党の、両党の思惑が一致して、五週間前の2/17に提出された永田寿康の懲罰動議の委員会処理が、結論を出さないままこんな遠くまで延々と先送りされていた。「まだやっているのか」というのが国民の正直な感想だろう。私も同じだ。本日(3/24)の懲罰委員会質疑の中で正鵠を射ていたのは、最後に登場した国民新党代表の綿貫民輔の議論で、まさに国民の意見を代弁する正論中の正論が展開されていた。それは懲罰委員会の意義を正面から憲法論として述べたもので、中学三年生の公民の授業でそのまま生徒に聴かせたいような内容のものだった。

明治憲法下の帝国議会に懲罰委員会の制度はなく、これは現行憲法下で新設されたものである。その意味はまさに国民主権に関わるもので、国会を国民主権の国権の最高機関として担保するためには、議院は自らその権威と品格を守らなければならないという議会制民主主義の前提があり、懲罰委員会はその原則に基づいて存在するのだという定理だった。綿貫民輔は「国会の権威と品格」という言葉を何度も繰り返し、国権の最高機関の権威が傷つけられる事は、主権者たる国民が傷つけられている事だと力説した。基本的な議論だが、偽メール事件の本質はまさにここにある。野党が野党の主体性を失えば、議会制民主主義は実質的に機能しなくなる。綿貫民輔の主張は、憲法が綿貫民輔になりかわって永田寿康や前原誠司に諭しているようだったが、聞く永田寿康の面の皮はぶ厚く、そんな教科書じみた正論の説教は不要とでも言いたげな顔で、ふてぶてしく開き直って聞き流していた。

前原誠司とか永田寿康とか細野豪志とか、民主党の若い連中には、議会制民主主義の理念が自己の思想の内側にない。議会制民主主義を守ろうという信念や規範意識が全くない。憲法の国民主権も、議会制民主主義も、彼らにとっては単に教科書に書かれた迂遠で面倒くさい一般論であり、タテマエを規定したペーパーセオリーの存在でしかないのだ。ゴマカシとスリカエでその場その場の時間を埋め潰せば、窮地を脱して責任回避できると確信している。細野豪志と永田寿康の二人は、この偽メール事件の一ヶ月間に実にふてぶてしい面構えと立ち回りの能力を身につけて、彼らにとっての「理想」の政治家像に近づいた。「大人の政治家」に成長した。テレビカメラの前で嘘をつきまくっても、矛盾だらけの偽りの「説明」を吐きまくっても、表情ひとつ変えない豪胆な政治家に変身した。男は三十代に剛腹な人間に成長するものだなと思う。ところが先輩の前原誠司は、何やら消耗感を標榜する顔に変わり始めた。

男も四十代を過ぎると、嘘で窮地の連続を突破する体力に衰えが出るに違いないのだ。面の皮がぶ厚くなり、口の角が曲がるのが、三十代だとまだ「男の成長」と自覚できる程度なのだが、さすがに四十代になると、それに加えて頭髪が減耗したり、顔面の小皺に転化したりで、嘘つきが精神と身体に反作用する負担が重くなるのである。一ヶ月前と較べて確かに前原誠司の顔つきが変わった。細野豪志と永田寿康と前原誠司に言っておくなら、三人がテレビの前で白々しく嘘をつき、その場をゴマカシて逃げる場面を見せれば見せるほど、民主党に対する国民の嫌悪は増幅し、反発の感情が膨張し、民主党の支持率は下がって行くのだ。現時点で意識調査をすれば、民主党への国民一般のアパシーと言うかネガティブシンボルの心理状況の程度は、公明党や共産党と同じかそれを上回るのではないか。民主党の若い人間は平気で嘘をつく。例えばメール問題の検証結果を二週間後に出すなどと平気で嘘を言う。

国民を腹の底からバカにしているから嘘が言える。それが民主党だ。自分は選ばれたエリートであり、国民は頭の悪い働きバチであり、自分は国民を騙す身分と能力があり、国民は愚鈍で無能だから自分の嘘に騙されるしかない。そう信じているから何週間でも何ヶ月でも嘘を言い続け、自民党政権にすがって偽メール政局を責任揉み消しの結末までドライブし続ける。民主党の支持率が下がっても、暫くは国政選挙はないからどうってことはないし、どうせ来年になれば国民はバカだから偽メールの話も全部忘れている。バレなきゃいいから嘘をつき続ける。前原誠司が言っている「生き恥を曝す」政治処世というのは、バレるまで嘘をつき続けるということであり、権力闘争に負けて責任を取らされる最後の最後の瞬間まで居直り続けるということである。さて、次は西澤孝の証人喚問だが、民主党はいつまで偽メール事件の「嘘つき芝居」の興行を続けるつもりなのか。懲罰委員会の席には小沢一郎と菅直人の二人が座っていた。

報道によれば、問題の雑誌Dumontパイロット版誌上にインタビュー記事が掲載された民主党議員は、永田寿康の他に馬渕澄夫、石関貴史、北神圭朗、藤末健三、松本大輔の五氏である。テレビ局が取材した情報では、永田寿康以外にDumont誌を購入した議員はいない。この五人の中でHPやブログ上で僅かでも事の経緯を自ら説明している議員は藤末健三だけで、3月6日の日記において簡単に触れられている。それによれば、藤末健三がDumontのインタビューを受けたのは昨年10月17日で、民主党の同僚議員の秘書に紹介されてのものだった。先週の懲罰委員会での永田寿康の弁明でも、昨年の10月に民主党の国会議員の秘書を通じて西澤孝と知り合った事実が述べられている。現在、西澤孝と最も関係の深い民主党議員は永田寿康だが、半年前はそうではなく、別の民主党議員筋が西澤孝のカウンターパートだった。それは具体的には馬渕澄夫とその秘書である大西健介である。

Dumont編集長の佐藤晶と馬渕澄夫の政策秘書の大西健介は、同じ71年生まれで京大卒の同期生であり、一部の情報によれば学生時代から友人関係であったと言われている。今回の偽メール事件の発端は昨年9月のデュモンマーケティング設立に遡り、社長となる西澤孝と取締役となる佐藤晶の二人が結びつき、雑誌Dumontの創刊が企画されるところから始まる。この二人の出会いなり結びつきに大西健介が深く絡んでいて、パイロット版を見ても明らかなとおり、初発から前原民主党と二人三脚の関係で創刊事業が始まったことが容易に窺える。富裕層向けメンズセレブ雑誌のDumontがこれほど民主党の宣伝一色の装いで立ち上がったのは、編集長の佐藤晶の存在が大きいと私は睨んでいる。格闘技系で虚言癖のガセネタ屋である西澤孝にはどう考えてもそのような企画や発想が似合わない。雑誌Dumontを民主党の宣伝媒体にしようという意図が最初からあったのではないか。

さらに言えば、デュモン社は民主党の下請情報機関として設立されたのではなかったのか。自民党関係の醜聞情報や不正情報を諜報したり、それを国会で追及する前に週刊誌にバラ撒いたりの情報工作をする専門機関としての位置づけが、会社設立の当初からデュモン社にはあったのではないか。富裕層向け雑誌事業というのは、あくまで表向きの見せかけの営業看板だったのではないか。そのような憶測を持たざるを得ない。今回の証人喚問の対象は西澤孝だけだが、私の見たところでは、喚問は西澤孝だけでなく、佐藤晶に対しても行われなくてはならず、そうでなければ事件の真相解明には繋がらないだろう。ひょっとしたら西澤孝は前原民主党にとってのタニマチ的な存在ではなかったのか。平沢勝栄がテレビで明らかにしたところでは、西澤孝は、ある民主党議員が国会質問の準備で役所の官僚を呼びつけて、議員会館で質問事案のレクチャーを受けるときに、その議員の横に座って聴いていたという。

実に意外な話で驚くが、意外というのは特に、フリー記者と言っても格闘技系で醜聞ネタ系の西澤孝が、国会議員が官僚から政策制度関連の専門的な説明を受ける場に同席していたという事実で、およそ似つかわしくない場所に似つかわしくない人物がいたという事実に対してである。この事実は、西澤孝が民主党前原グループのタニマチで、言わば一般市民が国会議員の計らいで国会の議場を特別に参観させてもらうのと同じような感覚で、国会議員以外に一般人が経験できない官僚のレクチャーヒアリングの機会を堪能させてもらっていたとしか考えられない。西澤孝が官僚の説明を聴いて理解できる何か専門的な政策知識を持っていたとは考えられないからだ(文科省が格闘技興行の改革について説明したとか)。民主党の外部情報機関の幹部がそこに座っていたというのは理解できる。だが、それがテレビで紹介されている虚言癖の西澤孝のイメージとは結びつかない。それが佐藤晶ならよく分かるのだ。

佐藤晶ならそこに座っていて不自然ではない(厚労省の役人による外国人労働者政策とか)。今回の証人喚問は、もういい加減にしろとか、やっても無意味だという声も多いのだが、一つ一つ真面目に考えて行けば本当に不明で奇怪な事が多い。何が真実なのか一向に正確な像が見えて来ず、ミステリアスで、真相追求への関心が衰えることはない。一部に、犯罪を犯したわけでもない民間人を強制的に国会に召還するのは人権上問題だとか、このような前例を作ったら誰も野党に情報提供をしなくなるという声も上がっているが、そういう意見は間違っている。ここで大事なのは何より国権の最高機関たる国会の権威であり、それが国会議員の手で傷つけ貶められたという問題こそが重要なのだ。永田寿康は、偽メール事件は西澤孝の愉快犯的行為の責任で自分は騙されただけだと主張し、そして西澤孝は偽メール提供は事実無根だと言っていて、双方の主張は真っ向から対立しているのだから、議院が懲罰の判断に当たって両者の主張を聞くのは当然の責務である。

週刊文春の今週号に偽メール事件に関する新事実が載っている。それは特に偽メールの作成者とされるライブドア関係の元社員についての情報で、一つはこの元社員が西澤孝から脅迫されてメール作成に及んだ事実と、もう一つはメール作成の協力費として西澤孝から十万円を受け取った事実である。これまで謎であったメール作成者と西澤孝との関係がわずかながら明らかにされた点で注目される。この情報を週刊文春の記者に提供したのは、記事中では「ある自民党議員」だが、事件報道の経緯を知るわれわれが読めば、この「自民党議員」は平沢勝栄以外に考えられない。平沢勝栄が、これまで隠してきた情報の一部を週刊誌にリークしたのである。平沢勝栄は、テレビで、メール作成者であるライブドア関係の元社員と西澤孝との間には「ドロドロした関係」があり、そして「現金が渡っている」と言っていたが、その内容が今回ようやく明らかにされたわけで、ドロドロした関係の中身とはメール作成者の不倫をネタにした脅迫だった。

メール作成者は不倫の事実を西澤孝に掴まれ、それをバラすぞと脅されて偽メール(情報)の提供に及んでいたのである。「昨年の八月ごろのことだった。(略)ある日、A氏が会社から出ると、西澤氏が会社の前で出てくる社員を捕まえて取材をしていた。A氏も声をかけられ、知り合いになったのだという。(略)しかしある日、西澤氏は豹変。A氏にこんなことを言い出したという。『不倫しているんでしょう? バラされたくなかったら、自民党とライブドアとの関係で何かネタをくれ』。(略)そして西澤氏に服する形で、ついに今回のメールに関する情報を出すことになったのだという(P.33-34)」。さらに、「その情報を渡した際、西澤氏はA氏に謝礼を渡したという。場所は六本木の喫茶店だった。金額は十万円(P.34)」。このとき西澤孝はメール作成者に対して「俺はこの十倍、民主党からもらっているんだ」と言っている(P.34)。一部に流れていた「民主党から西澤孝に百万円」の噂が、今回初めて自民党関係者の証言として活字になった。

メール作成者の不倫の内容が具体的にどういうもので、その事実を西澤孝がどのように入手したのかについては、文春の記事は何も触れていない。が、記事には平沢勝栄にメール作成者と西澤孝との関係の情報を提供した「金融関係者」なる者の証言があり、そこでは「ライブドアファイナンスに勤める女性から相談を受けている。堀江氏のメールの件で『自分の知り合いの男性が偽メールにかかわってしまった。その男性はライブドアの元社員で、西澤氏にライブドア関連で何か(ネタは)ないか、としつこく迫られて、つい情報を提供してしまった』と告白した(P.32-33)」と証言されていて、読者は容易にこの女性がメール作成者の不倫相手なのではないかという想像を抱く。この女性の存在は以前から情報として週刊誌にも出ていた。だとすれば、西澤孝は一体どうやってその不倫情報に手が届いたのか興味津々だが、真実が全て明らかにされることはあるだろうか。いずれにせよ、「ドロドロ」の中身は不倫と脅迫と買収だった。

この記事についての評価だが、私は、記事は一部は真実を含んでいるものの一部には嘘があると見ている。すなわち真相の全体が隠されていて、自民党側に傷の付かない、都合のいい story になっている。特に最も重大な隠蔽は、記事の中に平沢勝栄がどのようにして偽メールを入手したのかが一言も触れられていない点だ。記事では、平沢勝栄に繋がる「金融関係者」がこの情報(西澤孝による脅迫と買収)を得たのは2月20日だとしているが、記憶では、2月20日頃にはすでに平沢勝栄が偽メールのコピーを入手して、テレビのワイドショーのスタジオで民主党に対する反駁と逆暴露を展開しはじめていた。その事実との整合が取れない。週刊文春の今回の記事では、偽メールは「メール作成者」ではなく西澤孝本人が自らの手で作成したことになっている。ライブドア関係の元社員は脅迫され買収されて情報提供の形で西澤孝に協力しただけで、実際のメール作成にはタッチしていないという事実説明になっている。

もしこの話が真実であれば、平沢勝栄が偽メールのコピーを入手できる可能性がない。論理的にも物理的にも不可能である。「メール作成者」が単に情報提供だけの役割にとどまり、偽メール作成の作業が西澤孝のところで完結しているのであれば、そのコピーが平沢勝栄の手元に届くはずがないのである。入手しようがない。この点で週刊文春の記事には不自然な点が残り、それはそのまま平沢勝栄と自民党側の情報操作疑惑に繋がるものである。西澤孝に全ての責任を推し被せて、偽メール捏造の責任を「メール作成者」たるライブドア関係者から剥離させようとする政治的意図を強く感じ取る。すなわち、それこそ自民党側からの「メール作成者」への謝礼と支援の一部を成すものではないか。自民党はこうした周到な情報操作によって、武部勤二男と堀江貴文の関係を何も無かったかのように仕立て上げ、一切が西澤孝の妄想と暴走の所産であるように見せているが、この情報操作は逆に武部二男への疑惑を増す。

だがその前に、それより何より、この記事によって窮地に立たされたのは前原誠司と民主党であり、これまで西澤孝との間での金銭授受について否定してきたものが、この記事の暴露によって重大な疑惑が突きつけられた点は否めない。金額も具体的に百万円と出ていて、さらに百万円授受の話を西澤孝が喋った時間と場所まで特定されている。何もファイナンスがされていなければ、西澤孝が「メール作成者」に十万円を手渡すはずがない。平沢勝栄が一貫して金銭疑惑を言い続けてきた根拠がここで示されたわけで、民主党は明日(3/31)の検証結果報告の中でこの点に触れて釈明をしなければならなくなった。「すべて西澤孝の虚言癖と一人芝居」の説明(シナリオ)で国民が納得するかどうか。4/4に予定されている証人喚問も、焦点はこの百万円の事実の有無に絞られた感がする。記事の中で、武部勤が2/24にオフレコ取材で記者の前で言った興味深い発言が掲載されていて、それは次のような発言である。

「『君たちも知っているんだろう? 誰から出た話かってことは』 -例の怪しげなジャーナリストのことですか? 『そうではなくて、誰がそのジャーナリストにやらせたかってことだよ。こちらは全部調べて、だいたい分かっている』(P.34)」。つまり、武部勤の言っていることは、偽メールは西澤孝が捏造して民主党に持ち込んだのではなく、民主党が百万円を西澤孝に支払って作成させたということである。自民党の手元に集められた情報は、その疑惑を事実として証明する有力な証拠となり得るものだが、前原誠司と民主党はこの疑惑を払拭するに十分な根拠を提出することができるだろうか。明日(3/31)の検証報告が注目される。

前原辞任。「世に倦む日日」ブログ・ジャーナリズムの初めての政治的勝利である。長い戦いだったが、ようやく勝てた。ウェーバーの言うとおり、政治をする者は諦めてはならず、執念深くなければならない。「情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴を繰り抜く(岩波文庫 『職業としての政治』 P.105)」作業に耐える人格でなければならない。昨年の衆院選で私は敗北し、薪に臥し胆を嘗めながら新自由主義に反撃逆襲する機会を待ったが、訪れたこの機会を逃さず捉え、一ヶ月間食らいついて離さなかった。偽メール事件を追及すれば、必ず前原誠司を辞任に追い込むことができる。偽メール事件を詳らかにすることが前原体制の没落を証しすることだと私には分かっていた。ここは「判断力」の部分であり、私は自分の判断を疑わなかった。前原誠司は逃げ切れると踏んでいたのだろうが、私は前原誠司を仕止めるつもりだった。読みに勝ち、勝負に勝った。この勝利は格別だ。ブログ・ジャーナリズムの勝利であり、正義と民主主義の勝利である。

偽メール事件の真相を包み隠さず明らかにすれば、前原誠司は代表辞任では済まない。原口一博も間違いなく議員辞職に追い込まれるだろうし、また、悪質きわまる情報隠蔽工作を主導した細野豪志と河村たかしの二人の責任も厳しく問われ、逃げる場所を失うだろう。メール問題検証チームの報告より先に前原辞任と永田辞職を発表したということは、代表辞任のサプライズの方に世間の耳目を集中させ、すなわち真実を隠蔽した出鱈目な「検証結果」に世間の眼が向かないようにマスクするためである。真相隠蔽の政治である。つまり前原誠司のクビを差し出すから、もうこれで勘弁してくれと言っているのだ。前原誠司のクビと交換の真相隠蔽なのであり、民主党側からの世間へ土下座取引の申し出なのだ。この事件はそのイベントのスタートが西澤孝を起点としているのではない。西澤孝は二次イベントであり、事件のスタート点は前原執行部と国対チームである。ライブドア事件で武部勤を標的にするという「国対戦略」があって、その材料として用意されたのが偽メールだ。

問題解決をここまで引っ張ったのは、引っ張らざるを得ないから引っ張ってきたのであり、あれこれ立ち回りながら、世間の追及がやむ日を待ち続けてきたのである。今回の行動も駆け引きなのだ。保身のための辞任なのである。今回の前原引責辞任でマスコミと党地方組織は納得して許してくれるだろう。だが、平沢勝栄の手の内には真相情報があり、このカードはいつでも切って出すことができる。真相解明が不十分だと言うことができるし、民主党の検証チームが報告した「検証結果」を覆す新証拠を突きつけることができる。事件はまだ終わったわけではないのだ。前原誠司は辞任したが、偽メール事件における民主党の責任という意味では、これはまだ蜥蜴の尻尾切りであり、その場凌ぎの逐次責任回避行動でしかない。前原誠司の代表辞任などで幕引きなどと思ってもらっては困る。膿は最後まで出し切ってもらわなくてはならない。人心一新は真相解明のためにこそ必要なのだ。

前原誠司の辞任会見を見たが、悪びれた様子もなく、ふてぶてしく倣岸な態度は何も変わっていなかった。一議員として安保問題をやって行くなどと言っていたが、前原誠司にこの後の政治生命などがあるのだろうか。前原誠司を政治家として評価信頼して一票入れようという人間がいるだろうか。それから辞職をここまで引き延ばした永田寿康に、社会人としての今後の活躍の場が果たしてあると言えるだろうか。永田寿康は辞職にあたって、恐らく大金を(鳩山家の金庫から)受け取ったことだと想像するし、その金額は一生食うに困らないほどのものだろうと思うが、実際のところ、永田寿康は人生を棒に振ったのであり、もうこの男には浮かぶ瀬がない。2/23に辞職していれば政治家として復活する目は十分にあった。人生の判断を間違うとはこういうことだろう。前原誠司に付き合って「生き恥を晒す」政治処世を試したがために、一生を犠牲にしてしまった。そして真相解明という形でさらにこれからツケを支払わされる。水に落ちたイヌとして叩かれる。

これから新代表が選ばれるという話だが、もう誰も民主党に期待などしないだろうし、新執行部ができても注目を集めることはないだろう。民主党は終わっている。もう党を解散してもよいのではないか。日本に二大政党制の政治体制を作る「政治改革」の試みは失敗に終わったのであり、民主党はその役目を終えた。当の民主党議員たちがそのことを一番よく理解しているのではないか。この偽メール事件の間、党内は異常なほど無風で、前原降ろしの動きもなく、二年前の菅直人の年金未納疑惑のときに右も左も大燥ぎしていたのとは様変わりだった。今回、スタジオに呼ばれた民主党の議員たちは、それをテレビで他人事のように論じていた。松原仁は、テレビ朝日の生放送で「私は別に党を代表して来ているわけじゃないので」と評論家様になってふんぞり返っていた。国民の前で申し訳ないと恐縮していた議員は一人もいなかった。党を代表して意見を言えないような人間が党を代表してテレビに出るんじゃない。テレビに出て国民の前に出たら、議員は党の代表だろうが。

民主党メール問題検証チームの報告書は、真相を解明する目的のものではなく、逆に真実を隠蔽して事件の幕引きを図るための情報工作である。そこには真実は語られていない。すでに多くの問題が指摘されているが、報告書では仲介者(西澤孝)の向こう側にいるはずの情報源(ライブドア関係の元社員)について明らかにされていない。報告書は、「『情報提供者』の存在を含め、『メール』の作成者は不明であり、その調査は不可能である」と結論している。一ヶ月も時間をかけてメンバーに弁護士も入れて調査をしながら、情報提供者が不明で、その調査も不可能であるとはどういう言い草だろうか。偽メールは誰が何の目的で作成したのかという最も単純で肝心な問題について、調査報告書は何も回答を与えずに説明責任を放棄したまま逃げている。説明責任を果たしていない。玄葉光一郎は3/31の記者会見で「これ以上は政党の役割になじまない」などと意味不明な言い訳をしているが、その言葉に納得した国民が何人いるだろうか。民主党の態度はあまりに非常識で無責任である。

最初から真相解明する意思と能力が無いのなら、なぜ西澤孝を刑事告発して司法に任せないのか。見苦しい言い逃れはやめろ。多くの人間が喝破しているとおり、前原代表辞任と永田議員辞職は検証チームの報告書公表とセットの政治であり、要するに検証不能のエクスキューズとしての民主党の国民への代償措置であって、その目的は4/4の西澤孝の証人喚問を阻止することである。証人喚問を突きつけられて、追い詰められて逃れられなくなったのだ。報告書が真相の解明ではなくて真相の隠蔽を目的としたものである疑惑を根拠づける事実の一つは、西澤孝からの直接の事情聴取が報告書発表直前の3/30の一回だけであったという問題である。いかにも駆け込み的で帳尻合せ的な動きではないか。まず最初に3/31に報告書発表と代表辞任の日程が前提としてあり、それに向けて西澤孝からせめて一度だけでも話を聴いたという既成事実を作るべく3/30夜に滑り込みで聴取を行っている。それが無ければ報告書の体をなさないから、無理やり3/30に形だけの事情聴取をした。

本当なら、西澤孝から最初に事情を聴いた後で、その供述内容が事実かどうかを関係者に当って確認検証するという作業が必要だろうし、相手が虚言癖の西澤孝であれば、時間をかけて二度三度と慎重に聴取検証を繰り返す必要があっただろう。事件の中心にいて真相を知っているのが西澤孝であり、検証チームの目的が事件の真相解明であったのなら、当然、そのように営為したはずだ。ところが検証チームの西澤孝への接触は、報告書発表前ギリギリの(半日前の)タイミングの一回きりであり、西澤孝に何を聴き、西澤孝が何を言ったかも十分に明らかにしないまま、事前に書き上げていたアリバイ報告書をそのまま提出してしまっているのだ。要するに、始めに「辞任で幕引き」ありきであり、その日程を3/31で定めて、それに合わせて西澤事情聴取の既成事実を辻褄合わせしたのである。姑息と言うほかない。読売新聞の世論調査(4/2)では、「民主党の今回の決着のつけ方について納得できるか」という問いに対して、49%が「納得できない」と答え、「納得できる」の40%を上回っている。

国民は今回の「検証報告」に納得しておらず、民主党が説明責任を果たしたとは了解していない。さて、私は一ヶ月前に細野豪志のブログあてに質問書を送り、幾つかの事項について報告書で明らかにするよう要求したが、民主党の検証報告書は私の質問の核心的な部分は黙殺して回答を避けている。その一つは河村たかしがテレビで何度も言っていた「メールの現物をPCの画面の中で確認した」という例の目撃情報についての検証である。河村たかしは、送受信アドレスが一致したメールを、紙ではなくPCの画面の中で見たと明確に証言していた。そして、2月下旬から3月中旬までテレビ出演していたときの河村たかしの紹介のされ方は、「メール問題検証チームにも参加している」という触れ込みだったのであり、実際に報告書の中にもメンバーとして名前が入っている。河村たかしがこの問題の証言をした日として確実に特定できるのは2/27だが、驚いたことに「調査報告書」の中では、河村たかしが目撃し証言していたこの事実に関する検証が何も登場しない。これはきわめて不自然だ。

検証チームの「検証」の内実を怪しませるものである。報告書には、今度の事件の騒動に殆ど関与していないはずの枝野幸男の名前まで登場していて、党の内部でこの問題に関わった人間の数の多さを思わせるのだが、2/16以降の事件の中心で動いていた河村たかしの言動や行動が完全に捨象されている。河村たかしが発言したメール情報についても報告書の中では何も触れられていない。無視している。これは河村たかしが嘘を言い、同じテレビのスタジオで同席していた細野豪志が河村たかしの嘘を見過していて、嘘だとバレると民主党の立場が悪くなるので敢えて報告書で捨象したか、あるいは、河村たかしの証言は事実だったのだが、その詳細を明らかにすると具合が悪くなるので、意図的に無視を決め込んだということになる。恐らく後者だろう。河村たかしの発言はテレビで何百万人もの視聴者に目撃されていて、しかもこの問題は偽メール事件の民主党の対応について国民に不審を抱かせる重要事なのだが、そこを敢然とネグレクトするとは、玄葉光一郎もなかなかよい度胸をしている。

河村たかしの証言が事実であれば、当時の民主党は、西澤孝とすでに接触して(一千万円で買収したのかどうなのかは別に)偽メールの「電磁情報」をすでに得ていたことになり、すなわち、西澤孝と全く接触できてないと言っていた民主党の当時の弁明は虚偽だということになる。

2005年12月8日木曜日

従軍慰安婦 備忘録

2004年9月18日、ソウル大学校ジェンダー研究所と社会史研究会共催のセミナーでおこなった報告の原稿に、2005年6月12日に「追記」を付加した。

2012年1月12日に補注1と注49への追記を加えた

 日本軍の慰安所政策について 永井 和 (京都大学文学研究科教授)

 この報告は、永井和「陸軍慰安所の創設と慰安婦募集に関する一考察」『二十世紀研究』創刊号、2000年をもとに、一部補足したものである。

 はじめに 問題の所在

Ⅰ.警察資料について

Ⅱ.陸軍慰安所の創設

Ⅲ.日本国内における慰安婦募集活動
1.和歌山の誘拐容疑事件
2.北関東・南東北での募集活動

Ⅳ.地方警察の反応と内務省の対策

おわりに 補論:陸軍慰安所は酒保の附属施設 追記(2005年6月12日記)

 注 はじめに

 はじめまして、永井和と申します。日本の京都大学で日本現代史を教えております。しばらくの間、おつきあいをよろしくお願いいたします。

まず、この研究会にお招きいただき、報告する機会が与えられたことに対して、あつくお礼申し上げます。とくに、社会史研究会を主宰されている鄭根埴先生のご厚意がなければ、日本国内でもそれほど名を知られているわけではない、私のような者が、ソウル大学校で報告をするという、身に余る光栄を経験することはなかったはずでありまして、心より感謝いたしております。 

朴宣美さんより伝えられたところでは、最初は「天皇制と女性」というタイトルで、「従軍慰安婦問題」(韓国では「挺身隊問題」と言うべきかもしれませんが、日本での慣用に従わせていただきます)を天皇制に関連付けながら講演するようにとの、御希望であったのですが、お恥ずかしながら、天皇制はともかく、ジェンダー研究はほとんど私の専門外ですので、私には荷が重すぎる、とてもお話しできそうもないと、お断りしまして、その代わりに、日中戦争初期の陸軍慰安所のことについて、少しばかりお話することにした次第です。 と申しましても、私は軍慰安所や慰安婦について専門的に研究してきたわけではありません。

今までに私が軍慰安所と慰安婦について書いたのは、2000年に発表した論文「陸軍慰安所の創設と慰安婦募集に関する一考察」、1本あるのみですので、お世辞にも専門家とはいえません。

吉見義明氏をはじめとして軍慰安所や慰安婦問題についての日本の研究者は多数おられますが、私をこの方面の専門家として認める方は、私の友人である大阪産業大学の藤永壮助教授を唯一の例外として、ほとんどいないだろうと思われます。昨年刊行されました尹明淑さんの『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』(明石書店、2003年)、この本は、この問題に関する研究としては、日本の大学ではじめて学位を授与された画期的な作品でありますが、そこでも私の論文に対する言及はありません。 そのような私に、「従軍慰安婦問題」について話すようにとのリクエストがあったのは、たぶん、私の唯一の論文が、比較的早くに韓国で紹介されたからではないかと、自分では思っています。私の旧い知り合いでもある釜山外国語大学校の金文吉先生が、たいへんありがたいことに、2001年に韓国で発表された論文で、私の論文に言及されたことがあります。 そのようなわけですので、これからお話いたしますのは、今申し上げた4年前の論文の内容ほとんどそのままでして、それに少しばかり補足を加えただけにすぎません。おそらく皆様のご期待を大きく裏切るであろうことを、あらかじめお断りし、お許しをいただきたいと思います。  前置きばかり長くなり、恐縮ですが、もう少し話を続けます。私が慰安所及び慰安婦に関する唯一の論文を書くきっかけが何であったかと言いますと、それは、1998年に私の担当する演習で「自由主義史観論争を読む」という授業をいたしまして、そこではじめて藤岡信勝氏や小林よしのり氏の歴史解釈をまじめに検討することになり、その史料解釈がはなはだしく恣意的あるにもかかわらず、政治的言説としてそれなりの支持を受けていること、また従来史料実証主義を看板にしていた一部の歴史家が、この動きに釘をさすどころか、逆にそれを支持する姿勢をとろうとしていたことを知って、いささか驚いたのが、そもそものきっかけでした。 従軍慰安婦問題は、南京大虐殺問題と並ぶ「自由主義史観論争」の二大問題でしたので、それについていろいろ文献を漁ったところ、偶然、1996年の末に新たに発見された内務省の警察資料が、「女性のためのアジア平和国民基金」から刊行された資料集(『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』1、1997年)に収録されているのを知り、それを読み進めました。私は歴史家ですので、ともかく史料を読んで、それをもとに考えるという癖が身に染みついてしまっております。読んでみますと、いわゆる「従軍慰安婦論争」において、その史料解釈が論議の的となった陸軍のある文書が、どのような背景で出されたのかを説明してくれると思われた、一連の資料に出くわしました。そこで、史料実証主義の面目を回復できるのではないかと思い、論文を執筆することにしたわけです。 それから、「従軍慰安婦論争」に関する文献を読んでみて、慰安所は軍の施設であるにもかかわらず、論争の当事者双方いずれもが、軍隊制度についての知識を欠いたまま議論をしているのではないかとの、感想をもちました。軍隊というものについて基礎的な知識があれば、「軍慰安所は公娼施設である」といった主張はおよそ成り立つはずがないと、私には思えるのですが、それが堂々と主張され、いっぽう否定する側も、「軍慰安所は公娼施設でない」という主張を、軍隊制度に即して展開するよりも、一足飛びに「公娼施設の抑圧性、犯罪性」を強調することが多く、議論がすれ違っているように見えたのです。日本は戦後ながらく平和が続いたせいか、軍隊についての知識が偏っています。作戦、指揮命令、戦闘、兵器といった面に集中していて、軍隊を支える非常に重要な要素にほかならない、兵站や後方組織についての知識が欠けており、それが「従軍慰安婦論争」において思わぬ視野の狭窄を引き起こしているのではないかと感じたことが、論文を書こうと思ったもう一つの理由です。と言いましても、私自身は軍隊の経験はありません。ただ、軍事史を少しばかり勉強したことがありますので、戦前の日本の陸軍の制度については、一般の人よりも詳しい知識があります。といっても、たいしたものではありませんが、その私が見ても、ある種の軍事的分野についての常識を欠いたまま議論が進められているように思えたのでした。 以上述べましたことからもわかりますように、1991年の慰安婦訴訟の開始から10年ほどの間、つまり従軍慰安婦問題が社会の注目を浴び、日韓の国際問題となり、「従軍慰安婦論争」が展開されていた間ということですが、私自身はこの問題にはまったく無関心でありました。吉見氏が日本ファシズムから戦争責任問題、具体的には軍慰安婦と化学戦へと研究テーマをシフトされていくのを横目に見て知ってはいましたが、私自身はまったく別のことに関心を寄せていたのです。そして、「従軍慰安婦論争」なるものがすでにヤマを越してしまったあと、政治的な言説にのっかった史料の恣意的解釈が横行するいっぽうで、言語論的展開を持ち出して史料実証主義の終焉を宣言する言説1)が出されたあと、史料実証主義の立場からささやかな抵抗を試みたのが、2000年に発表した論文だったと、自分では思っております。その意味では、私も戦争責任問題や戦後補償問題に鈍感な、保守的な日本人の一人にすぎません。そういう者の発言であることを、あらかじめお断りしたうえで、本論に入っていくことにいたします。 問題の所在 所謂「従軍慰安婦論争」は、直接には1997年度から使用される中学校用文部省検定教科書の「従軍慰安婦」に関する記述の是非をめぐる論争としてはじまったが、その背景をさかのぼれば、1991年以降次々とカム・アウトし、日本政府を告発した韓国、フィリッピン、台湾等の元慰安婦たちの活動、とくに謝罪と賠償を求める法廷闘争と、それに触発されてはじまった日本政府と国連人権委員会の調査活動、そして政府調査結果をふまえてなされた日本政府の謝罪と反省の意志表明といった、一連の動きに対する反発、反動としてとらえることができる。 本報告では、1996年末に新たに発掘された警察資料を用いて、この「従軍慰安婦論争」で、その解釈が争点のひとつとなった陸軍の一文書、すなわち陸軍省副官発北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」 (1938年3月4日付-以後副官通牒と略す)の意味を再検討する。 まず問題の文書全文を以下に引用する(引用にあたっては、原史料に忠実であることを心がけたが、漢字は通行の字体を用いた)。 支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於イテ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ其実地ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニシ次テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス2) この文書は吉見義明の発見にかかるもので、軍が女性の募集も含めて慰安所の統制・監督にあたったことを示す動かぬ証拠として、1992年に朝日新聞紙上で大きく報道された。吉見はこの史料から、「陸軍省は、派遣軍が選定した業者が、誘拐まがいの方法で、日本内地で軍慰安婦の徴集をおこなっていることを知っていた」のであり、そのようなことが続けば、軍に対する国民の信頼が崩れるおそれがあるので、「このような不祥事を防ぐために、各派遣軍が徴集業務を統制し、業者の選定をもっとしっかりするようにと指示したのである」と解釈し、慰安婦の募集業務が軍の指示と統制のもとにおこなわれたことが裏づけられる、とした3)。 いっぽう、これに対立する小林よしのりは、この通牒をもって「内地で誘拐まがいの募集をする業者がいるから注意せよという(よい)「関与」を示すものだ」、「これは違法な徴募を止めさせるものだ」4)、「「内地で軍の名前を騙って非常に無理な募集をしている者がおるから、これを取り締まれ」というふうに書いてあるわけです」5)と、いわゆる「よい関与論」を唱え、同様の主張が藤岡信勝によってもなされた。 藤岡は「慰安婦を集めるときに日本人の業者のなかには誘拐まがいの方法で集めている者がいて、地元で警察沙汰になったりした例があるので、それは軍の威信を傷つける。そういうことが絶対にないよう、業者の選定も厳しくチェックし、そうした悪質な業者を選ばないように-と指示した通達文書だったのです。ですから、強制連行せよという命令文書ではなくて、強制連行を業者がすることを禁じた文書」6)と、言う。また、秦郁彦もこれとよく似た解釈を下している7)。 他方、小林よしのりを批判する上杉聡は、逆にこの文書をもって「強制連行」の事実があったことを示す史料だとし、そのような悪質な「業者の背後に軍部があることを「ことさら言うな」と公文書が記しているのであり、強制連行だけでなく、その責任者もここにハッキリ書かれている」8)と反論した。 いずれも、日本国内で悪質な募集業者による誘拐まがいの行為が現実に発生しており、さらにそういった業者による「強制連行」や「強制徴集」が行われうる、あるいは実際に行われていた可能性を示す文書だと解釈する点では共通している。 ちがいは、吉見および上杉の方は、軍による募集業者の選定と募集・徴集活動の統制が行われていたことを重視し、それゆえこれを「軍の関与」を示す決定的証拠としてとらえ、そこから軍には当然の義務として慰安婦に対して適切な保護を与え、虐待や不法行為を防止する監督責任が発生するのであり、それが守られなかった場合には、その責任を問われうると論じるのに対して、いわゆる自由主義史観派は慰安所に対する軍の関与を認めつつも、その関与とは業者による「強制連行」「強制徴集」など不法行為の取締であり、この通牒は軍がそのような取締を実際に行っていたことを示す証拠であって、この文書がある以上、たとえ数々の不法行為や虐待、性暴力事件が起きたとしても、それはそのような行為をおこした個々の業者や軍の下部機関、一般将兵が悪いのであって、軍および政府の責任を問うことはできないと、そう主張する点にある。 両者の差異は、根本的には、慰安所と軍および政府との関係をどう把握し、そこで女性に加えられた虐待行為に対する軍および政府の責任の有無をどう判断するのか、その立場の差異に由来する。言うまでもなく、吉見や上杉は、慰安所は国家が軍事上の必要から設置した軍の施設であり、そこでなされた組織的な慰安婦虐待行為の究極的な責任は軍および政府に帰属すると考える立場に立っている。 それに対して、自由主義史観派は慰安所に対する軍と政府の関係を否定するか、あるいは否定しないまでも、それはもっぱら業者や利用将兵の不法行為・性的虐待を取締まる「よい関与」であったと主張する。慰安所は戦地においてもっぱら兵士を対象に営業した民間の売春施設であり、公娼制度が存在していた戦前においてはとくに違法なものではなかったから、そこでなされた虐待行為に軍および政府が責任をとわれる理由はない。もし仮に軍および政府が責任を問われうるとすれば、それは強制的に慰安婦を徴集・連行した場合のみだが、そのようなことを軍ないし政府が命令した事実はないというのが、彼らの慰安婦問題に対する基本的理解であり、そのような観点から、この副官通牒を解釈し、もっぱら「強制連行」の有無を争う文脈で論争の俎上にのせたのであった。そのことが上のような解釈の相異を生みだしたのである。 なお、慰安所と軍の関係について自分自身の考えをあらかじめここではっきりさせておくと、私は、慰安所とは将兵の性欲を処理させるために軍が設置した兵站付属施設であったと理解している。その点では吉見と同じ考えに立っており、これを民間業者の経営する一般の公娼施設と同じであるとして、軍および政府の関与と責任を否定する自由主義史観派には与しない。もっぱら「強制連行」の有無をもって慰安所問題に対する軍および政府の責任を否定せんとする彼らの言説は、それ以外の形態であれば、軍と政府の関与は何ら問題にならないし、問題とすべきではないとの主張を暗黙のうちに含んでいるのであり、慰安所と軍および政府の関係を隠蔽し、慰安所の存在を正当化するものと言わざるをえないからである。 話を副官通牒に戻すと、最近になって警察関係の公文書が発掘され、問題の副官通牒と密接に関連する1938年2月23日付の内務省警保局長通牒(内務省発警第5号)「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(以下警保局長通牒と略す)の起案・決裁文書とそれに付随するいくつかの県警察部長からの内務省宛報告書が見つかった。 この警察資料を分析することにより、この二つの通牒が出されるにいたった経緯と背景をある程度まで明らかにすることができる。そこから見えてくる事情は、先ほどの解釈論争が想定していたのとはかなり異なるのである。たとえば、警察報告では、たしかに婦女誘拐容疑事件が一件報告されてはいるが、しかし、それ以外には「強制連行」「強制徴集」を思わせる事件の報告を見いだすことはできない。もちろん、発見された警察資料は、山県、宮城、群馬、茨城、和歌山、高知の各県警察部報告と神戸や大阪での慰安婦募集についての内偵報告にすぎないので、日本全国はもちろん朝鮮・台湾など募集がおこなわれた全地域を網羅するものではない。よって、それらの地域で「強制連行」や「強制徴集」がおこなわれた可能性を全面的に否定するものではない。 しかし、副官通牒で言及されている「募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル」という事件は、間違いなく和歌山県警察部から一件報告されており、そのような事件が現におこっていたことが、この警察報告により証明された。つまり、警察報告と副官通牒との間には強い関連性が存在する。 そこで、今後さらに新しい警察資料が発見され、それによって必要な変更を施す必要が生じるまでは、もっぱら以下に述べる作業仮説を採用し、その上で考察を進めることにする。すなわち内務省は主として現在知られている警察資料に含まれている諸報告をもとに、前記警保局長通牒を作成・発令し、さらにそれを受けて問題の副官通牒が陸軍省から出先軍司令部へ出されたのである、と。 この作業仮説を前提におくと、和歌山の婦女誘拐容疑事件一件を除き、警察は「強制連行」や「強制徴集」の事例を一件もつかんでいなかったと結論せざるをえない。そうすると、副官通牒から「強制連行」や「強制徴集」の事実があったと断定ないし推測する解釈は成り立たないことになる。また、これをもって「強制連行を業者がすることを禁じた文書」とする自由主義史観派の主張も誤りと言わざるをえない。なぜなら、存在しないものを取締ったりはできないからである。では、いったい副官通牒や警保局長通牒は何を取締まろうとしたのか、そもそもこれらの通達はいったい何を目的として出されたのか、それをあらためて問題とせざるをえない。 結論を先回りして言えば、問題の警保局長通牒は、軍の依頼を受けた業者による慰安婦の募集活動に疑念を発した地方警察に対して、慰安所開設は国家の方針であるとの内務省の意向を徹底し、警察の意思統一をはかることを目的と出されたものであり、慰安婦の募集と渡航を合法化すると同時に、軍と慰安所の関係を隠蔽化するべく、募集行為を規制するよう指示した文書にほかならぬ、というのが私の解釈である。さらに、副官通牒は、そのような警察の措置に応じるべく、内務省の規制方針にそうよう慰安婦の募集にあたる業者の選定に注意をはらい、地元警察・憲兵隊との連絡を密にとるように命じた、出先軍司令部向けの指示文書であり、そもそもが「強制連行を業者がすることを禁じた」取締文書などではないのである。 Ⅰ.警察資料について 本稿で考察の材料とするのは、女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』第1巻(龍渓書舎、 1997年、以下『資料集成』と略す)に収録されている内務省文書の一部である。 最初に、本稿で扱う警察資料の全タイトルを紹介する。このうち、1と8-2は外務省外交史料館所蔵の外務省記録に同じものが含まれており、前々からその存在がよく知られていた。 外務次官発警視総監・各地方長官他宛「不良分子ノ渡支ニ関スル件」(1938年8月31日付) 群馬県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 (1938年1月19日付) 山形県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月25日付) 高知県知事発内務大臣宛「支那渡航婦女募集取締ニ関スル件」(1938年1月25日付) .和歌山県知事発内務省警保局長宛「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」(1938年2月7日付) 茨城県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 (1938年2月14日付) 宮城県知事発内務大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 (1938年2月15日付) -1.内務省警保局長通牒案「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(1938年2月18日付) -2.内務省警保局長発各地方長官宛「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」 (1938年2月23日付) 「醜業婦渡支ニ関スル経緯」(内務省の内偵メモ、日付不明) 2~7および9は、1937年の末に慰安所の開設を決定した中支那方面軍の要請に基づいて日本国内で行われた慰安婦の募集活動に関する一連の警察報告であり、8は軍の要請に応じるため中国への渡航制限を緩和し、募集活動の容認とその統制を指示した警保局長通牒の起案文書(8-1)および発令された通牒本体(8-2)である。 この一連の文書については、すでに、吉川春子9)、八木絹10)によってその内容の概略が紹介されており、さらに和田春樹11)も詳しい紹介をおこなっている。なお、これらの資料は元内務省職員種村一男氏の寄贈にかかるもので、警察大学校に保存されていた。1992年と93年の政府調査報告の際にはその所在がつかめなかったが、1996年12月19日に参議院議員吉川春子氏(共産党)の求めに応じて、警察庁がこの資料を提出したため、その存在が明るみに出ることになった12)。現在は東京の国立公文書館に移管されており、その一部がアジア歴史資料センターで公開されている。 Ⅱ.陸軍慰安所の創設 前記史料5の和歌山県知事発内務省警保局長宛「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」(1938年2月7日付)なる文書中に、長崎県外事警察課長から和歌山県刑事課長宛の1938年1月20日付回答文書の写しが参考資料として添付されている。さらに、この長崎県からの回答文書中には、在上海日本総領事館警察署長(田島周平)より長崎県水上警察署長(角川茂)に宛てた依頼状(1937年12月21日付)の写しも収録されている。 この上海総領事館警察署の依頼状は、陸軍慰安所の設置に在上海の軍と領事館が深く関与したことを示す公文書にほかならない。以下に引用するのはその全文である。  皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件  本件ニ関シ前線各地ニ於ケル皇軍ノ進展ニ伴ヒ之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中処頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ         記 領事館  (イ)営業願出者ニ対スル許否ノ決定  (ロ)慰安婦女ノ身許及斯業ニ対スル一般契約手続  (ハ)渡航上ニ関スル便宜供与  (ニ)営業主並婦女ノ身元其他ニ関シ関係諸官署間ノ照会並回答  (ホ)着滬ト同時ニ当地ニ滞在セシメサルヲ原則トシテ許否決定ノ上直チニ憲兵隊ニ引継クモトス 憲兵隊  (イ)領事館ヨリ引継ヲ受ケタル営業主並婦女ノ就業地輸送手続  (ロ)営業者並稼業婦女ニ対スル保護取締 武官室  (イ)就業場所及家屋等ノ準備  (ロ)一般保険並検黴ニ関スル件   右要領ニヨリ施設ヲ急キ居ル処既ニ稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナルカ之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ルニ付乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度尚着滬後直ニ就業地ニ赴ク関係上募集者抱主又ハ其ノ代理者等ニハ夫々斯業ニ必要ナル書類(左記雛形)ヲ交付シ予メ書類ノ完備方指示シ置キタルモ整備ヲ缺クモノ多カルヘキヲ予想サルルト共ニ着滬後煩雑ナル手続ヲ繰返スコトナキ様致度ニ付一応携帯書類御査閲ノ上御援助相煩度此段御依頼ス (中略) 昭和十二年十二月二十一日                 在上海日本総領事館警察署13) 冒頭に、「之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中ノ処頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ」とあるように、この文書から、1937年の12月中旬に上海の総領事館(総領事は岡本季正)と陸軍武官室と憲兵隊の三者間で協議がおこなわれ、その結果、前線に陸軍慰安所を設置することが決定されたこと、さらにその運用に関して三者間に任務分担の協定が結ばれたことが判明する。 ここで言及されている陸軍武官室とは、正式には在中華民国大使館付陸軍武官とそのスタッフを意味する。その長は原田熊吉少将であり、1938年2月には中支特務部と改称された。軍事面での渉外事項や特殊な政治工作を担当する陸軍の出先機関であり、上海戦がはじまってからは、上海派遣軍や中支那方面軍の隷下にある陸軍特務機関として第三国の出先機関や軍部との交渉、親日派中国人に対する政治工作、さらに上海で活動する日本の政府機関や民間団体との交渉・調整窓口の役割をはたした。 軍慰安所の設置が軍の指示、命令によるものであったことは、今までの慰安所研究により明らかにされており、今では史実として広く受け入れられている。その意味では、定説の再確認にとどまるのだが、この在上海総領事館警察署の依頼状は、慰安所の設置を命じた軍の指令文書そのものではないとしても、政府機関と軍すなわち在上海陸軍武官室、総領事館、憲兵隊によって慰安所の設置とその運営法が決定されたことを直接的に示す公文書として他に先例がなく、その点で重要な意義を有する。 もっともこの文書の記述にもかかわらず、陸軍慰安所開設の決定は、陸軍武官室や憲兵隊、領事館の権限だけでできるものではない。軍組織のありかたからすれば、陸軍武官室と憲兵隊の双方に対して指揮権を有するより上級の単位、この場合は中支那方面軍司令部において、まず設置の決定がなされ、それを受けてこの三者間で慰安所運用のための細目が協議・決定されたのだと解すべきであろう。 吉見および藤井忠俊の研究14)によれば、上海・南京方面での陸軍慰安所の設置に関する既存史料には次のようなものがある。(これ以外にも、慰安所を利用した兵士の日記・回想があるが略す)。 飯沼守上海派遣軍参謀長の日記15) 1937年12月11日の項「慰安施設の件方面軍より書類来り、実施を取計ふ」 1937年12月19日の項「迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す」 上村利通上海派遣軍参謀副長の日記16) 1937年12月28日の項に「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」 山崎正男第十軍参謀の日記17) 1937年12月18日の項に「先行せる寺田中佐は憲兵を指導して湖州に娯楽機関を設置す」 在上海総領事館警察の報告書18) 1937年12月末の職業統計に「陸軍慰安所」の項目。 常州駐屯の独立攻城重砲兵第2大隊長の状況報告19) 1938年1月20日付「慰安施設は兵站の経営するもの及び軍直部隊の経営するもの二カ所あり」 元陸軍軍医麻生徹男の手記によれば、1938年の2月には上海郊外の楊家宅に兵站司令部の管轄する軍経営の陸軍慰安所が開設されていた20)。 また、1938年1月に軍の命令を受け、奥地へ進出する女性(朝鮮人80名、日本人20名余り)の梅毒検査を上海で実施した21)。 今回さらに、 在上海総領事館警察署発長崎県水上警察署宛「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」(1937年12月21日付) が新たに加わったわけである。 これらを総合すれば、1937年の遅くとも12月中旬には華中の日本陸軍を統括する中支那方面軍司令部レベルで陸軍慰安所の設置が決定され、その指揮下にある各軍(上海派遣軍と第十軍)に慰安所開設の指示が出されたと考えて、まずまちがいない。 それを受けて各軍で慰安所の開設準備が進められるとともに、関係諸機関が協議して任務分担を定め、総領事館は慰安所の営業主(陸軍の委託により慰安所の経営をおこなう業者)および慰安所で働く女性(慰安所従業婦すなわち慰安婦)の身許確認と営業許可、渡航上の便宜取り計らい、また業務を円滑におこなうため内地・植民地の関係諸機関との交渉にあたり、憲兵隊は営業主と従業女性の前線慰安所までの輸送手配と保護取締、さらに特務機関が慰安所用施設の確保・提供と慰安所の衛生検査および従業女性の性病検査の手配をすることが定められたのであった。 さらにこの依頼状から読みとれるのは、慰安所で働く女性の調達のために、軍と総領事館の指示を受けた業者が日本および朝鮮へ募集に出かけたこと、および彼等の募集活動と集められた女性の渡航に便宜をはかるように、内地の(おそらく朝鮮も同様と思われる)警察にむけて依頼がなされた事実である。 この募集活動によって、実際に日本内地および朝鮮から女性が多数上海に連れられてきたことは、6の麻生軍医の回想によって裏づけられる。なお、麻生軍医に女性100名の性病検査を命じたのは「軍特務部」であり、その命令は1938年1月1日付であった22)。この記述は、上記依頼状にみられる軍・憲兵隊・領事館の任務分担協定が現実に機能していたことの傍証となろう。 ところで、依頼状に記された任務分担協定は、陸軍慰安所に対する風俗警察権が領事館警察ではなくて、軍事警察=憲兵隊に属していたことを示している。協定の定めるところによれば、領事館警察は中国に渡ってきた慰安所営業主と女性のたんなる受け入れ窓口にすぎず、手続きが終われば、その身柄は軍に引き渡され、その取締権も領事館警察から憲兵隊に移される。移管とともに彼らは領事館警察の風俗警察権の圏外に置かれるのであり、管轄警察権の所在において陸軍慰安所は通常一般の公娼施設とは性格を異にする。これは慰安所が軍の兵站付属施設であることを意味するのだが、陸軍慰安所を一般の公娼施設と同様とみなす議論は、この点を無視ないし軽視していると言わざるをえない。 通常一般の公娼施設は、それを利用する軍人・軍属の取締のために憲兵が立入ることはあっても、業者や娼妓に対する風俗警察権は内務省警察・植民地警察・外務省警察などの文民警察に属し、軍事警察すなわち憲兵の関知するところではない。ところが、陸軍慰安所の従業員は軍籍を有さぬ民間人でありながら、その場所で働いているかぎりは憲兵の管轄とされるのである。これは慰安所が酒保などと同様、前線近くに置かれた軍の兵站付属施設であり、軍人・軍属専用の性欲処理施設だったことに由来する23)。なお、この点については、補論で詳しく論じたい。 さて、依頼状に「之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ル」とあるように、軍と総領事館から依頼された業者は在上海総領事館の発行する身分証明書を所持して、日本内地及び朝鮮にわたり、慰安所で働く女性の募集活動に従事したのであった(「稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナル」)。彼等がどのような方法で募集活動をおこなったかは、史料2~7の警察報告に実例が出てくるので、次章で検討するが、日本内地または植民地において女性を集めた業者は、彼女等を連れて上海に戻ってこなければならない。あるいは上海まで女性を送らなければならない。しかし、日中戦争がはじまるや、日本国内から中国への渡航は厳しく制限され、原則として日本内地または植民地の警察署が発給する身分証明書を所持しなければ、乗船・出国ができなくなっていた。 しかも、1937年8月31日付の外務次官通達「不良分子ノ渡支取締方ニ関スル件」(史料1)は各地の警察に対して、「混乱ニ紛レテ一儲セントスル」不良分子の中国渡航を「厳ニ取締ル」ため、「素性、経歴、平素ノ言動不良ニシテ渡支後不正行為ヲ為スノ虞アル者」には身分証明書の発行を禁止するよう指示しており、さらに「業務上又ハ家庭上其ノ他正当ナル目的ノ為至急渡支ヲ必要トスル者ノ外ハ、此際可成自発的ニ渡支ヲ差控ヘシムル」よう指導せよと、命じていた24)。 まともに申請すれば、「醜業」と蔑視されている売春業者や娼婦・酌婦に対して身分証明書の発給が許されるはずがない。だからこそ、上海の領事館警察から長崎県水上警察署に対して、陸軍慰安所の設置はたしかに軍と総領事館の協議・決定に基づくものであり、決して一儲けを企む民間業者の恣意的事業ではないことを通知し、業者と従業女性の中国渡航にしかるべき便宜をはかってほしいとの要請(「乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度」)がなされたのである。よって、この依頼状の性格は、軍の方針を伝えるとともに、前記外務次官通達の定める渡航制限に緩和措置を求めたものと位置づけるのが至当である。 Ⅲ.日本国内における慰安婦募集活動 1.和歌山の誘拐容疑事件 この章では軍と総領事館の依頼を受けて、日本国内および朝鮮に赴いた募集業者がどのような活動をおこなったのかを警察の報告をもとに紹介する。最初にあげるのは、和歌山県でおこった婦女誘拐容疑事件である。内務省警保局長宛報告(前掲史料5の1938年2月7日付「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」)によれば、事件の概要は以下のとおりであった。 1938年1月6日和歌山県田辺警察署は、管下の飲食店街を徘徊する挙動不審の男性3名に、婦女誘拐の容疑ありとして任意同行を求めた。3人のうち2人は大阪市の貸席業者で、もう1人は地元海南の紹介業者であった。 彼等は、自分たちは「疑ハシキモノニ非ス、軍部ノ命令ニテ上海皇軍慰安所ニ送ル酌婦募集ニ来タリタルモノニシテ、三千名ノ要求ニ対シ、七十名ハ昭和十三年一月三日陸軍御用船ニテ長崎港ヨリ憲兵護衛ノ上送致済ミナリ」ととなえ、とある料理店の酌婦に上海行きを勧めた。3人が「無智ナル婦女子ニ対シ金儲ケ良キ点、軍隊ノミヲ相手ニ慰問シ、食料ハ軍ヨリ支給スル等」と、常識では考えられないことを言い立てて勧誘しているとの情報をつかんだ田辺警察署は、婦女誘拐の疑い濃厚であると判断し、3人の身柄を拘束した25)。 取調にたいして、大阪の貸席業主金澤は、次のように供述した。 1937年秋、大阪市の会社重役小西、貸席業藤村、神戸市の貸席業中野の3人が、陸軍御用商人で氏名不詳の人物と共に上京、徳久少佐なる人物の仲介で荒木貞夫陸軍大将と右翼の大物頭山満に会い、年内に内地から上海に3000人の娼婦を送ることに決まったとの話を、2人の貸席業主(金澤と佐賀)が藤村から聞き込んだ。そこで、渡航娼婦を募集するために和歌山に来訪し、地元紹介業者の協力を得て、募集活動にあたっているところである。すでに藤村と小西は女性70名を上海に送り、その際大阪九条警察署と長崎県外事課から便宜供与をうけた、と。 また、同じ供述によると、慰安所酌婦の契約条件は「上海ニ於テハ情交金将校五円、下士二円ニテ、二年後軍引揚ト共ニ引揚クルモノニシテ前借金ハ八百円迄ヲ出」すというもので、すでに前借金470円、362円を支払って2人の女性(26歳と28歳)と上海行きを決めたという。 不審に思った田辺警察署はことの真偽を確かめるために、長崎県警察外事課と大阪九条警察署に照会をおこなった。長崎からは、照会のあった酌婦渡航の件は、上海総領事館警察の依頼によるもので、長崎県警としては、総領事館指定の必要書類を所持し、合法的雇用契約と認められるものについては、すべて上海行きを許可しているとの回答が寄せられた26)。この時点では、1937年8月の外務次官通達がまだ有効だったから、軍及び総領事館から前もっての依頼がなければ、長崎県水上警察署が女性の渡航を許可したかどうかは大いに疑問である。逆に言えば、この第1回の渡航を認めた時点で、長崎県警察は慰安所要員の渡航は「業務上正当ナル目的」を有するものと認定したことになる。もちろんその根拠は、慰安所が軍の決定によるものであり、総領事館から慰安婦の募集と渡航につき便宜をはかって欲しいとの要請が前もってなされていたことによる。 また、大阪九条署からは、内務本省からも渡航を認めるよう、内々の指示があったことを思わせる回答が田辺署に与えられた。その概略は以下のようなものであった。 上海派遣軍慰安所の従業酌婦の募集については、内務省より非公式に大阪府警察部長(荒木義夫)へ依頼があったので、大阪府としても相当の便宜をはかり、既に1月3日に第1回分を渡航させた。田辺署で取調中の貸席業者はいずれも九条署管内の居住者で、身元不正な者ではない。そのことは九条警察署長(山崎石雄)が証明するので、しかるべき取計らいをお願いする、と27)。 この九条警察署の回答書から、1月3日に長崎から上海に70名の女性が送られたとの金澤の供述が根も葉もない嘘ではないことがわかる。その一部は大阪で集められたようであり、警察は内務省の非公式な指導のもとに、慰安婦の渡航に便宜をはかったのであった。 金澤の供述を裏づけるとともに、便宜供与を示唆した内務本省からの非公式のコンタクトがあったとする九条警察署長の言が嘘でないことを示すのが、史料9「醜業婦渡支ニ関スル経緯」と題された手書きメモである。重要なので、以下に全文を引用する(■は公刊に際して抹消された箇所を示す。□は抹消もれと思われるので、永井の判断で削除した)。 一、十二月二十六日内務省警務課長ヨリ兵庫県警察部長宛『上海徳久■■■、神戸市中野■■■ノ両名ハ上海総領事館警察署長ノ証明書及山下内務大臣秘書官ノ紹介名刺ヲ持参シ出頭スル筈ニ付、事情聴取ノ上何分ノ便宜ヲ御取計相成度』トノ電報アリ 一、同月二十七日右両名出頭セルガ内務大臣秘書官ノ名刺ヲ提出シ徳久ハ自身ノ名刺ヲ提出セズ且身分ヲモ明ニセズ中野ハ神戸市福原町四五八中野□□ナル名刺ヲ出シタルガ同人ノ職業ハ貸座敷業ナリ。 一、同両人ノ申立ニ依レバ大阪旅団勤務ノ沖中佐ト永田大尉トガ引率シ行クト称シ最少限五百名ノ醜業婦ヲ募集セントスルモノナルガ周旋業ノ許可ナク且年末年始ノ休暇中ナルガ枉ゲテ渡支ノ手続ヲセラレ度キ旨ノ申述アリ 一、兵庫県ニ於テハ一般渡支者ト同様身分証明書ヲ所轄警察署ヨリ発給スルコトヽセリ 一、神戸ヨリ乗船渡支シタルモノナキモ陸路長崎ニ赴キタルモノ二百名アル見込ミ 一、一月八日神戸発臨時船丹後丸ニテ渡支スル四、五十名中ニ湊川警察署ニ於テ身分証明書ヲ発給シタルモノ二十名アリ 一、周旋業ノ営業許可ナキ点ハ兵庫県ニ於テハ黙認ノ状態ニアリ28) 整理してみると、1937年12月26日に内務省の警務課長(数藤鉄臣)から兵庫県警察部長(纐纈弥三)宛に上海の徳久と、神戸市の中野が協力要請におもむくので、何分の便宜をよろしくとの電報が届き、 翌27日には徳久、中野の両名が山下内務大臣秘書官の名刺を携えた上で、軍に協力して目下最小限500名の慰安婦を募集中であり、 周旋業の免許のない点には目をつむって、渡航許可を与えて欲しいと頼みこんだのであった。 兵庫県警察は違法行為には目をつぶり、二人の要請を容れて、集められた女性に身分証明書を発給した。長崎、大阪につづいて兵庫県警察も募集業者に協力し、慰安婦の調達に支援を与えたのである。それだけではない、非公式にではあるが、内務省の高官(秘書官や警務課長)も彼らに便宜をはかったのである。和歌山田辺の事件では大阪九条警察署長が「内務省ヨリ非公式ナガラ當府警察部長ヘノ依頼」があったと回答したが、おそらく、この内務省メモのようなはたらきかけが、大阪府警察部長に対してもなされたのであろう。 すでに見たように、徳久と中野の2人は田辺の事件にも名前が出てくる。上海総領事館警察署長の証明書を所持する彼らは、上海で軍・総領事館から直接依頼を受けた業者とみてまずまちがいない。徳久と中野の実在が別の資料で裏づけられた以上、藤村経由で中野の話を聞いたと思われる金澤の供述も、細かい点は別として、おおむね信用できると考えてまちがいないだろう。 以上をまとめると、次のようになる。上海で陸軍が慰安所の設置を計画し、総領事館とも協議の上、そこで働く女性の調達のため業者を日本内地、朝鮮に派遣した。その中の1人身許不詳の人物徳久と神戸の貸席業者中野は、上海総領事館警察署発行の身分証明書を持参して日本に戻り、知り合いの売春業者や周旋業者に、軍は3000人の娼婦を集める計画であると伝え、手配を依頼した。さらに警察に慰安婦の募集および渡航に便宜供与をはかってくれるよう申入れ、その際なんらかの手ずるを使って内務省高官の諒解を得るのに成功し、内務省から大阪、兵庫の両警察に対して彼らの活動に便宜を供与すべしとの内々の指示を出させたのであった。 大阪府、兵庫県両警察部は、売春させることを目的とした募集活動および渡航申請であることを知りつつ、しかも営業許可をもたない業者による周旋・仲介行為である点には目をつむり、集められた女性の渡航を許可した。この時上海に送られた女性の人数は正確にはわからないが、関西方面では最低500人を集める計画であり、1938年1月初めの時点で大阪から70人、神戸からは220人ほどが送られたと推測できる。 最後に、長崎県及び大阪九条署からの回答を受けた田辺警察署がどのような処置をとったのかを述べておこう。同署は、「皇軍慰安所」の話の真偽はいまなお不明であるが、容疑者の身元も判明し、九条警察署が「酌婦公募証明」を出したので、容疑者の逃走、証拠隠滅のおそれはないと認めて、1月10日に3人の身柄を釈放したのであった29)。 自由主義史観派の主張するごとく、慰安所なるものが軍とは直接関係のない、民間業者の経営する通常の売春施設だったのであれば、自分たちは「軍部ノ命令ニテ上海皇軍慰安所ニ送ル酌婦募集ニ来タリタルモノ」とのふれこみで、「無智ナル婦女子ニ対シ金儲ケ良キ点、軍隊ノミヲ相手ニ慰問シ、食料ハ軍ヨリ支給スル等」と勧誘した金澤らの行為は、軍の名前を騙り、ありもしない「皇軍慰安所」をでっち上げて、女性をだまし、中国へ送り出そうとした、あるいは実際に送り出したものであって、婦女誘拐に該当する。金澤らは釈放されることなく、婦女誘拐ないし国外移送拐取で逮捕・送検されたにちがいないし、警察は当然そうすべきであったろう。 ところが、「皇軍慰安所」がまぎれもない事実、すなわち陸軍慰安所が軍の設置した兵站付属施設であったらどうなるか。国外で売春に従事させる目的で女性を売買し(前借金で拘束し)、外国(=上海)に移送するという、行為の本質においてはいささかの変わりもないにかかわらず、ありもしない軍との関係を騙って、女性をだましたわけではないので、この場合には誘拐と認定されず、逆に「酌婦公募」として警察から公認される行為に逆転するのである。和歌山県警は、金澤らの女衒行為が、もとをたどればたしかに軍と総領事館の要請につらなり、また内務省も内々に慰安婦の募集に協力していることが判明した時点で、犯罪容疑として取り扱うのを放棄した。すなわち、陸軍慰安所が軍の設置した公認の性欲処理施設であり、通常の民間売春施設とは異なるものであることが確認された時点で、警察は慰安婦の募集と渡航を合法的なものと認定したのである。国家と軍の関与により、それがなければ犯罪行為となるべきものが犯罪行為ではなくなったのであった。 2.北関東・南東北での募集活動 次に、和歌山田辺の事件とは異なり、誘拐容疑で警察に検挙されることはなかったが、群馬、茨城、山形で積極的な募集活動を展開し、そのため警察から「皇軍ノ威信ヲ失墜スルコト甚タシキモノアリ」30)と目された神戸市の貸座敷業者大内の活動を紹介する。前記副官通牒にも出てくる「故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ」とおぼしき実例は、以下のようなものだったのである。 群馬県警が得た情報によると、大内は1938年1月5日前橋市内の周旋業者に次のような話をもちかけ、慰安所で働く酌婦の募集を依頼した(前掲史料2「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月19日付))。 出征すでに数ヶ月に及び、戦闘も一段落ついて駐屯の体制となった。そのため将兵が中国人売春婦と遊ぶことが多くなり、性病が蔓延しつつある。 「軍医務局デハ戦争ヨリ寧ロ此ノ花柳病ノ方ガ恐シイト云フ様ナ情況デ其処ニ此ノ施設問題ガ起ツタ」。 「在上海特務機関ガ吾々業者ニ依頼スル処トナリ同僚」の目下上海で貸座敷業を営む神戸市の中野を通して「約三千名ノ酌婦ヲ募集シテ送ルコトトナッタ」。 「既ニ本問題ハ昨年十二月中旬ヨリ実行ニ移リ目下二、三百名ハ稼業中デアリ兵庫県ヤ関西方面デハ県当局モ諒解シテ応援シテイル」 .「営業ハ吾々業者ガ出張シテヤルノデ軍ガ直接ヤルノデハナイガ最初ニ別紙壱花券(兵士用二円将校用五円)ヲ軍隊ニ営業者側カラ納メテ置キ之ヲ使用シタ場合吾々業者ニ各将兵ガ渡スコトヽシ之レヲ取纏テ軍経理部カラ其ノ使用料金ヲ受取ル仕組トナツテイテ直接将兵ヨリ現金ヲ取ルノデハナイ軍ハ軍トシテ慰安費様ノモノカラ其ノ費用支出スルモノラシイ」 .「本月二六日ニハ第二回ノ酌婦ヲ軍用船デ(神戸発)送ル心算デ目下募集中テアル」31) また前掲史料3「北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月25日付)によれば、 大内は、山形県最上郡新庄町の芸娼妓酌婦紹介業者のもとに現れ、「今般北支派遣軍〔上海派遣軍のまちがいであろう-永井〕ニ於テ将兵慰問ノ為全国ヨリ二千五百名ノ酌婦ヲ募集スルコトヽナリタル趣ヲ以テ五百名ノ募集方依頼越下リ該酌婦ハ年齢十六才ヨリ三十才迄前借ハ五百円ヨリ千円迄稼業年限二ヶ年之ガ紹介手数料ハ前借金ノ一割ヲ軍部ニ於テ支給スルモノナリ」と述べ、勧誘した32)。 さらに、前掲史料6「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(1938年2月14日付)からは、 大内は茨城県出身であり、1938年1月4日頃遠縁にあたる茨城県在住の人物に上海派遣軍酌婦募集のことを話して協力を求め、その人物を通じて県下の周旋業者に斡旋を依頼した。 その業者の仲介で、大内は水戸市の料理店で稼業中の酌婦2名(24才と25才)とそれぞれ前借金642円、691円にて契約を結び、上海に送るため1月19日神戸に向けて出発した。 ことがわかる33)。 上記1から6のうち、次の諸点については、他の史料とも符合し、大内の語ったことはおおむね事実に即していたと解される。 まず、3の「在上海特務機関」とは、最初に紹介した上海総領事館警察署長の依頼状にある「陸軍武官室」にほかならぬ。また、大内に「在上海特務機関」の慰安婦募集の件を伝えたとされる神戸の中野は、和歌山の婦女誘拐容疑事件や前記内務省メモに出てくる中野と同一人物であると考えてまちがいない。また、「酌婦三千人募集計画」の話は田辺事件の被疑者の供述にも出てくる(ただし、山形県警の報告では「二千五百人計画」に縮小している)。 これらのことから、軍の依頼を受けた中野が知り合いの売春業者や周旋人に軍の「酌婦三千人募集計画」を打ち明け、協力を仰いだとの大内の言には十分信がおける。また、4の「既ニ本問題ハ昨年十二月中旬ヨリ実行ニ移リ」や「兵庫県ヤ関西方面デハ県当局モ諒解シテ応援シテイル」との話も、既に紹介した諸史料に照らし合わせて、間違いのない事実とみなせよう。逆に大内の言葉から、なぜ神戸の中野が上海の特務機関と総領事館から依頼されたのか、その疑問が氷解する。中野は神戸で貸席業を営むほか、上海にも進出していたのである。 警察報告にあらわれた大内の言動のうち、少なくとも3、4は事実に即しており、誇張や虚偽は、かりに含まれていても、わずかだと思われる。ならば、彼が語ったとされる慰安所の経営方針(上記5)も、根も葉もない作り話として一笑に付するわけにはいかない。少なくとも、大内は中野からそれを軍の方針として聞かされたことは、まずまちがいない事実であろう。 大内が勧誘にあたって提示した一件書類(趣意書、契約書、承諾書、借用証書、契約条件、慰安所で使用される花券の見本) のうち、「陸軍慰安所ニ於テ酌婦稼業(娼妓同様)ヲ為スコトヲ承諾」する旨を記し、慰安所で働く女性とその戸主または親権者が署名・捺印する「承諾書」の様式が、上海総領事館の定めた「承諾書」のそれとまったく同一であること34)、派遣軍慰安所と記された「花券」(額面5円と2円の2種類-田辺事件の金澤は「上海ニ於テハ情交金将校五円、下士二円」と供述していた-)を所持していたことが、それを裏づける決め手となろう。 5で述べられているのが慰安所の経営方針だとすると、慰安所は軍が各兵站に設置する将兵向けの性欲処理施設ではあるが、日常的な経営・運営は業者に委託されることになっていた。しかし、利用料金の支払いは、個々の利用者が直接現金で行うのではなくて、軍の経費(=慰安費)からまかなわれる仕組みだったことになる。これがほんとうならば、軍の当初の計画では、将兵に無料で買春券を交付する予定だったことになる。このシステムでは、慰安婦の性を買うのは、個々の将兵ではなくて、軍=国家そのものである。もちろん、軍=国家の体面を考慮してのことであろうが、実際の慰安所ではこのような支払い方法は採用されなかった。だから、これをもって軍の当初の計画だったとただちに断定するのは控えねばならないだろうが、しかし、かえってこの計画にこそ、慰安所なるものの本質がよくあらわれていると言うべきであろう。 最後に、大内が勧誘にあたって周旋業者や応募した女性に提示した契約条件を紹介しておこう。      条  件 一、契約年限     満二ヶ年 一、前借金      五百円ヨリ千円迄   但シ、前借金ノ内二割ヲ控除シ、身付金及乗込費ニ充当ス 一、年齢        満十六才ヨリ三十才迄 一、身体壮健ニシテ親権者ノ承諾ヲ要ス。但シ養女籍ニ在ル者ハ実家ノ承諾ナキモ差支ナシ 一、前借金返済方法ハ年限完了ト同時ニ消滅ス   即チ年期中仮令病気休養スルトモ年期満了ト同時前借金ハ完済ス 一、利息ハ年期中ナシ。途中廃棄ノ場合ハ残金ニ対シ月壱歩 一、違約金ハ一ヶ年内前借金ノ一割 一、年期途中廃棄ノ場合ハ日割計算トス 一、年期満了帰国ノ際ハ、帰還旅費ハ抱主負担トス 一、精算ハ稼高ノ一割ヲ本人所得トシ毎月支給ス 一、年期無事満了ノ場合ハ本人稼高ニ応ジ、応分ノ慰労金ヲ支給ス 一、衣類、寝具食料入浴料医薬費ハ抱主負担トス35) このような条件でなされる娼妓稼業契約は「身売り」とよばれ、これが人身売買として認定されておれば、大内の行為は「帝国外ニ移送スル目的ヲ以テ人ヲ売買」するものにほかならず、刑法第226条の人身売買罪に該当する。しかし、当時の法解釈では、このような条件での娼妓契約は「公序良俗」に違反する民法上無効な契約とはされても、少なくとも日本帝国内にとどまるかぎりは、刑法上の犯罪を構成する「人身売買」とはみなされなかった。 この契約を結べば、前借金(借金額は500円から1000円だが、そのうち2割は周旋業者や抱主が差し引くので、実際の手取りは400円から800円までである)を受け取る代わりに、向こう2年間陸軍慰安所で売春に従事しなければならない。衣類、寝具、食料、医薬費は抱主の負担とされているが、給与は毎月稼高の1割だから、かりに毎日兵士5人の相手をしたとして(日本国内の娼婦稼業の平均人数)、実働25日としても、月25円にしかならぬ。50円を稼ごうとすれば、毎日10人の兵士を相手にしないといけない。しかも契約書では、所得の半分は強制的に貯金することになっている36)。いっぽう抱主は1人の慰安婦の稼ぎから平均月225円の収入を得ることができ(1日5人の兵士を相手にするとして)、2年間では総額5400円にのぼるのである。 問題なのは年齢条項である。16才から30才という条件は、「18歳未満は娼妓たることを得ず」と定めた娼妓取締規則に完全に違反し、満17才未満の娼妓稼業を禁じた朝鮮や台湾の「貸座敷娼妓取締規則」にも抵触する。さらに、満21才未満の女性に売春をさせることを禁じた「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」(1925年批准)ともまったく相容れない。大内の活動は明らかに違法な募集活動と言わざるをえない。その点は警察もよく認識していたと見え、群馬県警が入手し、内務省に送付した上記契約条件の年齢条項には、警察側がつけたと思われる傍線が付されている。この契約条件が、上海での軍・総領事館協議において承認されたものなのかどうか、そこが議論のポイントの一つとなろう。私見では、この契約条件がまったく大内の独断で作成されたとはとても思えない。何らかの形で軍ないし総領事館との間で契約条件について協議がなされていたと思われる。たとえそれが契約条件は業者に任せるとの諒解だったとしても、である。 しかし誤解を恐れずに言うと、この年齢条件をのぞけば、趣意書の文面といい、契約条件の内容といい、公娼制度の現実を前提に、さらに陸軍慰安所が実在し、軍と総領事館がこれを公認しているとの条件のもとでは、就業地が国外である点を除くと、この大内の活動は当時の感覚からはとりたてて「違法」あるいは「非道」 とは言い難い。まして、これを「強制連行」や「強制徴集」とみなすのはかなりの無理がある。警察は要注意人物として大内に監視の目を光らせ、彼の勧誘を受けた周旋業者に説諭して、慰安婦の募集を断念させたが(山形県の例)、しかし和歌山のように婦女誘拐容疑で検挙することはしなかった。 ただし、念のために言っておくが、自由主義史観派の言うように、慰安所が軍と関係のない民間業者の売春施設であるならば、田辺事件の例と同様、この大内の募集活動も、軍の名を騙って、女性に売春を勧誘するものであるから、婦女誘拐ないし国外移送拐取の容疑濃厚であり、警察としては放置すべきではなかったことになる。 警察報告にあらわれた募集業者の活動は、これ以外にあと二件あり、ひとつは、史料4の高知県知事の報告に、「最近支那渡航婦女募集者簇出ノ傾向アリ之等ハ主トシテ渡支後醜業ニ従事セシムルヲ目的トスルモノニシテ一面軍ト連絡ノ下ニ募集スルモノヽ如キ言辞ヲ弄スル等不都合ノモノ有之」37)とあるにとどまり、具体的な事実まではわからない。 他の一件は、宮城県名取郡在住の周旋業者宛に、福島県平市の同業者から「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ル酌婦トシテ年齢二十歳以上三十五歳迄ノ女子ヲ前借金六百円ニテ約三十名位ノ周旋方」を依頼する葉書が届いたというもので、警察は周旋業者の意向を内偵し、本人に周旋の意志のないのを確認させている38)。こちらでは、年齢条件が大内の条件とは異なる。警察が説諭して募集をやめさせたのは、上に述べたことから当然の措置といえよう。また、史料1の外務次官通牒に定める渡航制限の趣旨からしても、そうあるべきである。前述の山形県警察がとった措置ともあわせて考えると、当時の警察の方針は、外務次官通牒に準拠しつつ、売春に従事する目的で女性が中国に渡航するのを原則として禁止していたのだと考えてよい。 以上が、警察報告に現れた業者の募集活動のすべてである。さて、話を例の副官通牒に戻そう。警察資料を見る限り、通牒にあげられた3つの好ましくない事例のうち、「故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ」は大内の活動およびこれに類似のものをさし、「募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル」が、田辺の婦女誘拐容疑事件を念頭においていることは、まずまちがいない。残る「従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ」は、これに該当する事例は警察報告に見あたらぬ。このことは、未発掘の警察資料の存在を示唆するとも考えられるが、「従軍記者、慰問者」とあるので、あるいは警察ではなく、憲兵隊の報告だった可能性も十分ありうる。その場合には、警察報告には見つからないはずである。 この通牒があげている好ましくない事例がここで紹介したようなものだとすると、とくに「募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル」が田辺事件をさすのだとすれば、この通牒の解釈について、従来の説が当然のこととしてきた前提そのものを再検討せざるをえない。 というのは、この事件で事情聴取された業者の行為は、陸軍慰安所が軍と関係のない民間の施設であれば、まったくの詐欺・誘拐行為にほかならないと断定できるが、それがまぎれもない軍公認の施設だった場合には、そう簡単に誘拐とは断じえない性質のものだからである。たとえ本人の自由意志による同意があろうとも、売春に従事させる目的で前借金契約をかわして国外に女性を連れ出すこと、それ自体がすでに違法だというならば話は別だが、そうでないとすれば、この業者の行為は、軍の要請に応じて、その提示条件をもとに、酌婦経験のある成人の女性に、先方に着いてから何をするのか、一応きちんと説明した上で、上海行きを誘っただけにすぎず、決して嘘偽りをいって騙したのではない。まして、拉致・略取などに及んではいない。考えてみれば、慰安婦の勧誘法としては、これ以外にどんな方法があるだろうか。ただ、警察から誘拐行為と目されることになったのは、軍がそのような施設をつくり、業者に依頼して女性を募集しているという話そのものが、ありうべからざること、にわかには信じがたい、荒唐無稽なことだったからに、ほかならない。 警察資料に登場する慰安婦募集活動は、いずれもこの田辺事件と大同小異のものばかりであって、詐欺や拉致・拐取は一例もない。明らかに違法なのは、大内の示した契約条件の年齢条項だけである。しかし、未成年の女性を実際に勧誘した事実は警察報告からは読みとれない。 現存する警察資料が明らかにしている事実関係からすれば、この有名な副官通牒が出された際に、現実に問題となった誘拐行為は、じつは慰安所そのものが軍の施設であるならば、合法とみなされるべきたぐいのものにすぎなかった。実際には、「内地で軍の名前を騙って非常に無理な募集をしている者」や「強制連行」「強制徴集」を行う悪質な業者などどこにも存在していなかったのだとすると、この通牒も直接的にはその種の行為を禁止するために出されたのではないと解釈せざるをえない。では、いったい何が取締まらねばならないと考えられていたのか、そもそもこの通牒は何かを取り締まる目的で出されたものなのか。それを検討するには、このような活動に地方の警察がいったいどうのように反応したのかを見ておく必要がある。 Ⅳ.地方警察の反応と内務省の対策 大内の募集活動を探知した群馬県警察はこれに対してどのような反応を見せたのか。史料番号2の警察報告は次のような言葉で締めくくられている。 本件ハ果タシテ軍ノ依頼アルヤ否ヤ不明且ツ公秩良俗ニ反スルガ如キ事業ヲ公々然ト吹聴スルガ如キハ皇軍ノ威信ヲ失墜スルモ甚シキモノト認メ厳重取締方所轄前橋警察署長ニ対シ指揮致置候39) この史料から、軍による陸軍慰安所の設置とその要請を受けた慰安婦募集は警察にとってはにわかに信じがたいできごとであったことがよくわかる。上海総領事館警察から正式の通知を受け取っていた長崎県や、内務省から非公式の指示があった兵庫県・大阪府は軍の要請による慰安婦募集活動であることを事前に知らされ、それゆえ内々にその活動に便宜をはかったのだが、何の連絡も受けていない関東や東北では、大内の話はまったくの荒唐無稽事に聞こえたのである。 軍が売春施設と類似の慰安所を開設し、そこで働く女性を募集しているとなどという話はそもそも公秩良俗に反し、まともに考えれば、とても信じられるものではない。ましてそれを公然とふれまわるにいたっては、皇軍の名誉を著しく傷つけるにもほどがあると、そう群馬県警察は解した。大内は嘘を言って、女性を騙そうとしたわけではない。真実を告げて募集活動をしたために、警察から「皇軍ノ威信ヲ失墜スルモ甚シキモノ」とみなされたのであった。 他の二県(山形、茨城)でも警察の反応は同様である。山形県警察の報告では、 如斯ハ軍部ノ方針トシテハ俄ニ信ジ難キノミナラズ斯ル事案ガ公然流布セラルヽニ於テハ銃後ノ一般民心殊ニ応召家庭ヲ守ル婦女子ノ精神上ニ及ボス悪影響少カラズ更ニ一般婦女身売防止ノ精神ニモ反スルモノ40) と記され、茨城県でも群馬県とほぼ同様に 本件果タシテ軍ノ依頼アリタルモノカ全ク不明ニシテ且ツ酌婦ノ稼業タル所詮ハ醜業ヲ目的トスルハ明ラカニシテ公序良俗ニ反スルガ如キ本件事案ヲ公々然ト吹聴募集スルガ如キハ皇軍ノ威信ヲ失墜スルコト甚シキモノアリト認メ厳重取締方所轄湊警察署長ニ対シ指揮致置候41) との判断および指示が下されたのであった。すなわち、警察から「皇軍ノ威信ヲ失墜スルコト甚シキモノアリ」と非難され、厳重に取締まるべきものとされたのは、「誘拐まがいの方法」でもなければ、「違法な徴募」「悪質な業者による不統制な募集」「強制連行」「軍の名前を騙る非常に無理な募集」「強制徴集」のいずれにも該当しない大内の活動だったのである。もっと言えば、中国に軍の慰安所を設置し、そこで働く女性を内地や植民地で公然と募集することそのものが(つまり軍の計画そのものが)、「公序良俗」に反し、「皇軍ノ威信ヲ失墜」させかねない行為だったのである。 以上のことから、当時の警察の考えと対応は次のようにまとめられよう。 一部の地方を除き、軍の慰安所設置について何も情報を知らされておらず、慰安所の設置はにわかに信じがたい話であった。国家機関である軍がそのような公序良俗に反する事業をあえてするなどとは、予想だにしなかった。 .かりに軍慰安所の存在がやむを得ないものだとしても、そのことを明らかにして公然と慰安婦の募集を行うのは、皇軍の威信を傷つけ、一般民心とくに兵士の留守家庭に非常な悪影響を与えるおそれがあるので、厳重取締の必要があると考えていた。そして、実際にそのような募集行為を行わないよう業者を指導し、管下の警察署に厳重取締の指令を下した。 この警察の姿勢をもっとも鮮明に打ち出したのは高知県だった。高知県には大内は立ち寄っていないが、すでに述べたように、「渡支後醜業ニ従事セシムル目的」で中国渡航婦女を募集する者が続出し、「一面軍ト連絡ノ下ニ募集スルモノヽ如キ言辞ヲ弄」していたのである。それに対して高知県警察は次のような取締方針を県下各警察署に指示した。 支那各地ニ於ケル治安ノ恢復ト共ニ同地ニ於ケル企業者簇出シ之ニ伴ヒ芸妓給仕婦等ノ進出亦夥シク中ニハ軍当局ト連絡アルカ如キ言辞ヲ弄シ之等渡航婦女子ノ募集ヲ為スモノ等漸増ノ傾向ニ有之候処軍ノ威信ニ関スル言辞ヲ弄スル募集者ニ就テハ絶対之ヲ禁止シ又醜業ニ従事スルノ目的ヲ以テ渡航セントスルモノニ対シテハ身許証明書ヲ発給セザルコトニ取扱相成度42) 警察としては当然かくあるべき方針といえるが、「軍ノ威信ニ関スル言辞ヲ弄スル募集者ニ就テハ絶対之ヲ禁止シ、又醜業ニ従事スルノ目的ヲ以テ渡航セントスルモノニ対シテハ身許証明書ヲ発給セザルコト」になれば、慰安婦の募集は不可能となり、慰安所そのものが成り立なくなる。軍の計画は失敗せざるをえない。このような地方警察の反応を警察報告で知らされた内務省や陸軍省としては、早急に何らかの手を打たねばならないと感じたはずである。 軍の慰安所政策(国家機関が性欲処理施設を設置・運営し、そこで働く女性を募集する)は、当時の社会通念からいちじるしくかけ離れたものであったうえ、そのことが府県警察のレベルにまで周知徹底されないうちに、業者のネットワークを伝って情報がひろがり、慰安婦の募集活動が公然と開始されたため、このような事態をまねいたのであった。この混乱を収拾して、軍の要請に応じて、慰安婦の調達に支障が生じないようにするとともに、地方の警察が懸念する「皇軍ノ威信ヲ失墜」させ、銃後の人心の動揺させかねない事態を防止するためにとられた措置が、警保局長通牒(内務省発警第5号)であり、それに関連して陸軍省から出先軍司令部に出されたのが問題の副官通牒(陸支密第745号)だったのである。 警保局長通牒43)は、その冒頭で、最近、売春に従事する目的で中国に渡航する婦女が増加しており、かつまた「軍当局ノ諒解アルカノ如キ言辞ヲ弄」して、内地各地で渡航婦女の募集周旋をなす者が頻出しつつあると、現状を把握した上で、これらの「婦女ノ渡航ハ現地ニ於ケル実情ニ鑑ミルトキハ蓋シ必要已ムヲ得ザルモノアリ警察当局ニ於テモ特殊ノ考慮ヲ払ヒ実情ニ即スル措置ヲ講ズルノ要アリト認メラルル」44)と、慰安婦の中国渡航をやむをえないものとして容認する判断を下した。さすがに警保局長の通牒文書であるので、軍が慰安所を設置し、業者を使って慰安婦を集めている事実にあからさまにふれてはいないが、一連の警察報告を前において読めば、「現地ニ於ケル実情」なるものが陸軍の慰安所設置をさしているのは言わずとも明らかであろう。 その「実情」に鑑みて、「醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航」を「必要已ムヲ得ザルモノ」として認めたこの警保局長通牒は、それまでの警察の方針を放擲して、慰安婦の募集と渡航を容認し、それを合法化する措置を警察がとったことを示す文書にほかならない。先ほど言及した高知県警察の禁止指令のごとき、地方警察の取締および防止措置をキャンセルし、軍の慰安所政策への全面的協力を各府県に命じる措置だったのである。同様に、史料1の外務次官通牒「不良分子ノ渡支ニ関スル件」(1937年8月31日付)が規定していた渡航制限方針を変更し、それを緩和する措置でもあった45)。 と同時に、警保局は慰安婦の募集と渡航の容認・合法化にあたって、「帝国ノ威信ヲ毀ケ皇軍ノ名誉ヲ害フ」ことのなきよう、「銃後国民特ニ出征兵士遺家族ニ好マシカラザル影響ヲ与フル」おそれのなきよう、また「婦女売買ニ関スル国際条約ノ趣旨ニモ悖ルコト無キ」よう、募集活動の適正化と統制を並行して実施するよう指令を下した。ここで好ましからざるものとして念頭に置かれていたのが、大内のそれであることは言うまでもない。通牒が国際条約にふれているのは、大内の所持していた契約条件の年齢条項を意識してのことと推察されるからである。 要するにこの通牒のねらいは、慰安婦の募集と渡航を容認・合法化し、あわせて募集活動に対する規制をおこなうことにあり、7項目にわたる準拠基準が定められた。第1~5項は「醜業ヲ目的トシテ渡航セントスル婦女」に渡航許可を与えるため、前記外務次官通牒に定める身分証明書を警察が発行する際の遵守事項を定めたものである。具体的には、現在内地において売春に従事している満21才以上の女性で性病に罹患していない者が華北、華中方面に渡航する場合に限りこれを黙認し、その際、契約期間が終われば必ず帰国することを約束させ、かつ身分証明証の発給申請は本人自ら警察署に出頭して行い、同一戸籍内の最近尊族親または戸主の同意書を示すこと、さらに発給にあたっては稼業契約その他の事項を調査し、婦女売買又は略取誘拐等の事実がないことを確認してから、身分証明を付与すること、とされている。当時の刑法、国際条約、公娼規則に照らしてぎりぎり合法的な線を守ろうとすれば、だいたいこのあたりに落ち着くのである。 もっとも、この遵守事項がきちんと守られたかどうかは、また別問題である。なぜなら、この通牒が発令されて2ヶ月ばかり後に北海道の旭川警察署が、「醜業ヲ目的トシテ」中国に渡航する満21才未満の芸妓に身分証明書を発給した事実が知られているからである46)。(補注1) 第6、7項は募集業者に対する規制であり、「醜業ヲ目的トシテ渡航セントスル婦女」の募集周旋にあたって「軍ノ諒解又ハ之ト連絡アルガ如キ言辞其ノ他軍ニ影響ヲ及ボスガ如キ言辞ヲ弄スル者ハ総テ厳重ニ之ヲ取締ルコト」、「広告宣伝ヲナシ又ハ事実ヲ虚偽若ハ誇大ニ伝フルガ如キハ総テ厳重ニ之ヲ取締ルコト」、「募集周旋等ニ従事スル者ニ付テハ厳重ナル調査ヲ行ヒ正規ノ許可又ハ在外公館ノ発行スル証明書等ヲ有セズ身許ノ確実ナラザル者ニハ之ヲ認メザルコト」の三点が定められた。 つまり、慰安婦の募集周旋において業者が軍との関係を公言ないし宣伝することを禁じたのである。通牒が取締の対象としたのは、業者の違法な募集活動ではなくて、業者が真実を告げること、言い換えれば、軍が慰安所を設置し、慰安婦を募集していると宣伝し、知らしめること、そのことであった。慰安婦の募集は密かに行われなければならず、軍との関係はふれてはいけないとされたのである47)。 この通牒は、一方において慰安婦の募集と渡航を容認しながら、軍すなわち国家と慰安所の関係についてはそれを隠蔽することを業者に義務づけた。この公認と隠蔽のダブル・スタンダードが警保局の方針であり、日本政府の方針であった。なぜなら、自らが「醜業」と呼んではばからないことがらに軍=国家が直接手を染めるのは、いかに軍事上の必要からとはいえ、軍=国家の体面にかかわる「恥ずかしい」ことであり、大っぴらにできないことだったからだ。このような隠蔽方針がとられたために、軍=国家と慰安所の関係は今にいたっても曖昧化されたままであり、それを示す公的な資料が見つかりにくいというより、そもそものはじめから少ないのは、かかる方針によるところ大と言えるであろう。その意味では、慰安所と軍=国家の関係に目をつむり、できるかぎり否認せんとする自由主義史観派の精神構造は、この通牒に看取される当時の軍と政府の立場を、ほぼそのまま受け継ぐものと言ってよい。 副官通牒はこのような内務省警保局の方針を移牒された陸軍省が48)、警察の憂慮を出先軍司令部に伝えると共に、警察が打ち出した募集業者の規制方針、すなわち慰安所と軍=国家の関係の隠蔽化方針を、慰安婦募集の責任者ともいうべき軍司令部に周知徹底させるため発出した指示文書であり、軍の依頼を受けた業者は必ず最寄りの警察・憲兵隊と連絡を密にとった上で募集活動を行えとするところに、この通牒の眼目があるのであり、それによって業者の活動を警察の規制下におこうとしたのである49)。であるがゆえに、この通牒を「強制連行を業者がすることを禁じた文書」などとするのは、文書の性格を見誤った、誤りも甚だしい解釈と言わざるをえない。 おわりに 1937年末から翌年2月までにとられた一連の軍・警察の措置により、国家と性の関係に一つの転換が生じた。軍が軍隊における性欲処理施設を制度化したことにより、政府自らが「醜業」とよんで憚らなかった、公序良俗に反し、人道にもとる行為に直接手を染めることになったからである。公娼制度のもと、国家は売春を公認してはいたが、それは建て前としては、あくまでも陋習になずむ無知なる人民を哀れんでのことであり、売春は道徳的に恥ずべき行為=「醜業」であり、娼婦は「醜業婦」にすぎなかった。国家にとってはその営業を容認するかわりに、風紀を乱さぬよう厳重な規制をほどこし、そこから税金を取り立てるべき生業だったのである。 しかし、中国との戦争が本格化するや、その関係は一変する。いまや出征将兵の性欲処理労働に従事する女性が軍紀と衛生の維持のため必須の存在と目され、性的労働力は広義の軍要員(あるいは当時の軍の意識に即して言えば「軍需品」と言った方がよいかも知れない)となり、それを軍に供給する売春業者はいまや軍の御用商人となったのである。国家が民間で行われている性産業・風俗営業を公認し、これを警察的に規制することと、国家自らが、政府構成員のために性欲処理施設を設置し、それを業者に委託経営させることとは、国家と性産業との関係においてまったく別の事柄なのである。 そう考えるならば、同じように軍の兵站で働き、軍の必要とするサービスを供給する女性労働力であった点において、従軍看護婦と従軍慰安婦との間には、その従事する職務の内容に差はあれ、本質的な差異を見いだすことはできない。慰安婦もまたその性的労働によって国家に「奉仕」した/させられたのであった。 一連の措置により、慰安婦の募集と渡航が合法化されたことは、性的労働力が軍需動員の対象となり、戦時動員がはじまったことを意味している。それはまた性的サービスを目的とする風俗産業の軍需産業化にほかならず、内地・植民地から戦地・占領地へ向けて風俗産業の移出とそれに伴う多数の性的労働力=女性の流出と移動を生みだした。慰安婦は戦時体制が必然的に生みだした国家と性の関係変容を象徴する存在であり、戦時における女性の総動員の先駆けともいうべき存在となった。彼女たちにつづき、人間の再生産にかかわる家庭婦人が「生めよ殖やせ」の戦時総動員政策のもとで、銃後の母・出征兵士の妻として、兵力・労働力の再生産と消費抑制の大任を負わされ、未婚女性は、あるいは軍需工場での労働力として、あるいは看護婦から慰安婦にいたるさまざまな形態の軍要員として動員されたのであった。 しかし、ひとしく戦時総動員と言っても、そこには「民族とジェンダーに応じた「役割分担」」50)が厳然と存在し、内地日本人男性のみを対象とした徴兵(あるいは軍需工場の熟練工)を頂点に、各労働力の間には截然たる階層区分が存在していた。労務動員により炭坑や鉱山で肉体労働に従事した朝鮮人・中国人労働者のために事業場慰安所が設立されたことを思うと51)、この戦時総動員のヒエラルヒーの最低下層におかれていたのが、慰安所で性的労働に従事した女性、なかんずく植民地・占領地出身の女性であったのはまちがいない。彼女たちは戦時総動員体制下の大日本帝国を文字どおりその最底辺において支えたのである。 このような戦時総動員のヒエラルキーが形づくられた要因はさまざまであるが、慰安婦に関して言えば、軍・警察の一連措置が内包していたダブル・スタンダードの持つ役割にふれないわけにはいかない。すでに述べたように、軍・警察は慰安所を軍隊の軍紀と衛生の保持のため必須の装置とみなし、慰安婦の募集と渡航を公認したが、同時に軍・国家がこの道徳的に「恥ずべき行為」に自ら手を染めている事実については、これをできるかぎり隠蔽する方針をとった。軍の威信を維持し、出征兵士の家族の動揺を防止するために、すなわち戦時総動員体制を維持するために、慰安所と軍・国家の関係や、慰安婦が戦争遂行上においてはたしている重要な役割は、公的にはふれてはいけないこと、あってはならないこととされたのである。 国家と性の関係は現実に大きく転換したが、売春=性的労働を「公序良俗」に反する行為、道徳的に「恥ずべき行為」であるとする意識、さらに慰安婦を「醜業婦」と見なす意識はそのまま保持され続け、そこに生じた乖離が上記のような隠蔽政策を生み出すにいたった。慰安婦は軍・国家から性的「奉仕」を要求されると同時に、その関係を軍・国家によってたえず否認され続ける女性達であった。このこと自体が、すでに象徴的な意味においてレイプといってよいだろう。従軍慰安婦が、同様に軍の兵站で将兵にサービスをおこなう職務に従事しながら、従軍看護婦とは異なる位置づけを与えられ、見えてはならない存在として戦時総動員ヒエラルキーの最底辺に置かれたのは、このような論理と政策の結果とも言えよう。慰安所の現実がそこで働かされた多くの女性、なかんずく植民地・占領地の女性にとって性奴隷制度にほかならなかったのは、このような位置づけと、それをもたらした軍・警察の方針によるところが大きいのである。 補論:陸軍慰安所は酒保の附属施設 軍慰安所とは将兵の性欲を処理させるために軍が設置した兵站付属施設であったことはすでに述べた。このことを裏付けてくれる、陸軍の規程を偶然に発見したので、紹介しておきたい。それは1937年9月29日制定の陸達第48号「野戦酒保規程改正」という陸軍大臣が制定した軍の内部規則である52)。その名の示すとおり、戦時の野戦軍に設けられる酒保(物品販売所)についての規程である。添付の改定理由書によると、日露戦争中の1904年に制定された「野戦酒保規程」が日中戦争の開始とともに、古くなったので改正したとある。改正案の第1条は次のとおりであった。 第一条 野戦酒保ハ戦地又ハ事変地ニ於テ軍人軍属其ノ他特ニ従軍ヲ許サレタル者ニ必要ナル日用品飲食物等ヲ正確且廉価ニ販売スルヲ目的トス    野戦酒保ニ於テ前項ノ外必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得 ここに「慰安施設」とあるのに注目してほしい。改正規程では、酒保において物品を販売することができるだけでなく、軍人軍属のための「慰安施設」を付属させることが可能になったのである。改正以前の野戦酒保規程の第一条は、以下のとおり。 第一条 野戦酒保ハ戦地ニ於テ軍人軍属ニ必要ノ需用ヲ正確且廉価ニ販売スルヲ目的トス ここには「慰安施設」についての但書きはない。第一条改正の目的が、酒保に「慰安施設」を設けることを可能にする点にあったことは、改正規程に添付されている「野戦酒保規程改正説明書」(経理局衣糧課作成で昭和12年9月15日の日付をもつ)で、次のように説明されていることから明らかである。 「改正理由 野戦酒保利用者ノ範囲ヲ明瞭ナラシメ且対陣間ニ於テ慰安施設ヲ為シ得ルコトモ認ムルヲ要スルニ依ル」 このことから、1937年12月の時点での、陸軍組織編制上の軍慰安所の法的位置づけは、この「野戦酒保規程」第一条に定めるところの「野戦酒保に付設された慰安施設」であったと、ほぼ断定できる。酒保そのものは、明治時代から軍隊内務書に規定されているれっきとした軍の組織である。野戦酒保も同様で、陸軍大臣の定めた軍制令規によって規定されている軍の後方施設である。してみれば、当然それに付設される「慰安施設」も軍の後方施設の一種にほかならない。もちろん、改定野戦酒保規程では「慰安施設」とあるだけで、軍慰安所のような性欲処理施設を直接にはさしていない。しかし、中国の占領地で軍慰安所が軍の手によって設置された時、当事者はそれを「慰安施設」と見なしていたことが、別の史料で確認できる。本稿のはじめのところで紹介した、上海派遣軍司令部の参謀達の日記がそれである。念のために再掲する。 上海派遣軍参謀長飯沼守少将の陣中日記(『南京戦史資料集I』) 「慰安施設の件方面軍より書類来り、実施を取計ふ」(1937年12月11日) 「迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す」(1937年12月19日) 同参謀副長上村利通陸軍大佐の陣中日記(『南京戦史資料集II』) 「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」(1937年12月28日)  これらの記述から、この時上海派遣軍に設置された「慰安施設」は「女郎屋」であり、「南京慰安所」と呼ばれたことがわかる。逆に言えば、上海派遣軍の飯沼参謀長は、「女郎屋」である「南京慰安所」を軍の「慰安施設」と見なしていたことを、上記の史料は示している。 飯沼参謀長が日記に書き留めた「慰安施設」が改定野戦酒保規程第1条の「慰安施設」をさすものであることは、軍隊という組織のありかたからして、まちがいのないことである。つまり、上海派遣軍の軍慰安所は改定野戦酒保規程第1条の定めるところにしたがって設置されたのである。 そう考えると、秦郁彦『慰安婦と戦場の性』で紹介されている第101聯隊(上海派遣軍第101師団)の一兵士の陣中日記(荻島静夫陣中日記田中常雄編『追憶の視線』下、1989年、102頁)中の以下の記述の意味が、よりよく納得されるであろう。 1月8日「夜隊長より慰安所開設の話を聞く。喜ぶ者多し」 1月13日「今日、急に酒保係を命ぜられ、酒保へ行く。戦地軍隊は面白い所だ。女給ばかり居る酒保だからな。未だ売る物は一品ばかりだ。○○を買う者がどっとおし寄せて午後より夜遅くまで多忙だ」(秦、p.72) この聯隊でも、慰安所が「野戦酒保付設慰安施設」として設置されたので、酒保係を命じられた兵士が慰安所の当番兵となり、慰安所を「女給ばかり居る酒保」と呼んだのである。 また秦前掲書81頁には、「第110師団関係資料」を根拠に、「慰安所、女については大隊長以上において申請許可を受けたる後、設置」というルールがあったことが紹介されているが、これも改定野戦酒保規程第3条の以下の規定を考慮すると、納得がいく。 第三条 野戦酒保ハ所要ニ応ジ高等司令部、聯隊、大隊、病院及編制定員五百名以上ノ部隊ニ之ヲ設置ス  前項以外ノ部隊ニ在リテハ最寄部隊ノ野戦酒保ヨリ酒保品ノ供給ヲ受クルヲ本則トス 但シ必要アルトキハ所管長官ノ認可ヲ受ケ当該部隊ニ野戦酒保ヲ設置スルコトヲ得 (略) 野戦酒保ハ之ヲ設置シタル部隊長之ヲ管理ス(略) この規程では、大隊以上に野戦酒保を設置できる権限が与えられている。ということは、大隊長以上には野戦酒保の付設慰安施設についてもその設置権限があるということを意味する。また、大隊よりも小さな部隊がどうしても野戦酒保(及び慰安所)を必要とするときは、所管長官(軍司令官、師団長、兵站監、及び之に準ずる兵団の長)に申請してその認可を得なければいけないとあるので、この規定から(慰安所は)「大隊長以上において申請許可を受けたる後、設置」ということになったのだと思われる。さらに「野戦酒保ハ之ヲ設置シタル部隊長之ヲ管理ス」とあることから、酒保付設慰安施設である軍慰安所についても、酒保と同様に、その管理者は設置者である当該部隊の長であったと結論できる。 他にも野戦酒保規程第6条には次のような条文がある。 第六条 野戦酒保ノ経営ハ自弁ニ依ルモノトス但シ已ム得ザル場合(一部ノ飲食物等ノ販売ヲ除ク)ハ所管長官ノ認可ヲ受ケ請負ニ依ルコトヲ得 平時ノ衛戍地ヨリ伴行スル酒保請負人ハ軍属トシテ取扱ヒ一定ノ服装ヲ為サシムルモノトス但シ其ノ人員ハ歩兵、野砲兵及山砲兵聯隊ニ在リテハ三名以内、其ノ他ノ部隊ニ在リテハ二名以内トス この規定から、直営でない軍慰安所において慰安所を経営していた売春業者は軍の「請負商人」であったこと、また当該部隊の長の判断により、それらの請負業者を軍属にすることができたこともわかる。ただし、この改定野戦酒保規程では軍属にできる請負商人には定員の枠が設定されているので、実際にどれほどの業者が軍属になったのかはまた別問題である。さらに第13条には「軍属タル酒保請負人ニハ必要ニ応ジ糧食ヲ官給シ又被服ノ一部ヲ貸与スルコトヲ得」とあり、この条項の運用次第では、慰安所の業者が軍から貸与された制服を着用することになっても別に不思議ではない。彼らが直接朝鮮や台湾で女性を集めたとすると、制服を着用しているので、軍人と見なされる可能性は高い。 以上まとめると、日中戦争期につくられた陸軍の慰安所は、軍の兵站施設である野戦酒保の付属慰安施設であったのであり、その経営を受託された慰安所業者は軍の請負商人であり、可能であれば、軍属の身分を与えられ、制服の着用が許されたのだと考えられる。 追記(2005年6月12日記、2007年3月21日) 2005年6月11日に古書店で、『初級作戦給養百題』というタイトルの図書を入手した。これは、陸軍の経理学校の教官が経理将校の教育のために執筆した演習教材集である。 編者は清水一郎陸軍主計少佐。発行所は陸軍主計団記事発行部で、同部刊行の『陸軍主計団記事』第三七八号附録として刊行された。表紙の右肩に「日本将校ノ外閲覧ヲ禁ス」と書されている。なお、『陸軍主計団記事』は靖国偕行文庫には全巻揃っているそうである。 奥付がないので、『初級作戦給養百題』の刊行日付は不明だが、序文に「二六〇一年ノ正月之ヲ発意シ漸ク斯クノ如ク纏メ上ケタリ」とあるので(p.1)、昭和16年すなわち1941年に刊行されたものと推測される。 この書物の第一章総説には、師団規模の部隊が作戦する際に、経理将校が担当しなければいけない作戦給養業務(「作戦経理勤務」)の内容が一五項目にわたって列挙されているが、その一五番目「其他」の項には、以下の小目が含まれる(強調は永井、以下同じ)。  1 酒保ノ開設  2 慰安所ノ設置、慰問団ノ招致、演芸会ノ開催  3 恤兵品ノ補給及分配  4 商人ノ監視                          (p.14) このことから、1941年の時点で、「慰安所ノ設置」は、「酒保ノ開設」と並んで経理将校が行わなければいけない「作戦給養業務」のひとつであったことがわかる。これもまた、私が本文で指摘した、「軍慰安所とは、将兵の性欲を処理させるために軍が設置した兵站付属施設」との主張を裏付けてくれる、軍の内部資料の一つであるわけである。 さらに、この『初級作戦給養百題』には、以下のような状況のもとで、師団経理部の一員として、「次期作戦準備ノ為ノ経理勤務要領」の「考案ヲ附記スヘシ」という問題が収録されている(p.367)。  一、十月中旬師団ハ概ネ初期ノ目的ヲ達シM平地ヲ領有ス  二、茲ニ於テ師団ハ一部ヲ以テABCDニ位置セシメ主力ヲ以テM市及其周辺ニ駐止シ次期作戦ヲ準備セントス つまり、この問題は、師団規模の部隊が戦闘を終え、所定の場所を占領したまま駐屯体制に入り、次の作戦に向けて準備をする場合に、師団経理部がとるべき措置を起案せよと、問うているのである。この演習問題に対しては、総説に示された「経理勤務要領」に基づく模範解答が掲載されているが、それには以下のような措置が含まれているのである。  十一 其他  1 酒保ノ開設  2 出入商人ノ監視  3 慰安所ノ設置  4 恤兵品ノ補給及分配                  (p.371) 1937年9月に野戦酒保の附属慰安施設として陸軍の編成のうちに姿をあらわした軍慰安所は、その4年後の1941年には、給養を担当する経理将校のマニュアル中に、師団規模の部隊が占領地で駐屯体制に入った場合には、必ず設置しなければいけない施設として、酒保と肩をならべて記されるまでの存在となっていたのである。 このような状況となれば、後方業務遂行のためにも、経理将校は慰安所の業務についてそれなりの知識を有していなければ、その職責を果たせないことになるが、その要請に応じるため、経理将校の養成課程においてそれに関する教育が行なわれていたことを示す元経理将校の貴重な証言がある。 証言者は、戦後フジサンケイグループの総帥となる鹿内信隆だが、一九三八年に札幌の歩兵第二五聯隊に入営した鹿内は、幹部候補生の試験に合格し、予備の経理将校になるため、陸軍経理学校に入校した。さらに陸軍会計監督官となる教育を受け一九四一年に卒業した。 鹿内は、元日経連会長櫻田武との対談の中で、その経理学校で「慰安所の開設」について次のような教育を受けたという。 鹿内 (略)それから、これなんかも軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地へ行きますとピー屋が…。  櫻田 そう、慰安所の開設。  鹿内 そうなんです。そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの、〝持ち時間〟 が、将校は何分、下士官は何分……といったことまで決めなければいけない(笑) 。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。 (櫻田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史』上巻(サンケイ出版、一九八三年)四〇~四一頁。) もちろん「ピー屋設置要綱」は隠語であって、正しくは「慰安所設置要綱」であったにちがいない。 鹿内の証言は、一九四一年には陸軍経理学校で経理将校およびその候補生に対して慰安所設置業務についての教育が行なわれ、そのためのマニュアルができていたことを明らかにしてくれている。 と同時に、当時の日本陸軍では慰安所といえば、もっぱら将兵向けの性欲処理施設を指していたことをも示している。慰安所が軍の後方施設であったことを如実に物語る証言といえよう。 注 1) 上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』(青土社、1998年)。 2) 吉見義明編集・解説『従軍慰安婦資料集』(大月書店、1992年)105-106。 3) 吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書、1995年)35。 4) 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言 第3巻』(小学館、1997年)165。 5) 小林よしのり「「人権真理教に毒される日本のマスコミ」西尾幹二・小林よしのり・藤岡信勝・高橋史朗『歴史教科書との15年戦争』(PHP研究所、1997年)77。 6) 藤岡信勝「歴史教科書の犯罪」前掲『歴史教科書との15年戦争』58。 7) 秦郁彦「歪められた私の論理」『文藝春秋』1996年5月号。 8) 上杉聡『脱ゴーマニズム宣言』(東方出版、1997年)77。 9) 吉川春子 『従軍慰安婦-新資料による国会論戦-』(あゆみ出版、1997年)。 10) 八木絹「旧内務省資料でわかった「従軍慰安婦」の実態」『赤旗評論特集版』1997年2月3日。 11) 和田春樹「政府発表文書にみる「慰安所」と「慰安婦」-『政府調査「従軍慰安婦関係」資料集成』を読む」女性のためのアジア平和国民基金「慰安婦」関係資料委員会編『「慰安婦」問題調査報告・1999』女性のためのアジア平和国民基金、1999年。 12) この間の経緯については、『赤旗』1996年12月20日に詳しい。 13) 前掲『資料集成』第1巻、36-38。 14) 前掲吉見編『従軍慰安婦資料集成』28-30、吉見義明・林博史編前掲書、第2章、第4章。 15) 南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集Ⅰ』(偕行社、1993年)。 16) 同編『南京戦史資料集Ⅱ』(偕行社、1993年)。 17) 同上。なお、湖州の慰安所については、第十軍法務部長であった小川関治郎の陣中日記の1937年12月21日条にも「尚当会報ニテ聞ク 湖州ニハ兵ノ慰安設備モ出来開設当時非常ノ繁盛ヲ為スト 支那女十数人ナルガ漸次増加セント憲兵ニテ準備ニ忙シト」との記述が見られる(小川関治郎『ある軍法務官の日記』みすず書房、2000年、124)。 18) 前掲吉見編『従軍慰安婦資料集成』175。 19) 同上、195。 20) 高崎隆治編『軍医官の戦場報告意見集』(不二出版、1990年)115、120。 21) 麻生徹男軍医少尉「花柳病ノ積極的予防法」1939年6月26日、高崎編、前掲書、55。 22) 前掲藤永論文、169。なお、藤永は麻生徹男『上海から上海へ』(石風社、1993年)に依拠している。 23) 1937年12月に陸軍と総領事館との間に結ばれた風俗警察権の分界協定は、上海・南京戦が終了し、日本軍の駐屯と占領地支配の長期化が明確になった1938年春になって、一部修正の上、再確認された。その年3月には上海で、4月16日に南京総領事館で陸海外三省関係者の協議会が開催きれ、占領地の警察権に関する協定を結んでいる(前掲吉見編『従軍慰安婦資料集』178-182)。  なお、一般公娼施設と軍慰安所との間で明確に警察の管轄区分がなされていた点で、軍事警察が占領地の風俗営業取締を全般的に担当していた日露戦争中の満州軍政や第1次大戦期の青島占領とも性格を異にすることも付け加えておく。 24) 前掲『資料集成』第1巻、3、7。前掲吉見編『従軍慰安婦資料集成』96、97。 25) 前掲『資料集成』第1巻、28、31。 26) 同上、35、36。 27) 同上、45。 28) 同上、105-109。この手書きメモは欄外に「内務省」と印刷されている事務用箋に記されており、内容からみて、1938年1月の慰安婦第1回送出のあとに、本省側が兵庫県警に事情を聴取した際に作られたメモと思われる。なお、山下内務大臣秘書官とあるのは山下知彦。海軍大将山下源太郎の養嗣子で、男爵・海軍大佐。36年3月に予備役となり、末次信正の内務大臣就任とともにその秘書官に起用されていた。 29) 前掲『資料集成』第1巻、32。 30) 同上、43。 31) 同上、11-13。 32) 同上、23-24。 33) 同上、48-49。 34) 同上、16、43。 35) 同上、19-21。 36) 契約書には「一、上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於テ酌婦稼業ヲ為スコト 一、賞与金(給料のこと-永井)ハ揚高ノ一割トス(但シ半額ヲ貯蓄スルコト)」と記されている。同上、14。 37) 同上、25。 38) 同上、54。 39) 同上、19。 40) 同上、24。 41) 同上、49。 42) 同上、26。 43) この通牒は、警保局警務課(課長町村金五)において1938年2月18日付けで起案され、富田健治警保局長、羽生雅則内務次官、末次信正内務大臣の決裁を受けて、2月23日付で各地方長官に通達された。外事課と防犯課とがこれに連帯している。同上、55。 44) 同上、69-70。 45) 警保局長通牒が外務次官通牒に定める渡航制限の緩和措置であったことは、この通牒が出された後に、粟屋大分県知事と外務省の吉沢清次郎アメリカ局長との間で以下のようなやりとりがなされたことからもわかる。まず粟屋知事は、外務省の既存の指令にしたがえば、山東方面への初渡航者には警察の身分証明書を発行すべきでないと解されるが、同方面の「皇軍慰安所ノ酌婦等募集ヲナス旨ノ在支公館又ハ軍部ノ証明ヲ有スル者ノ募集セル酌婦等ニ対シテハ身分証明書下付相成差支無キヤ」とアメリカ局宛に照会を行い、それに対して吉沢局長は、内務省発警第5号「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル依命通牒」にしたがって「渡支支障ナキ者ナル限リ身分証明書ヲ発給セラレ差支無之」と回答したのであった。すなわち警保局長通牒にしたがい、慰安婦の渡航を認めてよいと指示したのであった。同上、117-120。 46) 在山海関副領事発外務大臣宛機密第二一三号(1938年5月12日付)前掲吉見編『従軍慰安婦資料集』111。 補注1(2012年1月12日追記)  内務省警保局長通牒が定めている渡航許可の基準は、実質的には空文化されていたと考えられる。なぜならば、現実に慰安所に送られた例を検討すると、基準が守られていたとはとても思えないからである。以下にみるように、秦前掲書(三八二~三八三頁)に紹介されている元兵士の証言がその証拠となる。これらは氷山の一角であったと考えてよいであろう。 そのひとつ、華南南寧憲兵隊の元憲兵曹長の回想によれば、一九四〇年夏、中国華南の南寧を占領した直後に、その兵士は、陸軍慰安所北江郷という名の軍慰安所を毎日巡察していたという。その慰安所の経営者は、十数人の若い朝鮮人慰安婦を抱えていたが、地主の息子で小作人の娘たちを連れてやって来たとのことであった。朝鮮を出るときは、契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂とのことだったが、若い女の子に売春を強いることに経営者の朝鮮人も深く責任を感じているようだったという。 この慰安所の経営者が女性を騙したのか、それとも経営者自身が他の誰かに騙されたのか、この証言だけでは曖昧だが、連れてこられた女性は明らかに就労詐欺の被害者である。内務省警保局長通牒の趣旨からすればあってはならないことがらである。 一九三二年の上海事変の際には「設置計画中の海軍指定慰安所で働かせるため、長崎地方の女性一五名を事情を隠し、女給・女中を雇うかのように騙して長崎から乗船させ(誘拐)、上海に上陸させた(移送)」事件がおこり、被疑者は起訴されたが、長崎控訴院は刑法旧第二二六条第一項の国外誘拐罪と同条第二項国外移送罪が成立するものとして有罪を宣告し、大審院もこれを支持した(大審院判決が出されたのは一九三七年三月)(戸塚悦郎「確認された日本軍性奴隷募集の犯罪性」、『法学セミナー』一九九七年一〇月号)。 この判例からすれば、南寧の陸軍慰安所の女性も国外誘拐罪、国外移送罪の被害者にまちがいないが、その被害事実がわかっておりながら、慰安所の取り締まりを担当していたこの憲兵曹長は、女性を帰国させずにそのまま放置し、何らの救済措置もとっていない。また、騙した犯人の追及も行なっていない。この憲兵曹長は、慰安所の経営者および慰安婦に同情を寄せていたことから、自身もそこで行なわれていることがよいことではないのを承知していたと思われる。良心的な兵士だったと思われるが、犯罪行為の摘発という憲兵として当然なすべきことを行なわず、しかもそのことに対してとくに後ろめたい気持ちを抱くこともしていない。これはこの憲兵が悪徳憲兵だったからではなくて、軍慰安所が軍にとって不可欠な施設であるために、たとえ違法な方法で慰安婦の募集が行なわれていたとしても、軍事上の必要のためにはやむをえないと考える姿勢、言いかえれば「見て見ぬふりをする」体制がすでに陸軍内にできあがっていたからだと思われる。 この例は朝鮮での募集なので、内務省警保局長通牒は植民地には適用されなかったから例として不適当との解釈もあるかもしれない。そこで日本内地の例を秦同書からあげておく。ただし、刑法旧第二二六条は朝鮮・台湾にも適用されるので、右の例の女性が犯罪事件の被害者であることはそれによって何ら変化を受けるわけではない。  第二の例は、山東の済南に駐屯していた第五九師団の元伍長の証言である。一九四一年のある日、国防婦人会の「大陸慰問団」という日本人女性二〇〇人がやってきた。彼女たちは部隊の炊事の手伝いなどをするつもりだったのが、皇軍相手の売春婦にさせられてしまった。将校クラブにも、九州の女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた。この例も、話が事実なら、同様に国外誘拐罪、国外移送罪の被害者である。内務省警保局長通牒の基準が厳格に守られていたのであれば、こういう例は未然に防止されたはずである。しかしながら、未然に防止されるどころか、事後においても被害者が救済されたり、犯罪事件が告発された形跡がない。女性を送り出す地域の警察も、送られてきた側で軍慰安所を管理していた軍も、いずれもこのような犯罪行為に何ら手を打っていないのである。軍慰安所の維持のためにはやむをえない必要悪だとして、組織的に「見て見ぬふり」をしなければ、とうていこのようことはおこりえないはずである。一九三七年末から一九三八年初めにかけて軍慰安所が軍の後方組織として認知されたことにより、事実上刑法旧第二二六条はザル法と化す道が開かれたのだといってよい。それは警保局長通牒が空文化したことを意味する。 なおこれに関連していえば、「軍慰安所で性的労働に従事する女性を、その本人の意志に反して、就労詐欺や誘拐、脅迫、拉致・略取などの方法を用いて集めること、およびそのようにして集めた女性を、本人の意志に反して、軍慰安所で性的労働に従事させること」をもって「慰安婦の強制連行」と定義してよいのであれば、たとえ軍が直接に手を下したり、命令を出したりしなかったとしても、右にあげた例のように、組織的に「見て見ぬふり」をしていた場合、すなわち軍から慰安所の経営を委託された民間業者やそれに依頼された募集業者が詐欺や誘拐によって女性を軍慰安所に連れてきて働かせ、しかも軍慰安所の管理者である軍がそれを摘発せずに、事情を知ってなおそのまま働かせたような場合には、日本軍が強制連行を行なったといわれても、それはしかたがないであろう。 47) 副官通牒や警保局長通牒をもって「強制連行」の事実があったことを示す史料だとする上杉聡の見解に私は同意できないが、しかし「業者の背後に軍部があることを「ことさら言うな」と公文書が記している」と考える点では、同意見である。 48) 内務省警保局長通牒は各地方長官だけでなく、拓務省管理局長(棟居俊一)、陸軍省軍務局長(町尻量基)、外務省条約局長(三谷隆信)、同アメリカ局長(吉沢清次郎)にも参考のため移牒されている。アメリカ局に移牒されたのは旅券事務が同局の管轄だったからである。前掲『資料集成』第1巻、67。 49) 1938年11月の第21軍向け慰安婦の「調達」と移送は、全面的な警察の規制と支援のもとで、秘密裡に行われた。これは政府・内務省の方針の本質をよく示すものである。同上、p.77-100。 注49への追記(2012年1月12日)  1938年11月の第21軍向け慰安婦の「調達」と移送については、次のふたつの警察資料が有名である。 1.内務省警保局警務課長「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件伺」(1938年11月4日付) 2.内務省警保局長発大阪・京都・兵庫・福岡・山口各府県知事宛「南支方面渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(1938年11月8日付)(『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』第1巻) この文書によると、同年11月4日に第二一軍参謀の久門有文陸軍少佐と陸軍省徴募課長の小松光彦陸軍大佐とが警保局を訪問し、「南支派遣軍の慰安所設置の為必要に付、醜業を目的とする婦女四百名(はじめ「千名」とあり、のち抹消)を渡航せしむる様(はじめ「蔭に送付方」とあり、のち抹消)配意ありたし」との申し出を行なった。 久門少佐が警保局長に出した名刺が残されているが、その裏面には「娘子軍約五百名広東ニ御派遣方御斡旋願上候」と記されている。第二一軍と陸軍省は警察の元締めである警保局長に慰安所で働く女性の募集と渡航について斡旋を依頼したのである。 ここで留意すべきは、この行動が、第二一軍が例の「副官通牒」の指示に忠実であったことを示している点である。「副官通牒」が求める「将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於イテ統制シ(中略)其実地ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニシ次テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度」にしたがって、第二一軍は久門少佐を警保局に派遣したのである。斡旋依頼を受けた警保局は、大阪、京都、兵庫、福岡、山口の各府県に対して、女性を集めて中国に送るよう極秘の指令を発したのであった。 さらに補足しておくと、第二一軍軍医部長であった松村桓軍医少将は一九三九年四月一五日に陸軍省医務局で「性病予防のために兵一〇〇人につき一名の割合で慰安隊を輸入す。一四〇〇-一六〇〇名」と報告している(波多野澄雄「防衛庁防衛研究所所蔵《衛生・医事》関係資料の調査概要」前掲『「慰安婦」問題調査報告・一九九九』三五頁)。第二一軍は少なくとも一四〇〇名名の慰安婦を抱えていたのであった。 50) 駒込武「帝国史研究の射程」『日本史研究会』452、2000年、228。 51) 前掲『共同研究日本軍慰安婦』第5章、142-144。 52) この規程は、アジア歴史資料センターで公開されており、レファレンスコードは、C01001469500、表題は「野戦酒保規程改正に関する件」(大日記甲輯昭和12年)。

2005年11月21日月曜日

【日米外交】 佐藤総理大臣とニクソン大統領との共同声明 1969年11月21日

佐藤総理大臣とニクソン大統領との共同声明 1969年11月21日

[文書名] 佐藤栄作総理大臣とリチャード・M・ニクソン大統領との間の共同声明
[場所] ワシントンDC
[年月日] 1969年11月21日
[出典] わが外交の近況(外交青書)第14号,399‐403頁.
[備考] 
[全文]
1.佐藤総理大臣とニクソン大統領は、11月19日、20日および21日にワシントンにおいて会談し、現在の国際情勢および日米両国が共通の関心を有する諸問題に関し意見を交換した。

2.総理大臣と大統領は、各種の分野における両国間の緊密な協力関係が日米両国にもたらしてきた利益の大なることを認め、両国が、ともに民主主義と自由の原則を指針として、世界の平和と繁栄の不断の探求のため、とくに国際緊張の緩和のため、両国の成果ある協力を維持強化していくことを明らかにした。大統領は、アジアに対する大統領自身および米国政府の深い関心を披瀝し、この地域の平和と繁栄のため日米両国があい協力して貢献すべきであるとの信念を述べた。総理大臣は、日本はアジアの平和と繁栄のため今後も積極的に貢献する考えであることを述べた。

3.総理大臣と大統領は、現下の国際情勢、特に極東における事態の発展について隔意なく意見を交換した。大統領は、この地域の安定のため域内諸国にその自主的努力を期待する旨を強調したが、同時に米国は域内における防衛条約上の義務は必ず守り、もつて極東における国際の平和と安全の維持に引き続き貢献するものであることを確言した。総理大臣は、米国の決意を多とし、大統領が言及した義務を米国が十分に果たしうる態勢にあることが極東の平和と安全にとつて重要であることを強調した。総理大臣は、さらに、現在の情勢の下においては、米軍の極東における存在がこの地域の安定の大きなささえとなつているという認識を述べた。

4.総理大臣と大統領は、特に、朝鮮半島に依然として緊張状態が存在することに注目した。総理大臣は、朝鮮半島の平和維持のための国際連合の努力を高く評価し、韓国の安全は日本自身の安全にとつて緊要であると述べた。総理大臣と大統領は、中共がその対外関係においてより協調的かつ建設的な態度をとるよう期待する点において双方一致していることを認めた。大統領は、米国の中華民国に対する条約上の義務に言及し、米国はこれを遵守するものであると述べた。総理大臣は、台湾地域における平和と安全の維持も日本の安全にとつてきわめて重要な要素であると述べた。大統領は、ヴィエトナム問題の平和的かつ正当な解決のための米国の誠意ある努力を説明した。総理大臣と大統領は、ヴィエトナム戦争が沖繩の施政権が日本に返還されるまでに終結していることを強く希望する旨を明らかにした。これに関連して、両者は、万一ヴィエトナムにおける平和が沖繩返還予定時に至るも実現していない場合には、両国政府は、南ヴィエトナム人民が外部からの干渉を受けずにその政治的将来を決定する機会を確保するための米国の努力に影響を及ぼすことなく沖繩の返還が実現されるように、そのときの情勢に照らして十分協議することに意見の一致をみた。総理大臣は、日本としてはインドシナ地域の安定のため果たしうる役割を探求している旨を述べた。

5.総理大臣と大統領は、極東情勢の現状および見通しにかんがみ、日米安保条約が日本を含む極東の平和と安全の維持のため果たしている役割をともに高く評価し、相互信頼と国際情勢に対する共通の認識の基礎に立つて安保条約を堅持するとの両国政府の意図を明らかにした。両者は、また、両国政府が日本を含む極東の平和と安全に影響を及ぼす事項および安保条約の実施に関し緊密な相互の接触を維持すべきことに意見の一致をみた。

6.総理大臣は、日米友好関係の基礎に立つて沖繩の施政権を日本に返還し、沖繩を正常な姿に復するようにとの日本本土および沖繩の日本国民の強い願望にこたえるべき時期が到来したとの見解を説いた。大統領は、総理大臣の見解に対する理解を示した。総理大臣と大統領は、また、現在のような極東情勢の下において、沖繩にある米軍が重要な役割を果たしていることを認めた。討議の結果、両者は、日米両国共通の安全保障上の利益は、沖繩の施政権を日本に返還するための取決めにおいて満たしうることに意見が一致した。よつて、両者は、日本を含む極東の安全をそこなうことなく沖繩の日本への早期復帰を達成するための具体的な取決めに関し、両国政府が直ちに協議に入ることに合意した。さらに、両者は、立法府の必要な支持をえて前記の具体的取決めが締結されることを条件に1972年中に沖繩の復帰を達成するよう、この協議を促進すべきことに合意した。これに関連して、総理大臣は、復帰後は沖繩の局地防衛の責務は日本自体の防衛のための努力の一環として徐徐にこれを負うとの日本政府の意図を明らかにした。また、総理大臣と大統領は、米国が、沖繩において両国共通の安全保障上必要な軍事上の施設および区域を日米安保条約に基づいて保持することにつき意見が一致した。

7.総理大臣と大統領は、施政権返還にあたつては、日米安保条約およびこれに関する諸取決めが変更なしに沖繩に適用されることに意見の一致をみた。これに関連して、総理大臣は、日本の安全は極東における国際の平和と安全なくしては十分に維持することができないものであり、したがつて極東の諸国の安全は日本の重大な関心事であるとの日本政府の認識を明らかにした。総理大臣は、日本政府のかかる認識に照らせば、前記のような態様による沖繩の施政権返還は、日本を含む極東の諸国の防衛のために米国が負つている国際義務の効果的遂行の妨げとなるようなものではないとの見解を表明した。大統領は、総理大臣の見解と同意見である旨を述べた。

8.総理大臣は、核兵器に対する日本国民の特殊な感情およびこれを背景とする日本政府の政策について詳細に説明した。これに対し、大統領は、深い理解を示し、日米安保条約の事前協議制度に関する米国政府の立場を害することなく、沖繩の返還を、右の日本政府の政策に背馳しないよう実施する旨を総理大臣に確約した。
9.総理大臣と大統領は、沖繩の施政権の日本への移転に関連して両国間において解決されるべき諸般の財政及び経済上の問題(沖繩における米国企業の利益に関する問題も含む。)があることに留意して、その解決についての具体的な話合いをすみやかに開始することに意見の一致をみた。

10.総理大臣と大統領は、沖繩の復帰に伴う諸問題の複雑性を認め、両国政府が、相互に合意さるべき返還取決めに従って施政権が円滑に日本政府に移転されるようにするために必要な諸措置につき緊密な協議を行ない、協力すべきことに意見の一致をみた。両者は、東京にある日米協議委員会がこの準備作業に対する全般的責任を負うべきことに合意した。総理大臣と大統領は、琉球政府に対する必要な助力を含む施政権の移転の準備に関する諸措置についての現地における協議および調整のため、現存の琉球列島高等弁務官に対する諮問委員会に代えて、沖繩に準備委員会を設置することとした。準備委員会は、大使級の日本政府代表および琉球列島高等弁務官から成り、琉球政府行政主席が委員会の顧問となろう。同委員会は、日米協議委員会を通じて両国政府に対し報告および勧告を行なうものとする。

11.総理大臣と大統領は、沖繩の施政権の日本への返還は、第二次大戦から生じた日米間の主要な懸案の最後のものであり、その双方にとり満足な解決は、友好と相互信頼に基づく日米関係をいつそう固めるゆえんであり、極東の平和と安全のために貢献するところも大なるべきことを確信する旨披瀝した。

12.経済問題の討議において、総理大臣と大統領は、両国間の経済関係の著しい発展に注目した。両者は、また、両国が世界経済において指導的地位を占めていることに伴い、特に貿易および国際収支の大幅な不均衡の現状に照らしても、国際貿易および国際通貨の制度の維持と強化についてそれぞれ重要な責任を負つていることを認めた。これに関連して、大統領は、米国におけるインフレーションを抑制する決意を強調した。また、大統領は、より自由な貿易を促進するとの原則を米国が堅持すべきことを改めて明らかにした。総理大臣は、日本の貿易および資本についての制限の縮小をすみやかに進めるとの日本政府の意図を示した。具体的には、総理大臣は、広い範囲の品目につき日本の残存輸入数量制限を1971年末までに廃止し、また、残余の品目の自由化を促進するよう最大限の努力を行なうとの日本政府の意図を表明した。総理大臣は、日本政府としては、貿易自由化の実施を従来よりいつそう促進するよう、一定の期間を置きつつその自由化計画の見直しを行なつていく考えである旨付言した。総理大臣と大統領は、このような両国のそれぞれの方策が日米関係全般の基礎をいつそう強固にするであろうということに意見の一致をみた。

13.総理大臣と大統領は、発展途上の諸国の経済上の必要と取り組むことが国際の平和と安定の促進にとつて緊要であることに意見の一致をみた。総理大臣は、日本政府としては、日本経済の成長に応じて、そのアジアに対する援助計画の拡大と改善を図る意向であると述べた。大統領は、この総理大臣の発言を歓迎し、米国としても、アジアの経済開発に引き続き寄与するものであることを確認した。総理大臣と大統領は、ヴィエトナム戦後におけるヴィエトナムその他の東南アジアの地域の復興を大規模に進める必要があることを認めた。総理大臣は、このため相当な寄与を行なうとの日本政府の意図を述べた。

14.総理大臣は、大統領に対し、アポロ12号が月面到着に成功したことについて祝意を述べるとともに、宇宙飛行士たちが無事地球に帰還するよう祈念を表明した。総理大臣と大統領は、宇宙の探査が科学の分野における平和目的の諸事業についての協力関係をすべての国の間において拡大する広範な機会をもたらすものであることに意見の一致をみた。これに関連して、総理大臣は、日米両国が本年夏に宇宙協力に関する取決めを結んだことを喜びとする旨述べた。総理大臣と大統領は、この特別な計画の実施が両国にとつて重要なものであることに意見の一致をみた。

15.総理大臣と大統領は、軍備管理の促進と軍備拡大競争の抑制の見通しについて討議した。大統領は、最近ヘルシンキにおいて緒についたソヴィエト連邦との戦略兵器の制限に関する討議を開始することについての米国政府の努力の概要を述べた。総理大臣は、日本政府がこの討議の成功を強く希望する旨述べた。総理大臣は、厳重かつ効果的な国際的管理の下における全面的かつ完全な軍縮を達成するよう、効果的な軍縮措置を実現することについて日本が有している強い伝統的な関心を指摘した

[Title] Joint Statement of Japanese Prime Minister Eisaku Sato and U.S. President Richard Nixon
[Place] Washington
[Date] November 21, 1969
[Source] Public Papers of the Presidents: Richard Nixon, 1969, pp. 953-957, A Documentary History of U.S.-Japanese Relations, 1945-1997, pp.789-793.
[Notes]
[Full text]
1 . President Nixon and Prime Minister Sato met in Washington on November 19, 20 and 21, 1969 to exchange views on the present inter-national situation and on other matters of mutual interest to the United States and Japan.
2. The President and the Prime Minister recognized that both the United States and Japan have greatly benefited from their close association in a variety of fields, and they declared that guided by their common principles of democracy and liberty, the two countries would maintain and strengthen their fruitful cooperation in the continuing search for world peace and prosperity and in particular for the relaxation of inter-national tensions. The President expressed his and his government's deep interest in Asia and stated his belief that the United States and Japan should cooperate in contributing to the peace and prosperity of the region. The Prime Minister stated that Japan would make further active contributions to the peace and prosperity of Asia.
3. The President and the Prime Minister exchanged frank views on the current international situation, with particular attention to developments in the Far East. The President, while emphasizing that the countries in the area were expected to make their own efforts for the stability of the area, gave assurance that the United States would continue to contribute to the maintenance of international peace and security in the Far East by honoring its defense treaty obligations in the area. The Prime Minister, appreciating the determination of the United States, stressed that it was important for the peace and security of the Far East that the United States should be in a position to carry out fully its obligations referred to by the President. He further expressed his recognition that, in the light of the present situation, the presence of United States forces in the Far East constituted a mainstay for the stability of the area.
4. The President and the Prime Minister specifically noted the continuing tension over the Korean peninsula. The Prime Minister deeply appreciated the peacekeeping efforts of the United Nations in the area and stated that the security of the Republic of Korea was essential to Japan's own security. The President and the Prime Minister shared the hope that Communist China would adopt a more cooperative and constructive attitude in its external relations. The President referred to the treaty obligations of his country to the Republic of China which the United States would uphold. The Prime Minister said that the maintenance of peace and security in the Taiwan area was also a most important factor for the security of Japan. The President described the earnest efforts made by the United States for a peaceful and just settlement of the Viet-Nam problem. The President and the Prime Minister expressed the strong hope that the war in Viet-Nam would be concluded before the return of the administrative rights over Okinawa to Japan. In this connection, they agreed that, should peace in Viet-Nam not have been realized by the time reversion of Okinawa is scheduled to take place, the two governments would-fully consult with each other in the light of the situation at that time so that reversion would be accomplished without affecting the United States efforts to assure the South Vietnamese people the opportunity to determine their own political future without outside interference. The Prime Minister stated that Japan was exploring what role she could play in bringing about stability in the Indo-China area.
5. In light of the current situation and the prospects in the Far East, the President and the Prime Minister agreed that they highly valued the role played by the Treaty of Mutual Cooperation and Security in maintaining the peace and security of the Far East including Japan, and they affirmed the intention of the two governments firmly to maintain the Treaty on the basis of mutual trust and common evaluation of the international situation. They further agreed that the two governments should maintain close contact with each other on matters affecting the peace and security of the Far East including Japan, and on the implementation of the Treaty of Mutual Cooperation and Security.
6. The Prime Minister emphasized his view that the time had come to respond to the strong desire of the people of Japan, of both the mainland and Okinawa, to have the administrative rights over Okinawa returned to Japan on the basis of the friendly relations between the United States and Japan and thereby to restore Okinawa to its normal status. The President expressed appreciation of the Prime Minister's view. The President and the Prime Minister also recognized the vital role played by United States forces in Okinawa in the present situation in the Far East. As a result of their discussion, it was agreed that the mutual security interests of the United States and Japan could be accommodated within arrangements for the return of the administrative rights over Okinawa to Japan. They therefore agreed that the two governments would immediately enter into consultations regarding specific arrangements for accomplishing the early reversion of Okinawa without detriment to the security of the Far East including Japan. They further agreed to expedite the consultations with a view to accomplishing the reversion during 1972 subject to the conclusion of these specific arrangements with the necessary legislative support. In this connection, the Prime Minister made clear the intention of his government, following reversion, to assume gradually the responsibility for the immediate defense of Okinawa as part of Japan's defense efforts for her own territories. The President and the Prime Minister agreed also that the United States would retain under the terms of the Treaty of Mutual Cooperation and Security such military facilities and areas in Okinawa as required in the mutual security of both countries.
7. The President and the Prime Minister agreed that, upon return of the administrative rights, the Treaty of Mutual Cooperation and Security and its related arrangements would apply to Okinawa without modification thereof. In this connection, the Prime Minister affirmed the recognition of his government that the security of Japan could not be adequately maintained without international peace and security in the Far East and, therefore, the security of countries in the Far East was a matter of serious concern for Japan. The Prime Minister was of the view that, in the light of such recognition on the part of the Japanese Government, the return of the administrative rights over Okinawa in the manner agreed above should not hinder the effective discharge of the international obligations assumed by the United States for the defense of countries in the Far East including Japan.
The President replied that he shared the Prime Minister's view.
8. The Prime Minister described in detail the particular sentiment of the Japanese people against nuclear weapons and the policy of the Japanese Government reflecting such sentiment. The President expressed his deep understanding and assured the Prime Minister that, without prejudice to the position of the United States Government with respect to the prior consultation system under the Treaty of Mutual Cooperation and Security, the reversion of Okinawa would be carried out in a manner consistent with the policy of the Japanese Government as described by the Prime Minister.
9. The President and the Prime Minister took note of the fact that there would be a number of financial and economic problems, including those concerning United States business interests in Okinawa, to be solved between the two countries in connection with the transfer of the administrative rights over Okinawa to Japan and agreed that detailed discussions relative to their solution would be initiated promptly.
10. The President and the Prime Minister, recognizing the complexity of the problems involved in the reversion of Okinawa, agreed that the two governments should consult closely and cooperate on the measures necessary to assure a smooth transfer of administrative rights to the Japanese Government in accordance with reversion arrangements to be agreed to by both governments. They agreed that the United States-Japan Consultative Committee in Tokyo should undertake overall responsibility for this preparatory work. The President and the Prime Minister decided to establish in Okinawa a Preparatory Commission in place of the existing Advisory Cornmittee to the High Commissioner of the Ryukyu Islands for the purpose of consulting and coordinating locally on measures relating to preparation for the transfer of administrative rights, including necessary assistance to the Government of the Ryukyu Islands. The Preparatory Commission will be composed of a represen-tative of the Japanese Government with ambassadorial rank and the High Commissioner of the Ryukyu Islands, with the Chief Executive of the Government of the Ryukyu Islands acting as adviser to the Cornmission. The Commission will report and make recommendations to the two governments through the United States-Japan Consultative Committee.
11. The President and the Prime Minister expressed their conviction that a mutually satisfactory solution of the question of the return of the administrative rights over Okinawa to Japan, which is the last of the major issues between the two countries arising from the Second World War, would further strengthen United States-Japan relations, which are based on friendship and mutual trust and would make a major contribution to the peace and security of the Far East.
12. In their discussion of economic matters, the President and the Prime Minister noted the marked growth in economic relations between the two countries. They also acknowledged that the leading positions which their countries occupy in the world economy impose important responsibilities on each for the maintenance and strengthening of the international trade and monetary system, especially in the light of the current large imbalances in trade and payments. In this regard, the President stressed his determination to bring inflation in the United States under control. He also reaffirmed the commitment of the United States to the principle of promoting freer trade. The Prime Minister indicated the intention of the Japanese Government to accelerate rapidly the reduction of Japan's trade and capital restrictions. Specifically, he stated the intention of the Japanese Government to remove Japan's residual import quota restrictions over a broad range of products by the end of 1971, and to make maximum efforts to accelerate the liberalization of the remaining items. He added that the Japanese Government intends to make periodic reviews of its liberalization program with a view to implementing trade liberalization at a more accelerated pace than hitherto. The President and the Prime Minister agreed that their respective actions would further solidify the foundation of overall United States-Japan relations.
13. The President and the Prime Minister agreed that attention to the economic needs of the developing countries was essential to the development of international peace and stability. The Prime Minister stated the intention of the Japanese Government to expand and improve its aid programs in Asia commensurate with the economic growth of Japan. The President welcomed this statement and confirmed that the United States would continue to contribute to the economic development of Asia. The President and the Prime Minister recognized that there would be major requirements for the post-war rehabilitation of Viet-Nam and elsewhere in Southeast Asia. The Prime Minister stated the intention of the Japanese Government to make a substantial contribution to this end. 14. The Prime Minister congratulated the President on the successful moon landing of Apollo XII, and expressed the hope for a safe journey back to earth for the astronauts. The President and the Prime Minister agreed that the exploration of space offers great opportunities for expanding cooperation in peaceful scientific projects among all nations. In this connection, the Prime Minister noted with pleasure that the United States and Japan last summer had concluded an agreement on space cooperation. The President and the Prime Minister agreed that implementation of this unique program is of importance to both countries.
15. The President and the Prime Minister dis-cussed prospects for the promotion of arms control and the slowing down of the arms race. The President outlined his government's efforts to initiate the strategic arms limitations talks with the Soviet Union that have recently started in Helsinki. The Prime Minister expressed his government's strong hope for the success of these talks. The Prime Minister pointed out his country's strong and traditional interest in effective disarmament measures with a view to achieving general and complete disarmament under strict and effective international control.